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Morris.2004年読書控
Morris.は2004年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

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セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)
【日本百名山】深田久弥 【ソウルに刻まれた日本】チャンウンヒョン 武井一訳 【豪定本 ザ・ディープ・コリア】根本敬 湯浅学 【「世界」とはいやなものである】関川夏央
【ゴシップ的日本語論】丸谷才一 【ゴーマニズム宣言 EXTRA1】小林よしのり 【宮本常一の写真に読む 失われた昭和】 佐野眞一 【気まぐれにフリースロウ】山際淳司
【魔都上海オリエンタル・トパーズ】山崎洋子 【文学的商品学】斎藤美奈子 【昆虫写真マニュアル】海野和男 【ミシン2/カサコ】嶽本野ばら
【人はなぜ「美しい」がわかるのか】橋本治 【海はあなたの道】森まゆみ 【朝鮮民族を読み解く】古田博司 【秘 見仏記】いとうせいこう みうらじゅん
【見仏記】いとうせいこう みうらじゅん 【写楽百面相】泡坂妻夫 【俳句的生活】長谷川櫂 【バカラ】服部真澄
【見仏記 海外篇】いとうせいこう、みうらじゅん 【それ ほんとう?】松岡享子さく 長新太え 【赤い旗】槙本楠郎 【ウェブログ☆スタート】デジビン
【新・地底旅行】奥泉光 【GMO 上下】服部真澄 【永遠の不服従のために】辺見庸 【骨董市で家を買う】服部真澄
【ニホンゴ キトク】久世光彦 【朝鮮戦争 上下】学研歴史群像シリーズ 【言葉の外へ】保坂和志 【もうひとつの季節】保坂和志
【モンク】藤森益弘 【魔岩伝説】荒山徹 【せきこえのどに六輔】永六輔 え・山下勇三 【日韓音楽ノート】姜信子
【ディール・メイカー】服部真澄 【弟】石原慎太郎 【金門島流離譚】船戸与一 【剣ヶ崎・白い罌粟】立原正秋
【ウェブログ・ハンドブック】レベッカ・ブラッド yomoyomo訳 【龍の契り】服部真澄 【鷲の驕り】服部真澄 【関西フォーク70'sあたり】中村よお
【リクシャーマンの伝言】岡山陽一 漫画 中能健児 【清談 佛々堂先生】服部真澄 【深淵 上下】大西巨人 【言葉が通じてこそ、友だちになれる 韓国語を学んで】茨木のり子 金裕鴻
【すべての時間を花束にして】まどみちお 聞き書き=柏原怜子 【渋松対談 Z】松村雄策+渋谷陽一 【猫のつもりが虎】丸谷才一 【誰でも簡単 デジタルカメラ プロの使い方】ロブ・シェパード
バー70'sで乾杯 失われた夢スポットの記録】中村よお 【昆虫たちの「衣・食・住」学】矢島稔 【木霊 kodama】田口ランディ 画・篁カノン 【漢字と日本人】高島俊男
【ダニー・ボーイ】久世光彦 【探偵大杉栄の正月】典厩五郎 【あたりまえのこと】倉橋由美子 【トンパ文字伝説 絵のような謎の文字】王超鷹
【続・情熱の花】大西ユカリ 【男女の仲】山本夏彦 【ひとことで言う】山本夏彦箴言集 【中国いかがですか?】【続・中国いかがですか?】小田空
【賃貸宇宙 UNIVERSE for RENT】都筑響一 【西原理恵子の人生一年生 2号】西原理恵子 【現代思想の遭難者たち】いしいひさいち 【本の引越し】高橋英夫
【二列目の人生 隠れた異才たち】池内紀 【廃虚の歩き方2 潜入篇】栗原亨 【アトム今昔物語 復刻版】手塚治虫 【よみがえる百舌】逢坂剛
【俳句発見】坪内稔典 【テロリストが夢見た桜】大石直紀 【昭和詩集】角川版昭和文学全集 【12インチのギャラリー】沼辺信一編著
【繁盛図案 エコノグラフィー】荒俣宏、北原照久 【広告キャラクタ大博物館】ポッププロジェクト編 【失われた朝鮮文化 日本侵略下の韓国文化財秘話】李亀烈 南永昌訳 【最後の波の音】山本夏彦
【猪飼野物語 済州島からきた女たち】元秀一 【ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本】向山淳子+向山貴彦 絵=たかしまてつを 【超実践的最新DTP入門】木村義治 イラスト=カムカム 【境界殺人】小杉謙治
【幸福さん】源氏鶏太 【タブロイド時評】泉麻人 【ことばの流星群 明治・大正・昭和の名詩集】大岡信編 【ミシン missin'】嶽本野ばら
【君はこの国を好きか】鷺沢萠 【杯 カップ】沢木耕太郎 【石ころだって役に立つ】関川夏央 【アリゾナ無宿】逢坂剛
【旧かなを楽しむ】萩野貞樹 【そのコ】ぱくきょんみ 【そして粛清の扉を」黒武洋 【禿鷹の夜】【無防備都市 禿鷹の夜2】逢坂剛
【三都物語】船戸与一 【ウッふん】藤田紘一郎 【国銅 上下】帚木蓬生 【新約 コピーバイブル】宣伝会議コピーライター養成講座
【西遊記】呉承恩作 君島久子訳 瀬川康男画 【変貌する現代韓国社会】小林孝行編 【日本語あそび「俳句の一撃」】かいぶつ句会編 【抗う勇気】ノーム・チョムスキー+浅野健一
【幻のマドリード通信】逢坂剛 【私の前にある鍋とお釜と燃える火と】石垣りん詩集 【哀しい歌たち--戦争と歌の記憶】新井恵美子 【絵具屋の女房】丸谷才一
【良寛さんのうた】田中和男編 【小林カツ代の レモンをひとしぼり】小林カツ代vs.町永俊雄 【非国民】森巣博 【廃虚の歩き方 探索篇】監修 栗原亨
【許俊 ホジュン 上下】李恩成 朴菖熙訳 【耳のこり】ナンシー関 【熱き血の誇り】逢坂剛 【北朝鮮から逃げ抜いた私】金龍華 長谷川由起子訳
【道端植物園】大場秀章 【牙をむく都会】逢坂剛 【マッチレッテル万華鏡】加藤豊 所蔵編 【自来也忍法帖】山田風太郎
【下妻物語 ヤンキーちゃんとロリータちゃん】嶽本野ばら 【新宿・夏の死】船戸与一 【アダンの画帖 田中一村伝】中野惇夫 【Rise, Ye Sea Slugs! 浮け海鼠千句也】robin d. gill
 

【日本百名山】深田久弥★★★☆☆ 山とはあまり縁のないMorris.でもこの本の名前は知っていた。そのくらい有名な本である。64年初版だからすでに40年経つが今でも文庫で買うことが出来るし、中版のものもあるかもしれない。
昨年「つの笛」で再版の本書を見つけ\500というあまりの安さについ買ってしまった。Morris.は初版にはこだわらないが、最初に出版された版型や造本はできるかぎり当初の形で読みたいと思う方だから、これは嬉しかった。もちろん読み終えたら山好きの香介に進呈しようという心つもりもあった。
著者のセレクションは、大まかに
1.山の形の美しさ
2.相応の高さ(1,500m以上)
3.伝説を持っていたり、親しまれている、畏敬されている
4.著者自身が登頂したもの

などの基準があり、7割くらいはすんなり決まっても、ボーダーラインあたりの山は結局著者の恣意的な判断に委ねるしかないのだから、あくまで「私の」百名山ということにしかならないのだが、結果的にこの本が一人歩きして人口に膾炙したため、すっかりブランドめいた価値まで持ってる気配もある。
九州生まれで、関西在住の長いMorris.としては、あまりにも東日本(特に日本アルプス)に偏りすぎてるのではないかという感じがする。表と裏の見開きに日本地図が半分ずつ載っていて、百の山が数字で示されてるのだが、裏ページは10峰しかない。あまりの東高西低、中国地方なんか大山一つだし、近畿も中央部分は皆無で大峰山と大台ケ原、四国は石鎚と剣山だけだ。などと文句はいうものの、これは類書の中ではやはりよく出来た本だと思う。著者が登山家というより文学畑だから、それなりに筆が立つし、山への愛着が随所ににじみ出ているし、2,3ページのコラム程度の文章に白黒で小さいながら、厳選された写真と、ルート地図が掲載されているから、山好きにはたまらないところだろう。
あまりに安直かもしれないが、やっぱり富士山のページから一部を引用しておく。

全くこの小さな島国におどろくべきものが噴出したものである。富士を語ってやまなかった小島烏水氏の文章に「頂上奥社あkら海抜一万尺の等高線までは、かなりの急角度をしているとはいえ、そこから表口、大宮町までの間、無障碍の空をなだれ落ちる線のその悠揚さ、そのスケールの大きな、そののんびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、凡そ本邦において肉眼をもって見られ得べき限りの線であろう」とある。
おそらく本邦だけではない、世界中探してもこんな線は見当たらないだろう。頂上は三七七七六米、大宮口は一ニ五米その等高線を少しのよどみもない一本の線で引いた例は、地球上に他にあるまい。
八面玲瓏という言葉は富士山から生まれた。東西南北どこから見ても、その美しい整った形は変らない。どんな山にも一癖あって、それが個性的な魅力をなしているものだが、富士山はただ単純で大きい。それを私は「偉大なる通俗」と呼んでいる。あまりのも曲がないので、あの俗物め!と小天才たちは口惜しがるが、結局はその偉大な通俗性に甲を脱がざるを得ないのである。
小細工を弄しない大きな単純である。それは万人向きである。何人をも拒否しない、しかし又何人もその真諦をつかみあぐんでいる。幼童でも富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている。生涯富士ばかり撮って、未だに会心の作がないと嘆いてる写真家もある。富士と睨めっこして思索した哲学者もある。
地面から噴き出した大きな土のかたまり、ただの円錐の大図体に過ぎぬ山に、どこにそんな神秘があり、そんな複雑があるのだろう。富士山はあらゆる芸術家に無尽のマチェールを提供している。「不尽の高嶺は見れど飽かぬかも」と歌ったのは山部赤人であった。「雲霧のしばし百景をつくしけり」と詠んだのは芭蕉であった。大雅は富士に登ること数回その度に道をかえ、あらゆる方面から観察して「芙蓉峰百図」を作った。北斎もまた富士の讃美者で、その富岳三十六景の中の傑作「凱風快晴」と「山下白雨」を残した。夢想国師は造園の背景に富士を取り入れ、北村透谷は富嶽に詩神を見出した。
富士山は大衆の山である。俗謡小唄にうたわれ、狂歌狂句にしゃれのめされ、諺や譬にも始終引用されている。新聞の初刷りの第一ページは大てい富士山の景であるし、富士の名を冠した会社・商品の名は挙げるに堪えまい。
富士山は万人の摂取に任せて、しかも何者にも許さない何物かをそなえて、永久に大きくそびえている。

「評」というより「讃」であるが、百名山中の第一であると言い切ってもいいこの山だけに、どれだけ誉めても誉めすぎということはないということなのだろう。


【ソウルに刻まれた日本】チョンウンヒョン 武井一訳★★★ 1990年に発行された岩波ブックレット「植民地朝鮮の残影を撮る」(中野茂樹)に刺激されて、韓国人の著者がソウルにあったり、今でも残っている日帝時代の建物を訪ね、写真とともに批判的に検証した著作である。原本は96年に「ソウル市内日帝遺産踏査記」というタイトルで出されたらしい。
主な建物は、古宮、ソウル駅、南山(朝鮮神宮)、ソウル市庁、京城帝大、韓国銀行、大法院、龍山、西大門刑務所、朝鮮総督府といったポピュラーなものが中心である。
このうち西大門刑務所と朝鮮総督府(国立中央博物館)はすでに取り壊されている。ソウル駅は実用されなくなってしまってる。本書の影響とばかりはいえないだろうが、少なくとも著者は、日帝時代の建物には好感を持っているわけではなさそうだ。「日帝残滓」という言葉遣いからもその一端をうかがうことが出来る。
日本人であるMorris.が、朝鮮総督府やソウル駅の建物を擁護しようとしたら、確実に韓国人から非難を浴びるにちがいない。
韓国で「親日派-チニルパ」というのは、相当に強烈な罵倒語である。したがってその汚名をかぶらないためにも、日帝時代の建物を擁護することは韓国人としても避けるべきなのかもしれない。
特に朝鮮総督府はソウルの中心である景福宮を隠すような位置に置かれてあったから、Morris.は移築を期待していた。しかし、結局は破壊に近いやりかたで取り壊されてしまった。まあ形あるものはいつか消え去るものだと思うことにしよう。
少なくともMorris.の記憶の中には残ってるわけだしね(^^;)


【豪定本 ザ・ディープ・コリア】根本敬 湯浅学★★★★ 87年頃に出た最初の「ディープコリア」には、本当にびっくりさせられたものだ。「幻の名盤開放同盟」とか、「ガロ」での怪しい活躍には密かに畏敬の念を抱いていたのだが、ちょうどはまりかけてた韓国の、とんでもなくディープな情報満載で、すっかり度肝を抜かれたし、ポンチャックならびにイパクサを認識したのもこれのおかげであった。
本書はその増補版というか、倍以上の厚さで、内容もまたまたてんこ盛りである。特に、クレージ・ケン・バンドの横山剣さんとの対談はしっかり楽しませて貰った。それに対談の中で、突然平田さつきさんの名前が出てきたのにはびっくりした。
風俗関連の記事、というかエログロセックス探訪の部分はさすがにMorris.は付いていけないが、彼らの持ち味だから、これなくしてはディープコリアにはならないということは理解できる。故人であるキムヒョンシクにせんずりのことを「タルタリ」というと教えてもらったり、韓国ロックのドン、シンジュンヒョンの家に遊びに言ったりと音楽関連の交友関係も幅広くディープである。


【「世界」とはいやなものである】関川夏央★★☆☆ 「極東発、世紀をまたぐ視線」と副題がある。2003年に出たNHK出版のハードカバーで、80年代末から最近までの東アジアに関するものを集めてある。ちょうどMorris.の韓国歴と同じ時期をカバーしてるし、当然、朝鮮/韓国に関連したものに興味があった。「ソウルの練習問題」という当時としては画期的な啓蒙書には裨益するところ多かったし、それ以後も関川の著作は(小説を除いて)けっこうよく読んできたほうだ。しかしこの本ははっきりいってつまらなかった。4部構成で、3部「コリア的現実」が主に韓国と在日、4部「カルト国家をめぐって」が北朝鮮を取り上げているのだが、何故か微妙にMorris.とずれを感じる部分が多い。
たとえば、「在日」についてのこんな書き方。

「在日」の実情を韓国人は知らない、いや基本的にはなんの興味も持っていないという実情をまず踏まえ、「在日」には「在日」としてのアイデンティティはあるが、それは北であれ南であれ「祖国」とはほとんど現実的なつながりを持たないと考えるところからはじめるべきだと思う。すなわち、「在日」の処遇問題は、すぐれて日本社会そのものの問題であり、責任であると考えるのだ。

これに続けて「在日」は日本国籍を取るべきだという主張になると、Morris.はとうてい賛成できない。というか、まるで現実的じゃないと思えるのだ。

定住する在日外国人、なかんずく在日コリアンを日本社会の有力な構成員だと考え、ともに歩むこと、単一民族というまったく実態に反する幻想をぬぐい去ること、各民族が日本国籍者として生活しつつこの拝金教におかされて乱れた世を復元するべくつとめること、それらこそ日本が戦後責任を果たすというに足る重大な一事ではないか、とわたしは考えている。

あまりに能天気じゃなかろうか。
これが4部になると、北朝鮮批判のパターンなどほとんど小林よしのりと同次元ではないかと思ってしまった。
韓国の言論人趙甲済の論文「大韓民国は戦争を決心しうる国か」とう論文をを踏まえた、田中明の文章を引用してあるが、本書のなかでMorris.が一番共感を覚えたのがこれだった。というのも、なんだかなあ、である。

戦後の日本は、実態が「(戦争を)しえない」国であるのに、あたかも「しない」国であるかのように誤魔化し、自己を正当化してきた。偽善と言うよりは詐欺に近い。趙氏は「国民を守りえなかった」旧支配層(両班)の平和主義は偽善であり「戦争を決心する勇気がなかったから平和を選んだ」に過ぎぬと断罪していたが、戦後日本の知識人も同断である。(……)大戦後のアメリカは強かったから、そうしたいい気な所業も見逃してくれた。おかげで社会主義を良しとし、アメリカの悪口を言っておれば、インテリの証しになる時期が、長らくつづいたのである。
要するに、日本の平和主義というのは、危ないこと・恐いことはしたくないというエゴイズムを装飾したものに過ぎなかったのである。よく「戦争は悲惨なものだ。だから二度とやってはならぬ」と言われる。そして、それが絶対不戦の聖なる誓いのようにみなされているが、これは大いなる自己欺瞞である。
なぜなら「戦争は悲惨だからやってはならい」というのは、本質的に功利的な考え方であって、聖なるものではないからである。「悲惨だからやってはならぬ」という主張には「悲惨でなければやってもいい」という論理が内蔵されている。だから、それは御都合主義だとはいえても、絶対不滅の「思想」すなわち精神の次元のものにはなりえないのである。(「命がけ」田中明、「現代コリア」94年4月号)


【ゴシップ的日本語論】丸谷才一 ★★★☆☆ 著者の講演、挨拶、対談、座談会などの話されたものだけで編まれた一冊で、すべて21世紀初出のものばかりである。もともと丸谷は対談が好きで、多くの対談集も出しているが、話術もなかなかのものであるようだ。
先般発行された長編小説「輝く日の宮」への手前味噌的自作解説、対談が目に付くし、ちょっと鼻白むところもある・たしかにそれだけの労作であったことは認めているMorris.だから、文句は言わないが、言わでもがなのことは言わずに済ますほうが奥ゆかしく見えるのになあと思ってしまった。
タイトルになってる講演にある、昭和天皇の皇太子時代の言語教育の歪みが、戦争につながったという皮肉っぽい、しかし、正鵠を射た意見は、戦時中、戦前なら即不敬罪で拘束されただろう。

