「文化と藝術を愛する紳士淑女のみなさん、アンニョンハセヨーーー、大韓民国のシンパラム イパクサでーーす!!」
私は皆さんに会って、このように挨拶する時が一番幸せです。
気分が憂鬱でも、「シンパラム」ということばを言った途端、我知らず気分が明るくなってきます。
振り返ると私の人生自体が、一つのアドリブでした。いや、アドリブメドレーと言うべきかも。
若い時から切迫した事情で仕事を転々としました。
そして、どんな時でも、ひとりでに歌をくちずさんでいたのです。
いろいろ新しい道を模索しましたが、結局は私の進むべき道を選んだのでしょう。
それはアドリブ精神のなせる技といえるのではないでしょうか。
生きていく途中、悲しみや悩み絶望に襲われる時があります。
そんなときの私のアドリブは「ジョワ、ジョワ」と明るく笑い飛ばすことです。
さあ、みなさんも、ごいっしょに。
苦しい時も、ジョワジョワ
淋しい時も、ジョワジョワ
落ち込んだ時も ジョワジョワ
ジョワジョワジョワジョワーーーーーーッ!!
【第一部】 大韓民国のシンパラム イパクサでーーす!!!
2000年の5月、日本のSONYレコードとの3年間の契約が終わり、家で休んでた時、友だちから電話があった。
スポーツ新聞に私の記事が出ていて、いつのまにか若者のファンクラブまで出来たと言う。
それを聞いたとき「何言ってるんだ?」と思ったね。
だって、日本ならともかく、韓国で、私の音楽を好む若者なんているはずもないと思ってたから。
いくら私が日本で知名度が上がっていたといっても、韓国に戻れば、軍隊や中年層、おばちゃん連あたりにしか人気がない事は自明で、若い世代とまるで無関係だったもの。
うちの息子の奴なんか、アッパの歌など聞く気もしないといった態度だった。
インターネットと言うものが、ちょっと世間を騒がせてるってことは、聞いてはいたさ。
でも、まさか自分がインターネットの恩恵をこうむるとは思ってなかった。
後になって考えると、インターネットとかMP3とかがなかったら、今の私は存在していないかもしれないな。
ともかく、その新聞記事を見て、本当にファンクラブが韓国にもあるという事実を確認した。その後ファンクラブ会長をはじめ会員たちから電話連絡が入り始めた。
そうして彼らが一度私に会いたいと言って来て、実際にあって見ると、本当に私の歌が好きで、歌詞までよく覚えてすらすら歌えるしで、やっと彼らが本気ということがわかり、一言で言えば衝撃がはしったよ。
この最初の出会いが、5月22日、弘益大前のテクノバーで開かれた、イパクサファンクラブの最初のライブ公演だった。
ファンクラブ会員といったって、日本のファンみたいには熱狂しないだろうと思ってた。
その時まではやっぱり、韓国の若者が自分の歌を本当に好きになるわけがないって思ってたわけで、なんでファンクラブなんか作ったんだろうと、半信半疑で、単なる好奇心じゃないかなと考えてた。
ある映画に、私の音楽がサンプリングで利用されたのが、若者たちの好奇心を煽ったのかもしれないってね。
ああ、その「嘘」という映画に私の音楽を使ったのは、タルパランというミュージシャンだったよ。彼も草創期のファンクラブ会員だったそうだ。
実にうまく私の真似することが出来て、あとで自分のアルバムの中に私のスタイルのフレーズを入れて、
「パクサ、ぱくっちゃってゴメン」なんてアドリブいれたりしてたな。
弘大前のライブの次はアプクジョン、それからあちこちで、若者向けのライブをやり始めた。
何しろ若者といっしょに何かやるということ自体が面白くて、いろんなところでやったものさ。
今の若者は率直で、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきりした態度をとるから、分りやすい。
そういう意味では私と似てるとも言えるかもね。
彼らといるととても楽しかったさ。
8月には義政府(ウィジョンブ)でファンクラブの団結大会が開かれた。二日にわたって催された行事に参加するため、遠く釜山からマイクロバスを仕立ててやってきてくれたた若者には感謝の念を押さえきれなかった。
この時には小学生までサインをせがむので、会員が連れてきた弟や妹だろうと思ったのだが、そのうちの一人が1ヶ月後にソウルでファンクラブを結成したと聞いて後でびっくりした。
ピンクというニックネームの女の子が会長のグループは学生中心だったが、その10名くらいの会員が、小遣いを集めて、クラブ会員証のペンダントを付け、行事案内のパンフレットやプラカードを作ったりしてくれたことも忘れられない。
彼女等がタンバリンまで用意して会場の雰囲気を盛り上げてくれたのにも感動したなあ。
韓国では無名な私のために、駆けつけて来てくれただけでもありがたいのに、こんなに暖かく献身的に対応してもらったことを思うと目頭が熱くなってくる。いつまでも忘れられない思い出だ。
12月7日には国内で初めてのイパクサコンサートが開かれることになってる。これも、彼ら若いファンの声援なくては実現しなかったことだ。
