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  Morris.日乘2018年11月
Morris.の日記です。読書控え、散策報告、友人知人の動向他雑多で す。新着/更新ページの告知もここでやります。
 
今月の標語
経古稀無視

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【2017年
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2018/11/30(金)●おかえりペッキー
7時起床。
今朝の血圧は178/72/74。35.7℃
先週は休みだった「ア・ピース・オブ警句」、今週は「「空気」は万博開催では変わらない」のタイトルで2025年開催の決まった大阪万博が主題。もちろん小田嶋は開催に否定的意見の持ち主だが、開催決定したとたんに、反対意見は公の場では言えない雰囲気(空気)になることへの疑問と不快感を吐露している。オリンピックも同じことが言えるが、メディアにとって、こういった大イベントは飯のタネでもあるから、提灯番組目白押し、悪口やネガチブな意見は言えない「空気」になってしまう。

万博招致決定のニュースがもたらした「空気」の変化は、まず最初に「招致反対言論の一掃」という形で顕在化しはじめている。招致に反対する人々が消滅したのではない。招致が決定した瞬間に、反対意見を表明してはいけない空気が醸成されたということだ。

昼前に部屋を出て、久しぶりに原田の森ギャラリーを覗く。全館で「二紀会展」やってた。ほとんどが二百号くらいの大作ばかりで、これだけ大きな絵を描けるアトリエ使うからには、それなりの財力も必要だろうなと、どうでもいいことを思ってしまった。基本的にはこの会は具象で、わかりやすいのだが、大味なものが多い。メキシコの風景で山麓に小さな家が密集してるをの描いたものにちょっと心惹かれた。釜山のカムチョンに通じるところがあったからかもしれない。
王子動物園に行ったら、まぬうのペッキーが表に出ていた(^_^)/ 老齢で弱って療養中だったので心配してたのだが、すっかり元気になってるようだった。良かった良かった。
ハンター邸前庭ベンチでしばらく読書。
そのあと駐車場樹の下ベンチで3時までミニギター。日差しのある間は暖かかったが雲で陰ると肌寒い。
一旦部屋にもどり、自転車で大安亭に買い物に出て5時帰宅。
今日の歩数は3291歩。


景山亭の屋上ドーム 

黄薔薇 

グァナファト風景(メキシコ)松尾隆司 

Xマス飾りに使えそう 

久々ペッキー 

裏でイーリス 

ハンター亭 

蜂雀(ほうじゃく) 

紅葉 

カンガルー 

キリン 

楠の実 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 수다스럽다(スダスロプタ おしゃべりだ)
수다(スダ)に「おしゃべり」という意味がある。
수다쟁이(スダジェンgイ おしゃべり、おしゃべりな人)   
나는 과묵[寡黙]한 사람보다 수다쟁이가 좋다.(ナヌンクァモッカンサラムポダスダジェンgイガチョッタ 僕は無口な人より、おしゃべりタイプが好きです。)
말이 많다(マリマンタ おしゃべり、口数が多い)

2018/11/29(木)●夕陽に観覧車
6時半起床。
今朝の血圧は193/94/66。35.8℃
7時半にJR灘駅南にとしろうに迎えに来てもらい、実に3ヶ月ぶりの仕事(^_^;)
午前中は大阪福島区玉川のアメリカ向け航空便と広島向けローカル荷物のピックアップ。午後は西区堀江のアメリカ人のローカル荷物プレパック現場。
今日は特に担ぎの現場ではなかったが、一個だけ40kgくらいのカートンがあって、まあ、これも何とか持ち上げる事ができたし、痛みなども無かった(^_^)
4時過ぎ今日の作業終了、六甲アイランド倉庫に戻る途中阪神高速から夕陽がえらく大きく見えた。天保山の大観覧車の向こうに夕陽の見えるショットをデジカメ撮影。
倉庫で荷降ろししたあと、帰りも灘駅まで送ってもらい、6時帰宅。
6時のTBSニュースと10時のABC報道ステーションで「移民法」に関する興味深い報道がなされた。TBSでは、人手不足が、より安い労働力の不足であるという本質論、ABCは韓国の外国人受け入れ制度と日本との比較。どちらも、あまりに内容のない国会論議と際立っていた。
今日の歩数は4959歩。


安売自販機隣のシャッターアート 

阿波座駅前 

阿波堀川跡 

阪神高速の夕景 

大きな夕陽 

天保山大観覧車 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 대출금[貸出金]을 갚다(テチュクムルカプタ ローンを払う)
대출금[貸出金](テチュルグム)」は「貸し出し金、ローン」、「갚다(カプタ)」は「(借金を)返す、戻す、返済する (恩恵に)報いる)
그가 그 대출금[貸出金]을 다 갚으려면 평생[平生]이 걸릴 것이다 (クガクテチュルグムフルタカプリョミョンンピョンセンgイコルリルゴシダ  彼がローンを完済するには一生かかるだろう)
経済音痴のMorris.は、ローンと月賦とクレジットの違いすら、きちんと理解できていないようだし、どれも生理的に(^_^;)好きになれない。
ローンの韓国語には、대출금[貸出金](テチュルグム)、대부금 [貸付金](デブグム)、융자[融資](ユンジャ 融資、ローン)(ロン loan ローン)、월부[月賦](ウォルプ 月賦) 크레디트(クレディトゥ credit 信用 借款)等々……
크레디트론(クレディトゥロン credit loan クレジットローン、 信用貸付 借款)
주택[住宅] 담보[担保] 대출[貸出](チュテクタムボテチュル 住宅ローン、住宅担保融資)

2018/11/28(水)●無理が通れば
7時起床。
今朝の血圧は187/84/75。35.8℃
やっぱり予想通り、「移民法」は昨日の夜、衆院で強行採決されてしまったようだ。第二次安倍内閣になってから、国会そのものがどんどん脱力させられている。当人が「立法府の長」などと言うくらいだから、これも当たり前ということだろう。そもそも「責任を感じる」とは言いながら全く「責任を取る」気はない。之までなら5回くらい大臣辞めてもおかしくない麻生がいまだに大臣(&副総理)に居座ってるし、辞めさせないことが政権の得になると居直っているようだ。
今日沖縄知事と会談(アリバイ作り)して、副知事と副官房長官との協議もひとまず中断。明日から外遊を隠れ蓑に国会逃亡(>_<)
安保法案のを始めとする数々の安倍政権下の強行採決。思い起こせば1960年の安保条約を強行採決したのが安倍の実の祖父だった。隔世遺伝の一種だろう。
昼前、歩いて六甲道へ行き、ATMで家賃振込みと出金、区役所に寄ってから灘図書館へ。「世界」12月号の「移民法」関連特集を改めて読み直す。在日朝鮮人問題と入管法の関連に多くの記事が触れていた。
また、新憲法のGHQ草案に盛り込まれていた人権条項が削除されたことに触れている記事もあった。先日読んだ「新憲法の誕生」(古関彰一)

1.すべての自然人は、法の前に平等である。人種、信条、性別、カーストまたは出身国により、政治的関係、経済的関係、教育の関係および家族関係において差別がなされることを、授権しまたは容認してはならない
2.外国人は、法の平等な保護を受ける。犯罪につき訴追を受けたときは、自国の外交期間および自らの選んだ通訳の助けをうける権利を有する


という二つの条文が、日本側の抵抗で、1.「出身国」を削除、2.は全文が削除されてしまったことにも触れていた。この削除については

憲法が施行される前日(1945年5月2日)に在日朝鮮人の取り締まりを目的とした外国人登録令(最後の勅令)が出されていることを考えると、この目的から外国人の人権保障条項を削除したのではないかと考えられる。

今更ながらではあるが、もしこの削除がなされていなかったら、今回の「移民法(新入管法)」問題そのものが生じなかったはずだ。
今日の歩数は5233歩。


シクラメン 

大きな柑橘類 

黄色のミニ薔薇 

鶏頭 

黒い実(^_^;) 

コキア(箒木) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 팔자[八字]가 피다(パルチャガピダ 生活が豊かになる)
팔자[八字](パルチャ)」は「(持って生まれた一生の)運、運勢、星回り、運命」、「피다(ピダ)」は「(花が)咲く、開く、(火が)つく、熾る、(体調などが)良くなる、なまめく」などの意味。
Morris.は팔자という単語を覚えたての頃、何か良くないことが起こるたびに、「팔자야!!(パルチャヤ!!)」と言うのが口癖になってた。そして、韓国人はそのたびにえらく褒めてくれた?? それでついつい「팔자パルチャ=悪いこと」みたいに思ってたのだが、これは単に日本人が「팔자(パルチャ)」という言葉を使うことを面白がっていたためのようだ。
팔자가 좋다.(パルチャガチョッタ 星回りがいい。)
팔자가 나쁘다.(パルチャガナップダ 星回りが悪い。)
というふうに、良い場合にも悪い場合にも使われる。

2018/11/27(火)●長田徘徊~二人カラオケ
6時半起床。
今朝の血圧は154/63/77。35.8℃
なんとなく気になってた移民法質疑。ニコニコ動画で覗いたら、法務大臣不信任案で休憩に(>_<) どうせそのまま強行採決するのだろうヽ(`Д´)ノ
今夜は長田のカラオケがあるので、早めにJR新長田に出て、新長田図書館まわりでMorris.@Catographerモード。そのあと図書館ちょこっと冷やかして、北側の水笠通公園の四阿でミニギター。ここは子供らがよく集まって、結構ちょっかい出したり、ギターやスピーカー触りまくったりされるけど結構気に入ってる。ここで4時まで遊ぶ。今日はえらく暖かくて風もないので、コート脱いでも大丈夫だった。
その後ふらふらと鉄人広場から、二葉町-駒が林-長田港へ。二葉町(特に8丁目)は特異なくらいの猫場で、たいてい4,5匹は見かけたのだが、最近すっかり猫見かけなくなってしまった(>_<)
長田港で、黒白のキュートな子猫発見。またまたMorris.@Catographerモード。
港に散らばってる材木を椅子代わりにして、ミニギター。すぐ暗くなって来たので譜面台ライト使う。ここならどれだけ大きい声出しても大丈夫(^_^;)
6時半まで粘って、カラオケ歌居屋へ。大和くん主宰のカラオケ会、このところ参加者が少なくて、というか、今日まで3回続けて、二人だけ(^_^;)のカラオケ会になってしまっている。ふたりともレパートリーには不自由しないから、とりあえず一人二曲ずつ入れて、エンドレス状態。途中ナフナ特集になったりもした。練習中の「モッチンインセン」もまずまずちゃんと歌えたようだ。個人的にはこれはこれで結構楽しい。今日は二人で70曲歌った。例によってリモコンの履歴をデジカメでメモしておいたので披露しておく。
大和くん Morris. 
安東駅にて チンソン
紅島よ泣くな キムヨンチュン
番地のない酒場 ペンニョンソル
福地万里 ペンニョンソル
大地の港 ペンニョンソル
連絡船の歌 チャンセジョン
漢江 シムヨノク
海雲台エレジー ソンインホ
恨みの大同江 ソンインホ
八道江山 チェヒジュン
恋人はオールドミス チェヒジュン
ケナリ乙女 チェスクチャ
チョアチョア ヒョンスク
港の男 パクサンチョル
千態万象 ユンスヒョン
ヨンヨン ナフナ
壊れた掛時計 ナフナ
十八歳スニ ナフナ
平壌アジュマ ナフナ
サネ ナフナ
浜の村 チョミミ
湖畔で逢った人 チェヤンスク
別れの終着駅 ソンシヒャン
チョンマルロ ヒョンスク
ケトンポルレ シンヒョンウォン
ファゲジャント チョヨンナム
愛のバッテリー ホンジニョン
月嶺台浦アジョクシム ホンジニョン
人生めぐり逢い チョヨンピル
北埠頭 チュヒョンミ
故郷へ チョヨンピル
黒い瞳のナタリー フリオ・イグレシアス
大韓八景 ソヌイルソン
学徒歌 チェギュヨプ
南行列車 キムスヒ
アモルパティ キムヨンジャ
無情列車 ナムインス
頑張れクムスナ ヒョンイン
崩れた愛の塔 ナムインス
新羅の月夜 ヒョンイン
ソンチャン コウンボン
赤い靴の娘 ナムイルヘ
春の日は過ぎゆく ペクソリ
葦の純情 パクイルナム
昭陽江乙女 キムテヒ
黄昏のブルース イミジャ
チントペギ ユジナ
モッチン人生 パクチョンシク
恋は蝶々 ヒョンチョル
愛の名札 ヒョンチョル
カジマオ ナフナ
雑草 ナフナ
カルムリ ナフナ
サラン ナフナ
ムシロ ナフナ
テンポル カンジン
浪漫のために チェベクホ
ラグヨ カンサネ
クテクサラム シムスボン
百万本の薔薇 イムジュリ
カフェにて チェジニ
恋するヨンジャシ ヒョンスク
ウヨニ ウヨニ
ナンケンチャ
チンジュ
サンダヌンゴン ホンジニョン
ジニ ハイディ
ノレカラクチャチャチャ ファンチョンジャ
Tears ソチャンヒ
失われた三十年 ソルンド
恨五百年 チョヨンピル 

おしまいに朴昌利さんが顔だしたので、ミニギター伴奏で3人でキムスヒの「ナメンヨルチャ」熱唱してお開き。
零時帰宅。今日はビールいっぱい飲んだので、そのまま寝てしまう。
今日の歩数は6035歩。


骨董屋跡地 

郵便局の木「タラヨウ」 

新長田図書館猫 クロ 

黒白 

同じく 

雉 A 

雉 B 

水笠通公園上空 

この公園で2時間 

駐輪場前雉 

鉄人 

長田港子猫 

同じく 

長田港Twilight 

ここで1時間半(^_^;) 

すっかり暗くなった 

大和くんと二人カラオケ 

南行列車でお開き(^_^)/

[今日の韓国語単語from Kpedia] 높이 사다(ノピサダ 高く評価する)
높이(高く) 사다(買う)。
그의 뛰어난 기량[技量]을 높이 사다 (クエットゥィオナンギリャンgウルノピサダ 彼の高い技量を高く評価する)

2018/11/26(月)●Tea Pot
6時半起床。
今朝の血圧は191/92/73。35.3℃
午前中衆院国会中継聞きながら読書。新移民法の質疑は噛み合わないというかほとんど話し合いにならない。山下法務大臣というのは、本当に気に障る。
昼から歩いて水道筋方面へ。萩原珈琲隣の陶器店「はみんぐ」が年内に閉店するので、70%割引きセールをやってるので、冷やかして、前から欲しかったTea Potを買う。ずっと長いこと使ってたLancelのポットは気に入ってたのだが、側面に茶色の罅が入って、まだ水漏れはしないが、なんとなく落ち着かなくて、あちこちで物色してたのだが、いいな、と思うとえらく高かったりで、なかなか買えずにいたのだが、今日買ったのは、いわゆるイングリッシュポットと呼ばれる。ほとんど球体のシンプルさが気に入った。
そのあと、水道筋から青谷川をさかのぼって、神戸高校方面を散策。
ふわっと飛んでた雪虫を手のひらに乗せてデジカメ撮影。雪虫というのは俗名で、カメムシ目ヨコバイ亜目アブラムシ上科のアブラムシのうち、白腺物質(綿状のもの)を分泌するもので数種類いるらしいが、今日Morris.が撮影したのは一番普通に見られる、椴之根大綿虫 (トドノネオオワタムシ)と言うやつらしい。
猫にも会えて、都賀川を下りて、水道筋で野菜買って5時帰宅。午後もiPhoneで参院の国会中継聞いてたのだが、途中、首相外遊予定に関しての食い違いで30分以上休憩になったりもした。移民法は矛盾だらけでほとんど質疑もないまま、与党は明日にでも衆院で強行採決しそうな気配。この政権の常套手段になってしまっている。
今日の歩数は5257歩。



年内閉店70%offセール 

パンジー 

手作り風車人形 

雪虫 

上野通りの車下猫 

他にも二匹いた 

神戸高校 

紅葉 

杜鵑(ほととぎす) 

Iron Sparrows 

城ノ下通りのクロ&雉白 

? 

? 

東畑原市場のクロ 

Old & New Tea Pot 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 넉살이 좋다(ノクサリチョッタ 虫がいい)
넉살(ノクサル)は「厚かましさ、図々しさ」
넉살 좋게 남의 집에 얹혀살기로 작정[作定]하다( ノクサルチョッケナメチベアンジョサルギロチャクチョンgハダ 図々しく居候をきめこむ)、좋다(チョッタ 良い)
뻔뻔하다(ッポンッポンハダ 図々しい、厚かましい)    
얼굴이 두껍다(オルグリ トゥッコプタ 図々しい、面の皮が厚い)    
낯가죽이 두껍다(ナッカジュギ トゥッコプッタ 面の皮が厚い、図々しい)    

2018/11/25(日)●貴景勝初優勝
7時起床。
今朝の血圧は189/84/85。36.1℃
午前中は昨日の日記編集(^_^;) デジカメ画像が多いと時間がかかってしまう。
昼から歩いて臥竜公園へ。日曜日で子どもたちが多く、ミニギターやスピーカーに興味津々で集まってくる。でも、すぐ飽きて滑り台に行ってしまったり(^_^;)  いつもなら、ここから三宮図書館に足を伸ばすのだが、今日はそのままUターン。
大安亭の角の八百屋の店先にパクチー(香菜と表記)が150円で出ていたので思わず買う。パクチーと香名(シャオツァン)とコリアンダーは同じものだと思うのだが、今日のは、えらく根が太くて、茎が短い。何か期待できそう。
5時帰宅。
大相撲九州場所はきょうが千秋楽。ほとんどテレビで相撲見ることはないけど、スポーツニュースでおおまかな状況?は知ってた。横綱二人休場、一人横綱稀勢の里が初日から四連敗で途中休場と横綱不在の場所となり、大関陣も取りこぼし多く、十日目頃から一人一敗の貴景勝がリードを続け、昨日二敗の高安に惜敗して並び、千秋楽での優勝決定戦が期待されたが、先に貴景勝が勝ち、結びで高安が敗けたので、貴景勝が初優勝。貴花田部屋の出世頭だったが、先般の親方廃業で、別部屋に移ったところで初優勝。貴花田も複雑な思いだろう。それでも、恩返しといえなくもない。ともかく、おめでとう。
今日の歩数は4923歩。


スキヤ猫ちーちゃん 

スキヤ前のミニ薔薇 

今日のパクチー(^_^;) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 설 자리가 없다(立つ瀬がない)
(立つ) 자리가(場所が) 없다(ない)
자리(チャリ)は「席、場所、跡」などの意味がある。
자네한테 거절[拒絶][當]하면 내가 설 자리가 없네(チャネハンテコジョルタンgハミョンネガソルチャリガオムネ  君に断られてはぼくの立つ瀬がない )

これなら読める!くずし字・古文書入門】小林正博編 ★★★☆☆ 2018/01/26 潮新書014

前から石碑や古い本のくずし字読めたらいいなと思い、ちょっと前にも江戸時代の「女大学」の百人一首を使って自習を試みたのだがなかなかモノにならなかった。
本書は明治初期の児童のための文字教育のテキスト「小學入門」「単語綴字入門」「連語圖解」「小學連語圖」「童蒙初學」の5冊の本文を見開きの右頁に載せ、左頁に大きめの活字で対照させている。これは実に見やすくていい。
最初の「小學入門」は、ひらがなの一覧で、イロハ順と五十音順の両方けいさいされていて、いわゆる「変体仮名」の主なものがすぐわかるようになっている。とりあえず変体仮名の元になった漢字を把握するだけでもすごく便利である。一覧表を作ってみた。(せっかくなので角川の『書道字典』付録の「假名字典」に掲載されてた漢字も追加したら、倍以上になった(^_^;))

安阿悪愛
以伊意移
有宇乎雲憂
江衣盈要縁
於億隠

加可閑
我賀
   荷歟鹿何 歌哥

幾起支喜木
   期豈來  

久九具倶求供
計希个介遣氣家
古己故許期呉子
左佐散斜乍作      沙差
之志新四事子使
寸春數壽爪 
世勢聲
曽楚處所蘇

太多堂當唾對
知遅地千致智治
川都徒津
天亭轉帝傳低手
止登東度徒砥戸
奈那難名菜嚢南
仁耳尓爾二兒丹

奴努怒 
祢年子熱禰
乃能農濃野

波者盤八半葉頗
    婆破芳

比飛悲日避火備妣不婦布風
部偏遍弊倍
保本奉寶報

末万満麻漫馬
美三見身微薇
武無舞牟无
女免面馬目

毛母裳茂蒙

也屋耶夜
由遊喩湯
与代與余欲
良羅落等
利里理李離
留流類累畱
禮麗料列連
呂路露婁樓盧

和王倭
為井遺
恵衛慧
遠越尾緒
乎悪


2冊めの「単語綴字圖」は絵入り単語で、碁盤の目のように区切ったマス目に絵と文字が並べられている。これは簡単である。
3冊目「連語圖解」は文章の中に絵を配している。江戸時代の絵暦みたいなもので、長谷川町子が、絵入りエッセイという形で時々流用していた。これも見て楽しいもの。
4冊目と5冊目は絵はなくなり文字だけ。つまり簡単なものから少しずつステップアップしていくわけだ。そういう意味でもなかなか良くできている。
ただ、取り上げられている文章の内容は、明治時代の道徳臭が強く、富国強兵、教育勅語に通じるようで、ついつい反発してしまった。

「父母の天にかハりて我を指令するの権あるは天道と国法とにおいてこれをさためたるによりわれこれを尊敬せさるへからす 父母あやまちあるとも個はその意に逆ふへからすよろしく尊敬の意をうしなふことなくいくたひもしつかにこれを諫むべし」(童蒙初學」子供の心得)

「昼夜合せて二十四時一時わ即ち六十分(ミニウド)とハ六十秒(せこんど)積りて終に一ヶ月十二集めて一ヶ年日数ハ三百六十五日人間僅か五十年稚き時に怠らは老て悔るも又甲斐そなき」(童蒙初學」太陽暦のこと)

これは、古くからの太陰暦より太陽暦の方が優れていることを強調してるのだが、外来語が出てくるところは面白かった。
ついでに太陰暦の解説があってそのなかで、「旧暦では三十日(大の月)か二十九日(小の月)のどちらかなので、三十一日、二十八日、二十九日などはありません。また19年に7回十三ヶ月の年があり、これを十九年七閏法といいます」とあったのは、わかりやすかった。

2018/11/24(土)●大阪ジャグバンドフェスティバル2
7時起床。
今朝の血圧は
朝の三点セット。
昼前JRで大阪天満へ。
大阪ジャグバンドフェスティバル天満「音太小屋」到着したのが12時半。二番目の西洋洗濯団の演奏風だった。
ザ・ビグッドのムーちゃんが中心になって開かれる催しで、司会進行もムーちゃんが担当。以前は神戸の上屋劇場で春待ちファミリーBAND主催の神戸ジャグバンド祭りが数回開かれたが、上屋劇場が閉店したこともあって、自然消滅状態だった。
音太屋は履物脱いで2階に上がると。ステージ前はカーペットに低い長机が並んでいた。今日は13バンド出演で春待ちファミリーBANDは終わりから二番目で6時半頃の出番である。途中抜け出して休み休み見ようかと思ってたのだが、結局最後まで座りっぱなしだった(^_^;)
半分くらいは以前見たことのあるバンド。
バンドメンバー以外ではあまり知ってる客はいなくて、盲導犬のイベントでお世話になってた松下さん、満園夫婦、奈緒ちゃんと息子の弦くらい。
赤青黄の三原色トリオ、森の珍楽団、駄菓子屋ジャグバンドの名前の由来の曲の作者神田くんとラグパパのメンバーが飛び入りしたり、二歳の息子を背負った広島のバンド、戦前の金属製ギター&ウクレレのナショナルカンパニーズなどなど、すっかり楽しめた。春待ちファミリーBANDは井山くんをのぞくフルメンバーでおしまいのフィッシングブルースでは、お約束の観衆一丸となっての輪踊り(^_^;)
そしてトリのザ・ビグッド。Morris.は一時このバンド(特にクラリネット&ボーカルのイクちゃん)にすっかりハマって追いかけやってたこともあるのだが、しばらくご無沙汰状態だった。久しぶりの演奏は、以前にもまして素晴らしかった。また追っかけやろうと思いホームページ見たら、このところ活動休止状態と書いてあった(>_<) 残念。
プログラム通りに進行して7時半に全バンド終了。そのあと今日の出演者みんなで合同演奏。これは録画しておこうと、デジカメで動画撮影したのだが、始めの1分30秒くらいで電池切れ(>_<) のため途中で止ってしまった。まあ、雰囲気だけの報告ということでYou Tubeに上げておく。
帰りは奈央ちゃんと弦の三人で天満の「壱番鶏」で焼き鳥。Morris.は皮だけあればいい(^_^;)と思ったのに、皮ほとんど売り切れで2本だけしか残っていなかった(>_<)。それでもビール飲んで、いろいろ昔話して、弦も来年は中3で高校入試のことも気がかりのようだが、まあ、どうにかなるだろう(^_^;)。
すっかりいい気分になって10時半帰宅。
昨夜、大阪が万博会場に決まったらしい。これはまあどうでもいいこと。
今日の歩数は4390歩。


TWIN煙突に煙が 

天満音太小屋(NETAGOYA) 

西洋洗濯団 

森の珍楽団 

駄菓子屋ジャグバンド 

神田くん応援で「駄菓子屋」

亀花ストレイトジャグバンド 

イッチサック 
ラグパパスジャグバンド 

ジョッシュ大塚 

 NOG!

