すゝき
 
秋の七草に数えられる「尾花」はもちろんすすきのことだが、「尻尾のような花」の見立てたですこぶるわかりやすい。

一方すすきの語源は「すくすく育つ木」などという説もあるが、よくわからない。

一般的にすすき類を「萱」と呼ぶが、これは薄の葉を茅葺き屋根に多く用いたためで、「仮屋根」の縮らしい。

この葉の縁は微鋸歯をなしていて,子供の頃は草叢をかき分けて遊ぶたびに、これで手足を傷だらけにしたものだ。

萱の傷は剃刀の傷とちがい、限りなく薄い鋸で引かれたような感じで,ひりひりと痛む。いまだに、萱の葉を見ると,条件反射的にぞくっとするくらいだが、決して嫌悪感はない。花穂がしなやかさとやわらかさを持っているだけに、葉の鋭さは際だつ。

この二極を併せ持つところがすすきの魅力なのだろうか。「薔薇と棘」の和風バリエーションともいえそうだ。
一般にすすきを「花」と見る人はあまりいないだろう。

しかしすすきがなければ日本の風景は全く異なるに違いない、それくらい、すすきの靡く姿は日本人の原風景として定着している。

とりわけ仲秋の月見には欠かせない。いにしえ旧暦8月には「尾花粥、薄粥」と称してすすきの黒焼き(どんなものなんだろう?)を粥に混ぜて食べる風習があったそうな。

何か呪いめいたものを感じる。
辞書ですすきを引くと第一義に「群がって生える草の総称」とあり萬葉の次の歌などがひかれている。 

○妹許りと我が通ひ路の篠薄我し通はば靡け篠原(巻七 雑歌) 

篠(細竹)でも,花でも群がり立てばすすきと呼んだわけだが、最近愛用している「大辞林」には,この解説がすっぽり抜けている。

現代日本語の語彙ではないと切り捨てたのだろうか?
すすきの変化は見るほどに目覚ましい。

まだ花序ともおぼつかない赤みを帯びた風情から、銀糸で織った天鵞絨のような光沢の穂が波打つ壮観、さらには小花が毛羽立ち風に弄ばれる姿、そして枯れ果てて脱色されて立ちすくむまで,それぞれに一家言を持っている。花序が掌状になる直前の膨らんだものを「孕み薄」とも呼ぶ。

先日神戸駅地下の入り口に,斑入りの葉のすすきが植え込んであったが、横斑を「鷹の羽薄」,縦斑を「縞薄」と称するそうだ。

僕が見たのは鷹の羽だった。
「船頭小唄」が一世を風靡したために,枯れすすきが零落、孤独の象徴になってしまったきらいがあるが、日本では古くからすすきをさまざまな比喩として用いてきた。

「すすきの穂にも怯ず」で「幽霊の正体見たり枯れ尾花」だし、小唄に「露は尾花と寝たという、尾花は露と寝ぬという、あれ寝たという寝ぬという、尾花が穂に出てあらわれた」などというのがある。

韓国ではすすきの代わりに葦(カルテ)が頻繁に登場する。事典を見るとすすきはオクセップルと言う語が載っているが、歌やことわざにはカルテしか出てこない。

このカルテを日本語に訳するとき「葦」とするとどうも座りが悪いことが多い。

思い切って「すすき」と訳したらすんなり納得がいく。何よりも日本に来た韓国人にすすきをさして韓国語で何というのかと問えば10中8、9「カルテ」と答えるのだ。
「薄」は国字、「芒」は漢名だ。草冠に薄い,より,亡びるの方がすすきには似つかわしいと、思うのだが、どうだろう。

●すゝき野にくすくす笑ふ弱法師  

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