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  Morris.日乘2018年9月

Morris.の日記です。読書控え、散策報告、友人知人の動向他雑多で す。新着/更新ページの告知もここでやります。
 
今 月の標語

字 搦 め

【2018年】  8月 7月  6月  5月  4月   3月  2月 1月
【2017年12月  11月  10月 9月 8月  7月  6月  5月 4 月  3月 2月 1 月

2018/09/30(日)●台風24号
5時半起床。
今朝の血圧は163/58/84。34.9℃
時事放談。何と今日が最終回だと。これでまたテレビからまともな番組が消える。しかも今日のゲストの一人が顔も見たくなかった菅官房長官(>_<) 総裁選の自画自賛など、聞くきにならず。
朝のうちに自転車で水道筋へ。ガスコンロのアルミ箔のガード、ゴミ袋など買う。
おととい応急処置でブリッジの隙間に接着剤入れて圧着してたミニギター。今日クランプ外したらいちおうくっついてるように見えたが、弦を張ってしばらくしたら下部分が浮いてきた(>_<) 結局マイナスドライバー突っ込んでブリッジ剥がしてしまい、いちおう紙やすりで研磨して全面に接着剤つけて圧着。明後日外して、駄目ならもう諦めるべきだろう(^_^;)
台風24号は8時頃和歌山県田辺市付近に上陸。神戸への直撃は避けられたようだ。
今日の歩数は1500歩。


朝顔 

ブリッジ貼り付けやり直し(^_^;) 

 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 은둔형[隠遁型] 외톨이(ウンドゥンヒョンgウェトリ ひきこもり)
외톨이(ウェトリ)は、一人ぼっちという意味。日本語の「引き籠もり」を韓国語に訳した語で、日本語そのままに히키코모리(ヒキコモリ)といっても通じる。韓国では2000年以降に一般的になった概念で、引きこもりは若年層のみならず中高年にも多いと考えられている。「引きこもり」ではなくとも、両親に経済的に依存して暮らす人を컹거루족[族](コンgゴルジョク カンガルー族)という。日本ではParasite single(パラサイトシングル)という言葉が一時流行語的に使われたが、「すねかじり」でいいと思う。

【BE KOBE】BE KOBEプロジェクト編 ★★★☆ 2015/12/07 ポプラ社
 「震災から20年、できたこと、できなかったこと」というサブタイトル。
神戸地震から20周年を記念して作られた、ロングインタビューを編集したもの。以下の10組13人が登場。最初の二人とは面識がある。
以前、六甲道の歯医者の待合室にこの本置いてあって、最初に慈さんの写真が出てて、読もうとしたら、すぐ診療になった。歯医者にはそれきり行ってないので読まずじまいだったが、灘図書館で見つけたので借りてきた。

・慈憲一(うつみけんいち) naddist
・飛田敦子(ひだあつこ) NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸 マネージャー
・青山大介(あおやまだいすけ) 鳥瞰図絵師
・片瀬範雄(かたせのりお) 神戸防災技術者の会 「K-TEC」
・永田宏和(ながたひろかず) NPO法人プラス・アーツ理事長 デザイン。クリエイティブセンター神戸(KIITO)副センター長
・金千秋(きむちあき) FMわぃわぃ 総合プロデューサー
・田村太郎(たむらたろう) ダイバーシティけんきゅうじょ代表理事 復興庁 復興推進参与
・真山仁(まやまじん)  小説家
・室崎益輝(むろさきよしてる)
・諏訪清二(すわせいじ)元 県立舞子高等学校 環境防災科 教諭/現 県立松陽高校 教諭
中野元太・河田のどか・山本奈緒 県立舞子高等学校卒業生(環境防災科二期生)


きれいな言葉や一つのイメージで街をくくる「まちづくり」へのアンチな気分が、naddistを核衝動になったところはあるかな。身の回りの普通の道や石垣から街を語ってもええやん、と。
「灘印良品」が面白かったなあ。ケンコーマヨネーズ、小泉製麻の麻バッグ、サンナッツ食品のミックスナッツ、青谷の茶畑で採れた静香園のお茶とか……、「これ実は灘区で作られてるんですよ」という製品を集めて店をやったんです。水道筋の空き店舗を一ヶ月間借りて。あの時はいろんな人が企業や店に話をつないでくれたり、店を手伝ってくれて。
今いちばん気になってるのは水道筋の市場ですね。高齢化して後継者もおらず、空き店舗がずいぶん増えた。だけど、あの昭和の市場のしつらえや、対面販売の場はなくなってほしくない。なにより、僕が買い物に行くところがなくなる(笑)。新しく商売をやりたい若い人たちに、うまく店舗を引き継いでいける仕組みができないかといろいろ模索してるんです。街は一度壊したら、もう二度と再現できませんからね。(慈)

慈さんとは何度か、一緒に街歩きしたりしたことがある。水道筋でばったり会えば挨拶交わすくらいの間柄だが、何かイベントがあると、たいてい彼が絡んでいる(^_^;)

日本人やアジア系がほとんどいない国で、初めてマイノリティになって気づいたのは、数が少ないというのは、それだけで圧倒的にしんどいということ。私は自分の意志で選んで行ったけど、彼らは難民だったり、経済的な理由だったり、やむを得ずそういう立場に置かれている。これが日本だったらどうだろう。彼らはもっと暮らしにくいはずだ、と。
2年半の留学で学んだのは、多様性の大切さですね。国籍や人種の違いはもちろん、多用な価値観や生き方があってこそ、人や社会は豊かになるんだ、と。そのためにできる仕事って何だろうと考えているうちに興味を持ったのがNGOやNPOやったんです。
(六甲道駅前の勤労市民センター内にある)私が常駐している「生きがい活動ステーション」。ここはNPOやボランティアに特に興味のない人がたくさん通りかかる場所なんです。ちょっと仲良くなって、趣味が日曜大工ときけば「木工の仕事があるんですけど、行ってみませんか?」って、おせっかいというか、ほとんどキャッチセールスみたいな(笑)「あの人がやることなら面白そうだから自分も参加してみたい」とか、多くの人はそういうきっかけで動くもの。結局、いちばん大事なのは「人」やと思うんですよね。(飛田)


彼女は六甲学生青年センター飛田さんの娘である。彼女が小学校の頃、数人で六甲山山歩きして、小学生たちと一緒に歩いてたMorris.が道を間違えて(^_^;) 保護者に心配かけたことを思い出す。

神戸は国際都市で、外国人も暮らしやすくて、というイメージがありましたけど、震災でわかったのは、単に「使い捨てのやすい労働力」と見なされている外国人もたくさんいるんだってことですよね。
今、大概的な脅威や不安感を煽ってるのって、政府やマスメディアのような「中央」の視線だと思うんですよね。だーっと波のように押し寄せる排外主義的な気分を押し返すには、一人一人が地域の中でつながって、お互いを理解したり判断したりする力を上げていく以外にないと思う。(金)


FMわぃわぃのスタジオにも足を運んだことがある。知り合いの数人がここで番組持ってたり、出演したりしてた。

人道上の問題として受け止め、これを機に共生社会に向かおうとする気運が震災直後は確実にあった。働きかければ世の中変わるんだという手ごたえを感じて、ある意味嬉しかったですね。
だけど、暫く経つとだんだん元に戻っていくんですよ。「形状記憶合金」と誰かがたとえてましたけど、縦割り行政とか組織間のしがらみとか、地震で一度崩れた壁がまた出てくる。震災後一年ぐらい、役所で言うと職員が防災服からスーツに着替えた頃かな。これは、今、東北に通っていても感じます。3年ぐらい経つともう役所の空気が震災前に戻っている。復旧・復興が進んで日常に戻るのは悪いことばかりじゃないけど、災害時の危機を乗り切った連帯感や、市民と一緒にという姿勢がなくなるのはちょっと残念ですね。
僕も含めて阪神・淡路の経験者は当時の社会を前提に物事を見てしまい、ずれることがある。今の社会状況を冷静に見て、復興なり被災者支援なりを考えるべきでしょうね。(田村)

巻頭折込の神戸地震年表から一部を書き写しておく。

1995/01/17 午前5時46分淡路島を震源とする震度7の地震発生。気象庁「兵庫県南部地震」と命名
        01/23 停電復旧
        01/31 電話ほぼ復旧
        02/14 政府が「阪神・淡路大震災」と呼称決定
        03/17 兵庫県再開発都市計画決定
        04/01 JR神戸線が全線開通
        04/11 大阪ガス復旧宣言
        04/17 水道復旧完了
        08/11 仮設住宅4万8300戸官製
        08/23 神戸居避難所廃止
        09/19 オリックスリーグ初優勝
        10/25 長田区で「男はつらいよ」ロケ
        12/15 初の神戸ルミナリエ
1996/04/28 そごう神戸店全面再開
        09/30 阪神高速道路神戸線全線開通
        10/24 オリックス日本一に
1997/03/02 大丸神戸店が全館で営業再開
        05/06 JR新長田駅南地区の再開発着工
        07/29 JR六甲道駅南地区の再開発着工
1998/03/19 特定非営利活動促進法(NPO法)成立
        04/05 明石海峡大橋が開通
1999/03/09 神戸市の区画整理事業がすべて動き始める
        05/11 兵庫県内の全復興住宅が完成
        12/20 神戸市内の仮設住宅が全面解消
2000/02/23 政府の復興対策本部が解散
2001/04/23 気象庁がマグニチュードの値変更 M7.2からM7.4に
2002/04/01 県立舞子高校に「環境防災科」設置
        04/27 人と防災未来センターが開館
2004/11/01 神戸市人口が地震前を上回る
2005/01/18 神戸市で国連防災世界会議 「標語宣言」採択
2006/02/16 神戸空港開港
2009/09/29 長田区に「鉄人28号」モニュメント
2011/03/11 東日本大震災
2015/01/17 BE KOBE発足       

2018/09/29(土)●部屋籠り
7時起床。
今朝の血圧は148/57/70。36.1℃
台風24号は今日沖縄を直撃。明日午後には四国、紀伊半島に上陸する可能性大。今日も秋雨前線が台風の影響受けて一日雨なので、はなから部屋ゴロ決定(^_^;)
朝食はしつこくパクチー粥。ランチは紅茶とパン、夜は鯖の塩焼きと、定番メニュー。
明日の沖縄知事選に関するニュースの少なさ。mbsだけが20分ほどやったくらい。
夜になって、富田林警察留置所から逃亡ていた樋田容疑者が山口県で捕まったとのことで、明日のニュースは台風とこの逮捕劇でもちきりとなるのだろう。
Facebookで個人情報5000万人分(@_@)が漏洩したとか。もうネットの世界は情報ダダ漏れと思うしかない。
今日の歩数は0歩。


いっこうに飽きない(^_^;) 

秋の紅茶 

これも飽きないメニュー 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 스포일러(スポイルロ ネタバレ)
英語spoilerをそのまま使ってるのだが、英語にも疎いMorris.にはいまいち理解できなかった。
「スポイル」は大辞林にも「駄目にすること、人の性質などを台無しにすること」と載ってる。「スポイラー」も載ってたがこちらは「航空機の主翼上面の可動板、揚力を減少し、抗力を増加させる」という説明。
物語の結末を暴露して、楽しみをスポイルするものという意味で「ネタバレ」として使われているようだ。

2018/09/28(金)●自転車で六甲道まで
7時起床。
今朝の血圧は194/78/75。36.0℃
今週の「ア・ピース・オブ警句」は先週に続いて「新潮45」問題。7月には同誌掲載された杉田水脈議員の記事を取りあげてた。この三つの記事のタイトルと肝を並べておく。できれば本文にあたってほしい。

杉田水脈氏と民意の絶望的な関係 2018年7月27日
今回は、自民党の杉田水脈衆議院議員が「新潮45」に寄稿した文章と、その記事がもたらした波紋について書くつもりでいる。人権感覚を欠いた内容に驚愕した……と書いても良いのだが、正直なところを申し上げるに、...

「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか 2018年9月21日
問題は杉田論文が陋劣で邪悪で低レベルなことではない。主たる問題点は、杉田論文が大変に人気のあるご意見であるというところにある。つまり、真の脅威は、杉田論文ではなくて、論文の背景にある巨大な勢力だという...

「編集」が消えていく世界に 2018年9月28日
休刊は、言ってみれば「説明をしないための手段」であり、責任ある立場の人間が事態に直面しないための強制終了措置であったに過ぎない。叱られた小学生が積み木を蹴飛ばしているのと、どこが違うというのだ?

実は小田嶋は「新潮45」に7年前からコラムを連載していて、雑誌休刊は他人事ではない(^_^;) それはさておいて、小田嶋が問題にしているのは、杉田水脈問題が総理案件であるということ。杉田議員が、安倍総理がスカウトした人材であり、杉田擁護特集の執筆者の一人(特にひどい記事)小川峯太郎が、安倍首相提灯かつぎのライターであることなどから、「総理大臣の職にある人間が、杉田論文を問題視しない考えの持ち主であったのだと考えると、やはり平静ではいられない」

台風24号は明日沖縄直撃、そこから方向転換して日本列島縦断コース取る予想で、近畿地方は明後日の午後に通過する確率が高くなっている。今日は秋晴れだが、明日は雨、明後日は豪雨ということで、昼前に部屋を出て、自転車で六甲道へ。
歩くのはまだまだだが、自転車は乗り降りのときはちょっと痛みがあるが、乗ってしまえばほとんど問題ない。
途中コーナンに寄って、C型クランプ深型+木工用接着剤(パワーエース)+紙やすり買う。
六甲道駅南公園で、ギター弾いてる青年(大学生?)がいたので、話しかけて、ちょっと聴かせてもらう。フォークギターでクラシックを弾いてる感じ? ピックは使わず右手の爪での演奏。オープンGチューニングなどいろいろなジャンルをやってるようだ。
灘区役所に寄ってから、ATMで家賃振込み、灘図書館で新聞雑誌(「世界」「CUT」「芸術新潮」)流し読み。2時過ぎに図書館を出て、水道筋で買い物して3時過ぎ帰宅。
水道筋アーケードの手前でも工事していた。やっぱり水道筋の真下を走る水道管の全面取替え工事らしい。これはかなり長期工事になりそう。
帰って、鶏肉の下ごしらえしてから、DIYタイム。実は先月ミニギター(紅色 周炫美サイン入り)の弦張り替えたら、弦がビビるようになってしまった(>_<)。どうやらブリッジが弦に引っ張られて下の一部が浮き上がって弦高が下がってしまったのが原因のようだ。簡単に言えばブリッジが剥がれかけてるってわけ。
ネットでブリッジ修理を検索したら、安いところでン万円、高いところだと10万超えてる(@_@)。とてもじゃないがそんな金は出せない。何たって、ミニギター一本一万円しないもんね。他に3本あるから、まあ当座は無くても問題ないし、新しく買ってもいいのだが、治せるものなら治したい。ネットで自分で修理する(DIY)ページ見つけて、コーナンでクランプなど買ってきたというわけ。基本的には、一旦ブリッジ全部剥がして、両面を紙やすりで平らにして貼り直すべきなのだが、いまのところ紙が入るくらいの隙間が開いてる状態なので、その隙間に接着剤流し込んで圧着するという応急処置やってみて、駄目なら改めてやり直すことにしよう。いちおうマスキングテープで接着剤でボディを汚さないようにして、作業進めたのだが、どうもうまくいかない。適当なところでクランプで締め付けて2日ほど待って様子をみることにする。
4時過ぎから屋上に上って、軽くミニギター。
夜はまたしてもパクチー粥(^_^;)。水道筋で今日もパクチー安くで売ってたのだった。
今日の歩数は2000歩?


変わり咲きハイビスカス 

ここでも水道管取替工事 

黄色いカンナ 

クランプ 木工用接着剤 紙やすり 

これのブリッジに「浮き」(>_<) 

接着剤とクランプで応急処置 

勝光寺のクロ 

流れ星ではない(^_^;) 

東南方面Twilight 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 따옴표[標](ッタオムピョ クォーテーションマーク、引用符)
人が言った言葉や文章を引用する時や、文の中で直接の会話を表示する時に使う。直接引用に使う「”」 큰따옴표(クンッタオムピョ ダブルクォーテーション)と、考え事や強調したいなど主に口に出さないことに使う「’」작은따옴표(チャグンッタオムピョ ダッシュ クォーテーション)がある。 인용부[引用符](イニョンgプ)という漢字語も使われる。
日本では普通に使われる、낫표[標](ナッピョ かぎ括弧"「 」"))、[兼]낫표[標](キョムナッピョ 二重かぎ括弧"『 』") は、韓国でも縦書きの引用に用いられていたが、最近では縦書きそのものがあまりつかわれていない。。(ナッ)は「 鎌 」で、その形からこういう名称になったものと思われる。   

2018/09/27(木)●自転車で樹の下ベンチに
7時起床。
今朝の血圧は143/53/74。35.7℃
朝の三点セット。
現在沖縄の南の海で停滞している台風24号が月末から月初にかけて日本列島縦断しそうな予想になってる。沖縄県知事選への影響も気がかりだが、9月初めの22号の関西方面の被害が甚大だったことから、危機意識が高まっている。
昼過ぎに自転車で王子公園駐車場樹の下ベンチへ。実に一ヶ月半ぶりである。この間にベンチ前はメヒシバか何かイネ科の雑草で草原みたいになってた。この草の種子を餌にしてるのか、やたら雀が群れていた。
ここでのミニギターおさらいも当然久しぶりで、屋上より大きな声出せるので気持ちよかった。
途中、大きな一眼レフ抱えたおじさんが、Morris.を遠くから撮影してた、笑い顔で答えたら近くまでやってきて、ちょこっと話す。ついでにMorris.のデジカメで撮影してもらう。
4時前に小雨降り出したので、急いで帰宅。
動物園前の三叉路で大掛かりな工事やってる。看板見たら古い工業用水道管取り替えで、平成31年3月31日までと書いてたった。ほぼ半年の工事だ。水道筋の名前の由来の水道管なのかな?
夜は残ってたパクチー全部使ってパクチー粥(^_^;) ほとんど中毒状態ぢゃ。
大阪高裁で朝鮮学校授業料無償化裁判、一審大阪地裁が下した原告勝訴を取り消し、無償化を認めず、逆転敗訴(>_<) 司法の安倍政権忖度というしかない。これには憤りを禁じ得ない。
阪神-DeNA戦、5回二死二塁の場面で大山が打ったセンターフライをノーバウンドで取ったと思い込んで野手がプレイ止めたのを見逃さず、大山がホームまで走り込んで2ランランニングホームランという珍しい場面があった。でも結果は3-4で阪神惜敗。
今日の歩数は600歩。


困った時の麻婆豆腐(^_^;) 

久々樹の下ベンチ 

草原になってた(@_@) 

雀が多い 

写真おじさん 

撮影してもらった 

動物園前で大掛かりな工事 

水道管取替 来年3月まで 

パクチー 愛 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 부가 가치세[,附加價値稅](プガカチセ 消費税)
商品やサービスなどの提供過程で得る利益に対する税金のことで1977年から施行された。国税、普通税、間接税で、一般課税対象者を基準に税率は10%になる。略して부가세[付加税](ブガセ、付加税)としてもよく使われる。日本で言えば「消費税」に当たる。英語で、VAT(value added tax, 附加價値稅)に表記する場合もある。

【無縁声声(むえんせいせい) 日本資本主義残酷史】平井正治 ★★★☆☆ 1997/04/30初版 2010/09/30新版 藤原書店
平井正治 1927年、大阪市生れ。1961年より釜ヶ崎に居住し、日雇労働。1966年大阪港港湾日雇労働者となり、全港湾労組大阪港支部執行委員、副委員長など歴任。著作に「博覧会から見た釜ヶ崎の歴史」「震災の思想」などがある。
先日読んだパギやん(趙博)の大阪環状線ガイド本の中に平井正二のことが書いてたあったことから、読まねばと思った。
すごい人である。

戦中戦後、二十歳前後だった著者は、いったい幾つの職業を渡り歩いてきたことか。悲壮感どころか、まさに才気が身を助ける痛快さ、常に先の見通しを立てている賢明さ、そして奔放とも言える自由に満ちている。著者は多分、半世紀前から新しい日本人だったのであり、今もなお、時代は著者に追いついていない。
要は、個人だ、ということだろう。今なお時代が著者に追いついていないというのは、そういう意味である。義務や使命といった大上段の建前でなく、己の頭と身体に忠実であることが、隣人や自分の尊厳を守る戦いになり、また他者への献身に結びつく。
著者は無縁仏になりたいという。自分の人生の後に何も残したくないと願うことに悲哀はなく、むしろ聡明な最期なのだと本書に教えられた。そうして、著者も語るように、西成に代表されるこの国の最底辺はいつまで続くのかという問題が、なお最後に残るのである。(高村薫)


高村薫が解説書いてるというのにはちょっとびっくりした。初版にはなくて、再版のために書かれたものだが、高村は幼い頃、西成の近く(東住吉区)に住んでたらしい。

灰屋という商売があった。灰というのは肥料になる。火葬場の灰。火葬場で骨上げして、小さい壷に入れたあと、骨と灰がかなり残る。残りの灰を処分してもらってけっこうですと、親族が火葬場で依状を書かされた。戦前は灰屋が夕方になると火葬場に肩引き車で来て、カマスに灰を集めて、それが農村に肥料として、完全に循環される。焼き場の灰はカルシウムがあるから、ええ肥料になる。長町のことを書いたものに灰屋裏という長屋がある。

長町という地名も今は無くなったようだ。死体を焼いた灰が肥料になるというのがありがたい。

博覧会とか何か大きなイベントやるたんびに、交通機関やら土木工事をして、それも突貫工事で、危険と紙一枚の現場で、かならず労働者が犠牲になっています。そして、イベントが終われば労働者は置き去りにされる。

2020オリンピックでも同じようなことが繰りかえされるのだろう。

千日前の繁華街は、もとは墓場の跡で、あの一帯は処刑場があったところです。千日前から道具屋筋へ行く方も、道頓堀へ行く方も、法善寺に至るまで、あのへん寺だらけや。千日前の、角っこのあたりが処刑場演ったんです。
江戸時代の初期から中期まで、道頓堀というのは非人溜まりで、非人がようけおった。道頓堀の工事は安井道頓がやったいうけど、道頓堀というのは、非人を使うて掘らせた掘割りや。


寺が多いのにも理由があった。

1903年(明治36)に、天王寺公園のところで、博覧会をやるという計画が出てきた。京都の第四回に次いで、第5回の内国勧業博覧会。1900年から工事が始まる。工事が始まる前に長町の住民を立ち退かせて集めたのが、長町から1キロも離れてないところ、今の釜ヶ崎のだいたい北半分ぐらいにあたる部分です。摂津国西成郡今宮村水渡釜ヶ崎。何でそんな近いところに、追い出した人間を集めたかと言うと、博覧会の工事をやるから。じゃまや言うて追い出しといて、労働力だけは利用しようというわけです。(第一章 生い立ち有為変転)

釜ヶ崎ドヤ街の歴史は120年近くあるわけだ。

1961年(昭和36)の8月1日、釜ヶ崎で暴動が起きた。当時、僕は、京都内浜の木賃宿に宿泊してました。夜遅くのニュースを見て、大阪-京都間を阪急バスが深夜バス出してたから、2日の夜明けには、まだくすぶってる釜ヶ崎に、石ころゴロゴロの釜ヶ崎におった、西成警察に群衆が集まって行く。4,5千人が西成警察を取り囲む。
僕は60年安保も行ってきたし、しかしその中で釜ヶ崎での暴動というのは、こんだけ動いているけど、だれが指導するでもなし、自然発生的。
日当がその時分でだいたい千円前後、800円ぐらいから1200円いうたら、よっぽどきつい仕事でした。文句言うと、殴る蹴る、警察も相手にしてくれんのです、あの時分は
、雇うてもろて文句ぬかす方が悪いんやいう。そういう日頃の警察の労働者に対する対応が悪かった。そのことが怒りの最大の原因ですわ。
暴動は1961年(昭和36)の第一次暴動から、1973年(昭和48)の第二十一次暴動まで続く。それから17年間暴動は途絶えていた。1990年(平成2)は、花と緑の博覧会が開催され、関西空港の工事も始まっており、京阪奈学園研究都市の工事も行われていた。バブル経済の全盛期であった。(第三章 第一次釜ヶ崎暴動の渦中に飛び込む)


Morris.が大坂にやってきたのが1973年。ちょうど釜ヶ崎の暴動が鎮静期に入った頃だったということになる。それでも、その頃はまだ釜ヶ崎というと、かなり危険地域というイメージが強かった。

釜ヶ崎のあいりんセンターでも設計図では風呂やのに、シャワーになってそもたりとか。みな近所の風呂屋がいわゆる風呂屋議員に働きかけて、あのセンターには風呂ができるらしい、あれをやめさせろと、結局シャワーに変えた。ところが汚れ仕事して、シャワーでは落ちん、冬、ぬくもらん。釜ヶ崎では、風呂がシャワーにすりかえられて、だれがそれを認めたのか、いまだにシコリが残っています。
バナナ荷役というのは、これはむずかしい。まず陸揚げしたら、殺菌燻蒸、青酸ガスを24時間、倉庫にぶち込んで、それで殺菌してから、今度はそれを中和して、48時間たつと倉庫から出して、それで今度は市場のムロへ入れる。それで青いバナナが黄色くなって出荷される。この設備が大阪になかった。それが70年の万博で需要が増えるいうので、バナナ埠頭というのを大阪市港湾局が建てた。バナナの仕事というのはものすごいきつい仕事なんです。箱をパレットに積む、狭い船底で、とにかく忙しい、7万ケースもあるから。それでこれを12℃ぐらいの低温で持ってくるから、寒いぐらいや。夏なんか、この中に入って仕事して、上がった時にたまらん、外が暑いから。それで体を壊してしまう。(第四章 港湾労働の高波に揉まれつつ)


今や安い果物の代表みたいなバナナもあの頃はまだそこそこ値段高かったんじゃないかな。青酸ガスで殺菌というのは知らなかった。

飯場の貸布団、汚い汚い布団です。この布団がどっから来るか言うたら、修学旅行の旅館。京都なんかやったら、修学旅行と寺参りの団体旅館。一シーズン終わったら、布団はみな払い下げ。食べてこぼすし、修学旅行やったら漏らすのもいるし、とにかく汚れて、使いもんにならへん。こんなん、カバーだけちょっとつけ換えて、中の布団は天日に干すだけ、飯場の布団というのはみなそういうふうなもんです。

姫路とか、あのへんの臨海工業地帯の暴力飯場というのは、ほとんど組関係です。駅手配のとこも暴力飯場が多いんです。結局は、工事が終わったら労働者が余るから、使い捨て労働者を使おうということです。それに対して公共工事でも、工事の推進の方ばっかりやって、労務対策というのは、全然、この監獄部屋時代から、北海道の囚人労働以来ずーっといまだに、本質は一つも変わってないということです。
原子力発電でも、手配はほとんど組関係です。彼らは原子力発電所の飯場へ行った労働者に、組は絶対つぶれんという話を前夜にきっちり聞かしよる。反対運動のあるところで仕事するほどつらいことないんやと。それを俺らはお国のために引き受けとるんやから、カタギやと言うわけ、カタギの仕事してるけど、つい手なぐさみをやったり、仕事がひまな時に人を脅かしたりするさかいに取締り食らうけど、本業はこういうことやってんねやからと、国策行為をやってると言う。手配師は手配師の論理がある。田中角栄が、国のためにロッキード入れたんやいう、あの倫理と一緒です。(第五章 よう見てみィ、これが現場労働や!)


実際に飯場生活を体験した人の記録だけに説得力がある。

神戸貿易博覧会。戦後最初の大規模な博覧会で、神戸市の王子公園と湊川公園の二ヶ所の会場で開催することになった。湊川にも王子公園のところにも、神戸で大空襲でやられた人やら、海外の引揚者やらが、バラック建てていて、強制立ち退きをやったんです。それを撤去する口実が博覧会です。当時、資材がなかったんやけど、アメリカ占領軍と吉田内閣が支援してやらせたんです。
何で貿易博覧会をやったか。博覧会が終わった日に朝鮮戦争が始まってます。もう目的が目に見えた港の博覧会、軍需物資の積み出し港。朝鮮戦争というのは、一年ぐらい前から計画してたというから。


1950年の神戸貿易博覧会。王子公園の会場というのは、今の王子動物園の遊園地部分にパビリオンが設営されたらしい。というか、遊園地はその博覧会のために作られたもののようで、市民プールはこの時の防火用水として作られたとか。まさに朝鮮戦争勃発の年というのが象徴的である。

博覧会とかスポーツ大会とか、国策興行をやる時には、まず会場の取り合いが起きる。どこを会場にするか、会場になったところは土地の値段が上がるから、どうしても政治家が出て来る。だから開催期日は先に決まる。会場の取り合いで工事が遅れる。それで開催日までに突貫工事をやる。そないしてやったのが1964年の東京オリンピック。

これまた2020で繰りかえされるにちがいない。

1970年の万国博覧会の最大の目的は、原子力発電所の推進だったんです。あの時に美浜の一号機の突貫工事を、当時の芦原義重、関電社長がやった。「原子力文化」という、万博会場で配った関西電力のパンフレット、この博覧会の目的は、原子力時代の幕開けやと、そう書いてます。70年の万博が始まってしばらくした夏頃に、会場に美浜の原子力の電気が来たというので、点灯式をやったんです。あれが原子の灯、原発の平和利用といって。

1982年に大阪二十一世紀協会、初代会長に松下幸之助、関西電力の芦原義重、日商の古川と財界から三人、それと知事と市長、この五人が会長、副会長になって。
二十一世紀協会というのは不思議な団体で、大阪府と大阪市から二十人ずつ、それから拡大企業から出向社員を出してました。最初百人ぐらいが、天満橋のキャッスルホテルの四階に、ワンフロアを借り切った協会事務所で始めたんです。
二十一世紀協会のニュースというのは、毎号新空港をどないして造るかです。財界と行政が一体で事務所を作って、給料はみなそれぞれが出して、協会の役員がいうてる、「なんせ不思議な団体でございまして」と。それはもう類例がないですね。一つのイベント団体に給料出して、職員も何十人も派遣するという。産、官、学、労組、文化各界が群がる新板大政翼賛会が作られたわけです。
もともと鶴見緑地は生ゴミの埋め立ての山、花博の工事でほじくり返して、25年前のゴミが出て、何とも臭い、腐りきらんナイロン製品がある、あそこの工事場へも何回も行ったけど。僕は仕事が目的で行ったのやなしに、それを見たいから。
一応、動員数は二千万人を突破したということになってるけど、工事関係者に券をみな押し付けるんや。その上で、前売りの券の数で二千万突破したと、成功やということになってるけど。(第六章 博覧会の輝く電光の影に)


鵺のような団体ぢゃ。「新大坂大政翼賛会」(^_^;) 花と緑には関心深いはずなのに、何故かMorris.はこの博覧会のことは記憶の外にある。

新開地の商店街というのは、旧港川の土手の跡です。明治29年(1896)、湊川の大水害が起こった。当時の港川は、新開地よりも神戸よりの方にあった。山からどっと水が出て、その水が町中を流れた。明治になって鉄道をつくった。鉄道は堤防になるから、鉄道で水の流れが止められて、神戸の街を横にずーっと水が川になって流れた。それで、水害を防ごうというので、湊川の付け替え工事をやった。再度山のところをトンネル掘って、新湊川に流した。その時のもとの堤防が新開地の商店街になる。あの商店街は土地がずっと高うなってて、両側が低うなってる、あれ堤防の跡。神戸の古い人は、新開地の商店街を「土手」と言います。商店街になってからは映画館がようけできて、大阪の新世界と似たとこでね。道路のすぐ向こうには福原遊郭がある、釜ヶ崎には飛田遊郭があるし、よう似ています。
付け替え工事に土木労働者を入れて、堤防下に飯場をつくった。その労働者が土手下に残った。大きな土木工事をした後は、かならずその近くに置き去りにされた労働者が残る。神戸は街が細長うて港にも近い、新開地は手配するにも便利がええし、労働者が集まる。仕事が出てくると働きに行く、あぶれると湊川公園で野宿する。釜ヶ崎の天王寺公園と似ている。
堤防下やからね、そういうところで、やっぱり地盤が弱いんです。堤防の上はしっかりしとるから、わりあい商店街残ってた、震災の時。横手に入ったら、もう裏っ側は壊れてる。

西神戸には土木飯場が多い。暴力飯場と呼ばれるようなものもある。原発労働者なんかここから送り込まれるのがかなり多い。そういうところの飯場は廃材でこしらえたバラックで、みな倒れてる。プレハブの作業員宿舎から、毎朝マイクロバスで仕事場に行っていた。その朝つぶれて焼けてしもうた。親方は仕事にならんから、日雇いはそのまま追い出され、出ていかなしょうない。日雇いやから失業保険もない。まず食えんから、どうしても避難所へ行く。それを避難所がまた追い出す。「ホームレスは出て行け」と言えば問題になると知っていますから、「あんた家族カードは」といいます、「自分の町内にいけ」と。
関東大震災の時、朝鮮人が火つけをしたとか、そういう流言蜚語、デマが飛んで、それで朝鮮人が襲われたり殺されたりした。今回の震災では、そういうのでなくて形を変えた暴力というか、「じゃまになるから追い出せ」という排除は絶えず起きてましたね。

神戸で、建設・土木労働者の交通事故が多いんです。労災にするより交通事故にした方が有利なんです。下請けは労災の掛け金かけてない。今はそれなりに裁判までいけば元請け責任になるけど、つい下請けは弱いもんやから、上に対しては労災の申請をセずに交通事故で処理してしまう。実際は労働災害の発表の人数より多いです。
今度の震災復旧で、建設工事にはやっぱり、長期雇用の、あるていど技術をもった人、だいたい大手建設会社の一次下請けぐらいを連れてくるけど、解体工事では、路上手配で日雇い労働者を集める。それと、門前募集いうて、業者が貼紙で募集した人。現場に慣れん人も来る。お互いどこから来てるかわからん、気心が知れん、"人のことはかまうな"になる。そこへ人減らしで重労働です、事故が防げん面も増幅されます。

神戸は地形からいうても、むしろ中小企業の町です。山と海との間の狭い、そこに6本か7本の鉄道と道路が集中してる。それで、せっせと緑剥がして山削って、それで海を埋め立てて地面を広げる。そやから災害うけたら一挙に全滅です。(第七章 震災が見せた神戸の素顔)


おお、神戸に関しても独自の視点、それも鋭い。山を崩して埋め立てる、その結果が神戸地震や、先般の台風での被害に直結している。

僕もドヤみたいなんはなくならないかんと思うてる。なくならないかんからこそ、ずーっと住んでみて、中をやっぱり見といて、いずれ労働者がまとまって、労働者の住宅を建てるというような要求出せる時代が来れば、やっぱりドヤというものがいかに危険なところで、住みにくいところかというところを、それを言えるだけのもん、持っていたい。住んでもうすぐ28年になる、28年が30年たって、同じとこに住んで言うというか、行政に対してものを言うとき重みがあると思うてます。
これは僕、港湾労働者やってた時に、行政に対するいろんな要求を出す時に、総評式の箇条書きで、きれいごとばっかり書いて並べるんやなしに、僕は実際のところでぶつけていって、役人もイヤと言えんとこまで押し込めます。僕今のところを出えへんのは、そういう思いもあるんです。その中で、人間というのは年取っていくのでね。単身者住宅というのを、長い間ずーっと考えてる。
浪速区の改造住宅、あれが僕らが子どもの時分にどんどん建っていった。僕はあの近くに住んでたから言うんやけど、昭和の始め頃に建てた時から、当時としては大阪でも立派なもんでした。不良住宅改造事業。長町の跡に、伝染病の多かったところに建てた時は、それは見違える町になったと言うんやけど、その中でボロ切れを分別して、ほこりだらけ、建物造っても内容は変わっていない。


30年近くのドヤ住まい。その中から声を出すということが、彼の発言の重みとなっている。

港湾でもってた町が港湾労働者がいなくなったら、あとどないなるんやと。年はいくわ、合理化で不景気になるわ。先を見て、労働者の住宅は大阪市内に分散して建ててくれ、それやったら僕も入る。市内に分散していたら転職したかて、何なとやれるけど、港の一角に港湾労働者の住宅ではどもならん。それの最たる見本が釜ヶ崎やないか。第二の釜ヶ崎を港区につくるんか。

いついつまでも、しわ寄せは弱者に……

何で住民票を釜ヶ崎に移さんか言うたら、故郷に知られたくないとか。同じ都会に住んでて、親と20年間会えなかった、飯場の火事で焼けてはじめて親が知った、そんな人がおるんです。