ナショナルカンパニーズ 

金属製ドブロウクレレ(@_@) 
春待ちファミリーBAND 
フィッシング輪踊り #1 

#2 
#3  ザ・ビグッド 

イクちゃん最高!! 
総出演者でフィナーレ 
壱番鶏 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 포미족[族](ポミジョク フォーミー族)
포미족(ポミジョク)の포미は英語で表すと'for me'である。自身のために投資しようと積極的な20~30代女性のことをいう。ブランド品など贅沢なものにお金を遣うのではなく、自分の個性を生かし他者との差別性を図るためのアイテム、例えばファッションや化粧品などに投資しようとする人たちである。マーケティングにも役立つ手法となっている。 和製外来語の「ミーイズム」とは似て非なるもののようだ。

2018/11/23(金)●須磨離宮公園
7時起床。
今朝の血圧は190/84/65。
昼前にJRで鷹取に出る。
いつもは北口から出るのだが、今日は南口から出て、ちょこっと近所散策。猫を探したのだが見つからなかった(>_<)
須磨図書館に寄って、小一時間過ごす。
離宮公園到着は1時半。11月16日から12月2日までは「第16回 もみじ鑑賞会」らしい。今日はもみじキャンドルライトの催しも行われるらしい。そうか、今日は勤労感謝の日で祝日だった。そういえば、Morris.は、長いこと勤労してないなあ(^_^;) 骨盤の方は昨日病院でいちおう治療完了のお墨付き?もらったから、そろそろ社会復帰しなくては。
温室では蘭の品評会。蘭は派手で綺麗だけど、Morris.はそれほど思い入れは強くない。渋いめの東洋蘭の方が好きかな。
その後はMorris.指定席の小噴水公園のパラソル付きテーブルでミニギター。今日はpkチョンシクの「モッチンインセン」を練習。前から歌いたかったのだが、楽譜が見つからなかった。ネットで見つけてもダウンロードできなかった。それが昨日プリントできた。
ソチャンヒの「Tears」やキムヨンジャの「アモールパーティ」に比べると、割とシンプルな民謡調の曲なので、割と早くマスターできそう、な気がする。
キャンドルの準備してる女の子に聞いたら、5時に点灯というので、せっかくだからそれまで粘ることにする。今日は結構寒くて、コートの下にウィンドブレーカー重ね着。
いちおう点灯した後見物したが、デザインが、ひらがなで「もみじ」というのはちょっとショボかった(^_^;)
6時半帰宅。
今夜、2025年の万博開催地決定投票があるらしい。大坂になろうとなるまいとどうでもいいが、カジノのことを思うと落選願う気持ちの方が強い。
明日は天満で大阪ジャグバンドフェスティバル。楽しみでもあるが、7時間半というのは、ちょっときつい。適当に間引きして見ることにしよう。
今日の歩数は7344歩。

兵庫県立工業技術センター 
六地蔵 
朝顔 
小鳥のための 
紅葉には早すぎ(^_^;) 
ダチュラ 

温室では蘭品評会 

同じく 

靫葛(うつぼかづら) 
小噴水公園の薔薇  大噴水公園の薔薇 
大噴水公園 
カクテイル  牙蛾の仲間かな? 
蝋燭の準備 
ライトアップ  不思議な空 
準備の成果(^_^;) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 쉴드 치다(スィルドゥチダ 守ってやる)   
쉴드(スィルドゥ)は、英語の盾(SHIELD)韓国語だと、방패[防牌](バンgペ)。
치다(チダ)は動詞で「張る、吊る、打つ、叩く、値段を付ける、弾く、受ける、線を引く、下ろす、飼う」など様々な意味を持つ動詞だが、この場合は「盾を前に構える」といった感じだろう。)。「誰かを守る、保護してくれる」ことを意味する。若者やネット用語としてよく使われる。

2018/11/22(木)●今度こそほぼ完治?
6時起床。
今朝の血圧は177/91/64。35.3℃
自転車で金沢病院へ。
レントゲンとCTスキャン検査受けて、ディスプレイで見せてもらう。断面図ではヒビのラインは消えていないが、これでほぼ骨はくっついているから、もう来なくてもいいとのご託宣。とりあえずこれで全快ということにしていいのだろうな。事故から83日ほぼ3ヶ月かかったことになる。
帰り道安売り八百屋にパクチーあったので買って、11時半帰宅。
明後日11月24日(土) 天満の音太小屋第二回大阪ジャグバンドフェスティバルが開かれる。春待ちファミリーBANDも出演する。つい、うっかりして、昨日予約入れたのだが、もう予約満席らしい。それでも立ち見席あるし、長丁場(正午から午後7時半まで)なので、途中空席もできるだろう。13組出演で、春待ちファミリーBANDの出番はラスト一つ前午後6時25分かららしい。最近めったに春待ちライブで見る機会ないので、興味ある方は、冷やかしに来て欲しい。社長参加のラグパパや、トリのビグッドなど楽しめるバンドも多い。
横浜日産本社での取締役会(「取り締まり厄介」と聞こえる(^_^;))で、ゴーン会長解任がきまったようだ。ここまでは筋書き通りだが、フランス大使が拘置所でゴーン会長と会見したらしいし、このままでは国際紛争になりかねない気配も。
今日の歩数は3229歩。


これでほぼ完治だと(^_^;) 断面図

寿司「七福」の寄り目 

パクチーサラダ 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 비꼬아 말하다(ピッコアマルハダ 皮肉を言う)
비꼬아(ピッコア)は비꼬다(ピッコダ ひねる、ねじる)の転じたもので「ひねった表現、やっかみ、皮肉)などの意味になる。
[半]은 질투[嫉妬]로 비꼬아 말하다(パンgウンチルトゥロピッコアマルハダ やっかみ半分の皮肉を言う)

【背中の地図】金時鐘詩集 ★★★☆ 2018/04/30 河出書房新社
「猪飼野詩集」でMorris.を魅了した詩人、金時鐘の最新詩集だが、これは東日本大震災、特に福島原発事故への鎮魂と怒りの詩集である。

ノアの洪水を思わせた東日本大震災の地、東北・三陸海岸は、日本列島を形づくっている本州の背中に当たるところのように私には思える。振り返っても自分では見えない、運命の符丁が貼り付いているかのような背面だ。(序詞)


東北を日本の背中に見立てて、かえりみても見ることが出来ない苛立たしさがタイトルのゆえんでもあるようだ。

突如「基準値内」が跳ね上がり
1ミリシーベルトの年被爆限度が
20倍上げても帰還は可能だと
ついに風も逆さに吹いて吹かれてゆくのか
遠くで望むしかない愛着は浮き雲と流れ
夢がまさぐる夢のように
そこらで生きて
消えた。(「不在」)


実に恣意的な安全基準の引き上げ。放射線が目に見えないのをいいことに、さも無かったことにしてすまそうとする中央政権の驕りと無神経さ。

福島はとうにさいわいなる島の福島ではない
奥州街道の宿駅のはずが
もはや関所だ。
思惑の絡んだ原子力のエゴが塀を張り巡らせ
あたりを払ってわたくしたちの内面にしぶきが烟る。
除染という
はなからきめられていた虚構の始動である。(「網」)


「除染」が虚構であり、死んだ土は蘇らない。

震災地とつながる思い入れの言葉としてもてはやされた「絆」の掛け声も、もはや身の周りからは耳にすることがない。福島第一原発の建屋爆発すらもはや過ぎ去った記憶となって、原発再稼働は既定の事実のように進んでいる。(「渇く」によせて)

しょせんはそこらのナズナの花でもあったのだろう、
つながっていたつもりのキヅナの人々。(「エレジーの周り」)


あの大災害の後に、濫用された「絆」という言葉に、Morris.はどうしても馴染めなかった。絆とか癒やしというのは、言葉にすることによって変質してしまったような気がする。

そのようにも装うてすごしてきたのだ。
命を賭した英霊の賜物という
己れの嘘のまぎれもない擬態を。
明かせば自由は
利得に絡む損失であった。
破綻した原子力発電にまで利得を重ねてゆくような
取りついた中流意識が生き甲斐ともなっていまったのだ。(「馴染んで吹かれて」)


戦争など無かったことのように装い、戦後の経済至上主義が、あの原発事故のあとにしらっと再稼働に踏み切る基盤となっていること。

根源的な造化の元である自然を脅かすことは
慎みなく神の領域に踏み入ることだ。
目先の利得に高度経済の成否を託すとは
なんという思い上がりを私たちは受け入れてきたことか。
今に地が鳴り、海がまたも逆巻いて
囲って安全な青い火の街を浚うだろう。(「風の余韻」)


このようにストレートな表現は、震災以前にはしなかった。それだけの覚悟があるにちがいない。

いかな大震災だって、自然災害は郷土までは奪いつくせない。人はやがて居つくのである。ところが原発破綻となるもうその地域に人は居なくなる。隣り合っては過ごせないのなら、それは端からそこに在ってはならないものだ。ゆめゆめ原発の青い火に未来があってはならない。
ひとりあがいてでも福島の原発破綻にはこだわりつづけなければと、年が暮れるたび、新年が明けるたび、その都度自分に引き戻してくるように向き合う言葉をつらねてきた。いつもと同じ地点で思い返しては地団駄踏んでいる私の、結局は繰り言のくり返しだったような気もしないではなくて、なんとなくうしろめたくなる私である。
見渡せば今、世界は「原子力」の問題に収束していっている観がつよくある。昨年7月、核兵器禁止条約が国連で採択されたが、安倍政権はその交渉にすらさんかしなかったし、ノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の事務局長来日の折にも、安倍首相は会おうともしなかった。そればかりかこの2月、トランプ大統領は非核攻撃への報復にも核を使うことがあり得るとして、「核戦略見直し」(NPR)を発表したが、「高く評価する」と全的賛同を表明したのは、唯一被爆国である日本の河野太郎外務大臣であった。原子力発電を推し進めているのは現政権と、政権与党のこれらの人々である。(あとがき)


原子力発電を推し進めているのは新原子力ムラ、そして、福島原発被害者以外の全てではないかと思えてきた。Morris.も同情や非難するだけで、実は、加害者の一人なのだ。

2018/11/21(水)●「現象としての風景」にて
7時起床。
今朝の血圧は164/69/80。35.7℃
今日も日産のゴーン会長のニュースで持ちきり。やはり、フランス政府肝いりのルノーと日産の関係に、日産側が危機感から、検察に司法取引で告発した気配濃厚である。
昼前に部屋を出て、歩いて春日野道方面。いつもはそのまま大安亭-臥竜公園-三宮図書館というコースなのだが、今日は春日野道商店街を南に抜けて、地下道(阪神春日野道駅)抜けてそのままHAT神戸に続く長い歩道橋通ってなぎさ公園へ。
途中川崎製鉄工場の記念碑「現象としての風景」でミニギター。これは結構大きな鉄製四阿みたいな感じで、真ん中に鉄製の小学校の椅子があって、ずっと前にも一度座ってミニギター弾いた事があったがお尻が痛くて、すぐ諦めた。今日はギターケースを座布団代わりに使う(^_^;) いちおう壁があるので、それなりの反響もあって何かえらく気持ちよかった。その後は海岸沿いの石のベンチに移動。
4時頃切り上げて、帰り道にケーズデンキに寄って、デジカメケースを物色。今使ってるのは、少なくとも5年以上腰にぶら下げて酷使したため、かなりガタが来ている。それでも使えてるからかまわない、と思ってたのだが、サランバン会で、加納さんから、いくらなんでもひどすぎるから新しいのにかえたら、と言われたので買うことにしたのだった。Haubaの一番安いのにする。
5時半帰宅。
大和くんが、長田の「平壌冷麺」で韓国の中央日報記者のインタビュー受けたという話は前に聞いてたけど、それが17日のWeb版に写真入りで大きく紹介されてたとのこと。「平壌・咸興からソウル・テジョン……冷麺を求めて南北重奏した日本人青年」といタイトルで、記事を書いたのはパクチャニルという自分でも店を持ってる料理ライターで、冷麺の取材に来て偶然大和くんと出会ったらしい。彼によると大和くんは「イケメンで長ーい髪、まるでロックバンドのヴォーカリストみたい」なんて書いてあった(^_^;)。
確かに大和くんの冷麺への情熱は尋常ではない(^_^;)もんなあ。しっかし、大和くんの守備範囲の広さ(と深さ)には今更ながら驚かされる。パクチャニルさんも、びっくりしただろうな(^_^;)
今日の歩数は4002歩。


老人アパートで使ってた大型ガス釜 
スキヤ前の二匹 
喫茶店に観覧車 

春日野道ー渚公園までの長い歩道橋 

歩道橋下公園 
公園の草むらに自転車の屍が(>_<) 
川崎製鉄記念碑「現象としての風景」  ちょっと前衛芸術っぽく(^_^;) 
額縁構図 

斜紋夜盗(はすもんよとう) 
棚引く雲 
新旧デジカメケース 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 동태족[凍太族](トンgテジョク 冬場の早期退職者)
동태[凍太](トンgテ)は명태[明太](ミョンgテ スケソウダラ)を凍らせたもの。冬の間に명예퇴직[名誉退職](ミョンgエテジク 早期退職)をした人のことを指す言葉。

2018/11/20(火)●日産ゴーン会長逮捕劇
6時半起床。
今朝の血圧は190/74/58。35.5℃
昨夜、日産、ルノー、三菱自動車の会長カルロズ・ゴーンが突然逮捕されたというニュースが入り、今日のテレビはこれ一色。
過去数年の所得100億円の半分を申告しなかったみたいな容疑だが、超ワンマン体制の外国人トップへの、社内からの反乱というところだろう。フランスとの国際的攻防の匂いも。先般日本でも適用されることになった司法取引が引き金になったと見られる。
ほとんど青息吐息だった日産に豪腕の外国人トップ投入で、脅威のV字回復を果たし、賞賛の嵐だったことは記憶にあるが、あれから20年近く君臨していたのか(@_@)
2万人のリストらという、異常な「コストカッター」の鉈(なた)をふるい、グローバル経営の鑑みたいに持ち上げられたが、要するに「新自由主義」を徹底したということだ。
昼から歩いて六甲道方面へ。
灘図書館で館内読書の後。南公園の石のベンチでミニギター。帰りも歩いて生協でノンフォーム歯磨き買って、6時前帰宅。
夜はキリンカップサッカー、日本-キルギス戦やってて、ちょうどキルギスを舞台にした小説読んでたので、キルギス人はどんな顔してるのだろうという興味で見ることに(^_^;) 試合の方は、日本は11人全てを全試合と入れ替え、はっきり言えば、控え選手のテストマッチみたいなものだった。後半は主力選手投入で4-0で日本が勝ったが、キルギス人の中にはそのまま日本人みたいな顔も見受けられた。
今日の歩数は6283歩。


?? 

木瓜(ぼけ) 

紫露草 

聖観音4 
石仏を見守る地蔵尊図像 
石仏団欒 
花梨(かりん)の実  皇帝ダリア  南京櫨(なんきんはぜ)の実 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 물망[物望](ムルマンg 人望、名声)
물망에 오르다(ムルマンgエオルダ)は「(人選や成功の可能性など)の有力な候補に挙がる」という意味。 日本では「人」、韓国では「物」という漢字というのがちょっと面白いと思った。
차기[次期] 수상[首相]의 물망[物望]에 오르다(チャギスサンgエムルマンgエオルダ 次期首相の呼び声が高い)

【シルクロードの滑走路】黒木亮
★★★☆☆ 2005/06/10 文芸春秋 初出「別冊文藝春秋」254-257号(2004-05)
先日自伝的作品「冬の喝采」で、ちょっと関心の高まった著者の小説を初めて読むことにした。
ロシア駐在の日本人商社マンが、中央アジアのキルギスに航空機を売り込む話だが、実にリアルで面白かった。チェコ人の同僚やトルコ人ブローカー(実はクルド人)にからむ、民族の悲劇みたいなサイドストーリーが印象的だった。主要登場人物三人の紹介。

・小川智……東洋物産モスクワ駐在員事務所機械部マネージャー。32歳
・パベル・ズデニェク……チェコ人、小川の同僚。37歳
・ヤシャールオルグン……トルコ人ブローカー。59歳

哀切に満ちたメロディーは、大正時代以降にジンタッタ、ジンタッタという音楽を演奏しながら、芝居小屋やサーカスの呼び込み、商品の宣伝のために街を練り歩いた吹奏楽隊「ジンタ」が定番にした曲だった。正式な名称は「天然の美」。
「コリョサラムだ」
老人を見てズデニェクがいった。
「旧ソ連各地に住む朝鮮人だ」
朝鮮語で「コリョ」は高麗、「サラム」は人間を意味する。朝鮮史上初の統一国家である高麗(918-1392)は朝鮮の別名でもある。
「彼らは国を持たないユーラシアの流浪の民族だ。世界には三つの朝鮮が存在するんだ」
三つの朝鮮とは、韓国、北朝鮮、そして地図に表れない朝鮮である。中国に二百万人、米国に百五十万人、日本に七十万人、そして旧ソ連諸国にいる四十七万人が三つ目の朝鮮を作っている。
朝鮮王朝末期の1810年頃から凶作、飢饉、農民反乱などで、多くの朝鮮人がロシア極東の沿海州に流入し始めた。その流れは1860年頃に挑戦北部を襲った飢饉で一気に加速する。彼らは沿海州で主に農業を営みながら暮らしていた。その後1924年にレーニンに代わってスターリンが権力を握ると、ソ連全土に粛清と弾圧の恐怖政治が敷かれた。その矛先はアルメニア人、チェチェン人、ドイツ人といったソ連国内の少数民族にも向けられ、沿海州の朝鮮人たちも例外ではなかった。
そして1935年から37年にかけて強制移住の命令が発せられたのである。
十七、八万人の朝鮮人たちが家畜のように列車に押し込めれ、一ヶ月間かけて数千キロ離れた中央アジアに送り込まれた。彼らはいきなり砂漠や葦原、沼地などに放り出され、自分たちがどこにいるのか、何を食べて生きていけばいいのかもわからなかった。人々は穴倉を掘り、笹で屋根を編んで、その中で二、三十人が一緒に動物のように暮らした。
コリョサラムたちは農具など一切ない中で、素手で雑草を抜き、丘を崩し、土地を耕し、持参した野菜や稲の苗を植えた。同胞の屍を乗り越え、毎日十五、六時間の労働に耐え、農業を軌道に乗せた。ただ「恨み(ハン)」の一念で生き抜いたのである。
やがて彼らは集団農場(コルホーズ)で指導的役割を担うようになり、旧ソ連内にいる百二十余の民族の中で最も模範的と称されるようになった。ソ連で「労働英雄勲章」を受けた千二百人のうち実に七百五十任がコリョサラムである。しかし、彼らは朝鮮語教育を禁じられ、朝鮮語の本を焼かれ、強制移住の事実を語ることも許されなかった。
現在、こうしたコリョサラムたちはキルギスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンなどに散らばって住んでいる。


キルギスの首都ビシュケクの街角での、朝鮮系の老アコーディオン弾きとの出会いのシーンだが、まさか、ここで朝鮮人の話題が出てくるのは意外だった。巻末の参考文献にある「追放の高麗人」(姜信子 新泉社 2003)に触発(ほとんど流用)されたもののようだ。それにしてもスターリンというのは、とんでもない奴であるヽ(`Д´)ノ

「1991年に中央アジア各国が独立した前後から、地元の人間が農場を取り上げるようになった。コリョサラムたちは小作人にされ、収穫の7割を地主に差し出さなくてはならなくなった。血と汗の結晶の農場を奪われても、彼らは何の抗議をすることもできない。自分たちの国じゃないから。彼らは仕方なく、家族を残して土地の賃料が安いウクライナなんかに出稼ぎに行ったり、自分や祖先の故郷であるロシア沿海州に戻る方法を模索している。住んでいる国からは歓迎されず、北朝鮮や韓国からは帰って来ることをのぞまれていない朝鮮人。そういう人たちが中央アジアに四十七万人も暮らしているんだ」
「天然の美」のメロディは、沿海州にあった挑戦劇場か、日本による植民地教育を通じて朝鮮人の間に伝わったと考えられている。
老人の唄う歌詞は朝鮮語だった。
「生きることの哀しみが伝わってくるようなメロディーだな……」
オルグンがいった。「これは何と唄っているんだ?」
ズデニェックが一ドル札を木箱に入れ、老人にロシア語で話しかけた。
老人は唄うのを止め、ロシア語で応じる。
「『故国山川をあとに数千里の他郷、見知らぬ土地に足をとめ 寂しい心に思う故郷 思い出すは懐かしい友よ』という意味だそうです」


しかも、ソ連崩壊後にも、コリョサラムのさらなる艱難辛苦が続いたことにはやりきれなさを覚えた。日本による朝鮮人弾圧だけではなかったのだ。
老人の歌の歌詞内容は、朝鮮半島植民地時代の代表的懐メロ「他郷暮らし(タヒャンgサリ)」そのままである。

「クルド人は国をもたない世界最大の民族だ」
オルグンは二人に、トルコのクルド人問題をかいつまんで話す。
クルド人は、人種的にはイラン人に近く、宗教はイスラム教スンニー派。現在トルコ、イラン、イラク、シリア、アルメニアにまたがる山岳地帯に約二千万人のクルド人が住んでいる。そして、これら各国政府すべてと敵対関係にある。
クルド人の歴史は他民族による支配と西側諸国による裏切りの歴史である。
7世紀にはアラブに支配され、11世紀にはトルコ人、13世紀から15世紀にかけてはモンゴル人の侵略を受け、その後オスマン帝国に支配された。第一次大戦後、オスマン帝国が崩壊すると、米国大統領ウッドロー・ウィルソンは旧オスマン帝国内の少数民族に対して民族自決を促し、1919年のパリ講和会議でクルド人も独立を訴えた。しかしその4年後、西側諸国は反共緩衝地帯としてトルコを利用するため、一転してトルコによるクルド人地域支配を認めた。
第二次大戦直後の1946年にクルド人はソ連の支援を受けてイラン北西部にマハバード共和国を作ったが、イラン軍によってわずか一年で滅ぼされた。一方、イラク領内のクルド人は1958年の王政崩壊を機に、大幅な自治と開発促進を求めたが、バース党新政権はこれを拒否。以後、自治権をめぐってイラン政府と衝突を繰り返している。サダム・フセインはイラン・イラク戦争(1980-88)中も二十万人のクルド人を殺害した。湾岸戦争(1990-91)後、米国はクルド人組織を扇動し、反乱を起こさせた。しかしその後、米国の政策転換に伴いクルド人は支援を得られぬまま孤立。イラク政府に徹底した報復と弾圧を受ける結果となった。


クルド人の問題は、湾岸戦争以降(実はそれ以前から)紛争のキーワードとして浮かび上がって来たので、それなりに関心はあったのだが、非常にわかりやすい解説(^_^;)だったので引用することにした。先のコリョサラムとはまた別レベルでの民族の悲劇である。(なんて傍観者的立場で言うのも不遜なのかも)

「なんかのんびりした、牧歌的な感じの曲だね」
ウォッカ・グラスを手にした小川がいった。
「『In the steppes of Central Asia(中央アジアの草原にて)』という交響詩だ」
「へーえ……作曲者は?」
「アレクサンダー・ボロディン。1880年に、皇帝アレクサンドル二世の即位二十五周年の祝賀行事のために作られた曲だ」
「1880年っていうと……ロシアが中央アジア各地に入植していた頃か」
「中央アジアの草原をロシア兵に護衛された隊商が進んでいく風景をイメージした曲だそうだ」
「ずいぶん、すっきりした明るいメロディーだね」
小川は違和感を覚えずにはいられなかった。自分が見た中央アジアは、様々な民族が血を吐きながら生きてきた、恨みの大地だった。
「所詮は、征服者のロシアから見た風景だよ」
そういって、ズデニクはスルボヴィッツェのグラスを傾けた。


帝政ロシア-ソビエト連邦-プーチンロシアと続くロシアの抑圧政策がロシア人民衆だけでなく少数民族に段階的に強権を発揮してきたことを想起せずにはいられない。ヒエラルキーなどという言葉を持ち出さずとも、権力の弱肉強食ぶりは古今東西変わらないもののようだ。そしてソ連時代の東欧の自由化運動への介入(弾圧)。

低い女性の声によるバラードが流れてきた。
「この曲は?」
「『マルタの祈り(Moditba pro Martu)』という曲だ。プラハの春以降、反権力の象徴になった」
どことなく粗削りで、思いつめた印象の曲だった。
「唄っているのは誰?」
「マルタ・クビショヴァというチェコの女性歌手だ。1960年代に、人気三人組ポップ・グループの一人だった。でも、プラハの春に賛同したために、一切の音楽活動を禁止された」
歌を奪われたマルタ・クビショヴァは、袋貼りの内職や事務員を」して暮らした。
「ビロード革命が起きた1989年11月24日に、プラハのヴァーツラフ広場に集まった三十万人の群衆が『マルタの祈り』を唄ってくれと彼女に求め、職場から駆けつけた彼女は、21年ぶりに聴衆の前で唄ったんだ」

プラハの春」、懐かしい響きである。でも、美しい言葉には棘がある(>_<)
チェコでは、自由化を支持したスポーツ選手、ザトペックやチャスラフスカにも、陰に陽に弾圧があった。


巻末には、経済用語の解説や、国際航空機取引のフローチャートも付されている。経済音痴のMorris.にはとてもありがたかった(とはいえ、半分も理解できず(^_^;))。
そして参考文献の一部

「スターリン秘録」斎藤勉 産経新聞社 2001
「天山の小さな国・キルギス」三井勝雄 東洋書店 2004
「追放の高麗人」姜信子文 アン・ビクトル写真 石風社 2002
「クルド民族」S・C・ペレティエ 前田耕一訳 亜紀書房 1991
「西域物語」井上靖 新潮文庫 1977
「草原の記」司馬遼太郎 新潮文庫 1995
「西域をゆく」司馬遼太郎 文春文庫 1998
「シルクロード~中央アジアの国々(旅行人ノート6)」旅行人 1999


Morris.が一番印象深かった、民族問題などの大半は参考文献に依存しているようだが、こうやって、きちんと文献紹介してあると、読書案内としても有用である。
しばらくこの人の作品を読み続けてみよう。

2018/11/19(月)●まぬう
6時起床。
今朝の血圧は164/74/60。35.4℃
朝ショートメールで、「衛星放送でまぬうが出てる」との連絡あったので、あわててチャンネル変える。「ワイルドライフ」とか言う番組の「モンゴル大平原の四季珍獣マヌルネコを追う」特集。モンゴル人のクルーが5匹の子猫と母親に発振器を付けて、一年にわたってその暮らしぶりを記録したもの。途中半分くらいから見たのだが、やっぱり子猫は可愛い(^_^) そして、平原をとびまわるように走り回るまぬうは、生き生きしている。鼠穴の横から半転しながら狩りをする勇姿も、何かユーモラスである。
王子動物園の療養中のまぬう(ペッキー)が気になって、昼から見に行く。檻の前に「今日出ているのはペッキーです」という掲示があったので、おお、復活したのか\(^o^)/と思ったのだが、これは誰かが掲示をひっくり返してたためで、岩の上にいたのはイーリスで、ペッキーはまだ療養中の貼り紙が裏の窓にあった。通りかかった飼育員に訊ねたら、ペッキーは回復基調で、とりあえず命に別状はなさそうとのことだったので一安心。
その後駐車場樹の下ベンチまで行ったのだが、気温が低く、風も結構あったので、30分足らずで退散(^_^;)
昨日開票された丹波篠山市への市名変更の住民投票は、1万3646票対1万518票の僅差で、変更賛成多数となった。これで来年5月頃には丹波篠山市に変更されそうだ。
地名変更には基本的に反対のMorris.なのだが、このケースは、2004年に氷上郡の6町が合併して「丹波市」となったため、篠山市が「丹波」という古くからの地方名を奪われたみたいな形になり、丹波栗、丹波黒豆、丹波焼などの産品のブランドイメージが減じるなどの理由もあったので、変更もありかなと思ってた。まあこれだけニュースになったから、知名度はそれなりに上がるのではないかと思われる。
今日の歩数は2533歩。


マヌルネコのTV番組 

今日のまぬう(イーリス) 
ピントロング 

大山猫 

ボブキャットの尻尾 

河馬母子 

ジャガー 
獅子夫婦 
アムール豹 

夕空 
烏の群れ  烏の亡き骸 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 모 아니면 도(モアニミョント 一か八か、勝負に出る)
運を天にまかせて思いっきりやってみるという意味。双六のようなゲームである韓国伝統の遊び「윷놀이(ユンノリ)」から由来した。4つの棒を投げて「(ト),(ケ),(コル),(ユッ),(モ)」の結果でコマを進むゲーム。 「(ト)」は1マスしか進めず一番少ない、「(モ)」は5マス進める事ができて、一番多く進める目。아니면 (アニミョン)は「~でなければ」。
모 아니면 도니까 해보자.(モアニミョントニッカヘボジャ 一か八か勝負してみよう)
日本語の「一か八か」は、丁半賭博の「丁」と「半」の漢字の上部を取ったものと「大辞林」に書いてあった。もう一つ「一か罰(バチ)か」の転、との説もあるらしい。