事実私の歌手経歴は長いこと年輪を重ねてはいるが、国内での新しい経歴としては、たかだか6ヶ月に足りない、
えらく老けた新人歌手ってことになるかもね。
96年5月だと記憶してるんだが、日本で最高の公演会場である「武道館」でイパクサライブコンサートが開かれた。
その2ヶ月前に日本のSONY MUSICから「イパクサのポンチャックディスコ1.2.」が発売されて、日本の若者がいい反応を示したらしい。
そのCDは、韓国民謡ディスコメドレーを韓国語で録音したもので、在日韓国人ではない日本人、それも若者の間での人気という声に、はじめはおかしいなあと思うばかりだった。
そもそも日本という地で、私に関心を持つ人びとがいるというのは、嬉しいけれど、一方ではああだこうだという渦中で、武道館のコンサートが決まってしまった。
よく知らなかったが、日本では武道館の舞台で大衆歌手が公演すること自体珍しく、大きな話題になるほどのことらしい。
いわば武道館は韓国でいえば世宗文化会館みたいな存在なんだな。
ともかく、幸運にも、私の武道館公演計画は順調に進み、初日の舞台に上がった瞬間には、しばし、我が目を疑ってしまった。
客席を埋め尽くした観客の大部分は日本人のそれもまさに若者たちで「「サランヘヨ イパクサ(イパクサ、愛してるよ)」と韓国語で書かれた板を持って立ち上がり、熱狂的な拍手でむかえてくれたんだ。
「いったい、どうなってるんだろう?こんなに大勢の日本の若者が、私のことをしってるなんて?」
あの時の驚きを思い出すたび、胸がときめくよ。私は我を忘れて、タンバリンを面白おかしく叩き振り回しながら、江原道アリランや京畿道民謡「セタリョン(鳥打令)」などを歌いまくった。
それを聞いて、10代20代の若者たちが気絶するような歓声を上げ、のけぞる程の反応をしたことも私を感動させてくれた。
自慢話みたいになるけど、その時の観客数は1万人くらいだったそうだよ。
この公演を契機として私には「韓国ポンチャックの帝王」
と言うニックネームがたてまつられた。
私の歌に付いて歌うために「韓国歌謡研究会」といった、韓国語学習会などまで発生した。
日本のファンの中の何人かは、ソウル延世大学の語学堂に留学して本格的に韓国語を学ぶことにしたというから、すごいだろう。
今だから白状するけど、SONY MUSICでCDを録音しようかという話を聞いた時には、まさかこれほどの反響を生むとは想像すらできなかった。
正直言って、あっけにとられたといったところだね。
武道館公演が成功裡におわった後、今度は放送局のライブショーが待っていた。
TBCライブ、NHKライブショーを始め、フジTVなどから交渉があった。
その中でも、日本で最高聴率を誇るフジTVの音楽番組「HEY HEY HEYミュージックチャンプ」に出演したことが、大きな話題を呼んだ。
何でこれが注目されたかと言うと、この番組への外国人アーチストの出演の敷居が高くて、数年前米国のダイアナ・ロスが出演して以来、韓国のイパクサがひさかたの出演と言うことになるからだった。
私はこういう舞台に出るときは、必ず韓服を着て、ケンガリを打ち鳴らし、
胸には大極旗のワッペンをつけて登場することにしている。
そうだろう、外国で出演するからには愛国心が湧き上がるのは当然じゃないか。
日本語は全く使わず、歌も韓国語で歌うことで、私が韓国人だということは一目瞭然だとしても、大極マークをつけるのは、
私自身が韓国人であるということを強調したいがためにほかならない。
挨拶する時や、歌を始めるときにいちいち「アンニョンハセヨ、大韓民国のシンパラムイパクサでーーす。」と大韓民国を強調をしているうちに、いつのまにか、韓国で公演する時にも、この口上を言わずにはいられないようになってしまったよ。
しばし、話が横道にそれてしまったようだね。とにかく、日本での順調な滑り出しは、私にとって、職業歌手としての夢と感動を約束する、一世一代の大事件だったわけだ。
私がいくら韓国で、観光バス歌手としての名前が知られていたといっても、忌憚なくいえば、
それは一種のキワものあつかい、ムードメイカー芸人でしかなかった。
努力した結果が自分の望んだこととは程遠いものであることにやりきれない思いをしていた。
韓国での私の最初のレコードが、失敗だったことも、私の失望を一層大きくしていた。
観光バス歌手生活をやめた後、何年かは、夜の舞台に立ったり、あちこち宴会の余興に出たりしたが、歌手としての私は、所詮、無名歌手でしかないという状況だったんだ。
そんなときに、全くの偶然のように日本にまで進出できた上に、その観客の熱狂的雰囲気は、私を舞い上がらせるに充分だった。
私の歌を聞くだけで感動の涙を流す人々がいるという事実は、まさに夢のなかの出来事のようで、目まいすら覚えてしまった。
そのうえ私の真似をして歌い、韓服を着て、韓靴まで履いている姿を見て
「これはいったい何の騒ぎなんだ」という衝撃の体験だった。
どう?皆さん? ここまで読んでいただいたら、イパクサの日本での反響の大きさが分ってもらえたんじゃないかな?
