HPコンテスト(韓国観光公社主催)銀賞受賞記念特別企画

バック トゥ ザ パルパル(88)第ニ部
Morris.の 韓国初旅行記
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第ニ部 盲滅法ソウル さまよい歩記

1988/06/01(水)雨 ●中休み●

久しぶりの雨だ。
たまには外に出ないでぼーっとしていようかと、旅館の中庭で、ムン君、内田君、小島君などと雑談。
イスラエル人の小柄な女性イーファットが自分の名前をハングルでどう書くのか知りたいというので、反切表を見て、何とかでっちあげたが、アジュマに見せたら全然違う読み方をされてしまい自信を無くす。
イーファットとケンというイギリス人と3人でしばらくハングルの勉強会。
僕はあいかわらず「パルガン」のpp(濃音というらしい)がうまくできない。
ムン君に何度も指導してもらうのだがうまくできない。これが出来るようになるまではこの旅館から出られないなどと、冗談を飛ばす。

昼過ぎに雨も小降りになったので旅館を出て、近くのキョーボビルの地下にある大きな本屋を冷やかす。
洋書は1ドル1,000ウォンのレートなので日本で買うよりかなり安いが、本は重いし、送るのも大層だから買うのは控える。
ここの文具コーナーでシステム手帳用リフィルを手に入れる。ちょうど切れかけていたところなので助かった。

40ウォン切手 同じ地下の郵便局で通常切手4種類買う。10ウォンが鶴、20ウォンがトルハルバン、30ウォンが大極旗、40ウォンが国花ムグンファだ。記念切手はあいにく売り切れていた。

歩いてロッテデパートに行く。
地下食品売り場で、果物、野菜、乾物などの名前と値段をメモしようとしたのだが、店員が胡散臭そうに見るので中断。

地下通路で、三十くらいの男に片言の日本語と英語で話しかけられた。
同じ事ばかり何度も聞くので(「年齢は?仕事は?どこから来たの?いつまで韓国にいるの?」)、とうとう頭に来て怒鳴りつけてしまった。
これは多分に、ろくに話せない英語で欧米人に話しかけたりしてる自分の戯画を見せ付けられたような気がして八つ当たりしたのだったろう。
後味が悪かった。

小雨の中を南大門市場へ。
トコロテンのコチュジャンがけ(800ウォン)を食べて、ビルの2階3階の市場を見物する。
2階は衣類、装飾品、3階はお盆や洋食器などの日用品と花市場があった。花には目の無い僕は大喜びだったが、韓国では余り花の種類が多くないようだ。
この市場でも薔薇、菊、フロックス、スターチス、カンナ、かすみ草と、後は観葉植物くらい。
それでも魚市場とはまた別種の活気に溢れていた。

帰りのバスに見事に乗り損ね、散々迷った末10時過ぎに旅館にたどり着いた。
毛利君と近くの食堂でトワンタン(3,500ウォン)食べ、タバン(喫茶店)でコーヒー飲んで、彼の旅の話や、これからの遠大な計画を聞かせてもらう。

1988/06/02(木)曇後晴 ●韓国プロ野球●

7時起床。
毛利君は午後の飛行機で帰国するので、それまでいっしょに見物しようと、まず国立博物館へ。
2時間以上割と熱心に見る。二人の興味を持つ分野がまるで違っていて面白かった。

骨董品店を見たいというので、インサドンへ案内する。
途中キムヨジャハッキョ(金女子学校)のグラウンドでバレーボール大会が開かれていた。
チアガールも出ている。ひとりならきっとしっかり見物してたに違いないが、連れがいると、こういうとき自由がきかない。

しばらく骨董街を流して、ネンミョン(2,000ウォン)食べて、日本での再会を約束して毛利君と別れを告げ、いくらか両替して、待望の韓国プロ野球観戦に赴く。
地下鉄総合運動場で下車しチャムシル球場へ。

