第四部 トラワッタ釜山港へ
8時起床。 9時半の高速バスで釜山へ(3,860ウォン)。 同席したキム氏は、航海士で日本語英語ともに堪能、光州に妻と4歳の娘と住んでいる。 これから釜山の本社に出かけ、陸での仕事を斡旋してもらい、釜山にアパートを見つけるという。 世界的に海運業は不況で、韓国も例外ではなさそうだ。 光州に住んでるだけにキム・デジュンのシンパらしく、この前の選挙で盧泰愚が当選したのはミステリーだと、しきりにぼやいていた。 とても親切で、休憩所ではコーヒーをおごってくれたり、釜山での宿泊は大丈夫か?とか心配してくれて、乗り継ぎのバスを詳しく教えてくれたりした。 11時過ぎに釜山高速バスターミナルに到着、36番バスでナンポドンに出て、渡辺君から貰った地図を便りにエーリンユースホステルに行く。 ドミトリーは1泊4,000ウォンと言うので、とりあえず2泊分払ってチェックイン。 3階の2段ベッドが3組並んだ奇麗な部屋で、建物自体が高台にあるためベランダからの見晴らしは最高。 洗濯、シャワーをすまして町へ出る。 何をおいてもチャガルチへ、と向かう途中、古本屋街を発見したので、読めもしないのに、習性でつい、覗いてしまう。 これならわかるだろうと、漫画のコーナーに行くと、日本の漫画のバクりや、そのまま言葉だけ韓国語に翻訳したものがずらっと並んでいた。 ゴルゴ13、池上遼一、ジョージ秋山などが目に付いた。 チャガルチに来たら、俄然元気になったのには自分でもびっくりした。 屋台でイカ、エビ、魚のテンプラ(1,200ウォン)食べる。 その後、ヨンドサン公園に登り、もうすっかりお馴染みになってしまった釜山の市街を眺めていて、「帰ってきたぞ」という感慨にふけってしまった。 前にも書いたとおり、釜山と神戸はよく似ている。 釜山は日本に近いからそんな気持ちになったのか、チョーヨンピルの大ヒット曲の揺曳か、いや、そもそも港町というのが僕の性に合うのかもしれない。 考えてみると今回の韓国旅行で回った釜山以外の街は、いずれも海を持っていなかったことに気がついた。 こんなことなら、やっぱり、光州からモッポ(木浦)か、ヨウス(麗水)あたりに足を伸ばして、海路で釜山に向かうべきだったかなと、臍を噬んだが、これが本当の「航海先に発たず」!! 公園で、十人あまりの高校生の輪の中に紛れ込んで、弁当のおかずをつまみ食いしたりする。 中の一人が、5年くらい前の日本の「スクリーン」を持っていて、見たことのある西洋女優の写真を指して、知ってるか?好きか?映画は見たか?などと質問する。 誰だったっけ、というと、ブルック・シールズだと。こちらではかなり人気が高いようだ。 そう言えば、先日来韓してて、TVにも出てたな。 公園を下りて、国際市場を冷やかし、コンサートのポスターが目に付いて、気にかかっていた、チョニングォンのテープを手に入れる。 帰りにトマトを一袋(500ウォン)で買い、9時にユースに戻る。 同室は二人で、ユダヤ系アメリカ人トムは三十代のエコロジスト、二十歳過ぎたばかりの久保君は日立電気の新入社員。 久保君は五日間の旅程で、一昨日空路でソウルに着き、ソウルのユースで一泊したところ翌日は団体で締め出されたので今朝のバスで釜山に来て、明日の昼のセマウルでソウルに戻り、二日後には帰国すると言う。 それぞれの旅行の仕方があって良いとは思うが、彼の場合はずいぶんロスが大きいような気がした。 この五日間の休暇を取るために、一年前から申請し、出発前の数日はほとんど徹夜に近い残業をしたと聞けばなおさらだ。 3人で2時間ほど話しをした。 トムは、エコロジストだから、日本の原発に対しても、強い関心を持って、色々突っ込んだ質問をするので、久保君と二人で説明するのにおおわらわだった。 汚いエネルギーは人類に必要でないと言うと、強く賛意をあらわしていた。