日本のSONY MUSICと契約はしたものの、そのときは、この会社が日本のレコード会社であるほかは何も知らなかった。
契約金はたっぷりくれたので、そこそこの規模はあるのだろうと思ったくらいさ。
ところが、イパクサが本当に日本のSONYと専属契約を結んだという噂が伝わるや否や、マスコミの記者たちがどっと押し寄せてきた。
ややもするとインタビューでほとんど一日とられそうになってしまった。
どうやって知ったものか、日本からだけに留まらず、ホンコン、台湾、米国の記者まで100件近い取材の申込があった。
外国記者の目には、SONY MUSICほどの名の売れたレコード会社が、
韓国の名前も売れてないポンチャク歌手と契約をむすんだということが、尋常でないことだと見えたらしい。
日本のSONYとの契約を斡旋した韓国SONY側でも、これほどの関心を集めるとは予想外のことだったらしい。
とりあえず、ソウルのあるホテルの一室を借り切ってインタビューをすることになった。そうでもしなければ、出国準備もままならず、押し寄せる記者の群れに対応し切れなかったからだ。
以前、いつの日にか、名を上げて世に知られるようになれば、インタビューを受けることになるだろうと想像したことがあったよ。
ところが、ある朝突然、外国人記者の前で、有名人士待遇でインタビューを受ける事態になったんだから、ほんとにもう、なんと言ったらいいのだろう。
突然、時の人になり、外国からのこれだけの反応を見たら、日本だけでなく、アメリカ、ヨーロッパまでも、韓国のポンチャクを広めることが出来るのではないかと言う妄想にとらわれてしまった。
これまで、そのようなことは考えたこともなかったんだよ。
日本に行けるのなら、アメリカにだって行けると考えてもおかしくはないじゃないか。
ともかく、こうのようにして、朝の9時から夜の11時まで、14時間にわたるインタビューが始まってしまった。
椅子に座ったまま、トイレに行く暇もあらばこそ、次々と現われる記者の質問に答えつづけた。
一人が終わったと思ったら、また一人が質問を始める。そして質問の内容は、たいがい似たようなものばかりだった。
こうやって、この一日で、ほぼ80人くらいの記者のインタビューを受けたことになる。
特に後半は、ぼーっとなって、外国人記者の質問がどんなものだったか、だんだんおぼろげになってきたくらいだった。
イパクサという歌手が、そもそもどういう存在なのか?学校はどこまで行ったか?故郷はどこか?両親は何をしていたのか?年齢は?レコードは何枚出したか?歌手としての経歴はどのくらいか?等々、記者が知りたいことの内容は、この程度だ。
考えてみれば、スターでもない男の過去をあれこれ穿り出そうとするのも、記事のネタを集めようとする記者たちの熱意だったのだろうが、私は彼らの顔を眺めながら、別のことを考えていた。
人が有名になれば、嫌でも、幼いときの痕跡一つでも、大層なことのようにほじくりだされてしまう。
知名度が上がれば、過去の貧困や苦労も美化されるのかもしれない。
ずっと後の世になって「これこそが、あの、シンパラム イパクサがお使いになったタンバリンです」
などと、TV番組「お宝探偵団」で取りあげられることになったりするかもね。
そうなったら生前の知られたくないことだって、あっさり披露しておいたほうが、いっそ気が楽になるかもしれないな。
ということで、一つ告白しておこう。
実は、私は小学校卒業という学歴しかもってないんだ。
これまで生きてきた間、唯一過去の心のわだかまりがそれだった。
今や大部分が高校くらい卒業する世の中で、あまりにみすぼらしい私の学歴。
そのことは、私自身の胸の中に、永遠に秘して隠しておきたいと思っていた。
でも、有名になってしまったら、そうはいかないものなあ。
インタビューで、記者が必ずする質問のひとつが、この最終学歴のことだった。この質問を受けるたびに脂汗を流すしかなかった。
人が、あまり知られたくない過去のことじゃないか。
自分には全く関係の無いこととはいえ、記者先生たちは、どうして、しつこくこの質問を繰り返すのか?---彼らには意図的に私を苛めるつもりはなかったのだろうが、こちらは針の莚に座らされてる気分だったよ。
