top 歌集 読書録 植物 愛蔵本 韓国 日記 calender mail 掲示板

Morris.2007年読書控
Morris.は2007年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

読書録top 2006年 2005年 2004年 2003年 2002年 2001年 2000年 1999年

セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)

【デジカメ時代のスナップショット写真術】大西みつぐ 07152 【快適生活研究】金井美恵子 07151 【詩集 冬眠館】和泉克雄 07150 【ソウル大改造-都市伝説-】李明博 屋良朝建訳 07149
【かっこいいスキヤキ】泉昌之 07148 【物語 韓国人】田中明 07147 【風の払暁】船戸与一 07146 【日韓いがみあいの精神分析】岸田秀 金両基 07145
【朝鮮半島をどう見るか】木村幹 07144 【熱中】重松清 07143 【マンガ韓国現代史】金星煥(キムソンファン) 植村隆 07142 【ドン・キホーテの末裔】清水義範 07141
【書いておぼえる江戸のくずし字いろは入門】菅野俊輔 07140 【地獄篇三部作】大西巨人 07139 【狼少年のパラドクス】内田樹 07138 【それってどうなの主義】斎藤美奈子 07137
【嫌韓流の真実!ザ・在日特権】別冊宝島 07136 【テレビはなぜつまらなくなったのか】金田信一郎 07135 【猪飼野 追憶の1960年代】゙智(金+玄)チョジヒョン 07134 【大いなる眠り】レイモンド・チャンドラー 双葉十三郎訳 07133
【哀愁的東京】重松清 07132 【神戸の古本力】林哲夫編 07131 【天才青山二郎の眼力】白州信哉編 07130 【スローブログ宣言!】鈴木芳樹 07129
【ソウルの食べ方歩き方】中山茂大著 チュチュンヨン写真 07128 【あでやかな落日】逢坂剛 07127 【激コラム 世情編】ナンシー関 07126 【泣き虫弱虫諸葛孔明 第弐部】酒見賢一 07125
【自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王】太刀川正樹訳 07124 【よろしく青空】中野翠 07123 【金塊和歌集】源実朝 07122 【長いお別れ】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 07121
【月は知っていた 旅のグ2】グレゴリ青山 07120 【びっくり舘の殺人】綾辻行人 07119 【ニューヨーク地下共和国 上下】梁石日 07118 【市場(スーク)の中の女の子】松井彰彦 文 スドウピウ 絵 07117
【愛国の作法】姜尚中 07116 【二階屋の売春婦 末永史劇画集】末永史 07115 【夜露死苦現代詩】都築響一 07114 【受命 Calling】帚木蓬生 07113
【親日宣言】チョヨンナム 萩原恵訳 07112 【在日二つの「祖国」への思い】姜尚中 07111 【在日】姜尚中 07110 【ニッポン・サバイバル】姜尚中 07109
【日本の仏像誕生!】芸術新潮2006年11月号 07108 【福沢諭吉は謎だらけ。】清水義範 07107 【褐色の文豪】佐藤賢一 07001 【河畔に標なく】船戸与一 07106
【双六で東海道】丸谷才一 07105 【韓国は変わったか?】黒田勝弘 07104 【高い窓】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 07103 【GR DIGITAL WORK SHOP】田中長徳 07102
【建築探偵桜井京介 館を行く】篠田真由美 07101 【神戸異国文化ものしり事典】呉宏明編 07100 【のぞき学原論】 三浦俊彦 07099 【こぐこぐ自転車】伊藤礼 07098
【「坂の上の雲」と日本人】関川夏央 07097 【電子の星】石田衣良 07096 【黄泉の犬】藤原新也 07095 【談志絶唱 昭和の歌謡曲】立川談志 07094
【モナ・リザの罠】西岡文彦 07093 【湖中の女】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 07092 【薔薇の木に薔薇の花咲く】いしかわじゅん 07091 【かわいい女】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 07090
【葉桜の季節に君を思うということ】歌野晶午 07089 【狼女 Um lobisomem】大沢在昌 07088 【乱世を生きる】橋本治 07087 【LAST ラスト】石田衣良 07086
【プレイバック】 レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 07085 【朝日vs.産経 ソウル発】黒田勝弘 市川速水 07084 【冬至祭】清水義範 07083 【コリア打令】平井久志 07082
【ニャンちゃって漫画 平凡キング】室井滋 07081 【さらば長き眠り】原ォ 07080 【ミステリオーソ】原ォ 07079 【アメリカ第二次南北戦争】佐藤賢一 07078
【タルドンネ 月の町】岩井志麻子 07077 【暁の密使】北森鴻 07076 【デジタル 写真の学校】キット タケナガ 07075 【ちゃんどらの逆襲】いしかわじゅん 07074
【はじめての言語学】黒田龍之助 07073 【わたしの詩歌】文藝春秋編 07072 【カオス】梁石日 07071 【東京カウボーイ】矢作俊彦 07070
【魔王城殺人事件】歌野晶午 07069 【必勝小咄のテクニック】米原万里 07068 【女王様と私】歌野晶午 07067 【"日本離れ"できない韓国】黒田勝弘 07066
【無限連鎖】楡周平 07065 【日本の公安警察】青木理 07064 【写真を撮る】竹村嘉夫 07063 【ステーションの奥の奥】山口雅也 07062
【さらば愛しき女よ】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 07061 【兵庫のなかの朝鮮】むくげの会他 07060 【のだめカンタービレ 1-17】二ノ宮知子 07059 【湊川新開地ガイドブック】 井上明彦+曙団 07058
【モーダルな事象】奥泉光 07057 【わたしはネコロジスト】吉田ルイ子 07056 【そして夜は甦る】原ォ 07055 【天使たちの探偵】原ォ 07054
【よしりん戦記】小林よしのり 07053 【漫画版 神聖喜劇 1-5】大西巨人原作 のぞゑのぶひさ漫画 岩国和博企画脚色 07052 【愚か者死すべし】原ォ 07051 【ロシアは今日も荒れ模様】米原万里 07050
【恋戦恋勝】梓澤要 07049 【シネマ・シネマ・シネマ】梁石日 07048 【私が殺した少女】原ォ 07047 【ぶぶ漬け伝説の謎】北森鴻 07046
【40 翼ふたたび】石田衣良 07045 【猫を撮る】岩合光昭 07044 【写真集 50本の木】丹地保堯(詩 谷川俊太郎) 07043 【夜明けまで1マイル】村山由佳 07042
【中国文明の歴史】岡田英弘 07041 【私の家は山の向こう】有田芳生 07040 【北朝鮮の不思議な人民生活】宝島社 07039 【中国の大盗賊・完全版】高島俊男 07038
【破裂 RUPTURE】久坂部羊 07037 【無痛 PAINLESS】久坂部羊 07036 【廃用身】久坂部羊 07035 【マイ・ラスト・ソング 最終章】久世光彦 07034
【新参教師】熊谷達也 07033 【文学校】赤瀬川原平 大平健 07032 【奥の細道 俳句でてくてく】路上観察学会 07031 【日本殺人事件】山口雅也 07030
【親不孝通りラプソディ】北森鴻 07029 【モビィ・ドール】熊谷達也 07028 【刑事たちの夏】久間十義 07027 【ららら科學の子】矢作俊彦 07026
【漂泊の牙】熊谷達也 07025 【邂逅の森】熊谷達也 07024 【捕手(キャッチャー)はまだか】赤瀬川隼 07023 【書と文字は面白い】石川九楊 07022
【脱「風景写真」宣言】宮嶋康彦 07021 【深淵のガランス】北森鴻 07020 【自虐の詩】業田良家 07019 【ダブルフェイス】久間十義 07018
【ロリヰタ。】嶽本野ばら 07017 【済州四・三】ホ・ヨンソン(許榮善) 及川ひろ絵、小原なつき訳 07016 【よもつひらさか往還】倉橋由美子 07015 【顔のない男】北森鴻 07014
【BS マンガ夜話】いしかわじゅん 夏目房之助他 07013 【聖ジェームス病院】久間十義 07012 【「かわいい」論】四方田犬彦 07011 【口奢りて久し】邱永漢 07010
【羊皮紙に眠る文字たち】黒田龍之助 07009 【ものの数え方】小林睦子+ことば探偵団 07008 【ことばと文化の日韓比較】斎藤明美 07007 【旅行者の朝食】米原万里07006
【文章術の千本ノック】林望 07005 【僕が批評家になったわけ】加納典洋 07004 【肴(あて)のある旅】中村よお 07003 【写真な建築】増田彰久 07002

07152

【デジカメ時代のスナップショット写真術】大西みつぐ ★★★☆ 52年東京生まれの著者をMorris.は初め女性写真家と思ってたが、途中に奥さんの写真があって男性だとわかった。
スナップショットは、Morris.が一番良くとるスタイルだった。「だった」と書くのは、最近はそうでもないからだ。Morris.@Catographerなんてハンドルを一部で使ってるくらい好きな猫の撮影は、大部分がスナップショットということになるだろうが、それ以外となると、スナップの占める割合は1/4から1/5くらいに減るのではなかろうか。
最近日本では人物スナップ撮影はかなりやりにくくなってる。相手がカメラを意識しない一瞬の表情を撮る(切り取る/撮る/盗る)ことにこそスナップショットの意味も意義も真髄もあると思うのだが、それをやると、盗撮だの、モラルに欠けるだの、非常識だの、はては「肖像権」なんて言いだす輩まででてきた。Morris.もこれまでに何度か抗議されたり、怒られたりしたこともある。Morris.なりのスタンスでやりとりしたこともあったが、だんだん面倒くさくなって、なるべく避けるようになったみたいだ。でも基本的にMorris.は写したいものは写すという姿勢を無くしてはいないと思う。
こういった傾向に対しての著者の意見はそれなりに参考にはなる。

無断撮影禁止といえば、街角で人を写す場合などどのように考えればよいのだろうか。「肖像権」については、タレント、やスポーツ選手など有名人だけでなく、基本的には誰もが権利として有している。ただ撮影時の状況によって考え方も異なるようだ。大勢の公衆の人々とともに写ったという場合なら大きな問題にならないだろう。むしろ写真がなんらかの形で公表された時に問題が生じることもあり、そこで「肖像権」とはっきり言われたりする場合もあろう。もともと写真に写りたくないと思ってる人もいるしなにか「その時」に特別な事情があったりして写されるのが嫌だ、困るということもある。そうして個人の領域に深く入り込んでいくと法律にも触れることになる。
私の場合、これまで町や街でスナップショットを撮っていて怒られたことはほとんどない。たまに「どうして撮ったのか」と聞かれることもあるが、きちんとそこで身分を示し、これまで写してきた写真のテーマと、その写真をどのように用いるつもりでいるかを説明し理解を得ている。そこで写真は使わないで欲しいと言われた場合、きちんと約束は守っている。撮影した後に軽く会釈したり、「撮らせてもらいました」などと声をかけたりすることもある。事後承諾ながら、できるだけ不快感を与えたくないからだ。
ひとこと声をかけてから撮影したいが、やはりまず撮りたいと思うのが常だ。このあたりがなかなか難しい問題だと思っていたが、先日アメリカ人の留学生の青年と一緒に町でスナップをする機会があったが、彼は「スイマセン、アリガト」などと声をかけると同時に人々を撮っていた。撮影者が外国人ということもあろうが、苦情をいう人はひとりもいなかった。相手の目をしっかり見て心からの言葉を発している彼の姿勢は好感がもてた。
どちらにせよ、コソコソと逃げ隠れするような撮り方はいけない。カメラだけをいきなり人前に突き出していくような撮り方も怒られるし、やはり失礼だ。カメラを持つ誰もが常に撮られる側の立場になって考えてみるべきだ。高飛車に構えればそれだけトラブルも大きくなるだろう。私たちのカメラは少なくとも特権的な立場で特定の立場で特定の個人を傷つけるための道具ではない。「等身大」の存在としてそこにいることを自覚すべきだ。
街角など現場での態度というよりは、それ以前の「姿勢」に関わる問題がここにある。

まあ妥当な見解であり、Morris.も共感する部分は多いし、韓国での撮影には下手糞な韓国語で「ミアネヨ、コマネヨ(すみません、ありがと)」と声をかけながら撮影するというのも効果的かなと思った(^_^;)これから実践してみよう。
ズームレンズに関しての指摘はMorris.へのサジェスチョンのように聞こえた。

ズームレンズのちょっとした落とし穴は、常に画角の両極しか使わないという傾向になりがちな点、さらに、指先のズーミング操作だけで、ファインダー内のイメージがクルクル変わってくるから、結果として棒立ちになったりしてあまり動かないまま撮ってしまう点などがあげられる。

Morris.のデジカメ処女機CASIOのQV100なんか望遠無かったし(>_<)、後CANONのPowrShotシリーズでも、望遠は3倍から始まって、これまでが6倍。今回の新機が10倍となったからこの意見は心して覚えておこう。しかし、最近はコンパクトカメラで光学18倍望遠装備なんてのも出てるから、こうなると特殊撮影の域に入っていきそうだ。


07151

【快適生活研究】金井美恵子 ★★☆☆ 「小春日和」「彼女たちについて私の知っている、二、三の事柄」「文章教室」「道化師の恋」といったMorris.が大好きな金井の小説群の登場人物たちを偶然の人間関係を介して、輪舞のような連作短編に仕立てた。と、いうことで大いに期待して読み始めたのだが、期待はずれというか、Morris.にはほとんど楽しめなかった。
「よゆう通信」という私信型ミニ通信を発行するEという道楽建築士が狂言回しみたいに使われているのだが、こいつがまたどうにもMorris.の好みとは正反対のキャラだし、いつもの毒舌も空回りしてる気がした。
もちろん金井流の鋭い皮肉や、批判も垣間見えるのだが、全体としてはMorris.は退屈な数時間を浪費させられたような気分になった。


07150

【詩集 冬眠館】和泉克雄 ★★★☆ 六甲道の宇仁菅書店の均一棚でふと手にとって買ったものだが、なかなか不思議な一冊だった。
著者は1916年7月3日東京生まれだから、現在91歳を越えてることになる。そして本書の発行は2006年7月3日。ということは90歳の誕生祝出版なのだろう。
執筆時期も1997-2006年となっている。つまり80歳から90歳にかけての10年の作である。
3行を二連並べた短章300篇と番外13篇が収められていて、ほとんどすべてが、1行18文字(18音ではない)だから、一篇が108文字になる。100篇ごとにタイトル付けてるし、かなり数字にこだわった構成だから、この108文字もいわゆる「百八の煩悩」あたりからの着想なのだろう。
肝腎の内容だが、結構豊富な語彙が使われているし、日常の出来事を淡々と綴ったものもあるが大部分は彼の詩的精神宇宙を自動筆記的に書き連ねたものである。ところどころ、どきっとするフレーズがあるかと思えば、文法的な間違いや、意味の取れない部分も散見する。歳に鑑みるといたしかたのないことかもしれないし、逆にこの歳でこれだけ書けるのかという驚きもあった。
文体見本として「序詩」を引いて見る。これは例外的に3行4連である。

序詩

冬眠館灯眠館で凍眠館空室ありますよ
のビラが長寿祝の袋と運ぶ木枯しらに
御苦労と言い落葉を焚きその香を吸う

枯れた植物の焚火の匂いを賞でるとき
終にはかくありたいと願うのであるが
そのように思うのが植物でないと知る

狭いうろでの冷凍から解凍への冬眠の
ヤマネなどまねて寝たすがたはみれん
などとそしられるものではなかったが

焚木にするにはまだ生臭く神の命じる
時までじゅうぶんに乾くがよいと言う
有機的なすすめに従がうほかなかった


「袋と運ぶ木枯しら」は「袋を運ぶ木枯らし」の誤植なのだろうか?それとも確固とした技法なのだろうか?最初から引っかかってしまうのだが、引っかかるところは他にもあって、それがMorris.としては本書を手に取った原因だろう。

6

抵抗のすべはない魔の時は確かにある
あの冬の朝の激しいなゐは大火を伴い
美しい町を灰にし多数の命をうばった

その時を現代の鏡とかに映し告げる顔
その声に音楽入の劇を告げるような魔
の像と調べがあったのを忘れもしない

これは、まず神戸地震のことだろう。こういった現実の事件やニュースに関連した作も多い。

21

水が水を呑みすぎて洪水になるように
時が時を貯めすぎると時をあふれさす
その後のうつろの顔を見るのは淋しい

狂うか呆けるかの不安がいつもある器
そのなかで浴みしたり洗ったりの日常
あれはなんという行為なのかと水時計

「老い」にまつわる当事者の言葉には、それなりの重さがあるし、面白さもある。

29

悲報の夜でさえ快楽的な夢を見た生理
数数の魔法を練りコントロール不可の
結果もたらす物はどこにいるのだろう

悪魔を呪うより悪魔をかばう眼をする
きわめて優しい者もそういう時がある
雑草の中で悪魔は強烈に愛したからと

61

昔うたわされた「金剛石も磨かずば」
という唱歌がどこからか聞こえてきたが
さらにカット研磨せよと誰かが言った

未来は鏡でないが未来を見た人はいた
オルガンを弾きながら女先生は言った
夢見つつでは歌えません磨けませんよ

170

猫が吐いた物を雀らが食べるのを見た
人が捨てた物を人が食べるのも見たが
猫が吐いた物を食べた雀を猫が食べた

猫にも雀にも賜物と言える物があるが
帝王さえ養われない時もくるだろうと
物が隠れた時には思ったが昨日のこと

175

夢の浮橋には過去も現在も未来もない
光のむだつかいだけのライトアップの
橋際にはいつも沈黙の闇がゆれている

単細胞の虫でありいつでもゴミになる
用意が日増しに濃厚になるのは浮橋の
必要が年毎に薄弱になったからだろう

225

昨の公園で老人の定形美しい人に会い
長身白髪姿勢正しくいささかたしなむ
と謡曲しぐれ西行の数行をうたわれた

昔からの芸と言えば身辺の整理整頓で
臨終には一枚の紙も残さぬ所存だがと
にこやかに言い枯葉の道を歩き去った

252

人生派である事恥じない年になったが
いかに幻想的になろうとしても遊びで
現世を脱出し存在する事不可能だった

現実をと第三の神話の詩人も言ったが
現実を宇宙人の眼で見たり物思うこと
不可能な体質に恥の人生派の顔がある

300

百歳まで詩作の予定だが持病が悪化し
実現はむずかしいが希望は希望である
予定は予定であろうとも言えるだろう

予定表を作らないと安心できなかった
それによって生きてきたのだったから
それによって生きるほかないであろう


こうやって写しているうちに、これらを論評する必要があるかどうか疑問に思えてきた。2007年も暮れかかるこの季節に、こういった作物と出会えたのも「因縁」というものだろう。

*後でネット検索したら、著者はメダカや熱帯魚に関しての専門家で、グッピー飼育の本などはかなり高い評価を得ているらしい。また本書以前に「春眠館」「夏眠館」「秋眠館」も出していて、本書は四部作のラストだということもわかった。


07149

【ソウル大改造-都市伝説-】李明博 屋良朝建訳 ★★★ ソウル清渓川(チョンゲチョン)の復元事業を行った、当時のソウル市長李明博本人によるドキュメント報告である。
清渓川はソウル中心を東西に流れていた生活河川で、普段はほとんど涸川で生活廃水の下水路みの役割も果たしていた。戦後これを暗渠にしてそのうえに高架の高速道路を走らせ、韓国経済成長の象徴的存在となった。
毎日18万台の車が往来するソウルの生命線みたいなこの高架を撤去し、川を復元し、そこに水を流し、市民の憩いの場にするという、計画を聞いたとき、Morris.は「それは不可能だろう」と思ってしまった。しかし、ソウルに行くたびに、それが現実化していくさまを見て、ひたすら驚嘆するしかなかった。
2005年の韓国旅行で、Morris.は清渓川の初めての試験通水の6月1日の早朝、偶然(^_^;)通りかかり、川に水が流れてるのを見て記念に一枚スナップを撮った。
http://www.orcaland.gr.jp/~morris/korea/0506korea/0506.htm
とにかく、ソウルに行くたびに気になってたのだ。2006年の旅で初めて完成した清渓川にお目見えして、すっかりしびれてしまった。何度も河川敷の通路をうろつきまわったし、デジカメにも収めた。もちろん人工的都市の環境整備施設という感は否めないが、それにしても、以前との余りの変化の大きさに度肝を抜かれるしかなかったのだ。
Morris.が個人的に偏愛していた黄鶴洞の三一アパート近辺の露天市の消滅に対する憤りもあって、当初はどちらかというと反対する気持の方が強かった。本書でもそのことにも触れてあり、結局露天商に東大門運動場を解放していちおうの解決を図ったことが、やや自慢げに記されている。この部分に限らず、著者の自己宣伝臭が匂ってくるのだが、それを勘定に入れても、Morris.は彼の実行力、決断力は評価せざるをえなくなった。つまり彼は清渓川事業に成功したように、本書での自己宣伝にも見事成功を収めたということになるだろう。某NHKの「プロジェクト×」が視聴者に押し付ける「感動」みたいなものの、数十倍は内容の濃い、強力な訴求力があると思う。
数日後にせまった韓国大統領選挙で、彼は最有力候補と見なされている。この時期に本書を読んだMorris.が選挙権を行使できる立場なら、やはり李明博に一票を投じるだろう。選挙プロパガンダ媒体としても本書は有効なもののようだ。
見返しにあった彼の略歴を引用しておく。

1941年 大阪生まれ
1965年 高麗大学卒業。同年現代建設入社
1977年 同社社長、1988年同社会長に就任
1992年 第14代国会議員当選(民自党、全国区)
1996年 第15代国会議員当選(新韓国党、ソウル鍾路区)
2002年 第32代ソウル特別市長就任
2006年 ソウル特別市長退任

解放直後、すぐ帰国しようと乗り込んだ船が沈没して九死に一生を得た彼の人生は、帰国後も貧しい生活からのスタートで、夜間高校に通い、飴売りなどをして苦学したのち、大企業に就職して、トップに上り詰め、国会議員、ソウル市長、そして更なる地位に上り詰めようとしている、いわば立志伝中の人のようだが、これまでの韓国大統領には無かったタイプだけに、Morris.は大いに期待したい。っても、Morris.は現職盧武鉉大統領就任のときも、大いに期待を表明したのに、あのていたらくだったという実績?があるから、あまり信用はおけないかもね。


07148

【かっこいいスキヤキ】泉昌之 ★★★☆☆ 30年近くも前にガロに掲載された短編マンガ集で、96年に青林堂から再販されたものの文庫判である。泉昌之は、泉晴紀(原作)と久住昌之(漫画)の合作時のペンネームで、合作もそれぞれの本も何冊かは読んだ覚えがあるが、本作はとんでもなく面白いギャグ劇画(@_@)だった。だいたいギャグ漫画の賞味期限は短期間ということが多いのだが、この作品のギャグは30年の風雪を経てもそのインパクトを失っていない。
駅弁一つで壮大な心理葛藤を描く「夜行」、噴飯モノの「ロボット」、タイトルの元となった「最後の晩餐」、70年代世相をぶった切る「POSE」など前半の作品が特に面白かった。シリーズものの「プロレスの鬼」はMorris.がプロレスと縁遠いこともあっていまいちだった。
しかし何と言っても最高傑作は虐げられた黒人の悲哀を描いた?「ARM JOE」だろう。ギャグをばらすのは公序良俗に反するから伏せておくが、いや、このギャグはす・ご・い!!!


07147

【物語 韓国人】田中明 ★★★☆ 大正15年生まれの著者の名前だけは知っていたが、読むのは初めてかな。
自サイト検索してみたら、2004年読書録にある「「世界」とはいやなものである」(関川夏央)の感想の中に孫引きで田中の文があった(^_^;)
本書は文春新書の一冊ということからしても、どちらかというと右寄りなのかもしれない。しかしMorris.にとっては色々教えられることの多い一冊だった。
朝鮮半島の歴史を踏まえながら、16世紀以降の朱子学を根本とする文化人の支配と観念的党争と華夷思想の悪弊が、開国、解放時期から現在まで続いているという、一貫した明晰な論には共感を覚えるところが大きい。
例えば解放後の朝鮮半島信託統治への可能性を論じた部分。

外相会議が決めた信託統治は、それがたとえ満足のいくものではなかったにせよ、受け入れを検討してもよかったのではなかろうか。統治を他者に委ねるといっても、5年の我慢である。しかも、これによって今日のような分断は避けられたかも知れないのである。この信託統治を決めたモスクワ外相会議は、そもそもが三十八度線による米ソの分割占領をなくし、朝鮮を独立国として再建させるためという趣旨で開かれたものである。そこで考えられていたのは、分断朝鮮ではなく統一朝鮮であり、信託統治もその枠の中の構想だった。だから、しばらくこれを呑んで態勢を整えようと考えた人が、共産党以外にもなかったわけではない。民族主義者の宋鎮禹がそうだった。彼は孫文が『三民主義』のなかで中国人について言っているように、朝鮮人にも政治訓練期間が必要だと考えていた。だが、そうした考え方の彼は暗殺されてしまう。宋鎮禹は独立運動家の大立て者として、朝鮮人に信望が篤く、そのため大東亜戦争に敗北する直前の朝鮮総督府は、降伏した場合の朝鮮人の暴発を恐れて、彼に治安維持を委託しようとしたほどである。彼はそれを拒否したが、総督府からそうした依頼を受けるほどの大物をも、即時独立の熱風は殺してしまったのである。
歴史に「もし」を言うのは無意味だというが、あのとき南が信託統治を受け入れていたら、ソ連も外相会議の当事者であった以上、分断を促進するような挙には出られなかったはずである。
"頭のなかの論の正しさ"に固執した結果、17世紀には降伏という憂き目に遭い、20世紀には分断という悲劇を迎えなければならなかった−−。隣国の民にはそう見える。


日本人がこういった論を立てるのは、初めから喧嘩を目的とするならともかく、真摯な論をなそうとする立場ではなかなかむずかしいと思う。
17世紀の朱子学を基とする儒学者たち士林派の台頭に関連しての比較類推。

朱子学は、それまでの儒学が弱かった宇宙論・形而上学を仏教から吸収して、学の理論化・体系化を進めたと言われる。士林派は、そうした世界観の哲学を習得しているという自信を武器に、道義国家建設の旗じるしを掲げて、その主役になろうとした。
こうした姿は、近代の若者がマルキシズムに触れて、世界の全体構造が分かったと思い込み、革命に乗り出した純粋と未熟の交錯した姿を連想させる。外来の新思想に敏感に反応できるのは若者の特権であり、彼らは父の世代がもたぬ精神的支柱を保持しているという自信をもって、意識の遅れた先輩世代を軽蔑することができるのである。韓国は日本と違い「長幼序あり」の儒教的道徳律が色濃く残っているが、こと政治運動面に限っては若者が幅をきかしている。それは右のような伝統があるからであろう。


また、彼が引用している李用熙の「韓国民族主義の諸問題」の一節にも聞くべきことが多かった。

韓末から植民地時代にかけて外国勢力の排除、主権の回復と圧制への抵抗が最大の関心事だった韓国民主主義は、「解放後初めて一大試練に直面することになった」という。なぜなら「史上初めて民族主義の指導と、政治権力への民族の関与という問題に接し、やがて指導者層と政権間の『和合』と『乖離』、さらに政治権力層のイデオロギーと民族主義の問題というややこしい現実にぶつかることになった」からである。
李博士は、さらに言う。解放前の韓国民族主義は、外勢に対する抵抗の民族主義たらざるをえず「一面では統一戦線のため、他面では日帝に対する反発として、多くの前近代的な文化遺制と保守層を包摂しつづけてきた。なかでも歴史主義的な国粋主義思想は、抗日愛国の看板のもとで、ひさしく韓国史観の前近代性をとどめてきた。そうかと思うと、日帝下の知識人のなかには、欧州文明の摂取という名分のもと、文化科学全般にわたって、ヨーロッパ啓蒙期以来の普遍主義と、思想のコスモポリタニズムが受け入れられてきた。これは結局、結果的に外勢支配の現実を見まいとする一種の逃避主義に過ぎない」。(「」内は李用熙発言)


また趙甲済が94年『月刊朝鮮』に発表した記事に触れた所感に強く引かれた。ちなみに先のMorris.読書録で孫引きした一節もこの記事関連だった。

ここで氏(趙甲済)は痛烈な知識人批判を提起している。「国民を守ってやれない支配層の生存要領は、弁明と偽善である」と言い、韓国でよく言われる「(韓民族は)平和を愛するから、一度も外国を侵略しなかった」という話など「戦争を決心する勇気がなかった」からに過ぎないし、「その平和なるものも、敵国の平和であって、わが民族の平和ではなかった」と、韓国論壇にかつて見ることのできなかった性質の批判を加えている。

他にも色々引用したい部分は多いが、あとがきからやや長分の引用で〆ることにする。

本書では、教科書問題とか従軍慰安婦問題……総じてこのごろ話題になっている現代の日韓関係には、全く触れなかった。ああいう話に深入りすると、相手が尊敬できなくなるからである。韓国人は認めたくないかも知れないが、過去の植民地支配に対する負い目の意識を、世界中で一番強く持っているのは日本人だと、私は思っている。同じ文化圏に属した同類と[支配・被支配の関係]になり、しかも自分が支配の側に身をおいていたということに、日本人は何かしら咎めを覚えるのである。日本と韓国とは同列・一体でなければならないという意識がそこにはあった。朝鮮総督府が「内鮮一体」といった、いまや悪しき同化政策の典型だと攻撃されている施策を、しきりに唱えたのはそういう意識があったからだ(「満州国」建国にさいしてうたわれた「五族協和」という理念についても同じことが言える)。にもかかわらず、現実には差別したという事実があり、それが負い目の意識として胸を刺すのである。だから韓国や中国から、過去の所業を謝罪せよ・反省せよと言われると「すみません、すみません」と反応するのだ。
これに反して植民地支配の本家である西洋人には、負い目の意識など全くない。むしろキリスト教文明の恵沢に浴させてやったという気持ちであろう。だから、謝罪せよなどと言われると、怪訝な顔をし反発する。その辺はかつての被支配国の方も心得ていて、謝れなどという要求は口にしない。要するに韓国や中国は、突っつき易い日本を突っついて、外交的に有利なポジションを得ようとしているに過ぎないのだ。だから、それは政治的次元の問題で、道徳の問題ではない。
もっとも「それが国益になるのなら、なんで悪い」と開き直られれば返答に困るが、私など自分では親韓派と思っている者には、腑抜けた戦後の日本人を恐れ入らせるような易しいことを−−白人には通用しないが日本人には有効だという、そんな安易なことを、いつまでもやっていていいのだろうか、という気がする。でんと書斎に居座った俗儒たちが、政治的次元の問題に道徳的な装いをこらして、あれこれ文句を言いながら、血と汗を流す戦いへの備えをおろそかにして、国を亡ぼした昔が思い出されるからだ。


全面的に賛意を表する気にはなれないが、確かに「政治的」には的っていると思う。


07146

【風の払暁】船戸与一 ★★★ 「満州国演義1」で、船戸の大河ロマンの1冊目らしい。満州にはいささか関心のあるMorris.としては見逃せないと、期待して読み始めたのだが、何とも読みづらい。
建築家の4人兄弟が昭和の初め、満州の地で、それぞれ外交官、馬賊、軍人、学生と立場を異にしながら、満州国の興亡に関わっていくという設定になっている。この4人の立場の入れ替わりで物語が行ったり来たりするものだから、Morris.はアレルギー状態。おまけにこの4人がどれもキャラが弱く、4人を操ろうとする特捜の男の方がよほど目立っている。
380pでまだ満州国は出来てない。やっと甘粕が登場するところ。
船戸の満州ものだから、読まざるを得ないのだ、今後の展開に期待するということにしておこう。


07145

【日韓いがみあいの精神分析】 岸田秀 金両基 ★★★ 二人の対談である。岸田は例によってペリー強姦説のパタンで全てを説明してすまそうという気配(^_^;) 

岸田 もちろんそんなことは現実にはありえませんが、もしかりに生まれてからずっと欲求が立ちどころにすべて満足される状態が続いたとしたら、個人の自我は成立しないはずです。挫折、不満、周囲との軋轢、屈辱などの体験を積み重ねることでしか自我は成立しない。国家の場合も同じで、何か非常にショッキングな体験がないと成立しないと私は思います。日本列島の自然の恵みのなかでのほほんと暮していたら、日本民族も日本国家も形成されなかったと思います。
金 日本人が永遠に忘れることの出来ない、原罪に匹敵するほど大きなショッキングな体験が歴史の中で生き続けているというのは面白い。日本人の個人意識や国家意識を触発したという韓国からの大きなショックとは具体的には何ですか?
岸田 白村江の戦いだったと考えています。


天皇制を軽く見ているような口ぶりをしながら、どんどん右傾化してる岸田の真骨頂も。

岸田 ヨーロッパのような一神教がないから、天皇の存在が必要だったともいえます。
現在の日本人が思想というものを真剣に考えないのは、そのせいだと思います。マルクスだってサルトルだって流行でしょう。サルトルが流行ったら、猫も杓子もサルトル、サルトルと何かと言えば持ち出す。サルトルがすたれたら、今度はフーコーという具合で要するにファッションです。誰でもいいのです。ヨーロッパでは、思想やイデオロギー、哲学というのは神学の後釜です。神によって作られた世界秩序が崩れた後、何をもって世界秩序・世界の構造を成り立たせるかを真剣に考えざるを得なくなり哲学が生まれた。単なる知的遊戯ではなく、世界を把握するための、行き方を考えてゆくうえでの根本的な柱なんです。
日本人はそこまで真剣に考える必要が無い。万世一系の天皇が存在するから、イデオロギーや哲学なんていらないんです。ただ、ヨーロッパの哲学者や思想家の名前を持ち出していると何となくカッコいいから、飾りとして使うだけです。これは日本人が軽薄であるとかないとかの問題ではなくて、思想なんかはほかに使い途がないのだから、仕方がないんです。じっさいには必要ないんですから。必要ないものが大切にされないのは当然なんです。


そして極めつけの国家論。

金 国家というものは、なくても生きづらいけど、あっても面倒なものなんですね。
岸田 国家は個人の自我のようなものです。みんなが無私の境地になれば、誰とでも仲良く角を突き合せないで生きていけると思いますが、自我というものはなかなか捨てられない。
国家には必要悪の面があります。国家がないと無秩序状態になるし、国家を失った民族はかつてのユダヤ人のように流浪したり差別されたりする羽目になってしまう。国家が弱いと国民は様々な不利を被る。他国に軽んじられても、がまんしていなければならない。国家を強くすると他の強い国家と対立し、戦争になるかもしれない。国民は弾圧され、自由を奪われる。矛盾だらけの存在です。
日本は歴史上、自国を韓国よりも上だとしていた。韓国も日本を見下してきた。そういうこともあって日韓関係はこれだけこじれているわけです。


大和朝廷は百済の亡命政権とか、北朝鮮が大日本帝国の投影であるとか、どこかで聞いたような奇抜な(^_^;)仮説で満足してるあたりに限界を感じてしまった。


07144

【朝鮮半島をどう見るか】木村幹 ★★★ 韓国と北朝鮮を「特別な国」でなく、諸外国と同じように客観的な視点で見ることで、日本のステレオタイプな朝鮮半島観(肯定的・否定的)から脱却したいとうのが著者の基本姿勢らしい。
国土の面積、人口、GMP、抵抗運動の犠牲者の数などの数値的データで客観的事実を知ることからスタート。しかしMorris.はこのデータの羅列はちと苦手である。

海外旅行について考えてみればよくわかるだろう。経済的余裕がなければ、私たちは「韓国にしか行けない」かもしれない。しかし、より経済的余裕が生まれ、何よりも、すでに一度韓国を訪れた経験があれば、多くの人は、次の旅行先として韓国以外のところを選ぶことになるだろう。理由は簡単だ。限られた人生の中で、人はできるだけ多くの経験をしたいと考えている。だから一度訪れた場所を再び訪れることは、よほどの思い入れがなければ、まずしない。

うーーん、これはひっかかるなあ。Morris.はたしかに経済的余裕はないし、韓国への思い入れはかなりあると思うのだが、こういう筆法は、はっきり言って「カチン」とくるね。人は図星をさされるとカチンとくるらしいけど(^_^;)

金日成とスターリンを比較して、北朝鮮が変だというより、スターリン時代の共産主義体制のプロパガンダを現在まで変わらず維持しているということが、異様に見えるという説明は説得力があったが、

北朝鮮が「わからない」国なのは、彼らの体制が異質で、非合理であるからではない。北朝鮮に関する情報が少なく、信頼するに足る結論を引き出すことができないからだ。北朝鮮の異質さを笑ったり、気味悪がったりせずに、「わからない」という事実と正面から向き合い、それを前提にして私たち自身への北朝鮮への対処方法を考えることが重要なのだ。
「わからない」という結論は退屈だし、私たちを満足させるものではない。しかし、間違っているかもしれない主張を信じてやみくもに行動するよりは、この結論ははるかにましではないか。


こういう結論に持っていかれると、なんだかなあ、である。

朝鮮半島について「学ぶ」ということは、他人の人生について、「学ぶ」ことである。私たちが自分の人生を完全に理解できる日がこないように、ほかの人の人生を理解しようという試みにも、決してゴールなど存在しない。だが私たちは、そういった試みを日常的に行っている。時には想いは裏切られ、自分と彼らの間には、言い知れない距離があることを
感じることもあるだろう。
しかし、その試みを続けていけば、いつの日か私たちは気づくことになる。私たちの他人を理解する力、そして何よりも自分自身を理解する力が、いつのまにか大きく深まっているということに、朝鮮半島を「学ぶ」ことは、結局は、人間について「学ぶ」ことなのだ。


という、結びも、著者の「善意」はわかるが、これが果たして朝鮮半島理解への王道といえるかどうかということでは疑問が残る。


07143

【熱中】重松清 ★★★ 雑誌編集の職を辞した30代後半の主人公が、妻(研究者)のアメリカ留学と母の死をきっかけに東京から故郷の周防市に戻り、父と小学5年の娘と3人暮らしを始める。彼は過去県立周防高校野球部のエースだった。弱小野球部で予選で勝利を挙げることもめったにないチームだが彼が3年在籍時、せこい手つかったりツキもあって準決勝に勝利、明日は決勝戦という夜に部員の不祥事で出場辞退になった。これは部員の暴力沙汰だが女子マネージャーの堕胎などもからんで、醜聞として広まり、主人公やマネージャーなどは半ばいたたまれずに周防市を離れていた。
20年ぶりの故郷で、数人の仲間と再会、それぞれの抱えている問題を傍観しながら、主人公自身も故郷への愛憎、この土地の偏狭さに辟易しながら東京では忘れていた優しさを取り戻したりもする。こんな風に書くと「けっ!!」と、吐き出しそうになる設定だが、こういった癒しめいた物語を必要とする読者が存在するということも事実で、Morris.もひところなら毛嫌いするはずのこういった作風に、うっかり共感を覚えそうになってたじろいだ(^_^;)
この作家は矢谷君が推奨してたので、半月ほど前灘図書館で「哀愁的東京」というのを見つけてそのまま立ち読みしてしまったが、やはり同じような感想をもった。いかにもフリーライターあがりのそつのない文章だし、登場人物の性格描写や役割設定も上手いし、ペーソスをにじませてオブラートにくるんだ人生論を作品に練りこんだ作風は今の日本では愛読される傾向なんだろうな。

オサムを逃がしてやればよかった。オサムが逃げたがっているのはわかっていたのに、僕たちはそれに気づかないふりをした。いままでどおりに付き合おうとして−−胸にひっかかりを残したまま、オサムを迎え入れたつもりになって、けっきょくあいつの逃げ道をふさいでしまったのだ。あの頃は逃がさないことが友情だと信じていた。逃げてはいけないんだ思い込んでいた。
だが、三十代も終わりにさしかかったいま、僕は−−神野も亀山も同じだろう、もう知っている。逃げなければどうしようもないことは、たくさんある。臆病者や卑怯者と呼ばれても、逃げるしか道のないことは、確かにある。
僕たちはおとなになってから、何度逃げてきただろう。俺は一度もないぞというひとがいたら、僕は、ふうん、すごいですねえ、と感心して、けっしてそのひとと友だちにはならないだろう。

神野も亀山もいい奴だ。僕の、たいせつな古い友だちだ。二人に再会できなかったら、僕の帰郷の日々はずっと味気ないものになっていただろう。
だが、僕たちはもう、思い出話ばかりをつづけてはいられない。
夢の話だけを語り合うこともできない。
甘酸っぱくもなければバラ色でもない現実を、たとえ重い足取りであっても一歩ずつ進んでいかなければならないのだ。

「ねえ、お父さん」
「うん?」
「あたしってさあ、東京で生まれたじゃん? ってことは、ふるさとも東京になるんだよね」
「周防はお父さんのふるさとだけど、あたしのふるさとってわけじゃないんだよね」
理屈ではそうなる。
だが、離れることが寂しい町は、そのひとにとってのふるさとなのだとも思う。
「ふるさとは一つじゃなくてもいいんだぞ。二つあっても、三つあってもいいんだ。べつに法律で決まってるわけじゃないんだし」
美奈子は「うわあっ、オヤジくさい屁理屈ーっ」と笑ったが、その笑顔のままゆっくりと何度もうなずいた。

ところで本作の舞台となってる「周防市」のモデルは防府市ではないかと思われる。Morris.は北九州市小倉区で5年暮したことがあるが、隣の山口県に関してはほとんど無知である。下関には、数回門司からの連絡船で散策に出かけたが、それ以外の地方はほとんど足を運んでいない。
本作が発表された2002年には「周防市」は存在してなかったし、現在も無いと思われる(^_^;)のだが、インターネットで検索したら結構ヒットする。本作に関連したものもあるが、町村合併計画で、実際にこの名前の市が誕生する可能性も高かったらしい。ちなみに防府市は韓国の春川市と姉妹都市関係を結んでいるらしい(^_^;)


07142

【マンガ韓国現代史】金星煥(キムソンファン) 植村隆 ★★★☆ 韓国の新聞マンガ「コバウおじさん」(キムソンファン作画)は、1950年から2000年まで50年間にわたって連載されたもので、政治風刺、ユーモアにあふれ、時の政府から非難されたり掲載禁止処置を何度も受けたりしている。
Morris.はコバウおじさんのことは、長璋吉のエッセーで知ってたが、なかなかまとめて読む機会がなく、4コママンガは短いだけに韓国語だけだとほとんど理解できそうになかった。本書は14,139本の中から147本を厳選し、見開きの左ページに原作マンガと日本語訳、右ページにはとそのマンガの時代背景がわかるように解説を付してあるので、実にわかりやすく、一般の歴史解説書とは一味違った韓国現代史の参考書になっている。
50年の長きにわたるだけに、コバウおじさんの風体も時代によって変化してるが、頭のてっぺんに1本だけある毛がチャームポイント?で、コバウの社会へのアンテナのようでもあるし、彼の気分や感情を表現しているようでもある。


07141

【ドン・キホーテの末裔】清水義範 ★★★☆☆ なかなか凝った造りの清水式メタ小説(^_^;)だった。ドンキホーテが騎士道小説のパロディなのに、パロディを越えて文学の金字塔となったことを踏まえて、日本のパロディ作家がそのパロディに挑戦するというのが大まかなストーリー。
彼の作を読むたびにMorris.はあの「蕎麦ときしめん」に言及してしまうが、彼はそのあとパロディ作家として一家をなした感がある。それなのにわざわざ自作を「パロディ」と呼ばず「パスティーシュ」とかよくわからんイタリア料理の名前みたいな呼びかたしててMorris.はいつも鼻白んでた。
しかし、本作では、はっきり自分のこと(いちおう自分モデルの主人公だが)を「パロディ作家」と自称してるし、作品自体でパロディによる文学論を展開している。

私は、そうでないものも書くが、自分の仕事の中心にあるのはパロディだと考えている作家だ。デビューした当初、いくらかは注目された作品は、広く言えばパロディに分類されるものだった。つまり先行作品をふまえて、それをひっくり返していくことで、新しい価値を生み出そうとするタイプの作品だったということだ。
私はどうも、人間が文学という楽しみを持っていることが好ましくてたまらないという男なのだ。そんなふうに文学そのものを敬愛している。

年老いて少しボケ始めた文学者を、思い込みのセルバンテスとシェイクスピアにしてしまって、二人を出会わせ、日本語で文学談義をさせる、というのが私の小説のいちばんの工夫なのである。その二人の談義が始まってしまえば、あとはもう思うことを大いに書きつらねるだけだ。
その二人に私がやらせようとしているのは、パロディ論である。文学作品とは、ほとんど例外なく先行作品の影響を受けて生み出されるものであり、そのような親にあたる作品を持たないことはまずないだろうと、私は思うのだ。つまり、どんな文学作品も、既にあった何かを模倣して生み出され、時として親にあたる作品を肥えてより価値の高いものになる。そういうこと文学の発展だと思う。
言ってみれば、パロディという形式によって、文学は継承されていくのである。
人類の最も古い物語と言われている『ギルガメシュ叙事詩』の中に、不死を得たとされるウトナビシュティムという老人が出てきて、大昔にあった大洪水のことを語る部分がある。その大洪水の話が、旧約聖書の中にノアの箱舟の物語として取り入れられるのだ。文学は模倣と引用によって発展してきたということの、いちばん古い事例と言っていいかもしれない。

自分が、パロディを愛し、特にそれを書く作家だからというので、ことさらパロディを価値あるものだと言いたいのではない。ほとんどの文学作品は、先行作品を受け継ぐことで生み出されてくるという事実を指摘しているだけである。文学はパロディでつながってるという事実を。

「我田引水」「牽強付会」なところもあるが、なあに、小説は面白ければ何でもかまわない。そして本作は、Morris.には大いに面白かった。
パロディにつきものの入れ子構造もなかなかみごとに構成されているし、自分をモデルにした作家をついには、文学のドンキ・ホーテになぞらえる大団円のパロディまで、Morris.はひさびさに本当に読書の楽しみを味わえた。
しかし、小説によって小説の本質に迫ろうという試みでは、たとえば金井美恵子との径庭は大きいし、小説の話者と登場人物の関係に関しては酒見賢一の「語り手の事情」には及ばないと思う。


07140

【書いておぼえる江戸のくずし字いろは入門】菅野俊輔 ★★★☆☆ 以前から変体仮名とそのくずし字に関しては興味も持ってたし、すらすら読めるようになったらいいなと思いながら、結局これまでほっといたままになってしまってた。
本書は、実際に幕末に作られたいろは「手本」を基にして、いろは48文字をそれぞれ見開きの右ページに各文字の手本と、異体のなぞり練習桝枠、左にその文字の出てくることわざや事物の名前を、江戸時代の絵とともに挙げている。実に見やすいし、大きな字をなぞって書き方の練習ができるようになっていて実践的だ。
今日名古屋行きのトラックの助手席でずっとこれを楽しんでいた。大半は今のひらがなと同じだし、良く出てくる変体仮名(「わ」の「王」、「を」の「遠」、「つ」の「川」、「ね」の「禰」、「む」の「武」、「た」の「太」、「ふ」の「婦」)をいくつか覚えるだけでも、ずいぶん読めるようになる。元の漢字がわかるだけでずいぶん理会が進む。
やはり文字は手で書いて覚えるのが一番の早道であることを、いまさらながら思い知らされた。まさに「六十の手習い(^_^;)」である。
以前元町のつの笛の百均の階段で手に入れた和綴じの謡本(正徳三年(1713)初版で、連綿体のかな文字が美しい)を、また再び読み直そうかという気になった。


07139

【地獄篇三部作】大西巨人 ★★★☆ 戦後まもない1948年にこの三部作を「近代文学」に発表しようとしたものの、第一部「笑熱地獄」の草稿を読んだ同人から掲載中止を求められる。その理由は、文中に既存の文壇の著名作家評論家多数が偽名(戯名)で登場し、それがために発表したら著者を含む同人が文芸ジャーナリズムで生きていけなくなるというものだった。
大西は第二部「無限地獄」第三部「驚喚地獄」とともにこの三部作を未発表のままにしておいたということになっていたが、執筆後60年ぶりに上梓されることになった。しかし実は本書の第二部は、すでに別のタイトル(「白日の序曲」)で発表していたことを明かす。いかにも大西らしいアクロバチックな仕業である。Morris.は「白日の序曲」は未読だったから、60年前の大西の作品として読むことになったが、大西のことだから本書がそのまま60年前の作品そのものとも思えない。
三部作といいながら、二部はそういったわけで別の作品として既発表であるし、一部は私=大螺狂人(もちろん大西巨人の戯名)の日記と書簡を中心にした当時の作家の心の動きをしつこく描いてるし、三部なんか本文3pだもんね(^_^;) 第一部の発表中止の原因になった諸文芸人の戯名を眺めるだけでも彼の韜晦ぶりと当時の気分が見えるような気がする。

堕罪治、産先腫生、野馬拾、汁名輪蔵、砂糖渋一、泣村死一郎、鮒皮臭、寄葉切捨夫、新真逆、薄井凶見、土鍋元、青岩栄、真上信市、高鍬澄男、夜内腹胃作、逆口鮟鱇、苦保田曲文、倉腹伊人、三々木寄一、鰒田角存、松山秀木、般若浴衣、箆田痔三郎、岩噛純一、岩藤霜夫、箆野剣、鼻田清照、高橋銀行、杉浦民兵、片口安吉、本田春五、尾田作乃助、元川年彦、青木繁、湯地晩雄、長野安雄、竹井照夫、南川桃雄、鮒橋性一、多村鯛次郎、中谷宇凶郎、村正黒鳥、大津順吉、大森秀雄

半分くらいはすぐわかる、1/4くらいは見当が付きそうだが、残りはわからなかった。
やや長いまえがきにある著者の「卑近・蛇足的な若干の「注記」」をみることで大部分解決する。

当時の文芸ジャーナリズムの領域においては、たとえば、太宰治、梅崎春生、椎名麟三、船山馨、伊藤整、瀬沼茂樹、小田切秀雄、臼井吉見、火野葦平、田辺元、赤岩栄、高桑純夫、矢内原伊作、坂口安吾、福田恒存、蔵原惟人、織田作之助、『近代文学』創刊同人たち(荒正人、平野謙、埴谷雄高、ほか)、同前第一次拡大同人たち久保田正文、野間宏、平田次三郎、花田清輝ほか)、「マチネ・ポエチック」グループ員たち(加藤周一、中村真一郎、福永武彦、)、中野重治、正宗白鳥、小林秀雄、大井廣介、平林たい子、羽仁五郎、その他が、諸新聞ないし諸文芸雑誌(『世界文学』、『人間』、『文学界』、『綜合文化』、『文藝』、『新潮』など)および諸綜合雑誌(『中央公論』、『展望』、『改造』、『世界』、『新生』など)の上で旺盛に活動した。

トーマス・マンの言葉を踏まえて文藝者としてのアンガージュマンとデガージュマンを論じた部分などがいかにもの大西節である。

「芸術家的愛我心」と民主主義革命への(文芸家としての)主体的参加とは、どう調和するか・どのように綜合統一せられ得るか、という問題が、最近における僕の不安であり憂悶のひとつである。
前者を否定することによって後者を意気さかん(オプティミスティック)に唱導する人々、また後者を否定ないし軽視することによって前者を誇りか(オプスミツティク)に擁立する人々、あるいはまたそんなことは何も問題にならないではないかと無反省に(オプスミスティック)に言い立てる人々、−−そのいずれにも、僕は、なかなか与することができない。
この両者の調和ないし綜合統一のないところに、現代における芸術創造の真正主体はない、と僕は信ずる。究極においては、そこに調和ないし綜合統一が、あるべきであり・あり得るべきである。と僕は考える。だが、そこが十全には、まだわからない。

実際に大西みたいな人間が身近にいたら、結構大変だと思う。でも彼の粘着質な作品には魅力を感じている。


07138

【狼少年のパラドクス】内田樹 ★★★ 「内田式教育再生論」という副題である。例によってウエブ日記の再録みたいなもので、テーマが現代日本の大学教育だから、当然自身が勤務している神戸女学院大学のことも多く出てくるし、CMめいた部分も多い。中退した母校日比谷高校の思い出や交遊録もあって、一味違ったウチダのことを知ることもできる。
「「国民六歳児」の道」というのが冒頭にある。

「幼児的なモチベーション」でいま日本社会の全体が動いている。
「オレ的に面白いか、面白くないか」と「金になるかならないか」という二つの基準がいまの日本人たちの行動を決定するドミナントなモチベーションになっている。だが、これは「六歳児にもわかるモチベーション」である。
こういう言葉を口にする人間は(たとえ実年齢が60歳になっていても)6歳のときから少しも知的に成長していないのである。だが、本人たちはそのことがわからない(知的に6歳だから)。学びを忘れた日本人はこうして「国民総六歳児」への道を粛々と歩んでいる。

戦後マッカーサーが「日本人は十二歳児」といったのを過激にしたみたいな論だね。一部的ってると思う。
必要なことはネットで何でも調べられるという最近の風潮に対して

「学ぶ」というのは、キーワード検索するのとは別のことである。自分が何を知らないかについて知ることである。自分の知識についての知識を持つことである。それは「知識をふやす」ということとは違う。
「知識をふやす」というのは「同一平面状で水平移動域を拡げること」である。「知識についての知識を持つ」というのは「階段を上がること」である。
全然違う。


と斬り返しているが、どうもわかりにくい。「知らないことを知る」というのはソクラテスの昔から良くきくことばだけどね。
別の記事の中で「眼高手低」に触れて

「眼高手低」というのは「批評眼ばかり肥えてしまったせいで、自分の書いたものの完成度の低さを自分が許せない」という自閉的な傾向のことである。

とも書いている。うーーむ、Morris.はこれまで「眼高手低」というのをちょっと誤解していたのかな。「批評眼が肥えて」という部分はそのままだが、「手低」というのは自分の実力が伴わないくらいに思っていたのだ。謙遜のニュアンスを含めてときどき使用することがあるのだが、これが自閉的な傾向と言われると、ちょっとむかっとしたぞ(^_^;) 
手持ちの辞書で調べてみたが大言海にも大辞典にも新潮国語辞典にも新辞源にも研究社和英辞典にも載ってなかった。載ってたのは大辞林だけで、広辞苑にも載ってるようだがMorris.は持ってない。(逆引き広辞苑はあるので収録されているかいないかはわかる(^_^;))
とりあえず大辞林を見ると眼高手低 理想ばかり高く、実力が伴わないこと。批評はできても、実際に創作する力のないこと。」とえらく簡単だである。出典すらない。仕方ないのでネットで調べる(^_^;)
goo辞書に出典「書経 五子之歌」とあったが、その例文は「顔厚にして忸怩たる有り」で、眼高手低は含まれていない。類義語に「志大才疎 しだいさいそ」というのがある。これはわかりやすいが熟語というほどのものでもないよな。そういえば眼高手低だって、熟語というより普通の文章みたいでもある。
ネット検索したらやたら中国(大陸)のサイトがひっかかった。つまり中国では日常的に良く使われてる言葉なんだろう。ついでだからエキサイト翻訳サイトの中日辞典で「眼高手低」引いたら「望みは高いが能力が伴いません」となった。どんどん簡単になってくる(^_^;) 内田の解釈はやや自分流にひねくり回した感が否めない。

ブレークスルーとは「脱皮=成熟」ということだからである。一度でも脱皮=成熟を経験したことのあるものは、脱皮=成熟が「どういうこと」であるかを知っている。経験したことのないものにはその感覚がわからない。
自分の知的枠組みの解体再構築を喜ぶのは、ポストモダニストが言うように、エゴサントリックな知的秩序を自己審問することが知的=倫理的だからではない。
単に「それが楽しいから」である。
だから、私が若い人の成熟度を判定するときは、「その人がそれまで聞いたことのない種類の言葉」を聞いたときに「耳をふさぐ」か「耳を開くか」その瞬間的な反応を見る。「知らない言葉」にふれたとき「思わず微笑んでしまう」かどうかを見るだけで成熟度の判定には足りるのである。