8時起床。 久保君に出発まで、釜山を案内するよう所望されたので、迷うことなくチャガルチへ。 市場ビル2階で刺し身定食(3,000ウォン)食べる。 魚のチゲやキムチも付いて、美味しかったが、アナゴの刺し身はブツ切りで骨が多くて閉口した。 市場を1時間ほど回って、地下鉄で釜山駅まで一緒に出て別れる。 その足で、駅の近くにあるKALビルへ。 デーウォン旅館で情報を交換して、こちらで大韓航空の切符を安く買えることを知ったので、値段を聞いて安ければ、帰りはこれを利用しようという腹積もり。 カウンダーで散々待たされてやっと呼ばれたが、日本語はほとんど通じず、英語と韓国語の片言で、とにかく、釜山-大阪は片道82,000ウォンで買えることが分かった。 これはもう買うしかないと日本円を出したら、韓国ウォンしか受け付けないいうので、近くの銀行に両替に行き、20日午後2時発の航空券を手に入れることに成功した。 それまで緊張していたのか、目に入らなかったが、チョンジュのチョン嬢の着ていたのと同じ制服姿が並んでいることに気が付いて嬉しくなる。 釜山にも市立博物館があることを知ったが、チョンジュの例もあるのであまり期待せずに、行ってみることにした。 釜山駅前から直行バスはないらしく、バス停で数人に聞きまくって、40番バス、51番バスを乗り継いでたどり着いたら、思ったより大きな石造2階建てで、収蔵品も粒揃いだったし、前庭の如来石像が実にいい顔をしていた。 博物館の前に「チャユシイン」というレストラン喫茶があって、思わず笑ってしまった。と、言うのも、これまで韓国人と会話のたびに必ず聞かれる質問の一つに職業は?というのがあった。 はじめのうちは、海外旅行のバイトやってると説明してたが、なかなか分かってもらえなくて、2冊だけ持って行ってた「サンボ通信」を見せて、僕はシイン(詩人)だとか、チャユヨヘンサ(自由旅行者)だとか言って済ましてきたからだ。 そこに「自由詩人」という店が現れたのだから、入らぬわけにはいくまい。 中庭に観葉植物が植えられ、、店内のディスプレイもモダンな造りで、ちょっと気取って注文したウインナ珈琲(1,200ウォン)には、アイスクリームがのっかっていた。 自由詩人で一時間ほど休息した後、何の当ても無く最初に来た68番バスに飛び乗って、途中で山の中腹にお寺みたいな建物を認めて下車。 20分ほど歩いて麓まで行くとコンチュンムン(建春門)という石柱があり、そこから山路を登っていくと広場があり、社殿のような建物があった。 看板には「釜山鎮支城」と書いてあった。 社殿は板張りで、数組の老人たちが座り込んで談笑していた。 ほとんどが60歳すぎなので、日本語もいくらか出来て、同じようなことを質問されたが、日焼けしているためか、日本人ではなくて東南アジア人ではないかと疑われたりもした。 城跡で一時間ほど休み、引き返して外装工事中の南門市場を覗いて、地下鉄で釜山の新しい繁華街、ソミョン(西面)へ。 地下街が発達していて、表通りにはデパート、ファンシーショップ、オラクシル(娯楽室=ゲームセンター)も多い。 ユハン書店と言う大きな古本屋があったので、冷やかしてみる。 35番バスでナンポドンまで出て、ユースに引き返す。 同室はトムのほかにヤーンというニュージーランドの調理師と、マホガニー色した、アマダと言うアフリカ人がいた。アマダはマリ人で、何とフランス語しか話せないと言う。ところがエコロジストのトムが通訳をかって出てくれて、何と何と、アマダは神戸、それも灘区に住んでいることが分かった。