今日のカードはOBベアーズ対MBC青龍のどちらもソウルをフランチャイズとするチーム同士で、どちらを応援するか迷ったが、結局一塁側ベアーズの内野席(3,000ウォン)の切符を買って入場する。
入場口で身体検査があったのには驚いた。

オリンピックに向けて建設したらしい真新しい球場は立派で、設備は日本の球場と比べても遜色ない。
スコアボードの20人選手中(指名代打制)8人までがキム選手だった。
客の入りはあまりよくなくて、内野で三割程度、外野はがらがらで、7回頃にひまつぶしに数えてみたらライト側23人、レフト側76人、合わせて100人を切っている。

応援団は普通のポロシャツで水色の台に乗って独特のポーズとかけ声、観客が少ないのでいま一つ盛り上がりを欠く。
応援団がかまぼこ板にゴムバンドのついたようなものを2枚ずつ配る。これを両手にはめて拍手するらしい。
やってみたらカスタネットみたいに、楽に大きな音が出るが、調子に乗って叩きすぎたので板にヒビが入ってしまった。ヤバイ!!。

6時半プレイボールだからナイターのはずなのに、サマータイムのせいもあって、日没は9時前。つまり8回まではデイゲームとしか思えない。
9回になってやっと照明が効果を発揮するという情なさ。
試合は投手戦というより貧打戦で、2-1のスコアでベアーズは負けてしまった。試合の後負けたベアーズの選手が一塁側の観客席の前に整列して一礼、客も暖かい拍手を送るシーンは、高校野球と錯覚しそうだった。

期待が大きかっただけに物足りない気分で球場を後にする。

1988/06/03(金)曇 ●延世記念博物館●

8時起床。
歩いて支庁前の観光案内所まで行き、観光パンフレットと「今週のソウル」という外人観光客向けの週刊情報誌をもらう。
日本語と英語でその週の行事や映画、スポーツ,音楽などの情報とエッセイ、ホテルの案内などが載っていて、中央見開きのソウル地図が見やすいのが特長だ。

42番バスで新村に出て、延世大学へ。
立看やポスターがいたるところにあって、何となくひと昔前の日本の大学キャンパスを連想させる。

延世大学百周年記念館 校門を入るとすぐ右手に「ペクチュニョンキニョングヮン」と看板のある綺麗な建物が目に付いたので覗いて見ると、美術館みたいなので、受付のアジョシに見たいという意思表示したら、用紙にサインして、簡単に入ることが出来た。

3階建てで1階には絵画や書,彫刻、染色などが並べられていたが、全体としては大学付属博物館のようで、2階、3階それぞれ数室に分かたれていて、そのラインアップは僕を狂喜させた。

先史時代室・歴史時代室・古文書室・大学史室・民俗室・動植物室・地学室

いずれも興味深かったが、とりわけ動植物学室には韓国産の植物の乾燥標本、鳥や哺乳類、爬虫類の剥製、そして約200種のナビの標本!!
日本産の蝶類と大差はないものの、それでもそれらすべてにハングルの名前が表示されているだけでも嬉しくなってしまう。

ここで3時間以上見学して3階のテラスから中庭の石塔や古い建物などを眺めていると、学生が二人来たので声をかける。
二人とも李姓で、ともにこの大学の機械工学科2年生だった。
彼らの話によると、この博物館は延世大学設立百周年を記念して建設されたもので、つい3ヶ月前にオープンしたばかりとか、実に運が良かったと思う。
二人に大学の案内を頼むと、快く引き受けてくれた。まず、学食に行き定食(500ウォン)を食べる。

広くて緑の多いキャンパスというより、小さな森を思わせる木々の茂る小道を歩いていくと、リスが走り回り、カササギも飛び回っているので、こちらでは何というのか聞いてみると「カッチ」だというので驚いた。
僕の田舎の佐賀県ではこの鳥を「カチガラス」と呼んでいたからだ。
ちなみに佐賀県の県鳥でもある。韓国ではカッチは幸運を運ぶ鳥だと教えられて嬉しくなった。