たぶん、それが、一番触れられたくない質問だっただけに、つい言葉を濁すような回答になったかもしれない。
彼らの頭の中には日常的に考えてまさか中学校すら卒業してないなんてことは考えの外だったにちがいない、質問を受ける私がその「まさか」に該当するなんてことは想像すらしてなかったんだろう。
そこで、「学校はどこまで行かれたのですか?」という質問に対して、つい「中学校すら出てませんよ」と曖昧に回答したりしたものさ。
その結果、私が中学校中退だったという記事が載った新聞もあった。
みなさんは、小学校卒業だろうと、中学校中退だろうと同じようなもの
とお考えになるかもしれない。しかし私にとってそれは天と地ほどの違いなのだった。
当時の中学生は黒い学生服を着ていたので、私も一度はその服を着ることを願っていた。
あの頃は英語も中学からしか学べなかったので、友達が、単語帳をめくりながらABCDを覚えている姿を羨ましく眺めていた。
中学校のとば口だけにでもしがみついて、中退したというのも私の夢のひとつだったかもしれない。
しかし、このことが、長いこと私を苦しめてきた。
現在でもインターネットにあるイパクサ関連資料の中には、中学校中退という表記が見られる。
しかし、今こそ、私は、はっきり言うことが出来る。
それは誰の前であっても、恥じることのない私自身の過去の事実なのだから。
そう、私、イパクサは小学校しか卒業していないんだ。
中学校には入学したこともない。中退なんてもってのほか。
万一入学金さえあって、入学できてたら、新聞配達でも何でもして、ぜったい卒業してたに違いないさ。
多くの人たちが、韓国でもそれほど名の売れてない私が、どういうわけで日本で活躍したのかって聞くんだけど、ほんとのところ、私にも詳しいことは分らないんだよ。
ひとつだけはっきりしてることは、日本のSONY MUCICのスタッフが、私も知らないうちに、私が韓国で営業してる模様をビデオに録って、それを見てから正式に専属契約しようと私に連絡があったということだ。
だけど、そういうことも、しばらくしてからわかったことだ。
95年秋頃のことだった。その当時私は、高級料亭や会場で司会兼歌手などをやって糊口をしのいでいた。
観光バスガイドを辞めたあとで、古希や還暦などの宴会に呼ばれては、式の進行やムード作りに歌ったりしていたわけだ。
でもそんな仕事が毎日あるわけはないし、観光バスガイド時代より収入は減ってしまい、
なんとか雨露はしのげる程度の生活を維持するのがやっとだった。
おまけに私はそのころ再婚したばっかりで、新しい家庭を作り上げる必要に迫らていて、絶対ちゃんとした一家を構えると約束までしていたんだ。
それで、いろいろ家を物色するなど努力はしていたんだけど、なにしろ先立つものがなくては話にならない。
とにかく、必死で宴会場の仕事に励みながらも、しきりに追い立てられるような気分でまんじりともしないでいたのさ。
そんな時だったのに、私はSONYのスタッフの話も大した事ではないのだろうと思っていた。
またポンチャクメドレーの企画の焼き直しかなんかだろうと勘繰ってたのだ。
ちょっと前にも同じような話が何度かあったもんだから。
ところが、話を聞いていくうちに、そんなのとは違って、私を日本でデビューさせたいので、やる気はないかという、唐突な話だった。
日本語といえば「サヨナラ」しか知らない私に日本で活動するなんて、最初はとんでもないことに思えた。
私が日本人の前で、上手くやれそうな理由なんて一つもないし、
その話自体が馬鹿げた妄想としか受け取れなくて、ぽかんと彼らを見つめるだけだった。
どっちにしろ韓国での活動としか考えていなかったんだもの。
提示された契約条件は、破格なものだった。
なんと、彼らの示す専属契約金だけで、私たち一家が新しく家を持てるくらいの金額だった。
恥ずかしい話だけど、当時私たち一家は、女房子供一緒に一間の部屋で暮らすしかない状態だった。
再婚とはいえ、新婚夫婦といい年をした息子が、同じ部屋で暮らすというのは、かなり辛い状況だということはわかるだろう?