その結果、昭和天皇は、何を語つても言葉が足りないし、使ふ用語は適切を欠き、語尾がはつきりしなくて、論旨の方向が不明なことを述べる方になつた。拝謁した首相や参謀総長は、よいと言はれたのか悪いと言はれたのか、どういふ思し召しだつたのか、まつたくわからない。そのため御前を下がつてから内大臣とか侍従武官長と協議して検討した。協調、検討といふと立派でありますが、はつきり言へば、揣摩憶測して群盲象を撫でるがごとくにいい加減結論を出したわけであります。たぶん、さうだつたらうと思ふ。(「ゴシップ的日本語論」)

講演では、単に話の内容だけでなく、間の取り方や笑いを誘うくすぐりやスパイスが必要なことは言うまでもない。本書の端々にもそういった、小ネタがちりばめられている。Morris.が一番気に入ったのは、折口信夫に関連する講演の中にある。

たしかあれは日本橋辺の裏通りの本屋だつたと思ひますが、入口のところに「折口学入門」と墨で書いたビラを見つけたことがありました。夢中になつて飛び込んで行つて、「『折口学入門』をくれ」と言つたんです。ところが、「そんな本はうちに置いてません」と言ふんですね。ビラを指さして「ほら、ここにあるぢやないか。と言ひながらよく見たら、それは「哲学入門だつた。一時はそのくらゐのぼせてゐたんです。(「折口学的日本文学史の成立」)

これは、横書きだといまいち、インパクトに欠けるかもしれない。もちろん「哲学」の「哲」の字を上下に分けると「折口」になるわけで、これは、事実談というより、丸谷のサービスのような気がしないでもないが、こういったくすぐりは大事だよね(^^;)
でも、まあ、それより真に読むべき内容をふくむさわりを引用しておこう。

日本語はむづかしい。もちろん、易しい面もありますよ。発音は、何しろ母音が五つしかないから、易しいとも言へる。でも、それ以外の点ではかなりの難物です。文化の極端な重層性のせいで厄介なことになつた。
国民全体が和漢洋ごちやませの日本語を駆使するのは大変な力技であつて、それに成功するためには、社会全体が長い年月をかけてジワジワとやるのがいいんだけれど、さうはゆかなかつた。百年ちよつとといふ短期間でわれわれはやらなくちやならなかつた。さういふ運命を背負ひこまされてゐるのが、現代日本人なわけですね。(「日本語があぶない」)

第一に、文部省のやつた国語改革の理念とは、「日本語は今のままではむづかしすぎるから易しくしよう」といふものであつた。そのために表記法を単純にした(本当は単純にぢやなくて、粗雑にしたり、不合理にしただけなんですが)。彼らの意図としては表記法を単純にすれば日本語は易しくなると思つた。その頭脳程度はまつたくをかしいんだけれども、でも、彼らはさう思つた。
第二に文部省は、日本語を使つてものを考へ、ものを言ひ、ものを書く技術を教へることは、国語教育だけではなく、あらゆる教育の基礎なんだ、といふことをきちんと認識してゐなかつた。よく文科系、理科系なんて分けますが、日本語教育をしつかりやらないと、理科系の教育だつてできないんですよ。(「日本語があぶない」)

文章を書くに当つては、伝統的な型があります。常にそれを使つて、心のどこかであれこれと工夫しながら書くわけですが、その場合には、さつき言つたロジックとレトリックが非常に大事である。ところがこのレトリック、言葉の綾といふものは、江戸後期の文学においては、あまりに栄えすぎて飽和状態に達してゐた。明治の新文学は前の時代のレトリック過剰を嫌ひましたし、それに明治文学の表向きの先生であるヨーロッパ19世紀の文学は、これまたレトリックに対して冷淡であつた。そこで明治40年代あたりから出発したわが近代文学は、レトリックを嫌ひ、排斥するものになつた。その新文学のなかでは段違ひに賢い、そして西洋文学の教養のある、漱石、龍之介の二人でさへも、奇怪な文章術を広く世間に普及させることになつたのでした。(「文学は言葉で作る」)

丸谷 僕は現代思想は象徴詩に似てゐると思うんです。マラルメ以降の詩人は、みんな自分はいま詩を書いているということを歌う。現象学も同じで、フッサールはいま哲学を考えている様子を、微に入り細をうがって、延々と書きつづける。それを読むと、人間の言語的表現は、19世紀末ごろにこれだけ洗練されたところに達したんだなあという気が僕はするんですよ。(「思想書を読もう」-鼎談)

結構、丸谷の本は読んでるので、以上の引用の内容もほぼ前からお馴染みの論調ではあるのだが、Morris.も共感を覚えるところ多々である、いや、かなり丸谷の論に影響されてるといえるのかもしれない。
前にも書いたが、ずっと若手の書き手というイメージでいた丸谷もすでに80に手が届こうかというところに来ている。しかし年齢を感じさせない柔軟な考え方と、旺盛な創作力には感心するしかない。
こうなったら、もう一つだけでいいから、長編に挑戦してもらいたい(^^;)


【ゴーマニズム宣言 EXTRA1】小林よしのり ★★★ 個人メジャー雑誌「わしズム」に連載された7編と書き下ろし1編を加えたもので、あいかわらず、というか、よくもまあ、これだけ続くなと呆れたり感心したりさせられる。内容的にはかなりばらつきやむらもあるが、捕鯨解禁や、アメリカへの根本的批判に関しては共感+快哉する部分が多々あった。もちろん戦争讃美、自己顕示、自画自賛(欺瞞)などは、鼻白むばかりだが、それは、前からの小林作品の特徴だからいまさら驚くほどのことはない。
いいところ3号雑誌だろうと思ってた「わしズム」もすでに4年目に入ってるし、いまどきあれだけ、自分のやりたい放題をやってる書き手はそういないことを思うと、たいしたモンである。
マックの59円ハンバンガーに関連しての、ファストフード批判は、偏見と取材の杜撰さなどを超えて、納得させられてしまった。
しかし、宗像大社あたりの伝説と神話と歴史をごっちゃにした「牛頭(ソシモリ)から スサノオの古代史」などは、かなりおそまつである。安彦良和の「ナムジ」でも読んで、反省して貰いたいものである。
ともかくも、出る杭は打たれる世界で、これだけやっての上での打たれ強さは認めざるをえない。か? 


【宮本常一の写真に読む 失われた昭和】 佐野眞一 ★★★☆☆ 今年の5月に開設されたばかりの「周防大島文化交流センター」は宮本常一の記念館といえるだろうが、ここの眼目が、彼の残した十万点の写真コレクションである。
彼は戦前から写真撮影をしてはいたが、戦災で過去のものは無くし、その後しばらく写真から遠ざかったようで、残された写真はそのほとんどが昭和35年(1960)以降のものである。
本書にはその中から200点ほどをセレクトして掲載してある。メインは昭和30年40年代である、ということはMorris.の少年時代から青春時代にあたるわけで、懐かしさと気恥ずかしさを感じさせるものが多かった。もちろん宮本の写真はそんな懐旧のためのよすがではなく、卓越した民俗学者としての視点に裏打ちされたものばかりである。
宮本常一は写真を芸術などと思ったこともないようで、あくまで記録媒体として使いまくっている。ハーフサイズで72枚撮れるオリンパスペンSを愛用したということからも、彼の志向が汲み取れるだろう。もし彼が今も生きていて現在のデジカメを手にしたら、どれほど喜びまた、どれほど撮影しまくったか想像に難くない。
それはともかく、やはり記録するという行為は大事なことだと改めて思い知らされた。Morris.も最近何となくデジカメ熱が再燃した雰囲気だが、どうも中途半端に過ぎるきらいがある。
その場で画像を確認できて、安価で、実にEASYに撮影できるデジカメの機能にすっかり取り込まれている感じなのだ。シャッターさえ押せば自動的に画像が定着されるというカメラの本質は光学カメラの時代から変わってはいないのだが、あまりの便利さお手軽さが、かえって人々からカメラに対する緊張感を失わせているのではないだろうか。Morris.なんかその典型なのかもしれない。
情報過多というより、無尽蔵なゴミの生産にばかりに汲々としているのではないか。
まあ、本書はそういったことを考えさせてくれた。
佐野眞一のあとがきにある「写真の読み方」への短文が心にしみた。

「読む力」とは、人間の身体の全領域にわたるこれらの能力のすべてを指している。それが本当におとろえているとするなら、活字離れや出版不況どころの騒ぎではない由々しき問題である。
「読む力」というものを少しむつかしく定義すれば、人間であれ、事物であれ、自分と向き合うべき対象との距離を測り、その関係性の間合いのなかに、自分の「立ち位置」を性格にポジショニングしていく能力だといえる。つまり、歴史に規定された自分という存在が、その時空間の奈辺にあるかを感じとる能力である。
すぐれた写真は、それを自ずから喚起する力を内在的に備えている。それを見る者は、自分がどういう時代に生き、その時代とどう向き合ってきたのか、鋭く問われることになる。その写真を見ることによって、自分と世界との間に横たわる目に見えない等高線を感じとり、自分がその等高線のグラデーションのどのあたりに存在しているかを、いやおうなしに実感することになる。
宮本の写真は、一見、懐かしい世界だけを写しとっているように見える。しかし、その写真は、見る者の身体能力のすべてを稼動させなければ本当に読み解くことはできない。一本の流木から相互扶助の精神を読みとり、杉皮が干してあるだけの山村風景から山林労働の全過程を読みとることはできない。
「あるくみるきく」精神から生まれた宮本の写真には、キーボードをたたくだけで、瞬時に「解」が出るインターネットとは対極の世界が広がっている。そこには、歩くことでしか見えてこない「小文字」の世界が、ゆったりと流れるアナログの時間のしわとともにゆるぎなく定着されている。宮本の写真は、われわれがどこから来て、どこに行くかを静かに問うている。
「記憶されたものだけが記録にとどめられる」
宮本が晩年語った言葉だが、宮本の写真から伝わってくるのは、それを反転させた言葉である。
「記録されたものしか記憶にとどめられない」
宮本の写真の底には、高度経済成長期前後の日本人の記憶と記録がおびただしく堆積されている。

パチ、パチ、パチである。しかし、こういった引用をキーボードでちゃかちゃかと打っているMorris.の立場というものも、なんだかへんてこなものであるなあ。


【気まぐれにフリースロウ】山際淳司 ★★★ 1988年発行のノンフィクションでない、長さもテーマもばらばらの短編9編が収められている。どうしても彼の場合スポーツライターというイメージで見てしまうので、小説を書いてもついつい、スポーツに関する部分だけをチェックしてしまう傾向がある。いや、傾向なんかではない、Morris.は彼の小説なんて読むのは初めてだった。スポーツものだって、それほど良く読んでいるわけではない。
本書の前に読んだ山崎洋子もこの山際淳司も、斎藤美奈子の本に出てきてたんだ。うーーん、それほどにMorris.への影響力をおよぼしてたのか、斎藤美奈子おそるべし、なんだが、どちらも、いまいちMorris.向きではない。
本書では比較的長めの(といっても50pくらい)「シティー・サーモンズ」が比較的面白く読めた。都内の不思議なワンルームマンションに住む住民のバスケットチームの話だが、メンバーそれぞれが非現実的なキャラクタぞろいで、まあ大人の童話だね。

私とアキヨシさんは、モノを捨てるということについて話をしていたのだった。皆な、モノ持ちすぎているというのが、私の意見だった。だって、そう思いませんか? 誰の家に行っても、ないものがない。ある必要のないものまである。収納スペースが、あらかじめ作られているマンションに住みながら、昔ふうの洋服ダンスがあったりする。そのなかには、使わなくなってしまったものがぎっしり、つめこまれている。トランクルームには物欲の残骸がつまっている。(「シティー・サーモンズ」)

早死にしてしまったライターだったから、今でも時々彼を惜しむ声を聞くが、やっぱりMorris.には縁なきライターだったようでもある。


【魔都上海オリエンタル・トパーズ】山崎洋子 ★★☆☆ 昭和13年の上海を舞台にしているというだけで借りてきた。90年の発行だからもう15年近く前の作品である。
偶然同じ船で上海に渡った日本女性二人を中心に、満州にユダヤ人の国を建設する計画や、日本軍と中国側のスパイ合戦、ヒロインの一人が孫文の隠し子で、彼女を使った宣伝映画制作など、ごった煮風のストーリーだが、なかなか良く当時の上海事情を調べていると思った。ただし、ほとんど筋立てを披露するといった感じで、登場人物も単なる小道具みたいな使われ方をされているため、物語のふくらみがほとんど感じられない。一言でいえば「杜撰」である。ご都合主義も極まれり、な部分も多く、何度もいうが面白ければご都合主義だって大歓迎なのだが、本書の場合は白けるところが多かった。特におしまい部分のとってつけたような後日談は、完全に作者の手抜きか、構成ミスにちがいない。まるで明治時代のやっつけ小説を思い出してしまった。
本書でも「手をこまねく」表現があったのも、Morris.の印象を悪くしたことは否めない(^^;) とはいっても、とりあえあず最後までそれなりに読めて時間つぶしにはなったのだから、それはそれでよしとすべきなんだろう

【文学的商品学】斎藤美奈子 ★★★★ わあーーい、久しぶりに彼女の本が読めるぞおーっ。と勢い込んで借りてきた。初出は99年『i feel』という紀伊国屋書店のPR雑誌に連載されたもので、それをもとにほぼ3倍に増幅したと書いてあるから読み応え充分ぢゃ。
なんか斎藤美奈子本というと、Morris.は浮かれてしまう傾向にあるなあ。それくらい楽しませてくれる著者であるし、本好きにしかわからない同好の士という気持ちもあるし、何てったって彼女の切り込みの鋭さと突っ込みの深さと、お茶らけと読者サービス満載の文章の冴えを思えば、読む前からMorris.が浮き浮きしてしまうのもむべなるかなというべし。である。そして、本書もMorris.の期待を裏切らなかったのさ(^o^)

本書の定義はタイトルにもあるとおり「商品情報を読むように小説を読んでみよう」ということで、日本の現代文学がモノ(消費財)をどのように描いてるかを考察したものである。

モノから小説を読む---こうした試み自体は珍しいものではありません。小説に出てくる食べ物やファッションや音楽に注目したガイドブックのような本も、多数出版されています。
本書がそれらとちがっているとすれば、モノの抽出が目的なのではなく、「モノの描かれ方」に関心があるということです。リンゴではなく、リンゴを描いたデッサンの、たとえば鉛筆のタッチを見てみようってことですね。
神は細部に宿るといいますが、小説のおもしろさも細部に宿っています。それを見つけるコツは、まず「ゆっくり読む」ことです。そして、できれば「何回も読む」ことです。一回目はストーリーを追っかけながら一気に読んで、それから気になったところ、読み飛ばしちゃったところをパラパラめくってじっくり読み返す、という感じかな。

ふーーーむ、例によって簡にして要を得た達意の文章だなあ。Morris.もできるだけ彼女のご託宣にしたがって本書を読んでみることにしたから、めちゃくちゃ引用も多くなるので、覚悟のほどをm(__)m
本書の商品は9品目が並べられている。

アパレル泣かせの「青春小説」
ファッション音痴の「風俗小説」
広告代理店式「カタログ小説」
飽食の時代の「フード小説」
ホラーの館「ホテル小説」
いかす!「バンド文学」
とばす!「オートバイ文学」
人生劇場としての「野球小説」
平成不況下の「貧乏小説」


各章の見出しのつけ方一つとってみても、うまいもんである。これだけで半分わかったような気になるMorris.だった(おいおい(^^;))
各章のはじめに、そこで取り上げられる小説の一覧があるのだが、うーーん、やっぱりMorris.の読んでる本は極端に少ない。これは彼女の処女作「妊娠小説」と、「文壇アイドル論」に通じるところがある。この2作は斎藤作品の中ではちょっとMorris.は及び腰になったと思う。ということはこれはちょっとヤバいのかも-----と思わずにいられなかった。
でも、それは杞憂に過ぎなかった。というか、本書の中で取り上げられた作品を読んでたらもっと楽しめたところも多かったかもしれないけど、やっぱりこんなの読まなくてすんで良かったという作品も多かったわけだった(^^;)
手始めに最初の青春小説の章から引用を始めよう(^o^)

20世紀は、そもそも装飾性から機能性へと、衣服の役割が大きく変化した時代でした。衣服だけではありません。ことばからも装飾性が剥ぎ落とされていきました。美文、技巧、大げさな比喩、描写過多、ことばの綾。懲りすぎたレトリックが「悪い文章」として槍玉にあげられるのは20世紀に特徴的な文章イデオロギーです。ヨーロッパでも、20世紀に入ったとたん、アリストテレス以来の伝統学問、修辞学がにわかに没落してしまいました。近代化とは美から機能への価値転換だともいえます。凝った技巧的な文章で、明治30年代まで業界の主流派だった「硯友社」系の文学(尾崎紅葉や小栗風葉はここの出身。荷風は硯友社のメンバーだった広津柳浪の弟子筋にあたります)が廃れるのは、こうした世界的な流れとも無縁ではないはずです。
服もシンプル・イズ・ベスト。キンキラキンなのは嫌われる。
日本の場合はこれが「内面重視」の(日本でいう)自然主義文学と結びついて、基本的には今までずっと続いてきたといってもいいでしょう。(外面を取り繕う)服の描写なんぞにウツツを抜かしていないで、「人間の内面性」をきっちり描きなさい。現代の青春小説といえども、そうした歴史的呪縛から完全に自由とはいえないのかもしれません。