8時起床。 今日はポモサ(梵魚寺)に行くことに決めていたので、早めにユースを出て、地下鉄に向かうが、足は自然とチャガルチへ。 屋台のハンバーガーと珈琲で朝食。これを、マクドナルドの商品と同じようなものと思っては大違い。 お手軽というか、ダイナミックというか、野蛮というか、詳しい事は省略するが、似て非なるものとだけ言っておこう。 地下鉄ポモサ駅に着いたのが11時過ぎ。 ここからポモサ前を通る90番バスに乗ったら、国民学校の遠足の一行と一緒になる。 ひとりに話し掛けると、20人あまりの小学3年生が「イルボンサラミダ(日本人だ)、イルボンサラミダ!」と大騒ぎになってしまった。 迷惑だろうと引率の先生に謝ると、一緒に行きましょうと言われ、喜んで彼らに混じってポモサに入り、参道を登っていく。 中に、やっちょ(春待ち社長令嬢)に似た、きびきびした動作の女の子がいたので、名前を聞いて呼びかけたが、発音が良くわからなくて、手帖に名前を書いてもらう。 チョン・ヘンジャというその子は、意外と恥ずかしがり屋で、僕が名前を読み終えるとすぐ、自分が書いた文字を黒く塗りつぶしてしまった。 ポモサは、禅宗の本山で金井山(クンジョンサン)山麓から中腹にかけて多数の堂宇が点在している。 子供らは、広場で休憩してゲームなど始めたので、別れを告げて、巨大な岩がゴロゴロしている山道をさらにっていくと、骨組みだけ完成したお堂の建築現場に出た。 北極殿の表示があったので、ここが一番北側の本堂なのだろうと思う。 粗末なトロッコ用のレールが敷かれ、下から、瓦、木材、壁土に、人間まで乗せてワイヤー一本で引き上げられてくる。 土をこねているあんちゃんに挨拶すると、機関銃みたいに韓国語(しかも慶尚道訛り)で話し掛けてくるので、へどもどしていたら、年配のレンさんという主任らしいアジョシが、日本語で引き取ってくれた。 若い頃、東京の専門学校で建築を勉強したのが今になって役に立っていると笑う。 仕事を進めながら、いろいろ話しかけて、他の若い衆との通訳までやってくれた。 昼食を一緒に食べようとと、堂の裏のテーブルに誘われ、図々しくも寺僧の手作りの昼食を頂く。 赤飯にワカメの味噌汁、海苔、スルメ、たっぷりのキムチ。 緑の中で、素晴らしく美味しかった。 デザートにスバク(西瓜)や、チャムウェ(真桑瓜)も、出てきて、これもまた、とんでもなく美味しく感じた。 談笑していると、ひとりのあんちゃんが、思わせぶりな顔をして、一枚の葉っぱを僕に手渡した。 今まで写真か絵でしか見たことの無かった、正真正銘の「ハッパ」だった。 このあたりに自生しているらしい。 韓国でも大麻の取締りは厳しいらしく、見つかっても大丈夫かと尋ねると、首を振って、手錠をかけられルジェスチャーをした。 食事の後、足場に上り、本堂の屋根を葺いているところを見せてもらい、みんなに礼を言って、更に岩場を登り、金剛庵という僧坊を見物。 それからずっと下って、ポモサの中核をなす、大雄殿や曹渓門(柱4本が並列して大きな屋根を支えている)などを、ゆっくり見て回る。 ポモサの周り、金井山一帯の沢と岩場は、行楽客の野宴に恰好の場所で、今日は土曜日だから、午後から出かけてきた家族連れや、アジュマばかりのグループなどの宴会が、あちこちで盛り上がっていた。 僕も、涼を求めて沢に下り、一休みして、近くの学生グループを見つけて話しかける。 釜山教育大学の学生の、ハンウンというグループで、男女合わせて14,5名。 中には学生結婚で子供連れの夫婦もいたし、足の悪い高校生くらいの女の子や、車椅子に乗った麻痺症の若者がいたから、ボランティア活動のグループなのかも知れない。 茣蓙を敷いた上で、ゲームや歌合戦、尻相撲(これは僕もやらされた)などを楽しみ、携帯燃料で、手早く作った焼肉や、果物などをご馳走になる。 眼鏡の似合う、ポニーテイルのユン嬢は、学校でフランス語を習っていて、来年2月に卒業した後、釜山の高校の先生になるんだと、顔を輝かしていた。 彼女はとても優しく笑うので、つい彼女とばかり話していて、回りから冷やかされてしまった。 