つまりは「知」を「愛」するってことだね。ウチダが哲学者(フィロソファー)であるってことの証拠がためかな(^_^;)


07137

【それってどうなの主義】斎藤美奈子 ★★★☆ 美奈子さんの近作、といっても過去10年くらいに新聞雑誌に書いたものの中から「社会、報道、文化、教育などにかかわるエッセイを選んで一冊にまとめた」(あとがき)ものらしいが、出来不出来のムラが多かったり、こういった作によくあるネタの使いまわしが目だったりと、美奈子さんの著作としては物足りない感は否めない。美奈子ファンのMorris.だからこその高望みかもしれないけど、やっぱり、彼女の本領は書評+文学・言語論にあると思う。
それはともかく、彼女が新潟県出身で地元の地方紙「新潟日報」に連載された第6章「雪国はなじらね」は彼女の新たな一面を知ることが出来たというだけでも良かった。

「なじらね」とは新潟の言葉で「ご機嫌いかが」くらいの意味。通常は挨拶に用いますが、直訳すれば「どう(=なじ)なの(=らね)」です。「裏日本」から眺めることではじめて見える景色もある。

彼女は1956年生まれだが、「ものごころついた」年は1964年だったと断定している。

よく「ものごころがつくころ」といういい方をするけれど、一般的にいって、それは何歳くらいを指すのだろう。一般論はわからない。しかし私の場合、「ものごころがついた年」はハッキリしている。それは1964年だ。
西暦を認識したのがこの年だし、元号で覚えているのも昭和39年から。つまりこの年を境に私はサルからヒトに進化した。というか辛うじて人間社会の一員になれたのである。


Morris.は1949年生まれだが、ものごころついたのは、1957年だと断定しよう。Morris.もこの年から西暦を認識した。ソ連がスプートニク(初の人工衛星ですよ(^_^;)を打ち上げた年である。美奈子さんもMorris.も同じく8歳のときがものごころついた年だというのが嬉しかった、ただそれだけなんだけどね(^_^)

一番印象に残ったのは『言語』に掲載した「バーチャルな語尾」という一文で、鳥飼玖美子の「吹き替え反対論」に敷衍する形で、映画TVの吹き替えの、声質や台詞回し、翻訳小説の文体の異常な古めかしさ、さらにインタビューの記事起こしの際の変形…… うーーむ、確かにこれは良く注意しておく必要がありそうだ。
また「靖国神社」問題へのまっとうな意見にも耳を傾けたい。

靖国神社そのものも強力なメディアであることを忘れてはいけない。
私が靖国にはじめて行ったのは1985年の中曽根公式参拝以前。そのときは収蔵品の展示室も整っていず、「過去の亡霊を見た」という不気味な印象が残っただけだったが、今夏再訪してみると、そこはみごとな戦争テーマパークに生まれ変わっていた。
象徴的なのが2002年にリニューアルオープンした附属博物館、遊就館だろう。十万点に及ぶ収蔵品のうち、大は零戦や人間魚雷回天から、小は戦死者の遺書や遺品まで、数千点がここには展示されている。当今の博物館らしく映像資料も充実、説明パネルもスマート。ミュージアムショップやカフェもあり、博物館としてよくできているのである。
公式ガイドブックや図録を開くと、これまた編集の面から見ても完成度が高く、私は会う人ごとに喧伝するハメになった。
「靖国神社はあなどれないよ。いやー感心しちゃったよ」
むろん仔細に検討すれば、おかしいところはいくらでもある。
戦争の悲惨さがキレイに拭い去られた、血の匂いがまったくしない施設であること。靖国自体が軍人軍属を祀るための神社であるから当然とはいえ、民間人の犠牲者は一顧だにされていないこと。ましてアジア・太平洋一帯の犠牲者に対する想像力などは皆無に等しい。ここは戦争の遺物だけではなく、戦時中の価値観も保存された場所なのだ。いかに小泉首相が、
「不戦の誓いのために参拝している」
と抗弁しても、反省のない施設に参拝している以上、反省はないものと見なされよう。
とはいうものの、それ以上に問題なのは、靖国神社は過去の亡霊ではなくなりつつあるという事実である。靖国は確実に巻き返しをはかっているし、その成果も上がっている。
『ゴーマニズム宣言SPECIAL靖國論』(玄冬舎)の中で小林よしのりは述べている。
「とても戦前の人間たちにはかなわない それは特攻隊員の遺書の文字を見ただけでわかる」
達筆の筆文字にふれただけで、このナイーブな反応!
古い酒(思想)も新しい革袋(意匠)に入れ直せば、ゾンビみたいに再生する。戦争体験者がいなくなる日を見越し、ある種の危機感をもって遂行されただろう靖国の再編。日本が軍国主義に回帰することなどあり得ないという『読売』の論理も、A級戦犯を分祀すればいいとする『毎日』の認識も、現実の靖国神社のパワーの前ではかすんで見える。


これは、これまでMorris.が読んだ靖国論?の中でももっとも正鵠を射た発言だと思うのだが、読売や毎日(朝日も)の記者連の中にこの発言を読んだ者はいないのだろうか?そんなことはないはずだろうに。まあ、そもそもこの記事の章のタイトルが「日本のメディアは大丈夫?」だもんなあ(^_^;)
次回上京の機会があれば、靖国、行ってみよう。


07136

【嫌韓流の真実!ザ・在日特権】別冊宝島 ★★★ キワ物かも、と思いながら読了した。複数の記事の寄せ集めだからムラはあるが、それなりに面白いものもあったし、これまで知らなかった在日事情も知ることが出来てなかなか中身の濃いものだった。
「焼肉物語」の宮塚利雄のインタビュー記事があったり、呉智英の「常識的在日論のすすめ」には共感をおぼえるところ多かった。
前半は、例のマンガ「嫌韓流」から10点ほどのキーワードをピックアップしての検証と実情解説で、これも割りと客観的立場なので理解しやすかった。
在日文化人(辛淑玉、姜尚中、朴一、柳美里)への批判は、やや偏向も感じたが、柳美里には生理的嫌悪感持ってるMorris.だから、人のことは言えないか(^_^;)


07135

【テレビはなぜつまらなくなったのか】金田信一郎 ★★☆☆ 「スターで綴るメディア興亡史」という副題で、長嶋茂雄、力道山、手塚治、大橋巨泉、黒澤明、山口百恵、角川春樹、鹿内春雄、ジャニー喜多川、北野武、ペ・ヨンジュン、堀江貴文などがとりあげられ、数人のインタビューも付加されている。
筆者は67年生まれの日経ビジネスの記者だから、いわゆるTV全盛期に少年、青春時代を送ったのだろう。そういう世代が今のTVはつまらなくなったと思うのは当然かもしれない。
Morris.はもともとあまりTVは見ない方だと思う(好きなスポーツ中継と韓国歌謡番組は別(^_^;)。特にドラマ、バラエティは苦手で、TVタレントもほとんど知らない。
本書のやや乱暴な結論

無料で空から電波が降ってくる地上波放送は、つまらないからといって視聴を中断する必要がない。とりあえずスイッチは付けておく。カネを払っていないのだから、文句を言う気もおきない。それをいいことに、テレビ各局は横並びで同じような番組を放送している。全局が徐々に質的劣化を起こすため、視聴者は変化に気が付かない。

これは当たってると思う(笑) 。


07134

【猪飼野 追憶の1960年代】゙智(金+玄)チョジヒョン ★★★★ 1938年済州島生まれで10歳から猪飼野で暮らしたフリーカメラマンが65年から70年にかけて撮影した猪飼野の写真集である。新幹社からの発行は2003年だから実に30年以上経過してからの出版ということになる。

ぼくが27歳の時から、あしかけ5年にわたって、猪飼野の写真を撮影し続けた同期と活力は、ごく自然な気持ちである日から始められたが、それは猪飼野で味わった多感な少年期の悲哀と、思春期に何度か体験した差別の記憶の、癒しがたい心の疼きと屈辱感であった。
二つに引き裂かれた記憶をたぐりながら、在日は何故なのか、自分は一体何者なのか、を問いつつさ迷う青春のうぶな思索と写真の彷徨には、常に言い知れぬ寂寥感が付きまとっていた。済州島と猪飼野での記憶は、ぼくの写真表現の原点であり、モチーフとテーマでもある。写真に写っている少年たちはぼくの分身であり、オモニたちは瞼の母の幻影であった。
この写真集は、ぼくの少年期の自叙伝の一部であり、正に我が青春の挽歌である。(あとがきにかえて より)


「平野川」「朝鮮市場」「路地うら」「子どもたち」と四つのテーマに分けられた白黒の写真のどれもこれもが、Morris.にもたまらない懐かしさを感じさせる。撮影当時、Morris.は九州の田舎にいて、猪飼野のこのときの姿を見たはずもないのだが、どうしてだろう。それだけこれらの写真に時代の空気が色濃く写し取られているからだろうか。猪飼野の特殊さと、在日の貧しさ、差別という桎梏を表層からだけでなく、抉り取った著者の目の力が再現されているからだろうか。
本書には金石範、金時鐘、丁章、趙博など数人が読み応えのある文や詩を寄せているが、それらさえ不必要な気さえした。あらためて白黒写真の力に感動を覚えた。できることならオリジナルプリントを見たい。出版当時には写真展もあったかもしれないな。優れた写真集には解説は不要だと思う。「見る、観る、看る、視る」そして感じるしかないだろう。
釜山の人物を中心に撮り続けている写真家チェミンシクの作品のことを思い出した。本書と重なる時代の釜山の、やはり貧しい人々の写真に、はかり知れない懐かしさと共感を覚えたことを。
本書の写真作品としての完成度はチェミンシクには及ばないが、生活の深みを写し取るという点では共通するものがある。「リアリズム」にはアンビバレントな感情を持つMorris.だが、やはりリアリズム写真の力には圧倒されてしまう。


07133

【大いなる眠り】レイモンド・チャンドラー 双葉十三郎訳 ★★★ チャンドラーの処女長編で、Morris.はこれで彼の長編の全てをいちおう読破したことになる。全てといっても7編しかないのだからたかがしれている。どの本の解説にもこの7冊のタイトルは列挙されている。

The Big Sleep (1939) 大いなる眠り
Farewell, My Lovely (1940) さらば愛しき女よ
The High Window (1942) 高い窓
The Lady in the Lake (1943) 湖中の女
The Little Sister (1949) かわいい女
The Long Good-bye (1954) 長いお別れ
Playback (1958) プレイバック


余りに遅すぎたチャンドラ入門だったが、やっぱりMorris.はハードボイルドに深入りするタイプではなさそうだ。チャンドラを読むきっかけは、原ォの影響である。原ォを読むのもかなり出遅れだったようだが、別にかまわない。
ほとんどを清水俊二訳で読み、最初はとっつきにくかったのが、だんだん彼独特の文体に馴染んだところで、双葉十三郎訳の本書を読んだためか、また違和感を覚えてしまった。300p足らずの文庫本なのに1週間近くかかってしまった。
マーロウが百万長者の老将軍の依頼でゆすりを解決しようとするが、ギャンブル狂の姉、色情狂の妹の二人のはねかえり娘が事件の原因で、それぞれがまたえらくコケティッシュに描かれている。失踪した姉の旦那、ポルノ製作販売の男、非合法カジノ経営者など、いかにもハリウッド好みのストーリーで、マーロウはハンサムでクールで度胸があって、いかした台詞と独白の連続で、これまたハリウッド好みである。彼の作品のほとんどが映画化されてるのもよくわかる。
タイトルはつまりは「死」の比喩である。

死んだあと、どこへ埋められようと、当人の知ったことではない。きたない溜桶の中だろうと、高い丘の上の大理石の塔の中だろうと、当人は気づかない。君は死んでしまった。大いなる眠りをむさぼっているのだ。そんなことでわずらわされるわけがない。油でも水でも、君にとっては空気や風と同じことだ。君はただ大いなる眠りをむさぼるのだ。どうして死に、どこにたおれたか、などという下賎なことは気にかけずに眠るのだ。が、私はどうだ。下賎な存在の一部みたいなものだ。ラスティ・リーガン以上に下賎な存在だ。が、老人がそうなってはいけない。彼は天蓋つきのベッドに静かに横たわり、血の気のない手をシーツにのせて、待っているのだ。彼の心臓は弱い。不確かな音をたてている。思考は遺骨のように灰色だ。そしてもうじき、ラスティ・リーガンと同じように、大いなる眠りに入るのだ。


07132

【哀愁的東京】重松清 ★★★☆ 今日灘図書館で返却図書の棚にこの本があり、矢谷君が昨日面白いと言ってた著者だったのでぱらぱらと見て、そのまま図書館のスツールに坐って一気に読了してしまった(^_^;)
絵本作家でフリーライターの40代の男を主人公にした連作短編みたいなもので、ある絵本賞を受賞した「パパといっしょに」という彼の絵本を触媒に出版関係者や、歌手や、同窓生や、ピエロや、編集者や、落ち目の実業家などとの関わりのなかでさまざまな生き方や、人間関係、愛憎などをペーソスたっぷりに描いている。主人公には妻と娘がいたが二人はアメリカに別居中、鍵となる絵本はお茶目で明るい女の子と物分りのよい父との心温まる交流を描いたものだが、実は覚醒剤中毒の父に殺害された娘がそのモデルだった、という設定がミソである。フリーライターというのは著者自身の体験のようで、それだけに文章は練れているし、登場人物やエピソードもリアルに書かれている。
最近何冊か読んだ石田衣良作品に通じるものを感じた。共通した面白さと、物足らなさ両方の意味で(^_^;)


07131

【神戸の古本力】林哲夫編 ★★★ みずのわ出版という神戸の出版社から出された古本屋を巡る3人(林、高橋照次、北村知之)の対談、10編ほどの古本エッセー、30人の神戸の古本屋アンケート、そして古今の神戸古本屋地図などが掲載されている。
六甲道の「口笛文庫」や元町の「トンカ書店」など、新しい古本屋のことも書かれている。戦前はともかく、戦後の神戸の古本屋業界ははっきり言って衰退の一途を辿っているような気がする。サンパル古書の街がほとんど壊滅状態というのがそれを象徴している。それでも、神戸にはそれなりに見所のある古本屋があり、Morris.はもともと古本屋大好き人間だった(今や過去形で書かざるを得ないのがちと悲しい(^_^;))から、お馴染みの古本屋の名前やエピソードを見るだけでも、懐かしさを禁じ得なかった。
元町の黒木書店がいつの間にか無くなったのは気づいていたが、その詳細を知ることが出来た。サンパル古書の街の「五車堂」の店主の話や、震災直後の後藤書店の仮店舗の話、元町高架下の古本屋への言及なども興味深かったし、六甲道の宇仁菅書店の評価が高いのも嬉しかった。
春日野道の勉強堂のことがほとんど出てこないのがちょっと残念だったし、本文100p足らずというのは、やや物足りない。神戸の古本屋の力不足が如実に現れているということかもしれない。
Morris.が以前出してたミニコミ誌「サンボ通信」の始めの頃「古本屋巡り」というシリーズを連載してた。8回くらいでポシャってしまったけど、その中から「五車堂」の記事を引用しておく。

古本屋巡り 「五車堂」の巻

三宮サンパル5Fの古書街がオープンしてから約一年がたつ。同じビルの3Fにはジュンク堂の専門店があり、隣は三宮図書館ということで、この辺りは神戸のカルチェラタン(羅典区)になる可能性も有る、とは期待しすぎだろうか。
五車堂は、このサンパル古書街の入ってすぐ左側にある。ビルのテナントということもあって、どの店も余り代わり映えしないように見えるが、五車堂はサンパル9軒の中では最も黒っぽい店だ。突き当たりの壁には土屋文明の色紙が麗々しく掲げてあり、愛書会百回記念と添え書きがあったりするので、かなり古株の古書店なんだろうと思われる。
専門は、詩歌、美術、フランス文学の訳本、古文書、純文学と格調高く、洋書もある程度置いてある。
ところで、僕はこの店で買物したのは一回こっきりしかない。それもサンパル古書街の開店三日目に初めて行って、マリリンモンローのペーパーバックを300円で買っただけ、そのうえ開店祝いとかで300円では買えそうにない縦横両用のステープラーまで貰ってしまったというのだから念が入ってる。
もちろんそれでこの店を持ち上げようなどとは考えていない。ショウウィンドゥに並べてある連綿体の古文書や、欧米の詩集、画集などが目を楽しませてくれるし、飾りに置かれているUnder Wood社のアンティックのタイプライター(もちろん丸キー)は最高!
当然といえば当然ながら、この店も決してやすくはないので、なかなか客にはなりきれない。品揃えも悪くないし、何と言ってもこの店の店主の、物腰の軟らかさと古書への愛着には敬服するしかない。馴染みの客との対応にそれが良く表れていて、間近で話を聞くのもはばかられるので、僕はよく隣の山口書店で本を見てるふりをして耳を澄ましていることがある。盗聴ということになるのかと思うと、心穏やかではないが、このくらい念の入った会話というのは、生半可な知識ではできることではなかろう。
一時期、古いファッション雑誌の銅版画挿絵のプレートの虫の食った奴を、細切れにして出してあり、買おうか買うまいか迷っているうちに無くなってしまった。思い返すと、それで2回目の買物になったのにとちょっぴり悔やまれる。
サンパル古書の街は、テナント料払ってることもあってか、いくぶん高い傾向があるが、これだけ古本屋がかたまって見られる処は神戸では他にないのでそれぞれの店が特長を出してより面白い場所になることを望みたい。(「サンボ通信」第5号1987/12/10)


ほぼ20年前のMorris.の文章である(^_^;) そうかサンパル古書の街オープン時は9軒もの店が入ってたのか。その後、2Fに移って間引きされるように減って今やロードス書房1軒を残すのみ。ジュンク堂は移転してしまい、3Fには大型古本屋「マンヨウ」が入ってる。10年ひと昔という言葉はまだ生きてるんだなあ、と思ってしまった。
この五車堂の店主は久保田という人で、すでに亡くなったことを本書の対談の林発言で知った。

 「京都古書研究会」という、現在も毎年開催されている京都百万遍の青空古本まつりを始めたグループと交流があったんです。−−−1970年代の終わりぐらいから始めて、当時は非常に新鮮なムーヴメントとうか、お寺の境内を借りて、ああいう古本市を開くっていうのは珍しかったと思います。そのメンバーの中に、というか、その研究会を作ろうと言い出したのが久保田さんだったんだそうです。
−−話が好きな人で、いろんなことを知ってる。かの有名な弘文社荘の反町茂雄さんがやってた文車の会にも入っていた、多分そうだったと思います。臨川書店に勤めておられたからでしょうけれども、それは知識の豊富な方でした。そういうことで、行くともうずーっと話し続けてる。こういうふうに言っては、もう亡くなられた方には失礼なんですけど、「話ばっかりしてて、よく商売成り立つなあ」っていう悪口を言われるぐらい。でも、お客としては、すごく楽しい主人だったんです。


古本とはあまり関係ない話だが、「日本古書通信」社長の八木福次郎のエッセーの中の一節というか、パロディ句が面白かった。

心斎橋の天牛さんで、新一郎老が大きな声で、おいでやす、おおきに、と云つておられたのは覚えてます。そこにいた尾上政太郎さんとは永いお付き合で、大阪へ行くといつも夕方から法善寺横町あたりで飲んだものです。そのあと心斎橋だったか、蟹を食べに行こうと尾上さんは云つたが、私は満腹で、
  蟹喰えば 金かかるなり 法善寺
と一句作って、子規もこんなような句を作つていたね、など冗談を云いながら心斎橋あたりを歩いたこともありました。

これは、上手いぞ、座布団三枚っ!!!


07130

【天才青山二郎の眼力】白州信哉編 ★★★ 青山二郎(1901-1979)の名前だけは、小林秀雄や白州正子経由で耳覚えはあるのだが、一向にどのような人物なのかわからずにいた。
本書のおかげで彼が骨董の目利き、趣味の粋を超えた装釘家といったイメージを描くことができた。何よりも彼の陶磁器を中心とする鑑識眼がすごいということがしつこく述べられている。
本書は新潮社「とんぼの本」つまりヴィジュアル本なだけに、「天才」青山二郎が選び、愛好した作品を見るだけでも楽しめた。
蕎麦ちょこ、李朝の井戸徳利、白磁長壷、粉引徳利、宋の白柚黒花梅瓶、明の青花蓮華文大皿、桃山時代の絵唐津草文筒碗、ぐい飲み……ここらあたりが、Morris.好みの逸品たちである。
青山が特に好んだ唐三彩、織部は、Morris.は生理的に好きになれないし、梅原龍三郎、北大路魯山人などへの肩入れも共感しにくいところだ。
しかし、何と言っても昭和初年に李朝の「青花秋草手」の評価を画期的に高めた男が青山二郎だったということが一番印象深かった。
資産家の息子として、いわゆる「高等遊民」のまま、美しきものにのみ心を傾けた幸福な一生を送った人と言えるだろうが、かなり癖も強かったとみえる。


07129

【スローブログ宣言!】鈴木芳樹 ★★★☆ このページMorris.日乘は、98年11月から始めたMorris.の日記である。Morris.部屋(Morris.in Wordland)の日記ページだから、いわゆるweb日記ということになる。ところが、最近はこれを「Morris.のブログ」と呼ぶ人が増えた。灘タマでは、Morris.を「灘のブロガー」として紹介してるくらいだ。そのくらいブログが普及して世間的に認知されたということになるのだろう。
Morris.もブログというのにはいくらか関心持って、「はてなダイアリー」に申し込んで「ノレ番Morris.8090」というブログを作ったこともある。(今も存在してるのだが事実上開店休業状態(>_<)) だからMorris.日乘を「Morris.のブログ」というのは間違っていると思うのだが、特に反発や反駁する気はない。
前置きが長くなったが、本書はその「はてなダイアリー」で日記を書き始め、いつの間にかブロガーになってしまったという著者が、ブログの普及の趨勢にそって個人史的にブログへの思いや、特徴、問題点、今後の展望などを論じたものである。
Morris.としては同じ「はてな」の利用者ということで興味をおぼえたのだが、なかなか読み応えのある内容だった。
特に、トラックバックというのがやっとうすぼんやりながら理解できたような気がするのがありがたかった。
ネットで身辺雑記を書くというのが、日本の特殊事情であることも面白かった。日本の日記文学の系譜というのは半端じゃやいもんね(^_^;)
確かにブログの特長は多いようだ。テーマごとに記事を分類したり、検索の便利さ、同好の士とのつながり、認知度を高める等々あって、それはそれなりに魅力もあるが、とりあえず、Morris.はMorris.日乘の今の形態を続けることにする。別にこの本を読まなくてもそうするつもりだったが、本書を読んで、それでかまわないと、はっきり自覚できたことに感謝したい。
タイトルの「スローなブログ」というのも、Morris.日乘のスタンスと近いものがある。


07128

【ソウルの食べ方歩き方】中山茂大著 チュチュンヨン写真 ★★★☆☆ 前から本屋で立ち読みして気になってた本だが、新長田図書館の韓国コーナーにあったので早速借りてみた。
いやあ、本当に良く飲みまわってる(^_^) それもMorris.のフランチャイズ、鍾路界隈がメインになってるので、良くわかるし、実践的記事は役に立ちそうだ。
「路地裏安食堂探検ガイド」というサブタイトルそのままで、コルモッキルフリークのMorris.も大満足である。
細かい手描きのマップも数多く掲載されてるし、95年から来日してる韓国人カメラマンの写真もいかにも下町裏町の食堂飲み屋の雰囲気を掴んだいい写真揃いである。文章もよくこなれてるし、根っから韓国料理とマッコリが好きなのがガンガン伝わってくるのが良い。
特にマッコリの美味しい店の紹介が多いので、このところすっかりマッコリにはまってるMorris.としては見逃せない。
東山旅館のことも紹介されてる。「再開発でできたビルの谷間にぽっかりと古い家が残る。アジュンマは親切、トイレは異常に狭い」と書いてある。Morris.御用達の2Fの部屋にはトイレは無いから、きっと1Fの客室は狭いトイレが付いてるらしい。
あまり意味が無いかもしれないが、本書のマッコリ評価5つ★の店名と簡単な場所だけ引いておく。

・トンチョン(たぶん東村) 東山旅館の東インサドンの手前南側 もち米トンドン酒 6000W
・トラオンキムサッカッ 新村本通の一筋西 ロータリー南から三筋目と4筋目の間 6000W
・ファゲジャント 新村本通りの二筋西 ロータリー南から五筋目三叉路の東南角 もち米トンドン酒 5000W
・イエンナルエッチョゲ 新村現代デパートの西 韓定食専門店 マッコリ6000W


五つ★は4軒しか紹介されてない。しかも3軒は新村に集中している。うーん、Morris.としては東山旅館近くの「トンチョン」と、チョヨンナムの歌でおなじみの「ファゲチャント」(Morris.の十八番(^_^)でもある)の2軒がまずねらい目だね。覚えやすいし(^_^;)


07127

【あでやかな落日】逢坂剛  ★★★☆ 96年ごろに「サンデー毎日」に連載されたもので、主人公の40代の調査会社所長が、大手電機メーカーのキャンペーンガールに偶然見つけた若い女性ギタリストを紹介し、知り合いの広告会社の部長や、やくざめいた男とその愛人などと絡み合いながら、メーカーと広告会社の企業競争と中傷報道などに巻き込まれながら「いい男」ぶりを発揮するという、著者お得意のパタンだし、登場人物の多くが拠点としている神保町界隈のレストランやカレーの店などのグルメの薀蓄がこれでもかというくらいに披露されて、それなりに店の売り上げに貢献したと思われる。
また薀蓄といえば、主人公も趣味にしているクラシック&フラメンコギターの曲目や作曲家や、ギターの名品についても、これでもかというくらいにしつこく講釈してくれている。まあ、これはご愛嬌というか、Morris.は結構こういうの嫌いではないのだが、演奏技術の詳細になるといいかげん鼻白んでしまう(^_^;)

ハルナはギターを構えると、例によって音合わせも音慣らしもせずに、いきなり弾き始めた。それも、ふつうの音ではない、ハーモニックス奏法からはいったのだ。
ハーモニックスは、左の指でフレットを押さえてから、一オクターブ高い位置で弦に右の人差し指を触れ、薬指ではじいて音を出すという、かなり高度の技術を要求される特殊奏法だ。ハーモニックスで弾くと、通常の奏法に比べて遠くで鳴る鐘のように、小さいけれども澄んだ音色の音が出る。ただし、スモールマンのギターはハーモニックス奏法を使っても、通常奏法に負けない大きな音に聞こえた。


こんな調子である。また新聞連載ほどではないが、毎週の盛り上げを考えてか、やたら小さな山を連続させてせわしない構成になってることも否めない。この人の癖らしい、登場人物の名前の漢字をいちいち本文で説明するあたりも煩わしいと思う。読者は活字で漢字見てるんだから、省略すべきだろう。「手をこまねく」表現もきっちり出てるし、登場人物、特に、やくざ系の好漢?とその愛人のキャラクタ設定がめちゃめちゃだし、大企業と広告会社の裏のやり取りも、あまりに図式的だったりするのだが、ともかくも600p近くを、最後まで読み通させてくれたという点で、エンターテインメントとしてはそれなりに評価したい。


07126

【激コラム 世情編】ナンシー関 ★★★☆☆ ちょっと古いけど、先日中野某の本があまりにつまらなかったので、つい思い出したナンシーのコラム選を借りてきた。
87年週刊プレイボーイ連載の消しゴム歳時記や、数少ない海外旅行(台湾、上海、ニューヨーク)の覚書、新興宗教の有名人を取り上げたコラム、子供向けの手紙、もちろん芸能ネタも含めて、雑多ながらもナンシーテイストの濃い雑文ばかりで、やっぱりかけがえの無い才能を無くしたという思いを新たにする。

ちょっと前に「ピーターパン症候群」という言葉がはやりました。いつまでたっても大人になりたがらない人が増えているという意味ですが、コレとさっきの"ギャップ"の違いは、その"ギャップ"を「おもしろがれるかどうか」ではないでしょうか。「自分はまだちゃんとなんかしていないのに、大人の仲間になるのは嫌だ。怖い」と思えば、バカ・ピーターパンですが、「こんな自分でもいっぱしの大人たあ、笑わしてくれる」と思えば、テイキットイージー(Take it easy.)。
子どももそうかもしれませんが、大人は「大人」を演じています。あなたのお父さんやお母さんも、父親・母親役を演じているのです。といっても母親や父親になったことのない私の言うことは推測にすぎませんが。演じるといってしまうと作為的な感じがしていやらしく聞こえますが、そうでもない。大人になる、母親になる、父親になる、先生になる、サラリーマンになるという「なる」とおいうのは、その「演じる」ということと同じ意味かもしれない。すなわちそれは「日常生活の営み」ということなのです。
ま、ぶっちゃけた話、私が言いたいのは「大人、恐れるに足りず!」ということです。目上の人を敬いましょう、という道徳を否定するつもりあはりませんが、でも敬わなくてもいい大人もいるとおもうけど、ま、そのへんは、礼儀として分別ある日常生活を営むことでクリアしてください。最後に、私が心から「大人恐れるに足りず」と実感した瞬間を教えます。それは新聞(ちゃんとしたやつ)を読んでいて、新聞の記事にものすごくヘタクソでデタラメな文章がいっぱいあることに気づいた時です。大新聞の記事なんて「ちゃんとした大人」的なものの「権化」みたいなものでしょう。でもそれが、ヘタクソ。「なんでえ」と思いました。「大人もちゃんとしていない」ことに気づくのが、大人になったことなのかもしれません。(「学研ピテカンくらぶ中2」94年10月号)


ナンシー関ってああ見えて結構「ちゃんとした」もの志向の強い人だったよな。そのくせ誰よりも「天然」好き(^_^;)
天下無敵の消しゴム版画と天衣無縫の文章の最強タッグがもう帰ってこないなんて(;;)

今やメジャー市場に成り上がった「通販」の後ろ暗い過去を語る一節

今や堂々と陽の当たる道を歩む通信販売であるが、かつて通信販売といえば魑魅魍魎跳梁跋扈する暗黒の裏世界であった。
他人に弱味を見せないほうが有利であることを知っているのは大人である。子どもはすぐ弱味を握られる。いや、こどもであることがすでに弱味なのだ。スケベ商品も含めたかつての通販は、うさんくさいと思いながらも我慢できずに切手を送ってしまうような子ども(たとえ大人でも子どもだ)相手の商売だったような気もする。私はなんだか、自分自身のものごころのつき方と、通信販売というものの更生・成長(子どもだましから巨大市場への変化)の過程が、ちょうどシンクロするような気がするのである。(「太陽」95年8月号)


07125

【泣き虫弱虫諸葛孔明 第弐部】酒見賢一 ★★★☆☆ 待望の第二部である。第一部を読んだのが2005年でそのときの感想はこちらにある。
本書第二部では長坂坡の戦いに至るまでの動向を、例によって、面白おかしくパロったり、とんでもない裏読みやら仮説、そして見事な例えなど、相変わらず酒見の筆の冴えはとどまるところを知らずである。
前にも書いたようにMorris.は三国志ファンどころか、まともに読んだことない人間なのだが、このシリーズはずーっと続けて読みたい。
『三国志』と『三国志演義』の筆法の差から歴史観までもっていくあたりを、ちょっと長めだが文体見本を兼ねて引用しておく。

−−−漏れまくる密談の怪
そんな捏造の疑いが濃すぎる話を率直に信じろと言われても困ってしまう。モサド的には防諜的配慮が皆無というより、パンパースを穿かせたほうがいいんじゃないのかという、これが中国史書の恐るべき構想の死角、権力の墓穴点なのだが、以前に「草露対」の秘密のところでも述べたが、後世の史家は、それは言わない約束の野暮、歴史が成り立たなくなるから、可能な限り問題とする必要はない、とするのである。
むろん史書の重箱の隅をつつくように、ふざけた矛盾や馬鹿げた誤りを批判する文人も昔からおり、清代になると銭大マ、王鳴盛、趙翼らの考証学的研究が「三国志」の暗闇を照らし、言わない約束をぶった斬ったりするようになる。
また中国では儒者たるもの確固たる歴史観を持つべしというのか、思想家が歴史家をかねることも多く、朱子学の朱子や陽明学の李卓吾らが有名だが、それぞれ思想的に偏向した歴史を書いたりしており、それはそれで面白いのだが、つまりは事実や公正さなどは後回しで、自分好みの解釈がより重視されるのである。政府が怒らない限りは(たまに発禁処分を喰らったりするのだが)なんでもありだ。自説に拘ってのあまり、孔明がアルメティメット魔法軍師であったと書いていてもまったく問題ない。ならば『三国志』と『三国志演義』のどこが違うというのか? 科学的とはとうてい言えないものなのだが、歴史というものがもともとそういう性質を持っているのである。
はっきり言っておけば、歴史とヒストリー、レコードは別なものである。
つまり時の政府公認の史官や、政府に殺されない程度の在野の史家が文字にしたことが即ち史、「歴史」的真実となるのであり、実際の史実がどうであろうとあまり関係がないのである。「歴史」という言葉自体に、最初からある種の指向性のある観念が含まれているのだ。
「歴史をそう簡単に信じてはいけない」
という教訓を、他ならぬ中国の史家が非直接的に警告しているということなのだ。最初の歴史研究者ともいえる孔子は『論語』に、
『文、質に勝れば則ち史なり』
と云う。ここでいう文は、文飾という意味である。史官とはもともと文辞を飾りつける者であった。
「歴史を鑑とする」
「正しい歴史認識を持たぬ輩とは交際しない」
というような言い様に潜む危険な暗黒面を知っておくべきであろう。とくに為政者が言うときには。
そういう、これ則ち思想的に作為的な宇宙(上下左右前後の空間プラス時間)の中であるから、孔明のような存在が棲息遊泳することができるのである。朱熹などは孔明好きがほとんど病気に近く、劉備軍団が為した悪、例を挙げれば道義上ほめられたものではない益州騙し奪りの件などは、孔明の策ではなく、劉備が自分で考えてやったことに違いないとまで述べて、歴史捏造している。孔明はひたすら庇われてその清廉潔白は安泰というわけだ。


うーーん、「歴史」に関してこれだけの深い考察を、これだけ軽く論じるあたりは酒見の真骨頂というか、凄さだね。一刻も早く第三部を読みたいぞ。


07124

【自伝大木金太郎 伝説のパッチギ王】太刀川正樹訳 ★★★ 大木金太郎。本名金一(キムイル)。1929年韓国全羅南道居金島生まれ。1956年日本に密入国し、力道山に弟子入り、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の兄弟子。「原爆頭突き」を武器に一斉を風靡し、のちに韓国プロレス界のリーダーとなる。日本での最後の試合は1981年、韓国では国民勲章を受けるなど国民的スタートして認知されていた。2005年10月26日没。
力道山ならMorris.もおなじみだが、この大木金太郎はあまり知らない。力道山が北の生まれ、大木は南の島の生まれだが、同じ朝鮮人というよしみでの結びつきが深かったのだろう。もちろん当時は力道山が朝鮮人という事実は、完全極秘だった。大木の場合は公然の秘密みたいなものだったようだ。
そして、力道山が大木に日本人レスラーとは比較にならないほど、厳しくしごいたのは、一種の自己嫌悪のうらがえしだったかもしれない。ほとんど、拷問に近い訓練だったようだ。

先生は私の顔を見るとよく叩いた。なぜそんなに叩いたのかは少しずつ明らかにするが、叩かれない日がないほどだった。私は先生が「おーい、キム」と名前を呼ぶと条件反射的に棒をもって先生のところへ行き、腕立て伏せの姿勢をとった。すると先生は鞭で容赦なく私の尻を強打した。先生の鞭は尻だけでなく体全体を標的にした。まるで犬を叩き殺すような勢いであらゆる部分をやみくもに叩いた。
叩かれても痛いという声すら出せなかった。「ウッ」とうめき声を出すと、「痛いか?そうか」と言いながらもっと叩いた。叩かれるたびに「ありがとうございます」と大きな声で言わなければならなかった。それが先生の鞭の法則であった。
不思議なことに日本人選手はあまり叩かれなかった。もっぱら私だけを叩いた。日本人選手たちは私に同情していた。彼らは慰めに日本酒をおごってくれたりした。彼らもなぜキムだけを鞭で打つのか不思議に思っていた。
先生は自分が朝鮮人であることを隠していたが、私は「同じ朝鮮人なのにどうしてこのようなひどい差別をするのか?」と裏切られた気がしたことが一度や二度ではなかった。
吉村秘書は力道山先生は「大変だ」「つらい」と愚痴をこぼす人間を一番嫌っていると言った。吉村秘書は力道山先生が相撲取り時代に味わった苦痛と屈辱は言葉では表せないくらいのものだったと言った。鞭や木刀で殴られることなどはたいした問題ではなかったという。
鞭よりひどかったのは民族的差別という精神的苦痛だった。それを克服するために叩かれながら訓練に励んで頂上を極めた人が力道山先生だと説明してくれた。


これがパッチギ(頭突き)の訓練になると一層凄みを帯びてくる。

額の訓練は文字通り地と涙の訓練だった。最初は自分の頭でサンドバッグを打った。次は木の板、その次は木の柱を打った。縄を巻いた柱を一日何百回と頭で打った。打ったところが腫れてから逃避が破れ、またその上にタコができた。
次は鉄柱を打った。額が真っ二つに割れ、真っ赤な血がどろどろと流れてきた。頭皮が破れてなかから骨が見えていた。練習を中止して病院に行って傷を縫った。先生の怒鳴り声が聞こえた。
「なぜ病院に行った!?」
頭が破れると縫うのが当然なことではないかと私は思う。しかし、先生はそれを許さなかった。先生は包帯を外してまたもや同じ部位を打った。肉片が落ち、何日か経って化膿し、額が腐っていくような気がした。


これだけ苛められながら、大木の力道山への絶対的敬愛ぶりは、異常にすら見える。
1963年、WWAのタッグ選手権のために渡米、見事チャンピオンになったものの、このとき、日本では力道山がやくざに刺され重症を負う。そして手術後の経過が悪く力動山は死んでしまうのだが、朝鮮人の大木は、アメリカという聾桟敷に置かれた上、帰国後も露骨な差別を受けたようだ。そして力道山の死に「謀略」の臭いを嗅ぎ取ったという口ぶりである。確かに力道山の死には胡散臭さが付きまとう。結局、プロレス興行権とやくざの絡み合いがあったのはまちがいないだろうし、朝鮮人という出自も事件の裏に何らかの影をおとしているのではないか。
大木はさまざまな憶測の中で、それでも力道山自身の正当性を否定しない。いや、大木の生涯のカリスマは彼をおいては無い、という筆法である。Morris.はこの態度に、深い愛情と遺恨の入り混じった感情が垣間見えるような気がする。


07123

【よろしく青空】中野翠 ★★ 「サンデー毎日」の連載コラム2005年11月からほぼ一年分をまとめたもので、すでにかなりの冊数を数えているようだ。映画やTV番組の感想、事件や雑談取り混ぜたコラムで、下手な自作のイラストも添えてある。中野の本といえば「曲者天国」という本がなかなか面白かったのだが、たまにこういったコラムをまとめて読むと、視野の狭い嫌味なおばさんというイメージが色濃く見えてくる。
いまさらながら、ナンシー関の消失の大きさを改めて感じさせられてしまった。
ミーハー、身贔屓、気まぐれ、自由奔放、我侭勝手……と、Morris.と似通った性向、嗜好傾向があることは否めないが、それ以上にものの見方が、Morris.とは根本的に食い違っていることに気づいた。
いわくつきのベストセラー「国家の品格」(藤原正彦)の感想などは、手放しでペタ褒めである。

読んでみました。はい、同感と共感の連続でしたね。自分と同じ考えというだけで、ちゃっかり良書と認定してしまう。これが日本の常識というかコモンセンスであればいいなあ、こういう本がベストセラーになるのだから日本もまんざら捨てたもんじゃないなあ、と思った。

だもんね(^_^;) Morris.はこの本読んでないけど、目次見ただけでもどんなものかは直観できるさ。
さらにスノビズムに黴の生えたような、金持ち文化論。

私はかねてよりの持論をかみしめずにはいられない。「金持はセンスがよくなくてはいけないのだ。センスのよさは金持にとっての、ほとんど義務と言っていいようなものなのだ。いわゆるノブレス・オブリージ? ちょっと違うか。とにかく金持は文化のよきパトロンとなって、美しいもの貴いもの愉快なものに接する喜びを社会に還元しなければいけないのだ」

おいおい、こんなのが持論かよ。
そして決定的な勘違い。

私が日本に生まれてよかったなあと思うのは日本語の面白さを満喫できることだ。たぶん、これが一番。もしかすると他の国に生まれたら、同じように思うのかもしれないが。うーん……。外国語に詳しくないので断定的なことは言えない。けれど、たとえば色名だけ考えても日本ほど多彩な表現を持つ国というのも珍しいんじゃないかと思える。

ほとんど、日本語の態をなしていないこんな文章を書いて、日本語の面白さとかよくぞ言えたものである。「美しい日本」なんてお題目を掲げていた小児的安部元総理のお仲間なんだろうな。外国語に詳しくないといいながら、日本語の色名の多彩さは珍しいなんて、自家撞着も甚だしい。
北朝鮮の核実験のニュースを聞いたとたんに

いずれにしても、いよいよ日本も核武装するかどうかの決断を迫られて来た。

と、きたもんだ(@_@) さらに続けて

自前で核武装するのは時間的に間に合わないから、アメリカに核ミサイルを配備してもらえばいいという人もいる。

なんて、他人の口を借りて本音をもらしてる。(こういうのを姑息という)、さらに核対策として日本中にトンネルを掘って日本を「トンネル国家」にしたらどうか、などととんでもないことを言い出したりして、もうこれ以上は付き合えそうにない。
取り上げる作家や、本に、共通項がありそうなので、これまでちょくちょくのぞき読みしたりしてたが、このくらいにしておこう。


07122

【金塊和歌集】源実朝 ★★★ 秋だから和歌でも読もうという気になったわけでもない。今日は遠出だったのに、手ごろな本が見当たらなくて、先日「つの笛」の階段の百均で手に入れた有朋堂文庫(大正15年刊)がちらと目に入ったのだった。この文庫は新書サイズで渋い紺色のハードカバーに天金という、いまどき得がたい装本だし、本文の紙質も良く、何と言っても本活字の手触りが嬉しい。Morris.はこの文庫をこれまで10冊ほど手に入れてる。
有朋堂文庫いや、肝腎なのは中身であるな(^_^;) この巻には「山家和歌集」「拾遺愚草」「金塊和歌集」の三歌集が収められている。西行法師、藤原定家、源実朝という、平安末期から鎌倉初期の三大歌人(と言って良いだろう)の個人歌集の揃い踏みである。Morris.は百人一首くらいはお馴染みだが、他は古今、新古今を流し読みした程度で、えらそうに言うほど古典和歌に親炙しているわけでもない。この三人も代表作くらいしかしらない。何で実朝を読んだかというと、一番ページ数が少なかったからだ(^_^;) 「山家和歌集」200p、「拾遺愚草」350p、「金塊和歌集」80pだもんね。
ところで最近の文庫本なら訳注、解説が当然付いてるわけだが、この有朋堂文庫はそんなもの一切無し。塚本哲三という校訂者の緒言というのがあるが、以下がその全文である(^_^;)

緒言
山家和歌集二巻、拾遺愚草三巻、金塊和歌集三巻を収めて本篇一冊となす。
山家和歌集は詩僧西行法師の詠を萃る所、其神韻縹渺として超俗の趣に富めるに至りては、蓋し幾多歌集中稀に観る所と称すべし。本集には絶対の典拠と認むべき善本なきを以て、姑く六家集本を以て底本とし、類題本其他一二の異本を対照校合せり。
拾遺愚草は京極黄門として知られたる藤原定家の詠集也。定家は新古今集及び新勅撰集の撰者として重きを一代に為したる者、其特に力を修辞の上に致し、為に詠歌概ね浮華軽靡に流れ、実感の充実を欠くものあるは、また争ふべからざる事実なりと雖も、和歌の技巧的方面に於ける成功の一点よりすれば、寔に古今の第一人者たらずんばあらず。本集の校訂は専ら六家集本に拠れり。
金塊和歌集は鎌倉右大臣源実朝の家集也。実朝は万葉派の一大歌人にして、賀茂真淵は「奈良朝以後に於ける唯一独歩の大歌人」と推奨せり。その歌風雄渾壮大にして遠く万葉集の塁を磨もなるに至りては、又誠に我歌学史上の一偉観たらずんばあらず。今貞享四年刊行する所の板本を原とし、之に参酌するに群書類従本を以てせり。
大正四年四月 校訂者 塚本哲三


当時の見方にしても、えらく定家を貶め、実朝を持ち上げているなあ。実朝褒めるのに賀茂真淵持ち出すあたりは、あんまりという気もするし、実朝が定家に教えを受けたことからしても、「唯一独歩」というのも肯けない。
いや、Morris.が言いたかったのは、緒言の内容ではなく、これ以外に解説も注釈もない、歌集を読んで、どの程度理解できるかがおぼつかない、というより、ほとんどわからないで読み飛ばしたということをはっきりさせておきたかったのだ。
実朝の代表歌といえば、巻頭の

今朝みれば山もかすみて久方のあまのはらより春は来にけり

万葉風として必ず引かれる

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ
大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけてちるかも


そして、巻末におかれた雨乞いならぬ、雨止めの歌

ときによりすぐればたみのなげきなり八大龍王雨やめたまへ

などが挙げられるだろうし、これらの歌を見るとMorris.もつい頬が緩んでしまったけど、暴言を承知で言わせてもらえば、かなりの駄作も含まれてるような気がする。七百首近くが収められているらしいが、五百首くらいは無くてもかまわない(^_^;)し、百首くらいは理解不能(これは大部分Morris.の力不足)で、残りの百首を並べて、Morris.撰実朝百首を披露したいところだが、とりあえず、印象に残った歌を数首引用して逃げることにしよう。全般に恋歌は低調で、季節の歌、特に秋の歌にMorris.好みの秀歌が集中していたように思う。

たづねても誰にかとはむ故郷の花もむかしのあるじならねば(故郷花)
萩の花くれぐれまでもありつるが月出でてみるになきがはかなき
大jかたに物思ふとしもなかりけりただわがための秋の夕ぐれ
かもめゐる沖のしらすにふる雪の晴れ行く空の月のさやけさ(白といふことを)
待つ人はこぬものゆゑに花薄ほに出でてねたき恋もするかな(寄薄恋)
世中はつねにもがもななぎさこぐ海士の小舟の網手かなしも(舟)
あきもはやすゑ野の原に鳴く鹿の声きくときぞ旅はかなしき(羇中鹿)

あかん、たった七首選んで後が続かない。もう一回読み返す元気はない。
後日、西行や定家の歌集を読むことがあるかどうかも、疑問である(^_^;)


07121

【長いお別れ】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 ★★★☆ 名作の誉れ高いチャンドラの6作目の長編「The Long Good-Bye 1953」である。意外と近所の図書館に見当たらず、とうとう中央図書館の書庫の世界ミステリ全集5巻を借り出してきた。これには「さらば愛しき女よ」と「プレイバック」が収められて700pを超す厚さである。「長いお別れ」だけで300pを超す。たぶんチャンドラの長編の中でも一番長い作品だろう。
億万長者の娘婿の男と飲み友達になったマーロウが、彼の妻の殺人事件に巻き込まれ、さらに先の事件と関連するアル中の流行作家の殺人事件にも巻き込まれる中で、「男」ぶりを存分に発揮する展開で、ストーリーより、場面場面での「大見え」こそが見ものだろう。

午前三時、部屋を歩きまわりながら、ハチャチュリアンを聞いていた。彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいた。私にいわせればベルトのゆるんだ送風機だが、そんなことはどうでもよかった。
私にとって、眠られない夜はふとった郵便配達ほどめずらしいのだ。リッツ・ビヴァリーでハワード・スペンサー氏に会う約束さえなかったら、ウィスキーを一瓶あけて、酔いつぶれてしまうところだった。


例によってのマーロウの一人称の語りは絶好調である。

しかし、電話というものはふしぎな力を持っている。機械に追いつかわれている現代の人間は電話を愛し、憎み、怖れているが、その機能に敬意を払うことを忘れはしない。信仰に近い気持なのだ。

50年代始めの米国の電話の普及度がどのくらいのものか、よくわからないが、この電話へのアンビバレンツな批評は携帯電話蔓延の現代にも通じるところがあるようだ。
億万長者がマーロウに説教する台詞は、いかにもアメリカの金持ちの典型的スノビズムが披露されている。

「マーロウ。やめたまえ。われわれは民主主義と呼ばれる世界に住んでいる。すべては多数決によってきまるんだ。そのとおりに実行されれが、りっぱな理想にちがいない。選挙は国民がするが、指名は党の機関がする。そして、党の機関が強力であるためには多額の金を使わなければならない。その金は誰かが出さなければならないし、その誰かが個人でも、財界のグループでも、組合でも、かならずなんらかの報酬を期待する。私のような人間が期待するのは他人にわずらわされないで静かに暮したいということだ。私は新聞をいくつか持っているが、新聞はきらいだ。静かに暮そうと思っている人間には絶えず脅威になる。新聞が声をからして叫んでいる報道の自由ということは、ほんのわずかの例外をのぞいて、醜聞、犯罪、性、憎悪、個人攻撃を書き立てる自由、または、宣伝を政治的、経済的に使う自由なのだ。新聞は広告収入によって金をもうける事業だ。発行部数がものをいうわけだが、発行部数の土台になるものが何かは君も知っているだろう」
私は立ち上って、椅子の周囲を歩いた。彼は冷たい視線を私に浴びせた。私はふたたび坐った。
「金というものはふしぎなものだ。ひとところに多額に集ると、金に生命が生まれ、ときには良心さえも生まれる。金の力を強制することがむずかしくなる。人間はむかしから金に動かされやすい動物だった。人口の増加、戦争に要する多額の軍事税、税金の重圧−−こういったものが人間をさらに金に動かされやすくしている。ふつうの人間は疲れて、怯えている。疲れて、怯えている人間に理想は用がない。まず家族のために食物を買わなければならないのだ。われわれは社会の道徳(モラル)と個人の道徳がいちじるしく崩れ去ったことを見てきている。人間の品質が低下しているのだ。マス・プロの時代に品質は望めないし、もともと、望んではいない。品質を高めると永持ちするからなのだ。だから、型を変える。いままであった型をむりにすたらせようとする。商業戦術が生んだ詐欺だよ。ことし売ったものは一年たったら流行おくれになるように思わせないと、来年は商品を売ることができない。」


作家の死の現場に立ち会わされたマーロウと、駆けつけたオールズ警部の会話も、時代を考えると興味深い。

「一億の財産をつくるのにきれいな方法なんかあるもんじゃないよ」と、オールズはいった。「あの男自身は手がきれいだと思ってるかもしれないが、どこかにひどい目にあってる人間がいるし、地道に商売をしているものが土台をひっくりかえされて、二束三文で売り渡さなければならなくなっているし、罪のない人間が職を失っているし、株式市場でいんちき相場がつくられているし、大衆にはありがたいが金持ちには工合がわるい法律をごまかすために利権屋や一流弁護士が十万ドルの手数料をもらっているんだ。大きな財産は大きな権力に結びついていて、大きな権力には不正がつきものなんだ。それが世間のからくりさ。どうにも仕方がないのかもしれないが、いい世の中とはいえないよ」
「赤みたいだな」と、私はからかったつもりでいった。
「赤かもしれないね」と、彼はまじめにうけとっていった


うーーむ、「赤」ねえ(^_^;) 泥縄でネットWikipediaで調べたらアメリカでの「赤狩り red scare」は1948年から50年前半までとある。本作品執筆時にぴったり重なるわけだ。チャンドラの真意がどのへんにあるかわからないが、それなりの意思があることはまちがいないだろう。
日本での「赤狩り レッドパージ」は、

第二次世界大戦後の1950年当時、アメリカ軍を中心とした連合国軍占領下の日本においてマッカーサーGHQ総司令官の指令により、共産党員とシンパ(同調者)が公職や企業から次々に追放された動き。1万を越える人々が職を失ったと言われる。

ところで「赤狩り」のことをマッカーシズムともいうのは、マッカーサー司令官の名前から付けられたと、Morris.はずーっと思い込んでいたのだが、これはとんでもない間違いということが、わかった。

「マッカーシズム」は、第二次世界大戦後の1948年頃より1950年代前半にかけて行われたアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除の動きを指す。1953年より上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務め、下院の非米活動委員会とともに率先して「赤狩り」を進めた共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員の名を取って名づけられた。

えらく脇道にそれてしまった(^_^;)
Morris.がチャンドラにはまったのが去年のことだから、えらく奥手にちがいないが、これで、未読の彼の長編は第一作「大いなる眠り」を残すのみとなった。こちらは双葉十三郎訳しかないようだが、近日中には読むことになるだろう。

今回は変な引用ばかり続けたので、おしまいに、マーロウらしい気障の極みを引用して〆ることにする(^_^)

こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。
さよならを言うのはわずかのあいだ死ぬことだ。


07120

【月は知っていた 旅のグ2】グレゴリ青山 ★★★☆ 蔵前仁一の「旅行人」連載作中心の何となくお馴染みの海外旅行漫画家グレゴリ青山で、あいかわらず、いい味出している。彼女(つい男と思ってしまう)は、現在京都の片田舎に住んでるらしいが、そのまえ4年ほど和歌山の田舎のトタン葺の一軒屋を借りて自給自作的生活もやってたとのこと。本書には海外旅行だけでなく、この和歌山の片田舎生活や、日本国内の旅、印度映画、舞踊愛好家たちの集まりでの模様なども織り交ぜてある。彼女自身撮影のカラー写真も数ページ載ってるが、あまり写真は上手いとはいいがたい(^_^;)。
新世界の漫画の中で、新世界東映の話題があり、あのディープなプログラムは、初めて見たらやっぱりびびるよなと思った。
また「アジアのすきまで」と題されたコラムの一つには共感を覚えた。

国の経済はG.N.P.やエンゲル係数ではかるけど、その国の人間のおおらかさは野良犬や猫ではかる。やせてはいてもけっこう毛ヅヤがいい犬や猫が、道端で堂々と眠っているところであれば、それだけ人間の心も広いということで、おおらか係数が高いといえる。タイの南、プラチュアプキリカーンというところには、そんな犬猫がたくさんいて、しかも一緒にゴロゴロしていたりして、実におおらか係数の高い町であった。


07119

【びっくり舘の殺人】綾辻行人 ★★★ このところ「かつて子どもだったあたなたと少年少女のための」ミステリーランドシリーズ講談社)を読みつづけてるが綾辻を読むのは久し振りだ。彼の「館シリーズ」の一冊ということにもなる。びっくり箱だらけの舘から「びっくり舘」という名前はあんまりだと思うが、さすがにちゃんと読ませる作品だった。
たぶん芦屋の六麓荘(兵庫県A**市六花町となってる)が舞台ということで土地鑑があるだけに親しみが湧いた。死んだ孫娘の似姿の人形で腹話術芝居する老人と病弱な男の子が住んでるこの舘での殺人事件に、小学生の男女が巻き込まれるという筋立てもいかにも綾辻っぽいし、密室のトリックもそれなりに体裁を整えている。やっぱりこの作家は手錬れである。事件後の阪神大震災もうまく利用してるし、殺人事件真相の開陳も自然で上手い。10年後の再訪と余韻をもたせた〆も味がある。と、褒めっぱなしみたいだが、ミステリ自体の質はけして高くない。どうしてもお子ちゃま向けという感じがするのはシリーズの制約ともいえるが、物足りないというのが正直な感想である。


07118

【ニューヨーク地下共和国 上下】梁石日 ★★★ 9・11テロを中心にそれ以後のアメリカのアフガン、イラク侵攻、それに反対する市民たち、地下共和国を名乗るアメリカ国内テロ団体、元ソ連の最高幹部、FBI、CIA、政治家、黒人写真家、劇作家、俳優、証券マンetc.やたら登場人物が多い上に、ストーリーも錯綜してるし、テロ自体が投機の対象としてしくまれたとしたり、ソ連の原爆がニューヨークの地下にせっちされていたりと、荒唐無稽なところもあり、梁石日の癖で、しつこく書き込む部分とすっ飛ばしのギャップが多すぎたりで、長編の割りにリアリティを欠き、主人公というべき他民族を先祖に持つぜムという男も、能書きの割りにキャラが立っていないうらみがある。フィナーレの尻切れトンボ感もこの作品をいまいちに見せている。
それなりに面白い部分や、考えさせられる部分もあったし、アメリカの戦争好みへの批判などは共感を覚えるところも多かった。
以下の「愛国心」批判は、先日姜尚中の愛国心関連本読んだばかりだったので興味深かった。

「目が赤いですわ。眠れなかったのですか」
デボラが言った。
「まあね、愛国心という亡霊にとり憑かれてるんだ」
「愛国心?」
デボラは意味がわからず、コーヒーを入れた。
「愛国心の亡霊って、どういう意味ですか?」
「フォスターはアメリカ国民に愛国心を求め、国民はそれに応えてイラクへの先制攻撃がはじまった。しかし、イラク戦争に反対している多くの国もまた、愛国心やナショナリズムを国民に求めている。愛国心やナショナリズムはややもすると紛争や戦争を誘発しかねない。民主主義は、そのような愛国心やナショナリズムを制御できると考えていたが、むしろ逆だった。アメリカは自由と民主主義の名において、愛国心とナショナリズムを煽り、国民を戦争へと駆り立てていった。これは原理的に、民主主義の二律背反だよ。社会主義体制が崩壊したあと残ったのは愛国心とナショナリズムだ。民主主義は愛国心やナショナリズムを擁護するための口実にすぎないってわけだ。民主主義なんか糞喰らえだ!」


07117

【市場(スーク)の中の女の子】松井彰彦 文 スドウピウ 絵 ★★★☆ 「市場の経済学・文化の経済学」と副題のある絵本?である。ゲーム理論、貨幣経済学の東大の教授らしい。
多感な読書好きな少女が、大学図書館の地下からアラブの奴隷市場に紛れてイタリアの商人の息子に助けられ、経済の世界を巡る冒険をするという、よくわからない設定だが、とりあえず経済学とは縁遠いMorris.には、かえってわかりやすかったりした。

ふうん、みんなが使うと便利になる。だからみんな使うのね。

みんなが使わないと不便になる。だからみんな使わなくなるのだ。

でも戦争をやった国も損したんでしょう。なぜ戦争をやると損だとわかっていて、やったのかしら?