別に奇をてらってるんじゃなくて、彼女の論の進め方はまっとうすぎるくらいにまっとうなのに、かえってそれが斬新に見えてくるくらいのもので、こうやって引用していくとMorris.の指がとどまるところを知らなくなるので青春小説はここで止めることにする。

次の風俗小説として取り上げられているのは「失楽園/渡辺淳一」「女ざかり/丸谷才一」「宴のあと/三島由紀夫」「細雪/谷崎潤一郎」「舞姫/川端康成」「恋愛太平記/金井美恵子」の6冊だが、羅列した順序に点数が高くなるということにとどめておこう。引用は無しである。ヨカッタネ(^^;)

次のカタログ小説は本書の核をなすもの、といって内容的に充実してるというわけでなくて、本書自身が「カタログ評論」とでも言うべきもので、つまり本書はこの章で入れ子状態になってるわけだ。つまり、この章の「カタログ小説」を「カタログ評論」に置き換えれば、本書の実態までが明確になる。見出しそのままを入れ替えて引いておこう。
・カタログ小説/評論は雑誌文化が生んだジャンルである
・カタログ小説/評論はポピュラーな商品しか扱わない
・カタログ小説/評論の神髄は「わかった気分」にさせること
・カタログ小説/評論は「一人一品」の物語/論考である
・究極のカタログ小説/評論は「女のカタログ」である

うーーむ、ずっとうまく当てはまってたのに、ラストの「女のカタログ」というところが、ちょっとひっかかってしまったなあ。しかし本書でもこの部分だけは何となく的外れと思えるから、削除しちまおう(^^;)

お次はフード小説。小説の中の食べ物がやたら性や肉体に結びつけられがちなことを説いたあとで、その理由として語られた部分。

小説の食べ物がメタファに傾きがちなのは、もっと素直に、ふつうに、おいしそうに食べ物を描写するジャンルはほかにあるからだ、ともいえましょう。内田百閨A池波正太郎、檀一雄、東海林さだおら、日本には「食味随筆」というジャンルが確立されていますし、食べ歩きのガイドブック、グルメ評論、レシピを満載した料理本、さらに雑誌を開けばそこいらじゅうに食べ物の紹介記事が載っている。これだけ食に関する活字の情報が(ビジュアルの情報も)あふれている以上、文学はぶんがくにしかできないことをやるのだ、という固い決意が生まれる。そして暗喩はもっとも手軽に「文学らしさ」を演出する方法なのです。

鮮やかな面取りだな、これは。この気持ちよいくらいの一刀両断ぶりには、惚れぼれするなあ。
そして村上龍が、ああだこうだと薀蓄を垂れ流した文章を並べた後に、とどめをさすような一文。

これはいわゆるひとつのアフォリズム(警句)っていうやつです。ブイヤベースと勇気が、肉と夢が、デザートと恋愛がひとつに重なった状態。
こいつをさらにとろ火で煮詰めていくと、おそらくどんなフード小説も同じ結論になるはずです。すなわち「料理とは人生である」あるいは「人生とは料理である」。食べ物部門と人生部門が癒着した状態。こういうのは通俗的な人生論好きの読者にはたいへん喜ばれます。しかしなんとありがちな結論でしょう。比喩に頼った小説はなべてこういう風になる。ミもフタもないことをいっちゃうと、文学は暗喩から腐っていくのです。


どうだ、参ったかぁーー、って、別に彼女が言ってるわけではないんだけど、なんとすごいオチではあ〜りませんか(@ @)
しかし、この美奈子嬢ですらお手上げ、というか、あきれてものも言えない状態にさせたのが南條竹則の『満漢全席』の一節だったようだ。

  料理というより、まるで光そのもの、水そのもの、火そのものを食べているようであった。
  美食という言葉からはほど遠い、究極の自然がそこにはあった。
  美味しかったが、美味しい、と一言では片づけられない、哲学的な、あるいは祈りそのもののような味があった。

こうなるともう、どんな味なのやら、何がいいたいのやら、さっぱりわかりません。
メシぐらい邪念を捨ててマジメに食えっ! といいましたけど、料理を暗喩に変えて人生を語るのと、料理とマジメに対峙してわけのわからぬ抽象的な形容をつらねるのと、どっちが望ましい対処の仕方であるのか。これはなかなかむずかしいところです

この章の結びの文章なのだが、おしまいの句点「。」が抜けているのも彼女のうろたえぶりを表してるのか、さらなる深謀遠慮なのかMorris.の窺い知るところではないが、ともかくフード小説と呼ばれた時点で、小説家側の敗色濃厚だね。

ホテル小説の章はMorris.が、元来ホテルとは縁の薄い人間であることに鑑みて省略させてもらおう(>_<)

いかす!「バンド文学」はもちろん「いかす バンド天国」通称「イカ天」のギャグなのだが、今を去ること十数年前、わが春待ちファミリーBANDもこの番組に出演したことがあるという事実をこの場を借りて公言しておこう。
「音楽小説」でなく「バンド文学」としたところがミソでもあるんだろうが、Morris.は元から漫画や小説で音楽を扱うのは、音そのものが聞こえないからこそ、すっごく有利だと思ってた。だからミュージシャンを主人公にした漫画なんて星の数ほどあるんだろうし、その分画家を主人公にした漫画が少ないのは、書く(描く)となるとかなり絵の自信がないと手がけられないと思う。まあ人気の違いも大きいだろうけどね。
ところが、美奈子さんは「バンド文学」は、音楽を実感させるものと規定して、歌詞、それもオリジナルな歌詞に目を向けてしまっている。これは彼女には珍しい見当違いのような気がする。
「新宿鮫/大沢在昌」や「われらの時代/大江健三郎」をバンド文学と捉えるあたりの芸コマぶりも、わからないではないが、やっぱりどこか、ぶれてしまってると思う。もちろん彼女はその辺のところに全く気づいてないわけではない。

バンド文学に歌詞がそのまま出てくるのも、この方法の応用だといいえます。ただし、ここにも落とし穴があって、せっかくの歌詞も「夕焼け小焼け」や「うみは広いな」のように既知の曲でない限り「音を聞く」というより「詞を読む」感じになってしまう。換言すれば、私たちはことばに「意味」を読んでしまうのです。『新宿鮫』や『ゴッド・ブレイス物語』に出てくる歌詞も、音として「聞け」ばさほど気にならないのでしょうが、詞として「読む」と「声に出して読みたくない日本語」に見えちゃったりする。そこが詩と詞のちがいです。楽曲という衣をはぎとられ、生身の形でさらされた歌詞は、意外に無防備なものなのです。

彼女お得意の皮肉もちょっぴりだが、それもここではちょっと空振りのようだ。
ただ「小説の中で文学はバンドが下手なほど音楽性が高くなる」という見出しがあって、芦原すなお「青春デンデケデケ」(Morris.未読)を取り上げてるが、ここは、嶽本野ばら「ミシン」を是非俎上にあげて欲しかった、と、切に思ってしまった。時期的に無理だったかな。

オートバイにもMorris.はあまり縁が無いので、すっ飛ばそうとしたのだが、オートバイ小説の章はなかなか読まされるところ多い章だった。

オートバイ小説の原点はこの「ひねり技なし・そのまんま」感にこそある、とまずはいっておきましょう。「ひねり技なし・そのまんま」は、けっして悪口ではありません。文学とは比喩的表現を駆使すべきジャンルである、と誤解している人がよくいますけど、そんなのはどうだっていいんですね。右の二つの文章(山川健一「ライダーズ・ハイ」)は、少なくとも安易な比喩には頼っていません。絵画でいえば(というのも比喩表現ですが)、これはデッサンかスケッチにあたります。デッサンにごまかしは効きません。文章だってその点は同じなのです。

オートバイから「比喩でなく」にもっていくあたりは、まあ平凡といえなくも無いが、オートバイ小説=俳諧論となると俄然おもしろくなってくる。

そうそう、オートバイ文学は別の面でも俳句の伝統を受け継いでいます。というのも、オートバイ文学のハイライトはツーリングにあるからです。
あるときは都市を駆け、あるときは四季折々の季節感を織り込みながら国内を旅するオートバイ小説は、ディスカバージャパン・ノベルでもある。これが花鳥風月を重んじる「吟行」でなくてなんだろう。カワサキの広告に使うべきだと申し上げた『彼のオートバイ〜』の冒頭部分をもう一度読み返してください。非常に俳句的、であはりませんか? 夏草や、バイクをとめて、にぎりめし、とかね。

うふふ、くすぐり入ってますね。おしまいの「バイ句」なんかも、わざとベタベタに本歌取り(換骨奪胎)腰折れの大サービスってところかも(^o^)
最後には人馬一体というか、人車一体となってしまった、一人称形式のオートバイ小説、丸山健二の『見よ 月が後を追う』を挙げて

さあ、マシンがしゃべれば、乗り物に目鼻のついた『機関車トーマス』まではもう一歩です。

という、とんでもないはげましの言葉を投げかけるのも、余裕だね。

そしてMorris.も好きな野球ということになるのだが、Morris.は実は野球小説は前からあまり好きじゃないのだった。
でも本書を読んだおかげで山際淳司の数冊と、ビートたけしの「草野球の神様」くらいは読みたくなってしまった。

え、なぜタイガースばかりが優遇されるのかって?
それは仕方ないですね。プロ野球小説の世界ではジャイアンツは完全な悪役です。常負の弱小チームが常勝チームを敵に回して死闘をくりひろげる---映画であれ小説であれ、それがあらゆるスポーツの物語の常道です。ごく大ざっぱにいえば、野球小説の王道は読売ジャイアンツではなく阪神タイガースの世界を描くことにある。1985年や2003年のお祭り騒ぎを思い出せばわかるでしょう。巨人が優勝してもニュースにしかならないが、阪神が優勝すれば歴史的な事件になる。小説の世界も同じです。

これは常識なんだが、常識でもこういうことをはっきり書いていただくと、阪神ファンとしてはやっぱり嬉しいものである(^o^)

痛快なチームの物語と、哀愁を帯びた金網物は、一見正反対に見えます。しかし、これらは表裏一体の関係にあると考えるべきでしょう。金網の内側でボールを追っていたころが輝いていたからこそ、金網の外の人生が哀愁を帯びる。ここに野球そのものとは関係のない「場外でのドラマ」が書かれる理由があります。日本人は「敗者の美学」を好むのです。だいたいまあ、日本人は「敗者の美学」を好む傾向にあるとはいえるかもしれません。『平家物語』しかり源義経しかり『忠臣蔵』しかり新撰組しかり特攻隊しかり全共闘しかり。
一見痛快なチームの物語の数々も、じつはちゃんと哀愁が仕込まれています。へっぽこ草野球チームといい、阪神タイガースといい、だめチームには必ず哀愁がある。


むむむ、やっぱり野球小説は常識で〆るしかないようだね。

いよいよラストの貧乏小説にまでたどりついたよ。これは本書書き下ろしらしい。
日本文学に独特な私小説と、そのまま貧乏を描くことがメインのプロレタリア小説を嚆矢として、私小説の「トホホ感」、プロレタリア小説の「怒り」を対照的に捉えながら、根っこにある共通点=書くことの聖別化を揶揄し、それでも、貧乏小説の集大成ともいうべき『ホームレス作家/松井計」への一種のオマージュで本書全体の結びとしている。

『ホームレス作家』が読む人の心を動かすとしたら、「事実の重み」ゆえではなく、「事実の描出」に優れているからです。そして、優れた作品は、必ず「パンの描き方」に秀でています。なぜ「書くこと」で人は困難を乗り越えられるのか。感情をぶつけられるからではなく、冷静に客観的に自己と周囲を観察する機会になりうからじゃないのかな。その意味でも、表層の表現はけっして枝葉末節ではないのです。

ここんところなんか、光晴のリアルに関する一文を思い出させるなあ。
やっとおしまいまでたどりついた。ふーっ。
あとがきで、自分のことを「血中文学濃度の低い私」と書いているが、もしそうだとしたら、Morris.なんか血中文学濃度なんか無いに等しいんでないかいと思ってしまったよ(^o^)
いやあ、それにしても、楽しませて貰った。次作を首を長くして待ってるよお。


【昆虫写真マニュアル】海野和男 ★★★★ フィールドフォトブックというシリーズの1冊で、89年の本だから当然デジタルカメラではなく光学一眼レフのための昆虫写真のマニュアルである。光学カメラとは最近まったく無縁のMorris.なのだが、本書から教えられたことは多かった。なんといっても昆虫写真の第一人者というか、空前絶後の人だけに、多数収録されている写真見るだけで、ほーっと溜息つくばかりだった。
最近は彼もデジカメを多用して、先般岩波ジュニア文庫でやさしいデジカメ自然撮影入門みたいな本も書いてるが、やはり本書のようにしっかりした機材と、技術を駆使しての基礎があるからこそ、デジカメもちゃんと使いこなせているということがわかる。
Morris.とは無限の隔たりがあるが、それなりに参考になることがたくさん書いてあってありがたかった。


【ミシン2/カサコ】嶽本野ばら ★★★ 前作「ミシン」の続編ということになるらしい。本書だって150pくらいの薄さだから、初めから1冊で出したら良かったのに、というのは、読者側の勝手な要望で、本人もまさか続編になるとは思ってなかったのだろう。前作ラストで、ミシンはカサコによって、ステージで撲殺されたことになってたもんな(>_<)
しかし、今更ロートレアモンから、主人公の名を取るあたり野ばらの趣味が良く出てると思う。
荒唐無稽ぶりが野ばら作品の魅力なのだということからすると、やはり本書は不徹底なものではないかと思う。オリジナルの歌詞も、前作の「ロリータdeath」の方がはるかに良かった。


【人はなぜ「美しい」がわかるのか】橋本治 ★★★★ ちくま新書250pくらいの本書を読むのにたっぷり1週間以上かかってしまった。もっともこの本だけに時間取られていたわけではないのだが、普通の新書なら一日二日くらいで片付くはずだ。
カバー耳の吊書きに「源氏物語はじめ多くの日本の古典文学に、また日本美術に造詣の深い、活字の鉄人による「美」をめぐる人生論」とある。編集部が書いたのだろうが、あんまりではないかと思ってしまった。
橋本治はMorris.より一つ上だが、同世代の書き手の中で一番共感を覚える存在である。大島弓子論の入った少女漫画論「花咲く乙女たちのキンピラごぼう」が出た時点でMorris.は完全に恐れ入ってしまい、その後のさまざまな著作(小説を除く)にはたびたび感嘆させられてきた。
本書でもMorris.は此処彼処ではたとひざを打ったり、目からうろこが落ちたり、だから勝てないんだよなと合いの手入れたりと忙しい思いをさせられた。
ゴキブリ、一本グソの美から、夜の台風嵐の美、枕草子と徒然草の比較美学論、そして眼目の孤独論にいたるまで、橋本ぶしが横溢している。Morris.を裨益するところのこんなに多い本は久しぶりだった。
しかし、Morris.の読書の基準といえば「面白い」か「有用」かの両極しかなくて、「面白くてためになる」という講談社の戦前からのお題目を一歩も超えるところ無しということになる。漢字で言えば「娯楽と啓蒙」(^o^) その意味でも橋本著作はこの両方の基準を満たしてくれるものが多く、ご贔屓にならずにいられないのだった。本書はどちらかというと啓蒙の書という意味合いが大きいようだ。結局貧乏性のMorris.は、読書による有用性に重きをおいてたわけだ。啓蒙書って要するにノウハウ本のことだもんね。

「美しい」とは、「合理的な出来上がり方をしているものを見たり聴いたりした時に生まれる感動」です。私はそのように思い、そのように規定しますが、これは別に、私一人の勝手な思い決めではないでしょう。

なかなかにオーソドックスな導入である。しかし、これは単なるご挨拶にしか過ぎないことは、Morris.にだってわかる。

私も夕焼けを「美しい」と思います。それでは夕焼けはなぜ「美しい」のでしょう。そして夕焼けのどこが「合理的」なのでしょう?「合理的な出来上がり方をしているものは美しい」のであれば、夕焼けだってもちろん「合理的」であるはずですが、一体夕焼けのどこが「合理的」なのでしょうか?
太陽が西に傾いて、昼間真上にある時よりも、その光が地球を取り巻く大気の中を通過する時間が長くなると、波長の短い青の光は途中で拡散して、波長の長い赤の光だけが地面に届くようになる----それで、西の空は赤くなって「夕焼け」になる。つまり、空気の中を光が斜めに通過すればその光の赤が強調され、真っ直ぐに通過すれば、赤が強調されずに青くなるということですね。


Morris.はこの合理的な夕焼けの説明には、はーっ、なるほどと感心してたのだが、これももちろん否定されるための説明に過ぎない。

人間はある時、この「時間がかかる」を、「人間の欠点」と思うようになりました。「欠点だから克服しなければならない」と思ったのです。それで、「時間がかかる」を必須とする「人間の技術」を、機械に移し換えようとしたのです。産業革命以降の「産業の機械化」とは、この事態です。

産業革命の本質をこれくらい単純かつ分かりやすく定義した文章を知らない。

中等教育は「生意気になる」を必須としてしまいますが、人をこのまま放置すると、ろくなことにはなりません。一生を勝手な思い込みで過ごすだけになってしまうからです。野放しにされた勝手な思い込みが、「自己顕示欲」と言われるものです。あまりいいことではないにもかかわらず、なんで現代日本には「中学生や高校生のまんまの大人」が氾濫しているのかといえば、この時期が「個性の発達を促す」という名目で、「自由」が奨励される時期だからです。

Morris.のことをいわれているようだ。

台風を「こわい」と思う人間はどこかにいるだろうけれど、現実に対する責任を全部他人に預けたまま、台風の空に「美しい」を発見してしまった私には、それを「こわい」と思う理由はありません。台風に対して「関係ない」というポジションを獲得してしまった子供の私は、台風をただ「美しい」と思うだけです。