釜ヶ崎は暮らしやすいという。
夜明けから夜中まで、酒も食べ物もあるから。それで夜通しの映画館がある。三本立て800円の映画館、ずっとオールナイト営業する。20年も前の投影のヤクザの鶴田浩二やらフーテンの寅さん、あんなんばっかりやってるわけです。芝居小屋もある、芝居小屋はよそからの人が見るにしても。
釜ヶ崎のように4万人がだいたい似たような境遇の町なんて、ほかにちょっとない。わりあい人のことは言わない。人のことをあれこれ言わん。それは安心して住める町です。


住人にだけいえる逆説。

今のミドリ十字が、朝鮮戦争の時に、ブラッド・バンクを作った。あれを作ったんは、七三一部隊の、二代目部隊長の北野政次軍医中将です。初代が石井中将で、二代目が北野政次軍医中将。軍隊では技術官は中将までやから、最高位です。技術を一歩下に見とったんや。
朝鮮戦争の頃に、北野中将と石井中将が、七三一部隊を戦争犯罪人からはずしてもらう条件でブラッド・バンクをつくった、と言われてます。戦争で血液の需要が増えるから、朝鮮戦争以前から朝鮮戦争の準備計画が進んでいたわけや。
日本ブラッドバンク(血液銀行)という名称で始まったんで、バンクと言うてた。バンクの前というたら、夜中2時頃から4,5百人ずっと並んでいた。400ccというと牛乳ビン二本ぐらい、それが同時の金で450円です。1970年頃になると400ccが1400円、90年にエイズ問題が起きて買血は中止になる。やめる直前で400ccが1800円ぐらい。
採血の常連は4千人。一日に二回売るひともおる。検査で血が薄いからはねられる。カルゲンという鉄粉の入った薬、あの辺の薬局に売ってた。それと塩をひとつかみ水で飲むと、一時的に血が濃くなったような現象になるわけや。当時は耳をガラスでちょっと切って検査したんや。検査の前になると、お互いに首を絞め合いして、グーッと鬱血させる。
それで「黄色い血」といううすい血になって血清肝炎が増えた。輸血した人が本来の病気が治って、今度は血清肝炎にかかる。バンクはそれを知った上で買うていた。
1982年(昭和57)9月6日の毎日新聞に、「人の胎盤買い占め 医薬品の原料に使う」「ミドリ十字など4社、研究陣に『七三一部隊』関係者」という見出しで「ミドリ十字は、大手産婦人科病院などに大型冷蔵庫を寄贈。医師や看護婦に頼んで、出産、堕胎時に妊婦の体内から出る胎盤をビニール袋に入れ、冷凍保存してもらう」という記事が出ました。これは、産婦本人には無断で行われてたと言う。


血液銀行、七三一部隊が絡んでいたのは何かの本で読んだ記憶があるが、これにも朝鮮戦争が絡んでいたとは。

戦後生まれの人はほとんど知らんやろけど、戦争中兵隊に取られるんで日本人労働者が不足した。それで朝鮮、中国から大勢の人間を強制的に連行して来て、炭鉱とか土木とか港湾荷役とか、きつい汚い危険な現場で国策産業に従事させたんです。それが、戦後になると、「お前ら日本国民やない」。働いた賃金も払ってもらえん、強制連行の補償もない、その問題は講和条約で国どうし話がついている、と日本政府は言う。問題はまだ解決してないやないか。(第九章 釜ヶ崎三百六十五日)

底辺に住み続けた著者は、朝鮮、中国の強制労働者への視点も、揺るぎない。

以下は巻末に収められた三人の座談会からの引用。ほとんど平井の発言ばかりになってしまった(^_^;)

平井正治 日本の左翼というのは、みな調子がええけど。いざ戦争になると、下っぱだけがみな取り残される。これは運動にしろ、土木にしろ、港湾にしろ、労働者がみなそうですわ。調子のええ時は、残業残業言うて、奨励金出してやらしといて、景気が悪うなったら下請け下っぱから順番に切っていく。結局、憎まれてるやつが窓際へ追いやられていく。これのくり返しで、もう無計画な経済のね。
ソ連や中国の経済が計画経済かいうたら、そうでもなかった。今の北朝鮮とキューバが一番最後に取り残された例です。あれがどないなっていくんか。反発も食らうけど、反発を恐れたらほんまのこと言われへん。ほんまのこと言われへんというのは、やっぱり本物の民主主義やないと思う。どうもいまの世の中、ちょっとした言葉尻に差別や何や言うて、叩きぐせがいまだに抜けていない。それで、どうも日本人は水に流して忘れてしまうという癖が。もう震災もだんだん風化して来てる、予算面でもどんどん切られてしもてる。要するに、弱いもんは切り捨てる。


そう、弱いものは切り捨てられる。平井は弱者でありながら、権力に異議申し立てし続ける。

平井 無縁仏のことを書くというのは、僕のその思いでね。無縁仏が何で悪いんやと。別にもともと生れた時に、自分の名前が何やいうてつけた名前でもないし。日本の戸籍制度そのものは、明治政府が兵隊をつくるためにこしらえた制度やから。明治の初期には、幕末の勤王方の浪士やってた連中というのは、みな明治政府になってから名前変えてますやろ。伊藤博文でも。それは幕末の時はようけ人殺してんのやから。

戸籍制度の根本的意味をはっきり理解している。「無縁仏で何で悪いんや」という言葉は、彼の本心だろう。本書のタイトルも、無縁という境遇がいっそ清々しいということから付けられたのではないかと深読みしたい(^_^;) これはMorris.の気持ちと共通する。

平井 「釜ヶ崎解放」いうて運動のスローガンにある、それでたまに労働者が、釜ヶ崎解放て何やときいた時には、だれも答えが出ません。僕は、「そやな、釜ヶ崎というような、こんな矛盾したところをなくすことが解放や」と。これはある労働者が「とにかく解放ということについて、よかれ悪しかれ、答えてくれたんはあんたがはじめてや」と。組合はみな「釜ヶ崎解放」が第一スローガンや。そのくせ、釜ヶ崎解放てなんやいうたら、黙ってしまう。本来、解放ということは、「こんなとこなくしてしまえ」ということや。だからそう簡単になくせるわけにはいかんけれども、徐々にそこに向けていかんと、いつまでたったかて、明治以来百三十年間の繰り返しがまだまだ続く。
藤原良雄 なくすというのは非常にむずかしいことだと思うんだけども、ずーっとお話を聞いて考えていると、本当に釜ヶ崎が日本資本主義の縮図だなということがビシビシと伝わってくるんです。だから日本資本主義を理解しようと思えば、やっぱり釜ヶ崎を知らんといかんぞ、ということを平井さんが言われたんじゃないかなという感じがするんです。
山田國廣 日本の資本主義社会がもっているある種の何重にも差別されている構造がありますね。そのことによって、釜ヶ崎は、結果として、ある人にとっては一時的な逃げ場でもあるけれども、ある面では非常に都合のいい労働力提供場所であって、それが一種の資本主義の階層を支えているみたいなところがありますよね。そういうのは、釜ヶ崎以外にもいっぱいあると。そうすると、それはある種、日本とか、あるいは資本主義が持ってる本質的な構造みたいなものとも言えますね。

山田 アメリカでは、多様な民族がそこで生きてて、働き方も、今言った季節労働とか、そういうのが普段の生活にシステム的に入っているわけだから。釜ヶ崎の場合は、人間関係が分断されて、孤立して一人にされて、そういう一人一人が集まって来る。
本田都 それに日本は、平井さんも言われましたが、部落差別とか外国人差別と、もう否応もなく一方的に追い込んでいくような社会の構造がありますね。

平井 結局、労働力の需要が多い時は、やっぱり労働者の要求が通ります。ストライキという武器が使えるから。ただ運動の中で、運動がちょっと高揚した時にある程度、賃金とか労働条件で多少の改善はあるけれども、不況になると、またそれが下がってくるという。この頃また賃下げとか、労働条件は悪うなってきてますね。


こういった下からの意見は、常に上からの都合で握りつぶされている。

平井 総評とか学者が、あいりん地区労働福祉対策答申案というものも出そうとしたが、地区の労働者をとびこえたところで、上から「こうしてやる」という実状をかけはなれたもので、立ち消えてしまった。
ボランティアやってる人の学習会によばれますけど、まずあんたが炊き出しに行ったら、炊きだしたものを自分らも一緒に食べなさいと。かわいそうやという思い上がった心ではそれでは労働者に心伝わらん。かわいそうやから助けて上げるて、それやったら釜ヶ崎なくなるまで助けなさいよ。ボランティアを続けてる人と、一時の思いで来ている人と、まず何を思い、何をするかということを考えてほしい。

平井 どうしても「釜」には、ここは天国の歌式に、その日かぎりの生活ということが、言葉の上では踊ってるから、宵越しの金を持たんという。活動家までがそういう言葉を使うから。それはあかんでと。しごとがない時はないなりの生きざまがあるやろが。生きざまが悪いんやと。そのことを、労働者に、不況の時は不況に耐えていけるような生きざまをせなあかんぞということを知らしめていくことや。(1996年1月3日の座談会)


市井の思想家、活動家、社会学者という言葉だけでは収まりきれない存在。

平井正治 略年譜
1927(昭和2)11月3日、大阪市南区日東町(現在の浪速区日本橋)の教材屋の長男として誕生。
1934(昭和9) 生業倒産、差し押さえ
1937(昭和12) 親戚に預けられ丁稚奉公
1940(昭和15) 金属工場の見習工
1941(昭和16) 京都の教材屋組合倉庫で働く
1942(昭和17) 京都大林組で働く
1943(昭和18) 3月 舞鶴海兵団に志願合格 海軍工廠工場で水雷の火薬詰め
1945(昭和20) 9月 海軍より幅員、帰阪、闇屋になる 12月 松下電器入社 共産党入党
1946(昭和21) 松下電器労組木工支部青年部長書記長
1950(昭和25) 共産党専従地区委員
1951(昭和26) 反米ビラで逮捕 松下電器解雇
1954(昭和29) 党の査問とリンチを受け除名 京都で撮影の仕事
1960(昭和35) 一匹狼として諸闘争に参加
1961(昭和36) 釜ヶ崎に移り港湾労働者になる
1966(昭和41) 港湾労働者の組合結成
1969(昭和44) 釜ヶ崎の日雇い労働者組合結成協力
1995(平成7) 阪神大震災救援活動に参加




2018/09/26(水)●全治までまだまだ?(>_<)
7時起床。
今朝の血圧は179/75/86。36.0℃
韓国ドラマ見てから、自転車で金沢病院へ。
待合室で新聞見たら、広島高裁が伊方原発の仮処分決定取り消しの判決(>_<) 四国電力は10月に3号機を再稼働させる方針とか。
今日はレントゲン撮影と診断で、そろそろ全治ではないのかと質問したら、もうしばらく様子見ることにして、2週間後くらいにまたレントゲン撮影、その後、最終的にCTスキャン撮影で問題なければ全治ということになるとのこと。それまでは右足に余計な力入れないようにとのこと。うーん、思ったより時間がかかる。もう少し早く治ると思ってたけど、ヒビというのは時間がかかるようだ(>_<)
事故当初から覚悟はしていたが、これで今年の韓国行きは絶望的だな。
水道筋で買い物して午後1時帰宅。
屋上上がったらすぐに雨降り出したので部屋に戻る。
タウンページと「防災タウンページ」というカレンダーになる小冊子が各戸に配達してあった。ぱらぱらと見たけど、Morris.にはあまり役たちそうにない。
午後には東海第二発電所の安全審査合格というニュースも。どんどんどんどん原発再稼働への動きが加速しているようだ(>_<)
広島がやっと、優勝決定したらしい。おめでとう!!
今日の歩数は1500歩。


今日のレントゲン(^_^;) 

寿司屋「七福」の寄り目 

防災タウンページ 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 골목 상권[商圏](コルモクサンgクォン 路地商圏)
地域活性化のため、庶民が商売している路地などの特定地域と特定業種に大手企業が進出することを制限する場合がある。庶民の商圏を守るために作られた言葉。골목길 コルモッキル大好きなMorris.にとっては、この制限大いに賛成である。

【日本中枢の狂謀】古賀茂明 ★★★☆ 2017/05/30 講談社
古賀茂明 1955年長崎生れ。1980年東大法学部卒業、通産省入省。2011年3月の東日本大震災と原発事故を受け、4月、日本で初めて東電の破綻処理策を提起。その後経産省から退職を勧告され、9月辞職。大阪府市エネルギー戦略会議副会長としては脱原発政策を提言。

テレビ朝日「報道ステーション」のコメンテーターとして歯に衣着せぬ発言で、古舘伊知郎となかなか息の合った?やりとりを楽しみにしてたのだが、「放送事故」で片付けられたが、もっと根の深い、降板劇。本書にはそれに触れた部分もあるが、Morris.は安倍批判の部分に一番関心があった。

後藤さんは、安倍政権から見れば、帰って来てほしくない人だったのではないか。そのことが安倍政権の対応を決定する要因として働いていたのではないか。そんな疑いを口にすることは、現在の安倍政権の言論統制のなかでは、ほとんど不可能である。


ISによってネットで「公開処刑」された後藤健二。安倍政権はじめから彼を助けるつもりがなかったということになる。

安倍政権の特徴について触れておきたい。それは、「自らの非を認めない」ということ。これは、安倍総理の個人の性格にも強く影響されているようだ。
第二次安倍政府が誕生(201/12/26)したとき、私が一番おかしいと思ったのは、自民党総裁・安倍晋三氏が、過去の自民党政治についてまったく反対せず、日本がかかえているあらゆる問題が民主党政権のせいであるかのような態度をとったことである。そして、この態度はその後も続いている。(第一章 総理大臣の陰謀)


「息を吐くように嘘をつく」という安倍晋三のキャッチフレーズがリピートする。

大手メディアは、日本の官庁、政党、業界団体などに、共同で「記者クラブ」というものを置いている。
日本外国特派員教会は「報道の自由推進賞」の発表文の冒頭で、ジョージ・オーウェルの言葉を引用した。
「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じるものだ。それ以外のものは広報に過ぎない」
つまり、日本外国特派員から見れば、日本の報道は単なる取材先の広報部に成り下がっている。そう警鐘を鳴らしてくれたのだ。[記者クラブという名の究極の既得権益]


記者クラブの理不尽さは、そのままクラブに所属している「非」ジャーナリストの温床(既得権益)である。これを廃止しない限り、日本の報道は広報でしかないことになる。

唯一転向しなかったコメンテーターはTBS「NEWS23」のアンカーを務めた岸井成格氏だという。(第三章 新聞テレビから漂う腐臭)

岸井は日本には珍しい本物のジャーナリストの一人だった。ソフトな物腰でハードな正論を吐くそのスタイルに魅了されていた。今年5月15日、肺腺がんで逝去。Morris.はこれも知らずにいた(>_<) 享年七十三。

戦争や武器産業と、それと癒着した政治家たち。彼らには、悪人というイメージがある。しかし実は、喜ぶのは彼らだけではない。普段は善良な労働者と一般の市民らも、自分の生活の利益になると思えば、悪気はないものの、武器輸出に泊手を送る人間になってしまう。
繰り返して強調したい。「人間は弱い」のだ。
なるほど、安倍政権は怖ろしい。しかし、もっと怖いのは、経済的理由で私たち自身が武器輸出を望むようになり、戦争への最後の歯止めが失われることではないか。


そのとおりである。人間は弱い。市民運動への参画も一定の経済力なしには難しい。

自民党が現行憲法を批判する根拠の一つとして挙げるのが、「戦後70年、一度も改正されず、古くて現在の状況に適応できなくなっている」という点。70年改正されなかったのは事実だが、これは「改正を怠ってきた」ということではない。むしろ、「改正するべきではないという考えが国民の間に定着した」と考えるべきなのだ。
太平洋戦争の悲惨な結末から学んだ日本の国民にとって、憲法、特に九条が、心のなかにしっかり根を下ろしている。だからこそ、自民党がいくら改正を主張しても議論がもりあがらなかったのである。いまも国民のあいだに改憲を求める気運が強まっているわけではない。あくまで、自民党と安倍政権が、改憲気運を無理やり高めようとしているのだ。(第四章 日本人だから殺される時代)


憲法「改正」の「改正」にひっかる。

経産省は、彼らの責任問題をうやむやにすることに成功した。一方の東電は、すべては東電が悪いとばかりに世論の批判を一身に背負う形になったのである。ただ、その見返りとして、「東電は何があっても潰れない」という、極めて珍しい株式会社になって「しまった」。
実は、その後の福島の事故処理や被災者の救済が極めて不十分な形でしか進まなくなったのは、この裏取引が原因だということは、あまり認識されていない。
「絶対に潰さない」ということは、東電の負担は、東電が潰れない範囲でしか増やせないという制約を生む。除染の範囲をどうするか、住民への損害賠償の基準をどうするのか、ということを決める際に、常にこの制約がかかる。そのため、住民のため、周辺漁民のためという、本来は最優先すべき目的が劣後し、不十分だと分かっていても、「東電を潰すわけにはいかない」というまったく理由にならない理由で、いつも放置されてしまうことになった。


東電と経産省の茶番、というより計画的密約。

安倍総理は、2013年9月、ブエノスアイレスのIOC総会で、東京電力福島第一原子力発電所の汚染水問題について、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています」「東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」「(放射能)汚染水の影響は、港湾内0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされています」と、大見得を切った。世界中が注目するなかで、これほどの嘘がまかり通ったことが、歴史上あっただろうか。

これは、Morris.もリアルタイムで視聴したのだが、トンデモ発言だった。絶対忘れてはならない。

安倍総理は、二言めには「原子力規制委員会が世界一厳しい規制基準に適合すると認めた原発は再稼働させる」と発言する。「世界一」だということへの批判が強まると、「世界最高水準の」といい換えたりするが、いずれにしても、これこそ「世界一の大嘘」だといってよい話だ。

これもひどいな。

避難指示を解除して、住民を無理やり、地元に戻らせる。そして、健康被害が生じても分からないように健康調査を縮小する。そいれは東電のためでもあるが、実は、それより大事な理由がある。
それは、「原発事故があってもそんなに大したことはなかった、すぐに元通りに普通の暮らしに戻れた」というフィクションを作らなければならないという事情があるのだ。なるべく多くの地域で、住民が帰還して、普通らしく見える生活を始める。そこには、放射能の「ほ」の字も見えない……それを最も強く望んでいるのが、他ならぬ安倍総理だ。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックで、世界に対して宣言したい。「福島の原発事故から9年余り。私は、ここに、福島が完全に復興したことを世界の皆さんに宣言いたします」--それが安倍総理の開会式のスピーチの目玉だ。(第六章 甦った原発マフィア)


こういった、情報操作。「風評被害」を逆手にとって、被害の実態を隠蔽しようとする作戦はかなりの効果を挙げているようだ。マスコミがこれに加担してるのは言うまでもない。いたずらに不安を煽るのは避けるべきだが、事実の検証をおろそかにして済し崩しに風化させることはあってはならない。加害者を擁護し、被害者にしわよせするという構図。

2018/09/25(火)●大和くんと二人カラオケ
7時起床。
今朝の血圧は174/52/81。35.5℃
昨日下ごしらえしておいたガイヤーンと、その皮を湯引きにして冷凍庫にいれてたのをスライスしたのを肴に、朝から一杯(^_^;)
BS朝日の韓国ドラマ見て、午後は部屋ゴロ。
6時に部屋を出て、JRで新長田へ。
大和くん主宰の歌居屋でのエンジョイカラオケ。先月は今里のカラオケ「みどり」と重なって欠席したので、今日は行かねばとステッキついて行ったのだが、集まりが悪くて、結局二人だけ(^_^;) 大和くんの北朝鮮訪問の土産話を聞いて、北朝鮮の歌本というレアなものを見せてもらったりしたあと、二人でのカラオケバトル(^_^;) 以前にやっぱりふたりだけだったときがあって、その時と同じく、一人二曲ずつ歌うことにする。二人で交代に歌い続けるとあまりにも忙しないもんね。
で、11時まで休みなしに歌い続けた。リモコンで歌った曲の履歴見られるので、今回はこれをメモ代わりにデジカメ撮影してきた。関心ない人には鬱陶しいかもしれないが、二人が歌った曲を一部公開しておく(^_^;)

大和くん  Morris
パンガプスムニダ(キムウンシル)
壊れれた掛け時計(ナフナ)
ソサンケケンマウル(チョミミ)
クムサンアガシ(キムハジョン)
トダシサラン(イムチョンジョン)
水鳥一羽(ハチュナ)
私を捨てた男(ハチュナ)
チャンノクス(チョンミギョン)
ひまわりの花(チョンミギョン)
コン二プサランン(チェソクジュン)
浮草(パクユンギョン)
ソグンソグン(イジャヨン)
チャルランチャルラン(イジャヨン)
オッパヌンチャリッタンダ(ヒョンスク)
アリランチョニョ(イジャヨン)
モルレヤ(キムジエ)
レハンサラン(キムジエ)
ピナリ(シムスボン)
カルセクチュオク(ハネジン)
チョンサンチェフェ(チェジニ)
ミリョンテムネ(チェジニ)
カンナムスタイル(PSY)
I Believe(シンスンフン)
ワンソバンヨンソ(キムジョング)
感激時代(ナムインス)
花びらの愛(チョソクチュン)
零時の別れ(ペホ)
アシ(イミジャ)
キダリヌンヨシム(ホンジニョン)
招魂(チャンユンジョン)
蔚山クネギ(キムサンヒ)
カンナムモッチャンイ(ムンヒオク)
羅針盤(ソルンド)
失われた三十年(ソルンド)
流行歌(ソンデグヮン)
ネパクチャ(ソンデグヮン)
チントペギ(ユジナ)
マンブソク(キムテゴン)
駐車場(キムスヒ)
南行列車(キムスヒ)
あなたの意味(イジャヨン)
チョンマルロ(ヒョンスク)
エレナになったスニ(アンダソン)
ソウル夜曲(ヒョンイン)
雨に濡れるターミナル(チュヒョンミ)
雨降る永東橋(チュヒョンミ)
口紅濃く塗って(イムジュリ)
予定された時間のために(チャンドク)
ワ!(イジョンヒョン)
Tears(ソチャンヒ)
無情列車(ナムインス)
壊れた愛の塔(ナムインス)
頑張れクムスナ(ヒョンイン)
万里浦の愛(パクキョンウォン)
他郷暮らし(コボクス)
ナンナンシッパルセ(ペンナナ)
春の日は過ぎゆく(ペクソリ)
サンダヌンゴン(ホンジニョン)

もう少しあったと思うが(履歴デジカメ取り損ねあり(^_^;) おおまかな傾向はわかるだろう。
11時過ぎに歌居屋を出て、零時前帰宅。
今日の歩数は1500歩。


ガイヤーン 

ガイヤーンの余得(鶏皮湯引き) 

屋上夕景 

夜の鉄人 

北朝鮮の歌本(@_@) 

2年前の本なのに、凄い紙質 

大和くん熱唱 

曲の履歴 

ああ、よく歌った(^_^)/

[今日の韓国語単語from Kpedia] 기름(キルム 油、オイル)
참기름(チャムギルム ゴマ油)    
들기름(トゥルギルム エゴマ油)
콩기름(コンギルム 大豆油)    
고추기름(コチュギルム ラー油)
豚などの脂身は비계(ピゲ)という。   
韓国ドラマの수수께끼(ススッケッキ なぞなぞ)の場面で「世界で一番長いものは?」という問の答えが참기름(チャムギルム ゴマ油)続けて「 二番目は?」の答えが들기름(トゥルギルム エゴマ油)というのがあった。기름を길다(キルダ 長い)の名詞形だとこじつけ、(チャム とても、実に)と言う意味に、(トゥル 二つ)に無理こじつけたもの(^_^;)

【荒地の恋】ねじめ正一 ★★★
2007/09/30 文藝春秋

詩人北村太郎と田村隆一の妻明子との恋愛を中心とした、モデル小説。タイトルは彼等が詩誌「荒地」同人で、鮎川信夫、中桐雅夫、黒田三郎、三好豊一郎など、作品読んだことのある詩人たちが登場するのも興味深かった。
北村太郎はこれまでほとんど読んでこなかったが、三宮図書館に「北村太郎の仕事1-3」があって、なんとなく気になってて、第一巻の「全詩」を読み終えたばかりだった。
Wikipediaで北村の恋愛事件?とこのモデル小説があることを知り、読むことにした。
作者ねじめも、詩人なので、先達詩人として、荒地の詩人たちとの面識はあったようで、作品中、詩の朗読会にちょこっと登場する。モデル当人や関係者が、亡くなったのを見計らって書かれたのかもしれない。田村の妻の他に、若い看護婦との恋愛や、妻治子との軋轢もあって、実際は相当以上にどろどろしたものがあったのだろうが、本書では比較的ドライに描かれている。どこまで事実に基づいて、どこらへんがフィクションなのか、わからないが(わかる必要もないか)が、田村隆一へのねじめの視線が厳しすぎる(嫌悪感?)ような気がした。

「なあ、頼むよ。何だったら共訳ってことでもいいからさ」
共訳か--受話器を耳に押し当てながら、田村の抜け目のなさに舌をまいた。こっちの思いを見抜いて、落としどころを正確に読んで押してくる。
「いいよ」
腹からこみ上げてくるものを抑えて北村は言った。
「ただ、俺の訳もちょっと古くなってるから、そこを直してからでいいかな」
「ありがたい。そうして貰えると助かるよ」
舌が泳いでいるような声で田村が言った。またしてもあいつの思うツボにはまったわけだ。むなしさとおかしさが同時に襲ってきた。田村は北村がそう言うだろうと思って共訳という提案をしてきたのだった。田村が無断で北村の原稿を使えば剽窃である。北村に諮り、北村が了解したとなると、今度は北村に道義的責任がかかってくる。といって断れば、田村との長い友情にヒビが入る。田村は「共訳」という言葉で友情と無理難題の板挟みとなった北村に逃げ道をつくり、自分は何もせずに翻訳料をせしめようというのだった。

田村という人間も、もしかしたら田村の人生も、殺し文句で出来上がっている。そしてまた、殺し文句の詩人は女を殺すだけで愛さないのだった。言葉で女を殺して、うまいこと利用して、面倒くさくなったら逃げ出すのだ。殺し文句の詩人が大切にしているのは言葉だけである。言葉に較べたら、自分すらどうでもいいのである。


いくら当人が死んだ後の作品だとしても、ちょっと行き過ぎではなかろうか。

北村は黙って鮎川の話を聞いている。鮎川が今、どんな想いで中桐のことを喋っているかがわかる。それは悲惨で滑稽だった。『荒地』の仲間たちの関係はいつも悲惨で滑稽だった。
「中桐は何であんなに飲んだかなあ」
「飲んでどんどん偏屈になってな」
「最後の頃は偏屈を通り越して狷介だったな。4年前に出た『会社の人事』っていう詩集。あれは俺、あんまりいいと思わなかった。もちろんいい詩もたくさんあるんだけれど、怒りだの孤独がちょっと生々しすぎると思った」
「俺もだ。詩を書くために詩を書いているように見えた」
「酒をなあ。もう少し酒を控えていればなあ」
田村よ、人生痛苦多しとえども、朝酒はやめろよ--中桐のそんな一文を、北村は読んだ記憶がある。
鮎川が言った。
「<人生痛苦多し>って言われてもこっちは挨拶に困る」
「ああ書かなきゃいれれなかったんだろう」
「書かなきゃいられないからって書かれちゃ、読む方はいい迷惑さ。きつい言い方だけどな。面と向かって言ったことはないが、俺がそう思ってるってことが、あいつには伝わっていたんだろうな」


中桐雅夫が死んだ直後の会話だが、詩集『会社の人事』はめったに本を買わないMorris.なのに購入して今も本棚にある。本当に北村と鮎川が、この詩集に否定的だったのか、ねじめのフィクションなのか気になるところ。

受話器を置く。煙草に火をつける。とたんに空の大きな一画が音を立ててこちらに向かって崩れ落ちるような衝撃が襲ってきた。指が震えて煙草を持っていられなくなった。枕元のコーラの空き缶に火のついた煙草をかろうじて押し込み、両手で顔を覆った。鮎川が死んだ。鮎川が急死した。鮎川がいなくなった。鮎川が、鮎川が、鮎川が----。
「ひでえもんだ。もう終わりだな」
鮎川とは十五、六歳の頃からの付き合いだった。初めて会ったのは昭和13年で、当時神戸にいた中桐雅夫の主催する同人誌『ル・バル』の在京同人会ルナ・クラブの席だった。鮎川は早稲田第一高等学校の詰め襟の制服を着ていた。長身白皙で、彫りの深い顔立ちの美青年であった。集まりに初めて参加して、緊張で戸惑っている北村に気をつかい、朔太郎をどう思うとか、ベルグソンの『笑い』はとても面白いから読んでご覧とか話しかけて、こちらの気分をほぐそうとしてくれた。そういうやさしいところのある男だった。『ル・バン』の同人は早稲田、慶応、明治学院、津田英学塾、日本女子大など多彩だった。新参の北村は黙って人の話を聞いていることが多かったが、議論が白熱し、鮎川が口を挟んだりすると、それがいちいちすとんと胸に墜ちた。この人とは波長が合うなと思った。北村は十五、六歳、二歳上の鮎川は十七歳だった。それからだんだん親しくなった。船倉が始まり、船倉が終わった。陸軍に入隊した鮎川はスマトラでマラリアに結核を併発し、終戦の前年に傷病兵として内地送還されて福井にいた。北村は真珠湾攻撃の二ヶ月後に十九歳で結婚し、翌年には若い父親となって、その一ヶ月後、妻子を残して海軍に入隊した。旅順で基礎訓練を受けた期間以外は内地勤務で、終戦のときは埼玉の大和田通信隊勤務であった。鮎川は終戦の年の暮れに上京して父親の逗留先である渋谷区に住み、北村は両親、妻子がいた世田谷区の弦巻に住んだ。その頃から付き合いが密になり、北村が朝日新聞社に入社して勤め人になるまでの数年間はほとんど一日おきに会っていた。


一番の理解者鮎川の死の報に接した時の北村の悲しみ。

北村さんが死んだ。
朝刊の死亡記事を見たとき、おかしなことに悲しみよりホッとした気分があった。ずっと前から、新聞がくると後ろから展げて死亡記事欄に北村太郎の名前を探す習慣がついていたからだ。息をととのえ、驚くまい驚くまいと自分に言い聞かせてから新聞を開く。そんな日々が終わったのだ。記事は短かった。
「北村太郎氏。詩人。本名松村文雄。10月26日、午後2時27分腎不全のため虎の門病院にて死去。享年69.10月28日、故人の遺志により親族・知己のみにて密葬」


これは北村晩年の若い愛人だった女性の回顧の文章。
もともと、Morris.はモデル小説というのはあまり好きではない。この作品?もいまいち後味が悪かった。
ともかくも、北村太郎の作品を先に読んでから、本書を読んだのは、良かったと思う。

2018/09/24(月)●秋夕(チュソク)
7時半起床。
今朝の血圧は153/55/85。35.8℃
8時半から10時までBS朝日の韓国ドラマ「適齢期惑々ロマンス~お父さんが変!?」を見る。あまりドラマは見ないMorris.だが、時々ハマることはあった。以前は、予約録画できたのだが、外付HDDが故障してそのままになってる。買おうと思えばすぐにでも買えるのだろうが、故障を奇貨として、テレビ番組に取られる時間を減らすことにしたのだ。
それはともかく、療養生活を余儀なくされてたので、ついついBS放送の韓国ドラマでも見ようか(いちおう韓国語学習の一環として(^_^;))とおもって、このドラマを数回見てしっかりハマってしまった(^_^;)。 全52回放送で、今日が46話だから、残り6回。つまりほぼ9月いっぱいで終了らしい。右脚の回復の調子からすると、最終回まで見続けることができそうだ。字幕放送なので、時々面白い言い回しが出てきて、「今日の韓国語単語」のネタ集めにも役立ちそう。
朝ごはんはトーストと玉子スープ。
昼に自転車で水道筋へ。今日はマルハチ以外に、安売りの八百屋も冷やかしたら、パクチーがえらく安くで出てたので迷わず買う。先日ダイエーで買った奴の倍くらい量があって値段は2/3くらい。一昨日の朝ごはんのパクチー粥が死後でしばらくお預けと思ってただけに嬉しい。
午後1時帰宅。買ってきた食材の下ごしらえしてから、屋上に上がる。夕方から雨になりそうなので、雨が降るまで屋上ライフ。と思ったのだが一向に雨が振らず5時過ぎまで屋上に居た。
Morris.のアパートは五階建てで屋上も高い方ではなく、東西南北のうち半分以上は高いビルに囲まれて眺望できない。その隙間からどんなものが見えるか、いくつかデジカメで撮影しておいた。阪急電車の高架が王子公園から春日野道駅までの途中でかなりカーブになってることに今更ながら気づいたりもした。
5時半に部屋に戻ってテレビ付けたら何と阪神-巨人戦の中継やってた(@_@)。月曜だから野球はないと思ってたのだが、そうか昨日日曜が秋分の日で、今日は振替休日だったのか。2時開始のデイゲームでもう3時間以上、しかも0-0で12回(>_<) 結局引き分けになってしまった。セリーグは三位以下が団子レースで、残り試合の多い阪神がプレイオフ進出に有利ともいわれているが、今日の引き分けはちょっと痛い。
今日は旧暦8月15日。韓国では秋夕(チュソク)という名節で、連休のはず。日本では中秋の名月だが、神戸は曇ってて見えない。
今日の歩数は1000歩?


