「人生処方詩集」エーリッヒ・ケストナー著、小松太郎訳、昭和41年(1967)4月30日初版、角川文庫、定価110円。 いつ買ったかよく覚えていないが、見返しに小倉の古書店「教養堂」のラベルが貼ってあるから、小倉の学生時代に購入したのだろう。 同じ作者の「飛ぶ教室」 のところで、ちらっと触れたが、このちっぽけな文庫本の詩集には、格別の思い入れがある。 「Lyrische Husapotheke(抒情的家庭薬局)」はケストナーの2冊のアンソロジー詩集の一つで、1936年スイスで発行されている。 この詩集の存在は、寺山修司の本で知った。寺山はこの詩集に惹かれ、特にその構成アイディアに啓発されたらしく、私家版「人生処方詩集」を出したりしていた。そんなことから、Morris.も、古本屋で見つけたこの文庫を買ったものだと思う。 とにかく、それ以後本書はMorris.にとってまさに「常備薬」みたいなものになってしまった。 ケストナー贔屓のMorris.は彼の小説はほとんど読んでいる。不思議な味の小説「ファビアン」や、ユーモラスな「雪の中の三人男」「消えた細密画」なども、水準を超える作品だが、なんといっても彼の魅力は少年小説「点子ちゃんとアントン」「エミールシリーズ」「5月35日」などに止めを刺す。そのなかでも「飛ぶ教室」こそは、最高傑作だろう。詩集に関しては、この「人生処方詩集」一冊だけしかしらないが、それで充分だ。 本書には約100篇の作品が収められているが、最大の特徴は、始めに「索引付き使用法」という症状別インデックスがあることだ。 「年齢がかなしくなったら」「貧乏にであったら」「孤独に耐えられなくなったら」「生きるのが嫌になったら」「自信がぐらついたら」「同時代の人間に腹が立ったら」など36の項目がたてられ、それぞれに複数の詩の掲載ページが記されている。 つまり読者は、自分の抱えている悩みや、状況に応じて該当するページをめくれば、処方箋に応じた詩を読むことができるわけだ。もちろん、一つの詩が複数の症状に適合する場合もある。 ケストナー自身が前書きで 「レッテルの貼ってない、家庭薬局(薬箱)になんの意義があるだろう。全然ない。 家庭薬局は毒薬箱になるだろう。それを考えてわたしは標語索引を編纂した---この索引の助けをかりれば、これらの韻を踏んだ処方と家庭薬は、たいていの場合功を奏するであろう。---自分の悩みを他人にいわせるのはいい気持ちのものである。言葉に表すということは衛生的である。 ---たまには、自分の感じるのと、まったく反対の気持ちをりかいするのもなぐさめになる。 明確化、一般化、対照、こっけいな模倣、その他いろいろな尺度とヴァリエーション、これらはすべて試験済みの治療法である。」 と明解にうたっている。 冗談みたいだが、これがかなり実効を有していることは、Morris.が身をもって保証する。 書き忘れるところだったが、数点附されている軽妙なカットは、ケストナーの親友でもあった画家エーリヒ・オーザーの手になるもので、ケストナーはドイツで生き残ったが、画家は1944年ゲシュタポに捉えられて自殺している。 たとえば「怠けたくなったら」という項目を見ると、三つの詩のページが提示されている。えいやっ、と最初の詩を服用してみる。「怠惰の魅力」という魅力的なタイトルだ。 (前略) それほど 大儀だ そのくせすることはうんとある そして 時計はカチカチ鳴っている まわりのポケットというポケットで 時は逃げる そして すばやく捕まえさせ ほとんど 靴の底革がなくなるまで ひとを走らせようとする 大儀で 心の垢を洗う気もしない ひとは あめ玉のように時間をしゃぶり 休養するために こっそりうちへ帰るだろう 怠惰は 疲れさせる まるで重量挙げのように ひとは ひとりぼっち それはつきあいじゃない そして 石を割るほうが 半分も骨がおれない ひとは のらくらして 幸福の邪魔をする そして もう まるっきり自分がわらっている 気がしない 無為は財布をからにするばかりでなく--- これが 問題の いちばん憂うつな点だ えっ? これで治療になるの? と、不審に思われるかもしれないが、ふふふ、Morris.はこれで、さっきより、気楽になってしまうのだった。 つまり、この詩集は、しばし悩みを棚上げさせてくれるトランキライザーとし一級品なのかもしれない。 副作用がないわけではないが、今のところこれより相性のいい薬には巡り会えずにいる。 ケストナーは自作を「実用詩」と呼んでいる。 訳者小松太郎は解説で 「ケストナーの詩はその大部分が人間の欠点や、弱点、無知、愚昧、悪意、怠惰、虚偽---人間のあらゆる悪徳にたいする批判であり、哄笑なのである。ケストナーの目的は、人間にこれを見せて、自分に腹を立てさせ、恥じさせ、反省させる--」 と述べ、ケストナーの「風刺作家」としての特質に注目しながら、彼の詩の「芸」の冴えにも賞賛を惜しまない。 小松太郎はカレル・チャペックの「園芸家十二ヶ月」の名訳者としても知られているが、僕がこれほど、この詩集に入れ込むのには、この翻訳の文体に魅せられたということが、大きな要素となっている。しかし、どうも不思議な文体ではある。 実はこの詩集の小松太郎訳は、角川文庫版の十年前に、創元社から出ている。そのことを知ったのは、89年にちくま文庫版の「人生処方詩集」が出て、あとがきにその訳文が創元社版に準拠していると書いてあったからだ。 ちくま文庫版も買ってはみたのだが、どうも違和感があり、友達の誕生祝にあげてしまった。 それから数年後、創元社版の初版(1952/04/10)を元町「つの笛」の階段の百円均一棚で見つけた。 この破格の値段は、書き込みが多かったためと思う。蔵書I印によると、宮崎市クラーク通の砂田ひろむさんの蔵書だったらしい。 表紙裏から6ページにわたって、墨書で、愚にもつかない文が書かれている。 それはともかく、手元に同一訳者による、2種類の訳文があるので、両者の差を見比べてもらうことにしよう。 「孤独に耐えられなくなったら」という症状に処方されている「誰でもが知っていゐる憂鬱/だれでも知っているかなしみ」を型見本として掲げておく。
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