だから私たち夫婦の第一目標は一年以内に、三部屋くらいのところに、いや、それが無理なら、せめてニ部屋のところに移りたいということだった。
そんな時に、舞い込んできたこの話は、願ったりかなったりの、まさに絶好のチャンス到来
だったわけだ。
そのとき私は、新しくひとつの事実を教えられた。
韓国に来た日本の観光客が私のポンチャクメドレーのテープを買って帰り、何とそれをCDに仕立てて売り出したところ、思いがけなく日本の若者の間で、人気になっている模様とのこと。
当時日本ではテクノブームの真っ最中で、SONY MUSICはそこに目をつけ、私のポンチャクメドレーをテクノ音楽に接木してみようという計画を考えついたらしい。
考えてみれば、日本人は何事でも緻密に徹底的に調べる傾向がある。
一旦イパクサのメドレーが日本に紹介され、若者の好反応があったので、これは、脈がありそうとだと思った。
次は私自身に接触する前に、にビデオまで撮影して慎重に検討した上で、やっと私自身を探し出した、そんな按配だったんだろう。
ともかく、当時の日本の若者の間に、テクノブームの熱風が吹き荒れていたことは事実で、イパクサのポンチャクメドレーがこれにフィットして、彼らの好みにぴったり合うのだと説明を受け、自信も湧いてきた。
ひとつここはこの企画に賭けてみようと決心した。
なんといっても、条件の良さに後押しされて「やってみます!」
と契約を受諾することを表明した。
とりあえずSONY MUSICに著作権のある、日本のヒット曲をメドレーにして韓国語に翻訳して、「テクポン(テクノ・ポンチャクメドレー)」を制作することで契約した。
契約書にサインして、家に帰る道々、これは、現実のことなのか、夢ではないのかと興奮してしまっていた。
あの頃は、ずっと、何事にも心が休まらずにいた。
それが、再婚して3ヶ月目にこんなすごい話が飛び込んでくるなんて、妻が「福の神」ではないか
と思いたくなったりもして----
浮き立つ気持ちで、一刻も早くこの朗報を知らせなくてはと、妻に電話までしてしまった。
「今、契約を済ました。判子もついたよ。これまで、お前にはつらい思いばかりさせてきたけど----」
涙がこぼれそうになるのを、やっとの思いでこらえて、こう伝えながら言葉が続かなくなった。
妻の方も大層に興奮の様子で「でかしたわね」という言葉のあとに
「じゃあ、引越しできるのね」と続いた。
聞いてる私も有頂天で我を忘れていた。
妻の声を聞いて、やっと喜びが実感されてきた。
日本SONYとの契約期間一年が過ぎようとした頃、専属をさらに二年延長することが決まった。
おかげで借金もきれいさっぱり支払うことができ、暮し向きもよほどよくなった。
そのころ、日本ではイパクサファンクラブが結成され、会員が韓国までやってくるケースも多くなった。
テレビCMへの出演交渉も何件かあった。
その中で、金鳥社という有名製薬会社と契約することになった。
この会社は、自社の広告に、有名な人気スターだけを起用することで知られており、そこが気に入ったんだ。
日本ではこの会社のCFに出演したということだけで、芸能界でのステイタスになるというくらいの権威がある。
そして、広告自体も、すごく面白く作ることでも有名らしい。
だから、私は、無条件でこのCF出演をOKしたものだが、
聞いてみると商品は、キンチョールという名の殺虫剤だった。
どうせならスーツの宣伝とか、カッコイイ製品をお願いしたかったもんだけどなあ。
たかだか数十秒くらいの広告作成のために、まる一日、殺虫剤のスプレーを振り回し続け、ああだこうだと何度も何度も色んなふりつけをさせられて、ふらふらになってしまった。
ほんと、金を稼ぐってのも、大変なものだなあと、あらためて、思い知らされてしまった。
それでも私の場合は、まだ早く終わった方だったらしい。
この広告作製は、いろいろとアイデアをひねったり、撮りなおしたりで、二日以上は当たり前、時には数日に渡り、夜を徹して撮影することも珍しくないんだそうだ。
この広告撮影時にも私は一つだけ、強情をはった。それは、製作者が持ってきた、モデル衣装のことだった。
これがどうしても私の気に食わない。私自身の衣装で撮影してくれと、担当者にくってかかったもんだ。
「これじゃなくって、私の服を持ってきてよ。私は韓服で撮って欲しいんだ」
そしたら、彼らはちょっとあわててしまったようだ。おたがいに顔を見合わせてしばし相談していた。
そんなこんなで、私はずっと韓服に固執し続けた。
だって、そうだろう?日本に行ったら、人々は私と似た顔で、背も私みたいに低くって、髪型までそっくりなのがうようよしてるんだから。
