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Morris.2011年読書控
Morris.は2011年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

読書録top 2011年   2010年 2009年 2008年 2007年 2006年 2005年 2004年 2003年 2002年 2001年 2000年 1999年

セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) 普 通 とほほ(+_+)

2011072
【芝浜謎噺】愛川晶
 
2011071
【哀哭者の爆弾】鳴海章
 
2011070
【暗殺者の森】逢坂剛
 
2011069
【フィッシュストーリー】伊坂幸太郎
 
2011068
【女流 林芙美子と有吉佐和子】関川夏央
 
2011067
【モダンタイムズ】伊坂幸太郎
 
2011066
【韓国現代詩選】茨木のり子訳編
 
2011065
【月夜にランタン】斎藤美奈子
 
2011064
【奇人群像】佐々木邦
 
2011063
【歌う生物学】本川達雄
 
2011062
【青い鳥】メーテルリンク 楠山正雄訳
 
2011061
【ゾウの時間ネズミの時間】本川達雄
 
2011060
【住まいと暮しの質問質】「室内」編集部
 
2011059
【近代建築散歩 京都・大阪・神戸編】 宮本和義・アトリエM5
 
2011058
【多主語的なアジア】 杉浦康平…デザインの言葉1
 
2011057
【アジアの音・光・夢幻】杉浦康平…デザインの言葉2
 
2011056
【北上幻想】 森崎和江
 
2011055
【女弟子】有吉佐和子
 
2011054
【この世でいちばん大事な「カネ」の話】西原理恵子
 
2011053
【女二人のニューギニア】有吉佐和子
 
2011052
【こどものためのお酒入門】山同敦子
 
2011051
【不信のとき】有吉佐和子
 
2011050
【針女】有吉佐和子
 
2011049
【夕陽丘三号館】有吉佐和子
 
2011048
【海暗】有吉佐和子
 
2011047
【私は忘れない】有吉佐和子
 
2011046
【ぷえるとりこ日記】有吉佐和子
 
2011045
【連舞/乱舞】有吉佐和子
 
2011044
【写真表現入門】 久門易
 
2011043
【歌謡曲】 高護
 
2011042
【出雲の阿国】有吉佐和子
 
2011041
【昼は雲の柱】石黒耀
 
2011040
【インビジブルレイン】誉田哲也
 
2011039
【虚国】香納諒一
 
2011038
【まず石を投げよ】久坂部羊
 
2011037
【永久男根 平岡正明】四方田犬彦編
 
2011036
【有田川】有吉佐和子
 
2011035
【香華】有吉佐和子
 
2011034
【真砂屋お峰】有吉佐和子
 
2011033
【震災列島】石黒耀
 
2011032
【芝桜 上下】有吉佐和子
 
2011031
【詩ってなんだろう】谷川俊太郎
 
2011030
【鬼怒川】有吉佐和子
 
2011029
【三婆】有吉佐和子
2011028
【木瓜の花】有吉佐和子
 
2011027
【鹿男あをによし】万城目学
 
2011026
【死都日本】石黒燿
 
2011025
【猫語の教科書】ポール・ギャリコ 灰島かり訳
 
2011024
【和宮様御留】有吉佐和子
 
2011023
【三匹のおっさん】有川浩
 
2011022
【恍惚の人】有吉佐和子
 
2011021
【紀の川】【助左衛門四代記】【非色】【華岡青洲の妻】有吉佐和子
 
2011020
【風花病棟】帚木蓬生
 
2011019
【道 ジェルソミーナ】笠井潔
 
2011018
【放浪伝 昭和氏の中の在日】金文善
 
2011017
【三匹の猿】笠井潔
 
2011016
【ぢぢ放談】永六輔 矢崎泰久
 
2011015
【優雅で感傷的な日本野球】高橋源一郎
 
2011014
【RURIKO】林真理子
 
2011013
【韓国の美しいもの】小澤典代
 
2011012
【夜は短し歩けよ乙女】森見登美彦
 
2011011
【私の男】桜庭一樹
 
2011010
【プロメテウス・トラップ】 福田和代
 
2011009
【ひばり伝 蒼穹流謫】齋藤愼爾
 
2011008
【ドラゴン・イングリッシュ 基本英文100】竹岡広信
 
2011007
【道徳という名の少年】桜庭一樹
 
2011006
【李朝滅亡】片野次雄
 
2011005
【ラッシュライフ】伊坂幸太郎
 
2011004
【あすなろ三三七拍子】重松清
 
2011003
【ビタミンF】重松
 
2011002
【宵山万華鏡】森見登美彦
 
2011001
【えーえんとくちから】笹井宏之作品集
 


2011072

【芝浜謎噺】愛川晶 ★★★☆☆ 「神田紅梅亭寄席物帳」シリーズの2作目。初めて読む作者だったが、面白かった。
落語ミステリーと銘打ってあるが、ミステリーは刺身のツマみたいなもので、若い二つ目の落語家とその妻、リハビリ中の元師匠、仲間の落語家たちとの人情話めいた小事件を、落語にからめて作り上げていく手法で、かなりの落語オタクらしく、そこかしこに薀蓄が散りばめられている。業界用語やしきたりの解説も多いが、それがあまりうるさく感じられないように按配されてるあたり、なかなか上手いと思う。作品そのものが落語的ともいえる。というか、一番の見所(読みどころ)は作者が微妙にアレンジした落語の再現部分なのだ。実はMorris.は落語は聴くより読んで親しむことが多かった。本書が好みに合ったのもそういうことが原因かも知れない。落語は話芸であり、耳で聞き、仕草を見て楽しむのが本道なのだろう。Morris.の楽しみ方はいわば二流のそれなのだろうが、そういった二次的な楽しみ方もあっていいと、思いたい。
シリーズ第一作の「道具屋殺人事件」を始めとしてこのシリーズは読みたいものだ。


2011071

【哀哭者の爆弾】鳴海章 ★★★仁王頭という警察特殊部隊員を主人公とした「狙撃手シリーズ」の1冊らしい。
ワーキングプア層を取り込んだ愛国団が無差別爆破で国家転覆を図ろうとする。それに対する通称「サクラ銃殺隊」(^_^;)の登場ということになるわけで、アキラという、ワーキングプア青年の登場場面が、結構リアルだったので読む気になったのだが、読み進めるほどに、どこか杜撰さが目につくようになった。
愛国団のリーダー鵜沢のことをアキラが語る場面。

塾頭は太平洋戦争前、朝鮮半島の京城で生まれた。と助教の一人がいっていたのを憶えている。京城が現在の平壌であることはアキラも知っている。

おいおい、京城はソウルだろう。「京城が現在の平壌」というのは、小説とはいえ、ちょっとひどすぎるポカではなかろうか。
仁王頭といえどもパソコンくらい使う場面での

だいたいインターネットで何を見るのか、と思う。情報収集というのなら特装隊司令部が行い、必要なものを隊員に配布している。情報を集めるのは難しくないが、目的にそって正しく取捨選択されなければ、何の意味ももたない。

というところにだけは、すごく共感を覚えた。
著者は拳銃や武器への造形が深い、というか、ややオタク傾向があるのかも知れない。メカや機能に関しての描写はえらく詳しいし、嬉しそうでもある。
その反面、人間関係や、事件の展開はかなりおざなりである。この前読んだ逢坂剛の作品と合い通じるものがある。
それでも充分時間つぶしにはなったのだから、それなりの作ということになるのかも(^_^;)


2011070

【暗殺者の森】逢坂剛 ★★★ スペインを舞台にした第二次世界大戦シリーズも6冊目で、Morris.は結構このシリーズには肩入れしてたはずなのに、だんだん中だるみしてきて、ついに本作はヘボ筋に入ってしまったようだ。
ヒトラー暗殺というのがそもそも1冊目の二番煎じだし、後半で主人公北都がわざとゲシュタポに捕まってドイツの獄につながれ、両手の爪を剥がされる拷問に耐えながら、他力本願で助かるというあたりのストーリー展開は、おはなしとしてもありえない筋だし、あんまりなご都合主義…の連発。ご都合主義でも面白ければそれでいい、というのがMorris.の持論ではあるのだが、この後半に関しては、小説と言うより粗筋としかいいようのない文脈だけに、これは、前半でページ使いすぎて、てきとうにはしょったのではないかと邪推してしまった。
などとぶつくさ言いながら、470Pを読み通させるだけの面白さはあるのだから、なかなか捨て切れない。本作でドイツはヒトラー自殺でシリーズも終わりかと思ったら、まだ続くらしい。次はたぶん日本の敗戦だろう。結局これも読むんだろうな。


2011069

【フィッシュストーリー】伊坂幸太郎 ★★★☆ 表題作他「動物園のエンジン」「サクリファイス」「ポテチ」の計4篇が収められた短篇集である。Morris.はもともと短編苦手というか、長編は長いほど良いという(^_^;)タイプなので、本書も迷ったのだが、伊坂本が他に見当たらなかったので借りてきた。
「動物園…」は正直言ってMorris.には理解不能(>_<) 「サクリファイス」は東北の人身御供風習を逆手にとった変な作品でパス(>_<)[
「ポテチ」は「サクリファイス」と同じ黒澤という泥棒(>_<)登場の嬰児とりかえばや秘文で、これはまあそこそこだった。
そして「フィッシュストーリー」はなかなかに素敵な作品だった。評点はほとんどこれに拠る。
fish storyには「ホラ話」という意味があるそうだ。本文中にもカバー見返しにもその由が記されている。1960年発行の手元の辞書見たら

fish story ≪口語≫ほら話(釣師のてがら話にほらが多いことから

とあった。
日本の売れないパンクロックバンドの死後のアルバムにある「fish story」という曲には途中に空白があるという話から始まり、時間をとびとびに、これに絡むエピソードが開陳され、最後は世界的ネット犯罪(お遊びで大事になりそうな)が食い止められるという、いかにも作り話なのだが、タイトルに即してるわけだし、伊坂らしい、楽天的運命感を楽しむことができた。その曲の歌詞は、廃屋にこもってその壁に文章を書き続けた日本作家の小説からの引用ということになっている。本文ではばらばらに四節だけ引かれているが、これが実に良い。

僕の孤独が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと獰猛さに、鯨でさえ逃げ出すに違いない
僕の勇気が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと若さで、陽光の跳ね返った川面をさらに輝かせるだろう
僕の挫折が魚だとしたら、そのあまりの悲痛さと滑稽さに、川にも海にも棲み処がなくなるだろう


という、孤独と勇気と挫折の三節の対句と「俺は世界に見捨てられたわけじゃない」だけだが、これが伊坂の創作だとしたら、彼は良い詩を書けそうだし、書いてほしいものだ。
そしてパンクバンドの最後のレコーディング場面も、ロック小説としても優れた描写のように思われた。以前にも書いたことがあるが、小説や漫画で音楽を取り上げるのは割りと成功率が高いのではないだろうか。音がない作品世界だから、その音楽世界は無際限に読者の想像(創造?)力に委ねることができる。

俺は肩からかけたベースを見下ろし、左手でフレットをなぞる。準備運動するように、右手の指を細かく動かし、呼吸を整える。亮二がギターを構え、足を広げるのが見えた。五郎がスタンドからマイクを外し、鷲づかみにした。
俺は全員の表情を順繰りに見て、うなずく。鉄夫がスティックを叩き、カウントを取るのが聞こえる。亮二のギターが鳴るのと同時に、俺は右手の指で弦を叩く。
演奏しながら俺は、落ち着け、と自分に言い聞かせる。いつになく、自分がのめり込みそうになっているのが分かった。ベースからうねり出てくる低音が、自分の周囲にうずを作り、その中に自分自身が飲み込まれていく。音は次から次へと弾かれ、渦は絶えない。その渦が心地よく、冷静さを失いそうになる。
コードを鳴らす亮二のギターが疾走感を増し、そこに歯切れ良く、五郎の声が乗っていく。叫ぶこともなければ、舌足らずになることもなく、淡々とした低い声は、俺のベースと絡み合うようでもあった。ギターのカッティングが、スタジオ内の空気を綺麗に刻む。こんなに鋭いカッティングをするギタリストなんて本当に貴重だよな、もったいないよな、とぼんやりと思いました。
「僕の孤独が魚だったなら、巨大さと獰猛さに、鯨でさえ逃げ出す。きっとそうだ」
その歌詞が頭を叩く。ここで演奏している僕たち自身が、時流から取り残され、獰猛な孤独に手を焼いている。その魚を消し去ろうと、俺は渦を作る。渦に飲まれろ、のまれろよ、魚! と思う。
サビを歌い終えた五郎の声が止み、亮二のギターソロがはじまる。目立ったミスもなく、何よりも気持ちが乗っていて、順調だった。
「岡崎さん」と五郎がマイクに向かって、言い出したので、俺はぎょっとした。演奏中で、録音中であるにもかかわらず、五郎が喋ったからだ。本番であるのを忘れたのか、と思った。
そこで中止することもできず、俺たちは演奏を続けた。亮二も目を丸くしているが、指は止めなかった。
「岡崎さん、これは誰かにとどくのかなあ」五郎は歌うでも、嘆くでもなく、のんびりと言った。
「なあ、誰か、聴いているのかよ。今、このレコードを聴いてる奴、教えてくれよ。届いているのかよ」


おしまいのエピソードのネット犯罪を防いだ女性ネットワーカーが、10年前にハイジャック現場に居合わせ、そこで危機を救った男の父親が息子を正義のために育てたというあたりは、「あるキング」という別の作品の焼き直しだし、この作家は自分の作品の登場人物を流用したり、発想やストーリーを変奏的に使うのが好きらしい。彼の独創ではないし、やり方に寄っては臭くなってしまうが、これまで読んだ範囲では成功していると思う。
ネットで調べたら、この作品は映画化されたらしい。見るつもりもないが、この曲がどのような形で演奏されたのかだけはちょっと気にかかる(^_^;)


2011068

【女流 林芙美子と有吉佐和子】関川夏央 ★★★☆☆ 2002年から2006年にかけて集英社のPR雑誌「青春と読書」に連載され2006年単行本になったらしい。全く知らずにいたのだが、今年2011年のMorris.の読書で一番に挙げるべきは二年越しの小学館の「日韓辞典」だが、その次は有吉佐和子作品漁りだった。20冊以上は読んだはずだ。
従って本書を見つけたときは後半の有吉佐和子だけ読めば済むと思った。
ところが、読み始めたら、のっけから、すっかり引きずり込まれてしまった。林芙美子といえば「花の命は短くて……」で有名な「放浪記」だが、Morris.は読もうとしたこともなかった。同時代作家からの風評めいた、それもあまり芳しくないエピソードが多すぎたからでもある。しかし、関川の、手際の良い紹介ぶりは、名人芸に近いぞ。
1931(昭和6年)28歳で芙美子はパリへ行く。この時期のパリの状況というのは目を見張るものがある。

この31年から32年にかけて、パリにはさまざまな日本人がいた。藤田嗣治、海老原喜之助、鳥海青児ら画家だけではない。金子光晴と森三千代の夫婦にとっては二度目のパリ出会った。31年には光晴36歳、三千代30歳である。これ以前、三千代は光春を捨てて土方定一に走った。だが再び光晴の元に帰って、一緒にパリに来た。とくに目的はない。その土方定一と30年11月、同じシベリア鉄道に乗り合わせてパリへ来たのが山本夏彦である。詩人であった亡父山本露葉の旧友武林無想庵n連れられていた。作家無想庵は50歳、夏彦は府立五中(現小石川高校)を中退した15歳であった。
山本夏彦はパリで二年半をすごした。15歳から18歳までである。やはり目的はなかったのだが、この体験が山本夏彦をつくった。32年暮れ、スイスのインターラーケンでもう一度自殺未遂、33年夏に日本へ帰った。
当時のパリはブラックボックスのようであった。得体のしれない、または目的のない日本人がわだかまっていた。なぜパリがそんな役割をになったのかは研究に値するが、林芙美子は金子光晴、森三千代とはパリで会わず、山本夏彦の存在は知らなかった。


そうか、Morris.は光晴や夏彦を通じてこの時期のパリにある種の思い入れがあったのだ。同じ時期にパリにいて、どちらも芙美子には会わなかってない(^_^;)
長谷川時雨、壺井栄、平林たい子、円地文子、同時代の女性作家ともMorris.は無縁である。まあ壺井栄の「二十四の瞳」は映画も見たし小豆島にも行ったから知らないわけでもないが、長谷川時雨なんか女性とすら知らずにいた(^_^;) Morris.にもいわれなき「女流」軽視の意識があったのだろう。
後半の有吉佐和子も、関川らしい、的確な取り上げ方だったが、Morris.としては作品読んでからこちらを読んだことにほっとするところがあった。

有吉佐和子の主人公たちはみな「被害者」たるを潔しとしない女性たちであった。男性中心の社会構造に敢然と挑んだり、くっぷくしたふりをしつつ実験を握ろうと試みる女性たちであった。
そして、有吉佐和子は、さっかとしての自分のあり方を規定した、宿命的な早熟さという、いわば光栄ある災厄と生涯戦い続けなければならなかった。
有吉佐和子は「女流」という言葉を生み出すシステムとよく戦った。みずからの早熟さという宿命と善戦した。しかし53歳の晩夏の一夜、ついに燃え尽きた。彼女は、夏休みの間に級友に別れも告げずにどこか遠くへ去った「転校生」のようであった。


おしまいの一行なんか、なかなかの比喩だと思う。


2011067

【モダンタイムズ】伊坂幸太郎 ★★★☆☆ 以前読んだ「魔王」という作品(二つの短編)の続編ということだった。そちらを読んで3年以上経つのであまりよく覚えてなかったけど、こちらだけでも問題ない。
語り手でシステムエンジニアの渡辺、、その妻佳代子、知り合いの作家井坂、部下の大石、雲隠れしていた先輩五反田、佳代子に雇われた脅迫屋岡本などが、ネットの中に潜む大きな力に翻弄されつつ「世界の真実」に迫ろうとしながら果たせないというストーリー?で、おしまいあたりはハチャメチャバイオレンスになって鼻白んでしまうのだが、この作品は漫画週刊誌「モーニング」に連載されていたらしい(@_@)
この作家は、結構いろんなことに通じているようだし、国家という魔物に対する一家言を持っていて、いろいろ教えられるような気がする。端々に散りばめられた社会批評的コネタも興味深かった。
たとえば、車内で他人携帯電話への嫌悪感の理由を佳代子が

「わたしたちって意識していない時もね、まわりを気にしてるわけ。つまり、誰もが自分のまわりを気にしてる。警戒して、監視してるのよ」

と解釈するあたり、とか、

「より高い生産性を、より効率的に。もっと生活を楽に。そういった目に見えない、大きな原理があるんだよ。たとえば、いいか。国家ってのは、国家自体が生き長らえることが唯一の目的なんだ。国民の暮らしを守るわけでも、福祉や年金管理のためでもない。国家が存在し続けるために、動く、政治家もそのために動く。そう考えれば、国民が、『国民の生活を無視している』と国に怒りをぶちまけるのは本来、おかど違いなんだ」

「いいか、小説ってのは、大勢の人間の背中をわーっと押して、動かすようなものじゃねえんだよ。音楽みてえに、集まったみんなを熱狂させて、さてそら、みんなで何かをやろうぜ、なんてことはできねえんだ。役割が違う。小説はな、一人一人の人間の身体に沁みていくだけだ」

などの、小説家井坂(=作者?)の本音。

「ネットに書きつける文章、苦情、真実、賛美、罵詈雑言や恨み、そういったものが合わさって、何らかの情報を作り出す。数十年前から、現実社会を動かすのは、情報で、ネットもその重要な要素だ。こういった情報装置も、別段俺たちの生活を向上させるために作られたんじゃない。より利益を上げる、という資本主義のシステムが作っただけだ。どこかの広告代理店の社員がアイディアを思いつく。広告主を喜ばせ、会社に誉められるためだ。もしくは、ある種の達成感を得るためだ。それが自分の価値や利益、目的と重なっていく。利益を生むものは、進化する。人のためになるからじゃない、利益が出るからだ。そういうシステムなんだ」
「情報と儲けが世界を動かす」岡本猛がぼそっと言う。
「その情報の大半が今、ネットと結びついている」


「実際、俺はな、二十世紀の文化だとか電気製品が好きなんだ。味があるし、想像力も刺激される。ただ、勘違いするなよ、昔のカルチャーってのはあくまでも、昔の奴らが自分たちと同時代に生きる奴らに向かって、作ったものなんだ。それがたまたま、普遍的な力を持って、未来の誰かに影響を与えることもあるけどな」
「どういうことですか」
「昔は良かった、とかよく言うけど、昔も良くはねえんだよ。いつだって、現代ってのは良くなくて、だからな、俺たちは自分の生きてるその時と向き合わないといけねえんだ。音楽も映画も、その時の自分たちの時代と立ち向かうために作られたものなんだよ。チャップリンの、『独裁者』にしたって、今見たら、ただの説教臭いコントだけどな。当時は命がけだ。ジョンレノンのマがイマジン』だって、当時の社会に向かって投げられただけだ」


と、いった五反田の発言には、共感できる部分が多かった。

「この数十年で、建物の壁だとかエレベーターの壁は大半、透明になってきた」五反田正臣がぼそっと言う。「そのほうが清潔感があって、センスが良さそうって言われてるけどな、まあ、ようするに、『見られてる』って気分にさせるのが目的だよ」
「見られてる? そのほうが興奮するから?」佳代子は冗談を口にする。
「自分で自分に規制をかけるようにだよ。ここまでやったら、誰かに怒られるんじゃねえかって怖くなるだろ。透明だとよ」
「監視されているってこと?」
「正確には、監視されてるんじゃないか、と思わせるだけだ。それだけで十分、効果はある」


この箇所を読んで、Morris.は、ここ数年で、韓国の主要な国鉄の駅が、どこもかしこもガラス張りのあじもそっけもないデザインで設計されてることの、理由が分かったような気がした。
この作家はMorris.の好きな「面白くてためになる(ような気にさせる)」要素を持った作品を産み出す力を持っている。ような気がするので、またほかの作品も読んでみたい。


2011066

【韓国現代詩選】茨木のり子訳編 ★★★ 80年代後半に詩誌「花神」に連載され1990年に単行本として出されたものだから、Morris.も当時読んだと思うのだが、三宮図書館で立ち読みしていて、ちょっと気になる詩句があったので借りてきたもの。本書には12人の韓国の詩人の詩が収められているが、Morris.は趙炳華(チョウピョンファ)と崔華國(チェファグク)の二人の男性詩人の作品に共感を覚えた。崔華國は在日期間が長く、日本語での詩集も出してるので、趙炳華の作品を引いておく。

時間はもっぱらその席に

時間はのんべんだらり一つの席にいるのです
悠久にただゆったりと一つの席にいるのです
変化し 過ぎ去るのは 人間だけ
時間はとこしえにひたすら一つの席にいるのです

たそがれ
    
 --わたしの自画像

捨てるべきものは捨ててきました
捨ててはいけないものまで捨てて来ました
そして御覧のとうりです

共存の理由 12

深くはつきあわないでくれたまえ
別れの多いわれらが生涯

軽く 気軽に
つきあおう

たがいに握手が重荷になったら
別れよう

小難しい言葉で
しゃべるのは
止しにしよう

君だけとか
われわれだけとか

これは秘密なんだとか
そんな言いかたは
止めにしよう

僕が君を憶う深さを
見せるすべもないのだから

僕がぼく自身を思う深さを
見せるすべもないのだから

僕がいずこへかいずれ消え去るのを
見せるすべもないのだから

別れがきた時
後悔しない程度につきあおう

袂を分って
袂を分って
生きるとしよう

別れがきたら
忘れれることができる程度に
握手しよう


「共存の理由 12」は、ずっと以前に読んだ富岡多恵子の詩を彷彿させるものがあり、これはMorris.の他人とのつきあい方のスタイルにマッチしている(^_^;) けして、いつもこういうふうに生きてきたと言いきれるわけではないのだけどね(^_^;)

別れる練習をしながら

別れる練習をしながら 生きよう
立ち去る練習をしながら 生きよう

たがいに時間切れになるだろうから
しかし それが人生
この世に来てしらなくちゃならないのは
<立ち去ること>なんだ

なんともはやのうすら寒い闘争であったし
おのずからなる寂しい唄であったけれど

別離のだんどりを習いつつ 生きよう
さようならの方法を学びつつ 生きよう
惜別の言葉を探りつつ 生きよう

人生は 人間たちの古巣
ああ われら たがいに最後に交す
言葉を準備しつつ 生きよう


解説に「純粋孤独と純粋虚無が私の宗教の世界」という言葉も引かれていた。うーん、これにも惹かれる。教師時代のニックネームが「酒樽先生」だったらしい(^_^;) こういう人となら、いちど軽く盃を合わせてみたかったね。ネットで調べたら2003年に92歳で亡くなっていた。


2011065

【月夜にランタン】斎藤美奈子 ★★★☆☆ Morris.一押しの斎藤美奈子さんの書評だから、期待して読んだのだが、どうも最初から半ばすぎるまでいまいちである(>_<) やっとへたれ漫画評論批判で美奈子さんらしさが出て、おしまいの村上春樹、大江健三郎ぶった斬りでスカっとさせてもらった。
タイトルはもちろん「月夜に提灯」のパロディだが、あとがきにこうある。

光り輝く月(ヒット商品)が一個出ると、われもわれもとみんながランタン(類似品)を灯しはじめ、たちまち長崎のランタンフェスティバルみたいになってしまう。品格本の流行、ケータイ小説の増殖、懲りない脳本、萌え本の出現…。これ以上はそれこそ月夜にランタンになるのでくり返しませんが、このような現象が出版界に限った話でもないことは、みなさまもお気づきでしょう。
今般の流行現象は一事が万事、損得や勝敗に結びついていることです。社会全体が余裕をなくし、立ち止まっては負けるとばかり、あたかも馬車馬か、競走馬のように、老若男女、みんなが走らされている。


こういった追随本を中心に、2000年代のベストセラーを切って行く趣向。
「第一章リーダーの憂鬱」「第二章みんな競走馬」「第三章ブームのご利益」と三部に分かれて、一章では政治(政権交代)、二章では経済(格差と貧困)三章では何でも来いといった感じで、政治音痴、経済音痴のMorris.には前半から中盤までは、どうもついて行けなかったということのようだ。美奈子さんはしっかりどちらのテーマともわたりあって、それなりの立場を明確にしてるのに、Morris.は歯が立たなかった。
最終の「ベテラン作家の純文学をジャックする「闘う女」の怪」は村上春樹の「IQ84」と大江健三郎の「水死」(Morris.はどちらも読んでないし、これから読む気も皆無(^_^;))のなかの「暴力と性」「闘う女」に対する、美奈子さんの素朴な?疑問である。

『IQ84』にはさまざまな集団が登場するが、もっとも原理主義的で危険な匂いがするのは、ヤマギシ会やオウム真理教を彷彿させるカルト集団(さきがけ)ではなく、青豆が暗殺者として所属する女たちのグループ(柳屋敷)だろう。
額面的に受け取れば、緒方静江(柳屋敷の主催)も青豆も原理主義的な「テロ・フェミ」の実践者である。目には目を、歯には歯を、暴力には暴力をというわけだ。お話である以上、彼女らがどんな思想を持っていようと勝手だし、倫理を云々しても仕方がない。だが「テロ・フェミ集団」という歴史的には存在しない特異な集団を出現させる以上、一定の論理は必要だろう。
ところが『IQ84』に読者を納得させるに足る論理は一切ない。彼女たちはあまりに幼稚で短絡的で、もっといえばバカである。暴力男を必殺仕事人よろしく「消す」ことに関する逡巡も苦悩もなく、たた「正しいことをやっているのだ」という自己確認を繰り返すのみ。結果的に青豆は人間というより人間のふりをしたサイボーグにしか見えず、精神のバランスをとるために彼女が行きずりの男とのセックスで開放感を得るという発想も、これまで小説や映画がさんざん描いてきた(英雄色を好む式の?)「男の殺し屋」たちの裏返しでしかない。
さしあたっての問題は、この小説にとって性暴力というモチーフはどのような意味を持つか、である。もしかして、女を行動させる唯一の原動力は性暴力だとでも村上春樹は思っているのだろうか。いや、その可能性もないとは言えない。性暴力が重大な意味を持つ小説は、ほかにも見つかるからである。


ということで、続いて大江健三郎の番である。

エリオットやフレイザーなどから多数の引用があるのは、いつもの大江ワールド、古羲人の妹や娘や妻、演劇集団のウナイコとリッチャンなど多数の女性が登場するが、語り手の女への甘えが目立つのもいつもの大江流。
『水死』の決定的な間違いは、女は妊娠したら(たとえ強姦してできた子であっても)必ず生みたがると思っていることだろう。ところが、作家はその間違いに気づいていない。新聞のインタビューに答えて、大江健三郎は[男性的なもの、国家的なものに運命的に反逆している女性像として描きたかった。新しい存在で、戦後民主主義を超えた未来像を(彼女の肖像として)描きたかったのです]と述べ、さらに付け加えている。[小説を終えるにあたり、一つの光を見る終わり方をしたかった。最後まで成功した小説になっていませんでしょうか](毎日新聞2009/12/06)
[一つの光を見る終わり方]とは、ウナイコを取り巻く女たちがウナイコ母子を助けて生きることを指すのだろうか。だとしたら、とんでもなくうすらトンカチな認識としかいいようがない。
それにしても、この国のノーベル賞に一番近い作家とノーベル賞作家がともに「女性を描きたい」と意欲を燃やした結果が、強姦小説+妊娠小説であることをどう考えるべきなのか。あ、そーか。「女は性器で考える」っていうことか。「セックスは両足の間(性器)に、セクシュアリティは両耳の間(脳)にある」という言葉もあるんですけどね。世紀の「闘う女」にそんな小理屈は不要なのであろう。


引用文にもあるようにノーベル賞候補&受賞作家の新作をこれだけばっさり叩っ斬るというのは大したもんであるな。やっぱりMorris.は美奈子さんにホの字(^_^;)である。
しかし、本書で一番Morris.がシビれたのは「昭和の鉄道や工場が鑑賞の対象になったワケ」という項だった。
最近にわか鉄道ファンが増えているという枕から始まり、おもむろに結論に持っていく。

せっかく鉄道ブームだといのに、鉄道が衰退に向かっているとはなんたる皮肉! というより話はむしろ逆なのである。衰退に向かっているジャンルだからこそ、人が集まる。今般の鉄道趣味の広がりは、失われゆく昭和への郷愁が大きく作用していると考えるべきだろう。
そうしてみると、これと似た過去を懐かしむ趣味が、最近ほかにも出てきたことに思い当たるのだ。鉄道ならぬ、工場と、そして団地である。

文章だけ読むと引く人が多いかも知れないが、写真を見れば、構造物としての工場の魅力は十分理解できるのではなかろうか。メタリックな質感。複雑に張り巡らされたパイプ。存在感を主張する煙突やタンク。とりわけ無数の照明で光り輝く夜の工場は「美しい」という表現がピッタリ。

一見どれも同じに見えるコンクリートのアパート群にも、じつは多種多様なフォルムがあり、住棟の配置も一様ではない。しかしながらよく見ると、すでに取り壊しが決まり、廃墟化寸前の物件もそこには含まれていたりする。

もはや繰り返すまでもないだろう。鉄道がそうであるように、工場も団地も、失われゆく昭和、というより過ぎ去った高度経済成長期の遺産であり、換言すれば20世紀の近代工業化社会を象徴する風景なのだ。
再び鉄道に話を戻せば、鉄道をそんなにも愛するテツたちが、じゃあ地域住民と一体となって廃線に反対する運動に参加するかといえば、そんなことは絶対にないわけだな。
ま、当たり前である。マニアは熱いようで冷たい。鑑賞とは無責任な「部外者の目」「旅する人の目」であって、地域に張りついた生活者の論理とはしょせん相容れないのである。

これはMorris.には実は「兎の逆立ち(耳が痛い(^_^;))」的言説である。Morris.が好きなレトロビルや古い小学校などへの偏愛の底の浅さを指摘されているようでもあるからだ。無責任な野次馬根性で、面白がってるだけだとね。でも、そこは美奈子さん、きちんとフォローも怠りない。

諸般の事情で今日まで壊されずに残った物件は、是が非でも残す努力をすべきだろう。とりわけ鉄道や工場関連のような「近代化産業遺産」は、目で見る近代史の物証であり、縄文時代、弥生時代の遺跡に匹敵する価値があると考えたほうがいい。
高度成長期もいまやとっくに「歴史」である。いま残す努力をしておかないと、あとで絶対後悔する。コアな鉄道マニアや工場マニアのためではなく、全人類のためだと大言壮語しておこう。


パチパチパチパチ(拍手)


2011064

【奇人群像】佐々木邦 ★★☆☆ 昭和16年12月15日、春陽堂発行の「自選読物傑作集」、新書版300pくらいの娯楽読物である。太平洋戦争開始の真珠湾攻撃がこの年の12月8日だから、まさに開戦直後に発行された一冊である。
佐々木邦は当時一流のユーモア作家であるが、本作は退役軍人のホームドラマで、可笑しみも何となく堅苦しいもののように思える。
これはたしか古書つの笛が元町から長田に引っ越す直前に百均の棚から買ったものだ。

陸軍将長谷川閣下は帰京以来閑散で困つてゐる。二十貫に余る大きな図体の使ひ途がなくなつた。元来道楽のない人だ。24時間が急に悉皆自分のものになつてから、これを何うして潰さうかと持て余してゐる。
長谷川さんは大将にならない中に引かなければならなかつた。先頃まで連隊長を勤めてゐたが、少将に栄進すると同時に、待命を仰せつけられてしまつた。一本気の若い頃と違つて、自分でもこの上はもう覚束ないと思つてゐたところだつた。連隊副官時代から現実に目覚めてゐたから、内命に接した時、不平は毛頭なかつた。然るべき理由、然るべき判決、然るべき処置、これが長谷川さんの標語(モツトー)である。当局も大差長谷川喜代造の為めに、然るべき理由の下に然るべき判決をして、然るべき処置を取つてくれたのに相違ない。又考へて見れば、同級生には大佐で首になつたものが多い。中佐、少佐で相果てたものも少くない。相果てたといへば、歩兵科二百何名の中、半分はもう本当に人生から退役してゐる。然ういふ連中に比べれば、生き残つてゐる丈けでも仕合せだ。大学出身は別として、閣下まで漕ぎつけるのは先づもつて異数に属する。寧ろ儲けものだと長谷川さんは思つた。年と共に世間の相場が分つて来て、自分を高く見積らない。


冒頭付近から一部引用した。こういった文体である。Morris.は嫌いではない。
軍人時代の先輩や同輩との付き合いにもちょっと飽きてきた長谷川さんが自宅の敷地に4軒の借家を建てるのだがその時の店子の条件が結構馬鹿馬鹿しくて面白い。

一、家賃二十圓、敷金申受けず。但し左の八箇条ご理解の上、隣家長谷川へ申込あられたし。
一、借家人は忠良の臣民たること。
一、借家人は家主を師父と仰ぐこと。
一、主人年齢三十歳より四十歳までのこと。主婦年齢随意。
一、子供三人以上のこと。
一、主人は必ず定職あること。
一、主婦は必ず定職なきこと。
一、主人は主人会に出席の義務あるものとす。主人会は月一回長谷川宅にて開催。
一、主婦は主婦会に出席の義務あるものとす。主婦会は月一回長谷川宅にて開催。

家賃二十円というのは相場の半額位の値段ということになってるから、当時の十円は今の一万円くらいなのだろうか。
結局ここに、以前から無心をする弟夫婦、画家と結婚した妹夫婦、タクシー運転手、教会の牧師の4家族が入り、彼等同士と長谷川さんの付き合いがメインになるのだが、つまらないことで言い争ったり、仲直りしたりの罪のないやりとりで、登場人物はひとくせふたくせあっても、腹の底は善人というオチである。
退役軍人が主人公でも、本作では軍国主義的匂いは感じられない。市井の善人たちの諍いを丸く収めることが主題であるかのようだ。まだ出版統制が厳しくなる直前の産物なのだろう。おしまいあたりで禁酒がテーマになり、最後は長谷川御大まで禁酒して、めでたしめでたし?となるのだが、これはちょっとMorris.は不満だった。


2011063

【歌う生物学】本川達雄 ★★★☆☆ 王子動物園資料館内図書室で見つけて、すっかりはまってしまった一冊だが、読み終えるのがえらく遅くなってしまった。
というのも、You Tubeで見た「歌う生物学」の映像が素敵だったので、それでほとんど満足してしまったようなのだ。特にバックコーラスを受け持ったゼミ生の女学生二人がすごくいい感じで、しばらくこればかり見てた(^_^;)
本書より先に「ゾウの時間ネズミの時間」という20年前のベストセラーも読んだので、何かもうこっちは読まなくてもいいかという気にもなってた。
タイトル通り本書には著者作詞作曲の歌が楽譜付きで20曲以上収められている。曲調は音頭や唱歌風の単純なメロディが多いようだが、それなりに良くできている。でも、You Tubeで一番気に入った「生き物は円柱形」がないのが残念だった。せっかくだから、書き写しておこう。

生きものは円柱形

1.木の枝は円柱形(円柱形!!)
幹も根も円柱形(円柱形!!)
枝の分かれた円柱形(円柱形!!)
円柱形は強い
どんなにはげしい嵐にも
体を支える円柱形(円柱形!!)