工学部を見下ろす丘のベンチに座ってしばらく話をしていて、二人がクラスメートを紹介するといって、校舎の前で溶接の実習をしている学生に声をかけると、小太りの愛嬌のある学生が駆け登って来た。
片言の韓国語で挨拶したら、笑いながら日本人だという。またまたびっくりしてしまった。

名古屋から来た後藤君という21歳の青年で、高校卒業してすぐ延世大学の語学堂(外人向け韓国語学校)に学び、工学部の留学生になったとのこと。
実家が工場なので技術を活かせるというのはわかるが、どうして韓国の大学を選んだのかと尋ねたら、何となく韓国が好きだったからとの答えが返ってきた。

後藤君と会えて、いろいろ話を聞かせてもらったことは、大きな収穫だった。
場当たり的に韓国人と話したり、教本を見て手軽に韓国語を学ぼうと思っていた僕の考えがあまりに甘いということも思い知らされた。
韓国の産業構造や、日本との癒着についても詳しくて、若いのにすごくしっかりしていることにも感心した。

米国の雑誌を売って回ってる背広の男が実は私服の刑事であると示唆したり、街でよく見かける若者の白黒唐草模様の上下の服が、学内での軍事教練用の制服だということも、彼に教えてもらうまではファッションだと思っていた。
再会を約束して別れる。

地下鉄サムガクチ(三角地)で下車して、米軍本部を横目で眺めながら、イテウォンへ。
ここは朝鮮戦争当時の米軍闇市から定着した商店街で、若い観光客の買い物のメッカになってるらしい。
もう夕方で仕舞いかけた店も多く、夜の顔を見せるにはまだまだ早すぎるような中途な時間帯だったので、そこそこに引き揚げる。

旅館に戻ると新しくイスラエル人の若いカップルが来ていた。
チャックという小柄で可愛い女性が話しかけてきた。
その話の中で「韓国人は日本人に対して親切にするのに、日本人は韓国人に優しくない」と指摘されて返す言葉をなくしてしまった。

昨日から泊っている日本人の農協のおっさんと、些細な事から口論になる。
僕は嫌いになると、もろ顔や態度に出てしまう。大人気ないとは思うが、なかなか直らない。

1988/06/04(土)雨後曇 ●水原にて迷える子羊●

8時起床。
アジュマに傘を借りて、ソウルから40kmほど南のスウォン(水原)へ向かう。

韓石峯千字文 地下鉄が鉄道に乗り入れしていて、ソウルから乗り換えなしで行ける(550ウォン)。
車内で白髭の老人が60p余りの小冊子を乗客に配って回る。
これはバスの中で子供がチューインガムを売って回るのと同じ方法で、後で代金を徴収に来る。要らなければそのまま返せばいい。

この本は面白そうなので350ウォンで買ってしまう。
タイトルは「韓石峯千字文」で、例の千字文の一つ一つに崩し字、筆順、日本語の音訓(カタカナ、ひらがな)、英語、韓国語の音訓(ハングル)等が載っている。
漢、日、英、韓の4カ国語辞典と言えなくもない。
もっとも辞典として使うのはかなりむずかしい。
これをネタに隣に座った学生と色々話をする。

水原は、旧市街がぐるりと石の城壁で囲まれている町で、今日はこれをひと回りするつもり。

バスでパルタルムン(八達門=南門)へ行く。
ロータリーの中心に位置しているこの門をよく見ようとそばまで行ったら、警官に制止されてしまった。

この付近一帯が水原の繁華街で、市場でオクスス(玉蜀黍、500ウォン)を買って齧りながら、闇雲に歩き始めた。
城壁は町を取り囲んでいるのだから、どっちに歩いてもすぐにぶつかるだろうと思ったのだったが、約1時間ほど歩いても一向に城壁にはあたらない。
これは僕が城壁の大きさを過大評価していたためで、全長5kmといえば長そうだが、直径はたかだか2km弱でしかないことに思い至らなかったためだ。
それにしても、道を迷ったのは生来の方向音痴のせいもあるだろう。