私は髪をムースでばっちり決めるのが好きなんだけど、彼らも私と全く同じ感じに仕上げてるんだ。
私がどんなにつやつけて頑張っても、これでは、見かけは日本人と変わりはない。
私が日本人風の顔なのか、はじめて会う人たちは、私を同国人だと信じて疑わないことがよくあった。
そんな時はいつも、私は「KOREA」韓国人だとはっきり主張したさ。
それでも、私を日本人だと錯覚する人が多く、それは、我慢できないことだった。
そういったことからも、多くの日本人の目に触れる、この広告に、韓国の民族衣装を着て出演すれば、そういった誤解を解くことができでて、どんなにか、いいだろうと思ったわけだ。
最後まで粘って、結局、私の自前の衣装で撮影することにこぎつけた。
広告は、すごく、いい出来だったよ。
バック音楽には「江原道アリラン」を替え歌で使い、視聴者の反応も良かったようだ。
それに、この広告を通じて「イパクサは、韓国人だ」という認識が、特に若者の間に定着したのだから、後の日本歌謡大賞新人賞受賞とともに、私には大きな収穫となった。
その他、忘れられないのは、東大で講義するという得がたい体験
だった。
日本の最高学府東京大学で開かれた「韓国ポンチャク講義」に、講師として呼ばれたのだが、さすがに、ちょっとびびったもんさ。
でも、最後は、ポンチャクメドレーを披露して、大喝采を受けた。
これはマスコミにも大きく取りあげられて、話題を呼んだ。
日本でも、ポンチャクは韓国語語そのままにpon-chakと発音する。
だけど、私が日本語で歌うことはできないし、観客は韓国語を知らないものだから、私の歌を好きな日本人たちは、「ジョワジョワ」とか「ミチョミチョ」といった、合いの手だけをそのまま、真似して声をかけてくれた。
これもなかなか、おかしかったな。
彼らは韓国語を知らないから、真似しようとしても、ついつい舌ったらずで、変な発音になってしまうんだ。
そんな調子で「チャンナチャンナ、ウリリッヒィー」などと叫ぶさまは、舞台から見ていて、笑わずにはいられなかった。
きわめつけは、私の名前を叫ぶときだ。
演奏会場で、数百人ないし数千人の観客が、私の歌が終わったとたん、口を合わせて、大声で叫ぶのさ。
「しゃらんへよ、しっぱら、いばくっしゃさん!」
(サランヘヨ シンパラム イパクサッシ!!)
まるで、大勢の観客が私に、罵声をあびせかけてるみたいに聞こえるじゃないか(^○^)
日本のファンクラブ会員に森崎という友だちがいるんだが、彼の仲間が結婚することになり、私に式のゲストとして訪日してくれないかと、わざわざ韓国まで私を訪ねてきた。
それまで、宴会場や、催し場でなら、何度も呼ばれて演奏したものだが、結婚式と言うのは初めてだった。
それで、ちょっととまどいもあったんだけど、たっての頼みでことわることもできなかったよ。
何しろ彼は、骨の隋までパクサファンだと自称するくらいの人で、彼の頼みを断るには忍びなかったんだ。
「行くのはいいよ。だけど、結婚式で何を歌ったらいいんだい?」
と、聞いたら、どんな歌でもかまわない。パクサの思い通りにやればいいとの答え。
こうなったら、えいままよ、出たとこ勝負だ、ということで、話はすっかり本決まりになってしまった。
式の前日に、相棒のキムスイル兄と一緒に、大阪関西空港に飛び、迎えにきた森崎さんも一緒に、式場でもあるホテルに宿泊した。
夜にはその仲間たちとカラオケにも行ったな。
新郎は、気さくな人柄で、友だちも多く、披露宴会場は若者を中心に大勢でごったがえしていた。
私は挨拶と、お祝いの書(韓国の有名書道家に頼んで書いてもらった)を進呈。
新郎の「しっぱら いぱくっしゃさん!」の呼び声にうながされて、私はすっかり、ここが、演奏開場だという錯覚にとらわれてしまい、スイル兄のキーボードの伴奏にのって、思い切り歌い始めた。
江原道アリランを皮切りにユン・スイルの「アパート」など5,6曲をメドレーで歌い、スイル兄も韓国の愛の歌を日本語で1曲披露した。
若者は大喜びだったけど、新郎新婦の親戚の中には、呆気にとられてた人もいたようだな。
もちろん、日本での結婚披露宴は初めてだが、すごく雰囲気が良くて、韓国の結婚式の方が形式に縛られて、堅苦しいとさえ思ったけど、この式は特別だったのかもしれない。
どっちにしろ、出席者もリラックスしてて、喜びを分かち合ってることが良くわかって、私も嬉しくなったものさ。
でも、本当の舞台は、二次会だった。
披露宴会場を後にして、車で移動した先は、大阪でも在日韓国人が多く住んでいる地域にある、韓国クラブ。
ここを貸切って「結婚祝賀大ポンチャックディスコパーティ」が準備されていた。