*生きものは円柱形(円柱形!!)
丸くってながい
草も木もけものも虫も
生きものは円柱形

2.胴体は円柱形(円柱形!!)
手も足も円柱形(円柱形!!)
てこの原理の円柱形(円柱形!!)
円柱形は速い
大地をけって駆けていく
まえあしとあとあし円柱形

*繰返し

3・ミミズは円柱形(円柱形!!)
ゾウの鼻も円柱形(円柱形!!)
水のつまった円柱形(円柱形!!)
円柱形は静水系(静水系!)
膜がつつんでいる水で
力を伝える円柱形(円柱形!!)

*繰返し

4.ウナギは円柱形(円柱形!!)
マグロも円柱形(円柱形!!)
イカもイルカも円柱形(円柱形!!)
円柱形は泳ぐ
すばやく泳ぐ円柱は
前後がスリムな流線型(流線型!)

*繰返し


うーん、これは傑作であるな。何とかコード付けてレパートリーにしよう(^_^;)

「動物は動く」

1.カエルはピョンピョンピョンと跳ねる
トンボはスイスイ風を切る
動くのは
体の中で 筋肉が縮んでいるからさ
動物の いちばん動物らしいところは
動くこと

2.クルクル泳ぐは ゾウリムシ
ひらひら キラリと オパリナ
泳ぐのは
体の上で 繊毛が動いているからさ
動物の いちばん動物らしいところは
動くこと

3.ツリガネムシは くるんと縮む
スピロストマムも ぴくんと縮む
縮むのは
体の中に マイオネームがあるからさ
動物の いちばん動物らしいところは
動くこと

4.バリウム・ダンスに 心もおどる
クラゲの輪のように興味は尽きない
燃えるのは
体の中に 知りたがり屋がいるからさ
人間の いちばん人間らしいところは
好奇心


この歌は著者が恩師木下治雄先生の古希のパーティのために作ったものとのこと。ちゃんと木下先生の研究内容が網羅されてるらしい。
本書も、コネタ満載で、中でも、植物に関するものが興味深かった。

・一定の面積内にいる生物の総料を現存量(生物量、バイオマス)といい、乾燥重量やエネルギー量であらわす。地球上の全植物と全動物の現存量を比べれば、植物のほうが動物の1000倍だという試算がある。量的に見れば、植物が地球の支配者である。
植物の中でも森林の現存量が大きく、植物の現存量の90%が森林である。とくに熱帯雨林の現存量は、地球全体の半分を占めている。熱帯雨林は生産力も高く、太陽のエネルギーを地上に固定する主役なのである。地球の王者と言ってもいい。これが近年、切り倒され焼き払われて、面積が減少している。まことにゆゆしきことである。

・植物は、太陽のエネルギーを捕まえて食べ物に変換する装置をもっている。それが葉緑体である。植物細胞一個に数十個の葉緑体が入っている。葉緑体には光を捕まえる色素が含まれており、それがクロロフィル(葉緑素)である。
植物は緑色をしている。これがクロロフィルの色だ。色がついて見えるということは、太陽光(白色光)のうちの特定の波長の光を反射して、残りは吸収するということである。光を全部捕まえて吸収してしまえば、われわれの目には黒く見える。
クロロフィルは太陽光のうち、赤と青の波長の光を吸収し、中間の緑色は吸収しない。その吸収しない色がわれわれの目に見えるから、緑色なのである。

・植物は、基本的には毒だと考えていい。植物は古来、薬として使われてきた。薬ということは、微量でバクテリアを殺し、また動物の生理作用にさまざまな影響を与えるということである。薬は沢山飲めば死ぬ。人間ほどの大きい動物が一口食べて薬になるなら、もっと小さい動物にとっては致死量だろう。

・太陽の恵みを受けていれば、それだけで生きていけるのなら、これこそ最高の生き方と言ってもいい。だから、植物こそ最高の生物で、余計な悪知恵がなければ生きていけないものほど、下等な生き物と呼んでも、いっこうにかまわないだろう。植物こそ光の子、最高の生き物である。
われわれが、なにげなく使っている高等、下等も、考えてみれば、自分により近いものを高等と呼んでいるのである。それが「高等」の定義であり、それ以上のものではない。


著者は棘皮動物(雲丹や海鼠など)が専門なのに、植物礼賛だね。しかし、植物の緑がクロロフィルの光の吸収によるものだとは、ちょっと目からウロコだった。

・イカの外套膜(マントル、刺身にして食べる部分)には、特別に太い神経がある。巨大軸索と呼ばれるもので、太さが1ミリもある。普通の神経の軸索の千倍。これだけ太いと、中に銀線を通したり、中の細胞液を人口の液と交換したりできる。

これはMorris.がよく烏賊をさばく時、じゃまになるなと思ってた軟骨みたいな管のことだろう。あれが神経とは思いもよらなかった。

Morris.は人いちばい海鼠が好きで、本書に惹かれたのも、著者が海鼠などが専門分野だったということが大きかったようだ。「ナマコの教訓歌」と「棘皮動物音頭」から、海鼠関連部分だけを引いいておく。

ナマコは 横になっている
ただ砂だけを食っている
人様に迷惑かけず ひたすら砂を食う

孔雀の悪食をではなく
ナマコの謙虚さをこそ
君は今 みならうべきである
ミリンダの王者よ(「ナマコの教訓歌」)

一体全体なんだねこれは
昼の日なかに ごろんと横に
逃げも隠れも しないというに
それでも 魚に食われる こともない
さてさてナマコは 不思議な奴よ(「棘皮動物音頭」)

・沖縄の海べには、足の踏み場もないほどナマコがいる場所があり、10分間で100匹くらい、つかまえようとすればらくに集めることができる。なにせ相手は逃げていかない。
・ナマコの皮のかたさは、ナマコの種類によっても、かなり変わる。沖縄にはイシナマコと呼ばれるナマコがいるが、まさに石のようにかたくなる。包丁で切ろうとしても、包丁が折れる。こんなナマコで殴られたら、本当に気絶してしまうだろう。
・ナマコは魚にかみつかれると、そこの部分を溶かして皮に穴をあけ、そこから腸を吐き出すと言われている。ナマコの腸は「このわた」であり、うまいものだから、魚は喜んでそれを食べる。食べている間にナマコは逃げていく。腸は1~2週間もすると、立派に再生する。
・ナマコの再生力は、非常に強い。皮をはぎ落としたナマコは一週間もたたずに失った部分を再生する。また、ナマコをまっぷたつに切ると、2匹のナマコになる。
・首の部分には、ナマコの体内では一番まとまった神経系がある。脳といってもいいのかもしれない部分だが、あやうくなると、この首を相手にさしだすのである。そしてまた首が生えてくる。皮が首を新たにつくる。
人間にとっては、脳死は死かもしれないけれど、ナマコにとっては、脳死は死では決してない。ナマコには皮が命なのである。
・エネルギーはほとんど使わず、脳味噌を吐き出してしまっても、ナマコは生きている。このような多様な生き物の生き方を知り、それぞれの生き方を可能にしている秘密をさぐり、それをもとに、その生き物の世界や世界観を理解する。それが生物学の面白さではないかと思う。


やっぱり海鼠は好きだ(^_^;)

●来世には為りたきものの一つ故海鼠噛む時恍惚となる 歌集『嗜好朔語』


2011062

【青い鳥】メーテルリンク 楠山正雄訳 ★★★☆ 今頃何で「青い鳥」なのか、というと、工作舎の田辺さんから頂いた同じ作者の「花の知恵」を読んで、何となく歯が立たず(^_^;) もっと分かりやすい(はずの)「青い鳥」を読みなおしてみようと思ったのだ。読みなおすといっても、Morris.が以前に読んだのは、講談社の少年少女文学全集の29巻フランス編に収められたものだった。「青い鳥」は児童文学と思われているが、子供を主人公にした本格的な戯曲であり、中身は子供には分かりそうにない象徴的哲学的な思想がこめられてる。
今回子供向けではない、全訳の「青い鳥」をと、神戸図書館蔵書検索で探したが意外なほどに、該当書が少ない。
一般向けで一番新しい1994年角川文庫(鈴木豊訳)、1971年主婦の友社刊行の「ノーベル文学賞全集18巻」、1960年新潮文庫(堀口大學訳)、後は戦中戦後刊で1939(昭和44)年岩波文庫(若月紫蘭訳)、1920(大正9)年新潮社の「近代劇選集1」(楠山正雄訳)と、たった5種類しかないのだ。
結局中央図書館の書庫から楠山正雄訳を借りてきたのだが、一番古いのは岩波文庫の若月紫蘭の最初の訳で1913(大正2)年らしい。原作が発表されたのが1908(明治41)年だから、かなり早くに邦訳されたことになる。
1927(昭和2)年冨山房の百科事典「日本家庭百科事彙」には、以下の記述がある。

アオイトリ-青い鳥(L'oiseau blue)白。モーリス-マアテルリンク作。六幕十二場の美しい童話劇(1909)。青い鳥とは人生の幸福の象徴で、クリスマスの前夜木樵の子供のチルチルとミチルの兄妹が、妖女のくれたダイヤモンドの魔法でこれを探し求めて方方を廻って歩く。思出の国では死んだ祖父母に逢ひ、未来の国では未だ生れない彼等の弟に逢ふ。その他夜の宮殿・森・墓地・幸福の国等に赴く。道々これを助けるのが、光の女神と人間の忠実な友達の犬で、猫・パン・牛乳・砂糖・火・水等も或は付き、或は離れてこれに従ふ。二人は三度青い鳥を求めたが遂に得られず、長い夢から目がさめて見れば美しい自分の家の爐辺に青い鳥らしい鳩が飼はれてゐた。真の幸福は苦心して探し求めなくとも、日常の人生の中にあると言ふことを教へたものである。(若月紫蘭、楠山正雄等の訳がある)

いや、なかなかにこなれた見事な要約で、爾後日本での青い鳥評釈は、これに準拠したのではないかとさえ思ってしまうが、これがかえって本作の深い意味合を見えなくしてしまったような気もする。「白」というのは「白耳義」の略で、メーテルリンクはベルギー生まれである。

光 可愛らしい、奇妙な「幸福」たちがやつて来た、わたしたちの案内にやつて来た。
チルチル あの子たちを知つてゐるの。
光 あゝ、みんな知つてゐるよ。わたしは自分を誰とも知らさずに、よくあの子たちの所へ行つたものだ。
チルチル まあ何て沢山ゐるんだらう。方々から集つてくるのだな。
光 もとはもつと沢山ゐたものだよ。それを「肥つた幸福」共がひどい目に逢はしたのだよ。
チルチル でもいゝや。あれだけでも残つてゐればいゝや。
光 ダイヤモンドの力が部屋中にひろがるほど、まだ沢山外にも見られるよ。この世の中には、人間が思ふよりもつと沢山「幸福」はあるのだから。けれど普通の人間にはそれが見つけられないのだよ。
チルチル 小さい子がやつて来た、駆けて行つて逢はうよ。
光 むだなことだよ。わたしたちに用のあるものはどうせこつちを通るのだから。外の者にまで逢つてゐるひまはないよ。
 小さい「幸福」の群、ふざけたり、笑ひこけたり、緑の園の奥から駈け出して来て、子供たちのぐるりに環になつて踊る。
チルチル まあ何可て哀らしいんだ、何て可哀らしいんだ。何処から出て来たんだらう。誰なんだらう。
光 あれは「子供の幸福」ですよ。
チルチル 話をしてもいゝの。
光 むだだよ。あれらは歌をうたつたり、踊ををどつたりするけれど、まだお話はできないのですよ。

「幸福の国」の一シーンである。この国には「お金持であることの幸福」「地面持である幸福」「満された虚栄の幸福」「喉の乾いてゐない時に物を飲む幸福」「腹の空らない時に物を食べる幸福」「何にも知らない幸福」」「何にもわからない幸福」「何にも為ないといふ幸福」「必要以上に眠るといふ幸福」「はちきれさうな笑」などが蝟集していたが、チルチルがダイヤモンドを回すと彼等は退散して、現れるのが先の「子供の幸福」に始まり「健康であることの幸福」「純い空気の幸福」「両親を愛することの幸福」「青空の幸福」「森の幸福」「日向の幸福」「春の幸福」「日ぐれの幸福」「星の出を見ることの幸福」「雨の幸福」「冬の火の幸福」「無邪気な考の幸福」「素足で露の中を駆ける幸福」「正しくあることの大きな喜」「善人であることの大きな喜」「為事を為上る喜」「考へることの喜」「物の分かる喜」「美しいものを見る喜」「愛することの大きな喜」……と、作者が真の幸福と思うらしい幸福たちが続々登場するが、最後に現れて、全てを包み込むのが無償の母の愛である、というのが、この物語の主調音なのだろう。
Morris.は次の「未来の国」で「仲良し」と呼ばれていた男女二人の子供のことが、最後まで気がかりだった。これは全く記憶にもない(少なくとも講談社版には出てこない)登場人物たちだが、先に生まれさせられる男の子と、それよりずっと後に生まれることになってる女の子との別れのシーンは心に痛いほど沁みた。

 「仲良し」と呼ばれてゐる男の子と女の子との二人の子供は、何もかも忘れて抱きあつてゐましたが、呼ばれて真蒼になり、がつかりした顔をして「時」の所へ出て、其の前に膝をつきました。
第一の子供 「時」のをぢさん、あの子と二人跡にのこれるやうにして下さいな。
第二の子供 「時」のをぢさん、あたしとあの人を一緒に行かして下さいね。
時 ならん。さあもう三百九十四秒だぞ。
第一の子供 そんなら僕生れない方が優しです。
時 自分の勝手にはならんぞ。
第二の子供 
[拝むやうに]「時」のをぢさん。あたし随分おくれて生れるのねえ。
第一の子供 あの女の子の生れて来る時分には、僕はまうゐなくなつてしまふ。
第二の子供 あたしもうあの人に逢ふことはできないのだわ。
第一の子供 僕たちは世界で一人ぼつちだ。
時 そんな事はおれの知つた事ぢゃない。そんな願ひは「生」に頼んで見るがいゝ。おれは言ひ附けられたとおり、合せたり、分けたりするだけだ。
[子供たちのひとりをつかまへて]さあ行け。
第一の子供 
[もがきながら]いやだ、いやだ。あの子も一緒によう。
第二の子供 
[第一の子供の裾にすがりながら]あの人置いといて下さい、置いといて下さい。
時 これこれ死にに行くのではない。生きるのだぞ。
[第一の子供を引きずつて行きながら]さあ行け。
第二の子供 
[気ちがひのやうになつて、連れて行かれる子供の方に手をのばしながら]しるしを下さい。せめてしるしを。此度どうしてあなたを見つけ出しませう。
第一の子供 僕、いつまでもお前を好いてゐるよ。それがしるしだ。
第二の子供 あたしは世界中で一番悲しい身の上になるでせう。それであなたはあたしが分かるでせう。
 
女の子は倒れて地べたの上に這ひつくばつてしまひました。
時 もつといゝものを望んだらよささうなものだが。さあそれで皆だな。
[砂時計を見ながら]いよいよ六十三秒だ。

まるで韓国ドラマの愁嘆場みたいにドラマチックなのに、時のをぢさんはそっけないものである(^_^;)
しかし、このエピソードは一体何だったんだろう??
結局、本書を再読?しても、とりたててMorris.のメーテルリンク理解度は深まらなかったようでもある。
Morris.にとって「青い鳥」といえば、高野文子の名作「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」(筑摩書房「おともだち」所収)に尽きるのかもしれない。
百ページほどのこの作品はこれまでに百回以上読んだと思うのだが(^_^;) 見るたびに感動させられる。


2011061

【ゾウの時間ネズミの時間】本川達雄 ★★★☆☆ 同じ著者の「歌う生物学」を王子動物園図書室で見つけて、ちょっとはまってしまい、その関連で著者のベストセラーである本書を読むことになった。
中公新書1992年発行だから、ざっと20年前の産物である。基本的にベストセラーは読まない(^_^;)Morris.なので、本書もタイトルだけは記憶があるが、読んでなかった。
副題に「サイズの生物学」とあるように、動物のサイズによる動作や時間感覚の差異をとりあげ、動物それぞれのデザインを新しい視点で理解しようという、当時としてはかなり斬新なものだったようだ。
ただ、Morris.の苦手な数式とグラフとかが出てくる前半部はとっつきにくかった(>_<) 
たとえば「哺乳類では時間は体重の1/4乗に比例する」という単純そうな命題ですら、Morris.には??である。
「体重が10倍になれば時間は1.8倍になる。」これなら何とかわかった(^_^;)

・サイズを考えるということは、ヒトというものを相対化して眺める効果がある。私たちの常識の多くは、ヒトという動物がたまたまこんなサイズだったから、そうなっているのである。その常識を何にでもあてはめて解釈してきたのが、今までの科学であり哲学であった。哲学は人間の頭の中だけを覗いているし、物理や化学は人間の目を通しての自然の解釈なのだから、人間を相対化することはできない。生物学により、はじめてヒトという生き物を相対化して、ヒトの自然の中での位置を知ることができる。今までの物理学中心の科学は、結局、人間が自然を搾取し、勝手に納得していたものではなかったか?

これはあとがきからの引用だが、これだと、更によくわかる気がする。

・まったく、同じ形を保ったまま(幾何学的相似を保ったまま)サイズが何倍にもなるということは、むずかしいということだ。

この一文は強く印象に残った。ガリバー物語を始めとする、巨人、小人の描写が、決してあのような相似形ではありえないというのは、Morris.も永年の間疑問に思ってたのだが、我が意を得たりである。これは巨大ロボットや、怪物もののあり方にも敷衍されるものだろう。

あちこちに出てくる小ネタも面白かった。

・かたい殻はセルロースや石灰でできているので、食べても栄養にならない。また、固着性で動かないから、こういう生物には、筋肉はあまりいらない。うまそうな部分もなく、じゃりじゃりと骨や繊維ばっかりでは、捕食者の食欲をそそらないだろう。逆に、よく動く動物は、立派な筋肉をもっている。ということは、速く走って逃げられるようになればなるほど、捕食者の目には肉付きのよいうまそうな餌に見えるわけで、逃げ足で捕食者と勝負しようというのは、危険なゲームというわけだ。

・コラーゲン繊維はしなやかで強い繊維であり、大きな引っ張りの力に耐えられる。ネズミのしっぽが、ほぼ純粋なコラーゲンの束である。

・一枚の大きな板は壊れやすい。いったんひびわれ(亀裂)が入ると、亀裂は伝わっていき、簡単に板が二つに割れてしまう。お菓子の袋の口に、予め切れ込みが入れてあるのは、この原理を応用したものだ。

・ヒトデは貝を食べる。貝を5本の腕で抱きかかえ、たくさんの管足を貝の殻に吸いつかせ、殻をこじ開ける。もちろん貝の方も必死で殻を閉じようとするから、そう簡単には開かない。何時間もかかって、やっとほんの少し殻をこじ開けると、ヒトでは胃を反転させて口から出し、これを殻の隙間から貝の体内にすべりこませ、消化液を分泌し、その場で貝を溶かして吸収し、食べてしまう。これが体外消化法である。吸収し終わるまで、ヒトデはじっと貝の上にのったままだ。貝を開けはじめてから食べ終わるまで、何日もかかることもある。


しかし、何と言ってもMorris.が深い共感を覚えたのは第六章「なぜ車輪動物がいないのか」の次の一節だった。

車輪というものは、われわれヒトのような大きな生き物が、山をけずり、谷をうめて、かたい平坦でまっすぐな幅広の舗装道路を造ってはじめて使い物になる、ということが分かると思う。
広く、まっすぐで、かたい道。階段のない、袋小路のない、道幅の広い町並み。これらは車に適応した設計であり、戦前にはほとんど見られなかったものである。
技術というものは、次の三つの点から、評価されねばならない。
1.使い手の生活を豊かにすること、
2.使い手と相性がいいこと、
3.使い手の住んでいる環境と相性がいいこと。
産業革命以来、技術はわれわれの生活を豊かにしてきた。エンジンはわれわれの筋肉を増強し、その結果、われわれは楽に大きな力を出せるようになった。望遠鏡や顕微鏡は目の力を増強し、遠くのものや小さいものを見えるようにしてくれた。コンピュータは脳の力を増強し、おかげではやく複雑な計算をしたり、大量の記憶を処理できるようになった。
これらの技術がわれわれの暮らしを豊かにしてきたのは、間違いのない事実である。しかし、使い手を豊かにするという観点ばかりに重きをおいて技術を評価する従来のやり方を、考えなおすべきときにきているのもまた事実である。自動車というものは、これまでの基準からすれば完成度のかなり高い技術なのだけれど、人間との相性や環境との相性を考えに入れると、まだまだ未熟な技術と言っていい。
人間との相性ということからみれば、道具が、手や足や目や頭の、すなおな延長であれば、それに越したことはない。作動する原理が、道具と人間とで同じならば、相性はよくなる。残念ながら、コンピュータやエンジンは、脳や筋肉とはまったく違った原理で動いている。だから操作がむずかしいのである。自動車学校にみんなが行って免許をとらなければいけないこと自体、車というものが、まだまだ完成されていない技術だという証拠であろう。
環境と車との相性の問題は、大気汚染との関連で今まで問題にされることが多かった。しかし、車というものは、そもそも環境をまっ平らに変えてしまわなければ働けないものである。使い手の住む環境をあらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、上等な技術とは言いがたい。
環境を征服することに、人類の偉大さを感じてきたのが機械文明である。だから山を拓き、谷をうめ、「良い」道路をつくることは、当然よいこととして、問題にされてこなかったようだ。車は機械文明の象徴と言っていい。


いやあ、これだけ、車の根本的問題を分かりやすく剔抉した文章は見たことがない。気がする(^_^;) とにかく、これが書かれてから20年経っても、この車の人間との相性の悪さは解決していないと思うぞ。ある意味では、20年も前に出されたこの提言に、自動車の開発は全く応えていないとも言える。
そういう意味では、この20年間の、PCの世界は、かなりに人間に歩み寄ってきたような感じがする。先般亡くなったスティーブ・ジョブスなどは、かなりに、このことに貢献したのではなかろうか。


2011060

【住まいと暮しの質問質】「室内」編集部 ★★★☆ 昭和30年「木工界」という誌名で創刊、「室内」と名を変えて平成18年に休刊したこの雑誌、Morris.は一度も買うことはなかったが、よく立ち読みしたものだ(^_^;)
主宰の山本夏彦のコラムが抜群に面白かったからだ。
平成14年に山本が亡くなる直前に本書の話が持ち上がったが、山本の死後それどころではなくなって、7年後に新潮選書の一冊として世に出たものである。
「室内」に609回50年余り連載された「質問室」に寄せられた1200ほどの質問の中から235本を選んである。この選抜にはかなり時間がかかったと、中心になって編集した鈴木真知子が書いている。
「工事・構造」「職人と道具」「間取り」「内装」「建具」「塗料」「材料」「木材」「設備」「キッチン」「トイレ・浴室」「家具」「家電・照明」「維持管理」「外装・庭」「あらかると」16のジャンルに大まかに分けて、資料で調べたり、職人、専門家に回答を求めたり、記事の長さも長短あり、必要な図は充分に添えて、基本精神が「素人にもわかりやすい回答にして、面白みがある」ということで、Morris.の好み「面白くてためになる」本になっている。どこから読んでもよいし、索引も充実しているから簡易な事典としても活用できるが、Morris.は、一気に読み通した。

ハウスメーカーは、名は一流ですが、大工を雇わないこと、ゼネコンと同じです。仕事は元請、下請、孫請を通じて職人に届きます。
ハウスメーカーの大半は自社で仕事をしません。営業、宣伝、設計、現場監理だけします。施工はその傘下の群小工務店にまかせて、メーカーが自分でつくったような顔をして客はそれを信じるわけです。現場に職人を送りこむのは、ありていは「口入屋」で、かつての親方は今や道具の代わりに電卓を叩く手配師になりました。
ハウスメーカーはそれぞれ、2X4(ツーバイフォー)、軽量鉄骨、木造在来工法など専門の工法があります。自分の知らない工法の現場では、初めから仕事をおぼえなければなりません。それは技術とは言えないもので、すぐ一人前になってしまうものです。ただおぼえるまでの数カ月は最低の給金しかもらえないので、ひとつ仕事をおぼえるとその工法以外はしたがりません。材木を鉋で荒木から仕上げられないとか、砥石も持たない大工が増えました。
こうして家は商品になりました。現実にメーカーは新しい形の家(製品)ができると「新製品」といって宣伝しています。(大谷信夫談)

テラス(terrace)は「積まれた土地」つまり台状の土地を意味します。建物の外部にやや張出して地面から少し高さのあるところや、屋根のない露台のことを言います。
次はバルコニー(balcony)です。梁を意味する古英語balcaから来ているそうです。これは建物の2階以上の壁や窓から張出し、手すりや腰高の壁などをめぐらせた台もしくは屋外の床をいいます。
ベランダは意外なことに、ヒンドゥー語で柱廊玄関を意味するbarandahが語源です。それがポルトガルに伝わりvarandaになり今の英語のverandaになりました。日本ではバルコニーと同じ意味で使われることが多いようです。現在は建物の壁に沿った屋根付きの張出し床のことを指します。元はポーチの意味に近かったのかもしれません。
現在わが国ではパティオ、ポーチ、ギャラリーなどの外来語もベランダと混同して使われています。
1階ならテラス、1階で庇があればベランダ、2階以上はバルコニーかベランダ(ただしそこが下の階の屋根ならルーフテラス)という使い分けがよさそうです。「テラスとバルコニーとベランダの違いは?」

炭の特徴は、何と言っても多孔質なことで、小指の先くらいの量でテニスコート一面ぐらいの表面積があると言われています。この孔が湿気を吸収したり、匂いを吸着したりします。「床下の炭は効果があるのか?」

同じ「蛍光」でも、蛍光ペンの方は有機蛍光体が使われています。これは太陽光や通常の照明の下で、つまり明るいところで鮮やかに見えるのが特色です。
一方蛍光灯の方は無機蛍体が使われています。この無機蛍光体というのは明るい場所では発光しません。その代り、暗闇でブラックライトなどの紫外線を当てると鮮やかに光るのです。まわりが暗ければ暗いほどよく光ります。
ところで、この無機蛍光体を使った顔料は意外なところで活躍しています。切手です。あの膨大な郵便物のひとつひとつにまで必ずスタンプが押してあります。あれは郵便局員がいちいち全部手で押しているのではありません。切手の印刷にこの蛍光顔料が使われていて、スタンプ機械がこれを読取って自動的に押しているのです。いちどブラックライトの下で、切手を見て下さい。べつに、特殊な印刷に使われて、犯罪防止にも役だっています。「蛍光と夜光はどう違う?」

俎板の材料、安い材の方から見て行こう。
1.スプルース--spruce、アラスカヒノキは、安くて白いので見栄えもよく、家庭用に出まわっているが、俎板として見ると柔らかすぎて減りが早く、刃傷もつきやすい。
2.檜--ひのき、とくに木曽檜が柔らかく、木目がきれいで、色あいもよい。ただし匂いがあるので嫌う向きもある。
3.椹--さわら、木製の盥や風呂桶など水づかいの場に用いる。肌ざわりのいい、匂いもやわらかく、杢目の綺麗な材だが刃あたりがやわらかすぎてシャッキリしないという人もいる。
4.朴--ほお、年賀状の木彫を彫るのでなじみの材。思い出していただけるならお判りのように、青灰色の色調が冴えない。彫刻刀の使いよい材質だから当然、包丁当りも心地よく、刃の切れ止まりがおそい。それだけに包丁傷がつきやすく、窪みやすい。鉋をかければいっぺんに消えるのだが--。
5.銀杏--いちょう、堅さが丁度よいし、値段もちょっときばる程度で、まあ材を気にする向きにはこの辺がおすすめ。
6.柳--やなぎ。猫柳が最高、最高値でもある。柳はお正月の祝い箸(太箸)に用いられるように薬効がある樹種なので、いわゆる抗菌の効果もあり、堅さがほどよく匂いもないので、俎板の雄と言ってよい。俎板は硯ほどではないが、まあ一生物だから、猫柳を一枚どうです。(山口昌伴回答)

風呂敷のサイズはもともと反物の寸法(鯨尺)を基本に作られました。用途に応じて以下のようにいろいろなサイズがあります。
・小幅(約36cm) ごく小さなものを包む
・中幅(約45cm) 金封を包む
・ニ幅(約72cm) 小物を包む
・ニ四幅(約90cm) 小物、一升瓶、ワインボトル2本など
・三幅(約108cm) 衣装包み、結納品、掛軸など
・四幅(約144cm) 衣装包み用
・五幅(約180cm) 大物を包む、座布団、こたつ上掛けなど
・六幅(約216cm) 寝具二組を包める
・七幅(約252cm) 寝具包み用
風呂敷は縦をほんの少し長く作るものなのです。まあ長いと言っても、三幅で2cmほどですからわずかですが、このほうが正方形より包みやすいといいます。それなら横が長くても同じだと思いますが、生地の縦糸と緯糸の関係から、これは都合が良くないようです。「正方形でない風呂敷は不良品か」

当時の俳優は、声が命でした。粗筋はコーラスで進めますが、山場の台詞では俳優の声が何よりで、従って俳優の条件は容姿よりも声が美しくかつ大きくよく響くことだったようです。もっともこれはマイクが発明されるまで、世界中の俳優、声楽家の条件でした。イタリア・オペラもシェークスピア劇の俳優も、そしてわが国の能、狂言、歌舞伎の役者も、各国の各演劇にはそれぞれ独特の発声法と訓練法があって、それらは実に永い歳月をかけてあみ出されたものだったのです。ですからマイクが発明されてから、芸人の発声法は台なしになってしまった、というのは伝統的な「声の芸」を学んだ全ての人に共通する嘆きでしょう。「円形劇場の観客は俳優の声が聞こえたか」

高層ビルの工事によく使うクレーンは、正しくはクライミングクレーンと言います。自力で上まで昇っていくからです。
まず地面に、足にあたる架台を設置し、背骨となるマストを取付け、マストの上部に昇降フレームを固定し、マストと架台を持上げます。持上げた架台を固定したら、昇降フレームを梁から外した後、油圧っシリンダーでクレーン本体を引き上げます。この過程を工事中はしゃくとり虫のように繰返します。ですから、クレーンは常に最上階に載っているのです。
さて下ろす時は、今まで使っていたクレーンでひと回り小さいクレーンを引上げて、横に設置します。この2台目で1台目を分解して下ろします。それが終わったら、2台目よりさらに小さい3台目を設置して、今度は2台目を分解して下ろします。これを繰り返して、最後は人がエレベータに積んで下ろします。こちらは「親がめ子がめ方式」と呼ばれているとか。「タワークレーンは最後どうなる」

「ものの数え方」
[建築・インテリア関連]
家-一戸、一軒、一棟、一宇
木-一本、一株、一樹(じゅ)
材木-一本、一石、一才(一才は一立法尺)、一立米(りゅうべい)=㎡
畳-一畳(帖)、一枚
椅子・机-一脚
テーブル-一卓
箪笥-一棹
長持-一棹
砥石・鋸・鋏・梯子-一挺
植木-一株、一鉢
盆栽-一鉢
すだれ-一張
襖-一本、一枚、一領
屏風ー一双(一双はニ架)、一架、一曲
鏡-一面
布団-一枚、一組
灯籠・鳥居-一基
神社-一社、一座
仏壇-一本、一基
絹織物-一反、一疋(一疋は二反)
糸ー一巻、一枷(かせ)、一束(たば)
[日用品]
紙-一枚、一葉、一丁(ニページ)、一帖(二十枚)、一束(二百枚)、一連(千枚)、一締め(二千枚)
書籍-一冊、一巻、一部、一帙(ちつ)
書類-一通、一札
箸-一膳、一揃い
海苔-一帖(十枚)
手拭い-一本、一筋
荷物-一荷
筆-一本、一管、一茎
包丁-一挺、一柄(へい)
風呂桶-一据え
盆-一枚、一組
着物-一重、一襲(かさね)
[その他]
蚊帳-一張り、一釣り
釜・壺-一口
香炉-一基
炭-一俵、一駄
墨-一挺
鏡餅-一重ね
重箱-一組、一重ね
仏像-一躯、一体
遺骨-一柱、一体
掛軸-一幅、一軸、対幅(双幅)
田-一枚
膜-一枚、一張り、一走