切れ間なしにパクチー\(^o^)/ 

屋上北から時計回りに(美術館) 

ベイカリー 

人気のクレープ店 

コロッケ水野家とプリンセスソース 

ちょっと気になる私道 

六甲道駅 

ハンドメイドケーキ 

神戸製鋼TWIN煙突 

三宮方面 

阪急電車高架急カーブ 

12回 0-0(^_^;) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 명절[名節](ミョンgジョル 伝統祭日、名節、祝日)
韓国では陰暦1月1日の旧正月、(ソル 구정[舊正]クジョンg)と陰暦8月15日の추석[秋夕](チュソク)が二大名節で祝日となる。
추석한가위(ハンガウィ)ともよばれる。日本のお盆のような行事だが、日本のお盆は旧暦7月15日。
朝鮮時代の四大名節は旧正月と秋夕に加え、陰暦5月5日の단오[端午](タノ)、冬至から105日目の한식[寒食](ハンシク)だった。
そのほかにも陰暦1月15日の대보름(テボルム)、4月8日の釈迦誕生日초팔일[初八日](チョパリル)、6月15日の유두[流頭](ユドゥ)、7月7日の칠석[七夕](チルソク)、11月の동지[冬至](トゥンgジ)などがある。
植民地時代の独立運動(三一運動)を記念する3月1日は삼일절[三一節](サミルチョル)で祝日、新しい名節といえる。

【北村太郎の仕事:1 全詩】北村太郎 ★★★☆☆ 1990/04/01 思潮社
北村太郎 1992年東京生れ。1941年東京外国語学校仏語料入学43年徴兵検査に際して海軍を志望、埼玉県大和田の通信隊で英米の暗号通信傍受と分析に携わる。戦後は1949年東大仏文科卒業。朝日新聞校閲部に勤務、76年退社。戦前から中桐雅夫主宰の『ル・バル』に参加し、1951年、田村隆一、鮎川信夫らと『荒地』を創刊、同人となる。英米のミステリー、スパイ小説などの翻訳も多い。1992年10月26日、腎不全のため虎の門病院で死去。享年69。

三宮図書館の文芸コーナーの棚に「北村太郎の仕事」全三冊があり、えらく分厚くて、他の詩集に比べてえらく目立っていた。名前くらいは知ってて気にはなってたが、その分厚さに畏れをなしていたのだ。つい魔が差して(^_^;) 借りてきてしまった。
「全詩」とあるように(他の二冊は「散文」)刊行時までに出版された彼の11の詩集と、初期詩篇を収めてある。

・北村太郎詩集1947~1966 (1966)
・冬の当直(1972)
・眠りの祈り(1976)
・おわりの雪(1977)
・あかつき闇(1978)
・冬を追う雨(1978)
・ピアノ線の夢(1980)
・悪の花(1981)
・犬の時代(1982)
・笑いの成功(1985)
・港の人(1988)
・初期詩篇(1938-1941)


ぼくは鳥を愛する。水に
棲む生きものは愚かだ。地を
はうもの、土にうごめくものは卑しい。
草のあいだに舞う蝶や、羽蟻や蜂は薄命だ。

掌に包むと鳥は暖かい。
豊かな羽毛、賢い眼、雄々しく、寂しく、潔い。だが
そんなに徳多い鳥も、足だけは恐ろしい。それは
悶え死ぬにんげんの手のかたちだ。(「鳥」北村太郎詩集)


行分けしながら、文章が切れ切れになるような改行(跨ぎというのかな)の多用が、いかにも「荒地」仲間の詩らしい気になった。(ちょっとなつかしい(^_^;))
平易な言葉遣いをしながら、かなり深化した表現が見られる。鳥の足を悶え死ぬ人間の手に喩えるあたり。

ぼくは、とどのつまり、何になるのか
時計の音とともに、光と物質は
うすめられてゆくが、ぼくも
いたずらに幻をひろげいって
自滅するのみか もともと
無理につれ出された世界なんだ しぶしぶ
生きて、いやいや死ぬのか(「冬へ」北村太郎詩集)


終わりの二行はどこかで読んだ記憶があるな、と思ったら、オマル・ハイヤームの「ルバイヤート」だった。

ずいぶんいろいろな詩の書き方をしてきた
われわれの国のことばは
単純な音だが
それなりに複雑な響きを出そうともした
現代詩は
行分け散文だとあわれなやつはいうが
(たぶんあと百年ぐらい
そう主張しつづけるやつがいるだろう)
全く無意味である
しかし
音の冒険をすすめても辛い結果しか生まれまい
一人ができることはごく僅かだ
音も意味もイメージも(雨の腕」 あかつき闇)


続けて「そんなことは評論家にまかせることにして」みたいな「うっちゃり」(^_^;) 一種の韜晦趣味かも。

わりなき思いの
一日が過ぎて
また新しいあしたへ
恐ろしい日々へ
冬の底へ(「a shabby new year」ピアノ線の夢)


どこか不気味なフレーズである。

ねむれないからねむらない
真夏はたちまち過ぎて
鋸歯状の
ムクゲの葉は
日ざかりの光をやけどするほど浴びたものだから
いちまいいちまいひからびて落ちて
湿った土のうえ
がまんできない暑さの長きはたしかにあったのに
蟻とともに
いつもの年のように
去った季節
さよならといえる季節はいつも夏だけだなと思いながら
涼しい夜の闇をみる
ねむれないからねむれずに
まだ秋の初めなのに
ボードレール的な冬をおそれている(「秋のうた」 ピアノ線の夢)


「さよならといえる季節はいつも夏だけ」というフレーズは好き。

ひねりつぶす ゴキブリを アリを
ひねりつぶす 新古今集を サングラスを
ひねりつぶす ことばの意味を 膿を
大戦争が終わって三十五年
小戦争がいくつあったか知ってるかい
それらの死者が何人になるか知ってるかい
二千万人だよ、個人が二千万、固有名詞が二千万だ
つまりは地球は終結しっぱなしだんだよ(悪の花 4)


ボードレールのあまりに有名な詩集と同じタイトルの詩集を出すというのも大胆である。

いったい
悪はどこにあるのだろう

病める花々
病むというのは「悪い」ということを
人間はかならず病む
だからかならず悪
じつに単純明快ではないか
なにもボードレーレだけの専売ではない
病める花々は

こころざし
という単語を見て
すごく吐いた(悪の花 7)


先のMorris.の疑問にもちゃんと答えてあった(^_^;) 「こころざしという単語をみてすごく吐いた」に、解説の荒川洋治がえらく固執していた。「吐き気がした」でなく「吐いた」とあるところ。なるほど。

<断固実行についてのノート>全文を
横組の詩集出版 ヒョーバン悪くたって
かまうものか 夜の徘徊欠かさぬこと 死ぬまでの
一人暮らし やさしさとは、そばにいること、と、かつて
岩田宏くんはいったが、そうかな? 満月みてベッドへ(「日録」笑いの成功)


岩田宏は好きな詩人の一人で、さらに小笠原豊樹名義での翻訳、特にプレヴェール、ブラッドベリの作品なんか、彼の訳以外では読む気にならなかった。その岩田宏からの引用は「やさしさとは、そばにいること」だけかな?

何から書いたらいいだろう。彼の詩は、いわゆる難解な詩ではない。が、一読卒然とわかってしまうといった類の詩でもない。
特に解説など必要としない詩であるけれども、また、いくら解説してもわからないところもあって、批評する人間にとっては」、いわばその未開の心の領域が興味の中核になる。北村太郎の詩は、奥深い固有の心の領域を持っているという意味で、私には特別である。(「北村太郎詩集」の解説 鮎川信夫)


最初の詩集の解説だが、一番の理解者であった鮎川ならではの、北村太郎の詩の特徴を集約しているようだ。
実はこの分厚い本を読もうという気になったのは、図書館で目次を見て、「ピアノ線の夢」という詩集のタイトルに惹かれ、同題の作品を読んで、これなら、他の詩も読んでみたいという気になったからだった。
いちおう全部読み通して、結局この詩が一番印象的だった。かなり長いが、せっかくだから、全篇引用しておく。


ピアノ線の夢 北村太郎

ある夜わたくしはラジオで
チェンバロの演奏を聴いていた
スカルラッティやバッハや
シャンボニエールの曲をやっていた
どれもたいそうよかったが
チェンバロの音ってどうしてこんなにすばらしいのか
聴いていて涙が出そうになった
にぎやかな悲しみとでもいいたい音だった
一曲終わるたびに
聴衆の拍手が聞こえたが
小さな演奏会場らしく
あらしのようでないのが快かった
みんなチェンバロが好きでたまらない人たちなんだなということが
すぐに分かった
わたくしは蜜柑をたべながら
ことしの蜜柑はあまくて安いなと思いながら
演奏のあいまに司会者の質問に答える独奏者の話に耳を澄ました
「チェンバロはペダルがありませんから
いいかげんな演奏はできないのです
曲の解釈をはっきり打ち出さないとだめなのです」
音楽に無知なわたくしではあるが
いくぶんかは分かって
なるほどと思った
それにしても
ピアノばかりが大流行で
チェンバロがあまり弾かれないのはなぜなのだろう
いろいろわけはあるのだろうが
ひょっとしたら
ピアノが発明されてから人類の文化はだめになったのではあるまいか
にぎやかな悲しみなんか必要としない時代が
もう二百年も前から始まったのではないか
あと二百年もしたら
楽器の世界はどんなことになるやら
そんなことを考えているうちに
ふと
共鳴箱に収まっているピアノ線が眼に浮かんだ
ぴんと張られたたくさんの絃
ピアノ線はすこぶる強靭である
たしか工業用にもいろいろ使われているはずだ
一九四四年
ヒトラー暗殺未遂事件というのがあったな
もういけません
ピアノ線の刃(やいば)のようなイメージが広がる
独裁者はこの事件で五千人のドイツ人を殺した
なかでも
主犯格の軍人たちを屠殺牛のように
ピアノ線で絞首刑にして冷蔵庫に吊ったのだった
猫はねこ
鳥はとりであるのに
にんげんは
良いことも悪いことも等身大以上のことをする
おまえ
そのことを頭に入れておいて
大きな眼でよく見よ
にんげんの歴史は
至高の愛と無窮の残虐の物語でありつづける
また
別の風景が見えてくる
二本の鉄柱
そのあいだに張られている
一本の細いピアノ線
ぎりぎりに絞って
ボルトとナットでしっかり固定されている
うえは青空
したは断崖
そこにおまえはぶら下がっているのかね
体重は
ふたつの柔らかいてのひらが支えている
肉が血しぶき吹いて裂けるから
むろん水平にも動けやしない
自分がこんなに重い倫理的なかたまりであるとはね
おまえ
ぶら下がりながら無の絃に足をぶつけ
せめていい音でも出さんかね
というような
マゾ的なまぼろしが現われてくるのだった
ラジオのスイッチはとうに切ってしまっていた
部屋は
うす明かりで
しいんとしている
チェンバロの音が耳の奥で鳴り出すと
徐々に
ふかい慰めと感謝の気持ちにひたされてきた
あまくて安い蜜柑をもうひとつむきながら
悲しみはにぎやかでなけりゃいけないと思った
チェンバロ!
クラブサン!
あしたもいい日でありますように
いくら寒くとも

あらためて読み直しても、かなりに恐い詩(死)である。もういけません(>_<)

2018/09/23(日)●Slow Life25日目(^_^;)
7時半起床。
今朝の血圧は154/69/74。35.8℃
名古屋の朴燦鎬さんからメール。毎日新聞夕刊の記事、朴燦鎬さんも19日と思い込んでて、当日販売店から夕刊を持ってきてもらい、記事が無いのでちょっとばたばたしたらしい(^_^;) 全国紙で18日の夕刊に掲載されたらしい。一言連絡してくれたら良かったのにね。
ちょっと遅めの朝ごはん。豆腐と豆腐の味噌汁、韓国海苔、キムチ、ジャコおろしという質素なメニュー。
身動きは不自由とはいいながら、上半身は全く問題ないわけで、回転椅子を車椅子代わりに使えば、部屋のなかでの移動はOKだし、料理や掃除、風呂、トイレは問題なし、。数日前から自転車使えるようになったから、買い物もまあなんとかなる。というわけで、ある程度、日常生活は落ち着いている。
昼から屋上に上り、サマーベッドひろげて、すっかりリゾート気分(^_^;)
4時に部屋に戻り、大坂なおみの、決勝戦をテレビ観戦。と、いっても録画で、リアルタイム中継はWOWOWが独占してて、これまでの試合も断片的にしか見られなかった。チェコのプリスコバとの対戦で大坂は1セットもとれず完敗。その後のユースでは彼女はウィルス性の病気で次の中国での大会は欠場とのこと。うーん、ちょっと残念。
洪ママから電話、というか、見舞いに行ってた歌麿会長が電話したのだが、事故で今月のサランバン会欠席したMorris.への配慮だろう。来月のサランバン会前の再会を約束しておく。
夜は昔のKBS歌謡舞台のDVDを見る。
今日の歩数は300歩。


朝ごはん 

屋上リゾート(^_^;) 

大坂なおみ優勝出来ず(>_<) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 뜻밖에(ットゥッバッケ 思いがけなく、案外、意外と、不意に)
(ットゥッ 意味、意志)+(バック 外)+(エ に)で思いの外にという意味を表す。
시험[試験] 문제[問題]는 뜻밖에 간단[簡単]했다(シホムヌンジェヌンットゥッバッケカンダンヘッタ .試験問題は案外簡単だった)
類義語には漢字語で의외[意外]로(ウィエロ)、예상외[予想外](エサンgウェ)などがある。

【埋れた牙】堂場瞬一 ★★★
2014/10/14 講談社 初出「インポケット」2013-14
吉祥寺で起きた二十歳の女性失踪事件を刑事瀧が追う警察小説だが、堂場独特の、街や政治にこだわった細部が、面白くもあり、いささか鬱陶しくもあった(^_^;)

「昔は、お父上とはいろいろありましたよ。下らない意地の張り合いで……武蔵野っていう地域は、政治家にとっては難しいところでね。保守と革新が入り混じっている。昔からの住民と新住民では政治的な考え方も違うし……我々保守派の人間としては、この地域でしっかり支持を取りつけるのは大事なんだけど、勢い余って仲間内でも--そういうの、分かりますか」
「要するに政治家は、自分が一番でないと気が済まない、ということですよね」
勝村が声を上げて笑った。
「まあ、その通りです。そういうことをはっきり言うのは……あなたはやはり、政治家に向いていないですね」
「そうですか」瀧も笑ったが、顔が引き攣るのを意識した。政治家になりたいと思ったことは一度もないが、他人から--それもプロから「向いてない」と指摘されると、何となく気分が悪い。


瀧の父と、勝村はともに武蔵野市会議員のライバルで、そのしがらみが、事件をややこしくしている。

井の頭公園は確かに武蔵野市の象徴で、外から訪れる人も多いのだが、吉祥寺駅の南側に住む人にとっては、実は邪魔な存在でもある。広大な公園が広がっているせいで、最短距離で駅と自宅の往復ができない人も少なくないのど。そういう人たちは、公園の中をショートカットするのだが、話を聞くと必ずしも評判はよくない。昼間は明るい印象の毅い公園なのだが、夜になるとかなり暗くなる。緑豊かなので、鬱蒼とした雰囲気が毅いからだろう。実際、暗くなってから一人で公園の中を歩いていると、瀧でも些細な物音や動く影にぎょっとすることがある。

井の頭公園は一度だけ行ったことがある。吉祥寺は詩人金子光晴や大島弓子が住んでたというだけで、何となく親しみを覚える。

正義感なのか、エゴなのか。ここでいくら父を追求しても答えは出てこないだろう。父も、いまだに政治家である。政治家は本音を呑みこみ、あらゆるタイプの人間を演じ分ける。それもまったく意識せずに。そしてその人間を演じている時は、自分でもその人間になりきっていると信じて疑わない。今、父が「正義のためにやったのだ」と言えば、心底そう考えていることになる。いくら攻撃しても、彼の気持ちには傷一つつかないだろう。

こういった、ステレオタイプの決めつけが堂場作品には多い。ファンにはそれが魅力なのかもしれないが……

2018/09/22(土)●Slow Life(^_^;)
6時起床。
今朝の血圧は145/48/90。36.0℃
今日の朝ごはんは、今年の秋はじめての秋刀魚。昨日マルハチで買ったものだが、いまいち脂ののりが良くない。最後のパクチー粥との相性もあまり良くなかった。
久しぶりに写真絵葉書書いて、今日も自転車でマルハチへ(^_^;) ステッキなしだとやはり歩くのに苦労する。買い物中はカートがあるので大丈夫だが、買ったものをリュックに入れて担いで、自転車置場まで行くのがちょっと不自由。
昼過ぎ帰宅。
阪神は広島とデイゲーム。先発藤浪で、阪神打線連発で13-4の大勝。まあ広島優勝は決まったようなものだから楽しみ先延ばしということでいいのだろう。ヤクルト敗けたんで、マジック2に減ったみたいだし(^_^;)
夕方、屋上に上がり、5時半までミニギターさらったり、雲眺めてた。トラック荷台からの転落事故から、やむをえずの不自由生活だが、これも一種の「Slow Life」なのかもしれない。考えようによっては、貴重な体験かもしれない。
大相撲は14日目で白鳳が41回めの優勝を決めた。奇しくもこれで千勝めだと。
今日の歩数は1000歩。


今秋最初の秋刀魚 

朝ごはん 

屋上から摩耶埠頭方面 

真上の空 

六甲山方面 

 同じく

[今日の韓国語単語from Kpedia] 오직(オジク ひたすら、ただ、ひとえに)
오직 당신만을 사랑해(オジクタンgシンマヌルサランgヘ ただひたすらあなたを愛してる)
간절히カンジョルヒ 切に、ひたすら)
우리는 평화[平和]를 간절히 원[願]한다(ウリヌンビュンgファルルカジョルヒウォンハンダ 我々は平和を切実に望む)
오로지(オロジ もっぱら、ひたすら、ひとえに)
인간[人間]은 오로지 편리[便利]함을 추구[追求]해왔다(インガヌンオロジピョルリハムルチュグヘワッタ 人間は、ひたすら便利さを追い求めてきた)
악기[樂器]는 오로지 연주[演奏]한다고 실력[實力]이 느는 게 아니다(アッキヌンオロジヨンジュハンダゴシルリョギヌヌンゲアニダ 楽器はひたすら弾いていれば上手になるわけじゃない)
最後の例文はMorris.には兎の逆立ち(ミミガイタイ)である(^_^;)

【續・食道楽 春之巻 夏之巻】村井弦斎★★★☆ 1928(昭和3)改版 玉井清文堂
去年、西宮の古書店「蝸牛」の百均の箱の中から掘り出した一冊。
もともと「食道楽」は明治36(1903)年から報知新聞に連載された後、単行本化されて大ベストセラーになり、続編まで出て、ブームになったもの。Morris.もその存在だけは知りながら、読む機会を逸してたが、蝸牛で入手したものは昭和3年発行で改版とあるから、何度も復刊されたものの一つのようだ。
続編だから、主要なメニューからこぼれたものが多いようだが、明治の小説仕立てになっていて、それなりに楽しめた。

お登和嬢が樺太ケーキを揚げる間に、玉江嬢は広き鉢の上に西洋紙を二三枚敷けり。お登和嬢一々揚がりたるケーキを西洋紙の上に置く、新太郎君其の所以を悟り
「斯うして油気を取るのですネ、もう食べても可いのですか」
お登和嬢「少々お待ち下さい、誠に恐入りますが、よく油気の取れましたのを板の上で半分に裁つて戴き度いものです」
新太郎君「成程分りました、北緯五十度の処から裁るのですネ、然し惜いものです、之を半分に裁るのは日本国民千載の遺憾です、だが仕方がありません。サア半分に裁りました」
お登和嬢「それでは玉江さん、お皿の上へ取つて、それから粉砂糖を振りかけて皆さんにお進げなすつて下さい」
新太郎君「ハゝハア粉砂糖の白いのをかけた処は樺太へ雪の降つた景色ですネ、ぼくが先づお毒見を致しませう」


これを見ると、日露戦争直後が舞台になってることがわかる。

玉江嬢「是れはネ、朝鮮風の漬物を応用して拵へましたのです、朝鮮に行くと外に御馳走は無いが漬物ばかりは実に美味ししいと申します、是れにはあの畑に沢山出来て居る山東白菜を株ごとそつくり取つて、外周りの葉を二側ばかり剥がして、中をよく一枚一枚に洗ひます、悪くすると洗ふ時中の葉が落ちますから気を付けて洗はなければなりません、洗つたらよく水気を切つて置きまして、別に三合の水へ塩一合五勺を入れて、一旦煮立て々、それが冷めましたら桶の中へ白菜を入れて、其の上から今の塩水をかけて蓋をして置きます」
小山夫人「玉江さん、別に壓石は要りませんか」
玉江嬢「イゝエ壓石と云ふ程のものは要りませんが、普通の蓋へ極く軽いものでも載せて置けば宜いのです、さうして五日ばかり内に上下を返すとよく塩が浸みます、別に白い身の魚を鯛でも比良目でも何でも強い塩を当てゝ、三日程置きまして、それを使ふ時小さく切ります。それから木耳をゆでゝ小さく刻みます、上等の板昆布も小さく刻みます、柚の皮も小さく刻みます、そこで漬けてある、白紙を塩水から取出して、葉を一つ一つ拡げて、葉の間へ今の品々を万遍無く振込ますが、処々に唐辛子を挟み込みます、それから葉を舊の形に累ねて、細い竹の皮で三四ヶ所ばかり縛つて、今度は別の塩水を沢山拵へて、復た十日程漬けて置きます。塩水が寡くつて葉が顔を出すとカビていけません、此の白菜を出す時は小口から輪切りにして、橙酢でも或は甘酢でもかけますと、斯ういふ風に綺麗で味も宜しう御座います」


これはキムチのつくり方のようだ。Morris.の知ってるキムチの漬け方とはずいぶん違うようで、かなり手間がかかりそう。魚や昆布、木耳など材料も多く、竹の皮で縛るなどと書いてあるので、ポッサムキムチみたいなものかもしれない。

子爵「球形甘藍即ちコルラビーと云つて、甘藍の根に出来る玉は、皮を剥いて塩ゆでにして白ソースをかけて食べると大層美味しいものだ、一度人に御馳走すると、何うかあの苗を少し頂戴と各処から貰ひに来る程の野菜だが、今迄は食べ方を知らない為め頓と世に行はれて居ない。それから此に掘つてある此の菊芋だネ、これはアテチヨーと云つて大層味の好い芋だ、アテチヨー料理と云ふ位で、料理法は幾通りもあるが、何にしても味が宜い、それで畑へ作るのは極く無造作で少しも手がかゝらず、何処でもよく出来るから農家の副業に適当だけれども、矢つ張り世人が食べ方を知らない為めにまだ何処でも作らない。玉江や、アテチヨーの味を皆んなに知らせ度いから、是れも一つお料理に使つてお呉れな」
玉江嬢「もう爾んなには使へません」


コルラビは、あまり日本では見かけない。釜山のヨンド(影島)の市場に売ってあってハングルでコルロビと書いてあったのだで、韓国語で、韓国特産の野菜かと思ったのだが、実は西洋野菜だった。ドイツ語でキャベツを意味するkohlと、カブを意味するラビをあわせてkohlrabiとなったらしい。こんな野菜が明治の頃、紹介されてるというのが興味深い。
「アテチヨー」というのはアーティチョーク(朝鮮薊)のことだろう。

玉江嬢「西洋風のサラダにはフランチソースやマイナイスソースの外にまだ変つたものが御座いませうか」
お登和嬢「御座いますよ、イギリスマイナイスと申しますと、ゆで玉子の黄身二つへ塩を小匙に二杯砂糖を小匙に一杯と、胡椒少しとをよくしやもじで練混ぜます、是れはご存知の通りよくよく色の白くなるまで混ぜて、サラダ油をホンの少し滴らして、復たしやもじで練混ぜて、今度は西洋酢を少し滴らして練り混ぜて、つまりサラダ油大匙一杯と西洋酢大匙一杯半と牛乳大匙一杯半とを幾度にも少しづゝ練り混ぜるのです、此の混ぜ方はマイナイスやフランチソースの時にもお教え申しましたが、決して気短にサラダ油、酢、牛乳を一度にドツと注いでそれから混ぜてはいえkません、酢と油は中々混ざりにくい物ですから、少しづゝ注いではよく練り混ぜて、前に入れたのがよく混ざつた時分に復た少し注ぐと云ふ様にしませんと、何うしても本当のソースが出来ません」


「マイナイスソース」はマヨネーズのことらしい。以上のレシピの通りでちゃんと家庭でもマヨネーズ作れそう。

夏之巻のはじめに嬌風演劇「女道楽脚本」という180pもある(全体639p)噴飯ものの脚本が突然挟み込まれて、これはページ稼ぎなのか良くわからないが、興ざめだった。

中川「此方には随分沢山の西洋野菜が作つてお有りですが、凡そ何十種位ありませう」
新太郎君「左様ですネ、先づ数へて見ませうなら、第一アテチヨーク、第二菊芋、第三アスペラガス、第四西洋豌豆即ちビース、第五ライマビーン、第六ビーツ、第七木立花椰菜即ちブロツコリ、第八芽キャベツ即ちブラツセルスプローツ、第九キャベツ、第十西洋人参すなわちキヤロツ、十一花椰菜即ちコリフラワ、十二セロリー、十三根セロリー即ちセリヤツク、十四玉蜀黍即ちコルン、十五西洋胡瓜即ちキウカンボ、十六ホースラヂス即ち西洋山葵、十七リーキ即ち西洋韮、十八レツタス即ちチサ菜、十九オクラ、二十玉葱、二十一パセリー、二十二パースニツプ即ち和蘭防風、二十三ジヤガ芋、二十四ポンキン即ち南瓜、二十五ラヂス即ち赤大根、二十六サルスフイー即ちバラモンジン、二十七ケール、二十八シヤロツ即ちワケギ、二十九ソルレル即ちスカンポ、三十スクオン、三十一トマト、三十二ターニツプ即ち蕪、三十三マスクメロン、三十四ウォターメロン即ち西洋西瓜、三十五ウオータークンソ、三十六……」
中川「オツトお待ち下さい、爾んなに勘定して居ると日が暮れます、大分足も疲れましたからお座敷の方へ参りませう」


西洋野菜がこれだけたくさん紹介してあるあたり、やはり当時としては相当にハイカラな料理の本だったようだ。

まあ、正編などを改めて読もうという気にはならない。

2018/09/21(金)●自転車で買い物に(^_^)/
7時半起床。
今朝の血圧は150/64/83。36.0℃
昨夜、冷蔵庫のビターレモンが切れてしまったので、ずっと前に買って手付けずにいたカティサーク開けてしまった。これはかなりヤバい。
朝みたら半分近くになってた(>_<)
今日も朝から雨降ったり止んだり。
雨の止みまを見計らって、一昨日浅海くんが配達してくれた自転車を杖代わりにマルハチまで行くことにする。ためしに自転車のサドルを下げて、変速一番軽くしたらなんとか乗って行けそうだ。ということで、無事マルハチまで自転車でたどり着けた。昨日くらいから部屋の中では、支えなしでも、よちよち歩きできるようになってるし、金沢病院での診断もいちおう「全治三、四週間くらい」という見立てだったから、そろそろ全快に近づいてもおかしくない。これで買い物がうんと楽になるのは間違いない。これだけでもかなり嬉しい(^_^)
今日は午後、座椅子を倒して本訓みながらついうとうとして、3時間近く居眠りしてしまった(^_^;) ほんまもんの部屋ゴロである。
自民党杉田水脈議員が「LGBTには生産性がない」という記事を7月号に掲載した「新潮45」が10月号にこの杉田発言を養護する特集記事が掲載されて、大きな批判にさらされ、今日、新潮社の佐藤社長が企画への弁明めいたコメント(謝罪ではない)を発表。これに関しては小田嶋隆が今朝の「ア・ピース・オブ警句」でこれに関する記事を公開している。例によってMorris.は小田島の意見に共感するところが多いが、こうやって大騒ぎになること自体が、杉田発言支持層を利するという小田嶋の結論からすると、今日の社長コメントなども、腹立たしいことの一つかもしれない。
今日の歩数は500歩?


危険(^_^;) 

蜘蛛の糸に吊られてた(^_^;) 

おじや風 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 말도 안돼(マルドアンデ 信じられない、ありえない 何てこったい)
直訳すれば「言葉にならない 話にならない」。一種の感嘆詞的用法。
類義語に개뿔(ケップル)というのがある。これは(ケ 犬)+(ップル 角)で犬に角があるわけはないということからの造語。
また세상[世上](セサンgエ)。 세상[世上](セサンg 世の中)+」(エ =に)で「世の中にこんなことが)みたいなニュアンス。

【「親米」日本の誕生】 森正人 ★★★☆☆ 角川選書:597 2018/01/26 KADOKAWA
「戦争と広告」を読んで、面白かったので、続けてこれも読むことにした。

本書はアジア太平洋戦争での敗戦後の、占領期から1970年頃までの日本社会において、アメリカ的なライフスタイルとそれを可能にする事物がどのように賞賛されてきたのかを考える。しかもアメリカ的なライフスタイルを達成しかつそれを凌駕する力を日本が持ったとき、日本の「誇り」の意識が立ち上がることも考えたい。アメリカに憧れ、抱擁されつつ、日本を誇るという「捻れ」は日常生活からも生じていたのである。(はじめに)

Morris.の少年期から青春時代が舞台らしい。

戦後の70年以上、このように劇的に変転した新たなアメリカ像は「自然」で「自明」のこととして日本人に経験されてきた。ロラン・バルトはこうした記号内容と記号表現の結びつきを自然なもの、時間をこえたものと捉えられているものを「神話」と呼ぶ。むろん、神話は、実際には特定の時代に、特定の思想的文脈(イデオロギー)によって作られた世界観の表現である。
「アメリカ」という神話は、自由、民主主義、資本主義の代表としてアメリカを賞賛する。それは、1980年代末まで続いた冷戦構造における「西側」のイデオロギーである。しかもアメリカは「西側」の諸外国に対して、とくに1950年代、アメリカ的生活の素晴らしさを強調するプロパガンダを制作してきた。
むろん、アメリカの神話は明らかに白人のブルジョア的である。この神話ではアメリカ全土にはびこる人種差別問題は隠されている。資本主義や民主主義というアメリカの神話は、このシステムそれ自体を決定している所有の形式がブルジョア的であり、しかもブルジョア的イデオロギーは自らの姿を不可視にする。


やっぱり筆者は構造主義的な思考方の持ち主のようだ。

アメリカ的文明に到達するため、日本では日常生活を抜本的に改善する必要が唱えられた。男性は職場にでかけ公領域で労働し、女性は当初は公領域で、しかしすぐに家庭内の私領域で労働することが「当たり前」となった。そしてその性差に基づく分業を主体的に行うことが重視された。言うまでもなく、この分業は「神話」である。
性差に基づいた分業は日本人の間に、男らしさと女らしさの規範を作っていく。この規範は、運動と同時に雑誌や新聞などのメディアを通して都市と農村、富める者と貧しい者とを横断していく。この神話は今や、「日本の伝統」とさえ言われる。


日本の伝統と呼ばれるものがアメリカに学ぶ(真似ぶ)ことから生まれた、という指摘には刮目させられた。

第一章では、進駐軍の持ち込んだ事物に注目し、それがアメリカ的な神話の需要に貢献したことを確認する。第二章では、敗戦後の生活改善運動において、アメリカ的な合理生活が目指されることで日本人の主体性なるものが作られていき、同時に男女の性別分業も作られていくことを明らかにする。第三章はアメリカ的生活を送るための家屋、家電製品が」導入されていくことを検討する。第四章は食品やそれを収蔵する冷蔵庫が日本の台所空間の創造過程において受容されていくことを明らかにしたい。第五章は娯楽や余暇が理想的な家族像、父親らしさ、男らしさと関わりながら日本に広まっていくことを検討する。(序章 --なんとなくクリスタル--)

目次代わりに引用した(^_^;) ざっとこんな内容である。

民主的な家庭を目指す生活改善、その中での食生活改善は、女性を生命の再生産の担い手とする。女性を家事に特化した性とするだけでなく、産む性とする思想が透けて見える。と同時に日本の食生活はこの時期に大きく変化した。今では米飯は日本料理における主食であることが自明視されているが、敗戦後のある時期までそれは栄養学的に問題ありとされた。そして栄養学や生活改善の知見を通して、「おふくろの味」と言われるものが作られていったのである。(第二章 民主主義と日常的実践)

問題視されている自民党杉田水脈議員の「LGBTは生産性ない」発言のルーツもここらあたりにあるのかもしれない。安倍晋三の理想も同根かも。

東京都の真ん中、代々木には広大な敷地ワシントン・ハイツがあった。アメリカ空軍の上級将校およびその家族のための団地で、中には827戸の住宅のほか学校、教会、劇場、商店などが設けられていた。東京に限らず日本各地でこのようなアメリカの町が現れており、しかも、周囲は塀で囲われ、日本人の立ち入りは禁じられていた。
進駐軍の住宅建設は敗戦国日本に課せられた業務であり、1945年12月には日本政府が建設工業協同組合進駐軍家族住宅の設計をいらしている。日本における米軍住宅は日本人が設計し建設したものである。(第三章 憧れの「ファミリーライフ」)


Morris.がこの時代を過ごした佐賀県の片田舎にはこのような施設など無かったと思うが、いわゆる米軍ハウスへの憧れをけっこう長い間持ち続けていた。

中谷宇吉郎はアメリカに滞在した3ヶ月のうちに体重が三貫も増加した。「オール読み物」1952年掲載の「電気冷蔵庫」で「アメリカでは、食生活の合理化が、大分巧く行ってゐるやうである。そしてそれには、電気冷蔵庫が、一つの大きな役割を果してゐるやうに思はれる」「電気冷蔵庫のやうな、一般日本人には無縁の話を、長々と書いたのは、物質文明が人間の生活に如何に毅い影響をもつかといふことを示す、一ツの例として挙げたわけである」と書き付ける。物質と社会との関係をはっきりと彼は見ていたことは強調してよい。それほどまでこの時代、物質と生活との関係がはっきりと見えていたのだとも言えるだろうか。

Morris.が小学校頃の家の冷蔵庫と言えば、まさに「ICE BOX」で、氷屋で買ってきた角氷をいれておくものだった。

日本におけるアメリカ映画の上映は、アメリカ政府による入念な計画に基づいている。アメリカは豊かであること、民主主義的であることが強調され、冷戦構造における敵である共産主義に対しては警戒心が示されていた。これが敗戦後の日本が進むべき道筋を明示したのである。

1966年、TBSがアメリカのホームコメディドラマ「奥さまは魔女」の放送を開始した。「奥さまは魔女」には、当時の日本家屋にはまだ珍しかった広いリビングと明るいシャンデリア、そしてソファ、アイランドキッチンに大きな冷蔵庫が登場した。このようなアメリカの「小市民的マイホーム主義」であるがゆえに、日本人はその生活スタイルと自らのものとの間のギャップに驚き、にもかかわらず実現不可能ではないと思ったのだろう。(第四章 おいしい生活)

たしかにアメリカ映画やアメリカのホームドラマは「夢」の世界に見えた。

「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ1961-72 1976-77)は双子の歌手ザ・ピーナッツとジャズバンドのハナ肇とクレージーキャッツが歌や演奏だけでなく、コントをゲストたちと繰り広げる。「シャボン玉ホリデー」のブームは、アメリカ的な娯楽番組の国産化なのであり、しかも日本の演劇的な笑いも取り入れることで日本人に受け入れられたのである。アメリカ的なものと日本的なものとが結びつきながら、お茶の間の家族の時間が作られていった。

「シャボン玉ホリデー」と「夢であいましょう」の放映はリアルタイムで見ることのできる時代だったのだが、生憎そのころ身近にTV受像機が無かったので見ることは出来なかった。後になって、ビデオ映像見て、あの時代にあんなにオシャレな番組があったのか、感動したものだ。これがアメリカ番組と日本の演劇的笑いがミックス視点にも感心した。

岸信介首相は、1957年9月になってようやくトヨペット・クラウンを購入した。当時乗っていたクライスラーやビックには「だんだん乗らないようにするつもり」であると「朝日新聞」(1957年9月3日付)は伝える。岸首相に遅れること一日、一万田尚登蔵相もこの車を導入した。これらは日本国産車が国家の象徴であることを強く印象づけている。

戦後12年目に時の首相が国産車に乗ることになったというのは、けっこう早いようにも思えるが、戦後しばらくは「高級車」=「外車」だったことは間違いない。

アメリカと日本の力ゲームの物語は、1990年年代に大きな影響を与える。「「NO]といえる日本」を主張する石原慎太郎が右派的な発言にもかかわらず、いやそれゆえに圧倒的な支持を受けて東京都知事になる。右派的発言の石原は、しかし若き頃にはアメリカ主義の寵児であった。その石原がアメリカ主義的であった時代が、電化製品と自動車を筆頭にして日本は世界に羽ばたいた時代と重ね合わされ、しかも「懐かしき」「日本人みんなが必死で働いた」「貧しくても幸せだった」時代と郷愁をもって振り返られる。そしてその石原や60年代の成功の物語が、1990年代のグローバル化に対する不安の中で召喚されるのである。
それは、親米日本の健忘症である。アメリカには憧れそのようになろうとしたことを、あえて忘れる。石原慎太郎のアメリカ主義だけではない。日本の「美しさ」を強調する安倍晋三首相の祖父、岸信介は国産車を購入するまでトヨペット・クラウンの発売から二年を要した。
親米は、21世紀の日本のナショナリズムと分かちがたく結びついていくのだ。(第五章 スピード、車、男らしさ)


「親米日本の健忘症」\(^o^)/ それも確信犯としてのそれであるというのが複雑なところである。Morris.も患者の一人であることは間違いない。真性健忘症の疑いもあるけど(^_^;)

この(アメリカ)神話は家庭内を民主化することを求める。この民主化は男性と女性の性差を本質化した。男性は外で働き社会での生産活動に貢献する、女性は家庭で働き家族の再生産活動に貢献することが、身体的特徴と精神的特徴から当然のこととなった。男らしさは家族を養うために働く父親の強さを、女らしさの構築は家族のために働く「主婦」の喜びを自明のこととした。
アメリカと日本との関係そのものが、男性と女性の関係であった。
アメリカによる植民地支配の記憶を消し去ったふりをしながら、そして「アメリカの影」を意識しないようにしながら、「何となく、クリスタル」な関係は敗戦後の日本で維持されてきた。作家の野坂昭如はこの関係を「業病」と呼ぶ。そしてその関係を「強姦された女が、屈辱にふるえつゝも、男の姿を遠くながめ、なにやらしたわしく思うようなもの」と表す。
健忘症を維持することができたのは、日常生活に溢れ出す様々な事物と関わる。抽象的なアメリカ神話は運動や事物によって物質化されたのである。


ジョン・ダワーのEmbracing Defeat:Japan in the Wake of World War II (1999年、『敗北を抱きしめて』)に重なる部分も多い。