そんなわけで、ポモサでは、思いがけなく、見知らぬ人々との交流が出来て、というより、一方的に親切を施されて、半分ぽーっとなってしまい、このままバスで帰るのももったいないし、帰りは下り坂だからと、地下鉄の駅まで歩く事にした。 途中の路傍のそこかしこで野宴が開かれていて、本当にこの国の人々は青空の下で飲んで、食って、唄って、踊るのが好きなんだと再認識した。 麓の茶店の前で、縁台に座って飲んでいた4人連れのアジョシに、呼ばれて、コーラをご馳走になり、彼らのうちの一人が日本にいた頃の話など聞かされてあ画、酔いが回ってきたらしく、僕にサービスのつもりか、大声で「オマ○コ、チ○ポ、スキスキ!!」などと叫び出したのには、参った。 7時にナムポドンに戻り、繁華街を冷やかして、早めにユースに戻る。 心地よい疲れ。 今夜は同宿はアマダだけらしい。 昨日買ったチョニングォンのテープを聞いてみる。 フォークロックとでも言おうか、ひと昔前の椿ハウスコンサートを髣髴させるサウンドが聞こえてきて、ちょっと焦ってしまった。 ややハスキーな彼の声と、静かな情熱が伝わってくるメロディが気に入ったので、ぜひ明日コンサートに出かけようと思い、テープ聴きながら就寝。
8時起床。 珍しく朝のシャワーを浴びて、ヘッドホンで件の韓国ロックを聞きながら街に出る。 ナンポドンの角にあるビルで看板取り外しの作業をやっていた。 綱に二人が伝って降り、強引に剥ぎ取るようなやり方で、下で見ててもはらはらした。 オリンピック前で韓国は工事・建設ラッシュだが、どの現場でも作業のあらっぽさには、見ている方が怖くなってしまう。 ルーティンと化したチャガルチ散歩、今日は青果市場の方を主に回った。 比喩でなくニンニクの山の間をすり抜けて歩く格好になる。 海に面した通りの小さな木の台の上に白い海鳥の屍骸があった。 そのまま国際市場に回るとドブ掃除やってて、アッパレと言うくらいに真っ黒のドブが道ばたに堆まれていた。 文具店で光州のデパートで見かけたイラストの絵葉書を探したが見つからない。 35番バスでソミョンに出手、しつこくファンシーショップや文具店を覗くも無駄骨。 地下街の軽食堂で変わったものをと、メニューからポックンパプというのを注文したら、散々待たされた末に、目玉焼きの載った焼飯が出てきたのは、ちょっと悲しかった。 コンサートは5時からだったが、会場の下見と入場券を先に手に入れておこうと、5番バスでスンポドン(ここが近いと、ソミョンで学生に教えてもらった)に出て、何人もの人に尋ねて、やっと会場のカトリック文化センターにたどり着いたのが2時過ぎ。 何のことはない、国際市場のすぐ北側だった。 早くも30人近くが並んでいた。 当日券(4,000ウォン)を買って、いったん街に出て街頭のはんこ屋で、お土産に友人の名前をハングルで彫ってもらう。 4時に会場に戻ると、客の列は200人以上に増えてて、慌てて列の後に並び、一時間以上待って入場したら、席は三百足らずで、どうにか後ろの方にぎりぎりセーフで座ることができた。 今日から3日間、2回ずつの公演のはずだから、結構人気があるんだなと思い、隣の学生に質問する。 「彼はフォーク歌手か?」 「いや、ロック歌手だ」 「韓国でトップのロック歌手か?」 「いや、違う」 「それでは、韓国のロック歌手のトップは誰だ?」 「チョーヨンピルだ」 ここで僕はちょっと絶句したが、気を取り直して 「それでは彼はナンバー2か?」 「いや、チョンヨンロクだ」 「その次か?」 「次はキムミンギだ」 と、なかなかチョニングォンまでたどり着かない。 逆に「あなたはリポーターですか?」 などと質問されてしまった。 ともかく分ったことは、チョニングォンは32歳のロックシンガーで、85年にトルグックヮ(野菊)というグループのリードボーカルとして「ヘンジン(行進)」でデビューしたということくらいだった。 