以前「ものの数え方」という別本の読書控えでいくらかあげておいたが、本書はそれなりにまとまっているので、重複を厭わず写しておいた。


2011059

【近代建築散歩 京都・大阪・神戸編】 宮本和義・アトリエM5 ★★★☆☆ タイトルの通り、関西三都の近代建築を見て歩くための図鑑みたいなものである。17のゾーン別で、もちろん地図も完備で、実用的である。ただ、これを常時携帯して歩くとなると、嵩張るし、重い(450g) それ以前に定価三千円ちょっとするから、Morris.は買わないと思う(^_^;)「東京・横浜編」と同時発行で、両者合わせて1000軒以上掲載と書いてあったから、関西編だけでも500近くは掲載されていることになるだろう。Morris.はほぼ半分位は見覚えがあった。そのうち100点くらいは、このMorris.日乘で画像アップしてると思う。
本書の第一の特徴は、ほとんどの写真が宮本和義撮影のようで、その執念みたいなものが感じられることだ。
以前センターの古本市で入手した「建築MAP大阪/神戸」の方が、学術的で、説明も詳しいのだけど、こちらは750gもあるので、持ち歩く気にはならない。
やはり、これからは、iPhoneのマップにマークしてから出歩くことにしよう。
本書の写真家のあとがきに、彼のスタンスがよく表れている。Morris.も共感を覚えた。

保存の問題は難しい。たしかに壊したくない建物は多いし、壊したあとにそれに優る素敵な建物の出現は少ない。しかし維持費やその不便さの解決策を示せないかぎり、壊すなという資格もないと思うことたびたびである。今日もそんな、持ち主と保存運動家の綱引きが日本のあちこちで行われている。たまに古いものはすべて「良いもの」と頭から思い込んで、なんでもかんでも保存を力説するような人に会うが、保存運動は文化的行為などと思ってのことなら、それは勘違いでもある。建て替えたほうがベターというものも少なからずあるのも現実である。とにかく、なんら解決策をもたない無能な私は、古い素敵な建物を写真で残すことに専念し、今日も街から街をつむじ風のように走りつづけるだけ。好きでやってるのよ~である。


2011058

【多主語的なアジア】 杉浦康平…デザインの言葉1 ★★★☆ 韓国旅行出かける前から2ヶ月ぶりの読書控えである。旅行中は本読む気にならないし、帰ってからは新規購入のiPhoneに振り回されてしまってた(>_<) 前からiPhone買うつもりではいたのだが、それは小学館の「日韓辞典」を読み終えてから、と心に決めてたのだ。それが、Docomoの携帯故障、何やかやあって結局、iPhone買ってしまったら、予想通り、他のことが後回しになってしまった。
前置き(言い訳?)が長くなったが、本書とその続編の2冊は、工作舎からのいただきものである。詳細は、これまでに日記にしつこく書いたので、繰り返さないが、資料画像提供のお返しだ。
杉浦康平といえば、Morris.は雑誌「遊」と「銀花」の表紙やレイアウトがまず頭に浮ぶ。
手軽に彼のことを紹介しておこうとWikipediaなど見たMorris.が馬鹿だった(>_<) とりあえず松岡正剛「千夜千冊」の「かたち誕生」編を見ておくように。
本書は4章に分かたれて、第一章ではアジアの文化の根底にある「無名性」への気付き、第二章では杉浦日向子、日高敏隆との対談、第三章はアジアの「多主語的」ともいうべきかたちの響き合い、第四章ではドイツでのヨーロパ体験ととアジアの旅でのデザイナーとしての転換を中心とする。おしまいには津野海太郎によるインタビューが置かれている。
モノクロだが多くの貴重な図版が収められ、それを見るだけでも興味深いものがある。
今は亡き杉浦日向子との対談「見えないものがこの世界を支えている」が、一番印象深かった。本書のタイトル「多主語」への言及も深いものがある。

日向子 纏うというのは、憑依ともいいますけど、そのものの魂までも自分が纏うということですね。
康平 今は人間優位の世界だから、人が植物や動物になるなんて考えもしないけど、昔の人は、人間であるよりもむしろ花盛りの木でありたいと願ったりした。花盛りの木が秘めている生と死の情緒を、わが身に帯びたいと願ったわけです。花盛りの衣装を身に纏うと、人間の身も心も、桜の木に変幻することを知っていた。「見立て」が、自分自身の内側に起こっているんです。
日向子 昔の人は、あらゆる手段を使って、自然と感応し合いたいと思っていたんでしょうね。人間は、自分の人生を生きるためだけに生まれてきたんじゃない。宇宙を感じるために存在している…と考えていたんじゃないでしょうか。
康平 花も実もある人生…というね。人間の顔には、鼻(花)も目(芽)も歯(葉)も頬(穂)もあるし、耳(実)もなっている。
日向子 顔じゅうが、花なんですね(笑)

康平 当時の人の世界観は、「浮き世」なんていう言葉にも表されていたんでしょうね。
日向子 浮く世。フローティング・ワールドといいますか。昔の人は世の中を、「頭上三尺」から見ていたと言うんですね、これは、自分の頭の上1メートルあたりから、自分と世の中を見ることなんです。
自分が世界の真ん中にいるのではなくて、自分も他者も平等の距離感で世の中を見ていく。不思議に醒めた意識ですね。

康平 それは、日本語の構造とも関係しているかも知れない。日本語は、主語のない言葉だと言われますね。たとえば、僕が日向子さんに対して敬語を使うときというのは、しゃべっているのは僕なんだけど、実は主人公は日向子さんなんです。
つまり日本語の言語構造というのは、中心部がすっぽり空いている。そこにはいつもお客さん、つまり相手が座る。人間じゃなくて、鈴虫でも、風でもいいんです。いちばん大事な主語の部分に、自分でない森羅万象を招くんですね。
日向子 たとえば康平さんと私が、向い合って話していますでしょ。そのときは、私の思惑と康平さんの思惑が、「頭上三尺」で合体していると考えられていた。三人いれば三人分の固まりが、三つ巴になって渦巻いている(笑)。つまり自分の意志で、自分のことばでしゃべっているんじゃないのだそうです。
康平 頭上三尺に、いくつもの主語が混在している…。主語のない日本語の発想というのは、自分の心をいつでも他者に転位してみせることができる。自分の心を桜の花吹雪にしてみたり、ジャンプしようとしている蚤の心にすることが、自由自在にできたんです。
自分が見ているようで、じつはそうでない。自分とともにある森羅万象が見ているのだ…というような、実に多感な見方だったんですよね。
昔の人は、生命のかたちはいかようにもなりうると考えた。輪廻転生の考えです。だから、たくさんの主語が同時にあって、しかも一つであると認識できたんです。浮き世のなかには、多数の主語がつまっていた。


ところで、本書の206pに掲載されてある男女の下半身が蛇のようになって螺旋状に絡まっている図は、ソウル中央博物館の東洋美術室に展示してあって、前から何となく気になっていたものだが、これは中国古代神話の「伏犠(ふくぎ)女媧(じょか)」の図だったらしい。その説明に「伏犠がコンパスを、女媧が曲尺をもち、左ないに体をからめあう。」とあった。図をみると女性がコンパスらしきものを持っている。ネットで調べてみたら、やはり女媧が女性の神らしい。どうやら、これは道具を取り違えて説明しているようだ。重箱の隅突きかも知れないが、いちおう指摘しておこう。


2011057
【アジアの音・光・夢幻】杉浦康平…デザインの言葉2 ★★★☆☆ 先のシリーズの2冊目である。本書は、6章に分かたれているが、それほどテーマを絞ってなく、30編あまりの長短エッセイの集まりである。最後に、資生堂の調香師でもある中村祥二との対談が置かれている。
タイトルにあるように、アジアの音楽、美術、風物、風俗、信仰などをテーマにしたものが多いが、やや異色の「ラルースを食べた犬の話」という短いエッセイは、Morris.にとっては特別な意味を持つエッセイになってしまった。
もちろん、これ以外にも、興味津々のエッセイてんこ盛りで、今日まで、少しずつ楽しませてもらった。
バリの闇と光、ヒマラヤの風、ブータンの切手、曼荼羅的蓮華、アジアの生命樹、タジ・マハール、インドの文字・美・衣服。相撲、神と紙、火と水、李朝民画、犬地図の誕生、音楽と舞踏、イルカの歌、芳香……ヴァラエティに富んでいながら、精神的に通底するものが感じられる。
そして本書にもモノクロの写真や図像が多数収録されているのだが、その多くが、精選され尽くした上の特上なもので、目が眩むようだった。それらが鬩ぎあう中に、資料写真とはいえ、Morris.のコンパクトデジカメ画像が紛れているというだけで、本書は一生忘れられない本になりそうである。
「あとがき」の一部を引いておく。

日本でも、3月11日の東日本大震災を機に、経済効率や便利さを第一義とする現代生活を見直し、人間らしさをとりもどし、伝統文化や祭りを見なおそうとする機運が広がり始めている。
アジアが、日本が、これからどこに向かおうとするのか。この本に記したアジアの音、光、夢幻のきらめきが、なお、未来への活力の源になることを祈りたい。


2011056

【北上幻想】 森崎和江 ★★★☆ 「いのちの母国をさがす旅」と副題にある。1927年朝鮮大邱生まれの彼女は、名前の縁(Morris.の本名と一字違い)でずっと以前から気になる存在だった。Morris.の母より4歳ほど年上だから、いわゆる親の世代ということになる。最近も名前のことで、関係あるのか?みたいな便りをもらったこともあるが、残念ながらまったく姻戚関係はない。
日本から海外への身売り女性のことをとりあげた「からゆきさん」は、Morris.も読んで感銘を受けたこともある。

かつての朝鮮で生まれ育ち、敗戦後をいのちの母国を探し探し私は生きてきた。探すことはたたかうことでもある。自分とたたかい、文化の流れをかいくぐり、批判や孤独に耐えながら、いのちへの愛を育てる。

80年にウィーンから日本語の手紙を受け取る。差出人は79歳のスラウィク博士、日本の古代史、アイヌ研究家で、妻エリザベスの母が森崎れいという名前で第一次大戦前中国山東省で、ドイツ人技師と「結婚のような関係」になりエリザベスを産んだとある。著者はこれとからゆきさんの関連に想いを馳せる。

スラウィク博士は、森崎という苗字は日本にはさして多くはないが、九州に傾くように思われることだとか、長崎奉行が寛文年間に長崎市外浦の旧地名・森崎の地に移ったことや、同地の森崎神社のこと、島原地方の森崎姓の人びとのこと、その他にふれておられた。そして森崎という姓を持つ者たちの由来や歴史についての調査に、何らかの協力を、ということのようであった。
ああ、あのあたりの御出身なのか。わたしは『からゆきさん』を書くために、いく度か歩いた農漁村を思い出し、心をあつくした。維新前後からの数十年にかけて、からゆきさんを送り出した地方で、ドイツ人とか、山東省とかという呼び名が、旅先のほのあかるい色彩として口の端に登っていた地方の一つである。

「お墓は海のそばにありますよ。草の中を歩いてお墓に降りていきます。3年たったら美しいお骨になっていますから。その日は朝早う、まだ4時頃にパラジ集ってですね。パラジは女親の血が繋がっている親せきです。男も女も白か布を持って砂の浜辺にまつっていた人の骨を綺麗に拭いてやりますのですよ。」
風葬の話だった。1970年、まだ復帰前の沖縄が南の海上にかすかに浮かんでみえる与論島を訪れた。


Morris.も四半世紀以上前に一度だけ与論島を訪れたことがある。そのときもこの風葬の後の骨の群れを見たことを思い出した。

父が初代校長をしていた新羅の都・慶州の、慶州中高等学校の開校三十周年記念式典に防腐のかわりに招かれた時(1968年)のことである。
「和江さん、ぼくらは逢わねばならない間柄でしたよ。あなたはハングルの読み書きを勉強してここへ来られた。ぼくらも、解放後にハングルを勉強した。ことばは不自由です。しかし、ぼくは、ハングルの詩を、足で書くのです。民話や伝承の山・川・海を歩いて。そのぼくの詩は難解だといわれます。その理由はいろいろあるのですが、そのひとつに日本語と日本的思考の影響がありますよ」


朝鮮半島の日本支配の間に日本語を押し付けられた朝鮮の人びとの心と身体の中にはその影響が深く染み付いているに違いない。そのことを日本人は忘れてはなるまい。

十三湖畔に近いあたり、あの縄文後期の亀ケ岡土偶の出たあたりから北へかけて、集落のあちこちで色彩あざやかな地蔵が数体数十体と寄りそっていたのだ。クレヨンで頬べにを塗り、眉や口もとにさえ色をそえ、白く化粧した地蔵さえもまじって。それぞれ帽子や服やよだれかけなど美しく華やいでいた。
これらの地蔵は集落からやや離れた場所にそれぞれ点在していた。津軽ことばでタクシーの青年が語った。あの地蔵は生まれてまもなく死んだわが子をまつっているのだと。年毎に母はわが子に化粧をしてやるのだ、と。


化粧されたお地蔵さんが好きなMorris.だが、これにそのような意味合があったとは知らなかった。
森崎という姓をはじめ、朝鮮、与論島、九州などなど、Morris.との因縁深いことどもが多いのだが、やはりMorris.は彼女の良い読者にはなりきれないでいる。
本書には数篇の詩が引かれている。そのなかで印象深かったものを一篇だけ引用しておく。おりがあれば、彼女の詩集「地球の祈り」なども読んでみたい。

出雲少女 森崎和江

親のない児をうんでしまった
ゆうやけを食べた駒のように

うんだものが親さ
さざなみは岩にたわむれ

海へ散る雨あしに似て
わがうろこはこぼれつづける

とうさんほしや
かあさんほしや

人の児のしわぶきにぬれ
加賀の潜戸(くけど)はがらんどう

われをうみたまいし父のごとく
われをうみたまいし母のごとく

海鳴りにこころ奪われ
親のない児をうんでしまった

とうさんは青い石
かあさんは青い石


2011055

【女弟子】有吉佐和子 ★★★ 有吉佐和子選集第三巻で、中編の「女弟子」と6編の短編が収められている。短編の中では「水と宝石」は前に読んでたが、「キリクビ」「まっしろけのけ」の2編がまずまずだった。Morris.は有吉は基本的に長編しか評価しない(^_^;)
「女弟子」は、当然踊りか芸事の話だと思い込んで読み始めたのだが、華道、それも若くて美貌の前衛華道家衛藤一と、それを取り巻く、3人の女性、八重子、たつ子、テルミとの、破天荒な愛憎劇だった。しかも衛藤には大阪に新婚の褄光枝もいた(^_^;)

「まだ怒ってんのか?」
「ううん。ただ、こんなところじゃなくてちゃんと結婚してからにしてほしかったんだけど……」
先生は、はっとしたらしいのです。射すくめるように私を見て、私の顔を指先で花をあらためるときのように撫でてから、
「可哀そうに。悪いことしたなあ。堪忍してや」と行って、唇を寄せてきました。
関西弁には何か不思議な魔力があるのでしょうか。東京のことばよりも、意味合はあいまいなのに、粘着力が強くて、そうです。花でいうなら蜜花植物の花に似ています。花は鮮やかに美しいものは稀なのに、その匂いが甘く空気を染めて昆虫を誘うあの魅力です。

物語の語り手八重子が最初に衛藤と床を共にした直後の会話である。このときは八重子は結婚できると思い込んでたわけで、初めから騙されてるわけだが、八重子は懲りずに際限なく騙されていく。資産家の妻であるたつ子、世代の違う若いテルミとの三つ巴の衛藤争奪戦(^_^;)は次第に壮絶なものになるのだが、衛藤の持病の「痔」の手術で、一時的休戦になる。その後はまた再燃するが、愚鈍で目立たない褄の妊娠で八重子以外の二人は衛藤のもとを去っていく。しかし八重子だけは、離れられずにいる。
作品としてはかなり無理のある展開で、そのくせついつい読み始めると最後まで読まずに居られなくなるという、有吉ならではの、作品だった。


2011054

【この世でいちばん大事な「カネ」の話】西原理恵子 ★★★☆☆ \(^o^)/さっそく借りてきたぞ。理論社「よりみちパン!セ」シリーズ中、これだけは読んでおかなくては!!と思ってたこの本。
西原の半生記といったおもむきで、大半はすでに知ってることだったが、それでも面白くてためになった(^_^;)

お金が無いことが人をどれほど追い詰めて、ボロボロにするのか。そのあらゆるパターンを、わたしは見たと思う。

西原が産まれた高知の浦戸という港町は、アル中の父は早く亡くなったものの、祖父母に可愛がられて、それなりに楽しい思い出の地だったようだが、次に母が再婚して引っ越した工業団地の待ちではかなり悲惨な暮らしを余儀なくされたらしい。

貧乏は病気だ。それも、どうあがいても治らない、不治の病だ。
長い歳月をかけて積み重なったものがいったん決壊を始めたら、人は、押し寄せる流れに抵抗することもできない。ただずるずるとのみこまれていくだけ。
貧乏っていうのは、そうやって土砂崩れみたいに、何もかにもをのみこんで押し流してしまう。そういうこわさを、わたしは、あのころに見て、知った。


「地獄を見た」ものの業の深さと、凄みを感じる。

何かをやりはじめたとき、誰もが最初にぶち当たる壁は、自分の実力を知らなきゃいけないってことだと思う。
他人とくらべて、自分の何がちがっていて、どこがどう足りていないのか。
それがちゃんと自分でもわかっていないと、その先の展開も、あいまいでなりゆきまかせのものになてしまうからね。どんなことであれ、「客観性を持つ」のは、人がまず自分なりのスタート地点にたつために、とても大切なことだった。


これはMorris.も「六十の手習い」始めるときに肝に銘じることにしよう。。

「才能」って、人から教えられるもんだって。
いい仕事をすれば、それがまた次の仕事につながって、その繰返し。ときには自分でも意識的に方向転換しながら、とにかく足を止めないってことが大事。

他力と自力のどちらも「本願」になりえるんだという訓え(^_^;)

マイナスを味方につけなさい。今いるところがどうしても嫌だったら、ここからいつか絶対に抜け出すんだって、心に決めるの。そうして運よくぬけだすことができたんなら、あの嫌な、つらい場所にだけは絶対に戻らないって、そう決めなさい。
プラスばっかりだからって、いい人生になるとは限らない。生きていけば、そういうこともだんだんわかってくる。プラスばっかりの人って、自分の居場所がすでに心地いいから、そこからなかなか歩き出せなかったりするしね。
だからってもちろん、「マイナスでよかった」なんて言うつもりもない。
あんなかなしい、つらい思いはにどとしたくないし、自分の子どもにだってさせたくない。
だけど、たまたま配られた札がぜんぶみなすだったら、それをいつまで嘆いてたってしょうがないよね。ひっくり返してプラスにすることを、かんがえなくっちゃ。


西原流「プラス志向」?。

ギャンブルっていうのは、授業料を払って、大人が負け方を学ぶものじゃないかな。その授業料を「高い」って思うんなら、やらないほうがいい。まして本気で儲けようだなんて思う方が、まちがい。

お金ってつまり「人間関係」のことでもあるんだよ。

お金はさびしがりやです。友達の多い方にすぐ行ってしまいます。

ブッ飛んだ額の「授業料」を払った西原にして言えるお言葉。

従業員が従順で、欲の張らない人たちばっかりだと、会社の経営者は喜ぶよね。「j働き者で欲がなく、文句を言わない」というのがまるで日本人の美徳のひとつみたいに言われてきたけど、それって働かせる側にしたら、使い勝手がいい最高の「働き手」じゃないかな。
そういう人間がそだつように戦後の学校教育ってあったって思うし、そういう人間を使うことで日本の経済成長もあったと思うけど、もう、単純な掲載成長なんか見込めないような今の時代に、そんな金銭教育のままでいいんだろうか。

サイバラ自分が稼いだこの「カネ」は、誰かに喜んでもらえたことの報酬なんだ。
そう実感することができたら、それはきっと一生の仕事にだって、できると思う。


カネの話「も」大事だよな。

こう言っちゃなんだけど、「ニュースなんて、オンナどうしのグチやケンカと一緒よ」って思って、見ているところがある。
自分の都合のいいことしか言わない。自分の国の利益になることしか流さない。それが「ニュース」って言われてりるものの実態じゃないかって思っている。

なぜわたしが、自分が育ってきた貧しい環境から抜け出せたのかを考えると、それは「神さま」がいたからじゃないかって思うことがある。
もしかしたら「働くこと」が私にとっっての「宗教」なのかもしれない。
だとしたら、絵を描くのが、わたしにとっての「神さま」になるのかな?

人が人であることをやめないために、人は働くんだよ。働くことが、
生きることなんだよ。
どうか、それを忘れないで。


やっぱり西原、好きっ!!!!
発行元の理論社は実質上倒産して、その時点で、著作者への原稿料未払いなどが多発したようだが、西原のことだから、きっちり落とし前はつけたことと思う(^_^;)


2011053

【女二人のニューギニア】有吉佐和子 ★★★☆☆ 1968年に有吉が学生時代から友人の文化人類学者畑中幸子の誘いに応じてニューギニアの奥地に一ヶ月ほど滞在した記録で、帰国直後に週刊朝日に連載された。
前の年の「華岡青洲の妻」の大ヒットで、懐と時間に余裕の出来た有吉が幼児期を過ごしたインドネシアと東南アジアの旅のついでに、ほんの一週間ほど地球最後の未開地を物見遊山するつもりが、現場の常軌を逸した状況の中で、ぼやきまくる、壊れる、八つ当たりする、これが何ともめちゃくちゃ面白い。40歳の女性二人が、秘境ニューギニアで、何とも得体のしれない漫才コンビを組む(^_^;)というのも可笑しい。
帰国後マラリアにかかり、死にかけたところは可哀想だったが、こういったノンフィクションものを書いても有吉の作家意識の発露というのはものすごいものがあると感嘆するしかなかった。


2011052

【こどものためのお酒入門】山同敦子 ★★★ タイトルだけで思わず手にとってしまった。

未成年はお酒は飲めません。それなのに、なぜ私が「お酒の本」を書いたのか。それは、お酒が持つさまざまな「物語」をみなさんに伝えたいからです。
まずは、お酒の原料のこと、作り方、人類とお酒の古いつきあい、自然の恵みと人間の叡智が産み出した宝物であり、大切な文化としてのお酒、お酒造り名人の紹介。
この本を読んでみなさんがお酒、飲んでみたいなあと思ったら、本望です。でも、あと数年、成人するまで待ってくださいね。待っただけ、想像をふくらませただけ、最初の一杯はおいしいはずですから。


前書きから、大幅に刈りこんで(^_^;)引用したが、要するに知識としての酒をこどもにもわかるように、解説した本である。
巻頭付録前書きに続いて5種類の酒(日本酒・ビール・ワイン・焼酎・琉球泡盛)の大まかな解説と製造過程を、製造者自身の語りとの写真で紹介し、その製造者へのインタビューで締めくくるという形式である。おしまいに「酒屋の主人と、ソムリエのインタビューという構成。Morris.としてはウィスキーがないのが、不満だったが、大抵の酒は嫌いでない(^_^;)Morris.には、面白いネタも多かった。

「お酒は嗜好品。みんながそこそこいいと思う無難なものより、好きな人も嫌いな人もいるようなものに、私は魅力を感じるんです。絵画や音楽と似ているところもあります」(浅舞酒造 森谷康市)

「ビールの基本的なスタイルは大きく分けて20あり、細分化すればその何倍にもなる。世界中にある約五千箇所の醸造所で、様々なスタイルの約1万五千銘柄のビールが生産されている。(「世界のビール案内」晶文社)

チェコの代表的なビールスタイルの「ピルスナー」は、日本で最も一般的なビールと同じく、さわやか! という味。イギリスの「ペールエール」は濃い紅茶のような色で、コクのある、静かにうなずきたくなる味。ベルギーの「ベルジャンスタイルウィート」はややオレンジ色がかっていて、濾過していないために、うっすら濁りがあり、オレンジの皮やスパイスなどいいj香りで苦味は少ない。アメリカのスタイルのひとつである「アメリカンブラウンエール」は、お花畑や果物を想像する華やかな香りかつ、苦みしっかりの味。ドイツのスタイルは真っ黒で、泡はモカ色の「シュバルツ」。コーヒーのように香ばしい香り、泡はクリームみたいに甘い。チーズケーキなどにもきっと、よく合いそう!(舞浜地ビール工房 園田智子)


他にもいろいろ知識や、造る側の熱い思いなども開陳されていたが、どこか隔靴掻痒というか、綺麗事な発言が多くて鼻白むところもあった。著者の姿勢や文体が、Morris.に合わないようだ。
巻頭付録の「ワインのフレーバー」の詳細な一覧表と、酔いの状態の表は興味深かった。どちらも、別書からの引用だが、整理して孫引きしておく。

ワインのフレーバー●(「きき酒の話」大塚健一より)
A.果実香
1.柑橘-グレープフルーツ、レモン
2.ベリー黒苺、ラズベリー、イチゴ、黒スグリ
3.木の果物
4.トロピカル
5.乾燥果実
6.その他
B.野菜香
1.生-果梗。刈草、ピーマン、ユーカリ、ミント
2.缶詰-グリーンピース、アスパラガス、青オリーブ、黒オリーブ、朝鮮アザミ
3.乾いた
C.ナッツ
クルミ、ハシバミ、アーモンド
D.カラメル
ハチミツ、バタースコッチ、ダイヤセチル、醤油、チョコレート、糖蜜
E..木香
1.フェノーリック-フェノーリック、バニラ
2.樹脂-セダー、カシ
3.焦げ臭-煙香、焼け臭、コーヒー
F.土臭い
1.土臭
2.カビ臭-カビ臭、カビたコルク
G.化学的
1.石油臭-タール、プラスチック、灯油、ディーゼル油
2.硫香-ゴム臭、硫化水素、メルカプタン、ニンニク、スカンク、煮たキャベツ、燃えたマッチ、亜硫酸、湿った綿、犬
3.紙臭-濾過し、湿ったボール紙
4.刺激-酢酸エチル、酢酸、エタノール、亜硫酸
5.その他-魚臭、石鹸、ソルビン酸、フーデル油
H.刺激
1.温感-アルコール
2.冷感-メントール
I.酸化
アセトアルデヒド
J.微生物
1.酵母臭-フロール酵母、オリ
2.乳酸-塩キャベツ、酪酸、汗臭、乳酸
3.その他-馬臭、ネズミ臭
K.花香
ツナロール、オレンジの花、バラ、スミレ、ゲラニスム
L.スパイシー
クローブ、黒胡椒、アニス


これは、どこかでワイン飲むとき、蘊蓄垂れるの役立ちそうだ(^_^;)。温感がアルコール、冷感がメントールというのは分かりやすいが、醤油、ハチミツ、チョコレートがいずれもカルメラ臭というのはちょっと意外である。ニンニクの臭いは硫香かあ。これは面白い表である。匂い(臭い、香り)というのは、一筋縄ではいかないもんな。この表にも、肝心な匂いがいくつも抜けているような臭いがする(^_^;)

アルコール血中濃度と酔い● (社団法人アルコール健康医学協会による資料)

酔度 血中濃度  酒量
日本酒 
 酒量
ビール
酒量
ウィスキー 
酔いの状態 
 1.爽快期  0.02~0.04%  一合  中瓶1本  シングル2杯 ・爽やかな気分になる
・皮膚があかくなる
・陽気になる
・判断が少し鈍くなる
 2.ほろ酔い期  0.05~0.10%  二合  2本  3杯 ・ほろ酔い気分になる
・手の動きが活発になる
・理性が失われる
・体温上昇、脈が速くなる
 3.酩酊初期  0.11~015%  三合  3本  6杯 ・気が大きくなる
・大声になり、怒りっぽくなる
・立てばふらつく
 4.酩酊期  016~0.30%  六合  6本  9杯 ・千鳥足になる
・何度も同じことを喋る
・呼吸が速くなる
・吐き気、嘔吐が起こる
 5.泥酔期  0.31~0.40%  一升  10本 ボトル1本  ・まともに立てない
・意識がはっきりしない
・言語がめちゃくちゃになる
 6.昏睡期  0.41~0.50%  一升二合
以上
 12本以上  それ以上 ・揺り動かしても起きない
・大小便は垂れ流しになる
・呼吸はゆっくりと深い
・時に死亡することがある

これは印刷して、壁に貼っておくべきかも(>_<) Morris.は自信を持って「酔度6」まで達したことが(何度も)あるようだ(^_^;) いまのところ、死亡は免れているみたいだが。
ところで、本書は理論社の「よりみちパン!セ」という、YA(ヤングアダルト)新書シリーズの一冊で、第5期40冊近く出版されているらしい。最終ページのラインナップみたら、みうらじゅん「正しい保健体育」、西原理恵子「この世でいちばん大事な「カネ」の話」など、面白そうなのが並んでいる。これはチェックせねばと、ネット見たら、何と理論社は昨年事実上倒産(>_<)してたようだ。児童文学では福音館と並んで、あまりに大きい存在だっただけに、いまさらながらびっくりである。それにしても、Morris.の世間の出来事の無知ぶりをこんなところで証明することになったかもしれない。
いちおう、どこかの子会社として新理論社みたいな形で継続してるようでもあるが、ネットの関連記事を見る限りでは、悲しすぎる(印税未払いなど、会社の不誠実ぶりな対応)話がてんこ盛りで、ちょっと落ち込んでしまった。


2011051

【不信のとき】有吉佐和子 ★★★ 1967年、日経新聞に連載されたもの。選集の作品一覧の惹句には「バーのホステスとの情事を楽しみながら、部長に昇進する中堅サラリーマンと、職業を持つその妻--不信に満ちた男と女、夫と妻の愛憎を描く」とある(^_^;) まあ表面的にはそのとおりなんだろうけど、これはフェミニズムとはほとんど無縁の立場から書かれた、女への応援小説なのかも知れない。
一見サラリーマン小説のようだが、騙したつもりで騙される男の他愛無さが、女の視線で描かれてる。しかし、当時これを毎日読んでた日経新聞読者のサラリーマンたちにとっては、かなり怖い小説だったのではなかろうか。

昔、男には敷居をまたげば七人の敵がいるといわれて、だから帰れば手足を伸ばして大安心をするように女が奉仕するということになっていた。世にこれを封建制度といい、旧来の家族制度とも呼ばれ、その見地から長い間、女性解放が叫ばれていたのである。
敗戦後、さまざまなものたちが破壊された中に、進駐軍の手によって、男女同権、男女平等、あるいはレディ・ファースト(婦人優先)という考え方が植えつけられた。それから強くなったのは女と靴下だという比喩も産まれた。無自覚な女たちは有頂天になって喜び、それを享受し、結果は一言にして云えば「もらった病気は重い」というのが、現状である。
婦選運動などに苦闘した先輩たちの、遂に開き得なかった道を、彼女たちはいとも気軽く歩いていて、アメリカの女よりも、中国の女よりも、質的には低下してしまった。権利は主張するが義務を怠り、男女の人間的平等を「女だから許される」と誤解し、ようやく公娼を廃止した文化国家の中で、玄人女が素人顔によそおう一方、一般家庭の主婦の中に玄人と見分けのつかない気風が吹きこまれた。元凶は、週刊誌やデパートなどの商業文化である。革新的進歩的文化人にでも分析させれば、それを「主婦の上に現われた植民地的現象」とでも云うであろうか。


これも、女性作家だから書ける類の文章かもしれない。


2011050

【針女】有吉佐和子 ★★★☆ 1969年から70年「主婦の友」に連載された作品。孤児の清子と養い親の仕立屋むう帝大生の息子と惹かれあうが、息子は学徒出陣で出征、清子は針を踏んだことが原因で跛になる。
戦後再会した二人だが、清子の引け目と母の思惑で、上手くいかない。清子は洋裁学園を開く女性について自立を図る。息子は戦争で放心したまま清子と一度は肌を合わせるが、「きけわだつみの声」を読んでいる清子を殴って去る。これが、二人の新しい人生が始まるのではないかというところで物語は終わる。
例によって、これが昭和、それも戦後20年を経ての作品とは思えないほどの、大時代的なしろものである。正直言って、今年、有吉を読み続けると決心したのは、とんでもない気の迷いだったかも、と不安になったが、それでも、やっぱり面白く読んでしまった(^_^;)

昔と違って色糸が豊富でないので、赤と黒の絹糸を場所によって変えて使っている。この工夫はしかし楽しいものだった。三五郎に仕込まれている頃は、布地と糸の色を揃えることの勘はきいたが、まさか糸も布もまったく不如意になったときの注意まではきいていなかった。
表を縫いあげると、長い竹の物差の中央に紐を結んで即席に、衣紋掛けを作り、吊す場所を探した。ひさしぶりで部屋のどこが南で、どの方角が東かを考えた。着物は北や西に向けて吊すのを忌むのである。そんなことは清子の年代までの日本人には常識なのだけれども、洋服をミシンで縫っているときはあまり考えたことがなかった。


こういった、時代常識の消失への、さりげない批判も、Morris.には貴重なもののように思われる。


2011049

【夕陽丘三号館】有吉佐和子 ★★★ 1970年(昭和45)毎日新聞連載。翌年にはTVドラマが放映され、その後映画化されるなど、大きな反響を巻き起こした作品である。
東京郊外の総合商社の社宅内の、家族同士の、付き合いや葛藤を描いた作品で、特に主婦の優越感、劣等感、見栄、欺瞞、焦燥感、競争意識、子供への教育熱……と、Morris.には、無縁の世界ではあるが、それでも、たまらんなあ、と思わせられる世界で、それでも、やっぱり面白いというのが、有吉ならではの力技である。

「誰が考え出したのか知らないけれど、社宅なんて残酷この上もない制度だと思うわ。一家ぐるみで会社に二十四時間も拘束されることになるんですものね。言いたいことも言えず、亭主の会社における地位も身分も、なまなましく妻に分かってしまうのよ。となりの旦那さんが自分の夫より優秀かそうでないかは、同じ屋根の下で暮らせば一週間で分かってしまうわ。私は出て行くときめてから、まあ十五年も、よくも社宅暮らしを続けたものだって自分に呆れてますの。」