2018/11/18(日)●さよならBACK BEAT
6時半起床。
今朝の血圧は172/68/64。35.4℃
昼前自転車で都賀川公園へ。ベンチで読書&ミニギター(^_^;)
水道筋で野菜など買って、一旦帰り、夕方、歩いて三宮方面へ。生田川すぐ近くのライブハウス「BACK BEAT」にムックさんのバンドが出演するというので、冷やかしに行くことにしたのだ。
数日前に臥竜公園で、ムックさんの知り合いの戸野さんから教えてもらったのだが、この店は年内いっぱいで店閉めるので、そのお別れイベントの一環らしい。
このライブハウスは三宮図書館に行く時、よく前を通ることがあって、店の前に楽器持った若者がたむろしてることが多く、何となく気にはなってたのだが、結局今回が最初で最後ということになりそう。
ムックさんから、出番は6時半頃と連絡もらってたので、ちょっと前に店に入る。ちょうど前のバンドが終わったところだった。すごく天井が高くて、2階まで吹き抜けと言った感じ。今日は全曲ムックさんのオリジナル。おしまいにMorris.の好きな「港町」でアンコールもらい、John Lennonの「Starting Over」これはかなりハチャメチャ(^_^;)だったが、ご愛嬌かな。実は戸野さんも店のオーナのバンドでドラムやってて、ムックさんの後にやると聞いてたのだが、なぜか、出番早くなって、もう演奏おわったとのこと。ちょっと残念だった。7時半に店を出て8時帰宅。
日曜美術館の再放送でフェルメール特集やってた。上野の森美術館で展覧会やってるらしい。Morris.はいまいちフェルメールはピンとこない。それなりにうまいとは思うんだけど。面白みを感じないのだ。まあこれは好みだから仕方がないか(^_^;)
今日の歩数は4023歩。


都賀川左岸の空 

白鷺 

雀 

BACK BEAT 

ムックさんのバンド 

ベース 

ドラム 

キーボード&ギター 
ムックさん 

かっこいいバッシュー 
さよならBACK BEAT  記念写真 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 홍길동[洪吉童] 콘서트(ホンgギルトンgコンソトゥ ゲリラライブ)
突発的に行われるコンサートやライブのこと。ゲリラライブ。홍길동[洪吉童](ホンギルトンg)は朝鮮時代の小説『홍길동전[洪吉童伝]ホンgギルトンgジョン』の主人公の名前で、神出鬼没の術を身につけておて、突然色んな場所に現れることに由来する言葉。

2018/11/17(土)●中央図書館
6時半起床。
今朝の血圧は
朝の三点セット。
午前中は部屋ゴロ。
昼前JR神戸駅に出て中央図書館へ。
もちろんその前に猫場、宇治川南小公園へ。新しい立て看に猫の餌を禁止する条項が記されていたので、心配したのだが、地域猫支援グループの餌やりは、隠密裡?に続けられているようだ。今日はベンチの後ろにボスと側近猫と雉が寝そべっていて、Morris.がベンチに座っても、雉以外はほとんど動こうともしなかった。しばらくベンチでミニギター。
2時前に他図書館到着。中庭で雑誌を何冊か飛ばし読み。一番時間かけたのは『世界』12月号。特集は移民問題だったが、小特集の沖縄関連を集中的に読む。「新潮45」絡みの斎藤貴男記事の中でケント・ギルバートの「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」という著書の中で著者が「中国人や韓国人は禽獣以下で、息をするように嘘をつく」と書いているとの指摘。おお、Morris.はこの「息をするように嘘をつく」というのは、安倍晋三のキャッチフレーズだと思い込んでただけに、ちょっとびっくりした。まあ、ケントが、どこかで聞いたこのフレーズを借用したのかもしれない。
5時過ぎに図書館を出て、JR神戸駅に出る。風もなくそれほど寒くもなかったので、駅前自転車置き場裏手の段状になった石台で譜面用ライト使ってミニギター。30分くらいでやめるつもりだったがきがついたら7時半だった(^_^;)
8時帰宅。
第一次大戦100年記念式典でフランスのマクロン首相演説の「古い悪魔(ナショナリズム)の復活」発言が物議をかもしている。トランプ出席の前での発言だけに、政治的意味合いも感じられるが、公の席でこの発言には拍手を送りたい。
今日の歩数は5293歩。


屋上東方面 
宇治川裏道駐車場猫  宇治川南小公園猫 #1 #2 

#3 
#4 
紅薔薇 

蜜柑? 

中央図書館中庭から 
JR神戸駅前 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 닭살커플(タクサルコプル 鳥肌カップル)
(タク 鶏)+(サル 肌、肉)+커플(コプル couple カップル)
ラブラブなカップル。鳥肌が立つくらいにいちゃつくカップル。

2018/11/16(金)●まぬう(ペッキー)ピンチ?(>_<)
7時起床。
今朝の血圧は169/82/88。35.8℃
午前中は読書。
昼から王子動物園へ。今日はまぬうは雌のアイリスが表に出てる。裏に回ってペッキーにも挨拶しとこうと思ったのだが、窓が閉まって「ペッキーは高齢につき体調不良のため、現在治療中です」との貼り紙が(>_<) うーん、「高齢につき」というのが気にかかる。回復を祈ろう。
駐車場樹の下ベンチで、読書&ミニギター。5時帰宅。
日露交渉、安倍とプーチンの間で、二島返還を基軸に平和条約に持ってい話でニュースはもちきりだが、モリカケ問題やら、新移民法問題やら、新閣僚不祥事連続事件などから、目をそらそうという思惑が見え見えである。外遊自体が、国会からの一種の海外高跳びではないかとさえ思えてくる。
今日の歩数は2471歩。


パクチー愛(^_^;) 

今日のまぬう イーリス 

ペッキーが(>_<) 

ボブキャット 

大山猫 
ピントロング 

煉瓦道の落葉 

プール掃除中で水槽ガラス檻に 

ハンター邸夕景 

[今日の韓国語単語from Kpedia] [氣]싸움(キッサウム 神経戦、にらみ合い、精神的な争い)
直訳すると「気の争い」。ものごとを有利に進めるための言葉などによる精神的な戦い。勢力争い。心理戦のようなもの。
漢字語だと신경전[神経戦](シンギョンgジョン)
무역[貿易]을 둘러싸고 미국[美國]과 중국[中國] [間]의 기싸움이 팽팽하다.(ムヨグルトゥルロッサゴミグックァチュンgグッカネキッサウミピョンgピョンgハダ 貿易をめぐって、米中間のにらみ合いが拮抗している。)

【冬の喝采】黒木亮 ★★★
2008/10/20 講談社 初出「小説現代」2007-08
黒木亮 1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒業、カイロ・アメリカン大学大学院修士。大学時代、箱根駅伝に2回出場、20kmで道路北海道新記録樹立。都市銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務し、国際協調融資、プロジェクト・ファイナンス、航空機ファイナンス、貿易金融など多くの案件を手がける。2000年、大型シンジケートローンを巡る攻防を描いた『トップ・レフト』でデビュー。他に『エネルギー』、『巨大投資銀行』『貸し込み』『アジアの翼』などがある。英国在住。

著者紹介にあるように、国際金融、経済などをテーマにした作品をメインに発表している作家だが、本書は、著者の中学、高校、大学時代の中長距離ランナーに絞った自伝的作品(ほとんどノンフィクション)。
雑誌『世界』に「アパレル興亡」を連載していて、ちょっとおもしろそうなので、以前の作品を物色。早大で同期の瀬古利彦から、箱根駅伝でその瀬古から三区たすきを引き継いでトップのまま三区につなぐまでの場面を迫力満点に描いたプロローグにつられて読むことにした。
陸上選手としての著者は、それなりに頭角を現したものの、トップクラスではなく、故障も多く、高校の途中から2年ほどは走ることができず、大学後半でもずっと体調不良を引きずり、大学までで陸上から身をひく。
主人公金山雅之(黒木の本名)をはじめ、登場人物もほぼ実名、(批判的な相手は名前は出さず特徴で表わす)、レースや記録、選手たちの出身校なども、事実通りのようだ。当時の早稲田大学競走部監督中村清という、常軌を逸するほど強烈な個性をもった人物への言及が多く、呆れながらも興味深かった。

中村清はこのとき(主人公が2年生で途中入部したとき)63歳。
生まれは韓国の京城。父親は明治39年に下関市から京城に渡った土建業者だった。四男三女の末っ子として育てられたが、母親は、父と一夜を共にした花柳界の芸子である。
子供の頃から走るのが早く、早稲田に進学して競走部に入部。昭和11年ペルリンオリンピックに1500mに出場(予選落ち)、翌年には1500mで3分56秒8の日本記録を打ち立てた。
25歳で軍隊に招集され、中国大陸で憲兵隊長を務めた。軍隊時代には聖書を読み、射撃にのめり込んだ。
南京で終戦を迎え、昭和20年8月16日に、重爆機で南京から鳥取県米子飛行場までの100kmを一気に飛んで帰り、命拾いした。
昭和21年11月から早稲田の駅伝チームを指導。昭和23年頃から、米国の援助団体から送られてくる古着の商売で、中村は大儲けした。商売をしながら早稲田の選手の指導を続け、昭和27年の第28回箱根駅伝で優勝。昭和29年にも早稲田を優勝に導いたが、昭和34年の大会を最後にコーチを辞した。原因は競走部OBで自民党の大物政治家河野一郎と対立し、昭和33,34年とに大会連続で6位に終わったことだった。
その後、中村は東京急行のワンマン社長、五島昇に請われ、同社の監督に就任。チームを実業団ナンバーワンに育て上げ、東京オリンピックには9人の選手を送りこんだが、入賞者を出せなかったため、五島昇の不興を買い、昭和40年初夏に監督を辞任した。
陸上競技の世界に還ってきたのは、昭和51年3月に瀬古利彦と出会ったときである。競走部の監督には、同年11月に正式に就任した。
自尊心が強く、思い込みが激しう、粘着質で、自己顕示欲が強く、敵が多い老人だった。


主人公がギブスを付けて6週間松葉杖を使わざるを得なくなるシーン。

生まれて初めて松葉杖をつきながら、病院を出た。
片手にスポーツバッグを提げ、その手で松葉杖を握り、コツン、コツンと音を立てながら、道を歩いた。
最初の難所は、第一京浜を跨ぐ歩道橋である。松葉杖をついて右足で一段上り、同じ段に松葉杖をつき、さらに一段上る。一段ずつしかあがれないので、もどかしい。
ようやく一番上まで上り、コツン、コツンと音を立てながら、歩道橋を渡る。
端まで来ると、今度は下りの階段だ。松葉杖をついて右足を蹴った。
(うわああーっ!)
心の中で思わず叫んだ。
松葉杖がテコになって、身体が宙に押し出されたのだ。
恐怖で顔面を蒼白にし、空中でもがいた。
次の瞬間、七、八段下まで落下し、コンクリートの階段の上に無様に叩きつけられた。
(痛えーっ!)
しかし、何とか怪我はしないですんだ。骨折や捻挫でもしていたら、まさに泣きっ面に蜂だったが、神様はそこまで残酷ではなかった。
(下りはこうなるのか……)
片足で立ち上がり、服やバッグについた汚れを払って、再び松葉杖をつく。
今度は、最初に松葉杖を一つ下の段につき、そこに右足を下ろす。再び一つ下の段に杖を下ろし、右足を下ろす。階段を一歩一歩下りて、ようやく地上にたどり着いた。


2ヶ月ちょっと前に、Morris.も初めての松葉杖体験をして、確かに階段降りるのはかなり怖かったので、身につまされるところ大。
金沢病院では松葉杖を貸出するときに、初めての人にはリハビリ室で簡単な使い方指導があったし、カバンはリュックだったので両手使えたからまだしもだったが、主人公は指導もなく、片手にスポーツバッグ持ってはじめての松葉杖というのは、あまりにハードルが高かったと思う。しかし、こういった、器具の使い方の的確な描写力は、なかなかのものだと思う。
600p以上ある長編で、8割方、レースやトレーニング場面で、練習の距離の羅列も多く、ちょっと飽きてしまうところもあった。次は、彼の得意分野の作品を読んでみよう。

2018/11/15(木)●自衛隊誤射から
6時半起床。
今朝の血圧は210/75/58。35.0℃
昨日滋賀県饗庭野演習場での自衛隊迫撃砲弾の誤射で道路に着弾、近くに止っていた軽自動車に破片(アスファルト?)が当たりガラス割れるなどの被害があった。乗車していた男性には怪我がなかったものの、一歩間違えばとんでもないことになるところだった。砲弾は直径8cm、長さ40cmもあり、着弾すると破裂してまわりに散らばり殺傷能力を高めるものらしい。災害時の救援活動などで、被災者やテレビなどのニュースで存在を顕示して、イメージアップをはかってきたが、本業は武器を使って「人殺し」の訓練をする集団であることを改めて知らしめるところとなった。災害救援なら軍隊でなく、専門機関をつくるべきだ。沖縄では、自衛隊以上にアブナい米軍基地によって、これに類する、いや、この何百倍もの頻度で、事故や危険、犯罪が日常茶飯事的に発生している。
昼前に部屋を出て歩いて三宮図書館方面へ。
途中臥竜公園のベンチでミニギター演ってたら、自転車に乗った男性が興味深そうに見て、自分はドラムやってて、近所のライブハウス「BACK BEAT」が今年いっぱいで店じまいするので、今度の日曜日にお別れライブやるのでそのチラシを配って回ってるとのこと。話してたらムックさんの知り合いだった。ライブにはムックさんも出るらしいので、気が向けば冷やかしに行こうと思う。
2時半頃三宮図書館到着。雑誌など読んだ後、ちょこっと広場隅の指定席でミニギター演ってから、帰りも歩いて、大安亭で、パクチーなど買って6時半帰宅。
今日の歩数は7495歩。


昼前屋上東方面 

阪急高架にMorris.の陰 
街角の女郎蜘蛛 

ミニ薔薇 

ドラマー戸野くん
ムックさんの知り合いだった(@_@) 

今宵は上弦の月 
喫茶マルナカ猫 
パクチー愛(^_^;) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 별다방[茶房](ピョルタバンg スターバックス)
コーヒーチエーンのStarbucksのStar(星)から、韓国語の(ピョル 星)+다방(タバンg 喫茶店)とする俗称。
同じように、韓国のコーヒーチェーンThe Coffee Beanは콩다방[茶房](コンgタバンg )と呼ぶ。
(コンg)は「豆」。

2018/11/14(水)●半分死んでた(^_^;)
8時半起床。
今朝の血圧は148/63/83。35.8℃
かなりの宿酔である(^_^;)
昨夜は、「つどい」でビール飲みながらミニギターで歌って、すっかり気分高揚したままサランバン会でも、いい気になって榎本ビール飲みまくり、結局飲まれてしまったようだ。榎本さんは目の調子が思わしくなくて(緑内障?)ビールは飲まずソジュ飲んでたから、その分Morris.がビール飲んだのかも知れない(意味不明)
とにかく、頭がぼーっとして午前中はずっとベッドで過ごす。
午後からやっと起き出して、昨日の日記編集。
うり丸さんから、LINEで連絡。90年代半ばから10年くらいは、一番親しくしていた韓国仲間で、キムヘヨン、イパクサを追っかけていっしょに行動することも多かった。そのあと、何となく連絡取らなくなっていた。じつに10年ぶりくらいの連絡だった。まだ東京在住のようだが、機会があれば再会したい。実家は京都だから、帰省のおりにでも連絡もらうことにしよう。
結局今日は、一歩も部屋から出ず、一日パジャマで過ごしてしまった(^_^;)
今日の歩数は0歩。

[今日の韓国語単語from Kpedia] 손가락질하다(ソンカラクチルハダ 後ろ指をさす、非難する、卑下する)    
손가락질을 당하다(ソンカラクチルル タンハダ 後ろ指さされる)
손가락질(ソンカラクチル)」は「後ろ指を指すこと」
漢字語なら지탄[指彈](ジタン 指弾 爪弾き 非難)がある。
손가락으로 가리키다(ソンカラグロカリキダ 指をさす)は、特に非難というニュアンスのない、一般的な指差し行為のときに使われるようだ。
손가락(ソンカラク 指)
엄지(オムジ 親指)、검지(コムジ 人さし指)、중지(チュンgジ 中指)、약지(ヤクチ 薬指、새끼손가락(セッキソンカラク 小指)

【鯨】チョンミョングァン 斎藤真理子訳 ★★★☆☆☆ 2018/05/25 晶文社
「韓国文学のオクリモノ」というシリーズの6冊目で、いちおうこのシリーズは打ち止めらしい。
「고래コレ」 천명관 2004
천명관(チョンミョンgグァン) 1964年、韓国・京畿道龍仁市生れ。保険の営業マンなど様々な仕事を経て映画関係の仕事につき、シナリオを手がける。2003年に短編「フランクと私」デビュー。翌年に発表した本作「鯨」で、第10回トンネ小説賞を受賞すると、大ヒットとなり、一躍人気作家の仲間入りをした。10年に発表した「高齢化家族」は映画化され、日本でも「ブーメランファミリー」のタイトルで公開された。

一代にして財を成し、あまたの男の運命を狂わせた母クムボク。並外れた怪力の持ち主にして、人ならざるものと心を通わし、煉瓦づくりに命を燃やした娘チュニ。
巨大な鯨と煉瓦工場、華やかな劇場をめぐる壮絶な人生ドラマが幕を開ける。ストーリーテラーとして名高著者が、破壊的なまでに激しく生々しい人間の欲望を壮大なスケールで描き出した一大叙事詩。(キャッチコピー)


めったに韓国の小説は読まない(そもそも翻訳小説をよむことが少ない)のだが、
新長田図書館の新刊棚で本書見つけて、この500p近い厚さに、ひるんだのだが、登場人物紹介見ただけで、どうしても読みたいという気になってしまった。一部を引用しておく。

クムボク 裸一貫から一代で財を成した腕利きの事業家。男を惹きつける説明不能な魅力の持ち主である。
チュニ(春姫) クムボクの娘。並外れた怪力の持ち主。煉瓦工としてずば抜けた能力を持ち、のちに「赤煉瓦の女王」と称される。
シンパイ クムボクの二番目の夫。力持ちで有名な荷役夫。
刀傷 クムボクの恋人。港町のやくざで、映画の魅力をクムボクに教える。
汁飯屋の老婆 あまりに醜いため三日で婚家を追われた経歴を持つ。報われない人生と世間を呪い、報復するためにひたすら金を貯め続けた。
一つ目 汁飯屋の老婆とデクノボーの間にできた娘。母親によって片目の視力を失う。蜂を自在に操る。
双子姉妹 出産直後のクムボクを助け、その後も一生にわたって彼女を援助し続けた。
ジャンボ 双子姉妹が飼っている象。チュニと心が通じ合っている。
睡蓮 クムボクに見初められた売春婦。のちに薬売りの妻となる。
刑務所長 厳格で非常にして、異常性欲の持ち主。
建築家 理想の煉瓦を求めるうちにチュニの作った煉瓦を発見。


第一部「波止場」、第二部「ピョンデ」、第三部「工場」の三部作で、一部と二部はクムボク、三部は娘のチュニがヒロインということになる。

その日クムボクに映画を見せてくれた刀傷は、港町のやくざだった。稀代の詐欺師であり、悪名高い密輸業者であり、この町で並ぶ者のないドス使いの名手であり、音に聞こえた遊び人で、港町の娼婦たち全員のダンナであり、またやり手のブローカーでもある彼は、この都市で起きるすべての悪事にもれなく関わりを持っていた。彼はあらゆる権謀術数にたけており、こじれた問題を解決するコツを知っていた。彼のなりわいの大部分は超法規的なものであったが、この手の人間を必要とする者がいつも必ずいるものである。彼は波止場で働く屈強な荷役夫や、長らく船に乗っている手だれの船員を船主に斡旋してやるかと思えば、酒場で働く美女を他の都市から連れてくることもあった。また、密輸業者に手ごろな船を選んでやったり、波止場のちんぴらどもを動員して誰かの仕事を助けてやることもあった。この都市で彼を知らない者は誰もいなかった。人々は一様に彼を恐れたが、ある者にとっては彼こそ腕の立つ、信ずるに足る男なのであった。
一方ヘビのように冷たい心臓を持った彼が、とりえもないただのお上りさんであるクムボクに関心を持った背景には、恋人のために指を6本も切り落とした一人のやくざの悲しい恋物語が隠れていた。


この刀傷は、本書の登場人物の中でも印象的な存在だが、「稀代の詐欺師であり、悪名高い密輸業者であり、この町で並ぶ者のないドス使いの名手であり、音に聞こえた遊び人で、港町の娼婦たち全員のダンナであり、またやり手のブローカーでもある彼」という長い形容は、何度も何度も使い回される。これも一種の言葉遊びなのだろう。

生れて初めて映画を見た客たちは、港町の劇場で初めて映画に接したクムボクと同じように、そのファンタジーの世界にいっぺんで惹きつけられた。彼らは新しい映画が入ってくるたび、我先に券売所に詰めかけて列をなし、何日かに一度ずつ映画を見ないことには、物足りなくてとても耐えられなかった。彼らはいつのまにか、暗闇の中に座って他人の世界を盗み見るといあの陰湿な快楽に、すっかりのめりこんでしまったのだ。
彼らは映画を通して人生を理解し、映画は不条理な実存に秩序を与えてくれた。彼らは人生が美しい冒険や甘いロマンスでいっぱいに満ちていることを知って幸せになり、不可解だと思っていた世の中が厳格な因果応報の秩序によって動いていることを知って安心した。当時彼らが見ていた映画の大部分は米国という国からやってきたものだったが、観客たちは映画に出ている人々と彼らの人生があまりにすてきなので、いつのまにか彼らの真似をしはじめ、ついにはいっそのこと彼らの国に行って仕舞う人も現れた。そしてこのときから人々の頭の中を、唯一の命題が占領するに至った。それはあまりにも強烈で魅惑的で、すべてを飛び越え、すべてを断絶させ、すべてに優先し、すべてを包摂し、すべてに勝るものだった。以後、人々の生き方のすべてを決定したのは、次のような考え方だった。
すべての米国的なものは美しい。

著者が映画畑出身だけに映画に関する部分は、熱が入っている。
最後のフレーズは、韓国語でアメリカを「美国(ミグク)」という漢字語で表わすことからのギャグだろう。

無謀な情熱と情念、愚かな幻惑と無知、信じがたい幸運と誤解、おぞましい殺人と流浪、卑しい欲望と憎悪、奇異な変身と矛盾、息詰まるような曲がりくねった栄光と屈辱は、スクリーンが焼け落ちる瞬間、説明のつかない複雑な皮肉にまみれた彼または彼女の巨大な生とともに、シャボン玉のごとく、一瞬にして消えてしまった。
クンボクが作り上げた劇場が火事で焼け落ちる情景。

将軍は政治的危機を迎えていた。選挙が近づいていたが、彼は再選される確信を持てずにいた。政敵はいっそう激しく彼を追いつめており、民心が彼を見限って久しい。彼は最後の勝負に出た。自分が死ぬまで永遠に執権するという内容を含む新しい法律を公布したのだ。それは独裁の法則である。反対派は激烈に抵抗したが、法律によれば、その法律に反対することさえも違法であった。その代わり彼は民心をなだめるためにさまざまな措置を断行したが、その一つが囚人対象の恩赦だった。それは国家独立以来最大規模の恩赦であり、そこには未決囚も多数含まれていた。そして恩赦対象者名簿には、バークシャー・チュニの名も入っていた。彼女が刑務所に入れられてから満十年が経った夏のことだった。

「将軍」というのは、朴正煕のことである。選挙などの状況も、ほぼ史実に近い。
「それは独裁の法則である」この「法則」という単語は、本書のいたるところで用いられている。大雑把に拾ってみると

世間の法則・無条件反射の法則・噂の法則・恋の法則・生殖の法則・加速度の法則・無知の法則・世間知の法則・街の法則・求愛の法則・習慣の法則・作用と反作用の法則・乞食の法則・興行の法則・ほら話の法則・進化の法則・流言飛語の法則・自然の法則・経営の法則・アルコールの法則・悪しき商業主義に迎合したプロットの法則・監房の法則・信念の法則・資本の法則・チュニの法則・イデオロギーの法則・視聴率と大衆性の法則
等など30以上見つかった、見落としも多数ありそうだ。もちろん、これは著者の言葉遊びだが、かなりうがったもの、機智に富んだものが多かった。本書の魅力の一部はこういった著者の語り口にあるのだと思う。

驚かれたのは、本書の語り手の自由奔放さではないだろうか。過剰で、ロマンティックで、駄洒落を飛ばし、猥談を披露し、長々と脱線し、虚実をこき混ぜ、奇妙な引用をし、ときに読者に語りかけ、絵を見せたりもしながら、多彩な人物の来歴と所業を語り倒す。感想は述べるけれど、不要な自己省察には決して陥らず、軽やかに過去と現在、現実と幻想を行き来する。
本書の重要な特徴は、女性たちの物語だということだ。ここに徹底して描かれたのは女性の欲望と愛である。身もうふたもな言い方をすれば、成金になれなかった女(汁飯屋の老婆)、成金になった女(クムボク)、成金になることなど念頭にもなかった女(チュニ、一つ目)の年代記である。さらに、クムボクとチュニ、汁飯屋の老婆と一つ目という、二組の不幸な母娘関係が全体を貫いている。いちばん年代の古い汁飯屋の老婆は、まるで神話の中の怒りっぽい神のように男たちを殺し、娘の目を焼つぶす。クムボクもまた男を殺すけれども、老婆とは違ってためらいがある。しかし彼女も娘を愛しはしないし、また自らの欲望を貪欲に追求した結果男になるという、グロテスクな変遷をたどる。(訳者あとがきより)

いやあ面白かった。ただ一部、二部に比べると三部はちょっとトーンダウンしている感が否めない。物語の最後ま、でヒロインには、破天荒な行動してもらいたかった。
これで思い出したのが20年ほど前に読んだ「皇帝のために」(李文烈 安宇植訳)。Morris.は「本書こそ「韓国版『百年の孤独』である」と揚言したい」と書いていた。
その伝で言うと、この「鯨」は「韓国版『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』」だと称揚しておこう(^_^;)