上の方々は下々のことなんかこれっぽっちも考えていないんですよ。あの方々ときたら大義がどうの、国家の安全保障がどうの、と口だけは達者ですがね。

いや、あの戦争は結局燃える黒い水の取り合いが原因だったんだよ。燃える水が手に入れば国は豊かになって、下々の者も楽になる、そういう気持ちがエスカレートして戦争になってしまったんだよ。それにイブン、上の者が下々のことを考えていないというけれども、下だって、国がどう動いていくかなんてこれっぽっちもかんがえていないじゃないか。

それはそうですとも。わたしらは、日々食うので精一杯。とても上の方々みたいに国全体のことを考えているヒマなんぞありませんからね。でもその国全体というのが曲者なんですよ、ギル様。上の方の国全体には、どれほど下のことが入ってるんだかね。


これは経済からは離れて、湾岸戦争の婉曲な比喩だが、文体見本としてあげておいた。こんなふうに、会話が行替えで続いていく。
アラビアの世界から日本の現実世界に戻った少女と、文化の経済学を研究しているお姉さんの会話。

でも、文化の経済学って文化のことを研究するの?

そうとは限らないわ。
たとえば長期雇用が時代遅れになりつつある社会を考えてみる。すると、雇用流動化が望ましいという議論がなされる。でも、なかなか雇用の流動化はすすまない。なぜか。その大きな理由が戦略的補完性、ないし制度的補完性に求められる。中高年が新天地を求めて探してもどこも雇ってくれない。それは、どの会社も中高年労働者の入れ替えができないからよ。なぜ入れ替えができないかと言えば、人が辞めていないからなの。なぜ人が辞めないかと言えば、他に行っても雇ってもらえないから。

みんな転職しないから、仕事に空きがでない。

仕事に空きが出ないから、だれも転職しない、というわけ。

それだけじゃないわ。行き場のない人をクビにして新しい人を雇うなんてことは会社だってしたくないから、新人の雇用を控える。そうすると、若い人たちが働きたくても働けないという状況になってしまうの。

ふうん。普通の市場の経済学との一番の違いは何?

そうねえ。一言でまとめるのは難しいけれども、最大の違いは世の中の流れ方をどう考えるかというところにあると思うの。

流れ方?

ええ。まず市場の経済学のほうを考えてみましょう。今、谷底の川を下っていくボートを考えてみる。川の流れが時の流れ、ボートが一つの経済ね。

うん。

谷底の川が1本であれば、それに沿ってボートは下っていく。曲がり角があったりして、うまく流れに乗れないこともあるし、そのせいで下る速さが遅くなったり、速くなったりすることもある。
ボートが流れをはみだしてしまってよどみで止まってしまったり、遅くなったりするのが不況と考えてみると何となくわかりやすいかしら。

うん、わかるわ。

ボートがいくつかあるときには、その速さにも差が出てくるわ。
速く下って先を進んでいるのが先進国。遅くてなかなか進めないのが開発途上国。

でも、みんな同じ谷川を進んでいるのね。

そう、周りの景色こそ場所によって違うけれどもね。

それで、文化の経済学のほうは?

ええ、やはり同じように谷川を下るボートを考えてみましょう。
でも、今度はさっきと違って谷がいりくんでいて、分かれたり、くっついたりという谷よ。

川が何本もあるのね。

そう、だからボートによって下る川も違うかもしれない。隣の流れを下っているボートが先に進んでいるからといって、その真似をしようとすれば大変な目に会うかもしれないわ。

分かれ道に来たらどうなるの?

そう、それがもうひとつのポイントよ。一人一人の力では、経済という大きなボートを山の上に持っていったりすることはできないわ。でも、分かれ道で、どちらの道を選ぶかはずっと小さい力で決まってしまうものなの。

みんなが右だと思えば右、左だと思えば左、というわけね。

そうよ。

ふうん。さっきの市場の経済学とはずいぶん違う流れ方ねえ。その流れ方の違いがわたしたちにどう関わってくるの?

文化の経済学の考え方だと、時代が大きく変わろうとするとき、モノだけではなくて人の力が大きいということになるのよ。

でも、それは市場の経済学でも同じでしょう?

人が世の中を作っているという意味ではどちらも同じよ。でも、市場の経済学によれば、人が少し変われば世の中が大きく変わる瞬間があるのよ。分かれ道でのちょっとしたボートの向きの違いが流れの選択を通じて後々変えようのない大きな違いとなって表れるようにね。

ああ、そうか。時代の流れの分かれ目を見極めることが大切というわけね。市場の経済学と文化の経済学かあ。経済学といってもいろいろあるのね。

そうなの。経済学にはいろいろな考え方があって、自分に合った方向で研究できるのもも魅力の一つよ。


ここらあたりが本書の眼目なのだろうが、やっぱりこの、女言葉のやりとりはちょっと鼻白んでしまう(^_^;)
本書には「記憶」と「忘却」を象徴するキャラクタが出て、議論を戦ったり、バベルの塔の寓話の本質を問うなど、哲学的な考察も童話的に展開されているのだが、Morris.はこういうやり方はあまり好みではなかった。
著者のHPには本書に関するコメントや反響なども引用されている。


07116

【愛国の作法】姜尚中 ★★★☆☆ 最近姜尚中の本を結構読んでいるが、本書はこれまで読んだ中で一番印象が深かった。グローバル化の逆説から説き始められる。

しきりに愛国心や国家の品位を強調する人々の中には、グローバル化を市場経済を中心とする世界の均質化とみなし、それを事実上、アメリカの帝国的な世界支配と等置する言説がみられます。しかし、それはいささか粗雑な単純化ではないでしょうか。
市場経済の新自由主義的なグローバル化は、自然な法則的傾向ではなく、明らかにひとつの政治的なプロジェクトであり、それを推進していく上で、国家の役割と機能は決定的なカギを握っているからです。現に1980年代の日米構造協議から今日の郵政民営化や規制緩和、財政赤字の削減に至るまでどれひとつとして国家(政府)の強力な介入、働きかけなくして実現されたものはありません。

こうしてみると、わたしたちはひとつの大きな逆説に気づくはずです。つまり、「市場を、市場を、もっと市場を」と叫ぶ「改革」の政治が、国家(政府)の強力な介入を通じて国民国家という制度の「軟化」を推し進め、結果として、政治や公共的なものが経済や市場に取って代わられる「政治の終焉」を手繰り寄せつつあるからです。そこには、強力な「改革」の政治が、グローバル化を進めれば進めるほど、国民国家の政治の「墓掘り人」になっていくという皮肉な構図が浮かび上がってきます。

つまりグローバル化というのは諸刃の剣の危険さを併せ持っているわけで、現代日本の不安な状況の大部分がこのグローバル化の副作用というべきなのか。


もし朝鮮戦争で北朝鮮が圧倒し、軍事境界線が38度線でなく釜山で引かれていたなら、日本は東西両陣営が対峙する最前線と位置づけられ、とうの昔に憲法9条は破棄され、旧西ドイツのように再軍備し、あるいは韓国のような軍政が敷かれていたかもしれません。実際には戦後60年のあいだ、この東アジア地域で日本だけが唯一、一貫して平和と民主主義と繁栄を謳歌してきました。

これは妥当な意見だろう。朝鮮半島の両断を一種の保険として繁栄した日本、そして、それを陰に日向に操作してきたアメリカ帝国主義(^_^;)

「国家とは、ある一定の領域の内部で−−この『領域』という点が特徴なのだが−−正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」マックス・ウェーバー

権力のいかなる減退も暴力への公然の誘いであることは、われわれは知っているし、知っているべきである−−それがたとえ、政府であれ、被治者であれ、権力をもっていてその権力が自分の手から滑り落ちていくのを感じる者は、権力の代わりに暴力を用いたくなる誘惑に負けないのは困難であるのは昔からわかっているという理由だけからだとしても。(ハンナ・アーレント「暴力について」)

これらの定義の引用は、確かに筆者の視点の確かさを裏打ちするものと思うが、

例えば、ベストセラーになった『国家の品格』の著者などは、しきりに「論理」と「情緒」を対比させ、「論理」の欠陥を指摘して日本的な「情緒」の復権を説いています。この筆者にとって、愛国心は、論理的な思考や反省の問題ではなく、感受性や「もののあわれ」の発露として無条件に受け入れられるべきものなのでしょう。

まずベストセラーは読まないMorris.なので、こういった筆法には困ってしまう。引用元の個人名を明記しないというのは、姜尚中の悪癖だと思う。
ネットで調べたら「国家の品格」の著者は藤原正彦という数学者で、新田次郎と藤原ていの息子らしい。内容は近代武士道を称揚するトンデモ本のようだが、もちろん読む気にはなれない。

200p程度の本書を読むのになかなか梃子摺ってしまった。結局完全な理解とは程遠いとしかいいようがない。あとがきの一部を引用して逃げておこう(^_^;)

今や「愛国」や「国を愛すること」は、メディアを通じて誰でも使える共通通貨になり、若者たちを結びつける生きた靭帯に様変わりしつつあります。もはやそこには、禍々しさや影は見られません。むしろ都会的な明るい軽やかさすら漂っています。
そんな表層的な「愛国」の空気が広がる中、もはや「愛国」をただ避けているだけでは済まなくなりました。本書ではそんな時代の変化に対するわたしなりの取り組みを述べてみたかったのです。
それでは今日、「愛国」とはどんなスタンスを意味しているのでしょうか。やや図式的に言えば、地域=郷土(パトリア)の再生とアジアとの結びつきこそ、「愛国」の目指すべき理想なのではないでしょうか。「愛国」が本来、「パトリア(郷土)」への愛に他ならないとすれば、凄まじい勢いで荒廃の一途を辿りつつある地域の再生こそ、まず「愛国」が取り組むべき課題に違いありません。


本書は朝日選書の第一冊目ということになっている。2006年10月発行だから、新書のなかでもかなり新参であることは間違いないが、いちおう注目に値するかもしれない。


07115

【二階屋の売春婦 末永史劇画集】末永史 ★★★ おお、懐かしい、というより、何で今頃こんなのが、とびっくりしてしまった。彼女の漫画はMorris.の小倉での学生時代と重なる。特に入れ込んだ漫画家ではないが、同級の福田君がかなり肩入れしてたように覚えている。
本書には1971年の「いつから棄てたの」から1987年の「ボロフスキーの一日」まで21編が収められている。絵柄は安部慎一やつげ義春系といえば聞こえが好いが、要するに暗いださい下手系ともいう(^_^;)。ただ彼女の描く女性(主に娼婦)の顔顔にはどこか惹かれるものがあった。丸顔三白眼、眼の下の隈、だるそうな動きとだらしない肉体、そんなのが、当時の学生運動衰退期のアンニュイな気分にマッチしていたのだろう。
今回読み返して、というか初めて読んだ作品の方が多かったが、見るべきは72年と73年の作に尽きる。Morris.もほとんどこの時期の作品しかしらない。傑作もこの時期に集中している。「津軽温泉郷」「飛バナイ女」「スナックガール」「HOUSE」そして就中本書の表題にも使われている「二階屋の売春婦」に止めを刺すね。冒頭のタイトル画だけで決まり!!である。今回読み直してもほとんど細部まで鮮明に覚えていたことに自分でも驚いた。あの絵にこの台詞である。漫画の台詞だけを引用するのは片手落ちどころか、暴挙であることを承知の上で、この作品の台詞(男女二人の会話)を全引用しておく。

末永史「二階屋の売春婦」タイトル画「いくらでもいいよ
ただはだめさ 前払いだよ」
「甘栗一袋でいいですか?」
「二階に来る?
こわいんでしょ」
「こわかないけど…」
「ね ここの二階からは外が見えるんだ
一階からは壁だけなのに
きれいな建物だろ?
不思議だね あれ」
「あれはホテルだよ」
「へーー そーなの
泊ってみたいもんだなーー」
「泊れるよ すぐそこだもの
いま行こうか?」
「いいんだよ
やっぱ あたしは ここでこうしてなくっちゃ
外へ出ちゃだめなのよ」
「つまんないだろう?」
「色んな人がきた
部屋に入ってくる人の
顔見るでしょう
もうパッとわかっちゃうね
どうしてきたのか あんたも 誰でも」
「どういうこと?」
「たとえばあんたが
さっきまで 泣いてたこと
誰かと別れてきたこと」
「どうでもいいことなんだ」
「あたしとっても嬉しくって
しゃべり過ぎてるのよ
最近ずーっと 独りだった」
「繁盛してないの?」
「誰もこないよ
いまどきこんな商売なんて無用なんだ」
「ボクは今年に入って
何人目ぐらいの お客ですか?」
「初めて
あのビルが 建ち始めた頃から
客足が減っちゃって…………」
「逃げれば?」
「逃げてどうするの?
死んじゃうよ あたしには これしかできない」
「やさしいんだね」
「あんたが やさしいのよ」
「別かれた人は どうしたの?」
「不思議だな
こうしてるとかなり気が楽なんだ
ボクは何も無い人間だからね
それでふられたんだよ きっと」
「いいじゃない
ひとよりものが大事になったら
恋はできないよ」
「ボクはまたここにこられるかな?」
「わかんない−
でもあたしは ずーっと ここにいるよ」
「あなたの名前を 教えて欲しいけど−−−」
「もし また 会えたら−
そのときに きっと教えるね
さ・よ・な・ら」


これらの台詞のほとんどの部分が二人の性行為の間に行われていることをいちおう注記しておく(^_^;)。
彼女はいわゆる「消えた漫画家」の一人とも言えるだろうが、去年「かあさんがボケた?」という本を読んで、あの末永史が??と驚いたことも思い出した。
http://www.orcaland.gr.jp/~morris/book/2006book.htm#06059


07114

【夜露死苦現代詩】都築響一 ★★★☆☆ 落書き、人生訓、遺書、歌詞、ネット書き込み、ラップ、クイズ、口上など、世間に投げ出されているさまざまの言葉の中から、「詩」を掘り出して開陳したもの。筆者は若者の住処を撮りまくった「TOKYO STYLE」の作者で、「POPYE」「BRUTUS」の編集出身ということで、実に視点がユニークで手際がいい。
ワープロの誤変換「今年から貝が胃に棲み始めました」「500円で親使わないと」「大腿骨がつかめると思います」「洗濯物と離婚できました」「店頭無視の産婆」「もう幸せ事項」などは、漢検の「変換ミスコンテスト」でもおなじみだったが、「いややっ中年」「何言う天然」などは、Morris.日記の、今月の標語に通ずるものがある。
痴呆症老人介護士のメモによる語録や、知覚障害者の詩、飢餓死老婆の遺書など凄みがあるものも多かったが、Morris.は32種類も歌詞があるという「夢は夜開く」の誕生秘話が面白かった。
この歌の作曲家祖根幸明は昭和10年東京生まれで、終戦後習志野で愚連隊やっててネリ鑑に収容され、そこで手慰みに作った「ひとりぼっちの唄」が「夢は夜ひらく」の原曲である。出所後藤田功の芸名で歌手になったが、落ち目になり、昭和40年再起を期して吹き込んだのがこの「ひとりぼっちの唄」だったが、特に売れなかった。

お前のかァさん 何処に居る。
いいや おいらは ひとりぼっち
冷たい雪の 降る夜に
さびしく死んでった(ひとりぼっちの唄)


最初にヒットしたのは昭和41年(1966)の園まり版だが、多くの人にとって、この歌が心に刻み込まれたのは70年の藤圭子による「圭子の夢は夜ひらく」だった。
緑川アコ、三上寛、バーブ佐竹、水原弘、八代亜紀、ちあきなおみ、梶芽衣子、藤竜也、五木ひろし、細川たかし、牧村三枝子、香西かおり……多くの歌手たちが、それぞれの「夢は夜ひらく」を唄うようになった。他人のヒット曲をカバーしたのではない。メロディだけはいっしょだが、歌詞はすべて異なる。今回、日本著作権協会に確認したら、歌詞の異なる「夢は夜ひらく」がなんと32曲もあった。たとえば緑川アコ版の「夢は夜ひらく」は美川憲一や黒沢明とロスプリモスも唄っているというように、同一歌詞を複数の歌手が唄っているケースを含めれば、現在40人の歌手による登録がある。世にスタンダードと呼ばれる歌曲は多いけれど、ひとつの曲でこれだけ異なる歌詞を持つ曲というのは、世界的に見ても稀なのではないだろうか。

本書に収録されている13種類の歌詞の一番の歌詞だけをいくつか引用しておく。

雨が降るから 逢えないの
来ないあなたは 野暮な人
濡れてみたいわ 二人なら
夢は夜ひらく(園まり歌 中村泰司/富田清吾詞)

赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく(藤圭子歌 石坂まさを詞)

いのち限りの 恋をした
たまらないほど 好きなのに
たった一言 いえなくて
夢は夜ひらく(緑川アコ歌 水島哲詞)

雨が降ったら 逢いたいの
風が吹いても 逢いたいの
バカな女と 言わないで
夢は夜ひらく(バーブ佐竹歌 藤間哲郎詞)

何に追われて 生き急ぎ
心休まる 暇もなく
三十三は恥の数
夢は夜ひらく(藤竜也歌 小谷夏詞)

右へ曲がれと いう道を
左へ曲がって なぜ悪い
開きなおって 日が暮れて
夢は夜ひらく(香西かおり歌 市川睦月詞)

泣くために生まれて きたような
こんな浮世に 未練など
これっぽっちも ないくせに
夢は夜ひらく(梶芽衣子歌 吉田旺詞)

恋の遊びの 夜が明けて
白い車は消えたけど
消えぬあなたの おもかげに
夢は夜ひらく(ちあきなおみ歌 西沢爽詞)

十五、十六、二十と
わしらの点数ひくかった
テストどんなに悪くとも
みんなよく学べ(三波伸介とてんぷくトリオ歌 長谷邦夫詞)

雲よ流れて どこへ行く
人は流れて どこへ行く
片道切符の 人生歌(たびうた)に
…夢は夜ひらく(あさみちゆき歌 吉田旺詞)

七に二を足しゃ 九になるが
九になりゃまだまだいいほうで
四に四を足しても 苦になって
夢は夜ひらく(三上寛歌、詞)


園まり、藤圭子、三上寛がベスト3だろう。Morris.としては、あの時期にぜひ浅川マキ版「夢夜」を出してもらいたかったな(^_^;)


07113

【受命 Calling】帚木蓬生 ★★★ 日系ブラジル人の産婦人科医ということもあって、筆者お得意の医学ものかと思ったのだが、彼が平壌の産院に招請されて、さらに彼の知り合い女性二人が別行動で北朝鮮に入国し、それぞれの思惑と別に、金正日暗殺計画に加担するという、大変な作品だった。
驚いたのは、北朝鮮国内の諸事情がいやにリアルなことだ。平壌の町の光景や個々の建物の描写くらいなら、類書を参考にできるだろうが、地方の状況や、帰還事業で日本から入国した在日の動向、万景峰号の内部など、筆者自身の取材とは思えない。しかし巻末には参考書籍の紹介がないし、御馴染みの「本書はフィクションです。したがって登場する国家、組織、人物等は、すべて架空のものです」という断り書きがしらじらしく見える。
金正日の暗殺計画というものがあまりに杜撰で、現実味がないのと、携帯電話使ったり、鉱石ラジオで仲間の放送を受信したりするという無茶あり、それらを前提にしたあまりにご都合主義なストーリー展開には鼻白むしかないし、「しばたく」「中味」といった誤用もめだち、てにをはの間違いも散見する。特に二人のヒロインの名前が間違って使われてる部分(189p)などは噴飯ものである。
北朝鮮のヒット曲「フィパラム 口笛」が出てきたり、下がかった歌詞の「餅つき打令」が2度にわたって繰り返されるのも、サービスのつもりかもしれないが、物語の緊張感を損なわせている。
北朝鮮の飢餓状態が田舎、特に北部の思想犯収容所を中心に広がり、これを政府が針小棒大に宣伝して、世界からの援助を仰いでいるという図式的な説明や、金正日個人を倒せばこの国は新生できるという、あまりに単純な考え方にはついていけないところがある。
悪口ばかり書いてしまったが、朝鮮半島に関心あるMorris.としては、それなりに興味深く読み終えた。
まったく本筋とは関係ないが、登場人物の一人が、死ぬ前に食べたいと挙げていた田舎料理「オイソン」というのが美味しそうだった。作り方も書いてあったので、機会があればトライして見よう(^_^;)

「父が好きで、何か祝い事があると、自分でつくっていました」玄相馬は自分でも唾をのみ込んで続ける。「キュウリを半分に断って、3センチ幅に切り、真中にも切れ目を入れます。それを塩水に20分漬けて引き上げ、水切りをします。切れ目に詰め込む具は、戻した干しシイタケのみじん切りと牛挽き肉を炒めたものです。すりおろしたニンニクと醤油でもう一度炒り煮し冷やします。それを詰め終わったら、酢と砂糖を水で薄くといた汁の中に1時間漬け込みます。あとは取り出して白い皿に盛るだけです。キュウリの緑が美しく、味もさっぱりしていて、ビールや焼酎の肴にはもってこいです」


07112

【親日宣言】チョヨンナム 萩原恵訳 ★★ タイトルに「殴り殺される覚悟で書いた」というあおり文句がかぶせてある。
チョヨンナムといえば、韓国の中堅歌手で、TV番組も持ってるくらいの有名人である。彼のオリジナル「ファゲチャント 花開市場」はMorris.の十八番、7年前の大阪ABCホールでのノレチャランでMorris.が歌ったくらいのものである。いや、その数年前、民団の催しで彼のステージを見たこともある。そんな彼が数年前韓国芸能界で「親日派バッシング」受けてるというニュースを見た覚えがあるから、きっと本書の発行が原因だったのかもしれない。
韓国での発行が2004年、邦訳は2006年となっているから、ニュースもそのころだったのだろう。
韓国で「親日派 チニルパ」ということばは、「売国奴」と同義語である。日本語で「親日家」と使うのとはまるで違っていることをきちんと理解していなければ本書のタイトルの過激さはわからない。
しかし、一読して、本書は「看板に偽りあり」としか思えなかった。
第一、内容がまったく首尾一貫していない。文章がわかりにくい。本当に日本のことを知ろうという気がなさそうだ。国際交流基金が韓流ブームで彼を日本に招待するということがあり、そのときの応対や、日本での感想めいたことを、思いつくままに書き散らしたというたぐいのもので、それもあまりにも皮相的観察に終始しているようだ。

僑胞と同胞がどう違うのかは今でもわからない。とにかくアメリカの僑胞は何かにつけ私を呼んでくれるばかりか、カーネギー・ホールでコンサートをさせてくれたりもするが、それに比べて在日同胞は私を呼ぶといっても8月15日の光復節記念コンサートに呼ぶくらいが関の山だった。それも年にたった一度の光復節コンサートは、入場無料のコンサートなので場末の市場みたいな雰囲気に流れてしまいがちだった。
にもかかわらず私が日本に行くのは別の腹があったからだ。コンサートが終わると主催者側が日本にある韓国クラブに連れていってくれて一席設けるのがお定まりのコースで、そこで酒を酌み交わしつつ一晩すごすのが何よりも心地よく楽しかったのだ。


この程度の「親日度」だった彼が、2002年の日韓ワールドカップの時、日本が決勝戦から脱落した後で、韓国チームを応援してる日本人を見て「親日派」宣言をしたという。

韓国に戻って日本で見聞きしたことを日刊紙の連載コラムに書いているうちに、行きがかり上新日派の一員になったと告白するに至った。そんなドン・キホーテみたいなことを言って問題にでもならないかと思ったが、何事もないから「ふう! どうやら親日派という激流の河をわたったようだ」と自ら判定を下してしまった。

だいたいが、こんな次元の発言だから、真剣に読もうとしたこちらが間違っていたのかもしれない。文章の下手さは、訳者に原因があるのかもしれない。


07111

【在日二つの「祖国」への思い】姜尚中 ★★★☆☆ 講談社α新書の一冊で、自伝「在日」のすぐ後にだされたもので、続編&補遺みたいなもので自伝とかぶる部分も多かったが、こちらの方が、客観的で彼の朝鮮半島と日本への視点がわかりやすかった。
62回目の8月15日を直前にしたこの時期にこれを読んで良かったと思う。もっとも朝鮮人にとってこの8月15日とそれ以降の歴史は、まさに「恨」の歴史に他なるまい。

朝鮮戦争は東北アジアの全域に影響を及ぼし、冷戦の構造を決定的に固定化することになった。その結果、植民地支配や「十五年戦争」の過去の清算は、忘却の彼方に消えうせていくことになったのである。冷戦は、過去を破壊し、東北アジア地域の諸国民を引き裂き、イデオロギー的な敵対関係の坩堝の中に投げ込んだのだ。それは過去の「克服」による新たな関係の模索を閉ざしてしまったのである。
代わって米国の冷戦戦略のもと、旧宗主国(日本)と分断された旧植民地(韓国)は、米国を媒介に東北アジアの冷戦構造の中に組み込まれることになる。
日韓条約は、そのような背景のもとで成立したのである。
それは、目前の敵対的な共産国家(北朝鮮と中国)を封じ込めるための冷戦戦略の一環をなしていた。そして日韓の間に相互不信を抱えながらも、米・日・韓のトライアングルは、南北関係をさらに引き裂き、日朝間の正常化をより遠ざけてしまうことになった。

朝鮮戦争が米ソの代理戦争だったとは、よく言われることだが、それだけではないよな。
また、1959年から始まった在日韓国/朝鮮人の「北朝鮮帰還事業」への分析には見るべきものがある。

朝鮮戦争の壊滅的な打撃から急速に復興しつつある新興の社会主義国家、北朝鮮の清新なイメージが、その実態とは別に広まっていったのである。
在日韓国/朝鮮人に目を向けてみると、「南」(韓国)出身の在日韓国/朝鮮人が、「未知の北」へとあえて「帰還」しようとしたのは、胸中に広がる「祖国」への強烈な思い入れがあったからである。
困窮と差別、失業と蔑視、将来への不安と二世たちへの配慮、そして何よりも「祖国」で働けるとう喜びなど、在日韓国・朝鮮人に去来していたのは、むしろ、疼くような「祖国」願望だったのではないか。


そうだよな、そもそも在日の大部分は半島南部出身者だったから、本来なら故郷である南部(韓国)に帰国できてたら、悲劇は起こらなかったはずだ。ところがあの頃日本では、朴正熙独裁体制の韓国へのバッシングは想像を絶するくらい強かったし、マスコミも、日本政府も、もちろん北朝鮮も、「この世の楽園」みたいなイメージで在日を北朝鮮に向かわせたのだ。今となっては何であんな猿芝居に乗せられたのかと唖然とするが、そのときはきっと誰もがそれを信じる「空気」だったんだろう。

姜尚中の「東北アジア共同の家」(日本、中国、南北朝鮮、ロシア共同体)という考えはひとつの可能性とは思うが、Morris.はどうもひっかかるところがある。それでも、確かに今現在彼の存在と視座は貴重なものと思う。
本書の巻末付録の「日朝百年の歴史年表」は簡潔(過ぎる?)で見やすいのだが、在日在日人口の変移や南北交流の統計表は、それはないだろうというくらいにひどい。これはあっさり折れ線グラフか棒グラフにすべきだったと思う。たしか以前もこの手のひどいのを見た覚えがある。


07110

【在日】姜尚中 ★★★☆☆ 著者の自伝である。日本と朝鮮半島の近現代史を縦糸に、極私的な内容を横糸にした、在日二世の伝記だが、この前読んだ「ニッポンサバイバル」に比べるとずいぶん読みでがあった。

著名なハンガリー生まれのある哲学者は、近代のドイツでは政治の貧困が哲学の豊穣をもたらしたといったことを述べているが、この指摘は示唆的である。ドイツでは、近代に入って実際の政治の世界の中で市民革命が達成できかったために、観念の世界の中で「革命」成し遂げたというのである。日本の場合、その哲学にあたるのは文学ではないかと考えたのだ。これは、わたしの単なる思いつきかもしれないが、まんざら的外れではにのではないか。
しかも、日本の場合、文学のメインストリームは、美や情の世界だから、結局、政治の美学化が起きたり、政治の世界の中で美や情にまつわるような言葉が幅を利かすことになるのではないかと思ったtのである。そして逆に政治とはまったく絶縁しているようにみえる情や美意識が、突然「政治化」し、雪崩を打って「オール政治」に豹変することにもなるのではないか。わたしは日本のナショナリズムのことを考えるとき、いつもこの政治と文学の離反と接合の複雑な関係が念頭に浮かぶのだ。


こういった部分にも目を引かれたのだが、たのむから人の意見を引用したり紹介したりするときにはきちんと名前を書いておいてもらいたい。書いた本人には自明のことだろうが、読者の中には知らない者も多いはずだ。内容としては見るべきものがあるだけにこういった癖は直してもらいたい。
また、ゴルバチョフ登場のことを書いた部分で、

起死回生のように弱冠五十四歳のゴルビーが、朽ちかけた巨大な「ソビエト帝国」の改革に乗り出したのだ。

と書いている。いくらなんでも54歳を「弱冠」というのは無理があるんじゃないかい(^_^;)


07109

【ニッポン・サバイバル】姜尚中 ★★★ 在日の気鋭の学者という評判が気になりながらなかなか読まずにいた姜尚中ということで手に取ったのだが、「不確かな時代を生き抜く10のヒント」という副題を見るとイージーなノウハウ本のようだ。そして内容的にもいかにもそんな感じだった。先に「気鋭の学者」と書いたが、1950年生まれとあったので、ほとんどMorris.と同世代だった。もともと集英社の女性誌のウェブサイトにアップされたものを新書にまとめたものということで、最近よくあるパタンだが、総じてこの手の本は気が抜けたビールのようなものが多い。本書も例外ではなかった。
意見としては賛同できる部分や、なるほどという教示もあるのだが語り口があまりにも「かったるい」のだ。

今、日本社会で起きている格差現象は、バブル時代とも、また違う次元のものだと思っています。バブル期にもある程度の差はありましたが、地方交付税といった形で、ある種の富の再配分がなされていました。平均的に潤い、みんなが中流意識を持ち得た。そういう社会だったと思います。しかし現在は、勝ち組と負け組の格差が歴然と表れるようになりました。
このような格差が生まれたのは、新自由主義(ノリベラリズム)という思想の影響が大きいでしょう。新自由主義とは経済的な自由競争を絶対視した市場至上主義で、規制を緩和することで、結果の平等より機会の平等を目指すという考え方です。80年代イギリスのサッチャー政権で政策として取り入れられて以来、今や世界中を席巻しています。
新自由主義は、国家の役割を縮小し、民間による効率やサービスの向上を目指すという点ではたしかに能率的です。しかし所得再配分のメカニズムを断ち切って、自由競争させることで、結果的に勝者と敗者を生み出してしまう。しかもそれはすべて自己責任であるとする弱肉強食の厳しい社会です。
とくに小泉政権になって、それが強く推し進められました。自己責任という名のもとに医療保険の負担は増え、労働市場の自由化という名のもとに、非正規雇用者、派遣労働者が主流になってしまった。その一方で、超安定的な大企業のごくごく一部の人たちだけが右肩上がりに所得を伸ばし、そうした勝ち組に対しては、国はどんどん障害を少なくして優遇することになりました。負け組はそのおこぼれにあずかって生きるしかないわけです。
今まで日本は”一億総中流社会”なんていわれてきたけれど、このままアメリカ型の市場原理主義でいけば、富裕層と低所得者層の二極化がさらに進んでいくことになるでしょう。
つまり、新自由主義が支配する社会では、まず、お金を持っている人が勝ちなのです。ヘンにオブラートに包んで、「そんなことはない」「いくらお金があっても人はしあわせになれない」という人がいますが、現実的には、お金がものをいう社会になってしまっているのです。


言ってることは大筋で間違ってないみたいだし、噛んで含めるような語りぶりで、わかりやすいのだけど、このだらだらした文体にはいらいらさせられる。そして、この解決指針が

不幸になる人は、不幸になるだけの理由がある。自己責任というわけです。いちいちそれに構ってはいられない、こんなムードが支配的です。このムードを変えていくには、個人の幸せの中に逃げ込むのでなく、もっと広い世界を見据え、横のつながりを求めていくことが必要です。そして分断から連帯へと、絆を深めていくしかありません。

というのでは、何だかなあ、としかいいようがない。
TVニュースのワイドショー化に関する意見には見るべきところがあった。

ワイドショーというのは、ある"翻訳機能”を果たしているのだと思います。翻訳という意味は正確に意味を伝える、ということだけでなく、歪曲して伝えるという、ある種否定的な側面も含めてです。そうすることで、ある出来事を多くの人にとって受け入れやすく、より日常的なものにする、そういう機能を果たしているのが、ワイドショーだと思います。
ワイドショーには、作り手と受け手の間に、ある種、共犯関係があるのだと思う。作り手は視聴者の意に沿って、悪者は悪者らしく扱います。それで受け手は納得するわけです。そうすることで、お互いに安心して日常性を再生できる、という仕組みです。


これはMorris.も以前から同じような思いを持っていた。これ以外にもニュースに犯罪事件の割合が多すぎるという指摘や、電波メディアの保守性への疑念などには共感を覚えた。


07108

【日本の仏像誕生!】芸術新潮2006年11月号 ★★★★ 半年以上もこんな特集があったとはうかつにも知らなかった。ほぼ100pの特集でその2/3近くがカラー写真だから、本文は30pちょっとということになる。
それでも、この特集はこれまで10冊以上は読んでる仏像関連本を凌駕するくらいMorris.には感動的だった。もともと、06年10月3日から12月3日まで東京国立博物館で開催された特別展「仏像 一木にこめられた祈り」に合わせての特集規格らしく、本文もどう博物館の金子啓明、岩佐光晴の二人が担当している。
日本の仏像の始めから江戸時代の円空、木喰までを、木彫仏像を中心としながら、初期の金銅仏、塑像、乾漆像から説き起こし、木彫佛、一木彫り、寄木、鉈彫と、簡潔にして的確な解説が施されているし、本誌編集部と解説二人のQ&A形式の説明もポイントを押さえて明解だった。
そして、何よりも名品そろいの仏像のカラー写真の素晴らしさは、筆舌に尽くしがたい(^_^;)。本誌に掲載された木彫像の大部分が先の特別展に集められたとの事で、これは何をおいても上京すべきだったと、臍を噛んでも、後の祭りである(>_<)
名品の大部分は奈良・京都を中心に関西に集中しているから、ぼちぼち拝観行脚すればよいのだろうが、なかなか思うに任せないだろう。
滋賀・向源寺の渡岸寺観音堂の十一面観音菩薩だけは、拝まずに死ねるか、という思いをいよいよ強くした。

金子 近江は比叡山延暦寺のお膝元のイメージが強いですが、じつのところ近江が天台化されるのは10世紀になってからで、それ以前は法相宗の力が強かった。とくに湖北にあって山岳信仰の中心となった己高山周辺には、興福寺系の寺院が複数いとなまれ、奈良の文化が直接に及んでいたんです。
岩佐 湖北・高月町の向源寺の飛び地境内にある観音堂の「十一面観音菩薩立像」は、わが国の十一面観音菩薩像の白眉ともいうべき像ですが、従来はもっぱら、数少ない初期天台宗の仏像の遺品とされてきました。なるほど図像的には第3代天台座主・円仁との関連も考えられなくはないのですが、造形の質という点からするとどうでしょうか。腰をひねって立つ柔軟な肢体、胸や腹のやわらかな肉どり、身体に密着した薄手の裙(こしまき)や蓮内に垂れてたわんだ天衣などの特徴は円仁が活躍した9世紀半ばというよりはむしろ8世紀の天平彫刻を思わせ、さらにその規範となった初唐から盛唐にかけての彫刻に通じるものです。案外、比叡山ではなく、奈良とのつながりのなかでつくられた像なのかもしれません。


あの観音像が天平仏の流れをくむというのは、大胆にして実にしっくりくる仮説であるな。この像の見開き2pのカラー図版のキャッチコピー「ベスト・イレブン、湖北にあり」には、思わず笑ってしまった。本特集のキャプションやコピーには結構このての遊びがある。
また、円空のいくつかの作品も心に沁みた。

岩佐 円空は30歳30歳をすぎるころから彫刻を手がけはじめ、当初はふつうの丸彫りに近いタイプの像もつくっていたのですが、ある時期以降、材を割ることを強く意識するようになります。割ることによって出てくる断面の力強さを、像にうまくとりいれるんdねすね。円空はまず丸太をふたつに割って中尊をつくり、のこり半分をさらにニ分割して脇侍をつくる、というやり方をとくいにしていました。岐阜県関市の高賀神社につたわる「十一面観音菩薩立像」「善女龍王立像」「善財童子立像」は、kの手法をアレンジしてつくられており、三者を内向きに合体させると、もとの丸太を復元することができます。
金子 日光市の清瀧寺の「不動明王立像」では、ナタで材を割った時にたまたまできたかたちを、そのまま火焔光背に見たてています。円空にはその種の偶然を生かす即興性のようなものが多分にあって、人前で仏像をつくるパフォーマンスもしたかもしれません。まさに木から仏があらわれる瞬間を人に見せるわけです。
金子 木っ端に類する余材まで、できるだけつかいきろうとする意識が円空にはありました。木の中に仏がいる以上、木っ端だって粗末にはできないということでしょうね。これは古代人の木に対する思いにも通じます。『日本霊異記』に、こどもが真似事でつくった木仏を馬鹿にしてこわした男が、仏罰をこうむってたちまち死んでしまう話があります。木にひとたび仏を刻めば、どんな素朴な像であれ仏の霊がやどるのだということですね。木っ端から仏をつくる円空には『日本霊異記』に見られる古代人のDNAを感じないではいられません。


07107

【福沢諭吉は謎だらけ。】清水義範 ★★★☆ 「心訓小説」と副題がある。世に「福沢心訓」という七か条の教訓が流布している。

心訓
一、世の中で一番楽しく立派な事は、
   一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、
   人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、
   する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、
   他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、
   人の為に奉仕して決して恩に着せない事です。
一、世の中で一番美しい事は、
   全ての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、
   うそをつく事です。


実はこれは福沢諭吉が作ったものでないことは、慶応義塾が明言しているくらいに明らかなのだが、この心訓をネタに半ば私小説的に仕上げた作である。
作者自身をモデルにした小説家が、最初にこの心訓を見ての感想。

平明に語った教訓だなあ、というのが私の受けた第一印象だった。そして、なかなかいいところを衝いている、と思った。いかにも、これを人生訓にしよう、と思う人が多くいそうな、素朴なありがたさが感じられる。人を愛する心や、奉仕する心を説くところなど、今日的でもある。
だがしかしこの時点では、私は福沢諭吉の著作をそう読んだことがなかったので、あの人らしい、という感想にはならなかった。
なんだか真面目な人が喜びそうな教訓で、これがやけにツボにはまる人っているんだろうな、と思っただけだ。

まあここらあたりが妥当な感想だろう。
本書では、福沢心訓以外の、さまざまな教訓を引用している。「つもりちがい十ヶ条」「伊達政宗五常訓」「親父の小言」「日常の五心」「ならぬもの十訓」「心戒十訓」……etc.、その中に黒田如水作と擬せられている「水五訓」もあり、これについては高島俊男の「新・お言葉ですが」で、取り上げられている。
http://web.soshisha.com/archives/word/2007_0419.php
こちらは中国文学に造詣の深い高島らしい論理展開がなされていて面白かった。
清水の小説では福沢心訓は、大分県の教育者(社会科の先生)が、戦後、それも昭和25年2月頃作ったのではないかと大胆に推理している。もっともその根拠はこの年の2月3日が福沢の五十回忌だったというのは、ややこじつけに過ぎるようだ。
本書のストーリーでは福沢心訓を生活の信条とした男がボケて息子夫婦がそれを解決しようと努力する場面がもうひとつの主題になっている。最近の清水の教育問題提起の諸作と並行して、老人問題、ボケ問題への提議も行うなど、社会批評家傾向がこれを書かせたのかもしれない。
財団法人ぼけ予防協会が発表した「ぼけ予防10ヵ条」もメモしておこう。Morris.にも裨益するところ大いにありそうである(^_^;)

ぼけ予防10ヵ条
一、塩分と動物性脂肪を控えたバランスの良い食事を
一、適度に運動を行い足腰を丈夫に
一、深酒とタバコはやめて規則正しい生活を
一、生活習慣病(高血圧、肥満など)の予防・早期発見・治療を
一、転倒に気をつけよう 頭の打撲はぼけ招く
一、興味と好奇心をもつように
一、考えをまとめて表現する習慣を
一、こまやかな気配りをしたよい付き合いを
一、いつも若々しくおしゃれ心を忘れずに
一、くよくよしないで明るい気分で生活を


07106

【河畔に標なく】船戸与一 ★★☆☆ 2004年から05年にかけて「小説すばる」に連載されたもので、ビルマ北部カチン州を舞台に、ビルマにホテルを建てようとする日本人、ビルマ民主化闘争運動活動家、バモー刑務所副所長、犯罪組織所属の中国人、妻と姦通相手を殺したバモーの家具商、カチン独立軍、カチン新民主軍、ナガ民族社会主義評議会軍等など、国籍、民族が違う多数の登場人物が阿片取引の200万ドルを目当てに追いかけごっこをするという分かりやすそうなストーリーなのだが、ビルマ人の名前というのが馴染みがないこともあって、どうにも読み進めるのに難儀してしまった。Morris.の苦手な、複数登場人物の場面が入れ替わる形式というのも読みにくい一因だった。
船戸の海外事情通ぶりはこれまでも感心してきたが、本作でもほとんど未知のビルマの政治状況が分かりやすく説明されている部分は実に裨益するところ大きいと思ったのだが、肝心のストーリーは、まるであらすじ読まされてる感じだった。登場人物が多いのはともかく、人物描写があまりに粗い。日本人を始め登場人物が煙草を吸う場面がしつこく出てくるくせに、煙草の銘柄すら書いてない。このところチャンドラを読んでるので、ここらあたりはいかにも手抜きに見えてしまう。
また登場人物たちが未開の森林の中で驚くほど同じ経路を通ったり、タイミングや、出会いがあまりにご都合主義というのも気になったし、重要そうな登場人物があまりにあっさりと殺されたり、結末も何かあっけないような、それはないよなという感じだった。
8章に分かれていてそれぞれの標題を繋げると詩の一節みたいになるあたりが船戸のサービスかもしれない。

陽がイラワジに沈み
黒い鳥が飛び立った
山蛭の森のなかへ
殺戮の街から
山肌を七人が這い
脱落と訣別と
硝煙、森に流れる
標なき河畔


こうやって書き写すとそれほど繋がってもいないな(^_^;)
傑作「砂のクロニクル」「蝦夷地別件」のような、息もつがせず読ませる作品を望むのはもう無理なのだろうか。


07105

【双六で東海道】丸谷才一 ★★★☆ 2005年から06年にかけて「オール読物」に連載された16編が収められている。80歳前後の時期の作ということになる。いい歳である。そして丸谷の好奇心と博識と古今東西にわたる渉猟範囲の広さと按配の妙はますます円熟味を増している。老いてますます盛んというしかない。ボケ老人の対極にあるこういった人には適う限り長生きして、書き続けてもらいたいものである。
たとえば、四字熟語の話題

わたしはこれについて、いささかうるさい立場を取つてゐて、四字とも音で読むのでなければ四字熟語と言へないと考へてます。訓読が一字でもはいつたらだめ。四字熟語としての威厳に欠ける。

ところが、さらに後のほうに高島俊男の「お言葉ですが」に関する文章があり、高島の「岩波四字熟語辞典」についての一文を引いている。

岩波もとうとうこういうものを作るようになったか、と長嘆息いたしました。
出来がわるいというのみではない。もともと四字熟語辞典というのが、学術的な意義も価値もないものである。上質の四重熟語辞典、というものはあり得ないだろう。ただ、簡単に作れてよく売れるらしいからネコもシャクシも参入してもうけを図る。そういう荒かせぎの場に岩波も加わるようになったか、という慨嘆もあります。

ははは(^_^) これで決まりだね。Morris.も漢字は嫌いではなかったが、どうもこの四字熟語というのにはなんとなく胡散臭さを感じてたけど、これだけはっきりした正当な意見は嬉しかった。
ところで、丸谷は高島俊男の「水滸伝の世界」の絶賛書評を書いたあと、講談社現代新書の「中国の大盗賊」を出すきっかけを作ったらしい。この二人にそんな関係があるとは知らなかった。

何かを忘れて思ひ出せない。もどかしい。その感覚を日本語では「のどまで出かかかってゐる」と言ひますね。これを英語では"on the tip of one's tongue"(舌の先に引つかかつてゐる)と言ふ。まさしく東西軌を一にしてゐます。
そして英米の心理学ではこの成句を受けて、思ひ出せない状態をTOT state(TOT現象)と呼ぶ。

関容子さんは堀口大学、中村勘三郎、中村歌右衛門などについての本を書いた人だけれど、老人に対するインタヴューのコツは、人名が思ひ出せなくて困つてゐるときは早く助太刀することださうである。でないと、時間がかかつて仕方がない。ただし、形容詞や動詞、比ゆ的表現が思ひ浮ばなくて思案してるときは、横合ひから口を出してはいけない。待つてゐれば、きつと、思ひもかけない古風な言ひまはしが出て来るのだから、とのことであつた。
わたしはこれを聞いて、インタヴューの秘訣に感心したり、おれも今に形容詞や動詞を失念するやうになるのかと思つたり、心中すこぶる忙しかつた。

Morris.も30代になるかならない頃から固有名詞、特に人名のど忘れ傾向には気づいてたし、今やほとんど思い出すつもりもなくなりつつあるが、形容詞やニュアンスをつたえる表現を時々ど忘れして、確かにこんなときは暗澹たる気分になるね(^_^;)

安土桃山時代の公卿近衛信尹(のぶただ)の側近との談笑から生まれた「犬枕」という仮名草子(枕草子のパロディ)の紹介も面白かった。

○嬉しき物
一 人知れぬ情
一 謎立解きたる
一 町買の掘出し
一 思ふ方の文
一 誂物能く出来たる時
○勝れていらぬ物
一 女房の背の高き
一 王の武辺
一 出家の手柄
一 すばり若衆の膚

丸谷は最後の「すばり若衆」に着目して一人で論を展開してるのだが、それは措くことにする。

川端行蔵、小出昌洋編『日本料理事物期限』からは、コノワタの薀蓄紹介がメインだが、ついでに引かれた大根おろしの項

この大根おろしが日本独特の料理法であることについて著者は言ふ。朝鮮にあるかどうか知らないが、中国にはない。日本の大根は中国にないからだ。
中国の満州で日本大根を栽培すると良く出来るが、満州の大根蛆蠅が寄生するのに向いてゐて食べられない。満州には中国大根があつて、これには大根蛆蠅が寄生しないが、それはおろしてみても日本の大根おろしのやうにうまくない。
欧米の大根は日本の二十日大根の類だから、これも聞いてゐない。
そこで大根おろしは日本の大根から作つたものが世界一の珍味、なのださうである。
わたしはこれを読んで、多年の疑問が氷解し、じつにしあはせな気持だつた。本を読んで、今までわからなかつたことがわかるのはいい気分だなあと今回もまた痛切に思ひました。誰かが、本を読むことはなぜこんなに楽しいか。それは自分の知らないことが途方もなく多いからである、と言つたけれど、その通り、と思ふ。ただし、そのことを喝破した人が誰なのか忘れてしまつて残念。


Morris.も大根おろしは大好きで、武生の「つる庵」のおろしそばの辛い大根おろしを思うだけで生唾が沸くくらいだが、韓国のあの大根をおろしたらどんな味がするか、一度試してみたくなった。次の訪韓にはおろしがね持参しようか(^_^)


07104

【韓国は変わったカか?】黒田勝弘 ★★★ 産経新聞のコラム、93年から03年までの10年分をまとめたもので、「ソウル烈々」の続編ということになる。500回のうちの7割くらいが収められているらしい。
金泳三、金大中大統領の任期が中心でそれぞれ前期後期を章分け、おしまいに盧武鉉登場期で1章にしてある。著者の真骨頂と言うべき、「反日感情」への反駁ぶりが際立ってるが、前にも書いたように、最近Morris.はこういった黒田の態度にそれほど反感を持たなくなっている。Morris.の反動化かと思ったりもするが、そればかりではないと思いたい。
竹島/独島問題が繰り返し論じられて、Morris.としてはついつい読んでしまうのだが、日本としては、無視するのが最善の方法だと思う。
北朝鮮への嫌悪意識はほとんど終始一貫して金大中の「太陽政策」には真っ向から反対している。これも一理あると思わざるを得ない。
朝鮮戦争時の中国の参戦、それより根本的なロシア(当時はソ連)の北朝鮮支援に対して、韓国からの責任論が出ないことへの疑問なども、反日の根強さとあまりの乖離があるという意見も、客観的に見れば間違ってはいないと思う。
ナツメロ歌手の死への哀悼コラムが多かったのも、Morris.には好感だった。
そんな、こんなで、ついつい黒田先生ニム寄りの韓国観になりつつあるみたいなMorris.なのだが、一抹の不信感を拭えずにいるというのが正直なところかもしれない。


07103

【高い窓】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 ★★★☆ チャンドラの長編で読んでないのは後2作と前に書いたが、実はこの長編第三作「高い窓」(1942)は未読だった。この作品は昭和34年(1956)に田中小実昌美で邦訳されてるが、清水俊二が新たに自分流スタイルで再訳にとりかかりほとんど完成に近づきならが88年5月に食道癌で死亡。同じ映画字幕仲間の戸田奈津子が残りを引き継いだとのこと。うーーん、清水にとっては最後の翻訳ということになる。Morris.はチャンドラーの長編はずっと清水訳で読んでて最初はとまどったり、理解しにくかったりしたが、だんだん馴染んできて、「湖中の女」なんかすっかり文体まで楽しめただけに、あとがきでこのことを知ってちょっと感慨深いものがあった。
本作は老婦人が盗まれた貴重な古金貨を取り返して欲しいという依頼を受けたマーロウが、依頼人の息子、嫁、秘書、ドジな同業者、強請り屋、元映画俳優のやくざ、警察関係と、彼流の対応と観察と捜査と推理で事件の真相に迫っていく。ストーリーも割と理解しやすかったし、金貨偽造の手口なども丁寧に勉強してるし、この調子ならどんどん彼の長編を読みつづけたくなりそうな気持ちになったのだが、今度こそ残り2作を余すのみというのが冷たい現実である。
例によっての、洒落たマーロウ独白の文体見本を。

彼女が番号をしらべて、あっちこっちに電話をかけているあいだ、私は彼女を観察した。ごくあたりまえの目だたぬ顔色で、いかにも健康そうだった。少々固い感じの銅色がかったブロンドの髪はそれ自体醜くはなかったが、せまい額からきっちりうしろになでつけられて、前髪の効果をほとんど失っていた。眉毛は細く、めったに見られないまっすぐで、頭髪より色が濃く、栗色といっていいほどだった。鼻孔は貧血症なのかと思えるほど白かった。顎は小さすぎて、とんがりすぎて、おちつきがなかった。オレンジ・レッドの口紅のほか、何も化粧していなくて、その口紅もほとんど目につかなかった。めがねの背後の目は非常に大きく光彩(アイリス)が大きく、コバルトブルーで、表情がほとんどなかった。目蓋はどっちもきっちりしていて、目を少々東洋的に見せていた。あるいは顔の皮膚がひきしまっているので、目の隅がひっぱられているように見えるのかもしれない。顔ぜんたいが調子のはずれた、奇妙な魅力を持っていて、巧妙なメイクアップさえほどこせば、たちまち人目につくようになったろう。ショート・スリーブの麻のワンピースを着ていて、アクセサリーといえるものは何もつけていなかった。露出した腕にうぶ毛が生え、そばかすがいくつか見えた。

これはマーロウなりの、女性賛美仕方なのだろう(^_^;)

私が帰る時、マールはバンガロー・エプロンをつけ、パイの皮をこねていた。彼女はエプロンで手をふきながらドアまで出てきて、私の口にキスをして泣きだし、家の中に駆けこんだ。ドア口にはだれもいなくなったが、やがてそこに彼女の母親が顔いっぱいに家庭的な微笑をうかべて現れ、私が車で去るのを見送った。
家が視界から消えるにつれて、私は奇妙な感じにとらわれた。自分が詩を書き、とてもよく書けたのにそれをなくして、二度とそれを思い出せないような感じだった。

おしまいのフレーズなんか、決まり過ぎだよな(^_^;)。永遠の、チャンドラ&清水タッグに乾杯!!である。


07102

【GR DIGITAL WORK SHOP】田中長徳 ★★★☆☆ リコーのデジカメGRDを駆使?して、著者独特の話芸(チョートク節)と、パリでの撮影画像を見せびらかしながらの薀蓄、エピソード、銀塩カメラとデジカメの比較、何よりも「写真」を撮るという、本質に対する著者の信念みたいなものが(未整理ながら)あちこちにちりばめられていて、面白かった。
もともとGRシリーズはリコーが1996年からシリーズ展開した銀塩小型高級カメラシリーズとしてそれなりの知名度を高めていたらしく、それをデジカメに継承したものがこのGRDということらしい。広角28mmの単焦点カメラというだけで、だいたいどんなカメラであるかはわかってしまう。Morris.も一時Tiaraというポケット銀塩カメラを愛用した時期があり、これは3倍望遠はあるものの28mmという広角が一番の魅力だった。
もともと著者の原点は「ライカ28mm」だから、そのエピゴーネン的カメラに熱中するのはわかる。ライカの画角とデジタル処理の便利さ手軽さ自由さの結合を思い切り楽しもうという姿勢は、羨ましくもある。