「ええ、夫に先の見込みがなければ、子供に賭けるのは母親ならば当然だって、井本さんの奥さんは意気天を衝くような具合よ。家賃なんか、子供への投資だと思えば安いものだって。物価は上る一方で、お金なんか持ってればすぐ紙屑のようなものになるのだから、有効に使うのが一番上手ないきかったですって。どんな株に投資するより子供が一番いいって」
「恐ろしい時代が来たものだな」
浩一郎は本心からそう呟いていたいったいいつ頃から日本の国の中で、こんな猛烈な気風が育っていたのだろう。彼が育った時代には、子供の成績を親が自慢することはあっても、子供の進学のために一家をあげて転居するようなことはなかった。修身の教科書に孟母三遷の教えは載っていたが、それを真に受けて実行するような親などいたためしがない。それが越境入学のために偽装離婚して、合格すると安い社宅から過密都市の高いアパートへ飛び出して行くことになる。その理由が、夫よりも、子供を選んで将来を賭けたからだという。

「教育熱って、妻の欲求不満のはけ口なのじゃないかしら。井本さんの奥さんって、欲求不満のかたまりみたいな方だったでしょう?」


子供への教育を投資とみる井本婦人にかぎらず、世間の教育ママの究極の希望とは、大部分が息子の社会的成功、いわゆる将来「天下り」の恩恵を受けるくらいの地位や役職にまで登りつめてほしいということなのだろう。明治時代から続く「偉くなってほしい」願望の、戦後版と言えるかも知れない。


2011048

【海暗】有吉佐和子 ★★★☆ 伊豆諸島の御蔵島が、米軍射爆場候補地となって騒ぎが起こる。この島で生れ育ち、80歳を越えるまで、一度も本土に足を踏み入れたことのないオヨヨン婆は並外れたバイタリティの持ち主だが、彼女の率直な発言には感動を覚えた。
初期の作品「私は忘れない」につながる、離島の自然の魅力と過疎島ならではの問題点も紹介しながら、島を離れる若者と老人の、どちらにも肩入れせず、淡々と状況を描く有吉の姿勢は、好ましい。

「とんでもねえことを云うぞ。おい、時子、お前はとんでもえねことを考えてるぞ。島を射爆場にしてご先祖さまにすむと思うか。御蔵の御山は宝の山だぞ。お前の爺婆のそのまた爺婆の代から植えて育ててきたツゲやクワがびっしり生えてるこの島に、アメリカの爆弾が落ちるのを、なして讃成できるか。とんでもねえぞ、時子。日本は戦争を捨てた国だ。日本は戦争でひでえ目に会ったぞ。日本人はもう二度と戦争はしたくねえと思ってるのに、そこになしてアメリカの爆弾が降る? こりゃあ、とんでもねえ可笑しな話だぞ。支邦の隣の戦争はお前、もう二十年も続いてるぞ。その国の迷惑を考えてみろ。爆弾がふるか知ゃあねえというだけで御蔵はこれだけの騒ぎになってるのに、支邦の隣にゃあ毎日本当に爆弾が落ちてるというだ。日本にある基地はよ、そこへ爆弾運ぶための中継地だという話でねえか。射爆場は、そこへ爆弾落すための練習場だ。そんなことに場所貸したり迷惑引き受けたりして、ええと思うか。俺の兄さんも長男も戦争で死んだが、名誉の戦死も、名誉でない戦死でも、戦争で死ぬのは無駄死だぞ。俺は勘太が、テニヤンで無駄死したとは思いたくねえ。日本が戦争に負けたから無駄死だったと思わねえからだんきゃ。日露戦争には勝ったけどもよ、俺の兄さんも今から思えば何のために死んだのかよく分からねえぞ。戦争が、お前、何より無駄だ。こんなおっかねえ無駄なもなあねえ。俺は日本だけでねえ、どこの国の戦争も反対だ。俺は島が射爆場に反対するのは、戦死した島の人間を無駄死で終らせねえことだと思うぞ。墓地へ行って聴いてみろ。戦死した連中は、みんな戦争反対だ。生きてる人間より大反対だぞ。おい、時子、聞いてるか」

この作品は1967年から68年にかけて「文藝春秋」に連載されたもので、長引くベトナム戦争への嫌悪感が色濃く表れている。
それ以上に、戦争そのものへの、ストレートな反発は、現在読んでも(今読んでこそ、なおさら)、共感を覚える。


2011047

【私は忘れない】有吉佐和子 ★★★ 女優の卵万里子が、失意の気分転換に訪れた辺鄙な島(奄美諸島の黒島)で、島の自然や貧しい人々の生活に触れる。台風で帰りの船が来ないなか、自然の猛威と、助け合いの精神に目覚める。東京に戻った万里子は、化繊メーカーの専属タレントに転身するが、スポンサーが黒島に送った2台のテレビで、まりこの姿を見た島民は感激、手紙のやり取りで、万里子も新しい生き方を確信する。といった、ストーリとしては、いかにも、作り物っぽいが、有吉のその場その場での、登場人物の興奮ぶりが読者まで巻き込んでしまうところは、凄いと思う。


2011046

【ぷえるとりこ日記】有吉佐和子 ★★★ ニューヨークの名門女子大生がプエルトリコに研修旅行に行く、そのなかの日本人留学生会田崎子と、典型的なヤンキーガールジュリアとの日記を交互に配して、両者の差異と、プエルトリコの社会状況、問題を炙り出すという、かなり問題意識の高い作品である。
例によって、極端な感情の昂ぶり、余りに図式的な発言の続出であるし、後半のプエルトリコ貴族階級?跡取り息子の崎子への執着は鼻白むものがあるが、それでも最後まで一気に読ませる有吉の技には勝てない(^_^;)
月報の大江健三郎の鼻を括ったようなものいいがおかしかった。


2011045

【連舞/乱舞】有吉佐和子 ★★★☆☆ 新進舞踊梶川流の町師匠寿々の娘秋子と、家元が寿々に産ませた妹千春、姉妹の成長を通して、踊りの世界と、戦時、戦後の社会の関わりの仲で、才能の無いと思われていた秋子の思いがけぬ変身、開花を描く。
有吉版女の一生の変奏であるが、Morris.には、この手の作品が一番好ましい。
「連舞」「乱舞」は別々の単行本だが、内容は二つ合わせて一つの長編と見るべきだろう。
しかし、こういった芸事を描くときの有吉は、本当に張り切っていて、はたから見ると微笑ましくさえなってくる。
家元制度を新興宗教に見立てるところなど、当時としてはかなり大胆な発言もあるが、結局のところ有吉はこういった世界が大好きなのに違いない。


2011044

【写真表現入門】 久門易 ★★★☆☆ 証明写真に始まり、人生のアルバム、報道写真、趣味の写真、芸術写真、写真を学ぶことまで、身近な写真から一歩先を目指す、写真の撮り方の指南書。技術より、いかにして他人に自分の思いを伝えられる写真を撮るかということを、実践に裏打ちされた平易なユーモアある文章で綴ってあり、Morris.の好きな「面白くてためになる」一冊だった。
「写真道場」という写真館を設立して、そのなかでの体験が本書に反映されているようだ。
いわゆる小ネタも随所にあった。

デキる人に見せたいなら、斜に構える! 顔は正面を向きつつ、身体を少し横向きにするだけのことですが、これ、意外に慣れが必要です。ちょっと鏡の前で実演してみてください。たったこれだけですが、いわゆるポートレート風になり、貫禄が増して見えることがわかります。「斜に構える」とは、武道では半身の構え、つまり相手にすきを見せない身構えを指します。

自分の遺影は自分で用意し、指定しておきたいものです。あくまで、自分自身のためということで。

一部分しか写さないか、背景によって物語を感じさせるか、のいずれかを極端に変えるのがポイントです。どっちつかずの中途半端になると、見る側はどちらに向けて想像力を働かせればよいか困惑するため、面白みに欠けるのです。

実は写真において、何を見せるかよりも、何を見せないのかこそが表現上の重要な工夫なのです。

撮りためた大量の写真、収集した機材は、時間を見つけ、心を落ち着けて整理しなおしておくことを強くオススメしたいと思います。写真は、選択こそが、本質です。同じような写真は一カットだけ残す。使わなかった写真は思い切って消去しましょう。


最後の写真の整理、消去はMorris.のように、デジカメ画像中心派にも必要な作業だと思う。
DVD-Rなどに、何でもかんでも保存するより、月単位くらいでセレクトしていらない画像は消去するくらいの気持ちが大事ではないかと思う。
Morris.の趣味である写真絵葉書は、気に入った写真の分散保管?という意味でも効果的なのかな?


2011043

【歌謡曲】 高護 ★★★★ 2011年2月発行の岩波新書である。60年代から80年代の30年間を中心に「時代を彩った歌たち」をの詞、曲、サウンド、歌手、背景など、きめ細かく、実に的確に分析していることに圧倒されてしまった。
その音楽的センスと知識は、只者ではない。ウルトラ・ヴァイヴという、音楽関連会社を作り、「歌謡曲名曲名盤ガイド」シリーズを出してるなど、かなり本格的らしい。また、歌詞への言及も半端ではなく、歌謡曲の歌詞の力を再認識させてくれた。
ざっと200曲くらいが取り上げられ、そのなかでも特に50曲余りがきちんと解説されている。とりあえずその曲名・歌手・作詞・作曲・発売年の順で列記しておく。

「黒い花びら」水原弘 永六輔 中村八大 1959
「僕は泣いちっち」守屋浩 浜口庫之助 浜口庫之助 1959
「潮来笠」橋幸夫 佐伯孝夫 吉田正 1960
「上を向いて歩こう」坂本九 永六輔 中村八大 1961
「王将」村田英雄 西条八十 船村徹 1961
「なみだ船」北島三郎 星野哲郎 船村徹 1062
「ヴァケーション」弘田三枝子 漣健児 大沢保郎(編曲) 1962
「恋のバカンス」ザ・ピーナッツ 岩谷時子 宮川泰 1963
「高校三年生」舟木一夫 丘灯至夫 遠藤実 1963
「柔」美空ひばり 関沢新一 古賀政男 1964
「星娘」西郷輝彦 浜口庫之助 浜口庫之助 1965
「君といつまでも」加山雄三 岩谷時子 弾厚作 1965
「骨まで愛して」城卓矢 川内康範 北原じゅん 1966
「悲しい酒」美空ひばり 石本美由起 古賀政男1966
「女のためいき」森進一 吉川静夫 猪俣公章 1966
「恋のハレルヤ」黛ジュン なかにし礼 鈴木邦彦 1967
「君だけに愛を」ザ・タイガース 橋本淳 すぎやまこういち 1968
「愛のさざなみ」島倉千代子 なかにし礼 浜口庫之助 1968
「恋の季節」ピンキーとキラーズ 岩谷時子 いずみたく 1968
「ブルー・ライト・ヨコハマ」いしだあゆみ 橋本淳 筒美京平 1968
「いいじゃないの幸せならば」佐良直美 岩谷時子 いずみたく 1969
「圭子の夢は夜ひらく」藤圭子 石坂まさを 曽根幸明 1970
「よこはま・たそがれ」五木ひろし 山口洋子 平尾昌晃 1971
「また逢う日まで」尾崎紀世彦 阿久悠 筒美京平 1971
「わたしの城下町」小柳ルミ子 安井かずみ 平尾昌晃 1971
「17才」南沙織 有馬三恵子 筒美京平 1971
「終着駅」奥村チヨ 千家和也 浜圭介 1971
「あの鐘を鳴らすのはあなた」和田アキ子 阿久悠 森田公一 1972
「恋の追跡~ラヴ・チェイス」欧陽菲菲 橋本淳 筒美京平 1972
「どうにもとまらない」山本リンダ 阿久悠 都倉俊一 1972
「男の子女の子」郷ひろみ 岩谷時子 筒美京平 1972
「喝采」ちあきなおみ 吉田旺 中村泰士 1972
「そして、神戸」内山田洋とクールファイブ 千家和也 浜圭介 1972
「ジョニーへの伝言」ペドロ&カプリシャス 阿久悠 都倉俊一 1973
「ちぎれた愛」西城秀樹 安井かずみ 馬飼野康二 1973
「北の宿から」都はるみ 阿久悠 小林亜星 1975
「春一番」キャンディーズ 穂口雄右 穂口雄右 1976
「横須賀ストーリー」山口百恵 阿木燿子 宇崎竜童 1976
「勝手にしやがれ」沢田研二 阿木燿子 宇崎竜童 1977
「舟歌」八代亜紀 阿久悠 浜圭介 1979
「ハッとして!Good」田原俊彦 宮下智 宮下智 1980
「スニーカーぶる~す」近藤真彦 松本隆 筒美京平 1980
「ルビーの指輪」寺尾聡 松本隆 寺尾聡1981
「夏の扉」松田聖子 三浦徳子 財津和夫 1981
「渚のバルコニー」松田聖子 松本隆 呉田軽穂 1982
「少女A」中森明菜 売野雅勇 芹澤廣明 1982
「ドラマティック・レイン」稲垣潤一 秋元康 筒美京平 1982
「悲しみがとまらない」杏里 康珍化 林哲司 1983
「十戒」中森明菜 売野雅勇 高中正義 1984
「熱き心に」小林旭 阿久悠 大滝詠一 1985
「ダンシング・ヒーロー」荻野目洋子 藤原仁志 馬飼野康二(編曲) 1985
「なんてったってアイドル」小泉今日子 秋元康 筒美京平 1985
「時の流れに身をまかせ」テレサ・テン 荒木とよひさ 三木たかし1986

永六輔の歌詞の最大の特徴は夢と希望に満ちていることである。それは戦後の混乱期を乗り越えて奇跡の復興に向かう時代の要請でもあった。また技法や物語ではなくテーマそのものが歌詞の本質であり核となっているところが、それ以前の歌謡曲や同時代のカヴァー・ポップスとの根本的な違いである。伝えるべき主題とメッセージが明確で、歌詞はそのためにある。
「上を向いて歩こう」は、イントロのわずか4小説のヴィブラフォンの美しい音色に、誰もがまず聴きほれる。この響きこそ中村八大唯一無二のサウンドであり、普遍的な独創性の証でもある。長調でキーはFの和声的長音階。構成はABABC×二回+ABAの各8小節。3番のAパートは凛とした口笛で後奏も同様である。Cは"幸せは 雲の上に"からはじまる曲全体の芯ともいえる重要なパートである。このCパートの登場は当時としては新しい。
続く"幸せは 空の上に"の"は"の音はレの#で半音になるが、コードはB♭mでここが決め手ともいえる箇所である。永六輔の歌詞は「悲しさの中の希望」がテーマと考えられる。その思いを音で表現した中村八大は、まさに音楽の詩人である。
坂本九はプレスリーの圧倒的な影響下にありながら、歌唱スタイルは彼固有のものである。これは声質と音域と歌唱法が大きく作用しており、高校の一年後輩の飯田久彦と共にロックン・ロールの日本語による大衆化に広く貢献した。(「上を向いて歩こう」)

作曲家筒美京平の特徴は次の三点に要約される。
1.先進性
2.独創性
3.大衆性
つまり、新しいセンスとオリジナリティとそこから生まれたヒット曲ということになる。筒美京平は歌謡曲史上最も偉大なヒット・メーカーとして記憶されるが、ヒット・メーカー筒美京平の真価は「良質」で「高水準」の作品を「量産」したことだろう。しかも、それはきわめて「長期間」にわたる。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」はレコーディングの前日の夜に橋本淳が電話口で口伝てに読んだ歌詞に筒美京平が一夜で曲をつけたと伝えられる。橋本淳の詞は珍しく七五調で、筒美京平は演歌風になるのを回避すべく工夫をこらしている。ポイントとなるのは"とてもきれいね"に続く"ヨコハマ ブルーライト ヨコハマの"箇所でこの歌詞の配置によって七五調から破型を生じさせている。キーはDmでハーモニック・マイナー(和声的短音階)。
出だしの"まちのあかりが とてもきれいね"のように八分音符を細かく丁寧に連ねていく符割りは筒美京平の特徴で、Bパートの”あるいても あるいても”も同じ手法でテンポ感を創出している。イントロの"ジャ~ン"はチェンバロとグロッケンとエレキ・ギターのハーモニーでコードはDm。シンプルなコードだが複弦楽器であるチェンバロとトレモロのかかったエレキ・ギターが不思議な響きを演出している。ビートルズの「ア・ハードデイズ・ナイト」の出だしのジャーンは再現不能なコードとして知られるが、この曲のイントロも印象的なボイシング(声部の配置と導き方)である。編成はドラムス、ベース、ピアノ、エレキ・ギター×2にチェンバロとグロッケンが参加。ストリングスは6・4・2・2の編成で、ブラスはやや変則的でトランペットとトロンボーンが各2本と思われる。総勢25名のゴージャスなポップス・オーケストラである。
8チャンネルのマルチ・トラックレコーディング以前は、歌手の「声」の音圧が小さい場合や抑揚の少ない場合は演奏全体の音量や音圧を歌にあわせざるをえなかった。つまりヴォーカルと演奏の関係に個性や差異を求めることには限界があったのである。8チャンネルのマルチ・レコーディングが普及する以前は全体のサウンドにおけるヴォーカルの個性にまで言及することは困難であり、レコーディング・エンジニアの仕事は「録音技師」という用語に象徴されるように、各パートをどのように歪みなくかつバランスよく録音するかという一点に限られていた。
いしだあゆみのヴォーカルは一言でいえば「オン・マイク」である。おそらく実際にかなりマイクに近づいてレコーディングしていると思われるが、音圧や声量の少ないウイスパー・ヴォイスではない。
いしだあゆみと奥村チヨの歌唱に共通する「小唄風」の歌い回しは同様の手法で、微細な表現を「レコーディング」という作業において可能にしたのは歌手の個性と技量はもちろんんだが、ヴォーカルのトラックが他の楽器類とは完全に独立していることにある。コンデンサー・マイクの発達とリミッターやイコライザーの進化によるそれら機材のコンビネーションが持つ意味と機能が新しく加わったことにより、それ以前のレコーディングでは捉えきれなかった細かいニュアンスまで磁気テープに固定(録音)することが可能になったのである。必然的にミックス・ダウンの重要度が認識され、以降「録音技師」は「レコーディング・エンジニア」という表現者へと変貌していったのである。(「ブルー・ライト・ヨコハマ」)

小説(散文)や詩(韻文)=文学はそれ自体が単独で作品として成立するが、歌謡詞や映画の脚本は作品の一部分である。映画の脚本は、描写や台詞を伴うカットとそのシークエンスによって成立する多元的構成要因の一部である。この点において歌謡詞と映画の脚本には共通性があるが、劇映画の脚本にとって重要なのは登場人物の造形であり、そこから導かれる行動原理である。これは小説に近い。一方、歌謡詞にとって最も重要なのは、旋律と歌唱と一体化された言葉によって表現される世界である。
康珍化は基本形としてシーンの連続性と展開に寄って物語を構築しており、作風や技法そのものが映画の脚本的である。安井かずみや橋本淳が画期的だったのは自由詩や散文詩の手法を歌謡詞に導入した点だが、康珍化は韻文で脚本的な歌詞を成立させた。これは80年代のルネッサンスともいうべき歌謡詞の大きな変革でもあった。(康珍化)

歌謡曲に限らず「歌」そのものを、このように分析解釈することで、歌が分かることにはならないのだろうが、何気なく聴き流していた歌の中に隠されたもろもろの一端を示唆してくれたというだけでも、本書は読み甲斐があった。
いくらでも引用したくなるのだが、やはり、これは本書を読んでもらうしかないだろう。


2011042

【出雲の阿国】有吉佐和子 ★★★☆ 昭和44年(1969)刊。単行本3冊、800p超えるから、いちおう大河小説と言えないこともない。
駆け落ちした出雲の鑪師と地下の女との間に生まれたお国が、女歌舞伎の創始者として活躍する中で、男との出会いと別れ、京都から江戸に上り、また出雲に帰って不慮の事故で亡くなるまでの、女の一生という、有吉の面目亦如というべき作品である。
例によって、いかにも芝居じみた場面展開、臭いといえるくらいの演出、ご都合主義と場当たり展開満載であるが、やっぱりMorris.は彼女の天衣無縫なものがたりの世界に引き込まれた。
しばしば思うことだが、小説の世界で描かれる、音楽や美術、色彩や調べというものは、読者の想像力を刺激させすれば、どのような高みにまでも達することができる。これが文芸、詩歌の世界を描くとなると、同じ土俵上の表現だけに無理が生じる。漫画だと、美術的な部分は描くことが困難になることと軌を一にするだろう。
そういう意味で本書でのお国の踊りは自由自在で、どこまでもMorris.の想像力を刺激してくれたのだが、脇役として登場する、音曲の素質に欠けながら、それに捕らわれ必死で練習しながらまるで物にならないお松という存在が気がかりだった。

お松は今年二十三歳になる。お菊より三歳の延長である。だが十三年並外れて熱心に喉を張りあげて唄い、歯を喰いしばって踊り続けてきても、お松の唄も踊りもいつになってもどこか調子が外れていて、上手の入口にも辿りついていあにあ。それを本人がどこまで気がついているのか。下手と気がついても、いつかはと堅く心を決めているのだろうか。お国はときどきお松を眺めて、ぶきみな思いに襲われることがあった。 
守口の里のお婆は、孫娘のお松の躰の中に猛々しく生き返っていいるような気がする。お松の唄も踊りも相変わらす下手であることには変りなかったけれども、お松の松葉蟹のように四角い躰には守口へ行って戻ってきたときから唯ならない力が漲っている。お国は稽古の最中にふとお松の気迫にうたれるごとに、死んだお婆の声を思い出した。唄を唄って何が育つか。踊りを踊って何が実るか。お松の唄も踊りも上手でこそないけれども、お婆の喚きを必死で押しかぶせようとして懸命になっているように見える。 


このお松に、Morris.はミニギターに夢中になってる自身の姿を投影してしまったみたいだよ(^_^;) 下手の横好きというには、いささか深入りしすぎたきらいすらあるもんね。
日本の楽器についての薀蓄には、いかにも有吉の取材好きが伺われる。鼓と三線の部分を引く。

鼓の皮は生後七日目の仔馬の皮を剥いで、その腹皮の最も薄い部分を裏に、脇腹の頃合いの皮を表にして、鉄(くろがね)の輪に張ったもんである。鼓の胴は桜の幹の芯を刳りぬいて、中を細く、端に広く形を整えたものであった。胴が枯れるほど、音が軽く通うようになる。表皮を強く打てば、音は胴のくびれで程よくくびれてから薄い裏皮にぶれて、幽かな共鳴を呼び起す。朱色の調べ紐は、二枚の皮の縁を千鳥掛けして皮を胴に密着させるだけでなく、その日の温度や湿度によって微妙に変化する皮の状態を調節する機能を持っていた。雨の日には強く締める。左手に掴んだ紐と胴を、右肩の上で引締めれば、皮は張って、右手の先で丁と打たれれば高い音を出す。左手と調べ紐の扱い次第で、鼓の音は柔かくも強くもなる。三九郎は、皮の流れに目を落として、祖父の声を再び聞いていた。打てよ、三九郎、打ちこんでこそ鼓はなるものよ。

中国では三絃と呼び、琉球では三線というこの楽器は、丸い小さな胴に蛇の皮を張って、長い棹をつけ、その上に三本の糸を張っている。糸の調節は棹の先にとりつけてある三本の糸巻で、それを操って張り方の強弱をつけ、斜に抱いて手の爪の先で糸を押えて右手で弾き、それで音程を変えるのである。じゃひせん、じゃびせん、またはそれがなまってじゃみせんとも呼ばれていたので蛇尾線、蛇味線などの文字を当てはめることがあり、日本の代表的な民族楽器である後世の三味線の原型とも言われている。もともと中国では蛇皮線に撥は使われず、人々は爪弾きか、でなければ骨製の小さなものを右手に持って弾いたものなのだが、日本ではまず琵琶法師がこれを使ったために琵琶と同じ撥で叩きつけるような奏法から始まっていた。 

 
ついでに岩波の古典文学大系44からも引いておく。

琉球から渡来した三絃楽器は、改造せられてまず盲人の手に取り上げられ、組歌の編成に始まり、急速に一節切の尺八と交代して歌舞伎踊・浄瑠璃・遊里流行歌の伴奏楽器となり、近世楽器の王座につき、劇場音楽を支配するに至った 
かくて芝居と遊里とが三絃歌謡の成長伝搬の主要なる場となった。これより先、説経と並んで行われた浄瑠璃は、三味線と共に人形操を伴なって進出して、芝居の座を組織し説経を圧倒するに至り、義太夫節の大成と相次いで成立した多くの流派の分立とを示したが、歌謡史的にはその語り物から謡物(唄物)あるいは歌浄瑠璃への歩みが注意せられる。上方唄は三味線組歌から長歌に進み、その範囲を拡大して行った。江戸長唄は、江戸の歌舞伎芝居に伴ない、長歌・歌舞伎踊歌・大薩摩を主体として幅を広げ、江戸三味線音曲の中心となった。江戸時代初期の小歌としては弄斎・投節の類が行われ、やがて端唄が成立したが、上方の端唄もまた江戸に勢力を移し、歌沢なだおがこれを代表した。三味線による小唄・俗曲・俗謡のたぐいは多岐にわたり、やがて潮来・よしこの・都々逸を産んだ。(志田延義 岩波「中世近世歌謡集」前書より) 

 
しかし、Morris.が一番楽しんだのは、本書のいたるところに散りばめられている称名や小唄、端唄などの中世歌謡の引用だった。古くは梁塵秘抄から、舞台になっている時代に一番ポピュラーだった隆達小歌、田植草紙、そしてMorris.最愛の「閑吟集」を出典とするものが多い。もちろんお国の踊りやストーリーに合わせてのもので、原典とは変わっていたり、組み合わせたり、恣意的ないんようだが、もともと俗謡は伝承の間にさまざまのバリエーションができるものだし、当意即妙、融通無碍なところが魅力でもある。和歌や漢詩の世界とは対極的な、その俗っぽさ、いい加減さがMorris.の好みでもあった。 
 
ふるさとや 出雲の国を 
あとにみて 
みやこは春の花ざかり 
花ざかり 
 
 
恋は 
重し軽しとなる身かな おもしかろしとなるみかな 
涙の淵に 
浮きぬ 沈みぬ 
 
 
花見れば 袖濡れぬ 
月見れば 袖ぬれぬ 
何の心ぞ 
 
 
ならぬ仇花 真白に見えて 
憂き中垣の夕顔や 
 
忍ぶ軒端に瓢箪は植ゑてな 置いてな 
心の連れて ひよひよらひよひよめくに 
 
 
何につけても末繁昌 家繁盛 
おう家繁盛 
金が湧くやら湯口が早い 湯口が早い 
それ 湯口が割れた 
心得て踏まいかな 蹈鞴 たたら 
えいとろ えいとろ えいとろえいな 
 
 
糸を綸るもよると言ひ、日の暮をもよると言ふ 
くるくるしきも何かせん 
くるよを待つこそ久しけれ 
 
 
見ずばただよからう 
見たりやこそ物を思へただ 
な見さいそ な見さいそ 人の推する 
さ見ないそ 
 
思ふさへこそ目も行き 
顔も見らるれ 
 
 
世の中はちろりに過る ちろりちろり 
何ともなやのう なにともなやのう 
浮世は 風波の一葉よ 
ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 
笹の葉に置く露の間に 味気なの世や 
 
 
心なしとは それ候よ 
冴えた月夜に 
黒小袖 
 
 
今結た髪がはらりと解けた 
如何様 心も誰そに解けた 
 
 
羨ましや 我が心 
夜昼 君を離れぬ 
 
 
赤きは酒の科ぞ 鬼とな思しそよ 
恐れ給はで 
 

我に相馴れ給はば 
興がる友と思すべし 
我もそなたの御姿 
打ち見にはおそろしげなれど 
馴れてつぼい山伏 
 
 
独り寝はするとも 嘘な人は嫌よ 
心は尽いてせんなやのう 
世の中の嘘が去ねかし 嘘が 
 
 
散らであれかし櫻花 
散れかし口と花ごころ 
 
 
ただ人には馴れまじものぢや 
馴れての後に 離るゝるるるるるるが 
大事ぢやもの 
 
  
我が恋は水に燃え立つ蛍 みづに燃え立つ蛍 
物言はで 笑止の蛍 
 
 
人の心は知られずや 真実心は知られずや 
憂き陸奥の忍ぶの乱れに 
思ふ心の奥知らすれば 浅くや人の思ふらん 
 
 
宇津の山辺の現にも 夢にも人の会はぬもの 
 
唯人は情あれ 夢の ゆめの ゆめの 
昨日は今日の古へ 
今日は明日の昔 

 
ただ人は情あれ 槿の花の上なる露の世に 
浮世は夢よ 幻よ ただ狂へ 
 
おりやれ おりやれ おりやれ 
おりやり初めておりやらねば俺が名が立つ 
只おりやれ 

 
またゆっくり「閑吟集」などを読み返したくなった。 


2011041

【昼は雲の柱】石黒耀 ★★★★ 震災三部作の三作目。「死都日本」が霧島の噴火、「災害列島」が東海地震、そして本書は富士山噴火という、わけで、これがまた予言にならねばいいが、と思いながら、やっぱり一気に読み終えた。
「死都日本」でも出てきた「火山神伝説」=人類の創造神話の根源を火山活動に据えるもの、を敷衍した言説が多く、いっそ、このタイトルで一冊上梓してもらいたいくらいのものである。

浅間信仰の紀元に関しては諸説ある。ポリネシア語だという研究者もいれば、アイヌ語だという人もいる。群馬・長野県堺の浅間山と同じ字なので、この火山への信仰を富士山に持ち込んだと考える人もいる。ところが、「火山神伝説」を著した火山学者は、大和朝廷がある理由で熊本県の阿蘇山に特別な感情を抱いたことが起源だと、不思議な推理をしている。
大和朝廷の主祭神アマテラスを祀った伊勢には、伊勢三宮というものがある。伊勢内宮と伊雑宮(いぞうのみや)、滝原宮のことで、伊雑宮は伊勢内宮の元宮、滝原宮は内宮の原型とされている。そして、その三宮のすぐ東には必ずアサマ山が存在するのである。伊勢神宮の東には朝熊山。本宮と別宮には別々な浅間山。つまり、伊勢三宮はアサマ山の西に何かの意図をもって造営されたのではないかと考えることができる。
伊雑宮はさほど大きな神社ではないが、立派な忌火屋殿(いわびやどの)がある。そして東にそびえるアサマの語源は阿蘇山で、アソヤマがアサマに訛ったのだと著者は言う。つまり、伊雑宮は阿蘇山の火から何かを守るために建てられたと主張するのだ。
地図上で浅間山と伊雑宮を結び、西へ延長してみると、九州の阿蘇山の南外輪山にぶつかる。高千穂野(たかじょうや)という外輪山の小ピークの下方、宮崎県高千穂町の上手である。その地点のことを地元の人は何故か『伊勢』と呼んでいて、たしかに国土地理院の二万五千分の一の地図にも『伊勢』と記載されている。
「火山帯には必ず熱気や熱水が湧く場所がある。火を使えない猿や鹿でも温泉には入りに来るから、熱泉は火よりずっと野生動物には親しみやすい熱源だ。何かの拍子に、ここで獲物を茹でて食べる習性を身につけた類人猿がいたと仮定してごらん。宮崎県の幸島の野生猿は、餌を海水で味付けして食べることを発見したから、ありえないことじゃない。火山ガスにやられて熱泉に落ちた鳥でも発見し、食べてみたら美味しかったというようなことがきっかけで、獲物を煮て食うようになった可能性は十分ある。」
「火山は石器に最適な火成岩を提供する。噴火すれば火を提供する。水が豊富な裾野は、乾期でも緑野を維持でき、餌となる生物が集まる。山があれば生物は高度分布化できるから、ただのサバンナに比べて複雑な生態系を作る。そうなると、気候が寒冷化しても温暖化しても、生物分布が上下移動するだけで対応できるから速やかな生物相の遷移が可能で、食料がとだえることがない。勿論、温泉に浸かる楽しみもある。こうして、火山帯で火山を見ながら暮らした猿人が継続的に繁栄し、進化して真人になったんじゃないかと私は考えている。つまり、火山がサルをヒトに変えたんだ。火山こそ、真の人類の創造神、火山神なんだ。だから、ちょうど、海から陸に上がった生物が血液に海の記憶をとどめているように、ヒトはDNAに火山神の記憶をとどめているのさ」

古事記や旧約聖書の事象を火山噴火で解釈するというのは、荒唐無稽なものではなさそうである。

現代でもよくある話だが、予算審査がないので、ごまかしやすい臨時予算。
公金でありながら、不透明な使用目的。
被害額を上回る復興予算が投入されても、道路が整備され、邪魔な信号が増え、箱物が立ち並んで役人の天下り先が増えるだけで、被災者の生活は復興されなかったりする。

これは、今回の東北災害の復興政策に関する警鐘ともいえる。
そして、本作の主人公富士山への言説には、当然耳を傾けるべきものが多い。

「たしかに日本人は小さい頃から『富士は日本一の山』と教え込まれるからな。実際は、火山としての山体容積なら北硫黄島の方が六倍も大きいし、山域面積では阿蘇の方が広い。日本一と言えるのは山頂の標高だけなんだがね」

「富士山の湧水量は一日500万トンもある。これは東京二十三区の水道需要量にほぼ匹敵する。つまり乱暴な言い方をすれば、東京には富士山が一つあれば都の水道局は要らないようなものだ。どこを掘っても清水が湧き出るからね。さらに、山全体の貯水量は、その数千倍と言われている。仮に少なく見積もって千倍としても50億トンだ。有名な黒四ダムは最大貯水量が2億トンだが、堆砂のため有効貯水量は1億5千万トンしかないから、富士山の方が黒四より30倍以上大きなダムということになる」

年間三千万人が訪れる富士山域は、言うまでもなく日本最大の観光地の一つである。観光産業への依存度は大きい。そのため、山梨・静岡両県は、これまでなるべく富士噴火の可能性について触れないようにしてきた。地元新聞が富士噴火について書く時は、極力控えめに短く隠し、間違っても東京のマスコミのようにトンデモ危機を煽ったりはしない。

山野のような自然科学者は、あるものをあるがままにとらえることを最善とするし、「災害は最悪を考えろ」というのが防災の基本だから、こうした風潮を苦々しく思うのだが、同じ自然科学者でもまったく違うスタンスの一派がいた。御用学者とか族委員とか言われる種類の人達である。2005年に破壊された固着域は局所的なもので、例えて言えば、皿の端に小さなヒビが入った程度のものだった。しかし、今回はサラの直径の20%のところにまで割れ目が広がってしまった。こうなると近いうちに残りの80%も割れて、大地震になるのではないか? という憶測が公然と囁かれ始めたのである。
ちなみに東京湾北部一帯に広がる皿、つまり想定震源領域あ全部ズレると地震規模はマグニチュード7.3。1995年の兵庫県南部地震に匹敵する大地震となり、死者は一万人以上、被害額は百十二兆円と予想されていた。即ち、年間国家予算の1・4年分が失われることになる。

「災害は最悪を考えろ」こそ、日本人が肝に銘じておく言葉であるな。
ばりばりの火山学者が解説を書いてるというのも、石黒作品が、単なるフィクションでなく、地質学的知識に裏打ちされた啓蒙的な作品であることを証明している。その解説から

富士山は活火山である。富士山は休火山という認識をお持ちの方も多いと思うが、「休火山」という言葉が学校の理科教科書から姿を消して、すでに40年近くになる。現在では、地表に噴気などの火山現象が見られなくても、将来噴火する心配のある火山はすべて活火山という言葉で呼ばれている。
現在の富士山の表面に熱異常や噴気はまったく見られないが、1960年代までは山頂の一部に熱い湯気の出ている部分があった。さらに歴史をたどると、確かなものだけでも奈良時代以降10回の噴火が記録されている。また、噴火していない時期にも、山頂に地熱による噴気の白い柱が遠望されることしばしばで、その姿は数々の和歌や俳句にも詠まれてきた。つまり、現在のように富士山が冷えている状態というのは、歴史的に言って珍しいことなのである。
想定外現象のうちの最たるもののひとつが、富士山では一万年に一度程度しか起きていない「山体崩壊」である。富士山は噴火堆積物が積み上がってできた美しい山体をもつが、このような山体がどこまでも高く成長できるわけはなく、時おり大規模な崩壊を起こすことがある。
富士山でもっとも最近起きた山体崩壊は、本書の中でも言及されている2900年前の「御殿場岩屑なだれ」である。調査の結果、このとき主に崩れたのはgン剤の山頂の東側に突き出ていた古い山体であったことが判明している。つまり、2900年前以前の富士山は東西に二つの峰がそびえるツインピークスだったのである。本書のストーリーはこの最先端の学術成果もうまく取り入れている。(解説 小山真人(静岡県大学教授)より)


Morris.は、「休火山」という概念そのものが無くなってるということすら知らずにいた。


2011040

【インビジブルレイン】誉田哲也 ★★★ 姫川玲子シリーズのたぶん4作目だと思う。それなりに面白く読めるのだが、Morris.は「国境事変」のイメージが強すぎて、他の作品読むたびに、肩透かしくわされたような気がする。
ヤクザと姫川のちょっとしたラブアフェアも、ちょっと反則のようでもあるし、うーーん、これはMorris.の無いものねだりなのだろうか?