ほとんどMorris.も同じである。

なにしろ『徒然草』は、「退屈で退屈でしょうがないから一日中硯に向かって、心に浮かんで来るどーでもいいことをタラタラと書きつけてると」です。パソコンに向かって、一日中意味もないメールを打ち続けているようなもので、その結果は「あやしうこそものぐるほしけれ」--つまり、「わけの分からないうちにアブナくなってくる」です。「書きたい」という衝動はあるけれど、「書くこと」がない--それを前提とする人間の書いたものが、どうして「おもしろい」になるでしょうか。なるわけがありません。

Morris.のことを言ってるのにちがいない。

「影響を受ける」というのは、「落とし穴に落ちる」と同じです。落とし穴に落ちるのは簡単です。うっかりしていれば、すぐに落ちます。落ちたら、落とし穴から出なければなりません。出るのには「努力」がいります。影響を受けたらその影響を払拭する努力をしなければなりません。それをしないのは、「カッコいいと思った人間の真似をして、自分もカッコよくなったと思う」と同じです。これをもっと酷い言葉で言えば、「自分の存在が醜くなっているのに気づかない」です。

そんなにMorris..は醜いのか(>_<)

兼好法師は、日本で最初に登場した、「中流的で平均的な日本の中年男」でしょう。「美しい」が分からないわけではない。「美しさ」への自負心もある。その「知識」だけはあって、でも気がつくと、いつの間にか「美しい」とは遠いところに来てしまっている。だから、自分が「美しい」を分かるのかどうかが。根本で危うくなりかかっている。

どこまでもMorris.バッシングがつづいているような----(^^;)

どういうわけか、「美しいが分かる人」は、敗者なのです。勝者、あるいは強者になりたかったら、「美しいが分からない」を選択しなければならない--どういうわけか、世の中はそうなっている。「そんなもん選択したって、ちっともおもしろくないじゃないか」と私は思いますが、どういうわけか、世の中はそうなっているのです。そう思って私は「人はなぜ"美しい"が分かるのか」をテーマにした本を書きたいと思いました。思ってすぐにやめました。「書いても一般性がない」と思ったのです。「それを書いて、またへんな風に"敗者"のレッテルを貼られるのなんか真っ平だ」と思ったのです。

歯医者はたいてい勝者なんだろうなあ(^o^)

気障な言い方をすれば、私は根本のところで「世界は美しさに満ちているから、好き好んで死ぬ必要はない」と理解しています。

「愛情というのは介入しないことか……」です。介入しないで保護して、その相手の中に「なにか」が育つのを待つのが愛情か--と思いました。

かくして、「孤独」というものを発見した近代は、センチメンタリズムという美意識を生みます。つまりは「やるせなさ」で、この言葉をじっと見ていると、日本人の実際性がありありと分かります。「やるせない」は「遣る瀬ない」で「舟を渡す場所がない=手段が見つからない=無能」だからです。「センチメンタル=心理的(メンタル)なものを感じる(センチ)」が「無能の美」になってしまうなんて、実際性の限りではありませんか。


Made in Japanの、「もののあはれ」、無用者の系譜につながるものなんだろうか。

「孤独」は、「個の自覚」の別名です。「孤独」を存在させなかった前近代の社会は、「個の自覚」をあまりひつようとしませんでした。そんなものより、「制度社会」というシステムに従うことの方が重要でした。制度は個を不在にする。不在にされた個は寂しがる--だからこそ、前近代の制度社会の中に、孤独はひっそりと生まれます。生まれて、それを「孤独」として発見されることを待っています。つまり、「孤独」は、「個の自覚」を必要としない制度社会とは対立するものなのです。

・孤独とは「個毒」なる哉冬隣り Morris.

二十一世紀初頭の日本社会の混乱は、官僚の腐敗と経済の不振を歴然とさせたまま、「古くなってしまった政治」をあぶり出します。古くなってしまったのは「政治」だけなのか? なんだってこんなにも「一蓮托生」的にみんなが一続きになってだめになってしまったのかと言えば、相変わらず我々が「近代国家」の中にいるからです。「近代なのになぜ国家を作らなくちゃいけない?」という矛盾が、ようやくあらわになってしまったのです。

この部分だけはちょっとヘボ筋に見えるのだが

「自立」は、近代が発見した、「孤独」の新たなる後継者です。「自立」に「孤独」はつきものです。そして、「自立」は本来、「孤独」の以前にあります。なぜならば、「孤独」とは、「要請された自立」の別名でしかないからです。スタート地点に「自立」があり、その後に、プロセスとしての「孤独」がある。それが分かりにくかったら、「人は自立を要請され、要請されてもそう簡単には達成出来ず、どうしたらいいか分からない内に孤独になる」と考えればいいでしょう。「孤独」が「孤独」のまま自己完結してしまっているのは、その初めとなる「要請された自立」という前提が忘れられているからです。


これは「じゅずつなぎ思考(cf「バナナブレッドのプディング」by大島弓子)」の一種ではなかろうか?

個人的には、「世界は美しさで満ち満ちているから、好き好んで死ぬ必要はない」と思う私は、それを広げて、「世界は美しさに満ち満ちているから、"美しいが分からない社会"が壊れたって、別に嘆く必要もない」と思います。それが、「美しい」を実感しうる人というものの、根源的な力なのだろうとしか、私には思えないのです。

本書の結びのことばである。この開き直りっぷりもいいなあ。Morris.も一票(^o^)


【海はあなたの道】森まゆみ ★★★ 著者は73年にワークキャンプで韓国に行ったことがあり、それから25年行かずにいたというから、最初の韓国体験はあまりかんばしいものではなかったようだ。
その後、99年に女友達とパック旅行でハンジュンマクに行ったり、学生の旅行に同行したりもしている。そのときのこともちょこちょこと出てくるが、本書の大部分は2002年3月の10日ほどの旅の記録である。
ソウルナムサンの元朝鮮神宮の址を訪ね、永楽保隣院(孤児院)、全州の東山農場跡、木浦の共生園、知異山の隠れ里めいた青鶴洞、晋州城跡、慶州のナザレ園、大邱のサヤカの里、慶北、聞慶郡の朴烈の故郷と金子文子の墓、文子が青春時代を過ごした芙江、広州ナヌムの家そしてソウルと、10日間にしては、忙しいくらいに色んなところを回っているし、それも、観光地とは縁のない、社会福祉施設や、思想犯の墓など、かなり意識的な旅だったことが知られる。
同行の写真家ミーヨンの多数のモノクロ写真がそれなりに土地の空気や、訪問先の人物の人柄を捉えている。
副題に「越境のKOREAN/JAPANESE」とあるが、どうも彼女のいう「越境」という概念がMorris.には理解できなかった。
84年から刊行している東京の地域誌で培った取材能力は遺憾なく発揮されているらしく、10日間で200pもの紀行文は評価できるだろうが、Morris.の韓国への志向とは、見事にすれ違っているようでもある。


【朝鮮民族を読み解く】古田博司 ★★★ 「北と南に共通するもの」と副題にある。95年のちくま新書だから一昔前の作ということになる。筆者は東洋政治思想史専攻で、6年ほどソウルに住んで日本語教師などした経験を持ってるらしい。もともと北朝鮮おたくっぽいところがあったと、自分で書いてるだけに、本書でも南北双方への目配りがあり、Morris.の知らない方面の言及が多く、それなりに裨益するところ多かったような気がするが、面白かったとはいえない。
金日成、金正日親子の政権移譲、北朝鮮体制への肩入れが鼻につくということもあるのだろうが、それ以前に、どうも著者の対人姿勢がMorris.と肌が合わないということかもしれない。
ヤンバン(両班)的気風から、労働や商売を賤しむ傾向があることは知っていたが、店を意味する「カゲ」が、「仮家」に由来する言葉だということは知らなかったし、たかりの構造を醸成するシステムのことでも教えられることがあった。
「野遊会」が単なる行楽でなく、高麗時代の野辺のたまよばいの祭の残滓であるなんて説も興味深かったし、相互扶助というか、一対一の労働交換方式である「プマシ」が日本の義理といかに違うかの考察もなるほどと思わされた。
しかし、やっぱり、面白くないものは面白くないので、これはやっぱりどうしようもない。
Morris.も行ったことのある河回マウルの仮面劇に出てくる劇中歌(数え唄)を引用しておこう。

一(イル)に 一伽山(イルカサン)で年老いた坊主が
ニ(イー)に ニ伽山(イーカサン)に向かう道
三(サム)に 三路(サムロ)の路上で
四(サー)に 士大婦女(サーデプニョ)に逢って
五(オー)に おしっこ(オジュム)の匂い嗅ぎ
六(ユク)に 欲情(ヨクチョン)が込み上げ
七(チル)に 七宝(チルポ)の飾りはしていなくとも
八(パル)に ご縁(パルチャ)があろうが無かろうが
九(クー)に 区別(クビョル)などなさらずに
十(シプ)に おまんこ(シプ)させてくださいな


「韓流」で韓国語学習者が増えてるらしいが、これで数字を覚えるのも一興かもしれない(^^;) ただし上の数字は漢字語で日本語で言うと「いち、に、さん、し---」にあたる。もう一つの固有語の数字も付け加えておこう。

ひとつ ハナ、
ふたつ トゥル、
みっつ セッ、
よっつ ネッ、
いつつ タソッ、
むっつ ヨソッ、
ななつ イルゴプ、
やっつ ヨドゥル、
ここのつ アホプ、
とお ヨル、


【秘 見仏記】いとうせいこう みうらじゅん ★★★☆ 「見仏記」第二弾である。タイトルの「秘」は、Morris.は秘仏のことと思ったのだが、実は最初の「見仏記」で次は33年後なんて書いたもんだから、ふたりだけで秘密裡に出かけるという意味だったらしいが、結局は同じ会社の別雑誌(「小説中公」)連載になってる。
滋賀の渡岸寺の十一面観音を皮切りに、京都、四国、東京、鎌倉、佐渡と渡り歩く、二人旅である。前作と同様、二人のフェチぶりはわかりやすいが、さすがにちょっと中だるみのきらいがなくもない。
今回は特に地方の寺に多く出かけてるので、京都、奈良の至宝と比べるとかなり見劣りする仏像が多いわけで、それへのいいわけというか、同情というか、そんな文言が多い。

「京都とかと比べるとわかるんだけどさ。国宝級のいい仏(ブツ)って、結局金持ちがいないと作れないんだよね。そこが難しいとこだなあ。貧富の差の激しいとこにしか、いい仏が出来ない」
みうらさんは平等主義なので、もちろん貧富の差は否定したい。しかし、同時に仏像マニアでもあるから、矛盾に悩んでいるのだった。これには、私も黙り込まざるを得なかった。出来ることはただひとつ、非の打ちどころのない仏像ばかりに魅力を感じないこどたけだった。その点でいえば、実はもう我々は矛盾を乗り越えている。


もちろんこんな、真面目な雰囲気がメインではない。あくまで彼らは明るく見仏して歩いてるし、こんなギャグっぽい筋もある。

あんたは土門拳じゃないでしょうと言っても、みうらさんは全く聞いていなかった。私の肩をつかんで、観音の左側に立たせ、再びファインダーをのぞく。
「うん、もう少し右! そう、そこだ! いとうさん、メモしてるふりして! そう!」
みうらさんは渾身の力を込めて、シャッターを押した。私には笑う暇もなかった。もう一枚いくよと言いながら、バシャバシャ撮るのだ。狂っているとしか思えなかった。
……ちなみに、旅を終えてから現像した写真を見たが、そのメモ&観音は全部ピンボケだった。みうらさんは恥ずかしそうに、土門の道は厳しいよとつぶやいたものだ。


わっはっはっ(^o^) しかし、こういった笑いの後で、さらにいとうは真剣に仏のことを考えたりもする。

一方で保護されて収蔵庫に入れられ、いわば仏(ほとけ)から美術品になってしまう仏(ブツ)があり、また一方では美術品となることが出来ずに原型を崩していく仏(ブツ)がある。私はそのどちらの方向も支持出来なかった。しかも、あり得るベクトルは、金を伴う信仰で、すなわちほとんど個人所有という形態になる。それも、私には納得がいかなかった。
複雑な気持ちになる私の前で、しかし十一面観音はなおもサディスティックな目をして、超然と立っていた。そうだ、この存在にとっては、そんなことは関係がないのかもしれない。私はそう思った。見る側が何を考えようが、仏(ブツ)は残り、また朽ち果てるだけなのだ。
名残り惜しさに、私は少し遠ざかって、その位置からもう一度だけ観音を見た。冷たいまなざしは変らなかったが、同時に悲しげに目を伏せているようにも見えた。


これを読んでMorris.が脳裏に浮かび上がるのが、ソウルの中央国立博物館(旧朝鮮総督府だった建物)3F中国室にあった、中国宋時代の木製の観音立像のことだった。Morris.は韓国に行き始めたときから、この観音さまに魅せられてしまった。博物館に行くたび、この観音像の前に坐りこんでいくばくかの時間を過ごすのが恒例となっていた。それが、いつのまにか姿を消して、係員に訊ねたら、どこか外国の博物館に貸し出し中と言われて、次回こそ再会できるだろうと、足を運んでも姿が見えず、会えないままでいるうちに、建物自体が取り壊されてしまい、隣のややみすぼらしく狭くなった博物館でも、会うことが出来ずに今日に至っている。
今年の末くらいに、新しく中央国立博物館が龍山の方に完成するとのことだから、是非今度こそあの観音様の再来を切望しているMorris.なのだった。
話が脇道に逸れたが、この観音様の顔が、光線によって、穏かで優しい表情になったかと思うと、これほど恐い顔は見たことがないというくらいの憤怒の表情に見えたりしたのだ。もともと、仏像にはそういった二面性をあわせもつものが多いような気がする。
そして、それは、信仰というか、宗教というか、人間の世界を超越した存在への畏怖の気持ちが、そういった幻想を生むのかもしれない。


【見仏記】いとうせいこう みうらじゅん ★★★☆☆ 先に「海外版」を見てしまったが、本書がシリーズの始まりである。「中央公論」92年9月号から93年9月号まで連載されたものだから、すでに10年以上前の記録だ。
二人の弥次喜多道中ぶりは、海外版と同様だが、本書は日本国内の有名寺が多いので、Morris.も知ってる寺や仏像が出てくるたびに追体験することが出来た。仏像各々の好き嫌いは、二人とMorris.とはかなりの違いがあるが、信仰心でなく、美しさ、面白さを本位としての仏像巡りという意味では、かなり似ている部分があると思った。
みうらじゅんといえばMorris.は文庫本で所有している「魅惑のフェロモンレコード」である。そう思って見直したら中に「仏教」というコーナーがあった。

ボクは小学生時代より仏像のファンで、京都・奈良はもちろんのこと、各地の寺院を見て回った。仏像は釈尊入滅後、盛んに造られた言わばアイドル・グッズのよーなものだ。

そういえば、確かにこの「見仏記」のみうらじゅんの姿勢は、フェロモンレコードのジャケットへのそれといささかも違いはない。いとうせいこうは、そのフェロモン信仰の書記官として随行していると言えるかもしれない。
しかし、この書記官は徐々にみうらじゅんのフェロモン信仰に感化されて、ついにはどちらが異常なのかわからない状況にまで至ってしまう。そんな超常体験の記録として読むことも可能だろう。

しばらくそんな妄想の中を遊ぶうち、エロティシズムという言葉が、ふとエキゾティシズムに変わった。妄想は加速する。なにしろ、ここは唐から渡来した鑑真をシンボルとする寺だ。そこにエキゾティシズムがあふれていてもおかしくない。とすれば、金堂の薬師や千手、そしてまだ見ぬ法華寺の十一面観音に通じる顔立ちは、原日本人にはない造作なのかもしれなかった。密教像の分野においても、私は東寺の帝釈天のようなインドの強い香りがする相貌ではなく、あくまで白く塗られた中尊寺の"人肌の大日"を思い出したのである。どこか知らない国の美人の定型が、すべての仏像を結ぶような気に、私はなったのだ。

これは唐招提寺でのいとうの感想だが、理屈を並べようとしながら、すでに理屈でなくなってしまっている。

日本人の多くは千年を越えて仏像を拝んできた。それなのに、国家精神がシステム化された途端に、仏像を外来のものとして攻撃したのだった。私が感じた例の東寺ショック(つまり、"これはインド人の仕草じゃないか")を、突如として集団的に共有したのだ。結局のところ、この国はなんでも受け入れるように見えて、何ひとつ受け入れていない。吸収したふりをして、それを独自のものとしてみせるが、いつでもまた外に放り出す用意をしているのだ。なんという空虚、なんという馬鹿らしさ、なんという弱さだろう。つまり、真に他者を受け入れて変化し、それを自己そのものと考える思考がないのである。
その仮説を聞いて、みうらさんが言った。
「ベンチャーズみたいなもんってことだよね、仏像は」
すごい簡略化である。思わず引き込まれた。
「何度も来日してくれるとさ、日本人は喜ぶじゃん。ガイジンがこの国を好きになってくれたって思って。でも、日本に住んでるらしいぜってとこまでくると、こんな国に住んでるなんてダサイって思うんだよね。向こうはやっと受け入れて愛してくれたって思っててもさ、その時点でもう日本人は内心馬鹿にしてるの。そう思いながら、でも嬉しいような気もして受け入れるっていうような。まあ、最低の国だよ」
そのみうらさんの日本観には納得がいった。そのベンチャーズを突如として強制送還してしまうのが、つまりは廃仏毀釈なのだ。どうもみうらさんと私は、ずれているからこそ互いに考えを取り込みあうところがある。これは優れた出会いだったのだと私は思い、この人を"廃仏毀釈"する人間にはなるまいと黙って決心した。


