『句集 牧歌メロン』
著者:加藤郁乎。1970年10月15日、仮面社発行、限定版八百部、A5版縦長変形、濃緑布装、窓開き函入り、62p、定価千二百円。
学生時代に高田馬場の古本屋で千円で手にいれた。
どんな理由で上京したのか覚えていないが、当時は東京といえば、何はなくとも神田神保町の古書街詣でしか頭になかった。
たまに上京したら時間の許す限り歩き回ったものだ。
「全国古書店地図帳」を見て、早稲田界隈の高田馬場にも古本屋が多いことを知り、ここも第二ポイントとしていた。
当時の学生の常として、時間だけはたっぷりあっても、ふところには一年中秋の風が吹いている状態だったから、この千円というのは、僕にとっては結構な値段だったと思う。
しかし、この本は、十二分に元を取った気分にさせてくれた。
僕自身も楽しんだが、小倉での友人たちにやたら受けまくったのだ。
特に同郷で、下宿もいっしょだった一木良治とは、ことあるごとにこの本をだしにして、その響き、機智、洒落、衒学、地口、飛躍、破礼、不可解、落ち---を、しゃぶり尽くすように楽しんで、笑い転げていた。
タイトルがボッカチオの「デカメロン(十日物語)」からきているのはすぐにわかるだろう。
これに引っ掛けて、100句が収められている。
一ページにニ句ずつを配し、矢吹申彦のカラーイラスト4点を貼付していて、まあ、豪華本と言えなくもないが、頻繁に乱暴に使用したため、相当傷んでいる。
作者の後書きを引く。
こゝに集めた句的百態は要するに句であって、俳諧でも狂句でも一行詩でもない。或ひはその逆だと疑って貰へれば、物怪の幸ひである。
一句とは、ちょっと見に考へると位牌のごときものである。云はんとしてゐる事柄が有耶無耶のうちに立ち消えになりそうでゐながら、どうにかきおくされるといふ虫の知らせ的な恩寵で立ってゐる。意味など始めからないのであった。意味ありげなものからその意味らしさを捩り上げて、別誂への意味をまた貸しするところに意味の合ひ間があるにすぎない。大体、意味なんてどうだっていいのである。
百ばかり並べたといふのはとにかく百物語的に切りがいいのと、十日物語として百の話を書いたイタリアびとの虚構ごのみを、卒然としたまでである。近頃の世間は爪の先までデカメロン風に染まってゐる様子だが、この本はさうした時代臭さに迎合するといふよりは、時代を錯誤したがる気風のホコリや塵にまみれてゐる。
出来てしまったものは仕方ないとして、この記号祓ひを仕上げるべく切羽つまった人物の自己陶酔は一段と悪化した。タブラ・ラサの世界から抜け出して、陋巷の辻に難破し居酒屋に浮き沈みすることで、そのお筆先を水物のごとく宥めるしかなかった。つまり、序々になんか書きたくなかったのであった。
これを読んだだけで、作者の韜晦ぶりは自明だろう。
この小文を書くにあたって、久しぶりに全篇を読み直してみた。ほとんどが記憶に残っていることにびっくりしたが、考えてみれば、学生時代には百人一首みたいに、読みあってたし、なんといってもこちらは句だから、本家百人一首よりは1,400文字も少ない(^o^)
冒頭の句はこれだ。
どこが面白いのだ?と問う人には、何も言うまい。以下はすっ飛ばされんことを。
愛唱句は十指に余るが、独断のナンバーワンは
「花魁」「絢爛」「ごたごた」「どさくさ」「ひょい」[潜る」「鼈」---がぐるぐるとイメージに浮かんでは消える。
そのネオンサインめいたチカチカする語彙が意味を失い、結局はその響きだけが呪文(それもやけに明るい)として脳の襞にぷりんとされてしまう。
郁乎の「言葉憑」ぶりが遺憾なく発揮された一句である。
「この私」「倣岸」「歌謡界」という筋も僕には親しい。
きりしたんばてれんの呪文への切り返し
蒟蒻好きでは人後に落ちない僕だが、蒟蒻を動詞として使うとは思いもよらなかった。
句とは余り関係ないが、僕はこの「鰐三段論法」という語は、岩波文庫の「痴愚神礼賛」の脚注で知ってた。
ラム酒とレモネード、テレバシーの気恥ずかしさ、最新流行を呪う。
こいつは相当にエロティックだ。
基督経それも異端の匂いがする。ステンドグラスの代わりに切り絵ですます手軽さ。
トルストイには付き合いきれない。
おひまな方は「南柯の夢」など調べてください。海老で鯛釣るえべっさん。
これは男色だろうな。
これは近親相姦かも。
あんちょこという言葉はまだ生きているのだろうか。安直から作られた言葉だろうが、まさにそのままだ。
処女権というしきたりは、洋の東西を問わず存在した。
これを「同感だい君げにげに秘勅せん」と解した評論家がいたが、そのまま即物的に読めばわかる。
マグダラのマリアと悦楽の苑で乳繰り合いながら臭く(句作)する郁乎山人。
ラ行の連続を聞くと確かにらりってしまいそうになる。この音列も忘れがたい。
西行もスピノザも手玉に取られる。
ハモンドオルガンでガンダーラを弾いてるわけではない。宇治拾遺物語は未読。
罰当たりであります。
古池や芭蕉に蛙俳句かな。天気予報的句。
蕪村よりさらに蕪村らしくペダンティックなボタニカル
「内臓」経?
芝居ががっているが、無可有郷の書割。
万歳\(^o^)/
芸者と色男と野暮な客と。
句々の「饗(狂/嬌/驚/況/驕)宴」も終わり、ミニマムの詩形である句にマキシムの三界を入れ子にして死刑宣告めいた、これが結句。
以上、したり顔で、わかった風なことを書き散らしてみたが、なに、実のところちっとも分っちゃいないのだ。
はったりも、見当違いも愛嬌ということで済ましておいてもらいたい。
面白ければそれでいいのだ、まったく。
郁乎には「球体感覚」(1959)、「えくとぷらずま」(1962)の句集、「形而情学」(1966)、「荒れるや](1969)などの詩集がある。
これらは「牧歌メロン」も含めて、思潮社の現代詩文庫に収められているので、手軽に見ることが出来る。
|