2011039

【虚国】香納諒一 ★★★ 主人公が元探偵の廃墟カメラマン、というだけで借りてきたのだが、それほど面白くなかった。友人以上の好意を感じている女性ライターの事故と、最後の空振りは、ちょっと無理がある気がした。
45pの台詞中「手を拱いて」に「こまね」のルビがあったのも、Morris.には減点対象である(^_^;)
内容とは関係ないが、本文レイアウトで小口側(一番外側)の余白が異常に狭くて、落ち着かなかった。だいたい普通は15mm前後あるものだが、本書は4mmしかない。小学館のせいか、装丁者(片岡某)のせいなのかわからないが、ハードカバーの本とは思えない。


2011038

【まず石を投げよ】久坂部羊 ★★★ 「廃用身」「無痛」などで、Morris.に衝撃を与えた著者の作品で、本書は医学関係ライターをヒロインとした作品で、医療ミスの隠蔽をとりあげているが、どこか上滑りなところが多く、失敗作かもしれない。
アイヒマン実験とも呼ばれる、米人社会心理学者ミルグラムの電気ショックを使った実験のシミュレーションをTV番組でやろうというところは、勘弁してもらいたかった。Morris.は「ドッキリカメラ」みたいな番組は見るのも嫌である。
ヨハネ福音書からのタイトルの意図は、ラストで明らかにされるが、これもいかにも作り物めいている。


2011037

【永久男根 平岡正明】四方田犬彦編 ★★★ 平岡正明は一時期大好きで、作品が目につけば必ず読んだものだ。2009年7月9日に亡くなってたということを、遅まきながら本書で知った。つまり、ここ最近はあまり、彼の著作も読まず、関心が薄れていたということになるのだろう。
本書はその一周忌として(2010年7月9日発行)、生前彼と関わりのあった人々の回想や批評、コメント、を集めたもので、責任編集は彼と同時に斎藤緑雨賞を受賞した四方田犬彦である。
執筆陣は、四方田を始めとして、山下洋輔、マイク・モラスキー、相倉久人、平井玄、足立正生、内藤誠、大山倍達、森直実、中野義仁、梁石日、村中豊、田中優子、金原亭馬生という面々。


2011036

【有田川】有吉佐和子 ★★★☆☆ 有吉佐和子作品は読み続けてるのだが、仕事と酒のためになかなか読書控えが書けずにいた。
本書は有田川上流の蜜柑豪農の娘千代(実は拾われ子)が、有田川の氾濫に乗じて川下まで流され、川下の蜜柑村の女衆として働きながら、蜜柑相場師と結婚、明治、大正、昭和と生き続けるという、女の一生なわけだが、蜜柑そのものへの描写にも、有吉らしさが伺われる。

蜜柑の皮の干したものは陳皮と云って、漢方薬や支那料理の原料になる。春先にはからからに乾いた皮を纏めて買いにくる小商人がいるのであった。世帯を持ってから千代は、こうしたことも手まめにやるようになっていったが、それは手ひどい貧乏もする家の世帯持ちをよくするためんいという平素の心がけだけではなかった。「もったいない」千代は心の底からそう思うのだ。米という字は人の手が八十八回かかっているからそう書くのだという話があるけれども、蜜柑作りが蜜柑を黄金色に育てあげるまでの苦労は、米と較べて少ないことは決してない。米は一年一作だが、蜜柑は苗木(だい)に接木してから、それこそ手塩にかけて育てるのである。一本一本の樹を撫でさするようにして、熟れた実を採るまでの過程を思えば、食べ終わったあとの皮もぽいと捨てさるにはしのびない。だから蜜柑百姓たちは、袋から出さずに噛み砕いて嚥下してしまい、残った皮は干して薬屋に渡し、一切の無駄はしないのであった。誰も蜜柑を粗末には扱わない。

育てられた豪農の実の娘、妹の悠紀との愛憎も大きなテーマになっているが、洪水の生々しい描写が、先般の津波を連想させた。

悠紀が有田へ戻った齢の終りに、満州事変が勃発した。翌年早々には上海事変が起り、春には満州帝国が独立した。軍部の力が強くなっていくのは、政治に関心の高い紀州の人間たちには政友会の動きを見ているだけでも読みとれた。
「おかしな時代が来よったでえ」
貫太が腕をこまぬいて、呟くようになった。
丸川の景気は予想がつかなくなっているのであった。昔は青田買いをして、天候如何で当り外れが出たものであるのに、近頃は市場の蜜柑相場が狂うのである。不作の年に思いがけない金儲けが出来てみたり、かと思えば当たり年が低調でどうにもならなかったりする。かいしょかけて当るには、どうも釈然としない結果が続くようになり、それは貫太の性格にとって愉快なことではなかったのである。


こういった、時代描写もありよしらしいが、ここは、ちゃんと「腕をこまぬいて」を使ってることが嬉しかっただけ(^_^;)


2011035

【香華】有吉佐和子★★★☆☆ 恋多き母と芸者から旅館の女将となった娘の愛憎物語。というより、ほとんど疫病神みたいな母親に、苦しめられる娘の物語である。
読者はヒロインの娘に同情しながら、ついつい悪役の母の登場部分に目を離せなくなる。

楼主と女将とは話を続けていて、
「旦那はそうおっしゃいますが、若くなくっても、あれほどの容貌はうちでは少ないんですから」
「若くない女は、容貌がよくても時が来るとがたりと崩れるものだ」
「崩れるまでに借金は抜けますよ。たった一本で手が打てたのですからねえ」
「うむ」
「でも、そりゃ云ったより若くはないかもしれません。旦那の目利きは男の目利きなんで、私たちのとは違いますから」
「買ったあとで、値踏みしてもくだらんがな」
「そりゃ、そうですわね」
「売れるか売れないか、ちょっと見当のつかない玉だな」
「売れますよ、旦那。ともかく変り種ですもの、始めのうちだけだって……」
「うむ」
この会話は、云い合いとも思われぬのんびりした口調で交わされ、楼主は面白くもなさそうに、金ののべ煙管で吐月峰(はいふき)を叩いていた。
しばらくすると、襖の向うに人の気配がして、女中の改まった声がきこえた。
「ご免下さい。九重さんが参りました」
女将の目顔に云いつけられて、朋子とおちょまの二人は、襖の引き手に手をかけて左右へ一時に開いた。
女中と鴇母(やりて)を従えて、初見世の遊女が一人、立兵庫に結い上げた髪に数本の笄をさしたまま、まるで芝居の一場面のように両手をついて控えていた。目をさすような緋縮緬の長襦袢に、縫取りの紫地の衿をかけ、鴇いろのしごきを前結びにした上から、藤色裾模様の裲襠(うちかけ)を着た遊女は、顔をあげると楼主の顔を見た。赤い唇がこぼれ落ちるように動くと、都代は匂うように笑ったのである。
「あ……」
朋子は生れてからこのときほど驚いたことはなかったように思う。声が喉から口へ上る間に、もう消えてしまったのではなかったろうか。朋子が驚いているのを、楼主たちが気がついたかどうか。


2011034

【真砂屋お峰】有吉佐和子 ★★★☆ 江戸の堅実な木材商真砂屋の一人娘お峰が、石屋の次男で大工に弟子入りした甚三郎と相思相愛で結ばれるが、時代が真砂屋の商売には向かなくなり、店を狙う伯母のしつこさにも閉口した二人が、それぞれのやり方で自由を選び採るという、時代錯誤的(江戸時代にとっての)ストーリーで、序盤二人の出会いから結ばれるあたりまでは、こんな面白い物語はないとさえ思われたのだが、だんだんお峰の性格が撓んでしまい、おしまいあたりは、トンデモ話になってしまう。
下手な芝居を見てるような気にもなるのだが、それでも、とりあえず、読み進まされてしまうのが有吉の芸なんだろう。


2011033

【震災列島】石黒耀 ★★★★☆ この前読んだ「「死都日本」のインパクトが強すぎたので、次作である本書を読むことにしたのだが、いやいや、こちらは、東海地震、東南海地震をテーマにしたもので、まさに今回の東日本災害を先取りしたような内容に、圧倒されてしまった。地震、津波、原発という、複合災害の描写は、まるで、今回の災害のシミュレーションだった。特に原発の地震による非常事態の描写と解説は、ほとんど今回の福島原発を髣髴させるもので、まるで、今回の緊急事態の解説記事を読んでいるのかと錯覚することが多かった。これが7年前に出版されていたということに驚かされる。
冒頭の早川総理と大竹日銀総裁の会話

「分っております。勿論、今、東海地震が発生したとしての話です。まずは増税、消費税率引き上げ、地震復興祭発行、政府保有外債売却などの努力を行い、それで間に合わない時の、あくまで非常手段でないと国民と国際社会の理解が得られないかと……」
「そんな官僚的発想じゃどうしようもないことは、前回、説明したでしょ? ますますデフレを進行させるだけですよ。そうなってから作戦を実行することになれば、国民に更に重い負担を負わせることになるんですよ。やるなら一気にしないと。効果が上がらない」
「しかし、外貨準備高が百四十兆円分もある現状では理解を得るのは困難です。強行すれば、何が起こるか分かりません」
「外貨ったって、殆どが米ドルか米国債ですよ。売れば、余計、円高になって経済復興が遅れるじゃないですか。第一アメリカが黙ってないですよ。世論なんて心配しなくても、地震が起これば変わりますって」
「それほどの大被害になるでしょうか?」
「まあ運次第らしいけど、だんだん運が悪い法に賭ける学者が多くなってきましたよね」
「やはり結果を見なければ、なんとも……」
「うーん、頭、堅いなー。……じゃあ、とりあえず、原版製作だけでもやっといてもらえません? 使うかどうかは状況次第ってことでいいですから」
早川は、強引に押して御破算になるリスクを避ける作戦に出た。
「試作だけなら……。偽造防止技術のテストということにして作らせましょう」
「頼むよ」
早川は慎重に受話器を置き、大きく溜め息をついた。「起こると分ってる事態に備えるんなら、誰にもできますって」
早川は右手を大きく振り上げると、開いた掌を机に叩きつけた。パンッ、と大きな音が廊下で響いた。早川は執務机の向こうに浮かぶ日銀総裁の幻影に向かって、鼻息荒く咆えた。
「何が起こるか分かんない国に住んでるから困るんでしょ? え1? 大竹さん!」

に始まり、

どうせ、この程度の与党と野党が茶番の政治をしているのだ。第一、もともと日本はアメリカの飼い犬なんだから、別に政治なんか必要ないのである。犬はご主人様にあたまを撫でてもらうことだけ考えていれば良い。
なんで、こんなことになったのだろう? 戦争に負けたからか?
早川は最近まではそう思っていた。だが、昨年末の警戒宣言事件以来、地球物理学者のレクチャーを受け、微妙に考えが変わってきた。結局は日本という国土の位置が悪かったのだ。アメリカの前庭である太平洋が、ユーラシア大陸と接する部分に長々と延びた火山列島。。ロシアの南下を防ぐ防壁として重宝され、中国・ソ連封じ込め作戦の堤防として使われ、北朝鮮の弾道ミサイルを撃ち落とすピケットラインとして期待され、いずれは中国の世界戦略を阻む前線として利用される。あまりにアメリカにとって便利で重要な場所に位置していた。日本は、言わばホワイトハウスの前庭入り口に置かれた検問所で、自分達はそこに繋がれている犬なのである。
(こんな格好だったかな?)
結果が見えている論戦に飽き飽きした早川は、手元の紙に、三十度ほど右に傾いたHのような模様を大きく描いた。上下が開いているので、むしろロシア語のКに似ている。
次に早川は、記号の上方に「北米」、右方に「太平洋」、下方に「フィリピン海」、左方に「ユーラシア」と書き込み、最後に記号の中央に黒井丸印を打って、傍に小さく「東京」と記入した。
これが、今の早川にとって、日本を取り巻く力関係を端的に表す魔方陣だった。
紙面はКの字により四つのパートに分けられる。地球のプレート分布図に当てはめると、北が北米プレート、東が太平洋プレート、南がフィリピン海プレート、西がユーラシアプレートに相当する。
学者が言うには、地球は殻付きの半熟たまごのようなもので、表面はプレートと呼ばれる板状岩盤で覆われているのだそうだ。プレートの話は一般常識として知っていたが、地球の中身が、そんな持ったら凹むような物だったとは意外だった。
プレートは十数枚に割れており、一年に数センチのスピードで動く。地球の円周は4万キロもあるのだがから、数センチくらいは誤差の範囲のようにも思えるのだが、そうはいかないらしい。その数センチの動きがプレート境界部で火山噴火となり、地震となって、二千万年もかけて日本列島を作ったというのだ。
特に、日本のように四枚ものプレートが、押し合い、へし合いして出来た国は他に例がないらしい。当然ながらプレートの枚数が増えるほど、力関係は複雑になる。そして、その力の中心に、何故かこの東京が存在するのだ。

日本という国の置かれた位置の特異さを総理の口を借りて慨嘆する。(Кはロシア語ではなくキリル文字と言うべきだろうけど(^_^;))
そして地震と原発。

気象庁が東海地震予知情報を発表したのである。
列島に激震が走った。6500人近い死者が出た兵庫県南部地震の十六倍の巨大地震が、日本の大動脈遅滞を襲う。おまけにその中央には原発がまだ稼働中である。

沸騰水型原子炉というのは、簡単に言えば、格納容器という頑丈な密閉建造物の中に、圧力容器と呼ばれる巨大な圧力釜を納めた物である。圧力容器の中に何万本というウラン連量棒をたてて、熱核反応で容器内の水(炉水)を沸騰させて、280℃、70気圧ほどの高温高圧蒸気を造る。
燃料棒の周りには泡が付き、これが多くなると、核反応が不安定になったり、燃料棒被覆管の温度が局所的に上がって危険なので、再循環ポンプという巨大なポンプで常に炉水を撹拌している。
こうして出来た蒸気をタービン室に送って発電するのだが、使用済みの蒸気は強い放射能を帯びているので、普通の火力発電所のように大気中に放出することができない。そこで、海水で冷やして水に戻し、再加熱してから圧力容器に返す。冷却加熱に大量のエネルギーを使うから、熱効率がすこぶる悪く、30%台である。分り易く言えば、発電量百万キロワットの原発なら、だいたい二百万キロワット分の熱を海に捨てている計算になる。ガスタービン発電が60%台の発電効率であるのに比べると、決して地球温暖化防止に役立っているシステムとは言えないのである。
さらに、ウラン採掘と精錬に大量の化石燃料を使うとか、ウラン鉱残土の環境汚染が大きいとかの問題もあり、決してクリーンでもない。勿論、核廃棄物の問題もある。廃棄物処理に要する費用を加えると安くもない。世界的に反原発機運が高まってきたのは、そういう背景もあった。

制御棒は一本に一基の独立した駆動装置がついているので、任意のパターンと速度で動かせるが、普通は、約四十本ずつまとめて動かし、半日以上かけて慎重に作業を進める。緊急停止の時は一斉に上げて、4秒で遮断を完了してしまうが、装置に与える影響が大きくて危険なので、本当の緊急事態以外は実施しない。警戒宣言の出た今は、3時間で停止を完了する手筈になっていた。
これが終われば、ウランの核分裂反応は泊まるが、実は、停止操作は終わっていない。発熱し続ける燃料棒を冷やさなければならないのだ。例えば三号炉は、停止時には23万キロワット、一時間冷却したあとでも、まだ7万キロワットもの熱量を出す。一般家庭の電気消費量なら3万軒分だ。これは、ウラン235の連鎖核分裂を止めても、燃料棒内にできた新たな放射性物質、いわゆる「死の灰」が崩壊熱を出し続けるからである。そのため、再循環ポンプと冷却装置を稼動して、何日も燃料棒を冷やし続けなければならない。冷却や制御に使う電気は、原発の発電が停まるので、外から送ってもらう。

日本の原発は平時でさえトラブルが多いという現実を無視し、政府と電力会社は、「地震には絶対安心」という立場を崩していない。従って、地震で故障が生じ、修理が終わらないうちに別の地震が襲うなどという事態は、想定さえしていなかった。
気のせいか、警報音の種類が殖えたように感じる。
永遠に続くかと思われるほど長い揺れが、ようやく収まってきた。新美は用心深く制御盤の下から這い出した。そして、操作パネルを見た途端、気絶しそうになった。
圧力容器の水位が急低下している。
さらに格納容器内に高濃度の水素ガスが検出された。
水素は、高温のジルコニウムに水が接触した時に発生する。すると、一番考えられるのは、燃料棒の頭が水面上に出てしまったということだ。水から露出した燃料棒は過熱し、やがて融解を始める。メルトダウンだ。最悪の場合、全ウランが溶けて炉底に集まり、熱核反応で炉を溶かして流れだす。そうなれば、考えるのも恐ろしい規模の放射能汚染を引き起こす。

「しかし、警戒宣言がでないと、原発が困りませんか?」
「そうですね、浜岡原発は自主判断で、既に一、ニ、四号炉を停止しているようです。もう少し時間が稼げれば、残る三、五号炉も停められるのでしょうが」
「何故、三、五号炉は停められないのですか?」
「電力会社は、注意情報の段階から予備の火力発電所を稼動させて、需給バランスを取りながら原発を順次停止させます。供給が需要を下回ると、大規模な停電が発生して、避難や情報収集に大きな障害が発生してしまいますから、原発停止のタイミングはなかなか難しいんです。警戒宣言が発令されれば、殆ど全ての大口電力需要施設が閉鎖されますから、電力会社の負担はぐっと軽くなります。その時点では確実に、三、五号炉を運転を停止できるのですが」
「早く停めて欲しいものですね。白羽地震の時のように事故が起こってからでは困ります」
「そうですね。停めても、炉心が冷えるには、かなり時間がかかりますからね」
「そもそも、東海地震が近いと分かってから何十年も経つのに、政府は何故、太陽光発電・燃料電池・風力発電などの安全な分散型発電へ切り換えを進めなかったのでしょうか? 原発へ出す年間一千億円以上の電源促進対策費を、対策地域内の個人発電の補助に使っていれば、今頃、小型原発の一基分くらいには相当していたのではないでしょうか?」
「まあ、原発は国策ですからね」
解説委員は意味ありげに笑った。「エネルギー効率なら火力発電と燃料電池のハイブリッドの方がニ倍以上高いですし、コストも、後処理まで考えるとガスタービンの方が安い。廃棄物の処理も、他の発電の方が安全で安いですからね。原発の存在理由なんてのは、利権以外、とっくになくなっていたんですよ。とは言え、国の方針ですからね。電力会社だって、内心困っていたんじゃないですか?」
「改めて見ると、日本中、原発だらけですが、それにしても、こんな震源域の真ん中で稼動し続けているというのは尋常ではありませんね」

さて、現代は、この巨大地震サイクルのどこに当たるのだろう? バブル以降、目に見えて日本は悲惨な状況に陥っている。地震も多くなった。平均すると、日本には世界で起こるマグニチュード6以上の地震の10%が発生しているが、1994年以降に限れば、実に21%である。国土面積が僅か0.1%の国に21%というのは尋常ではない。
1995年の阪神淡路大震災以降、急速に国の勢いが衰え、人心が乱れたことを、実感しない大人はいないだろう。経済政策で当たったものはなく、財政は破綻寸前。政官財に始まったモラル崩壊は、幼児にまで浸透している。かつて世界最高水準だった治安は、先進国で最低。
もし、このまま今世紀半ばまで駿河・南海トラフ地震が起こらず、この状況がどんどん悪化していくのだとすると、これはたまらない。正直言って、それくらいなら早く地震が起こってくれた方がましだと思う。

日本のような世界有数の天災国に、あんな巨大都市を作って機能を集中させれが、富士山が噴火しなくても、いつか壊滅的な打撃を受けるのは当然のことだ。首都移転法という法律まで作りながら、政府機能の移転・分散は進まない。経済効率を求めて人口を集中させるから、天災のない時期には急成長できるが、潰れる時は一気である。おまけに原発なんか造るものだから、ますます安全な場所がなくなる。
自分で自分の首を締めるような施策に税金を使われて、それでも経済発展のために目をつぶっていたら、お題目の経済発展にも限界があったことが分かり、皆、騙された気持ちになっている。しかも、気が付けば、年間国家歳入の二十倍以上を経済対策として先取りされている。
総合するとペテンだということに気付くのだが、一つ一つの仕組みが複雑に絡み合い、どれが原因か簡単には分からない。全員jが加害者とも被害者とも言えるよう、システムが巧妙に組み立てられている。
一度御破算にして全部やり直すしかないが、あまりに巨大なシステムに成長し過ぎていてk,為政者にも、国民にも手が付けられない怪物と化しているのだ。こういう人智の及ばない怪物を倒すには、神様か化け物のお出ましを願うしかない。
考えてみれば馬鹿な話だ。最初から行政を厳しく監視して、国民が安心して豊かに暮らせる国を目指していれば、こんな体たらくにはならなかったろうに、今では大惨事が起こらなければ環境が変えられない。変革に流血が必要になってしまった。

建設業は政治に深く関与し、事実上、土建国家日本の根幹を形成する一種の特権業界である。兵庫県南部地震の時も、明らかに手抜きで倒れたビルや、建築基準法違反の倒壊家屋が指摘されたが、ああやって死者まで出たのに、逮捕された業者の話を聞かない。捕まるのは、談合で掠め取った金を違法献金したのがバレたような場合に限られる。
そもそも日本は、公共工事の九割以上に違法談合の疑いがあるのに、そういう根幹的問題に一向にメスが入らない国なのである。小さな違反は犯罪だが、業界全体で行えば社会システムになる。これほどの不正が社会常識になっている国で、正義や道徳が定着すれば奇跡であろう。

神戸震災に関してのこの発言は、Morris.も全く同感である。倒壊したJR六甲道駅の復旧はNHKの番組(プロジェクトX?)で非常に美化して取り上げられたりもしたが、建設した業者が、事故の検証もなしに再建に携わるというのは、どう考えてもおかしいと思ったのはMorris.だけだろうか?

民意と政策の乖離はよくある現象で、高速道路、整備新幹線、ダム建設、赤字国債、海外派兵、多国籍軍加盟、改憲論議、年金問題、多くは似たような構造だ。数パーセントの利益集団が行政とその周囲に集まり、国や地方の政策を決めているとしか思えない現象が常態化している。
いったい、民主主義国家の政策は誰が決めるか? 日本は議会制民主主義だから代議士が決める。つまり、国民レベルでは25%の原発推進派が、代議士のレベルでは過半数に急増していることjになるのだ。瑣末なことならともかく、国家の将来を決める重要な問題で、代議士が有権者の意思を代弁していないなら、それは、もはや民主国家ではあるまい。まして、嘘の理屈で国策をている場合は、なおさらである。
本来、民主主義国家は有権者の意思による運営が基本であって、代議士の意思による国家ではない。代議士制は、情報伝達速度の遅い時代において、国民の意思を簡便に集める方法として便宜的に採用された精度に過ぎないのである。現在ほど、情報の高速化が実現し送金も携帯電話で出来る時代なら、国家のあり方を決める基本方針くらい、直接投票が可能なのではあるまいか?
もっとも、民主主義が正しいという保証はない。現時点における日本人の経験的歴史認識に過ぎない。

直接選挙というのも、確かに今なら不可能ではないと思う。

理科に関しては、物理と化学を選択しておけば、大慨の学科を受験できる。ところが生物と地学はそうはいかない。特に理系は、このニ科目で受験できる学科が意外に少ない。
それでも生物は中学の必修科目だからいいが、地学は最初から洗濯性になっている学校が多く、一生、地学とは無縁で社会に出てしまう学生がが多いのが現実なのである。これが地変とは無縁のイギリスやオーストラリアならともかく、世界中で起こるマグニチュード6以上の地震の21%が発生する国の教育方針なのだから、どうにも納得できない。敢えて断言するが、間違っている。

地学を軽視する現在の日本の教育方針が間違っている、というのは今回の震災でよく分かった
今回最大の被害をもたらした津波の解説も簡にして要を得ている。

津波は「津の浪」が語源だ。「津」とは古語で港を指し、多くは入り江である。
普通の波は海面付近だけのローリング運動で、波動の深さが百メートルに達することはないが、津波は違う。三千メートルの深さで発生した津波は三千メートルの丈を持つ。深い海を伝わる間は水面の動きが小さいが、浅い沿岸部に押し寄せると、波が持ち上がって海面に突き出し、頂上が割れてくる。こうなって初めて、一般の人が連想する津波の形になる。その典型が「津」で起こり、多くの人が目撃談として語り伝えたので、「津の浪」と呼ばれるようになった。
海外にもTidal Waveとか、海嘯(ハイシャオ)、Maremotoなどの用語があるが、言葉の持つ意味の正確さや観察例の多さで「TSUNAMI」は他を圧倒し、1946年以降、国際用語として定着している。それだけ、日本はTSUNAMIを観察できるチャンスが多かった、つまり津波災害が多かったということだろう。
今、モニター内の津波は、典型的な「津の浪」に変貌しつつある。ゆっくりに見えるが、津波は速い。深海なら時速七百キロで進む。1960年に三陸で大被害をだしたチリ沖地震津波は、地球の裏から日本まで僅か22時間で到達した。浅瀬では、波の底が家庭に引っかかりブレーキになって遅くなるが、それでも時速五、六十キロはある。

そして、実はこの小説の主人公である名古屋海岸の町に住む男とその父の物語があって、これが結構ハチャメチャで面白いのだが、地震と原発と日本体制批判のインパクトに圧倒されて、等閑になってしまった。読者サービスとしての存在かもしれないが、彼らの発言にも見るべきものがあった。

「略奪者こそが進化の原動力なら、政府は社会進化のためにヤクザを保護奨励せにゃなるまいが?」
私は皮肉を言ったが、敵はこたえない。
「その通り。だからアメリカは強いんですよ。あそこのやり方は軍産複合体で、ヤクザの理論を国家原理の中枢に置いてますから」
と胸を張る。
(弁護士というのは凄い人種だな)
私は舌を巻いた。盗人にも三分の理というが、いつの間にか、ヤクザが生物進化の鑑になってしまった。最初は殴り殺したろうかという勢いだった私が、つい話を聴いて、さらに納得しかけている。口ではとうていかなわない。下手すると洗脳されそうだ。

「で、特攻隊の卵がどうなったんだ?」
「戦争が終わってみると、ワシらが習うたことは嘘ばっかしだと分かった。無差別爆撃は日本が先に中国でやっとったし、天皇は鈴のお声でもなかった。敵に神風が吹くはずが、日本が当南海地震で散々な目に遭うとる。こりゃ嘘を教え込まれた、というのは子供にでもすぐ理解できた」
「しかし、『アメリカが日本を開戦せざるを得ない状況に追い込んだ』という人もいるぞ」
「実際、アメリカは、大恐慌後の不況対策に戦争を始めたかったんだろう。ニュー・ディール政策はデフレ対策としては役に立たんかったでな」
「そうなんか? あれは役に立ったと、中学校で習うたぞ」
「そりゃ、戦後の土建屋政府の洗脳教育に騙されたんだわ。アメリカの経済書を読んでみい。どれにもはっきり、『無効だった』と書いたるぞ。であてゃあ、そんなもん、日本のバブル経済対策を見りゃ分かるに。財政投資だけで二百兆円も注ぎ込んだ、その大半が公共事業だ。それで、どうなった? 結局、借金まみれになって、社会保障を後退させ、老後の不安を煽っただけでにゃあか。アメリカ政府も知っとったんだ。デフレ不況は公共事業では克服できん。戦争を起こして、余った物資を消費してまうのが、一番だということを。日本は丁度ええ戦争相手として選ばれたんだあ」

書評というより引用だらけになってしまったが、とにかく、本書は日本人の必読書だと思う。ぜひ読んでもらいたい。
著者自身のコメントのあるサイトを見つけたのでそちらも見ておくように。
霧島噴火以前にこれをテーマにした「死都日本」でデビューし、今回の東北大震災以前に本書「災害列島」を表した彼の3作め「昼は雲の柱」が、富士山噴火というのは、ちょっと怖すぎるが、読まずにいられない(^_^;)


2011032

【芝桜 上下】有吉佐和子 ★★★☆☆ えらく面白かった「木瓜の花」の前篇にあたる作品である。
正子と蔦代、対照的な二人の雛妓(おしゃく)時代から戦後までのあれこれを、ある時は饒舌に、ある時は簡潔に描写しながら、二人のそれぞれの特徴を対比させている。章ごとに、見事な舞台転換を見せたりするのも、もとから芝居好きの作者らしい。
一本気で曲がったことの嫌いな正子と、嘘などいくらでもつける、欲の塊のような蔦代。いちおう有吉本人は、正子に肩入れしているのだろうが、読者として面白いのは蔦代の破天荒、没義道、外連、身も蓋もないなりふり構わずの我田引水ぶりだろう。
それにしても、この「芝桜」と「木瓜の花」は、両方合わせて一つの長編として後世に残すべき作品だと思う。そうしておかないと、Morris.みたいに「木瓜の花」を先に読んでしまうそそっかしい輩がまたぞろ出てくるだろう。
率直に言って、Morris.はこれでずいぶん損をしたような気分になっている。「木瓜の花」では、二人の過去の話として「芝桜」の主要なエピソードを手際よく紹介してあるので、先にそちらを読んだMorris.は、先に種明かしされてから読んだような気にもなったのだった。それでも十二分に面白かったのだけど。
さて、この二作を一つの作品とするとしたら、タイトルはどのようなものがふさわしいだろう?やはり花の名前を付けるべきだろうか? 「梅と蔦」では余りに芸がないし、「芝桜と木瓜の花」ではタイトルにならない(^_^;)。うーーーん、難しいっ。

金で思うままに振舞えるような花柳界でも、一本立ちした芸者を金力で手ごめにすることはできないのである。この世界はあくまでも古来からの女の知恵が凝集して、ギルド社会を構成しているのであった。婦人解放運動のなかった時代に、女たちは団結して、男と金を相手にまわし、自在に富を吸収する組織を作った。花柳界に生れ育ちのいい女は一人もいない。みんなまずしい家から出て、この世界で器量と知恵を磨きあげ、天下を動かしている男たちの鼻面をとってひきまわすところまで成長するのだ。

花柳界を、こんなふうに解説してしまうあたりが、いかにも有吉風である(^_^;) しかし、こういう世界も、すっかり過去のものになってしまったようである。

「あなたは叱られてばっかりだったじゃないの。お蔦ちゃん」
「それも今思えば尤もなことばかりよ。思い出す度に有りがたくなるわ。叱るなんて正ちゃん、私も人を使う身になって分ったけど、よほど親切っ気がなくちゃ叱れるものじゃないわよ。叱るのは、その人の為を思うときだけですものねえ。おだてて使う方が楽だわよ。その代りおだてられた方は先へ行って自分で滅びるじゃないの」

「満州の戦争は、でも大きくはならないんでしょう?」
「私にそんなこと訊いたって分るわけないじゃないの」
「だって新聞じゃ政府も陸軍も、この戦争は大きくしないって方針だって言ってるわ」
「正ちゃんは字が読めるから気の毒ね」
「どうして」
「字で読んだものは間違いがないって思うから、それより他の考えが浮ばないのよ」


蔦代の面目亦如な台詞である。

蔦代の飼猫みいちゃんの仔で器量よしの三毛猫コロが、烏猫との間に産んだ子猫の場面では、ちょっと腑に落ちないところがあった。

母親のコロとは似ても似つかない黒い猫が、一匹はかすかに白の斑があって、それは蔦代の飼猫であるニスケのみいちゃんの遺伝なのかもしれない。蔦代がぶつぶつ言ったように、同じ三毛猫を何とか探してかけあわせておけばこんなことにならなかったのだろうと、正子も最初は憮然としたが……