いとう書記官のやや自画自賛的結論だが、やはり本書はみうらじゅんがメインだね(^^;) 海外版の感想で二人の仏像への嗜好は「フェチ」だと結論付けたが、そのフェチぶりでも、圧倒的にみうらじゅんの尖端化が目に付く。みうらのイラストとメモがなければ、本書はほとんど読む気がしないだろう。
とはいうものの、同行二人のシリーズであることはまちがいなく、続きを読まねばと思ったのだから、なかなかにこのコンビは強力であると思う。


【写楽百面相】泡坂妻夫 ★★☆☆ 写楽ものは、ついつい手にとってしまうMorris.だし、まんざら知らない名前の著者でもないので、93年発行のこの本を何でこれまで読んでなかったのかと、疑問に感じながら読み始めて、途中まではそれなりに面白く読み進めたのだが、途中からだんだん退屈になってきた。
写楽を取り上げる以上、犯人探しではないが、写楽の正体暴きがストーリーを食ってしまうという面があって、本書でも、結局はそちらに食われてしまったのだろう。
おしまいに編年体で、写楽関連本と、当てはめられた画家や文人などの一覧があり、著者が高校時代に書いた写楽論のことまで並べてあって、何だかなあと思ってしまった。
手妻師でもあり、凝り性の著者だけに、端々に見るべきところや、新説、故事付けや、うがちもあるし、登場人物も蔦屋、狂歌、黄表紙作家など、Morris.好みの人物が多くて、もっと楽しめそうなものなのに、そうならなかったのはなぜだろう。
本書でも数箇所に「手をこまねいて」表現があったのも、不満の一端をになってるかもしれない(^^;)


【俳句的生活】長谷川櫂 ★★★ 長谷川櫂は「春の水とは濡れてゐる水のこと」という一句にしびれてしまい、何か惹かれる作家であるが、本書は、俳句の入門書でもなく、エッセイでもなく、なんとなく中途半端な作のようだった。
中公新書という手軽な形で、12章に分かたれているから、月刊誌あたりに1年ほど連載したのかとも思ったが記載は無い。
最初の切れ字、取り合わせなどの俳句の基本事項への、直裁な物言いは面白かったのだが、途中から、知り合いとの馴れ合い、谷崎作品への傾倒とそれを強引に俳句に結びつける部分が多くなってちょっと、辟易させられる面もあった。
引越しを機会に蔵書の整理をしたときの弁解めいた文を引用する。

本はある限度を超えるとまるでウイルスのように自己増殖を始める。いつまでも手をこまねいていては人間のいる場所が狭くなり、ついにはなくなってしまう。早く手を打って人間らしい生活の場所を確保しなければならない。
そもそもなぜこうした事態に陥ったかといえば、身辺にある物の中で本だけを特別扱いしてきたことに原因がある。小さいころから本を大事にせよ、粗末にするなといわれ、子ども心にも本はほかのものと違うのだなと思うようになった。そのうちに本は治外法権を獲得して徐々に増え始めた。
それでも読むめどのたっている本を買ってくるうちはまだいいが、いつか暇ができたら読もうと思う類の、読む当てのない本まで買ってくる。こうなるともういけない。主の偏愛に自信を得て驕慢となった本は主の知らないところで勝手に増え続ける。買った覚えのない、見知らぬ本までどんどん増えることになる。

俳人であるなら、ことばには敏感であってしかるべきだろうから、Morris.の悪む「手をこまねいて」表現にまず眉をひそめるが、それはおいとくとして、本への対処ぶりも不徹底極まりないように思える。多くの人にそういう傾向があることは否定しないが、それを自覚しながら手をこまぬいていることへの反省がない。(Morris.はけっこうしつこい、と、われながら思わずにはいられない(>_<))

正岡子規の膨大な「俳句分類」に関しては、その抜粋版を編纂したとあるから、素人ではないだろうが、それについての一文。

日本の歴史は明治維新で分断され、江戸時代以前と明治時代以後は別の国の歴史のように扱われてきた。俳句の歴史もこれまで子規の俳句革新を境にしてそれ以前の江戸俳諧とそれ以後の近代俳句に分けてきた。子規の改革者としての顔が強調されるあまり、子規の俳句革新も子規の俳句も白紙から生まれてきたかのように考えられてきたのである。
実際の子規は「俳句分類」という作業を通じて江戸俳諧を咀嚼し吸収し徹底的に学んだ。

たぶん、間違いではないだろうが、これまで、必ずしも子規を江戸俳句と切り離す論者、俳人ばかりではなかったと思う。
全体的に、筆者の論調は、近視眼的な感じがあり、それなりに見るべきところはありながらも、いまひとつ食いつきが足りない気がするのだが、どうだろう。
まあ、こういった本には、例句、引用句が多く、Morris.はそれらを見るだけでも損はしないと思う(こういうのも貧乏性というのだろう)のだが、本書には和歌、短歌も比較的多く引用されていたから、そちらも楽しめた。引用しておく。例によって旧知のものは省いた。

包丁や氷のごとく俎に
冷し酒この夕空を惜しむべく
天地をわが宿として桜かな
山眠るごとくにありぬ黒茶碗
たとふれば一塊の雪萩茶碗 長谷川櫂

わせの香や分け入る右は有そ海
山も庭もうごき入るるや夏座敷
うき我をさびしがらせよかんことり 芭蕉

朝がほや一輪深き淵の色
遅き日のつもりて遠きむかし哉 蕪村

細雪妻に言葉を待たれをり 石田波郷

おぼろ月獺の飛び込む水古し
傘(からかさ)の上は月夜のしぐれ哉
冬ごもり五車の反古の主かな 黒柳召波

大寒の埃のごとく人死ぬる 高浜虚子

肌のよき石に眠らん花の山 路通

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかあかやあかあかや月 明恵

七夕のなかうどなれや宵の月 貞徳

十五夜の雲の遊びて限りなし 後藤夜半

美しき印度の月の涅槃かな 阿波野青畝

暮れにけり天飛ぶ雲の往来にも今宵いかにと伝へてしがな 永福門院

ひひらぎの生けられてすぐ花こぼす 高田正子

百年はおろか十年の孤独にも耐へ得ぬわれか琥珀いろ飲む 伊藤一彦

秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
黒きまで紫深き葡萄かな
春雨のわれまぼろしに近き身ぞ 正岡子規


【バカラ】服部真澄 ★★★☆ 2000年から2001年にかけて「週刊文春」に連載されたもので、Morris.が読んだ限りでは一番最近の作品である。タイトルからしてバカラ賭博がテーマだろうから、Morris.は読む前からいささか危惧をおぼえていた。博打の小説というのは、どんなに作家が手を変え品を変えようと、勝負の出目は作者の思うがままになることはわかりきってるので、おもしろみに欠けるに決まっている。もちろん博打に限らず、作者は作品の上では登場人物を思いのままに動かすことが出来るという意味では、神みたいな存在であるから、恋愛小説だろうと、ミステリーだろうと同じ傾向はあるし、その辺の機微については、酒見賢一の「語り手の事情」を読めば一目瞭然だが、それにしても博打の場合は、作家のご都合主義が露骨に出やすいことだけは間違いない。
ところが、彼女はやっぱり只者でなくて、見事にMorris.の危惧を裏切ってくれた.勝負の場面はさらりと流して、細かい札の出などにはほとんど触れもせず、である。それよりも日本で公営カジノ実現のシミュレーションともいうべき青写真を盛り込んだ、リアリスティックな社会小説に仕上げている。大したタマであるなあ。
新進実業家と、週刊誌記者、古手のフィクサーと、政治家が虚々実々の駆け引きを繰り広げ、フリーの女性記者や、登場人物の魅力的な妻たちが彩りを添え、なかなかに手の込んだ作になっている。
オンラインカジノや、ネットへの記事漏洩、ノートPCによる盗聴など、IT関連のネタもうまく配しているし、作者趣味の、絵画や伝統家屋、骨董などの小道具の使い方もうまい。
しかし、これまで読んだ作品に比べると、何となくMorris.は、物語にどっぷりはまって楽しむことが出来なかった。作者自身が以前編集者だったらしいから、その経験を多分に匂わした描写がしつこかったり、巨額の金の動きの割に、暗躍スタッフ??の出番がないことが、物足りなかったようだ。
地下銀行を模した、国外資金の動かし方や、政治的なやりとり、情報収集のやり方など、おそろしく細かく、知識の深さをうかがわせる部分は多く、いろいろ感心させられる部分は多いだけに、もったいないと思う。

【見仏記 海外篇】いとうせいこう、みうらじゅん ★★★ この二人が仏像フェチで、日本各地の仏像を見て回り、「見仏記」と題してすでに数冊をものしてるのは知ってたし、一度ちらっと斜め読みして、結局読まずじまいになってたのだが、本書では、韓国、タイ、中国、インドのアジア4カ国を回ったものということで、ちょっと興味を覚えて読むことにした。とはいっても、98年の発行で、実際の旅行は97年から98年で、すでに6年以上前ということになる。
Morris.は韓国ではあまりお寺回るすることはない。それでも、行った先に有名な寺があれば避けるわけでもないので、本書に出てくる寺のうち、釜山の梵魚寺、慶州の仏国寺(+石窟庵)、扶余の定林寺址くらいは訪れている。また博物館は大好きだから、当然二人が行った3つの博物館はお馴染みである。

みうらじゅんがイラスト、いとうせいこうが紀行文担当ということになっているが、どちらかというとみうらのナイーブな仏像フリークぶりを、いとうが観察、分析してついていくといった感じがある。ただ、二人とも韓国自体にはそれほど本気ではまってるわけでもないので、ちょっと日本の過去の狼藉を指摘されては必要以上にびびったり、自己嫌悪になる場面などは、何だかなあであった。ヘテを見て「これやっぱコマ犬かねえ?」なんていう素朴な間違いありーの、扶余博物館でたぶんレプリカの半伽思惟像に固執したりと、おまぬけも、彼らにとっては別にどうでもいいことのようだ。
要するに彼らにとって重要なのは、かれらの感性にびびっとくる仏像を、とにかく思い込み独断専行で見まくることに尽きる。Morris.も30年近く前仏像にはまった時期があり、奈良に2年近く住んでた間に、百箇所くらいは寺回りしたことがある。そして、その仏像愛好癖も、特に信仰心はなく、ひたすら仏像の美的魅力に惹かれての行脚だったわけで、そういう意味では二人の嗜好に類似しているかもしれない。
タイ篇では、ワットポーの全長49mもの寝釈迦さまの記事を読んで、懐かしく感じた。
中国、インドとなると、一度も行ったことはないし、何となく雲をつかむような感だった。

そこに仏像のある限り、我々は見に行ってしまう。そして、それがなんのためであるのかはいっこうにわからない。情熱というのもおこがましい気がするし、もはや単なる趣味ですまされる段階でもなかろう。一体全体、何が楽しくて炎天下、狭い車に半日乗り続けるのだろう。何がうれしくて揺れのひどい汽車に乗り、降りそこねればどうなってしまうかわからないような場所を目指すのだろう。(いとうせいこう)

結局二人は「仏像中毒」と結論つけているが、Morris.はやっぱり「フェチ」なんだろうと思う。でもって、フェチはそれなりに凄いし、それなりに素敵なんだと、ちょこっとうらやましくさえなってしまったよ。


【それ ほんとう?】松岡享子さく 長新太え ★★★★☆ 今日の天神さんの古本まつりで手に入れた一冊である。79年の第9刷で、初版は1973年となっている。五十音順に頭韻を踏んだ戯れ歌が44篇収められている。、絵本というよりことばあそびうたというべきかもしれない。これは簡単にできそうで、じっさい形だけ真似するのならMorris.にだってで作れるとおもうが、やっぱりそこがプロの技がそこかしこにちりばめてあり、思わずうーーーん、と唸ってしまう。
長新太のイラストがまた入魂の作と言うか、赤と緑の二色のクレヨンでなぐり描きしたようなタッチなのだが、これまたヘタウマを通り超えた別次元のレベルの作品になっている。しかし、何も、こんな本のことでこむずかしいことをいう必要はない。とにかく、楽しくて調子が良くて、面白い、読み出したらやめられない、止まらないこと請け合いである。
実はこの本、Morris.が学校でて数年後くらいに、唐津の山奥の小学校に赴任した馬場茂君のところに遊びに行ったとき、田舎道で偶然に拾っのが本書との最初の出会いである。かなり汚れて、いたんでたし、雨に濡れてか、2倍近くにふくらんで、ごわごわもしてたのだが、ちょこっと拾い読みしたら、もう病み付きになって、しばらくずっと、こればかり繰り返し読んでた記憶がある。こんなことを書くとそれこそ、「それ ほんとう?」といわれそうだが、ほんとうである(^^;)
とにかく「ち」の歌を。

「それ ほんとう?」びくろさんぼと
ちるちるみちるが
ちょきんばこと
ちょうめんと
ちりかみと
ちりとりをもって
ちかてつにのったら
ちかくに
ちんちくりんの
ちょっきをきた
ちぢれっけの
ちんぴらがいた
ちんのようなかおに
ちょびひげをはやした
ちんみょうなやつ。
これがちゅういんがむを
くちゃくちゃかみ
ちょこれーとを
ちびちびかじり
ちりをそこらにちらかすやら
ちちおやとちゃんぱらするやら
ちっとも
ちゃんとしていないので
ちびくろさんぼと
ちるちるが
「ちっとじっとしてないと
ちょんまげをちょんぎるぞ!」と
ちからいっぱいどなったら
このちんぴら
ちぢみあがってちぢこまり
ちんしゃしてのち
ちんもくしたって。


ふっふっふっふ(^o^) 楽しいな。これは結構長いほうだけど、すこし短いのもあるよ。

ちまのような
へんてこなかおをした
へんなやつが
へんちくりんな
へるめっとをかぶり
へいをのりこえて
へっぴりごしで
へやにはいってきた。
「きさま、へいたいだな。
へたくそなへんそうをしても
すぐわかるぞ。」といったら
そのへんなやつ
へどもどして
へんじもできず
そのばに
へなへなと
へたりこんでしまったって。


必ずしも頭韻踏んでなかったりもするけど、そんなことどうでもいいよって気になるでしょ?
Morris.が昔でっちあげた言葉遊び詩集「小僧の天麩羅」も、この本に刺激受けて作ったんではないかという気が今更ながらしてきた。作ったのはずいぶん後のことだけどね。
そして、これより、ちょっと後に出た矢川澄子の「はる なつ あき ふゆ」という、これまた素敵に可愛いことば遊びの絵本があって、ああ、これも、いつか絶対読み返してみたいと思ってしまったよ。


【赤い旗】槙本楠郎 ★★☆☆ 日記にも書いたが、今日サンパルで手に入れた昭和5年発行のプロレタリア童謡集で、実物は昭和41年の復刻版である。ジャケット買いということになるだろう(^o^) B6版黄色のハードカバーに、赤と黒でいかにも革命初期のロシアアヴァンギャルド風のレイアウトとレタリングである。しかも何故か赤色のハングルで、縦に「プロレタリア」横に「トンヨチプ--童謡集」と書いてある。装丁は村田某(「言」に下心で読み方も不明)である。
また冒頭の楽譜の後に、「コンコン小雪」という童謡の韓国語訳も掲載されている。訳者はリムファとなっている。これは、松本清張の「北の詩人」の主人公、林和ではないか。しかし、昭和5年という時期に、なんでハングルが用いられているのだろう。朝鮮語を禁止された朝鮮人への連帯を表明しているのか、本書にはそういったことには全く触れられていない。
ネットで調べた限りでは、本書は発行されてすぐ発禁になり、ほとんど出回らなかったらしい。発行社の紅玉堂は、短歌関連の書籍を多く発行してる出版元のようだが、あまり聞き覚えは無い。
35編の童謡が収められているが、いまいちインパクトに欠ける。それよりも、「プロレタリア少年少女へ」と題された前書きは、これはもう、むちゃくちゃインパクトありすぎである。

貧しい子供たちよ。
 おぢさんは、みんなが大へん可愛い。この本は君たちに読んでもらひ、歌つてもらうために書いたのだ。金持の子供なんか読まなくたつていい。
 おぢさんは君たちのお父さんやお母さんと同じやうに貧乏だ。そして君たちのやうな元気な可愛い子供を持つてゐる。去年は六つになるスミレといふ女の子を一人亡くした。それはおぢさんが貧乏なために、金持の子のやうに大切にしてやられなかつたからだ。だがおぢさんにはまだ二人の子供がある。もしこの二人が死んでしまつても、おぢさんはまだまだ気を落しはしまい。それは元気な君たちが大勢ゐてくれるからだ。それほどおぢさんは君たちを、自分の子のやうに思つてゐる。
 おぢさんは永いこと、いつも、君たちにいい本をこしらへてあげたいと思つてゐた。けれど貧乏では本も書けない。今度やつとのことで、この本をつくることができた。けれどこれは手はじめで、そんなにいいものとは云へない。第一、本が高すぎる。それに童謡(うた)だつて、まだほんとうに君たちに好かれないかも知れない。けれど君たちは金持の子や、金持の味方の詩人やまたそいつらと一しよに貧乏人を馬鹿にしてゐる奴らのやうに、このおぢさんの童謡を一も二もなく、頭からバカにし、悪口なんか云はないだらう。きつと、おぢさんの子供やおぢさんを好いてくれる子供たちと同じやうに、よろこんで読んでくれ、よろこんで歌つてくれるにちがひない。
 そこで、わたしの好きな子供たちよ。おぢさんはみんなとお約束しよう。この次に出すおぢさんの本は、きつといい本で、もつと安くすること、を。
 で、今度は君たちから、おぢさんにお約束をしてもらひたい。と云ふのは、おぢさんに前の約束をきつと守らすためには、君たちはこの本をよく読んで、そしてその中の一番好きな歌とか、嫌ひな歌とか、この歌はこんな時に使つたらどうだつたとか、今度はこんな時に歌ふこんな歌を作つてほしいとか、そう云つたことをドシドシ手紙かハガキかで、云つてよこしてもらひたい。また君たちの作つた歌もぜひおくつて見せてほしい。も一つ。この本は自分ひとりでは読まないで、なるべくお友だちみんなに見せ、読ませ、貸してやるやうにしてもらひたい。そしてみんな仲よく、元気に、大勢で歌ふことだ。−−これを是非お約束してもらひたい。
 ではみんなよ、早く大きくなつて、君たちも勇敢なプロレタリアの闘士となつて、君たちや君たちのお父さんお母さんを苦しめてゐる奴らを叩きのめしてくれ!
一千九百三十年四月  東京府下吉祥寺四八〇  槙本楠郎