2018/11/13(火)●猫撮り徘徊サランバン会
7時半起床。
今朝の血圧は174/68/62。35.0℃
昼前JRで大坂に出る。今夜はサランバン会。
駅地下でJR割引切符買いに出る。阪神プレイガイドの自販機で昼得切符買おうとしたら見当たらない。よく見たら昼得切符は9月末で終了したとのこと(@_@) 駅前第4ビル地下の安売りショップで売れ残りを4枚買う。
環状線で鶴橋に出て、線路沿いの小公園でミニギター。前にここでお気に入りの猫と出会ったので、またいないかと思ったのだが、見当たらない。でも途中で金網の向こうに猫登場(^_^) 早速Morris.@Catographerモード。
その後真田山公園、コリアタウン公園と巡回(^_^;)し、途中数匹の猫に出会う。
4時半に洪ママの部屋にお見舞いに。ママは顔色は良かったのだけど、何かしんどそうで、起き上がろうともしなかった、ちょっと心配。
5時過ぎに歌麿会長来て、いっしょに「つどい」という韓国食堂に。ここは初めてだが、かなり前からやてるらしい。丸本夫婦、榎本さんも来て、海鮮鍋。会長のすすめもあって、ここでミニギター。店のママがえらく喜んだので調子に乗って、ずっと引きっぱなし。
7時前にサランバン会会場「ジュン」へ。常連メンバー欠席が多くて、少なめだったが、結局いつもの通り飲んで踊って歌って大騒ぎ。
数日前にまた大邱に行ってきた榎本さんのビール攻勢に浴びるように飲んでしまった。10時半に店を出る。
いつものように榎本さんと環状線に乗り、彼が京橋で降りた後、Morris.は眠り込んでしまったようだ。気がついたら「三国ヶ丘」駅だった(>_<) これはいかんと逆方向の電車に乗って、0時20分に大坂着、0時28分の神戸方面最終電車にギリギリで間に合った。1時過ぎ帰宅。
今日の歩数は6934歩。


骨董屋解体済み 
JR大阪駅地下の女神像 
これは痛い(>_<) 
桃谷の雉  桃谷の白黒八割れ  桃谷の三毛 
桃谷のクロ  同じく 
彌榮神社 
200年前の狛犬 
「つどい」で食事会 

豪華海鮮鍋 

サランバン会点景 #1 

#2 

#3 

#4 

#5 

#6 

#7 
#8 
#9 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 열쇠를  잠그다(ヨルセルルチャムグダ 鍵をかける)
열쇠를 열리다(ヨルセルルヨルリダ 鍵を開ける)
열쇠(ヨルセ)の「」は「열다(ヨルダ  開く)」の連体形、「セ」は「鉄」。「開くための鉄」
열쇠は英語だとkey。lock(錠前)は자물쇠(チャムルセ)
항상 차고[車庫] [門]을 잠그세요(ハンgサンgチャゴムヌルチャムグセヨ ガレージには必ず鍵をかけてください)

2018/11/12(月)●些事にかまけて
6時半起床。
今朝の血圧は139/57/70。35.7℃
朝、洗濯してピンチハンガーに靴下をセットしてて、最初から残ってた最後のピンチが破損してしまった。これで24個あったもともとのピンチ全てが破損したことになる。経年劣化の典型的なものである。取り付ける本体の引っ掛ける部分はまだ一つも破損していない。
午前中は昨日の日記整理。
昼前自転車で金沢病院に行って左膝の経過を見てもらい、大型絆創膏取り替えてもらう。経過は良好だがもうちょっとかかりそうとのこと。
マルハチでお米など買って12時半帰宅。
2時にネジや工具持って、王子公園駐車場樹の下ベンチへ。このベンチの座る部分が外れかけていたので補修することにしたのだ。前面に3つあるネジのうち2つが無くなっていて、最後の一つも穴が広がってぶかぶかしている。一旦ネジ取り外して、頭の部分の大きなネジで締めなおし。何なく補修完了。これでしばらくは大丈夫だろう。このベンチの一番の利用者がMorris.であることはまず間違いないもんね(^_^;)
そのままこのベンチでミニギター演ってたのだが、小雨が降り出したので撤収。
すぐそばの原田の森ギャラリー前庭テーブルに移動。ここは、ミニギターは禁止(>_<)になってしまったのだが、月曜日は休館日だから大丈夫。ここで、読書と葉書とミニギターで4時半まで。
今月のNHK世論調査内閣支持率、支持する46%、支持しない37%(>_<) 数字に惑わされはしないとはいうものの、この数字はちょっと肯えない。まあNHKは安倍御用達だからなあ。
今日の歩数は4255歩。


最後の一個が(^_^;) 

樹の下ベンチの補修 

頭の大きなネジでばっちり 

象舎の噴水に似た駐車場の照明塔 

山茶花の蕾 

含羞草に似てるけど 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 지껄이지 마(チッコリジマ ほざくな)
これは、韓国ドラマの中で見つけた表現。字幕に「ほざくな」と出てた。最初、iPhoneのGoogle翻訳ソフトの音声認識を試したが何度やっても認識してくれなくて挫折(>_<) 結局「ほざく」で検索したら
지껄이다(チッコリダ ぺちゃくちゃしゃべる、ほざく、喋り散らす、しゃべりまくる)というのが見つかった。
쓸떼 없는 말을 지껄이다.(ッスルッテオンヌンマルルチッコリダ 無駄口をたたく。)
왈가왈부 지껄이지 마.(ワルガワルブチッコリジマ つべこべほざくな。)
왈가왈부(ワルガワルブ あれこれ言い立てる、つべこべいう)
왈가왈부하다(ワルガワルブハダ つべこべ言う、あげつらう)

2018/11/11(日)●34thOne Korea Festival
7時起床。
今朝の血圧は164/77/68。35.8℃
昼前に部屋を出て、JRで鶴橋へ。
今日はコリアタウンの近くの御幸森小学校でワンコリアフェスティバルが開かれるのでこれを見に行くことにしたのだった。
コリアンフェスティバルは1985年に始まり、今年で34回になる。Morris.は90年代のはじめ頃、大阪城の野外音楽堂や太陽の広場を会場にした頃は、結構まめに通ってたのだが、何となく違和感を感じて行かなくなっていた。今回も行くつもり無かったのだが、ネットで見たら、9月の南北会談にも随行した韓国の金徳龍(キムドンニョン)統一会議副議長の講演があるそうだし、最近の南北関係の盛り上がりもあって、熱気を感じたので行く気になった。会場が小学校の講堂というのも別の意味で興味深かった。
午後1時開演というので、余裕を見て12時半に入場。前から5列目くらいの席を確保。
鄭甲寿さんの挨拶に続いて、今朝韓国を発って到着したばかりの金徳龍氏の講演。もちろん韓国語で、通訳付。韓国語聴き取りの練習になった(^_^;) まあ半分くらいしかわからなかったけど。内容は、政府筋だけに文在寅政策を持ち上げて、朝鮮戦争終結、統一への道筋を着実に進めるという、公式見解みたいなものだった。それでもこの催しの意向に沿うものだけに、参加者の反応は上々。初めて訪れた北朝鮮の感想が肯定的すぎるのがちょっと気になった。
ライブのトップは李政美、ヒット曲「京成線」と民衆歌謡。そして「イムジン河」はオリジナルの統一を願う歌詞も。続いて、なんと4人のトロット歌手競演(@_@) これはMorris.にとっては嬉しいビックリだった。蔚山の歌謡団体に属するプロとセミプロ歌手だが、「釜山港へ帰れ」をはじめ、ナムジンの「カスマプゲ」「ミウォドタシハンボン」、イミジャの「島の先生」「女の一生」などハルモニ・ハラボジを喜ばせる企画だろう。Morris.もハラボジとして大いに楽しませてもらう。つぎのバギやんは太鼓の叩き語り(^_^;)で、民謡と「ヨイトマケの唄」今や風格を感じさせる。その後済州島から来たブルース女性歌手カンホダルリム。彼女は新村ブルースで歌ったこともあるらしい。そして民族打楽器の名手ミンヨンチとアジェン(民族弦楽器 琴)の競演。国楽女性歌唱者とピアノも参加。これは聴き応えあった。ミンヨンチはプリというバンドで活躍した頃に、ちょっとハマってたことがあり、懐かしかった。当時と比べてもかなり進化している。関西で活躍しているK-POPの男性グループ二組も登場。これは若者向け企画だろう。
その後、朴保バンド。「コレサニャン(鯨漁り)」の日本語バージョンに始まって、盛り上げるだけ盛り上げる。東京ピビンパクラブの再現みたいで大満足。途中李政美、ヨンチも舞台に参入。
そしてトリは日本人4人のラテンユニット「クアトロロコス」これは一流プロデューサーやスタジオミュージシャンたちの集まりで、とんでもなく水準が高くそして面白かったあ\(^o^)/ おしまいはアフリカンラテンの「ジャンボ」で、聴衆ほぼ全員が講堂の中を練り周り。春待ちファミリーBANDのお約束フィナーレを彷彿させた。そういえば、ベースの高橋ゲタ夫は衣装も雰囲気も春待ち社長そっくりだった、と思ったら、ここで社長から電話(@_@) もちろん全く関係ない電話だったのだが、これまたビックリである。催しが終わったのが7時前。結局6時間半いたことになる。十二分に楽しめた。今年は韓国に行けなかっただけに、こういった韓国系の音楽に接することができてありがたかった。感謝ハムニダm(__)m
せっかくここまで来たのだし、今夜はそれほど寒くもなかったので、いつもの公園で軽くミニギター(^_^;) もちろん譜面台ライト持参。途中犬の散歩の在日アジョシが話しかけてきた。8時半に切り上げて、鶴橋駅に向かう途中、シャッターの降りてる市場で黒白斑の猫発見、でも逃げられてしまった。
10時半帰宅。
今日の歩数は6933歩。


日曜のコリアタウンはラッシュ状態 

御幸森小学校 

講堂がフェスティバル会場 

金徳龍氏南北会談報告 

李政美 

チュセフン 

イムジョンスル 82歳 
キムソン すごい衣装 バギやん(趙博) 

カンホダルリム 

ミンヨンチ(チャンゴ) 

シンヒョンシク(アジェン) 

朴保バンド 
李政美、ヨンチも参入  トリのクアトロロコス 

最後は輪踊り 

終わったのがこの時間(^_^;) 
夜の鶴橋市場 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 단추를 채우다(タンチュルルチェウダ ボタンを外す)
다추를 잠그다(タンチュルルチャムグダ ボタンを掛ける)
단추(タンチュ)はボタンの韓国固有語。
日本では「釦」という漢字まであるくらい、半分日本語化した外来語で、英語ではbuttonだが、日本ではポルトガル語(Botão)経由と言われている。
韓国でも버튼(ポトゥン)は使われるが、こちらは衣服のボタンより、押しボタンやキーボードのキーの意味で使うことが多い。
필요[必要]한 정보[情報]를 입력[入力]하고 변경[変更] 버튼을 눌러 주세요(ピリョハンチョンボルルイムニョッカゴピョンギョンgボトゥヌルノルロジュセヨ 必要な情報を入力して変換ボタンを押してください)

2018/11/10(土)●難波屋Hachiウクレレライブ
6時起床。
今朝の血圧は166/69/73。35.5℃
10時に部屋を出て、JRで新今宮へ。今日は午後2時から西成難波屋でソウルのHachiさんのライブ。ちょっと早めに行って、三角公園でしばらくミニギター。昼から酒飲んでるおっちゃんら数人が喜んでくれた。途中西洋人から話しかけられる。英語で話すのでアメリカ人かと思ったが、別れ際に、スペイン人で名前はイグナシオで芦屋に住んでるとのことがわかった。
ちょうど2時に難波屋へ。この店は二回目だが、おっそろしく安くて感じがいいので、西成に来たらちょくちょく立ち寄りたいと思ってたのだがなんと今年いっぱいで営業ストップして、今の店舗潰して5階建てのビルに生まれ変わるらしい(@_@) リニューアルオープンは来年半ば? Morris.は、いまの昔の居酒屋スタイルが気に入ってるだけにちょっと心配。
ライブは二部構成で、新曲を交えて、Hachiさんらしさいっぱいの楽しいライブだった。途中エフェクター使って、ウクレレなのにまるでエレキギターみたいな超絶演奏まで披露してくれたのにはびっくり。先日、カルメン・マキ&オズ一日だけの再結成ライブやったばかりらしいので、その余韻みたいなものがあったのかもしれない。やっぱりHachiさんはすごいっ。
前のライブにも来てた顔なじみのファンもいて、休憩とライブの後ちょこっと話して記念写真も。Hachiさんは明日から京都で、韓国には15日頃戻るらしい。
4時半に店を出て、駅前の西成あいりん求職センターの柱の下でしばらくミニギター。ここでも数人のおっちゃんが喜んでくれた?
動物園前経由で、天王寺まで歩く。途中以前ミニギター3本買ったトミヤ楽器店の前通ったので、まだミニギターあるか訊ねたら、もう生産中止で、当然入荷の予定はないとのこと(>_<) 今持ってる4本のうち1本は完全にアウト、後の3本もそれぞれ結構ガタが来ている。
7時半帰宅。
今日の歩数は8344歩。


新今宮ガード下猫たち 

自転車籠に3匹 
トラ雉 

朝顔 

三角公園で 
イグナシオ(スペイン人)と 

Hachiさん難波屋ライブ #1 
#2 
#3 
店長猫ビビ  同じく 
トイレ 

カウンター 
記念写真  のれん前で 

安い!! 
大坂救霊会館 
聖書講義 

あいりん職安閉まるまで(^_^;) 

通天閣 

ミニギターは生産中止(>_<) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 수당[手当]을 받다(スダンgウルパッタ 手当をもらう)
수당(スダンg)は漢字語で「手当」。日本語だと訓読みで「てあて」になるので、ちょっと戸惑ってしまう。
このように日本語で訓読みされる韓国語の漢字語はけっこういっぱいある。
小包(こづつみ)소포(ソポ)、割引(わりびき)할인(ハリン)、見積(みつもり)견적(キョンジョク)等々
いっつかまとめてみたい。

 【敗北を抱きしめて : 第二次大戦後の日本人 下】ジョン・W・ダワー
三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳 ★★★★ 2001/03/21  岩波書店

承前

天皇のこの魔法のような変身は、政治的にも思想的にも広く深い影響をあたえた。何が正義かは権力によって恣意的に決められるものとなり、戦争責任の本格的な追求は矛先をそらされてしまった。象徴天皇制とは、天皇の地位があいかわらず日本国における家父長的権威の最高の紋章でありつづけることを意味した。
新しい象徴天皇は、19世紀から20世紀はじめの発明品である「大和民族」なる自己意識を、ひきつづき象徴するものとなった。そしてそれは朝鮮人、中国人、白人--とにかく異民族すべて--は、「日本人」にはなれないことを意味した。
こうしてあいかわらず天皇は、日本人は遺伝的に違うのだという意識を持続させ「血統」にもとづくナショナリズムを象徴する最高の偶像となり、日本人をして他の民族や文化とは永久に切り離された--しかも上位の--存在たらしめる、架空の本質を体現する存在となったのであった。
君主の統治の年数で年を数える年号制も、そのまま残った。そのため1926年、裕仁の即位ではじまった「昭和」は、戦後も中断しなかった。これは暦を利用した過去との連続性の宣言であった。


現在国会で物議をかもしている擬似移民法(>_<)にも、血統ナショナリズムのにおいが芬々と臭ってくる。
2019年の天皇退位に伴い、新しい元号がどうのこうのと取り沙汰されているが、1945年8月15日をもって「昭和」は終わりにすべきだったと思う。元号は廃止すべきだと思う。もし残すとしても公式の文書や一般使用は西暦に統一してもらいたい。

鈴木貫太郎につづいて首相になった東久邇稔彦親王が8月28日の記者会見で、「一億の国民が総懺悔する」ことが国家再建のため不可欠の第一歩だと述べたことは、そうした(天皇を除く)集団的責任論を完璧に表現したものであった。

「一億」を冠する用語にはろくなものはないが、中でもこの「一億総懺悔」は噴飯ものである。国としての破産宣告であり、後は白波の無責任の「象徴」でもある。それに当時の臣民の大多数はころっとだまされてしまった(>_<)

皇室周辺と占領軍上層部との間には、驚くほど公然たる親交が深まっていった。そのきっかけを作ったのは宮中の側であった。占領軍の高官たちに、宮中の宴会が親交をつくる場となったが、占領軍の最上層部が招待された上流階級の行事にいたっては、優雅さも度が過ぎるほどであった。蛍狩り、皇居での花見、竹の子狩り、宮中での伝統的な武道の御前試合、そして時には猪狩りまであった(第9章 くさびをうちこむ 天皇制民主主義1)

公卿文化の本質が「アメリカさま」とのお付き合いにおいても遺憾なく発揮されたわけだ。園遊会なんてのも、臣民たちへのおすそ分けであり、公開キャンペーンでもあるのだろう。

裕仁の退位を公の場でもっともセンセーショナルに要求したのは、著名な詩人、三好達治であった。「陛下は速やかにご退位になるがよろしい」と題されたエッセイは、雑誌『新潮』の1946年6月号に掲載された。三好は、この問題は「この度の戦争敗戦の責任をまず取るだけではない」と強調した。彼は異例なほど強い言葉を使って、天皇が「施すべきを施し玉わざりし点で甚だしく怠慢」であり、「陛下の股肱とたのまれて身を抛って戦った忠良の兵隊たちに対して、陛下の側に背信の責任」があると糾弾したのである。

これは知らずにいた。三好は戦時中にはかなり戦争協力詩を書いて、そのために戦後糾弾されたことを知ってたので、意外だったのだ。

宮中や政府の高官らは、GHQと協働して戦犯リストを作成したが、最終的に「A級」戦犯容疑で逮捕され、公判中は巣鴨拘置所に収容されていた百人ほどの著名人は、どのような些細な戦争責任をも主君には負わせないことを進んで誓約した。天皇を守るための日米の共働作業がどれほど緊密に維持されたかは、1947年12月31日の法廷で東条が証言したさいに明らかになった。このとき東条は、天皇の無実についてあらかじめ合意された路線から一瞬逸脱して、天皇の権威の絶対性に言及したのである。アメリカ主導の「検察当局」はただちに、東条がこの証言の撤回をするよう、秘密裏に指導した。

東京裁判のまやかしの一端。

「巡幸」といわれる天皇の旅行には、行幸すなわち「威厳ある天皇の訪問」の持つオーラはさけられないものだったが、一方この歴訪は、「大衆との意思疎通(マスコミュニケーション)を重んじる天皇制」の始まりをしるすものでもあり、これ以降、天皇はいわゆる著名人へと変身するのである。(第11章 責任を回避する 天皇制民主主義3)

今はもう手元に無いのだが、ずっと昔、家のアルバムに、天皇行幸のスナップ写真が一枚だけあった。撮影場所は武雄温泉楼門前と思しい。昭和天皇は武雄にもやってきたらしい。ちょっとピンぼけの昭和天皇は何か哀れを誘う風情だった。

君主制と民主主義の理想と、そして平和主義の結合--およそ近代国家のうちで、これほど見なれない憲法はあったためしがない。そしてそれまでまったくなじみのなかった文書が、やがて国民憲章としてこれほど完全に吸収され、力強く擁護された例は少ない。この憲法には、征服者の痕跡がまぎれもなく認められたし、日本の保守派エリートたちには衝撃を与えた。それはやはり両性具有的であった。しかし新憲法は平和と民主主義への民衆の熱望を、じつに注目すべきやり方でひきだしたのである。そして実際、そこには相反する2つの面があった。しかしそれは、人々の平和と民主主義への熱望を、じつにきわだったやり方でひきだしたのである。

第12章と第13章では日本国憲法が取りあげられている。その注釈の参考文献で、やたら出てくるのが、先般読んだ「新憲法の誕生」(小関彰一)。

近衛や松本の憲法改正プロジェクトの他にも、少なくとも12の憲法修正案が1945年秋から1946年3月にかけて提示された。その中でもっとも影響力があったのは、憲法研究会である。進歩的知識人であり、社会党と憲法研究会による草案作りの一員でもあった高野岩三郎は、個人としても重要な憲法草案を公表した。


近衛文麿と松本烝治のスタンスは新憲法は日本帝国憲法の手直しで充分というもので、密室で少数で(ほとんど松本が主導)作られた。

起草委員会のなかで軍政用の訓練を受けていた数人は、日本語も多少理解した。しかし日本についての正確な知識を持っており、日本に滞在した経験もあったのは、ピークとワイルズを除いては、22歳のユダヤ系女性、ベアテ・シロタだけであった。彼女はウィーンで生まれ、ピアニストだった父親が日本の東京音楽学校に職を得た関係で、子供の頃に両親とともに来日……高校を卒業した15歳のとき、彼女は流暢な日本語を話し、他に4つの外国語を操るようになっていた。

GHQの憲法チームには女性も含まれ、中でもこのシロタは、新憲法の一部で決定的な役割を果たしている。

起草者のあいだには、自分たちが何を作成しているのかについてある種の曖昧さがあった。彼らのほとんどが、日本のために本物の憲法--単なる見本あるいはガイドラインとしてではなく、理想的なものという意味においての「モデル」憲法--を起草しているのだと疑いもなく信じていたようだ。(第12章 GHQが新しい国民憲章を起草する 憲法的民主主義1)

良い意味でのアマチュアリズムがあったのかな。

アメリカ側は、日本人がGHQ草案を「翻訳」する際に、多くの実質的な変更をもぐりこませていたことを発見した。例えば英語の「advice and consent(助言と同意)」は、日本語訳では「輔弼及協賛(advice and assistance)」となっていた。日本政府の翻訳と称するものは、「人民ノ意志ノ主権」を強調したGHQ草案の前文を省略し、家族制度の廃止を条文化した条項を削除し、衆議院の権威を制限するような参議院の創設を提案し、中央政府による支配を容易にするように地方自治に関する条項を変更してあった。

今思うと「前文」のない新憲法は考えられない。

技術的な理由から、新憲法は明治憲法の「改正案」として、天皇によって国会に提出されることとなった。マッカーサーとと日本の天皇制支持者両方にとって、これは幸運であった。憲法の制定と天皇の救済が一度に行えたからである。この後、天皇は憲法制定の重要な段階のすべてにおいて関与することとなった。6月20日、天皇は、既定の手続きに則って、臨時国会の開会を宣し、修正された憲法草案をその他の法案と共に提出すると述べ、さらに国会がこれらの案件を「調和の取れた精神で」審議するよう希望すると宣したのである。新憲法は主権が国民にあることを明文化していたが、それは実際は天皇自身からの贈り物として国民に与えられたものだということになる。「上からの革命」と「天皇制民主主義」は、この儀礼を通じて融合したのである。

こうした深謀遠慮のおかげで、新憲法がすんなり受け入れられたのだが、後に禍根を残すことにもなった。

その後の国会審議は活発で実質を伴ったものだった。憲法問題の内閣主席スポークスマンとして松本烝治の後任となった国務大臣・金森徳次郎は、約1300もの公式質問に答え、時に返答は詳細にわたった。両院における国会審議の筆記録は最終的に合計3500ページを越えるものとなった。

金森徳次郎は新憲法審議の重鎮であり、与野党の攻撃の防波堤の役割を果たした。瑕瑾も数々あったけど。

反動的な修正の動きとしては、政府や国会は、在留外国人法に基づいて外国人にも平等な保護を提供するという条項の廃止に成功し、GHQの当初の意図を掘り崩した。
GHQ草案の中には人種や国籍による差別を明白に禁止する文言が含まれていた。しかし佐藤たちは言葉のごまかしを通じてこのような保証を削除してしまったのである。「国民」とは、「あらゆる国籍の人々 all nationals」のことだと占領軍には主張し、それによって実は政府は、台湾人やとりわけ朝鮮人を含めた何十万という旧植民地出身の在日外国人に、平等な市民権を与えないようにすることに成功したのである。この修正のもつ露骨な人種差別性は、その後の国会審議での「用語上」の修正をへてさらに強化されていった。これが1950年に通過した、国籍に関する差別的な法案の基礎となったのである。


ここは押さえとかなくては。

新憲法が発効したその日、政府は『新しい憲法、明るい生活』と題したポケットサイズの小冊子を2000万部発行した。この冊子は、憲法そのものと同様、強制の下で書かれた文章であった。が、同時にまた多くの日本人が抱く理想主義も表現していた。「マッカーサー憲法」の修正は、占領軍が撤退する以前から、保守派のグループにとって国家主義の大義名分となっていたが、『新しい憲法、明るい生活』というタイトルの単純で楽観的なレトリックは、その後何十年ににもわたってあらゆる修正の試みをくじくに十分な大衆的魅力を持っていた。(第13章 アメリカの草案を日本化する  憲法的民主主義2)


『新しい憲法 明るい生活』

民間諜報局のなかの民間検閲部(CCD)にひとつの官僚機構が生まれ、野放図に広がっていったのである。CCDの検閲官たちは民間情報教育局(CIE)打ちの「積極的」デモクラシー推進派に強く支えられていた。検閲は、新聞、雑誌、教科書、一般書、ラジオ、映画、古典芸能を含む演劇と、あらゆる形態の報道と演劇表現に及んだ。これに加えてCCDの4年間の「政権」期間中に、なんと3億3000万点という驚くべき数の郵便物が抜き取り検査され、およそ80万の私的な電話が傍受された。
なかでもとりわけオーウェル的だったのは、禁止事項のなかに、検閲が行われていることをけっして公式に認めてはならない、という項目が含まれていたことである。


これ関しては、石川達三の「生きている兵隊」をめぐる戦時中の検閲を論じた「戦争と検閲」(河原理子)に戦後の検閲に触れてあった。検閲のあること自体を隠しておくという、周到なやり方=オーウェル的(^_^;)

日本人がアジアでの戦争を指して使っていた「大東亜戦争」という呼称が禁じられ、代わりに「太平洋戦争」と呼ばなければならなくなった。この変更は、宗教的・超国家主義的教化の排除を目的としたSCAPの広範にわたる命令の一環として1945年12月半ばに導入されたが、これは語義的帝国主義の行為にひとしいものであり、ひいては予期せぬ結果も生んだ。「大東亜戦争」は、そこに侵略的排外性はあるものの、あの戦争の中心を中国と東南アジアにはっきりと据えていた。ところが新しい名称は戦争の重心をあきらかに太平洋に移し、日本とアメリカ合衆国とのあいだの紛争を第一義的にした。この変更には陰謀の要素はまったくなく、征服者の反動的自民族中心主義の反映でしかなかったが、結果として、日本と戦ったアジアを、この占領における多少なりとも意味ある役割から基本的に閉めだし、先の戦争をとくていするための用語から排除してしまったのである。このような不得要領な呼称変更は、日本人に戦争の罪を自覚させるどころか、自分たちがアジアの隣人たちに何をしたかを忘れさせるだけであった。
あの戦争をなんと呼ぶかは、戦争のイメージ形成に決定的な意味をもつ。日米戦争だけを取り上げるなら「太平洋戦争」でもそれほど間違っていないが、中国との戦いが完全に見えなくなってしまう。

沖縄は、その戦略的好位置のために、アメリカによるきわめて厳しい管理のもと、秘密のベールにすっぽりおおわれたまま冷戦下の大規模軍事基地へと変貌されているところだった。占領期をとおして、というより1955年になるまで、沖縄についてのニュースや論評は報道メディアにいっさい登場しなかった。(第14章 新たなタブーを取り締まる 検閲民主主義)

日本の中の北朝鮮みたいな存在になってたわけだ(^_^;)

もと陸軍大将松井石根は、配下の部隊による南京大虐殺の惨事の防止を怠ったという「消極的責任」だけを理由に死刑判決を言い渡された。一般大衆がもっとも驚き、衝撃を受けたのは、もと外務大臣で首相だった広田弘毅が死刑判決を受けたことだった。広田は、全体的共同謀議と、中国における残虐行為を防がなかったことを含めて三つの罪について有罪とされた。
東京裁判がショウケース的裁判であると了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこから見逃されていることはいかにも顕著である。人びとに恐れられた憲兵隊の隊長は誰も起訴されなかった。超国家秘密結社の指導者も、侵略によって私服を肥やし、「戦争の道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も起訴されていなかった。日本が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは「人道に対する罪」として追求されなかったし、何万人の外国の若い女性たちを狩り集めて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」として働かせたことも訴追されなかった。また、検察団を支配していたアメリカ自身が、残虐非道さにおいて疑問の余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、そっくり免責していた。満州の七三一部隊で何千人という捕虜を実験台に使って生物兵器を開発していた将校や科学者たちである。(研究結果をアメリカに教えることを交換条件に訴追を免れた)・中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣には追求しなかった。


あまりに恣意的、その場しのぎ、適当な死刑執行。お約束の出来レース。そのくせ自国の役に立つものなら犯罪行為にも目をつぶる。

側近に対して深い思いやりと寛容をもっていたという一般のイメージとは逆に、裕仁の独白録によれば、彼は側近の大部分に対して厳しく無慈悲であった。裁判の被告の中で裕仁が肯定的に評価したのは、木戸幸一と、連合国が最大の戦犯とみていた東条英機であった。

たしかに「人間天皇」の面目躍如である。

しばらくすると、勝者の欺瞞は日本のネオ・ナショナリズム思想の主たる骨組みとなり、パルの反対意見は「東京裁判史観」を批判する者たちの手垢にまみれたバイブルとなった。そして、アメリカ政府がたくさんの旧戦争犯罪者をとり込み、反共という共通の目的のために利用したことで--三例だけを挙げれば、重光葵と、右翼のゴッドファーザー児玉誉士夫は占領中からすでに、そして岸信介は1957年から60年の首相時代に--東京裁判の裁定にたいする拒否反応は、複雑にねじれた二国間関係の色合いもまじることになった。(第15章 勝者の裁き、敗者の裁き)

インド人パルの東京裁判に対する否定的意見は、しごくまっとうなものと思うのだが、それが保守派の「手垢にまみれたバイブル」になったといわれれば、それもまたそのとおりというしかない。児玉、岸を赦免して反共の具としたのはアメリカの勝手だろうが、戦後日本の宿痾を野に放つことととなってしまった。

地方に住むある男性は激昂して新聞に投書した--「今度の戦争は私たち農民の一向知らない間に始まり、勝っていると信じている間に負けてしまった。私たちのあずかり知らないことに私たちは懺悔する必要はありますまい。国民を欺いていた背信の人々にこそ懺悔は必要です」。一億人のなかのもうひとりはさらに単刀直入だった。「戦争当局が、責任を国民に分配するつもるでの一億総懺悔なら、それは卑怯だと思う」(第17章 負けたとき、死者になんと言えばいいのか?)