三毛猫はほとんどが雌で、三毛猫の雄は千匹に一匹いるかいないかという希少なものだが、その雄は雌を孕ませることは出来ないらしいから、三毛猫コロにに雄の三毛猫をかけ合わせるというのは、事実上不可能なことだった。かなり猫の交配に詳しいということなっている蔦代がこういう明らかな間違いをするというのはちょっと不自然である。
また、Morris.好みの白黒猫への、蔦代の言及も、なかなかに噴飯物ではある(^_^;)

「だって正ちゃん、猫っていうのは人に可愛がられて飼われるものでしょう? 顔半分が白黒まだらのお化けみたいに生れてきたのが、幸せに一生を送れると思う? 人間の女だって同じことじゃないの。正ちゃんだって私だって並よりかましな器量に生れついたから、芸者にもなれたんだし、芸者やめても、ともかく一家をかまえて人を使って暮せるんだわ。私たちが眇だったり獅子っ鼻だったりしたら、この齢でも女中働きかなんかしてなきゃなんないかもしれないのよ。よくって、長屋に嫁入りして、この不景気じゃ内職に追われてるって図じゃないこと? 亭主が菜っ葉服着て赤旗振ったりしてね。おや、何からこんな話になったのかしらん。そうそう、猫のことだった」
途中からもうキャラキャラと笑っていた。


ぎゃはははははははっ(^_^)/(^_^)/(^_^;)
まだまだ有吉読み続けるぞ。


2011031

【詩ってなんだろう】谷川俊太郎 ★★★☆☆ 2001年発行の、アンソロジー詩集。灘図書館で手にとって、そのまま図書館で読み通してしまい、いくつか引用しようと借りてきたのだが、昨日が返却期限だった(>_<)

この本は、現行のいくつかの小学校国語教科書を読んで感じた私の危機感から出発しています。教科書には私の作も含めて多くの詩が収録されているのですが、その扱い方がばらばらで、日本の詩の時間的、空間的なひろがりを子どもたちにどう教えていけばいいかという方法論が見あたらないのです。現場の先生がたもまた、そういう大きな視点をもてない悩みをかかえているようでした。
私は一介の実作者にすぎませんが、長いあいだ詩にかかわってきた経験を通して、自分なりのおおざっぱな詩の見取り図をかけるのではないかと思いました。ですからこれはいわゆるアンソロジーとはちょっと違います。私は自分の考え方の筋道にそって詩を集め、選び、配列し、詩とは何かを考えるおおもとのところをとらえたいと願ったのです。(あとがきより)


つまり、これは小学校国語の詩の副読本として使えるものだろう。谷川が以前、安野光雅、大岡信、松井直らと作った「にほんご」を思い出した。傑作「ことばあそびうた」の作者でもあるだけに、前半の言葉で遊ぶ引用詩の選択眼は文句のつけようがない。以下は目次である。

わらべうた・もじがなくても・いろはうた・いろはかるた・ことわざ・なぞなぞ・したもじり・あいうえお・おとまねことばの詩・おとのあそびの詩・しりとり・いみのあそびの詩・アクロスティック・はいく・たんか・さんびか・ほんやく詩・あたらしい詩・ふしがついた詩・つみあげうた・きもちの詩・いろんな詩をよんでみよう・ほうげんの詩・詩ってなんだろう

いろいろ引用したい詩が多かったが、Morris.の記憶になかった中原中也の雪の歌と、初めて見て感心したあいうえおを冠文字にした大阪弁の楽しい詩を引いておく。

雪が降つてゐる…… 中原中也

雪が降つてゐる、
    とほくを。
雪が降つてゐる、
    とほくを。
捨てられた羊かなんぞのやうに
    とほくを、
雪が降つてゐる、
    とほくを。
たかい空から、
    とほくを、
とほくを
    とほくを、
お寺の屋根にも、
    それから、
お寺の森にも、
    それから、
たえまもなしに。
    空から、
雪が降つてゐる
    それから、
兵営にゆく道にも、
   それから、
日が暮れかゝる、
    それから、
喇叭がきこえる。
    それから、
雪が降つてゐる、
    なほも。   (1929/2/18)

あいうえおおさか くいだおれ 島田陽子

あの子に あげたい あわおこし
いっしょに たべたい いろごはん
ういろは さいぜん もろたけど
ええもん ほしい まだたらん
おこのみやきを やいてぇな

かもうり かすじる かんとだき
きもすい すきな おじいちゃん
くしかつ 目ぇない おばあちゃんと
けつねの おいしい みせのこと
こんまき たべたべ いうてはる

さいなら さやまめ さんどまめ
しっぽく しのだで またあした
すねる子 すうどん うちすかン
せんぎり ゆびきり せぇろそば
そうめん そんでに なかなおり

たこやき たらふく たべたもん
ちりめんじゃこも はいらへん
つうてんかくで ひるねして
てっちり ゆっくり たべにいこ
どっこの みせかて にげへんテ

なべやきうどんは あっつあつ
にゅうめん ほどよう たべごろに
ぬくずし はんなり おまっとはん
ねぎまも ぐつぐつ ゆげたてて
のぅれん たのしい たべあるき

はこずし ばらずし ばってらに
ひろうす よばれて ひぃくれて
ふろふき ぶぶづけ ごっつぉはん
へたって しもた ゆめンなか
ぼたもち かにして もうあかん

まむしは うなどん においがえぇ
みたらしだんごは みつがえぇ
むしずし なつより ふゆがえぇ
めおとぜんざい なまえがえぇ
もみじの てんぷら おとがえぇ

やしんぼ やめとこ やわたまき
ゆぅみそ そばから てぇだして
よっぴて しくしく おなかいた
らりるれ ろぉじで ともだちが
わろても よんでも おきられへん


2011030

【鬼怒川】有吉佐和子 ★★★ 昭和49年から50年に「新潮」に連載された物近代女性の波乱多い一生を川の流れに即して描く「川シリーズ」4編のおしまいにあたるもので、結城紬の名織子チヨの結婚、出産、嫁取り…を、時代に添って描いた作品。
結城紬の歴史や仔細を、綿密な取材と関心で、丁寧に書きこんである。しかし、川シリーズ第一作「紀の川」とは格段に見劣りする。「紀の川」は自己の故郷だけに、風土や空気が見事に立ち上がっていた。それに比べると本作は、いかにも取材した、といった感じが拭えないし、著者の男性不信の影がのしかかってる気もして、読んでるMorris.には、どうも後味が良くなかった。唐突なラストも、あまり誉められたものではない。


2011029

【三婆】有吉佐和子 ★★★ 昭和34年と36年に雑誌発表された「水と宝石」「王臺」「なま酔い」「黒衣」「三婆」の五編が収められている。表題作の「三婆」は、5回以上もTVドラマ化され、かなり名の知られた作品である。亡くなった金持の、未婚の妹、妾、本妻の老女が、遺産である旧宅に同居(建物は別々だが)して、相克、駆け引き、足の引っ張り合いなどするという、こう言うのが好きな人にはたまらないらしいが、どうもMorris.の趣味ではなかった。
「水と宝石」の熱帯魚、「王臺」の養蜂、「黒衣」の歌舞伎などの著者の薀蓄は例によって遺憾なく披露されているものの、どうも作品としては物足りない。やはり彼女の真価は長編にこそ示されるものと思う。


2011028

【木瓜の花】有吉佐和子 ★★★★ 有吉佐和子はまだ読み続けている。「木瓜の花」は昭和48年発行で上下2冊になっている。
芸妓上がりの対照的な二人の女性、正子と蔦代の、腐れ縁というか、凸凹コンビめいた付き合いを縦糸に、つぎつぎ起きるハプニングを、織りまぜながら、当時(舞台は昭和30年代)の世相やニュース、新しいできごとなどを丹念に活き活きと描いている。
「恍惚の人」が大当たりした後の作だけに、ボケ老人(蔦代の老母)問題や、ヒロイン二人の老いについても、作者自身の思い入れとともに、繰り返し言及されている。タイトルも「惚け」にかけてるわけだが、もう一つ、蔦代の趣味である木瓜の盆栽そのものが、重要な小道具(本書の場合は大道具かも(^_^;))として使われ、各章のタイトルになっているだけでなく、巧みにその内容に合わせてある。それにしても、木瓜にもこんなにいろんな種類があって、それぞれの特徴がこれほど際立ったものとは知らなかった。

長寿梅・東洋錦・嶺の白妙・祝錦・越の誉・谷間の雪・高嶺錦・淀ボケ

有吉の凝り性は、この盆栽に関しても遺憾なく発揮されている。

「正ちゃん、これは私が手塩にかけた盆栽なの。長寿梅っていういのよ、綺麗でしょう?」
「これ、梅なの?」
「いいえ、木瓜ですけどね、草ボケの一種でね、花がいつまでもいつまでも咲くから長寿梅って名がついているんだと思うわ。正ちゃんのお部屋へ飾って頂だい」
なるほど葉の形を見れば紛うことなく木瓜であったが、叢状の株立ちにして、細い針金のような幹々がゆるやかな渦を描いて鉢の上を宙に匍匐っている。いかにも丹精こめて育て上げたような盆栽だった。

社用族という言葉が生まれたのも昨今のことである。宴会といい、懇談会といっても、「喜村」のような高級割烹を使うとなれば支払いはいつも会社の経理からで、個人で自前で金を払う客は本当に少なくなった。それがどうやら料理の食べ方、酒の飲み方にも現れているような気がする。
自分の金ではないから、よく言えば鷹揚で無頓着、わるくいえば盗みたかりのような食べ方、飲み方をする男たちが殖えた。どうも正子の見るところ、近頃の日本人は行儀がすっかり悪くなっているような気がする。
芸者だった頃の客たちと較べてはいけないだろうが、代々金持の家で育った者は、我がままで手をやくような客でも、お茶やお能の素養があったせいか、座敷の中の上下の区別がちゃんとついていた。床の間の軸でもいいものがかかっていれば、生成を正して鑑賞してから、盃をとったものである。

忘年会というのがここ三、四年ばかり前からは11月中旬から始まり、年内いっぱい続き、それから正月の二日間だけ客足が止まって、三日目からは明けても暮れても新年会というのが近頃の東京の料理屋のお客たちの生態である。例外なく会社の接待で、こういうのを社用族というのだと正子も覚えたが、昔の日本人は飲んでも食べても自分の金を払ったが、近頃は誰が金を払うのやら接待する方もされる方も判然としないらしくて、帰りがけに正子の顔を見て、
「やあ、ごちそうさま」
という挨拶をする客がある。


昭和三十年代当時の社用族の台頭と、それへの嫌悪感が頻出するあたりも、有吉の本心なのだろう。

「センソーホーキ?」
「戦争は日本はもうしないの」
「しないんじゃなくて、出来ないんでしょう? 戦争敗けてこのかた鉄砲持てるような若い男は育ってないもの」
「でも法律が戦争放棄なんだから」
「あなた法律なんてものは箒やハタキと同じで、簡単に作れるし簡単に壊せるのよ、正ちゃん」
「……」
「まあ、でも戦争があるのは結構なことだわよ」
「どうして?」
正子は、びっくりして蔦代の顔を見た。蔦代は両切の煙草を出して、火をつけ、一息吸って白い煙を吐き出してから、
「だって正ちゃん、何の商売が一番儲かるかっていえば、戦争ほど儲けの多いものはないんじゃない? 私はそう思うわねえ。私は戦争成金の旦那を何人も持ったことあったけど、爆弾だって戦車だって、戦場へ送り込めば必ず使い果たすし、先で壊れたからって引とれとは行って来ないし、こんな儲かるものはないらしいわよ。男の仕事の中じゃ戦争、女ならパンパン屋が金儲けには一番だと私は前からおもってたわ」


それは後になって三無事件(さんゆうじけん)と呼ばれるようになるニュースであった。旧陸軍士官学校出身者たち13人が、政府要人の暗殺計画をしていたのが発覚し、逮捕されたという事件を、アナウンサーは君の悪くなるほど流暢な口調で述べたてていた。
正子は美顔術を受けながら、その昔の若い頃、五・一五や二・二六事件の起こったときを回想していた。何事に限らず、過去と現在が重なりあうのが近頃の正子の癖みたいなものである。新しい憲法では戦争放棄をしているというのに、自衛隊というものができたのは、ほんの数年前のことであった。


恥ずかしながら「三無事件」というのは全く知らずにいた。ネットで調べてあらましのことはwかったが、それで、この部分が昭和36年ということがわかった。

「涌井さんは今頃どうしてるかな」
「無我夢中だよ、きっと。日本で習った英語は、まったく実用向きじゃないらしいからね。トゥ・ニューヨーク、フォー・ニューヨークっていうの知ってますか?」
「なんですか、それは」
「記者の切符を買う時間にニューヨーク行きと行ったつもりでトゥ・ニューヨークと言ったら切符がニ枚出てきた。これは間違えたとフォー・ニューヨークと言い直したら四枚きた。困ってしまってエエトと言ったら八枚になった」


これは和製アメリカンジョークとしては秀逸だと思った(^_^;)

「ばかに今日はやけっぱちねえ」
「だって面白いことなんか何もないんだもん。ねえ正ちゃん、男も女も若くなくっちゃ駄目だわねえ。若いときが花でしたよ。やっぱり私も」
「そりゃそうだろうけど、若いときは若いときなりに無鉄砲だったし、年とればとっただけ考え方も変るから、それなりに生き方も違うわよ」
「そうねえ、若いときに今だけの智恵と才覚が有ったらと思うことがある。あの頃の貧しさと、智恵の浅さが戻ってくるのなら、私は若くなりたくない」


こういった会話の妙を楽しませる術にも長けているし、地の文章力もしっかりしている。有吉佐和子読み続けよう。


2011027

【鹿男あをによし】万城目学 ★★★☆ 理科系の院生が、突然奈良の私立女子高の2学期だけの臨時理科教師として出向命令を受け、そこで、反抗的生徒や、同僚教師、京都と大阪にある同じ系列の女子高との剣道大会などを舞台に、浮世離れした事件に遭遇するという、漫画の原作みたいな、ユーモア小説である。
春日神社の鹿が、突然主人公に話しかけたり、京都の狐、大阪の鼠と三つ巴の争いに巻き込まれたり、ほとんどオチャラケの世界だが、剣道の試合の場面などは、急にシリアスになって、結構手に汗握る描写をみせたり、マドンナというあだ名の美人教師とのもやもやがあったり、それなりに楽しめた。
マドンナが出てきたからというだけではなく、これは漱石の「坊ちゃん」の現代版ファンタジックパロディなのかもしれない。そういえば、文体にも、それを意識したようなところがある。
主人公の故郷、栃木県鹿島神社(勝負の神様)が、地震のもとの鯰を押さえていて、神様がいなくなる神無月に鯰が好き勝手で、大地震が頻発。それを抑えるために奈良の鹿がひと役かうあたりが、この前読んだ「死都日本」と全く別次元での地震関連作品ということで、ちょっと不思議な気分にさせられた。
主人公と女生徒が他人には見えないが、本人同士は顔が鹿になってしまい、それを解くための卑弥呼からの言い伝え、世界を守る鍵となる三角縁神獣鏡など、いろいろ面白げな小道具もあって、この作家はサービス精神旺盛である。デビュー作「鴨川ホルモー」というのも読んでみたくなった。

「あるとき--ヒメが言ったんだよ。お前はとても美しい、と」
雲の流れを見つめ、鹿はぽつりとつぶやいた。おれは思わず、は? と声を上げてしまった。
「人間はこの世で唯一、自分たちとはちがう種を美しいと認めることができる生き物だ。我々は決して、他の生き物を美しいだなんて思わない。私は生まれて初めて、仲間以外の生き物から美しいと言われた。とてもうれしかった。そのとき私は決意したんだ。この人の願いを、これからもずっと守り続けようと。だから、今もこうして先生と話している」
鹿の話に、おれはどういうことだと自問した。どうやら、このおっさん声の雌鹿が言っている意味が一つしかないと気づいたとき、俺は驚愕し、同時にわけもなく狼狽した。
「お、お前、ひょっとして……恋をしたのか?」
鹿は返事をせず、黙って空を眺めている。
何てこったとおれは思った。この鹿は人間の女に恋をしたのだ。その恋心一つで、千八百年間も約束を守り続けてきたのだ。
「私だけでゃない。狐も鼠も、きっとヒメのことが好きだったんだと思う。狐がいくらヒメを利用してやったと憎まれ口を叩いて、鼠はヒメは自分がいないと何もできないと勘違いしていようとな。皆、あの女(ひと)が好きだったのさ」
鹿はふいとおれに顔を向けた。いつも同じ表情をしているはずの鹿の顔が、何だかやさしげに見えた。
「おれもときどき、お前が美しいと思うときがあるよ」
「ありがとう、先生」
鹿は短く礼を言った。


2011026

【死都日本】石黒燿 ★★★★ 最近の霧島噴火のニュースで本書が紹介されてたので興味を覚え、灘図書館で借りてきたのだが、最初から鷲掴みにされてしまい、一気に読み終えるかと思ったのだが、Morris.があまりにも火山学、地質学に無知なところに、事細かな解説、それも驚天動地(^_^;)のシュールリアリスティックな状況を、分刻みで活写しているため、なかなかページがはかどらず、5日がかりで読み終えた。20××年6月18日に霧島火山が噴火して、それから24時間の天変地異を、日向大学工学部教授で火山オタクの黒木と、親友の宮崎日報記者岩切の霧島からの逃避行を縦糸に、政権交代を果たしたばかりの共和党政府と秘密裡に作られた火山対策チームの活動を横糸に、めまぐるしく場面展開を繰り返しながら刻一刻と事態が急変し、舞台も、九州から東京、日本全土、そして全世界から宇宙規模にまで及ぶスケールの大きさにも驚かされる。
著者は1954年広島生れで宮崎県を第二の故郷とする医者である。、小学生時代から火山が好きで、特に霧島火山帯の巨大カルデラ火山群に興味を持っていたが、阪神淡路大震災を契機に地変国日本のあり方について関心を持つようになり、2002年発行の本書が処女作とのことだから、作家としてはかなり遅い出発である。火山音痴のMorris.でも、このペンネームが「黒燿石」のもじりだということくらいは分かるぞ(^_^;)
火山災害をシミュレートした科学啓蒙小説であり、冒険小説であり、国際政治小説でもある。
でも、Morris.は随所に出てくる、脱線気味の火山話が面白かった。
おかげ参りなどの踊狂現象の後に大きな地震があるとか、古事記の神話の大部分が火山活動を描いたものだとか、大きな地震は夏には少ないとか、アトランティス伝説がミノア文明のサントリニ火山噴火による滅亡に由来するとか、渤海は10世紀白頭山噴火で滅亡したとか、地震で滅亡した国家は少ないが火山噴火で滅亡した国家は多いとか……

余談ながら、火山灰アスファルトは人類学には多大な貢献をした。人類が発生したのは五百万年以上前のアフリカ大地溝帯(グレート・リフト・バレー)からだと言われているが、本当に化石人類が直立二足歩行をしていたのかどうか、永らく確証が得られなかった。この問題に終止符を打ったのが、当時の火山灰アスファルト層だったのである。そこには明らかに複数の人間が二足歩行した足跡が残されていた。
鹿児島湾地溝同様、アフリカ大地高帯にも多数の火山が存在する。その火山のどれかが噴火して問題の火山灰アスファルト層を作ったのだがこうした火山帯に人類が派生したというのは決して偶然ではない。採集生活を送っていた初期の人類には、火山が創る豊かな環境が必要だったのであり、穏やかな火山の麓こそが人類誕生の地、すなわち"エデン"だったのである。
つまり人類学的にかいしゃくすれば、神とは、"エデン"の創造主だから、即ち火山なのだ。また、火山帯という環境が猿人をヒトに進化させたのなら、神が人を創ったという神話も正しいことになる。これが、すべての人類のDNAに刻み込まれた火山神伝説のルーツだと黒木は考えていた。


この黒木というのは、明らかに著者の投影だろうな。彼は火山オタクだけでなく、かなり多方面にオタク的関心を持ってるようだ。

「何の賭けかね?」
「日本併合です」
「なんだって!?」
ハミルトンは驚きの余り椅子から転げ落ちそうになった。
「日本と中国は根深い所で対立している。それは有り得んだろう」
「そうとも限りません。今の日本が旧政権のようにアメリカ一辺倒でないことは世界が既に知っています。そこへもってきて、近日中に在日米軍は日本の殆どの地域から撤退を余儀なくされます。日本政府は機能しなくなって国は大混乱。国連は支援を表明するでしょうが、殆どの加盟国は経済不況で充分な支援はできないでしょう。そこへ救援と称して中国軍が百万人くらい援助物資と共に乗り込んで秩序の回復に当たれば、事実上占領が完了します。飢えた日本人が、餌をくれる国に忠実なのは太平洋戦争で実証済みです。
それだけのマンパワーを持っているのは世界で中国だけですし、地の利もあります。後はゆっくりと親中傀儡政権を育てて、合法的に沖縄の米軍を追い出せば、台湾は落ちたも同然です。太平洋は完全に中国に開かれることになりましょう」
「そんな途方もない計画、うまく行く筈ないじゃないか!」
ハミルトンは狼狽した声を上げた。
「アメリカ人のようにせっかちにやると駄目でしょう。しかし、中国人は気長なことでは定評があります。香港返還を成功させた経験もありますから、自信を持っている可能性はあります」
「莫大な費用がかかるぞ」
「台湾問題で米台連行軍と戦争をするよりはずっと安いですし、勝率も高いでしょう。おまけに中国が喉から手が出る程欲しがっているハイテク技術が、ごっそり手に入ります。太平洋地域に支配力を伸ばすこともできますから、感情は充分合うと思います」


このあたり、なかなかうがったやりとりであるな。

「1883年、インドネシアのクラカトアという火山が破局的な大噴火を起こしました。爆発エネルギーは10の18乗ジュールで、噴出量は18立方kmです。昨日の霧島火山のと申しますか、加久藤火山のと申しますか、破局的噴火による総噴出量は288立方kmと推測されておりますので、スケールには相当な開きがございますが、科学的観測が行われた噴火の中では非常に強烈な噴火だったという点で共通するものがございます。このクラカトア噴火のため、19世紀末には遠く離れたヨーロッパでも日照不足から冷害が発生し、その影響は7年間も続いたのであります。日本でも農民の反乱事件相次ぎ……」

「クラカトア島」という響きにMorris.は強く反応した。子供の頃愛読した「二十四の気球」(ウィリアム・ペン・デュボア)の舞台がまさにこのクラカトア島の噴火だった。


2011025

【猫語の教科書】ポール・ギャリコ 灰島かり訳 ★★★ Morris.の大好きなアメリカの作家ポール・ギャリコのこんな本が出てるのを見逃してた。それも、1995年に単行本が出て、98年にはちくま文庫になり、Morris.が先日長田のつの笛で買ったのが2001年再版だった。ギャリコが猫好きなことは「ジェニー」「タマシーナ」などの猫を主人公にした素敵な作品でも知ってたが、本書は美しくかしこい雌猫ツィツァが、直接タイプライターで世界の猫へ発信した猫流処世術という形式をとっている。しかもツィツァにはモデルがいて、飼い主夫妻はともに写真家ということで、本書には白黒の彼女のスナップが多数収められていて、これがまた、なかなかに可愛い。
飼い猫として人間の家庭に入り、そして本当の主人として家庭を乗っ取る方法をユーモアを交えて披瀝している。

交通事故で母を亡くし、生後6週間にして広い世の中に放り出される。1週間ほどの野外生活を経て、人間の家の則りを決意。以下にして居心地のいい家に入りこむか、飼い主を意のままにしつけるか、その豊かな経験を生かして本書を執筆。四匹子猫たちを理想的な家庭へと巣立たせた後は、いっそう快適な生活を送り続けている。

という、カバー袖の紹介文だけでも魅力的な作品ということがわかる。
文庫版には、大島弓子の描きおろし漫画があり、愛猫サバを亡くした直後に本書に出会い、力づけられたことが描いてあった。
「人間の家をのっとる方法」「おいしいものをたべるには」「魅惑の表情をつくる」「猫にとっての正しいマナー」など19章にわたって、猫の優秀さと人間の愚かさ、両者の駆け引きなど、ギャリコならではのシニカルかつ愛情あふれた表現が目白押し、のはずなのだが、Morris.にはどうも引っかかるところがあった。それは、本書の日本語、つまり、訳文がどうにもぴんとこないのだった。文体見本を

けっして、(くりかえしますけれど)けっして、男性をおだててモノにする方法を奥さんに使ってはダメ。うまくいくはずがないんだもの。なぜなら、奥さんは前から猫と同じ方法で、ご主人をあやつっているからです。
女性は多くの点で私たち猫に似ています。似ているなんて迷惑な話だけれど、でも女性に対するときはいつもこのことを頭に入れておかなくてはなりません。女は猫と同じく生まれながらのハンターで、本能的で、獲物をあつかうときには残酷でさえあります。猫は獲物をもてあそぶといって非難されるけれど、女性も同じ。逃がしてやるふりをして、かわいそうな獲物がホッと息をつくと、それが一巻の終わり。獲物にとびかかって、とどめの一撃を加えるのです。
女たちはものすごく頭がいいから、決して軽く見てはなりません。いうまでもなく女たちは、女につかまり征服された男たちよりもずっと賢いのです。猫が男をモノにする手練手管を、女性は同じ目的で、もう使っています。そのため、猫がご主人を陥落させるためにどんなテクニックをどう使ったのか、全部奥さんにばれてしまう瞬間が、いつか必ずやってきます。そのとき、猫と奥さんはお互いの本性を現さざるを得ないので、猫はそのときにそなえていなくてはいけません。


内容は面白そうなのに、こんな日本語にされたのでは、ギャリコも(ツィツァも)浮かばれまい。
やはりここは矢川澄子訳の「猫語の教科書」を読みたくなる。
機会があれば原書講読というのも良いかも知れないな。そういう意味で、欲求不満の残る一冊だった。


2011024

【和宮様御留】有吉佐和子 ★★★☆ 昭和53年(1978年)発行だから、30年前の作品で、これもMorris.は当時読んだ記憶がある。幕末公武合体のために、徳川家に嫁ぐことになった皇女和宮の物語だが、この皇女が跛だったため、下仕えの少女フキが身代わりに立てられ、彼女を中心に物語は進められるが、途中様々な心労から狂乱した彼女にまた身代わりが立てられ、フキは身代わりの娘の家出首を括って死んでしまう。

私は三十余年年前の太平洋戦争と和宮東下が重なって三重、二つが同じものに思えてきた。どちらに関わりを持った者も、みな犠牲者だった。たとえばフキは、赤神一枚で招集を受け、どこへ行くのか、なんのためにか知らされぬまま軍隊に叩き込まれ、その生活に適性を持たぬままに狂死した若者たちと少しも変わらない。戦記ものは数々書かれているけれど、重営倉で人間性を失った不幸な人たちにはほとんど触れていないことに私は気がついた。私はフキを、敗戦に終わった太平洋戦争の犠牲者の中でも、もっとも無力であった人々に対する鎮魂歌として書いた。

この後書きのことは覚えてなかったけど、それにしても、フキの不幸への思いやりが欠けてるような気がした。つまりフキは大人のエゴの犠牲になり、小説では自死ということになっているが、これは秘密を守るために殺されたというのがまるわかりだし、身代わりの身代わりというのも、初めからの筋書きだったのだろうということも解る。
作品の大部分は、和宮の生母観行院や公家方の御料人、江戸方の女房などとの、女同士のエゴと権力欲と見栄の醜い争いに筆を走らせている。「有吉文学」の真骨頂がそこにあるのだろうが、その道具とされたフキへの心配りがあまりになさ過ぎる。
本作品は、古文書もどきの文章が多いし、台詞も御所言葉と武家言葉が交錯して、読むのにちょっと手間取ったが、やっぱり読み応えあるし、面白い。こうなると、まだまだ未読作品中心に読み続けて行かねば、と思う。


2011023

【三匹のおっさん】有川浩 ★★★ 「阪急電車」でお気に入りになった有川の、老人モノらしい(^_^;) 町内の仲良しトリオが還暦を迎え、何か世のため人のためになることをやろうと「自警団」を結成し、痴漢やら詐欺やらカツアゲやら飼育鴨被害やらを解決していくという、とってつけたようなシリーズだが、さすがに、キャラクタ設定や、人情、恋愛、社会批判などを、上手に配合して、読者を飽きさせない巧さは、美味いものである。
三人組の息子と娘の出会いと恋愛、世代差を乗り越える温情、人間愛的薀蓄、酸いも甘いも噛み分けての解決ぶりなどなど、如何にも年を経て、人生が分かったふうのタッチが、どうも、「一杯のかけそば」を連想させるなど、鼻白むところも多かった。ストーリーも、あまりに「作り物」めいて、いかにもそういったネタ作りが達者だろうという作者の自慢が見え透いてたり……まあ、面白いのだから、それで良かったのだけどね(^_^;)


2011022

【恍惚の人】有吉佐和子 ★★★☆☆ 昭和47年(1972)発行だから、40年近く前の作品であるが、当時のこの作品の衝撃は今でも記憶にある。しかし、今日読み返して、衝撃はたぶんあの時より強烈だった。
もちろん、Morris.が40年という年を重ねたことが大きい。
それにしても…

ただ老いるだけならいい。生あるものの宿命だ。緑を茂らせ、花もまあ咲いた時期があり、敏がいるのだし社会的にも一応のところまでは行くだろう。実を結んだ後は、枯れて朽ちる。枯れるのはいい。枯淡の境地とは望むところだ。そして朽ちるのが死を意味するなら、これも自然だ、甘受したい。しかし病葉が裸木の枝先にからみついてただ、一枚残っているような、あるいは赤く熟れた柿の実が人の手の届かない高い木の枝にひっかかって、そこで醜い姿をさらしながら饐え腐っていくような、そういいう枯れはぐれ、朽ちそこないにはなりたくない。枯れたら潔く地に落ちて、死にたいものだ、と信利は思う。茂蔵は病葉か熟柿か、信利の思いつく喩えのどちらにもあてはまらないので、信利は当惑していた。

さらに信利は別の知人から聞いた話も思い出していた。戦後の日本では急速に人口の老齢化が起こっていることを、その男はいらいらするほど正確な数字や百分比をあげて説明したのだ。本当か嘘か知らないが、今から何十年後の日本では六十歳以上の老人が全人口の80%を占めるという。つまり一人の若者のまわりを4人の老人が取り囲んでしまう社会が現出する。生活力を持たない4人の老人を一人の若者が養わなければならない大変な時代がくる。なぜそんなことになるかといえば、フランスのように日本の人口も、ある時期から出生率が急激に減退し始め、しかも医学の進歩によって老人の死亡率は低くなってくるからだ。それを要するに老齢人口の急増という。
これを現実的に考えれば、何十年の後には信利も昭子も完全に老人と呼ばれれるべき年齢になっていて、敏は一個の社会人として老化した両親の他に赤の他人の古ぼけたのを二人抱えて生きなければならないということになる。また別の男の口からは、違う数字を聞かされた。昭和80年には60歳以上の人口が三千万人を超え、日本は超老人国になる運命をもっているという。そうなるまでには何とか死んでいたいと思うが、その話を妻にする元気は信利にはなかった。


「昭和80年」は2005年(平成17)にあたるが、ネットで調べたらこの年の日本の60歳以上人口は3343万6千人(26.3%)となってるから、本書の予想を上回っている。もっとも「何十年後に60歳以上が80%」というのは、ややオーバーである。
本書で圧倒的なのは、老人痴呆の狂態、就中排泄の問題で、この「クソリアリズム(>_<)」の場面が、とんでもなく印象的なのだが、今、それを引用する、元気にはなれなかった(^_^;)
アルツハイマーなどという言葉が影も形も無かった時代に、これだけリアルな問題作を書いた有吉佐和子は、今読みなおしても凄過ぎると思う。


2011021

【紀の川】【助左衛門四代記】【非色】【華岡青洲の妻】有吉佐和子 ★★★☆☆ 先週の風邪休みの間に、久しぶりに有吉佐和子を再読した。種を明かせば、昭和43年(1968)発行の、新潮日本文学57「有吉佐和子集」をイッキ読みしたのだった(^_^;) これにはタイトルにあげた4編の長編と、「地唄」「江口の里」「墨」の短編が収められている。二段組み700pという、かなりのボリュームだが、Morris.は飽きることなく読み通した。
もともと彼女の作品はわりとよく読んでたのだ。
それが、後半になって、ちょっと違和感覚えて、目を離してた隙に(^_^;)1984年(享年53)突然亡くなってしまった。
晩年のマスコミからのバッシングと、没後の文壇からの意識的無視もあって、Morris.もそのままになってたのだが、灘図書館で本書を見つけて、病気療養を兼ねて読んだら、やっぱり面白いではないか。
こうなったら、読みそこねた作品も含めてしばらく彼女の本を読み続けてみようかという気になった。
本書発行時37歳で、それからの15年間に、「出雲の阿国」「ふるあめりかに袖はぬらさじ」「恍惚の人」「真砂屋お峰」「複合汚染」「和宮様御留」「悪女について」などの、話題作、問題作を発表している。
本書に掲載の4長編のうち「非色」だけは、初めて読んだ。戦後、米軍黒人兵と結婚し、混血児を生んだ日本女性が、帰国した夫を追ってアメリカに行き、黒人差別の実態と、それに対応していく姿を描いたものである。

金持は貧乏人を軽んじ、頭のいいものは悪い人間を馬鹿にし、逼塞して暮す人は昔の系図を展げて世間の成り上がりを罵倒する。要領の悪い男は才子を薄っぺらだと云い、美人は不器量ものを憐れみ、インテリは学歴のないものを軽蔑すする。人間は誰でも自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分をより優れていると思いたいのではないか。それでなければ落着かない、それでなければ生きて行けないのではないか。
ハアレムに住み、『エボニ』を読めて、つまりニグロばかりの中で暮らしてみると、眼のさめるように美しい人もいるし、驚くほど頭のいい学生にも出会う。愚鈍な人間も多いけれども、白人だって日本人だって馬鹿な男の数は決して少なくないのだ。だから、”黒いから”というのは口実(エクスキューズ)なのではないだろうか--では何なのか。前に考えたように奴隷であった過去を今も背負っているからだと確信する根拠もないままに、私はただ思い躰を動かしながら、部屋を掃除し、洗濯をし、子供たちの衣類の手入れをしていた。

「メアリイ、シモンはあなたのお父さんの弟なのよ」
「ええ知ってるわ」
「叔父さんに用事を頼むのならもっと丁寧な口をききなさい」
「丁寧にですって?」
メアリイは眼を剥き出して私にも喰ってかかってきた。私は私の娘がこんな獰猛な顔を持っていることをこのときまで知らなかった。
「丁寧にするのは相手が紳士の場合だわ。この男は何? ダディとマミイに養われているだけで、働きに出かけもせずに家の中でそこら中を漁って食べているのよ。人間(ヒューマンビーイング)のすることではないわ。人間は勉強するか働くか社会の為に役に立つか、その三つの中の一つを行なっているものをいうのだと社会科の授業で習ったばかりだわ。私は教室ですぐ思ったわ。シモン叔父さんは人間じゃないって。それでもマミイは丁寧に扱わなければいけないと云うの? マミイが居なくなってからは、シモンは一度だって職安に出かけていないのよ!」