水原城 道に迷いながら、途中で面白いものに出会った。
開店したばかりとおぼしい、電機店の前で、黄色いつば広帽子、ブレザー、プリーツスカートに緑のスカーフをした女性ばかり15人編成のブラスバンドが元気よく、マーチや陽気なダンス曲を演奏していた。小雨のせいもあって見物客より彼女等の方が多いくらいだった。僕が見始めて数曲で演奏を終え、「デウチャドンデャ(大宇自動車)」と書いてある、専用バスに乗り込んだ。
メーカーの宣伝用専属バンドで、あちこちの店のデモンストレーションに回っているのだろう。
バスの中から僕に向かってVサインを出して首を傾げる娘がいた。日本人だというと「サヨナラー」と手を振ってくれた。

なかなか城壁にたどり着かない。
小高い丘の上に建設中の巨大なキリスト教教会が、何となく気になって、ちょっと覗いてみる事にした。
工事の看板によると「水原聖ルカ教会聖堂」で、高さは66.8mにもなるらしい。
すごいなあと感心していたら、誰かに呼びかけられた。振り向くと、奥の方から神父が手招きしていた。

神父は日本語も英語も全く駄目なので、片言の韓国語で、この教会があまりに大きいので好奇心で、見にきたのだと、話したつもりだが、どうやら全然理解してもらえなかったようだ。
地下の事務室みたいなところに案内されて、ジュースを出してもらい、事務員に指図して、何と2,000ウォンを僕に渡すようにとさせる。
僕が無銭旅行者で金に困り、教会に助けを求めに来たのだと思われたらしい。
これはいけないと、断ろうとすると、遠慮するんじゃないと、ポケットの中に押し込もうとまでするので、すっかり当惑してしまった。

韓国語で説明しようとすればするほど、収拾がつかなくなり、とうとう思い余って、財布を開いて、数万ウォンの金を見せて、やっと引き取ってもらえた。
信仰心のかけらもない僕だが、この神父さんの厚意は心に染みた。

再び水原に来ることがあれば、完成した教会を拝観に来ると約束したが、これも分ってもらえたかどうか心許ない。

そんなこんなで、やっと城壁にたどり着いたのは2時を過ぎていた。

雨も上がったばかりで、空気も澄み渡り、ほかに観光客もみあたらず、すっかりいい気分になって、西欧風の石の城壁の上を歩いていった。
要所要所に城門や見張り台があり、途中でランヤンという6歳くらいの女の子になつかれたりして、2時間ほどかけて一周し終えた。

その後また市場を冷やかして回る。
ケコギの看板を見つけてドキッとした。
ケは犬、コギは肉。オリンピックに向けてソウルでは、表向きは禁止になってるはずだ。
話の種にトライしてみようかとも思ったが、店の前に並べられた檻の中の子犬を見ては、とてもその勇気は無くなった。

今日はいつもにましてよく歩いたので、ちょっと疲れて早めに就寝。

1988/06/05(日)晴 ●ソウル大学の演劇●

7時起床。
朝食は、アジュマがみんなに、自家製のカレーを振舞ってくれた。
じゃが芋や人参の入った普通のホームカレーで、キムチが付いて来たほかは、特に韓国風ではなかったが美味しかった。

ニ、三日前からナビの姿を見なくなった。
ひょっとして行方不明になったのではと、心配したが、どうやらよそに貰われていったらしい。

昼前に国立博物館の北側にある、キョンボックン(景福宮)と、その中にある民俗博物館を見に行く。
美しい花崗岩の十層石塔は日帝時代に日本に持ち去られたものが、60年代に返却されたものとか。
本当にいたるところに日本侵略の足跡が残っている。李太王妃閔氏暗殺の舞台もこのキョンボックンで、それを祀る小堂も片隅にあった。