自らの所得水準を「中の中」と意識する1970年代の「一億総中流」に至る1950年代半ばからの高度経済成長期は、何もなかったけど幸せだった時代から、頑張ってトイレや台所を洋風化史電化製品と自動車を購入し、みんなそれなりの生活ができるようになったという共同体の感覚をもたらした。
さらに言えば、「おふくろの味」が、清潔なトイレが、敗戦後の生活改善運動や生活の洋風化において成立したように、「日本的なもの」の多くは敗戦後のアメリカとの関係において作られた。言うなれば「日本的なもの」はアメリカ神話を日本において咀嚼しながら作った、次の段階の「神話」なのである。そう考えるとき、1990年代にせり出してきた「日本人でよかった」という神話もまた批判的な検討を要する。
「日本人でよかった」が「○○人でなくてよかった」とネガボジであるように、同質性はその外側に差異も作り出している。同質性の強化と同時に差異化され差別された人たちの存在を覆い隠している。パンパンと混血児、在日朝鮮人は「徒花」とされることで諦められ、植民地主義的支配関係を想起させるものとして嫌悪された。


2020年の東京オリンピックへの狂騒が、ナショナリズムへの引鉄になるのではという恐怖。

暴力は「誰も別に悪いことをしたと思ってもいず、むしろ、正しいことをしたといった誇りを頬にうかべて、にこにこ笑いながら」語られる正当化の言葉によって隠される。


無意識のあるいは善意としての暴力。

フランスの思想家のジャック・ランシエールは、ある共同体において個人が持つ独自の価値が決められ、それに応じて分け前もまた受けられるよう秩序化するルールを「ポリス」と呼ぶ。そこでは当事者と非当事者が自明のものとされており、非当事者の声は聞き届けられない。このポリスは当事者・非当事者の感性的なるものの分有(分割・共有)を決定している。しかし、あることをきっかけにして、聞き届けられてこなかった声なき声が、分け前と権利の要求を開始し、それによって当たり前だったポリスの虚構性が明らかになる。こうして当事者と非当事者の真ん中を走る分断線が引き直されることを彼は「政治」と呼ぶ。「政治」とは自明の権力関係を、声を上げることで脱臼させ、不平等を告発する営為なのだ

「自明の権力関係を脱臼させる」この「政治」の定義には興奮させられた。安倍政権はこの「政治」とは対極にあると思う。

アメリカ的な民主主義、自由は、その美しさと崇高さが何かを覆い隠しているため一面では危険な武器である。民主政が全体主義へと容易に転化することもある。


現在只今の日本への警鐘である。

本書は何度か男女の肉体的性差を自明のものとした、社会的な役割分担を問題にしてきた。それは私のこの10年ほどの日常生活のポリスに対する「政治」でもある。ただし、男性である私はそうは言いながらも、やはり社会の中で分け前に与るものでしかないことも隠すことの出来ない事実なのだが。(おわりに)

筆者は、職場で初めての夫としての産休を取ったらしい。実践することに意義がある。
この人の本、他のものも読んでみたい。

2018/09/20(木)●パクチーの日(^_^;)
7時起床。
今朝の血圧は173/67/84。36.0℃
朝から雨。今日は一日中降り続けるとの予報なので、屋上にも上がれず、完全蟄居。
自民党総裁選。勝ち負けは最初から決まってたようなものだが、結果は安倍553票、石破254票で、いちおう安倍圧勝、それなりに石破善戦、ともいえる。
南北会談、文在寅は白頭山のチョンチ(天池)観光(^_^;)も済ませて無事帰国。韓国の論評は、賛否両論。
昨日買ったパクチーで、まず作ったのは、もちろんパクチー粥。本当に久しぶりということで、とにかくシンプルなものを、ということで、材料はパクチーとたっぷりの刻み生姜と梅干し一個のみ、もちろん冷凍してたご飯を電子レンジで解凍して、粉末だしもちょこっと入れて、後は弱火でことこと煮詰めるだけ。ああ、それでも、とんでもなく美味しかった(^_^)
午後は部屋でこっそり(^_^;) ミニギター。今日は歌本に追加する曲のリズムパタンの確認(^_^;) 坐骨のヒビで療養生活に入って以来、こんなことばっかりやってる。まあ、やれることがあるだけ幸せというべきだろう。
間食にピザトースト作り、これにもパクチーのっける(^_^;)
今日の歩数は50歩100歩(^_^;)


材料はこれだけ 

久々のパクチー粥(^_^)/ 

ピザトーストにも 

[今日の韓国語単語from Kpedia]  굴레(クルレ しがらみ)
굴레를 벗다(クルレルルポッタ しがらみを解く)
굴레를 쓰다(クルレルルッスダ 仕事にしばられる)
의리[義理]와 인정[人情]의 굴레(ウィリワインジョンgエクルレ 義理と人情のがんじがらめ)
類義語に漢字語の속박[束縛](ソッパク 束縛 ほだし)がある。
자유[自由]를 속박[束縛][當]한 생활[生活](チャユルルソッパッタンgハンセンgファル 自由を縛られた生活)
속박[束縛]에서 벗어나다(ソッッパゲソポソナダ 束縛から脱する)
속박[束縛]을 받다(ソッパグルパッタ 束縛をうける)

【戦争と広告】森正人★★★☆☆ 2016/02/25 角川選書:568///KADOKAWA
「第二次大戦、日本の戦争広告を読み解く」という副題がある。

森正人 1975年、香川県生れ。関学大学院卒業。専門は文化地理学。「大衆音楽史--ジャズ、ロックからヒップホップまで」
昨日紹介したほんと同じタイトルだが、こちらはかなりアプローチが違っていた。

本書は戦時中と現代における日本の「聖戦」(日中戦争と太平洋戦争)の多様な広告を吟味しながら、その視覚性と物質性を明らかにすることを目的にする。私たちが見ているものは自明のものではなく、特定の目的に応じて見せられているものである。こうした操作された視覚を「視覚性」と呼ぶ。
また筆者は物質展示を通したナショナリズムの醸成過程を考えてきた。そこに存在している物もまた自明ではなく、選別され、配置されている。物はそこに存在することによって、特定のメッセージを伝える、これを「物質性」と呼ぶ。

マスメディアはたしかに嘘をつく。そしてそれは特定の権力者におもねり、あるいは権力者によって支配される。それに対して自覚的であることはとても重要である。しかし同時に、人びとは完全にメディアの力から独立した存在であると考えるのは少し単純ではないだろうか。

こうした情報の統制を行ったのは1936年7月に誕生した内閣情報委員会である。翌年にはこの委員会は「内閣情報部」に改組され、1940年12月、新体制運動を提唱する第二次近衛内閣によって国民的な世論形成を図る目的で情報局が創設された。とりわけ出版業界については、1940年5月に内閣商法部所管として「新聞雑誌用紙統制委員会」が設置されると、新聞社や出版社へ印刷用紙の割り当てと配給統制を行ったことは、日本におけるプロパガンダを考える上で重要である。委員会は用紙配給を通して新聞、雑誌の記事内容に介入し、言論統制を図ったのだ。

人間の目に映じるものは、その人の見たいと思っている、あるいはその人に見せたいと思っている事物である。特定の物の見方を可視化するために、事物が選ばれ、配置され、あるいは作り出される。事物は視覚的なものに実態を与える。それにより特定の幻想が真実の物語となる。写真や絵画などの視覚イメージはまさに社会的な織物であり、社会的な物質なのである。(序章)


えらく難しい思考法で「文化地理学」という学問も初耳だが、何か面白そうでもある。

朝鮮では1938年に、満十七歳以上の男子で総督府陸軍志願者訓練所を修了したものを現役または補充兵に編入させる特別志願兵制度が始まった。支那事変以後「朝鮮同胞の愛国の熱意は急激に昂ま」り、学業の成績も向上した。立派な最期を遂げる者も現れ、「いよいよ」1943年8月1日に徴兵制が実施されることになり、彼らは訓練に励み「晴れの日を待つ」と伝えられる。
徴兵制は「一億悉く皇民即神兵」となるために、朝鮮や台湾の「同胞」へ与えられた恩恵である。それゆえ、彼らはその恩恵に喜んで与るのが当然だと考えられた。(第二章 乾坤一擲と大躍進)


まったくもって、とんでもない話ぢゃヽ(`Д´)ノ

記事(「写真週報」1944年3月15日号)は開戦当初、「日本人という日本人」はどんな生活にも耐えると決意した。しかし、それがたるんでいるのではないかと諌める。
今の戦局は努力の足りない銃後の国民にある、というのである。ここでは開戦、作戦遂行についての政府や軍の責任がまったく問われない。その無責任のつけは、戦地の兵士、銃後の国民、そして解放の名目で場所や家を追われた現地の人びとが払わなければならないのである。卑怯な言い訳である。


「写真週報」は戦時中政府側が発行したもので、本書はこの週報の記事を情報源として多用している。初めのうちは戦果を広報するためのメディアだったのが、戦況悪化にともない、どんどんこういった銃後への押しつけに傾いていった。
「卑怯」というより、官製メディアというのは基本的こんなスタンスなんだろう。

「爆弾は炸裂した瞬間しか爆弾ではない。あとは、唯の火事ではないか。唯の火事を、君は消さうともせずに逃げだすてはあるまい。招集を受けた勇士を、「一死奉公立派に働いてくれ」と君は励ました。一旦風雲急となった時、この都市を、護るのは今度は君の番なのだ。英霊は君の奮闘を待ってゐる。(爆撃で火の手が上がる町のイラストを背景にした「時の立て札」)(第三章 視覚文化としての銃後の覚悟)

こん貼り紙があった、という事自体信じがたいジョークみたいなものだ、その実物の写真まで見せられると、開いた口が塞がらなくなる。日中戦争時の上海かどこかのレストラン前に「犬と中国人お断り」という断り書きがあったというのに通じる。

戦後70年を迎える2015年4月30日、大阪市のピースおおさかが展示内容を刷新して再開館した。具体的には、「大陸への侵略」「朝鮮の植民地化」「東南アジア諸国の受難」などのパネルのほか、南京大虐殺や捕虜虐待などの解説文や、折り重なる遺体や生き埋めにされる住民などの写真など数十点の「加害展示」が撤去された。1992年から3年間事務局長を務めた人物のコメントによれば「日本がアジアで何をしたかを学ばなければ、空襲の背景を十分理解したことにならないという意識」のもと、戦争の被害だけでなく加害行為を等しく扱う私的施設だった。しかしそれゆえ、偏った思想に基づいた展示と厳しい批判に晒されてきたという。とりわけ、橋下徹氏が率いる大阪維新の会が大阪府議会と市議会で第一党になった2011年、「偏向」が問題視され、橋下氏は展示内容が不適切であれば廃館も考えると府議会で答弁した。こうして展示物だけでなくその内容は大幅に変更された。
日本の被害性と加害性の両面を示すだけでなく、メディア批判や世界での暴力まで幅広くカバーする効率博物館として特筆すべき川崎市平和館はむしろ珍しい。


先般Morris.が初めてピースおおさかを訪れた時点で、加害情報は撤去されていたことになる(>_<)

博物館展示に関して言うなら、21世紀に入って3つの歴史的修正主義的な方向で平和の展示が行われている。一つめは、ピースおおさかや平和祈念展示資料館で見た被害の強調、二つめは、遊就館で見られる戦士の崇高さを称える展示、三つめが2005年に広島呉市に開館した大和ミュージアムのように戦時中の技術展示に特化する展示である。大和ミュージアムは呉の軍港開発や戦時中の戦艦大和の開発を純粋な技術的発展として展示し、しかも戦後の日本の技術的繁栄にまでつなげていく。そこから出港した軍艦が戦時中に何をしたのかは語らない。

2002年の遊就館の展示の全面的リニューアル後は近代以前の軍事史の展示が縮小され、代わって日本がアジアを侵略する欧米列強に対して自衛のために戦ったという歴史館を全面に押し出すようになった。
この遊就館のハイライトが第二次世界大戦での英霊の活躍であり、その戦争を一貫して「大東亜戦争」と呼んでいることには注意が必要だ。それは、この戦争がアジアの正義を守るためであったことをはっきり示している。
それを感じることができるのは、元帥刀の左横のパネルである。漢詩「君子居必択郷、遊必就士」の下、30人の元帥の肖像が環状に置かれる。環状に置かれる肖像はどれも同一の位階にあり、しかもその円には中心があることが言外に意味される。その中心には何もない。空白で不在の何かは、自明のものでもある。すなわちそこには国体、皇室、天皇が不可視のまま存在するのである。天皇と男性の元帥、その下には国民たちが連なるはずだ。
興味深いのは「護る」「守る」「まもる」の違いである。「護る」は制度や組織の公的な防護で用いられる。「守る」はそれよりもややくだけており、ひらがなの「まもる」は私的な環状をともなう防御を意味する。国家の護りが家族のまもり結び付けられる。


靖国神社の中にある遊就館は一度訪れたいという思いがある。もちろん応援団としてではない(^_^;)

戦争の美化か否かという単純な議論の構図は、『永遠の0』のみならず昨今の「保守」の論をきちんと捉えられない。なぜなら問題とすべきは戦争賛美よりも根深くかつ幅広いからだ。むしろ「日本人」の立場や価値観の様々な「差異」を認めず、単一の「日本人」の物語を作り出そうとする欲望にこそ目を向けるべきだろう。(第四章 21世紀における大東亜戦争)

「ガンバレニッポン!!」に代表される挙国体制への傾斜にすこしでも歯止めをかけたい。

「自虐史観」への批判において問題に思われるのは、第一にそれを非常に単純化された物語に回収されている。善と悪、日本人と敵がつねに対置され、後者が前者を騙したり前者に侵略したりという二項対立が前提にされているのだ。第二に、それがさまざまなメディア、つまりテレビ、雑誌、教科書、インターネットのホームペページや掲示板などを通して広がっているのだが、そのそれぞれのメディアの意図や操作性が、戦後の自虐史観批判者と養護者の両方において十分に理解されていない。第三に、日本における戦後解釈や歴史観が、外部からどのように見られているのかということへの意識が乏しい。これはさまざまな外国からの日本の歴史観に対する評価を伝えないマスメディアの問題と、外国からの評価を日本への干渉として目と耳を向けないという閉鎖性が関わっているだろう。

私たちの戦争観、戦後観は歴史的、地理的、文化的、社会的に作られたものであり、物質的でもある。私たちはどこから歴史を、戦争を見ているのか、考えているのか、「出来事」と「私たち」のあいだにどのような媒介物(メディア)が存在し、それによって私たちの頭や目に「フィルター」がかけられているのか、こうしたことを常に問い直し続けることでのみ、私たちはかろうじて幻想への耽溺から逃れることができる。
その中で私たちはまだ「戦後を生きていない」ことが明らかになったといえる。
昨今のメディアにおける戦時中の普通の日本人の家族への思い、友情のせり出しは政治的問題だと言えるだろう。国民総ての「活躍」も注意が必要だ。日本人で「あること」の審美化だけでなく、「として」積極的に行為することの審美化は、充実感を与えながら、矛盾を覆い隠すのである。
このような作業こそが、歴史解釈の当否を、自虐史観の当否を雄弁に語る以前に必要なのだ。

「自虐史観」という言葉(プロパガンダだと思う)自体がどこか根本的に間違ってる。まずそこのところから考えるべきだろう。

戦時中の雑誌が持つ視覚イメージの重要性に気づかせてくれたのは、沖縄県祈念資料館である。資料館学芸主査の新垣誠さんには、所蔵する雑誌の閲覧でお世話いただいたいた。本書で使用した『写真週報』の多くはここで見せていただき写真撮影させていただいたものである。(あとがき)

本書の核心であるさまざまなメディア記事とその紹介、論考はそれなりに興味深かった。それにもまして、著者のアプローチスタイル(文化地理学)に興味津々である。他の著書も読んでみたい。

2018/09/19(水)●朴燦鎬さんの記事
6時半起床。
今朝の血圧は170/59/77。
今日水曜日は「ビン・カン・ペットボトル」のゴミ出しの日で、ずっと溜めっぱなしで満杯(ほとんどビターレモン(^_^;))になってて、今日こそは出さねばと、杖付いて出しに行く。普通ごみはアパート前の道の向かい側なのだが、ビンカンゴミの捨場は、一つ下の通りにあって100mくらいある(>_<)。松葉杖では無理だったかもしれない。なんとか下の道まで出て横断歩道渡ろうとしたら、いつも朝早くに道端で花を売ってるおばあさんが、横断歩道は危ないから自分がゴミ出して上げると言ってくれた。もうここまで来たから、といちおう断ったが、半ば強引にゴミ袋取りあげて、捨場まで持っていってくれた。Morris.がこちらに引っ越してきた頃(10年くらい前)からずっと花売りやってて、もう80は越えてると思うのにまだまだ元気そうである。感謝m(__)m
朝の三点セット。
南北会談は今日合意文書に署名、明日は二人で白頭山にバスで上り、そのあと共同宣言してから文在寅は帰国する手筈らしい。非核化問題は玉虫色で済ませて、後はトランプ占い(^_^;) というところか。早ければ年内にも、金正恩のソウル訪問というのが目玉みたいだが、これも当米朝会談絡みだろう。
昼からしばらく屋上タイム。秋らしいうろこ雲が広がって快適。今日は川原泉の漫画読んだりして、まったりとした時間を過ごす。
夕方、浅海くんが、車で倉庫に置きっぱなしだった自転車配達してくれた。昼間に電話でたのんでおいたのだ。洗濯機といい、自転車といい、何かのおりにお世話になりっぱなしである。感謝m(__)m
6時過ぎにJRで三宮に出て三宮図書館へ。今日返却期限の本があったのと、名古屋の朴燦鎬さんの記事が、今日の毎日新聞夕刊にでるというので、それも見たかったのだ。早速夕刊手にとってみたのだが、それらしい記事は見当たらない?? 新聞記事は日々のニュースや編集の都合で変更されることはしばしばあるから、明日以降に掲載されるのかもしれない、それにしても残念、と思いながら、念の為、昨日の夕刊を棚から引っ張り出してみたら、載ってた\(^o^)/ 予定より一日早まったらしい。かなり大きな記事で、見出しに「時代のうずき 歌に」「「韓国歌謡史」出版 朴燦鎬さんの思い出」「故郷を失った人の叫びと涙 南北統一「期待したいが……」などの文字がある。中央のカラー写真は離れ二階の資料室、SPレコード搭載した蓄音機の前で、ヒョンインの「新羅の月夜」のジャケットを持った燦鎬さんの姿が(^_^)。取材の鈴木記者とは旧知の間柄らしく、ねんごろな記事に仕上がっていた。「いつの時代も権力者は歌を利用しますが、庶民の心は決してもてあそべません。人生とはつまるところ出会いと別れ。どうしようもないつらさ、苦さを庶民は歌でまぎらわせ、酒を飲んできた。いい時代になれば、いい歌ができる? そんなわけではありません。不思議ですがね」という言葉が印象的だった。
帰りにダイエーに寄ったらパクチーがあったので、買って、9時前帰宅。
今日の歩数は2000歩?


缶ビンゴミ運んでくれたm(__)m 

朝ごはんはムル冷麺 

これに合わせたわけぢゃないけど(^_^;) 

屋上の秋空 

杖とミニギターは同サイズ(@_@) 

浅海くんが 

自転車配達(^_^;)してくれたm(__)m 

紅白彼岸花 

朴燦鎬の特集記事 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 앙금(アンgグム わだかまり)
もとの意味は「沈殿物、おり」。これを比喩的に使って心のわだかまりを意味する。
앙금이 풀리다 (アンgグミプルリダ わだかまりが解ける)

【戦争と広告】馬場マコト ★★★☆ 2010/09/30 白水社
馬場マコト 1947年石川県金沢市生れ。早稲田大学社会学科卒業。リクルート、博報堂、東急エージェンシークリエイティブ局長を経て広告企画会社「馬場コラボレーション」主宰。

資生堂広告で親しまれている山名文夫の戦時中の広告活動を中心に戦争と広告を論じている。山名には関心があったので読んでみることにした。

「NIPPON」(1934 創刊号)の表紙に、山名に姉さん人形のイラストを描かせると、それに時分で撮ってきたアパートのモノクロの外観写真を組み合わせた。刷り出しがあがるたびに名取は着物の色を変え、アパートの色を変えていく。できあがった奥行きのないフラットな感じの表紙は、きわめて画一的な日本建築と姉さん人形をコラージュしているにもかかわらず、どこか異国感覚の日本の誕生となった。イラストと写真の製版技術をしらなければできない全く新しいデザインの登場だった。
37歳の山名は24歳の名取から、グラビア構成とドイツ・バウハウスデザインの基本をみっちりと学んだ。美を卑しめず、美に殉じ、美を第一義とするためには、山名のなかで年上も年下の意識もなかった。中学を出ただけで美術の基本を学ばなかった山名にとって、名取はもう一度図案とはなにかを考えるとき、若き教師だった。
「NIPPON」の記事や写真のキャプションには英独仏西の四ヶ国語が使われ、日本を紹介するプロパガンダ誌として、1934年の10月に第一号誌は創刊された。
名取の妻、エレナの」もとには世界各地から問い合わせや注文が飛び込むと同時に、雑誌「NIPPON」を取り上げた新聞記事が送られてきた。「NIPPON」は海外でも好評のうちに迎えられた。(3.「NIPPON」と名取洋之助)

雑誌「NIPPON」のデザインには、惹かれるものがあった。あの姉さん人形の表紙は山名と名取の合作だったのか。

山名文夫が福原信三に請われ、ふたたび資生堂に復社したのは、世の中が2・26事件で騒然とする二日後の1936(昭和11)年2月28日、山名文夫が38歳のときだった。
資生堂という会社へ圧力がかかる原因を、山名文夫の広告は明らかにつくった。
1937年7月7日、中国河北省豊台で日中両軍が衝突した。いわゆる盧溝橋事件だ。大日本帝国政府は局地解決、事件不拡大を表明した。しかしその表明がどこまで本気だったか疑わしい事実がある。群舞は支那事変が起きると同時に、資生堂に接触してきたのだ。衛生面からも彼らは、大量の石鹸を確保し、海外の戦線最前線に送りつづける必要があった。その数58万個。軍部に「局地解決、事件不拡大」の意思はなく、はじめから「局地拡散、事件拡大」の野望に燃え、大量の石鹸確保とともに中国侵攻を企てていた。そして日中戦争ははじまった。(4.資生堂と福原信三)


日中戦争の端緒となった盧溝橋事件が、偶発的なものではなく、確信犯だったことの傍証が、こういう形で立証されるというのも興味深い。

報道技術研究会の発会式の裏で、じつは外務省、内閣情報局ではとんでもないことが起こっていた。この11月、ウォルシュトドラウトという二人の神父が、ルーズベルト大統領の親書「日米国交打開策」を携えて近衛文麿首相に会いに来日したのだ。その親書の内容は、ルーズベルト大統領と近衛首相が太平洋のアラスカまたはハワイで会見し、日米両国の懸案事項、ヨーロッパ戦争に対する日米両国間の態度、日中戦争の解決、そして日米通商航海条約の見直しをしようというものだった。
近衛は太平洋に立った荒波を解決するいい機会と考え、欠員だった駐米日本大使に、阿部信行内閣時に外務大臣として米英協調路線をとって外務省にそっぽを向かれた、親米派の海軍大将、野村吉三郎を起用したのだ。
しかし、これが外務省ではまたまたたいへんな人事として問題になった。本多熊太郎、白鳥敏夫、栗原正、松宮順、重松宣雄、仁宮武夫など、対米英強硬派にとってはありえない人事だった。野村吉三郎が駐米大使に戻ることは、自分たちの立場をふたたび危ないものにする。アメリカがいかに問題なのかを、緊急に広く知らせる必要があった。
それだけ報道技術研究会は、情報局にとっても喉から手が出るくらい、どうしてもほしい組織だった。(6.報道技術研究会と山名文夫)


これも意外な事実である。野村吉三郎という人物のことをもっと知りたくなった。上海で尹奉吉の投げた爆弾で右目失明したと(重光葵はこの事件で右足をなくしている)というエピソードまであった。戦後は日本ビクターの社長に就任してる。その後は参議院議員にもなり、首相の座を狙ったこともあるみたいだし、海上自衛隊に係り、CIAの協力者だったともいわれ、なかなかの曲者だったようだ。

カール・エルンスト・ハウスホーファー(1869-1946)は1908年から1910年まで日本のドイツ大使館付武官として日本で暮らし、ドイツ帰国後「日本の軍事力、世界における地位、将来に関わる考察」という論文を執筆、地政学の創始者となった。
ハウスホーファーの説く「ABCDラインに包囲された生存圏を有しない日本は、生存のために軍事的な拡張政策を進めなければならない」それはまた「19世紀型植民地政策に苦しむ南方民族を日本の手によって解決する正義となる」という論理は、中国だけでなく南進をしたくてうずうずしてる軍部や近衛文麿首相の持論「持たざる国」の論理と反響し共鳴しあい大義となった。
この後ABCDラインが一気に全国民のあいだの合言葉になるのに時間はかからなかった。
第二次世界大戦の日本を爆走させる狂気の理論体系を作ったハウスホーファーは、じつは同じように、祖国ドイツでもヒットラーのヨーロッパ各地侵攻に大きな役割を果たしていた。
日本ではハウスホーファーの論理を受け継いだ小山栄三がいたが、ドイツでも同様にハウスホーファーの論理を受け継ぐ人間があらわれた。彼の教え子、ルドルフ・ヘスだ。
ヘスを介してハウスホーファーはヒットラーと知り合う。ヒットラーはチェコスロバキア、オーストリアを武力で統合した後、北アフリカ作戦、ソ連攻撃とハウスホーファーの説く狂気を走る。スリーAラインを国境として制圧してしまえば、ヒットラーが夢見た千年王国、第三帝国の基礎は確かに盤石なものになったかもしれない。
日本とドイツを狂気の暴走機関車に導いたハウスホーファーは1946年3月、妻を道連れに、服毒後、割腹自殺した。


「ABCDライン」という言葉がドイツ人によって作られたというのも知らなかった。このハウスホーファーという人物も不可思議な存在である。

1941年2月24日9時、「太平洋報道展」は開催された。
それまでの標語だけのポスターや、紀元二千六百年奉賛展で情報局や大政翼賛会がつくってきた国策宣伝物、デパートで集客のために時節に合わせた画一的な防共展、防諜展などと、明らかに一線を画していた。それは報道技術研究会の最初の仕事であると同時に、それからはじまる戦時中の宣伝の方向を示すものだった。(7.情報局と林謙一、小山栄三)


「報道技術研究会」が山名、花森安治らが中心となって「自発的」に立ち上げた報国広告(プロパガンダ)団体である。

山名文夫はふたたび1948年、資生堂に51歳で三度目の入社をした。それを確認するように、その年福原信三は亡くなった。
1978年1月14日、花森安治が心筋梗塞で急死した。66歳だった。朝日新聞はその死を社会面全七段抜きで伝えた。その紙面の大きさが、戦後花森がはたした社会的影響力を語っていた。
1980年1月14日、山名文夫は心不全のため83歳で亡くなった。
朝日新聞は山名の死をこう伝えた。
 山名文夫(やまな・あやお=資生堂顧問、グラフィック・デザイナー)14日午後10時50分、心不全のため、東京都狛江市の慈恵医大第三病院で死去。83歳。和歌山県生まれ。中学卒業後、ほぼ独学で商業デザインを勉強、雑誌「苦楽」「女性」のさし絵を担当した。資生堂に入社した昭和4年以降は、広告でユニークな装飾画を発表。流れるような繊細な線を使い、官能的で現代的な感覚をもつ資生堂調の基礎を築いた。戦後は多摩美術大学教授をつとめたほか、日本デザイナー学院を開校した。日本のグラフィックデザイナーの草分けの一人である。(9.それぞれの戦後)

花森と山名の死亡記事の取り扱いの差を、やや不満げに記している。著者はなんとなく花森に違和感を覚えているようだ。この二人を無理して比べる必要はないと思う。

団塊の世代の私たちは権威に楯つくことを是として、学生時代を過ごした。あらゆることにまずは「ノー」と言ってみることが習い性になっていた。就職してもそんな気分がいつまでも尾を引いていた。広告の企画制作を職業とするにあたり、心に決めたことがあった。行政広報、自衛隊、原子力などの「国家情宣」の仕事と、被害者を生み出す職種の広告には携わらないと。
山名文夫や新井静一郎は、自社の広告が極端に減少していくなかで、その目の前に今いちばん熱い国家情宣キャンペーンを差しだされた。彼らが何の躊躇もなくそれに飛びついたのは、広告という職業人のもって生まれた業以外のなにものでもない。
広告というビジネスはいつも時代におべっかを使いながら、自分自身を時代に変容させて生きるビジネスだ。悲しいかな、自分の思想もなにもあったものではない。そうやって私は、私が生まれた時代を生きてきた。しかし、時代と並走しつづけるのもこれでなかなかたいへんなのだ。時代の変化を瞬間的に読み取り、自分の感性と肉体を反射的に変容させなくてはいけない。時代はなかなかの暴れ馬で、ちょっと油断すると振り落とされてしまう。
私が新井静一郎たちと同じ時代に生まれ、広告制作者という職業につき、この戦争期に30歳を迎えたとしよう。私はなんのためらいもなく、国家情宣の仕事に携わっただろう。
戦争責任、戦争加担を避難するのはたやすい。しかし、それは想像力に欠けないだろうか。戦争の時代を生きた人は、自分の立っている位置で戦いをするのだ。戦いを強要されるのだ、国家によって。
先の戦争によって学べることは、たったひとつだけある。
人間はだれも生きるために、戦争に協力するということだ。それは日本というくにだけでなく、世界共通の真理だ。
だからいちばん大事なのは、戦争をおこさないことなのだ。戦争をおこさなければ、人は人を殺し、人を戦場に駆り立てることはしない。
母は「戦争だけは嫌だ。戦争だけはしてはいけない」と言いつづけ、90歳で亡くなった。私たちの国の憲法が与えられた、与えられないの論争はどうでもいい。あの戦いが終わった日に、私の母のように、だれもが二度と戦争は嫌だと思ったのだ。もう軍隊を持たない国の理想をかかげたのだ。
いまふたたび憲法9条について語ると、なんだか古い人間に思われたり、左傾化した人間に思われるのだが、思想は関係ない。私は右でも左でもなく時代の子として言おう。
「戦争は嫌だと」
なぜなら時代の子である私は、必ず広告企画者として戦争コピーを書くだろう。確実に書く。そして山名文夫よりも、新井静一郎よりも、花森安治よりもすぐれたコピーを書くだろう。確実に書く。そして山名文夫よりも、新井静一郎よりも、花森安治よりもすぐれたコピーを、作品をつくろうとするだろう。いや確実につくる。
だからそんな時代を迎えないためには、戦争をおこさないことしかない。どんな世の中になっても、戦争をおこさないこと、これだけを人類は意志しつづけるしかない。(あとがき)

山名をダシにして、自己弁護してるようにも見えるが、まあ、正直なひとなのだろう(^_^;)
山名文夫の「線」にはほとんど無条件幸福を感じてしまうMorris.である。これからも、余計な舞台裏は知らずにあの線を楽しむことで、済ますことにしよう。

2018/09/18(火)●松葉杖返却
7時起床。
今朝の血圧は170/62/74。36.3℃
10時過ぎに韓国の文在寅大統領が、北朝鮮に到着、金正恩夫妻が空港まで出迎え、熱烈歓迎のムードで、平壌市内からは、オープンカーに乗り換え市民の歓声に包まれて昼食会会場へ。会談は明日午前中も開かれ、午後には共同声明出される模様だから、感想などはその後にする。
午前中は、昨日の百人一首の変体仮名解読の続き。昨日一通り読んで、今日もう一度チャレンジして、それでも難しい読みの変体仮名部分にポストイットにもともとの漢字と訓みをメモして貼り付けていく。これなら本体傷めることもない。あざっと30箇所くらいチェック。しかしこれは半分覚えている百人一首だからできるわけで、まったく手がかりのない句碑や歌碑となると、まだまだ手強そうだ。
昼過ぎ、松葉杖でJR灘駅まで行き、そこからタクシーで金沢病院へ。今日はCTスキャンでなくて不通のレントゲン撮影。やっぱりCTスキャンと違って、ほとんどわからない。それでも、骨のズレなどはないので、特に問題はないようだ。先生にもう松葉杖やめて、受付に預けておいたステッキ使うことにしていいか打診したら、ちょっと迷いながらOKという事になった。このステッキも、事故当日、倉庫の事務所で借りたもの。とにかく、半月以上の松葉杖生活にピリオドを打つことになる。
病院前からマルハチまでタクシーで出て、買い物すまして、後はステッキで部屋まで戻る。松葉杖より楽かと思ったのだが、これが、そうでもなかった(>_<) 松葉杖だと両脇とグリップの4点で支えるのが、ステッキだと右手一本に集中する。当然右足への負担も大きくなる。なるべく負担をかけないようにすると、一歩一歩の幅が小さくなる。うーん、ちょっと参ってしまった。
自転車があれば、これを杖代わりにして買い物に出れるかもしれないのだが、事故の日に倉庫に置いたままである(>_<)
3時過帰宅。階段の上り下りは、ステッキの方が楽かもしれない。それも右足にある程度力かけても大丈夫になったからだ。
部屋で一服して、今日もまた屋上へ(^_^;)。今日はステッキがあるから、楽である。
今日はおとなしめに、のんびり。6時部屋に戻る。
今日の歩数は1500歩?


平壌で南北会談 

文在寅芳名録サイン 

今日のレントゲン写真 

青い実 

今日も手習い 

青尺蛾の一種 

夕方の屋上で #1 

#2 

#3 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 선창[船艙](ソンチャンg 埠頭 船艙)
日本でも使われる漢字語だが、大辞典には「船艙[船倉・船艙]船舶で、貨物を積み込む区画。ふなぐら。貨物倉。」と書いてある。
ところが韓日辞典(民衆書林)では「선창[船艙]1.埠頭、波止場、船着場、桟橋」とある。
つまり、日本と韓国では、同じ漢字語でも意味が違うことになる。
このような例は他にもあって、たとえば「工夫」という漢字は日本語では「くふう」と読めば「いろいろ考えて良い方法や手段を講じる」、「こうふ」と読めば「土木工事現場などで働く労働者」だが、韓国語では공부(コンgブ)と発音して「勉強」の意味である。
これに気づいたのは、韓国の懐メロ선창[1941] 고운봉(コウンボンg)である。Morris.はこの曲けっこう気に入ってて、カラオケでもたまに歌うのだが、その時画面に表示される日本語タイトルが大抵「波止場」とか「埠頭」となってるので、ずっと違和感を覚えてたのだった。まあ、船倉も波止場も港に関係する言葉だから、ちょっと紛らわしい。

【チェ・ゲバラ】伊高浩昭 ★★★☆☆ 2015/07/25 中公新書2330
伊高浩昭 1943東京生。早稲田大学新聞学科卒。元共同通信編集委員。立教大学「現代ラ米情勢」担当講師。

海堂尊の「ポーラースター」を読んでて、あまりにもMorris.が、ゲバラと当時の中南米情勢の無知を思い知らされて、本書を手にとった。

世界に五カ国しかない社会主義国の一つである現代キューバの礎を築いた革命の立役者の一人に、チェ・ゲバラという平凡にして非凡なる、類い稀なさすらい人がいた。本書には、「神話化され偶像視されたチェ・ゲバラ」ではない、生れてから死ぬまでのチェの生身の人生が織り込まれている。不正や理不尽に立ち向かったチェの生き方は、悪が社会にはびこる現代ゆえに眩しいかもしれない。若い世代の読者には旅でさすらう意味やチェの生き方に思いを馳せつつ、年配の読者には激動の20世紀第三、四半期を顧みつつ、ページをめくり進んでほしい。(まえがき)

Morris.は激動の20世紀後半を顧みつつ読むことを強いられるわけか(^_^;)

エルネストは読書を通じ、オーストリアの詩人リルケの「死は人生の暗い面にすぎない」という言葉が気に入っていた。暗示にかけられて、死を恐れなくなるのだ。それは後年ゲリラ戦士になったとき、天分として蘇ることになる。(第一章 目覚めへの旅)

リルケは昔、いくらか読んだ記憶があるが、この詩句は記憶にない。人生には「死」以外に多くのものがあるという単純な理解でいいのかな?