私も、ニグロだ!
私の夫もニグロで、もっと大事なことには私の子供たちもニグロなのに、どうしてもっと早くその考えに辿りつけなかったのだろう。レイトン夫人は日本にもニグロのような人間がいて、それがお恥ずかしい戦争花嫁だと云ったが、そんなことでもなければ、それで私が心を射抜かれたり衝撃を受けたりすることはなかったのだ。私はすでに変質しているはずなのだ。ワシントンの桜のように! わたしは、ニグロだ!ハアレムの中で、どうして私だけが日本人であり得るだろう。私もニグロの一人になって、トムを力づけ、メアリイを育て、そしてサムたちの成長を見守るのでなければ、優越感と劣等感が犇めいている人間の世界を切拓いて生きることなど出来るわけがない。ああ、私は確かにニグロなのだ! そう気付いた時、私は私の躰の中から不思議な力が湧き出して来るのを感じた。

「紀の川」の重厚な女三代記、「華岡青洲の妻」の嫁と姑の鬼気迫る争いとそれを超越する夫、「助左衛門四代記」の力業。それぞれに彼女の代表作と言えるラインナップであるし、実質的処女作「地唄」に登場するクラシック音楽を学び、邦楽の道に進みたいという女学生が印象的で、これを展開させて「弾弦」という一冊にまとめたものはぜひ、読んでおきたい。
戸板康二の解説も、簡にして要を得た力作で、その中で、戸板は有吉佐和子の魅力を四つに集約している。

1.小説の作り方がとんでもなくうまい。
2.伝統と現代など、相対するテーマの対立と調和。
3.世の中の不条理への激しい怒り。
4.貪欲な知識欲と旺盛な実行力。


これが後年、作家として不幸な結果に繋がった部分もありそうだが、Morris.は断固彼女に肩入れしたい。文庫収録作品激減という風潮に叛旗を翻すという意味も込めて、しばらく彼女の作を読むことを表明しておく。


2011020

【風花病棟】帚木蓬生 ★★★ 「小説新潮」199年7月号から2008年7月号まで、毎年7月に掲載された10編の短編。医師の老いをテーマにしたものが多く、何となく悲しみと、諦めの色が濃かった。Morris.としてはこの人の長編に親しんでいることもあり、いずれも物足りない気がした。
2p目にして「手をこまねいて」表現があって、気勢をそがれたということもある(^_^;)


2011019

【道 ジェルソミーナ】笠井潔 ★★★ 私立探偵飛鳥井の事件簿、2冊目で、「硝子の指輪」「晩年」「銀の海馬」「道(ジェルソミーン)の4編が収められている。いずれも、推理小説としては、特に卓越したトリックがあるわけでもないし、派手な活劇もない。やや世捨て人っぽい探偵の、シニカルな感想と依頼者とのやりとりが本シリーズの持ち味なのだろうが、Morris.は、前作と同じく、本書発表時(1996年発行)の社会世相の捉え方に、15年後の現在との対比をみて、感慨を覚えた。

通行人は、ホームレスを見ないようにしている。可能なかぎり、目と目をあわせないように。その存在を意識した上で、意図的に無視しようと努めているのだ。それはむしというよりも、正確に言えば忌避だろう。
この忌避する態度のなかに、高度成長までの日本とも、またアメリカとも違う現代日本人の特性を見てしまうのは、傍観者のかんがえすぎというものだろうか。
なぜ人々は、ホームレスを忌避しようとするのか。汚らしいから、悪臭を放つから。しかし、そうした生理的な嫌悪感では、説明しきれないものがあるような気もする。たぶんホームレスの存在は、人々の平和で豊かな日常生活を脅かす、グロテスクな異物なのだ。永遠に反映する日本という華麗な虚構。その虚構に走った不吉な亀裂。
ほとんどのアメリカ人は、日本人のようにホームレスから、当惑して目をそらしたりはしない。むしろ、これみよがしに鼻をつまむことだろう。アメリカ人の多数派は、社会的敗者や脱落者に、しばしば冷酷な態度をとる。敗北も脱落も本人の責任であると、自由主義と個人主義の原理が、そのように考えさせるからだ。(「銀の海馬」)

戦中派の親に育てられた日本人、さらにその子どもたちの世代は、もはや勤労の倫理を信じてはいない。だから家と仕事をもたない人々に優越を感じ、アメリカ人の保守派市民のように、彼らとの距離を絶対的なものと見なすことなど不可能だ。
しかも、世界有数という繁栄を謳歌し享受しながらも、その実は日々、心の隅々にまで浸透した脱落の恐怖におびえて暮らしている。子供は受験体制から、父親は会社の体制から、そして母親は中流の安定した生活圏から脱落するという、無意識化された恐怖。その漠然とした形のない恐怖が、忌避という態度をとらせるのかもしれない。(「同」)


2011018

【放浪伝 昭和氏の中の在日】金文善 ★★★☆ 
1925年、現在の韓国忠清北道で生まれる。3歳の時、渡日。9歳の時大阪市港区市岡小学校に入学、同年、室戸台風に遭い、離阪。半年ほど遅れて来日した父に従い近畿地方を中心に転校を重ねながら放浪生活を送る。13歳の時、家出。以後肉親と生別。1956年上京、新宿で底辺生活を重ね、1969年山谷に流れて日雇い労働に従事。1985年、指紋押捺を拒否し、精度撤廃を求めて今日に至る。

以上が、奥付にある著者の来歴である。見事に日本の戦前戦中戦後を、底辺で生きた在日一世生活ということになる。
先の略歴に書かれていない、現場の火薬で左手首喪失、アルコール依存、ヒロポン中毒、賭場開帳、傷害致死で受刑等々…壮絶な一生を送って来た人である。
小学校すらまともに出ていないのに、その記憶力と時代の描写力には、不思議な迫力がある。
異国での厳しい暮らしにも、あっけらかんと生きる精神的強さもあり、父親や親族の暴力に耐えながら、飲酒で心身を荒廃させていくさまも、正直に描かれている。

私は母の顔を知らない。コモの手元にいて、コモの友達が集まったさい、この子は貰い乳で育ったと話していたのを聞いたことがある。私が12歳のときだった。生母はどんな理由で乳飲み子を置いて婚家を去ったのかしらない。どんな辛いことがあったのだろうか。多分父の酒乱によるものだろうか。

イリクンたちが請取りやこまりを好んだのは銭にもなるが、常用の場合は賃金差別を嫌ったのである。労働者の大部分は朝鮮人だが、少数ながら日本人もいる。その日本人労務者たちから賃金差別を知ってしまうのだ。知れば人間だ、不満がわき、イリクン同士の愚痴となる。朝鮮人差別と理由を知っても、その不満を親方にぶつけることは、当時としては不可能である。いきおい請取りをせがんだ。請取りも単価差別はあったが、やればやっただけのの報酬になったから、死にものぐるいでは垂らした。重労働を苦にしなかった。ちなみに常用賃金はイリクンたちが一円五十銭から二円、日本人労務者は二円から三円だった。

今は死語に近くなっているが、当時は水上生活者という言葉があった。水上生活者は文字通り生活のすべてが水の上である。三度の食事、起居動作はもとより、こどもは水の上で産み育て、入学すれば船が勉強部屋になり、炊事洗濯一切を船の上でした。ただ毎日の食料、日用品など必要で欠かせないものは購入するため、主婦が一日一回陸に上がるだけである。室戸台風の死者3066名の数字は、大部分が水上生活者と思っていいのではないか。

転々と転校した体験からすると、大人に差別観念のない村や部落では子供もほとんど差別をしないが、逆の場合は、大人の言動や差別の影響はもろに子供に現れてくる。また総じて、海岸の住民より山間部の住人のほうが、なぜかひどかった。一部の人からだが、共同用水の取水やたきぎ取りの「入会権」を制限する意見がでたこともあった。冬になると杉木立の枯枝が風でどんどん落ち、放っておけば成長する木によくない。いずれにしても落ちている枯枝を村民はさして必要としない。それでも差別思考からの制限や異議のあったことを伯母から耳にしている。村八分の思想が作用していたのだろう。

酒を飲まない人は簡単に酒を断てばいいと思うだろうが、そういかないのが酒飲みの業である。これは体質的に酒を飲まない人には到底理解できないだろう。また酒乱性は当人の悪でも罪でもなく血筋の業である。私も酒乱性にずいぶん苦しんだ。なんども酒を断ちたいと願い、そのために宗教にも入り精神病院にも入ってみたが結局は徒労だった。父の苦悩も充分に察することができる。

私が民族的自覚をもつようになったのは、1974年から80年まで6年の刑を府中刑務所で執行されている時だった。非常に遅い自覚と言える。今まで述べてきたことでも解るように私の人生の大部分は朝鮮人とは無縁の日本人社会にどっぷりと漬かったままの生活だった。韓国籍を持っているが、もし何らかの事情で韓国に住むことになれば、そこでは完全な異邦人で行かないだろう。郷土がわからないから仮に血縁者がいたとしても、それは判明しない。日本でも特定の友人知人は同胞のなかにはほとんど見当たらない。

私は歌を忘れた老カナリヤだ。故国の文字も言葉も習慣も知らない。それでも望郷の思いは絶ち難い。せめてひととき帰国して故国の大地を踏み、万斛の思いを宿す一滴の涙を故地に落としたい。しかし、帰国には何だか危険な感じがつきまとってならない。感情は帰国を誘って止まないが、理性はそれを拒否する。心情は右に左にと揺れて、結局帰国は諦めるより仕方ないように思われる。被害妄想だろうか、未練であり、心残りである。


2011017

【三匹の猿】笠井潔 ★★★ 飛鳥井という私立探偵シリーズの1作で、1995年「海燕」に発表されたものらしい。Morris.はこのところミステリーとは縁遠くなってるし、笠井の作品も、どちらかというと哲学的、社会的テーマのものを読んでる。本書の登場人物は大学運動の時代に学生だった世代、つまりMorris.と同じ世代であり、笠井は1948生まれで、やはりMorris.と同世代である。
本書はその世代の娘から、父親が誰かという依頼を受けた飛鳥井が、捜査をしながら、目と耳と口を切り取られた連続殺人に巻き込まれ、娘の父と思われる当時の学生仲間3人の一人が書いた「三匹の猿」との関連から、真相が明らかになっていくというストーリーで、いまいち、Morris.には面白く思えなかったのだが、執筆当時の、日本の世相描写が、印象深かった。埼玉の女高生監禁殺害コンクリート詰め事件から3年後ということになっている。

日本の少年は、少なくとも外見的には、アメリカの少年よりも社会的に恵まれている。たとえば、失業率の圧倒的な低さ。日本の少年の場合、たとえ高校中退であろうと、探せば仕事はあるのだ。仕事につけないという不遇が、アメリカでは少年犯罪の背景をなしている。それは、間接的にもいえいることだろう。両親の失業が家庭の荒廃をもたらし、野良犬さながらに放置された少年が金のため、やんだ好奇心のため犯罪に走る。
自由主義というアメリカ社会の原理は、もはや危機に瀕している。機会均等も自由競争も、誰も信じようとしない、空虚な建前にまで堕落しているのだ。大都市のスラムに生まれた黒人の子供と、郊外に居住する白人の中産階級の子どもが、おなじスタートラインで人生をはじめることができると、誰がいえるだろうか。黒人スラムの子供のほとんどが、社会的に成功する可能性を、前提として奪われている。

その15年後の今日。この文章はまさに今の日本の現状への痛烈な皮肉として、読まざるを得なくなっているようだ(>_<)


2011016

【ぢぢ放談】永六輔 矢崎泰久 ★★★☆ 1933年生まれの二人の放談である。雑誌「創」2009年から2010年にかけて連載されたもので時事放談としては物足りないが、タイトル通り爺さんの言いたい放題だから仕方がない。
それにしてもふたりとも、身体的にはかなり老化現象顕著である。でも、昔から口の減らない方々で、そちらはまだまだ健在である。

永 今回の選挙はしきりに「マニフェスト選挙」とかいわれたけど、「マニフェスト」という言葉ひとつ言葉ひとつとっても、あれどうして日本語で言わないの? 「政権公約」といえばいいものを

そのとおりである。言い方を変えて、何か新しいもののように錯覚させる手法はこれまでもあったし、これからもあるだろう。差別語なんてレッテルを貼って、言い換えをやるといったちゃちで無反省なやり方と同一である。

矢崎 要するにね、司馬史観なんてインチキだっている人もいっぱいいるわけですよ。急先鋒は『司馬遼太郎の世界観』という本を書いた中塚明という歴史学者(奈良女子大名誉教授)だと思うけど、彼はほんとに悔し涙を流すほど怒っているわけ。もともと専門は朝鮮史の研究者で、『坂の上の雲』は日清・日露戦争を描いているが、その戦場となった朝鮮のことは司馬遼太郎はまったく触れていないと。それは、日本の歴史に対して、ほとんど”犯罪”を犯しているようなものだと批判しているわけですよ。要するに司馬史観というのは、昭和の日本はだらしなかったけど、日清・日露の明治時代は栄光に満ちていた、そういう歴史観ですよ
永 戦争に負けた昭和はダメだったけど、戦争に勝った明治はよかったと。
矢崎 そういうこと。それって、自分たちの立場を利するために、国民うけする”仮想敵”を作る政治家の手法と似てない? 55年体制時代の保守勢力が反共を掲げたのと同じ構図でしょう。かつての小泉純一郎が「抵抗勢力」を強調して国民の支持を得たのもそうだし、今回の選挙はいわば自公政権の敵失によるもので、政権交代が望まれていた結果に過ぎない。
永 司馬さんが政治的な人だとは思わないけど、国民に支持されるということは、結果的に、国ありきの思想を抜きにしては語れないのかもしれない。
矢崎 それが歴史観として固定されるのが、オレは一番まずいと思うわけ。


Morris.は司馬の長編はほとんど読破してると思うのだが、たしかに、司馬史観はどこか片手落ちなところがある。物語を面白くするための仕掛けと開き直られればそれまでだが、NHKドラマなどで、その史観そのものが常識みたいになるのはちと怖くもある。
近代朝鮮の歴史をすこしでもかじった目でこれを読むと、まさに朝鮮人には傲慢歴史観ととられても仕方ないだろう。

永 精神科医の北山修さんが言っていましたけど、今の母親は子どものおむつが少しでも早くとれるようにとやきもきするけど、あれは問題だって。子どもってのは、うんちやおしっこにまみれて育つもので、母親がその汚物を見たくないばかりに、おむつ離れを急ごうとするのは、子どもにとっても親にとっても精神衛生上よくないんだと。
矢崎 見た目の衛生ばかりを考えて、心の育成を考えていない。
永 そういうこと。紙おむつって象徴的だと思うけど、今の人たちには、排泄物は汚いもの、忌み嫌うべきものという考え方が根のところにある。でも僕から言わせれば、汚いものを遠ざけたり隠したりするのは、文明優先の発想であって、決して文化優先の発想じゃないのよ。
矢崎 どういうことよ?
永 人間の糞尿にしても、豚の糞尿にしても、これを黄蝶なものとして再利用するのは、生活文化に根ざした発想でしょう。ところが、それを汚らわしいものとして排除してきたのは、工業社会の文明優先のはっそうですよ。生物から生まれる有機肥料ではなく、科学によって作られた化学肥料で代替させてきたのは、まさにその発想ね。やがてその発想は、工場排水とか、自然には存在しない化合物とか、新たな汚物を生み出してしまった。それが水俣や新潟の水俣病や、岐阜県のイタイイタイ病を引き起こしたわけじゃない。


汚物、排泄物への嫌悪、ひいては可能なかぎりこれを切り離した生活を目指す現代人の性行。たしかにこれは、自然の一部としての人間からの、逃避といえるかもしれない。人間はウンコ製造機だというのが、Morris.の人間観の根底にある。

永 むかしね、金銭感覚にかかわることで親父によく言われたことがあるの。たとえば、僕が何か買って欲しいような顔をするでしょ。そうすると、「ただ欲しいのか、必要なものなのか、どっちなんだ」と。「必要なものなら、なんとかしててにいれてやるけど、ただ欲しいだけなら我慢しろ」って言うわけ。
矢崎 なるほどねぇ。やっぱりお寺のせがれは、しつけられ方が違う。
永 お寺は何も生産しないじゃない。商売としては、ただ人様の死を待っているだけなんですよ。人様が亡くなると、それでお布施が入ってきて、食事もとることができる。そうすると、否が応でも「お陰さまで」という価値観で、生きざるをえないでしょう。お陰様と言えないものは不必要ということになるんですよ。


Morris.がいまお題目にしてる「感謝」と、同じことを言ってるのだと思う。「感謝」は漢字語だけど、「おかげさま」は和語だな。こちらの方が身になじむかもしれない。


2011015

【優雅で感傷的な日本野球】高橋源一郎 ★★☆ Morris.は高橋のことを、新人作家と思ってたのだが、デビューは81年らしいから、すでに芸歴30年になるのか。本書は88年の作で、第1回三島由紀夫賞を受賞したとある。三島が生きてたら、憤死したかもしれない。そのくらいMorris.には面白くなかった。阪神に在籍したバースが年老いて、書物の中から野球に関する記述を見つけてはそれを大学ノートに写していく。それが、普通に見るとまるで野球とは無関係のようだが、それを強引にこじつけていくというのが、始まりで、7章の短編の形をとりながら、結局はどんな事象も野球の比喩として語ることが出来る、という、作者の力自慢みたいな作品だと思う。

堰を切ったようにぼくに向かって野球の情報が流れこんでくる。
「注意しろ、耳を澄ませろ。この世の中に野球と無関係なことはひとつもない」
ぼくは耳を澄まし、目を見開いた。ああ、なんとぼくは無知だったのだろう。世界はこんなにも野球で満たされていたというのに。

場面場面で、さまざまな文体を使い分けたり、小話めいたエピドードを挟んだり、野球主題の詩を並べたり、エロ話を垂れ流したり、同一フレーズを反復しまくったり、悪態見本、ダブルプレーの哲学的分析……etc. つまり言葉の実験なんてのをやって、ポストロマンとか呼ばれたかったのだろう。
難しいことはどうでもよくて、結果として面白かったかそうでないかがMorris.にとっては肝心な点で、その意味で、これは駄目である。
何冊か面白い本も読んだ記憶があるのだが、本書は×。
それとリラダンの「残酷物語」を引いて「斉藤磯男」の訳でなくては駄目とかいう場面があるが、齋藤磯雄をわざとこういうふうに誤記してるのも、意図的なものだろうか。Morris.が読んだのは文庫版だから、校正漏れではないだろうだし。
それからもう一つ。

四十年の野球生活の九回裏になってやっと巡ってきた優勝のチャンスが、目の前から逃げ去っていくのを手をこまねいて見送るのは辛かった。

Morris.にとって唾棄すべき「てをこまねいて」表現があったのも、本書の評点を下げるのに貢献したことは言うまでもない。


2011014

【RURIKO】林真理子 ★★★☆☆ 林真理子はデビュー時の露出ぶり(顔が嫌いだった)と、エッセイの下らなさからずっと敬遠して来た。本書は齋藤愼爾の「ひばり伝」に好意的に取り上げられていたので読むことにしたのだが、これが実に興味深かった。
タイトルの「RURIKO」は浅丘ルリ子のことで、いわばこれは「ルリ子伝」でもあるのだが、彼女(本書では本名の「信子」で通している)を中心に当時の映画界、芸能界のあれこれが、かなりの取材を通じて披瀝されていることに感心した。
浅丘ルリ子といえば、美人の代名詞みたいな女優で、寅さんのマドンナ、ドサ回りのキャバレー歌手リリーとしてくらいの印象しかなかったMorris.だが、彼女の活躍と、当時の映画界の盛況ぶりを再認識させられた。
満州生まれで、タイで敗戦を迎えたなんてことも初耳だったが、本書では幕開けをルリ子の父浅井源二郎と甘粕の会話の場面から始めているし、満州という国についてもかなり筆を費やしている。(巻末の参考文献に「虹色のトロツキー」があった(^_^;)

甘粕はきっぱりと言った。
「私はあんなに綺麗な女の子を見たことがありません。初めて見たときに息を呑みましたよ。こんな目を持った少女がいたのかとね」
「そんな大げさな……」
源二郎は時分に生き写しの愛娘のことを誉められ、すっかり照れてしまった。四つ違いの姉の澄子が母親似なのに対し、信子は何から何まで父親にそっくりであった。黒い目はのぞき込んだ相手を哀しくさせるほど大きい。人見知りの激しい子で、他人に向かってなかなか笑わない。そのかわり大きなぬれぬれとした目でじっと見るのだ。甘粕はそのことを言っているのだろう。
「私は信子ちゃんが大きくなるのを楽しみにしているのです。信子ちゃんが成人したら、きっとこの満映のスターになってくれるだろうとね」

思えば少年の頃からであった。いつも時分の場所を探していた。芸者の息子として生まれ花街に育っていても、自分の住むところはここではないと信じていた。そしていつしか支邦に憧れるようになり、東亜同文書院に入学した。そんな時建国されたばかりの満州帝国のことを知ったのだ。軍部がつくったからといってそれが何だったろう。日本帝国の威信にかけて建設された、あの新京の整然とした美しさ。日本の規律と大陸の大らかさが調和していたあの街を見た時、自分が求めていたのはこの場所だと心が震えたものだ。しかもそこは満映という蠱惑的な場所を有していたのだ。
今、源二郎はあそこと同じ場所を見つけた。それが昨年製作を再開したばかりの、この日活撮影所なのである。

源二郎はここに来るのがただ好きなのだ。そのいちばん大きな理由は、日活撮影所の清心な空気だった。「御大」と呼ばれるようなスターもいないし、老獪なプロデューサーも存在しない。新人と、各社から飛び出してきた、少々へそ曲がりの職人たちがいうrこの撮影所は、エネルギーが横溢して、まさに青年期を迎えようとしていた。

「満州って、本当は日本が勝手につくったよくないところだったんでしょう。そこで日本人はみんな悪いことばかりしてたんでしょう」
「それはすべてあたっているとはいえないよ。いいかい信ちゃん、歴史の本当のことは、絶対に表には出てこないんだよ。いいかい、思い出してごらん……」
源二郎は乾いた掌を、信子の掌に重ねた。
「信ちゃんが小さい頃住んでいた新京の街を憶えているだろう。本当に綺麗で素敵な街だったはずだ」
四歳までいた街のことをはっきり記憶しているわけではないが、父の饒舌の重みにつられるようにして、信子は頷く。
「信ちゃんのうちがあった日本人街は、まるでヨーロッパのようだったよ」春になると並木の木が芽吹いて、やがて、桜が咲く。日本から運んできた桜田。だけどね今、中国のあの街は懐かしんではいけないんだ。美しい、なんて絶対に言っちゃいけない。日本人が占領して、勝手に作った醜悪な街ということになっている。だけどね、信ちゃんはいろんなものを見てきたはずだ。信ちゃんのこの目は……」
父と娘は強く見つめ合った。誰もが認める同じ形をした大きな目だ。
「新京のあの街並みも、バンコックの寺院も宮殿もみんな見ている。だからね、他の女優さんとはまるで違った目になるはずなんだよ」
父の言葉をそれから数年後に信子は思い出すことになる。時代が女の目を大げさに飾り始めた。太いアイライン、つけ睫毛、信子はそうしたゴージャスな目の化粧が誰よりも似合う女と言われるようになる。


ひばりと旭の結婚について、これが旭の、裕次郎への対抗意識からの賜物だったという部分には、納得させられた。

最初は旭の美男ぶりにぼうっとなったひばりの方から始まった恋かもしれない。けれども途中からは、旭は男の面子にかけて、押して押して押しまくったのだ。二十五歳になろうとしている大スタートいっても、ひありは、あのお袋さんが目を光らせている。あちらのことは驚くほどねんねなのだ。男といえば、婚約していたというバンドマンくらいだったろう。中村錦之助とは噂はあったものの、このあいだ才色兼備の誉れ高い有馬稲子と結婚してしまった。あの三人娘も江利チエミ、雪村いづみと続々花嫁となって、残されたのはひばりだけだ。旭はそのひばりめがけて、正攻法で押していったのだ。今や人気絶頂のあの美男子に迫られて、ひばりが夢中になったのも無理はない。何でも仕事をセーブしてもいい奥さんになりたいと言い出して、まわりもあわてているようだ……。
この話はあながちゴシップとはいえないだろうと信子は思った。旭がどれほど自尊心が強く、誇り高い男かということをよく知っているからだ。おそらく今度の結婚は、彼の男として、俳優としての全存在を賭けたものであったろう。そしてその陰には裕次郎の存在がある。
裕次郎と北原三枝の結婚の時は大変な騒ぎで、記者たちが大勢押しかけた。「世紀の祭典」と書きたてたところもあったけれども、今回の旭とひばりの結婚にはかなうまい。なにしろ花嫁が美空ひばりなのだ。花婿の旭と裕次郎を比べれば勝負は見えているが、花嫁のすごさがすべてをひっくり返した。旭の結婚式の会場は日活ホテルで、仲人は日活の堀社長と裕次郎と同じだ。が、招待客は旭の方がずっと多い。おそらく報道陣の多さも、旭の方が上であろう。旭はこうやって、裕次郎という存在に、一矢を報いたはずだ。スターというのはそういいうことをするものなのだ。
おかげでわりを喰ったのが信子である。気がつくといつのまにか信子は、
「ひばりのために、旭に捨てられてしまった女」
というころになってしまったのだ。誰も言わないけれども、その空気は伝わってくる。

しかし、Morris.は、ルリ子が、旭の恋人だったことも、その後石坂浩二と結婚、離婚したことも、まるで覚えていなかった(^_^;)

映画の世界では、裕次郎はいつも信子の恋人だ。そして時には夫にもなる。ただそれだけのことだ。そしてそれをさほどつらいともせつないとも思わぬほど、信子は何本も映画を撮り続けてきた。信子は旭とひばりのことを思う。あの二人はしてはいけないことをしてしまったのではないだろうか。虚構の世界をはみ出してしまったから別離がくるのだ。
「私はそんなことはすまい」
裕次郎を愛するのは映画の中だけにするのだと、信子はいつも心に決めステージへと向かうのだった。


ひばりのラストコンサートのフィナーレの描写は本書のハイライトかもしれない。

ひばりは花道を歩き始める。どこまでも続くかと思われるほど長い花道を、手を上げ、人々の歓声にこたえながら、ひばりはゆっくりと去っていく。その姿はスターであることの恍惚に溢れている。たとえ私生活でどれほどつらく悲しいことがあっても、今、この時間を生きていればすべてのことは帳消しになる、そんな表情であった。笑顔というのではない。静かに唇が上がっている。そして人々の歓声にこたえる。やはり女神の顔だ。
「よかったね、和枝ちゃん」
いつのまにか信子も泣いていた。不意に昨年この世を去った裕次郎の顔がうかぶ。ああ、スターと呼ばれる人は、もはやふつうの人間ではないのだと思う。こうしたひとときのために、神からつらい宿命をせおわされる。この世では決して幸福になれない人。それが真のスターだ。
それならば、自分がいつもこれほど幸せでいられるのは、本当のスターではないからだろうか。それでもいいと信子は思った。自分はおそらく裕次郎やひばりのようにはなれないだろう。
が、それでも生きていく、と信子は心に決める。老いても、おちぶれても生きていく。ずっと幸せなままで。自分はたぶんずっと幸福でいられるはずだという確信がある。
大歓声の中、花道を向こう側まで歩ききったひばりは、もう二度とこのドームに現れることはなかった。次の年の六月、入院先の病院で息をひきとった。裕次郎と同じ五十二歳であった。


そして最後は、ルリ子が、NHKの番組で旧新京を訪れたシーンで締めくくられるる。構成としても達者なものである。

父の源二郎は六十年近く前、ここで甘粕という男と約束を交わしたという。それは信子を将来きっと女優にするというものだったというのだ。自分は果たして、その約束にふさわしい女優になれたのだろうか。
「信ちゃんはよくやったよ」
というのが、死んでいく父の言葉であったが、父は本当に満足していたのだろうか。源二郎が望んでいたのは、自分が裕次郎やひばりのように神格化されたスターになることではなかったか。
が、自分は彼らのようにはならなかったし、なれなかった。大女優、スターといわれてきたけれども、信子は彼らのように宿命を背負うところまではいっていない。その代わりとても幸せだ。家庭も持っていない。後は老いていくだけの自分がどうしてこれほど充ち足りて幸せなのかはわからない。戦争と引き揚げの記憶が、自分にそう多くのものを望ませないようにしているのだろうか。いや、そんなことはない。父から受け継いだ根源的な何かが自分をしっかりと支え、不幸には向かわせなかった。


本書は「野性時代」に2006年から2008年にかけて連載されたものだが、ルリ子をはじめ現存の登場人物に関してはかなり気を遣って筆を抑えながら、それなりの突っ込みもある。うーーん、Morris.は林真理子を、過小評価してたのかも知れない。でも、他の作を読むかというと、それはないだろうという気もする。
そして浅丘ルリ子も、結局はMorris.の「好み」とは微妙にずれてる気がした(^_^;)


2011013

【韓国の美しいもの】小澤典代 ★★★☆ 新潮社「「とんぼの本」シリーズのビジュアル本で、著者は特に韓国専門でなく、一般的な小物、インテリア関係の人らしいが、きちんとハングルも記載して、作者への取材もきちんと行っている。
雑誌「スッカラ」に連載したものらしい。

チュモニ(袋物)、ポソンとタンヘ(足袋と靴)、ヌビ(刺し子)、モシ(苧麻)、ノリゲ(チマチョゴリの装身具)、チルボ(七宝)、クムパク(金箔)、ホルレジャンシク(婚礼装飾)、ソバン(お膳)、スッカラク(匙)、クムソクシッキ(金属食器)、トクサル(餅型)、ペクチャ(白磁)、オンギ(伝統のカメ)、ホボク(済州島の水瓶)、ポジャギ(風呂敷)、チムグ(寝具)、ナジョン(螺鈿)、ヤクチャン(薬箪笥)、トゥソク(飾り金具)、チョンガク(篆刻)、ハンジ(韓紙)、ワンゴルコンエ(莞草工芸)、モグ(木偶)、ソッテ(鳥幟)、ソギン(済州島の石像)、キロギ(雁の置物)、タル(面)

の約30種ほどの工芸品や装飾品、民具、衣服、食器、陶磁器などがとりあげられている。Morris.はそれほどこういったものへの関心は薄いのだが、仁寺洞のキムテワンの篆刻、イヨンホの白磁などは、その店で溜息ついて見てたことを、懐かしく思い出した。小さなお膳は一つくらいあってもいいかと思ったし、木製の餅型は数年前、東大門運動場の泥棒市で、良いものが安くで出てたのを買いそびれたことを改めて後悔してしまった。Morris.としては民画が抜けてるのがちょっと物足りなかった。
刺繍やデザインでよく使われる柄によく使われる、演技の良いものたちの解説で

韓国には中国から伝わっった陰陽五行説の考え方があり、赤、蒼、黄、白、黒の五色を基本にした色づかいが多く見られます。そして、工芸全般に多用される模様の代表が十長生(シプチャンセン)と呼ばれるもの。太陽、水、松、鶴、亀、鹿、不老草を基本とし、それに山、雲、月、岩、竹の中からいずれか三つをくわえた十種類を指していて、、不老長寿を象徴する模様であると言われています。

と、あった。民画の不老長生図の中にも「十長生図」とタイトルされたものがあったと思う。とりあえず、手持ちの韓日辞典3冊(小学館「朝鮮語辞典」、民衆書林「韓日辞典」、東亜出版社「トドゥムサジョン」)見たら、すべて

太陽・山・水・石・雲・松・不老草・亀・鶴・鹿

の十種が、順番も同じに挙げられていたが、月と竹もそれに準ずるということだろうか。まあ、中国では福といえば、蝙蝠、富貴といえば牡丹の花が定番だし、韓国の民芸にも良く使われているし、蝶々模様も好まれているようだ。


2011012

【夜は短し歩けよ乙女】森見登美彦 ★★★☆ この前読んだ「宵山万華鏡」が面白かったので、前の作品のこちらも読んでみることにした。4編の連作短編が収められている。 舞台は京都、春は夜の先斗町徘徊、夏は鴨川の古本市、秋は学園祭の野外演劇、冬は恐怖の風邪の蔓延など、手を変え品を変えしてるようでも、どれもが、まさに同工異曲だね(^_^;)エキセントリックなヒロイン、それに密かに恋焦がれる青年、神仙めいた老人、錦鯉池を持つスケベ親父、鯨飲しては人の顔を舐める美女、地に足のつかない生活で空を浮遊する男、奇人変人総出演てな感じで、語り手を交代させての、ライト感覚の戯文饒舌、浅く広い博覧強記、確信犯的遠回りの恋愛劇、スラプチックっぽいギャグのすべり、へなちょこ台詞……のてんこ盛りで、Morris.は結構、これが楽しめた。

偽電気ブランを初めて口にした時の感動をいかに表すべきでしょう。偽電気ブランは甘くもなく辛くもありません。想像していたような、舌の上に稲妻が走るようなものでもありません。それはただ豊潤な香りをもった無味の飲み物と言うべきものです。本来、味と香りは根を同じくするものかとおもっておりましたが、このお酒に限ってはそうではないのです。口に含むたびに花が咲き、それは何ら避けない味を残さずにお腹の中へ滑ってゆき、小さな温かみに変わります。それがじつに可愛らしく、まるでお腹の中が花畑になっていくようなのです。飲んでいるうちにお腹の底から幸せになってくるのです。飲み比べをしているというのに、私と李白さんがにこにこ笑いながら飲んでいたのは、そういうわけであるのです。
ああ、いいなあ、いいなあ、こんな風にずっと飲んでいたいなあ。
私はそうやって偽電気ブランを楽しく頂きました。やがて周りの人々のざわめきは遠のいて、まるで静かな部屋の中で私と李白さんだけがお酒を酌み交わしているような不思議な心持ちになりました。大袈裟に言うのを許して頂ければ、偽電気ブランはまるで私の人生を底の方から温めてくれるような味であったのです。
一杯。一杯。また一杯。
時が経つのも忘れて飲み耽るうち、言葉を交わしてもいないのに、李白さんが自分の祖父であるかのような安心が湧いてきました。そうして言葉を出さずとも、李白さんが喋りかけてくれているような気がしたのです。
「ただ生きてるだけでよろしい」
李白さんはそんなことを言ったように思われました。。「美味しく酒を飲めばよろしい。一杯一杯また一杯」
「李白さんはお幸せですか」
「無論」
「それはたいへん嬉しいことです」
李白さんは莞爾と笑い、小さく一言囁きました。
「夜は短し、歩けよ乙女」
偽電気ブランをお腹に入れながら、私は無性に楽しくてなりませんでした。美味しうございました。幾らでも飲めるのです。