民俗博物館は、韓国人の衣食住を分りやすく展示してあったが、延世大学記念館の民俗室と大差なかった。

ただユンノリに使う花や蝙蝠を象った駒が素敵で、町で買えるかどうか案内のアガシに尋ねたが、要領を得なかった。

142番バスでソウル大学へ。
ソウルの東大とみんなが言うのであまり期待もしないで出かけたのだが、日曜日で、キャンパスは閑散としていた。
そのかわり、大学横の川辺では家族連れの行楽客が野宴を楽しんでいた。
いっそそちらの方に行ってみようかとも思ったのだが、とりあえずキャンパスを歩き回る。

女の子が3人でおしゃべりしていたので、割り込んでしまう。
二人が崔、もう1人が李姓で、近くのティーチャーズカレッジの1年せいとのこと。

大学のある一帯はクヮナクサン(冠岳山)で、休日は市民の憩いの場として賑わっているそうだ。
三人とも寄宿舎に入っていて、今日はソウル大学演劇部の公演を見に来たというので、言葉はわからないが僕も一緒に見ることにした。

「トンイルパブ(統一飯)」というタイトルで、入場料1,000ウォンを払って、講堂にはいると、すでに八分ほどの入りだった。
第二次大戦後の開放と南北分裂、朝鮮動乱の時代から現代に至るまでの、人民の憎み合いと連帯、愛憎と希望をひとりの老母を通して描いたもの(らしい)。
ヒロインを演じた女学生の歌が素敵だった。
また随所に韓国特有の踊りが取り入れられて、ダイナミックだった。

ソウル大演劇部「統一飯」

観劇のあと、4人でキャンパスを散歩し、片言の英語と韓国語で、この国の女学生の娯楽や、興味あることを聞いてみる。
音楽や映画、それにおしゃれにも関心はあるが、それよりもいい先生になるためにしっかり勉強しなくっちゃという、優等生的返事が返ってきた。
日本の歌手を誰か知らないというと「ソニョデ」と、3人が口を揃えて答えたので、何なんだ?と確かめてみたら、これが「少女隊」のことだった。
それと、ソウルではカラオケを中心に、懐かしのいしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」が爆発的に流行っているのだそうな。
そういえば屋台のテープ売り場に、いしだあゆみのテープが並んでいたのもうなずける。
他にはマッチの「ぎんぎらぎんにさりげなく」も根強い人気を保っているらしい。

7時半に彼女らと別れて、来たときと同じ142番バスで戻ったが、何故か降りるところが分らなくて、かなり歩いて市庁までたどり着き、そこを基点としえて旅館に戻った。
イスラエル人チャックと話がはずんで、ヘブライ語の挨拶などをおしえてもらう。
おはようございますの「ボケラトゥ」と、おやすみなさいの「ライラトゥ」だけしか覚えていない。

1988/06/06(月)晴 ●色町探訪??●

7時起床。
ソウルにきて10日が過ぎてしまった。
いくらチョンチョニ旅行といっても、そろそろ次の町に出発しなくては。
それにこのところ、ちょっと気ぜわしく動き回ってるきらいがあるから、今日は本当にのんびり過ごしてやろうと思う。

旅館を出てすぐのところにある、クラウンベイカリーの前を通ったら、店内にいたチャックらに呼ばれて、一緒にパンとオレンジジュースの朝食をとることになった。
考えてみれば、韓国のパンを食べるのは初めてで、ここのコロッケパンはほっぺたが落ちるくらいうまかった。

ハンガンの岸にソウルの魚市場があることを知り、142番バスで近くまで行って歩く。
ノリャンジン市場という魚市場だが、規模、活気ともに釜山のチャガルチには遠く及ばないが、魚の顔を見るのは楽しい。

そのまま歩いて、今日の目的地ヨイドへ。
先日、ヤン君、ファン君と来て、すっかり気に入ったのだ。
平日だから空いてるだろうと思ってたのに、ものすごい人ごみで戸惑ってしまった。
土手でギターを弾いていた高校生に聞いてみたら、今日はヒョンチュンイル(顕忠日)で、会社も学校も休みらしい。
それでも半日、ハンガンの岸辺や公園でごろごろしてしまった。