チェは1959年7月15日、羽田空港に到着した。
チェは日本政府に、「富士山、大相撲、広島を見たい」と伝えていた。7月25日、予定されていた千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に行かずに広島へ行った。
接待した広島県職員にチェは、「日本人は、米国にこんな残虐な目に遭わされて怒らないのか」と腹立たしそうに問い掛けた。チェを取材した中国新聞記者林立雄は、チェが「なぜ日本は米国に対して原爆投下の責任を問わないのか」と質したのを記憶していた。

これはMorris.もそう思う。「あやまちはくりかえしません」という平和公園の、あの言葉を見るたびに、もやもやとした気分になる。

「フィデルはチェを酷使した。ソ連の援助が不可欠になるや、反ソ傾向のあったチェを切り離さねばならなかった。だからボリビアに行った。悲しいのは、見捨てられたのをチェが感知していたことだ。チェが犠牲になるや、フィデルはチェを宣伝に使った。思想の隔たりはあったが、チェとは友人だった。チェは優れたゲリラではなく、平凡なゲリラだった。チェは冒険好きで勇気があった。活躍できる場を求めていた。チェはキューバ革命の象徴というよりも犠牲者だ」(2003自伝刊行についてのマトスの記者会見)

フィデルカストロとチェゲバラ。リアリストとロマンチスト。大人と子ども。政治家と冒険家。合わせ鏡の表裏。

新しい国軍として革命軍もできた。チェは革命戦争勝利から10か月間、危険人物の処刑、ラテンアメリカからの左翼人材登用、人民社会党(PSP)との連携強化、革命軍、革命警察、諜報機関G2、民兵部隊の創設、ラテンアメリカ諸国の革命支援、『ゲリラ戦争』執筆、長期外遊と、激烈な日々を送った。その間、イルダと離婚し、アレイダと再婚した。マトスがフィデルはチェを酷使したと批判するのも頷けるだろう。(第四章 革命政権の試行錯誤)

革命、クーデタ、暴動、反逆、内戦……言葉は違っても、暴力、投獄、拷問、殺戮などとセットになっているわけで、裏切り、権謀術数、諜報、謀略、権力争いもあるだろうし、権力維持のための裏の仕事(汚れ仕事)が、ゲバラの役割とされたということか。

1960年3月4日、ハバナ港でCIAの犯行とみられる大惨事(81人死亡、200人負傷)が起こり、翌日の葬儀に参列したチェは、米国との対決を覚悟するかのように決然たる表情で眼差しを遠い彼方に向けた。写真家アルベルト・コルダは、その瞬間を逃さなかった。この写真によって、若く凛々しい31歳のチェは永遠の革命家になった。一枚の顔写真が一人の人物をこれほど印象深く捉えるのは稀だろう。その写真が半世紀の長きにわたって世界中の人々の心に刻まれ続けてきたとなれば、他に類例がないだろう。まさに、運命の写真だった。この写真はフィデルが「社会主義革命」を宣言した61年4月16日、初めて『レボルシオン』紙に掲載される。コルダは、この一枚で「チェ・ゲバラ」という神話を作り、自らも永遠の写真家となった。

「ゲバラ」といえば反射的にイメージされるあの「映像(画像)」は、このように撮影されたわけだ。ゲバラの人気の一部(大部分かも)は、あの写真におうところ大きいと思う。象徴であり、いわば強力なアイコンになっている。「神話作用」というのはロランパルトの著書のタイトルだが、構造主義のキャッチコピーみたいになってしまっている。これも一種の「神話化」なのだろう(^_^;) 芸術家や政治家、スポーツ選手などでも、作品や実績以上に、写真写りで認知されてる例がある。

メキシコ人も中米人もカリブ海域人も南米人もみな、アメリカ人である。彼らは、米国が勝手に「あめりか」を国名に被せ、大陸全体の名称を独り占めにしたことを不快に思っている。ストーンのように、この点に気づく米国人は極めて稀だ。ラテンアメリカ人は通常、米国を「ノルテンアメリカ」(北米)と呼ぶ。左翼知識人は「ウサメリカ(USAMERICA)」と呼ぶのを好む。

しかし、「アメリカ」の語源?が、イタリアの商人、探検家、地理学者のアメリゴ・ヴェスプッチの名前に由来することを思えば、つまりは「新世界」と呼ばれた南北大陸が「旧世界」から侵略、占領によって、現在の状況を作り上げたわけで、「あめりか」の名前を米国が独り占めしてることへの不満よりも、先住民族から見れば、とんでもない話だろう。

アイゼンハワー大統領は、大統領選挙を戦っていたケネディ、ニクソン両候補に侵攻準備開始を伝え、その年秋の大統領選挙でいずれの候補が勝っても侵攻計画を実施するよう約束させた。ケネディはこの超党派の国策に縛られ、ヒロン浜侵攻決行を余儀なくされることになる。選挙戦で保守派の支持も必要としていたケネディは、「亡命者で構成する遠征軍を送り、キューバにできた共産主義の飛び地を消滅させる」と公約した。侵攻計画立案に携わったニクソンはこの問題では多くを語らなかった。もしニクソンが当選していたらヒロン浜侵攻は米軍介入につながり、カストロ体制は押しつぶされていただろう。

ケネディが、結果的にキューバにカストロ体制を成立させてしまったということかな?

ヒロン浜侵攻での戦闘は4月17日の夜明けから19日の夕刻まで60時間続いた。何よりもソ連やチェコスロヴァキアから届いていた武器が物を言った。革命軍と民兵部隊の戦死者は151人、これに対し侵攻部隊は死者114人、捕虜1209人だった。一部は輸送船に逃げ帰った。
侵攻部隊が期待した「国内蜂起」は起きなかった。G2が革命防衛委員会と連携して、反革命派を一斉逮捕、蜂起を封じ込めていたからだ。
米政府の完敗だった。ケネディは一週間後の26日、責任を負うと発表、自分を罠に陥れようとしたアレン・ダレス長官らCIA最高幹部三人を更迭する。カストロ体制を倒し、利権を復活させたいと夢見ていた米国内のイタリア系マフィアや、資産奪回と甘い生活の復活を渇望していたキューバ人マフィアは米軍を出動させなかったケネディを恨んだ。この深く陰険な怨念が複雑な過程を経て、二年半後のケネディ暗殺に結びつく。
革命戦争に次ぐヒロン浜の勝利でキューバの威信は揺るぎないものとなった。これを境に革命体制が後戻りする可能性は消えた。フィデルもチェも自信過剰に陥る。フィデルは「世界の英雄」の栄光を求めて国外に顔を向け、国内の経済建設や消費生活の向上を疎かにする。チェは「世界革命」を夢想し、その方向に人生の舵を切るのである。
ホワイトハウス、国務省、CIAの大失敗は、ラテンアメリカで最も遅れたキューバの独立への渇望の大きさに無知だったことによる。独立を目指して戦っていたキューバから1898年に独立を奪ったのが米国だった。
CIAは、選挙で選ばれたアルベンス・グアテマラ政権と武力革命から生まれたカストロ体制の違いに気づかなかった。そしてキューバ人の愛国主義を見くびっていた。ケネディ政権の副大統領リンドン・ジョンソンは、ヒロン浜の敗北から教訓を学びとらず、大統領になるやヴェトナム戦争の泥沼にはまり込む。
国連はヒロン浜侵攻事件をめぐって会議を開いた。自国の革命時に米国から干渉された経験を持つメキシコは、「革命は内線であり、外部は干渉してはならない」と米国を批判した。米国は内政干渉したうえに侵攻で失敗するという二重の過ちを犯し、歴史的屈辱を味わった。日本政府は、「米国の惨敗は情勢判断の甘さと決断時期の悪さに帰する。国際政治上の指導力に不安を感じさせる。国際政治上の仲間としての米国の評価に影響しうる」と、内部文書でケネディ政権を厳しく批判した。(第五章 ヒロン浜の勝利)


国際紛争が、このようにさまざまな要因が複雑に絡み合い、時には偶然に左右されることは、これまでも、これからも繰りかえされることは間違いない。アサド政権のシリアでの内戦の動向を見ても、ロシア・米国の駆け引き、それを利用しようとするシリア、虎視眈々のイスラエル、イラン……
ケネディ暗殺に、キューバマフィアや旧権力者側の係りがあったというのも、いかにもありそうな話である。

1962年10月14日に勃発した「キューバ核ミサイル危機」は同月28日まで世界全体を震撼させた。
チェは当時の状況を「キューバ人民は核兵器を使ってでも身を捧げる覚悟だった。相談もなく取引され核弾頭が撤去されたとき、安らぎの息をつくこともなく、停戦に感謝することもなかった」と死後に発表された論文に記している。(第七章 キューバ危機と経済停滞)

「キューバ危機」 これは当時中学生になったばかりのMorris.でも覚えている。その意味や危険度は認知してなかったと思うけどね(^_^;)

チェは、「米帝国主義に対しては地域や大陸と無関係に戦わなければならない」と考え、そこにコンゴ作戦の意味を見出していた。コンゴでの戦いはボリビア、アルゼンチンへとつながる革命の道だった。ソ連援助に支えられてキューバを統治していかなければならないフィデルには、チェを引き止めるべき理由はなかった。それどころか、チェが米ソ平和共存路線に歯向かうキューバ路線を国外で展開することで、キューバは「革命の操」を辛くも守っていると非同盟「第三世界」に印象づけることができる。チェはキューバをさることによって、フィデルの声望を高める新たな役割を担うことになるのである。

すごい「役割分担」ぢゃ。

チェはフィデルにあてた最後の手紙の末尾で、フィデルの革命標語を心に抱くことでフィデルに忠誠を表しつつ、新しい戦場で勝利するまではキューバに帰らない、と誓っていたのだ。書き換えられ縮められた言葉はチェの革命標語に仕立てられ、「永遠なる勝利まで」などと長年、日本で誤って解釈されてきた。筆者は「アスタ・ラ・ビクトリア、シエンプレ」の意味に疑問を抱き、キューバに行くたびに各界の人々に解説を求めたが、納得できる答えは得られなかった。第一、書き換えの事実を知る人はほとんどおらず、いたとしても公表することは見の破滅につながるため口にできなかったはずだ。不可解な言葉への疑問は深まるばかりだった。
その謎が解けたのは、筆者がチェの娘アレイダ・ゲバラ=マルチ医師に1998年11月2日ハバナの自宅でインタビューしたときだった。
「ああ、あれはね。あれはフィデルが書き変えたのよ」
アレイダはいとも簡単に解き明かしてくれた。改竄されたため意味がぼかされたのだ。
現実的実利主義者フィデルは最高指導者だった時期、必要とあれば冷酷な手段を講じることができたということだろう。
フィデルは、「勝利するまで帰らない」という手紙末尾の文言を消して、チェが万が一「勝利しても帰れない」ようにした、と筆者は解釈している。つまり末尾を「永遠の別れ」のように変え、勝利して帰国する可能性を封じ込めてしまったのだ。(第八章 コンゴ遠征)

このエピソードが、著者が一番書きたかったことかもしれない(^_^;)

ドブレの裁判は延期に延期を重ねていた。チェは知らなかったが、ドゴール大統領のフランス政府が、自国の若き英才ドブレを死刑にしないようボリビア軍政に圧力をかけていた。チェの「ボリビア日記」には、ドブレ裁判の経過が何度も触れられている。チェは生きて捕らえられ、軍事裁判にかけられる可能性を信じていたのではないだろうか。
1967年10月9日午後1時10分ごろのことだった。チェは長らく「生」の中の「死」をいきていた。これからは永遠に変わらない39歳の若い革命家として生き続けることになる。(第九章 ボリビア)


39歳。フィデルカストロが2016年に90歳で大往生?したことと照らし合わせるとあまりにも短いようでもあるが、これもそれぞれに天寿を全うしたというべきだろう。39歳と言えば、Morris.が韓国に通い始めた歳である。

私は1967年10月、ラテン・アメリカ情勢を取材する駆け出し記者として滞在していたメキシコ市で、革命家チェ・ゲバラのボリビアにおける死の報に接した。
チェは、人の命を救う医師の資格を得ながらも人を殺す武器を手にし、キューバで武力革命に成功すると自信過剰気味となって、平時よりも戦時に魅惑され、死を覚悟しつつ絶えず戦場を求め、最後には敵の武器によって、命を絶たれてしまう。
私はチェを「キューバ革命の偉大な副産物」と位置づけている。しかし本人は、それにとどまらず、運命に後押しされ、時には運命に引きずられて生き急ぎ、死地に赴いた。だがチェの死は、ボリビア軍部やCIAの思惑を大きく裏切ってチェに永遠の生命を与え、チェを無限大に膨らませた。(あとがき)


「原稿用紙一枚でゲバラのレジュメを」、というリクエストに応えた模範解答みたいな文章である(^_^;)
本書のおかげで、ゲバラの大まかなことがわかったし、中南米のことを如何にしらずにいたかということもあらためて教えられた。
そして、米国(USAMERICA)って、昔っから、懲りることなく同じ手口やり続けてるんだな(>_<)ということも。

2018/09/17(月)●秋の夜長の手習い(^_^;)
8時半起床。
今朝の血圧は166/70/63。36.4℃
昨夜はなんとなく眠れなくて、ずいぶん前に元町の古本屋つのぶえで買った、古い和本をぱらぱらと見直す。この本は「女大学」などと呼ばれる、当時の庶民の教養学習書みたいなもので、一番大きいスペースを占めてるのが百人一首。これが、変体仮名だらけでなんでこんな読みになるのか?わからない。まあ百人一首なら、小学生の頃にほとんど諳んじてたはずだから、だいたいの見当はつく。角川の「書道字典」の中に120pほどの「假名漢字字典」の付録があるので、これを参照しながら楽しんだ。同じ漢字でもくずし方で全く違う様相を呈するし、ほとんど同じに見えるものも多いので、解読は容易ではない。しかし、これもクイズと思えば面白い。目下の目標は、句碑や歌碑を読めるようになること。この和本の出版は寛政八年大阪道頓堀となっている。西暦で言えば1796年。江戸では山東京伝や大田蜀山人が活躍中、欧州ではナポレオンが登場した時代である。
今日も午後から屋上へ。今日はサイコロスピーカーで阪神-DeNA戦聴きながらてきとーにミニギターレッスン(^_^;)
野球の方は延長で阪神敗けてしまった。5時前に部屋に戻るとき、階段踊り場の窓の隅に、昨日一階の入口で見かけた背條天蛾(せすじすずめ)がとまってるのを見つけた(@_@)。昨日の日記でも書いてただけに、何かMorris.に会いにきてくれたような気がして嬉しくなった(^_^)
明日から平壌で3回目の南北会談が行われる。今回は、北の核廃棄に関する議題が中心で、あまり過度の期待は持てないものの、やはり半島の統一への布石になればという気持ちをおさえきれない。そういえば、大和くんは今月9日から13にちまで平壌をおとずれていたらしい(@_@) センターの飛田さんはスイスまで出かけ、アルプスの麓を散歩(^_^;)してきたらしいし、Morris.が、松葉杖生活してる間に、知り合いは世界を飛び回ってるということで、ちょっと彼我の「格差」(>_<)にめげてしまいそうになる。こんなときはホンジニョンの「サンダヌンゴン」でも聴くことにしよう。
今日の歩数は200歩(^_^;)


江戸時代の「女大学」 

「百人一首」読めるかな?

ランチは 即席ラーメン 

屋上で野球中継&ミニギター 

4階踊り場窓に昨日の背條天蛾? 

晩ごはん(週に1,2回はこのメニュー) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 나방(ナバンg 蛾)
蝶は「나비(ナビ)」。韓国人もやはり、 나방より나비好きな人が多いようだ。
例外として태극[太極]나방(テグンナバンg)という蛾がいる。日本では歯車巴蛾、雄黒巴蛾とも呼ばれているが、翅の巴紋が、韓国の国旗(태극기[太極旗]テグッキ)に似ていることからこう呼ばれる。
韓国人は子猫のことをよく나비(ナビ)と呼ぶ。蝶々と子猫の取り合わせは悪くない。

【サーカスの夜に】小川糸 ★★★
2015/0130 新潮社 初出「小説新潮」2014年2月号~9月号
国籍不明の矮人の少年が、苦労しながらサーカスに入り、少しずつ成長していく物語。半分メルヘンで、半分「ぽえむ」みたいな作品だった。

僕が厨房を出ようとすると、コックはいつもと同じセリフをまた繰り返した。
「食べ物は、争いの元になる。みんな、腹を空かせるから、腹立たしくなるんだ。ハングリーとアングリーは、根っこでは繋がってる。すべての戦争も、もとをただせば空腹が原因さ。でも逆にいえば、腹さえ満たされていれば、いざこざは起きない。おなかがいっぱいだったら、人はそれだけで幸せになれる。だから俺は毎日、厨房で腕をふるうってわけさ。このレインボーサーカスの、平和のためにな」


単純化。

テンペ様は、僕とコックが協力して子牛のもも肉を薄く伸ばしていると、さらさらとキーボードを操作して、あっという間に画面に取り込んだコックの顔写真から血を流させた。
「連中は、都合のいいように事実を捻じ曲げる。それを鵜呑みにして信じる連中も大勢いる。今の世の中、先に大声で怒鳴った者が勝ちだ。正しいとか正しくないとかは関係ない。」再び小雨が降るような音で、テンペ様がキーボードをなめらかに打った。


なかなかの、最新技術の披露。

見上げると、夜という巨大な闇に挑戦状を叩きつけているかのような明るさで、月がこうこうと輝いている。もうすぐ、満月だ。そのせいで、深夜なのにぼんやりと明るかった。
テントを撤去した後の地面には、そこだけ白く丸い跡が残されている。どうやらナットーは、ステージのあった場所に一本の綱を置いて、その上を歩いているらしい。それだけでも、ナットーがやると、その周辺に虹色に輝く特別な粉がまかれたみたいに、空気が華やいで見える。しっとりと湿った夜の粒子が、喜んで、はしゃいでいる。ナットーが、綱の上で優雅に踊っているのだ。僕は足を止めて、しばらくナットーの演技に見入った。なんだか、昔の幻想的な映画を見ている気分だった。
「何もなければ、ここはただの野っ原と一緒。でも、ひとたびテントが立つと、サーカスが生れ、立派なステージになるの。これは、一種の魔法ね。何度立ち会っても、不思議な気持ちだわ」
ナットーは、飛ぶことを覚えたばかりの蝶々のように、軽やかにステージの跡をスキップする。


人生はタイトロープ(^_^;)

サーカスはすべてが呼吸であり、リズムである。そのことに気付いたのは、ジャグリングをするようになってからあ。ある時、すべての行為がジャグリングなのだと神様から啓示を受けたみたいに気がついた。
トイレ掃除、厨房の手伝い、きっぷのもぎり、赤ん坊のお守り。すべてが、見えない糸で繋がっている。一日という時間の中、もっとも効率のよい流れでそれらを淡々と無駄なくこなす。まるで、いくつものボールと規則正しく手放しては、またこの手で受け取るように。必ず、美しい放物線を描くポイントというものが存在する。ひとたびその軌道に入ってしまえば、難しいことは何もない。それぞれの雑務も、ジャグリングと同じように、僕の手の中を規則正しく往来する。

心は自由だ。どこにでも行ける。
僕の心は、いつだって自由なんだ。


小川糸の世界はMorris.にとってもそれなりに、魅惑的だったし、本書えもいろいろ楽しませてもらった。でも、なぜか、もうこの辺にしておこうという気になった。

【これだけで、幸せ】小川糸 ★★★
2015/11/19 講談社
彼女のエッセー集。こんなのまで読んでしまった。

ものを使うことは、ものに対して責任を持つということ。

暮らしを重ねるほどに、余分なものは削ぎ落として、代わりに愛着品が増えていく。これからの人生もそんなスタイルを大切にしてきたいと思います。

寝室に天井照明はいらない。

40歳をすぎ、そろそろ人生の終わりを意識するようになりました。あっという間の人生ですから、思いっきり気持ちよく幸せに日々を送りたいなと思っております。


他にも何冊か彼女の本読んだけど、感想はスルー。もう、しばらく読むことはないと思う。

2018/09/16(日)●半日屋上(^_^;)
5時半起床。
今朝の血圧は162/66/69。36.2℃。
朝の三点セット。
天気予報に反して、えらく良い天気である。
昼はピザトーストですまして、久しぶりに屋上に。前に松葉杖で上がったときは往生して、もう松葉杖での上り下りはしないと書いたが、今日は、なんとか松葉杖なしで上がることができそうだったのだ。リュック背負って、ミニギターケースいれたままこれを杖代わりにすることで、それほどひどい苦労せずに屋上に到達。
それこそ久しぶりに、屋上でゆっくりすることが出来た。ただ、けっこう日差しが強くて、日陰が動くのに従って、椅子を移動する必要があった(^_^;) ミニギターおさらいしたり、ぼんやり空と雲みたりして4時過ぎまで屋上にいたことになる。やっぱりMorris.にとって、この屋上の意味は大きい。
一旦部屋に戻り、マルハチに買い物に出ることにする。
アロハの下にTシャツ着て、松葉杖で出かける。両足そろえて着地することができるので、ずいぶん楽である。マルハチまで一度も休むことなしに行くことが出来た。
カートでの買い物も前より楽にできるようになったし、まあ、順調に回復基調なのは間違いない、明日も祝日で病院休みなので、明後日火曜日に行こうかと思ったが、もうちょっと延ばして、松葉杖なしでも大丈夫かと思えるあたりに通院しようかとも思う。
5時半帰宅。帰り道は買い物が重かった(玉葱、玉子、ポールウィンナ、もやし、そしてビターレモン(^_^;))ので一回だけベンチで休憩。
アパートの入口の下の方に割と大きめの天蛾(すずめが)がいたので、デジカメ撮影。何か秋を実感した。
世間では蛾を嫌う人が多いようだが、Morris.は蛾には特に心惹かれる。金子光晴の詩集『蛾』(昭和23)に触発されたのかもしれない。

いきることのあぶなつかしさ。夢をもちはこぶことの無謀さよ。(「蛾」Ⅰ-2)

蛾よ。
なにごとのいのちぞ。うまれでるよりはやく疲れはて、
かしらには、鬼符、からだには粉黛、時のおもたさを背にのせてあへぎ
しばらくいつて憩ふ、かひないつばさうち。(「蛾」Ⅰ-3)

蛾はじぶんでじぶんを占ふ。その恍惚は君があがなつたのか。たえ入る蛾よ、聡明なものよ。
こんな晩、蛾が月を受胎するといふ。月が蛾の卵をうむのだともいふ。(「蛾」Ⅴ)


蛾は、その影とともに人の心の虚におちこみ、そこにやすらふ。
蛾は、數ではない。負數なのだ。(「蛾」Ⅵ)

蛾はつまり、女たちなのだ。夜ごとのみだらなふるまひで折れた翼。(「蛾」Ⅶ)

蛾はきりきりと廻る。底のない闇の、冥府のなかにくるめくその姿。
悔と、驕慢と、不倫の愛の、一時に花さく稀有なうつくしさ。(「蛾」Ⅷ)


以上の引用しながら、また、光晴を再読しなくてはと思ってしまった。
夜になって、女優樹木希林の訃報。5年前に全身癌を公表。死期に近づきながら、精力的に女優活動を続け、最晩年に国際映画賞をもらい、まあ女優冥利に尽きる一生だったと思う。Morris.はドラマや映画あまり見ないほうなので、それほど馴染みはないのだが、たまに、テレビなどで垣間見るだけでも、他の女優とは次元の違うものを感じていた。彼女だけに限ったことではないが、「天寿」を全うしたのだと思う。
今日の歩数は2000歩?


午後の屋上の空 

同じく

背條天蛾(せすじすずめ) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 밀당(ミルタンg 恋の駆け引き)
밀고 당기기(ミルゴタンギギ)の略。直訳すると「押して引くこと」。韓国の女性は好きな人にデートに誘われても、軽い女と見られたくないために一度は断る、という事情が日本のテレビ番組でも取り上げられた。もちろんこれは人によって異なるが、押したり、引いたりは恋愛の最初の段階で重要な意味をもつ。しかし相手に好意がなければ、このような駆け引きは全く効果がない(^_^;)
Kpediaもたまには気の利いた事を言う(^_^)
Morris.は밀다(ミルタ 押す)と당기다(タンgギダ 引く)をよく混同するのだがこの単語さえ覚えておけばもう間違わずにすみそうだ。

【つるかめ助産院】小川糸
★★★☆ 2010/12/10 集英社
デビュー作「食堂かたつむり」と同じく、突然男がいなくなり、取り残されてしまった女性が、別の場所で、新しい世界を生きるというプロット。本書では主人公が、南の島(沖縄の離島)で、妊娠をしり、島の助産院で出産するまでを描いたもの。著者は出産を経験していないようだが、出産関連本や、実際の助産院への取材で知識を得ている。2012年にはNHKでドラマ化されてたらしい。

「長年こういう仕事をしていると、ふと感じることがあってね。神様みたいなでーっかい目ん玉で見たら、生まれることも死ぬことも、そんなに変わらないんじゃないのかなーって。生まれる現場と亡くなる現場って、不思議なんだけど空気のトーンが一緒なのよ。厳かっていうか、神聖っていうか。とにかく人間の手にはどうしたって及ばない神様の領域って気がするよ。サバサバしているようだけど、死ぬ時死ぬし、生まれる時は生まれる。
でもやっぱり私は、神様みたいにはなれないから、人の死も動物の死も、いちいち悲しんじゃうし、ずっと引きずってしまうんだけど」
おなかに両手を当てながら、先生の話を聞いていた。私は、生まれることと死ぬことは、ずっと正反対なのだと思っていた。でも、先生はそうではないと言う。だったら、長老の魂がすぐに天国からトンボ帰りして戻ってきて、おなかの子に宿ってくれたらいいのにと思った。


こういった、口当たりの良い死生観を開陳するあたりが、若い世代の共感を呼ぶのだろう。

2018/09/15(土)●蟄居の一日
7時起床。
今朝血圧は174/71/84。36.7℃
朝からどんより曇ってるが雨は降ってない。
岸和田の加納くんからだんじり画像がLINEで送られてきた。長いこと岸和田だんじり見てないなあ。もともと岸和田だんじりは9月15日と決まってて、この日が平日でも、他所に行ってる岸和田人の多くは、休みをとって岸和田に戻ってくると言われてた。指名手配されてるものもこの日だけは岸和田にもどり、それを岸和田警察は知っていながら見ないふりをしてた(^_^;)という伝説まであった。 それが老人の日でもあった9月15日が1963年「敬老の日」として国民の祝日になる。これには岸和田出身の議員の力が動いたという説もあった(^_^;) それが2003年のハッピーマンデー制度のため、9月15日がまた平日になってしまい(日曜のこともあるけど)、2006年からは本宮の日程は敬老の日(9月第三月曜日)の前日の日曜に変更された。ということで、今年は今日、15日が宵宮で、明日日曜日が本宮になる。
今日は一歩も部屋を出ず、ずっと部屋にいた。来週杖(ステッキ)だけで歩くことができるのではないかを試そうと、小さなモップを杖代わりに歩いてみたがどうもうまくいかない(^_^;) まあ、杖とモップではずいぶん使い勝手違うと思うが、金沢病院で相談してみよう。
今日は阪神デイゲーム。ヤクルトに連敗して、一昨日の松坂に敗けてから3連敗(>_<)
見るともなく見てた大相撲、白鳳ー遠藤の取り組みで、沿道が力なく腰砕けで自滅して、アナウンサーが、足の親指を傷めてたことを話すと、解説の尾車親方がすかさず「相撲は手の小指と足の親指」と応じたのが印象的だった。
テニスの大坂なおみへのマスコミフィーバーが続いているが、ファッションやら家族のことやら、カタコト日本語発言やら、賞金やスポンサー契約金やら、テニス以外のことで大騒ぎしている。Morris.は、来日翌日のインタビューで、彼女の謙虚さや仕草に日本的だとか、日本人の特性が感じられるという質問に、「そんなことはない、私は私だ」と答えたのが印象的だった。が、その後の報道で、この発言はほとんどスルーされてしまっているようだ。東京オリンピックでの金メダルについても、マスコミは日本の金メダルの増加をというスタンスで質問しているが、彼女はあくまで「私」の目標ということを強調していた。
今日の歩数は0歩。

[今日の韓国語単語from Kpedia] 양극단(兩極端)(ヤンgクッタン 両極端)
양극단에 서 있다(ヤンgクッタネソイッタ  両極端に立っている)
양극단은 일치[一致]한다(ヤンgクッタヌンイルチハンダ 両極端は一致する)
의견[意見]이 양극단으로 갈리다(ウィギョニヤンgクッタヌロカルリダ 意見が両極端に分かれる)

【蝶々喃々】小川糸 ★★★☆ 2009/02/05 ポプラ社 初出「asta*」2008-09
小川糸作品としては珍しい、妻帯者への恋、下世話に言えば「不倫」の物語だが、そこはそれ。どこまでも「爽やか仕立て」になっている。ストーリーは特に無いような(^_^;)ものだが、彼女の文体の魅力の一つである「直喩」つまりストレートな譬え「~のように」「~みたいに」といった比喩表現が頻出する。それがまあ、彼女の芸なのかもしれない。ということで、コメント抜きでずらずらずらっと陳列しておく。

表に出て、男性の背中を見送る。藍染め液を流し込んだような濃紺の空の下、ひっそりと冬の夜が広がっている。

木ノ下さんは、まぶたに力を込めて目をぎゅっと閉じる。その表情は、注射を我慢する子どものようだった。

私が囁くと、木ノ下さんは、まるで新しい世界がはじまるみたいにゆっくりと目を開けた。

体の奥の方で、風船のようにぷっくりと何か懐かしいような気持が膨らむのを感じる。少しでも先の尖ったものが触れたら、すぐに破れて、中から甘酸っぱい感情がほとばしりそうだった。

突然のお天気雨みたいに、私は笑いながら泣いた。

ヒマラヤ杉の向こうに、月が見える。よく使い込んだ金盥のようにピカピカに光っている。

木ノ下さんと会うことを想像するだけで、胸にたくさんの花の蕾が詰め込まれたみたいになり、呼吸が苦しくなってしまう。落ち着いて深呼吸をしないと、酸素不足で息が詰まりそうだった。

いくつもの感情が、ドミノのように次々と胸の中で倒れていく。木ノ下さんが今言った言葉は、私がまさに彼に伝えたいと感じていたことだ。やっと会えたのだと思った。私は、最後のドミノがコトンと音を鳴らして伏せるのと同時に、勇気を振り絞って言った。

すべてが、丁寧に作られた映画のワンシーンのように美しく見える。

昨日春一郎さんとのデートに着ていったお召が、気だるそうに鴨居から衣紋掛けにかかっている。きものを見ただけで、体中の細胞が甘いため息を吐き出すようだった。

母も父を愛していたし、父も母を愛していた。私も花子も、如雨露で水を注がれるみたいに、毎日たっぷり愛されていた。母が近所の美容師と恋仲になり楽子を身ごもるまで、私たち4人はちゃんとした家族だった。少なくとも、私にとってはそうだった。

暖簾を出そうと表に出ると、外は青空なのに、季節外れの雪が舞っている。地上の汚れを必死で白く塗り潰そうとするかのように、雪は、一生懸命に降っている。

午後になるとどんどん雲が重たくなった。空一面、グレープフルーツジュースを流し込んだみたいに白く濁り、壊れかけたアコーディオンのような不穏な音を響かせて冷たい北風が吹いている。

私にとって春一郎さんは陽だまりだ。どんなに他の場所が薄暗くても、そこだけはぽかぽかとした明るい光で満たされている。
「こんばんは」
春一郎さんは太陽そのもののような笑顔で言うと、神妙な顔に戻って靴を脱いだ。

春一郎さんと乾杯する。机の上の電灯と和蝋燭の明かりだけのひめまつ屋に、そっと流れているのは韓国出身の女性シンガーの歌声だ。湿った空気に、彼女の声が染み入るように響いてくる。

やっと、パズルとパズルがぴったり合ったような落ち着いた気持ちになった。

「そろそろ、戻らないとダメかな?」
春一郎さんが、時計を見ながら困ったように言う。私は、手のひらから小鳥を放つように、そっと両手を引っ込めた。

風が強く吹いた瞬間、白い布を広げたように、水面にわっとさざ波が立った。晴れている日は池をぐるりと一周して帰るのだけど、今日はそのまま三四郎池を後にする。

入り口付近にある厨房から油の音が響いてくる。突然俄雨が降り出したかのような、とても華やいだ音だった。

朝から降り続いた雨は、夕方近くに止んだ。今は、水彩画を描き終えた後の水差しの水のような、どんよりと濁った色の雲が広がっている。

皿の上で少しずつひき肉と卵黄が混ざり合い、ねんごろになっていく。私と春一郎さんは、まだこんなふうにはなっていない。しばらくかき混ぜると、卵黄は均一にひき肉の中に取り込まれ、皿の上にはとろりとしたつくねの種が出来上がっていた。

春一郎さんが、私ではなく、私の向こうに広がる、例えばアラスカの荒涼とした海の風景を見つめるような眼差しを浮かべて言う。

サンダルを履くと、まるでスケートリンクの上を滑っているみたいに、スイスイと体が前に進む。この感覚に慣れてしまったら着物の生活には戻れなくなってしまうと危惧しながらも、まるで風になったような軽やかな感覚を、体の芯から謳歌する。

葉っぱの隙間を縫うように、茎をスーッと伸ばして花びらを開く蓮の花。色っぽくてしみじみと奥ゆかしく、私は、花の中でも蓮が一番好きかもしれないと思った。
池の方に耳を澄ますと、花が咲く瞬間の音が聞こえてくる。まるで、笑いたいのを必死に堪えて、けれど堪えきれずに思わず吹き出してしまったかのような音だ。夜明けと共に花を咲かせ、お昼頃には花びらを閉じ、これを三日繰り返して、四日目には枯れてしまうという不思議な花。

坪庭に、ふたつの炎の花が咲く。火を見つめると、人は何かしら素直になれるのかもしれない。春一郎さんの線香花火が、先に松葉模様を作り始める。数秒後、私の線香花火も松葉になった。それから松葉はだんだんちいさくなり、ふたりともほぼ同時に火の玉へと変化する。
春一郎さんの火の玉が、私の火の玉の方へとゆっくり近づく。私も、同じように春一郎さんの方へと距離を縮める。二人の体のちょうど真ん中で、ふたつの火の玉は繋がった。指先に、さっきよりも強く振動を感じる。

春一郎さんの声がして、それから電話は本当に切れた。命綱みたいにぎゅっと握りしめていた受話器を、ようやく元の場所に戻す。心の中が、一瞬、表現のように静まり返った。

かぐわしい香りを漂わせ、桃はすいすいと口の中へ吸い込まれる。甘い汁が、手のひらから滴り落ちる。私は春一郎さんを食べているような気持ちになった。食べれば食べるほど、甘美な気分に満たされていく。ひとつでは足りなくて、ふたつ、みっつと手が伸びる。私が指先で皮を引くと、桃は自ら服を脱ぐみたいに従順に皮を剥がし、きめの細かい、ほんのりと紅く色づいた白い肌をさらす。

園の入り口のほど近くに、水琴窟があった。
「栞からどうぞ」
そう言って、春一郎さんが柄杓で瓶から水をすくい、小石の上に落としてくれる。私は、竹筒の端に耳を寄せた。奥の方から、音が響いてくる。まるで地中に閉じ込められた星達が、キラキラとそこで瞬きながら響き合っているような音だった。その音に耳を澄ましていると、体の中にスーッと涼風が吹き渡るのを感じた。

頭上には、まるで束子を使って入念に磨いたかのような、雲ひとつ見あたらないすっきりとした秋晴れの空が広がっている。

八寸は、まるで画家のパレットのような鮮やかな色彩だった。〆鯖の黄身酢和え、枝豆の山椒煮、平茸の松葉刺し、菊の葉の天麩羅、粟麩のしめじ和え、さつま芋の蜜煮、どれも丁寧に作られている。宝石のような、とても優雅な気持ちになった。

「今までありがとう」
春一郎さんは、目尻に涙の跡をのこしたまま、最後にそう言って薄く笑うと、本当にひめまつ屋を出て行った。今までぴったりとくっつき合っていた磁石と磁石を、無理やり離したようだった。私は呆然と、ただその場所に留まっていることしかできなかった。竜巻がすべての感情を巻き上げ遠くに去っていくのを、私は静かに待っていた。