一億総懺悔に対する草の根的批判。いつも権力は卑怯である。

アメリカも、冷戦を考慮しなければならないために、「非軍事化と民主化」という当初の理想の多くを「船外投棄」しはじめた。そしてその過程で、日本社会の保守的な勢力と、ひいては右翼勢力とさえ、公然と歩調をあわせるようになっていった。そこには、日本があの戦争と切っても切れないかかわりをもつ者たちも含まれていた。戦犯容疑で逮捕されていた有力者たちの起訴がとり下げられた。経済は巨大資本家や中央官僚の手中に戻った。戦時中に政治家やその他の指導的立場にあった者たちは公職につくことを禁止されていたのだが、しだいに「追放解除」され、それと裏腹に、急進的な左翼が「レッドパージ」の大勝になった。真に民主的な改革の理想はどんどん遠ざかり、夢のまた夢となっていった。占領が終わる前、この劇的な方針転換を日本のメディアは「逆コース」と呼んだ。

「レッドパージ」をアメリカでは「マッカーシズム」ということから、Morris.はずっとマッカーサーが主導したことからの命名だと誤解していた(^_^;)
「逆コース」という言葉は耳に残っている。

傲慢なアメリカの存在に嫌気がさして、大衆文化にソフトな反革命ともいうべきものが生まれてきた。流行歌では、ずばりアメリカ的なブギウギ調が下火になり、昔ながらのセンチメンタルな感傷がもどった。1949年以降は、放浪、寂しさ、あきらめ、郷愁がつのって憧れは抑えきれず……、といったムードが詞にも曲にも支配的になった。こうしたほろ苦くも甘美な感情に強く訴えかけるカリスマ的存在が美空ひばりだった。ブギウギを歌って一躍スターになった1937年生まれのこの早熟な少女歌手は、占領が終わる前にはすでに、センチメンタルな「土着」の情緒を代表する歌い手になっていた。

センチメンタルな土着のカリスマ。当たらずとも遠からずだが、美空ひばりはそれを越えたなにかがあると思う。

この戦争に突入したときも、そこから這い出たときも、日本人はほぼおなじくらいぼんやりしていた。1941年に真珠湾攻撃にでたとき、軍部や文官の指導者たちは、アメリカ合衆国の工業生産力についても、目前に迫る大々的な衝突がどのような道筋をたどるのかについても、真剣に長期的予測をたてなかった。当時、東条首相は「清水の舞台から飛び下りるしかないこともある」と言った。戦争が終わったときも、エリートたちは、先の計画を立てることに関してはいい加減以外のなにものでもないことを自ら暴露した。戦争経済から平時経済への転換について、あるいは、平時経済とはどんなものかについて、真剣に考えた者はごくわずかだった。官僚も実業家も政治家もそろって、いまだに「清水の舞台」妄想のなかにいるようだった。--映画フィルムの逆回しのように、なんとか後ろ向きにジャンプして、また清水の舞台に跳びあがれるだろう……


痛烈な日本批判(>_<)

帝国会計士ドッジの目には、安定、経済復興、自給自足、といった新しい合言葉はすべて、インフレーションと国内消費の抑制と活発な輸出部門の促進にひとえにかかっていた。そのため、1949年4月、事実上独断で為替レートを1ドル360円に設定した。その一ヶ月後には、商工省と貿易庁などが合併して、未曾有の力を誇る通商産業省が誕生した。独占禁止法は改定され、企業間の株式相互持合い、合併、取締役兼任なのど規制が緩和された。
1950年にドッジ・ラインはインフレーション抑制に成功したが、その代償は、政治的立場の違いを問わず、すべての日本人の口に苦いものだった
ドッジの政策が最終的に事実上の不況に終わったかどうか、それはわからない。その年の6月25日の挑戦戦争勃発を安定恐慌は終わり、代って、アメリカの「特需」に刺激された軍需景気が始まったからである。


1949年と言えばMorris.の生まれた年。この年に1ドル360円に固定されたのか。そして翌年の朝鮮戦争……

軍需景気はさらに、W・エドワーズ・デミングが提唱した「品質管理」方式の日本での普及にも有利に働いた。デミングの品質管理の発想は、日本の崇拝者たちによって新しい生産サイクルと新しい企業的冒険の開始段階に組みこまれ、その後何十年も影響力をもちつづけることになった。(第17章 成長を設計する)

デミングの「品質管理」。これは聞いたことがある。戦後日本の高度成長にこの「品質管理」が果たした役割は大きかったのだろう。

日米安保条約と、これにふずいして作成された「行政協定」は、戦後合衆国が締結した二国間の取り決めのなかで最も不平等なものとなった。アメリカ人は他に例のない治外法権をひきつづき手にし、アメリカが日本に要求した軍事施設は、誰のよそうをもはるかに超えて法外な数にのぼった。『ニューヨーク・タイムズ』紙の高名な軍事評論家であったハンソン・ボールドウィンは、これは「日本が自由で、しかも自由でない時代」の始まりであると、ずばり指摘した。

今の「日米地位協定」の大元である。治外法権、超不平等条約。

公式には1952年4月28日午後10時30分、主権は回復された。……このあと間もなく実施された世論調査では、日本は独立国家になったかとの問いに「はい」と答えた者は41%しかいなかった。

笑うに笑えない。

戦後「日本モデル」の特徴とされたものの大部分が、じつは日本とアメリカの交配型モデル a hybrid Jpaneese-American model」というべきものであったことがわかる。このモデルは戦争中に原型が作られ、敗戦と占領によって強化され、その後数十年間維持された。そこに貫いていた特徴は、日本は脆弱であるという絶え間ない恐怖感であり、最大の経済成長を遂げるためには国家の上層部による計画と保護が不可欠だという考えが広く存在したことであった。この官僚性的資本主義は、勝者と敗者がいかに日本の敗北を抱擁したかを理解してはじめて、不可解なものではなくなる。

本書のキモである。

結局のところ、天皇の声を臣下たちがはじめて聞いた瞬間にはじまった「長い戦後」は、1989年に真の終わりを迎えたといえる。つまり、戦後は44年間つづいたのである。

戦後の終わりが昭和の終わり。これは説得力を持つ。そして平成の終わりが「戦前の終わり」になるのではないかという恐怖(^_^;)

戦中のシステムと戦後のシステムが締め金(バックル)でつながっている--。そう表現する場合、連合国最高司令官こそがその締め金であった。じつは軍部の支配下にあったのは1945年までではなく、1952年に占領が終わるまであったのである。

戦中戦後を通じて軍事支配下にあったという事実。

憲法九条は絶え間ない攻撃にさらされ、「自衛」力を維持するという名目の下で次々と拡大解釈が重ねられてきた。にもかかわらず、前文の力強い戦争反対の言葉とともに依然として九条は不戦の理想を魅力的に表現したものとして今日まで生き延びてきた。その「戦争廃絶」という発想は、第二次世界大戦を経験した世界中の多くの人々の心の琴線に触れた。ただ、それを憲法や法律に明記したのは、ついに日本以外では見られなかった。そこで日本では、再軍備をめぐって意見の衝突が起こるたびに、法律や憲法による保証とはどうあるべきかという基本問題や、戦争と平和という基本線へと必ず議論が戻っていった。かくして、誰が計画したわけでもなく、占領初期の「非軍国主義化および民主主義化」という理想は、半世紀以上にわたり民衆の政治意識の中に生き続けたのである。
「九条に自衛隊を明記する」という安倍総理の「個人的」改憲は、そもそもからして矛盾している。

日本の平和活動家のなかには、日本人の残虐行為を立証し公開すること努力した人たちがいるが、そうした人々でさえ、東京裁判のやり方や天皇の戦争責任を免除したアメリカの決断を支持することはできないでいる。そしてアメリカが、のちに首相になった岸信介のような右翼の戦争犯罪人を、冷戦の寒気の到来とともに釈放したかと思うと公然と抱きしめ、かばいだてしたことも支持できないでいる。

そう、断固支持できない!!!!!!!

日本はどうすれば、他国に残虐な破壊をもたらす能力を独力でもつこともなく、世界の国々や世界の人々からまじめに言い分を聞いてもらえる国になれるのか? この問いこそ、「憲法九条」が残し、「分離講和」が残し、「日米安保条約」が残したものである。それは軍事占領が終結し、日本が名目的な独立を獲得したときの従属的独立 subordinate independence の遺産である。
憲法九条を放棄すれば、日本は過去の敗北を取り消そうとしているとい激しい抗議を招くことは疑いの余地がない。日本の保守派以外に、南京虐殺を忘れている者などだれ一人としていないからである。(エピローグ)


「忘れている者」よりは「知らない者」の数の方が多くなっているのではないだろうか(;;)
本書によって、様々なことを知ることになったし、改めて確認できたことも多かった。しかし、本書が書かれてからすでに20年過ぎている。現在の状況は、ここからどう変わっているか、そして未来はどうなるのか、どうすべきなのか、目をつむり、耳を塞ぎ、口を閉ざしていてはなるまい。←言うだけならばなんにもならない。

2018/11/09(金)迷走ニッポン●
6時起床。
今朝の血圧は149/59/77。35.6℃
朝のうちは結構本降り。
今週の「ア・ピース・オブ警句」は移民問題。「シャイロックにだってそりゃ無理だ」というタイトルにちょっと鼻白む。安倍政府が経済界からの圧力で、ゴリ押ししている移民法案(正式には「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律案」←この名称からしていかにも胡散臭い)は、矛盾だらけ、人権無視、ご都合主義の迷案で、野党はもちろん自民党の一部からも反対意見が出てるようだが、それでもこの臨時国会で法案通すつもりらしい。小田嶋に言わせると、この法案は

 「労働力は輸入するけど、移民は受け入れないよ」
 「働き手として入国させつつも、人間的な生活はさせない」
 「働く外国人は歓迎するが、その外国人が家族を呼び寄せて日本で子孫を残すことは許さない」
 「労働する外国人が、日本の社会の中で労働以外の生活を営むことには賛成しない」
 「外国人労働者が勤労者として富を生み出すことは応援するが、彼らが生活者として生活することには必ずしも共感しない」
 「労働環境は保証するけど、人権は保証しない」
 「給与は与える一方で、生活は与えない」
 「生存は保証するが、永住するに足る資産形成は許さない」
 「利用はするがリスペクトはしない」
だと(^_^;)
 「外国人労働者の受け入れ枠は拡大するが、いわゆる移民政策は取らない」
 とする安倍首相の答弁が、「人間」でなく「労働力」だけを輸入する意図を物語ってしまっている事実は動かせない。


これって、杉田水脈の「生産性」発言に通じるものがあるな。
昼前に雨上がったので、歩いて王子公園駐車場樹の下ベンチへ。このベンチ前に背もたれの一部が外れかけたので補修したが、今度は、座席の一部が外れかけてる。また工具とネジ持っていって補修しなくては。
4時まで、ミニギター&読書。4時前に小雨降り出したので、帰宅。
市の福祉部から「災害時要援護者登録」の申込書が届いていた。先日誕生日だったから、それに合わせて発送したのかな。こういうのが来る年になったんだな。とりあえず、いまのところは遠慮しておく(^_^;)
今日の歩数は2368歩。


朝は大雨 

 石蕗に虻

? 

青鷺 
櫻正宗の狸徳利? 
災害時援護登録(^_^;) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 목이 메다(モギメダ涙に咽ぶ、咽ぶ、喉がつまる、感極まる、感情がこみ上げる )
목이(モギ 喉が) 메다(メダ 詰まる 塞がる)
この表現は흘러간 노래(フルロガンノレ 懐メロ)の歌詞に頻繁に出てくる。
목이 메이다(モギメイダ)もほとんど同じ意味。메이다메다の使役形で「つまらせる」。確かに日本語でも「喉がつまる」と「喉をつまらせる」とは似た意味になる。
日本語では首と喉は区別しているが、韓国語ではどちらも(モク)で兼用している。
목이 막히다(モギマッキダ 胸が詰まる、喉が詰まる 막히다 塞がる)    
목이  잘리다(モギチャルリダ 首になる、解雇される 잘리다 切られる)    
목이 갈리다(モギ カルリダ 声がかれる、喉がしゃがれる 갈리다 研がれる)    
목이  잠기다(モギ チャムギダ 喉がかれる、声がかすれる 잠기다 潰れる)    
목이 터지다(モギトジダ のどが張り裂ける 터지다 沸き立つ 突発する)

  【敗北を抱きしめて : 第二次大戦後の日本人 上】ジョン・W・ダワー 三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳 ★★★★
2001/03/21  岩波書店
EMBRACING DEFEAT Japan in the Wake of World WarⅡ 1999 John W. Dower

John W. Dower 1938年生れ。アマースト大学でアメリカ文学専攻。1958年来日し金沢市滞在中、日本文学に関心を持ち、1961年ハーヴァード大学で森鴎外研究で修士号取得。1962年から金沢女子短期大学の英語講師、1963年から東京の出版社ウェザーヒル社の編集助手。1965年帰国後日米関係を専攻、吉田茂の研究で博士号取得。1968年には親中派の在米左翼団体を組織。
1979年「吉田茂とその時代」Empire and Aftermath で、保守主義者・帝国主義者としての吉田茂解釈を提起。
1999年「敗北を抱きしめて」では、終戦直後の日本にスポットを当て、政治家や高級官僚から文化人、一般庶民に至るまでを対象に日本に「民主主義」が定着する過程を日米両者の視点に立って描き出した。この作品でピュリッツァー賞受賞。日本でも岩波書店から出版され、ベストセラーになった。(Wikipediaから抄出)

ちょっと前に「この本再読しなくては」と書いたのだが、Morris.はこの本読んでなかった(>_<)  いろんな本でこの本の紹介や、引用があったので、すっかり読んだと錯覚したらしい。上記引用にあるように、日本でもベストセラーになるくらい広く読まれたらしい。ベストセラーは読まない、というMorris.の読書スタンスが原因だろう(^_^;)

というわけで、この大冊(上下で本文800p、注90p)を、刊行20年後に読み通した結果は、ほとんど打ちのめされたとしか言いようがない。後悔先に立たずではあるが、リアルタイムで読んでおくべきだった。といっても、読んだつもりになってたのだからどうしようもない。それでも今更ながら読んで良かったと思う。
もちろんまるまる本書に書いてあることを信じるわけではないし、かなり我田引水だったり、エモーショナルすぎるところも見受けられる。それでもこれだけ広範囲にわたって、資料にあたり(注を見るだけでも感動的 原著には更に多くの注があるらしい)、あけすけに自説を展開するあたり、著者は研究者というより、ノンフィクション作家、ジャーナリストの素質があるのではないかと思わせるものがある。
20年の未来(^_^;)から振り返って見ると明らかに外れた予測もあるし、日本認識への異議もある。それはもう、だからこそ、批判的読書に徹するべきだろう。
全体は前後に「序」と「エピローグ」を付した6部17章に分かたれている。3人の訳者が分担しているためか、読んでいてしばしば統一感に欠けるきらいがあった。20pある序だけでも、ゆうに一冊分くらいの内容があると思った(^_^;)

大東亜共栄圏とは、一頭の奇怪なキメラにほかならなかった。太平洋戦争が始まってから半年の幸福感は、夢の中でみる夢にすぎず、まもなく日本人自身がこの熱狂を「勝ち病」と表現するようになり、しだいに夢から醒めていった。
日本人は自分たちが作り出した戦争のためのレトリック--これは聖戦だ、不名誉よりも死を、戦死者たちの血の犠牲に報いよ、天皇を中心とする国体は不滅だ、「支那暴徒」をはねかえし、「鬼畜米英」をふみとどまらせる決戦は近いぞ--こうした表現に酔い、みずからその虜になった。日本の敗戦が疑いないものになって以後も、天皇を含む日本の指導者たちは思考途絶状態になり、よろよろと前へと歩くのがやっとといった状態であった。


*キメラ( chimaera) 1.ギリシア神話で、ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾を持ち、火を吐く怪獣。キマイラ。 2.生物の一個体内に同種あるいは異種の別個体の組織が隣り合って存在する現象(以下略) 「大辞林」
この辞書の意味が合っているのなら、ちょっとこの比喩はズレてる気もする。後半の日本政府(軍部)の敗戦前の状況を「思考途絶」というのはあたっている。

自分の意志によってではなく、勝者の命令によって、日本は再び世界から身を引いた。ペリー来航以前の数百年間のように一人ぽっちではなく、アメリカ人の征服者たちの、ほとんど肉体の感触を楽しむかのようなきつい抱擁に緊縛されて。そして間もなく、アメリカは日本を手離すことができないこと、あるいは手離す気がないことが明らかになっていった。真珠湾にはじまり、広島・長崎への原爆投下につづく天皇の投降まで、日本と連合国との間の戦争は3年と8ヶ月つづいた。それに対して、敗戦国に対する軍事占領は1945年8月にはじまり、6年8ヶ月跡の1952年4月に終わっている。占領は戦争のほぼ二倍の期間にわたったのである。この占領の期間中、日本は国家主権を失っていた。
戦後の占領時期を「鎖国」と捉える視点。タイトルにもある「抱擁」のアンビバレンツ(両面性。両面価値。同一の対象に対して、愛と憎しみのような相反する感情や態度が同時に存在すること。愛蔵交々)。Morris.が生まれたのもOccupied Japan(占領下日本)だった。

占領当初、アメリカ人たちは、「非軍事化および民主化」という、樹木の根と枝の関係に似た改革プログラムを日本に押しつけた。それは独善的で、まったく空想的な、あらゆる意味で傲慢な理想主義の、めったにない実例というべきものであった。それからアメリカ人たちは、日本を去る前に方向を逆転させた。日本社会のなかでも自由主義的傾向が少ない連中と協力して、この旧敵国を再軍備し、冷戦の従属的パートナーとしはじめたのである。こうして結局、戦後日本には保守的な政府が出現したが、にもかかわらず、平和と民主主義という理想は、日本に根をおろした。借り物のイデオロギーでも押し付けの未来図でもなく、生活に根ざした体験として、そしてまたとない好機を生かした成果として。平和と民主主義の理想は、みごとな、そしてしばしば不協和音を奏でる様々な声となって現れ出たのである。

そういう意味で戦後の日本の状況こそ「キメラ」的だったのではないか。

この開放感は、占領初期の数年間というもの、共産党でさえ占領軍を「解放軍」と呼んで怪しまないほどのものであった。敗戦下の日本人がもっていた力強さが過小評価されてきたのと同じく、占領した側の「アメリカらしさ」なるものの性格もまた、一般に過度に単純化されて理解されてきた。勝者が導入した改革は、時期の点でも場所の点でも、ほかに例のないものであった。それらの改革は、リベラルなニューディール的態度、労働運動を基礎とした社会改良主義、そして権利章典的な理想主義にそうとう強く影響されたもので、これらは合衆国ではすでに否定(もしくは無視)されつつあった思想であった。こうした改革は、アメリカが占領したアジアの地域--たとえば朝鮮半島南部や日本の中でも沖縄本島や琉球列島--ではまったく導入されたことがない。それらの地域では、冷厳な軍事戦略的思考が支配的であったからである。

この指摘は重要だと思う。逆コースも朝鮮戦争が引き金になったとはいえ、そもそもアメリカの内部で画策されていたものでもあるようだ。


1930年代初期から1952年までずっと、日本は基本的に軍事支配の下にあったともいえる。マッカーサー元帥とその司令部がいかに高尚な心でいたにしても、彼らは新植民地主義支配の領主として、対向者もなく批判もされない状態で、新しい領地を支配したのである。

日本が30年以上軍事支配されていた(前半は日本軍部、後半はGHQ)という事実も、言われてみれば当たり前のことだが、正確に理解できずにいた。

実際的理由から、マッカーサー元帥による「政府の上の政府」は、命令の実行を日本の官僚組織に依存した。そのため、二重の官僚組織ができあがった。アメリカ人たちが去ったあとには日本の官僚組織が存続したわけであるが、それは戦争中よりも強力にさえなっていた。

官僚主義支配は軍事支配より長期間日本を影で支配してきた。

すくなくとも天皇の道徳責任は明白であった。ところが、この道徳的責任について、アメリカ人が見て見ぬふりしただけではなく、否定さえしたために、「戦争責任」という問題の全体が、ほとんど冗談になってしまった。その人の名において、20年にわたり帝国日本の外交・軍事政策が行われてきた、まさにその人物が、あの戦争の開始や遂行に責任を問われないとしたら、普通の人々について戦争責任をうんぬんしたり、普通の人間が自分自身の戦争責任を真剣に考えるべきだなどと、誰が思うであろうか。
冗談というか、ちゃぶ台返しというか、驚天動地でもある(>_<)

日本の国民性と国民的体験の特殊性をもっとも偏愛しているのは、日本の文化本質主義者や新ナショナリストたちである。
これは今でも変わらない。

多くの日本人たちは自分自身の悲惨さに心を奪われたために、自分たちが他者に与えた苦痛を無視しがちであったが、このことは、あらゆる団体や民族が自分自身たちのために作り上げるアイデンティティが、いかに被害者意識によって染め上げられるものであるかを理解するのに役立つ。

被害者でもあり加害者であるのに、自分の痛みしか感じることができない。

「平和と民主主義」は、戦後日本の偉大なるマントラ(祈りの言葉)であった。これこそは、日本人一人一人が自分なりに、人によってしばしばまったく違う意味を込めて使ってきたお守りのような言葉であり、今日でも日本人が議論しつづけている問題である。そして、この「平和と民主主義」という考え方も、その意味内容についての対立も、この問題をめぐる闘争の歴史的記憶の重みも、すべて日本だけに特有のものではないのである。(序)
20p足らずの「序」文だけで、ほとんど一冊読んだくらいの示唆に富んだ内容だった。

先例をやぶり、電波をつかって臣民に直接話しかけるという方法を考えたのは、裕仁自身であった。放送の原稿は、前日の深夜にようやく最終稿ができあがり、非常な緊張の下で清書され、運ばれた。降伏に反対する将校たちにしられないよう、隠れて録音し保存するために、大変な苦心が払われた。こうして天皇の詔書は混乱のうちに生まれたが、出来あがってみると、それはよく磨かれた宝石のような見事な出来栄えであった。
天皇はこの詔書によって、不可能を可能にしようとした。屈辱的な敗北の宣言を、日本の戦争行為の再肯定と、天皇の超越的な道徳性の再認識へと転換しようとしたのである。
玉音放送はたんに負け戦を正式に終わらせる声明であっただけではなく、敗戦国家の社会的・政治的安定を図ると同時に、天皇の支配を維持するための緊急キャンペーンの開始宣言でもあった。

「玉音放送」を「宝石のような」出来栄えと評するのは、一種のギャグめいた反語と思いたいのだが、確かに様々な下心(レトリック)満載の作文であることは間違いない。国体護持緊急キャンペーン声明文といわれれば、たしかにそう読める。

このあと数年間、事実上すべてのことが、日本は完膚なきまでに敗北したのだという認識の下に進行した。そうした認識があったために、絶望が、そして冷笑的態度とご都合主義が、根を下ろし広がっていったし、同時に、完全な敗北という認識があったから、目前で古い世界が破壊され、新しい世界を想像するほかなくなった人間にだけありうるような、すばらしい回復力と創造性と理想主義が発揮されることにもなった。こうした状況では、天皇の聖戦を遂行する過程で自分たちはいったいどれくらい他人の人生を破壊したのかをじっくり考えてみようという気力や想像力や意欲をもてた日本人がほとんどいなかったのも、まずは驚くにあたらなかった。
「完全」な敗北だから、その揺り戻しも「完全」を要求され、その時点で敗北の原因でもある加害は想像の外に置き去りにされた。被害者意識は増大したのに。

アメリカの空襲のやり方に特異な傾向があったことも見て取れた。たとえば首都のなかでも貧民層の住居や小規模な商店街や町工場は徹底的に破壊されていたのに、高級住宅街の金持ちたちの家は多くが焼けずに残っており、占領軍の将校たちを収容するのにおあつらえむきになっていた。……全国の鐡道はまずまず効率的に運行できる状態にあった。……都市施設の大部分、たとえば発電や水道の施設は、まだ稼働していた。故意にそうしのかどうかはともかく、すくなくとも東京については、アメリカの空襲は、日本に存在する富の上下関係をそのまま肯定したかのようであった。
いかにもアメリカのやりそうなことである。

降伏から一年以上たっても、満州で捕虜になった約6万8千人の日本人が中国軍、それも多くが中共軍側に組みこまれていると報道された。国民政府はといえば、ほぼ1946年いっぱい、利用価値のある技術をもった日本人5万人以上の引揚げを遅らせた。

日本帝国陸軍の組織ごとの滞留。これに関しては、戦後台湾国民政府への旧軍人の義勇団関連の本にも取りあげられていた.