夕方3番バスで東大門市場に出て、地図に載ってるアーケード街に行こうとしたが、なかなか見つからない。
これはアーケード街といえば、三宮や元町の商店街のようなものという先入観が災いしたので、こちらのアーケイド街はビルとビルを繋ぐ屋根の上にある、中古電化製品の市場だった。
ここで、中古のハングルタイプライターを見つけて、試し打ちすることができた。

日も暮れてきたので、ソウルきつての色町という知識だけで、前から気になりながら敬遠していたチョンヤンリ(清涼里)を冷やかしに行くことにする。
3番バスで高麗大学前で下車し、迷いながら駅前のそれらしい方面に足を伸ばす。

暗い湿っぽいうらぶれた場所を想像していたのに、街の一画はまばゆいばかりのピンクっぽい照明に照らされた中、縁台に厚化粧のアガシが並んで、手ぐすね引いていた。
足早に通り過ぎようとした途端、二人のアガシに両方から腕を取られ、力づくで店の中に引きずり込まれようとした。
冗談抜きで、必死で逃げ出して来たのだが、ショルダーの金具が無残に変形していて、右手首は擦り剥けて血が滲んでいた。

あちらは、本気で商売してるのに、冷やかしで出かけた僕のほうに非があることは否めない。
ほうほうの態で駅前に戻ったら、キリスト教徒らしい数人の若者が讃美歌を歌って、募金運動をしていた。

1988/06/07(火)晴 ●水原民俗村●

8時起床。
今日は水原郊外にある、観光用に作られた「民俗村」へ出かけることにする。

民俗舞踊 アンドン(安東)の民俗村は、実際に人々が生活しているというので、そちらへ行きたいとと思ったのだが、ちょっと遠いので、今回は諦めることにした。

各地方の建物や、石造物集められてるのを見るだけでもいいや、と、あまり期待せずに行ったのだが、思ったより広く、陶器製作の実演などもあって、結構楽しめた。

水原駅前で腹ごしらえ。
わらじのような薄くて幅広いトンカス(豚カツのこと、1,500ウォン)を食べて、午後1時発の無料バス(といっても2,700ウォンの入場券が必要)に乗り、30分かかって到着。

入場したところに女子高生の団体がいて、制服といい、顔といい、日本の女子高生と見分けがつかないなと思っていたら、これが何と埼玉からの修学旅行の一行だった。
楽しく旅行してるか?と聞いたら
「暑いわ、日本語は通じないわ、食べ物は辛いわで、早く日本に帰りたい」
という、御返答であった。
確かに、今日は暑い。

黒人白人男女混成の米軍アーミー約50人ほどの団体が、でかい態度、でかい声、でかい身体で、あたりを睥睨するように見物していたので、しばらく一緒に回る。
彼らのガイドらしい韓国人アジョシの、これまたでかい声、派手なジェスチャーの案内ぶりだけでも見る価値があった。

李朝時代の貴族の邸の前で、映画のロケが行われていた。
お姫様と腰元?に扮した女優が、監督の指示で何度もやり直しさせられていた。
エキストラをやっている、英語の堪能なチェ君と話す。
将来は役者にもなりたいが、アニメーションにも興味があるとのことで、日本のアニメについても、僕よりうんと詳しかった。
このロケは、MBCのTVドラマ「李朝五百年」で、放映されるのは5ヵ月後とのこと。
もう少し話したかったが、撮影に入ってしまった。

7時にソウルに戻り、旅館の近くのスーパーマーケットでインスタントコーヒーなど買ってたら、タイ人のペムに会い、マーケット内の簡易食堂で夕食を共にする。
僕は初めてだが、ピエムは常連らしかった。
食堂の店員が、何となくピエムを差別しているのか、邪険に接しているように思えて残念な気がした。
そのことを、ピエムに英語で話したが、彼は笑って何も答えなかった。

旅館では、昨日から泊ってる鹿野君から、海外旅行のノウハウや、旅先での話を聞く。
欧米、アジアのほとんどを回っているらいし。
バックパッカーに対する批判的意見には、回りから賛否両論が出て、討論会のようになった。