30分ほど遅れて開演、前座のギター弾き語りが2曲あって、チョニングォンの登場。 ピアノ、ベース、ドラム、リードギター、それに本人がサイドギター(あら懐かしのハミングバード)という5人編成。 オープニングが何とビートルズの「イエスタデイ」だったのには驚かされた。 テープとはメンバーが違うのか、かなりアレンジも変わっていたが、結構いいノリで楽しめた。 ただ、ピアノがクラシック崩れみたいで、耳障りだと思ったのだが、これがえらく人気があるらしく、ソロのパートが終る毎に、すごい拍手が起こっていた。 観客は礼儀正しいというか、手拍子と合唱に徹していて、立ち上がるものはいなかった。 途中ファンが花束を持って行ったり、千羽鶴のレイを首に掛けに行ったりで、ロックコンサートというより、やっぱりちょっと前のフォークコンサートの雰囲気だった。 あまり喋りはなくて、どんどん曲を続けるのには好感を持った。 途中二曲ジョンの曲(「ラブ」と「オーマイラブ」)をやった他は、すべてオリジナル曲のようだった。 約二時間の熱演のあと、 「エンコー! エンコー!」の叫びに応えて、アンコール3曲もサービスしてコンサートは終了。 帰りにテープ(2,000ウォン)を買ったら、直筆サイン入りのパンフレットをくれた。 韓国最後の夜なのだから、釜山タワーに登って夜景を楽しもうと思い、ヨンドサン公園に上がろうとしたら、石段前に、武装警官が並んで、封鎖していることを示していた。 町で日本語の達者なポン引きの兄ちゃんから聞いたところによると、釜山を地盤とする民主党党首キムヒョンサムが来ているため、騒ぎを起こさないように、公園を閉鎖しているとか。 これは明日まで続くということだから、ヨンドサン公園から釜山に別れを告げることは不可能になったわけだ、残念。 本屋でポピュラーの楽譜3冊買って、11時にユースに戻る。 アダマはもう寝ていた。
8時起床。 アダマに別れを告げて、荷物を抱えて街へ。 途中文具の卸問屋を見つけて、もしや、と思って立ち寄ったら、例の美少女イラストの葉書と便箋が見つかった。 しかし、問屋だから葉書は分売できないと言われ、それでも、便箋だけは3種類買うことが出来てホクホク顔。 こうして、僕の執念は最後の最後になって、見事花開いたのであった。 と、言うところで筆を(キーボードを、か)止めておけば、さまになるのだが、実はこれには後日談がある。 帰国して半月後に三宮のジュンク堂の絵本コーナーで、あのイラストに再会してしまったのだ。 おおた慶文という人の画集で、何冊も並んでいたので、結構売れているのに違いない。 要するに、僕がすっかり韓国のものと思い込んでいたのは、これの海賊版にほかならなかったわけだ。 ここまで読んで、笠置シヅ子の「ロサンゼルスの買い物」を思い出した人は、相当シブいと思う。 この時はそんなこととは夢にも思わず、気分良くなってしまい、市場の鞄屋では、リュックとお揃いのシステム手帳見つけて衝動買いしたりして、本当に今回はこれが見納めのチャガルチで、お土産にさきイカ山ほど買い込んで、空港に向かうことにする。 キメ空港という地名が頭にあるだけにキメ行きのバスばかり探してて、201番の空港行きバスに乗るのにずいぶん手間どった。 これは、僕がコンハン(空港)という単語を知らなかったせいだ。 ともかく、どうにか乗り込んだバスは渋滞もあって、1時間半以上かかって、やっと12時半空港に到着。 搭乗手続きを済まして、僅かに残ったウォンを使い切ろうと、ロビーのスナックでサンドイッチや珈琲を頼み、週刊誌など買って、いよいよ搭乗。 スチュアデスは、例の紺色の制服ではなくて、ちょっとがっかりした。 定刻より少し遅れて4時10分離陸。 飛行機に乗るのは何年ぶりだろう。 薄雲を通して、釜山の街が、川が、山が、田畑が、海が見えて、再来の思いを新たにする。 