GRDのレンズの良さは、きわめてシンプルだ。解像力とか色のクリアさとか、ぼけ味の良さとか、各種の良いファクターはあるけど、それらは今どきのデジカメでは必須条件であろう。唯一、GRDレンズが他のコンパクトズーム付きデジカメレンズを凌駕しているのは、「歪みのないこと」なのである。

ほおほお、ズームなしのコンパクトデジカメで7万円近いというからには、このくらいのメリットは必要だよね。

スローシンクロモードはこれが半世紀前なら、このテクニックだけで写真界の巨匠になれるほどの斬新なものだった。当時は勘と経験だけが頼りの世界であったのが、GRDはそういう複雑な演算をカメラが勝手にしてくれるのだ。有能なライティングのアシスタントを擁しているようなものだ。
スローシンクロの撮影は人物だけではなく、ブツ関係でも威力を発揮する。自然光に平均に照明された場所で、スローシンクロモードで撮影すると、モノの存在感はぐんと増すのである。
ただし、これはシャッターの開閉で自然光とストロボの「二重写し」の高度なテクである。カメラがブレると本当に二重になってしまう。カメラブレ対策は重要だ。

モノクロモードというのは、そのスイッチを切り替えるだけで、いきなり写真術の発明された当時の素朴で、しかも真摯で、そこに薄く斜めから哲学的な眼差しの光が射しているとでもいえるクラシック環境に、我々21世紀のデジカメ人類をワープさせてくれるのだ。一種の視神経に準拠した、これはタイムマシンなのである。


最近Morris.がちょこっと、白黒で撮影したのも、この言葉にそそのかされたからかもしれない(^_^;)


07101

【建築探偵桜井京介 館を行く】篠田真由美 ★★☆ 建築探偵と言えば例の藤森照信だが、著者は桜井京介という近代建築に造詣の深い探偵を主人公にして連作をものしているらしい。Morris.はまだ一冊も読んでないが、本書はその探偵といっしょに著者が日本の名館を巡り紀行文をものするという、要するに著者の趣味と実益を兼ねたお手軽企画本である。以前「ロシア絵本展」を見に行った東京の庭園美術館が含まれてたので手にとったのだが、期待はずれだった。冒頭の安藤某への批判的口吻だけが気に入ったくらいで、どうも著者の語り口が変に若ぶってて、ギャグが空回りするところもあって、結局この人の本は読まないということに決定。


07100

【神戸異国文化ものしり事典】呉宏明編 ★★ 京都精華大学のゼミ演習の産物みたいなもので、院生、学生を含む複数が神戸の外国と関連ある多数の項目を分担してコラム風にしあげたものだが、下手なイラスト、的外れな写真、おまけに校正の甘さがあまりに目立つ上に本文ゴシックで読みにくいことこの上なかった。神戸新聞社も地元本出すならもうすこしちゃんとしたものを出してほしい。


07099

【のぞき学原論】 三浦俊彦 ★★★★ この本1ヶ月以上前に読了して、なかなか感想まとめられず、延長2回して、すでに返却期限超してしまった(>_<) ★の数からして、Morris.はすごくこの本には参ってしまったのだが、書きにくい。
「分析学者にして小説家の、探求と求道の書き下ろし作品 窃視の恍惚と罪悪感 宇宙論から美学、進化論までを総動員して”覗き”という二元の深遠を解き明かす力作」というのが、オビに付された惹句である。これでは何のことかわからんだろう。
本書は6章に分かたれていている。

第1章 覗きの法則−−科学・日常の「覗き」
第2章 覗きの情緒−−日本文学における、その十五の型
第3章 覗きのDNA−−なぜ男が覗くのか?
第4章 覗きの技法−−盗撮ビデオの現在
第5章 覗きの階調−−虚実のスペクタル
第6章 覗きの断面−−ある実践の刹那
付録「覗き学のキーワード(用語索引)」

第1章は覗きの哲学的概説、第2章は著者の卒論の焼き直し文学論で、この二つの章は「壁」にたとえられている。読者はこの壁の隙間から本書の実質的素材「盗撮ビデオ」を覗くという仕組みになっている。つまり本書は「盗撮ビデオ論」といっても良いのだが、このビデオの内容は、ほとんどすべてが「便所盗撮、排便盗撮ビデオ」で、その質量ともに圧倒されるしかない。分析哲学者とはいえ、著者がこれらのビデオを見る態度は「スキモノ」のそれであることは疑いを入れない。だからと言って本書がゲテもの、興味本位の作でないことも明らかである。こんな本はめったにないと思う。
本書で初めてお目にかかる用語も数多い、著者が作った用語もありそうだ。幸い巻末に付録としてキーワード索引があるので、それを見るだけでもいくらかわかったような気になる仕組みになっている。これも本書の全体像を「覗く」ための仕組みなのだろう。
とっかかりは「宇宙、生物、文化も「覗き」の産物」というおそろしいテーゼである(^_^;)

・ファインチューニング 重力、光速などの物理定数が、知的生命が誕生するために必要な値に微調整されているように見える現実の宇宙のありさまのこと。一般的に、ある重要な出来事が起こるための条件がきわめて厳しいにもかかわらず、その条件が成立していること。ヤラセ原理と、ノゾキ原理の二通りの説明ができる。

「覗き四原理」
1.ファインチューニング…成立条件の狭さ
2.偏在性…自然界、科学から歴史、日常にいたるあらゆるところに蔓延するひろさ
3.選択性…意図性/ランダム性(目的論的選択/自然選択)(ストーカー/盲目的コレクター)
4.反転性…狭さ/広さ、内向/外向、攻撃/防御 など、相反する性質が共存するインターフェイスに成立する

行為の産物は、行為主体の意図とは全く別個に評価されるべきである、という考えは、倫理学では賛否両論あるが、美学ではほぼ認められている。作者がいかに高尚な理念を抱いて芸術作品を作っても、技術・表現力が不足していたら作品は低レベルにとどまる。作者の意図を別個にいくら説明しても無駄だ。芸術作品の価値は、客観的な結果だけで判定されねばならない。作品の解釈や評価に作者の主観的権威を持ち込む誤りを、美学では「意図の誤謬」と呼ぶ。倫理学でもこれに準じた考えを採ろうというのが、ここでの語り手の「覗き否定論」の背景である。

・隠用としての引用 引用は、覗きに酷似している。全体から一部分を抽出するピンポイント性と、新たな文脈に据えて対象の意味を変容させる侵害性において

・運命の分かれ目 放尿のみ撮影されていく大勢の中で、例外的に脱糞を撮影されてしまった被視体に対する特別な人間感情。「運命の悲哀(予想通り納得タイプ)」と「不確実性への感動(意外なキャラに感激タイプ)」に分かれる

・神仮説 ヤラセ原理の代表。アメリカの学界でいまだに勢力をふるう「世界は神が創った」とする仮説

・名擦り付け 本名以外で密かに名づけること。本人の予期せぬ文脈で鑑賞対象化してしまう「覗き」の一手筋

・プチ退行タイトル ことさらに陳腐低俗な語列で構成された作品題名。「なんでもおまんこ」『激臭便所』『便器の中は糞でいっぱい』のたぐい。

・文化決定論 人間行為の多様性を作るのは文化であるという考え。盗撮ビデオは逆に、人間の多様性は本能的自然のレベルにこそあり、文化的指示によって均一化させられることを教えてくれる


デジカメ撮影に熱中しているし、読書感想文の引用の乱用からして、Morris.も「覗きスト」のひとりであることはまず間違いない。それにしても本書の感想文は結局書けずにおわったことになる。完敗である。


07098

【こぐこぐ自転車】伊藤礼 ★★★☆☆ 1933年生まれの著者が、勤め先の定年直前に自転車の魅力にとりつかれ、還暦、古希の仲間とサイクリング、ツーリングを楽しむそのエッセー的報告書。Morris.よりうんと高齢者がこれだけ自転車で楽しんでいるということだけでも、感心したが、その語り口のたくまずしてのユーモアと、頑固さ、ユニークさ、皮肉、そして自転車そのものへの愛情あふれた内容で読んでるだけで自分も自転車をこいでる気分にさせてもらった。
大学勤務「チャタレイ夫人の恋人」などの訳書もあるらしいから、学究の人ということは初めからわかってたが、本書の巻末あたりで、北海道美幌駅での伊藤整の紀行文の一部を引用して、その後、実は著者が彼の息子であることをぼそっとわからせるあたりも洒落ている。

今は東京も美幌も似たようなものになっていて、東京は過密の都会で美幌は田舎だというにすぎない。伊藤整は美幌駅前の食堂で東京からの隔絶感を感じながらポークカツを食べたが、私が美幌で食べたカツカレーの味にはとくにそういう感慨は含まれていなかった。しかし似たものを食べたのは事実で、ちなみに伊藤整というのは拙者の父親なのであったから、六十六年後に期せずして親子が似たものを食べたところが面白いといえば面白いのであった。


なかなかの書きぶりである。内田百間の「阿房列車」に通じるものがある、というのは誉めすぎだろうか。自転車と汽車と種類は違えど、好きな乗り物に乗って楽しんで、その記録を楽しんで書いて、読者を楽しませるという意味では、同種の作物のように感じられたのだった。
ところで、著者は定年前から定年後の3年間で6台の自転車を買ったというから、のめりこみ具合が想像つこうというものである。Morris.は自転車のメーカーや種類にはとんとうといが、とりあえず機種名と価格を列記しておく。

1.ジャイアントMR4F 十万円
2.ルプリカント76 ニ万三千円
3.ダホン社 ヘリオスSL 十万円
4.宮田工業 クオーツXLα 四万円
5.特別誂えのdioss号 不明(ン十万円)
6.クラインATTITUDE X 二十万円


ざっと百万円くらい自転車代に遣ったようだし、それなりにお金をかけた自転車旅行(汽車、飛行機利用、ホテル泊)をしてるわけだが、定年後の趣味としては悪いものではないだろう。さらにはこの3年の間に骨折事故を含む事故も数回やって「年寄りの冷や水」と言われたに違いないが、それはそれで充実してる証拠とも言えるだろう。
Morris.はこんな散財する気もないし、いやもともとしたくてもできないが、4番目の宮田工業の自転車は、心から欲しくなった。高級ママチャリと言う感じで、10kgという軽量(普通のママチャリの半分くらい)で、乗りやすそうというのが良い。値段も手の届かない価格でもないから、これは記憶しておこう^^;


07097

【「坂の上の雲」と日本人】関川夏央 ★★★☆ 司馬遼太郎の「坂の上の雲」は単なる大河小説ではなく、日本人の歴史観を変えた作品といえるかもしれない。68年から72年にかけて産経新聞に連載されているから、ざっと40年近く前の作品ということになる。関川はこの前に、司馬晩年の「この国のかたち」をネタにした1冊を出しているからその続編というか類書である。

『坂の上の雲』は1968年の段階では「反動」にほかなりません。そう考えられていました。現在ではとうてい信じられないことでしょうけれども、本当のことです。特異な時代の気分があり、それはいまも五十歳以上の人の精神を束縛しつづけています。そのさなかにあえてこのような物語を書き始めた司馬遼太郎は、世の俗論に対してはかなり敢然と歯向かう人、敢闘精神の強い人だったといえると思います。

日露戦争の時代を舞台に明治という時代を主人公にしたともいえそうなこの作品をMorris.が読んだのはいつごろだろう?
70年代の後半か、80年代初め頃だと思うのだがはっきりしない。長編好きなMorris.だから司馬の長編はほとんど読んでるはずだ。
本書には巻末に文庫版に準じたあらすじが付けてあったのでそれを読んで大まかなストーリーは思い出した。
関川も「坂の上の雲」を読んだのは80年前後と書いている。同世代のわしらにはやっぱり司馬作品を敬遠するような空気があったのだろう。

司馬遼太郎を「高度成長時代の旗手」あるいは「高度成長の旗振り」のごとくいう向きがありますが、それは当たっていないでしょう。彼の人気は1970年後半、安定成長期以降に定着したのです。いわゆる「団塊の世代」もこの時期に「司馬遼太郎」を「発見」し、愛読したはずです。しかし彼らが年齢を重ねて実業界・官界で出世し、愛読書として司馬作品を列挙するようになりますと、当然反発を買うようになります。まして不祥事で失職した事務次官などが、現役時代に口をきわめてほめたたえてというような傾向があからさまになると。だいたい90年代のことですけれども、それは司馬遼太郎の責任とはいえません。

昭和戦後の第三世代は明治の第三世代よりも、はるかに経済的に恵まれていました。親は彼らを徹底して守りながら、個性をのばせといいつづけました。その欠陥、音楽やスポーツなども得意で、「人が人の上に立つことを嫌い、男女が平等であることを」自然に受け入れ、「平和ということがいかによいことか、争いと摩擦は極力避けなければならない」と信じる日本人が多数出現しました。先行世代の「戦後の夢」はかなえられました。
そんな彼らが、自由が制約との緊張関係の間に成立することを理解せず、また、ただ好きなことだけをして生きて行くことが「個性的生活」であると短絡し、人の上に立つことを「平等」のエクスキューズのもとに異常に恐れ、また「平和」を個人的レベルで実現するために他者との関係を、摩擦も融和もひっくるめて拒絶した「ひきこもり」となったとしても、育てられ教えられたようにふるまっているだけなのだと考えることができる、と船曳さんはいいます。戦後の40年には明治の40年ほどの緊張感はありませんでした。その「平和」の理念にはあなたまかせのところが少なくありませんでしたが、おしなべてよい時代だったでしょう。しかしよい時代がよいものを次代に引継ぐとは限らないのです。


なかなか鋭い指摘だと感心してたら引用だったのね(^_^;) 本書を読んで「坂の上の雲」再読する気にはまるでならなかったけど、船曳建夫『日本人論』読まねばなるまい^^;。


07096

【電子の星】石田衣良 ★★★☆ 「池袋ウエストゲートパーク」シリーズの第4弾で、このシリーズは果物屋の息子でコラム作家で善意の探偵みたいな男が主人公で、コラム書きだけあって?なかなか洒落た言い回しを多用するし、手がける事件もひと味もふた味も違ってるし、不思議にセンチメンタルだったり、メランコリックだったり、世間離れしてたりと、とにかく風変わりでいながら意外と正統的だったりする中篇集である。
本書にはタイトル作と「東口ラーメンライン」「ワルツ・フォー・ベビー」「黒いフードの男」の4篇が納められている。
ネットや口コミでラーメン屋を中傷する男と拒食症の娘、族のリーダーだった息子の死因を探るジャズマニアのタクシー運転手や、身体を売るビルマの少年、究極のSMビデオ撮影に出演することになった主人公など、手を変え品を変えてがんばってると思うが、いかにも作り物めいたストーリーが多く鼻白む事も多い。それよりやりとりされる会話の端々に調味料よろしく配備されたコラムの素みたいなものを楽しむに限る。

「こいつはおれがつくった自動追尾ソフトだ。あちこちのサイトをクモみたいに這いまわってキーワードをふくんだ書きこみに反応する。それでおれにサイトと書きこみのあったコンピュータのアドレスを教えてくれるってわけだ」
おれにとってコンピュータというのはメールも送れるワープロにすぎない。生きものみたいに動くソフトなど想像もできなかった。
「キーワードはいくつあってもいいのか」
ゼロワンは退屈そうにうあんずいた。おれはいった。
「じゃあ、化学調味料とか、Gボーイズとか、鶏ペストなんてどうかな」
やつは一日に何十杯のんでいるのかわからないデニーズのコーヒーをひと口すすった。
「やめておけ。たくさんの言葉をつかえばなにか重要な情報が手にはいるなんてのは素人の考えだ。実際にはひっかかるページが多くなりすぎて手に負えなくなる」
なんだか文章を書くコツと同じだった。数少ない言葉でいかに大切なことを伝えるか。それが最初にできなきゃ、無限の語彙ももち腐れ。(東口ラーメンライン)

キーワード増やすのは「絞り込み」のための場合もありえるけど、主人公のおしまいのモノローグなんてカッコいいでしょ。

おれたちの心の半分は、もう電子の世界を生きている。
電子は高速にほぼ等しい速度で大陸を結び、あらやる情報はすべての場所に同時に存在して好意のネットワークにより交換され、無料の民主的なオープンシステムを作り出している。
そこではどんな情報だってクリックひとつでダウンロードできる。台湾やマレーシア製のバカみたいに安価なパソコンは、世界中の映像・文字・音楽情報が収蔵された電子世界への窓口だ。おれたちは人類史上初、アレキサンドリアの巨大図書館を、ひとりひとつずつもつようになった最初の世代なのだ。あの大王だってきっとうらやましがるだろう。
おれは最近ちょっと気のきいたネットワーク小説を読んだのだが、そこにはこんなスローガンが書いてあった。
「よい人生とは、よい検索だ」
そのとおり。どんなこたえを得るにしても、探しつづけることが大切なのだ。(電子の星)


Morris.が最初に読んだ彼の本「アキハバラ@DEEP」に代表されるように彼はインターネット時代、世代のハードボイルド作家なのかもしれない。


07095

【黄泉の犬】藤原新也 ★★★ 「メメントモリ」で強烈な印象を与えたインドで屍肉をむさぼる犬の写真がタイトルの本だけに思わず手に取った。
内容は、オウム真理教事件麻原彰晃の故郷八代への取材、さらに麻原兄の個人的追跡に始まり、インドでの体験にシフト、さらにある若者のリクエストインタビューで神戸震災に始まるやりとり、またインド体験に戻る。
本書は2006年の発行だが初出は95年から96年「週刊プレイボーイ」の連載となっている。なぜ彼がこういった媒体に発表したのか、またなぜこんなに単行本化が遅れたかについてはあとがきで触れている。

私がはじめてこの宗教団体のことに言及したのは麻原彰晃が収監され世の中の騒動が一段落した時だった。それも言葉ではなく一点の写真によってである。私は麻原が収監された翌日、四×五の大型カメラを抱え、箱根に赴いた。そしてツツジの咲き乱れるむこうに遠望される五月の美しい富士を撮った。それは騒動の長い間サティアンという薄汚い宗教工場に蹂躙された日本の象徴である富士という山の個人的な禊行為のようなものだった。写真を撮り終わると私は「週刊プレイボーイ」で一年間の連載をはじめた。この若者雑誌を選んだのはオウム真理教の若い信者の姿がそうであるように、昨今の若者が脆弱化し、すぐに信仰のようなものに取り込まれる危険性に言及するためだった。論考ではなく、私自身の旅と、その中におけるそういった種類の青年との確執を書くことによって、あらためて短絡的な信仰のメンタリティと自己喪失の危険性を浮かび上がらせてみたいと思った。
この連載を長年単行本化しなかったのは−−まず肝心の麻原彰晃の実兄に会うくだりが書けないということが大きなネックになっていたということがある。だが数年前、満弘氏はお亡くなりになり、実質的に迷惑がかかるという局面がなくなったということが今回の単行本化の出発点にある。そしてまた接ぎ木をするような不自然な連載の流れを、名に体裁よくととのえてしまうのではなく、そのまま投げ出すことの方が潔く、またリアリティがあることなのではないかとの編集の意見に納得し、全体を新たに推敲し直し、長年欠けたままであった最重要部を新たに書き下ろすことによって出版の運びとなった。

これはやっぱり言い訳でしかないよなあ。最重要部と言ったって、八代で育った麻原兄弟の目の不自由さが不知火の有明海の水俣病の原因となった水銀汚染のシャコの食べ過ぎにあったのではないかという、憶測にすぎないのだ。
それよりやはりMorris.は、あのインドの犬のことが気にかかった。実はあの撮影は川の中州という離れ島で、撮影の後著者は犬の群に迫られ自分が食われるのではないかという絶体絶命の体験をしたということだ。嘘ではないのだろう。が、かなり脚色されているような気がした。
神戸地震に関する青年との会話(インタビュー)も、Morris.はちょっと違和感を覚えた。

青年は最初に神戸の火を見たとき、アメリカの映画の一シーンではないかと思った。−−メディア育ちの子らしい錯誤である。彼がそれを日本映画でもフランス映画でもなくアメリカ映画と感じたのは面白い。昨今のアメリカ映画の多くは大なり小なりカタストロフ(壊滅)を主題としているからである。アメリカの映画の中ではいつもどこかで車やインテリアやビルや町並みといった人間の構築したものが思いっきり壊される。−−その破壊念慮のエスカレーションは現実の閉塞や管理化の深化に見合ったカタストロフ願望の現れであると見ることもできるだろう。また構築と破壊を過膨張的に繰り返すアメリカ映画の構図そのものが生産と消費を過膨張的に繰り返すアメリカ型資本主義でもある。そしてそれはまた構築と蕩尽の無間地獄に巡礼すべく意識改造された私たち資本主義型身体のスクリーン上における共振現象でもあった。ツトム青年が神戸の火をアメリカ映画みたいだったと言うときそれは錯覚というより、おのれのもうひとつの真の姿をそこに見たということかもしれない。彼は少なくともボランティアに行く前には神戸の火にそのような快楽を見たといえる。

おいおい、ちょっと待ってくれ、とついMorris.は突っ込みたくなったよ。神戸地震を東京の茶の間かどこかのTVで見ながらのあんたらの正直な感想なのかもしれないけど、それはちょっと違うんじゃなかろうか。
さらに藤原は神戸震災後の火事の空中からの映像を見て青年の頃インドで見た火葬の場面を連想したという。そりゃ、想像は自由だろうよ。でもこういった話題のツマに神戸の映像(あくまで虚像)を持ち出すことはないのではないかい。

人間の命は地球より重いって言葉知ってるだろ。あれは日本赤軍によるダッカ・ハイジャック事件の際、政府が彼らの要求をのんで服役中のメンバーらを釈放したときに総理の福田赳夫が言った言葉だね。日本人は妙にあの言葉に納得したものだ。私はあの頃から日本の小市民的管理社会がはじまったのだと思っている。あの言葉はたしかに平和国家における人間観そのもので、そういった人間の過大視はいまもずっと続いている。しかし実際は人間の命が地球より重いということはありえない。命を大事にすることは良いことだが、それへの過大評価は人間の過保護とエゴイズムとを生み出す。そういった優しいエゴイズムが子供の身体や心をいかにスポイルしていったかということを私たちはいやというほど知っている。それと同じように死や死体という人間の負の姿がさもタブーであるかのおうに人々の目から隠蔽されていく。皮肉なものだな。私たちはそのようにして生命の過大評価のあまり生命や死から遠ざけられ、生きているという実感を失いつつある。そしてちょうど両親から過剰な期待と庇護を受けた少子化社会の子供が”自分の大事さ”にいらだつように、現代を生きる人間はおしなべてそのようないらだちを体内に宿しているような気がするな。

共感を覚えるのだが、これも、今となっては手垢のついた言説のように見えてくる。時代は後戻りし難いものであるな(+_+)


07094

【談志絶唱 昭和の歌謡曲】立川談志 ★★★☆☆ 落語家としての談志はほとんど知らない。TVでたまに見る毒舌とはねっかえりぶりと偽悪的態度くらいしかイメージにないのだが、只者ではないなと思わせるだけの何かを持っていることはMorris.にもわかっていた。
本書は70歳になった談志の語りおろし(たぶんそうだと思う)歌謡曲私的大全である。歌詞の記憶力抜群らしく、ここかしこにマイナーな歌謡曲の詞がちりばめられていて、それだけでも時代の気分を味わうことができるし、聞いたこともない歌手や歌のタイトルも嫌というほど出てくる。
もちろん親交の深かった歌手や作詞家との交流、裏話、また悪口にも事欠かない。
とりあえず彼の好きな歌手というのが、ディックミネ、上原敏、三橋美智也、春日八郎、岡晴夫、田端義夫、笠置シヅ子、淡谷のり子、小畑実、ジミー時田、松平直樹、森繁久弥……

歌謡曲というのを私はこう受け止めている。「歌謡曲は恋愛に対する応援歌である」と。

歌謡曲が、歌謡曲自体が青春だったのだから、「時代劇」を唄おうが「世の事件」を唄おうが、もちろん「恋」があり「戦争」もあり「ジンセイの落ち目」を唄おうがかまわない。あの時代には歌謡曲が日本人にとって何よりの文明であり文化であった。しかしその青春も当然のこと、いつしか老いた。
歌謡曲が老いたのです。
なぜ老いたのか。「日本が老いた」からです。と同時に、若者も老いたんです。
「みんな老いた」と判断すると、とてもよく現代(いま)の状況が判る。
”談志、お前、老いたのか?” ”いや俺様は、老いてない” ……老いたかな?
正直いって老いた。この二年、痛烈に老いを感じる。その感情は異常なばかりに……。第三者には判るまい。”なんでそんなに落ち込むのか”? いいじゃないの。


わがまま勝手、好き勝手、こういった本を残せる談志が羨ましくないといえば嘘になるし、残してくれた談志に感謝しとこう。


07093

【モナ・リザの罠】西岡文彦 ★★★ モナリザはたぶん世界で一番有名な絵ということになるだろう。「モナリザ本」も星の数ほどあるにちがいない。最近世界的ベストセラーになった「ダビンチコード」とかいうのもあった。Morris.は基本的にベストセラーは読まないので未見である。
本書はその後に出されたものらしく、そのベストセラーの暗号そのものを否定してるが、もちろんMorris.にはどっちが正しいかわからない。
本書では、モナリザの微笑の秘密の大半は(作品自身の価値は充分認めた上であるが)世間の間違った思い込みからきているとしている。数ある模作の大部分にある左右の柱が原作にもあって、それが切り取られたため遠近感がおかしくなりモナリザに秘密めいた雰囲気を加味しているというのは納得できる意見だった。ルーブル美術館側はモナリザの両端が切り取られているという説を否定しているらしいが、素人目から見ても、それはおかしいと思う。

人文主義は、14世紀のイタリアで確立され、ルネッサンスを支えた思想です。
ルネッサンスが、中世キリスト教の神中心世界観と人間中心の古代ギリシア思想の調和を目指すものであったことはすでに述べましたが、これを思想的に支えたのが人文主義の考え方です。ごくごく簡単にいうと、特定の宗教や思想にとらわれることなく、文化芸術全般にわたる深い教養を身につけることによって、人格を完成し人間の尊厳を確立することを目指す考え方のことですが、要するに今日でいう「教養」という概念の基本を成している思想です。したがって、私たちが新書を読むことなども、きわめて人文主義的な営みといえるわけです。
人文主義は今から見れば当然過ぎる思想ですが、これが中世の考え方からすれば革命的そのもので、なにより関心や知識の焦点に人間自身があることが驚きだったわけです。当時の学問の中心は神学ですから、その焦点は神にあり、人間にはなかったからです。

そして、この人文主義という思想の実践において、おそらくは人類史上最大のスケールと最高のレベルにまで到達した希有な人物が、ほかでもないレオナルド・ダ・ヴィンチだったのです。

「人文主義」の簡単な説明だが、これはわかりやすかった。新書を読むのが人文主義的な営みという部分は笑わせてもらった。ちなみに本書は講談社学術新書である。
実はMorris.は学生時代「モナリザ」を見たことがある。いわゆる初めての日本公開のとき偶然上京していて、上野公園で、パンダとモナリザを同じ日に見た。どちらも印象は薄弱である。
結局作品の細部や全体をじっくり鑑賞したのは、美術全集やポスターなどの印刷物によってだが、Morris.の好みからいえば、モナリザは「中の上」くらいに位置するのではないだろうか(^^;)


07092

【湖中の女】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 ★★★☆ チャンドラー長編の第4作で1943年、第二次世界大戦の決着が付く前に出されたものである。行方不明になった化粧品会社社長の妻を追うマーロウは別荘で女性の水死体の発見に立会い、愛人を殺害したと思われる社長の妻を追い詰めるものの彼女もまた殺害される。例に寄って、ストーリーやトリックを解くより、マーロウの一人称での語りと、やりとりを楽しむ作品だろう。
Morris.はこれまで読んだ長編5冊の中では本作が一番読みやすかった。チャンドラーの、というより、訳者清水の文体に馴れてきたこともあるのだろう。本作に限ってハヤカワボケットミステリ版は田中小実昌が先に邦訳していて、清水は後で無理を言って文庫版の訳をものしたらしい。
殺害された女たらしの男の住まいの家主であるフォールブルック夫人という脇役?とマーロウのやりとりが非常に興味深かった。

部屋の奥から階段が降りていて、手袋をはめた手が白く塗られた金属の手すりに現れた。手は現れて、停まった。
手袋の手が動いて、女の帽子が見え、次に頭が見えた。その女は静かに階段を昇ってきた。階段を昇りきっても、私に気がつかないようだった。年齢(とし)の見当のつかぬやせ型の女で、みだれた栗色の髪、どぎつい真紅の口紅、頬に濃いルージュ、目にくまがかかっていた。青いツイードのスーツをだらしなく着て、紫色の帽子が頭の横っちょでいまにも落ちそうになっていた。
その女は私を見つけても立ち止まらず、表情もまったく変えなかった。右手をからだから離して、ゆっくり部屋へ入ってきた。左手は私が手すりで見た茶色の手袋をはめていた。右手の同じ色の手袋が小型の自動拳銃を握っていた。
彼女は足を止めて、からだをうしろにそらせ、何やら金切り声で叫んだ。それから、とってつけたように神経質に笑った。拳銃を私に向けて、ゆっくり近づいてきた。
私は拳銃から目を離さず、声を立てなかった。
女は私のすぐそばまで来た。充分近づいたことを確かめて、拳銃を私の腹につきつけて、いった。
「私は家賃を払ってもらいさえすればいいのよ。家はどこも傷んでないわ。壊れたところもないわ。あの人はいつもきちんとしていて、ありがたい借家人だったわ。家賃をあんまり溜めてもらいたくないだけよ」
緊張が抜けきらぬ男の声がていねいな口調でいった。「どのくらい溜まってるんですか」
「三ヶ月よ」と、彼女がいった。

このやりとりのどこが興味深かったかという説明は省略しよう(^^;) 後は自分で読んで貰うしかない。
これで、Morris.が読んでないチャンドラーの長編は「大いなる眠り」と「長いお別れ」の2作を残すのみとなった。美味しいものを後にまわすという趣味はないのだが、結果的に世評の高い2作が残ったことになる。楽しみである。


07091

【薔薇の木に薔薇の花咲く】いしかわじゅん ★★★★ ウルトラB級漫画家いしかわじゅんの傑作「相撲ギャグ漫画」である。
1990年から95年にかけて「週刊宝石」に連載されたらしい。Morris.はこのての週刊誌はほとんど読まないこともあってタイトルしか知らなかった。諸般の事情により単行本1冊出たまま長らく幻の作品となっていた(裏表紙の惹句)ものを、2000年4月に扶桑社から文庫化(全巻)されたらしい。これを先日桜口の古本市場で掘り出した。タイトル作と「こけし岳でゴンス」を合わせて144話もあるが1話3頁だからトータル500頁くらいである。たかだか3頁なのにえらく濃い作品が多く、複数話混載、4コマ漫画、シリーズもの、自作パロディの無限連続と手を変え品を変え作者が遊びながら読者を楽しませてくれる。見事な手際である。夢枕獏が文庫版1巻の解説でこう書いている。

「薔薇の木に薔薇の花咲く」文庫版ある時、いしかわじゅんは言った。
「こんど始める連載なんだけどさ、おれ、わりと自信あるんだよ」
絶対におもしろくなるぞといういのである。
その連載が『週刊宝石』で始まった。
そして、ある時、いしかわじゅんは言った。
「あの連載なんだけどさ、評論家からも、関係者からもあんまり反応がないんだよな」
これが本書『薔薇の木に薔薇の花咲く』なのである。
世間はとりあえず、置いておく。
ぼく自身は、連載時から、ずっとこのマンガを読んできた。
おもしろくて、短いことが実にほどが良くて、好きなマンガであった。
すぐにうんこに行きたくなってしまうこけし岳はお気に入りのキャラクターであり、酒のようにプリンを飲む鯖の富士の渋いキャラもいい味を出している。タニマチの老婦人からもらうベルトやマスクのサイズが(あまりに太っているため)合わずに、自分が馬鹿にされているのかと思い込んでいる肉の峰。
いずれも、楽しみにこの連載を読んできたのである。
今回、読み返してみておどろいたのは、おもしろさのトーンダウンがなかったことである。今、読んでもおもしろいのだ。おもしろさが、古くなっていないのである。後になって読み返すと、おもしろさがトーンダウンしているギャグマンガは少なくない。それは、ギャグマンガの多くが、その時代その時代の背景を抜きにしては語れないものであるからである。
この作品は時代の波にさらわれなかったのである。


はっきり言って、これは「ヨイショ」である。今読むとかなり古くさいネタやギャグも目白押しであるし、1/3くらいは初めから駄作に近い。すべってるネタも多いし、手抜きも目立つ。でも、それらを含めていしかわじゅんならではのテイスト満載の本作は、彼の最大傑作かもしれない。2巻目解説の中野貴雄も書いてたが、ねこじるに通じるこけし岳のあの目はたまらない。かなりグロ、かなりSMなネタが多いのにいやらしさを感じさせないのは、他のいしかわ作品にも共通するところだが、何といっても本作の一番キャラこけし岳を巡るスカトロ趣味がいい味(^o^)出してる。
そしていしかわ作品に登場する女性って、何であんなに手抜きなのに、何であんなに可愛いんだろ。結局Morris.はいしかわじゅんの描く女の子キャラが好き、ということに尽きるのかもしれない。中でもこけし岳を苛めまくる女学生早記ちゃんなんか、最高!!彼女にならMorris.も苛められてみたい(きゃっ(^^;))
と、いうわけで!?、これも先日のちゃんどらと同じく、後日稲田さんに謹呈しよう。稲田さんお楽しみにっ(^o^)


07090

【かわいい女】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 ★★★ チャンドラーの長編第5作である。これで彼の長編余すところ3篇となった。失踪した兄を捜して欲しいと田舎から出て来たかわいい娘の依頼を20ドルで調査をはじめたマーロウがハリウッド女優のスキャンダルと関わり、おしまいは意外な(当たり前だが)結末を迎える。ほんの数日前に読み終えたばかりなのに、Morris.はもうこの物語のストーリーはうろ覚えである。でも、それなりに楽しめたのは間違いないのだから、それでよしとしよう。

芝居は終った。私は空になった劇場にすわっていた。幕が降ろされ、その上に場面がおぼろげに映っていた。しかし、俳優のある者はすでになくなっていた。第一、小さなねえちゃんがそうだ。二日もたてば、私は彼女がどんなようすをしていたかを忘れるであろう。なぜなら、彼女はあまりに現実と離れすぎていたからだ。私は彼女がハンドバッグに新しい紙幣を千ドル入れて、カンサス州マンハッタンの母親のところへ戻って行く姿を思いうかべた。その千ドルのために何人かの人間が殺されたが、彼女はそんなことをいつまでも気にしてはいまい。

ラスト付近の一節だが相変わらずの文体(もちろん翻訳者のせいもあるが)ノスタル爺さんチックである。ちなみに本書の原作が発表されたのが1949年、Morris.の生まれた年である(^^;)


07089

【葉桜の季節に君を思うということ】歌野晶午 ★★☆ 前に2冊読んで、あまり気に入らないながら、何となく気になってた作家で、世評の高いというこの作品を稲田さんに貸してもらって、読了。もうこの作家のものは読まないことにしよう(^^;)
若いころ探偵事務所に勤め、暴力団に内偵者として送られ、現在は何でも屋みたいなことをやってる主人公が、駅のフォームで投身自殺を図った女性を助け、そこから悪徳セールス会社の保険金殺人事件に巻き込まれる。過去と現在の入れ替わりが激しい展開もMorris.の好みではないが、読者への登場人物の年齢詐称というかあざとい手口で作品を一くくりにするやり方は、嫌いである。日本の本格推理を自称する作家が時々やる手で、実は男と思われた主要人物が女だったり、子供だったり、探偵だったりで、それを故意に分からないように記述していく、こういうのは姑息としか思えない。悪徳グループのやり方や、トリックなどはそれなりに調べたり考えたりしてるのだろうが、Morris.には合わないということだろう。

「年寄りは社会のお荷物なんだよ。最近の年寄りは長生きしすぎ。八十、九十まで生きやがる。社会の役に立つのなら、ヨーダのように九百年生きてもかまわないが、ほとんどのジジババはただの穀潰しだ。国家の財政は逼迫しているというのに、三千万人ものジジババが、お国から年金という名の小遣を頂戴している。三千万!? おいおい、全人口の四分の一がただメシ食ってんのかよ。すごい国だな。ここは。迷惑なのは若い衆だ。国の金庫がピンチだからといって保険料を引き上げられる。そのくせ将来自分が受け取れる保証もない。だから滞納するやつが増え、ますます保険料が上がる。その一方で、医学は発達し、食生活が向上するものだから、年寄りはますます長生きしやがる。年金受給者が膨れあがり、保険料の引き上げにつながる。ふざけんなってーの。年金だけじゃないぞ。医療費は優遇されている、公共交通機関も無料だったり大幅な割引きがあったりだ。そうやって何くれとなく補助してやり、それが結果的にこの国を食い潰すんだよ。ジジババの意識にも問題がある。優遇されて当然と思ってやがるからな。シルバーシートの真ん中にふんぞり返り、両脇に荷物を置いてるバカもいる。まさに老害だな。与えられるだけ与えられておいて感謝の気持ちを表わさない人間はクソだ。少しは社会貢献を考えろよ。じゃあ年寄りにとっての社会貢献というのは何かというとそりゃ、とっととあの世に行くことさ。だいたい『余生』なんていうが、余りというからにはなくてもいいものなんだよ。だったら潔く捨てちまえ。だろ?」

悪徳グループ社長の台詞で、主人公はもちろんこれに反発するのだが、こういう台詞を自分の作品に書けるというだけで、げんなりさせられる。
タイトルとテーマともなった「葉桜の頃」云々で、桜の花の後への世間の無視を、老人の姿に投影してるつもりらしいが、葉桜や桜紅葉を愛する人がいないとでも思ってるのだろうか。
與謝野晶子の絶唱とも言える「晩秋」を引いておく。

晩秋 與謝野晶子

路は一すぢ、並木路
赤い入日が斜に射し、
點、點、點、點、朱の斑
櫻のもみぢ、柿もみぢ、
點描派(ポアンチユリスト)の絵が燃える。

路は一すぢ、さんらんと
彩色硝子に照された
廊を踏むよな酔ごこち、
そして心からしみじみと
涙ぐましい気にもなる。

路は一すぢ、ひとり行く
わたしのためにあの空も
心中立てに毒を飲み、
臨終(いまは)のきはにさし伸べる
赤い入日の唇か。

路は一すぢ、この先に
サツフオオの住む家があろ。
其処には雪が降つて居よ。
出て行ことして今一度
泣くサツフオオが目に見える。

路は一すぢ、秋の路、
物の盛りの尽きる路、
おお美くしや、急ぐまい、
點、點、點、點、しばらくは
わたしの髪も朱の斑……


07088

【狼女 Um lobisomem】大沢在昌 ★★★☆ 「新宿鮫」シリーズの第9作である。大沢といえば新宿鮫と太鼓判を捺すMorris.だし、待ってました!!って感じで読み始めたのだが、何となくすんなり読めない。盗品市場を仕切る元公安の間野、中国人女性明蘭、関西の広域暴力団員毛利の三角関係と、鮫島同期の香田の外国人犯罪者を暴力団によって駆除しようとする裏取引がからんでそれなりによく出来たストーリーだったのだが、いつもの薀蓄癖(^^;)が、今回は「都市論」で、「世界都市」の概念とそそうなりかけている東京で、移民労働者のための独自の流通機構を作り上げようという間野と鮫島の会話部分は興味深かった。。

「君は勉強のできた人間だ。だからこそ、キャリアになった。まあ、学校での勉強が、ということだろうが。世界都市という概念を知っているかね」
「資本主義のある到達点のようなものだろう。企業の国際化、情報や会計などの一極集中によって、都市は富裕層と低賃金労働者層に二極分化する。先進国製造業者は第三世界に移動し、その結果、移民労働者の大量流入を招きインフォーマルエコノミーが成立する」
鮫島はうろ覚えの知識で答えた。
「到達点ではないが、資本主義経済が今や世界システムといえる以上、避けては通れない都市のあらわれかただ。ここで重要なのは、第三世界と世界都市のあいだには、イデオロギーとは無関係なある種のつながり、ヘソの尾のようなものが生まれる、ということだ。多国籍企業の第三世界への進出は、その世界の住民に、多国籍企業が本拠地をおく先進国の情報をもたらす。早い話、トヨタの現地工場で働く、第三層の住民は、トヨタを送り出した日本という国の情報を必然的に得る。その彼らが、移民労働者として、海外に向かおうとするなら、情報を前もって得ている、日本という国をその対象に選ぶのは、当然のことだ。突然、何ら情報もない他の先進国を移民先に選ぶことはありえない」
「だからあんたは外国人の味方をするというのか」:
「ことはそれほど単純ではない。インフォーマルエコノミーの概念を−−」
「『そこにはいない人間』による労働市場の構成だ。国家は決して認めることはないが、当事者間には存在し、通用する権利と義務でつながった社会関係を生み出す」
「まさに君たちが直面している問題だ」
「犯罪は労働じゃない」
「労働だ。対価を生まない作業に従事する者はいない。もしそれを労働と認めないのなら、犯罪者はすべてボランティアということになる」
鮫島は首をふった。
「犯罪が労働だと認めたとしても、正当化はされない」
「第三世界の話に戻ろう。移民労働者はその国の経済に支配されるが、出稼ぎの外国人労働者が先進国で得た収入を本国に還元しようとするとき、最も効率のよい分配方法は何だと思う」
「わからんね」
「彼らは、本国での人件費との差益を地域に還元させるシステムをもたない。だが犯罪組織がそこに介入すると、ある種理想的な地域還元システムが生まれる。南米の麻薬カルテルは、地域のための病院や学校、保育施設などを作り、コカインで得た収益を還元していた。犯罪組織の上納金制度はいかなる国にも存在し、有無をいわさず、税金以上に逃れることを許さない。そうしたシステムをもつ組織は、先進国、第三世界を問わず、世界都市へと向かう資本主義経済の流れにあって、最も強固な地盤の上にのっている、そうは思わないかね」
「稜知会のことをいっているのか」
「私の野望は、彼らに拮抗しうるシステムを作りあげることだった。できれば出稼ぎ労働者ではなく、移民労働者として受け入れられたメンバーによってね」


後記にも紹介されてる、都市学関連書からの受け売りかもしれないが、それなりにうーんと、うならせる仕上がりである。こういったうがちは大沢作品の香辛料みたいなもので、ファンにとってはそこがまたたまらないのかもしれないが、ストーリーをぎくしゃくさせることにもなりやすい。
また本作の唯一のヒロインといっていい、中国女性の自立心と異国での成功への努力などが大きなテーマになっていて、タイトルがそれを示してもいるのだろうが、「狼男 lobisomem」に女性冠詞「Um」をつけて「狼女」というのはあんまりではなかろうか。
巻末に新宿鮫シリーズの一覧があったので写しておく。

1.新宿鮫 孤高の刑事・鮫島鮮烈に登場、衝撃の第一作。日本推理作家協会賞、吉川英治文学新人賞受賞作。
2.毒猿 「職業凶手」毒猿に新宿が戦慄する。哀しみに溢れる歌舞伎町の女・奈美の愛の行方は−−感動と興奮の第二作。
3.屍蘭 売春婦に絡んだ殺人事件を追う鮫島に突然、汚職と殺人の容疑が! さらに襲う執拗な罠。孤立無援の戦いを描く第三作。
4.無間人形 新宿に現れた新型覚せい剤を追い、賢明に密売ルートを探る鮫島。しかし密造犯の手に恋人・晶が!? 直木賞受賞の第四作。
5.炎蛹 "恐怖の害虫"の蛹の行方は? さらに放火、連続殺人−−錯綜する犯罪と凶悪事件が冬の終わりの新宿に凝縮する第五作。
6.氷舞 元CIA殺人を探る鮫島を絶体絶命の危機が待つ。公安の奥深くに隠された秘密とは? ラストに絶望と至福が待ち受ける第六作。
7.灰夜 初めて訪れた街で謎の敵に拉致監禁された鮫島。最悪の状況下、鮫島の熱い怒りが弾ける。男の誇りと友情を濃密に鮮烈に描く第七作。
8.風化水脈 元ヤクザ、薄幸の女、謎の影を持つ元警察官−−過去kに縛られた男女の様々な思いが、街=新宿を流れる時の中で交錯する。
心打つ第八作。
9.狼花 シリーズのターニングポイントとなる第九作。本作。


Morris.はこのシリーズ大部分、いやたぶん全て読んだはずであるが、こうしてタイトル並べられて内容を思い出せるのは2,3作しかない。Morris.の記憶力の問題なのかもしれないが、それほど印象に残るストーリーが少ないのではなかろうか。エンターテインメントはそれが良いのかもしれない。しかしこの第九作は「シリーズのターニングポイント」になるのかあ? ということはあと8作くらいは書かれるということかなあ。期待しておこう。

いずれにしても、言語、習慣、文化の異なる外国人を対象にした捜査は難しい。対応をあやまれば"国際問題"に発展する可能性もあるので、現場警察官は及び腰になりがちだ。
スリや窃盗、違法薬物の密売など、現行犯逮捕できる特殊な状況を除けば、情報収集や行動確認はほぼ不可能とあきらめることが多い。
だがそれは日本一国の問題ではない。国外からの多くの流入者を抱える先進国は等しく同じである。
その問題への対策はひとつしかない。日本への帰化外国人を警察官として採用することだ。今から数十年後、日本での二世、三世に日本国籍が与えられるようになれば、可能になるかもしれないと、鮫島は思っていた。


外国人犯罪の取り締まりのために、日本の警察の限界を嘆きながら、鮫島の思いついた解決策というのががこれだが、ちとおそまつだと思った(^^;) 日本における帰化政策の現状をまるでわかってないようだな。


07087

【乱世を生きる】橋本治 ★★★ 「市場原理は嘘かもしれない」という副題の集英社新書である。この新書で橋本は「『わからない』という方法」「上司は思いつきでものを言う」2冊を出してて、「上司は…」は確かベストセラーになったのではないかと思う。基本的にベストセラーは読まないことにしてるもりすなので、こちらは読んでないのだが、本書はいちおう3部作の完結篇に当るらしい。それが分かってたらこれも読まなかったかもしれないが、ついタイトルに釣られて手にとったのだからしょうがない(^^;)
これまたMorris.の嫌いな言葉「勝ち組・負け組」について書いてあるというのも手にとった理由の一つで、橋本がこの言葉についてどう考えてるかを知りたかったのだった。さすが橋本だけあってなかなかうがったことやひねりのある考察を開陳しているのだがどうも、Morris.にはぴんと来なかった。
おしまいあたりの「我慢」の論にだけ、共感みたいなものを覚えた。

「いるのかいらないのか分からないが、自分はそれを"欲しい"と思う」というのは、「欲望」なんかではなくて、実は「誘惑に弱い」ということです。「我慢]というのは、この「誘惑に弱い」に対する、最大の特効薬なのです。dから、「なぜ我慢はこの世から消えて、SMプレイの場にしかなくなってしまったのか?」と考えるのは重要なことなのです。
では、なぜ我慢というものは、この世から消えてしまったのか?我田引水を承知で言えば、「我慢とは、現状に対抗する力である」という考え方が、我慢が当たり前に存在していた時代には、存在しなかったからです。
「我慢とは、貧しさから出ているものである」と考えてしまえば、「我慢が不必要になるのが、豊かないい時代である」ということにもなりましょう。そして、誘惑に弱い、「いるのかいらないのか分からないが、自分はそれを"ほしい"と思う」を公然とする愚か者を野放しにする、アホらしい未来を作ってしまうのです。だから、「我慢」とは、現状に抗する力である」という考え方が必要で、このことを明確にさせなかったから、「我慢を当たり前にする昭和30年代」は、消え去ってしかるべき「負け組」になってしまったのです。
「我慢とは、現状に抗する力である」の主体は、「我慢をする我」であり「我々」です。「我々」が主体であって「現状」が主体ではありません。「現状が攻めてきても、われわれは主体的にこれに抗することができる」という考え方が、「"我慢"という現状に抗する力」という表現にはあるのです。これがとっても新しい考え方だというのは、多くの人が「我慢」というものをパッシブなものだと考えているからです。つまり、主体は「現状」の方で、「我々」はそれに圧されて我慢を強いられているです。そりゃそうかもしれないが、そんな考え方だけしていたら、「我々」はいつでも「現状に追随する者」になってしまう−−その結果が、現在の「なんかへんだな」なのです。

やっぱり良く分からないのだけどそれでも、何となく気にかかる文言である。本書全体がそういった感じを身にまとっているようだし、著者自身がそういった書き方もしている。

「著者」という存在は、うっかりすると、読者をぶら下がらせてしまうような存在です。そのあり方は「独裁者」かもしれないし、「読者という負け組」に対する「勝ち組」かもしれません。でも、そういうあり方は、もう古いのです−−私はそう思うので、「『乱世を生きる』がいいや」と思ったのです。

著者が読者にとって「勝ち組」になることはたしかにありえそうだ。そして著者がそれを否定するところが本書の値打ちなのかもしれない。しかし橋本ファンのMorris.にも、何となく釈然としない一冊だった。


07086

【LAST ラスト】石田衣良 ★★☆☆ タイトルに「LAST」を冠した7篇を収めた短編集である。いわゆる「後がない」立場に置かれた主人公達の、あがきや、逃げや、諦めなどが描かれている。著者特有の小洒落た台詞や心理描写などが本書では空回りしているようだし、後味の悪い作品が多いのがMorris.の好みから外れてしまったのだろう。
たとえば、幼時性愛嗜好の医師に雇われてベトナムでその撮影を請け負ったビデオカメラマンを主人公とする「ラストシュート」では、医師のもってまわった言い訳などは呼んでて反吐を吐きそうになった。

「欲望というのはシールのように、対象にべたりと貼られてしまうものだ。その対象は自分では選べない。そして、最悪なことに、こいつの接着剤は強力で一度貼ると二度とはがれない。自分がほんとうに好きなものを愛し、欲望を抱くだけで、世界中から犯罪者として扱われるのがどんな気もちか、きみには想像もできないだろう。同性愛のほうがいくらましかわからない。すくあんくとも現代では職をなくすことも、刑務所にいれられることもないからな。わたしは決して愛してはいけないものを、一生愛し続けるしかないんだ」
声の調子がおかしかった。和利はそっと奈良原を盗み見た。通りの明かりが反射して、外科医の頬が濡れているのがわかった。自分の望むすべてを手に入れたが、幼い小児しか愛せない男。この世界には不幸の形が無限にある。


こういった調子である(>_<) 


07085

【プレイバック】 レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 ★★★ 言うまでも無く原ォの作品読み終えたので、途方にくれたMorris.の当然の道筋として、彼の小説の指針ともいうべきチャンドラーの作品を読むことにしたのだった(^^;) しかしこの師匠も寡作家である。前に「可愛い女」を読んだのだが、本書はチャンドラーの最後の作品、つまり遺作ということになる。正確には未完の長編があって、これは89年にロバート・B・パーカーが書き足して完成させているらしいが、これを入れても長編8作である。残り6作ということになる。
ワシントンの弁護士から特急列車で移動する美人の尾行を頼まれた市立探偵フィリップ・マーロウが、ほとんど趣味的行動に終始する不思議な作品だった。
原作は1958年、清水俊二の邦訳は翌年に出てるから結構早い。Morris.が今回読んだのは77年初版の文庫版だが、59年初版時の訳者のあとがきもそのまま掲載されていて、本作がチャンドラの作品としては異色作、はっきり言ってあまりにもチャンドラーらしくない作品だということが強調してあった。
それはおくとして、マーロウの特異な行動&思考様式は際立っている。いしかわじゅんが「ちゃんどら」でパロったのもよくわかる(^^;)
本書には後にCMで流用されて異常に有名になったあのフレーズがある。清水訳はそれとはちょっと雰囲気が違うが。

「ホテルへつれてってくださる? クラークに話があるのよ」
「彼を愛してるのかい」
「あなたを愛してるんだと思ってたわ」
「あれは夜だけのことさ」と、私はいった。「それ以上のことを考えるのはよそう。台所にまだコーヒーがある」
「もういらないわ。朝のお食事のときまで飲まないわ。あなた、恋をしたことないの? 毎日、毎月、毎年、一人の女といっしょにいたいと思ったことないの?」
「出かけよう」
「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と、彼女は信じられないように訊ねた。
「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」


確かになかなかかっこいい、決めの台詞である。横着してネットで調べたら原文は

If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

で、この台詞を元に生まれたのが、角川映画『野性の証明』のキャッチコピーだったらしい。

 男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない。

「タフ」というのは故意の誤訳だね。まああの時日本の男性の大部分がころっと騙されたんだから、見事な誤訳というしかない。
また、訳者があとがきで特に奇異に感じたという、ある老人のストーリーとは何の関係もない、神の存在や死後の生活についての長い台詞は、確かに不思議ではあるが、Morris.にはそれなりに興味深かった。

「私ほどの歳になると、楽しみはほんのわずかしかない。はちどりとか、ストレリチアの花の不思議な開きかたといったようなものだけだ。なぜ一定の時間になると、つぼみが直角に向きを変えるのだろう。なぜつぼみが徐々に裂けて、花がいつも一定の順序で開き、まだ開いていないつぼみのとがったかたちが小鳥のくちばしのように見え、ブルーとオレンジの花弁が極楽鳥のように見えるのだろう。神さまはどんなにかんたんにもつくれたはずなのに、なぜこんなに複雑につくったのだろう。神は万能なのだろうか。万能といえるだろうか。世の中には苦しみが多く、しかも、多くの場合、なにも罪のないものが苦しんでいる。母うさぎいたちに追いつめられると、子うさぎを背中にかくして、みずからのどを咬みきられるのはなぜだろう。二週間もたてば、母うさぎは子うさぎを見わけることもできなくなるのだ。君は神を信じているかね」
ながい廻り道だが、どうしてもこの道を通らなければならないようだった。「神は全知全能で、何ごとも神の意志のままになっているというような意味なら、ぼくは信じません」
「だが、信じるべきだよ、マーロウ君。心が安らかになる。人間は死ねば終りかもしれない。そうではないかもしれない。死後のことにはむずかしい問題がある。」


老人の台詞はまだ延々と続くのだが、このへんでやめておこう。とっぱなの老人の疑問はMorris.の年来の疑問と重なる部分がある。


07084

【朝日vs.産経 ソウル発】 黒田勝弘 市川速水 ★★★ 「どうするどうなる朝鮮半島」の副題が付いてる朝日新書である。産経ソウル支局長の黒田と朝日ソウル支局長市川の対談である。もちろんテーマは韓国、北朝鮮と日本である。Morris.は結構黒田の本は読んでるが、市川という人は名前すら知らなかった。60年生れだから黒田より20歳ほど若い。Morris.は二人のほぼ中間の年齢ということになる。
年齢差だけでなく「大人と子供の対話」にしか見えなかった。

黒田 前にも言ったように、80年代前半までは、産経新聞が韓国にとって良心的メディアだった。それが80年代後半から朝日新聞が取って代わった。なぜそうなったかというと、産経と朝日の論調が変わったわけではない。彼らが、つまり韓国社会が右から左に変わったからですよ。
市川 ええ。そういう面もあるかもしれません。
黒田 だから、"良心的"の基準は、自分たちの立場に同調してくれるかどうかということですね。彼らにとっては自分たちはいつも正義であるわけで、その正義に組する勢力は良心的となる。これがコリア的世界観です。
市川 ただ、不思議なことに、同じ日本の植民地だった台湾だと産経新聞がいまだに良心的メディアで、でも朝日もよく読まれているんですよね。わりと許容範囲が広い。
黒田 コリア的世界観はね、一種の小華思想ですよ。自分たちが中心にあるわけで、そこそ基準に良心、非良心、道徳、非道徳を考える。韓国的儒教意識というか。
市川 儒教って、そうかなあ。