1988/06/08(水)雨 ●ソウルも梅雨なのか●

9時起床。
また雨だ。ソウルも梅雨に入っているらしい。
午前中は、旅館でぼんやりして、昼前に宿を出、市庁横の案内書で「今週のソウル」最新号を貰う。

ガイドブックに載っていたもう一つの骨董品市場を見ようと、地下鉄シンダプで下車して店を冷やかす。
三つのビル内に、合計40軒くらいの店が入っていて、家具や陶磁器が多く、あまり興味を引かなかったし、価格的にも安いとは思えなかった。
シンフンドンという店で、真鍮の小さな匙を2個買う。

傘持って歩き回るのも億劫だったので、早めに旅館に戻る。
ムン君から韓国語の教本を借りて、動植物の単語をノートに写す。
鹿野君と、沖縄から来た平良君と3人で、近所の食堂で夕食。

町中に催涙ガスが立ちこめて、目と喉が痛い。
学生がデモをやってるらしい。
デーウォン旅館にはTVが無いので、ほとんどニュースから隔離されている。

夜になって、雨も上がったので、23番バスでイテウォンまで出て、ソウルきつてのディスコ、ナイトクラブ街を見物して回る。
とても韓国にいるとは思えない。
行ったことはないが、アメリカみたいだ。
でもどの店も高そうで、結局中には入らずじまいだった。
屋台でお好み焼き食べて、同じバスで、戻る。

釜山ヘウンデで会ったパク君に電話。
やっと、本人に代わってもらい、明日会おうと約束するも、言葉が不自由で、ちゃんと通じたかどうか不安だ。
明日正午に延世大学記念館の前で待ち合わせるつもり。

1988/06/09(木)曇 ●学園紛争?!?●

8時起床。
ソウルオリンピックまで100日らしい。

昨夜パク君に電話で、延世で待ち合わせると言ったとき、何となく違う場所にしようという気配があった。
僕としては、もう一度記念館を見物したかったし、ここなら絶対間違えずに行けるはずと思ったから固執したのだった。
結局はこれが裏目に出ることになった。

70番の座席バス(400ウォン)でやや目に延世大学に着いたら、キャンパスには黒旗が掲げられて、あちこちで学生の集団が何か叫び声をあげていた。

これはちょっと、ヤバいかなと思いながらも、とりあえず、記念館に入場し、ひととおり各展示室を流して、またナビの標本の前で韓国語の蝶の名前をメモする。

・ホランナビ(揚羽蝶)・フィンナビ(紋白蝶)・プソンナビ(蜆蝶)・ネバルナビ(タテハ蝶)・パランナビ(セセリ蝶)・チェビナビ(烏揚羽)・チョンティチェビナビ(青筋揚羽)・ノランナビ(紋黄蝶)・ップルナビ(天狗蝶)・オセンナビ(小紫)----

こんなのんびりしたことを僕がやってる間に、キャンパスの状況はますます加熱してしまったようだ。
正午前に記念館の外に出たら、学生の数はさっきの倍以上に増えていた。
校門の外には、いつの間にか、完全武装の機動隊??がずらっと並び、学生を威嚇しているし、記念館前では学生の決起集会らしきものまで始まってしまった。

約束だから1時間ほど待ったが、パク君は現われなかった。

キャンパスを野次馬気分で歩いていたら、偶然先日南山の図書館のテラスで会ったという学生から声をかけられた。
ムン君というその学生は、ほとんど英語が出来ないので、なにが起こってるのか聞くのに、ずいぶんん手間取ったが、今日は韓国の大学はすべて授業をボイコットして、板門店で北朝鮮の学生代表とオリンピック統一開催の話し合いを要求しているらしいことが、おぼろげに分った。