機内食はサンドイッチとオレンジジュースで、水割りとビールのサービスもあったので、OBビールを貰ってお土産にする。 14時15分大阪空港着(時差のため)、通関は思ったよりあっけなく済んで、空港バスで梅田に出て、阪神で部屋に着いたのが4時半。 まだ旅の続きのような気がする。 荷物を広げては見たものの、整理は明日に回すことにした。 16日に到着していたらしい、郵便小包を取りに、灘郵便局までDJで行く。 最初エンジンがかかりにくくて、バッテリーが上がってしまったのかと思ったが、キックで何とかなった。 一か月分の疲労がどっと出て来たような気がする。 これからメモや資料を整理して、「サンボ通信」の韓国特集号をなるべく早く作り上げて、「サンボ通信」の10号にも手をつけねばならない。結構やることは多い。 吉美ちゃんに電話して帰国報告。 えらくみんな心配していたらしい。 春待ち、貞子、香介に電話。 2時就寝。 |
★後記★
(1988/08/05記)
●本号は一ヶ月間の『韓国旅行記』である。 と、書くと格好がいいが、僕は今まで海外はおろか、国内でもまともな旅行はしたことない人間で、それだけに大袈裟な表現があったり、しようもないことに感心したりしてると思う。 ようするに「ウブい」旅行記だ。 ●旅行中のチョンチョニ(ゆっくり、のんびり)の癖が、帰ってからも抜けきれないらしく、この特集号を作るのに一ヶ月以上かかってしまった。 カメラは持っていかなかったので、掲載の写真はパンフレットなどからの無断引用である。 チケットなどはコピーして使った。 食費や交通費は、意識的に記録した。 韓国の物価の安さを実証するためではなく、記憶を鮮明にするためだ。 地名などはできるだけ韓名を用いたが,カタカナ表記の不備は免れない。 ●今回の旅は、僕と韓国との蜜月旅行だったと言える。 再び訪韓するとしても、今回のように手放しで感激するわけには行かないだろう。 そのことを確認するためにも、近い将来また出かけねばならないと思う。 ●日記の部分を書くのに、実際の旅行と同じくらいの日時を費やした。 その間、追体験する楽しさと、記憶が風化していく悲しさを同時に味わった。 言葉が上滑りして、思いの何分の一も表現できないことに苛立ったりもした。 ●電圧が日本と違う(220vか150v)ので、ワープロを持って行けず、少なからず淋しい思いをした。 今度行く時はサンボ(CASIOの小型ワープロ)を持っていきたい。 富阪さんに専用のアダプターを作ってもらわなくては。 ●一日平均10kmは歩いたから、単純計算で300km。 その間刷き続けたスペイン製の緑のバッシューは、地下足袋と間違われたりもしたが、実によく頑張ってくれた。 今回の敢闘賞ものだ。 ●韓国語は今年の4月からラジオ講座と、「10日間のハングル」で独習した。 たかだか1ヶ月の付け焼刃で、通用するわけもなかったが、ハングルの拾い読みと、挨拶できるだけでも嬉しかった。 泥縄だが、7月から週2回、六甲学生青年センターの朝鮮語講座に通い始めた。 ●結局この旅の費用は、往復の交通費(+次回の片道航空券)をあわせて14万円を超えなかった。 飲まない,打たない、買わないを原則としたこともあるが、それにしてもかなりの節約旅行だった。 ●帰国してから、韓国歌謡のテープを愛聴している。 本文に出てくる以外に「歌謡ディスコ」(韓国ポップ歌謡)のテープを何本か、買ったのだ。 やはりイソニの「アルムダウンカンサン--美しき山河」が素晴らしい。 韓国歌謡曲の生き字引きの山根さんに聞いたら、彼女のオリジナルではないとのこと。 ちょっと残念だった。 ●ソウルオリンピックが目前に迫っている。 韓国政府はこれを梃子に日本のような経済大国をめざしているようだ。 この思惑だけは外れて欲しい。 |