戦争の絶望的な最末期、天皇を含む日本の最高指導者たちは、連合国に日本本土侵攻をあきらめさせるため、沖縄を犠牲にした無意味で破滅的で野蛮な戦闘を実行した。1945年4月から6月までつづいた沖縄戦では、1万人以上のアメリカ人が死んだ。11万人以上の日本帝国軍が事実上壊滅し、沖縄住民の約三分の一、おそらく15万人におよぶ男と女と子供が殺された。(第1章 破壊された人生)

1945年4月から6月までの「無意味で破滅的で野蛮な」沖縄戦のことを抜きにして、今の沖縄問題を語るのは犯罪行為というしかない。その責任を取るどころか、更に沖縄に犠牲を強いる日本政府とは。

当時の簡潔な表現によれば、総司令部の使命とは、まさに日本の「非軍事化および民主化」を実行することにほかならなかったのである。
戦争の勝者がこのような大胆な企てに乗り出すことは、法的にも歴史的にも前例がなかった。その合法性や妥当性にはほとんど思いを巡らすことなく、アメリカ人たちは、この敗戦国の政治、社会、文化、経済の網の目を編みなおし、しかもその過程で一般大衆のものの考え方そのものを変革するという、他国を占領した軍隊がかつてしたことのないような企てに取りかかったのである。(第2章 天降る贈り物)


「瓢箪から駒」の千載一遇のチャンスだったわけだ。

8月20日、マニラの米軍は日本の降伏使節に「一般命令第一号」を手渡し、日本軍の全資産は手を付けず保管せよと命じた。東久邇宮新内閣は、この命令を無視した。マッカーサー元帥が到着する予定日の二日前、日本政府は前述の秘密の処分命令を取り消したが、すでに処分された資産の所在を確認し回収しようとする努力はまったく行われなかった。当然のことながら、これらの物資の所在の記録は、もはや簡単には入手できなくなっていた。……日本史上最大の危機の只中にあって、一般民衆のために献身しよういう誠実で先見性ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。
その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよそ70%が、この戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。もともとこれは、本土約500万人と海外300万人余りの兵士のためのものであった。だが、話はこれで終わったわけではなかった。降伏から数カ月後、占領軍当局は、それまで手付かずできちんと管理されていた軍の資材の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの指示をつけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。これら物資の大半は、建設資材と機械類である、内務省は財閥系企業の5人の代表からなる委員会にその処分を委任した。その総価値はおよそ1000億円と見積もられたが、これらの資材もすぐにほとんどあとかたもなく消えうせた。

どさくさ紛れに火事場泥棒的物資のぶん取り合戦が、国の中枢で半ば堂々と行われたことになる。このことはある程度把握していたが、占領後に残ってた資産を日本政府に譲渡してこれも雲散霧消したというのは初めて知った。「盗人に追い銭」ぢゃ(>_<)

占領軍がやってきてはじめて、巨大な占領軍のための住宅費と維持費の大半を支払わなければならないことがわkったのである。事実、この占領軍向け支出は、占領開始国家予算の実に三分の一を占めた。予算項目の中ではこの費用は占領軍当局の命令で、「終戦処理費」あるいは単に「その他の費用」といった婉曲な言葉で偽装がほどこされた。(第3章 虚脱)

確かに、疲弊した日本にとって占領軍の生活費負担というのは、とんでもなく大きなものだったというのは想像に難くない。それも占領軍はアメリカ市民生活水準を当然のように要求したわけだろうし(^_^;) これは森正人の「「親米日本」の誕生」にも触れてあった。
現在のアメリカ軍基地への「思いやり予算(ケッ!!」)」なんてのも、これが半永久的に続いているということなのではないか。

昨日まで危険で男性的な敵であった日本は、一度のまばたきのうちに、白人の征服者が思い通りにできる素直で女性的な肉体の持ち主へと変身した。そして同時に、売春によるものもそうでないものも、占領軍兵士と日本女性の親密な関係は、ときに人種を越えた思いやりや、お互いへの敬意やさらには愛情の出発点にさえなった。そういう意味で、国家どうしの関係が男女の関係に変換されて表現されていたのである。かかわり方はどうあれ、そこにいたすべての者にとって、占領軍と日本女性の関係は驚くほど感覚的で、かつ文化的なできごとであった。

繰り返すが、本書のタイトルのよって来るところである。

坂口(安吾)が人の心に訴えることができたのは、ひとつには先の戦争が心理的には魅力があったことを率直に認めたからであった。巨大な破壊がもつ、うっとりさせるような壮大さ、運命に従順な人々がもつ「奇妙な美しさ」について彼は書いた。そして同時に、坂口は同じ情熱をもって、それを否定した。散る桜のように死ぬつもりであった神風特攻隊員が今や闇市で働き、夫を戦地に送り出し位牌の前にひざまづいた妻が、早くもほかの男を物色していると、『堕落論』は指摘した。「敗戦の表情はただの堕落にすぎない」。ここにこそ真実のはじまり、真の人間性への回帰のはじまりがある。(第4章 敗北の文化)
「堕落論」は高校生の頃読んだと思うのだが虚無主義の発露みたいな受け取り方をしていた。安吾、太宰、織田作之助、檀一雄などは「無頼派」と一括りにされてたが、それぞれの個性の違いは大きかった。Morris.は檀一雄が一番好きかな。
それはともかく、戦後に戦争への魅力を感じていたと言挙げするのは瞠目に値する。

敗戦前には、日本が苦しんでいるのは欧米帝国主義の策謀と狡猾な共産主義のせいだと、日本人は教え込まれていた。だから、発想を少し転換するだけで、陰謀の張本人は実は日本の軍閥だったのだと、日本人は思いあたったのである。

著者はこういう筆法に長けているし、つい納得させられてしまう。

『世界』の誕生は注目すべきものであった。同誌の発刊の辞は、リベラル派や左翼のほぼ代表的見解といってよい。
『世界』が発刊された時点では、アメリカの占領目的はすっかり公表されていた。占領の目的は民主主義、個人の尊重、言論・信教の自由そして世界平和にある。『世界』の編集者たちは、アメリカの意図をそう要約し、これらの理想は勝者の命令であるがゆえにではなく、「もっぱら人間の本質と普遍的な正義」であるからこそ追求されるべきなのだと強調した。
このように、心の痛みをかかえ、ひたむきで、厳しく自己反省し、理想に激しく燃える--こうした感情は降伏後の何百もの雑誌にみてとれるものであった。


当時何百もの雑誌に、共有されていたにしろ、それから70余年を閲して、ともかくも現在までかんこうを続け、創刊以来の方針を貫いている(「日本唯一のクォリティマガジン」というのが、岩波のキャッチフレーズ)点に関しては、評価したい。

『きけわだつみのこえ』は、ドアを前後両方に開けられる蝶番のように、過去にむかって開けると、その勢いで逆に未来へと振りもどっていくような書物であった。収録された手紙は約75編であったが、自由主義者や左翼の学者らからなる編集委員会が非常に注意深く選んだものであった。……彼らの文章の根底には、死ではなく生への渇望が流れていた。読者がこの本から受ける圧倒的な感銘は、戦争で人命が無駄にされ、かつ人材の悲劇的な損失があったということであった。
この本が戦後日本人に永続化させた犠牲者意識は、じつは戦争中に軍国主義が人々にかきたてていた意識に、危険なほど似ていたのである。学生たちは純粋な若者たちだった、彼らの死は気高いものだった、彼らに罪はないし、まして、軍国主義に抵抗しなかったからといって批判などすべきではない、もっぱら注目すべき、本当に悲劇的なものは、彼ら自身の死であって、彼らが殺したかもしれない人間たちの死ではない--。こうした閉鎖的な戦争観をもっている以上、日本人以外の犠牲者はまったく目に入らなかったのである。(第5章 言葉の架け橋)

学徒出陣を言挙げする時、エリート主義が見え隠れするのは否めない。一般の徴兵と、学徒との間の「差別」である。
そして、一般兵も学徒兵も、戦闘時には殺し殺されという意味では全く同等である。

権威主義的に上から強く指導して現状をすっかり変えてしまうというやり方は、日本では目新しいものではない。アメリカの改革者たちによる日本占領が成功した理由のひとつは、この点にある。マッカーサー元帥は典型的なアメリカ人だったが、日本の政治劇にいつも登場する役柄をたちまち割り振られることになた。たとえば、新しい君主、青い目の将軍、温情的な軍事独裁者、大げさに語るけれども不器用なくらいに律儀な歌舞伎の主人公、といったイメージである。

1947年に施行された新憲法の下で日本人は理屈の上では市民となり、もはや天皇の「臣民」などではなくなった。しかし実際には、日本国民はいぜんとして占領軍当局の臣民であった。

日本人に対する犯罪行為によって告訴されたアメリカ人は、日本の裁判所ではなく、アメリカ政府によって裁かれた。しかもアメリカ人の犯した犯罪は、報道機関では報じられなかった。実際、外国人の総督たちにたいする批判は、それがいかなるものであれ禁止されていた。マスメディアはSCAPの政策を問題として取りあげたり、勝者である連合国に対して批判的な見解を述べることもいっさいゆるされなかった。また、マスメディアがこうした規制のもとで活動していることを取り上げるのも認められなかったのである。
まさに日米安地位協定に直結するものだ。

敗戦国ドイツで採用された直接統治の軍事支配と違って、日本の占領は、すでに存在している日本の政府組織をつうじて「間接的に」行われた。そのため、降伏以前の日本の政治体制のなかでも、もっとも非民主的であった制度を支持することにならざるをえなかった。官僚性と天皇制である。
基本政策がこのように変更されたのは、あきらかに実際的な理由からであった。つまり占領軍は日本を直接統治するだけの言語能力と専門能力に欠けていたのである。


そうか、言語の問題があったのか。日本に比べると米国は戦争中でも、日本語や日本への研究は進められていたとしても、直接的に日本語で統治するだけの人材を供給するわけにもいかないし、占領軍が統治するということになると、軍属や軍人にそれを望むのは不可能だったろう。

今考えてみれば、太平洋戦争の最後の半年間は、天皇の政府にとって残虐な愚行の歳月であっただけでなく、無益な戦争の引き延ばしによって、ワシントンで急進的な占領政策が登場するのを許した歳月であったと見ることもできる。1945年の初頭、日本では側近が天皇に対して降伏を強くうながしていたが、もしその時日本が降伏していたら、空襲も原爆も、百万も上回る死者の増大も、避けることができただろう。占領軍による上からの革命も回避されていたかもしれない。1945年初めの時点では、この敗戦国に民主主義革命を導入しようという計画は存在しなかったからである。

このことに関しては、Morris.も何度繰り返しても足りないと思う。Morris.は天皇の戦争責任はある(当然)という立場だが、その責任のうちこの半年の判断(ミス)は天皇の戦争責任の大きなパーセンテージを占めると思う。

彼の偏見や信念や陳腐な大言壮語をどう腑分けしようとしてみようとも、日本やアジアに関する専門的知識らしきものが見当たるはずもなかった。しかし、それだからこそ、マッカーサーは「非軍事化と民主化」という占領初期の課題にほとんど救世主のような情熱をもって没入できたのである。
パラドックスである。無知・無垢・無私の救世主マッカーサー(^_^;) これも一つの戦略だったにちがいない。

戦時中、軍政の任務につくことを予想して、数千のアメリカ人が日本語と日本文化の講習を受けたが、そうした人員はしばしば日本以外の地に派遣された。マッカーサーとその部下たちは、こうした人々を望まなかったのである。(第6章 新植民地主義敵革命)
先の「間接統治」と関連する。これも戦略。

教条主義的な左翼は、民主主義革命をじつげんするためには、日本国民全体が優れたひとびとによって導かれねばならないという心理を広める役割をはたした。左翼あるいは共産主義者が考える前衛という発想自体が、まさに、大衆は後ろ向きで、上からの指導が必要であるという前提に立っていた。この点において、左翼のエリート意識は、天皇の庇護と威光の下で権力を保持しようとした保守主義者や占領軍と大きな違いはなかったのである。マッカーサーの指揮下にあるGHQと、改革の課題に不本意ながら従っていた保守派の有力者たちと、日本の「進歩的文化人」や日本共産党は、それぞれ形は異なっていたものの、ともに天皇制民主主義の実践者だった。(第7章 革命を抱きしめる)

エリート主義は戦前・戦中・戦後を通じて強力な影響力を持ち続けていた。

1949年には「レッドパージ(赤狩り)」が占領下の新しい流行語となった。当初、これは占領軍の内部では「トラブル・メーカー狩り」と呼ばれていたもので、占領当局、保守派の政治家、官僚、そして企業経営者らの密接な協力関係をつうじて進められていった。その主な目的は、企業や産業における急進的な労働組合を解散させることにあり、そのため1949年暮れから、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発までの間に、公共部門においておよそ1万1000人の労組の活動家が解雇された。朝鮮戦争が始まると、パージはマスメディアを含む民間にまでおよび、1950年末までに1万人から1万1000人以上の左翼的な人々がさらに解雇された。レッドパージと並行して「デパージ」、つまり軍国主義や超国家主義を積極的に支持したために占領期間中「ずっと」パージの対象となっていた人々の公的な活動への復帰が許されるようになった。

ここから読み取れるのは、朝鮮戦争は、半島の住民の大部分(特に韓国側)にとっては寝耳に水の事態だったが、米国にとっては想定内の出来事だったよううに思える。

「逆コース」によって、日本国内では、20世紀末の今日まで続く、政治家と官僚と企業人の保守的なヘゲモニーが確立されたとはいえ、共産党と社会党はつねに選挙をつうじて党員を国会に送りこんでおり、また公共政策に関する議論の場においても、注目を集めた。彼らは日本がアメリカの冷戦政策に黙従していることについても明確な批判を展開した。また皮肉にも、そのご数十年にわたって、アメリカの占領の当初の理念であった非軍事化と民主化のもっとも信頼できる擁護者ともなったのである。(第8章 革命を実現する)

それから20年経って社会党は消滅し、アメリカはなりふり構わず、逆コース的な政策を強くしている。
*下巻もすでに読了しているのだが、あまりに長くなりそうなので、今日は上巻だけでとめておくことにする(^_^;)

2018/11/08(木)●半徹(^_^;)
2時起床(^_^;)
今朝の血圧は190/87/75。35.6℃
何故か2時に目を覚まし、ベッドで本読んでたら、いつの間にか夜が明けてしまってた(^_^;)
NHラジオ深夜便3時からの日本のうたは島倉千代子特集。「からたち日記(1958)」「りんどう峠(1955)」「東京だとおっ母さん(1957)」「恋しているんだもん(1961)」「襟裳岬(1961)」「ほんきかしら(1966)」「愛のさざなみ(1968)」「鳳仙花(1981)」「人生いろいろ(1987)」30年以上にわたってビッグヒット連発しているすごい歌手だったんだな。病気や詐欺や借金、離婚と大変な生涯だとは仄聞してたが、異常に詳しいWikipedia見るだけで一人の人間がこれだけ大変な目にあっていいものかと愕然としてしまう。美空ひばりとの深いつながりも感動的である。
10時に部屋を出て、自転車でなぎさ公園へ。ここで2時までくつろいで、三宮図書館へ。臥竜公園経由で5時帰宅。
今日になって、CATVはほとんどのチャンネルが見られなくなった(^_^;) 結局期間限定のサービスだったのだろう。
ソウルのHachiさんから電話。帰国中で、明後日10日午後2時から西成の「難波屋」でウクレレライブとのこと。これは見に行かなくては。
今日の歩数は4242歩。


オシップ・ザッキン「住み処」1967 

なぎさ公園 
喫茶マルナカ猫 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 제동[制動을 걸다(チェドンgウルコルダ 歯止めをかける ブレーキをかける)
엔저경향[円低傾向]에 제동[制動]을 걸다(エンジョキョンgヒャンgエチェドングルコルダ 円安の傾向に歯止めをかける)
제동[制動](チェドン ブレーキ、制動)    
ブレーキは英語Brakeの日本訛りであるが、韓国では브레이크(プレイク)となる。
[急]브레이크(クップレイク急ブレーキ、急停車)    
사이드 브레이크(サイドゥ ブレイク サイドブレーキ)    

2018/11/07(水)●米中間選挙
7時半起床。
今朝の血圧は168/81/80。35.5℃
午前中は参院予算会議と、アメリカ中間選挙速報、交互に見てた。
国会の方は、相変わらず誠意のない答弁、片山さつきは、斡旋疑惑の他に、記載漏れ、屋外広告などぞろぞろ余罪が発覚。それでも安倍は辞めさせるとは言わない。それと移民関連法案での山下法相の答弁には嫌悪感を覚える。
中間選挙は、上院は予想通り共和党が過半数獲得。下院は、共和党の追い込みでヒヤヒヤしたが、なんとか民主党が過半数獲得したようだ。なんで他所の国の選挙にやきもきしなくてはならないのかとも思うのだが、トランプをこれ以上調子づかせたら、どこまで暴走するかわからない。
昼から自転車で、金沢病院へ。昨日預けておいた書類貰いに行ったのだが、先日の自転車でコケたときの膝の擦り傷がいつまでも痛むので、ついでに診てもらうことに。ずっとヨードチンキ塗ってたのが良くなかったみたい(^_^;)
ダイエーで缶チューハイ(ビターレモン無かった(>_<)) 都賀川ベンチでミニギター。4時に切り上げて5時前帰宅。
テレビで、ワールドカップの練習試合みたいな日本-台湾戦やってた。見るともなく流してたのだが、阪神岩貞が5点を献上(^_^;) 日本の打線はほとんど音無しで、0-6の惨敗(と思う、放送は9回表で中断 *9回に日本5点いれて結果は5-6の惜敗だったらしい)。
今日の歩数は3235歩。


何とか下院は民主党が(^_^;) 

眼の前に青鷺が 

都賀川夕景 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 덜렁대다(トルロンgデダ そそっかしい)
덜렁거리다(トルロンgゴリダ そそっかしい)    
덜렁덜렁하다(トルロンgトルロンgハダ 落ち着きのない、おっちょこちょい)
덜렁대는 성격[性格](トルロンg」デヌン ソンgキョク そそっかしい性格)    
내가 생각해도 덜렁대는데 어처구니없다(ネガセンgガクヘドトルロンデヌンデオチグニオプタ  わらながらそそっかしいのにあきれる

【SOSの猿】伊坂幸太郎 ★★★☆☆
2009/11/25 中央公論新社 初出「読売新聞夕刊」1995-96
伊坂の作品はたいてい読んでるけど、これは読んでなかったと思い読み出したのだが、途中でやっぱり読んでたことに気がついた(>_<) 自サイト検索窓でチェックしたら、2012年に読んでた。でも、内容ほとんど覚えてなかったので、そのまま最後まで読み通した。

この男の中には、「繊細な男」と「図太い男」の二人がいて、失敗をするのはいつだって繊細な男のほうだけ、図太い男は図太いまま、そういう具合なのだ。何千回、反省をしたところで、再発防止にはまったく繋がらない、ミスが治らない人間の典型とも言える。まさにうっかりミスをするために生まれてきたかのような男ではないか。
もちろん法的な責任はない。田中徹のうっかりミスや、そこから生じた損害に、課長のしかめ面が関係しているとはさすがに言うことができない。が、そこに因果関係を思わずにはいられないのも事実だった。もし、あの課長がもう少し穏やかで、部下がコミュニケーションを取りやすい雰囲気を作っていれば、田中徹は、システムの警告メッセージをむししなかったかもしれない。もちろん、それでも無視をした可能性は高いが、課長がまったくの無関係で、責任が皆無だとも言い切れない。言い切りたくない思いが五十嵐真の中にはあった


この部分は、Morris.のうっかりミスでも、すべてMorris.のせいではなく、いろんな要素が絡み合った結果だ、と思うとちょっとは気休めになる。回復に手間取っている、先般のトラックからの転落事故にしても、引用にあるような因果関係があったのかも……

「わたしはね、昔から、いろんなことにくよくよしちゃう性格だったのよ。誰かを傷つけたりしないか、誰かが泣いたりしていないか」と母がいう。救急車のサイレンについて、「どこかで誰かが痛い痛いと泣いてるのよ」と説明してくれた頃の彼女を思い出した。
「今もね、それはかわらないんだけど、その、『くよくよ』を表に出してもしょうがないって思うようになったのよ」
「表に出しても? どういう意味?」
母は説明が億劫になったのか、それとも、照れ臭かったのかわからないが、それ以上の説明を拒むように、「まあ、くよくよ悩んだところで、死んだらおしまいだ、、って気づいたのよ。お父さんが亡くなって、どうせなら、見かけだけでも楽しく生きたほうが得だって気づいたしね」と早口で言った。


くよくよしないで、「見かけだけでも」楽しく生きたほうが得。これは見習わなくては、と思ってしまった。

巻末の参考文献の一部。

「バチカン・エクソシスト」トレイシー・ウイルキンソン 文藝春秋
「尼僧ヨアンナ」イヴァシュキェビッチ 岩波文庫
「失敗の心理学--ミスをしない人間はいない」芳賀繁 日経ビジネス人文庫
「分析心理学」ユング みすず書房
「ユング自伝」ユング みすず書房
「社会的ひきこもり」斎藤環 PHP新書
「ユング心理学入門」河合隼雄 培風館
「転生--古代エジプトからよみがえった女考古学者」コット 新潮社
「西遊記--トリックワールド」中野美代子 岩波新書


2018/11/06(火)●アリバイ作り
7時半起床。
今朝の血圧は206/84/93。36.2℃
CATV765chで韓国ドラマ「青の食堂」というのを見てしまう。濡れ衣を着せられて服役した女性の復讐劇らしいが、その濡れ衣かける側が恋人の家族総掛かり、あまりのあくどさに、ついつい見続けてしまったのだが、ネットで調べたら100話以上あるらしい。今日見たのが20話だから終わるのは来年3月くらいになるらしい。もう、これでパスすることにした。他のチャンネル回してたら、昨日まで見ることのできた中で見られなくなったのが幾つかあった。たとえば761 KNTV、762 DATVなどがそうである。それでもまだ対部分は見られる。756 KBS Worldはまだ見られるうちに、KBSニュースだけでもリアルタイムで見ておこう。
昼から自転車で、金沢病院へ、労災の書類に医師のサインがいるとのことだったのでそれを貰いに行ったのだが、担当の先生は今日は来てないので、預かっておくとのこと。そのまま都賀川ベンチで、ミニギター。今日は結構暖かい。最近はクリアファイルの楽譜中心にやってたのだが、今日はちょっと古い歌本(センターのプリンターで冊子にまとめたもの)を持ってきたのだが、懐かしかった。
4時に切り上げて、水道筋経由で5時帰宅。安売り八百屋に安いパクチーあったので買う。
玉城デニー沖縄知事と菅官房長官が会談して普天間飛行場移設をめぐり謝花副知事と杉田副長官による協議一ヶ月で合意。辺野古に関しては真っ向対立だが、政府側もイメージ作戦というか、一種のアリバイ作りなのだろうが、ともかくも対話を通じて、いい目がでることを期待しよう。
今日の歩数は2119歩。


阪急王子公園系方面 

都賀川ベンチ下 

季節外れの田平子(たびらこ) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 외상으로 사다(ウェサンgウロサダ つけで買う)
외상(ウェサンg)が「つけ」という意味だと知った時、反射初に「外商」という漢字語だと思った。デパートの外商部なんてのも連想したのだが、これには掛売りという意味は無かったようだ。
ともかく複数の辞書見ても漢字表記は無かった。
漢字語だと、외상[外相](ウェサンg 外相、外務大臣)、 외상[外傷](ウェサンg 怪我、外傷)など。
외상이면 소도 잡아 먹는다 (ウェサンgイミョンソドチャバモヌンンダ 後の事を考えず行動すること* 直訳すると「ツケなら牛も潰して食べる」)
외상 통장[通帳](ウェサンgトンgジャンg 預金通帳)

2018/11/05(月)●Morris.部屋20年(^_^)/
7時起床。
今朝の血圧は158/56/70。36.0℃
国会中継。トップ質問者は蓮舫。杉田水脈の「生産性」発言から始まり、2020東京オリンピック予算で新入閣の桜田五輪大臣との質疑応答。の、はずが、この大臣がトンデモの無能ぶりを遺憾なく発揮して、えらいことになってた。答弁はほとんど後ろの官僚のメモを棒読み、しかも別の箇所読んだり、予算金額1500億円を「1500円」と言ったり(>_<)、おそまつを絵に描いような一幕……在庫一掃組閣のアラを追求するというパフォーマンスとしては成功だろうが、何か虚しい。
昼から王子動物園に。まぬうに挨拶したあと、ハンター邸前庭のベンチに寝っ転がってしばらく読書。
後は駐車場樹の下ベンチでくつろぐ。
5時帰宅。一旦部屋で休憩してから、自転車で水道筋マルハチで買い物。
今日もCATV他チャンネル見られる状態続いてる。つい、いろいろ見てしまう。韓国ドラマはほとんど見てなかった。一時の韓流ブームに比べると、地上波での韓国ドラマは、激減しているようだが、CATVの世界ではほとんどラッシュ状態である(@_@)
今日はMorris.の誕生日で、このMorris.部屋(Morris.in Wordland)開設20周年ということになる。1949年生まれだから今日で69歳。数えだと70で「古稀」にあたる。「人世五十年」を信奉してたので、予定より19年長生きしたことになる。
毎年誕生日の高齢(^_^;)、いや恒例行事。この年齢で死んだ人々。もちろん出典は山田風太郎『人間臨終図巻』。

六十九歳で死んだ人々

・大多数の人間は、死なないですますわけにはゆかないので死ぬだけである--ラ・ロシュフーコ--

千利休(1522-1591)
セルヴァンテス(1547-1616)
伊達政宗(1567-1636)
千姫(1597-1666)
田沼意次(1719-1788)
平山行蔵(1759-1828)
間宮林蔵(1775-1844)
二宮尊徳(1787-1856)
梁川星巌(1789-1858)
内村鑑三(1861-1930)
小山勝清(1896-1965)
中山義秀(1900-1969)
円谷英二(1901-1970)
スカルノ(1901-1970)
オナシス(106-1975)


取りあげられた15人のうち平山行蔵、小山勝清は名前すら知らず、梁川星巌、中山義秀はかろうじて聞き覚えがあるくらい。とりたてて思い入れのある人物はいなかった。
福津市の深町さんから夢二の絵葉書が届く。誕生祝と思うことにしよう。彼女も同窓だから、ほぼ同い年のはず。
今日の歩数は1835歩。


今日のまぬう ペッキー 

同じく イーリス 
桜紅葉 

ポブキャットのしっぽ 
ピントロング  ハリウッドのスタジオか? 

