【春歌】
サンボ通信33号(1996/04/01)所載。タイトルは単純に春の歌の意であるが、当然「しゅんか」と通じる。それにしては艶っぽい歌はないので、肩透かしを食った読者もいたらしい。
春は泉春は早蕨撥条の撥ね橋渡る未通女危し
*この号には川原泉の特集記事がある。英語のspringの多義(泉、バネ、跳ねる等)に負うところ大。わらび−ぜんまいの縁語、撥ねる−跳ねる−おちゃっぴー−おとめの移り。なお「未通女−乙女」のルビに異常感応する者がいたが、明治にはしばしば使用されている宛字也。
草原に桃色毛氈櫻鯛蒲公英の酒春の祭典
*目出度き物尽くし。桃の節句に酒の肴ブラッドベリとストラビンスキーの作品を借景にしてみた。
春の夜の夢幻と言はば言へ換金出来ぬ蜉蝣の戀
*蜉蝣を韓国語ではハルサリ(一日の生)と呼ぶ。はかない命の典型とされるが、なに、その前身は蟻地獄として殺戮を業としている。羽化した途端に薄馬鹿下郎と罵倒されたりもするが、これは人間の勝手でしかない。
現し身の殻脱ぎ捨てて透き通る春蝉の羽根短き命
*空蝉と空し身の掛詞は定番。前の蜉蝣と同じく蝉もたかだか1週間の命と言われるが土中の数年こそが彼の充実した生なのに違いない。
春色の衣装纏ひてひらひらとキャベツ畑に逢曳に赴く
*キャベツちょうちょと言えばもちろん紋白蝶のこと。一見白と黒に見えるその羽の色は、子細に観察すれば実に複雑な春の色をしていることに気づくだろう。
春告鳥は春告草の花妬み春告魚鴎の嘴を恐る
*「梅に鶯」にソーラン節をあしらった作。北海道のカモメはオロロン、オロロンと鳴くようだが、韓国の鬱陵島(ウルルンド)はやはりカモメの鳴声から命名されたものと聞く。
春鳥の彷徨ふ様を他所事に眺めてゐしが我が身の迷ひ
*「小鳥遊」で「たかなし」と訓むのは「鷹がいない、よって小鳥が心置きなく遊ぶ」で判じ物めいているが、春の鳥がなぜ彷徨うの枕詞になったかは、想像がつく。所詮我が身も---
花の雲エーテル密度上昇し我が脳裡にも春霞立つ
*かつて宇宙は真空でなくエーテルが充満していると思われていた。光を伝える媒質として仮想されたのだが、19世紀末にその存在は否定されてしまった。花見の頃にはこのエーテルが濃くなって桜色が頭の中に充満、つまり恍惚の人となった様を実写した??作。
稲光闇弥増しに深まれば春雷ほどに優しきは無し
*草冠に雷と書けば蕾となる。雷は好きな気象の一だが、春の雷は何となく優しそうな気がするのだ。
寒きより春待ち疲れ春來れば心に秋の風吹くは如何?
*春待ちファミリーBANDの本拠地ライブ喫茶春待ち疲れBANDは地震でビルごと無くなってしまったが、僕らの意識の中には確として存在し続けている。春はいい季節には違いないが、それを待つ心こそさらに愛おしい。
曲水の雅は彼方養老の瀧壷に没す春の盃
*濫觴なんて言葉はすでに死語の世界に属するかもしれない。雅と言えば曲水の遊びを想起する。これを養老の滝でやれば曲酔の宴と言うことにでもなろうか。トラックの助手席に乗って名古屋方面へ往来するとき、よく養老のサービスエリアで一服する。もっとも、そこで一献かたむけるわけではないが。
さらさらに春の小川は悲しけれ流れの涯は涙の泊
*文部省は嫌いだがも文部省唱歌は悪くない。日本の春の小川はさらさら流れ、斑の鍛冶屋はしばしもや住めぬことを決定づけられているほどに、これらの歌詞は、脳襞に染込んでいる。ここでははそれに光晴の「洗面器」の一節を変奏して忍び込ませた。
ハルジオン姫女苑等に包まれて眠りに就かむ嬰児の如く
*白状すれば、今だにハルジオンとヒメジョオンの見分けがつかない。そのくせハルジョオンとか、ヒメジオンなどと言う表記を見ると、怒り心頭に発してしまう。というわけで以前サンボ通信の記事中で荒井由美の歌のタイトルにいちゃもんをつけたこともある。蓮華草以上に野にあればこその花。
春雨のフルート聴こゆ ずぶ濡れの仔犬になりし心地こそして
*フルートは今では大部分が金属製だが、れっきとした木管楽器で、以前は木製だった。銀の笛というイメージが定着したものの、やはり音色はやわらかい。春雨から銀笛を連想したのもあるが、この歌では「雨」「降る」「濡れる」のBGMに利用した。
故郷は南海上の蜃気楼春一番の風の樂音
*2月末から3月初めに南から突風が吹けばいよいよ春だと言うわけで春一番と呼ぶのだろう。大阪天王寺公演の野外音楽堂で開催されていた春一番コンサートは最近場所を代えて復活した。コンサートの名として秀逸と思う。
北國の童話作家の傷ましき生と死と詩と春と修羅場と
*子供の頃から僕は賢治の良い読者ではなかった。高名な童話群にも感心はしながらどうも肌に合わない。ただ「春と修羅」の日本語の超現実的使用法には妬みを覚えたことがある。それだけだ。
残酷な季節の歩み滞らせむ為に宿題無き春休み
*4月が残酷な月であることは、エリオットの詩を読む前から感得していたような気がする。春休みと言うのは宿題がなくて楽しいはずなのに、そのためにかえって休みらしくないと感じてた。
未熟さの煩しくて青春の盛りを無為に冷凍乾燥貯蔵
*フリーズドライの詳細は知らないが、青春なんてものを後で解凍したところで、碌な味はしないだろう。
今は昔我が世の春を謳歌せし野蛮人たりし頃ぞ懐かし
*今昔物語の筆法を借りれば、嘘もフィクションも美しくなる。
才能と言ふ化け物に誑されて春の嵐や疾風怒涛
*シュトゥルムウントドランクと言う響きに憧れてたなあ。ゲーテなんてまじめに読んだことはないが、才能の一語で何をやっても許されるようなそんな時代。
ゲルマンの夢鬱々と鉛色春楡並木に落武者の影
*独逸よりGerman(日耳蔓)のほうが好きなので時々使ってしまう。で、そのイメージは陽より陰、明より暗、快活より憂鬱だったりするところが、僕らしいといえばそれまでだが、春楡とエルムが同じ物とは長いこと知らずにいた。
敗戦の記憶風化し山河荒れ春望む詩の虚ろに響く
*杜甫の「春望詩」の反歌のつもりだったが、下手なパロディにしかなってない。空ろに響くのは僕の歌の常ではあるが---
噫嗚68プラハの春とバリケード傷口未だ癒えざる乎、君
*1968(昭和43)年の春、僕は小倉の大学に入った。学園闘争の波はまだ九州には波及していなかったが、ニュースで流れる「プラハの春」という叙情的な言葉に漠然とその時代の匂いを、嗅ぎ取っていた。
しどけなき女の唇は春の雪薄幸故に苛めたくなる
*これにはモデルがある。ただ、まあ、この歌の眼目は「春の雪−淡雪−薄雪−薄幸」の駄洒落的渡りにあるのだろう。
ただ狂へ宵の口より飲み始め夜を徹してこそ春は曙
*結びに枕草子を持ってくるのもどうかと思うが、このような毎日が続いてた頃が懐かしくもある。