これでも全体の2,3割くらいだと思う(^_^;) 全てが秀逸というわけでもないが、俳句の取り合わせの妙みたいなものを感じさせられて、面白かった。

2018/09/14(金)●不自由民主盗
7時起床。
今朝の血圧は138/42/65。36.0℃
どんより曇り空。
2012年のKBSトロット大祝祭のDVDかけながら、読書。DVD見終えて地上波チャンネルに戻したら、自民党総裁選日本記者クラブ主宰討論会の中継やってたが、もうほとんど終わりかけ。見なくてもいいようなものだが、やっぱり気になって、午後にYou Tubeで見る。2時間ちかいし、前半は安倍首相がロシア行く直前やったのとほとんど同じようなものだったから、真ん中へんの、森友問題のやり取りあたりから見ることをおすすめする。安倍にとっては、言質とられずやり過ごすことにだけに専念してた。選挙期間に北海道地震があり、5日外遊して、選挙の延期を、との質問には、外国の例を出して言い訳に終始、拉致問題も生存を前提とするのが当たり前と開き直り、
午後には部屋の中で回転椅子使わずによちよち歩きしてみる。もちろん右足だけで立つのは無理だが、軽く右手でサポートすればなんとかなりそう。来週金沢病院でレントゲン撮って、医者の許しが出れば、松葉杖返上して、受付に預けてる杖だけで歩くことができるようになるかもしれない。それまでは、力かけないようにしておこう。
岸和田の加納くんから、LINEでメッセージと古い写真が送られてきた。たぶん40年くらい前のショットだと思う。Morris.は長髪&髭で、眼鏡かけてない(@_@) あの頃はコンタクトレンズしてたんだった。懐かしくもあり、恥ずかしくもある(^_^;)
加納くんには、神戸地震の直後泊りがけで遊びに行き、ずいぶん親切にしてもらった(義援金まで)ことをありがたく思い出す。かなり長いこと岸和田観光バスの運転手やってたが、もう退職して悠々自適してるようだ。
今夜から阪神はヤクルト3連戦、ところが打撃好調の北條がライナーをダイビングキャッチする際に負傷して退場、左肩の脱臼かもしれない。Morris.とは事情が違うが、とにかく骨に関する事故で身につまされる。5月5日に甲子園に行った試合で絶好調だった上本が、二盗で膝を傷めて退場したことを思い出した。上本は左膝手術で今シーズンの復帰は絶望的らしい。
夜はご飯炊いて、レトルトカレー。残りはラップにくるんで、冷凍庫に。
今日の歩数は0歩。


「息を吐くように嘘をつく」(>_<) 

40年前のMorris.( 右端)(^_^;) 

北條左肩脱臼?(>_<) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 인정[認定]하다(インジョンgハダ 認める)
인정[認定]되다(インジョンgテダ 認定される、認められる)
日本語と同じで覚えやすい漢字語だが、今日偶然見た韓国ドラマの若い男女の会話で、女性の提案に、男性が「인정!」と一言声をかけた。「そのとおり!!OK!!合格!!」みたいなニュアンスの使い方だった。これってけっこう使えるかも。

【食堂かたつむり】小川糸 ★★★☆ 2008/01/15 ポプラ社
今年2月に「リボン」という作品読んで、なんとなく文体に惹かれて、それから数冊続けて読んでメモを取ったものの、そのままほったらかしになってた(^_^;)
本書は彼女の実質的デビュー作といえる作品のようだ。
都会のあちこちの飲食店で仕事していた倫子は付き合ってたトルコ人?の恋人に、裏切られ、貯金も家財も、そして声まで失ってしまう。山あいの実家にもどり、母に頼んで小さな食堂を始める。一日一組の客しかとらないというシステムで、それなりに評判を呼び、彼女も立ち直っていくという、かなり無理のあるストーリーだが、調理、材料、料理などの描写が異様にリアルで、その分だけでも面白かった。後に本書のメニューをメインにした料理本まで出したらしい。

実家にいた頃は、料理といえば電子レンジで温めたり罐詰を開けたりすることだった。けれどそれは大きな間違いだった。祖母は、味噌も醤油も切り干し大根も、すべて自分の手で作っていた。お味噌汁の一杯にも、煮干やかつお、大豆や麹など、たくさんの命がふくまれていることを初めて知った時は驚いた。
祖母が台所に立つ姿は神々しく美しい光に包まれ、私はその姿を遠くからぼんやり見ているだけで、いつだって穏やかな気持ちになった。隣で手伝いをするだけで、自分も何か神聖なことに参加しているような気分になる。
祖母のいう「適当」とか「塩梅」という表現は、料理に慣れていない私にはちんぷんかんぷんだった。けれど、じょじょに私にもその意味がわかるようになった。祖母は、ここしかないちうベストの状態を、「適当」や「塩梅」というおおらかな言葉で表現したのだ。
家財道具も調理器具も財産も、持っていたものはすべて失くした。けれど、私にはこの体が残っている。
梅干し入り蕗のきんぴらも、お酢をしっかりときかせたごぼうの煮物も、野菜のたっぷり入ったばら寿司も、ダシを効かせたゆるゆる茶碗蒸しも、卵の白身だけで固める牛乳プリンも、きなこ饅頭も、祖母から譲り受けたレシピの数々は、すべて私の舌に残っている。
祖母の形見のぬか床。
そう言っっても過言ではない。
地震も戦争も免れた。
祖母に並んでぬか床を除くとk、祖母はいつもそう言って自慢した。明治生まれの祖母が、その母から譲り受けたと言うのだから、これはおそらく、江戸時代か ら代々続くぬか床だ。作ろうと思ったって作れないし、買いたくても買えない。ここに入れておくだけで野菜が喜び、ご馳走になる、魔法のベッドだ。
私が譲り受けてからも、味噌汁のダシを取った後の鰹節や煮干、みかんの皮を加えてはいつも丹念に混ぜてきた。たまにビールを飲ませたり、食パンをやって乳 酸菌を活性化させた。人それぞれに持っている乳酸菌が違い、男の人よりも女の人、特に子どもを生んだ後の女性の手のひらから出る乳酸菌が一番いいのだと、 いつか祖母が自慢げに教えてくれたっけ。
ぬか床の壺のふたをそっと開けると、祖母の匂いがした。


祖母から譲り受けた、ぬか床だけは恋人に持ち去られずにすんだので、それをよすがに実家に戻れたみたいな場面もあって、この祖母の料理への傾倒が基本にあるらしい。

コーヒーショップ、居酒屋、焼き鳥店、オーガニックレストラン、人気カフェ、トルコ料理店……、様々な飲食店で修行を積んだ経験も、この体の血や肉や爪の間に、年輪のように刻み込まれている。
たとえ衣服を剥され素っ裸にされたとしても、私は料理を作ることならできる。
私は、一生一度の覚悟を決めて、おかんに申し出た。


この母(おかん)は祖母とは対照的に大雑把な水商売の女将さん。

そして物語の終盤、クライマックスと言うべき、大掛かりなパーティの豚肉一頭を使い切ったメニュー。これはなかなに壮観である。

ずらりと並ぶ料理の数々。
頭を使ったテリーヌは、地元産の野菜のピクルスを添えて。
耳は、野菜くずや酢と一緒に下茹でしたものを細くスライスし、オリーブオイルとワインビネガーで和えてフランス風ミミガーサラダに。
舌は、半分は五香粉やその他の香辛料を加えた醤油ベースの汁に漬けてから煮て、中国のルウツァイに。残りの半分は、キャベツと炒めて塩コショウで味付けした。
心臓は、血のソーセージの中に入った。
レバーと軟骨は、桜のチップで燻製にした。
胃袋は、その場で塩だけつけて炭であぶり、国産の無農薬レモンを絞って出した。
子袋は、その他のモツと一緒に比内鶏の鳥がらスープに入れて、小松菜とイカ団子も一緒に合わせ、それをビーフンにかけて最後に生卵の黄身だけ落とし、ミャンマーのチェイオーという汁そばにした。
豚足は、じっくり煮込んでゼラチン質を引き出し、沖縄料理のテビチに。
腕は、丸ごとの根菜と一緒に数時間かけてコトコト煮込み、フランスのポトフになった。
肩肉は、一口大に切って下味をつけ、片栗粉をまぶしてオリーブオイルで揚げてから、煮つめたバルサミコ酢をからませて、イタリア料理風酢豚に。
塩漬けしておいた肩ロース肉のかたまりは、クレソンと一緒に煮込んで味噌味のスープにした。
前もって作っておいたチャーシューは、そのまま切って出す他、白髪ねぎをたっぷり入れたチャーシュー麺としても出した。加工せずに生のまま冷凍しておいた残りの肩ロースは、この冬に漬け込んだキムチと炒めた。
ロースは、生ハムを作った分でほとんど終わってしまったのだけど、残った分は、お肉屋さんの奥さんにアドバイスされた通り、薄くスライスしたものを軽く茹でて、蟹、もやし、ニラなどと合わせてライスペーパーで包み、ベトナム風春巻きを作った。ソースには、本場のヌクマムを取り寄せた。
モモを加工してつくったハムはサンドイッチに使った他、ポテトサラダの中にも入れた。生のまま保存した分は、解凍したのち、骨付きのままローストし、柚子胡椒を添えて出した。残りはひき肉にして、花椒をたっぷりと入れたピリリと辛い四川風麻婆豆腐に。それでも残った分は、スープで炊いたお米とともにピーマンに詰め、トルコのピーマンドルマにした。それでも残った分は、ロシアのピロシキの中に入れた。
バラは、ベーコンとして加工した分は、チーズと合わせてパン生地に混ぜ、ベーコンチーズパンを焼いた。エルメスの置き土産とも言える天然酵母菌を使い、噛みごたえのあるしっかりとした田舎風パンになった。
内側のスペアリブのところは、玉ねぎ、トマトと一緒に炒めてから、コーラで煮込んで、アメリカン・スペアリブに。骨付きのところは、小麦粉の衣を付けて高温の油で上げ、椒塩排骨(チャオイエヌパイグウ)という中国風唐揚げになった。
わずかしか取れない貴重なヒレは、塩と胡椒で下味をつけてから、小玉ねぎ、ニンニクと一緒に炒め、林檎と合わせて圧力鍋で数分間煮込み、最後に白ワインで味をととのえ、サワークリームを添えて出した。


豚肉好きなMorris.にはたまらんね(^_^;)

2018/09/13(木)●籠城態勢(^_^;)
7時起床。
今朝の血圧は181/61/80。36.5℃
二日酔いではないが、ちょっと酒残ってる(^_^;)
午前中はごろごろしながら、なんとか昨日の日記更新。
天気予報によると秋雨前線の影響で、今夜から17日の月曜までずっと雨模様らしい。ということは4日間は松葉杖での外出は難しくなりそう。と、いうことで午後、松葉杖でマルハチへ。かなり涼しくなってきたし、松葉杖の扱いにも少しは慣れたようだし、以前は右足を地面に付けないようにしてたのが、いまは両足揃えて着地?できるようになった。もちろん重心は左足にかけるのだが、最初の頃は、右足が地面に触れると激痛がはしる状態だったから、それに比べるとだいぶましである。これならちょっとは重いもの買ってもだいじょうぶかも、と、コーヒーやごま油やキャベツ(半分)やビターレモン(^_^;)など買って、リュックに入れて背負う。帰り道はさすがにちょっと疲れたが、なんとか辿り着く。問題は階段で、背中が重いので、油断すると後ろに倒れそうになる(>_<) 慎重に4階まで上って、ほっとした。とにかくこれで4日は充分籠城(^_^;)できる。
明日で前回病院に行ってから一週間めだが、天候のことも考えて、休み明けの18日ごろ行くことにしよう。
名古屋の朴燦鎬さんからメール。先日毎日新聞の鈴木琢磨記者の取材を受けたとのこと。鈴木記者は大阪外大朝鮮語学科卒で、韓国、北朝鮮に詳しい人らしい。今回の取材も平壌での南北会談に合わせたもので、記事は9月19日の夕刊掲載予定とのこと。これはぜひ読まねば。
関空の橋の一部がクレーンで撤去され、国内線と国際線の一部が運航開始、と、関空離れをおそれた政府や大阪府の焦りが目立つが、一刻も早い復旧が望ましいことは理解できる。北海道の全面停電はほとんど復旧したが、まだ電力供給の不安は続いて、政府はしきりに節電をアピールしている。世耕大臣のスタンドプレイ的発言は、原発再稼働への伏線ではないかと勘ぐりたくなる。「計画停電」を脅しに使うのも、東日本大震災時のやり方に酷似している。
雨の中の甲子園、阪神-中日戦。中日は今日が誕生日の松坂が登板。5回まで投げて勝投手権利を得て降板。結局阪神は2-6で敗けて、松坂は6勝目(阪神戦で3勝)となった。なんとなく松坂だと、敗けてもあまり悔しいとは思えない(^_^;)

今日の歩数は2000歩?


千日紅 

紫式部 

けなげ 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 막상(マクサンg  いざ、実際に)
막상 해보니까 별[別]것 아니더구나(マクサンgヘボニッカピョルゴッアニドグナ  いざやってみたら大したことじゃなかったよ)
그렇게 싸웠는데도 막상 헤어지려니 눈물이 났다(クロッケッサウォンヌンデドマクサンgヘヨジリョニヌンムリナッタ あんなに喧嘩したのに、いざ別れてみると涙が出た)
漢字語を使った類似語に실지[實地](シルチロ 実際に)、실제[實際](シルチェロ 実際に)がある。

【私の昭和史 完結篇下】中村稔 ★★★☆☆ 2012/06/30 青土社
昭和36年から63年まで。

中原中也の作品の本質はいかに生きるかの志を述べる「述志」にあり、その出発点を「寒い日の自我像」に、その到達点を「春日狂想」に見る、ということが私の論旨であった。
いまからふりかえってみると、まことに一面的であり、中原中也の全体像の片鱗をあげつらっているにすぎない、と思われる。ただ一つ評価できるとすれば、それまで戯れ歌とししかみられなかった「春日狂想」に照明を当てたことかもしれない。(昭和47年)


「春日狂想」は、Morris.は小学校(中学?)の時初めて読んで以来好きだった。

私が感慨を覚えたのは、トイレットペーパーについてパニックがおこるほど洋式便器が普及したのだという事実であった。戦前と違って、塵紙や裁断した新聞紙はもう使われないようになったのだ。という事実は、私にとって目新しい発見であった。
人間のすることだから必ず間違いがおこりうる。間違いがあってもできるだけ早く間違いを修正すれば、間違いが深刻化することはない。しかし、間違いをおかした所員は間違いを、できれば匿したい、と考える。匿されてしまうと、間違いは救いようのない、深刻な事態に発展する。人間は間違う動物だ、だから間違ったからといって恥ずかしがらずに、すぐ報告してもらいたい、それを修正するのが上司の役目なのだ、(昭和48年)


オイルショック時の感想だが、後から考えると、馬鹿馬鹿しいようなことも、その時点では見えない。間違いを起こしたら、なんとかなかったことにしたい、というのも人間の弱さだろう。中村の言うことは正論であるが、それが実行出来ないのが人間の業かもしれない。

私はパリ協定でうたわれたように南ベトナムには解放民族戦線が中心となった新政権が、選挙を経て、樹立されると信じていた。北ベトナムは南ベトナムからアメリカの勢力を排除するために解放戦線を援助しているのだと考えていた。しかし、考えてみれば、解放戦線を援助して戦争に加わることは、自らの勢力の拡大をはかる目的でなければ意味がない。単に人道的支援などということでは、戦争に加わる意味をなさない。北ベトナム労働党は南ベトナム人民の反米的民族感情を利用し、南ベトナムを併合した。そういう意図を推察できず、徒らに解放戦線に同情的だった自分を、いまとなって私は恥じ入っている。またベ平連に加わっていた知識人たちは、こういう結果を予期していたのだろうか、と疑っている。
私は私が向き合ってきた現実の世界、現実の社会の真相を見ぬくことなく、無智のまま、これまでの障害を過してきたように感じている。ベトナム戦争もその一例にすぎない。そう思うと、ベトナム戦争の戦況に一喜一憂したこともまことに空しかったという感をふかくする。(昭和49年)


ここでも中村の正直さの発露が見られる。ベ平連への疑念も今となってはそうだったかもしれないと思われるのだが、あの時代には、真摯に活動したことは疑いを得ない。やはり中村の虚無的傾向が見られる。そこらあたりがMorris.の共感を誘うのかもしれない。

キャンプ・デービッド合意の実質は、エジプトのイスラエルとの単独講和、エジプトによるパレスチナ人の切り捨てにあった。そのことはまた、エジプトがアラブの盟主という声望を断念し、依然として大国ではあっても、アラブ諸国の中の孤児になることを意味した。私はキャンプ・デービッド合意の真相がそうしたものであると知ったとき、エジプトであれ、どの国であれ、結局は自国の利益本位に行動するのであり、パレスチナ人のために自国の利益を危うくするような選択はありえないのだ、と思い知った。英国の二枚舌あるいは三枚舌によって土地を奪われ、ユダヤ人ロビーによって支援を惜しまないアメリカによって既成事実の中に押しこまれてきたパレスチナ人をあわれに思い、イスラエル、英国、アメリカに対する憎悪を強くしたが、私にできることはもとより何もなかった。いかに弱小民族といえども、ここまでパレスチナ人を追いつめてよいものか、平和はキャンプ・デービッド合意によってますます遠のいた、という感をつよくしていた。(昭和53年)

中東情勢には冥いMorris.ではあるが、何を措いても、イギリスの二枚舌三枚舌外交が諸悪の根源だという思いは拭いきれない。キャンプデービッド会議が開かれた1978年、Morris.は神戸にやってきた。

権力は必ず腐敗し、堕落する。一党独裁の権力が腐敗し、堕落したとき、指導層には市民、民衆の顔は見えてこないし、声も聞こえてこなくなる。民衆は権力の否認に向かわざるをえなくなるのではないか。(昭和55年)

「民衆」と中村の間にはかなりの距離があるような気がする。

私はかなりの相撲好きである。小学生時代は双葉山の全盛時代であり、69連勝後に安芸ノ海に敗れて70連勝がならなかったときのラジオ放送の興奮を憶えているし、戦後になっても、吉葉山は私の五中時代の旧友吉葉君の父君の医院で治療をうけて相撲界に復帰したので、吉葉山というしこ名を選んだと聞いていた。栃錦、初代若乃花時代は、栃錦の熱狂的ファンであった。大鵬、柏戸時代はどちらかといえば柏戸好きであった。大鵬は偉大な力士にはちがいなかったが、体格にすぐれ、柔軟な素質に恵まれているのに反し、柏戸の一本気な取り口に惹かれていた。若島津も好きだったし、初代貴ノ花も好きだった。しかし、若島津も初代貴ノ花もいかにも軽量だから、いつもハラハラしながら見ていた。私は軽量、技能の力士が好きなので、千代の富士が前頭の上位に進んだころから、注目していた。
それにしても、私は千代の富士を戦後の最高の力士と考えているし、彼の相撲を数十場所観られたことを幸せだったと思っている。
野球はドームでなく、野外で、人工芝ではなくて、天然芝の球場で試合をしてほしい。ついでにいえば、相撲の年六場所は多すぎる。せめて四場所にしてもらいたい。そうでなければ力士に過酷にすぎると私は考えている。(昭和56年)


柏戸贔屓というのはMorris.も同じだった(^_^;)

毎日ジョギングをしていると、ジョギングをしないと気分が落着かないそうである。いわばジョギング依存症である。そんなジョギングが健康に良いはずはない。私は運動は健康に有害だと信じている。(昭和57年)

「運動は健康に有害」ぎゃははははは\(^o^)/、Morris.が言いたくても言えなかったことを公然と表明してくれた。

戦争は多くの庶民にとってふって湧いた災難であり、反省すべき体験ではなかった。その災難の結果がもたらした敗戦の悲哀を痛切に感じている庶民感情をじつに正確に掬い上げ、短歌定型によって定着したのが、斎藤茂吉であった。そういう意味で「白き山」は普遍性をもっていた。そのために私たちにふかい感動を与えた。
「典型」は同じ意味で普遍性をもっていなかった。じつにいたましいことだが、私たちの戦争責任の心情は普遍的な国民感情ではなかった。こうして「典型」という、巨人高村光太郎にふさわしいとはいえない詩集が残された。
いま私はそう考えている。しかも、高村光太郎の生き方にふかい同情と共感を感じている。(昭和59年)


戦後の光太郎のいきざまや作品の痛ましさ。その光太郎に「同情と共感」を感じるという中村の優しさと毅さ。

社会の構成員に危害が加えられたばあい、あるいは迷惑をかけたばあい、私たちに責任を生じる。極端なばあい、法律的に、刑事法上、あるいは民事法上の責任を生じ、刑事法上の処罰が課せられたり、民事法上の支払が命じられる。しかし、こうした法律上の責任を生じないまでも、反倫理的な行為はありうるし、社会的信頼に反する行為もありうる。責任とは英語でいえばresponsibility、ドイツ語でいえばVerantwortungであり、語源的には応答可能性だといわれる。何に応答するかといえば、第一には社会的非難に応答することであろう。たとえば、経営不振に陥った企業の経営者には、法律的責任はなくても、株主・取引先等の被害者の非難に応答するため、辞任を余儀なくされる。第二に、社会に迷惑をかけ、危害を加えたことについて、法律的責任はなくても、社会規範と信じるものに背いたのではないか、という自己の良心が命じる倫理的応答であろう。第一の類型は世論等圧力のかたちであらわれる非難に対する応答として、辞職・謝罪等の行為をすることになる。第二の類型についてどのように応答するかは本人の選択に委ねられる。非難、圧力の有無は問わない。本人の倫理感、良心の問題だからである。

ほとんど理解出来なかったのだが、非常に大事なことを言ってるような気がしたのでメモしておいた(^_^;) 「責任」が「応答可能性」?? 無責任社会日本は「応答できない」国なのか。

昭和60年9月、いわゆるプラザ合意が成立した。アメリカは純債務国に転落していた。レーガン大統領の減税、インフレ抑制、軍備拡大を中心とする政策により、連邦財政赤字、経常収支赤字の「双子の赤字」が拡大していた。柴田徳太郎「資本主義の暴走をいかに抑えるか」によれば、この双子の赤字は、「一方では、国際的に有効需要を創り出し日本やドイツなど諸外国の景気回復やアジアNIES諸国の経済発展を助ける役割を果たしたが、他方では、経常収支赤字拡大に対応して大量の外国資本が流入したため、アメリカは世界最大の債権国から世界最大の債務国に一挙に転落することになった。」
この間アメリカから日本に対し内需拡大圧力がくりかえされたことは同書にも記載されているし、私の記憶にも鮮明である。こうしてバブル期に突入していく状況が成熟していったわけだが、私は前掲書が説明しているような背景までは思いおよんでいなかった。円高ドル安に導くための円売ドル介入は、たんに対米輸出の不信による日本経済の景気低迷への危惧からだと考えていたし、これほどに巨額の金余りが金融市場に生じているとは夢想もしていなかった。それに、土地投機は日本人の地価は上昇するものという、それ自体、理由がないわけではない、固定観念によるものと信じていた。まして、こういう金融情勢がレーガノミクス破綻の救済策であるとは思いおよばなかった。今になって考えてみると、こうした一連の国際的施策は、アメリカ一国の問題を世界的に拡散し、アメリカ一国の金融破綻の時期を全世界的規模で遅延させていたにとどまるのではないか、という感がふかい。(昭和60年)


これまた経済音痴のMorris.には理解の及ばないところだが、バブルの生起とメカニズムを知る鍵になることが書かれているような気がした(^_^;)のだ。

くりかえし書いてきたように、私は国労・勤労を憎悪し、勤労の裏切りをつよく憤っている。ただ、国労のばあい、革命幻想に憑かれ、現状を客観的にみられなかった指導部の愚昧さに、私を憎悪させた戦略戦術の原因があると考えているが、分割民営化を推進した人々ははるかに狡猾、非情、非人間的であり、私は彼らに烈しい嫌悪感を抱いている。(昭和62年)

Morris.は今でも国鉄民営化に憤りをおぼえる。たしかに国労、勤労に非があったことは認めるが、それ以上に「分割民営化を推進した人々」それを裏で操った自民党中曽根政権への嫌悪はMorris.にもある。

イスラエルの無法、非道な行為に対する絶望的な抵抗がインティファーダ(大衆蜂起)であった。国際法違反が明らかであっても、イスラエルの同盟国であり最大の支援者であるアメリカが国際法違反と理解しながら、いかなる制裁措置を採るわけでもなく、イスラエルを援助し続けている。パレスチナ民衆のインディファーダはイスラエルの圧倒的な軍事力の前に無力であり、いかなる効果をあげることもありえないだろう、と私は考えていた。イスラエル・パレスチナ紛争の歴史をふりかえって、イスラエル国民の中にもlパレスチナとの和平を望む人々がいることを知っているし、ユダヤ人であっても和平の推進に尽力しているダニエル・バレンボイムのような人々が多数存在していることも承知している。だから、ユダヤ人一般とイスラエルという国家を区別して考えねばならない。そう区別した上で、国家としてのイスラエルにはナチスによるホロコーストを非難する資格はないと、私は信じている。(昭和63年)

これもかなり勇気ある発言。

私は戦争責任をいうばあい、日本人に対する責任と中国その他諸外国に対する侵略戦争の責任とを区別しなければならない、と考える。かりに昭和天皇が戦禍に苦しむ国民の姿を見るにしのびないと考えたとしても、これは昭和20年時点の心情である。満州事変以降の中国大陸における戦争が、天皇のいに沿わぬものであったとしても、中国侵略に積極的に反対した事実を認めることはできない。当時の仏領インドシナ、現在のベトナムへの進駐にさいしても、日米関係の断絶を危惧した事実はあっても、また対米宣戦布告に躊躇した事実はあっても、あくまで敗戦という事態を心配したにとどまり、侵略そのものを正義に反すると考えたからではなかった。だから、対連合国の戦争も止むをえないとして裁可したのであり、戦線の大詔に「豈朕が志ならんや」といって責任を免れうるものではなかった。
現行憲法の象徴天皇制になる以前、戦前においてすでに天皇は軍部、官僚、重臣等の実権者を制御する権力を失っていた。天皇の権威はともかく、権力は形骸化していた。戦争が敗戦必至になって彼らが実権を手放したことによって「聖断」によるポツダム宣言受諾が可能になったのだと思われる。(昭和63年)


つまり、天皇に戦争責任はあった、ということだろう。

と、言うわけで5日にわたって、中村の「私の昭和史」全5巻の読書控えをアップしたことになる。各巻600pちかくあるので、ざっと3000p。これを5日で読めるわけはなく、読んで、メモするのにも相当の日時を要した。全巻読了してから1ヶ月以上経っている。
告白すると、本書はMorris.にとってはかなりの難物だった。歯が立たないところも多かった。いまいち理解できないと思いながらメモ取ってる自分に情けなくもなった。それでも、この詩人と弁護士を兼業?してきた知性と感性には畏敬の念を覚えずにはいられなかった。正直に言えば、初巻の戦前戦中篇が一番興味深かった。戦後篇はMorris.も同時代を生きた部分が多いだけに、かえって違和感覚えたりもしたようだし、正真正銘エリートの中村と、正真正銘おちこぼれのMorris.との格差のためのひがみが生じたかもしれない。えらそうにコメント付けたりしてるけど、「言いがかり」や「見当はずれ」なものが多いかと思う。それでも、引用した中村の文言に関心もった人が、本文にあたる機会になればいいと思う。

2018/09/12(水)●二人サランバン会(^_^;)
7時起床。
今朝の血圧は162/62/80。36.6℃。
昨日六甲道のトーホーで買ってきた豆腐とニラで麻婆豆腐。
今日は3時頃にムックさんがお見舞いかねて遊びに来ることになってた。
ところがムックさんが職場からバイクで帰る途中にタイアがパンクしてしまい、到着が遅れるとの連絡。まあ、事故でなくてよかった。
4時頃ムックさん到着。ビターレモン6本とジャガイモ(これは買い物頼んでた)、ワインとつまみも持参で、今回はすべてお見舞いプレゼントだと(@_@) 感謝m(__)m
取り敢えずビールで乾杯しながら、昨日も見た8月13日放映の歌謡舞台のDVD観る。
その後、ワイン開けて、You TubeのTJ&KYカラオケで韓国歌謡歌いまくる(^_^;) 昨日サランバン会行けなかったから、今日は二人サランバン会ぢゃ\(^o^)/
ミニギターも引っ張り出して、カラオケに合わせて弾いたり、例のiPhoneアプリのリズムマシン使って二人で合奏したりと、楽しい時間を過ごした。
途中農心の即席冷麺作ったのだが、ムックさんリクエストのムル冷麺作るはずが、ピビン冷麺のスープ入れてしまい、えらく辛いムル冷麺になってしまった(>_<) かなり酔ってたらしい。食べられないことはなかったけど、むっくさんには申し訳なかった。8時過ぎに彼が帰った後もしつこく飲んでた模様(^_^;)
今日の歩数は0歩。


困った時の麻婆豆腐 

家庭内ノレバン 

いかにも狭い(^_^;) 

ミニギターソロ 

ピビンムル冷麺(>_<) 

記念写真 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 돌려막기(トルリョマッキ 一時凌ぎ、臨時方便、その場のがれ)
돌려(トルリョ=돌리다(トルリダ 回す)の連用形)+막기(マッキ=막다(マクタ 防ぐ)の名詞形)の合成語。迫った決済や要求を解決するために、他からお金や言い訳を廻して何とかしのぐこと。例えば、カード返済をするために別のカードを使って返済するなど。

【私の昭和史 完結篇上】中村稔 ★★★ 2012/06/30 青土社
昭和36年から46年までの10年分。

私が谷川徹三氏に真に反論しなければならなかったのは、氏の「デクノボウ」称揚イデオロギーであった、といまとなっては思われる。他方、宮沢賢治の神格化は年々烈しくなっているし、商業的理容も目に余る状態となっている。宮沢賢治は花巻市、岩手県にとって敢行の目玉である。私は毎年、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの収支予算書を見ていて感慨を覚える。

「宮沢賢治の神格化」(^_^;) Morris.もこれにはいささか食傷気味である。

昭和59年、ピーター・ユベロスがロサンゼルス・オリンピック組織委員会の委員長として、放送権をはじめ、オリンピック関連のあらゆる商品・サービス等を利権として売り、オリンピックを営利事業として空前の成功を収めるまで、オリンピック大会の運営資金は、国や都市の補助の他、こうした協賛金をほそぼそと集めることで調達していた。近代オリンピックの基本理念であったアマチュアリズムと反商業主義とは不可分の関係にあると思われる。現在のオリンピック活動がアマチュアリズムを放棄したことと、営利事業化している事実とは、やはり密接に関連しているはずである。
アマチュアリズムを放棄し、営利主義にはしる現在のIOCは私には一大興行企業のようにみえる。しかも、その招致運動には各国大統領、首相までがのりだすような国際的な性格をも国家的事業である。こうしたIOCの在り方に私は不信感がつよいのだが、それはともかく、オリンピック大会の巨大化により、商業化、営利主義化は必然的であったとう感もふかい。


全く同感である(泊手) 東京オリンピック招致で日本の首相が地球の裏側で大嘘ついたのは記憶に新しい。オリンピック至上主義(特に金メダル至上主義)--ここにも一つの神格化が見られる。オリンピック一度やめてみたら。

私は『中央公論』昭和43年8月号に掲載された元駐英大使西春彦の「70年安保改定への提言」に教えられることはが多かった。西は安保条約の改定を提言し、廃案を提言しているわけではなかった。日米関係の友好的関係の持続が不可避であるとの立場に立って、第六条にいう「極東」条項と交換公文にいう「事前協議」の改定を提言していた。いま「極東」のみならず、中近東までは対象となっていることを考えると、極東条項が削除されていたなら、そして、わが国との事前協議でなく、わが国の米軍の出動に関し同意を必要とするよう改定されていたなら、わが国の自立性は保たれ、現状のような従属的地位に甘んじることはなかったろう。私には西春彦の提言はまことに現実的であり、かつ、合理性をもっているようにみえた。
ちなみに共同声明六項には
「総理大臣は、日米友好関係の基礎に立って沖縄の施政権を日本に返還し、沖縄を正常な姿に復するようにとの日本本土および沖縄の日本国民の強い願望にこたえるべき時期が到来したとの見解を説いた。大統領は、総理大臣の見解に対する理解を示した」。
とはじまっている。この共同声明は巧妙というべきだろう。日米安保条約の継続と沖縄の施政権返還を一体的に宣言することによって、沖縄返還は賛成だが、安保条約は廃棄する、とは日本人として言いにくいものとなっている。これが70年安保に対する反対が盛り上がらなかった最大の理由であろう。
また、60年安保反対運動を先導し、指導し、扇動したのは大学教授を中心とするいわゆる知識人であった。しかし、大学紛争をつうじ、大学教授たち知識人は世論形成ののオピニオン・リーダーとしての地位を失い、敬意を払われなくなっていたのではないか。

この「事前協議」に関するPDF資料がネットにあった。そして安保条約の問題の根本がここにあることは間違いないだろう。さらにアンポハンタイを叫んだ知識人が、大学紛争によってそのオーソリティを失墜したというのも今となっては当たり前のように思われる。

毛沢東も、江青をはじめとする一派も、林彪らも、文化大革命にさいして、みな非人間的であり、無慈悲、残酷であった。それも彼らが権力を失うことに対する恐怖心に由来する。それだけ権力をもつことには魅力があり、権力は人間を権力にしがみつかせ、人間を堕落させる。戦後の一時期、私が夢みた理想社会の実相を文化大革命は教えてくれた。同時に、毛沢東ほどの人物でも権力に固執し、無残な人格を示したことに、また、林彪、江青らの行動に、むしろ人間の弱さを見、しかも、人間がどれほど怖しい存在となりうるかを知ったのであった。

権力という麻薬。スケールが違いすぎるが、安倍晋三もこの麻薬にシビれているようだ

2018/09/11(火)●サランバン会欠席(;;)
7時起床。
今朝の血圧は173/81/72。36.2℃
朝の三点セット。
久しぶりに即席博多ラーメン(棚の隅に残ってた奴)食べる
10時に部屋を出てJRで六甲道灘図書館へ。返却期限にはまだちょっとあったが、取り敢えず読んだ本の返却と、何か読む本を仕入れようと思ったのだが、松葉杖で図書館歩きはけっこう辛いものがある。新聞雑誌など読んで、ダイソーでiPhoneの液晶画面保護フィルムと電池買う。エレベータで一階のトーホーでいくらか食料品買う。
2時帰宅。
ミンギター&読書。
今夜は鶴橋サランバン会。3年以上皆勤賞(^_^;)で、本来なら今日も昼から大阪に出て、公園でミニギター演って、洪ママの見舞いに行き、会長と食事して、夜は歌って飲んで踊って騒いでのはずなのに……
代わりに?先日某所より入手した歌謡舞台DVD観ることにする。3ヶ月くらい前から、KBSのアーカイブもライブ放送も見られなくなってしまった(>_<) 著作権絡みのようだ。ネット検索すれば、放送視聴する方法もありそうだが、どうも怪しそう(ウィルスや不審広告)なので手を出さないことにしている。
今回の番組は8月13日放映された1572回「歓喜の歌」特集。日付からこれは「光復節」
광복절(クヮンgボクチョル)に合わせたプログラムである。

01. 귀국선 帰国船(이인권イイングォン)-주현미チュヒョンミ
02. 울어라 은방울泣けよ銀鈴(장세정チャンgセジョンg) / 유지나ユジナ
03. 꽃마차花馬車(진방남チンバンgナム) / 류기진リュギジン
04. 럭키 서울ラッキーソウル(현인ヒョンイン) / 소냐ソニャ
05. 찔레꽃野茨の花(백난아ペンナナ) / 강민주カンgミンジュ
06. 황성옛터荒城の跡(이애리수イエリス) / 테너テノール 진성원チンソングウォン
07. 아리랑アリラン / 나진기ナジンギ
08. 목포의 눈물木浦の涙(이난영イナニョンg) / 주현미チュヒョンミ
09. 나그네 설움流れ者の悲しみ(백년설ペンヨンソル) / 홍원빈ホンgウォンビン
10. 선창船艙(고운봉コウンボンg) / 박일준パクイルチュン
11. 서울의 찬가ソウル讃歌(패티김ペティキム) / 정수라チョンgスラ
12. 소녀의 꿈乙女の夢(박신자パクシンジャ) / 신미래シンミレ
13. 꿈이여 다시 한 번夢よもう一度(현인ヒョンイン) / 오승근オスンgグン
14. 아빠의 청춘パパの青春(오기택オギテク) / 강민カンgミン
15. 아침朝(김추자キムチュジャ) / 정난이チョンgナニ
16. 서울의 아가씨ソウル娘(이시스터즈李シスターズ) / 설하수ソルハス+한여름ハンヨルム
17. 님과 함께様とともに(남진ナムジン) / 박현빈パクヒョンビン
18. 내일 또 만납시다明日また会いましょう(금호동クムホドンg) / 이용복イヨンgボク
19. 아! 대한민국ああ大韓民国(정수라) / 정수라チョンgスラ


初っ端からチュヒョンミ登場というので、Morris.も「歓喜」である(^_^;) KBSとの関係がいまいちぎくしゃくしてたチュヒョンミ。デビューとこのプログラムが始まった時期がシンクロしていて、まさに歌謡舞台の顔として、ほとんど一回おきくらいに登場して、数年前にKBSラジオで冠番組「チュヒョンミのラブレター」に毎日出演してたのが、突然打ち切り、歌謡舞台にもぷっつり出演しなくなった。それだけに今回の出演は嬉しい驚きである。
名古屋のえむあいさん(周炫美日本ファンクラブ会長)の話によると、最近プロダクション移籍したらしいので、それが一つの要因かもしれない。そして08.の「モッポエヌンムル」、これはもう絶唱というか最高だった。最初はギターとアコーディオンだけの伴奏、2番からオーケストラが入り、普段はあまり歌われない3番まで歌い終えた。2012/07/01四日市での周炫美日本公演の舞台で、観客からこの歌をリクエストされ、楽譜用意してなかったためアカペラで歌ったのを思い出した。感激、感動、感涙である。
しかも今日のラインナップ19曲中13曲がMorris.愛唱曲で、懐かしいチョンスラ、ユジナが出てたのも嬉しかった。チョンスラには今回のテーマ「ファンヒ」と同じタイトルのヒット曲があり、それも加味してトリに持ってきたのだと思うが、この曲を故意に避けて、ペティキムの「ソウルチャンガ」歌わせたのも、最後の「アーテハンミングク」との対照の妙で、なかなかのものだった。若い頃のチョンスラはふっくらとして、Morris.の韓国語のキム先生に似てた。キム先生が亡くなって15年近くになるが、チョンスラは細くなりショートカットで若返って見えた。何はともあれこのDVDは永久保存版ぢゃ(^_^)
今日の歩数は1500歩?