キリン 
紅一点 
港のきりん 
男の子が探してたカマキリ 
ハンター邸前庭の空 

ハンター邸裏側
樹の下ベンチから 
落とし物 

深町さんからBirthday Card 

[今日の韓国語単語from Kpedia]  고희[古稀](コヒ 古希)
칠순[七旬](チルスン)ともいう。
前にも紹介したことがあると思うが、
<特別な年齢を表す単語>の一覧を。
20歳:약관[弱冠](ヤックヮン 弱冠)
40歳:불혹[不惑](プルホク 不惑)
30歳:이립[而立](イイル 而立)
50歳:지천명[知天命](チチョンミョンg 知天命)
60歳:이순[耳順](イスン 耳順)육순[六旬](ユクスン 六旬)
61歳:환갑[還甲](ファンガプ 還暦 還甲), 회갑[回甲](フェガプ 回甲), 화갑[華甲](ファガプ華甲)
62歳:진갑[進甲](チンガプ 進甲)
70歳:고희[古稀](コヒ 古希)칠순[七旬](チルスン七旬),
77歳:희수[喜壽](ヒス 喜壽)
80歳:팔순[八旬](パルスン 八旬)
88歳:미수[米寿](ミス 米壽)
90歳:구순[九旬](クスン 九旬)
99歳:백수[白壽](ペクス 白壽) 

2018/11/04(日)●CATV見放題?(^_^)●
7時起床。
今朝の血圧は181/105/74。35.8℃
午前中は読書。
昼から歩いて三宮方面へ。
途中臥竜公園でミニギター弾いてたら、小学高学年の男の子が「いい曲ですね」と言ってくれた(^_^) その時演ってたのがナムインスの「무너진 사랑탑(ムノジンサランタプ 崩れた愛の塔)」だった(^_^;)。リズムに合わせて踊ったりする子は時々いるが、正面切って褒めてくれる小学生というのは珍しい。それにしても、あの曲の良さがわかる小学生なんて、めったにいないと思う。
その後、三宮図書館経由で、サンプラザの石橋楽器とビブレの島岡楽器冷やかす。譜面台がかなりへたってきたので、同じものがあれば、と思ったのだが、見つからない。
元町の南京町まで足を伸ばして、林商店で唐辛子など買い、また三宮図書館まで引き返して広場隅の照明付指定席でしばらく流して、帰りも歩いて大安亭経由で7時前帰宅。
日曜日は地上波テレビはニュース番組もないので、BS民放のチャンネルを回してたがこちらもイマイチで、次々にチャンネル押していったら、何かいろんな放送局を見ることができた。Morris.はJ-COMを利用しているが、CATVは一番安いコースでチャンネル映画や歴史などの番組を5つくらい選んでたはずでそれもほとんど見ることもなかった。ところが今日見ることができるチャンネルは60以上あって、中にはそこそこ面白そうなものもあるし、韓国ドラマなど韓国系のチャンネルも複数ある。
しかし契約以外のものが見られるというのはどうしたことだろう。今だけ期間限定で無料公開しているのかもしれない。

300 TBSニュース
302 CNN-j
305 日テレニュース24
306 BBC ワールドニュース
307 NHK World
350 スペースシャワー
351 エムオン!
352 MTB 
353 クラシカ ジャパン
354 歌謡ポップスch
355 ミュジックエア
356 スペシャ プラス
400 スカイA
402 GARA SPORTS
405 J SPORTS 1
406 J SPORTS 2
407 J SPORTS 3
409 FOXスポーツエンタ
450 ムービープラス  
451 シネフィルWOWOW 452 ザ・シネマ
453 FOX ムービー
500 映画NECO
501 日本映画専門
502 時代映画専門
505 V☆パラダイス
550 スーパードラマch
551 FOX
553 銀河◆歴ドラ。サウペンス
554 TBSch
555 ホームドラマch
556 TBSch2
557 女性ch Lala
558 ファミリー劇場
559 AXN
560 AXNミステリー
600 アニマックス

601 キッズステーション 
650 ヒストリー
651 ナショナルジオグファフィック
652 ディスカバリー
653 アニマルプラネット
752 フジテレビNEXT
753 フジテレビ1
754 フジテレビ2
755 テレ朝ch1
756 KBS World
757 日テレプラス
758 テレ朝ch2
759 Mnet
760 タカラヅカ
761 KNTV
762 DATV
764 旅チャンネル
765 ASIAドラマチック
766 エンタメーテレ 
 
せっかくなので、756chのKBSワールドとか765chのASIAドラマなどをずっと深夜まで見続けてた。これはこれで弊害ありそう(^_^;)
今日の歩数は8326歩。

実りの秋 
オキザリス  
紅葉の秋 

これも名前わからない(>_<) 
スキヤ猫ちーちゃん 
生田川から六甲山方面 
旭通り灰色猫  パンパグラス 
大丸のドームアーケード 

[今日の韓国語単語from Kpedia]  폰팔이(ポンパリ 携帯電話販売者)
(ポン=휴대[携帯](ヒュデポン携帯電話))+팔이(パリ=팔다(パルダ 売る)の名詞形)
携帯電話の販売業者、を見下していう言葉。
売業者はスマートフォンを販売するごとに高いマージンを受け取っており、歩合制のため客引きにも熱心だ。客に販売するとき始めに高い料金を提示して、割引する手法をとる。その点が詐欺まがいだと批判される。
스마트폰(スマトゥポン スマートフォン)ももちろん通じる。

2018/11/03(土)●住吉川あたり
7時起床。
今朝の血圧は169/85/78。35.5℃
午前中は読書メモ取り。
昼から、JRで住吉に出て、東灘図書館へ。ここをちょっと冷やかしてから、住吉川沿いのベンチ。といっても、住吉川は川底の舗道がメインで、道路わきにはほとんどベンチがなくて、一つだけ見つけた、図書館前の小さな石のベンチ。ちょうど真向かいに、住吉川病院が見える。
5時前に撤収して6時帰宅。
日本シリーズ第5戦。福岡で3連勝して王手をかけたソフトバンクがマツダスタジアムで、2-0で広島を降し4連勝で優勝を決めた。広島応援してただけにちょっとがっかり。このシリーズは広島の守り敗けという感が強い。そういう意味でMVPを捕手の甲斐が異例の受賞したのは、納得できる。
今日は文化の日だが、もともとは天長節(明治天皇誕生日)で、わざわざこの日に新憲法を公布して記念日を残す口実とした。つまり、今日はもう一つの憲法記念日でもあるわけだ。そういう意味で、もういちど憲法のことを考えてみたいということで、「新憲法の誕生」という本を読んでその控えを今日の日記に挙げておくことにした↓
引用部分だけでも目を通してもらいたい。もちろん本書に当たって欲しいのだが、神戸市立図書館には所蔵1冊のみ。あとで文庫化された、中公文庫も絶版のようだが、ネットだと中古が安価で出ているようだ。
今日の歩数は2451歩。


1995/03/17の記憶 

東灘図書館

住吉川 

[今日の韓国語単語from Kpedia]  헌법재판소[憲法裁判所](ホンボプチェパンソ 憲法裁判所)
韓国では1987年改正の現行憲法によって、通常の最上級裁判所である대법원[大法院](デポブウォン 大法院=最高裁判所)とは別に憲法裁判所が設置された。憲法裁判所の판사[判事](パンサ 裁判官、判事)は、大法官となる資格を有する者の中から、大統領・国会・大法院が3名ずつを指名する。憲法裁判所の権限は、憲法解釈のほか大統領の弾劾、政党の解散、機関争訟(行政機関相互間、たとえば国と自治体との間で発生した対立の処理)といった重要な職責を与えられている。
ソウル地下鉄安国駅のすぐ北にあり、建物の中には入れなかったが中庭には入ったことがある。見事な白松が印象に残っている。
日本でこれに当たるのは内閣法制局で、内閣の下におかれ、安倍政権においては、ほとんどその役目を果たしていない(>_<) 現行憲法では特別裁判所の設置が禁じられているので、最高裁判所の中に違憲審査を専門に行う部署を設置して欲しい。

【新憲法の誕生】古関彰一 ★★★★ 1989/05/25  中央公論社 中公叢書

ジョン・ダワーの「敗北抱きしめて」を読んでいて、憲法関連の章の注釈に、本書が嫌というほど引用されてたので、これは先に読んでおかねば、という気になった。神戸市立図書館検索で探したら、中央図書館の書庫に一冊だけあった。
実に実証的な労作である。アメリカ(GHQ、マッカーサー)の「押しつけ憲法」であるという俗説にはおさまらない、複雑で豊かな成立過程、若い理想主義者の熱情、平和への祈り、様々な立場からのせめぎ合い……面白くてためになる一冊だった。

憲法制定過程が現実の政治に組み込まれるきっかけは、松本烝治(草案起草当時の国務大臣で憲法問題調査委員会委員長)が1954年7月に自由党憲法調査会(会長・岸信介、1954年3月設立)でかなり感情的に「押しつけ」られた事実を証言したことに始まる。この調査会がMSA協定によって義務づけられた自衛隊(1954年設置)を合憲化するための憲法改正を目的としたものであったことは言うまでもない。この松本証言がきっかけとなって憲法制定過程への関心はにわかに高まり、その後の政府の憲法調査会(1956年設立)にひきつがれた、とみることができよう。
つまり、憲法制定過程への関心や研究は、憲法改正問題に動機付けられて出発したのであった。そのため関心の焦点がつねに「押しつけはあったのか、なかったのか」という点に置かれてきた。押しつけが「あった」「なかった」「致し方なかった」と結論は様々であるが、いずれにしても憲法制定過程は国家対国家の対立の図式、米国=GHQ対日本政府の対立の図式として描かれることになってしまった。著者も憲法は「手続的には」GHQによる日本政府への押しつけであったと考えざるを得ないのであるが、こうした図式によって憲法の制定過程が描かれ、また関心が持たれてきたことが、日本国憲法の制定過程はもとより、日本国憲法そのものの意義をも理解しにくくしてきたことは否定出来ないだろう。

だが日本国憲法誕生の過程は、実は国家をこえて多様かつ複雑でしかも豊かであった。
憲法理念においてGHQ系と日本の民間団体の案とにはかなり共通性がみられる。
GHQの側も「押しつけ」の手続にいたっては、本国政府(国務省)、極東委員会からきびしい批判に晒され続けた。この間マッカーサーは完全に孤立していた。民政局の女性により女性の権利を詳細に織り込んだ素案は最終的には男性に削られる。ところが、GHQ案を基にしてつくった政府案が議会に上程されると今度は日本人の女性職員が、さきのGHQの女性のつくった素案とほぼ同様な修正提案をしている。そして結局GHQ同様、議会でも男性により無視される。
つまり、憲法制定過程とは決して国会対国家の対決という図式によって解明されるものではなく、国家をこえた憲法観、法思想の対決という図式によって、はじめて解明されうるものであろう。そこには議論を尽くさず妥協の産物として織り込まれた条文、日本の法制官僚がGHQに気づかれず明治憲法の痕跡を残すことに成功した条文、GHQ案にない条文を日本側の官僚、あるいは議員が全く新たに織り込んだ条文、いまからみると重要であっても当時は大勢に受け入れられず素案の段階で消え去った条文などがある。日本国憲法はモザイク模様なのである。
憲法を国家対国家の対決の図式で捉えてきたことは戦後がもつ戦前との連続面をきわめて見えにくくしてきた。日本国憲法を「押しつけられた」とみる改憲派からも、日本国憲法を高く評価する護憲派からも、日本国憲法の持つ戦前と戦後の連続面は切り捨てられる。日本国憲法の編制が明治憲法に酷似していることは言うに及ばず、社会革命をともなわなかった戦後改革の中で、「日本国は君主国とす」との自由党案をつくった法制官僚が、半年後には政府改正案を擁護する憲法担当大臣となり、あるいはまた戦争末期に学徒動員局長を務めた文部官僚が、一年後に憲法普及会の事務局長となって平和憲法を普及するなどは、戦前と戦後の連続以外のなにものでもないであろう。個々に平和・人権条項がかなり空洞化してきた現在の憲法状況が二重写しになることはないであろうか。

本書は1949年5月までを「新憲法の誕生」として扱っている。マッカーサーは憲法施行(1947年5月3日)に先だって、日本政府に対し施行一年後二年以内に憲法の再検討の機会を与えることを伝えた。これに従い1948年8月には国会に検討のための研究会を設置することになったが、その後改正の動きはなく、改正の機会は第二次吉田内閣下で失われ、1949年5月、憲法は改正されないまま確定することとなった。これは「押しつけ憲法論」を検討する際に重大な問題を含んでいる。本書が1949年5月までをその対象とした理由はここにある。(序 新たな視座を求めて)


序文だけで目が眩みそうになった。

マッカーサーが近衛に憲法改正を示唆したことは、模索のはじまりであった。しかしマッカーサーは相手を間違えていた。と同時に近衛に示唆を与えたことが、本国であれほどまでに反発をかうことになるとは考えていなかったろう。マッカーサーは模索のあとで憲法改正にむけての軌道をいくらか修正し、ガードを固める。本国政府に直結している国務省派遣のアチソン政治顧問を憲法改正問題から除外し始める。(1.模索のはじまり)
近衛文麿が悪しき貴族官僚の典型的人物だったことからすると、たしかに、彼に新憲法を委ねることは考えられないのだが、それは、後から言えることだろう。

民間草案を考える場合、まず忘れてならないのは高野岩三郎(1871-1949)の存在である。
高野は1945年10月29日、若い在野の憲法史研究家鈴木安蔵「民間で憲法制定の準備、研究をする必要があるから、やってくれ」と提案する。これが憲法研究会ができる発端であった。小さな知識人のグループであったが、後にGHQが草案を作成するにあたり、この研究会の起草した草案が多大な影響を及ぼしたことで知られている。

高野岩三郎にとって、天皇制を否定しない憲法研究会案は賛成しがたいものであった。高野は研究会案がほぼ固まった11月下旬から私案の執筆に取りかかる。
高野にとって憲法研究会案が国民の合意を得るためには現実的であると考えつつも、せいぜい大正デモクラシー時代しか知らず、自由民権時代を知らない森戸、大内、あるいは鈴木とちがって」、高野には戦後にかける別の情熱があった。高野は戦後を大正デモクラシーではなく、自由民権運動の延長上に構想していた。
共産主義を除いて、国民のすべてが、「一種の迷信偶像的崇拝の念」に「囚われて」いた時、高野は一人その「私案」を掲げて天皇制廃止を打ち出した。

憲法研究会の中心、高野は自由民権期の民権思想の息吹をかいで成長し、鈴木は自由民権期の憲法思想を研究して戦時下を生きてきた。こう考えると、憲法研究会案とは、自由民権期の憲法思想が、半世紀にわたる弾圧の苦闘のあとでこの二人の歴史の継承者を通じて復権を果たしたことを意味するといえそうである。(2.民権思想の復権--さまざまな民間草案)


明治時代の自由民権運動の中で生まれた民間憲法草案が、新憲法に影響を与えるという奇跡的ストーリー。

1946年2月1日朝、『毎日新聞』が「憲法問題調査委員会試案」全文を一面トップで報じた。
「試案」に対する評価はきわめて悪かった。「試案」を報じた『毎日新聞』自身が「あまりに保守的、現状維持的のものにすぎないことを失望しない者は少ないと思ふ」と評したほどであった。GHQの評価はさらに悪かった。この「試案」を知ったことによってGHQの憲法改正にたいする態度は基本的に変わる。
松本を中心に運営されてきた調査委員会が、かりに謙虚な姿勢で委員会の内外の意見をとり入れようとしていたならば、かくのごとくそれなりに豊かな構想があったのである。にもかかわらず、これらを無視してきたことは、松本の「自信家」という個性にもまして、松本らがなによりも天皇制に「囚われた民衆」の頂点にいて、「明治憲法」に固執していたことに最大の原因があったといえよう。(3.囚われたる法学者たち--憲法問題調査委員会)

ホイットニーは『毎日』のスクープを待っていたかのごとく、GHQによる憲法草案起草へと動き出す。『毎日』のスクープは政府案を非公式に公表させ、GHQばかりでなく国民にも政府案を知らせ、その評価が低いことを政府に納得させ、政府の正式草案の前にGHQ案を示して「指針」を与え、急速度に草案作成にむかわせる絶好の機会となったことがわかる。これほどタイムリーだと、これは
「毎日のスクープ」ではなく、GHQによる「毎日へのリーク」ではなかったのか、という疑いすら出てきても不思議はない。

検閲だけでなく、マスコミへの影響力も大きかったGHQだから、これは疑い、というより確信に近い。

1946年2月3日マッカーサーはホイットニーに対し、「マッカーサー三原則」として知られる憲法改正の必須条件を示した。
1.天皇は国の元首の地位にある。皇位は世襲される。
2.国権の発動たる戦争は禁止する。日本は軍隊を持たず、交戦権が軍に与えられることもない。
3.日本の封建制度は廃止される。
これを受けて、ホイットニーは2月4日、民政局行政部の全職員を集めて次のように演説した。
「これからの一週間は、民政局は憲法制定会議の役をすることになる。マッカーサー将軍は日本国民のために新しい憲法を起草するという、歴史的意義のある仕事を民政局に委託された。民政局の草案の基本は、マッカーサー将軍の略述された三原則であるべきである」

憲法草案作成の作業班(委員会)がつくられた。
・運営委員会 ケーディス陸軍大佐、ハッシー海軍中佐、ラウエル陸軍中佐、エラマン嬢
・立法権に関する委員会 ヘイズ陸軍中佐、スウォープ海軍中佐、ホージ海軍中尉、ノーッマン嬢
・行政権に関する委員会 ピーク、ミラー、エスマン海軍注意
・人権に関する委員会 ロウスト陸軍中佐、ワイルズ、シロタ嬢
・司法権に関する委員会 ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐、ストーン嬢
・地方行政に関する委員会 ティルトン陸軍少佐、マルコム海軍少佐、キーニ
・財政に関する委員会 リゾー陸軍大尉
・天皇・授権規定に関する委員会 ネルソン陸軍中尉、プール海軍少尉
・前文 ハッシー海軍中佐


肩書を見ると軍人ばかりのようだが、それぞれ、学識のある若い連中が中心で、彼らの集中ぶりも相当なものだったようだ。

「フィリピンは、国策遂行の手段としての戦争を放棄し、一般に確立された国際法の諸原則を国家の法の一部として採用する」(フィリピンの1935年憲法第二条二節)
この年の11月15日米領フィリピン群島はこの憲法をもって「フィリピン連邦」として10年後の完全独立をめざして歩み始めた。しかもマッカーサーは独立の日の少し前フィリピン国民軍の軍事顧問に就任している。マッカーサーがGHQ草案をつくるに際し、このフィリピンの1935年憲法が頭の中にあったであろうことは十分考えられる。


戦争放棄を憲法に明記した先例としてのフィリピン憲法。それが制定された時期にマッカーサーが現地にいたということになると、確かに、新憲法の戦争放棄がここに根があるとの仮説も説得力がある。

女性委員三人の起草した案にはつぎの二ヶ条が含まれていた。
第  条 すべての自然人は、法の前に平等である。人種、信条、性別、カーストまたは出身国により、政治的関係、経済的関係、教育の関係および家族関係において差別がなされることを、授権しまたは容認してはならない(以下略)
第  条 外国人は、法の平等な保護を受ける。犯罪につき訴追を受けたときは、自国の外交期間および自らの選んだ通訳の助けをうける権利を有する
これは「国民の権利」をはるかにこえて「人間の権利」を規定したものであった。人権は国家をこえた国際的なものとの理解がある。もし仮にこれら二ヶ条がそのまま今日の日本国憲法に盛り込まれていたら、「指紋押捺」問題などおこりえようはずもなく、本来の意味での「国際国家」にふさわしい人権規定となったであろうが、日本政府は前者の「出身国」(National Origin)を削除し、後者の全条文を削除してしまった。(4.密室の一週間 GHQ案の起草)


こういうふうに、憲法条文から消えてしまった重要な文言のことも、知ってると知らないでは、大きな違いである。

憲法制定過程を通じで、近衛案にせよ、松本案にせよ、実質はすべて私的に運ばれてきたのである。ついにこの土壇場に及んでも、冷静に議論する土台すらできていなかったのである。天皇制を護ること、「国体の護持」以外に、思想らしい思想をたたかわす憲法論議はないままに、GHQ案の受け入れへと歴史の歯車は大きく回ったのである。
これは8月15日につづく第二の敗戦であった。「押しつけ」とは武力による敗戦に続く、政治理念、歴史的認識の敗北であり、憲法思想の決定的敗北を意味した。(5.第二の「敗戦」--「押しつけ」とはなんであったのか)


アメリカ民政局の憲法制定会議のオープンさとあまりに対照的な日本側の密室的やりかた。

佐藤の30時間に及ぶ苦闘は、保守政権下の法制局官僚として立派に、まさに余人をもって替えがたき役目をはたし、GHQ案の日本化に成功した、とみていいであろう。佐藤は松本とちがいこの場に臨んで自己の果たしうる役割を十分に知っていた。つまりGHQの憲法理念--マッカーサー三原則については、いたずらにGHQと争うことは避け、きわめて法技術的な面でぎりぎりの、保守体制に有利な、あるいは日本の法伝統に整合するような抵抗を試みたのである。


佐藤達夫の新憲法に果たした役割はとんでもなく大きかったようだ。

要綱発表の前日の真夜中、佐藤達夫は外国人の人権規定についてつぎの条文でGHQとの合意をみていた。「凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ法理ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分若ハ国籍ニ依リ政治上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ」。しかし佐藤は不満であった。右の条文から「日本国民タルト否トヲ問ハズ」と「国籍」の二ヶ所を削除したかった。そこで首相官邸に帰ってまもない頃、一方で翌日の要綱発表にむけて確定案の作成作業に忙しく、他方において閣議が開かれているというまさに戦場さながらの官邸から、GHQへ電話を入れた。
直接の交渉は英語の上手な白洲が話した。GHQ側はこの提案をあっさり受け入れ、「凡ソ人ハ法ノ下ニ平等ニシテ……社会的地位又ハ門地ニ依リ……」ということで合意ができた。これで草案から直接外国人の人権を保証する規定はすべて消えた。少なくともこの条文に関するかぎり、GHQ案とは似ても似つかず、完全に日本化した、といえるだろう。削除にあたり日本側がどう提案し、GHQがなぜ納得したのか、確たる資料はない。ただしこの憲法が施行される前日(1945年5月2日)に在日朝鮮人の取り締まりを目的とした外国人登録令(最後の勅令)が出されていることを考えると、この目的から外国人の人権保障条項を削除したのではないかと考えられる。


その佐藤達夫が、こういった排外主義的操作にも関わったという事実も忘れてはならない。

選挙が終わった4月17日政府草案の全文が発表された。政府草案は要綱とちがい、否、明治以来のすべての法律とちがって口語体で書かれていた。
たしかにこの憲法は翻訳調だという批判は後を絶たない。それは部分的には否定できないだろう。だが、それを認めた上で、なおかつ明治憲法の文章より曖昧さがない、と作家の丸谷才一はつぎのように評価している。
「現行憲法はめいぶんではないが、しかしあれだつて明治憲法にくらべれば文章として遥かに優れてゐるのである。それは筆者の言はんとするところを表現してずいぶん明確であり、曖昧さが乏しい。誤解の余地がすくない」

日本案から草案要綱、そして改正草案へと連なる一ヶ月半の作業は、まさにGHQ案の「日本化」に他ならなかった。法制局官僚を中心にすすめられた憲法条文の日本化を「官僚化」と呼ぶなら、口語化は憲法の「大衆化」と呼ぶことができよう。(6・ 日本化への苦闘)


憲法の口語化は、画期的だと思う。もっとも、文語だとあまりに翻訳臭が強かったので、口語化はその弥縫策だったという説もあるらしい。

結局、議会での国体論議は堂々めぐりで終わってしまった。これはある意味では金森の功績といえよう。
国体論議は堂々めぐりで終わったが、きわめて具体的な国民主権規定はそうはいかなかった。Sovereignty of people's wll とあったGHQ案を幣原の発案であえて「国民総意の至高」としたことは、そのままではすまなかった。
長い道程であったが、これで国民に主権があることが明白となった。「至高」を「主権」にするという小さな修正であったが、そのもつ意味の大きさは計り知れないものがある。ただ一条の議論がここに集中しすぎたためか、皇位継承や天皇の即位についてはほとんど議論がなされなかった。憲法草案作成の時点でかなり保守的な社会党も、政府案の審議にあたっては一変して進歩的となり、「天皇は即位に際しては国会の承認を経ることを要する」との修正案を提出していたが、今日でも一考に値すると思われるこのような案は、ほとんど議論されることなく終わった。


憲法の日本語化に関しては、金森徳次郎の存在が大きかったようだ。

現行憲法をみれば第10条にこう書かれている。「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」。しかしこの条項はGHQ案にも、政府草案にもなかったのである。だが明治憲法にはあった。「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」(18条)。
そこには重大な法技術が隠されていた。この「法律」とはなにか。これは数年後に制定をみる「国籍法」(昭和25年、法147)を意味する。つまり、これによって「日本国民」とは「日本国籍所有者」を意味することになった。ということは日本国憲法に無数に出てくる「日本国民」「国民」はその意に解されることになる。
ところがGHQはこの10条挿入をあっさり認めてしまったのである、というのも政府はこの10条につぎのような英訳文を付したからである。The Conditions necessary for being a Jpanese national shall be determined by law.「日本国民」を、この条文だけは Japanese people とせず、Jpanese national(日本国籍所有者)という英訳にしたのである。Jpanese people と Jpanese national が日本語では全く同一の言葉になっているとは、GHQは全く知る由もなかったに違いない。
これはやはり法制局官僚の発想ではあるまいか。外国人の人権を巧みに削除したこととワンセットになっているように思える。


「people」と「national」が同じ日本語になるなんて(@_@)  狡猾でもある。こうして有り得べき特長が失われたことも知っておくべきことだ。

「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」。(第26条2項)
小さな修正であった。しかしこの修正によって義務教育が中学校まで延長されたことを考えるときこの修正はきわめて大きな意味をもったといえる。それにしても、青年学校の教員より、はるかに社会的に強い発言力を持っていたであろう中等学校の教員が、政府案になんの反応も示さず、その一方で青年学校の教員が政府案が発表されて直ちに敏感に反応し「猛運動」をはじめたことは、権利とはそれを否定され、あるいは差別をされ続けてきたものが、はじめに発見するものであることを、あまりにもあざやかに証明しているといえないだろうか。(8. 日本化への綱引き--最後の帝国議会(1))


青年学校というマイナーな存在からの申立が、憲法に取り入れられたという事実は、感動的でもあった。

芦田修正から文民条項の挿入にいたる複雑な過程はほぼつぎのように言いうるのであろう。つまり芦田修正によって後に芦田が主張するような自衛戦争もしくは自衛戦力を合憲とみる考え方は、政府にも議会にもなかった。少数の法制官僚がひそかに心に抱いていたにすぎない。唯一極東委員会で芦田が後に主張する解釈が出てくる可能性が議論された。そこで極東委員会はこの可能性を封じるために「駄目押し」として文民条項の挿入を日本側に要求したのである。

「軍隊を持たない」という条文がある憲法に「文民条項」が入るという矛盾が、実は矛盾ではなく実効なものだったという手品みたいな話。

当時の日本には長い戦時体制の抑圧から開放された平和へのよろこびがあったことは否定できないが、同時に侵略戦争を推進しあるいは支えた支配層がほぼ不変の形で残っている中で、昨日までの侵略戦争をきれいさっぱりと忘れて、憲法のみに頼って「平和国家」へと一挙に衣替えできると考えた軟弱な憲法観・国家観があったことも見逃してはならないだろう。しかも40年後の今日からみれば、憲法九条を改正してはいないものの、侵略戦争への反省を忘れて軍事大国化へと驀進しているのであるから、40年前のアジア/太平洋諸国の「戦後日本」へのビジョンはほぼ的中していたことになる。