吉田健一あたりの影響もあるのだろうが、ともかくも、お酒をこれだけ美味しそうに飲ませる手際には拍手を送ろう。

私はこれまで読んできた色々な本を思い浮かべました。最近のものではオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、それからマーガレット・ミッチェルの『風とともに去りぬうが、あるいは谷崎潤一郎の『細雪』、円地文子の『なまみこ物語』、山本周五郎『小説日本婦道記』。萩尾望都、大島弓子、川原泉も忘れてはなりません。小学校時代まで遡ると、さまざまな児童文学が思い出されます。ロアルド・ダール『マチルダは小さな大天才』やケストナーの『エミールと探偵たち』に『飛ぶ教室』,C・S・ルイスの『ナルニア国物語』、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』。でも、もっと遡るとなると---
そして私は、ラ・タ・タ・タムという言葉を思い出したのです。
そう、ラ・タ・タ・タム!
その宝石のように美しい絵本と出会ったのは、私がまだひよこ豆のように小さき時分、いまだ文明人としての分別をわきまえず、実家の箪笥に一円切手をこっそり貼りつけたりして、悪事三昧に明け暮れていた頃のことです。ちっちゃな頃だけ悪ガキでした。


ここに挙げられた本の半分くらいはMorris.も楽しんだものである。就中「大島弓子、川原泉」と、並べられたら、Morris.の評点も甘くならざるを得ないよね。この作家、もう少し読んでみよう。
ただヒロインがときどき使う「オモチロイ」というのだけは「ごめんください」であった(^_^;)


2011011

【私の男】桜庭一樹 ★★★ と、いうわけで、斎藤美奈子さん絶賛の桜庭一樹の真打ちともいえるらしいこの作品を読んだのだが、Morris.には向いてないとしか言いようがなかった。
章ごとに時代をさかのぼっていく手法は、夢野久作「瓶詰の地獄」を連想させるのだが、比べるのは夢野に失礼かもしれない。
因縁の男女(父娘)のキャラクタや、そのセックス描写などには、確かに凄みみたいなものがあり、筆力もありそうなのだけど、好みではないということだろう。
娘に母親を重ねるというのも、ステレオタイプだし、二つの殺人も、あまりに作り物めいてる。
主人公の苗字が「腐野 くさりの」という、いかにも作り物めいたものであるのは、何か意味合いがあるのだろうか? 「チェインギャング」という油絵がエピソードに使われてるからそれとの関連かもしれないが、どうも坐りが悪い。
名前には無頓着なさっかなのか、それともMorris.には想像のつかない思惑を隠してるのか。
そういえば、「桜庭一樹」は「桜馬鹿好き(月 憑き)」なとども読めるのだけど……(^_^;) 


2011010

【プロメテウス・トラップ】 福田和代 ★★ MIT在学中にFBIのシステム破壊を企て3年の罪を置い、日本で請負プログラマやってる元天才ハッカーが、FBIの依頼で国際テロハッカーを突き止める仕事に引っ張り出される。これまた元天才少年だった捜査官や、現役?天才少年が、ぞろぞろ登場して、絵に描いたようなネットの騙し合いなどあって、とりあえず、小説以前の作品だった。テロの黒幕というのも、ほとんどはじめのあたりで、見当がつくし、作者が自分のご都合主義のためにストーリーを作り上げてるのが見え見えである。いつも言うことだが、ご都合主義だって面白ければいいんだけどね。


2011009

【ひばり伝 蒼穹流謫】齋藤愼爾 ★★★☆☆ ひばり没後20年に上梓された本書の結びには、昭和八十四年(2009)五月十五日という日付がある。日中戦争が始まった昭和12年に生まれ、平成元年に死んだひばりを昭和時代に丸重ねした齋藤の気持ちの現われだろう。
ひばり本は400冊を超えているらしい。齋藤は少なくともその半分くらいは目を通しているようで、本書はそれらからの引用も多く、ひばり本の評判記としても読めるくらいである。
齋藤が評価するのは、竹中労、上前淳一郎、本田靖春、大下英治、平岡正明、麻生千晶、山折哲雄、新藤謙、吉田司、新井恵美子、堀ノ内雅一、佐藤勢津子、それにひばりの4冊もの自伝などである。橋本治がかかわった「川田晴久と美空ひばり」についての言及もあって、これはちょっと嬉しかった。

美空ひばりということで脳裏に浮かぶのは、『悲しき口笛』や『東京キッド』『越後獅子の唄うがで、そこで歌われる来じ、浮浪児、靴磨き、角兵衛獅子らは、いずれもよるべなき子どもの象徴である。
横浜からの連想でいえば、美空ひばりは大いなる海中(わたなか)に屹立する孤島のような存在である。『異邦人』の作者カミュの師グルニエは、著書『孤島』で、「人は島 ile のなかで、 『孤立 isole』する(それが島の語源 isola ではないか)。ひとつの島は、いわばひとりの『孤独の』人間。島々は、いわば『孤独の』人々である」という。また『島の精神史』の著者岡谷公二は、「孤立は島にとって不治の病いであろう」という。「孤立は人間にとって不治の病いだ」と、言い換えると、美空ひばりを晩年さまざまに襲った受難が想起されよう。


美空ひばりがデビューしたとき、はじめから童声でなかったため、「ラジオで聴いていると完全に大年増の歌手としか思えない」だの「畸形的な大人のしわがれ声」と揶揄されたことは先に述べた。しわがれ声はひばりの地声であるし、声だけをとらえて、「畸形的」というのは偏見というしかない。童謡歌手やウィーン少年合唱団のイメージで、その清澄透明な声の尺度で一律に歌手を計っても詮なきことであろう。
「しわがれ声」の歌手は、ジャニス・ジョプリン、アマリア・ロドリゲス、キャシー・バーベリアン、ビリー・ホリディなど世界的に普遍在だし、枚挙にいとまがない。
演歌、ジャズ、ロック、ファド、シャンソン、レゲエ、カンツォーネから、黒人音楽、ユダヤ人音楽、インド、沖縄とアイデンティティに引き裂かれた者が、国家に抗し、民族に収まらぬ分裂した声=しわがれ声=音が、未来の自由を夢想する。その夢をかなえる<魂を歌うエンターテイナー>の世界的な系譜につらなるのが、美空ひばりだった。ひばりは演歌、民謡、歌謡曲、欧米風のポップス、ジャズ、タンゴ、ラテンとあらゆるジャンル、スタイルを集大成すべき資質の持ち主であった。


しかし、この本を読んで、一番同感したのは「川の流れのように」が好きでない(はっきり言えば嫌い)というところで、小沢昭一、黒田征太郎、本田靖春など、意見を同じうする面々の言葉が引かれてるが、やはり平岡正明の啖呵の切り方が気持ち良い。

ラストレコーディングが『川の流れのように』であったことがおれは気に入らない。『ああ、川の流れのように、おだやかにこの身をまかせていたい』という甘っちょろい観念セリフ。
オフェリアは死んで川を流れていくんだぜ(『ひばりの芸術』平岡正明)


そして、なんと言っても齋藤が真っ先に上げる愛唱曲『悲しき口笛』。これは実質的ひばりのデビュー曲で90万枚を売り上げた。発売されたのがMorris.の生まれた年(昭和24年)というのもう嬉しい(^_^)

「丘のホテルの赤い灯も 胸のあかりも消えるころ」--なぜ「丘のホテル」なのか? 私がいぶかしげに思っていたことに照明をあたえてくれたのが、平成4年(2002)刊の村瀬学『なぜ<丘>をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか--戦後歌謡と社会』であった。村瀬氏は白川静『字訓』の定義をうけ、「丘」とは、死者を葬る場所であり、同時にそこが死者を思い出す場所ともする。「つまり”丘”とは、失いと思い出しの場所、失いと蘇りを象徴する場所、もう少し言えば、”喪失”と”再起”を象徴するものとしてあった」という。


2011008

【ドラゴン・イングリッシュ 基本英文100】竹岡広信 ★★★☆☆ 著者は駿台予備学校のカリスマ英語講師らしい。要するに受験生向けの、英作文攻略参考書である。何でまたMorris.がこんなのを読むことにしたのかというと、ぱらぱらと立ち読みして、例文のいくつかが面白そうだったからだ。
まあ、英語はいちおうMorris.の「第二外国語」(^_^;)だしね。たまには韓国語から、距離をおくのもいいかもしれない。
付録にCDも付いてて、男女二人が同じ例文を読み上げる。これもなかなか聴きやすい。
内容的にも、しっかりしてるようで(Morris.にはレベルが高すぎて追っつかない)、たしかに、これは受験生にも有意義な本だろうし、Morris.も久しぶりに「時制の一致」なんてことを思い出して懐かしかったりもした。懐かしいといえば、この100文を、全文打ち込んでみたのだけど、30年ほど前ちょこっと齧った英文タイプを思い出した。ワープロからPCが必需品となって、Morris.も毎日、こうやってキーボード打ち込んでるのだけど、大慨は日本語で、ときどき、ハングルや英文も打つけど、こうやって、一気に英文だけ打つのは勝手が違う。shiftキーで大文字にするというのが、まるでできなくなってるのに驚いた。小指でshiftキー押さえてるつもりが、次のキーを打つときにはもうはなれてしまってるのだ。慣れというのは怖いものである。
ちなみにあとでスペルチェックかけたら、ミススペルが40以上もあった(>_<) これは「辞書にない言葉」のチェックだから固有名詞はひっかかるし、「on」と「no」、「of」と「off」などの間違いは省かれている。
閑話休題。ともかくも、Morris.の印象に残った例文をいくつか引いておく。

005  日本人は、エレベータや信号待ちだと、わずか30秒でいらいらし始める。
    When waiting for the elevator to come or the traffic light to change,most.Japanese people become irritated in only thirty seconds .
009  大地震がいつどこで起こるかは予測不能だ。
    I t is impossible to predict where and when there will be a major earthquake.
034  不老不死は人間の夢である。しかし、もしこれが実現したら地球は人であふれてしまう。
    People wish they could live forever and never become older, However,if this wish came true,there would be too many people on the earth.
046 私はヒトクローンに反対します。なぜなら独裁者が自らの複製を作り出すことになるかもしれないからです。
    I am against human cloning. That is because it could cause duplication of dictators.
054 学校は勉強だけ教えているところだと思うのは、学校の役割を理解していない証拠です。
    If you expect that schools only teach academic subjects, then this proves that you don't understand what schools are for.
061 プロ野球はテレビで見るより球場で見た方が100倍面白い。
    Professional baseball is far more exciting at a stadium than on TV.
065 パソコンを持っている人は多いが、十分に活用する方法を知っている人は極めて少ない。
    A lot of people have personal computers, but very few of them know how to use them effectively.
071 いくら運動しても、カロリー計算をしないと減量は無理だよ。
    However much exercise you get, you won't lose weight unless you count your calories.
072 意味を知っているつもりの単語でも、辞書で引いてみると新たな発見があるものだ。
    Although you believe you know a word, you may learns something new if you look it up in the dictionary.
077 英語を話せさえすれば国際人になれると勘違いしている日本人が多いのは残念だ。
    It is a pity that many Japanese people mistakenly believe that they have only to speak English to be internationally-minded.
095 混雑した列車内で、2人分の席を占領して平気な顔をしている人を見ると本当に腹が立つ。
    People who don't feel guilty about occupying two seats on a crowded train really make me angry.
100 やるきさえあれば何事においても成功できる、ということを心に留めておきなさい。
   Bear in mind that if you have enthusiasm, you can succeed in anything.


2011007

【道徳という名の少年】桜庭一樹 ★★★ 120pほどの薄手に5編の短編。それも全ページ大きな花罫で囲まれているし、見開き挿絵も10点くらいあるから、ほとんど掌編というべきだろう。
ある町で一番の美女が産み落とした4人の姉妹と一人の弟。その弟の名前が「ジャングリン 道徳」である。5編はそれぞれ独立してはいるが、一種の年代記みたいな造りで、戦争に行って両腕を無くしたジャングリンの息子、都に出て歌手となったその息子、さらにその孫娘などが登場する。
筋はあってなきがごとく、それぞれの愛欲、殺戮の描写がメインになっている。
白状するとMorris.にはまるで何だか分からないままに読み終えてしまった。
この作家は斉藤美奈子さんが激賞してたので、読まねばと思いながら、何となく手を出しそびれていた。本書はその薄さから、これならちゃっちゃと読めるかもと思って借りてきたのだが、あとに残ったものはもやもやとした虚無的な淫靡と、おぞましくも甘美な何かだった。
腰帯の惹句には

桜庭一樹のゴージャスな毒気とかなしい甘さに アーティスト野田仁美が共振してうまれた、極上のヴィジュアルストーリー集。エロスと、魔法と、あふれる音楽!!! 直木賞作家がおくる、甘美な滅びの物語集。

とある。うーーむ、そうなのか?どうも、Morris.の理解を越えた作品なのかもしれない。
両腕を無くした息子が結婚して夜の営みのとき、父が息子の背後に回り、その両手で花嫁を愛撫する場面などは、江戸川乱歩を思い出してしまったが、これは「ジョニーは戦場に行った」からの援用かな。歌手になった息子のデビュー曲「プラスチックの恋人」にも、その匂いがする。

ぼくのパパは 戦争にいった
ママは パパがなくした腕に攫われた
パパは毎夜 ママの名を呼び 足でぼくを抱く
大人になったぼくの恋人は、 なんとプラスチック製
もう この国に 戦争はない
町はいま瓦礫の山!
金色の 哀れな夢ん中
両性具有の未来を 君と生きるのだ!


やっぱり美奈子さん推奨の直木賞受賞作「私の男」を読むべきだろうか。
あ、そうだ、本書のイラストは、まるでMorris.の好みではなかった。これが、一番の敗因かも。


2011006

【李朝滅亡】片野次雄 ★★★ 朝鮮の開国から、日韓併合にいたる時代を、小説風に分かりやすく解説したもの。
小説としてはかなり雑というか、はっきり言って小説以前のものだが、歴史の副読本としては、なかなか有益なものだった。
目次見れば大慨がわかる。

第一章 朝鮮開国
・日本軍艦「雲揚」発砲す
・吹き荒れる洋憂の嵐--江華島事件
・李朝骨肉の争い--大院君と閔妃
・朝鮮は自主の邦なり--日朝修好条規
・出兵のかけひき--壬午軍乱
・開化派と守旧派--政争の構図
・開化への死闘--甲申事変
第二章 李王朝の内紛
・外交という名の戦い--天津条約
・清国群、日本軍出兵す--甲午農民戦争
・日清戦争勃発--豊島沖海戦
・「朕の戦争に非ず……」--黄海海戦
・勝者と敗者の苦悩--下関条約
・閔妃暗殺
・大韓民国の誕生--日露戦争への期待
第三章 大国のはざまで
・植民地化への足がかり--日韓議定書
・日露戦争--にがい勝利
・大韓国は日本の保護国なり--第二次日韓協約
・慟哭の日--乙巳五賊と憤死者たち
・高宗最後の抵抗--ハーグ密使事件
第四章 日本支配のはじまり
・悲劇の皇帝・純宗--たかまる抗日義兵闘争
・伊藤博文暗殺--"義士"安重根
・日韓併合条約
・李朝滅亡
・日帝三十六年--国家の原罪


2011005

【ラッシュライフ】伊坂幸太郎 ★★★☆ 趣味的泥棒。透視者宮崎とその信者。不倫のカウンセラーとサッカー選手。リストラされた男と拾われた老犬という4組の登場人物が、それぞれ勝手に動きながらいつしかそれが複雑に絡まりあい密接に交錯するという構成の作品で、Morris.はどちらかというと、こう言った作品は好きでない。ややこしいからである。でも本書では、それぞれ小さなカット(アイコン)がそれぞれが登場する章の冒頭に置かれているので、Morris.には分かりやすくて助かった。この4組の外に、大金持ちの画商と女性画家が登場する。
しかし作者からするとこういう作品は、パズルを完成させるような楽しみがあるのかもしれない。
エッシャーの城表紙にエッシャーの「無限階段」を配してある。そして、伊坂はまさにこの絵を小説の構成に当てはめてしまったようだ。先般読んだ森見登美彦の「宵山万華鏡」が万華鏡に合わせて作品を仕立ててたのにも似ているが、本書の方が7年ほど前に出されている。
死体の解体や、郵便局強盗、発砲や暴力などのシーンもそうだが、普通の会話や、事件の推移も、すべて現実性を剥ぎ取られた形で描かれている。つまり、これは一種の寓話なのかもしれない。この前読んだ「あるキング」もそうだったけど、この作家は、そういった作風なのだろう。

「生きるということがリレーだとすれば、僕の家はそれがまともにできてないんですよ。次のランナーにバトンを渡す前にコースを逸れてしまうんです。みんなそうなんです。仕方がないから次のランナーは、バトンを受けてもいないのに走りはじめるしかない。かろうじて走っているつもりの僕も、遅かれ早かれ、きっと道を外れるんです。絶対にバトンを渡せないと決まっているリレーに意味はないじゃないですか」

山之口貘の「喪のある景色」を思い出した。あれは地球そのものをバトンに見立てていたな。

「神は蚊だよ」と父が囁いてくる気がした。「復活という意味では蚊は毎年復活するじゃないか。いや、それを言うなら動物はみな、死んでは生き返り、ぐるぐると復活を繰り返しているようなものじゃないか。要するに大きな視点から見れば、地球上の生命の生き死にその現象自体が神じゃないか」

これは一種の汎神論でもあるのだろうが、Morris.も基本的にこういった見方の味方であると思う(^_^;)

「君が卒業間際に言った言葉を思い出したよ」佐々岡はトーンを上げて言った。「『オリジナルな生き方なんてできるわけがない』私にそう言った」
「そうだったか?」
「世の中にはルートばかりが溢れている、とね。そう言ったよ。人生が道なら標識と地図ばかりがあるのだ、と。ルートをはずれるためのルートまである。森に入っても標識は立っている。自分を見詰め直すために旅に出るのであれば、そのための本だってある。浮浪者になるためのルートだって用意されている」


本書のタイトルの中の「ラッシュ」は、カタカナで書くと区別できないが、「l」と「r」、「a」と「u」の組合せで4つの語になり、カバーの袖に、研究社の「リーダーズ英和辞典」からの引用がある。

lash 名詞)むち打つこと、(機械可動部分の遊び 動詞)激しく動く、(金などを)濫費する
lush 形容詞)豊富な、景気のいい、豪華な 名詞)酒、のんだくれ
rash 形容詞)無分別な、軽率な、せっかちな 名詞)発疹、吹き出物
rush 動詞)突進する、殺到する、向こう見ずに行動する 名詞)突撃、多忙、忙殺、ご機嫌取り


ラッシュアワーやゴールドラッシュのラッシュは「rush」で、Morris.はこれしか知らなかった(^_^;)が、本文中にも出てくる、コルトレーンの「ラッシュライフ」という曲名は「lush life」で「豊潤な人生」と訳されている。この4つの単語は響きも、意味もどこか似通っているところが、エッシャーの絵に通じるところがあるのだろう。
ちなみに、Morris.愛用のWebsterのSPINDEXという、ポケットサイズの超簡単辞書では以下のようになっている(これで全文引用(^_^;))

lash v. whip,bind
lush a. tender and juicy
rash n. eruption of red spots on skin
rush v. move speedly 


2011004

【あすなろ三三七拍子】重松清 ★★★☆☆ タイトルと漫画チックな表紙に釣られて借りてきた。直前に読んだ同じ作家の「ビタミンF」との関連では無い。
消滅寸前の大学の応援団に、45歳のおじんが、社会人入学して団長になり、新入生団員とOB、チアリーダー、吹奏楽部、対抗大学の応援団との間でのどたばたを、おもしろおかしく、そしてこの人お得意の「ひゅうまにずむ」で味付けした、娯楽作品だが、これがなかなかMorris.には面白く読めた。思わぬ儲け物である。だいたいが、娯楽作品で、週刊誌(サンデー毎日9連載ということもあって、切れ目なく山場をもってくるため、いささか無理があったり、登場人物のキャラが突然変わったり、ご都合主義のてんこ盛りだが、そこは「面白ければ何でもOK」のMorris.には許容範囲である。
主人公と同世代のOB凸凹コンビのボケのやりとり(なぜか大阪弁風)が、バカバカしくもおかしい。

「わしら『団』の歴史の中でもエリートなんや」「荒川先輩と並んで、燦然と輝いとんねん」「十年に一度の逸材二人や」「ほなら二人で割って5年に一度になるかいうたら、そないわけでもないねん」「そこがおもろいとこやな、じんせいの」「数字のマジックいうやっちゃ」

これはきっと「花の応援団」に依拠するのではなかろうか。と思ったら、ちゃんと二人の会話に出てきた。

「ボケ! リーダー振っとる最中にひっくり返る団長がおるか!」「腹あ斬って詫びんかい!」「情けない奴ちゃのう! ほんま!」「『団』の面目丸つぶれや!」「そりゃ『花の応援団』の剛田先輩や!」「役者やのう、ワレ」「そりゃ薬痴寺先輩や!」「アホ! ボケ! カス!」……

「ワレなんぼになったんな! ガキなこというなあ!」「シジュウゴじゃ! ええ歳じゃ!」「四捨五入で五十やないけ!」「もひとつ四捨五入で百歳や」「ご長寿や!」「バンザイや!」「って、なに乗せとんねん!ボケ!」……。

おしまいの「四捨五入で五十やないけ!」「もひとつ四捨五入で百歳や」は、Morris.も五十になって以来よく使ってきた洒落だった(^_^;)
しかし、

自分でもうまく説明できない。沙耶の言うように「自己満足のおせっかい」にすぎないんだと断じられたら、言い返す言葉はない。
だが、「応援」とは、、そもそも、そういうものではないのか---?
「自己満足のおせっかい」ではない「応援」など、ありえないのではないか---?

「『団』とは、『団結』でもあるし、『団欒』でもある。向こうに行っても、家族仲良く、年老いたお父さんやお母さんを支えてやれ」
「押忍! 肝に銘じます! 押忍!」
「介護の日は、つらいことも多いぞ。でもな、山下、『介護』と思うからつらくなる。これは『応援』なんだ。お父さんやお母さんが少しでも老後の日々を楽しくしあわせにすごせるよう、おまえが応援するんだ。介護は生まれて初めてでも、応援なら、おまえはずっとやり抜いてきたじゃないか、なあ、山下!」

応援団の理屈抜きのバンカラな世界にもこういった、人間味を加えたり、さらに応援を介護に結びつけるなど、重松的なところがあるものの、Morris.が本書を楽しめたのは、「ビタミンF」に欠けていたもう一つの「F」=「FIGHT」が濃厚に含まれていたためかもしれない。
そして表紙だけでなく、本文中にもふんだんに出てくる峰岸徹の挿絵が、実にいい感じを醸しだしていて、Morris.は一種の絵物語として楽しんだようだ。


2011003

【ビタミンF】重松清 ★★☆☆ 5年ほど前に「熱中時代」、昨年「舞姫通信」を読んで、それなりに面白いと思ったものの、何となくその「ひゅうまにずむ」臭さに鼻白んだMorris.であるが、本書のタイトルだけは以前矢谷くんが口にしてたので覚えていた。
7編の短編が収められている。本作で2001年の直木賞を受賞したらしいから、出世作といえるのだろう。

炭水化物やタンパク質やカルシウムのような小説が片一方にあるのなら、ひとの心にビタミンのようにはたらく小説があったっていい。そんな思いを込めて、七つの短いストーリーを紡いでいった。
Family、Father、Friend、Fight、Fragile、Fortune……<F>で始まるさまざまな言葉を、個々の作品のキーワードとして物語に埋め込んでいったつもりだ。そのうえで、いま全七編を読み返してみて、けっきょくはFiction、乱暴に意訳するなら「お話」の、その力をぼくは信じていたのだろうと思う。これからも読み物の書きてとして畏れながらも信じつづけていくものは、「お話」の力しか無いんだろうな、とも。


と、後記で、自分のスタンスを正直に披露している。本書の作品もほとんどが、家庭や家族がが抱える問題を真摯に描いているらしい。それなりに読ませる力はあるのだろうが、やっぱり鼻白むしかない。

いじめにはクラスの女子全員加わっているらしい。きっかけは、つまらないことだ。夏休み中に誰かが「カナちゃんって生意気だよね」「いい子ぶってるよね」と言いだして、思いのほか「そうそうそう、あたしもそう思う」と同意する子が多く、みんなで陰口を言い募っているうちにいじめへとエスカレートしてしまった。
「半分はひがみもあると思うんです。素直で屈託のない子へのやっかみのようなものです。ですから、高木さんがなにかみんなの怒りを買うようなことをやったとか、裏切ったとか、そういいうことじゃないんです。それが逆にタチが悪いといいますか……こちらも厳しく指導して、来週には中心になって高木さんをいじめてる生徒の親にも伝えるつもりなんですが……どうも、直接のげんいんがないというのがですね、たとえば高木さんが謝れば、それでみんなの気がすむかというとそうでもなくて……」
原先生はくぐもった声で言う。自分でもうまく整理がついていないのだろう。だが、雄介は「わかります」とうなずいた。かんたんなことだ。答えはずっと以前に加奈子が教えてくれていた。
「好き嫌いは個人の自由ですからね」
雄介は抑揚をつけずに言った。コジン。ジユウ。舌と耳がざらつく。


「好き嫌い」を金科玉条的に行動、生活してるMorris.には、いささか耳の痛い言葉ではある。しかし、やっぱりこういった書きぶりというのが、Morris.はあまり好きになれない(^_^;)


2011002

【宵山万華鏡】森見登美彦 ★★★ 京都宵山にまつわる幻想的な話が6篇収められている。
「宵山姉妹」「宵山金魚」「宵山劇場」「宵山回廊」「宵山迷宮」「宵山万華鏡」。それぞれが同じ宵山の日のちょっと風変わりなハプニング企画と、宵山の日に消え去った画家の娘や、亡くなった画商の父とのからみ、前衛劇風の仕掛けとけれんなどが交錯する変奏曲である。
繰り返される情景が少しずつ、あるいは大胆に変化しながら、それらが類似していること、6編という数字自体が万華鏡仕立てを宣言しているようでもある。
Morris.は子供の頃からから万華鏡は好きで、買ったり作ったりしたこともあるが、いずれも玩具の域を超えないものだった。世の中には贅を尽くした装飾的なものや、精密機器とよびたいもの、さらに縦筒と横筒を組み合わせたもの、透明な油の中に色ガラス片などを入れて、色彩と光彩の煌きを誇るタイプなどもある。でもMorris.は筒の先に半球のレンズを付けて、それで外の事物を三枚の鏡板に無限に写合わせるタイプのものが好きである。それを説明してる部分が出てきた。

たしかに万華鏡というのは魅惑的な玩具だった。なめらかに生まれては消える図形を注意して眺めていると、同じ形のものは二度と現れない。池の水面に生まれる波のようなものだった。
その冬以降、叔父は万華鏡について調べるようになり、自分の絵にも取り入れた。叔父が特に面白く思ったのは、テレイドスコープと言われるものだ。覗き穴の反対側に小さな硝子玉が填めこまれていて、遠眼鏡のような形をしている。筒の向こうに見える現実の映像が、つぎつぎと変形しながら回転していくのである。


宵山金魚のカットMorris.も小さな銀色のテレイドスコープを持っている。大阪天満宮近くの手作り万華鏡の店で数年前手にいれたもので、これとて、格安品で精度には欠けるのだが、たまに、これで空の雲や、街の風景などを眺めていると、時間を忘れそうになる。
本書の登場人物は、バレー教室に通う姉妹と講師、骨董屋の手先みたいなことをやってる男、演劇裏方(仕入れ方)の青年、画廊の母と息子、引用に出てくる画家、突拍子もない発想の劇団作家、その他得体のしれないもろもろが、夢と現の間を行ったり来たりするみたいに、行き交うわけだが、ストーリーより、その場その場の雰囲気を楽しませるために書かれたもののようだ。
彼岸と此岸を往来する、赤い着物を着た少女たちが、これまた繰り返し登場しては消えていくのだが、目次と、各編の扉に描かれた、少女が金魚に変身する6枚のイラストが印象的だった。特に2枚目の絵(→)ほとんどこれに惹かれて、借りてきたようなものだ。薄紅の地色はMorris.があとから付け加えたもの。
巻末に「挿画 さやか」とあるから、たぶん女性のイラストレーターなのだろう。ただ、表紙などのカラーイラストには、あまり感心しなかった(^_^;)
作家は1979年生まれだからまだ30くらいか。こういった幻想作品こそは、構成や細部の描写が大事だと思う。そういう点でも歳の割に、水準をクリアしてるようだ。

硝子戸を抜けた先は狭い庭である。御輿が燈籠へぶつかって鈍い音を立てる。庭を抜け、木戸をくぐって外へ出た。そこから延びる一本の道路は両側に駒形提灯がびっしりとならんで、その下には招き猫と信楽焼の狸が交互に規則正しく並んでいる。猫狸猫狸猫狸猫狸猫狸と通り過ぎ、目がちらちらしたところで、通路は終わり、ふたたび木戸がある。
その向こうは枯山水の庭になっていた。きれいにならした砂を踏み散らしながら御輿は縁側から宏壮な邸宅へ上がりこむ。一階の座敷には大勢の人間がいて、ずるずると音を立てて素麺をすすっている。座敷の中を縦横無尽に竹筒が走って、ひっきりなしに素麺が走っているらしい。彼らは俺の御輿に驚く風でもなく、素麺に夢中である。
御輿は階段を伝って二階へ上がった。ゴウゴウと風が吹いているので「嵐か」と思ったが、二階座敷に入ってすぐに、特撮用に使うような巨大な扇風機が回っているのだと知れた。座敷の奥には一面に風車がならんで目の回る速さで回転し、鴨居におびただしくぶら下がった風鈴は風に吹かれすぎてこんぐらがっている。回転する風車の前に、着物を着た舞妓が立っていた。彼女は風にはためく鯉のぼりを左手に掴み、右手には大きな羽子板を持っていた。


仕掛けの描写と種明かしの部分だが、「猫狸猫狸猫狸猫狸猫狸」の部分は思わず笑ってしまった。しかし、これは縦書きでないと面白みが伝わらないかも(^_^;) それともう一つ、「猫狸」が5回しか繰り返されていない。ここはやはり「猫狸猫狸猫狸猫狸猫狸猫狸」と6回繰り返すべきだったのではなかろうか。
おりがあれば、この作家の本もう一冊くらい読んでもよいかと思った。


2011001

【えーえんとくちから】笹井宏之作品集 ★★★☆☆ 2009年1月24日、26歳で世を去った歌人笹井宏之の2冊目の歌集である。生前唯一の歌集「ひとさらい」を出してちょうど1年後に亡くなった歌人が武雄の熊さんの孫だったことから、彼の母から、歌集や新聞記事や、彼を追悼する冊子などずっと送ってもらってた。
笹井宏之作品集本書もつい最近送られてきたのだが、処女作「ひとさらい」が、ネットの短歌賞の副賞として出版されたわりとマイナーなものだったのに比べると、メジャーな出版社(PARCO出版)から出されたもので、新書をちょっと大きめにしたくらいのライトな装釘が、彼の作品に似合っているようだ。
160pくらいで、1ページに一首か二首掲載というゆとりあるレイアウト、250首前後が収められている。「ひとさらい」とそれ以外の作品から選択されているが、その取捨選択の手際、配列の妙から、プロが手がけたものであることがわかる。ある意味「売れ線狙い」的な造りである。しかし、それは内容とは無関係だろう。売れればそれだけ、作品が多くの人に読まれるわけで、それが悪いことであるはずはない。
タイトルは

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力ください 笹井宏之

という、歌からとられたもので、これは冒頭に置かれている。これを選んで、タイトルに持ってきたことだけでも、本書のポリシーが解るような気がする。
NHKのドキュメンタリー番組で取り上げられたり、短歌雑誌の年間優秀歌人に選ばれたり、死後に評価が上がる一方のようで、それが本書の出版につながったようだし、近々第二歌集「てんとろり」も出版されるとのこと。
Morris.は先に書いた縁もあって、比較的早めに彼の作品に触れたのだが、感覚的に面白く、配合の妙、言葉遊び心など取り柄があると思いながら、Morris.とはあまりに肌合いが違うなということで、熱心な読者にはなれなかった。
実は2005年の春頃、彼の母からMorris.に「短歌の手ほどきをしてもらえないか」という相談を受けた(^_^;) Morris.が以前サンボ通信に巻頭歌集を連載してたことを思い出したかららしい。Morris.に人を指導するなんてできっこないということで、ことわりを入れたのだが、せめてもの気持ちとして、短歌関連の参考書や雑誌の特集と一緒に、手作りの「Morris.歌集」も送った。Morris.の歌と彼の歌では、見事に食い違ってるが、それでも、礼儀としてだろう、彼からお礼のメールが来た。

Date: Thu, 31 Mar 2005 14:42:01 +0900

雲ひとつ無い有田より、こんにちは。
本届きました、ありがとうございます!
國文學と新作歌用語辞典、色々と使ってみたいです。
寂聴さんの本は和子さんも読みたいと言っていました。
そしてMorris.さん歌集。
HPにもある通り、難解(>_<)ですが、どなただったか
歌の下手な歌人はいいが歌の読めぬ歌人は悪 と、言いて降壇
と詠んでらっしゃったので「難解」を「少し難解」くらいには
したいなと思っています(一先ずは・・・)
でも、Morris全歌集が一番嬉しかったですよ◎

いつか宏之歌集でお返しできたらよいなと思っています。

ではでは。


私信の公開だが、これくらいなら許してもらえるだろう。そして結果としてMorris.は彼から「お返し」以上のものをもらったことになる。
最後に置かれた歌は

それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした 笹井宏之

さらにその後に歌ではなく無題の詩が。

わたしのすきなひとが
しあわせであるといい

わたしをすきなひとが
しあわせであるといい

わたしのきらいなひとが
しあわせであるといい

わたしをきらいなひとが
しあわせであるといい

きれいごとのはんぶんくらいが

そっくりそのまま
しんじつであるといい


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