ちょっと、待ってくれ、と言っても、すでに手遅れであるが、かなりなもんであるなあ。
付録として10pほど「プロレタリア童謡の活用に関する覚書」というのがあって、これまた相当に教条的かつ頭でっかちである。
しかし、この昭和5年(1930)といえば、例の幻のロシア絵本が最高潮に達してた時期で、直後にスターリンによってばっさり切り捨てられる頃だなあ。日本ではそれどころではない、弾圧の時代で、こういった作品制作活動も身体を張ってのものだったことは想像に難くないし、それだけに過激になることは避けられなかったのかもしれない。
童謡や覚書の中には随所に伏字(×印)があるが、これは当局がそうしたのではなく、いわゆる自主規制だったのだろうか。
たとえば次の作品

プロレタリア童謡集「赤い旗」赤い旗

 起てよ
 起てよ
集まれ、子供
われ等の旗は
われ等で守らう
 なびけ
 はためけ
 ×い旗

 進め
 進め
手を組め、子供
われ等の道は
われ等で開かう
 うねれ
 波打て
 ×い旗


ここの「×」は当然「赤」なんだろうが、題名はそのままというのが良くわからない。考えて見れば、本書のタイトル自体がそうなんだったな。わざと「×」にして、耳目を集めようとの作為だろうか?
しかし、次の作品の伏字は、ちょっと判りにくい。

手まり唄

一(ひ)イ、二(ふ)ウ、三(み)イ、四(よ)ウ
耳は塞がれ、お口は縫はれ
手枷、足枷、団子にされて
糸をまかれて、しめくくられて
とんとん、ころりと、お手毬さんだ
つけばつくほど、はづんで上る
はづめ、手まりよ、とんとん踊れ

明日は手まりも×××だ
蒼い顔して顫えるお方
どいた、どいたりお手まりさんだ
邪魔をする子はお×りさんか
それでなければ××さんだ
敵と味方は
 もうよくわかる
 ----受け渡(わーた)し

はじめの「×××」がむずかしい。「蜂起」や「反撃」や「実力行使」だと文字数が合わない。「総攻撃」もちがうだろうな。
次の「×」は「巡」だろう
おしまいの「××」は「憲兵」かな?
しかし、本書は、堂々たるハードカバーで、紙質も悪くない。定価六十五銭の相場がよくわからないが、子供の小遣い(特にプロレタリアの)で買えるものではないだろう。
前書きにも言い訳めたことが書かれているが、何でそうしたのかは書いてない。
先にほめた装釘やデザインも優れていることは認めても、これが当時の子供たちに親しみを与えたとは思いにくい。
どうも、作者とそのまわりの仲間たちの、自己満足と矜持の作物ではなかったかと思われるのだ。
いずれにしても本書が、作者の思惑の千分の一も実効をあらわさなかっただろうことは、間違いあるまい。


【ウェブログ☆スタート】デジビン ★★★☆ 最近ちまたで流行しているブログなるものをMorris.もしてみんとは思ったものの、いまいちどんなものなのか良くわからない。先月「ウェブログ・ハンドブック」というのを読んで、あまりに観念的で翻訳もえらくわかりにくかったので腹を立てていたら、稲田さんがこの本を紹介してくれたので、さっそく借りてはきたものの、なかなか読み出せずに返却期限ぎりぎりになってあわてて目を通した。
おお、こちらはちゃんとした解説書だった。実際にあるサイトを例にとって適切な説明と注意書きがあるし、文章も読める。著者は3人の合作らしい。
それでもこういった本はやっぱり、実践しないことには実感できないわけで、本を読んだだけでわかる人はすでにある程度ブログを体験してる必要がありそうだ。Morris.はマニュアル読むのは好きなほうだが、これが理解とはまったく結びつかないところが悩みの種でもある。
本格的にサーバー持って、プログラム書いて、すべて自前でやるなんてことは考えられないし、お仕着せのサービスの中で、どのように自分好みのブログを構成するかの目安としてしか読めないわけだが、結局前から気になっている「はてなダイアリ」から始めるのが一番手っ取り早くて簡単そうだ。はてなはブログとはちょっとちがうという声が聞こえそうだがかまうことはないだろう。

Googleが33億ものドキュメントを保存していても、そのすべてを把握することはもはや不可能です。しかもこの空間は日々拡大しているのです。この大空を飛行していくために、私たちはなんらかの地図を必要としています。
大きなポータルサイトが提供する立派な地図は、これからもなくなることはないでしょう。と同時に、もっと身近な地図があると、その飛行はもっと楽しく、確実なものになるでしょう。自分に近い人、信頼できる人が作った地図でウェブの大空を進んでいく。そして自分の後ろから来る人たちのために、地図を残しておく。その地図を他人と共有し、つながり、拡張していく作業、ブログはそのためのツールかもしれません。

Morris.はブログには興味もあるが、いわれない恐怖心も持っていたので、この前書きを読んで、一歩前進できそうな気がしたよ(^^;)←実はけっこう小心者


【新・地底旅行】奥泉光 ★★☆☆☆ Morris.一押しの作家の新作で、500p近い長編。造本はまるで理論社の児童文学書き下ろしみたいな雰囲気で、タイトルはジュール・ヴェルヌのカバーらしいし、これで期待するな、というのは無理な相談のはずだったのに---(^^;)読んだ結果は、完全に期待はずれだった。
朝日新聞に連載されたということで、Morris.は前からこの新聞小説という形態は、昭和30年代でもうその存在意義を消失したと思っているので、その意味ではちょっと不安があったのだが、本作の不作ぶりはまさにその不安を上回る(下回る??)結果になったといえよう。
舞台は明治の富士山の洞穴、文体はやはり漱石の戯作を下敷きにしているのだが、前作「吾輩は猫である殺人事件」に比べるとまるで徹底していない。
語り手である挿絵画家と、科学者の卵、ディレッタント風ぼんぼんの男3人に、田舎育ちながら心技体の充実した娘サトを加えた4人の道行ぶりが、無意味で煩瑣な描写でしつこく書きつづけられ、さまざまなアクシデントや怪異、離合集散などが起こる割に、面白みに欠けるし、一向に話の中心が定まらない。8割方進んだところで、突然、本当の地底旅行の目的地である地球の核の海への移動が始まるし、それからの電気的パタンとしての生命の流れを中心としたどたばた展開も感心できない。結びでも、続編をにおわせる伏線をおいて、なんともしまりのない終わり方で、この作家の作品とは思えないくらいである。

登場人物の諸君も、もっと活躍の場を与えて貰いたいと、要望することしきりであった。だから、仕方なく、続編を予感させる結末にしておいたのだけれど、こういう具合に、明朗闊達な気分で小説を書き終えることは珍しいので、もっとも、名匠ジュール・ヴェルヌの傑作『地底旅行』の続編を銘打つ以上、楽しくなくてどうするんだともいえるわけで、要するに楽しく書きました。
ただし、作家が楽しく書いたからといって、読者が楽しいとは限らないのが困る。(あとがき)


おいおい、困るっていわれてもなあ。Morris.はほとんど楽しめなかったぞ。それに本作は地底旅行の「続編」じゃないよな。いいところヴァリエーション、はっきりいえば、エピゴーネンでしかない。
しかも、「猫殺人事件」と「鳥類学者のファンタジア」と、別の物語でありながら、光る猫や宇宙オルガンという小道具によって三部作ともいえるし、これから四部、五部と続いていく可能性もあるとか、御託を並べているが、前の2作がすばらしかっただけに、簡単にひとくくりにはして貰いたくないし、このままの調子での続編は勘弁願いたいところである。
本作で唯一、魅力を感じた登場人物サトを主人公にして、完全に別な物語に仕立てるのなら認めよう。(って、Morris.は「なにさま」なんぢゃあ(^^;))
猫と語り手である画家の対話が、ちょっとMorris.の心にも響いたので引用しておく。

鉄棒の閂へ鉄錠が厳重に降りている。しばらくガチャガチャやってみたけれど、とても解けそうにない。私が成り行きを悲観していると、猫の声がした。
「何をしているんですかネ。早くしたらいいでしょう」と猫が叱るようにいう。
「鍵がなけりゃ無理だ。開かんヨ」
「貴公は、あれですナ」と猫が溜息をついた。「何をするんでも、きっと自分は失敗するんだろうと、まずは諦めてから始める質なんでしょう?」
図星である。私は人から恬淡と見られることが多いが、身に染みついた悲観主義故に、大志大望を抱き得ぬところに我が性格の本然が存するのは疑えない。恬淡と見えるのは、欲を出すと裏切られた時辛いから、成る可く欲を出さぬよう心がけているだけの話だ。死ぬのが嫌だと思うと、死ぬのが苦しくなるから、死んでもいいと思案する。異性に好かれたいと願えば、相手にされなかった時が辛いので、独身主義を標榜する。
「つまり貴公は錠と見れば絶対に開かないとまずは考えるのだネ」と猫がまた長嘆息した。「要するに貴公は錠を開けたいと端から思っていないのだ。だから開かないのだ」


腐っても奥泉であるな。たしかにこういったタイプの人間はよく見かけるし、Morris.にもそういう傾向があることは否定できない。ただ、Morris.はこれまで、とりたてて独身主義を標榜したことはない、ということを、謹んで標榜しておきたい(^o^)

【GMO 上下】服部真澄 ★★★★ Morris.がはまってる筆者の近作(といっても2003年)長編である。タイトルのGMOはGenetically Modified Organism(遺伝子組み換え作物)のことである。
米国に住む日本人翻訳家が、ワインの本の翻訳をすることになったことから、南米ボリビアに新しいワイナリーを設ける米国食料関連大企業のバイオ戦略に巻き込まれるというストーリーだが、筆者お得意の大風呂敷(失礼)を見事に広げて、企業から国家がらみの経済戦略活動にもつれこませ、GM植物だけでなく、GM昆虫という隠し技を繰り出し、現代のレーチェル・カーソンといわれる天才科学ライターの畢生の新著(日米同時発売=日本語訳はもちろん件の翻訳家)を縦糸に、見事に複雑な事件小説を組み立てている。長さが災いしてか、ちょっと中だるみになったり、例によってのご都合主義や、終盤の拙速ぶりなど欠点も多いのだが、現代生物科学の可能性と危険性をリアルすぎるくらいに実証して、読者を慄然とさせる手腕が、そんなことを忘れさせてくれる。その他の登場人物もそれぞれ、必要に応じて的確に描きこまれ、人間関係も実に細かく演出されるなど、筆者のエンターテイナーぶりは大したもんである。
本当はそうではないのだろうが、読んでいると何かえらいことを教えられたような気にさせられるところも、彼女の得意技である。
タイトルでもあるGMOの解説めいたことも、彼女の手にかかるとこんなふうになる。

科学畑の人間には、すでに耳慣れた言葉になっている。メディアでもちょくちょく見かけるようになってきた。それもそのはずだ。情報技術と並んで、アメリカの二十一世紀の重要な"兵器"とみることもできるのだから。
人間は、いまでは神を真似て、新しい生物をも創っている。自然には存在しないはずだった生物が、品種改良の域を越えて、次々と創られている。遺伝子操作技術を用いて、生物に、自然では交配できない種の遺伝子が組み込めるようになった。バクテリアから植物へ、植物から動物へ、遺伝子を移すことが、理論的に可能になった。人間からヤギへ。人間からバクテリアへ…。
あらゆる種の交雑が、試される可能性が出てきた。
魚の持つ遺伝子を植物に導入することも、可能になった。カレイの遺伝子を持つジャガイモが創られた。
他の生物種に由来する外来遺伝子を、植物細胞に持ち込む方法が、1990年代に開発され、遺伝子組み換え作物が次々に誕生するようになった。
なぜ、ジャガイモカレイを創るのかって? カレイには、体内の水分が凍らないようにするタンパク質があって、極寒の海域でも生きていられる。そこで、あるエンジニアが思いついたのだ。カレイの遺伝子をジャガイモに組み込んで、凍らないジャガイモができたら、寒い地方でも作付けできるだろう、と。
ジャガイモカレイは、うまく育ったらしい。が、これは植物なのか、魚なのか? 種はさだかではない。が、とにかく、作物だ。ある地方、ある国には夢のような作物だ。いままで不毛だった土地で、作物が穫れるのだから。特別の性能を付加された機能性食品を、遺伝子技術は生み出す。どうあがいても叶わなかった夢が、ときには一足飛びに現実のものとなる。それが−−−遺伝子組み換え作物だ。倫理的な問題から、ジャガイモカレイはいまのところ実現されていない。だがアグリビジネスは、遺伝子組み換え作物の金脈を見逃さなかった。


ね、おっそろしく、わかりやすいでしょ。しかも説得力に長けている。こんな調子で、筆者にレクチャーされて、得したような気分になるのだが、それをまたてもなくひっくり返したりしてくれるのだ。
ボリビアのワイナリーで、葡萄以外に百種類もの植物を混載させて目的の作物から、害虫や細菌の関心をそらし、生態系のバランスをとるエリア「ハビタット・ブレイク」をつくる有機農法の定石をとくとくと述べる女性ワイン評論家に、ボリビアの議員の反論は、ステレオタイプだとしても、有機農業の現実の状況をぐさりと突く。

「オーガニック食材は、金のある国のなかでも、金のうなっている層の食い物だ。貧しい者の食卓には、決してのぼらない。贅沢なお遊びじゃないか。真面目にやろうものなら、コストが見合わない。葡萄畑に、雑多な植物を混ぜて植えるだと? 笑わせるじゃないか。一農家がそれをするのに、どのくらいの経費と手間をかけなければならないか、考えたことがあるのかね。」

もちろん筆者は、有機農法に闇雲に反対しているわけではないのだろうが、現状を知るほどにその乖離に苛立っているのかもしれない。
翻訳家が、頻繁に引用するレイチェル・カーソンの「沈黙の春」の一節。

この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や修正をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、二十世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。

これに続けて「さらに、二十一世紀の初め、巨大なコングロマリットが……」となるわけだ。
しかし、翻訳家は実は、より大きなそして巧妙な力に、利用されていたわけで、後半ではその事実を知って愕然となるわけだが、そのあとに起死回生の逆転劇らしいエピソードがおかれている。しかし、それはやはりとってつけた結末でしかないようだ。本筋では勝負はとっくについていた感がある。
こういったスリリングな小説を読むたびに思うのだが、現在の書籍という形態は、どんなに長いものだろうと、読み進めていくうちに残りページが読者には丸わかりである。どんなに、波乱万丈で先が見えない作品でも物語のおしまいが近づいていることがわかってしまうということが、ストーリーに飲み込まれている読者の興を殺ぐということがままある。本書もそういう感じがした。
ところでおしまいのページに「本書は[新潮ケータイ文庫]上で、2002年1月から2003年4月まで連載後まとめたものである」と書いてある。ケータイ文庫というのがどんなものかよくわからないが、もしも、これが最終回の表示のない連載なら、Morris.の先の不満も解消できたのだろうか?