「軟弱な」戦後日本人(>_<) それが今や軍事大国になり、それを加速したがる政権に引きずられている現実。本書が出てから30年経って、それがもう手のつけられなところまで来ているという悲劇。

会期40日で始まった題90帝国議会は4回にわたる会期延長で114日間となり、1946年10月7日、日本国憲法は帝国議会を通過した。
公布の日は11月3日、天長節(明治天皇誕生日)と決まった。といっても、すんなりとこの日が公布に決まったわけではない。吉田は当初8月11日を考えていた。というのは施行日を翌年の2月11日、つまり紀元節にしたいと考えていたからである。それはまた明治憲法が公布された日(1889年)でもあった。ところが審議が長びいたため、8月11日公布、6ヶ月後の翌年2月11日施行は困難となった。そこで吉田は今度は交付日に意味を持たせて、11月3日を決めたわけである。これを知ったホイットニー民政局長は、マッカーサーに疑問を呈したという。ところがそれ以前に日本政府はマッカーサーから承認を得てしまっていた。マッカーサーはホイットニーに「われわれは明治天皇誕生日をわれわれの民主的実質(コンテント)でみたしてやるのだ」と叫んだという。ただこの時同時にマッカーサーは6ヶ月後の施行日が翌年の5月3日になることに気付いていたのではなかろうか。1947年5月3日、それは極東国際軍事裁判所(東京裁判)開廷一周年にあたる。侵略戦争の責任者たちの戦争責任が裁かれる法廷が開廷したちょうど一年後に平和憲法が施工される。これほどうまい歴史の文脈がまたとつくれようか、マッカーサーはそう考えて11月3日の交付日を認めたにちがいない。(9.九条「芦田修正」の深層--最後の帝国議会(二))


11月3日に新憲法が公布されたわけで、憲法が天長節(明治天皇誕生日)を祝日として残すための口実にされたということを忘れてはならない。

全国民への憲法の普及を目的として小冊子を観光した。その数なんと二千万部。これは当時の全世帯数に相当する。小冊子は憲法普及会が編者となり、『新しい憲法 明るい生活』と題し、手帳ほどの大きさ(14cmX10cm)で全文30頁、うち15頁分に憲法全文を収めたものである。
これは今でも一読する価値がある。(もちろん、批判的視点もこめて)

憲法音頭 作詞サトウ・ハチロー 作曲中山晋平

古いすげ笠チョンホイナ さらりとすてて
   平和日本の 花の笠
とんできたきた うぐいすひばり
  鳴けば希望の 虹が出る ソレ
    チョンホイナ チョンホイナ
    うれしじゃないか ないか チョンホイナ

われらの日本 作詞土岐善麿 作曲信時潔

  平和のひかり 天に満ち
  正義のちから 地にわくや
  われら自由の 民として
  新たなる日を 望みつつ
  世界の前に 今ぞ起つ


1947年5月3日、式典では「君が代」は歌われず、歌われたのは新憲法施行記念国民歌「われらの日本であった。

憲法普及会の永井浩事務局長が文部省学徒動員局長(1945年7月~9月)であったこと、その後熊本県知事に就任(官選)したことは事実である。なんと一年数ヶ月前までは、学生にむかって聖戦を説き、戦場に赴かせたその張本人が、一転平和憲法の普及にあたったのである。これほどの転身、いや戯画的「転向」が他にありえようか。」しかし、あったのである。この永井事務局長の采配の下で「星菫派」は憲法の美しい理想を語り、国民は「憲法音頭」を踊ったのである。悪夢ではないにしろ、むしろはやばやと忘れ去ったことは無理からぬことであったのかも知れない。(10.すみれ咲く五月--新憲法の普及者たち)

これに類したことは、いくらでもあったにちがいない。

新憲法によって吉田はもとより、自由党も、国民の多くも、それほど変化はしなかったのである。吉田は米国が対日政策を民主化から反共へと転換したあと天皇制の強化と再軍備に熱心になったのでは決してないのである。憲法施行前後、吉田自由党が「平和国家建設」を唱えていたのは、「仮の姿」でしかなかったのである。(11. 吉田茂の反撃)

「三つ子の魂百まで」

「押しつけ憲法」の立場をとる政治家たちは、吉田と同様に保守思想の持ち主であるとはいえ、吉田が「七転八倒」している時に、戦犯であったり、公務追放注であったり、あるいは吉田学校の若き「お坊ちゃん」であった場合が多い。敗戦から占領、その中での憲法制定とう思想と思想のせめぎ合いを、数歩さがって見ていた者の安易な主張としかい言いようがない。
それにしても「押しつけ憲法」論が、なぜこれほどまでに戦後30年以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。その機会を自ら逃しておきながら、「押しつけ憲法」論が語りつがれ、主張されつづけて来たのである。とにかく最近の憲法「改正」史や現代史の研究書をみても、この点に全く触れていないのだるから無理からぬ事情はあったにせよ、これは糺しておかなければならない。


繰り返すが、これが書かれたのは30年前である。ひるがえって今を見るに、ときの総理は相も変わらず「押しつけ」論を影に日向に改憲の理由の一つにしようとしている。

国家対国家、民族対民族の対決から「新憲法の誕生」がなかったと同様に、今後も「自国のことのみに専念」したり、日本民族の特殊性を主張することのみからは、決して新しい憲法は生まれないであろう。
われわれは「護憲の時代」を受動的に生きることに、そろそろ別れを告げて、人類が70年代を通じて生み出した環境権、人種平等、情報の自由といった「新しい人権」をも盛り込んだ、「影の憲法(シャドー・コンスティチューション)」を掲げて生きる時代を迎えている、といえないだろうか。そういう時代を生きるわれわれに、「新憲法の誕生」にさいし、議論し尽くされず、あるいは切りすてられた問題は、さまざまなことを教えてくれるにちがいない。(12.忘れられた「その後」)


こういった観点からの、憲法論議は大いになされてしかるべきだろう。しかし「自国のことの飲みに専念」したがる、大国の大統領に追随する二流指導者が、祖父へのはなむけとして?拙速にがさつな改憲を強行しようとするなら、ブレーキかけなくては。

2018/11/02(金)●安田純平記者会見
7時起床。
今朝の血圧は176/77/86。35.4℃。
今日も国会中継流しながら、読書メモ。
午前中は国民民主党の4人がメインで、昨日と同じく質問はそれなりにまともなことを言ってるのに、誠意の欠片も見せない安倍一族(>_<) 片山さつき大臣は音声データで、自分の声とはわからないととぼけるばかり、憲法問題では、またまた阿部が「立法府の長」発言(>_<) 移民問題での山下法務大臣の発言はひどかった。
昼前、岡田元総理が質問に立ったが、何か見るに絶えず民放にチャンネル換えたら、安田純平さんの記者会見やってた。全部見たわけではないが、2時間にわたって40ヶ月の囚われの状況を詳述。無事生還したことを慰労すればよいと思う。自己責任なんて、当人以外に言う資格なしである。
午後は共産党の赤嶺議員が沖縄一本に絞って質問。政権身内での処分取り消し茶番劇の法律違反を指摘するも、聞く耳持たずである。
散策兼ねて、歩いて須藤筋に出て5時半帰宅。
報道特集で、マイケル・ムーアがインタビューで発した、箴言めいたフレーズが心に沁みた。

国民が政府を支配しなければ
政府が国民を支配する--マイケル・ムーア


今日の歩数は3229歩。


 パンジーと蛾

pink rose 

午後の屋上東方面 

[今日の韓国語単語from Kpedia]  체썰다( 千切りにする)
무를 체썰다(ムールルチェッソルダ 大根を千切りにする)
다지다(タジダ みじん切りにする、切り刻む)   
파를 잘게 다지다(パルルチャルゲタジダ ねぎをみじん切りにする
잘게 썰다(チャルゲッソルダ みじん切りにする *잘게(チャルゲ 細かく) 썰다(ッソルダ 切り刻む))

【大衆音楽史】森正人 ★★★☆ 2008/08/25 中公新書1962
「戦争と広告」「「親米日本」の誕生」の二冊を続けて読んで、感心したので、ちょっと前のこの本を中央図書館の書庫から借り出して読んだのだが、これはちょっと期待はずれだった。音楽の趣味は好き嫌いがはっきりするし、タイトルの「大衆音楽」からMorris.はつい、歌謡曲、演歌などを連想してしまったのだが、本書は副題に「--ジャズ、ロックからヒップ・ホップまで」とあるように、いわゆる洋楽中心だったし、取りあげられる音楽ジャンルも、Morris.が比較的好む洋楽とはずれていた。

20世紀初頭、ニューヨークのユニオンスクエア周辺の音楽関係会社がオフィスを構えていた。まるで鍋をたたくほど賑やかだったこの周辺は「ティン・パン・アリー」と称された。当初、これらの会社は、販売した楽譜の著作権料から収益を得ていた。
ディン・パン・アリーは大量の商品を瞬時に生産することを求める資本主義を体現している。1914年ティン・パン・アリーの音楽会社と作曲・作詞家は「アメリカ作曲家、作詞家および出版社協会(ASCAP)を創設し、すぐにニューヨークのあるレストランを音楽著作権料不払いで告訴、同年、最高裁判所はASCAPの訴えを認め、これによりレストラン、ホテル、ダンスホールでかけられる音楽に対して著作権料が請求できるようになった。
939年、ラジオ局は自分たちの著作権会社「放送音楽法人(BMI)」を設立した。1941年に以前の二倍もの著作権料の支払いをラジオ局に要求すると、ラジオ局はこれを拒否し、結果的にASCAPの曲はラジオでいっさい放送されなくなった。ただしこのときにはすでに、多くの人びとはASCAPの曲にあまり関心をしめさなくなっていた。

ティン・パン・アレイというのは、70年代の日本のバンド名として馴染み深いが、これはメンバーの細野晴臣が、ニューヨークのティン・パン・アレイに好みのミュージシャンが多かったことからバンド名に使ったらしい。

ドイツ出身でアメリカへ移住したテオドール・アドルノは芸術音楽と大衆音楽の間の決定的な違いを規格化という語で表している。彼は大衆音楽の主要部分はおおむね32小節でできていて、音域も1オクターヴと一音までに規格化されており、また曲がヒットするためには特定の型を持つ必要があることも指摘している。曲の主題、テンポ、和音、さらに曲の構成がそれにあたり、ある歌手や作曲家のどの音楽も同じように聞こえてしまう現在の日本の多くのヒット曲を顧みても、規格化の問題は首肯できるのではないだろうか。
問題は、こうしたおきまりの曲のパターンが、結果的にそれを聴く人の自発性を奪い、あるパターンにパヴロフの犬のように飛びつくようになってしまうということである。しかもたちの悪いことに、このような企画化にわれわれが気づくことが難しく、われわれ自身はまるで自分で曲を選択しているような感覚を持ってしまう。(第一章 ポピュラー・ミュージックの登場)


アドルノの名前はベンヤミンの「複製芸術」の本にでてきたことで覚えているが、「芸術音楽と大衆音楽」を峻別して、当然「芸術音楽」至上主義である(^_^;) 大衆芸術は大衆をパブロフの犬にしてしまう、なんて決めつけてる。まあ、Morris.はそれでいいけどね(^_^;)

南北戦争(1861-65)中に奴隷解放宣言が出され北部が勝利を改めたにもかかわらず、戦後の南部ではクレオールまでもが社会的に隔離される法が立法化されることになった。ニューオーリンズのクレオールは黒人たちと強く結びついていき、黒人音楽家の影響を受け始めたクレオールは、次第に演奏のリズムを弱くすると同時にメロディを即興で奏で始めるなど、バンドの奏法を変化させていった。ジャズ・バンドの出現である。
ニューオーリンズからシカゴにやってきたキング・オリヴァーは、1919年にクレオール・ジャズ・バンドを結成、当時ニュー・オーリンズで評判のトランぺッター、ルイ・アームストロングにバンドへの参加を要請した。1923年の歴史的なセッションで37曲をレコーディングし、すべての奏者が綿密に作り上げられた音楽の枠組みの中で、なおかつ即興演奏を行なった。そしてそれは、シカゴにおけるニューオーリンズ・ジャズ・スタイルの最高地点となったのだった。


ニューオーリンズがジャズの発祥地と言われる由縁。

スウィングジャズ・スタイルは1920年代のデューク・エリントン・オーケストラの成功によって頂点を迎える。ニューヨークジャズで成功を収めたのは差別を受けながらも当時勃興しつつあった中流の黒人で、彼らは正規の教育を受けており、古典音楽をジャズの中に取り込む才能を持っていたのだ。実際、エリントンは、演奏者の特性をよく理解した上で、ジャズを入念な作曲と編曲によって構成することに長けていた。こうした作曲・編曲の手法は、彼らの才能を際立たせているが、同時にこうした黒人音楽のアレンジなしに白人が主流をなす社会で音楽家として成功することはなかっただろう。(第二章 ジャズとブルース)

ジャズとブルース関係の本はある程度読んでたので、特に目新しいことは出てこなかった。

そもそも「ロックンロール」という名称は、オハイオ州でラジオのDJをしていた、アラン・フリードがなづけたものである。彼は力強いダンス向きの黒人音楽に、ともに性交渉を意味するスラング「ロック」と「ロール」を結びつけた名称をつけた。

これもどこかで聞いた覚えがある。ロケンロール=ロックでいいか。

イギリスでは、ロックは単に若者の騒動を煽る脅威として受け止められただけではなかった。それは、新しく世界の覇権を握った米によるイギリスへの文化侵犯としても捕らえられた。つまり、ロックは古きイギリスの大衆音楽の「アメリカ化」と見なされたのである。

「ロカビリー」は黒人音楽を合意する「ロック」と、白人音楽を含意する「ロック」と、白人音楽を含意する「ヒルビリー」を掛け合わせた言葉である。
プレスリーのショーに感銘を受けて自分たちの演奏スタイルを変えたエディー・コクランとバディ・ホーリー、ジェリー・リー、またより激しいロカビリーを作り始めるジョニー・バーネットなど、プレスリーに刺激を受けて多くの白人歌手たちが、ロカビリーを演奏し始める。


Morris.はプレスリーより、エディ・コクラン、バディ・ホリー、そして引用には出てこないが「ビーバッパルーラ」のジーン・ヴィンセントなんかが好きだったなあ。

イギリスにおけるR&Bとカントリー・ミュージックとロックの近しさを示すのが、黒人音楽を指向することで現在でも高い評価を得ているローリング・ストーンズであろう。(第三章 ロックンロールと若者文化)
ストーンズはデビュー当時からのリアルタイムファンだけど、彼らの音楽にあまりカントリー色を感じることはなかったけど、「Wild Horses」なんかはそんな雰囲気があったかな。

1976年パンクの音楽祭で、聴衆として参加していたセックスピクトルズの熱狂的ファンのシド・ヴィシャスは、あまりの人混みにステージを見ることができず、上下にジャンプを繰り返し、それによって、ジャンプを繰り返す「ポゴ」と呼ばれるダンスができたと言われる。シド・ヴィシャスは、のちにセックス・ピストルズのベース担当になった。初期のパンクでは、ファンとバンドとの距離は非常に近かったのである。
パンクっていまいちよくわからないのだけど、何か好きっ!!(^_^;)

パンクは音楽的にも思想的にも多様な下位区分を包含するようになった。そもそも多様性とは、最初から備わっているのではなく、自らを他のものと異なったものとして差別化することによって事後的に立ち現れる。だから、思想的に右翼的であれ左翼的であれ、それぞれの集団は、自らのスタイルを正統なものと主張しながら他との差別化を図ったのである。(第四章 パンロックの抵抗)

こうなるともうMorris.とは無縁の世界である。

ジャマイカは1655年までスペインの統治下に置かれ、その後5年の戦闘に勝利したイギリスによって支配を受けることになる。
「1509年、スペイン人たちは、ジャマイカ島へ侵入した。スペイン人たちはインディオ(アラワク人)たちを殺したり、火攻めにしたり、また彼らに獰猛な犬をけしかけたりした。さらにスペイン人たちはインディオたちを鉱山での採掘やそのほか数々の労働で酷使し、圧迫し、苦しめ、結局その哀れな罪のないひとびとを全員絶滅させてしまった」(スペイン宣教師ラスカサスが1552年出版した報告書から)

レゲエが登場する1960年代末、ジャマイカは、上流・中流・下流階層の三つにはっきりと分けることができた。
1930年代初頭のジャマイカに登場し、発展した「ラスタファリアニズム」は、奴隷制によって引き離された「祖国」エチオピアへの帰還を唱える思想である。

1972年「アイランドレコード」のクリスブラックウェルはボブ・マーレィ率いるウェイラーズの最初のLP制作に取り掛かる。ジャマイカにおける政治とレゲエとの蜜月が終わりを迎え、ウェイラーズの歌詞内容が社会的、政治的内容を含まなくなると、ブラックウェルは代わりにラスタファリニズムが持つ精神世界のイメージを押し出す。
したがって、きらびやかな衣装やネクタイではなく、白人が抱くラスタファリニズムのイメージに添うエチオピアの国旗色の衣装を身につけさせた。
ブラックウェルは雰囲気が重苦しいと判断し、わざわざロンドンで再度アルバムのミキシングを行い、その際、マーレィの声を前面に押し出し、白人のロックファンに好まれるロックギターも用いられるようにしたのだった。
十二分に計算されたレコードビジネスに乗って、マーレィはレゲエのスターダムにのし上がり、世界的な音楽家となった。
ラスタファリニズムやレゲエは、その柔軟性と包括的な性質のため、多様な社会的文脈において特定の意味を担うことができた。あるいは、次のように言えるかもしれない。ラスタリファニズムやレゲエそれ自体は最初から特定の意味など持たない空っぽな容器に過ぎず、相異なる社会のありようにおいて人びとがそこに意味を充填し、しかもそれが、今度は人びとのアイデンティティを作る役割を果しているのだ、と。

レゲエがロックやポップスの聴衆に広く知られ始めるようになるのは、1970年代中ごろだった。」ビートルズ「オブラディオブラダ」、ローリング・ストーンズ「チェリー」「オーベイビー」、ポール・サイモン「マザー&チャイルドリュニオン」などのレゲエリズムをアレンジした曲、1974年にエリック・クラプトンの「アイショットザシェリフ」が大ヒットすると、多くの白人ロックファンがレゲエのルーツに関心を持つようになり、ボブ・マーレィが広く知られる事になったのである。

奴隷制、ラスタファリアニズム、ロックステディ、政治的キャンペーンなどと関わりながらレゲエは誕生した。レゲエはときに雄弁に自分たちの起源や社会的困難を語ってきた。しかしそのレゲエは今、イギリスの例よりもさらに複雑にそれぞれの場所で読みとかれ、語られている。レゲエは「変わりゆく同じもの」なの。(第五章 レゲエ)


本書の中では、この第五章が一番興味深かった。あの三色(ラスタカラー)はエチオピア国旗の色だったのか。
Morris.はジャマイカがどこにあるのかすら、ちゃんと知らずにいた(>_<)

モータウン・レコードと自動車産業は相互補完的でもあった。その例は、モータウン・レコードとカーラジオの関係に顕著である。モータウン・レコードはラジオの時間帯に合うように音楽を短縮し、自動車で聴くのに適した音楽を作るように心がけた。レコードエンジニアはスタジオの中に自動車のスピーカーを作り、歌と音がカーラジオからどのように流れ出すのか、シミュレーションを重ねた。
Morris.にとってのモータウンといえば、シュープリムズに尽きる。そして韓国で10年前ヒットしたギャルズグループThe Wonder Girlsこそ、Morris.にとってのポスト・シュープリムズだった。ボーカルのソヒがポスト・ダイアナ・ロスだった。なんていうとMorris.の音楽観のお里が露呈してしまいそう(>_<)

ヒップホップもラップも、制度化された音楽を切り貼りして再生産する、いわば音楽の消費による生産であった。そしてそれは今、グローバル化するなかで、それぞれの場所の政治的かつ経済的状況に応じて、消費され生産されている。(第六章 モータウンとヒップホップ)

ヒップホップもラップもMorris.の理解の外にあるが、韓国ではどちらも若者にかなり好まれているようだ。ラップに関しては、日本語に比べると韓国語はラップに向いてると思う。これはパッチム(語尾の子音)とリエゾン効果による。

本書では、紹介する音楽がつねに資本化されてきたことを示してきたつもりだ。大衆受けするポップスとそうではない「本当」の抵抗のための音楽との間に区分を設けることは、ほとんど不可能だと暗示してきたつもりである。高度に資本主義化された現代の社会では、あらゆるものはすでに商品として物質化されている。

確かに身の回りの音楽の99.9%までは資本化されているのかもしれない。Morris.がミニギターで歌ってるのも凡て資本化された韓国歌謡のできの悪い模倣でしかないことはわかっている。低レベルでもそれなりの楽しみ方はあっていいのだと思う。

文化や政治(上部構造)と経済(下部構造)は、一方が他方を決定するのではなく、つねに決定し合っているという「重層決定」の概念をしめしたルイ・アルチュセールは、最後に「偶然の唯物論」へとたどり着いた。必要なのは世界を理解可能なものにしてわかった気になるのではなく、そうありえた一つ一つの世界を想像することで、世界を複雑に理解してみることなのではないだろうか。それこそが政治的ということなのだろう。よくわからないことは恥ずべきことではない。(おしまいに)


「それこそが政治的」というのはよくわからないが、恥ずべきことではない、ということで……(^_^;)

2018/11/01(木)●時間稼ぎ国会
7時起床。
今朝の血圧は174/75/82。35.6℃
午前中は部屋ゴロ。
午後の国会中継。衆院予算委員会午前からひきつづきの公明党は別として、立憲民主党4人の質問。辺野古、防災、加計学園、片山大臣斡旋問題、移民、改竄、消費税、韓国裁判、軍備……に至るまで幅広い分野で、それなり内容のある質問があったのだが、やっぱり安倍をはじめ政府側はまともに答える姿勢がない(>_<)。質問にこたえず、用意した作文読む、同じことをくだくだとくりかえす。自席から演題までゆっくり行ったり来たり。あのシステムは改善できないものだか。官僚から助言やメモもらうために必要なのだろうが、マイクを全席に設置するとか、もっとスムーズに討議すべきぢゃ。
5時に自転車で大安亭市場まで買い物に出る。途中春日野道骨董屋前に、小さな木に大きな柑橘類発見。表面のデコボコには見覚えがある。帰ってネットで調べたら「獅子柚子(鬼柚子)」という文旦の仲間らしい。
前からちょっと気になってた大安亭市場の香辛料売ってる外国人の店、最近看板を新調、「アルマイダジャパン」と書いてある。唐辛子ないか訊いたのだが、パウダ売りで、挽く前のものは大袋しかないので諦めた。店員の雰囲気からすると中東方面(アラブ系?)かもしれない。
帰り小雨が降ってきた(>_<)。
今夜の日本シリーズは、シーソーゲームで6回で4-3と広島1点リード。5回にこのシリーズ絶不調の丸が逆転2ランホームラン。ほっとしただろうな。と思ったら、シーソーゲーム続いて、結局このシリーズ2回目の延長戦へ。10回裏ソフトバンク4番柳田のサヨナラホームランで決着がついた。これでソフトバンクが日本一に王手。明後日からは広島のホームゲームなので奮起を望みたい。今日の試合も見甲斐があった。
今日の歩数は3285歩。


オシャレなドア 

獅子柚子(鬼柚子) 
Al Maidah Japan 

[今日の韓国語単語from Kpedia]  공중[空中]제비(コンgジュンgチェビ とんぼ返り)
재주 넘기
(チェジュノムギ とんぼがえり)
공중회전
[空中廻転](コンジュンフェジョン 空中回転)    

【いい階段の写真集】BMC編 西岡潔写真
★★★☆  2014/01/12 パイインターナショナル
BMC(ビルマニアカフェ)大坂ニット会館に居を構える、ビル愛好家集団。高岡伸一、阪口大介、夜長堂、川原由美子、岩田雅稀

去年読んで(見て?)結構面白かった「いいビルの写真集」(2012)の続編、というか、写真家西岡潔が階段に取り憑かれたことから生まれた本らしい。
Morris.も階段好きだ。特に螺旋階段。ということで、なかなか楽しめた。
一番最初に登場する「関西大学(千里山キャンパス)」は、「村野藤吾の建築ミュージアム」と書いてある。これは一度訪れてみたい。
東京文化会館の螺旋階段は、未見だが、写真で見るだけでも興奮してしまう。

[いい階段のみどころ}
1.手すり
直接手を触れて握るところが「手すり」。素材、サイズ、断面の形、カーブがポイント。階段の格は手すりの美しさにあり。曲線木製手すりは、今作ろうと思うと手間賃がどれくらいかかるかわからない高級品。
2.金物
手すりを支える支柱と、その隙間を埋める手すり子は金属で作られた物が多い。階段の角度に合わせて斜めに作られるため精度も重要となる。
3.踏板・床面
踏板(足を乗せる段)や踊り場など階段周辺の床面もみどころの一つ。主に一階など主要なフロアの床は特に力を入れてデザインされていて、グラフィカルなデザインや、異素材の組み合わせなどを楽しめる。
4.照明
エントランスホールなど吹き抜けに設けられた階段には、非日常の空間体験が生まれる。陰影やゴージャス感を演出する大きな照明は階段の贅沢の代表的なもの。なにもない小さな空間である踊り場にそのビルらしいプラケット照明があるだけで特別な場所に。
5.階数表示
中間階の演出として大事にデザインされるサイン。踊り場の壁面や、床面にさりげなく階数が表示されている。字体、素材、立体的な形などがポイント。BMC発行の「月刊ビル」の表紙では、号数を表すために素敵な階数表示の写真を使うことが多い。エレベーターの階数表示もあわせて収録。
6.段裏
下から見上げた段の裏は、ときに滑らかで有機的な局面を、ときに階段を支える構造の機能美を堪能できる。特に個性的な形状の螺旋階段では、踊り場と階段部分の異質な形を違和感なくつなげるために実に複雑な造形が生まれる。計算だけでは造りえない人智を超えた造形に思えることもあり、時として祈りを捧げたくなるほど。段裏の魅力に目覚めれば、もうあなたは階段の上級者。

ささら 踏板を左右で固定し荷重を支えるための桁のこと。
蹴上げ/蹴込み 段と段の間の高さが蹴上げ。間をふさぐ縦の面を蹴込みという。多くの人が使うゆったりとした階段は、蹴上げが低く踏面は広く、使う人が限られる機能的な階段は蹴上が高く踏面は狭い。


数日前、久しぶりに御影公会堂を訪れたのも、本書に刺激受けたからかもしれない。
韓国で思い出す階段といえば、まずは、なんと言っても釜山の本屋「南浦文庫」の幅広木製階段である。
その他、旧ソウル駅舎、旧朝鮮銀行、新世界百貨店(旧三越)などが忘れられない。梨泰院近くの「サムスン美術館Leeum」の螺旋階段にもシビれたなあ。


 

 

 














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