黒田発言の「小華思想」というのは「中華思想」の間違い、いやわざわざこんな言葉使うのだから「"小"中華思想」(中国の「中華思想」に対してその傍系といった感じの)とではないかと思うが、朝日と産経の韓国での評価の逆転が韓国社会の変化によるというのは納得しやすい。

黒田 僕も長く北のウォッチャーをやってきたからわかるんですが、北に対する誤解,理解不足があると思う。われわれの常識、希望的観測で相手を考えるのは間違いで、北朝鮮というのはきわめて特異な権力構造だし、特異な国家形態、国家運営ですよ。そこがある程度変わらない限り、日本との関係は築けないのが本質であって、朝日も対北朝鮮に変化はみられるけれどまだやっぱり甘いところがありますね。北の政権への見方が純情です。
市川 その論理で言えば、特異な国家形態なら、いくら圧迫しても物事が解決しないってことではないですか。
黒田 いや、それは圧迫の仕方を変えなければいけない。僕に言わせると、中国や韓国などは圧迫せずに裏で助けてるんだからね。日本にだって圧力に消極的な部分がありましたからね。圧迫しても真剣に孤立していないから、彼らは対日外交含めて路線を変えない、変わらないんだと思う。たとえば小泉との首脳会議がシンボリックだけど、あそこでなぜ正日が拉致問題についてすみません、と言ったかというと、あれは彼なりの危機感のあらわれですよ。危機感がおそらくあって、日本を取り込むというか日本をひきつけて対米関係を遊離に展開するとか、あるいは経済的に切迫した事情を背景に日本との国交正常化でカネを引き出そうと思ったんですよ。切羽詰れば、ああして小泉にだって頭下げるんです。悪いことしてすみません、ってね。金正日が頭を下げて日本にすり寄ってきた当時の背景は、今後の対北政策のためによく分析しておく必要がありますよ。
市川 だけど拉致は、金正日が自分で指揮していたのは確実なのに、部下のせいにしましたよね。切羽詰まって頭を下げたわけではないと思います。

上発言を見る限りでは、市川という人は、政治のいろはもわかっていないのか?それともわざと無知を装っているのか?疑問だらけである。

市川 ただ、そのときに、人道援助はどう考えますか?
黒田 人道援助もしてはだめです。ああいう体制の国に、人道援助というものはありえないですよ。
市川 でもね、WFP(世界食糧計画)などが地方に言って、直接食糧支援するのは、これは必要不可欠じゃないですか?
黒田 人道援助が成立するのは解放社会であることが前提ですよ。アフリカなどでやってるように。しかし北朝鮮のような体制上の閉鎖社会で人道支援っていうのは、場合によっては非人道幇助の犯罪になりかねない。


市川 でもその論理を貫けば、レジームチェンジがあるまで封鎖しまくって、何百万人餓死しようと兵糧攻めをして、それで、肉を切らせて骨を断つ式の、極限のところで体制の崩壊を待つみたいな話ですよね。およそ前近代的じゃないですか。
黒田 心を鬼にして、そうすることが北の悲惨さを相対的に短い期間で終らせることになるということです。
市川 そこで、忘れてはいけないと思うのが韓国の存在です。分断国家であるということですよ。もともと一つだった国が二つに分かれてて、いずれ一つにならなきゃならないという使命感を持っている人たちがいる国が、だまってたら餓死してしまう同胞を無視はできないでしょう。政治体制が違うといっても、それが永遠のものでもあるわけでもない。いまや軍事境界線が確定してから半世紀以上、分断なのか別々の国なのか、分からなくなってしまいましたけど、でも、日本のメディアや日本人に欠けていると思うのは、韓国人が別に好きで交流しようとか援助しようとしているのではなくて、分断国家をどうやって元に戻すのか、戻すことがいいのか悪いのか、共倒れになるずにすむか、韓国は深刻に考えていると思うんですよ。
黒田 どうも最近の韓国人たちは深刻に考えているようには見えませんね。


市川の超甘ちゃん発言に対する黒田のカウンターには思わず笑ってしまったね(^^;) Morris.が韓国に行き始めた頃からの20年足らずでも、確かに統一への韓国人の意識は確実に変わったと思うからだ。黒田はこの後に「彼らは卑怯だと思いますよ」という、辛辣な発言までしてしまってる。

黒田(承前) …急激な変化でもなんでもいいから、今の抑圧体制を一刻も早く終らせる、それに伴う困難、自己犠牲は引き受けるという覚悟と宣言を韓国はしないとだめですよ。今の韓国の太陽政策は、卑怯な現状維持です。嫌なこと、しんどいことを考えたくないってことですね。今のままで、自分たちの幸せな環境を維持しながら、ね。ただ統一に関心を持っているんだということで、人道支援だとか金剛山観光とか、支援交流だとかいって、それを言い訳にしてるんですよ。自己満足もいいとこですね。」

ここまで言って良いのか(@ @)と思うと共に、Morris.もどうもこの「太陽政策」にはどこか胡散臭いものを感じてたことは事実である。

黒田 戦後日本のジャーナリズムは戦後的価値観に影響され、北に対する評価を間違いました。戦後半世紀たってようやくそれがわかった。たとえばなぜもっと早く拉致問題がわからなかったのか。産経がいち早く報道し、朝日はなぜ決定的に後れをとったのか。朝日にとってはつらい問題ですが、責任は重大です。北を甘やかしてきたのは朝日ですからね。僕が前にいた共同通信もそう。なぜ甘やかしたのか。戦後の日本のジャーナリズムの北朝鮮観のポイントは、一つはソ連、中国を含めた社会主義幻想があった。思想的トレンドとして社会主義にシンパシーを抱いていた時代でしたからね。もう一つは過去の歴史に対する贖罪意識です。この二つが北朝鮮問題に凝縮されたと思っています。そこから北朝鮮は批判の対象でなく、理想であり評価すべき対象であり、温かく見守ってあげるべき国となった。それが50年間続いた。それを主導したのが朝日ですよ。社会主義幻想と贖罪意識の二つは朝日の"理念として続いてきた"その結果、北朝鮮が甘やかされ、拉致事件にまでつながった。市川さんはどう思いますか。
市川 それは、全くその通りだと思う。
黒田 やけにあっさり認めるんですね(笑)


おいおい、馴れ合いかよ、と思ってしまうぞ。市川はこの後「目が曇ったんだと思います」という、言い訳にもならない弁明をしている。
例の「帰国事業」推進についても「加担して、自己批判もした」ですましてるもんね。黒田も70年からの帰国事業再開時に「人道の船、北へ」という見出しの記事を書いたことを告白しているが、当時は右も左も日本中すべてがこの帰国事業を歓迎していたと収めるあたりは、老獪といえるだろう。
しかし、黒田発言のとおり、70年、80年代の日本のマスコミの雰囲気は「サヨク」的気分に染まってたような気がするな。Morris.も最初の韓国旅行時は結構「贖罪意識」持ってたみたいだし。こういった気分的洗脳というのは、マスコミの一番怖いところかもしれない。
Morris.は黒田の愛読者?ということもあって、ついつい、お馴染みの黒田節(@ @)に肩入れしがちになった。そういった贔屓を別にしても市川の甘ちゃんぶりと、こういう人材がソウル支局長というのでは、朝日新聞の朝鮮半島記事は期待できないと思ってしまった。黒田がいるから産経の記事が優れているというわけでは決してないのだけどね(@ @)


07083

【冬至祭】清水義範 ★★★☆☆ TVプロデューサーとして充実した仕事を任されている40代の男が中学生の息子の不登校を機会に仕事を辞め、地元の秋田県で兄がやってた家業の納豆作りを引き継ぐという、ちょっと出来すぎたストーリーである。清水のパスティーシュものはいささか鼻に付いてきたし、さいばらとコンビのお勉強シリーズもいまいち、名古屋方面の歴史ものも中途半端だし、青春小説は何冊も読む気にはならないし、ギャグものもMorris.とはセンスが合わないし−−−と、悪口言いながら結構よく読んでるなあ(^^;) 「蕎麦ときしめん」を超えるものはなかなか書けないだろうとしても、この人の創作力とジャンルの広さ器用さを認めるにはやぶさかではない。そして最近小説以外の教育論や若者論には共感を覚えていたこともあって、この不登校の子供を持つ親の煩悶と思い切った取り組みをテーマにした本書は読み応えがあった。
もちろん重いテーマではあるし、現代日本の教育への図式的批判もあったが、教育大学出身で塾の講師の経験もある専門家ならではの鋭い意見も多かったし、母親が出産で仕事を辞め、子供に過剰な期待を抱くことになる過程なども細かく描写している。カウンセラーとのやりとりもリアルだし、TV局の人間関係、番組作りや取材の現場作業もフィクションとは思えないくらいしっかり書き込まれている。
プチ家出をして渋谷で夜を過ごす中学生少女たちの取材の中での主人公の呟きには共感を覚えた。

携帯を持たせてあるから心配はないんですと、娘が家出をしても親は平気でいられるのだ。一晩帰ってこなくても、携帯があるから大丈夫だと思っていましたと言う親。
近頃そういう事件がやけに多いのではないだろうか。
それはまるで、携帯電話という名の子捨て装置ではないか。
携帯を持たされ、そのように育てられ、この子たちには帰る家がないのだ。帰りたくないのだろう。その家にはおそらく家族の愛による結びつきがないのだ。
この子たちを自分の目で見てよかった、と戸田は思った。自分の目で見なければ、狂った時代の生んだ愚かなできそこないの若者たち、というような捉え方をしてしまうのだ。
この子たちはできそこないではなく、可哀そうな家なき子だ。


確かに携帯電話は子供を放任している親にとっての免罪符になってる一面がある。
田舎での納豆の家内工業で子供が自信をとりもどし立ち直っていくあたりはややイージーに過ぎるものの、これはこの手の物語に希望を与えるための方便だろう。ハッピーエンドではないのだが、なかなか感動的な作品になっていることは間違いない。複数の地方紙に連載されたものということで、小さなヤマ場を多用する必要もあったろうが、このくらいスムーズに読ませる長編に仕上がってるということだけでも、作者を再評価したい。
ただ本書でも「手をこまねいて」表現が頻出する。今や「こまねいて」は堂々と市民権を得ているのだろうか?でも、Morris.はこれには断固異議を唱えたい。


07082

【コリア打令】平井久志 ★★★☆ 先日六甲道の古本市場で\105で買ったビジネス社の選書で、時間つぶしになればいいというくらいのつもりだったが、意外と有意義な一冊だった。
著者は52年生まれで、共同通信社に入社後83年に延世語学堂で韓国語学び、韓国、中国の駐在を繰り返して、現在は同社のソウル支局長。韓国人女性と結婚し二人の子供がいるとのことで、かなりの韓国通であることは間違いない。
2005年の発行だからちょっと前の韓国事情ということになるが、Morris.がこれまでほとんど触れることのなかった、韓国社会の経済事情、労働問題、社会問題について、いろいろ情報を得るところ多かった。IMF危機ショックの大きさと後遺症、貧富の格差拡大、、ネットテロ、少子化、サムスンの光と影、見た目重視社会、離婚の増加、娼婦街の変化、整形美容、キロギアッパの悲劇、爆弾酒、映画「トンマクコル」−−−等などに、いかにも新聞記者らしい視点からの説明、紹介がなされている。
Morris.は韓国おたくを標榜しながら、歌謡、路地裏、料理、市場、観光などに偏っているため、本書で取り上げられた社会問題や事件にはあまり関心を持たずにいた。もしかしたら故意に目を逸らしていたのかもしれない。そういった反省の意味もあって、いちおう熟読しようとしたのだが、どうも読みづらい。韓国のメディアからの引用も多く、それは良いとしても大量の数字データをずらずらと漢数字で羅列しているので見にくいことこの上なかった。こういうデータこそ表やグラフにしてくれたらすっきりするだろうに。文章も繰り返しやすっ飛びが多く、今回の引用は、直接引用でなく、Morris.が適当にダイジェストしたものである。了解願いたい。

97年末から98年のIMF危機で韓国では大量解雇の風が起こり、韓国人の好きな鱈に引っ掛けた流行語が生まれた。
早期退職のことを「名誉退職」略して「名退 ミョンテ(スケトウダラ)」、次に退職金もなくそのまま解雇される「生の退職 センテ(生の鱈)」、さらには突然の首切り「ファンダンハン退職」を「ファンテ(干し鱈)」と呼んだ。
また2003年頃からの流行語には「四五定 サオジョン(沙悟浄)=45定年の意)、「五六盗 オリュクト(五六島)=会社に56歳まで居座る盗人野郎」、「六二五 ユギオ(朝鮮戦争)=六十歳代になっても組織に居残っている五賊)、「三八線 サンパルソン(38度線)=38歳で早期退職)、「二殆白 イテペク(李太白)=二十歳代の殆どはペクス(失業者)という意」などがある。それだけ失業、退職、解雇などが深刻な社会問題になっているということだろう。
IMF危機の際は韓国全体が危機に直面していたが、今は解雇などの危機が個別に襲ってくる。みんなが不幸なら人間は耐えられるのだが、自分だけが不幸なことに絶えるのは難しいのが人の世の常である。

韓国ではインターネット利用者のことを「ネチズン」と呼び、ネチズンの心を一般の民衆の心を「ミンシム」というのに対して「ネッシム」と呼ぶ。この「ネッシム」はネットマニアというべき上位1%の意見が全体の35%の意見にまで肥大化して評価される危険性を内包した仮想空間といえる。「ミンシム」は「ネッシム」とは別物だが影響は受ける。今後はネット上の大衆情報操作の可能性もあり見過ごせない。

キムチ冷蔵庫は精密な温度制御装置で温度を一定に保ち、一般の冷蔵庫のように直接冷却するのではなく、対流式冷却で食品全体を一定の温度で保存する。キムチ冷蔵庫が95年に登場した直後の97年からのIMF危機の中で98年の販売量が前年比3倍以上に伸びたということでも、いかに人気商品だったかが解る。

韓国の学生運動には二つの大きな系列がある。一つは主流派のNL派「民族解放民衆民主主義革命(National Liberation People's Democratic Revolution)で、この派の理論は1980年代中盤からでたのもので、韓国は帝国主義によって支配を受ける植民地で、韓国社会の矛盾は韓国の民衆と帝国主義勢力とその追随者との間の矛盾と捉え、民衆が主体になる。革命を起こし、帝国主義やその追随者を追い出し、民主主義政権を打ちたてようというもので、北朝鮮の主体思想の影響も受け、具体的には反米自主化、反ファッショ民主化、祖国統一を具体的目標にしている。
もう一つはPD派「民衆民主主義革命(People's Democratic Revolution)」で、韓国社会の性格を新植民地国家独占資本主義と既定し、労働者と資本家の対立を基本とする伝統的な社会主義理論の影響が強く、韓国民衆と、帝国主義やファシズムとの闘争を基本とする。


2005年の映画「ウエルカムトゥ トンマクコル」は朝鮮戦争をファンタジックに描いた作品で、戦争の最中、江原道山中に米軍機が墜落し何とか脱出したパイロットと、同じ頃江原道で迷った韓国軍兵士二人と北朝鮮人民軍兵士3人も、外部で戦争をしてることさえしらないのんびりした田舎村「トンマクコル」にたどりつき、いつか心を通わせるというものらしい。この映画は機会があればDVDででも見たいと思う。
本書では著者は自分の韓国人の妻のことを、すべて「愚妻」と表記しているが、これは絶対に止めて欲しかった。


07081

【ニャンちゃって漫画 平凡キング】室井滋 ★★☆☆ 7年ほど前にトラ猫「チビ」を飼うようになってから、猫マニアになり、近所のノラ猫を次々と飼い始め、多いときには9匹もいたようだ。彼らの写真に台詞を書き込んだいわゆる猫漫画とエッセイを交えた写真絵本みたいなものである。
彼女はいわゆるマイケルみたいな柄の猫がお好みのようで、写真を見てもマイケルに良く似た猫が多い。何かあるとすぐ病院に連れて行くし、チビは尿路症候群で手術も受けている。保険の無い動物の治療や手術はかなり高額だと思う。女優業やエッセイなどで金に困っていないからこそできることなのだろう。
飼い猫の写真は、警戒心のないペットの日常の姿を近距離でスキンシップしながら撮影できるから、色んな表情を仕草を記録できるし、ネットなどで定期的に発表していくうちに、読者に馴染み感を与えるだろうし、はっちゃんみたいなスターになる可能性も高い。飼い主が著者のように知名度が高くファンもいれば、尚のこと関心を集める要因にもなるだろう。
Morris.も猫好きでも飼うつもりも余裕もないわけだが、それでも、こうやって多数の猫を飼うのは大変だろうと思う。近所の猫の保護や里親探しなどにも熱心なようで、単なる猫好きよりは社会的意識も高いと思う。


07080

【さらば長き眠り】原ォ ★★★★ 著者の長編第3作で、Morris.が知ってる限りでは、彼は長編4作と短編集1冊しか書いてないから、これで彼の小説は全て読み終えたことになる。
私立探偵沢崎を主人公とするハードボイルドだが、執筆に5年かけただけのことはある。重厚な作だった。八百長事件に巻き込まれた元高校球児の依頼から、次々に広がる事件の波紋とともに、只者ではない浮浪者、新興能宗家の秘密、例に寄って、暴力団幹部、因縁の警部など、主要登場人物から脇役までの一人一人を実に懇切丁寧に描ききってるし沢崎の元パートナー渡辺のことも巧みに織り込まれてあり、原ォワールド愛好家にはたまらない作品となっている。それにしても、原ォの遅れて来たファンであるMorris.としても、これから何を読めばいいのかいと嘆くしかない状態になってしまった。

「やめてよ! わたしがそのことでどんなにつらい思いをしたか……」
「つらい思いをしても、あなたは依頼人と違って、彼女のために何の行動も起こさないし、むしろ彼の邪魔をしているだけだ」
「だって、彰君やわたしが何かをしたところで、11年もむかしのことをどうやって調べられると言うのよ」
「彼やあなたにはできなくても、私にはあの事件の真相を覆い隠している[何か]を捜し出せるかもしれない。それを引き剥がして、その下に何があるか見つけることができるかも知れない」
「フン、きっとできるでしょうね、高い料金を取って。どうぞ、おやんなさいよ。でもそんなことをしても死んだ夕季は帰ってこないわ」
「そんな陳腐な決まり文句をどこで憶えてきたんです。確かに死んだ人間は二度と帰ってこないだろう。だが、それは死ぬということがどういうことかを知っている者が口にすることだ。あなたには人間が死ぬということがどういうことか、解っていない」
「じゃア、あなたには解っているというの? 人間が死ぬというのは一体どういうことなのよ」
「一つだけはっきりしていることがある。人は死ねば、生き残った人間の想い出の中でしか生きられなくなる。親しい友人や家族やあるいはほかの誰かが、あいつは自殺したんだろうと勝手に納得してしまったとしても、それに一言の抗弁もできなくなるということだ」


自殺したとされる依頼人の姉の死について、姉の友人だった女性との会話だが、なかなかこうリアルには書けないと思う。
また、逮捕現場を描きながら、

雨は相変わらずの状態で降り続けており、三つの回転灯の光線が雨滴に反射してきらきら光っていた。通りかかった二人の通行人の顔にも赤い光が反射して、彼らが今まさに野次馬という別の生き物に変身するところを見ることができた。”他人(ひと)の不幸”という[見世物]で、階段の上の男がどんな役割をしているのか見極めようとするように彼らは立ち止まってこちらを見上げた。

と、「一般市民」の「野次馬」への変身をさらりと描くところなんかも本当に上手い。
本書が上梓された1995年という年代を感じさせる、ヤクザと満身創痍の沢崎の携帯電話に関連するやりとりも興味深かった。

相良がベンツの後部ドアに近づいた。橋爪が相良を制して、自分でドアを開け、上半身を車内に入れて、携帯電話を取り出した。
私は橋爪がどんな嫌がらせをし、どんな悪態をつくか愉しみに待った。彼は何も言わなかった。いきなり、4,5メートルの距離から携帯電話を私めがけて抛った。いつのことだったか忘れたが、この男の弾丸摘出の直後の身体に、私が札束を叩き返したときの仕返しのつもりだろう。私は身体のあちこちで痛みが炸裂するのに耐えながら、必死で携帯電話を受け止めた。彼らの電話など落として壊してしまえばいいものを、なぜ激痛を味わってまでダイレクトト・キャッチしなければならないのか、自分でも理解できなかった。
橋爪は苦痛に耐えている私を見て、満足そうに笑った。
「"外線"のボタンを押しな。おまえのような貧乏人は携帯電話なんか使うのは初めてだろう」


95年という年は神戸の住民にとっては忘れられない年だが、本書はあの震災直後に発行されている。Morris.が原ォを知らずにいたのは、このタイミングが原因だったのかもしれない。あの地震の後、急激な勢いで携帯電話が普及したこともあわせて思い出した。

私は彼の背中に訊いた。「甲子園の準々決勝で、あの電話がかかっていなかったら、勝っていたか」
魚住はドア口のところで振り返って答えた。「勝てはしなかったでしょうが、9回で7点も取られはしなかったでしょう」
「だが、八百長はしていない?」
彼は少し考えて答えた。「していません」
私はデスクの引き出しの一つから、藤崎スポーツ店で買った硬球の野球ボールを取り出した。
「おれからの餞別だ」
私が力一杯に投げたボールを、魚住彰は瞬き一つせず無造作に素手で掴んだ。彼は微笑し、ボールをポケットに入れてちょっと頭を下げた。

依頼人と沢崎の別れの場面だがこれもおたがい、かっこ良いよなあ。
原ォの新作を心より待望してやまない。


07079

【ミステリオーソ】原ォ ★★★☆☆ 原ォの小説皆読んだので、こんな随筆集みたいなものまで読むことになった。ちょうど三作目の長編「さらば長き眠り」の数ヵ月後に出版されている。「映画とジャズと小説と」という副題のとおり、それらに関した雑文が集められているが、彼の自伝的要素も強いし、沢崎に作者を間接的に語らせる2作と、渡辺を主人公とする未発表作も併載されているということで、興味津々の一冊となった。
彼の好みというのははっきりしていて、ジャズならマイルス・デイビス、セロニアス・モンク、バド・パウエル、デューク・エリントン、クラシックはモーツアルト一人、映画俳優なら、ハンフリー・ボガード、ジャン・ギャバン、映画作品は「太陽がいっぱい」と「狼は天使の匂い」、日本映画なら黒沢明、仏像?なら興福寺の阿修羅像、小説はバルザック、ドストエフスキー、山本周五郎、結城昌治、囲碁なら大竹英雄、そして、ハードボイルドなら当然チャンドラー、マクドナルド、シムノンといったところ。実にわかりやすいが、Morris.とはかなり好みが違う。それでも、こういったはっきりした人の文章は面白い。

私は生演奏というものをあまりに過大に評価しないことにしている。生演奏は音がよいというのはほとんど嘘で、大きな会場や野外のジャズ・フェスティバルなどは実は惨憺たる音響であるのが普通だ。念入りに作られたかつてのレコードのほうが遥かに優れている。もっとも、音楽というのは必ずしも、優れた演奏や優れた音響だけを目的にしているわけではない。有名音楽家や愛好する音楽家を目の前にする興奮や感動、演奏ミスをも含めたその場の独特の雰囲気、それに聴き手の側の勝手な条件も加わる。たとえば嫌いな上司が連れていってくれたフランク・シナトラの高額のディナー・ショーより、彼氏と一緒にタダ券で聴いたさだ・まさしのコンサートのほうが忘れられないコンサートになっても、一向に構わないのである。音楽鑑賞とはそういうものである。

再生装置の優劣もあるから一概には言えないだろうが、少なくとも私が持っているCDとステレオ・レコードとモノラル・レコードの三種を聴き較べると、モノラル盤が最も微細で豊かな音質と迫力ある音量をもち、ステレオ盤は左右の音が違うだけで、実質的にはモノラルより質量ともに減少し、CDに至っては陰翳もなく肌理もない、フィルターを通したコピーを聴いてるような感じである。もちろん音が澄んでいて雑音が少ないことを競うなら、その逆の順になるのだが、音楽の中のどこまでが雑音でどこからが楽音だと、一体誰が決めるのか? 手軽な操作と便利な機能で聴けるという点ではCDの独擅場だが、音楽を聴くということさえ近頃ではそんなに忙しい行為になってしまったことが不思議だ。
もし、澄み切った雑音のない音が美しいと言うのなら、実は音楽は少しも美しいものではないのではないかと思う。音楽を手軽に聴くことを評価する向きもあるが、要するに手軽な音楽を聴いているだけのことだ。ボタン一つで、無菌室から流れ出る音を、衛生的な聴覚で聴く……。それも結構だが、音楽を聴くという行為は、むしろすすんで黴菌に感染して高い熱を出すようなことだと、私は信じている。


いくらでもツッコミは可能だろうが、こういったスタイルを持っているということは羨ましくもある。
結城昌治の「暗い落日」の文庫解説きのなかで、結城自身の文章を踏まえながら自己の創作信条を語る部分もなかなかのものだった。

著者(結城昌治)はチャンドラーとロス・マクドナルドの作品の方法を例にとって、"一人称一視点"でストーリーを展開させていく書き方をミステリ(著者は推理小説という言葉を使う)の制約あるいはルール上、もっとも"フェアプレイ"にかなった書き方だと評価して、採用したと語っている。すなわち一人称一視点なら「真相を伏せておくために書きたいこともかけぬなどという嘆言はいらない」し、「わたし」が「知らないことは書けないという当たり前の論理に立つ」ことができる,と言うのである。それに続いて、著者の有名なミステリ論である「推理小説を読む愉しさは、作中人物といっしょになって事件の現場をあらため、容疑者や証人たちの話を聞き、あるいは珍しい地方の風物に接し新しい知識をあつめ、そしてさまざまの人生に立ち会いながら事件の真相を推理してゆく過程にあると言えるだろう。だが、もっと本質的なことは、踏みならされた現実を掘り起こして新しい現実を発見することであり、そして掘り起こされた現実が新しい光の下に照らし出されたとき、それ以前の現実が崩れてその価値が変わってしまうところに、推理小説本来の面白さがあるのではないだろうか」が導き出されている。執筆から17年後の今日でも揺るぎない小説の方法論である。
私は当時の(あるいは今日なおと言えるかも知れないが)ミステリ界の制約あるいはルールについての論議を反映しているかのような"フェアプレイ"についての主張にはささやかな疑問を抱いている。一人称一視点がフェアであるということには飛躍があるし、そもそもミステリに"フェアプレイ"があるということには飛躍があるということ自体信用できないのである。フェアな駄作を列挙することは容易であり、アンフェアな傑作さえも少なくないからである。読者はつねに面白く欺かれたいのではあるまいか。著者も「もちろん推理小説として出来がわるかったら理窟ばかりこねても仕様がない」述べているが、幸いに『暗い落日』がそのような懸念の必要のない作品となったことは、ここで明言することができる。


こうなると該当作品を読みたくもなるのだが、押さえておきたいのは「読者はつねに面白く欺かされたい」というところにある。Morris.の読書控えの採点はほとんどこれに尽きるもんね(^^;)


07078

【アメリカ第二次南北戦争】佐藤賢一 ★★☆☆ 近未来モノで、アメリカが合衆国と連合国に分かれて内戦状態になり、そこに日本人記者や義勇兵、フランス人間諜がからみ、朝鮮半島は統一され、国連本部は日本に移ってと、最初の「お話」がえらく面白そうだったので読み始めたのだが、あまりに雑な筋立てだった。発表誌が「小説宝石」ということで、おおよその見当がつこうというものだが、主人公とイタリア系女性の恋愛沙汰(この女性がカラテの達人だったり)、フランス間諜のあまりの御都合主義ぶり、結局出来の悪いドタバタ喜劇を読まされた観が否めない。
アメリカの建国神話ともいうべきメイフラワーのピルグリム・ファーザーズとオウム真理教との類似性から、アメリカが成功したオウム真理教であるという説は面白かったが、これも著者のオリジナルではなさそうだ。
「手を拱いて」にわざわざ「こまねいて」とのルビがあった(8p)のもMorris.の嫌悪感を誘ったのだろう。


07077

【タルドンネ 月の町】岩井志麻子 ★★☆☆ 完全にタイトルに惹かれて手に取った。彼女の作品は以前インドネシアかどこかの男を愛人にする著者自身をモデルにした作品で読む気を無くしたのに、このタイトルは反則である。「タル」は月、「トンネ」は町で、当然舞台も韓国というのは看板に偽りなしだったのだが、主人公は21名を殺しまくった殺人鬼、それを捕まえる刑事、さらにこの事件を小説化しようとする日本の女性作家(もちろん著者)の愛人のホテルマンの3人の男がタルドンネ出身というだけのことで、内容は執拗なほどの殺戮、バラバラ殺人、セックス、人肉嗜好、近親相姦−−−やっぱり読むんじゃなかった(>_<)


07076

【暁の密使】北森鴻 ★★★ 明治時代中期、「西蔵大蔵経」を求めて中国大陸に渡った東本願寺大谷派僧能海寛を主人公にした歴史小説、と思ったら、実は日英露などの謀略の中で翻弄されるという、国際事件小説だった。
ダライ・ラマの手先の原地人や、阿片密売の中国人、外務省から派遣された工作員、シベリア鉄道の開通を睨んで暗躍する英国商人、日清、日露戦争の裏舞台など、当時の事件てんこ盛りで、作者も収拾が付かなくなった模様である。この人はギャグやら実録モノやらと矢鱈手を広げすぎてるようだが、やはり、骨董シリーズ、民俗学シリーズに集中願いたい。


07075

【デジタル 写真の学校】キット タケナガ ★★★★ デジカメ時代(と言っていいだろう)になってざっと5年くらいになるだろうか? Morris.はコンパクトデジカメ歴は結構古いほうだが、デジカメの入門書にはいいかげんうんざりしてた。ネットの撮影術サイトの方がずっと先を走ってる感じだったし、画像も大きく綺麗だった。それがここ数年前からやっとそれなりに見どころのあるデジカメ撮影の本をぼちぼち見受けるようになった。デジカメ一眼レフの普及がきっかけとなったのだろうが、Morris.はコンパクトデジカメに固執している。
本書は東京写真学園の編集で、実に実践的に出来ている。テキスト担当のキット タケナガは1948年生れとなってるからMorris.と同世代で共通するものがあるのかもしれない。お散歩ネットというアマチュア写真集団のメンバーの作品がふんだんに使われていて、それらがいかにものびのびしてるのがまた良い。それもまるまる1ページ三方断ち切りとか2ページ見開きの贅沢な使い方で好感がもてる。
要するに相性が良かったということになるのだろう。ぐだぐだ言うより型見本を紹介しておこう。

・流し撮りするときのコツは、カメラで被写体を追うという意識を捨て、上半身全体で追うようにすることだ。カメラは動かさないで、腰を中心にして上半身全体を回転させるようにする。また、シャッターを切った瞬間から上半身を回し始めるのではなく、被写体の動きに合わせて上半身をまず回しはじめ、その途中でシャッターを切るようにするといい。流し撮りというと高等テクニックのように思われているが、実際にやってみると、初心者でも意外に難しくないテクニックである。

ね、懇切丁寧でわかりやすいでしょ(^o^)

・ファインダー中央部の測光エリアの部分だけで露出を測る方式をスポット測光と呼ぶ。画面全体にはいろいろな反射率の物体が存在しているわけだが、それらのほとんどは無視して中央部だけを測るわけだ。したがって、自分が一番正確に見た目の描写をしたいと思う部分をファインダー中央部に置いて測れば、求める露出が得られることになる。人物の肌色の描写に神経を使うポートレート撮影などでは重宝する方式だ。
普段は中央部重点平均測光、画面の中にいろいろな反射率のものが混在して露出補正幅に迷いが出るようなときはスポット測光を併用するとう使い方が現実的だろう。いずれにせよ、自分が使い慣れた測光方式を早く会得することが寛容で、その他の測光方式は補助的につかうぐらいの割り切り方も必要だ。

こういった割り切り方というのが大事なところだろう。Morris.はスポット測光中心で行こうと思う。

・基本的には、デジカメ撮影はアンダー気味に露出補正を考えるほうが失敗の確率は少なくなる。

これは、まあ常識というか、白飛びは救いようがないもんね。

・手ブレ対策の裏ワザ−−ひとつは呼吸法。ぶらしたくない一心で呼吸を止めるのは逆効果だ。呼吸を止めると空気を求めて体は震える。これを自然の摂理という。深呼吸を2,3回、深く息を吸って静かに吐き出す。その吐き出している」途中で静かにシャッターを切るのだ。ここで息を止めてはいけない。

これまで読んだ写真の本ではたいていシャッター切るときは息を止めると書いてあったから、これはちょっと驚きである。うーーん、どちらがいいんだろう。

・「日の丸」「串刺し」「腹切り」を称して構図の三悪という。

・花の接写の注意事項
1.綺麗な花を見つける。
2.背景(ヌケ)を選ぶ。暗い背景なら、思い切って露出をマイナスに補正して、背景を黒く落とすと花が浮き立って見える。
3.どうしても画面に余計なものが入ってしまうときは前ボケを利用して隠す。
4.花の位置は、花が開いてる方向の空間を広く取るのが基本。
5.花の色が変色したり濁ったりしないように、ホワイトバランスには十分な注意を払う。
6.接写の場合は、レンズの影が花に落ちないように注意する。順光より逆光の方が綺麗な色が出るが、その場合は露出があまりアンダーにならないように。
7.ピント位置は蘂が基本。
.8接写するときの被写界深度は極端に浅くなる。ほんの1mmの狂いでボケてしまう。慎重にピントを合わせることはもちろん、風などで揺れる場合や、やむなく手持ちで撮るようなときは数撃ち打法で何枚も撮影しておくべし。
.9背景に黒い紙をおくなどして背景を整理する。小さなレフ板や手鏡なども効果的
.10.花に水滴を散らすための霧吹きや、花びらに付着した花粉やゴミを取り除くための筆を携行する。


07074

【ちゃんどらの逆襲】いしかわじゅん ★★★★ 日記にも書いてる通り、今日春日野道の勉強堂の百円均一で掘り出してきたものだ。87年双葉社初版ということはもう20年も前の作品ということになる。さらに「ちゃんどら」オリジナルは1981年頃ビッグコミックスピリットに連載されていたわけで、すでに漫画としてはオールドウエーブというか、過去の作品にちがいない。Morris.はいしかわじゅんの愛読者とはとても言えないし、作品の半分も読んでないと思う。でも、どことなく気になる漫画家であることはまちがいないし、本書も以前読んだことあるかもしれないのだが、あらためていしかわギャグに大笑いしてしまった。
主人公ちゃんどらは息子ロビオを亡くした夢野博士が息子に似せて作ったロボットだが、あまりにもぶさいくなので博士はチリ紙交換に出してしまい、ロボットはグレて探偵ちゃんどらとなった。わけで、この命名は当然ハードボイルドの始祖であるチャンドラーに由来する。
漫画の方はハードボイルドというよりはスクランブルエッグみたいなギャグだらけであるが、このギャグのセンスに、いまどきの若者はきっとついていけないだろうな。つまり、Morris.はいまだに20年前のギャグセンスから抜け出せずにいる証拠となるのかもしれない。


07073

【はじめての言語学】黒田龍之助 ★★★☆ 「外国語の水曜日」の著者による言語学の入門書ということで手に取った。やっぱりこの人の本は面白くてためになるMorris.好みである。
小見出しだけでも興味津々だった。
・語源研究が言語学なのではない
・言語学にとって言語とは何か
・音を考えるときの基本は音韻
・言語学では≪単語≫がない
・≪ウラル・アルタイ語族≫なんてない
・ピジンとクレオール

特に「ウラル・アルタイ語族」なんてないという指摘には意表を突かれたが、これはもうほとんど「常識」だったらしい。

たとえばアルタイ諸語というのがある。諸語というのは、語族の関係がいまいち証明できていない言語のグループである。トルコ語やウズベク語、モンゴル語などがこの中に入る。これらの言語には、明らかに、似ていて親戚だろうというのもあるが、一方でははっきりしないものもある。だから慎重に考えて諸語と呼んでいるのだ。
ところが、これらの言語は絶対に関係があると主張する人もいる。こういう人はトルコ語やモンゴル語をまとめて≪アルタイ語族≫と呼ぶ。言語学の世界ではふつうこれはみとめられていない。こういう説を唱えるのは危険度1である。
次にこの《アルタイ語族》はウラル語族と密接な関係があるという説。二つを合わせて《ウラル・アルタイ語族》と呼ぼうという。これで危険度2。
さらに日本語もこの《ウラル・アルタイ語族》だという説。ほかにも韓国・朝鮮語まで含めて、みんな家族の一員だという。これで危険度3。
最後に《ウラル・アルタイ語族》はインド・ヨーロッパ語族やその他の語族とともに大語族を形成する。世界の言語はみな一つの源から分かれたのだ。人類みな兄弟。ここまでくると神話である。危険度無限大。
かなり不確かな説なのに、この危険度3ぐらいまでは、今でもときどき耳にする。第二次世界大戦前にこういう説が流行ったのだが、それがいまだに続いているのだ。


言われてみれば納得するしかないのだが、Morris.はこれまでずっとこの《ウラル・アルタイ語族》の存在を何となく信じてて、日本語も韓国語もその中に含まれているんだろうと漠然と思ってた。危険度3だったわけだ(^^;)
その他「日本語の起源はこれだ」という説が十年に一遍くらい出て来るが言語学者はあまりの馬鹿らしさに無視を決め込んでいるらしい。日本語−インドのタミル語との関連を主張した国語学の御大もその例に漏れないようだ。

言語学で言うアルファベットとは、基本的に一つの音に一つの文字をあてる形式がアルファベットだ。つまり音と文字がだいたい一対一だったら、ギリシア文字だろうがキリル文字だろうが、みんなアルファベットなのである。それに対して英語やイタリア語で使われるのはラテン文字という。しかし日常ではそうでない使い方をしている。ラテン文字だけがアルファベットであると信じている人が、語学教師にさえいる。

音がひっくり返ってしまう現象、「新」はもともとはあらたし」だったはずだが、いつの頃からか「あたらし」になった。ほかにも「あきばはら」が「あきはばら」、「さんざか」が「さざんか」なんて例もある。こういうのを音位変換、またはメタテーゼという。

そうか「ヘコリプター」は「メタテーゼ」だったのか(^^;)

方言はさまざまな価値観を伴って語られることが多かった。衒学ではその点について判断しないということを強調しておく。方言はヴァラエティである。さまざまな変種が多いことは豊かなことだ。否定的に扱ってはいけない。


07072

【わたしの詩歌】文藝春秋編 ★★★☆ 作家や研究家など46人が、青春時代に愛誦したり心に残ったりした詩歌を紹介してコラム風に感想を記したお手軽アンソロジーで、当然玉石混淆である。澤地久枝と米原万里がネクラソフ、水木楊と南伸坊が李白、久世光彦と鴨下信一が久保田万太郎、阿刀田高と小田島雄志が中原中也、蔭山英男と齊藤孝が宮澤賢治など重複する詩人もけっこうあったし、井上章一の「六甲おろし」、最相葉月のあがた森魚、岸田秀の「ゴンドラの唄」などちょっとひねったものもあった。
なかでも笑わせてもらったのはねじめ正一紹介のサトウハチローの長嶋茂雄賛歌?だった。

長嶋茂雄選手を讃える詩 サトウハチロー

疲れきった時
どうしても筆が進まなくなった時
いらいらした時
すべてのものがいやになった時
ボクはいつでも
長嶋茂雄のことを思い浮かべる
長嶋茂雄はやっているのだ
長嶋茂雄はいつでもやっているのだ
どんな時でも
自分できりぬけ
自分でコンディションをととのえ
晴れやかな顔をして
微笑さえたたえて
グランドを走りまわっているのだ
ボクは長嶋茂雄のその姿に拍手をおくる
と同時に
「えらい奴だなァ」と心から想う
ひとにはやさしく
おのれにはきびしく
長嶋茂雄はこれなのだ
我が家でのんきそうに
愛児達とたわむれている時でも
長嶋茂雄は
いつでもからだのことを考えている
天気のいい日には青空に語りかけ
雨の日には
天からおりてくる細い糸に手をふり
自分をととのえているのだ
出来るかぎり立派に
長嶋茂雄はそれだけを思っている
その他のことは何も思わない
ボクは長嶋茂雄を心の底から愛している
自分をきたえあげて行く
長嶋茂雄のその日その日に
ボクは深く深く 頭をさげる

こんな詩を書いてたとは全く知らなかったな。うーーん、サトウハチロー恐るべし、である(^^;)
その他では、やはり短歌や俳句などの定型作品にしっくりくるものが多かった。関川夏央の葛原妙子、森まゆみの吉井勇、久世光彦の万太郎からいくつか引いておく。

・出口なき死海の水は輝きて蒸発のくるしみを宿命とせり 葛原妙子
・晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて 葛原妙子
・カルキの香けさしるくたつ秋の水に一房の葡萄わがしづめたり 葛原妙子
・他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水 葛原妙子
・噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々(りり)たりきらめける冬の浪費よ 葛原妙子
・伯林の恋のたよりを書きおこす インキも薄くなりにけるかも 吉井勇
・柳橋これや柳の精ならぬ うつくしき子のつれなかりけり 吉井勇
・ややありてふたたびもとの闇となる 花火に似たる恋とおもひぬ 吉井勇
・冬の灯のいきなりつきしあかるさよ 久保田万太郎
・うすもののみえすく嘘をつきにけり 久保田万太郎
・走馬灯いのちを賭けてまはりけり 久保田万太郎


岸田秀の口語自由詩小便説というのも、二番煎じらしいが初めて見たMorris.は、大いに笑わせてもらった。

かつてわたしは、定型詩を、悲しみを抑えても目頭ににじんでくる乙女の涙、口語自由詩を、寝たきりボケ老人の垂れ流しの小便に譬えたことがあるが、涙と小便は化学成分としてはほとんど同じであり、同じく身体から出てくる液体ではあっても、どのような形で出てくるかによってその意味が大いに異なるように、定型詩と口語自由詩とは、思いなり情緒なりを言語で表現するという点では同じであり、同じく詩と称しているけれども、それを読む人が受け取る感動は大いに異なるのである。
およそ、人間の感情や欲望は抑えられることによって、高まり、洗練され、微妙になり、濃やかになってゆく。生じた途端すぐ表現され、満足されれば、それこそ寝たきりのボケ老人の垂れ流しの小便よろしく、何の面白味もない無内容なものにならざるを得ない。いや、そもそも感情や欲望として形成されない。われわれが抱く思いや情緒も、詩に表現しようという場合、定型という枠をはめられ、束縛されて、そのため、ダラダラとその場で安易に表現することを許されないことによって、豊かになり、それが詩にこめられる。そして、その詩を読む人の同じく抑えられた思いや情緒に訴えることができ、共鳴と共感を惹き起こすのである。


岸田自身は当人曰く「挫折した新体詩人」であり、いまや心理学者として一家をなしてるだけに、言いたい放題だね(^o^) しかしここには一面の真理が含まれているようでもある。さらに岸田は現在に新体詩の伝統を引き継いでいるものに歌謡曲の詞があるとして、「ゴンドラの唄」をネタに我田引水的解説を開陳している。これもMorris.呵呵大笑である(^o^)

この歌(「ゴンドラの唄」)は、女が乙女である期間、女が色気とか性的魅力とかを発揮できる期間は非常に短いから、ゆっくり構えている余裕はなく、大急ぎで男と恋を楽しまないと手遅れになってしまうという普遍的真理を表明している。実にわかりやすい。この歌はまた、わたしが性的唯幻論で主張している説、すなわち、女の色気とか性的魅力とかは、本能に基づくものではなく、本能が壊れて自然に女を求めることのない人間の男をして人為的に女を求めさせるために作られた文化的産物であるとうい説を裏づけている。さらにこの歌は、女もまた自然に男を求めることはないので、このようのせかせて女を慌てさせ、男を早く掴まえないとダメですよと、女を脅迫して男を求めさせようとしているのである。これはまさに男女関係の真理を語っている詩である。そして、この真理は、永遠の愛とかのある種のロマンティックな恋愛幻想に反するため、あまりおおっぴらに語られず隠されているので、まさに抑えられた真理であり、だからこそ、それを語った詩は優れた詩なのである。

ぎゃははははは(^o^) 岸田に座布団3枚!!


07071

【カオス】梁石日 ★★★ 豪快な在日二人組の仕事と女と事件を描いたもので、梁石日の最近のものの中では比較的面白く読めた。主人公が岡惚れする色っぽいジャズシンガー、相棒の巨漢の愛人オカマのタマゴなどのキャラが立ってるし、中国人マフィアや台湾人のヤク商いに悪徳刑事がからむわ、新興宗教巡回で子供を産もうとするタマゴのコミカルにして泣かせる執念もあり(意外とこれがテーマかも)、とにかく最後まで一気に読んでしまった。相変わらずザツなところも多いし、成り行き任せで書き進めた部分が多すぎるようだが、それもタイトルに合ってるといえなくもない。


07070

【東京カウボーイ】矢作俊彦 ★★☆☆ 92年発行の矢作の比較的初期のハードボイルド作ということでちょっと期待して読んだのだが結果は×。
2部構成で一部はベトナム生まれの傑(ジェイ)を主人公にした連作5篇、2部はテーマもばらばらの短篇5篇。10篇の短編集ということにもなり、Morris.は矢作は長編しか認めてないから、当然の結果ということになるのかもしれない。


07069

【魔王城殺人事件】歌野晶午 ★★☆ 同じくミステリーランドシリーズで、そもそもこの作家を読もうと思ったのはこのシリーズに名を連ねていたからだった。そして本作は駄作だった(>_<) 東京郊外の新興住宅地に戦前からある妖しい洋館、というのは綾辻の館シリーズに似てなくもないが、庭にある4つの部屋からなる不思議な小屋のトリックもあまりにおそまつだし、小学5年生5人の「探偵団」も腰砕けの上にメンバーそれぞれの魅力に乏しい。メンバーのいとこが刑事で、殺人事件捜査の内幕を子どもらに教えるというのも変だし、デジカメトリックにはちょこっと気を引かれたがやっぱり不自然に過ぎる。
ストーリーと全く無関係なことだが、刑事と子どもたちの会話がひっかかった。

「『小さな名探偵』って、ぼくたちのこと?」
おっちゃんが自分の顔を指差した。
「お気に召さないかな?」
「その形容詞に、見下す気持ちがこめられてるんだよなあ。」
KAZがぶつくさ文句を言った。
「『小さな』は、形容詞じゃなくて形容動詞。」
タキゾノキヨミがツッコミを入れた。


Morris.は一瞬これはタキゾノが間違ってるんじゃないかと思ってしまった。形容動詞といえば、「〜だ」で終る品詞というイメージが強かったからだ。そもそもこの形容動詞というのは、日本語に特有なもので、英語や韓国語だとすべて形容詞になってしまう気がする。
大辞林で調べたら、おお、形容動詞になってるぞ。

ちいさな・ちひさな【小さな】(形動)[形容動詞「ちひさなり」の連体詞から]現代語では、連体形「ちいさな」の形だけが用いられる。小さいさま。「--箱」「規模の−−会社」[「ちいさな」を連体詞とする説もあるが、この語は「手の小さな人」などのように、述語としてのはたらきをもっている点が、一般の連体詞とは異なっている)

なるほど。「ちひさなり」かあ。形容動詞は現代語では「〜だ」「〜です」の終止形だけど、文語では「〜なり」「〜たり」の終止形だった。Morris.はいちおう国文科出てたはずだが、文法は当時から苦手だったもんね(>_<)


07068

【必勝小咄のテクニック】米原万里 ★★☆☆ 集英社の出版案内「青春と読書」に1年間連載したもので、小咄の集成ではなく、ジョークの構造を分析分類して、オチをつけるテクニックを伝授する。なんて惹句に書いてある。当然Morris.はマユツバだと思ったね。
笑いやユーモアを論じて面白い作なんてめったにお目にかかれないし、そもそもMorris.は、この小咄というのがそれほど好きじゃない。たまによく出来た咄を読んだり聞いたりすると関心はするものの、それだけである。
本書は、著者の自作小咄なんてのもあるし、練習問題(>_<)なんてのまで付いてるが、どれもいまいちだった。彼女お得意の下ネタがMorris.好みではなかったし(Morris.が「下ネタ」自体がきらいだというのでなくて)、小泉批判が小咄の形で頻出するのも今となっては何だかなあであった。

小咄(噺、話)、笑い話、ジョーク、アネクドート、ショートショート……名前はいろいろだが本質は同じ。短くて笑わせてくれる話を指す。だから本書では十把一絡げに小咄と呼ぶことにする。

冒頭のこの乱暴な一文だけで、ページを閉じるべきだったかもしれないな。


07067

【女王様と私】歌野晶午 ★★☆☆ 44歳のおたくがモデルの小学生に翻弄されながら殺人事件に巻き込まれるという、いかにものストーリーで、途中でMorris.は読むのをやめようかと思いながら最後まで読まされてしまった。結局はおたくの妄想の世界を中心に、読者を引っかき回す手法はMorris.には目新しくも思えたが、後味は良くない。それでも、この作家はどこかひきつけるものをもっているようだ、もう1,2冊読んでみよう。


07066

【"日本離れ"できない韓国】黒田勝弘 ★★★☆ 去年読んだ文春新書「韓国人の歴史観」(2002)の続編みたいなものである。前作のときにも「サンケイ色が濃くなってる」と書いたが、本書もそのカラーはますます濃くなっているようだ。しかし、本書はMorris.に共感させる部分が多かった。これは黒田側の変化というより、Morris.の意識が黒田よりになったということなのだろうか?
1945年8月15日の日本の敗戦、朝鮮の「光復」直後の歴史的推移が、日韓(この際北朝鮮はおくとして)の、特に韓国側の心理状態を呪縛してることはいくら強調してもし過ぎることはないと思う。

韓国(朝鮮)が自力で自らの解放を勝ちとれなかったということは、彼らにとっては憤懣やるかたないことだ。日本との歴史においては、日本に支配されたこともさることながら、その支配から自力で脱出できなかったという鬱憤の方が実はもっと大きいのだ。
今に続く反日というか、日本に対する"恨み節"に似た感情はそこに起因する。自力で日本を追い出し解放・独立を実現しておれば、あるいは日本との独立戦争で日本を打ち負かし勝利していれば、いつまでもぐずぐずと反日をいいつのることはなかっただろう。勝者が打ち負かした相手、つまりは敗者に対し恨みを言う必要は無いからだ。日韓関係が今なおどこかすっきりしないのは、このことが尾を引いているからだ。


筆者も書いているが、歴史に「もし」は許されないとして、朝鮮半島にとってあの8月15日の迎え方が、ほんのちょっとでも違っていれば、これほどにこじれまくることは無かったのにと、思わずにいられない。

韓国では鬱憤を晴らすことを「ハン(恨)プリ」という。「プリ」は「解く」を意味する。だから、靖国神社反対も一種の「歴史的ハンプリ」といっていいい。それは「ハン」というのが韓国人においては他者に対する単なる恨みつらみではなくて、「自ら果たせなかった望みや夢の挫折い対するやるせない心情」であり「満たされない思いの塊みたいなもの」という解説にビタリあてはまる。

「はん 恨」は朝鮮文化を読み解くキーワードであることは間違いないと思うが、靖国神社反対までもが鬱憤晴らしというのはちょっと疑問がある。でもハンプリとしての「反日」はたしかにネタとして無尽蔵だと思うぞ(^^;)

満州は"新天地"として多くの日本人を惹きつけたように、朝鮮(韓国)人たちも夢と希望を抱いて満州に渡った。「歌謡舞台」で最も多く歌われてきた「野いばら(ジルレコッ)」は、満州の地から朝鮮半島の故郷を懐かしむ歌だ。あるいは「感激時代」や「大地の港」などは満蒙開拓の歌といっていい。いずれも満州国が建設された1930年代から40年代初めにかけてのヒット曲だ。とくに明るく軽快な「感激時代」は、その題名もあって、多くの韓国人は日本から解放された喜びをうたった解放直後の歌だと、錯覚、誤解しているほどだ。
あるいは、渡し舟で国境の河を越えてゆく恋しい人への思いを歌った「涙に濡れた豆満江」は、懐メロ演歌の定番中の定番だが、この、「恋しい人」とは満州の地に逃れる独立運動家だというのが近年の解釈だ。


満州の一部は、現在の中国の延辺朝鮮人自治区と重なるし興味を惹かれる。「野イバラ」「雨に濡れた豆満江」はともかく、「感激時代」までもが満蒙開拓に関わる歌だと言うのは知らなかった。

朴正熙の「ニ・二六事件」への関心とは、少壮軍人のクーデターによる政権掌握の方法だけではない。事件の背後にあった農村の疲弊など社会的不条理の解決のための、国家社会的な新体制に夜国民総動員による新しい国づくりの発想、といったこともあったのではないだろうか。
ひょっとして朴正熙は金日成以上に革命児だったかもしれない。その最大の業績としては、農村、農民を「セマウル(新しい村)運動」に動員し、組織化することによって明るく住みよく一変させるなど、国民に「ハミョンテンダ(なせばなる)」のスローガンでヤル気を出させたこと、つまり国民の意識改革に成功したことが挙げられれる。

日本人拉致事件の背景には、日本ジャーナリズム、ひいては日本社会の"北朝鮮タブー"があったのだ。このタブーは近年、日本人拉致事件が明るみに出るにおよんでほとんど崩れたが、ではなぜ、このタブーが日本社会に生まれたのか。
それは、日本の戦後社会における対朝鮮贖罪意識と社会主義幻想のせいである。
筆者(黒田)は1964年にジャーナリズムの世界に入ったが、このことは経験的にはっきりいえる。今でいえば、いわゆる「自虐史観」の影響は「朝鮮」をめぐって最もきわだっていた。
そして北朝鮮をめぐっては、この贖罪意識に社会主義幻想が加わった。戦後日本における社会主義思想は、とくに知識人やマスコミに強かった。政治的にはソ連や中国など共産主義国家が偶像視され、日本でも社会党や共産党の基盤は強かった。その結果、「日本帝国主義(軍国主義)と果敢に戦った抗日独立闘争の英雄・金日成」と、彼が率いる社会主義・北朝鮮もまた偶像視された。
後に「地獄への送還」として問題になるが、1959年に始まった在日朝鮮人の北朝鮮帰還も、日本のマスコミでは資本主義から社会主義への歴史的な「栄光への脱出」であり、帰還船は「人道の船」だった。筆者もまたその片棒をかついだ記者のひとりだった。


こういった率直な告白が筆者への信頼を深めるのだが、それにしても、日本のマスコミにはこれらの事実を知りながら、知らぬふりを決め込んでいる傾向が強い。

韓国における日本の歴史教科諸問題にからむ執拗な記述修正要求など、日本の教科書制度を考えれば内政干渉にひとしい。また盧武鉉大統領は2006年の「三・一独立運動記念日」の演説で、間接的ながら日本の憲法改正問題にまで触れて日本を非難し、日本側から内政干渉ではないかとの批判を浴びた。
しかし韓国側は過去を理由に、日本に対しては国境意識は弱い。だから「内政干渉」といった意識はない。つまり韓国は「日本離れ」ができていないのである。これは政府や外交問題に限らず、多くの韓国人が日常的にそうなのだ。
たとえば、韓国人の頼みごとの多さには驚く。彼らはもともと地縁、人縁に生きる人たちだから頼みごとが多いということは分る。しかし外国人である日本人のわれわれに対する、あのなれなれしい頼みごとはどうしたことだろう。外国メディアであるわれわれの事務所へのよろず持ち込み話の多さは何だろう。筆者(黒田)の韓国生活体験においても、彼らは日本、日本人に対する外国意識つまり国境意識が実に弱いのだ。あれもわれわれにとっては「植民地支配のツケ」に違いない。