大音響のPAも用意されて、私とスイル兄は、全く韓国式に、演奏を繰り広げることが出来た。
40人以上は参加していたと思う。
会場はあっという間に、ダンスパーティとなり、老いも若きも私の歌に合わせて、踊り狂い、私の合いの手を真似して「トゥルリッヒー」と叫びつづけた。
新郎新婦も韓服を着て、踊りだし、会場はいやがうえにも盛り上がった。
衣装をわざわざあつらえたり、仮装するものあり、かぶりものするものありで、本当に、ここは日本なのか??と、不思議な思いにとらわれてしまった。
日本人の若者たちが、歌の合間に「オルシグ、チョーーッタ!!」
などと、ちょっと訛った合いの手を入れてくれると、私も、可笑しくて嬉しくて、さらにがんばらなくちゃ、という気になったもんさ。
しかし、こういう体験は新鮮で、楽しいものだった。彼らを見てると、韓国の「新世代」のことが思いおこされた。
この結婚式の催しが、よほどインパクトを与えたらしく、その後、新婚旅行で韓国を訪れる者もいた。
驚いたのは、新郎新婦だけでなく、仲間まで一緒に連れて来て、祝宴をはり、韓服で記念撮影したり、キョンボックンなど名所巡りしたり、私も自宅に招待して、食卓を囲み、親交を深めたもんだ。
ともかくも、私がいるからと、わざわざ韓国にきてくれたことだけでも、ありがたいし、うれしいじゃないか。
ちょっとは、サービスしようという気になるというものさ。
彼らが帰国してから、今度日本に来たら引越し祝いにも来て欲しいという招待の手紙が来たよ。
当時、日本での活動が始まり、毎週のように、韓国と日本を行ったり来たりしていた。
目が回るほど忙しくて、その招待に私のスケジュールを合わせるのは、ちょっと無理だったので、そのことを詳しく説明したお詫びの返事を書いたりもした。
若者と付き合うことで、確実に私自身も、若者の感覚を共有することが出来た。
一緒に歌を歌い、話をしながら、年齢差というものを少しも感じなかった。
若さと言うものはいいもんだ。
若さは伝染性をもっているのかもしれない。
当初は彼ら若者が、私に興味をもつのは、こどもじみた好奇心から、私の歌を面白がっているに過ぎないと思ってた。
だけどポンチャックの魅力は、もっと根強いところで彼ら若者の心を虜にしたようだ。
日本での式に出席した、新婚の夫から次のような手紙をもらった。
「私の妻は、あの結婚式で、生まれてはじめて韓国のポンチャックを聞いて、イパクサニムの熱烈なファンになってしまいました。
家でもひまがあると、パクサのCDに聞き入ってます。
特に「エジプト旅行」、この歌は歌詞まで少しずつ覚えているようです。
食事しながらでも歌を口ずさんでいるくらいです。
よくミュージックビデオの真似をして、お尻をふりふり、歌って踊って、はたから見ると尋常ではありません。
どうしたらいいものでしょうか?」
と、苦情めいた文面だが、行間から、彼が新婦を愛する心情を読み取ることができて、ああ、幸福な家庭なんだなと嬉しく思った。
それにしても、ファンがひとり増えたことは喜びに耐えないものの、あまりに私の歌にのめりこんで、家庭がおろそかになるんでは、とちょっと心配でもあるね。
(この章はMorris.(森崎)が、関った出来事が多いため、追加したり補足したりで、原文とは多少違った内容になったことをお断りしておきます。--Morris.記)
わざわざ日本からやって来た、新婚旅行の夫婦とその仲間たち。
ここは「ソウルガーデン」という料理店で、一緒に食事をしてから
市内観光に出かけた。 |
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キョンボックンで、韓服を着た新郎新婦(日本人)と記念撮影。
右は、キーボードのキムスイル兄。 |
|
日本のSONYの会長はなまなかな公式席上には参席しないことで有名だということだ。
ある社員から聞いたんだが、25年間同社に勤めていながら会長の顔を見たことがないものもいるんだと。
そんな方がある日、私の公演会場に現れ、SONYの社員たちを驚かせたことがあった。
例の東京武道館公演があったときのことで、会長が私に夕食をごちそうするために来られたということだった。
「これは大変なことですよ、うちの会長が直接食事をともにされるなんてことは、たぶんイパクサニムが初めて
なんじゃないでしょうか」
友人であるSONY社員が興奮した口調でささやいた。
「目の前にいる会長が、そんなにもすごい方なんだって?ほんとかよ?」と私はこっそり思ったね。
公演の後、さるレストランで、会長との食事に臨んだ。