【永遠の不服従のために】辺見庸 ★★★☆ 2001年7月から2002年8月まで「サンデー毎日」に連載された「反時代のパンセ」という記事を再構成した時事評論みたいなものである。連載直後に例の9・11テロが起きたので、これに関連する記事が大部分を占めるという結果になっている。それ以外は死刑反対と有事立法反対、ジャーナリズム批判と限界などさまざまだが、それぞれ筆者が真摯かつ誠実に意見を述べようとしていることは疑いないが、かなりムラがあるのも事実だし、こういった類の文を、2年後、3年後に読むという空しさも感じずにはいられなかった。
各記事の冒頭にプロローグめいた引用が置かれていて、そのうちのいくつかはMorris.の琴線にも触れるものがあった。本書のタイトルもその引用の一つ、C.P.スノーの「暗く陰惨な人間の歴史をふり返ってみると、反逆の名において犯されたよりもさらに多くの恐ろしい犯罪が服従の名において犯されていることがわかるであろう」というアフォリズムに因っているらしい。
Morris.は「もの食う人びと」で筆者を知り、他の著作もいくらか読んでいるが、小説はどちらかというと苦手だった。奥付で芥川賞作家であることも初めて知ったが、もともと受賞作品はほとんど読んでないから知らなかったのも不思議ではない。ただ、本書の中でときどき、えらく小説的というか、変に凝った、幻想的な筆致の部分があって、その部分には違和感をおぼえてしまった。
一般誌への連載という制約の中ではかなり思い切った発言もあり、いわゆるぎりぎりの線を狙っているようでもあるが、そうした意識が見え透いて、読むのが辛くなるところもあった。
たとえば天皇関係記事の、確固とした出版界の自主規制に対して、筆者の抗弁は、正直ではあるものの抗弁にはなっていない。そして、その自主規制は、マスコミというより、個々の記者、寄稿家自信の心の中に深く巣くっているという、諦めのようでもある。

奇妙なことに、マスメディアで働く者たちは、昨今厳しさを増しているメディア批判の論考を読むときに、批判対象は自分ではなく、同じ領域の遠くの方にいるらしい。「困った他者」である、と思い込む癖があるようだ。自分が批判されているにもかかわらず。だから、だれも傷つきはしない。いわんや、戦争構造に荷担しているなどと、ゆめゆめ思いもしない。かくして政治とメディアは、手に手を取って、「現在」という未曾有の一大政治反動期を形成しつつある。(加担)

いや、アフガンを知らなくても、人間として理解すべき哲理というものがあっていい。
それは、殺しながら、同じ手で、食べ物をあたえ、慈しむことここそ、もっとも非人道的行為であり、人間への差別だ、ということだ。その意味で、この社説(朝日新聞2001/10/9)は、他紙童謡に、人倫の根源への深いまなざしを欠いているといわなくてはならない。朝日にファンの多い丸山眞男はかつて「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向からはじまる」と書き記しているけれど、これは、今日的には、朝日社説に向けられた、もっとも適切なアフォリズムであると思う。
戦争という、人の生き死にについて論じているのに、責任主体を隠した文章などあっていいわけがない。おのれの言説に生命を賭けろとはいわないまでも、せめて、安全地帯から地獄を論じることの葛藤はないのか。少しは恥じらいつつ、そして体を張って、原稿は書かれなくてはならない。現場の若い記者たちの多くは、いま、社説とのひどい乖離に悩んでいるのだから。(社説)


本文とは、無関係なことではあるが、戦争反対の文の結びに「世界の動揺を拱手傍観している場合ではなかろう」とあった。
そうそう、漢字音読みという手があった。「拱く--コマネク」の気持ち悪さから逃れるためだけにでも、この「拱手傍観--きょうしゅぼうかん」を普及させたいものである。デモヤッパリムリカナア(^_^;)


【骨董市で家を買う】服部真澄 ★★★ 「ハットリ邸古民家新築プロジェクト」という副題がある。Morris.が最近はまってる作家の私的ドキュメントである。骨董屋の紹介で、北陸の古い民家を解体して東京に我が家として移築するという自分の家作りの記録で、土地は叔父が住んでる六十坪を借りることができ、それでも、4,5千万円かかるというのだから、かなり贅沢な家作りだし、いかにもいまどきの都会人の興味を引きそうな事例ではある。
筆者は小説家になる前は編集者として全国の伝統工芸を取材して回ったらしいから、古い民家などへの見識はあって、ずぶの素人ではないだろうが、移築なんてのは当然初体験だろうし、身近に類例もないわけで、そういった意味では一種の「冒険記」として読むことができる。いや、そういう方向で創作された部分が多いのだろう。そして、筆者の思惑は見事にMorris.を満足させてくれた。
一人称でなく、旦那であるボクに語らせるというスタイルで、自分の行動を客観的に批判したり茶化したりするという発想がまずすばらしい。また該当民家への見学行や、骨董商、職人、設計家との駆け引きややり取り、どんどん遅滞する工事の進行報告、見切り発車的引越しの模様など、戯作風にアレンジしての読者サービスも忘れないし、それでいて、基本的、実務的なところもきちんと押さえて、ドキュメントとしての形も崩していない。うまいもんである。
予算オーバーしたり、突発的問題発生なども混ぜながら、しっかり民家の良さをアピールしたり、多分に自己顕示、自慢めいたことも書き散らかされているが、それが鼻につかないように按配されてる手際の良さも含めて、脱帽である。もちろん本書の執筆による収入も、建設費の何割かに充当されるわけだろうし、しっかり、ちゃっかりぶりという面でもお見事といえる。
巻頭カラーを含めて写真も多数掲載され、筆者自身の姿もいくつかあるが、これもかなり計算されたものという感じがした。ただ、工事中の2階での同じような構図の写真をグラビアと見開きに使ってるのはちょっとしつこいと思う。


【ニホンゴ キトク】久世光彦 ★★★ 「週刊現代」95年から1年間連載されたエッセイ集である。タイトルからわかるように、著者のやや悲観的(悲憤慷慨的)日本語論である。
向田邦子、山本夏彦、森繁久澱彌に私淑すると自認する著者だけにこの3人にまつわる話が多い。あとがきにもこうある。

[言葉] について書かれた本は数かぎりなくある。筋道立てて教えてくれる本もあるし、長い時間をかけて調べたものもあり、私たちはそういう本を読んで、日ごろ[言葉]ついて考えてきた。私などがいまさら言うことはないのかもしれない。それに、私が今[言葉]について言いたいことは、たとえば山本夏彦翁がもっと上手に、もっと手短に書いてしまっている。私が一年かかってブツブツ呟いてきたことを、ほんの1ページで賢く、面白く書いてしまうのだから悔しい。幸い、私は翁より二世代ばかり若いのと、少しは翁と違う人生の体験をしてきたので、私は私が生きてきた中での[言葉]についてのあれこれ書いてみたのだが、もしご不満だったら、どうか山本という老人の文章を読んでいただきたい。[心]はおなじだと思う。

おおせの通り山本翁の本を読むことにしよう、などという意地悪はよすとして、たしかに新しい日本語、どんどん貧しくなる国語への叱言や不満を言いたくなる気持は良くわかる。Morris.も執念く「コマネク」廃止を主張したりしてるのだが、それが、だんだん無意味だという気になってくる。風化というか、馴化というか、趨勢というか、ともかくも「老兵は死なずただ立去るのみ」といった感じである。
本書でも、久世はいいことをたくさんいってるし、読んでるときは大いに共感するのだが、読み終わってみると、そういった言葉がすべて過去の思い出として定着されたような空しさに襲われる。
たとえば「邪慳」という語は最近は「邪険」と書かれることが多いが、筆者は「邪慳」とうい表記にこだわるという。ごもっとも、とも思うのだが、すでにこの語自体がほとんど日常的には使われなくなっている事実に気づくと、表記のことをあれこれいうことなど霧散してしまうという文脈に続くのだから、Morris.の感想も筆者と同じようなところにあるのだろう。
Morris.部屋のタイトル「Morris.in Wordland」は「Alice in Wonderland」の捩りでもあるのだが、いささかは「言葉」に関しての物言いをしていこうという気持もあったと思う。しかし、「歌を忘れた歌人」から「俳人でなく廃人」の道をたどっているMorris.がこんな看板を掲げているのは羊頭狗肉であるな、と思うことしきりである。


【朝鮮戦争 上下】学研歴史群像シリーズ ★★★ 以前から朝鮮戦争についてある程度ちゃんとした本を読みたいと思いながら、なかなか手ごろな本が見当たらなかった。小説家麗羅の「体験的朝鮮戦争」でいくらか喝をいやしたが、本書はいわゆる、戦争マニア向けの本のようだが、写真、地図、年表などが多数掲載されているし、克明に戦争の経過を記録しているようだし、複数の筆者がそれぞれの立場で記事を書いてるので読んでみようと思って、ベッドで読んでる内についつい熱中して徹夜してしまった。
Morris.は決して戦争マニアではないし、戦記文学というのにも関心はないのだが、この特異な戦争だけは韓国にはまったこともあって無関心ではいられないし、米ソ、中国、日本はもちろん、全世界的な政治的歴史的偶然やら思惑やらが、おっそろしくこんがらがっている上に、近過去だけに生々しいところもあって、めずらしく興奮してしまったらしい。
日本の植民地支配の責任をほおかぶりするつもりはないのだが、本当に朝鮮半島の近代史は、不運の星の下にあったとしかいいようがない。第二次大戦後の南北分割にしても、さまざまの悪い偶然が重なり合った結果だし、朝鮮戦争の人的、心的、物的被害と、同一民族の殺し合い、代理戦争、終戦でなく休戦という結末に至るまで、全く不毛な結果しか生まなかったし、半世紀以上も負の遺産をひきずったまま現在に至ってる。指導者や幹部だけの責任でないことは分かっていても、金日成も李承晩もスターリンもトルーマンも毛沢東も戦争犯罪人であることは間違いない。
戦闘機や戦艦、武器の詳細な紹介や、作戦図などはMorris.にはやっぱり向いてないらしく、大部分を斜め読み、あるいはすっ飛ばしてしまった。


【言葉の外へ】保坂和志 ★★★ 猫の小説読んだばかりの筆者のエッセイ集で、読書控え、将棋に関するエッセイ、自作を語る、樫村晴香との対談とバラエティに富んでるというか、寄せ集めみたいなものだった。
北杜夫「楡家の人々」、ドンキホーテ、カフカ、チェーホフなどを誉めてるあたりは平凡だし、将棋はMorris.には別世界だし、ちょっと期待外れだった気もする。
もともとこの作家の名前は大西巨人の本で知ったと思うが、その大西巨人にふれたところがあった。

大西巨人の『神聖喜劇』は、日本近代文学の金字塔で、この小説がもし各国語に翻訳されたらノーベル文学賞をとれるのではないかとk、私は本気で思っているくらいだ。大西巨人の文学は、小説らしからぬ硬さに満ちているのにもかかわらず、細部がものすごくいきいきしていて、ときになまめかしくて、心の複雑で柔らかい面を不思議なほど見事に描き出す。石だけで水の流れを表現した庭を生んだ、日本文化の抽象性や論理性と本質的なところで通じているのかもしれない。

なかなかうまいほめっぷりぢゃ。もしかして大西巨人はこれを読んで気分を良くして自作のなかに彼の名を出したのではなかろうか。ま、それはないだろうけど(^_^;)
自作を語るで「もう一つの季節」が新聞連載で「季節の記憶」という作品の続編として書かれたなどという楽屋落ちが書いてあったので、なるほどと思ったくらい。
「文学のプログラム」という一文が一番印象に残った。その中で「祈り」に言及したちょっと皮肉っぽい部分の含まれている一節。

正月になれば初詣に行ったりして、そこで手を合わせて拝んだりする。しかもただでは願いが伝わらないと思って、十円玉か百円玉を投げ入れたりする。運命という言葉を厳密に定義しないまま、賭け事に負けると「今日は運が悪い」と言ったりする。苦境に立たされている当事者に具体的に何も協力しないことの言い訳に、「お祈りしています」と言ったりする。


あはは(^。^)である。大事なのはそのあとで

これらのすべての場面で、かつて人間は真剣に畏怖の気持を持っていた。祈ることは必ず大きな犠牲を差し出すことだった。言葉が本来の力を薄められて、文学として使いやすい比喩的な意味ばかりになっていったのと同じことが起こっているわけだが、それとともに人間は世界を思い描くときのグレーゾーンを広げてきた。そのグレーゾーンを狭めていくことが、想像力を別の形に組み直す前提となり、言葉の力を別の形で回復させることになるのではないか。
私たちは自然と戦うことで人間が人間として立ったような世界に生きていないのだから、かつての人間のように言葉に呪術的な力を持たせることはできない。必要なことは、言葉から、比喩的な意味や情緒的な響きなどの厚みを取り払って、事物があることをただ記述したり、起こったことをただ記述したりして、言葉を薄く薄く使っていくことなのではないか。含みの多い曖昧な表現や、べたべた感傷的な書き方には、間違っても将来がない。


ここに、筆者の小説の特性が明示されているようだ。しばらくこの作家のものを読んでみよう。


【もうひとつの季節】保坂和志 ★★★ Morris.にとっては全く未知の作者だったが、大西巨人の近作のなかに出てきた名前だと思う。150pの薄手の本で表紙の飄々とした猫の絵につられて借りたというのが正直なところであるが奥付を見たら芥川賞作家らしい。
5歳の息子とたわいない話したり、隣の年の離れた兄妹との会話などが中心になっている。後半では拾って可愛がっていた猫の落し主の貼り紙を見つけての逡巡とその顛末といった、かなりほのぼの童話的展開なのだが、それは世を忍ぶ仮の姿らしく、ところどころに哲学的な考察がちりばめられている。

確かに僕も松井さんも、赤ん坊の頃の写真に一緒に猫が写っていたこととか二十七年の時間を経て「松井君?」と呼ばれたこととかが与える不思議な気分は何に由来するのかというように、疑問が一周して自分に返ってくるようなことに強く気持ちが引かれ、自我とか自意識というものがなければそんなこともかんがえないのだろうけれど、「理由づけ」というのはつまりは「言い訳」のことで、自我とか自意識(この二つの違いを僕はわかっていない)というものが「言い訳」をきっかけとして育つのだとしたら、やっぱりおもしろくなくて、このおもしろくなさにうだうだとずっとこだわりながら、僕はタッちゃんとマアちゃんが来る前に読んでいた、量子学にまつわるわかりにくさや混乱は、無意識の中で起こっていることを普通に意識しているときの論理や時間性のの中で考えようとするから起こる混乱と似ているという本のつづきを読んだ。


父親である語り手の僕は、こういう独白からもそれなりのインテリらしさを表明しているのだが、嫌みなくこういった語り口ができるというのはなかなかのものであるな。

『サッちゃん』という童謡の三番の歌詞の、「---遠くへ行っちゃうってほんとかな/だけどちっちゃいからぼくのことわすれてしまうだろ/さびしいな、サッちゃん」というところはかなしいけれど、これを聞いたときに感じる「かなしさ」の中心が誰かといったら、サッちゃんのことを忘れないで「さびしい」と思ってる「ぼく」ではなくて、そういうことを忘れてしまうサッちゃんの方のはずで、美紗ちゃんが茶々丸というよりも猫全体に感じた「かわいそう」はそれと同じ感情なのだと思った。

阪田寛夫の『サッちゃん』はMorris.も好きだったけど、こういった解釈もあるのかと驚いた。言われてみればこれはこれで納得できる。でもここは、両者がそれぞれの「さびしさ」を共有してるところに歌の深みがあるんじゃないかとも思う。

「もう一ヶ月以上心配してるんだもんね」
と、「チビ」という名前をつけて呼んでいた茶々丸の元の飼い主に対して強い同情を感じはじめていたけれど、この、元の飼い主の気持ちを考えれば茶々丸を返すしかないという、つまりは一番単純な結論は、ヒューマニズムに乗っかかっている分、簡単に正しさが保証されてしまうところがある。
だから注意が必要だと僕は美紗ちゃんに言った。
相手に対して強い同情を感じて、相手の言い分をもっともだと肯定して、自分の方は一歩退く、という自己犠牲のような態度は、まわりの人からの共感を得ることは間違いないし、自分に対しての視線を仮想することで自分自身もけっこう満足感を得てしまうところがあるけれど、両者が望む解決にはなっていない。しかし、実際にはそれでももう、二人の気持は決まってしまっていた。

茶々丸は「サッちゃん」だから遠くに行ったら僕たちのことなんか忘れてしまうと僕は言った。仏教は家族や愛する者に対する執着を断てと教えるが動物はまさにそのとおりに生きている。
こういうときには同様でも宗教でも何でも出てきてしまう。きっとどちらもものすごく通俗的な感情に訴えかけるものなんだと僕は言った。


前の引用から数ページ飛んでの引用だが、大島弓子の「いちご物語」で、いちごのおばあさまが現われて、引き取りたいという話になり、家族で相談したときの林太郎の台詞(朝日ソノラマ版2巻74p)を連想してしまった。そういえば本書の雰囲気は大島弓子の不思議な優しさに通じるものがあるような気もする。


【モンク】藤森益弘 ★★★京都のジャズ喫茶「モンク」を舞台に、女性シンガーとピアニストの夫妻、マスター、常連客それぞれの家族や恋愛問題が、つかずはなれずで進行していき、著者自身をモデルにしたとおぼしい広告業界人が半分語り手のようになっている。女性シンガー淑美が在日韓国人でその家族の話に興味を感じて本書を手に取ったのだが、軽い読み物として楽しめた。
演奏のシーンでは、演奏されるナンバーのタイトルから、細かい解説めいた文が延々続いたりもするのだが、割と知ってる曲が多く、女性シンガー好きなMorris.なのでそれなりに楽しんだ。
娘一枝の韓国語読みで「イルジ」という曲を歌ったり、彼女の父が孫娘が可愛がっていた黒猫を助けるため踏み切りに入り、持病の症状を引き起こして亡くなり、その思い出を込めた「Father's Song」を作ってライブで発表する場面ではその歌詞まで掲載してあった。これは著者の創作でなく、おそらくこの夫妻のモデルとな二人の作品だろう。つまり本書は、著者の学生時代の思い出と、知人を懐かしむ一種のモデル小説ということなのだろう。登場人物はとうがたっている年代が中心だが、何となく青春小説を読んだような印象を与えてくれる作品だった。


【魔岩伝説】荒山徹 ★★朝鮮と日本の関係をテーマにした、新しい伝奇作家として注目を集めているという前評判につられて読んだのだが、これが、まあ、全くの期待外れ。とにかく小説としてなってない。家康が朝鮮系で、平壌にある巨大な瑪瑙に刻まれた霊力で政権延命をこれに委ね、その継続のために朝鮮通信使をカモフラージュとして使ったという、奇想天外というより、単に突飛な、あまりにもとってつけたような御都合主義。さらにはヒロイン(朝鮮人娘春香)と、ヒーロー(朝鮮の血を引く日本人剣士)の動向は、波瀾万丈というよりは支離滅裂で、肝腎なところになると、急に後からの説明口調になるし、朝鮮忍法というのが、これまた箸にも棒にもかからないたわいもないものだったり、子供だましだったり、作者の勝手な作りつけだったりで、これはもう、最後まで読みとおすのは苦痛だった。文章も七面倒臭い単語を多用するばかりのこけおどしの悪文だ。もう読まない。


【せきこえのどに六輔】永六輔 え・山下勇三 ★★★☆永六輔が唯一CMに出ているのが浅田飴ということは、本人が喧伝していることもあって、それなりに有名だが、本書は「話の特集」に掲載された雑誌広告の中から130点ほどをピックアップし、それに作者二人と矢崎泰久の鼎談を挟み込んだ作りになっている。
まあ、一種のビジュアル本ということになる(^_^;)が、Morris.は結構この広告は当時から好きだったので、あらためていっぺんに見ることが出来て嬉しかった。永のコピーは、俳句調だったり、警句調だったり、新体詩調だったり、ギャグあり、駄洒落あり、楽屋落ちありとなんでもござれだが、やはり山下の絵柄と永のキャラクタが渾然一体となってるところに面白味があるのだろう。