つまるところ、日本も韓国も「外交」そのものができていないということになるのだろうな。
日韓国交正常化交渉の補償問題で、個人補償を提案した日本政府に対して、韓国側は政府による一括受取りを主張し、結果的にはこれが経済的発展の基盤となったことを踏まえた上で、

この選択が正しかったっことは、韓国のその後の目覚しい経済発展が物語っている。もしあの時、五億ドルを個人補償として国民に少しずつバラまいていたとすれば、いったいどうなっただろう。おそらく何も残らなかったに違いない。
請求権資金は何に使われたか。『白書』を見ると、農林・水産・鉱工業・科学技術開発・社会間接資本……とあらゆる分野に投入されたことが記されている。−−まさに韓国の経済、社会発展のためのあらゆるインフラ事業に使われたのだ。
そのうち象徴的なプロジェクトといえば、今や世界最大級の製鉄企業に発展している浦項製鉄(現POSCO)、今なお韓国の陸上輸送の最大動脈である京釜高速道路、そしてソウル首都圏を水害から守る韓国最大の昭陽江ダムといったところがビッグスリーだろうか。あるいは1974年に韓国で初めて開通した、ソウル地下鉄一号線もまたそうである。
ところがこうした事実が韓国社会ではほとんど知られていない。いや、知らされていない。もちろん『白書』の存在さえまったくといっていいほど知られていない。
「日本隠し」とはこうしたことを言う。浦項製鉄や京釜高速道路を知らない韓国人はいない。昭陽江ダムまたヒット演歌「昭陽江乙女ソヤンガンチョニョ」で知られるように、風光明媚な観光地にもなっていて韓国の国民にはおなじみだ。しかしそこに「日本の償い」が入っていることを知っている国民はほとんどいない。いや意図的に知らされてこなかったのだ。


植民地時代に「日本はいいこともした」発言が、韓国側の条件反射的猛反対を招くのと同じく、このような物言いが韓国側の反発を買うことは想像に難くない。しかし、事実を知り、伝えることは必要だろう。

ソウルの中心街の風景は、今や中世と現代はあっても近代が見当たらない。近代の風景の多くは日本統治がもたらしたものだったから、日本支配=近代が消されつつあるのだ。解放から五十年後の朝鮮総督府ビルの撤去は、その象徴だった。

個人的に愛着のあった旧総督府が、無能な大統領の人気取りのために撤去されたことには今でも残念に思っている。しかしこれに関しては日本人の言うべきことではないのだろう。

韓国の"反日"には韓国側の事情が存在することがあらためてわかった。韓国側に事情があるとすれば、これは日本側の努力だけで改善、解消するものではないということになる。したがって韓国の"反日"にはじたばたせず、韓国側の事情が変わるのを待つしかないのだ。

このあとがきの中の一節が筆者の結論というのはちょっと拍子抜けだが、内心共感も覚える(^^;)

韓国人たちにとって日本は特別な感情を持つ特別な国だが、日本人にとっても韓国はやはり普通の外国ではない。近代以降、日本が世界で最も強く影響を与えた特別な外国なのだ。そして筆者は四半世紀にわたる韓国での生活体験から、韓国人は世界で最も"反日"であるとともに最も"親日"だと思っている。


07065

【無限連鎖】楡周平 ★★★☆ 9.11同時多発テロからあまり時を置かずして発表された、テロの続編を主題にしたシミュレーション小説といえるかもしれない。
全米の流通の要所60箇所を同時に爆発させ、アメリカ経済ひいては資本主義の経済を麻痺させようという作戦。普通ならこれを如何にして防ぐかというのが主題になるのを、本書ではこれを見事に成功させ、さらに、次は日本の巨大タンカーをシージャックして東京湾を石油まみれにするという作戦。これだけ書くといかにも作り話だが、筆者はこれに政治経済的薀蓄と、それぞれの立場の主要登場人物数名のディテールを丁寧に書き込んで、小説に厚みを加えている。そして物語の進行につれて場面や登場人物の場面転換を巧みに演出して読者を飽きさせない。なかなかの手錬れだと思う。

本当にアメリカに打撃を与えようとしたら、知恵を働かさなければならない。敵対行為をとった人間たちが国家という枠にとらわれないものであったとしたら、連中は振り上げた拳のもっていきどころに困るに決まっている。
自分たちの生活がとてつもなく不自由になったにもかかわらず、派手な報復に打って出ることもできないとなれば、あのカウボーイ気取りのペシミスト連中にとっては我慢がならないだろう。大統領の権威は失墜し、国は大混乱に陥ることになる。
そのためには何も数千人もの人間を殺す必要はない。あの豊かな生活を支えているのは何か。それを考え、破壊してやればいいだけの話だ。
人間というのは不思議なもので、当たり前のことが当たり前でなくなる、つまり一昔前ならば当然だった不自由に立ち返ることすら不平を唱えるものなのだ。

大きな仕事はみなそうだが、メンバーのそれぞれが与えられた任務を百パーセント確実にこなせば、おのずと成功するものと決まっている。全ての人間が全体像を知っている必要などない。特に大きい仕事は、全体を知るものが少なければ少ないほどいい。そのためには一市民として、特に反米の言をあげつらうことなく、平凡な日常生活を送らなければならない。

物語の始めに出てくるテロ側の男の独白だが、これだけでも本書のタッチとトーンを知ることができるだろう。
エンターテインメントは読者を楽しませてさえくれればすべて良しとMorris.は思ってるわけで、そういう意味では本書は合格点である。特に後半の石油タンカー「あらびあ丸」の乗組員、特に船長である日本人の描写は圧倒的で、彼の人生論みたいなものまで開陳されてるし、終盤の死闘は感動的でさえある。
タイトルには不満がある。本書を数ページ読んで「無限連鎖」というタイトルを思うと、おのずと本書の流れが想像できてしまう。もうすこしひねるか、象徴的なタイトルにすべきだったろう。
アメリカ軍事力と日本の依存体質をことさら強調するかのような、デッドエンドは、ストーリーとしては成功だったかもしれないが、冒険ものお約束の数秒の時間差での決着のつけ方それも登場人物を死に押しやるそれは、作者の匙加減で決められるわけだ。つまりは作者こそが登場人物殺害の「犯人」であることはいうまでもない。後味の悪さよりインパクトを優先したのだろうと思うが、個人的には感心しない。


世界に君臨する大国という看板は、単にそれが軍事力に裏付けられたもので、アメリカ人がそれに相応しい資質を持った国民であるということと同義語ではない。何しろ、アメリカ人の六割は、一歩たりとも国を出ることなく生涯を終えるのだ。他人の国を蹂躙し、自分たちの行為の全てが正しいものと信じて疑わないのは、そうした田舎者の集団で国家が形成されているのも要因の一つだ。

こういった類のアメリカ批判のカラーが随所に見られ、つい、Morris.も拍手したくなるのだが、これも、どちらかというと著者本人の意見ではなく借り物っぽく見えるのは、Morris.のひが目かもしれない。
もう少し星印多くしても良いくらいの作品だとも思うが、本書にはMorris.の嫌いな「手をこまねいて」(403p、452p)、「目をしばたかせる」(481p)が出てきたし、ページ数は忘れたが「上へ下への」(当然これは「上を下への」が正しい)という表現もあった。これらの「誤用」(と言い切ってしまおう)が、採点の辛さに影響してるのだろう。


07064

【日本の公安警察】青木理 ★★★☆ 去年読んだ「北朝鮮に潜入せよ」が良かったので本書も読みたいと思いながら果たせずにいたら、先日センターの古本市で見つけた。2000年1月発行の講談社新書だから、ちょっと現状からは隔たってしまったかもしれないが、やっぱりこの人はちゃんとしたジャーナリストだと再認識した。

自自公という不可思議な絶対与党体制が成立して以降、為政者たちが長らく望んできた監視と管理のシステム強化作業が着実に進められてきた。盗聴法、改正住基法、が相次いで成立し、破壊活動防止法の改正、さらには憲法改正までが視野に入りつつある。いずれも国家機能強化を図るための一種の治安法の整備作業と言ってよいであろう。

前書きからの引用で「自自公」という言葉に時の移ろいを感じたりもするのだが、7年前に書かれたこの一文は7年後の情況をそのまま言いあてているようだ。いや実情はこの予測よりさらに悪化の度合が高まっているかもしれない。

治安機関をテーマの一つに取材を続けてきた経験則から言えば、実は「対応策」なるものは単なる名目に過ぎず、国家機能の強化事態が目的なのではないのか、そう感じることすら往々にしてあった。なのに治安機関の姿は一向に見えないまま、その機能強化システムばかりが組み上がっていく−−短視的とも思える「対応策」を易々と容認する前に、我々はまず、知らねばならない。公安警察を中心とする日本の治安機関が何をなし、何をなさなかったのか。治安を名目としてどのような活動を繰り広げてきたのか、繰り広げようとしているのか。

学生時代からノンポリだったMorris.などは、こういった真摯な意見を見て見ぬふりをしてきたようだ。
本書は8章に分かたれ、内容は、公安の組織、公安の前身ともいえる戦前の特高から戦後公安誕生までの歴史、活動内容、事件簿、オウム・革マルとの攻防、公安警察と公安庁の軋轢、監視社会への警告など。
警察機構そのものへの知識が皆無なMorris.にとっては、いまいち理解しがたい部分も多かったが、刑事警察と公安警察の捜査法の違いは「新宿鮫」で頻繁に出てたので解りやすかった(^^;)


有名な言葉がある。
「泥棒を捕まえなくても国は滅びないが、左翼をのさばらせれば国が滅ぶ」
警視庁捜査一課などで刑事として長く勤務した鍬本實敏は著書『警視庁刑事』の中で、公安警察についてこう語っている。「刑事部と違って、(略)泥棒なんて単なる物と物の移動に過ぎない、一人や二人殺したからって、そんなものがなんだ、おれたちは国家を背負っているんだ、とそんな意識でしょう。刑事なんか馬鹿だと思っている」

特高警察と同様、戦後公安警察の拡大を正当化したのは、結局のところ徹底した「体制の擁護者」としての組織性癖だった。戦争遂行を大義として猛威をふるった治安機構は、水脈の維持を図るため、占領下になると一転して時にはGHQの一部とすら結託し講和後は為政者の描く治安像を死守するため、わずかの期間に一挙に態勢整備を成し遂げたのである。

亀井静香が公安の裏理事だったというのには驚かされた。また現在民主党党首、基法制定当時自由党党首だった小沢一郎発言も、肝に銘じておこう。

「(改正住民基本台帳法)政府は国防、安全保障、治安の問題では使えないと説明しているが、そこに使わないで何のためにやるんだ。当たり前じゃないか。(盗聴法も)総背番号制の話もそうだが、国家的な危機管理という考え方が根底にあって、初めて成り立つんだ」「正面から『治安維持のために必要』『プライバシーを守るための厳重な乱用禁止規定を設ける』とか言えばすむのに、こてんぱんにやられるから(政府は)絶対にそうは言わない」

あとがきで「巨象の背中を撫でただけに過ぎない−−」といささか諦めを含んだ言葉を書き付けているように、たしかに公安の壁は厚く、あまりにも巨大な存在かもしれない。そのことをおしえてくれただけでも本書の意味はあるだろう。しかし、やはりもどかしさは残る。著者の結びのことばを引いておく。

監視と管理の装置は着実に強化され、公安警察、公安調査庁などを始めとする治安機関は相変わらず閉鎖された壁の向こうで密やかに活動を続ける。時には大きなミスを犯し、時には堰を切ったように猛然と、活発に…。


07063

【写真を撮る】竹村嘉夫 ★★★☆☆ 昭和57年(1982)発行の講談社現代新書。元町「つの笛」の階段の百円均一で見つけたもの。著者は顕微鏡写真などの日本での権威らしいし、本書は20冊目の著書と書いてある。何しろ25年前の本だからまだ、巷にはデジカメの影も無かった時代である。当然35mm一眼レフとコンパクトカメラ中心の写真入門書であるが、何となく心惹かれるところがあり、デジカメ撮影にも参考になる部分が多いような気がした。そして期待は裏切られなかったと思う。
第一章の冒頭部分に懐かしい名前を発見したのも嬉しかった。

いまでこそ、一眼レフ時代にふさわしく[接写]は日常茶飯事のようになったが、40年ほど前に出た吉川速男さんの『近接撮影』という本が、接写の本の第一号らしい。その吉川速男さんがアマチュアの指導に活躍していた頃、小型シネマやスライドの集まりがあった。仲間のスライドを鑑賞したり、自分のスライドも映写してもらったり、たしか毎月一回の例会を楽しみにしていたのを思い出す…

おお、吉川速男といえば、Morris.の愛蔵本の一冊『小型カメラの第一歩』の著者ではないか。これは昭和7年(1932)だから、今から75年前のものだ。Morris.にとって写真の本はこれしかないと思っていた。それだけに竹村氏が吉川速男と接点があったということで親しみが増した。
もうひとり「動物写真家岩合徳光さん」という聞き覚えのある名前が出て来た。先日Morris.が買った「ネコを撮る」の作家ではないかと確認したらこちらは岩合光昭だった。しかし、滅多に無さそうな苗字と名前にも「光」という文字が入ってて、両者が動物写真家ということは、もしかしたら親子なのではなかろうか。と、ネット検索したらやっぱりそうだった。しかも父の徳光さんは今年の2月に91歳で亡くなった由、本当に居ながらにして、かんたんにこんな情報がわかってしまう時代になったんだな。後20年もしたらどうなってるんだろう?
閑話休題、本書は4章に分かたれている。

1.写真への道(写真への取り組み方と価値評価私論)
2.何のためのカメラなのか(撮影機材の選び方)
3.写しながら考えよう(カメラ以外のソフトウエアテクニック)
4.写真を撮る(入門レベルでの撮影技術)
附録 写真の本の紹介


フィルムカメラのための説明なのに、デジカメでも役に立つ情報が多いのにはびっくりさせられた。いや、最近のデジカメ専門の本では省略されている部分にこそ写真の要諦が詰まってる気がしたのだ。

「写真」のための最低条件
1.実用的レベルでピントがあっていること。サービス判で25cm、大伸ばしで1mはなれてピンボケが感じられないこと
2.露出はラチチュード(許容範囲、寛容度)の範囲内であること
3.カラー写真では「それらしい」色が出ていること。実物そのままは難しい
4.白黒写真では、白から黒までの諧調があること、真っ黒い部分のないプリントは露出不足、現像不足、引き伸ばしの失敗などのいずれかである

これなんか当たり前のことのようで、特に4,なんかはMorris.にとっては目からウロコの思いがした。デジカメで白黒映像撮ることは可能なのにこれまでやってこなかったことを反省する。白黒はフィルムでなくてはならないと思い込んできたが、この4.を肝に銘じて挑戦してみたい。

・フォトコンテストを例にとって、岡見璋さんがいっておられることは、撮影者の[写真を撮る]意図−−その画面で何をいいたいのか、何を訴えたいのか、なにがあなたにシャッターを押させたか−−が一目でわかる写真を撮れ、ということである。
岡見さんの上達のための手段をかいつまんで紹介すると「まず、いつもカメラを身体から離さず、心にひっかかるものがあればシャッターを切る。乱射乱撃、手あたりしだいに写す。こういう訓練を続けてカメラを身体の一部にしてしまう。撮影したものはベタ焼きをつくり、ルーペを片手に、穴のあくほど眺めつづけて研究する。このベタ焼きの徹底検討の効果を上げるためには、撮影のときに絞り、シャッタースピード、天候などの技術的データをメモしておくことだ」とおっしゃる。

このように、先達カメラマンの著作の中から適宜引用されて、それがまた本書の魅力ともなっている。上の指摘のうち、ベタ焼きチェックはデジカメの場合PCの液晶画面で拡大表示でチェックが出来るし、撮影データもカメラ附録のソフトで取り込み整理したら勝手にデータは読み込まれている。ただ、Morris.はこれまでそのデータを見ようともしなかった、これからは時々チェックすることにしよう。
AE(自動露出 Auto Exposure)、AF(自動焦点 Auto Forcus)、TTL(Through The Lens)測光、くらいは知っていたが、EEという言葉を最近聞かないなと思ってたら、

露出の自動化への先鞭をつけたのが[EE]。レンズの絞りが被写体の明るさに応じて自動的(電気的)に変えられるということから、Electric Eye(EE)と呼ばれた。はじめてカメラに組み込まれ市販されたのは1959〜60年くらいである。


と、あった。Morris.の古い記憶にあるカメラにはたいていこの「EE」が冠せられていた。そして、

EEとAEは、ことばと内容とは違っても、露出の自動化という意味では同じである。バカチョンカメラの発想は、当時のカメラメーカーの思惑をひっくりかえし、現在では高級機にまでもちこまれているわけだ。

よっく、わかりましただ。でも、本書にはこの「バカチョンカメラ」ということばが頻出するぞ(^^;)
さらにこのAEの説明のなかでMorris.の愛機デジカメの「TV」と「AV」モードが、以下のカメラタイプに対応することがわかった。

・シャッター優先AEカメラ(TV) カメラブレの無いようシャッター速度を決めれば、露出は絞りが対応してくれる。標準レンズのときは1/125、望遠レンズなら1/500秒を目安にしよう。
・絞り優先AEカメラ(AV) はじめに写しやすい絞りを決めそれに対応して電子シャッターでスピードをコントロールする。背景をぼかしたい、手前から遠景までのピントを合わせたい、なとというハイテクニック向き

これも主題とはずれるがピンホールカメラの写角は孔のある紙の厚さで自由に可変という記述にも興味を覚えた。

ピンホールの孔径は大きいほど、露出時間は短くてよいかわりにシャープさはそこなわれる。カメラボデー(ボール箱)の厚さで、写角は自由に決められ、超広角(ボール箱の薄いとき)にしても像の歪曲も無い。たとえばキャビネ判印画紙の空き箱と、0.2mm径のピンホールでとった高層ビルの写真は、35mm判に換算して20ミリ相当という超広角になる。昼間の野外撮影で10秒という露出時間はかかるけれども、写真レンズはなくても工夫次第では、すばらしい写真は撮れるものだ。

・絞り8などというつきなみな写し方はやめよう。シャッタースピードは最高の1/1000か1/500にセットしてそれに合う絞りを決めよう。カメラブレはほとんどなくなるはずだから、いままでのあなたの写真よりはシャープに写るかもしれないのだ。

・曇り日などのコントラストの小さい条件になると、写真にはコントラストがつかず、いわゆるねむい(軟調な)写真になってしまうことが多い

・手ブレを防ぐというか、なくすためには、まず体を楽な姿勢で安定させ、カメラは顔につけて、しっかりホールドすることである。構えた腕に力が入ってはいけないそして、スムーズなシャッターの押し方に慣れることが大切なのである。

・生半可な写真の技術があると、写すときのフレーミングをいい加減にして、引伸ばしのときにトリミングすればいいやということにもなりかねないが、こういう横着な考え方は、写真上達への道から遠ざかる、ことにもつながってくると思う。
シャッターを押す前に、ほんのちょっとだけ、カメラの向きを上下させるか、左右に動かす、ということは誰にでもできる。わかっていることが、無意識のうちにできるようになれば、いわゆる[写真がうまい]といわれるのである。

この、フレーミングは本当に大事なことだと思う。

・記録写真を撮るときに守らなければいけない基本条件のひとつが、フレーミングに関しては必要なものだけを写し、いらないものは画面に写しこまない、ということである。この心構えは写そうとする被写体に対しての内容的な突っこみを深くする、という大きな問題にもつながってくるのである。

・−−(「決定的瞬間」とは)−−意識とビジョンが一つになり、内容と形式がそこに合致した瞬間をいうのであるが、これが得られるのは直観以外にはない。この直観は常に知性によってつちかわれ、絶えず他の芸術にふれることで豊かになる−−と教えてくれるのが、金丸重嶺さんがのこしてくださった『写真芸術』という本である。写真を知性と創造による映像表現と考える人には必読の名著といえるだろう。

・前田真三さんの写真集『出会いの瞬間』はわたしの持っている大好きな写真集の一冊である。そのなかからシャッターチャンスに関連したアドバイスを引用させていただくと、
−−日本の自然は四季折々に多彩な意匠を見せてくれると共に、年毎に微妙に変化し−−風景写真というと静止した自然の写真を考えがちだが、たとえ動いている状態が目に見えなくとも刻々に変化しているのが自然であり風景である。−−一見静止している風景は出会った瞬間でないとその美しさが全く見えなくなってしまうことがしばしばある。−−
もちろん、前田さんの写真にあるような場所に居合わせたとしても、こういう写真は誰にでも撮れるというものではない。的確なシャッターチャンスを選択し、フィルムに定着される映像を見極められる能力−−つまり、カメラアイ+表現技術といえる−−があってこそ、すぐれた写真が撮れるのだ。

・あなたが、もし本格的にライティングの勉強をしようとお考えなら、はじめのうちはカラー写真はおあずけにし、黒白写真に取り組むことをすすめたい。太陽を背に受ける、バカチョンカメラ的な順光撮影もやめよう。カメラの斜め前に太陽がくる[半逆光撮影]にトライしてみてはいかが。カラーに馴れていれば、色でごまかされた写真しか撮れないから、黒白写真に切りかえた当初は、なんでこんなものにシャッターを押したのか、という写真を撮ってしまうものだ。黒白でライティングが判ってからカラー写真を写せば、その写真のレベルはずいぶんと高くなっているはずである。

ますます、黒白写真を撮りたくなってきたぞ(^^;)

・記念写真というのは、個人的というか主観性の強い写真である。撮る人、撮られる人(や物など)、当事者の満足感が第一である。動きまわる子供の表情などを例にとっても、ピンとの甘さなどより、表情の可愛さが優先されるものである。フレーミングやライティングのテクニックがいくら立派に仕上がっていても、写された人に喜ばれないような写真では、本来の意味は失われてしまうのだ。

えらく引用だらけの紹介になってしまったが、それだけMorris.に響く内容が多かったということだ。最初に書いたとおり、フィルムカメラでもデジカメでも、撮影の心と目標は同じなのだろう。本書のラスト数行を引用しておしまいにしよう。

・言葉を知っていて、文字はかけても、それだけでは[文章]にならないのである。シャッターを押せば写真は撮れるだろうが、シャッター以前に何を考え、その写真でどういう意思表示をするのか、ということをしっかり頭のなかでかんがえておかないと、[読める写真]も[語れる写真]も写すことはできないのである。


07062

【ステーションの奥の奥】山口雅也 ★★★ 講談社の「ミステリーランド」シリーズの一冊で、前に読んだ森博嗣の「探偵伯爵と僕」と同じく、ハードカバーに大き目の活字漢字には総ルビという、いかにも昔の少年小説シリーズの装丁を意識したもので、Morris.などは大いに懐かしさを感じるシリーズなのだが、内容的にはどうも中途半端なものが多いような気がする。本書は東京駅の建て替えを前にステーションホテルに叔父さんと泊りがけで自由研究に出かけた小学生の少年が、殺人事件に巻き込まれて、その後もかなり意外な展開を見せる、それなりに面白いストーリーなのだが、途中から叔父さんがヴァンパイアだったり、輸血パックで生き延びてるヴァンパイアの組織が出てきたりと、どうも荒唐無稽&安易な結末になって期待はずれだった。磯良一という人の表紙絵や挿画、贅沢な装丁は洒落てて期待を誘うだけに残念である。


07061

【さらば愛しき女よ】レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳 ★★☆☆ 何で今ごろこんなのを読んだかというと、原ォを読んだからに他ならない。ほんとは「長いお別れ」を読みたかったのだが見当たらなかっただけだ。
本作は原作が1940、本書文庫初版が1976だから、かなりの骨董品という気がする。たぶん高校時代か、その直後くらいに読んだのではないかと思うが、どうもMorris.はハードボイルドにははまらなかったようだ。
本作の主人公マーロウが依頼者を殺してしまったことを異常に後悔するあたりは原ォの主人公が踏襲していることがわかった。
短文の積み重ねと小洒落た(当時は)比喩の頻出という当時のハードボイルドの特徴も嫌というほど見せつけてくれる。


私は椅子に座って、タバコをくわえ、火を点けないで、唇の間に転がした。その男は痩せて、背が高く、鋼鉄の棒のように姿勢がよかった。いままでに見たこともないような美しい白髪だった。絹のガーゼを通したようだった。皮膚は薔薇の花びらのように生き生きとしていた。三十五歳とも見えるし、六十五歳とも見えた。バリモワのような見事な横顔から、髪がまっすぐうしろになでつけてあった。眉毛は壁や床や天井と同じように真っ黒だった.夢遊病者の眼のように深さのしれない眼が、かつて読んだことのある井戸の話を思い出させた。それは九百年前の古城にある井戸で、石を投げ入れても、いつまでも水の音が聞こえないのだった。諦めて、帰ろうとすると、はるか遠くの井戸の底でかすかな水の音がする、そういう井戸だった。
彼の眼はそのように深かった。そして、また、その眼には表情もなく、魂もなかった。ライオンが人間を引き裂くところを見ても、少しも変らない眼だった。人間がまぶたを切られ、暑い太陽の中で叫んでいるのを見ることができる眼だった。
ダブル・ブレストの地味な服を着ていたが、画家がデザインをしたようにからだに合っていた。

こんな調子である(^^;) すごいといえばすごいけど、やりすぎでもあるなあ。パロディが出てくるのも当然だ。それにしてもこの訳もかなりのものである。後半に「しょうずくの実(「しょうずく」には傍点)」という単語が続けて出る場面があって、何だろうと、辞書を引いたら「小豆寇(草冠が付く)=カルダモン」だった(^^;)これは、わかるまい。


07060

【兵庫のなかの朝鮮】 ★★★☆ 2001年に明石書店から出たこの本は、「兵庫県在日外国人教育研究協議会」「兵庫朝鮮関係研究会」「むくげの会」という3つの団体が中心になって編纂されたものである。阪神、神戸・淡路、東播磨、西播磨、但馬・丹波、全域の6部に分けて、それぞれの地域の朝鮮関連の史跡や名称、事件現場などを写真や図版を合わせて細かく紹介、「歩いて知る朝鮮と日本の歴史」と副題にあるとおり、実際に歩いて史跡巡りができるように、すべて地図も併載してある。Morris.亭の近辺では「敏馬神社と新羅使」の記事がある。
Morris.はこの当時学生青年センターの朝鮮語講座に通ってたから、当然話題にもなっただろうし、読んでしかるべきだったろうに、こんなに遅まきというのはちと情ない。
むくげの会からの執筆者は、寺岡洋、佐々木道雄、堀内稔、飛田雄一の4名でそれぞれ得意分野を担当しているが、特に寺岡さんは古代遺跡、古墳、山城などに関して専門的な研究成果を踏まえて大活躍だった。
飛田さんはあとがきも書いていて、そこで本書の規格は2000年4月に亡くなった金英達氏の発案だったということを知った。彼とも朝鮮語講座では席を同じうしたこともある。改めて彼の冥福を祈りたい。


07059

【のだめカンタービレ 1-17】二ノ宮知子 ★★★★ 最近とんと少女漫画に縁のないMorris.はこの漫画のことは全く知らずにいた。2001年から連載が始まり結構話題にもなり人気も出てたらしい。Morris.との接近遭遇は、昨年TVドラマ化されたからだ。ロックミュージックや歌手を主題にしたドラマは珍しくも無いが、クラシック音楽を主題に、それもかなり本格的に扱うドラマはめったに見られない、おまけにヒロインのだめ(野田恵)がユニークでコミカルということもあって、すかりドラマにはまってしまった。さらにドラマの中のクラシック演奏がこれまたちゃんと聴ける水準だし、選曲も良いのに感心した。フィナーレのクリスマスコンサートの場面がちょうど12月25日放映という時間合わせも上手くて、ひさびさにドラマびたりになっていた。
ドラマの終了後、原作の漫画みたい、みたいと思っていたら、吉美ちゃんが15巻まで貸してくれた。さっそく読み通して、今度は漫画にもはまってしまった。その後、16巻、17巻巻も購入して、精読。いつか感想をまとめなくてはと思いながらついつい書きそびれてて、やっと今日風邪で半分寝込んだのを幸い?一気読みしたので、感想らしきものを書くことにする。
17巻まででちょうど連載100回分になるらしい。テレビドラマ化されたのは、日本での活躍を終了して、ヒロインのだめとヒーロー千秋が渡欧する前まで、第9巻の50話くらいまでで、Morris.としては続編もドラマ化して欲しいと思ったのだが、漫画を読むと、二人はパリを中心にヨーロッパあちこちを飛び回るし演奏も海外オーケストラが多く、これをTVドラマ化するのは日本のTV局ではかなり無理があるかもしれないと思った。
原作漫画家二ノ宮知子に関してもMorris.は全く無知だが、絵はまあ普通だろう。ヒロインのだめはときどきえらく可愛くなることもあるが普段は十人並以下に描かれている。脇役の重要な女の子は総じて綺麗だが、意地悪そうな女性出演者が多い。男は美形と面白形に二分されているが、欧米人と日本人の描きわけはあまり上手くない。主要人物であるドイツの指揮者シュトレーゼマンをドラマでは竹中直人が演じていて、おいおい、と思ったのだが、漫画でもそのまま日本人みたいなドイツ人として描かれていた。
特筆すべきはオーケストラをはじめとする楽器演奏部分が漫画の主要を占めるだけに、これらの絵はめちゃくちゃ水準高い。コピーや写真トレースも利用してるみたいだが、それは別にして、演奏部分の描写と迫力はこれまで漫画でみたことがないくらい素晴らしい。きっとクラシックオタクなのに違いない。裏軒の親父や日本人指揮者片平、オーボエ奏者黒木など、初登場とその後では全く別のキャラクタとして描かれてる人物も多い。
のだめが溺愛してるアニメ「ぷりごろた」は、はじめ既製の作品かと思ったがこれも二ノ宮の創作らしい。このアニメのフランス版でのだめがフランス語をマスターするなんて場面もあって、なかなか重要な役割を果している。音楽学校の実態やクラシックコンクールの細かいこともなかなか良く取材してるらしいし、のだめ自身のモデルも現存するらしい。パリでの取材提供者も数人いて、現地取材もこなしてるようだし、ギャグのセンスも悪くない。
しかしこういうことをだらだら書いてもちっとも本質には迫れない。一言で言えばこの作品は、本邦初のクラシック音楽の世界を紹介しながら笑わせるというMorris.の好きな「面白くてためになる(なりそう)」コミカルクラシック音楽啓蒙漫画である。実際にこの作品を契機にクラシックのCDを買ったという知人がいるし、のだめオーケストラ(^^;)名義のCDも数枚発売されて結構売れてるらしい。「動物のお医者さん」がハスキーブームを生み、日本には向かないハスキー犬が一時的に日本中に蔓延してその後捨てられたりしたことに似ていなくもないが、こちらは、クラシックブームだから、実害は少ないだろう。
千秋のデビューコンサートのポスターや、音楽雑誌のグラビアのデザインなどはそのままポスターとして完成してるし、デザイン的センスは悪くない。のだめの家族が典型的庶民派、千秋の家族が典型的音楽一家という対照設定もストーリーのお約束でわかりやすいし、二ノ宮は只者でないことが知れる。
ストーリー展開では先のキャラクタ容貌の変貌とおなじく、時々ヘボ筋にはまることが多いようだ。特に前半14-15話のコントラバスの女の子の挿話などは断固カットすべきだと思う。古い少女漫画に良くある筋の焼き直しでしかないし、本筋とは無関係だし、面白くも無い。
海外篇での音楽仲間のキャラクタの中でも中国人の男女二人はいまいち邪魔っけだし、実在するらしい日本人画家も要らないと思う。
今後の展開もあるだろうから、この時点で不用意なことを言うのは早とちりかもしれない。兎にも角にもドラマ、漫画ともはまってしまったのだから、楽しい時間を過ごさせて貰った礼を言うにとどめるべきなのだろう。
唐突だが今日また「リンダリンダリンダ」のDVDを見直した。やっぱりペドゥナは良いなあ。こうなったら、ドラマでも映画でもいいから、韓国版「のだめ」いや、ペドゥナ版「のだめ」を見てみたい気がする。今好きなもの同士の合体ロボである。想像するだけでもわくわくしてしまう(^^;)


07058

【湊川新開地ガイドブック】 井上明彦+曙団 ★★★★ タイトルはガイドブックだが、内容はそれを凌駕した、素敵なヴィジュアル本だった。もともと新開地は好きな地域だったし、母の本籍は菊水町で、祖母から戦前の新開地の思い出を良く聞かされたので、親近感と憧れに似たものを覚えていた。最近は地元住人のムックさんとのからみで、いぜんにもまして足を運ぶ機会も増えてきた。そんなMorris.には格好の一冊である。
もともと神戸アートビレッジの発案で、2003年1月から3月のにかけて「新開地アートブックプロジェクト=曙団」が地質調査(フィールドワーク)を行いその成果を1冊にまとめたもので、歴史考証もしっかりしていて、年表だけでも素晴らしい上に、貴重なそして何とも懐かしく楽しい写真満載、さらに新開地昭和10年ごろの復元地図あり、土手めぐり、看板コレクション、マッチコレクション、新旧住民へのリレーインタビュー、4pで新開地早わかりの漫画、新開地メニュー等々、124pとは思えない充実ぶり。オールカラーで\2,400はけっして高くないと思う。
Morris.も先日この本を片手にビリケンさんを祀ってある松尾稲荷神社とその脇の稲荷市場から湊川公園までふらふらと探訪して歩いた。いやあ、新開地自体これまでMorris.が見過ごしていた見どころがたくさんあることに気づかされた。もちろん二次元スタイルの松野文具店のことも、聚楽館のことも、湊川温泉のことも、福原のことも、神戸タワーのこともしっかり記載されている。
もともと新開地の通りは旧湊川天井川の川筋だった。1896年の湊川氾濫、その翌年から9年をかけての大規模な湊川付け替え改修工事が行われ、1905年旧湊川の堤防が切り崩されて埋め立てられ「湊川新開地」が誕生したわけだ。1901年に竣工した「湊川隧道」は今でも旧ルートの一部区間が保存されていて、年に何回か一般公開もあるとのこと。是非これも機会を捉えて見物したいものだ。


07057

【モーダルな事象】奥泉光 ★★★☆☆ ひさびさの奥泉の長編だと思ったら2005年刊だった。タイトルは旧作「バナールな現象」に酷似してるし副題の「桑潟幸一教授のスタイリッシュな生活」は、少女漫画にその手の作品があったよう菜気がする。
500p超える長編で巻末に千野帽子名義の解説?+著者インタビューが付いている。文藝春秋の「本格ミステリ/マスターズ」シリーズの書き下ろしらしい。
奥泉のミステリー作品は過去にも少なくないし傑作もあったから問題は無い。問題は、この前の2作には落胆させられてしまったことだった。それがなければ、現代日本作家の中で奥泉イチオシと決め付けてたMorris.が2年も新作の出たことすら知らずにいたわけはないだろう。
ぱらぱらと見ると途中に新聞記事の切り抜き、週刊誌の記事の引用、その他もろもろをパッチワークよろしく配置してるし、副題に登場する教授がかなりのスノッブの狂言回しで、途中瀬戸内の島で妄想の世界に漂うあたりではこの作品も駄目なのかと、危ぶんだのだが、読み終わっての結果は、いやあ、なかなか楽しめた(^o^)である。
本格推理だけに謎に充ちた連続殺人事件があり、呪われた?血統の一族が登場、何と言っても元夫婦のコミカルかつ賑やかなにわか探偵ぶりが読書の楽しみを倍化させてくれた。
千野帽子というネーミングからして、Morris.は解説&インタビューも奥泉の創作ではないかと勘繰ったのだが、どうやら実在の批評家だったらしい。彼のインタビューの本作品の部分から引用する。

千野 −−−モーダルっていうのは、たとえばアクチュアルなものに対して様相化されたものというか、様相論理学では、「can…」とか、「mae…」というかたちの、現実ではなくて予測とか反実仮想といった非事実の言説を、モーダルな言説と言ったりするんですが、そういう理解でよろしいでしょうか?
奥泉 それももちろん含みますね。あと音楽用語でも、ジャズの「モード」の形容詞。いろんな意味を含むでしょう。でも、題を選んだ直観を説明することは難しいですね。
以前のぼくだったら、もっとメタフィクショナルな構成にしたと思うんです。今回もそうすることはいくらでも可能だったんですけど、そうしなくてもいいかな、という気持ちが強かったですね。メタフィクショナルな構成っていうのは、書いていくなかで自然と出てくるんですよ。そういう構想もあったんです。しかしまあ今回はそれをしない方がいいかなという直観がありました。なぜって言われても困っちゃうんですけど。
まあ、ミステリ好きの人に普通にちゃんと読んでもらいたいなと思ったんですね。

モーダルという聞き覚えの無い言葉も、音楽の「モード」から考えれば解りやすい概念だし、本作品の構成もそう考えると別に複雑怪奇なものでもなかったわけだ。最近良く奥泉が持ち出す、宇宙楽器論。太陽系の惑星の7つの位置とフィボナッチ数列の関連付けも、音階的に理解すればわかり易いだろう。
Morris.は面白ければそれで良いのだし、本作品は上々吉といえよう。面白かった「鳥類学者のファンタジア」のヒロイン、フォギーも脇役で出てくるし、こちらのヒロイン?であるジャズシンガーと、その元夫もなかなかいいキャラクタだったが、Morris.としてはフォギーが好みである。
アトランティスが、宇宙の音楽を奏でるための楽器の一形態だったとか、戦時中に孤島でミニ青髭を演じた童話作家がいたとか、さまざまな小ネタを思いのままにちりばめて、これだけのエンターテインメントに仕上げる奥泉の力量は健在である。おお、こうなるとそろそろ新しい長編を楽しみにしたいものである。
Morris.の唾棄する「手をこまねいて」(14p)や、病膏肓に「やまいこうもう」のルビがあったり(457p)という表記があるが、前者は桑潟教授の内的独白だし、後者は殺人犯蓑虫の台詞の中にあるのだから、登場人物の誤用として奥泉が意識的に用いたのだと善意に解釈しておきたい(^^;)


07056

【わたしはネコロジスト】吉田ルイ子 ★★★☆ 先週、六甲学生青年センターの古本市で掘り出して来た一冊である。
サインとトラノスケの手形ピンクのA5版ハードカバーに子猫が仰向けに寝かされている画像には淡い記憶があった。彼女はハーレムやアパルトヘイトに関連した黒人の写真集を出して当時話題を集めていた。
本書は母の初盆を控えた1986年7月12日の雨の中で生まれたばかりの仔猫を拾い、育てた4年間の成長のファミリーアルバムから、50点ほどの白黒写真と30pくらいのショートエッセイで構成されたもので、つまりは愛猫写真集ということになる。
主人公の寅之助は名前の通りのトラ猫で、写真映えのするハンサム猫である。附録に3枚の絵葉書も挟んであったのだが、その中の一枚は、つい先日アシナガさんから届いた絵葉書と同じ写真だったのには驚いた。
初版は90年9月25日だが、Morris.が入手したこの本の表紙裏には90年10月1日付けの著者のサインがある。ひにちからしてきっと本書の出版記念のサイン会の時のものだろう。嬉しかったのはサインに加えて猫の手形(脚形?)があることだ。これは、まず主人公寅之助のものに違いないだろう。
デジカメで猫を撮りまくってPC上でのスライドショーをアップしたばかりのMorris.にとって、この一冊はいろいろ考えさせられる、そして、手ごたえのある、未知の誰かからのプレゼントのような気がする一冊だった。


07055

【そして夜は甦る】原ォ ★★★☆☆☆ このところちょっと熱中してるハードボイルド作家長編デビュー作である。88年発行だからざっと20年も前の作品である。何でこれまで名前も知らずにいたのだろう?と、信じられないくらいだが、これもMorris.の読書パターンのなせるわざだろう。この30年の間に長編4作、短編集1冊、ほかにはエッセイが3冊ほどあるくらいだから寡作を絵に描いたような作家だが、同じ探偵を主人公とする長編2作目、4作目の順に読み、どちらにも過去の相棒探偵との事件が深く彼の探偵稼業に影を落としてることが描かれていたから、当然デビュー作はこの相棒の事件のことが書かれているだろうというMorris.の予測(ほぼ確信)はあっさり肩透かし食わされてしまった。
基本的には知事選最中の現職東京都知事狙撃事件の真相を探ろうとするルポライタ-が失踪し、富豪の娘であるその妻から捜索を頼まれた主人公が、紆余曲折の末に真相らしきものに到達するというストーリーで、後続2作と同様のタッチで、そのアクロバチックな文章の芸に、またもMorris.はすっかり陶酔させられた。

・「名緒子は最高の猟犬を雇ったようですわね」と、彼女は口を歪めていった。皮肉は褒め言葉として聞き、褒め言葉は皮肉として聞いておくのが無難である。
・彼女の声には何かが迫っていることを感じているような響きがあった。女の直観に比べたら、探偵の判断など風邪をひいた猟犬の鼻に等しかった。

こういった言葉遊び的小洒落た独白がいくらでも出てくるのは、原ォ作品に限らず、ハードボイルドのお約束なのだろうが,それが読者を鼻白ませないというだけでも日本ではめったに得がたい作家だと思う。
嫌悪しながら認め合ってる辣腕刑事錦織との掛け合いも、初手から読ませるものであったことがわかった。

錦織が要件に入ろうとしたが、寝室の音楽が邪魔だった。
「ちょっと音を小さくして来ます」と、勝間田が言って、立ち上がった。
「良かったら消してもらえないかね。レコード鑑賞に来たわけじゃないんだ」と、錦織が言った。
「ビートルズなんです」と、勝間田が言った。壁の向こうに、この世で一番正しいものが存在しているような口調だった。彼は寝室へ行った。
「ビートルズだと?」と、錦織が言った。「あれが解らんと、近頃は若い警官までが犯罪者でも見るような目つきでこっちを見るぜ。下らんものを下らんと言うのが怖い大人が増えてるだけさ。フン、あんなものは今世紀最大の過大評価だ」
「あんたが音楽についてそんな洒落た意見を持っているとは知らなかった.。橋爪のカラオケ趣味よりはましだな」
「うるさい。二度と橋爪とおれを比較するな」
共感を強要するような音楽が小さくなって消えると、勝間田が戻って来て、テーブルについた。


発表時期を思い出してMorris.はつい笑いをかみ殺したね(^^;) 同様な批評?が日本の画家へも浴びせられていた。本作発表より30年前に建った東京都庁の描写。

私は正面右側にある玄関を通って、岡本太郎の壁飾りのある一階のロビーへ入った。芸術だそうだ。私に言わせれば児戯に類する[がらくた]だったが、そんなものを見物に来たわけではなかった。

当然発表時、岡本太郎はまだ健在だったはずだが、こういったジャブはまだ手ぬるい方で、本書の核心となる、石原兄弟をモデルとする狙撃された都知事とその弟への言及は、30年後の現在の時点で読むと、ひと味違った皮肉な感慨をもたらした。まさに長崎市長射殺事件が起きたニュースのさなかに本書を読んだこともあって、ついつい深読みさせられた。
それにしても、ひさしぶりにのめり込みそうな作家と会えたのに、未読の作品はあと長編1冊しか残っていないというのはあまりに悲しすぎるぞ。


07054

【天使たちの探偵】原ォ ★★★ 私立探偵沢崎を主人公とする6編の短篇が収められている、今のところ彼の唯一の短編集(1990)である。タイトルから連想される通り、子供がからむ作品というのがトータルカラーである。Morris.はどちらかというと長編好みであるから、本書への評価はあまり高くなってないが、原ォらしさは随所に出てくるし、例によってその「文藝」は楽しめた。個々の感想は省略して、適当なブレ-ズを引いておく。

・「なぜあの銀行にいた?」と、錦織が訊いた。
「セールスさ。大金を引き出した客をつかまえて、ボディガードは要らないかと売り込む」
・「そのとき、あなたは彼女のお腹の子供の父親としての資格を失ったと考えるべきじゃないのか……少なくとも、彼女はそう考えたのだ」
「彼女が私のもとを去ったのは、自分と子供に及ぶ危険から遠ざかるためだろうが、私の新たな反体制運動を支持し、援助するためでもあった、と私は思っている」
「どんな場合にも虫のいい考え方というのはあるものだな……スパイは自分の立っている陣営の自慢をすべきではない。スパイとしての能力を自慢すべきだ」
・彼は腕時計で時間を確かめながら、このビルの表へまわった。約束の11時までにちょうど15秒あった。こうまで時間を厳守する人種の多くは、時間より大事なものを持っていないか、時間より大事なものはお金だけという処世哲学を持っている。
・冷たい雨が降りつづいている冬の夕方だった。過ぎ去った季節(とき)を振り返りたくなるのはこういう時間である。世間では"昭和"が終ったと騒いでいたが、読売ジャイアンツを巨人と呼ぶ義務はなく、国営放送をNHKと呼ぶ義務はないように、1989年を平成元年と呼ぶ義務もなかった。
・私と同世代の小柄でハンサムな男が顔を出した、昔のパートナーの渡辺が、成人後に養子に迎えられる人間の80%はハンサムな男だと言ってたのを思い出した。養子の第一条件は、能力や人格や健康な体ではなく容姿なのだそうだ。しかも、その理由は社会通念とは逆に、人間は容姿の優れている者に優越感を抱いているからなのだそうだ。とくに、容姿だけが優れている者に。


07053

【よしりん戦記】小林よしのり ★★☆☆ ゴーマニズム宣言の縮刷版というか、過去の作品の中から30編ほどを選んで、これに対談や歴代秘書のコメント写真などを張り合わせたパッチワークもので、結構Morris.はゴー宣読んでるから特に目新しいものは無かったのだが、好き嫌いは別として、やっぱりこの迫力と執念とエネルギーには圧倒される。
差別問題、戦争論、台湾論、薬害エイズ、新しい教科書作る会、オーム教事件、イラク戦争、反米−−−とたしかに、ことあるごとに社会の耳目を集める問題に係わり合い、自己主張を続け、ともかくもつぶされずに「わしズム」という個人雑誌まで作るパワーは常軌を逸しているといっても過言ではないだろう。
Morris.はゴー宣の愛読者ではないと思う。恐いもんみたさ、いや、はっきり言えば、野次馬根性を抑え切れないで読んでしまうということになるのだろう。それだけの力を持ってるともいえる。
そして本書であるが、セレクトということは、小林にとって自分に都合の良いものを取上げ、都合の悪いものはカットしてるのは自明だろう。つまり本書は使いまわしであるとともにプロパガンダである。もっともゴー宣自体がプロパガンダそのものであるけどね(^^;) こうやってゴー宣の軌跡というか全体像をおさらいするというのも無意味なことではないだろうし、Morris.も共感を覚えるところも少なくないし、何よりMorris.の弱点をぐさっと刺す部分もある。それ以上にそれはないよなという部分が多いことも事実なのだが、これだけ偏見を表にだすということも常人にはなかなかなしがたいことだろう。
何を言いたいのかわからなくなってきたが、要するに本書みたいなダイジェスト、セレクトを出すなら、すっきり作品だけを掲載すべきだったと思う。特にMorris.は2代目秘書カナモリのファンだったこともあって、3代目秘書と、大高なんとかいう女性評論家二人の構成の仕方が鼻について仕方が無かった。特にこの二人の対談「よしりんのSEX観を斬る」なんて対談(おまけに袋綴じ(^^;))は、これはもう噴飯ものだった。
本書とは直接関係ないが、Morris.としてはゴー宣「韓国論」を待ち望んでいる。一時予告が出たような気もするのだが、それきりである。もちろん恐いもんみたさ、野次馬根性での待望論である(^^;)


07052

【漫画版 神聖喜劇 1-5】大西巨人原作 のぞゑのぶひさ漫画 岩国和博企画脚色 ★★★☆☆ この漫画が灘図書館に新着してるということを稲田さんにおしえてもらったのが数ヶ月前で、その後第一巻だけ見つけて図書館で読み、それからしばらくして第5巻を読み、このたび2-4までの3冊を借りて読んだ。とりあえず1-5まで読んだことになる。全6巻とのことだから、まだ読み終えてはいないのだが、とりあえず感想だけを記しておこう。
原作は1968年から69年にかけて光文社のカッパノベルスとして刊行されていて、Morris.はこの版で読んだ覚えがあるから、二十代で読んだことは間違いない。当然全てを理解し得たわけでもないだろうが、かなり強烈な印象を覚えたことは間違いない。主人公東堂の超人的記憶力と特異な倫理観は圧倒的だったし、著者得意の綿密緻密細密厳密過密な描写にも感嘆しまくった。でも、一番本書でMorris.が感謝しているのは斎藤緑雨の存在を教えられたことだ。主人公が所持していたとおぼしい「縮刷版 緑雨全集」という小型の1冊本を古本屋で見つけたことや、その本への愛着は別のところに書いているので興味があれば参照してもらいいたい。
閑話休題、この問題作を漫画化するなんて誰も考えないと思っていた。でもその暴挙(^^;)を敢えてやろうとして、完成させてしまった、という、ただそれだけのことでも、信じられないことなのに、こうやって5巻まで読了した時点で、充分評価される作品である、ということが、これまた信じられずにいる。
漫画家はMorris.と同年齢で佐賀県出身というのも偶然だが、画風は古風で決して上手いとは言い難いが、精工で綿密な画風は原作と一致しているし、場面の切り取り方が実に大西巨人の作風を髣髴させる。ストーリーなどは読んでるうちに思い出したが、何か初めて読む気がした。
唯一の濡れ場ともいうべき牡蠣料亭の女とのやりとり部分は何故かMorris.の記憶からすっぽりと抜け落ちていた。二人の会話に出て来る、英米の詩には、深く心打たれるものがあった。ジョンマックレーの「フランドルの野に」、アラン・シーガーの「僕は死神と会う約束がある I have a randezvous with Death・・・」、そしてマリアン・ムーアの「A Talisman(護符)」。

護符 マリアン・ムーア

つんざけたる帆柱の
くずおれて船の片えに散り敷ける
       下影にして

地の中に埋もれたるを
躓ける羊飼いは見出たり
       一羽のカモメ

瑠璃色なり
海の神聖甲虫
       その翅ひろげつつ−−−

珊瑚色の諸足かがめ
嘴開けて悼むか
       逝きて遥けき人人を


何か心に残る詩である。死んだ鴎を「海の神聖甲虫」と比喩する部分にゾクッとさせられた。マリアン・ムーアはアメリカの女性詩人らしいが、ネットで調べてもあまりよくわからない。手元の半世紀前発行の「世界詩人全集」(河出書房)第六巻に安藤一郎訳で「御符」を含む4篇が紹介されていた。1987年セントルイス生れで、「そのスタイルは、一見冷ややかで固いが、底には抑制された情緒が水々しく動いており、意外に豊かな想像の世界をひそめている。技法に独自な特徴があって、類音や押韻を用い、カミングズと似て、単語の音節を大胆に切ったりする。彼女は好んで動物を主題にとり、そこに諷刺とユーモア或いはモラルを含める」などと書いてある。
ちょっと長いがたぶん1941年の詩集の表題作と思われる「歳月とは何か」を引用しておく.