彼は、周りの言葉通り、いくらか神秘的雰囲気を感じさせる人物で、私に対する態度がとても親切で、相手を気持ちよくさせる微笑を絶やさなかった。
「あなたに、お土産を持ってきたんですよ」
会食を終えてから、会長がおもむろにこう言いながら、銀紙に包まれた品物を差し出したので、私はちょっとあわててしまった。
食事への招待だけで大変なことだったらしいから、その席でのお土産も、並々ならぬたいそうなものと思われた。
日本に来る前、還暦祝いや喜寿の祝に招待されて、司会をやったもんだが、そのとき、祝いの品として、子供たちから、銀紙に包まれた金の亀や、金の蛙の置物が贈られるのを、よく見たことを思い出した。
「どうしてそんな過分なおくりものを?!」
半分申しわけない気持ちと、心の一方では、こいつはすごいものをいただけそうだという喜びで舞い上がってしまた。
なんといっても、純金なんだから。その価値は、両手に伝わるるどっしりした重量感さからしても、相当以上な値段のものとおぼしい。
やっぱり世界的に有名な会社を経営している会長ともなれば、やることが太っ腹なんだなあ、と感心してしまった。
私の一生のうちでこれほど高価な贈り物は、初めてだものなあ。
そうして、人品卑しからぬSONY会長の言葉が、これまた傑作だった。
「お粗末な贈り物だけど、私の誠意の表われだと思って、受け取って欲しい」
「とんでもありません、どうして私にこのようなものを---」
「負担に感じないで、快く受けとってもらいたい」
負担にするなって?そうはいかない。私は何度か、拒絶したんだけど、とうとう断りきれずにもらってしまったよ。
会長が気を変える前にあわてて受けとった
、ともいえるけどね(^o^)
これをいただいてしまってから、また胸がどきどきするのを止めることが出来なかった。
会長の前ではいちおう拒絶したものの、ちゃんと手に入れることができて良かったじゃないか。
ついに私は、金の亀か、蛙かしらないが、ともかく黄金の塊を手に入れたんだ。
いったいこいつがどんなものなのか、気がかりになってしょうがなくなった。
でも私は最後まで、包みを開けるのはがまんした。
ずっと、周囲には人がいて、ひと目がはばかられた、どこか一人になって、ゆっくり中身を確かめるつもりだったからだ。
その日の夜遅く、ホテルに戻って初めて、一人になることが出来た。
しかし、もしや誰かが見てやしないかと、くだんの包みを持ってトイレに入り、鍵までかけて、さっそく開いてみた。
そのときのスリルときたら、皆さんに想像いただけるだろうか。
胸がドキドキ、ワクワク!!
心臓の鼓動を感じながら慎重に銀紙を剥いでいった。
「あれれーー、なんか変だぞ?」
銀紙の中には、蜂蜜瓶みたいな青磁瓶が一つ入っているじゃないか。どこからか、懐かしい匂いまでただよってくるではないか。
「お高い身分のお方の贈り物でもこんなことがあるんだな」
瓶の中に金の亀を包装して蔵ってでもあるのかと、しばし想像を巡らせながら、ふたを開けてみた。
するとその中には、色も鮮やかな白菜キムチ一株が
鎮座ましましているではないか。
それを見たら、突然笑いがこみ上げてきて、しばらく面食らって息が詰まりそうになった。
まさかキムチが入ってるとも知らず、何時間ものあいだ、世間にまたとない貴重品と思い込んで、後生大事に持ち歩いていたのだから、どんなにか、馬鹿馬鹿しい行為だったことだろう。
しかも、その重さの金の蛙だとして、その値打ちを現金に換算して、ひとりほくそ笑んだりしてたことを、思い出すだに、これはもう笑うしかないよなあ。
それでも、時間が過ぎるほどに、この笑いが、何だか気持ちの良い思い出に変わり始めた。
流石にSONYの会長、やることが心憎いと、あらためて思い知らされた。
生まれて初めての、馴染みない異国の土地での私の境遇を配慮した贈り物のキムチ一瓶。
金銭的にはとるに足りないものだとしても、よその国で一人、他国の飯を食っている私の立場を思いやる、会長の
気持ちがこめられたキムチ一瓶こそは、金蛙10個分以上の価値があるのではないだろうか。
そう思うと、何も知らず、あんなとんでもない期待をして、ぬか喜びしていた己の器量の小ささに、反省しきり、だね。
この経験を通じて、私はあることを悟ることが出来たような気がする
。
それは、世の中で、人の心を動かす、もっとも簡単で経済的な方法
は、まさに、このキムチ一瓶の如く、些少な行為にも温かみのある人情をこめるということだ。
私は、SONY会長から、金の蛙より大事なものを学ぶことが出来たと思う。
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