即席博多ラーメン 

JR六甲道駅の空 

夜はテッチャンキムチ 

[今日の韓国語単語from Kpedia] [弊]를 끼치다(ペルルッキチダ 迷惑をかける)
「弊」という漢字一字で「めいわく」という意味で使用する。日本語の「迷惑」そのままの
미혹[迷惑](ミホク 迷惑)という漢字語もあるが、こちらは書き言葉的使い方多いようだ。
政府や自治体による住民への弊害を特に민폐[民弊](ミンペ 庶民の迷惑)という。
범백[凡百]의 미혹[迷惑](ポムベゲミホク 凡百の迷い)
여색[女色]에 미혹[ミホク]되다 (ヨセゲミホクテダ 女に迷う)
마음의 미혹[迷惑]이 더해지다(マウメミホギトヘジダ 心の惑い(迷い)が募る)

【私の昭和史 戦後編 下】中村稔 ★★★☆☆ 2008/10/20 青土社 初出「ユリイカ」2006-08
この巻は昭和27年から35年までの8年分。

いまとなれば、全面講和は非現実的な空想論であり、片面講和こそが現実的であり、戦後日本の高度成長の基礎となった、という意見がひろく受け入れられているようである。
講和条約の問題とは、ごく簡単にいえば、講和条約と日米安全保障条約が不可分に結びついていたことにあり、また、日米安全保障条約の片務的かつ欺瞞的な性格にあった。
アメリカ合衆国駐留軍の権利は規定されているけれども、いかなる義務も規定されていない。
基地に関連するあらゆる権利はアメリが駐留軍が独占することを明確にした上で、駐留軍の配備を規律する条件は両国の行政協定で決定するという条項で、国会の審議、批准を要しないことにされている。実質的にアメリカが納得しない限り安保条約は無期限、永久に継続するわけである。
もっと決定的なことは安保条約、行政協定によって、講和条約締結後の独立国日本に対し、軍事面においてアメリカは完全な支配権をもったおという事実である。(昭和27年)


この「講和条約」というのは、昭和26年9月8日の「サンフランシスコ対日講和条約」のことである。日米関係、はっきり言えば、日本の米国隷属の始まりがここにあることは間違いない。そして、その条約の内容を、戦後日本人の大部分は意識的にしろ無意識的にしろ知ろうとしなかったのではないだろうか(もちろんMorris.も)?

この年(昭和28)12月号の『新日本文学』に私は詩「樹」を発表している。

くらがりのなかで樹がたしかに揺れている
こまかな葉と葉がたがいに襲いかかりながら
昼の間 あれだけ嵐にぶたれたあげく
夜もなお騒ぎつづけて休むことを知らない

ああ どうなることでもない こまかな葉が
たがいに掴みかかり また逃げまどい
東を向き西を向きてんでにわめき散らし
そして身をよじらせ じっと警戒しあったり……

くらがりのなかだから ぼくの眼がよく見える
ぼくの耳がよく聞える どうなることでもないから
かぎりないくりかえしとはてしのない浪費が

ぼくを披露させる 樹がたしかに騒いでいる
やがて暁がきて風の止むとき そしてぼくが
眠りに落ちるとき 樹は物言わず成長するだろう


引用したのは、この作品は当時の私の自信作だったからである。読み落とされがちだと思うが、この詩には政治的社会的寓意がある。この作品を書いて後、私は政治的寓意のある詩、社会的関心を示したような詩は、数十年にわたり、書いていない。内灘ルポルタージュにより伊達得夫にとって政治の季節が終ったように、私にとっても政治の季節は終ろうとしていた。(昭和28年)

ソネット形式が中村の基本スタイルのようで、この詩もそれにならっている。日本でのソネットというと、Morris.は、立原道造を反射的に思い出し、それに比すと、中村作品はえらく硬質なものに感じる。それはおくとして、Morris.はどうしても中村の詩作品には馴染めないところがある。それなりに真摯な内容のある作品のようなのだが、肌が合わないというような(^_^;)

このごろコンプライアンスという言葉が流行している。法令遵守の遵守に相当する英語である。ことさらコンプライアンスというのは、合法か違法かすれすれの危い境界で、合法と正当化できるような限度でとどまる行動の規範を求めるからである。企業に限らず、個人でも、私たちの行動の規範は法律以前の社会的倫理感であって、合法か違法かの判断ではあるまい。コンプライアンスと声高にいわれるのは、社会的倫理感が乏しくなっているからであろう、と私は考えている。要するに、社会的倫理を棚上げにして、法令が定めている限度で非難されなければ足りる、と考えているのが現時の社会風潮である。(昭和30年)

本書が上梓されたのが2008年、たしかにその頃から「コンプライアンス」という言葉が頻出し始めたのだろう。そして、その頻度は上昇する一方のようだ、最近の政治や企業や教育界、スポーツ界などの不祥事に関連しての城東区、ぢゃなかった(^_^;) 常套句になっている。つまり、こういった業界(>_<)で、法律すれすれのことが頻繁に行われている証拠と言えるのでははないかな。

いまとなって考えると、私たちは「戦争責任」と口々に語ったのだが、誰に対する「責任」かを棚上げにして、議論していたような感がつよい。戦争責任とは、戦争の犠牲者となった日本人もふくまれるかもしれないが、第一義的には植民地とされた朝鮮の人々をはじめ中国大陸、東南アジアの人々に対する責任であろう。敗戦当時十七歳だった私は、戦争の犠牲者と信じていたが、たとえば少年時から出稼ぎにきていた朝鮮の人々に対してぬきがたい侮蔑燗をもっていた。そういう意味では、私といえども日本人の一人として共犯者、戦争責任の一端を担うものかもしれない。(昭和31年)

17歳の日本人の一人として、実に正直な発言である。当事7歳だったMorris.はまだ全く無知だったが、その後たしかに中村と同じような考えに傾きかけたことがある。

過日の新聞に、「憲法改正、皇室敬慕、反東京裁判史観などを掲げ」る「日本会議の会長は三好達元最高裁長官」であると報じられていた。インターネットのホームページをみると、日本会議は「1.憲法改正、2.教育基本法改正、3.靖国神社参拝の定着」等を目的としている組織であり、三好達会長は平成14年度総会で、会長就任にさいして「私は昨年12月10日、皆様のお薦めにより、会長をお受けさせて頂きました。私は、かねてより、誇りある国づくりを目指す日本会議の活動につき聞き及び、共感を覚えていたのであります」と挨拶している。最高裁の長官が憲法改正を目指す組織に共感を覚えていたという事実は、私にとって衝撃的であったが、そのことをインターネットで公言してはばからぬ事実こそもっと衝撃的かもしれない。(昭和31年)

自民党閣僚の総てがその会員と報じられる「日本会議」のとんでもなさを、この時期に発表していることに敬意を表したい。

ヴァンデンバーグ決議からみて、自助と相互援助、すなわち、少なくとも再軍備にふみださない限り、アメリカとの合意は成り立たない。それこそ岸内閣が安保条約の改定でアメリカと合意したことであった。私はそうした改定に賛成できない。
安保条約の改定に反対だからといって、改定しない安保条約の存続にも反対である。そうとすれば、私は口を噤むより他ないではないか。私は自嘲しながらも、たんに傍観者である以外の存在たりえない、と自己規定していた。同時に、前記の各種の「声明」等で要望、希望を表明している人々は、その中には私が尊敬してきた人々も多くふくまれていたけれども、たんなる夢想家にすぎない、と私の眼に映っていた。(昭和35年)


「保守」と「リベラル」のどちらにも与しないで、どちらにも賛成できず、ジレンマを抱えた知識人。Morris.は知識人ではないが、立場としては似たところにいるようだ。

5月19日から20日未明の強行採決に対してはジャーナリズムの批判は強かった。
ところが、6月1日にははやくも産経新聞社、東京新聞社、東京タイムズ新聞社、日本経済新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、朝新聞社が七社共同宣言を発表した。
七社の共同宣言あh、強行採決を問題ともせず、総選挙を提言もせず、新安保条約に一言も言及していなかった。こうして新安保条約は自然承認され、のtに岸首相の退陣により、すべてが終った。
その結果として、日本の米に対する従属的紐帯が強化されたように、私は感じていた。こうして60年安保動乱は、騒がしく、空しく、私の周辺を駆け過ぎていった。(昭和35年)


安保条約の実際の内容、意味を吟味せず、感情的に岸政権への不快感から「アンポハンタイ!」を叫んだ大多数は、岸退陣でガス抜きされてしまった、ということか。

2018/09/10(月)●しらけ鳥
7時起床。
今朝の血圧は158/67/81。36.℃
朝から雨、それも断続的に強く降る。
10時から、自民党総裁選の立会演説会。安倍、石破の二人が20分ずつ施政方針を述べ、11時から記者会見。勝敗は決まったようなもので、安倍は逃げの一方、というか、ひたすら実績?の披露、空疎を絵に描いたような時間つぶし。時分に不都合な質問にはほとんど答えず、お決まりの「いたらないところは真摯に反省し、丁寧に説明していく」発言には吐き気を覚える。会見終わるとそそくさと海外逃亡(>_<) 石破はそれなりに自分の方針を述べたものの、喧嘩すぎての棒ちぎれきの感は否めない。
昼から一天晴れ上がったので、久しぶりに松葉杖でマルハチに買い物に出る。ようやく夏も終わりを迎えたようだ。
かなりの強風が吹いていて、松葉杖だと怖いくらいの場面もあったのだが、心地よい涼しさのためあま汗をかかずにすんだ。
それでも部屋からマルハチまで800mくらいの距離なのに、なかなか到着しない。
それでも買い物はカートのおかげでなんとか問題なし。問題は重くなったリュック背負っての帰り道。打撲から10日過ぎてもこれでは、やはり、松葉杖なしで歩くまでにはあと10日くらいかるのかな(^_^;)。
明日は鶴橋サランバン会だが、どうしようか迷ってたところ、歌麿会長から「10月にお会いしましょう」のメール。これは「会長ストップ」ということで、明日は欠席を決める。行くのは大丈夫そうだけど、榎本ビール飲んで酔っ払って帰宅して階段上がる事考えたら、欠席が正解だろう。でも、残念(;;)
午後は読書&ミニギター。
夕方やまうちさんから電話で、労災の書類に印鑑がいるので、部屋に寄るとのこと。7時前にやってきた山内さんから缶ビール差し入れ(^_^) 感謝m(__)m
今日の歩数は2000歩?


アリバイ作り(^_^;) 

午後から晴れる 

マルハチが遠い(>_<) 

[今日の韓国語単語from Kpedia] [木](モクパル 松葉杖)
[木](モク 木)+(パル 脚)つまり木の脚、これは覚えやすい。もっとも今回Morris.が金沢病院で貸してもらった奴はアルミ製だから금속[金属](クムソクパル)というべきかもしれない。
[木]발을 짚다(モクパルルチプタ 松葉杖をつく)
짚다(チプタ (杖を)つく、(手を)つく、(脈拍を)とる)    

【私の昭和史 戦後編 上】中村稔 ★★★☆☆ 2008/10/20 青土社
昭和20年敗戦から昭和26年までの、私的(詩的、史的、知的)クロニクル

昭和21年1月、野坂参三が中国から帰国した。ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』に次のとおりの記述がある。
「カリスマ的な指導者であった野坂参三が、中国の共産党勢力のもとで長期にわたる活動を終えて帰国したのは1946年1月半ばであった。その直後から、野坂は、占領軍の掲げる政治的課題と日本国民の要望に応えて、平和的な革命の推進を冷静に語り始めた。これを機に共産党は、国内でさらに広い支持を得るようになった。中国から博多にたどり着いた野坂は、東京に向かう列車のなかで、その後すぐに有名となる「愛される共産党」という声明を発表した。撞着語法(オクシモロン)とも思えるようなこの表現は驚くべきものであったが、同時に多くの人々を魅了した。…」
野坂の「愛される共産党」というスローガンはたしかに当時一種の流行語のようになったのだが、私には「まやかし」としか思えなかった。「愛される」とは受身であって、「愛されたい」という願望を語っているにすぎない。積極的な行動指針を示すものではない。私には、「愛される共産党」というスローガンは、社会主義革命という行動目標を糖衣につつんで民衆に受け入れさせようとする陰湿な策謀としか思われなかった。……当時の青年たちの多くと同様、私も社会主義に強烈な関心をもっていた。しかし、私が理解する社会主義革命は本来はるかに過酷なもののはずだったし、そうした革命の過酷さに私は恐怖を感じていた。「愛される共産党」というスローガンは私には欺瞞的に思われ、共産党に対する不信感をつよくしていた。


たしかに日本共産党の戦後の人気沸騰と凋落の落差は大きかった。

そのころ(昭和21年)世評高かったのは『世界』5月号に発表された丸山真男「超国家主義の論理と心理」であった。眼からウロコの落ちる思いがしたという感想を洩らしている人々が多いと耳にして、私も一読した。
その明晰な分析と論理的な記述に私も感銘をうけた。しかし、私には釈然としない気分がつよかった。当時の私の理解によれば、わが国の超国家主義は権威の中心的実体であり、道徳の泉源体である天皇、それも「皇祖皇宗」の伝統をうけついだ天皇制に由来する、権力と権威の集中的表現である天皇制こそ超国家主義の基礎をなす、ということにこの丸山論文の要旨があった。私自身についていえば、権力機構の頂点に天皇が存在することがまぎれもない事実だとしても、天皇ないし天皇制が道徳の泉源体であることは私の実感と隔絶していた。


丸山真男、読まなくてはと思いつつも、こういった感想を読むと、ちょっと引いてしまう。

ヒロヒト 詔書 曰ク
国体はゴジされたぞ
朕はタラフク食つてるぞ
ナンジ人民 飢えて死ね
ギョメイ ギョジ (昭和21年5月19日食料でものプラカード)

このプラカードを持った松島松太郎は不敬罪で起訴された。これに対しマッカーサー元帥は天皇といえども法の下の平等を免れないとして、刑法73条から76条に至る不敬罪の規定の削除を命令し、不敬罪が廃止されたため、松島は名誉毀損罪として懲役6ヶ月の有罪判決をうけたが、控訴審において大赦令により免訴となった。
いうまでもなく、食糧不足は政府の責任ないし占領軍の責任であって、天皇にその責任を問うのは筋が違う。しかし、食糧不足による怒りや憎しみは天皇に向けられ、総理大臣や、ましてやマッカーサー元帥を頂点とする占領軍には向けられなかった。そういう意味で、昭和21年5月の時点でも、民衆の眼から天皇は政治権力の象徴とみられていたことをこの事件は示している。これは象徴天皇制への心情と共通すると私は考えている。


なかなかにうがった見方である。

一方で、私は天皇に戦争責任があり、天皇の名において無数の無辜の人々が犠牲になった事実は不問に付することはできない、と信じていた。
東京裁判は戦勝国の敗戦国指導層に対する報復的儀式としか思われなかった。本来、私たち日本人が愚劣な戦争を開始し、敗戦に至った責任者を訴追すべきだと考えていたが、日本人による戦争責任の追求がついに行われなかったことは周知のとおりである。
だから、天皇をはじめ石原莞爾等明らかに戦争責任を負うべき人々を訴追しなかった東京裁判は、一種の政治的茶番劇としかみえていなかった。


東京裁判は戦勝国による敗戦国への報復であり、茶番であることは間違いないことだろう。本当は日本人による戦争責任追及の裁判が必要だったはずなのに、それを行い得る民意も、状況も、人材も不在だった?

ずっと後年、小林正樹監督のドキュメンタリー映画『東京裁判』を観たとき、東京裁判の被告人たちもゲーリングと同様、じつにふてぶてしい態度で裁判に臨んでいたことを知り、認識を改めた記憶がある。彼らもまた、植民地解放戦争として彼らの政策を堂々と正当化していた。私は彼らの政策が正当化できるとは思わない。しかし、当時の新聞報道がいかに歪曲されていたかを知って驚いたのであった。ジャーナリズムが占領軍に迎合したのか、あるいは民衆の心情を扇情けしたのか。いずれにしても、わが国のジャーナリズムは、戦時下と同様、戦後になっても、時勢におもねっていた。それが丸山真男の論文にも反映していたのであった。

迎合、おもねり、忖度……何も変わっちゃいない。

2・1ゼネストが占領軍の指令、すなわち1月31日のマッカーサー声明により中止されたことは知られるとおりである。
私は2・1ゼネストを支持していたわけではなかった。ただ、当時の逼迫した情勢に対しては、何らかのラディカルな変革が必要なのだろうと考えていた。しかし、そのためにゼネストというような手段が有効だとは考えていなかった。かえってゼネストは民衆を離反させ、労働組合を孤立化させるだろうと感じていた。私には共産党のいう「民主人民政権」は夢想としか思われなかった。
私自身についていえば、2・1ゼネストの中止は、当時の労働組合運動に対する嫌悪感と不信感を強める契機となったらしい。


1947年のこのゼネスト中止が、2年後の下山事件に繋がる。

(中野徹雄は)存在は「死への存在」であり、人間は可換的な点(プンウト)である以前に誕生と死没との間に挟まれた「時間的な生存」であるという。続いて、ヘーゲル、ハイデッガーを引用し、こう記している。
「およそ理想が理想である限りに於てそれは人間との間に距離を保つ。而して此のまさしく保持されねばならぬ距離の感覚が人間をして焦慮させる。何となればそれは永久に消滅しないからである。まさに永久に消滅してはならない故に」
中野は「死への対決は人間を日常意識から脱落させる」、「死への対決といふやうな問題提起は閃光を投射して人間の置かれている状況を露呈する。そこに人間は全き孤独の中に己れを見出す」等といい、リルケの詩を引用し、問題提起の後に「決断」が続かねばならぬと説く。キルケゴールを引きながら、現実性から純なる可能性へ、パトス的突破を試みる決断は神への道を追求するのに対し、「「汝は地に」といふ意識に「神は天に」といふ思考が降下することに依るつて、失はれた日常的なものが新たな色彩に輝きつゝ復活し成就するのである」という。
中野はさらに、これに対して、集団的なものと個体的なもの、唯物論的なものと実存的なものとの二つの批判、二つの原理があるといい、「一方は近代の『合理主義』が社会的集団的なものと触れ合つて化合し生み出したものであり、他方ハルネツサン以来のヒユーマニズムを否定的に新たな(方角に中性的志向に於て)救はうとするものである」として、「少なくとも私自身は(中略)ヒユーマニズムへの道を選ばうとするものである」としてこの評論を終えている。
これは中野の実存主義的ヒューマニズムの宣言である。(これが発表された)『向陵時報』発刊時、中野は満二十歳になったばかりであった。同年の私は私の身近にこういう思想をもつ友人と日常接していたわけである。
「ヒューマニズム--それは一つの神話である限りに於ては美しい。したがつてヒューマニズムを己れの信念とする事は容易なことである。ヒューマニスト「と して」或ひはヒューマニストである「かのやうに」振る舞ふことは更に容易なことであらう。困難なことはヒューマニズムの「ために」闘ふ事である。何となれ ばヒューマニズムの「ために」闘ふとき、その敵は更にファッショや暴力革命論者たるのみではないから。その敵は先づ現代そのものであり、更に窮乏の現 実……人間が野獣の如く蠢き、人間に対する不信が濃くただよつてゐる現実そのものであるのだから」(第二期『世代第7巻 昭和22 中野徹雄 巻頭言)


中村が在籍していた東大法学部には、このような思索する同窓生がいたわけだ。

ディベートといわれる弁論術を学習し、習得することは国際的環境におかれている私たちにとっての必要悪かもしれない。
私はこれまで詩や評論をほそぼそと書き続けてきたが、まったく自己流であった。加えて、法律を生業としたので、文学について基礎的な教養を身に付ける時間的余裕を持たなかった。文学一途であったなら、非才といえども、それなりの成果はありえたのではないか。一方、法律一途で過してきたとすれば、弁護士としても、もうすこしましな弁護士たりえたのではないか。たまたま、弁護士を業としながら、余暇に詩や評論等を発表し続けて今日に至ったが、どちらの分野でも中途半端に終わってしまった。しかし、ひるがえって、こうした生き方以外の生き方を選択できたとは思われない。自ら選んだ生き方を反省しても詮ないことである。


一種の自慢である(^_^;)

「日本が軍隊を持たないといふこと、戦争を放棄するといふことは、新しい憲法ではつきりと定まつたことである。僕達の任務は、この「紙の憲法」の平和主義を堅持する以外にない。この点では、僕たちは「空想的」に進む以外の途はないのだ。「世界の平和」といふことは、いかに僕達の力の限界の外にあらうとも、僕達は発言が許されるならば何度でも「世界の平和」を僕達の一人一人が欲してゐることを言はなければならない。更に、手の届く限界の内にあつては、日本の「日和見主義」のために努力しなければならない。筆者は、現下知識人の任務として、『戦闘的ユマニズム』とともに『日和見主義』を提唱する」(第二期『世代』第9巻 昭和22 いいだもも(宮本治名義))

いいだももも中村の同窓でかなり緊密な交友があったらしい。

「人類が物権のみを以てその財産関係となし、経済取引の客体として居つた時代には、人類は、いはば、過去と現在とのみに生活したのである。しかし、債権が認められ、将来の給付の約束が、現在の給付の対価たる価値を有するやうになると、人類はその経済関係のうちに、過去と現在の財貨の他に将来のものを加ふることが出来るやうになる。コーラーの言葉を借りれば、信用即ち債権の発生によつて「過去は未来の役に立ち、未来は過去の役に立つ。時の障壁は打破せられ、人類は、何等妨げられることなく、時間と空間を征服するに至る」といふべきである。」(我妻栄「近代法における債権の優越的地位」)
債権の発生によって人類は時間と空間を征服する、資本主義敵法律形式はダイナミックであり、債権はそれ自ら法律生活の目的となり、経済的価値は、暫くも物権に静止することなく、一の債権から他の債権へと間断なく移動する、といった記述が、資本主義社会の基礎的な構造を一挙に解明してくれたように私は感じた。
本書によって私が民法という枠を越えて資本主義社会の基礎的構造を知ったことには間違いないのだが、若い私の心をうったのは、いかにして債権の「専制」を制限し、理想的な法律体系たらしめるか、という筆者の理想主義であったのであろう、、ということである。


「債権」の概念すらちゃんと理解してないMorris.だが、債権がこれほどまでに重要な観念なのかという、驚きを感じた。

私が(大塚久雄『株式会社発生史論』に)教えられたのは、株式会社の発生史にとどまらなかった。何故、社員の有限責任が成立せざるをえなかったのか。何故、取締役団、株主総会のような会社機関が成立せざるをえなかったのか。株式会社の資本とは何か、株式の自由譲渡制は何故必要とされたのか、もっといえば、近代的株式会社の本質は何か、ということであった。それが社会経済史的な必然的な発展として、近代資本主義社会の基幹をなす株式会社の意義であった。
私は我妻栄『近代法における債権の優越的地位』と大塚久雄『株式会社発生史論』の二著によって、それこそ雷鳴にうたれるように、近代資本主義の本質を知った、あるいは知ったように感じたのであった。


こちらも同様である(^_^;)

日本経済を再生させることによってアメリカ商業の市場として日本を位置づけることがアメリカにとって利益になるであろうと期待された。こうして、賠償額は徐々に引き下げられ、ついにサンフランシスコ条約でアメリカは対日賠償請求権を放棄することになった。その結果、わが国が賠償金を支払ったのは、インドネシア、フィリピン、韓国等の数ヶ国にとどまることになったのは知られるとおりである。講和条約と一体不可分の日米安全保障条約により、わが国は東西冷戦構造の中で確実に西側陣営の一員となり、いまに至るまでアメリカの従属国的地位から逃れられないこととなった。わが国にとって対米賠償席金を免れたことはポツダム宣言受諾当時には夢想もできなかった恩恵的処遇にちがいなかったが、結局は、ただほど高いものない、という教訓を体験することになったのだという感もまたふかい。

ただほど怖いものはないというのは本当である。

昭和23年11月12日、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の判決が言渡され、東条英機、広田弘毅ら7名に絞首刑、荒木貞夫、平沼騏一郎ら16名に終身禁固刑、東郷茂徳に20年の禁固刑、重光葵に7年の禁固刑が宣告され、12月23日には東条ら7名に対する絞首刑が執行された。翌12月24日にはA級戦犯容疑者として勾留されていた岸信介、児玉誉士夫、笹川良一らが釈放された。
すでに記したとおり、東京裁判は戦勝国の敗戦国指導層に対する報復的懲罰的儀式であり、一番の茶番劇にすぎない、と私は考えていた。本来、愚劣な戦争を開始し、敗戦に至らせた責任者は、日本人によって訴追され、処罰されなければならないと考えていたが、日本人による戦争責任の追及はついに行われることなく、今日に至っている。
だが、たとえば東京大空襲、広島、長崎の原爆といった人道に対する罪は処罰されなかったし、イラク戦争にみられるような平和に対する犯罪行為、人道に対する犯罪行為によって、アメリカ合衆国の指導者が訴追されることもない。そういう意味で……国際法の理念はすでに破綻しているようにみえる。


という意味でも「あやまちはくりかえされる」しかない。

私はまた、わが国における意思決定手続の特異性を考える。……満州事変以降の侵略戦争の政策決定も、こうした無責任体制によって行われた。民間人についても情報伝達、戦意高揚等のために隣組といった組織が全国津々浦々まで張りめぐらされていた。侵略戦争を推進した者すべてに責任を問うとすれば、隣組の責任者やその支持者までが責任を負うことになりかねない。
私は敗戦直後の一時期、一億総懺悔という言葉が流行したことを思い出す。あるいは天皇に対し一億の日本人がこぞっておわびするという趣旨であったかもしれない。その趣旨は必ずしもあきらかでないが、敗戦の責任は一億の日本人すべてにあり、特定の指導者に帰すことはできない、といった意識であったことは間違いない。
いまだに私たちは戦争責任の問題の清算を終えていない、と私は考えている。しかし、悲しいことだが、私たちがこの問題を清算する日は永遠に来ないだろう、とも感じている。


永遠に無責任社会(>_<)

私はいまだに「雨ニモマケズ」という作品を通して宮沢賢治という人格を考えることは間違いだと信じているし、まして彼を「雨ニモマケズ」に描かれたような人物として神格化し、偶像視することにつよい反撥を感じいている。
私が「宮沢賢治序説」書いた当時(昭和23頃)、宮沢賢治は「雨ニモマケズ」はしられていたとはいえ、まだ限られた読者しかもっていなかった。それから半世紀以上を経て、彼の文学に対する評価は著しく高くなったが、同時に神格化し、偶像視し、しかも商業的に彼および彼の文学作品を利用する傾向がつよくなった。


共感を覚える。

昭和24年は、敗戦後の数年間の中でも、とりわけ物情騒然たる年であった。政治状況は明らかに転回期にあった。
昭和24年に、私自身をふくめ、世間の耳目を集めたのは、下山事件であり、三鷹事件であり、松川事件であった。
これらの事件の真相はいまだに明らかではない。下山事件は自殺、三鷹事件、松川事件は占領軍謀略というのが現在の通説のようであり、私も通説が正しいであろつと考えている。謀略が成功するにはその素地がなければならない。この年の1月の総選挙で共産党はそれまでの4議席から一躍35席という飛躍的、驚異的な数の議席を獲得した。これは昭和電工事件により芦田均民主党内閣が退陣し、民主党と連立内閣を構成していた社会党がそれまでの111議席から48議席と議席数を減らしたので、社会党支持層の一部が共産党に投票したにとどまり、決して共産党の地盤が今日こになったわけではなかった。しかし、奇怪なことに、共産党指導部は革命が間近いかのような幻想にとらえられた。
三鷹事件の直後の7月18日、国鉄労組の中央闘争委員会35名中、12名の共産党委員が解雇された。組合は分裂し、共産党は国鉄労組からその足場を失った。組合員も一般民衆も日本共産党を見放していたのであった。その後、日本共産党はわが国の労働組合運動においていかなる有意義な成果もあげていないようにみえる。怖るべき「謀略」の成果だが、その原因は日本共産党そのものの戦略戦術・情勢分析の誤りにあり、たんに徳田球一にその責任を転嫁してすむことではない、と私は考えている。


そうそう、この年にMorris.は生まれたのだ。

私たちは人間以下のように見くだされていた。私たちは屈辱感と劣等感を拭いがたくうえつけられていた。
それに検閲があった。手紙はほとんど検閲されていた。雑誌も検閲されていた。占領軍批判は許されない、と信じられていた。占領軍を批判すれば軍法会議にかけられ、強制労働を課せられるといわれていた。占領軍批判により軍法会議にかけられれば、行方不明になって、どこにいるのか分からなかった。誰それの行方が分らないのは、強制労働させられているからだ、と時々聞くことがあった。
いずれにしても「占領」を意識させられることは日々不快であった。社会主義に期待と夢を寄せていたけれども、現実の日本共産党に対しては不信感が強かった。
私は麻雀で遊んだり、野球を観たり、「宮沢賢治序説」を書いたり、司法試験のための勉強をしたり、日々忙しく暮らしていたが、内心では孤立感、敗北感をこらえがたく募らせていた。


オキュパイドジャパンの実態。

検察修習は愉しかった。電話一本で警察を手足のように使うことができた。権力とは愉しく、麻痺しやすいものだと痛感し、自分の正義感と法律が定める社会的規範とが合致していれば検察官は愉しく、やり甲斐のある職業に違いないと思った。

検察の闇の力にも触れたことがあるわけだ。

司法修習生の課程を曲がりなりにも履修するかたわら、昭和25年春ころから、私は『中原中也全集』の編集作業に携わっていた。
創元社版全集はその時点で私が中原中也遺稿を解読した成果だったのだが、本文校訂について決定的に私の手落ちというべきことは、いわゆる「凡例」を作成することに気付かなかったことであろう。「凡例」は本文をいかに決定するかの基準である。基準なしには、その場その場で場当たりに処理することとなる。私がしたことは、そうした基準を立てることなく、場当たりの処理であった。


二足のわらじ、その一足が中原中也の生原稿を解読して全集編集作業。凄い。でも凡例作らないという凡ミスも(^_^;)

朝鮮戦争による「特需」がまさに干天の慈雨として日本経済回復の要因としてあげられるのはいわば常識といってよい。しかし、朝鮮戦争勃発前、ドッジ・ラインによってもたらされたわが国の経済の危機的状況について私が感じていた不安、危惧を書きとめておきたい。
ついで、朝鮮戦争に関連して私が思い出すことの一つは、私は朝鮮戦争は韓国軍が北朝鮮に侵入することによってはじまったと考えていたことである。
最近の研究の成果を読み、私が朝鮮戦争の本質が中国共産党と国民党との間の内戦と同様の性格をもつ、朝鮮半島全域を支配しようとする二つの勢力間の「内戦」であったという性格に当時まったく気付いていなかったことを、今となって恥じている。私には朝鮮戦争は社会主義対帝国主義間の代理戦争のようにみえていた。南北朝鮮の人々は、代理戦争の犠牲者のように思われた。だから、朝鮮戦争が韓国の侵略にはじまったと理解していても、韓国の人もまた犠牲者だと考えていた。


朝鮮戦争への日本人の理解の主流はやはり「代理戦争」ということだろうが。「内戦」ということを抜かすわけにはいかない。

2018/09/09(日)●完全休養日
5時半起床。
今朝の血圧は165/92/66。36.0℃
ベッドで時事放談「聴く」。台風、地震災害と自民党総裁選が話題だが、大勢は決してるようなものだが、災害と、ロシア訪問があるので選挙を一週間くらい延期せよとの提言も、言ってる方が脱力してるようで、いまいち気勢が上がらない。
テニスの大坂なおみが全米オープンで優勝したというニュース。試合後のインタビューの面白さもあって、人気急上昇、Morris.もけっこう好感もってるので、嬉しかったが、やたら「日本人で初めて」というのを強調して煽り過ぎだと思う。
昼は高山くんと那須さんに買い物してもらった材料で、ポテトサラダと中華風玉子スープとトースト。
午後は読書とミニギター。今日から大相撲始まったので見るともなくテレビ付けておいたが、横綱3人復帰で、三人とも初星をあげたようだ。
右脚の状態は、心持ち痛みが減ってるような気がする。明後日のサランバン会も、松葉杖なしでは歩けないのはほぼ確実である。行きたい気持ちはやまやまだが(前にも書いたような気がする)どうしたものやら(^_^;)。
今日の歩数は0歩。


全米オープン優勝の大坂なおみ 

ポテトサラダと 

中華風玉子スープ 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 월남[越南](ウォルナムッサム ベトナムの春巻き)
월남(ウォルナム ベトナム)+(包んで食べる物・巻き)。「ゴイクォン(エビ入り春巻)」みたいな奴かな。昨年鷺梁津でヨンモクくんと「ベトゥナムッサルグクス」の店に入ったことを思い出す。
ベトナム語はもともと漢字語の多い言語で、「越南」ももともと漢字語なのだろう。日本でも以前は「越南(えつなん)」と表記されていた。韓国では現在は베트남(ベトゥナム)を使うことも多い。

【私の昭和史】中村稔 ★★★☆☆☆ 2004/09//01 青土社 初出『ユリイカ』2002-2004
詩人で弁護士の中村稔の個人史。中村は1927年(昭和2年)生まれだから、ほぼ昭和史=自分史に重なり本書は、戦前、戦中、敗戦まで。中村はその後「私の昭和史 戦後編 上下」、「私の昭和史 完結編 上下」の4冊を上梓している。

わが身にふりかかってこない限り、戦争は他人事である。こういう無残で悲惨、空しく愚かな戦争の実状を私たちは知らなかった。知らせないために、この映画(『上海』亀井文夫監督1938(昭和13))は上映を禁止されたのであろう。それでいて、私たちは上海占領という勝利に浮かれていたのであった。事情はヴェトナム戦争から湾岸戦争を経てアフガン戦争やイラク戦争に至るアメリカの民衆にとっても同じだろう。現在でははるかに映像の情報量が多く、しかもそれらの映像は統制され、適宜に加工されて各家庭に入りこんでいるのだから、そのもたらす脅威はもっと怖ろしいにちがいない。
私は(「爆弾三勇士」の)「生還に失敗し」という記述に疑問をもつ。生還の可能性はもともとごく乏しかったのではないか。それでも破壊筒を抱いて突撃させる、兵士たちの死は鴻毛より軽いとみるのが、日本軍の体質だったのではないか。そしてまた、戦場とはそういう非人間的な場所なのではないか。これを軍国美談として煽り立てたのは疑いもなくジャーナリズムであった。このジャーナリズムがついには神風特攻隊の美化に至るまで、日本のかなり多くの青少年の心情形成に大きな役割を果たしたのではないか。ジャーナリズムは戦争の空しさ、愚かさを教えなかった。亀井文夫の作品の如きはいわば抹殺された。今日のメディアの巨大さ、影響力を思うと、私は慄然たる思いに駆られる。(第5章)