後藤君でもいればと思い、工学部付近を覗いたが、もちろん授業はやってなくて、人影もなかった。

仕方なく、3時過ぎに学外に出る。
武装した警官か、軍隊か、機動隊か分らないのが、千人以上はいた。

新村の商店街を南に歩いていくと、延世大学を目指す多数の若者とすれ違う。
地下鉄の入り口では、警官による検問?が行われていた。

後から知ったことだが、4時過ぎに学生と警官が揉みあいとなり、投石、催涙ガスの応酬にまで縺れて、怪我人や逮捕者まで出たらしい。
よくもまあ、よりによってこんなややこしい時と場所を待合場所に指定したもんだ。
パク君が変に誤解しなければいいのだが。

バスでいったん旅館に戻る。
神経が参ったのか、どっと疲れが出て、1時間ほど昼寝。

起きだして中庭に出ると、宿泊の手続き済ましたばかりの、渡辺君が挨拶してきた。
5年前に韓国旅行をしたことがあって、今回が2回目で、韓国語もいくらかできるという。
韓国語やってる日本の観光客に会ったのは初めてで、色々話を聞く。
万事ゆったりした感じの彼には好感を持った。

プヨ(扶余)からソウルに着いたところで、プヨのペンマガン(白馬江)の景色がとても良かったというので、僕も行こうと決心した。

夜に127番バスに乗ったら、途中催涙ガスの立ちこめた通りを走り、旅客全員、くしゃみ、鼻水、涙目と散々な目にあった。
同じバスで鍾路に引き返し、夜の宗廟公園へ。

11時前というのに十代、ニ十代の若者で溢れていて、バドミントンやバレーボール、合唱などに興じていた。

1988/06/10(金)曇 ●Last Night in Seoul●


ソウルに来て2週間目。
明日の朝、扶余に向けて発つことにする。

気分一新しようと、近所のキムスヒョンミヨンシル(美容室)で整髪する。
以前釜山チャガルチ2階の怪しい床屋丸金理容室で8,000ウォン取られたのを教訓に、今回は、明るく健全な美容室を利用することにした。
綺麗なアガシが6人もいる割と大きな店で、手早くカットしてくれて、1,500ウォンという安さに大満足。

ショルダーバッグが壊れてしまったので、代わりを買いにイテウォンへ。
店員が盛んに片言の日本語で呼び込みをして、中には日本語を教えてくれと、本気でノートや教科書までひろげる熱心な者もいて、しばらくその相手をしたりしてから、ショルダーでなく、小型のリュックを買った。

これから夏だというのに、高価そうな皮ジャンを買ったばかりの丸井君(本名ではない。デーウォン旅館に昨日まで泊っていたクレジット丸井の新入社員)にばったり会って、しばらく一緒に店を冷やかす。

パゴダ公園のパゴダ 今日でソウルとはお別れだと思い、目的もなく、バスを乗り継いで、ソウルの街を車窓から眺めているうちに日も暮れてきた。

これまで行きそびれていた、パゴダ公園へ行く。
ここはサミルウンドン(三一運動)の記念公園で、日帝の暴虐と、朝鮮人民の抵抗の姿が数枚に及ぶ青銅のレリーフに刻まれている。
日本人には少し辛い場所だが、現在は老人の憩いの場となっている。

公演の北側に聳え立っているパゴダ(石塔)は、全面に仏像や装飾の精巧な彫刻が施されている見事なものだった。
火災にでも遭ったのか、一部が黒く焦げ付いている。

ユウ氏という七十歳くらいの老人が、日本語、韓国語ごちゃ混ぜで話し掛けてきた。
五十年前、東京の小石川に住んでいて、こちらでは長いこと国民学校(小学校)の先生をしていたそうだ。
彼の話から、パゴダの焼け焦げは、やっぱり日本軍の仕業であったことを知る。

鍾路の露店で、薔薇を1,000ウォン分買ったら、びっくりするほどたくさんあった。
旅館に持ち帰り、あり合わせの瓶に投げ入れて、中庭のテーブルの上に置いた。
ソウル最後の夜への餞のつもりだったが、宿泊客たちは何と物好きなという顔をしていた。
宿の アジュマだけが本当に喜んで、嬉しそうな顔をしてくれたのは何よりだった。
夕食は例の食堂でフェドパブを食べる。

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