歳月とは何か? マリアン・ムーア 安藤一郎訳

私たちの無染とは何か
私たちの罪とは何か? すべての者は
  裸か、誰も安全ではない。どこから
勇気が出るか、答のない問い、
堅固とした疑い−−−
唖ながら呼び、聾ながら聞く−−−それが
不幸のとき、死に際しても
      他を励まし、
      敗北にあつても、

  魂を奮いたたせるとは?
無常性に応じて
  自分が閉じこめられながら
深い淵にある海のごとく、
自分の上に起ちあがり、
自由になろうともがいても、
自由になることが出来ず、
屈服することに自分の存続を見出す、
そういう人は見る力深く、喜びがある。

  それ故信じることの深い人は
身の処し方を知る。歌いながら大きくなる
  そういう鳥は自分の形を
ぴいんと鋼のように強くする。囚われの身でも、
その力強い歌
は語る、満足は卑しい
もの、喜びこそ純粋なもの、と。
      これが無常性、
      これが永遠である。

うーーむ、なかなか観念的な詩だな、でも、Morris.は嫌いでないぞ。こういう本筋とは本来無関係な知識や作品を提供してくれるという意味でも「神聖喜劇」あるいは大西作品というのは、止められないところがある、って、これはMorris.の特殊な読み方なのかなあ。
ともかくも、この漫画のおかげで、一度原作を読み直してみたいという気になった。


07051

【愚か者死すべし】原ォ ★★★★ 新沢崎シリーズの長編である。などと、偉そうに言う資格も知識もMorris.には皆無だった。直木賞受賞作の「私が殺した少女」1冊しか読んでなくて、これが89年の長編2作目ということで、つまりMorris.は20年近くこの作家の名前さえ知らずにいたのだ。
寡作な作家ということはまちがいないようだが、本邦稀に見る本格的ハードボイルド作家であることも2冊読んで確信をもった。すごいもんである。
私立探偵沢崎が警察での発砲事件に巻き込まれ、ヤクザや警察とのかけひき、老フィクサーの大金配達(^^;)などやって、徐々にとんでもない犯罪の本質を抉り出していくという、前作(実は前々作)と色合いの似た作品だったが、実に洒落のめしたそれでいて神経の通った文体の積み重ね、トリックの意外さより、細部の積み重ねで読者を引きずっていく展開の妙、ドライすぎるくらいの人間描写、どれをとってもすごい、としか言いようがない。
こうなるとのこりの二つの長編と、1冊ずつの短篇集とエッセイ集は読まずに死ねないな(^^;)
ネタバレになるかもしれないが、終盤での犯人と沢崎の対話

「奥多摩で何があったのか、知りたいだろう? みんなそうなんだ。砂糖の山に群がるあり、いや、糞便の山に群がる蝿のようなものだ」ちがごろの人間はみんな昼のワイド・ショーがお好みの、低級な"のぞき屋"ばかりなんだ。相手が加害者だろうと、被害者だろうとおかまいなしで、何から何まで知りたがる……」
「この世の中のほとんどすべての人間は、あんたの犯した罪などどうでもいいのだ。ほとんど気にも留めていない。あんたのいったワイド・ショーの見物人は、この犯罪者が自分でなくてよかった、この被害者が自分でなくてよかったと、他人の不幸を見て、胸を撫でおろしているだけだ。テレビで取り上げなくなれば、すぐに忘れてしまうだろう。次の新しいニュースで忙しいからね。この私も、彼らと大差はない。こんどの事件は私にとっては、依頼者があって何かの真相をつきとめなければならないような事件ではなかった。私自身が事件にまきこまれ、命を狙われる立場におかれただけの、実にくだらない事件だった。」

万事がこんな調子である。拳銃持ってる相手にこの台詞。クールというよりスーパードライでしょ(^^;)
前作ではほとんど登場する事の無かった携帯電話が、本作ではさすがに登場せざるを得なくなってるが、沢崎の携帯への嫌悪&不信感は、やっぱりね、と思いながら妙に心地よかった。


07050

【ロシアは今日も荒れ模様】米原万里 ★★☆☆ Morris.とほぼ同年代の米原万里のことはずっと名前しかしらないまま、かせたにさんの紹介文などから、やっと彼女の本を読み始めたのは、彼女の没後ということになってしまった。
8冊くらい読み終えたところで、ちょっとひと息入れてたのだが、ひさしぶりにこの文庫本が目に入ったので読んで見た。
90年代中盤に雑誌などに掲載されたロシア関連の雑文の集成らしい。ロシアを代表する酒ウォトカと反アルコールキャンペーンに関するもの、ソ連崩壊前夜の生々しい状況、通訳から見たゴルバチョフ、エリツィン評、芸術家などのエピソードで、ちょっと今となっては、新鮮味に欠けるものも多かった。
ところどころにロシア小噺がちりばめられていて、あまり小噺好きな方ででないMorris.でも、クスリとさせられたりもした。

「父ちゃん、酔っぱらうってどんなことなの?
「ここにグラスが二つあるだろう。これが四つに見えだしたら、酔っぱらったってことだ」
「父ちゃん、そこにグラスは一つしかないよ」


ロシアタンカーの油流出事故で、盛んにロシア弁護論を繰り広げたり、来日したロシア要人と日本の総理との会談でのこぼれ話も、いささか親ロに流れる傾向にはちょっと鼻白む。
ただ、ロシア人との挨拶に限らず、「握手」に関する注意事項は覚えておいて損はないと思う。とにかく握手するときは相手の目を見つめることと、握り返すこと、なるべく体を近づけること、腕は上方に維持すること、基本はこの4点が基本らしい。
Morris.の嫌いな「手をこまねいて」表現(202p)があったのも、本書への評点が辛くなった一因である。


07049

【恋戦恋勝】梓澤要 ★★ 図書館に行ったらまず「あ」の棚で彼女の本を探す、と、以前書いたことがある。灘図書館の新刊コーナーで本書を見つけたときは無条件に本書を手に取り表紙を開くこともなしに借りてきた。
「生きよ。恋せよ。江戸の女たち。苦しくとも。切なくとも。」「爛熟の町江戸に生まれた六つの恋愛譚」と惹句にある。そういった短編集なのかと思って読み出したら、滝沢馬琴の息子の嫁、路が、盲目になった馬琴の口述筆記をやってる場面から始まり、病弱で神経質だった夫の回想話やそれとなく心惹かれた男のことや、細切れに出てくるのであるが、一向に恋愛物語にはならない、第二話でも同じ家の物語で、こんどは下女の情夫話で、これまたまるで味も艶もない話、つづいては馬琴の年下の友が話す、飲み屋夫婦のどろどろした家族間の関係。なんだよこれは、Morris.が好きな梓澤要といえば、古代、中世の魅力的な登場人物たちが、歴史を踏まえながら空想の翼をひろげて特異なフィクション世界を提供してくれるはずのものだったのにい(>_<)
そういえばMorris.は、ここ数年の作品も読むたびに不満不平を連ねることに終始してた。特に本書は読み進めるのが困難になって、とうとう途中で読むのを止めてしまった。だから、感想文など書く必要もないのだろうが、あの、素敵だった「喜娘」の世界を忘れられずにいる。そして何といっても彼女の畢生の傑作長編「百枚の定家」こそ。ところが、本書の著者紹介にはこの代表作のタイトルすらない。もう、図書館に行っても「あ」の棚に執着するのは止めることにする。


07048

【シネマ・シネマ・シネマ】梁石日 ★★☆☆ 自作小説映画化の経緯やそれにまつわるエピソードを「小説」仕立てに書いたものということになるのだろうが、Morris.はこれは「小説」ではないとしか、思えなかった。登場人物も著者本人を始め、仮名で登場するのだが、たいてい該当者はすぐわかる仕組みになってるし、自作に父親役で出演した場面の描写など、いいかげんにして欲しいくらい、いいかげんである(>_<) 
後半で彼の傑作「夜を賭けて」の映画化の部分は、Morris.もこの映画は評価してるだけに、興味深かったが、ここでも、韓国でのおおがかりなセット、資金繰りなどで、自分がどれだけ苦労させられたかなどという愚痴めいたことを書きながら、結局は自慢と、自己弁護に努めている。
さらに、過去の破産と債権者から逃げ回り、タクシー運転手で食いつないだお得意の昔話、原稿料前借しながら、遅筆で引き伸ばしはかり、編集に頼まれてのパリやニューヨーク、タイの取材旅行のレポートまがいなど、本筋とは関係ない部分や重複も多く、ほとんど書きなぐり的しろものという感じがした。これではまるでMorris.日乘ぢゃないか(@ @)


07047

【私が殺した少女】原ォ ★★★☆☆ 全く未知のハードボイルド作家だったが、46年鳥栖生まれで、70年代はジャズピアニスト、88年に処女作「そして夜は甦る」を発表して話題を呼び、本書は89年発表の長編第二作らしい。かなり古ての作家だが、Morris.は学生時代以降はミステリーはあまり読まなくなったし、特に国産ハードボイルドとは無縁だったから知らなくても仕方がない。矢作俊彦にちょっとはまって、彼の初期のハードボイルド作品を読みたいと思いながらその機会にめぐまれずにいたところに、本書にめぐり合ったというところだろう。
そして、本書は期待以上に読み応えがあったし、主人公もなかなか魅力的だった。天才ヴァイオリン少女の誘拐事件に巻き込まれた主人公が、自分のせいで少女を死なしてしまったと思い込む設定とタイトルとのダイレクトさには疑問を感じたが、これもフィナーレのどんでん返しの伏線だったようだ。
被害者家族や親族、そして捜査の刑事たちもそれぞれ個性的でうがった描写も多く、上手い作家だと思った。
ただ、やはり最後のどんでん返しは、それはないよ、と思ってしまった。他の作品も読んでみよう。
本筋とは関係ないが、日本と欧米のニュースレポーターの感情表出の違いを書いた部分は共感を覚えた。

テレビ・カメラに向かったテレビ局の女性レポーターが、傘とマイクを両手に持ち、弔意を顔で表現するとこうなるという顔と弔意を声で表現するとこうなるという声でレポートしていた。ニュースに喜怒哀楽の感情を盛り込むのはお国柄でもあるが、それだけニュースが新鮮でない証拠のようでもあった。欧米のテレビ・ニュースは感情など入れている暇はないというように早口でまくしたてる。泣くか笑うかは受けとったほうで勝手にしろという態度だ。どちらも嘘だが、あとのほうがやや合理的でニュースの量が多くなることは確かだった。

20年近くも前にこういった批評的な一文をさらりとストーリーに解けこませる手腕はなかなかのものであるな。そして、この批評は今でも通用すると思う、いや、その傾向はますます強まっているようだ。


07046

【ぶぶ漬け伝説の謎】 北森鴻 ★★☆ 京都嵐山の山奥にある「大悲閣」(実在するらしい)の寺男、と、地域誌の女性記者、裏京都ミステリー作家の3人が、次々起こるトンデモ事件を京都独自の裏文化をネタに解決?していく連作短編6篇が収められている。北森鴻といえば、二つのシリーズがお気に入りであるが、本書はそれらとは意識的に色を変えた喜劇作品を狙っているようで、結果的には失敗だと思うぞ。かなり周到なネタ仕込みながら、ギャグが空回りしている。やっぱり骨董や文化人類学を基盤にした彼独特の作品世界を深めて欲しいと思う。


07045

【40 翼ふたたび】 石田衣良 ★★★☆☆ 40歳になって独立した広告マンを主人公件狂言回しとして、作者自身も属する40代の人物がまきおこすさまざまな事件やエピソードをシニカルなタッチで描いた連作短編7篇だが、トータルで長編になるという、著者がよくやる手法の作品である。
40歳が人生の半分でターニングポイントという見方はことさら目新しくもないが、主人公が作ったブログを中心に人の出会いが始まるというのは、いかにも今ふうである。モデルがすぐわかる、失墜したIT企業家や、23年引きこもりの男、肺癌が進行してもタバコを止めないコピーライター、オタクのフリータなどが、それぞれ深刻な悩みを持ち、それぞれ(主人公も)に真剣に立ち向かい、最終話で、一堂に会して、イベントで派手な大団円を迎えるという、どう考えても無理のあるストーリーだが、おしまいの部分ではついMorris.も感涙をこぼしそうになったさ(^^;) そのくらい上手く作られている「大人の御伽噺」である。この作家はそういったツボを心得ているらしい。たまにはこういうのもよいだろう。
ただ、「目をしばたいた」表現があったのは不満である。(268p) こういうイージーミスはたとえ作者が間違ってても編集で直すべきだろう。


07044

【猫を撮る】岩合光昭 ★★★ Morris.と同年輩の動物写真家らしいが、知らなかった。稲田さんの紹介で気になって、Morris.には珍しく即買うつもりで六甲の書店に行ったら売り切れてた。こうなるとますます買いたくなる。昨日阪急甲東園駅の書店で見かけたので買うことが出来た。朝日新書の一冊で、ほぼ半分は猫の写真だが、カラー写真は冒頭の16pだけで、後はすべて白黒というのが、いまどきの本にしてはちょっと物足りない。200pくらいの本で半分が写真とういことは本文100pくらい、ジャズ教室生徒の発表会の撮影の合い間に読み終えてしまった。
それなりに役立つ情報もあったし、彼の猫写真も好きなタイプではあったけど、ノウハウ本としては中途半端な気がした。「面白くてためになる」本というMorris.の書物評価基準Iからいっても、インパクトに欠ける。要するに本を買うことに異常に吝嗇なMorris.が\750出して買ったことをちょっと後悔してるということに尽きる(^^;) これなら立ち読みで済ませるべきだったかな(^o^) Morris.にとって役に立ちそうなノウハウは以下の5点くらいだった。

・早朝は猫撮影の狙いめ。
・撮りやすいのはオス猫
・三毛猫はほとんど牝猫
・写真を撮るときには、角度が重要だ。一般的にネコの目線に合わせてカメラを低い位置で構えるとネコらしく撮れる。子ネコだったら、さらに目の高さは低い。カメラを地面にくっつけるつもりで構えてみるといい。
とはいえ、そればかりでは芸がない。ネコを見る高さと自分の目の高さの位置を変えてみる。それは、上下だけではなくて、前後左右いろいろな位置でネコを見てみるといい。
・雨上がりもネコを撮影するチャンスである。


タイトルに「猫」という漢字を使いながら本文では「ネコ」というカタカナ表記というのも何だかなと思うが、これは好みの問題だろう。
著者の猫写真で、猫だけでなく周囲の環境や風土を一緒に写し込むという姿勢は最近のMorris.の猫写真に通じるものがあると思った。


07043

【写真集 50本の木】 丹地保堯 (詩 谷川俊太郎) ★★★★ 樹木の写真集である。原書は82年にあすか書房から出されている。これも図書館で閲覧したが、Morris.が買ったのは90年ちくま文庫に収められたものだ。文庫サイズでも十二分にその魅力を堪能できて、Morris.は当時この文庫を10冊くらい買って、友人知人にプレゼントしまくった記憶がある。その結果手元には1冊も残ってなくて、いつの間にか絶版になったらしい。書店や古本屋で、見かけたら1冊手元に置きたいと思いながら、そのままになっていたが、先月六甲の「口笛文庫」に\250で出ていたので即購入。うーーーん、 やっぱり良い写真集である。
もともとタイトル通り50点の樹木の写真で1冊にするつもりだったらしいが、ちょっと厚みに足らないということで? 20点の写真を追加してそれぞれに谷川俊太郎が20行の一行詩を提供したということらしい。
そんなことは別にして、本書に収められた木の画像は15年ぶりに見てもやっぱりその魅力を保持している。
谷川俊太郎の20行の詩も、それぞれの写真に即しながら、この20行で1篇の詩篇になりそうだ。

角ぐむものののいちいちに微風の指は触れて
 
影のうちにこそあるいのちの発熱

誰が教えたのか垂直に立つことを

他と似るのをすこしも恐れずに身を寄せあい

大気のぬくもりへと滲み出る地の和毛

名づけ得ぬ緑の諧調を目は喜んでたどる

戦いよりも巨きなもののために号令を待つ

けっして煽動の効かぬ静かな群集

暗闇から立ち上るのだいのちあるものは

どんな錘がきみたちを隠された水へ誘うのか

林の中にいると心がからだになじんでくる

空へ溶け入ろうとしてふるえている−−色

その色の秘めている透明を探りつづける

木々もまたかけがえのない経験を生きる

一本一本の木にくちづけしてから死にたい

これが楽譜ならその音楽を聴きとる耳は?

鏡をもたないから立ち姿それぞれに美しく

天を目指す力のなんというあどけなさ

もうそれ以上美しくなってはいけない

この地上で木とともに生きることの恵み

最近また俊太郎は写真と詩のコラボレーションめいた本をいろいろ出しているが、25年前に書かれたこの作品を超えるものはないと思う。もちろん、それぞれの一行詩に配された写真の素晴らしさがあってのことだが。


07042

【夜明けまで1マイル】村山由佳 ★★★ 繁忙期で心身ともにふらふらになってたためか、いかにも軽いお子ちゃま音楽恋愛小説めいた本書を手に取った。期待に違わず、あっさり福知山までの往復のトラック助手席で読み終えた。
女性ボーカルうさぎと双子の兄セイジ(ドラム)、色男のリードギター直樹、語り手でもあるベースの大学生涯の4人組のバンドの物語で、涯は年上の大学講師と不倫恋愛中、うさぎは色男に惚れながら言い出せずにいる。ライブハウスでうさぎが辣腕プロデューサーにスカウトされ、それでバンドはばらばらになりかける。涯は幼なじみのうさぎが気になってしょうがないが、年上の恋人に溺れている。しかし恋人がアメリカで暮らす主人のもとに去っていくところで、目の前にあったほんものの愛に目覚める。と、まあ、ストーリー紹介するだに気恥ずかしくなるしろものである。Morris.には未知の作家だが、直木賞受賞歴があるらしい。文章も平明ながら、細やかな描写や小洒落た表現も随所に見られ、下手ではない。それにしてもあまりにも一昔前の少女漫画をそのままノベライズしたような気がする。96年から97年にかけて「NON-NO」に連載されたと知って納得した(^^;)
音楽漫画、音楽小説というのは、主題の音楽自体は読者の想像力に委ねられるから、比較的作家は楽できると思う。これが画家やデザイナーを主人公にした漫画や、作家や詩人を主人公にした小説となると、画力や筆力がもろ作品に出るから、特に架空のアーチストの場合、作者はとんでもない創造力+表現力を求められることになる。
そういう意味でも本書は、いかにも若者むけの音楽小説の典型みたいな部分が出て来て鼻白む場面も多いが、タイトルにもなっている、涯が作曲してうさぎが作詞したバラードの詞は、なかなか良く出来ていると思った。

紫のHoraizonに背を向けて
爪ばかりかんでいたね 膝を抱えながら
夜明け前の闇が一番深いと誰かが言ってた

Keep on keepin' on! まだ誰も知らない
Keep on keepin' on! ほんとのこと探して
俺たちに明日はない なんて信じない
ほら 夜明けまで あと1マイル……


大沢在昌の「新宿鮫」をふと思い出した。そういえば、本書は少女向けハードボイルドを目指してるふしがあるぞ。
昔ベースやってて、今はライブハウスのオーナーである涯の兄の「音楽論」も、いかにも、で笑えた。

「なあ、涯」兄貴は低い声で続けた。「お前、音楽ってものがどこに存在するのか考えてみたことがあるか?」
「……なに、それ?」
「俺がどんなにアンプやスピーカーを分解しようが、その中に音楽はない。当たり前だな。じゃあ、薄っぺらいCD盤の中にあるのがそうか? いいや、違う、ありゃただのデジタル信号だ。なら、ミュージシャンの中に存在するのか? それとも聴衆の側か?」
言いながら、兄貴はゆっくりと首を横にふった。
「そうじゃない。ロックにしろクラシックにしろ、あるいは他の何であれ、音楽ってやつは、音楽が生む感動ってやつは、おそらく、聴かせる側と聴く側とのどこか真ん中へんにポッと生じるものなんんだ。奇跡みたいにな。……俺は、お前が誰と関わってどういう生活をしてようが知ったこっちゃないが、腰砕けのへなちょこベースを聴かされると、むしょうに腹が立つ。せっかく奇跡が起ころうとしている瞬間を、お前が片っ端からぶっこわしてるような気がするからだ。」

こうやって音楽をことばで表現しようとすればするほど、音楽と遠ざかっていく、とはいうものの、Morris.はこういうのって結構嫌いではない(^^;)


07041

【中国文明の歴史】 岡田英弘 ★★★☆ 先日読んだ高島俊男の「中国の大盗賊」があまりに面白かったので、つい隣りにあった本書も読むことにした。同じ講談社原題新書の増補版というのも機を一にしているが、こちらはかなり読みとおすのに骨が折れた。仕事に追われて余裕がなかったこともあるし、あの中国のややこしい歴史を250pにまとめようとしたため、集約的かつ網羅的な記述が多く、高校時代の歴史の教科書を読んでるような気分になったことも否めない。
しかし、本書は従来の「漢民族」主体の中国史とはひと味もふた味も違う見地から構成されていて、中国史にうといMorris.には目からウロコだらけだったし、漢字や中国語に関するユニークな論にも唸ってしまった。とりあえず、著者の定義をあとがきから引用する。

私の定義では、「中国文明」は、紀元前221年の秦の始皇帝の中国統一にはじまり、1895年の日清戦争における日本の勝利、清国の敗北までを指す。それ以前の先秦時代には、もちろんまだ中国は成立していないし、それ以後の現代には、中国の伝統の文明は断絶し、それに代わって日本版の西洋現代文明の時代になった。それが現在まで続いている。
中国文明以前の時代には、蛮・夷・戎・狄の時代である。それが、西戎出身の秦によって統一されたわけだが、その結果、漢字と都市と皇帝が出現して、それから二千年あまりもの長いあいだ、中国式の文明が中国の主流になった。
それでもいくつかの時代が区別される。第一の中国の時代は、紀元前221年の秦による統一から、589年に隋の文帝が陳を滅ぼして天下を統一するまでの、約八百年の時代である。ここで漢字の天下が、北族の天下へと川ってゆく、その変わり目の契機が184年の黄巾の乱である。この乱を境にして、前期の漢族は一気に激減して、それに代わって後期の北族が中国に入居し、やがえt北族の天下となった。
第二の中国の時代は、589年の隋の統一から、1276年に元軍が南宋帝国の都の抗州に入場して、南宋の最後の皇帝がバヤンに降伏するまでの、約七百年である。この時代は、北族系の隋・唐・五代・宋の皇室が中国に君臨したが、そのうち北宋では「中華思想」を主張する議論が勢力を占め、当時のいわゆる「漢族」が実は「北族」である事実が不明瞭になった。しかしほんとうは、トルコ帝国・ウイグル帝国・契丹族の遼帝国・女直族(女真族)の金帝国・モンゴル族の元帝国という新北族が勢力を得てきて、そのうち936年、遼の太宗が後唐の内紛に干渉して、後晋から燕雲十六州を得たときに、前期の旧北族が負け、後期の新北族が勝ったのである。
第三の中国の時代は、1276年のモンゴル族の元による統一から、1895年に満州族の清が日本に破れるまでの、約六百年である。この時代は、モンゴル帝国によって、東アジア・北アジア・中央アジア・南アジア・西アジア・東ヨーロッパの政治・経済が統一され、それがずっと現代まで続くのである。いいかえれば、ほんとうの意味の世界史がはじまった時代であるといってよい。そのうち1368年に生まれた宗教秘密結社の明は、一見これに逆行する現象のように見える。しかし元は依然としてモンゴル高原に生存しており、またモンゴル帝国から分かれた諸国はユーラシア大陸に割拠していて、明はその一例であるに過ぎない。
ほんとうの第三の中国の前期と後期を分けるのは、1644年に明が滅亡し、満州族の清が北京に入って中国に君臨した事件である。清は満州・モンゴル・漢族・チベット・トルコ系イスラム教徒を政治的に投合する一方、各人種の経済を厳密に分断して、ほとんど元の統一を再現した。
1894〜1895年の日清戦争は、二千一百年を超す皇帝制度と中国文明の終わりを告げた事件であった。1854年に日米和親条約を結んでから、1868年に明治維新を経験した日本が、それから三十年も経たないうちに、かつての大国の清を破ったのである。清は衝撃を受けて日本型の現代化を決意し、多くの留学生を日本に送って西洋の新文化を学んだ。それ以来、、中国は依然として日本を模倣し続けている。この時期の中国はもはや独自の文明を持たない。「中国文明」の時代は、十九世紀で終ったのである。


えらく長い引用になったが、これだけ要約することはMorris.には不可能だろうから仕方が無い(^^;) これだけ見ても、従来の中国史の概念とはかなり違うことは分かるだろう。おしまいの、近代中国=日本の模倣という決め付けには、疑問もあるが、ともかくもこういう視点で中国史を概括するというのは、面白かった。
「中国文明」以前の夏の時代に漢字の原型があるという記述も興味深かった。

いずれにせよ、夏は東夷のたてた王朝であった。おそらく漢字を最初に使用したのも夏人であろう。長江下流の江西省清江県の呉城から出土した陶器には、現在まで知られている最古の形をした文字が刻まれている。漢字は東南方で発明され、それが夏人によって洛陽盆地にもちこまれて、つぎの殷王朝で甲骨文字に発展したものであろう。

うーーむ、この説に対する白川静の意見を聞いてみたいものである。

「官」は「舘」と同音で、衣食を公給されるこをと意味する。「舘」を「管理」するものが、すなわち「官吏」である。「県官」はまた皇帝の意味にも用いられる。つまり中国の官吏は、市場に付設された収納庫の番人から発展してきたものであった。
そして皇帝の本来の商業的性格を示すものとして、後世にいたるまで、中国各地の税関の収入は、原則として皇帝の私的収入であり、宦官が派遣されてこれを監督したことがあげられよう。また皇帝は、絹織物や公休陶磁器などの生産を直営し、また金融業を経営して利益をあげていた。いうならば、中国の本質は、皇帝を頂点とする一大商業組織であり、その経営下の商業都市群の営業する範囲が、すなわち「中国」だったのである。

中国の皇帝は盗賊だったという高島説を違う表現で補完したような文章だと思った。これ以外にも、「切韻」による漢字の統一化、「科挙」の意義、「中華思想」が負け惜しみであるとか、興味深い論が目白押しなのだが、ちょっと疲れたので(^^;)、中国の人口の推移と、人口爆発に新大陸アメリカからの農作物伝播が原因となってるという説を引いておしまいにする。

中国史の第三期前期に六千万人の水準を上下していた中国の人口は、後期に入って清朝の統治のもとに社会が安定するとともに、急激な勢いで増加を開始した。十八世紀のはじめ、清の康熙帝の時代の末に一億の線を突破したようで、1726年には二億、1790年には三億、1834年には四億とふえつづけ、四億人台でしばらく足踏みをしたが、1949年の中華人民共和国の成立以後は、あれよあれよという間に、五億、六億という数字が出て、、1980年代には十億の線に達し、2002年には十二億八千四百五十三万人の統計が出ている。十二億はともかく、四億でさえ、中国の土地と技術、社会システムが支えうる限度をはるかに超えた人口過剰であって、現在の中国のあらゆる困難な問題はすべてこの極端な人口過剰に原因が求められるということはいうまでもあるまい。
この人口増加の原因は、1492年のコロンブスのアメリカ発見にさかのぼる。16世紀以後、アメリカ大陸起源の農作物が、中国にぞくぞくと渡来した。トマト、トウガラシ、アヴォカド、カボチャ、ピーマン、ナンキンマメ、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、タバコなどである。これらのうち、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモは新しいカロリー源として中国農民によってさかんに栽培され、それによって多くの人びとが飢餓から救われたのである。
18世紀からの人口の急激な増加は世界に共通の現象だが、中国ではことに深刻で、これが華僑の海外進出の一因にもなっている。

コロンブスが中国人口増加の責任者(^^;)というのも皮肉ではあるが、ともかくも、中国史が世界史との関わりを深めて行く一過程なんだろうな。
このての本を読む時には、PC画面で大村暢さん作成の「歴史地図2000」を起動しながら読みすすめるのがいいのではないだろうか?
http://www.ugoky.com/chizu/ugoky_chizu.swf
ダウンロードもできるし、ネット上の画面で動かすこともできる。中国を中心とする東アジア二千年の領土変遷は、何度見ても見飽きないものがある。


07040

【私の家は山の向こう】有田芳生★★☆☆ 「テレサ・テン十年目の真実」とサブタイトルにある。95年5月8日にタイのチェンマイで急死した国際歌手テレサ・テンの評伝とも、ルポルタージュともつかない一冊だった。タイトルは彼女が天安門に集まった若者たちを応援するために88年5月、香港での抗議コンサートで歌った曲のタイトルである。原題は「我的家在山的那一邊」。Morris.はテレサ・テンは個人的女性歌手ベスト10に入るくらい好きで、今でも時折無性に聞きたくなるのだが、この歌を歌ったときの写真を見るたびに残念な気分になる。催し用に誂えられた野暮ったい白いポロシャツにサングラス、鉢巻きまでして自分で書いたスローガンの紙片を首から下げていた。この抗議集会のすぐ後に戦車隊を含む軍隊による惨事が起こり、テレサは自分の参加が天安門事件過剰弾圧の原因になったのではないかと後悔していたらしい。それは別として、プロの歌い手としてのテレサには、あんな不様な格好で歌う姿は見せてもらいたくなかったというのが、偽らざる印象である。
著者はフリーのジャーナリストで、人物ノンフィクション?や統一教会などを取材してるらしいが、本書ではテレサや関係者の取材も幅広くやっているようだが、結果としては、寄せ集めの印象がしてしまう。
日本でのヒット曲のエピソードや裏話、パスポート偽造事件の経緯、チェンマイでの最期の模様などは結構詳しく書かれていて、参考にはなるのだが、どうも上っ面にしか見えないのは、きっと著者のテレサ・テンへの愛情が欠けているせいではないかと思われる。
彼女の没後、彼女が台湾のスパイだったという風説が起こり、日本のマスコミにも複数の記事が載ったらしいが、その風説の出所である元情報局員だった台湾人へのインタビューで、その風説のいいかげんさを検証しているのが、一番の成果かもしれない。


07039

【北朝鮮の不思議な人民生活】宝島社 ★★☆ 宝島社がいつの頃からこういった興味本位のムックを出版し始めたのか詳らかにしないのだが、予想通りグラフィティにも値しないグラフ誌だった。でも、こんなのをつい借りてしまったMorris.自身が興味本位だったことは言うまでもない(^^;)
観光客や在日たちの写した平壌の風景や催しマスゲーム、パンフレット、カタログ、メニューなどからのコピー、GOOGLEの衛星写真サイトの孫引き、新聞雑誌の記事の恣意的抜粋、貧弱な朝鮮料理のレシピetc. なんとも情ないくらいの内容だったが、それでも、看板やポスターの意匠はついつい見入ってしまう。
現在運航休止中の「万景峰号」利用者のレポートと船内写真などは興味深かった。でも、こういうのはほどほどにしておこう。


07038

【中国の大盗賊・完全版】 高島俊男 ★★★★ 本書の元版は1989年に出ている。Morris.はこの著者のエッセイは好きで何冊か読んでるのだが、本書はその存在すら知らずにいた。そしてこの「完全版」が出たのが2004年である。元版と完全版の一番の違いは、最終章「これぞキワメツケ最後の盗賊皇帝−毛沢東」が元版では完全に削除されてたことらしい。これは発行元の講談社の指示によるもので、1989年当時はまだまだ、社会主義の未来を信じ中国を否定的に見ることに対する反発感情も強く出版社としては中国共産党部分をトーンダウンしたかったというわけだ。
だからMorris.は、89年版でなく、この完全版を最初に読むことになって良かったのだと思う。何といっても、こんなに面白い中国史の本はめったにお目にかかれないし、それも、中国の六千年の歴史を「盗賊の歴史」という視点で捕え、それが実に的を射た中国史としてわかりやすくておもしろいのである。
全体は6章に分かたれている。

序章 「盗賊」とはどういうものか
第一章 元祖盗賊皇帝−−陳勝(秦への反乱)・劉邦(漢の高祖)
第二章 玉座に登った乞食坊主−−朱元璋(明の太祖)
第三章 人気は抜群わららの闖王−−李自成(明と清のはざまで)
第四章 十字架かついだ落第書生−−洪秀全(太平天国の乱)
第五章 これぞキワメツケ最後の盗賊皇帝−−毛沢東(中国共産党)

前王朝の譲りを受けることを「禅譲」という。別に禅宗の儀式をやって譲るわけじゃない。「禅」は「つたえる」という意味である。この「禅譲」は上品な方式であるということになっている。三国の魏が、大漢帝国最後の皇帝である献帝の譲りを受けて国を建てたことはどなたもごぞんじだろう。
暴力で取ってしまうのを「放伐」という。これは乱暴な方式ということになっている。
誰が暴力で国を取るのか。
一つはその王朝の有力な武将である。唐や宋はこれでできた。魏も実質はこれなのだが、「譲りを受けた」という上品な形式をととのえたのである。
一つは異民族である。元や清は異民族が侵入して建てた国だ。
そしてもう一つが盗賊なのである。
禅譲でも放伐でも、新しい王朝が出来るのを「革命」という。革命というと、なんか新しいコトバみたいに思っている人もあるが、二千何百年も前からある。そして中国人はいつでも、「革命」というと興奮するのである。だから盗賊もしきりに「革命」「革命」と呼号する。


ね、無茶苦茶わかりやすいでしょ。

中華人民共和国は、中国の歴史上、漢、明に続く強力な盗賊王朝である。
1927年に毛沢東が作った中国共産党の軍隊は、中国歴史上の、盗賊の流れの上に位置づけられるべきものなのである。それは、マルクス主義を信仰し不平知識人が指導し、貧しい農民の味方を標榜する、一大盗賊集団であった。

儒家というのは何かというと、わかりやすくいえば冠婚葬祭屋、儀式業者である。
儒家は「文」ということを最も重んずる。「文」いうのは模様とヒラヒラである。実用的には無意味なかざりである。
儒家の儀式は複雑で、並の人間にはなかなかおぼえられない。それはそのはずで、誰でもすぐ出来ては儒者は商売にならない。誰でもお経がよめたら坊主の立つ瀬がないのと同じである。
儒家の大先生である孔子は「学びて時にこれを習ふ」と言っている。「学ぶ」とは、先生から式の次第を一通り教わることである。「時に」とは「しょっちゅう」ということである。「習ふ」とは「同じことをかさねる」「くりかえす」ということである。せっかく教わってもほっとけばすぐ忘れてしまうから毎日々々くりかえし練習して体でおぼえてしまいなさい、というのである。野球の選手が毎日千本ノックを受けていると、カンと音がした途端にボールの落花地点へ向けて自然に体が動き出すようになるのと同じ理屈である。

いったい中国の歴史は王朝交代の歴史であるが、新しい勝者が天下を取ると、前の王朝の宮殿に火をつけて景気よく焼いてしまい、新しく自分の宮殿を作る。秦の始皇帝が建てた阿房宮を楚の項羽が焼いた時は、三か月の間燃えつづけた、というのは有名な話である。
そんなわけで王朝が変わるたびに前代の立派な建造物をどんどん焼いてしまうものだから、中国は古い国のわりには古い建物がない。建物だけ見ると中国より日本のほうがよっぽど古い国のように見えるのはそういうわけである。

「人民公社」は、太平天国の「天朝田畝制度」と同じで、天下の田地をすべて公有(党有)とし、収穫はすべての人に平等に分け与える、という共産主義である。いっさい不平等があってはならぬ、と各家庭のカマドを叩きこわして、村ごとに食堂を作り、全員同じものを食べるようにしたりした。しかし農民は土地をとりあげられていわば共産党の農奴になったわけだから、概して真剣に働かなくなり、効率が低下した。二十年続いた人民公社の期間は、数億の農民が組織も連絡もないのによく一致してサボタージュを維持した期間だと言われる。
「大躍進・人民公社」は、毛沢東が提起し強行した唯一の建設的な、当人の主観では卓抜な、政策だった。しかしこれは無論徹底的に失敗した。三年間で数千万の人々が餓死した。もっとも共産党は「餓死」と言うことを許さず、「非正常死亡」と称したが、同じことである。わが国ではいまだに「共産党はとにもかくにも数億の民に衣食を与えることに成功した」などというひとがあるが、とんでもない無知である。


かなり中華人民共和国と中国共産党批判色の強いものになっているが、現在から見ると、どうやらこれが妥当な意見のように思われる。


07037

【破裂 RUPTURE】久坂部羊 ★★★☆ 筆者の2作目である。これも「廃用身」以上に衝撃的なストーリーだった。
医療過誤を取材するジャーナリストと、内部告発をする若い麻酔医者、手術中に針を置き忘れたことが原因で死亡した父のために裁判を起こす女性。これだけなら単なる医療裁判ものだが、本書の眼目は老人医療の矛盾と高齢化社会への、大胆かつ畏怖すべき解決法?である。
「PPP(ピンピンポックリ)」という、老人の一種の安楽死願望を逆手にとる手法で、画期的療法の心臓破裂という副作用を「効果」として捉える厚労省役人の恐るべき「プロジェクト天寿」計画。
麻酔医者も、このプロジェクトに取り込まれそうになったり、ジャーナリストが殺されたり、波乱万丈な展開もあるのだが、やはり本質は、老人医療問題を真剣に考えた上でフィクション化したものだろう。

佐久間はシニカルに微笑んでから、姿勢を正した。
「我々は国民に望ましい老後を保障するのは、国家の重要な責務だと考えています。『ぴんぴん』だけでなく、『ポックリ』も含めてね。超高齢社会に陥った日本を救うため、今、ある国家プロジェクトが秘かに進められているのです。わたしがその実質的な責任者です。わたしは先生のペプタイド療法を、このプロジェクトに活用させていただきたいのです」
「心不全の患者を元気にするためにかね。それはまだ時期尚早です。先ほども言ったようにペプタイド療法はまだ動物実験の段階なのだから……」
あくまで断ろうとする香村を、佐久間が遮った。
「いえ。実際の患者に使っていただきます」
「そんな、君、安全性を確かめもせずに認可されるわけがないじゃないか」
香村は思わず声を荒らげた。しかし、佐久間は動ぜず、むしろ親しみをこめて言った。
「認可はわたしが出します。安全性を確かめる必要はありません。プロジェクトの最終目的は、寝付かずに死ぬ、つまり、突然死だからです。

「率直にお話ししましょう。我々はペプタイド療法が心筋壊死から突然死を起す可能性の高いことを知っています。先生はそれを副作用とお考えのようですが、我々はそうは思わない。突然死は立派な"効果"です。心不全で生活機能の落ちた老人を、一時的に回復させ、寝つかせないで突然死させる。まさに『ぴんぴんポックリ』ではありませんか」


現実にこんな療法が採用されるとは信じ難いが、このプロジェクトのプロパガンダに利用された老俳優のインタビューも皮肉ながら、つい納得しそうになる。

「こんなことを言うと、お医者さまに叱られますが、医学が進んで、中途半端に助かる老人が増えたでしょう。むかしはもっとあっさり死んでました。もちろん命は大切ですが、苦しい長寿はよくないでしょう。自分も若いときは長生きがしたかったけれど、心不全で苦しんで、死ぬに死ねない状態を経験すると、突然死は大いなる救いなんですよ」

裁判の方は、レントゲン写真の手術前と手術後の画像に引き算的手法で針の存在を実証したものの、医者内部での馴れ合いで事実を糊塗されて、原告の敗訴になる。しかし医療裁判の難しさと矛盾を明らかに抉っていることは間違いない。いやいや、本当に、恐い作家だと思う。


07036

【無痛 PAINLESS】久坂部羊 ★★☆☆ 彼の第3作だと思う。やはり医療問題をテーマにしている。神戸で起きた小学校教師一家4人惨殺事件が始まりだが、顔を見ただけで病状を見ることのできる町医者と女性心理診療士の偶然の出会いから次々に事件が広がっていく。老人医療を中心とする贅沢な私立総合病院院長と尖頭症の助手の不気味な交歓、診療士の元夫の陰湿なストーカー行動、灘警察刑事、サナトリウムの自閉症少女の逃亡、何やかやえらく、ストーリーが錯綜しているのと、バーチャルエロ動画の偏執的な描写、殺人犯の擬手術というより解剖殺人の病的な描写、院長の先天的性器異常とこれまたしつこい女性性器の描写など、読みすすむのが嫌になるくらいの部分の続出で、げんなりしてしまった。どうもこの作家には、悪い意味でのオタク的性情がありそうだ。
たしかに医療への問題意識はあるし、刑法三十九条「心神喪失者の行為は罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する」への疑問、矛盾、可不可を巡る刑事の意見とその反駁にも見どころはある。

厳罰主義しかない。罪を犯した者は、結果に見合うだけの罰を受けさせる。手を下した犯人が善悪の判断を欠いていたからといって、殺人をなかったことにしてくれと言われて、納得できる遺族がどこにいるか。早瀬の胸にその思いは確信となって湧き上がった。償いをさせることこそが、正義だ。いや、それだけでは不十分だ。善悪の判断がつかないのなら、そういう人間を自由にさせておくことが問題である。
「いったん罪を犯した異常者は、みんな隔離してしまえ。そうでないと、善良な市民は安心して暮らせない。いつ人を殺すがわからない人間を野放しにして、どうやって市民の安全を保てる。奴らは人を殺しても、病気さえ持ち出せば、罰せられないことを計算に入れてるんだぞ。」
謹慎が明けて灘署に移るまでのあいだ、早瀬は酔っては過激な発言を繰り返した。刑事仲間には、彼ほどではなくてもその意見に同調する者が少なくなかった。犯人逮捕を目指す捜査員にとって、刑法三十九条は犯罪者の使う卑怯なジョーカーに等しかったからだ。


たしかに力のある筆者であることは間違いなそうだ。だが、本書の読後感を一言で言うと、真犯人が逃走する結末を含めて「極めて不快」だった。
Morris.の嫌いな「目をしばたく」表現(149p)があったのも、評価を低める一因かもしれない。


07035

【廃用身】 久坂部羊 ★★★☆☆ 現役医者でもある作者のデビュー作だが、小説というより捨て身のドキュメンタリみたいな読後感を受けた。神戸で老人医療をやっている漆原という医者を主人公に、医者の手記と、出版編集者の解説の2部構成になっていて、なかなか凝った造りになっている。
「廃用身」というのは、医学用語で「脳梗塞などの麻痺で回復の見込みがない手足のこと」らしい。医者が勤める老人デイケアには、この廃用身のために介護が困難な患者が多い。医者は患者にとっての重荷になっている廃用身を切断削除して、介護の負担を減らし、患者自身の動作の復活と精神的にも良い結果を生むことを確認し「Aケア」という名で廃用身の除去治療を進める。これだけ書くと、とんでもない治療法のように受け取られそうだが、そこに至るまでの医者の悩みと老人介護の限界、老人虐待の実態、老人の「死」への恐れと願望。国の老人行政の矛盾などを抉り出す、医者の手記は凄みがあるし、専門家であるだけに、老人医療や痴呆についての見識も高く、さまざまなことを考えさせられた。

お年寄りの求めているもの、それは腰や膝の痛みからの解放、便秘や尿もれの解消、そして何より大切なのが"寝たきりにならない"ことと"ボケ封じ"です。これは家族にとっても痛切なる願いでしょう。
医療はほんとうに"老い"に対して無力なのでしょうか。
治療を「元通りにする」と解釈するのでは、老人医療に未来はありません。もっと別の解釈はないものか。
そう考えてたどりついたのが、お年寄りの憂いを取り去るということでした。症状はあっても、お年寄りが幸福な気分でおればQOL(生活の質)は維持できる。

あまりにも単純そうに思われるかもしれないが、著者は老人介護の苛酷さを実感した上でこう言い切ってるのだ。

老人介護ほど、神経と肉体の両方をすり減らす重労働はないでしょう。
職員が腰痛でばたばたと倒れます。一人の徘徊お婆ちゃんのために、職員が一日中座るひまもなく振りまわされます。入浴介助は汗まみれになって、セッケンと垢と抜け毛に足を滑らせ、食事介助は唾と痰と吐瀉物を浴びせられ、トイレ介助では尿、下痢便、粘血便、凝固便と格闘し、そのほかにも、よだれ、水ばな、目やに、鼻くそ、耳だれ、フケ、膿、オデキの汁などにまみれなければなりません。
遅い動作にイライラさせられ、急かすとすぐに転んで骨を折る。言ったことは忘れ、聞けばでたらめを答え、同じ話を繰り返し、自分の非はぜったいに認めず、都合の悪いことは聞こえないふりをして、甘えて、威張って、疑り深く、わがままで、意地悪で自己本位で、ひねくれ者で、すぐに拗ねて、ひがんで、嫉妬する……
いや、失礼しました。
つい感情的になってしまいましたが、わたしは決してお年寄りの悪口を言いたいのではありません。これくらいの前提に立たなければ、老人介護はやっていけないとうことです。


これくらいの覚悟がいるものだろうと薄々感づいてはいても、なかなかこう明確に書くことはできないよな。そしていよいよ核心の「Aケア」についての説明。

わたしは、廃用身の切断を表す新しい呼び名の必要性を感じました。「切断」は英語では「Amputation」です。だから外科医は、切断手術のことを「アンプタ」と呼びます。しかし、それではただの切断になってしまう。廃用身の切断は治療ではなく、お年寄りのQOL(生活の質)を高めるためのものです。そこで私は「Amputation」の頭文字を取り、「Aケア」とう呼び名を考えました。「治療(キュア)」ではなく、「介護(ケア)」の一環として行うという意味です。
「Aケア」は特殊な療法であり、いったん実施されると取り返しがつきません。それだけに判定は慎重でなければなりません。あらかじめ基準があれば、適応に迷うこともないはずです。もちろん個別の状況は勘案されるべきですが、基本的な要件は決めておくべきでしょう。
そこでわたしは、「Aケア」を適応する基準を次のように提案しました。
1.切断されるのは廃用身であること。
2.本人の明確な希望があること。
3.ADL(日常生活動作)の改善、または介護の軽減が見込めること。
4.QOL(生活の質)の向上が見込めること。
5.生命に危険がおよばないこと。


こうして主人公医者の手で次々と「Aケア」が実行されて行くのだが、マスコミに取り上げられ、誹謗中傷も相次ぎ、編集者の対応の悪さも加わって、物語は悲劇的結末を迎えるのだが、新聞、雑誌、TVなどの受け止め方や、反論などもそれぞれいかにもありそうな論調で、それを描く後半の編集者の事件の推移記録は異常な臨場感をもって迫ってくる。
久し振りに小説を読んでゾクゾクする恐ろしさを味わされてしまった。


07034

【マイ・ラスト・ソング 最終章】久世光彦 ★★★ 何だかんだいいながら、Morris.はこのシリーズはほとんど読んでしまった気がする。そしてこれがほんとのラストになる。
「隣組」なんて変なのも入ってる。

そのころあって、今ないのは、こうした隣り近所の連帯感、ひいては「国民」の連帯感である。戦争が哀しい、いけないことはわかっている。だが「隣組」の時代は、兎にも角にも、みんなで戦争をしているという幸福な「一体感」があった。矛盾と言えば矛盾の時代だった。

こういった物言いはどうしても首肯しがたいが、白秋の童謡の「諧謔と明るいニヒリズム」という指摘や、「侍ニッポン」、「草原情歌」の裏話など興味深いエピソードなどは、面白かった。
急逝のため、原稿が足りなかったためもあってか、中野翠、松山巌、阿久悠、小林亜星と4人もの追悼文が掲載されているが、久世の亡くなったのが2006年の3月2日、奇しくもこれを読んだのが一周忌にあたっていた。


07033

【新参教師】 熊谷達也 ★★☆☆ マタギや狼など自然ものに独自の世界を持つ作家のこれは異色というべき、遅れて来た中学教師を主人公にした社会派小説?である。
大手保険会社の支店長まで勤めた40歳を越えた男が、郷里の仙台の中学教師に転職し、自分への中傷文書の差出人走査を私立探偵に依頼し、それが元でとんでもない展開になるといった、コミカルな色の強い作品だったが、主人公自身がかなりチャランポランだし、そのくせ、えらくいいかっこの結末。どうもこれまでの熊谷作品との違和感ばかりが目に付いた。
仙台は著者の故郷でもあるらしく、愛郷心がちらほら出てくるが、これをもっとメインに描けばまだ見どころが合ったかもしれないが、それも中途半端だし、やっぱり彼の本領発揮できる、自然と人間のものがたりを描いた作品を提供して貰いたい。


07032

【文学校】 赤瀬川原平 大平健 ★★★ 二人対談による文章読本という趣向らしいが、実際は赤瀬川の4冊の著書をネタに我田引水とお追従の応酬といった感じで、読んでいてちょっと気がめいりそうにもなったが、ところどころ見どころが無いでもなかった。

赤瀬川 文章を書くとき、常識をあまり引っくり返してしまうといわゆるアヴァンギャルドということになってしまって、文章がそこで重く固まってしまいますが、文章というのは流れていくものなので、なかに犯罪にならない程度の軽犯罪を少しだけやる(笑) マナーをちょっと破るくらいがスリリングで面白い。自分の読書体験でも、あるいは自分の書いたものに対する人の読書体験でも、ちょっとめくれた逆目のようなところがあってこそ、その抵抗にこれは何だろうと気がつくようです。そのために言葉をいろいろ探す楽しさがありますね。文章を書くようになってからは、ぼくは自分の感覚や発想でやるしかないので、そのへんに開発の余地があるという感じが嬉しい。

ここらあたりは、赤瀬川の文章スタイルがわかりやすく開陳されているようだ。

大平 サロン風文章が正しいとはなから信じていると、「面白い」は単なるおふざけ。だけど、サロンと無縁でいればおふざけにならないから面白いというのが文章の世界にはある。そういうことだったんじゃないかと気がつきました
赤瀬川 いまの世の中が全部ある意味ではサロン風になっています。テレビ世界なんて完全にテレビサロンです。該当でマイクを向けられたら、みんないうことは決まっている。テレビのお手本どおり。いまの世の中でお手本の力は凄いですよね。あるいはおふざけにいくかどっちかです。ぼくは若い子に接する機会が少ないけど、みんなお手本どおりに茶髪して、遊ぶといえばただステレオタイプのおふざけになっちゃう。昔のお手本はきつかったけど、正調で、はっきりと強制力があった。目に見えてお手本で固められていたから、よけいその隙間から面白さが探し出せるということがあったんですね。

たしかにTV画面にあらわれる画一化は、ときどきぞっとするくらいのパターン化があるもんなあ。
でも、Morris.は本書でも取上げられている赤瀬川の「ゼロ発信」については、作品以前だという感想は変わらない。


07031

【奥の細道 俳句でてくてく】路上観察学会 ★★★ おなじみの学会員5名、赤瀬川原平(原寸)、藤森照信(照暮)、南伸坊(南方)、林丈二(丈外)、松田哲夫(哲茶)が、99年から20001年までの8回、「奥の細道」を辿りながら路上観察を敢行。その成果を雑誌や地方紙に連載したものを一冊にまとめたもので、当然それぞれお得意の写真と、コラム、さらに今回は芭蕉に準じてそれぞれ俳句までひねるというスタイルをとっている。名前の後の()内は俳号である。
かなり出来不出来の差が大きいが、中にはなかなか面白い写真もあるし、Morris.日乘のデジタル画像撮影の参考になるかもしれないという助平心もあって割と熱心に見る。瓢箪の写真に「ヘチマ」とあったり、貼紙や看板でお茶を濁したりと手抜きもあったが、5人とも写真は上手いし、それぞれの個性が出てるところが値打ちだろう。俳句の方は「作品以前」のものばかりだった(^^;)  コラムも短すぎてものたりない。
付録?の杉浦日向子をゲストに交えた座談会が読み応えがあった。

杉浦 芭蕉さんが歩いていた頃には、庶民には旅行というものは縁がなかった。死ぬ気で出かけていったんですよね。水盃を交わして出かけたというのが実感できますね。よほど心細かったと思います。そういったことで意外と道は新しい。そして庶民の旅行も本当に新しいということです。
そして道、道路の「道」という字と路上観察の「路」wど使い分けしておりました。お上が管理する方が道路の「道」です。首という字が入ってますね。それだけ命がけで大切なもの。それを死守しなくてはいけないというような、そこの領地を治めている領主が命がけで守らなくてはいけないというのが「道」。そして路上の「路」、これは経巡るものでして、そこの地域住民がぶらぶらするのに便利なようにと作られた生活道路です。お上が管理している道路の「道」と、使い分けがされておりまして、道路の「道」は立ち止まることが厳禁されておりました。
藤森 あ、そう(笑)
杉浦 道の上でですよ(笑) もちろん茶店に入ればいいんですけど。高速道路のようなものですね。つまり信号はないという考えで、最短距離に到達するために管理されているのが「道」なんです。そこで立ち話をしたり、しゃがんだり、商いを始めたりすると必ず捕まります。逆に生活の路上の「路」の方はそこに縁台を出して将棋をしようが、路上で店をひろげて商いをしようが、何をしようと勝手。それぐらい使い分けがされておりまして、「道」の方では歩きながらの煙草も厳禁でした。道の上に荷物を置いてもだめなんです。
藤森 大変だ。まさに高速道路。
杉浦 「路」の方は本当に人々が便利なように使い、経巡るもの、迂回路なんていいますけど、必ずしも最短距離、最短時間で到達するべきものではない。使いやすければいい。そうやってきっちり管理も分けられておりました。そういったルールも江戸の、今から三百年ぐらい前においおいできてきたということで、本当に新しい。人と道との付き合い方はまだまだ新しいのです。

松田 さっきの杉浦さんの話だと、もちろん今は「道」の方が非常にクローズアップされているし、利用もされている。一方路上観察は「路」ですよね。
林 別の言葉でいうと横丁というもんだと思うんですよね。横丁とか路地という言葉でいうとわかりやすいと思いますけども。人が生活しているような町の路がなんといっても面白いですね。
杉浦 楽しいですね。
林 住んでいる人の生活がちょっとはみ出てきちゃうような、しかたなく出てきてしまうような部分が面白いわけでそういうところがある町は非常に楽しい。歩いていてもワクワクするように思いますね。
松田 道路の「路」の方があまり注目されていないというか、大事にされていないような感じがするんですけど。
杉浦 今は車が通らなければ道じゃないといわれるぐらい細い道は駄目ですね。機能していない。
松田 車の通る道も大事なんですけども、それを否定するのではなくて町を歩いている感じから、「路」の方についての何か感想があれば…
南 いろんな要素があるあkら面白いわけで、「道」と「路」というのも、もともとは一緒だった。いろんな昨日が必要だったために役割分担があってできたと思うんです。無理矢理じゃなくて、なんか両方の要素がそなわったような、車が走る道というのもあっていいかなあという気がちょっと僕はしますね。

藤森 日本の都市計画とか道路は建築家を入れないんです。そこがヨーロッパと違うところで、それは土木系の人たちがやる。それは建築家を入れるとお金がかかるとうのとうるさいというのが理由(笑)。入った時期もあったけど。結局、日本では戦前の段階で入れないことになって、戦後ずーと日本で高速道路をつくった時にあまり見た目の美しさを問題にしなかった。問題にしなかった理由は建築家が入らなかったということが一つと、当時、実用的に作ったものは美しいという思想があったこと(笑)
杉浦 用の美。
藤森 そんなことはなくて、実用的に作ったものはただ実用的なんだけどね。それもあってあんまり気にしなかった。もう一つは国民の側がコンクリートをものすごく美しいと思った。コンクリートがダーとあると「オー」と思ったというのは本当なの。みんな誰も文句を言わない。よく今文句を言うと昔の人が怒る、「誰も昔は文句言わなかった」と(笑)、みんな喜んでくれたと。
南 コンクリートは新しい間は綺麗なんだよね。

松田 藤森さん、アーケードが一時流行ったでしょ。
杉浦 傘持たずに。
松田 アーケードを今どんどんはずしてますよね。
杉浦 青天井。
藤森 雨に濡れずに買い物ができるというけど、あれもなんか変なことだよね。アーケードがダメになったのはいろいろ理由があるけど、やっぱり暗いんです。かさがかかって、駅前の所からずーと暗い。東京の場合は一時付けたのですが、アーケードを付けちゃうと店ごとの努力をしなくなる。
杉浦 見えないものですものね。
藤森 まず看板が見えなくなる。建築を建物をちゃんとつくらなくなる。一時、全国に広がるかと思われたのだが、銀座はやっぱり付けなかったし、六本木も赤坂も付けなかった。むしろ自分たちでちゃんとしたショッピングの店をつくっていった。結局そちらの方がオシャレということになって、全国的にはどんどん取り外している。雪国と灰が降る鹿児島、ああいう所は付けてますけど、基本的には変なものということになってきた。でも、そのことがわかるまでにやっぱり半世紀ぐらいかな。


日向子さんの「道」と「路」論は、分かりやすいし、日本人のコンクリート信仰と、アーケード不要論は目からウロコの思いがした。そういう意味では大阪、神戸のアーケード商店街の多さは、建築的に落ちこぼれているのかもしれない。


07030

【日本殺人事件】 山口雅也  ★★☆☆ 古本屋で見つけた日本フリークのアメリカ人の小説を翻訳したという形式のよくありそうなパロディの連作短編3篇が収められている。主人公は私立探偵の資格をもち、独特の日本文化観(かなり歪な)でもって、切腹自殺や茶道家や吉原などで抱腹絶倒(と作者が自己満足してる)な論理を繰り広げるのだが、Morris.には全く面白くもなんともなかった。殺人事件の謎解きよりも、誤解やズレで読者を楽しませようとしているのだろうが、あまりに底が見え見え、というか、凝りすぎなのだろう。


07029

【親不孝通りラプソディ】 北森鴻 ★★☆☆ 博多の高校生コンビがヤクザの裏金を強奪、それを追うヤクザと、これまた過去に警察の裏金を強奪した元警察官、さらには北朝鮮工作員までが複雑に絡み合う冒険活劇なのだが、これも本眼はハチャメチャコミックを狙っているらしい。著者は他のシリーズでは結構楽しませて貰ってるし、筆力もある方だから、それなりに読ませるところもあるのだが、高校生コンビがそれぞれ一人称で語る形式で、それが章ごとならともかく、数ページごとに入れ替わったりするものだから、読みにくいことこの上なしだった。登場人物たちの騙しあいや、トリックがテーブルマジックめいてるのも興を殺ぐし、やっぱり得意な骨董や民俗学系統の作品を望みたい。


07028

【モビィ・ドール】 熊谷達也 ★★☆☆ イルカが住み着いてる太平洋上の島で、NPOに所属している女性海洋動物研究家をヒロインにした、動物物語?というべきだろうか。マタギやサンカ、狼の物語で興味を覚えた作家の、ちょっと異色な作品である。
主人公たちがベースにしている、フィールドワークと資金調達を兼ねるイルカウォッチング船に、問題ありのイケメン(^^;)ダイバーがやって来て、ちょうどその時期にイルカが浜に追い込まれる事態が発生。どうやらシャチが原因らしい。主人公はシャチの捕獲を認可して貰うべく東京まで出向くが、島に戻ると、島の漁師たちと問題ダイバーが結託して、シャチを入り江に追い込んでしまっていた。
このままでは世界中の動物愛護団体からバッシングを受けるのは必至ということで、主人公はダイバーと二人でシャチを外海に放そうとするが、バリケードの網にシャチが絡まり、さらにダイバーがその網に絡まったまま、外海に出てしまい、必死で救おうとする主人公だが、突然鮫の群に教われ、もう駄目かと思ったところで、救いの神が−−−−と、とんでもないストーリー(これはMorris.のせいでもあるが(^^;))展開で、これまで読んできた筆者の作品と比べると、同じ作家の作品とは思えないくらいひどかった。
資料を見るとそれなりに調査して書いているらしく、イルカなど海洋生物の研究や漁の現況や問題点も分かりやすく紹介してあるし、NPOの研究内容や、実際の観察、鳴き声の収集分析などもリアルに描かれているのだが、どうもそれとストーリーが分離してる感が強いし、何よりも、主人公とダイバーの恋物語部分のやりとりが、あまりにも雑である。
イルカを追いやった元凶のシャチが両性具備の特殊な個体であり、イルカウォッチングにきた、エキセントリックな女の子が実は性転換をした男性で、両者が理解しあっているといった、あまりにもとってつけたようなオチも鼻白むものだった。
本作はテーマミスという気がする。出世作「ウエンカイムの爪」でも読んでみよう。