こういった形式で、歴史の中の自分と、執筆時の考え方を交差させる筆法である。

(ゾルゲ事件の)予審終結決定を読んでも、第一審判決を読んでも、全公判記録をつうじ、冒涜されたという「皇室の尊厳」なるものに一言の論議も説明もないことに、私はあらためて感銘を覚える。おそらく「皇室の尊厳」は超論理的な原理であった。
このことは象徴天皇制についても同じなのではないか。「国体の本義」が説いたような神国思想はもはや受け入れられまい。それでも、何故天皇が国民統合の象徴であるか、象徴天皇制が何故尊厳性をもつか。これも超論理的な原理であろう。私はそのことにも恐怖を感じる。(第11章)


父親が裁判官を務め、ゾルゲ事件の裁判にも関わったらしい。戦前の天皇制と戦後の象徴天皇がどちらも超論理的原理であるということ、それへの恐怖を今一度考える必要がある。

紀元二千六百年祝典は当時の日本政府にとって国民の戦意高揚、総意結集のための一大行事であった。思うに、それまでの戦争は敵国の首都が陥落すれば敵国政府は降伏し、戦争が終結するのがつねであった。だから、昭和12年の南京占領によって戦争が終るものと国民は期待していた。これは私の少年時のぼんやりした記憶と合致する。ところが南京大虐殺についてふれるまでもなく、逆に日本政府は南京占領をさかいに戦争終熄の見通しを失ったのであった。その結果が、翌13年1月の「蒋介石を相手にせず」という近衛首相声明であった。いまとなってはっきりしていることだが、昭和13年2月、徐州近郊台児荘の戦闘による敗退を契機に、中国大陸の戦争はひたすら日本軍の点と線の防衛に終始する持久戦となった。汪兆銘の重慶脱出と傀儡政権の樹立も何ら膠着化した戦局を打開することとはならなかった。昭和14年5月にはじまったノモンハン事件では第23師団が壊滅的敗北を喫した。この戦況が正確に報道されることはなかったが、日本軍にとってかなりに屈辱的な停戦を余儀なくされたことはおぼろげながら国民にも理解されていた。
中国戦線の泥沼化、こうした国際情勢下の不安、また予定されていた東京オリンピックの中止等から、国民の間に無力感、不安感、倦怠感がしだいにつよくなっていたように思われる。隣組を組織したり、ぜいたくは敵だ、パーマネントはやめましょう、といった標語で民意をひきしめ、神国思想によって国民の総意を統制しようとした。その象徴的な行事が紀元二千六百年祝典であった。
宮崎県霧島の高千穂町の天孫降臨祭、「八紘之基柱」の建設をはじめとするさまざまな行事の支配的思想が「八紘一宇」であった。


2020東京オリンピックが紀元二千六百年祝典とダブって見える。

正木ひろし弁護士の個人誌『近きより』がたぶん中学生時代の私に時局に対する見方を教えてくれた情報媒体であった。
「日本の政治家は、口を開けば「かんながら」というが、神代の昔のことが、彼等にそんなに明瞭に解っているものだろうか。「かんながら」とさえ言えば、論争を中止せしめる効果があるので、それを濫用するのではあるまいか。しかりとせば、その怯懦、その無責任、臣道と遠く距れりと言うべきである」。(昭和16年5月号)
私は惟神(かんながら)の道とは、神そのままの生き方、をいい、結局は、自らの生を空しくして現人神である天皇に忠節を尽すこと、を意味するように理解していた。私がどう理解したにせよ、神ながら、といえばそれ以上の議論は必要とされない超論理的な語であった。こうした狂気の支配する社会事象を、正木は冷静、客観的な眼で見続けることができた人格であった。(第12章)


正木ひろしの名前くらいは知っているが、中学生で「近きより」を読める環境にいたというのは、もちろん父の職業によるのだろうが、やはり特殊な家柄というべきだろう。

私の印象にもっともふかいのは大木惇夫詩集『海原にありて歌へる』である、ことに同詩集所収の「戦友別盃の歌」である。「南支那海の船上にて」添書きされたこの詩は次のとおりである。

言ふなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに、
今や、はた何をか言はん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃(はい)にくだきて
暫し、ただ酔ひて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビヤの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

『海原にありて歌へる』は一時的に燎原の火の如く庶民の心を燃え上がらせ、庶民の心を代弁し、鼓舞した。あまりに時代に密着し、そのために時代を超えられなかった。戦争協力詩を書いたのは大木惇夫に限らない。戦後、彼が筆を折ったのは、時代、時勢に流されることを怖れたためではないか、時代時勢に流されて自己を見失うことを怖れたのではないか。


大木惇夫は戦争詩人として、戦後ほぼ抹殺された形だが、彼の詩を愛する同時代人は多い。引用された詩は、複数の本でも紹介されていた。

ハリウッドを日本軍が占領したら、女優たちを侍らせて、それこそ酒池肉林、といった白昼夢に興じたのは、それが絵空事と承知の上での冗談だったのだが、それでもそんな冗談を面白がったのは、裏返してみれば少年時代の私たちの白人女性たちへのもどかしいような憧憬であり、もっとはっきりいえば劣等感であった。開戦に昂奮し、緒戦の戦果に酔いしれていた、知識層をふくめた日本人の心情も、じつは反植民地主義という正義の仮面をかぶった、先進諸国民への羨望であり、白人種への劣等感であった、と私には思われる。
その反面、日本人こそが東アジアの盟主であるという自負、倨傲は、この地域の人々への侮蔑感と分かちがたく結びついていた。
正木ひろしは、先進諸国の人々が「有色人種は人間と動物との中間にあると信じ」ていると書いたが、私たち日本人自身が東アジアの人々を人間と動物の中間の生物と考えていたのではないか。それが、大東亜共栄圏というイデオロギーを空洞化させ、幻想にすぎないものとさせた所以ではないか。


なかなか正直な回顧である。劣等感も優越感も根っこは同じである

この戦争をどう称すべきか、に私は拘泥している。太平洋戦争とよぶことが普通だが、そうよぶことに抵抗感を覚える人々も多いはずである。極端にいえば、この戦争をどうよぶべきか、私たちの間に総意が形成されていないように思われる。それはいいかえれば、私たちの間でこの戦争に対する精算がすんでいないからではないか、それが占領地等の女性たちの強制連行、強制売春といった問題として、いつまでも私たちにトゲのように突きささっている理由なのではないか、と私は感じている。(第14章)

日中戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦、十五年戦争、アジア太平洋戦争……たしかにいずれもぴったりしない。「昭和の「あの」戦争」とでも呼ぶべきか?

私は二人(ゾルゲと尾崎秀実)ともそれぞれに卓越した人物であることを知ったように思う。二人ともに、マルクス主義者である以前に、理想主義者であり、人道主義者であった。彼らはその高邁な思想に殉じた。思想をもつことは人間の特権であり、思想に殉じることができるのは人間の高貴さのあらわれである。だが、ソ連をはじめとする社会主義者諸国が崩壊し、彼らがその生命を賭けて守ろうとしたスターリン政権下のソ連邦の実状を知った今日、彼らの死がいかなる意味をもつかと思えば、ひたすら空しく暗澹たる感がつよい。
だが人類の歴史をふりかえれば、思想に殉じた、高貴な精神の持主たちの死屍が累々とつみかさねられていることを、私たちは知っている。思想に殉じないまでも、思想に翻弄された夥しい人々の悲運に人類の歴史がいろどられていることを、私たちは知っている。そうした人々がいなければ人類の歴史はずいぶんと寂しく色褪せた容貌を呈するであろう。(第15章)


先に書いたとおり、中村の父が関わったゾルゲ事件への関心から、一種の運命論めいた結論だが、歴史的虚無主義?

徳川夢声の『宮本武蔵』とならんで当時の日本人の心をとらえたのが広沢虎造の森の石松であった。馬鹿正直で、喧嘩に強く、親分に命じられるままに死路に赴く、森の石松の運命に、しだいに絶望感、敗北感をふかくしていた日本人の情感は、意識的にせよ、無意識的にせよ、共感したのではないか。広沢虎造のどこか投げ捨てるかにみえるような節廻しは、森の石松の悲劇的な運命を語るにふさわしいものであった。宮本武蔵が肯定的な意味で当時の日本人の理想像としてうけいれられたとすれば、森の石松はその反対の極にあって、運命に翻弄されて、ぬきさしならず死地に向かっている日本人の宿命の一典型として、ひろく迎えられたのではなかろうか。

浪花節はMorris.の小学生時代まではかなりポピュラーな存在だった。懐かしさを感じないといえば嘘になるが、勘弁してよ、という存在でもあった(^_^;)

『姿三四郎』もじつに新鮮な才能の登場であった。映像の美しさが抜群であった。しかし、黒澤明という監督は映像の職人だと感じた。彼がその職人芸を十二分に発揮した『酔いどれ天使』『七人の侍』などのエンターテインメント作品に彼の価値があり、ある時点で彼が自らを芸術家であるかのように錯覚した時期から、彼に見るべき作品はなくなった。(第16章)

Morris.は黒澤明への思い入れはない。

戦争による死者への鎮魂を生きながらえた者がどうあらわすべきか。これは毎年8月に話題となる靖国神社問題とその根を同じくするように私は考えている。第一に私たちは十五年戦争における加害者であった。同時に、この戦争により東京大空襲、広島、長崎等の非戦闘員をふくめ、数多くの兵士たちもふくめ、無意味な死を遂げた被害者をもつこととなった。この問題も結局は、私たちが戦後六十年近く、戦争責任を棚上げにし、その精算を終えていないことに、真の原因があるのではないか、と私は考えている。

「あの」戦争で「加害者」であったことを忘れるべきではない。つまり被害者であり加害者であったということ、そして「戦争」そのものがこの諸刃の剣であることを。

私には白井健三郎という名は、国文学会の先輩として、また、「無為のときには海へ行かう」という詩の作者として、親しかった。この詩の第一連、第二連は次のとおりである。

無為のときには海へ行かう
悲しいときには海へ行かう
波の戯言 潮の香に
ゆるゆるゆると 時を流さう

無為のときには海へ行かう
悲しいときには海へ行かう
碧い穹窿(まるやね) ちぎれた雲に
ゆるゆるゆると 眼を洗はう

この詩は昭和15年5月刊の一高『校友会雑誌』に発表された。


たしかにいい詩である。

平凡社版『世界大百科事典』の「ポツダム宣言」の項中、筆者、木坂順一郎は、「7月28日軍部主戦派の圧力に屈した鈴木貫太郎首相が、この宣言を「黙殺」すると言明したため、アメリカはそれを口実に広島と長崎へ原子爆弾を投下」したと記している。この「黙殺」には受諾でないが、拒否でもないといった含意があったようである。しかし、「黙秘」は拒否と受け止められるのが当然なのではないか。これから拒否しないという含意を汲みとってほしいと期待するのは無理だろう。私は鈴木貫太郎の苦衷に同情するけれども、明晰な意思表示を嫌って、ことさらに曖昧に表現し、対外交渉失敗し、あるいは対外交渉の結果を国民に糊塗してきた経験はいまだに続いている。
実際問題として、私たち自身がこの黙殺を拒否と理解したのであった。日本人の圧倒的大多数も同じだったにちがいない。ポツダム宣言の降伏条件を眼にして、こういう条件なら是非受諾してもらいたいものだ、と中野徹雄と私が話し合った記憶が鮮明である。同時に、こうした報道がされたのは、鈴木貫太郎内閣が戦争継続の戦意を私たち国民に打診する意図によるのではないか。そんなことも話し合ったのであった。

「黙殺」という言葉は「撲殺」に似ている。「明晰な意思表示を嫌って、ことさらに曖昧に表現し、対外交渉失敗し、あるいは対外交渉の結果を国民に糊塗してきた経験」が今の安倍政権には特に濃厚に凝縮しているようだ。

2018/09/08(土)●那須さん再訪(^_^)
8時起床。
今朝の血圧は150/51/87。
昨夜は那須さん帰った後も飲み続けて(^_^;) そのまま座椅子で寝てしまった。
シャワー浴びて、朝からお土産の「蔵王」を飲む(^_^;) アテはガイヤーンの余得の鶏皮湯引き。勢いで冷蔵庫に残ってたガイヤーンとビターレモンで一人酒盛り。これではいけないと、ベッドで寝直す。
夕方、那須さんから電話。今日は福井に行くと言ってたのが、寝過ごして、急遽岡山に行ったとのこと。帰り道なので、またMorris.の部屋に来るとのこと。もちろん大歓迎である。
パジャマ着替えて待ってたら、5時頃那須さんやってきた。残った日本酒、ビターレモン、ウィスキーなどでまたまた酒盛り。那須さんのiPhoneに入ってる音楽を部屋のスピーカーに繋いで聴かせてもらう。彼はクラシック音楽が好きで、フォーレとかドビュッシーとか、Morris.の部屋ではまずかからない音楽が流れた(^_^;)
那須さんはこれから天満の居酒屋に寄るということで7時過ぎに出立。昨夜は大正区の飲み屋や新今宮の難波屋など三軒はしごしたとか(@_@)
今夜はなんとかベッドで寝ることに成功(^_^;)
今日の歩数は0歩(^_^;)


朝から一献 

しつこくガイヤーン(^_^;) 

那須さんのiPhone音楽を 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 이웃사촌[四寸](イウッサーチョン 近くの他人、親しいご近所さん)
이웃(イウッ)は「隣家、隣近所)、사촌(サチョン)は「いとこ」。直訳すると「隣のいとこ」だが、この場合は「遠い親戚より近くの他人」の「近くの他人」の意味。

2018/09/07(金)●仙台から来客(^_^)
7時起床。
今朝の血圧は162/59/82。36.3℃
朝の三点セット。
ちょっと遅めの朝ご飯は、昨日買っておいた鯖の塩焼き。
昼間はしつこくiPhoneリズムアプリ「Drum Beats+」の整理。実は前のiPhone無くした後、新しいiPhoneに同じアプリインストールして、前と同じように使えるようにしたのだが、リズムパターンの順番がまるで変わってしまった。仕方ないので前のリズムパターン表(自作)に、新しい番号振り直して、歌本にも新しい番号を付加してた。ところが、前のiPhone出てきたので、その必要は意味なくなったのだが、こうなったら、どちらでも使えるように歌本に両方の番号併記する作業続ける。まあ、時間は余りあるほどあるもんね(^_^;)
夕方5時前に仙台の那須さんが来訪。彼はMorris.部屋の古くからの愛読者で、今年1月ゲストハウスMAYAに宿泊して、突然Morris.を訪ねて来て、ちょうど西宮原っぱで春待ちファミリーBANDのお正月ライブ見に行き、そのあと三宮で飲んだりした。
今回は苫小牧-仙台-名古屋を結ぶ太平洋フェリーを利用して、仙台から名古屋に出て、そのあと、青春18切符を利用して灘駅まで来たとのこと。那須さんはかなりの交通マニアらしい。今回は明後日フェリーで門司にわたり、その後長崎を回って飛行機で仙台に戻るとのこと。うーんちょっとうらやましい。
那須さんにお願いしてマルハチで食糧買い出しを頼む。昨日玉子などちょっと買い物したが、野菜や酒(^_^;)などは不足してるので、この機会を逃す手は無い(^_^;)と思ったのだった。
那須さんが買い物に行ってる間に、昨日玉子と一緒に買ってきた鶏腿肉使ってガイヤーン焼く。
わざわざ現地で買ってきた当地の日本酒「蔵王」お土産にいただく。このところビターレモン一辺倒のMorris.だが、久しぶりに飲む日本酒、それも良い酒に感動。その後、韓国話などに花を咲かせる。
BSで高校野球日本-台湾戦やってたので、音小さくして流す。Morris.の思惑では、日本が台湾を降して、決勝戦で再び日韓戦、と思ってたのだが何と日本劣勢。
10時くらいまで那須さんいてくれると思ったのだが、大阪大正区の居酒屋に行くため早めに出立するとのこと。残念だが、個人旅行の自由さを束縛する事はできない、ということで、早めのお別れ。
お土産や買い物までさせて申し訳なかったけど、またお会える機会のあることを期待しよう。感謝m(__)m
野球の方は結局1-3で日本敗退。吉田投手が2点取られたが、日本のヒットが2本(>_<)というのが直接の敗因だろう。
残り物でしばらく飲みつづけ、そのまま座椅子でねてしまったようだ(^_^;)
今日の歩数は0歩。


朝ごはん 

仙台から那須さんが 

これで名古屋まで来たそうな 

お土産に地元の清酒「蔵王」 

ガイヤーン(^_^;) 

記念写真 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 귀차니스트(クィチャニストゥ 面倒くさがり屋)
形容詞귀찮다(クィチャンタ 面倒だ)と英語の「ist」の合成語。また、何でも面倒がって怠けようとする考えのことを귀차니즘(クィチャニジュム)という。
「怠ける」という意味の게으르다(ケウルダ)に「ist」をつけて게으르니스트(ケウルニストゥ 怠け者)」ともいう。

2018/09/06(木)●北海道地震(>_<)
7時起床。
今朝の血圧は153/51/81。36.2℃。
テレビ付けたら、北海道で地震のニュース。震度6強と発表されていたが、後で震度7のところもあったと訂正された
。発生が夜中の3時で、震源地近くの火力発電所だけが可動していたため、これが使えなくなって、他の火力発電所への切り替えが上手く行かず、結果として北海道全域での停電(>_<)という非常事態に。各地で液状化、土砂崩れも起こる惨状。
一昨日の台風21号の被害で大騒ぎしたと思ったら、次は地震、停電。災害列島という言葉そのままである。
10時前に部屋を出て、松葉杖でJR灘駅前まで行き、タクシーで金沢病院へ。
今日は単に経過を訊ねられるだけ、これなら電話で済むのでは?と思ってしまった。先週のCTスキャン画像をもう一度見せてもらう。断面図が連続的に表示されるのもなかなかのものである(^_^;) 来週またレントゲン撮影して経過を見るとのこと。
タクシーでマルハチまで出る。とにかく玉子だけでも買おうと思ったのだ。買い物かご乗せるカートを使うと松葉杖なしで歩き回れることがわかった。いや、松葉杖よりうんと楽である。玉子の他に、ついついいろいろ買ってしまう。
買い物リュックに入れて背負い、ここからは松葉杖で歩いて部屋まで戻る。今日はTシャツとアロハと二枚重ねしてきたので、松葉杖と脇の接触部分は少しはましである。
買ってきた玉子使って、玉子スープとトースト。
事故から一週間が過ぎて、まあ、悪くはなってない(^_^;)ようだ。
部屋の中の移動に回転椅子使えるのはとんでもなく大きい。肘掛けが無いだけ(以前取っ払った)に前後左右に手が届くし、高さもある程度変えられるのも助かる。部屋が狭いだけに手を伸ばせばなにかつかまるものがある。
トイレとバスがセットになってる(ユニットバス)のもこういうときは利点になる。考えてみると、洋式便器の普及がなかったら、今回のMorris.の闘病生活?はかなり悲惨なものになってたと思う。
午後もテレビで被災状況など見ながら、リズムアプリの整理。
関空に取り残された客たちも、なんとか空港脱出した模様。昨日のパンスタフェリーは、関空から流れた客が殺到し、500人近くの満員で、午後9時出航ということになったらしい。
今日の歩数は1500歩?


北海道で地震、全域停電(>_<) 

先週のCTスキャン断面図 

身につまされる(^_^;)

回復祈願 

リズムマシンの整理 

玉子スープ 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 죽는 소리를 하다(チュンヌンソリルルハダ 弱音を吐く、泣きごとをいう)
죽는(チュンヌン 죽다(チュクタ 死ぬ)の連体形)+ 소리(ソリ 声、音)。直訳すると「死ぬ音」。韓国では弱音を吐いたり、嘆いていうときに「死ぬ(죽다)」という表現をしばしば用いる。
아이고 죽겠다(アイゴ チュッケッタ ああ、死にそう)

2018/09/05(水)●被害深刻(>_<)
7時起床。
今朝の血圧は155/62/75。36.0℃
朝の三点セット。
台風一過の青空が広がっている。
昨日の台風の被害状況をテレビで見ると、阪神間では、まだ停電や断水してる地域がかなりあるようだ。駐車場の自動車が風に吹き飛ばされてる現場は数知れず、高潮の被害も昨日の認識を遥かに上回る。何と言っても、関空の孤立と、今後の復旧の難しさ。タンカーが連絡橋に追突して使えなくなったのがあまりにも大きい。孤立した空港にに取り残された乗客だけで3千人、停電もあり、熱暑の中まんじりともしない時間を過ごすしか無かった人への空港の情報公開のおそまつさが問題視されている。大阪経済圏の被害は甚大で、関空そのものの凋落につながりかねない。埋め立て地ということではじめから地盤沈下を不安視されていたが、今回の事故でその
身近なところでは、六甲アイランドの倉庫もかなりの被害が出たようだ(>_<)
朝は冷蔵庫の残り物で、わけのわからないオムレツ?とトースト。玉子もこれで尽きてしまった。明日金沢病院に行くつもりなので、最低限の買い物できればいいのだが……
午後は読書とミニギター(^_^;) 神戸図書館ネットワークをチェックしたら、現在借りてる本の期限が今日だった。あわてて延長する。これで19日まで大丈夫(^_^) 危ないところだった。
夜は、高校野球、日本-韓国戦をBS放送で見ながら、晩ご飯の用意。ご飯炊いて、味噌汁の用意。日韓戦というとジャンル抜きで見たくなるMorris.である。
一つだけ残ってたサバ缶と梅干しを刻んでウメサバ、これはおかずというより酒の肴(^_^;) これまた一つだけ残ってた韓国海苔を一口大に切る。炊きたての御飯(残りは冷凍になるんだけど)と、ちゃんと作った味噌汁があれば、なんとかなる。
野球は評判の吉田投手が先発。初回に3ラン打たれたが、その後は7回まで無失点で抑える。日本の打線がいまいち奮わず、1-3で敗けてしまった。決勝ラウンドには進めるので、次に決勝戦で韓国と当たる状況に持っていってもらいたい。(Morris.が見たいだけ(^_^;))
なにか今日はドメスティックな一日だった。
今日の歩数は0歩。


朝食はわけのわからんオムレツ 

晩ごはんはストイック 

ラップで分包して冷凍室に 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 성소수자[性少数者](ソンgソスジャ 性的少数者、セクシャルマイノリティ)
日本語では「的」が入るが、ほぼ同じ漢字語と言える。もともと英語セクシャルマイノリティ(sexual minority)の訳語だろう。
最近日本では「LGBT」という用語を使うことが多い。
 L=レズビアン。女性の同性愛者。
 G=ゲイ。男性の同性愛者。
 B=バイセクシュアル。両性愛者。
 T=トランスジェンダー。心と体の性が一致しない人。
の4つの頭文字だが、これだとその4種以外の人(インターセックス(身体的に男女の区別がつきにくい人)、アセクシュアル(無性愛者)、クエスチョニング(時分の性別や性的指向に確信が持てない人)……)が含まれないから、妥当ではないと言う人もあるが、一般には目新しい流行語として使われているようだ。もともと、言葉の言い換えには批判的Morris.としては、セクシャルマイノリティでいいのではないかと思う。

2018/09/04(火)●台風21号神戸直撃 停電(>_<)
6時起床。
今朝の血圧は177/85/79。36.2℃
今日は一日台風に振り回される。
朝のうちは青空も見えたが10時すぎから曇り空、11時頃から雨風が強くなり昼過ぎからは窓開けてると部屋に雨が降り込むくらいになったので窓を閉める。
正午頃四国に上陸。そのあとテレビで台風情報見ながら、ぼけっとしてた(^_^;) 午後1時頃かなり強い風で、建物自体が揺れた(@_@)。そして、しばらくして停電になる。今のところに引っ越してから、電気工事などを別にすると初めての停電かもしれない。すぐ復旧するだろうと思ったがなかなか通じない。iPhoneで関電の停電情報ページは、午後1時半の最新情報(これには灘区の停電は表示されてない)以降2時間以上更新がない。結局電気がつうじたのは午後5時半。
テレビつけると、あちこちでかなりの被害がでているようだ。神戸ではハーバーランドが高潮で浸水、コンテナが流されたり、駐車場の車が吹き飛ばされたり、関空連絡橋にタンカーが衝突したり……
交通施設はほとんど不通で、デパート・スーパーも閉店してるようだ。昨日高山くんに食糧買ってきてもらったのが改めてありがたかった。
神戸直撃の大きな台風は25年ぶり、ということは、神戸地震の前の年以来ということになる。
今日の歩数は0歩。


ほぼこの予想通り 

11時頃から雨風が 

1時半から3時間停電 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 글피(クルピ 明々後日 しあさって)
내일[来日](ネイル 明日)
모레(モレ 明後日)모레だけでなく내일모레(ネイルモレ)と続けていうことが多い。これは日本語で明後日のことを「あしたあさって」と言うのに似ている。
오늘(オヌル 今日)
어제(オジェ 昨日)
그제(クジェ おととい、一昨日)    
그끄저께(クックジョッケ 一昨昨日 さきおととい)

2018/09/03(月)●iPhone出てくる(^_^;) お助けマン登場
7時起床。
今朝の血圧は172/67/101。35.9℃
台風21号はどうやら明日神戸直撃しそうだ。
今朝は晴れ上がってるので、使いさしの布巾洗濯。
9時に部屋を出て。松葉杖ついて、JRで六甲道へ。区役所に保険の相談に行っておく必要があったのだ。これくらいなら、松葉杖でも大丈夫だろう。区役所の窓口相談終わった直後に電話。灘警察からでMorris.のiPhone拾得物として届けられたとのこと(@_@) うーん、先日買い換えたばかりなので複雑な気持ち。まあ、本体だけでも使いみちはあるし、特に部屋でWi-Fi繋がると端末としての用途が広がる。今度金沢病院に行く時でもいいと思ったが、せっかく六甲道まで出てるので駅前からタクシーで、警察へ。
受付係員の話では8月31日の朝、JR摩耶駅を横切るトンネルに落ちてたらしい。届け出たのは日本人で、お礼などはいらないので個人情報はMorris.に伝えないよう頼んだとのこと。と、いうことはMorris.が自転車に乗ってて落とした27日に拾ったベトナム人が、改めて、トンネル付近に放置した、という可能性が高い。彼には彼なりの事情があるのだろうし、川やゴミ箱に廃棄せず、拾った場所付近に置いたというのは良心的で、これもまたありがたい。
警察から松葉杖ついて水道筋に入り、宮本むなしでおろしカツ定食頼む。コンビニ弁当ばかりではあまりに悲しいのでここで食べることにしたのだが、注文した途端に電話。神戸高校勤務の高山くんからで、帰りに買い物して部屋まで持ってきてくれるとのこと。昨日のMorris.の日記を見ての厚意だろう。ありがたくお願いすることに。口頭で必要なものを列挙。昼過ぎに部屋に戻り。シャワー浴びてから、ちょこちょこと部屋の掃除(^_^;) それにしても松葉杖はかなり負担が大きい。筋肉痛はもちろん、両手の掌には胼胝ができてるし。両脇は擦られて赤くなってる。
5時前に大きなバッグ抱えた高山くんやってくる。明日の台風に備えて、ちょっと早めに学校終えたのだが、マルハチがやはり明日の台風に備える客でごった返してて、えらく並ばされたらしい。
買ってきてもらったのは、お米、缶チューハイ(ビターレモン)、玉葱、ジャガイモ、辛ラーメン、レトルトカレーなどで、かさばるし重量も10kgくらいあると思う。これだけの荷物もって階段4階は、相当の苦役だったと思う。しかしこれで明日の台風はもちろん、一週間くらいは部屋を一歩も出なくても飢える心配はなさそうだ。本当にありがとうm(__)m
吉美ちゃんのオモニが今年の3月半ばに亡くなっていたことを初めて知る。以前何度か会ったことがあり、韓国からの土産物もらったりもした。享年八十五。遅まきながら冥福を祈りたい。
台風好き(^_^;)のMorris.は、ついつい気になって、松葉杖で屋上に上がってみる。屋上への階段は狭くて傾斜も急なので、用心に用心を重ねて上る。普段とあまり変わりない空模様だった。松葉杖で階段下りるのは、上るよりうんと難しい。もう松葉杖では上り下りしないことにしよう。
今日の歩数は3000歩?


布巾の洗濯 

ここで警察から電話 

iPhone出てきた(@_@) 

ここで高山くんから電話 

高山くんありがとおっ!!!!!!! 

これは重かったろうm(__)m(^_^;) 

嵐の前の屋上 

屋上で松葉杖(^_^;)  

今夜はキムチ雑炊 


[今日の韓国語単語from Kpedia] 세월[歳月]이 약[薬]이다(セウォリヤギダ 時が解決する)
直訳すると「歳月が薬 」
今回のMorris.の事故(坐骨のヒビ)も、焦ってもどうにもならない。「ひにち薬」に任せるしかないようだ。

2018/09/02(日)●室内専用車椅子
5時半起床。
今朝の血圧は160/59/75。35.7℃。
昨夜は久しぶりにベッドで寝た。上り下りはちょっと怖いが、ずっと座椅子で寝るのも辛い。とにかく用心して上り尾入しよう。
時事放談をぼんやり聞いて、ベッドで読書して、7時半頃起き出す。
坐骨部分の痛みはそのままだが、右腕中心の筋肉痛に加えて、尾てい骨の出っ張った部分が痛い。これは座椅子に寝てたせいかもしれない。
ぬるま湯の風呂に浸かって着替える。
今日は外出しないことに決めてた。とにかく部屋の中での移動が困難である。松葉杖は部屋で使うには適していない。そのときふと思いついたのが、最近全く使ってなかった小さめの回転椅子。これには一応キャッシャーが付いてるから、室内専用車椅子として使えるのではなかろうかと思いついた。最初動かそうとしたらまるで動かない。5つある車にストッパーがかかってた。これをオンにして車が動くようにしたところ、おお、これは素晴らしい。何しろMorris.の部屋の狭さは究極的だから、ちょっと手を伸ばせば捕まるところが多い。足乗せもあるし、回転自由で、両手が空くから、物の移動も簡単だ。一時は処分を考えてたこともあるが、捨てなくて良かった\(^o^)/
これなら簡単な自炊も可能ではないか。手始めに「辛ラーメン」作ってみる。椅子の高さもある程度変えられるから、一番高くすれば座ったままで調理可能じゃ。まあ、立ってやれないこともないけどね。
午後は、例のiPhoneリズムマシンの整理。同じアプリなのに、番号がめちゃくちゃになってしまったので、楽譜の一曲ごとに番号書き直し、ついでに他のリズムを試して、前よりピッタリのものが見つかったり、これはけっこう楽しいし、時間もかかる。気がついたら5時過ぎてた(^_^;)。
夜はSBのレトルトカレー。冷凍庫のご飯を解凍、玉ねぎと烏賊(これも冷凍)と大蒜とレーズン炒め、辣韮を添える。うんなかなか美味しい。
冷凍庫とインスタントラーメンや麺類などで、あと2,3日は持ちそうだが、その後がちょっと心配である。松葉杖だとコンビニ弁当一つ買うのもなかなか難しいくらいなので、野菜や米やレトルト食品、インスタントラーメンなどを買い物するのは不可能に近い。誰か買い物だけでもやってもらえたら有り難いのだが……。
食後、以前買って、使えないままのエレコムのルータ引っ張り出して、再挑戦するもらちがあかない。ネットで検索したら、同じルータで繋がらなかったという報告がいろいろあった(^_^;) Morris.だけのことではないようだ。こうなったら、他のルータを通販で買おうと思う。やすいのは千円台である(@_@)。そうしようと決めたものの、未練たらしくもう一回つなぎ直して、新しいiPhoneのWi-Fi設定やってみたら、認識してパスワード要求するので、打ち込んだら見事につながった(@_@)。 液晶画面に罅の入った前の前のiPhoneでもWi-Fiつながってしまった。で、leno坊でやったら全くだめ。J-COMから支給されてるモデムはジャックが一つしかないので、このままではLANケーブルでの接続ができない。これでは不便だと思ったが、エレコムのルータには複数のジャックがあったので、ここでつないだら、leno坊は有線でネット接続が出来た。100点満点とはいかないが、懸案だった部屋でのiPhoneWi-Fi接続に成功したということぢゃ。祝杯をあげよう(^_^;)
今日の歩数は0歩。


これを車椅子に 

ないす!! 

ラーメンくらい座って作れる 

夜は玉葱、大蒜など炒めて 

レトルトカレー 

iPhoneでWi-Fiが\(^o^)/ 

[今日の韓国語単語from Kpedia] 잠수[潜水]타다(チャムスタダ 行方をくらます、連絡を断ち切る、連絡がとだえる)
直訳すると「潜水する」。水のなかに潜ってしまい、見えなくなるように「行方をくらます」という意味を持つ。
타다(タダ)は「乗る」 という意味の動詞で、「潜水に乗る」ではちょっと変だが、ここは慣用句として覚えておこう。
잠수함[潜水艦](チャムスハム 潜水艦)に乗るという意味なのかな?    
잠수사[潜水士](チャムスサ ダイバー、潜水士)    
잠수복[潜水服](チャムスボク ウェットスーツ、潜水服)    

・그는 며칠 동안 휴대전화[携帯電話]를 꺼두며 잠수[潜水]를 탔다(クヌンミョッチルドンgアンヒュデチョナルルッコドゥミョチャムスルルタッタ 彼は数日間を携帯電話の電源を切ったまま外部との連絡を断った)


2018/09/01(土)●メトロ神戸で春待ち
7時起床。
今朝の血圧は155/71/75。35.8℃
朝から雨模様。
今日の春待ちはあきらめようかと思ったが、昼前に止んだので、JRで神戸まで出る。駅前の銀行で家賃振込み。そのあとメトロこうべの階段をよろよろとおりたら、奈緒ちゃんと濱田が松葉杖ついてるMorris.を見てびっくりしてた。
今日のイベントは「メトロこうべ50周年記念コンサート」らしい。半世紀か。ということはメトロこうべがオープンしたのは1968年(昭和43)ということになる。Morris.が高校を卒業した年である。
今日のメンバーは尾西(洗濯板)、勝木(バンジョー)、秋本(ギター、クラリネット、歌)、松尾(バイオリン)、藤井(洗濯桶)、さわむら(おしゃべり、歌、踊り)の7人。それにしても神戸で春待ちファミリーBANDの演奏は久しぶりである。
それもあってか、ギャラリーにも懐かしい顔がいっぱいだった。年に数回くらいは会う堀姉妹、満園夫妻、治井くんを始め、斉藤さん、聖子ちゃん、ブルまで来てるのにはびっくりした。
演奏は相変わらず社長のしゃべくりが多かったが、終盤の、「ハロー・ドーリー、女房が消えた、バーボンストリート」の畳みかけは、往年の熱気が蘇る気がした。そしてフィナーレはお決まりのフィッシングブルース。観客の半分以上が手をつないで大きな輪になってぐるぐる回る回る。やっぱり良いバンドである。めとろこうべにはおよばないが、春待ちも結成40年である。結成50年までは続けてもらいたいものである。
やっぱり無理してでも見に来てよかった。
大谷くん(社長の妹の旦那)がやってる、メトロこうべ商店街の「昭和や」へ。社長はこれから九州に向かうのでパス。というか、メンバーは松尾、藤井くん二人だけだった。Morris.は昼飯まだだったので、お好み焼きとビール。満園夫妻は数日前に阪神御影に引っ越したばかり、娘のさきちゃんもつい最近結婚したとか。ブル(古川)とは地震のあと会ってなかったかもしれない。
聖子ちゃんは阪急六甲というので、Morris.も王子公園から帰ることに。駅前のコンビニで弁当を買い、昨日の屋台と同じくリュックに入れてもらう。
帰宅したら6時過ぎ。
楽しかったけど、やっぱり松葉杖は疲れる。正直なもので右手右肩右上腕部がかなりの筋肉痛。
明日は静養日にしよう。
今日の歩数は2000歩くらい?


久々神戸で春待ち 

メトロ神戸50周年イベント 

今日のメンバーは7人 

立ち見ギャラリーも 

懐かしい顔も 

フィナーレはやっぱりこれ 

フィッシングブルースの輪踊り 

大谷くんも 

斉藤さんも 
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