縮刷緑雨全集
縮刷緑雨全集
大正14年9月25日九版博文館発行(初版は大正11年4月14日〕。新書判、布装、858ぺージ。定価弐圓五十錢。数年前、メトロ神戸の昇平堂で手に入れた。古本の植段に関しては異常に吝いところのある撲がこの本を見つけ、二千円までなら文句無く出す気になり、恐る恐る見返しの値段を見たら300円とあつたので、狂喜乱舞して買った。元来貧乏性なためか、こんな事だけは細部に至るまで、はつきり覚えている,そんなに嬉しがつて買つたのに、どうにか一通り読み終えたのがつい先月のこと。もちろん、途中さぼりながらだが、一冊の本に足掛け3年と言うのはいくらなんでも異例に属する。

正直正太夫こと齋藤緑雨は江戸時代が柊わる慶応3年の生れで、明治37年没(1867〜1904)、明治の人だが、江戸の心を持ち続けていたような気がする。彼自身たとしては不本意かも知れないが、小説家としてより、風刺に富んだ辛辣な批評、評論で知られている。とは言っても、近代文学通史の中ではほとんど忘れられた存在に近く、樋口一葉との係わりで名が挙げられる程度だ。一癖も二癖もある彼の寸言はまさに「人を刺す」類のもので、好悪是非毀譽襃貶相半がばしており、縁雨を好む人にはアウトサイダーが多いようだ。

僕は以前から孫引きで耳に馴染んだ緑雨の「箸は二本なリ、筆は一本なり云々」や、新体持見本の出来栄えに感心して、筑摩版現代日本文学全集の第53卷(縁雨、魯庵、木下尚江、上司小剣の四羽一絡げ)を前に古本屋で安く手に入れてた。これには小説「油地獄」「かくれんぼ」と寄せ集めの隨筆集?「あられ酒」か収録されていた。小説の方は江戸戲作に似た文体で、ちよっと辞易させられたが、「あられ酒」は予想以上に趣味に合つて、特に「ひかえ帳」の短章の中には、思わす拍手したくなるものがあつた。

○眼を病める少女の薬師を祈りて、鰹の塩からを断つべしといふを母の笑へばだつてわたしはあれが一番嫌いだもの

○たらちねとは何ぞ。かく女に問はれて、知らずとの男の答ふれば、それは親の符牒です。

○年久しく痰咳になやめる老人の、チヨコレートを召上がらずやと言はれて、いやもう薬は洋方でも利きませぬ、このころは浅田の飴にきめました。

○時をも得ず、処をも得で長く流浪せる人の、何心なく詠み出でし歌一首、小夜更けて池の面や氷るらん蘆聞求めて鳧ぞ鳴くなるといふを、豫て其道の語らひある友の許に送りしに、やがて被方より達きしを返しかと抜き見れば、姿も調も五七五の外なる長文句にて、御境遇の程疾より御推察申上居り候へども、何分にもこれぞと御勧め申上ぐぺき口も無之、猶暫くの御我慢可然或に存候云々。

○ふとしたる談話の小ロ乱れて、やかましき戀愛論となりしに、それはショッペンハウエルのに似て居るといはれし男の、否々とて聴かず。さらば何故にと一座より問ひ詰められ、彼は女に嫌はれて思付いたのだが、よくきゝ給へ、僕は好かれて思付いたのだ、第一根底から異つて居る。

昨今流行のコラムの前身とも言える、かなリ元手のかかつた短文なのだが、明治の言論界でこういったものが、軽視されていただろうことは想像に難くない。縁飴自身も自嘲めいたことを端々に書き散らかしている。しかし、弛みのない短文は才知と技芸無くしてできることではない。文章に関しては自他ともに認める才芸を持て余し気味の縁雨が、彼の眼から見れば余りに御粗末な当特の小説家の駄作ぶりを揶揄したり、自作の評価の低さに対する鬱憤を晴らしたリしたのだろう。彼に精神的僻目の傾向があつたことも事実だろう。しかし、何よりも上記引用の短章を彩る「苦いユーモア」こそ、僕の偏愛する由縁だ。

明治43年に春陽堂から「縁雨集」が出されていて、僕の持っている「縮刷緑雨全集」が、それと内容を同じにするものかどうか詳らかにしないのだが、収録作品については、全く文句無く大溝足なのだ。「あま蛙」「あられ酒」「わすれ貝」「みだれ箱」と生前発刊された隨筆集をすべて収録しているからで、小説は「門三味線」ただ一篇、付録のように文芸合評「雲中語」の一部が配されているだけだが、先に書いたとおリ、彼の小説にはそれほと惹かれないので、これで十分だ。大西巨人の「神聖喜劇」の中で、主人公が軍隊で、この「縮刷縁雨全実」を熱読するくだりがあり、そこに引用された断片から縁雨の魅力の多くを教えられたこともあって、ぜひ手に入れたいと思つていた本なのだった。
表紙は澤潟、見返しはおたまじゃくしの排画で飾られ、セピア色の肖像写真と、緑色インクで印刷された上田萬年の序文(追悼演説の草稿)がある。この写真は実に印象的で、これを見ただけで緑雨の人となリが納得できるような気になってしまう。

戦前の彼の評価を覗いて見ようと、手許にある昭和6年富山房発行の「日本家庭大百料事彙の素引を見たら、補遺の部に掲載との記録があつたのに、本文中のどこを探しても見当たらなかつた。何となく縁雨らしいなと思つてしまつた。「あま蛙曲」の冒頭にエピグラム風に置かれた、被の小唄を引いて止める。

咲いた花なら散らねばならぬ、 齊藤緑雨
酔ふた酒なら醒めねばならぬ、
逢ふた仲なら別れにやならぬ。
花は櫻木散るほど咲くな、
酒は剣菱さて男山、
醒めるほどなら初手から酔ふな、
人のあはれは博多の小女郎、
笑ふたあとでは泣かねばならぬ。

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