07027

【刑事たちの夏】 久間十義 ★★★☆ タイトルの通り警察ものである。歌舞伎町で墜落死した灰色官僚の残した秘密メモを巡って、反骨刑事が事件のもみ消しを企む上層部の方針に真っ向から立ち向かうという、新宿鮫シリーズみたいな作品だった(^^;) もっとも本書の主人公の方が正義感が強く、おまけに責任感が強すぎるため、ラストはほとんど時間差心中劇みたいになってしまった。
バブル時代に某銀行を舞台にした6千億円疑獄の残り火が事件の原因であり、複雑に絡まった財政癒着と争闘に食い込み、ヒロインは首相と会って取引までするという、なかなかの場面もあったりする。警察署ぐるみの裏カジノ癒着を一挙に解決しようとする魅力的な同僚刑事や、主人公と同窓の女性検事、北海道の警察OBの協力体制があったり、プロの殺し屋による殺人もたっぷりある。
例によって筆者の詳細な調査と描写には感心させられるし、登場人物の動きもそれぞれ丁寧に書き分けられてるし、事件の意外な動きや、駆け引きなどの展開も巧みで、かなり読まされてしまった。
文章も明解で読みやすい文体なのだが、「しばたたいた」というのが矢鱈出てくるのが気になるし、韓国クラブのホステス「良子」に「アンジャ」とルビをふってあるのはいただけなかった。これは「ヤンジャ」だろう。
この筆者の作品はこれで3冊目だが、ともかく水準を落さずこれだけ書けるというのは大したものである。


07026

【ららら科學の子】 矢作俊彦 ★★★ 学生運動で警官殺人未遂事件を起こし、30年間中国の田舎で暮らしてた男が日本に密入国し、当時の友人の保護下で、実家や妹を追いながら、30年前のさまざまなことと、その間の日本の変化、現実を特異な視点で眺めるという、著者お得意の不思議なシチュエーションのフィクションである。友人がハワイに行ったまま、主人公とは電話での連絡だけと言うのも凝ったつくりだし、もちろん主人公と中国人ヤクザ、友人の配下(これもヤクザに近い)との暴力事件もあるし、携帯で繋がった女子高校生との非現実的な繋がりもありと、読者を引っ張っていく展開は用意されていて、Morris.もひと息に475pを読み終えてしまったわけだが、どうも読後感というものが、あまりにも残ってないのだ。Morris.の読解力の不足なのだろうか。
タイトルは当然「鉄腕アトム」からで、表紙には中国語版のアトムの漫画3コマが使われているし、ストーリー中にも中国語で歌われるアトムのテーマソングが出てくるが、これもストーリーとの関連がいまいちつかめない。

鉄腕アトムの連載が終ったのは、彼が中国に渡った年だった。誰かから終ったと聞いたが、どんな結末か知らなかった。
彼が高校に上がるころ、幼なじみのロボット少年は、より強大な敵と戦うため、自滅することも厭わず、十万馬力のエンジンを百万馬力に換装した。そのために、電子頭脳に変調を来した。不平等な法律で国内に縛りつけられ、人間に絶対の服従を強いられてきたロボットが、人間に反旗を翻す日がやってきた。
アトムはどうしたろう。ロボットと人間のあいだで引き裂かれ続けた鋼鉄の自我は、いったいどうしたろう。記憶は抜け落ちていた。そこから先は、真っ白だった。
彼は最終回のずいぶん以前から、その連載漫画に興味を失っていた。
テレビ放送はもう終っていた。テレビのアトムは、黒点異常のために地球を焼き尽くそうとする太陽に、核融合制御爆弾を抱えて突入し、そのまま還らなかった。
人類はとっくのとうに地球を捨て、ロケットで宇宙の彼方に逃げ去った。アトムが救った地球はロボットの天下だった。しかし、太陽の暴走が収束するや否や、人類はまた戻って来る。アトム、ありがとう。おまえは人類の恩人だ。そのラストが、気に入らなかった。
これでは涙もろい十万馬力のカミカゼ特攻隊ではないか。
最終回のはるか以前、アトムは人類に楯突き、ロボット法を犯していた。海のカモメに、あの向こうにはどんな国があるのかと尋ねたロボット少年は、ガラス瓶に入れられ流れ着いた手紙に誘われるまま、海の彼方を目指した.悪漢に捕えられ、はるか南洋の海底で奴隷労働を強いられている少女を救うために。
空を越え、星の彼方へ飛んで行けるジェットエンジンは、そのとき、たったひとりの人間のために法を犯し、海を越えた。

以上の引用文のアトムが主人公の投影であるということは分かるのだが、それと、こういう物語を構想した根本のところがどうも腑に落ちないのである。細部の描写には、見るものが多かっただけに、全体の拠っていくところが見えないのが、面白くなかった。かと、いって再読するほどの元気はないぞ(^^;)


07025

【漂泊の牙】 熊谷達也 ★★★☆ 図書館の小説を作者のアイウエオ順に読んでる矢谷君が、これは面白いと夢中になってたので、つられて読むことにした。本作は新田次郎文学賞の受賞作らしい。Morris.は以前新田次郎ものはかなり読んでたから、そういう意味でも関心を持ったのだろう。
絶滅したはずの日本狼が生き残ってるかもしれないという噂の立った宮城県の山間部で、夫が不在中の妻が猛獣に襲われ死亡。その夫である狼の研究者が妻の仇を取るためもあってその猛獣を追う。結果的に猛獣は狼と犬の混血種ったが、謎はそこから深まり、過去の因果関係が複雑に絡んでいることが解ってくる。ローカルTVの女性ディレクタが事件をドキュメンタリーにしようとクルーを組んで取材する中で、狼研究者へ心惹かれたり、はみだし者の刑事との駆け引きがあったり、山の民サンカの歴史も交えて、なかなか読ませる小説だったが、人間関係の設定があまりにご都合主義なのが気になった。
自然の描写や、動物の習性などに詳しいことは良くわかるし、資料も良く読み込んで小説に活かしている。力のある作家だと思う。ただ「手をこまねいて」表現があるのが残念である。


07024

【邂逅の森】 熊谷達也 ★★★ 本作は直木賞と山本周五郎賞のダブル受賞作である。大正時代にマタギになった男の一代記ともいう物語である。村の実力者の娘に夜這いをかけて、それが原因で鉱山に追いやられた主人公が、別の鉱山に移り、配下の男の熊狩りを指導して、鉱山を下りたその男の村に住みつき、男のワケ在りの姉と所帯を持ち、娘を設け、嫁に出したあとに、また一波乱があり、森の主ともいうべきコブグマと一騎打ちのような狩をする。
前時代的なマタギの習俗やその伎、狩の方法なども懇切に紹介してあり、筆者の得意分野なのだろう。やや時代錯誤的な愛の形も筆者が分かった上でそのように書いたのだと思う。もう少し他の作品も読んでみよう。


07023

【捕手(キャッチャー)はまだか】 赤瀬川隼 ★★★☆ ちょっと懐古的野球小説3篇を収めたものである。アンパイアの目で野球を愛する「影のプレーヤー」、戦後の貧しい時代に子供から老人まで混成の野球チームを作り対抗戦まで持って行く「1946年のプレーボール」、33年ぶりに甲子園出場をかけて戦った旧制中学野球チームが、同じ球場に同じメンバーが集まり試合を行う表題作。
いずれも、著者の野球への愛情と洞察に満ちた佳作である。
「1946年のプレーボール」で、物資の乏しい時代に戦死した息子の形見のボールを提供する老人。そのボールを盗まれて闇市を探し回るメンバーの必死な姿や、表題作の中年のメンバーそれぞれの人生模様と、野球への愛着、そして社会の荒波に揉まれた末の人情模様は、登場人物より一回り年をとってしまったMorris.も涙を誘われてしまった。


07022

【書と文字は面白い】 石川九楊 ★★★ 書に関するコラム集で、京都新聞に連載してた「一日一書」と同工の作だが、1993年の発行だから、かなり古い時期からこういうものを書いていたのか。Morris.はこのころは結構彼の本読んでたのに、これは読み忘れていたらしい。でも、別に読む必要はなかったかな(^o^)
最近やたらワープロ批判に走ったり、見当違いな社会批評やったりしてる著者には、辟易する部分もあるが、こと書に関しての見る目はなかなかのものである。ペン習字の手本が全く実用的でないと論じたり、墨摺り器への批判などは面白かった。また当時はそれほどワープロ批判の筆先は厳しくないのが、意外だった。

ワープロやパソコンに私は少し関心をもっている。毛嫌いする人も多いようだが、ワープロの私信が届けられてくると、こういう手紙はどんどん増えてよいのだと正直に思う。ワープロではおざなりな社交辞令の私信は成り立たない。(「ープロ」)

ワープロで社交辞令の私信は成り立つ、どころか、やたら多いのではないと思うMorris.ではあるのだが、石川九楊がこんなこと書いていたのには驚いてしまった。


07021

【脱「風景写真」宣言】 宮嶋康彦 ★★☆☆ 筆者は1951年生、佐世保出身のカメラマンである。Morris.よりちょっと若いくらいだし、佐世保にはMorris.もいささかの因縁もあるので、興味を覚えた。
フィルム写真への愛着が強い写真家なのに、現像液の廃棄が環境破壊に繋がるからデジカメの普及を歓迎するといった姿勢は、作品にも現われているようだが、結論からいうと、彼の写真はMorris.の好みではなかった。
98年から99年にかけて「アサヒカメラ」に連載したものである。さまざまなテーマを決めて撮りつづけてる筆者の一番の関心事である「自然」を写すという意味で「自然写真」という言葉を使っている。簡単に言えば「脱風景写真」=「自然写真」ということになるのだろう。これは安易過ぎる結論であるな(^^;) でも一通り読んだ後の感想もこれに尽きる。
本書の1/3くらいは彼の写真である。撮影地、撮影データ、日付などはあるが、何故か年度は省いてある。意識してのことだろうが、自然に年度は不要ということなのか、解せないところである。また、それぞれの写真にコメントが付せられていて、これは無い方が潔いのではないかと思ったりもした。


07020

【深淵のガランス】 北森鴻 ★★★☆ 花師と絵画修復師両方を生業とする佐月恭壱を主人公とする中篇2編を収めたもの。この主人公はなかなか興味深く、筆者の新しいシリーズになりそうな気配でもある。
タイトル作では主人公が修復依頼された風景画の下にもう一枚隠された絵のあることがわかり、その謎と画商らのせめぎあいが問題を複雑にしていくのだが、こういうのは筆者の得意分野らしく、楽しめた。もう一作の「血色夢」は東北の旅館主人が、とんでもない古代の洞窟壁画を発見し、極秘裏に主人公にその修復を依頼することで話が始まるのだが、その辰砂の鉱石の特定と、主人公に好意を寄せる中国人女性とその父(大富豪で裏の大物)のからみもあって、これまた漫画みたいに楽しめた。
「ガランス」は「茜色」という意味らしい。村山槐太の「一本のガランス」という詩で記憶に残ってたが、意味は知らずにいた。本書の冒頭にもこの詩の一節が引用されていて、タイトル作の隠された絵が村山槐太に影響された朱色の作品であったことと、洞窟壁画の辰砂の朱色がガランスに集約されているということだろう。
民俗学関連の蓮杖那智シリーズや旗師冬狐堂シリーズがなかなか魅力的な北森ワールドに新しいキャラクタが登場したことに期待したい。
贋作や絵画修復などの言及での薀蓄にはMorris.の「面白くてためになる」要素が満載である。
本書でも水銀と金のアマルガムに関する記述などは面白かった。

古くから水銀は、金鍍金を施す際に用いられる物質として知られている。
水銀は常温液体の唯一の金属であり、金・銀・銅などを簡単に溶解する特性を有している。金を溶解させてできた金アマルガムは、金色が消えることから「滅金」と呼ばれ、これが「鍍金(メツキ)」の語源とする説もある。
「で、どうやって鍍金を施すの」
「金アマルガムを、鍍金したいものに塗りつけるんだ。水銀のもう一つの特性に、他の金属と比べて、非常に沸点が低いことが挙げられる」
その種類によっても異なるが、五百度前後の熱があれば、水銀は簡単に蒸発してしまう。「あとには金の薄い皮膜が残るという寸法だ」
「なるほどねえ」
「奈良の東大寺の大仏様があるだろう。あれにも金鍍金が施されていたんだ」
「そんなに昔から!」
東大寺に保存された資料によれば、このとき金鍍金に使用された水銀は五八六二〇両、純金−−記録には「錬金」とある−−は一〇四三六両となっている。現在の尺度に換算すれば水銀五十トン、純金九トンである。
「これだけの水銀を気化させれば、当然ながら凄まじい量の水銀ガスが、奈良盆地に充満することになる。水銀ガスはある意味で猛毒だからね」
「どうなったの」
「平城京は国家の威信をかけた大事業であったにもかかわらず、わずか七十四年で遷都」
「じゃあ、奈良の都は水銀で滅んだんだ」
「といった説もある。鎮護国家の象徴である大仏建立が、逆に平城京を滅ぼしたというのは、実に皮肉な話だね」

いくらなんでもこれはヨタ話だとおもうのだが、面白ければかまわない(^o^)


07019

【自虐の詩】 業田良家 ★★★ この漫画はNHKのBS漫画夜話で取上げられて、全員が絶賛していたうえ、稲田さん、杉山さん、かせたにさんなどがぐいぐい酒場で「大傑作」の太鼓判押すので、これは是非見たいと、稲田さんに無理行って借りてきて、上巻を読んで、まるでMorris.にはその良さが伝わってこなかった。みんな後半の盛り上がりがどうのとか、熊本さんというキャラクタがどうのと言ってたので、下巻に期待しながら、ずるずると読むのを遅らせていた。上巻末の内田春菊はこの漫画読んでずっと泣いてたなんて書いてるし、さらに「『自虐の詩』は想像力の無い人には泣けない」なんて、断言してた。おお、Morris.には想像力が欠如してたのか?と、ちょっと反撥をかんじてしまった。それで、やっと下巻を読み終えたところで、つまらない作品とは言い切れないがMorris.にはこれが「傑作」とはまるで思えなかった。熊本さんのキャラクタはたってはいても、好きではないし、主人公幸恵の妊娠シーンでも特に感動はしなかった。幸恵の父にしろ、イサオにしろ4コマ漫画のキャラとして面白いが、それだけである。Morris.が唯一好きになったキャラが藤沢さんだったというだけで、この漫画のファンからは総スカンを食いそうだが、事実だからしかたがない。したがって全体の中から一つを選ぶとなると「エッチな夢」(下巻p153)だった(^^;)
Morris.が漫画に関してはお子ちゃま趣味だということの暴露になるのかもしれないが、好き嫌いは他人には理解されないことが多いのだから仕方が無い、ということにしておこう。理解力&想像力の欠如、というのはありそうなことである。


07018

【ダブルフェイス】 久間十義 ★★☆☆「聖ジェームス病院」が良かったので続けて読むことにした。昼は一流会社のOL、夜は売春婦をやっていた女性の殺人事件を追う警察もので、警察ものならこれまでにもいろいろ読んでることもあって、それほど新味は覚えなかった。筆者の狙いも警察の捜査より、若手の警官とその恋人の関係や、証券会社での女性管理職の立場と抑圧などに力点をおいてるようでもあり、やたら場面転換が多くて読みにくかったが、これも新聞連載の弊害が出ているようだ。
「目をしばたたく」という正規用法はいいのだが、この語が矢鱈繰り返されるのが目に付いたし、Morris.の嫌いな「手をこまねく」表現があったし、「かかずらわう」、「食べ散らす」などというのもちょっと気にかかる。小説読んでこんなことばかりあげつらうのは、はっきり言ってあまり面白くなかったということだろう。


07017

【ロリヰタ。】 嶽本野ばら ★★★☆ タイトル作と「ハネ」の2篇が収められている。タイトル作は筆者をモデルにした主人公の作家が若いモデルと親しくなり、ホテルで会ったり、携帯メールでの子供めいたやり取りが不思議な雰囲気を醸すのだが、実は彼女は9歳だった(>_<)というところでスキャンダルになり、バッシングを受けて、それでも最後の一瞬の逢瀬で真実を掴むという、いかにもの作品で、例によって、ロリータ系の横文字のブランドとその服の説明がしつこく展開されて、それらへの偏執が筆者の真骨頂なのだろうし、Morris.は全く理解できないながらも、そこらへんが面白かったりする。
少女が作家のことを「王子たま」と呼びかけたり、作家の携帯の着信音にモーニング娘。の誰かの音声を入れたり、絵文字満載のメールを携帯画面そのままに貼り付けたり、と、鼻白む作品でありながら、Morris.はこれも楽しませてもらった。
「ハネ」は、タイトル作だけでは単行本に足りないので書き下ろしたものと思われるが、好きな男の子が作ってくれた大きなハネを背中に背負って、自分で作った小さいハネを青山表参道で売ってる少女の話で、これもまあ話としてはたわいないが、夢物語として楽しめる。
ただ、述懐部分で村上春樹のようにひとりごちたり、村上龍の表情で酒を手にしたりというのが繰り返されるのは、ギャグなのだろうが止めて欲しかった。


07016

【済州四・三】 ホ・ヨンソン(許榮善) 及川ひろ絵、小原なつき訳 ★★☆☆ 済州島の4.3事件は、朝鮮戦争の直前、1948年の4月3日に半島の分離を決定付ける南韓単独選挙に反対して勃発した武装隊(済州島人民遊撃隊)の武装蜂起が事実上の始点となり、その後、李承晩政府とその後ろ盾になったアメリカの反共勢力の過剰反撃によって、結果的には30万島民の1万5千人近くが犠牲になった、痛ましい事件であるが、事件後30年以上軍事政府の言論統制によってこの事実は隠蔽され続けてきた。済州島内部でも、骨肉の争いもあり、あまりの悲惨さに口に出すこともはばかられてきた。
少しずつこの事件のことが明るみに出て、やっと20世紀末に4・3事件真相究及び犠牲者名誉回復に関する特別法が制定された。しかし新装の究明と実態の解明は端緒についたに過ぎない。
Morris.はこの事件に関しては、在日作家の発言などからおぼろげに知っていたくらいで、金石範の大作「火山島」も未読なのだが、金石範と詩人金時鐘の対話には強烈な印象を受けた。
本書は、民主化運動記念事業会が事件の紹介と啓蒙を兼ねて発行したもので、日本語版も韓国で製作されている。先日六甲学生青年センターに立ち寄ったときに飛田さんからもらったのだが、2月9日には同センターで済州大学教授・関西学院大学客員教授趙誠倫による、4.3事件のセミナーがあるので、タイムリーだった。
内容的には、やや平明さに気を配るあまり、物足りない感じを受けるが、全くこの事件のことをしらない日本人のためには、これくらいの方が良いのかもしれない。筆者は若い女性詩人で、済州島の日刊紙の副編集長をやったことがあるらしい。
Morris.は2003年に1度だけ済州島を訪れたことがあるが、そのときは4・3事件のことなど全く頭に無かったようだ。人は得てして他人の痛みには無神経である。


07015

【よもつひらさか往還】倉橋由美子 ★★★☆☆ 矢谷君がこれを読んでるのを見て、奥付見たら2002年刊となってるので、多分読んで忘れてるのだろうと思った。でも自サイト検索で調べてもひっかからないので、あわてて借りてきた。やっぱり読んでないようだ。ここ15年以上、彼女は寡作というか、ほとんど書いてないから、すっかり見落としていたようだ。Morris.は日本の女性作家を一人選ぶなら、彼女か金井美恵子にするか迷うところである。両人の小説はほとんど読み尽くしてるつもりでいただけに、ちょっと脇の甘さを知らされてしまった。
本書は15編からなる幻想短編集である。主要登場人物は同じで、内容的にもタイトルからわかるように、現世ならぬ異次元の世界に往って還って来る話である。「よもつひらさか」は「黄泉の国の平坂」つまり、現世と彼岸の間の坂道である。集中「冥界往還記」というタイトルの作品も含まれている。
祖父から不思議なクラブを譲り受ける青年慧君が主人公で、九鬼という得体の知れないバーテンの作ってくれるカクテルを飲んで、その都度趣向を凝らした異次元に誘われ、そこで食欲、肉欲(由美子語彙では「交歓」)を充たして、帰還するという、ワンパターンの連作ではあるのだが、そこは由美子さんのことだから、これでもかというくらい手を変え品を変え、特に本書では日本東洋の詩歌や古典、就中漢詩文の薀蓄を傾けて独特の雰囲気を醸しだしている。もちろん文章も相変わらず惚れ惚れするような研ぎ澄まされたものだが、これまでの作品に比べると平明になってるような気がする。また、刊行当時の水準からすると、えらくPCやインターネットの世界の動きを先取りして、物語に織り込んでいる気配がある。これは彼女自身が、日常的に親しんでいるということの傍証になるだろうか。何となく彼女とPCは無縁のものと、思い込んでいたのでちょっと意外だった。
何しろあちらの世界の物語だから、時間も空間も、そして登場する人物?も、この世の基準とは別で、それをどうやって表現するかが腕の見せ所だろう。そして、Morris.はほぼ充分満足させられてしまった。
難を言えば、やはりこういう作品は旧仮名遣いにしておいて欲しかったことと、あまりに芸の無い装丁である。当代人気の菊地某の装丁らしいが、もったいないとしか言いようがない。出来れば和紙に無地の布の和綴じにして欲しかったくらいである(^^;)
本書の作品は「サントリークォーター」に4年にわたって連載されたものと書いてあった。そうか、由美子さんは、きちんとクライアントの意向に沿った味つけをしたのだなと納得した。酒があって、陶酔して、色気と食い気を充たして、一般読者にも負担無く読める、という感じだもんな。
慧君が多保という女性と祖父母夫妻と共に緑の浮島に往き、龍宮城でのような暮らしをしながら世界中を流れ流れ、祖父母はミイラになり、また数百年を閲して目が醒めたらクラブにいたという、邯鄲の枕を下敷きにした「緑陰用生夢」という作品が一番印象的だった。
たとえば、この物語の食事の表現の見本。

それから酒肴が運ばれてきて、最初は京風の懐石かと思ったが、そんな簡単なものではなかった。慧君も、また入江さんもそうだったが、およそ山海の珍味や世界の文明の大概の料理ではまだ味わったことのないものはないほどだったけれども、それらの料理が果てしなく現れて、あるところから先は、見たことも食べたこともないものが列をなして運ばれ、それは無限数列ように続くかと思われた。どうやら、九鬼さんの飲み物の効き目らしく、それがいくらでも食べられる。このまま行くと、三人とも、いや今は多保さんも交えて、普通なら牛飲馬食といわれることを、ゆっくりと経過する時間に身を任せて淡々と実行している。そのうちに、料理とともにやってくる時間も口に入れて消化しているのではないかと思われた。

いわゆるグルメ本の描写とは対極にあることだけはわかるだろう。
ついでだから「雪洞桃源」から、セックス描写の一例を。

あとになって思い出すと、その行為は食べることに似ていた。それも口や歯を使って食べるのではなく、全身を使って相手の肉、というよりも存在そのものを食べるのである。そして食べながら自分も食べられていくのを感じる。相手の中に侵入して食べている自分もまた相手に包まれて食べらるのである。その果てに二人ともなくなる。それを「死んだ」と読んでもいいが、とにかく闇に吸い取られて無に帰すのである。

これはウロボロスの変種だろうな。
そして、本筋とは関係ないのだが、猫とふくろうに関する「明月幻記」の一節

ふくろうという鳥は、鳥と哺乳類の中間にある。らんらんと光る眼は金色の満月に似て、その二つの満月が顔の正面に並んでいるところは猫の顔に近い。猫が好きな慧君はふくろうも好きである。というより、鳥の中で好きなのはふくろうだけだった。しかしこれがただのふくろうでないことはその顔を見ただけでわかった。ふくろうに似た人間をその中に含んだふくろう、というべきか。あるいは、もっと不正確な言い方になるが、ふくろうの縫いぐるみ中に隠れている人間、というべきか。

これを読んで、反射的にMorris.は王子公園のまぬう(マヌル猫)のことを思い出したよ(^o^)


07014

【顔のない男】北森鴻 ★★★ 「凶笑面」シリーズで楽しませてもらってる筆者だが本書は警察もので、7話からなる連続短編、と思ったのだが、長編を7幕に舞台転換させるような趣向だった。
数人がかりで全身打撲の死者発見に始まり、ベテラン新米の捜査官コンビと上司の綱引き、コンビ内特に新米の心の揺れ、次々に現われては死んだり狂ったりする関係者、最初の被害者による捜査メモの謎の数々。とにかく手を変え品を変え、ネタを小出しにして最後になって、それはないよのどんでん返し、まあ良く出来てるというか、あまりに作りすぎてるというか、この筆者のくせなんだろうけど、現実的とは思えない登場人物の動きとご都合主義も、面白ければそれでいいのだけど、やっぱりちょっと無理が行き過ぎてると思う。他の本でも同様な感想を書いたと思うが、どんでん返しはすかっとするのだが、それだけに、あまりに御都合のネタが突然出てひっくり返ると、終ったあとでも、また別のネタでひっくり返ったかもしれないと思ってしまう。
「エンジェル」という名の脳内物質に刺激を与える香料の話は、今となっては古臭い匂いしかしない。
連載時にはなかった「風景」という説明てき小文が各章の間に置かれているが、これは蛇足だと思う。
「拱いて」と漢字を使いながらわざわざ「こまねいて」とルビをふってるのも嫌だった。


07013

【BS マンガ夜話】いしかわじゅん 夏目房之助他 ★★☆☆ BSの「マンガ夜話」番組のことは仄聞してて、時々好きな漫画家が取上げられたことを稲田さんから聞かされてちょっと見たい気もしてたのだが、本書は「ニューウェーブセレクション」ということで4作品が取上げられているだけで、しかもあまり馴染みのないものばかりだった。
「童夢」大友克洋
「るきさん」高野文子
「自虐の詩」業田良家
「弥次喜多 in Deep」しりあがり寿
の4作品で、前の2作はいちおう読んでるがあまり好きでもない。後の2作は読んでさえいなかった。基本的にはいしかわ、夏目に、岡田斗司夫、大月隆寛の4人がレギュラーで、回ごとにゲストも呼んで、1時間一つの作品をじっくり熱く語り合うという企画で、それぞれが立場の違う専門家そろいだから、普通の読者とはひと味もふた味も違う見方が展開されてるが、ことマンガに関しては作品の好き嫌いが何より先立つことは間違いない。
たとえば高野文子でも「おともだち」か「絶対安全剃刀」なら、リキ入れて読んだと思う。
それとやはりTVで放映されたものを活字で再現するのにもかなり無理があるようだ。稲田さんの厚意で杉浦茂の回だけ見ることができて、あれはそれなりに面白かったもんなあ。


07012

【聖ジェームス病院】 久間十義 ★★★☆☆ 前から名前だけは見知ってたが読むのは初めての著者である。タイトルと表紙に惹かれて手にとった。500p近い長編だったが、一気に読んでしまった。のっけから病院での描写が細かい上にえらく専門的である。一瞬、専門家かと思い作者紹介を見たが、そうではなさそうだ。
研修医の若い医者を中心に、病院で起きるさまざまな出来事をエピソードとしてちりばめ、物語の大筋としては製薬会社の新薬売り込みと病院の馴れ合い、医療ミスと死亡患者遺族の提訴、院内感染への対応、日常化された「死」と医者の使命など、やや大風呂敷をひろげたようになってるのだが、何と言っても医療現場の描写には舌を巻くしかなかった。医者、看護士などの性格や特徴の書き分けも巧みで、久々に「書ける」作家に出会った気がする。
マニュアル本や、医療関連のウエブサイトも参考にしてるようだが、なまなかな知識ではこれだけの書き込みはできまい。
文章は明晰で読みやすい、達意の文章といえるだろう。描写力に優れているということは筆力なくしては実現できないものね。ただ、時々ちょっと説明的になりすぎたり、感情表現が平板になるところがある。例えば主人公と死んだ患者の娘との恋情場面などはあまりにも嘘っぽいと思った。
Morris.の嫌いな「手をこまねく」が2度も出てきたのが、ちょっと評価を下げてるかもしれないが、この筆者の作品もこれから何冊か読んでみたい。


07011

【「かわいい」論】 四方田犬彦 ★★★ この人の書くものは出来不出来の差が大きいと前から感じてるのだが、本書は「かわいい」をキーワードとしての美学的分析ということで、期待して読み始め、途中までそれなりに面白そうだったのに半ばくらいからだんだん、??という感じになり、読み終わったらちょっとがっかりしてしまった。
学生へのアンケートから、若者の「かわいい」感を探ったり、「美しい」と対比したり、語源「面映ゆし」にこだわったり、「縮み志向の日本人」を適用したり、グロテスクとの共存を論じたり、枕草紙の「美し」=「かわいい」ということで日本古来からの美の型と決め付けたり、女性雑誌の「可愛い」パタンを年代毎に論じたり、「萌え」ブームに言及したりと、やたらあちこちに触手を伸ばし、それぞれ思いつきめいた論じ方で対応してるようで、何となく集中できなかった。
普通の辞書を見ても「可愛い」は当て字で「かはゆい」の転ということははっきりしている。もともとは「不憫だ、かわいそうだ、いたわしい」の意味が強く、「愛らしい、幼くてほほえましい、小さくてほほえましい」などは後に転化したものと思われる。「可哀想」ももちろん当て字で「かわゆそう」の転である。
本書は、これらの辞書の解説を出るものではないようだ。
結語がこれである。

心理的にも歴史的にも「かわいい」映像が抑圧し隠蔽してきたものごとが、近い将来にいっせいに地上に回帰し、その現前を誇らしげに提示するとしたら、そのときこそわれわれの社会が本質的な破局に襲われる時だろう。それがはたしてどのような形で到来するのか、誰にもあらかじめ知ることはできない。唯一確実なことは、破局がこれまで回避されてきたのはひとえに「かわいい」という観念の薄膜が、われわれを現実に直面することから隔ててきたからにすぎないからだ。
「かわいい」の薄明はすぐそこまで迫っている。だがその終焉を無視するかのように、「かわいい」はわれわれの想像的空間にあっていっそう権能を誇り、現代社会の眩しげな光を放っている。


かなりの悪文の上に、ほとんど思考停止のように思えるのはMorris.の気のせいだろうか。


07010

【口奢りて久し】 邱永漢 ★★☆ 「食は広州に在り」から半世紀後に、久し振りに書いた食のエッセイとのことだが、ちっとも面白くなかった。はっきり言えばMorris.の読む本ではないというに過ぎまい。ミシュランの三つ星店を巡回したり、中国でも、日本でも超一流店を回り、自宅にコックをおいて宴をはる生活は、Morris.の食生活とは全く次元がちがう。それでもその夢のような料理のことを、きちんと書いてあれば、そういった別世界のあれこれを楽しませてもらえるはずなのが、一向に料理自体が浮かび上がって来ず、店の経営やこれからの上海料理の目指すところとか、デフレ時代の食堂の生き残りだの、要するにグルメ本でもないのだ。80歳になるだけに食欲も落ちてるだろうし、小説家としてより利殖の神さまみたいな存在としての名前が高くなってるから、たまに食のことを書いても、金もうけの方に気が行ってしまうのかも知れない。
「中央公論」に4年にわたり50回連載したものだが、2pというコラムみたいなもので、同じ話が何度も出てくるのにもちょっとうんざりさせられた。
自宅で高価な食器を使ってる自慢はかまわないが、手癖の悪い使用人がこっそり持ち出してるので、目を光らせる必要があるなんて書くのは、あまり良い趣味とは言えないだろう。

私の家に長く勤めていて、休みのたびに一つずつ持ち帰ったお手伝いさんがいたが、田舎に帰って間もなく死んでしまった。家の人たちはなぜおばぁちゃんがあんなに色々有名陶器の片割れを持っていたのか、本当の理由はわかっていないのではないかと思う。


07009

【羊皮紙に眠る文字たち】 黒田龍之助 ★★★ 「スラヴ言語文化入門」という副題がある。去年読んだ「外国語の水曜日」が素晴らしかったものの、本書はやや固いタイトルにびびって手にとるのをためらっていた。たしかにロシア語ならびにスラヴ諸語に関して一丁字のないMorris.には敷居が高かったが、あのキリル文字には、「幻のロシア絵本」でデザインとして興味を持っていたから、読んで良かったと思う。
筆者のスラブ諸語への関心と情熱には好感を覚えたし、その勉強ぶりも好ましかった。特にキリル文字より古いグラゴール文字の存在、それを二人で作ったというコンスタンチンとメトディー兄弟の話などは興味深かった。
いちおう「スラヴ諸語」の種類だけでも写しておく。

・東スラヴ語群=ロシア語、ウクライナ語、ベルーシ語 *キリル文字
・西スラヴ語群=ポーランド語、チェコ語、スロヴァキア語、上ソルブ語、下ソルブ語 *ラテン文字
・南スラヴ語群=スロヴェニア語、クロアチア語、*ラテン文字 セルビア語(*一部ラテン文字)、マケドニア語、ブルガリア語 *キリル文字


モンゴルでは、ソ連の支配下におかれた時代に、モンゴル語をキリル文字で表記することになった。現在ではモンゴル文字復興運動も起こってるようだが、まだ看板や書籍の大部分はキリル文字で表示されているらしい。その他ソ連内ではウラル系、チュクタイ系の諸語もキリル文字表記を徹底したらしい。

旧ソ連地域でも、最近ではキリル文字をやめて別の文字、多くの場合はラテン文字を採用しようという動きがある。社会主義と結びついてしまったキリル文字は、社会主義の衰退とともに疎まれる傾向にある。またインターネットのせいで世界中が英語文化圏になろうとしている今日では、ラテン文字がますます有力になってきているのも事実である。これがいいのか悪いのかは、わたしの判断することではない。

これは、日本語でも韓国語でも同様なことが言えるだろう。それがいいのか悪いのか。大きな問題ではあるな。


07008

【ものの数え方】小林睦子+ことば探偵団 ★★★☆☆ ここ数年、日本語のものの数え方に関する本がちょっとしたブームになってるようで、もともとこういった雑学ネタ好きのMorris.は、喜ばしい傾向だと思うのだが、ブームに便乗しただけのしょうもない本も散見する中で、本書はライト感覚で遊び心あふれた、楽しめる一冊だった。
著者は言語学者、専門家ではなく、コピーライター、プランナーで、それがこういった、軽いタッチになった原因だろうし、Morris.のスタンスに合うのかもしれない。
120pという薄い本なのに、数詞はでっかい活字使ってあるし、全ページにわたって常盤色に近い渋いグリーンと墨2色刷りのシンプルなイラストに飾られているから、本文の量はかなり少ない。でも、これで充分だと思う。
数え方を「見た目を大事にして数えるもの」「意味を大事にしえて数えるもの」「変幻自在の数えかた」「和風な事物に特有な数え方」など、緩やかな区別で実に視覚的にも分かりやすく提示してある。さらに豆知識やクイズ、エッセイなどを適当に按配してあり、引用ネタだらけともいえそうだ。
一、十、百、千、万に始まる基本数詞も、大きい方は「億」から上は4桁ごとに

「兆」「京(けい)」「垓(がい)」「じょ(禾+市)」「穣(じょう)」「溝(こう)」「澗(かん)」「正(せい)」「載(さい)」「極(ごく)」「恒河沙(ごうがしゃ)」「阿僧祇(あそうぎ)」「那由多(なゆた)」「不可思議(ふかしぎ)」「無量大数(むりょうだいすう)」

となっていて、おしまいの「無量大数」は10の68乗ということになるらしい。
小さい方は、一桁ごとに、名前がついていて、おしまいの「清浄」は10のマイナス21乗になるらしい。「零」「分」「厘」「毛」までは、良く使うが、その後は

「絲(し)」「忽(こつ)」「微(び)」「繊(せん)」「沙(しゃ)」「塵(じん)」「埃(あい)」「渺(びょう)」漠(ばく)」「模糊(もこ)」「逡巡(しゅんじゅん)」「須臾(しゅゆ)」「瞬息(しゅんそく)」「弾指(だんし)」「刹那(せつな)」「六徳(りっとく)」「虚空(こくう)」「清浄(せいじょう)」

これらは江戸時代の数学書「塵埃記」が根拠になっているが、版によって表記が違ってたりして、あまりあてにならないようでもあるが、何かもっともらしい命名ぶりが楽しい。

一組単位で数えるものには
反物二反で「一疋」、幕二張りで「一帖」、屏風二架で「一双」、門松二本で「一対」、雌雄二匹で「一番(ひとつがい)」、茶碗+皿で「一客」

・豆腐一丁の「丁」は直角という意味。
・羊羹、外郎を「棹」で数えるのは、棒状に作って切り分ける菓子を「棹物菓子」ということから。箪笥も「棹」を使うのは、昔箪笥を運ぶとき竹棹を通して運んだことの名残り。

きりがないので、ランダムにいくらか、特殊な数え方をならべておしまいにする。

・贈り物「一枝」
・山「一座」
・浴槽「一据え」
・饅頭「一団」
・宝石「一顆」
・琴「一面」
・鼓「一張り」
・暖簾「一垂れ」
・釜「一口(いっく)」
・三味線「一竿」
・算盤「一挺」
・四阿(あづまや)、家、寺、社「一宇」
・襖「一領」
・炬燵「一炬」
・鮭「一尺(いっせき)」
・烏賊、蛸、鮑、蟹「一杯」)
・細魚、白魚「一条」
・鰻「一本」
・たらこ「一腹」
・筏「一鼻、一乗」
・鯉幟「一旒」
・羽織「一重(ひとかさね)」
・袴「一下(ひとさげ)」
・火箸「一具」


本書は、できることなら一家に一冊常備することをお薦めしたいくらいの良書だと思うのだが、惜しむらくは表紙のデザインがあまりに安っぽいのが玉に瑕である。これはちょっともったいないと思うぞ。


07007

【ことばと文化の日韓比較】 斎藤明美 ★★★ 筆者は12年間、春川の大学で日本語を教えているベテランで、その中でのエピソードを交えて、日韓相互理解のための思いをこめて本書を著わしたとのこと。
韓国人の会話のテンポが早いことを「言葉のキャッチボール」ならぬ「言葉のドッジボール」だと例えるあたりは、上手いと思った。
指導している生徒へのアンケートで、日本語や日本人へのイメージを数値化して提示してる部分は退屈だった。
やはり、日本語と韓国語のニュアンスの差などの指摘が興味深い。例えば「席がある」という日本語と、韓国語の「チャリイッタ(席がある」)では意味が反対になる、つまり韓国語の場合は空席があるのでなく、この席は詰まってるという意味で使うとか、「チュダ」という単語ひとつで「やる」「貰う」両方を兼ねるなどの指摘は、韓国語万年中級入口で足踏みしているMorris.にはありがたかった。


07006

【旅行者の朝食】 米原万里 ★★★ 彼女があちこちに書き散らしたエッセイの中から食べ物に関するものを集めて一冊にまとめたもので、タイトルの「旅行者の朝食」というのは、そういう商標のソ連の缶詰があって、これがロシア人の間では不味いものの代名詞になってたらしい。
やはり彼女の専門分野のソ連、ロシアの食べ物の話が中心だが、間奏曲として収められた神戸での短いグルメの旅の記事が印象深かった。
自宅を建てることになり、その参考として神戸の異人館を見て歩き、ついでに神戸の美味いものを食べまくるという、かなり贅沢な旅で、「ジャン・ムーラン」「藤はら」「あら皮」「招福楼」などの超高級店を次々と訪れているが、Morris.には縁のない話で、南京街のちょっとしたエピソードが面白かった。

店のはす向かいの行列に並んで、「老祥記」の作りたて豚まんじゅうを食べる。列を制御するおばさんが無愛想なので、彼女が売り疲れるほどひょうばんなのだなとかなり期待は高まったが、並ぶほどの価値はなかった。でも三個の豚まん、残すわけにはいかず、平らげる。それにしても、中華街、世界中どこへ行っても、一目で分かるこの色使いと様式。さらに、はす向かいの「元祖餃子苑」へ。ここも店員は「老祥記」と優劣つけがたいほどぶっきらぼうなので、今度は期待せずに注文した焼餃子一人前がなんと美味しい! さっき豚まんで腹を満たしてしまったことをひたすら後悔した。そうでなければ、あと一皿軽かったのに。

Morris.もかねがね、あの「行列の出来る老祥記」には疑問を持ってたし、「餃子苑」は昔からのお気に入りだっただけに嬉しかった。しかし、そういえばこのところ「餃子苑」行ってないな。これを読んで無性に食べたくなった。
その他、かちかち山の狸汁は、実は狸の肉ではなく、アナグマ(ムジナ)の肉であるとか、ハイジが愛した山羊の乳はとんでもなく不味かったとか、まぼろしのお菓子ハルヴァの話とか、小ネタ満載の一冊だった。
「キッチンの法則」というコラムの中から、そのいくつかを引用しておく。

・料理上手は掃除下手、掃除上手は料理下手
・台所器具の価格とその使用頻度は反比例する
・きっちんが立派になればなるほど、料理は粗末になる
・料理を作るのにかけた時間とそれを平らげる時間は反比例する
・失敗した料理は、手をかければかけるほどまずくなる
・一生懸命作った料理ほど客には評価されない
・最大の注目を浴びるのは、常に最小限の努力で出来たもの


07005

【文章術の千本ノック】林望 ★★☆☆ リンボウ先生が、朝日カルチャーセンターや共立女子大で文章の添削講座をやったときの講義録と添削例をまとめたもので、副題が「どうすれば品格ある日本語が書けるか」である。本来ならこの副題みただけで読む気を無くすところだが、「リンボウ先生のコンピュータ文章術」というのがあって、つい手に取ってしまった。結果からいうと期待はずれもいいところだったが、逆に添削例の一部は意外に面白かった。
参考になったというより、添削しなかった方が良いのではないかと思えたり、添削者のいい気分さが目に付いたりするという意味でもね(^^;)
リンボウ先生は、品格を落す表現として「体言止め」の多用や、流行語、紋切り型を非難攻撃しているが、何となく言葉狩に通ずるものを感じたりもした。
「〜にこだわる」「〜ばっちり」「地球にやさしい〜」「終ってみれば〜」「〜と思ってる今日この頃」「〜という部分で〜」「なんともやりきれない〜」なんてのを使わないように指導してるが、これも好き嫌いの問題だろうになあ。
Morris.も「頑張る」とか「元気をもらう」とか、なるべく自分では使わない言葉もあるが、他人が使うのをどうのこうのいう気はない。
また、「悪口を書くな」という章に、人を中傷した文章は品格が無いとして、

嫌なやつに対して何か書きたくなったら、一番正しい態度は何にも書かずに黙殺するといことです。一切書かないのがよろしい。

と、きっぱり断定した、すぐその後に、こう続ける。

私の大学時代の先生で、軽蔑すべき教授が一人ありました。その先生はもう死んでしまったけれど、人品骨柄、そしてその学問業績ともいかにも下らない人物でした。
私は大学時代の恩師たちのことをあちこちに書きました。
しかし、この先生のことは、ついに一文字も書いていない。つまり僕の本を全部読むと、あたかもその先生は慶応大学の国文科に存在していなかったかのようであります。それが私の、もっとも鋭い批判なんです。書けばこちらもあの男のレベルまで降りていることになる。それは筆の汚れです。


おい、おい、しっかり悪口書いてるぢゃないかい、と、思わず突っ込みを入れたくなる。もしかしたら、これは講義録だから、書いてるんでなくて喋ってるのだから「筆の汚れにはならない」ということなのかもしれないが、それにしても、黙殺が「もっとも鋭い批判」とは、とうてい思えない。
本書は全体を通して、金井美恵子の一番嫌悪しそうな文章入門書にちがいない。万一彼女が本書を見たら、感想は「けっ!」の一言だろうけど(^o^)


07004

【僕が批評家になったわけ】加納典洋 ★★★ 岩波の「ことばのために」というシリーズの一冊である。未知の著者だが、48年生だからほぼMorris.と同世代である。このシリーズ全体のマニフェスト(^^;)も著者が代表して書いている。

いまことばをめぐる環境はめまぐるしい変化のうちにあります。インターネットは、書くことと読むことの意味をだいぶ大きく変えました。その結果わたし達の中では、五感の一つ一つが単独性・独立性を高め、互いに分離、切断されるようになっています。満員電車の中でのウォークマンから、終電車の中の携帯電話へ。そこでは聴く行為がことばを書く行為に変わっています。使用されているのは耳ではなくて、手(指)とそして眼。もう誰も口を開いていません。でもことばが行き交っています。そこに見えていることばは、もう紙に印字された活字ではなく、紙から切りはなされ、電子の空に浮かぶ文字。
そもそも情報社会というものが、わたし達がことばで自分自身を表現し直し、ことばになって、社会の中を浮遊する新しい社会のことでした。この新しい時代にわたし達はことばをどのように生きるのか。そういう問いを前に一つのヒントとなるような、ことばをめぐるシリーズを世に送り出そうと、この叢書は計画されました。
どんな時代でも、ことばは「すじこ」を「いくら」にほぐすときみたいに、わたし達を「ひとりひとり」にばらしてくれます。孤独にする。それがことばのよいところです。

解るような解らないような、面白いようなつまらないような文で、本書全体もほぼ同じようなトーンで覆われていた。
柄谷行人、小林秀雄、徒然草、ヴァレリーやらサント・ブーブなど東西の批評家や批評と目される作品をネタにしながら、「批評とは、ものを考えることがことばになったものだ」と、えらく素朴で大雑把な定義のもとに、世の中の何処にでも批評の「酵母」は存在するとして、対談、注、手紙、きれはし、人生相談、字幕、名刺、科学論文、マンガなど幅広い(というか恣意的な)分野に批評が顕在していることを紹介した後、批評が無い世界を仮定して、その重要性を説き、重く難しい批評の時代から、軽く平明な批評への移行とインターネット時代の現状報告。さらに「面白い」を契機とした、世間のフィルターで認知される批評形態に関しての開き直り的発言。

この、ちゃらんぽらんで、どこにいくのかわからず、「真理」のことを顧慮せず、俗人の目をひくだけの「面白い」こそ、誰にも開かれたスタート地点である。「ごちゃまぜ」の、面白ければ何でもよいというこの無責任な始点から、人はあの、「真」と「善」と「美」に、もしいたり着ける場合には、いたり着く。

まあ、何でもあり、ということで本書も書かれたらしいし、読む方もそれに合わせるしかない、ところどころ「面白かった」から、それで良しとしておこう(^^;)


07003

【肴(あて)のある旅】中村よお ★★★☆ 彼の本を読むのは4冊目くらいかと思うが、本書はこれまで読んだ中で一番良かった。何たって副題が「神戸居酒屋巡回記」である。それに装丁が良い。赤地に大活字を滲ませた風情の表紙、ざら紙っぽい本文用紙、章ごとのページも表紙と同色の赤地に白抜きでやはり活字の不規則な並び方と滲みがいい味を出している。ノンブルまで活字の手作業印字風で遊んでいる。題名も内容に即した言葉遊びで洒落てるし、著者の目指す店の指標が「安くて旨い」を第一条件にしてるというのはまさに我が意を得たりである。さらに古くからの水道筋付近の住民らしく、ここらの市場と商店街には昔から通ってるとういことで、最近このあたりに越してきたばかりのMorris.には格好のガイドブックにもなりそうだ。
水道筋の町名の由来も簡潔に説明してあり、前から気にかかっていただけに、嬉しかった。

王子公園駅から東に向かって続く水道筋商店街。もともと神戸の水道の水は明治時代に作られた神戸の布引、烏原の貯水池から奥平野浄水場に運ばれ、そこから給水されていた。大正時代になって、それでは足りなくなり、西宮にある甲山の麓の上ヶ原浄水場から神戸まで給水されるようになった。この時に増設された水道管が、現在の水道筋の地下を走っているため、この名前が付けられた。現在は、この水道管で淀川から工業用水が運ばれているそうだ。

それにしても、よくこれだけまめに、あちこちの居酒屋、BAR、立ち呑み、串カツ屋などを回ってるものだと感心する。音楽活動の打上げや、編集の打ち合わせや友人との付き合いもあるのだろうが、まさに「巡回記」の名に恥じない。
Morris.はどちらかというと気に入った店ができるとそこに入りびたりの傾向があったし、最近では、それより部屋で飲むことの方が多かったりするから、とてもこんなにあちこち回ることは出来ない。それでも飲み屋の風景や肴の紹介など見てるだけでも楽しいものがあるし、神戸界隈ということで、いくらかは馴染みの店もあったりするので、いろいろ楽しむことが出来た。メニューも几帳面に記録してあるし、好みの肴の描写も手慣れたものである。
神戸地震で潰れてしまった店、震災後に新しく出来た店、それよりも地震契機の新たな人々との繋がりなどについてもことあるごとに触れてあり、いちおう全壊被害者の一人であるMorris.も、読んでいて胸が熱くなったりもした。

しかも最初にこの店に連れて行ってくれたのは、やはり神戸の僕と同じ六甲在住の音楽ライター安田謙一くんなのだから笑ってしまう。正式には"ロック漫筆"という肩書きで健筆をふるっている彼だが、居酒屋に関しても一過言持っており、彼がすすめる居酒屋にはぜひとも行きたくなる。

これは大阪九条の酒場の記事の一部だが「一過言」というのは「一家言」の誤植だろうか、それとも「言葉が過ぎる、一言多い」という意味の造語だろうか?後書きによると、本書のタイトルの名付親はこの音楽ライターらしい。言葉が過ぎるのは漫筆家の宿命であるというギャグかもね(^^;)。


07002

【写真な建築】増田彰久 ★★★☆☆ 日本の西洋館写真家として最近Morris.がチェックしてる著者の建築写真論みたいな一冊で、もちろん写真も掲載されていて、この白黒写真がすごく良かった。A5版ハードカバーのしっかりした造本で本文の紙質も良く、オリジナルプリントを髣髴させる出来栄えである。南伸坊はいい仕事をしてるな。
建築写真の歴史に始まり、著者自身の写真履歴、撮影現場に即しての解説、西洋館写真を巡るエッセイといった構成である。

つまり、建築写真とは「この建築」について語ることであり、建築に対して具体的に写真で発言することである。そして、建物の欠点をあばくのでなく、努めて美点を見つけ出し、そこを強調することである。これは誰かがそう決めたわけでなく、撮影者と建築の間で暗黙のうちに成立したルールと言っていい。

これが著者の姿勢である。他にもいろいろ言を尽くしてあるが、専門家の基本姿勢ということだろう。

写真というメディアが生まれたときからもっている特徴を考えてみると、まずは記録性ということがあり、そして現実のように見えるということがある。それから、もう一つ大きい問題として、写真というのは何でも美しくしてしまうメディアではないかと思う。実際にはつまらないものや、馬鹿げたものでも美しく見せてしまう。ロバート・メイプルソープのように、腐りかけたものや、もう朽ち果てそうなものなどに美を発見する写真家もいる。

この「写真は何でも美しくするメディア」という部分にくらっと、来たのだが、これは先人がとっくに言ってたことらしい。

ヴァルター・ベンヤミンは1934年の講演で「いまやアパートでもごみの山でも、写真に撮れば必ず美化してしまうようになった。河川ダムや電線工場はいうまでもない」と語り、アメリカの批評家で作家のスーザン・ソンタグはその『写真論』のなかで、「だれもかつて写真を通して『醜』を発見したものはなく、多くは写真を通して『美』を発見してきた」と書いている。

なるほど、これは写真を論じる人にとっては常識以前のことだったのか。Morris.も漠然とこれに似たような感じを持ちながら、言葉に出来ずにいたということだろう。

写真家の側から見ると「フォトジェニックな」というか「写真な建築」がぼくの撮っている西洋館には多いような気がする。

これがタイトルの由来であるし、著者の狙いはこれに尽きるのだろう。わかりやすいし、作品がそれを雄弁に語っているのだから付け加えることはない。

西洋館でいうと、記録に残しておきたいとされるものはおおまかにいって千五百棟くらいある。ぼくはこれまでにそのうちの千二百ぐらいを撮っているから、あと三百ぐらいかなと思って、何に使うか、使えるのかわからないけれどドンドン撮っている。

うーーむ(@ @)流石ぢゃあーーっ、であるな。
ルネッサンス様式に多くみられるドームのある西洋館だと、Morris.は入場できたらまずドーム中心の真下の床にデジカメ置いてその上にお得意の魚眼レンズを載っけてセルフタイマーで円形のショットを撮るのが習慣となってるが、本書にも内部からドームを見上げる構図が多いのがちょっと嬉しくなった。もちろん彼はそれなりに斜め上の構図で、建物の他の部分との配合を考えて写してるけどね。
しかし、本書は写真の数はそれほど多くないと言っても、やはり読むより見る本だと思う。これまでにかなりの写真集出してるみたいだから、図書館で閲覧することにしよう。機会があれば彼の写真展も見たいものである。


07001

【褐色の文豪】佐藤賢一 ★★☆☆ アレクサンドル・デュマを主人公にした長編ということで読むことにしたのだが、読み終わって疲労感が残るものだった。もともとアメリカ黒人とフランス人ハーフのデュマの父がナポレオン時代の将軍となり、「黒い悪魔」と恐れられていたらしく、本書の前篇とも言える「黒い悪魔」という作品があるらしい。そして、本書でもすでに亡くなったその父の影が色濃く全体を包んでいて、Morris.の期待した文豪デュマの活躍ぶりがいまいち伝わって来なかった。
著者の名前はこれまで目にしたものの読むのは初めてで、それなりに物語を構成する力はあるようだし、登場人物それぞれの描写も細かく、努力は見られるのだが、いかんせんその登場人物が一向に魅力的に感じられないのだ。田舎からパリに出て、劇作家として華々しくデビューするあたりでも、華がないし、後半の「三銃士」、「モンテクリスト伯」の大当たりで大富豪になりとんでもない豪邸を建て、私費で大劇場を持って大成功を収め、その後零落していく経過でも、かなり書き込まれている割に、ドラマが感じられない。
「デュマ小説工房」と呼ばれた、下書き作者を多数抱えた住居で、昔の友人が下書き作家マケの原稿と、デュマの直しの原稿を見比べての感想

改めて読み返すと、マケの原稿は面白くなかった。いかにも几帳面で、いかにも誠実で、いかにも真面目な文章は、一読して、汗染みまで滲んでみえるような努力の跡には、ほとんど感動すら覚える。だというのに単純な読者として臨んでみると、まるで詰まらないのである。
「わくわくしない」
いくら読んでも興奮しない。身体の奥が熱くなって、この先を読まないでは居られなくなるどころか、早く終わりが来ないかと、だんだん心が塞いでしまい、それこそ教師か坊さんに捕まって、説教でも加えられている気分になる。


本書を読んでてMorris.が感じたのが、ちょうどこんな感じだったのだった。

「それをアレックスは、ちょこちょこと直すだけで、文学史を一変させる傑作に仕立て上げた」その手腕こそ人気作家のものだ。

本書もアレックス(デュマ)に手直しして貰えたら、傑作に生まれ変わったかもしれない。なんて、いつにもまして意地悪な感想になってしまったなあ(^^;)
本書の中に2度出てくる「綺羅星」の使い方にもちょっと疑問が残った。

そんな詰まらない男の息子としては、綺羅星の如くに輝いた将軍の息子に対して、引け目を覚えないではいられないのである。(178p)

このままではユゴーだの、バルザックだの、錚錚たる文壇の綺羅星たちに、後れをとってしまうのではないか。(332p)


辞書を見れば解ることだが、「綺羅」は美しい衣服とか、そういう衣服で着飾った人のことで、それから贅沢だとか、権勢盛んなという意味にもなり、「綺羅を競う」「綺羅をまとう」「綺羅を飾る」「綺羅を磨く」といった具合に使う。だから「綺羅星」という熟語はなくて「綺羅、星の如く」という使い方をするのではないだろうか?「キラキラ星」からのイメージで、単に光り輝く星という使い方も、一部では緩用されてるのかもしれないが、Morris.にはどうも納得できない。


top 歌集 読書録 植物 愛蔵本 韓国 日記 calender mail 掲示板
読書録top 2006年 2005年 2004年 2003年 2002年 2001年 2000年 1999年
inserted by FC2 system