ペンローズ年鑑  

ペンローズ年鑑Vol.37
1935年(昭和10年)PERCY LUND HUMPHRIES & CO.LTD(LONDON) 発行。定価8シリング.A4版、黒色クロス装ハードカバー、約300ページ。
数年前、春日野道の勉強堂で見つけてひとめで気に入り、僕にしては大枚の2千円を迷うことなく奮発して手に入れた。本文はもちろん英文で、僕を捉えたのは、盛り澤山の図版だったことは言うまでもない。約半分が全頁使用の写真や図版で、その部分にはノンブルがないので、「約」300ページということになったのだ。(今試みに数えてみたら約100点の図版があり、その半分が片面刷りだから、全体で300頁を超えることはまちがいない)


これは、イギリスの印刷業界の見本帖(カタログ)を兼ねた年鑑らしく、当時における最新最高水準印刷技術の粋が、これでもかと思うくらいに詰め込まれている。この本自体はそれほど豪華本では無いのだろうけど、その性格上、凝りに凝ったレイアウト、特殊インキ、特殊製版、特殊印刷が目白押しで、さらに紙の種類も多岐に亙っている(ボール紙、金銀紙、アート紙、硫酸紙からフェルトを吹き付けた紙や、板をスライスしたものまである)ので、製作する側にとっては、苦労と無理、無茶、無駄、無謀の窮みだったろうことは想像に難く無い。今どき、こんな手の込んだ本を作ろうとしたら、贅沢を通りこして、印刷所、製本所から総スカンを食うこと間違いない。グラビア、コロタイプ、シルクスクリーン、エングレイヴィング、フォトリゾ、オフセット、凸版−−−製版の種類をちょっと拾い出してもこんな按配だ。


この1935年版がVol.37となっているから、実に19世紀末から発行されていることになる。ため息が出る。ため息といえば、その手間だけでなく、内容の質の高さにこそため息をつかねばならない。「科学の世紀」(20世紀のことね(笑))の10年間は技術面において前世紀の百年に匹敵するなどといわれるのだが、今をさること60年のこの1冊に見られるグラフィックとタイポグラフィック技術は、現在のそれにひけをとらない、いや、優っているのではないかとさえ思われるものが少なくない。確かにカラー写真や整版の密度は見劣りするが、それでも、手彩色や修正を施して独特の雰囲気を醸し出しているし、発色の悪さは格調でカバーしている。モノクロ写真ときたら、文句なくこちらに軍配をあげたい。そのほかのイラストやポスター、商標などのデザインも、こちらの方が好ましく見えるのは、僕の嗜好に帰するのかもしれない。が、いずれにしろ、半世紀以上前の印刷物が、現在のそれ以上に優って見えるというのは事実で、これは喧伝されているほどには、技術の進歩発展が目覚しいものではないということなのか? それとも印刷・出版界における特殊事情なのだろうか。なにしろ世界最初の金屬活字本であるグーテンベルグ聖書が、世界最高水準の書物であり続け、今だにこれを越えるものが現れないというのだから、後は推して知るべしなのだろう。


閑話休題。ちっとも本の紹介にならない。こと、印面、紙質等のテクスチュアや、微妙な色合い等は、実際に手にとって見てもらうしか伝えようが無いのだ。この年鑑のなかで、特に印象的な図版数点のことを紹介して、お茶を濁すことにしよう。

金髪美人 ●綴じ込みのパラフィン紙の袋に"DAILY RECORD AND MAIL"という新聞の1934/6/8(金)号の一枚(4面)が添付されている。ノンブルは4,5,29,30となっているから、全体では34ページの紙面らしい。5面全部がMilanda社(製パン社?)の食パンのカラー広告で、これを見せるための付録なのだろう。たしかになかなか秀逸な広告だが、4面には「スコットランドのリゾート案内」、29面にはオークスの騎手決定の記事、30面にはゴルフや愛犬の躾け方などが掲載され、じっくり読めばおもしろそうだ。レイアウトもすっきりしていて、この新聞が最近発行されたものといわれても、違和感は感じないだろうとおもわせるくらい、古臭くない。

●驚いたことに、日本からトッパンが見事な一ページを提供している。それもタイトルの対向頁に、特別扱いを受けている。東洲斎寫樂作「三世佐野川市松の祇園町の白人およあと市川富右衛門の蟹坂藤馬」のオフセット版で、輪郭や髪の生え際の細かい毛彫までかなり精巧に再現されているし、色調も渋目のいい色を出している。おまけにバックの雲母刷りを、銀色の特殊インクでうまく再現し、皺で剥げかかった部分もまるで本物の和紙と見紛うほどの出来だ。これまで僕が見た中で機械印刷されたものとしては最高だ。これだけでも2千円は高くなかったなと思う。(こういう捉え方を貧乏性というのだろう)

●Miss Glae Carrodusのカラーグラビア肖像写真。金線枠の中にブロンド短髪の妙齢の美女のバストショットがある。モデルなのか女優なのか正体は不明。からだは右向きで顔だけはほぼ正面を向き、裸身の肩の上には白い毛皮のショールを羽織っている。背景はピントをぼかした繧繝調で、唇は結ばれているが、微かな笑みをたたえており、真珠の首飾りが、肌の色を強調している。マルベル堂のプロマイドも三舎を避けるほどのステロタイプ美人写真だが、ずっと、心惹かれたままでいる。特別に彼女が僕の好みの顔立ちということではないのだが−−−

卷末約50ページはすべて広告に供されている。印刷機、インク、カメラ、紙、美術印刷社等々、それぞれに、力が入っていて見応えがある。しかし本文中の図版もすべて各印刷社の自慢の作ばかりで、当然会社名も明記してあるから、ほとんどが広告みたいなものだろう。この本の面白さは、質の高い図版がやたらに集められてそれぞれがなんの脈絡もないところにあるのだろう。実に「無責任に」楽しめる一冊である。

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