浅田飴は自宅に
会社に
自動車に
行きつけの店に
もしあればのことだが
別宅にもおいておくべきだ。永六輔

ジョン万次郎の英語辞典では
アメリカ--メリケン
イギリス--エンゲレセ
ニューヨーク--ヌヨルカ
ウェストミンスター--オシメシタ
レモネード--ラムネ
サンドイッチ--サミチ
こうなると浅田飴はサダーメですね。
セコエノニ サダーメ!(咳声喉に 浅田飴) 永六輔

ひねりのちょっときいた、江戸時代の広告に通ずるCMは捨てがたいものがある。
せっかくなら、各CMの掲載年月日を併記しておいてもらいたかった。


【日韓音楽ノート】姜信子 ★★★著者の名前はイサンウン絡みで覚えていた。その後「私の越境レッスン」が出て、それ以来敬遠気味だった。岩波新書で98年に出た本書もついつい読まずしまいだったが、イミジャのインタビューが載ってることに気づいて借りてきた。もとは94年に西日本新聞に連載されたものを増補したものらしい。
93年のコンサートでソンチャンシクの歌に出会って80年代の民衆音楽への関心を喚起され、韓国歌謡の歴史、唱歌から演歌、そしてロック、フォーク、民衆歌謡と、自分が関わることになった日本での日韓共同コンサートのことなどを歌手や評論家のインタビュー、引用を交えて構成されたものである。
一時期、取りざたされた(たぶんに商業的演出)「韓国歌謡が日本演歌の源流である」という俗説と、その対論「韓国演歌は植民地時代に日本から移植されたもの」、いわゆるポンチャック論争に関しての、韓国評論家の話が面白かった。しかし、本書では、何故か両サイドそれぞれを支持する評論家の名前が明記されていない。故意に秘しているようで、たとえ新書版で研究書ではないと言い条、その意見を引用しながら引用者が明示されないというのはおかしいと思う。
80年代の民衆歌謡の隆盛と、90年代になってその運動が急速に萎んだ理由への考察など、見るべきところが多いのに、何となく説得力に欠けるのも、そこらへんの著者の及び腰が関係してるような気がする。
イミジャ、キムスチョル、シンジョンヒョンといった錚々たる韓国歌手とインタビューしながらあまりにも、内容が貧弱なことにもがっかりさせられた。
せっかく「ポンチャックメドレーの出現」という見出しをたててMorris.を喜ばせながら、内容はKBSのドキュメンタリ番組からの表層的なコメントの引用にとどまったり、「韓国を一面の廃虚に変えた朝鮮戦争が終ったのは1953年7月」という誤った記述といい、本書へのMorris.の偏見は助長されるばかりである。
テーマといい、着眼点といい、ずっと内容のある作になるはずが、こんなになってしまったことへの不満がわだかまっているのかもしれない。


【ディール・メイカー】服部真澄 ★★★☆ 突然Morris.がはまった極私的新人女流作家服部真澄の第三作である(^_^;)
今回はディズニープロをモデルにしたメガメディア企業を、マイクロソフトをモデルにしたハイテク企業が買収するというのを大枠に、著作権問題を絡めた企業間謀略小説ということになるんだろう。前二作に比べるとちょっとスケールが小さくなった観はあるが、ディテールの確かさとストーリー作りの巧みさ、読者をそらさないテンポの良さは相変わらずで、しっかり楽しませる作品を提供している。たいしたもんである。
その取材力というか、専門知識の該博さ(見かけだとしても)には舌をまくしかない。
今回のテーマの一つでもある、人工受精による子孫の存続願望に関してはMorris.は生理的に納得できないが、人間の肉体が、遺伝子やDNAの乗り物であるといううがった考えに近いものかもしれない。
また、主要登場人物が、スタントマンなどと組んでの、どたばた映画みたいな小細工は、彼女の作品のスケールの大きさにはそぐわない、というか浮いてしまっている。こういった小細工は前作にも見られたから、彼女の趣味なのかもしれないが、作品の重みを瞬時に壊してしまうので、自重してもらいたい。それにしてもデビューから連続3作が、水準を軽くクリアしてるというのはすんばらしいことである。こうなると4作目も期待大だね(^。^)


【弟】石原慎太郎 ★★☆あの石原慎太郎の弟といえば裕次郎に決まってるわけで、何で今ごろこんなのを読もうとしたのかよくわからないが、映画、芸能コーナーの棚に置いてあったのをつい手に取ってしまった。著者はそういった芸能本のつもりで書いたのではないだろうと思う。
Morris.は著者の本はほとんど読んでない。今や東京都知事として認知されることが多いだろうし、著書も小説より、政治論や時事評論みたいなものが目立ってるようだが、まず読む気にはならない。
それにしても、本書の文章は小説家のものしたものとはとても思えない。読者層のことを考えてわざわざこういった文体にしたのだろうか?まさかなあ。
子供時代からさまざまのエピソードには、確かに兄弟ならではのことがらも多く、戦後の石原家の状況、父の死後の弟の放蕩、破滅寸前のところで自分の小説のおかげで一家が助かり弟も俳優への道が開けるという、なかなかに劇的な再出発の場面などは衆知のことながら、ついつい読まされてしまった。
世間ではスーパースターだった弟の、弱さ、わがままさ、映画や歌の限界も兄からという立場で歯に衣を着せぬ辛辣な意見を述べるのは、勝手といえば勝手だが、全体を通じて弟に対する優越性や自己の正当化が目立ちすぎるのではないだろうか。

私の作品の最初の映画化の原作料のつり上げは彼がやってくれたし、彼を強引に日活の俳優にさせてしまったのは私ということだ。
その後の独立プロのそそのかしは、まあロープ際での作戦の耳打ちくらいのところだkが、その後一本とるかこのままTKOでリングの外に放り出されるかの『黒部の太陽』の際には、私がタッチされて出て行き、少しの反則も含めて相手を痛めつけその後弟がフォールで完勝した。
ということでいくと、弟のプロダクションの二本目の大勝利にも実は私が絡んでいた。
アフリカでのサファリ・ラリーを主題にした『栄光への5000キロ』が、あの時弟に頼まれて私が動かなかったら実現しなかったということを弟だけは知っていた。
他に知っていた者もいただろうが、彼等は自分の沽券のためにそれを口にしたくはなかったろうし、私にすれば弟にいわれてやったことの成功を弟だけが黙って知っていればそれで十分だった。


それだったら、書くなよ。とつっこみたくなる(^_^;)
特にファンだったわけでもないのだが、やはりMorris.の世代だと、裕次郎は銀幕のイカすヒーローであって欲しい。そういったファンや、裕次郎当人からするとあまり嬉しい本ではなかったんではなかろうか。

嵐呼ぶ男ありけり若き日の胆汁苦し秋野分待つ 歌集『秋曲』


【金門島流離譚】船戸与一 ★★☆表題作(330p)と「端芳霧雨情話」(150p)の2篇が収められた書き下ろしで、2004年3月発行だから著者の最新作といえるだろう。台湾と中国を舞台にした、作品だが、読後感はいまいちだった。中国海岸線に接近した位置にある金門島が一種の緩衝地帯となっていて、それを利用した闇流通ルートが存在し、そこに元商社マンの日本人が住みついて、彼を巡る事件を扱っている表題作でも、台北近辺の端芳での日本人と台湾人女性恋人が強姦事件に巻き込まれるもうひとつの作品でも、いかにも後味の悪さを感じてしまった。
「砂のクロニクル」「蝦夷地別件」というメモリアルな作品と比べるのは著者には酷に過ぎるとしても、本書のなげやりぶりには、落胆せざるを得ない。
世界的な視野の広さと、取材力、ストーリーテリングの彼の才能に心奪われてきた、Morris.としては、こういった作品は出して欲しくなかったというのが正直な感想である。イラク戦争後の混乱やチェチェンの不穏な動きなど、いかにもリアルタイムな世界情勢が盛り込まれているのだが、それは作品とは全く無関係である。
何といっても主人公に魅力が欠けていることが敗因の第一だと思う。別にスーパーヒーローを望んでいるわけではない。ただ、表題作の主人公の行動の一つ一つに、これまでの船戸作品らしさが感じられないどころか、情けなくなるくらいの優柔不断さを見て、歯痒くなってしまった。たのむから、以前の覇気を取り戻してもらいたい。


【剣ヶ崎・白い罌粟】立原正秋 ★★☆☆☆表題作他3篇の5篇の短編を収めた新潮文庫である。かせたにさんの韓国語の著書の中にこの作者のことが出てきたのをきっかけに読むことにした。立原正秋という作家に韓国人の血が混じっていることは何かのおりに知ったが、生前はそのことを公にしていなかったと思う。彼に限ったことではないが、今でこそ在日韓国人作家は実名で作品を発表して一種のブームでもあるようだが、10年前くらいまでは、よほど民族意識の高い作家以外は、日本名で書くことが普通だったと思う。
そういうこととは別に、著者の作品をこれまでに何度か読もうとしながら、ついつい避けてきたMorris.である。何冊かは読んだはずなのだが、印象に残っていない。
本書掲載の作品は60年代の後半に書かれたものである。直木賞受賞作品「白い罌粟」はわけのわからないままにニヒルな男の借金踏倒しの片棒をかついで破滅していく男の話でMorris.は、やりきれない上にはっきりいって嫌いな作品だった。日本と朝鮮の混血家族の葛藤を主題にした「剣ヶ崎」は、戦争中の悲劇の一種で、そこに混血問題を絡ませたことが結局は主題をぼかしてしまったように思われた。
最後におかれた「流鏑馬」が一番作品として読まされるものだった。愛人に子を産ませた夫の弟への愛が定まったところで愛人を無くした夫が戻って来ることになり、自殺する女性というあまりといえばあんまりなストーリーだが、立原の美学とドラマツルギーを端的に表している作品ではないかと思った。確かに細やかな情感の描写や感情の象徴化など、スタイルを持った作家なのだろう。とはいえ、やはりMorris.はこの作家とは相性は良くないようだ。


【ウェブログ・ハンドブック】レベッカ・ブラッド yomoyomo訳 ★★☆☆「ブログの作成と運用に関する実践的なアドバイス」と副題にあるが、これは不当表示ではないかとMorris.には感じられた。
ブログ(weblog)に関しては、稲田さんからの勧めもあって気にかかってたところに、本書を三宮図書館で見つけたので借りてきたのだが、どうもMorris.が知りたいことを教えてくれる本ではなかったようだ。
そもそもウェブログ自体がかなり最近の産物で、共通概念が曖昧なままである上に、日米でのとらえ方にはかなりの差異も生じているようだ。
内容以前に本書のレイアウトや装丁についての不満を述べておきたい。翻訳であり、マニュアル的な作でもあるとはいえ、やっぱり日本語本の横組みは読み難いということがひとつ。それはおくとしても目次、前書き、訳者あとがき、索引などを収めた30ページのバックが黄色とピンクの蛍光色の小紋柄になっていて、文章の読み辛さといったらなかった。喧嘩売っとんか、コラ!!と言いたくなる。
本文は7章に分かたれていて、前半には自分のウェブログ体験とそれに追随するさまざまの事例、後半ではオーディエンスの対処法、オンラインでのエチケット、将来の展望などとなっている。
しかし、結局Morris.の知りたかった意味でのウェブログのことはほとんど書かれてないに等しい。途中からこれはウェブログのことではなく、いわゆるウェブサイト=HPのことだとかってに解釈して読み進めることにした。しかしMorris.とはまるで違う立場であると思うことが多かった。

自分のウェブログ上では、私は尊重すべきものに報い、下劣なものを無視し、正しいことのために辛抱強く戦い、そして自分の思っていることを言えない人たちの代弁をする全権を握っている。それが私のウェブログなのであり、その中で王様であるのも良いものだよ。

「けっ!!」である。Morris.も掲示板などでの迷惑発言や宣伝めいた発言は完全に無視することにしているが、著者とはかなり違ったスタンスである。こんなのだけがウェブログだとしたらMorris.とははじめから無縁なものだろう。
ただおしまいの、ネット上でのプライバシーの保護に関する部分には、謹んで拝聴する意見があった。
Morris.部屋の、特にこの日記ページでは、Morris.はけっこう自分のプライバシーを公開している。のみならず、友人、知人などの名前や、写真を掲載してきた。このことについてはちょっと前からいささか気にはなっていたのだが、本書を読んで、いよいよ真剣に考え直すべきではないかと思ったのだった。それなりに自分のスタイルを作り上げつつあるなんて思っていたが、今一度そちらの方面から再検討してみることにしよう。


【龍の契り】服部真澄 ★★★☆☆95年発行だからすでに9年前の作品である。いやあ、もっと早くに読むんだったなあ。本書は彼女のデビュー作で、97年の香港返還を主題にしたものだから、発表当時に読んだら一層興味深かったろうことはまちがいない。今読んでも充分楽しめたのだから、それはそれでかまわないのだが、いかにMorris.がエンターテインメント小説に疎いかということを思い知らされた気になった。
イギリスがなぜあんなに簡単に香港返還を承認したかという疑問から、日本の外交官、アメリカの女優、女性ジャーナリスト、各国の諜報員、、香港のハイテク企業家などなどが、重大な国家間契約書を巡って虚々実々の駆け引きや謀略戦、それらの裏で暗躍する世界的財閥の存在など、スケールの大きさに加えて、それに拮抗するストーリー構成と細部描写の確かさはとても新人の作品とは思えない。舞台を次々に移して、登場人物もその都度切り替えたりする映画やTVドラマ的スタイルだが、テンポの良さで読者をそらさない手腕もたいしたものである。
はじめの方にある皇太子と女性外交官の結婚を匂わせるエピソードは読者サービスのつもりとしてもちょっとくさ過ぎるし、日本の過去への礼賛の単純さとや、西洋に対抗するために日中の共同経済協力を促すあたりに、今ふうの大東亜共栄圏を感じるのはMorris.のひが目だろうか。

日本は、誇るに足らない国への道のりを歩んでいるのではないか−−−? 西洋化しようとして捨ててきた、いや、いまも捨てつつあるものの大きさに、気づいていないのではないか?
あらゆる国の情報が集まるなかで、彼は東洋文化の持つスケールやソフトの磁力に惹かれたし、そのなかの日本という国にも、誇りを持つことを禁じ得なかった。繊細で、柔軟で美(うま)し国。
にもかかわらず、少なくとも自分の世代が受けてきたごく一般的な教育という枠のなかで、日本という国の素晴らしさが、結局は少しも語られてこなかったことに、彼は気づき、あきれた。いつの間にか、西洋を至上としてきたその原因の多くは、高度成長期にあるのではないだろうかという思いが、心の底に引っ掛かりはじめた。終戦を契機に、西洋文化が押し寄せて来たあの時代、日本は目覚め方を誤っていたのかもしれなかった。日本の生まれ持つ、たくさんの美点と誇りを持ち長らえながら、合理主義のよい点だけを選ぶこともできたはずだった。
それに気づかず、貴重な日本らしさを今も捨て続けていこうとする国に、彼の歯痒さは募っていった。

ともかくも、ひさしぶりに楽しめる作家に巡り合ったというのが本音である。きっかけとなった近作「佛佛堂先生」は、どうやら彼女の本領から言うと余技だったみたいだが、それだけに彼女の懐の深さとネタの豊富さを感じさせる。


【鷲の驕り】服部真澄 ★★★☆☆タイムラグを恐れずに言えばMorris.期待の新人の第二作目である(^_^;)処女作があまりに良く出来ていたので、2作目への不安もあったのだが、杞憂だった。しっかり面白かった。本作は日米間の特許を主題にした経済諜報ものということになるのだろうが、特許法の矛盾(特に米国の)に鋭く迫り、さらに特許そのものへの考察にまで至る小説以外の部分も興味深いものがあった。
現代の特許問題ということになると当然コンピュータ、インターネットは必須の小道具となるが、その方面でも著者の目配りというか知識はたいしたもので、伝説的ハッカーを登場人物に仕立て、日本人コンピュータセキュリタとの応酬部分などは、本書がハイテク小説かと錯覚させるくらいだった。
謎に包まれた米人発明家とその美人弁護士、副大統領、国防長官、CIA諜報員、家電メーカートップといった米国側のに対して、日本は通産省の女性情報調査官、自動車メーカーのオタク社員、電器メーカーのミーハー女子社員といった、いささか格落ちっぽいメンバーだが、これにイタリアの犯罪的企業家、ザイールの財閥の息子などがからんで、またまたスケールの大きな物語が繰り広げられる。そして本書の眼目でもある画期的発明にも関連するダイアモンドシンジケートの謀略。とにかく、次から次に展開される大ネタ小ネタの大盤振舞、テンポの良さは相変わらずで、これが新人の第二作目とかと感心しきりである。
著者の該博なことと、その知識の開陳手際の良さは本当に舌をまかずにいられないし、デビューから1年足らずでこれだけの作品を仕上げるというのは、彼女の実力のほどを証明してるというべきだろう。
一応の終結を迎えた後でのどんでん返しめいたオチは、あまりに身びいきすぎて気になるところでもあったが、とにかく、読書=時間潰しという意味では申し分ない出来である。
小説とは関係ないところだが、Morris.がこだわり続けている言葉の使い方で、デビュー作には「拱く」にルビで「こまねく」とあって、ちょっと目をひそめたが、本書ではひらがなで「こまねいて」が5回以上出てきた。これは「こまぬく」を使って欲しいものである。今や大辞林にも「こまねく」が見出しに立てられて「こまぬくの転」とあるから、すでに公認されている形だが、Morris.はこの言葉に関してだけは、大辞林からも撤回を望みたいと思う。「こまぬく」は中国の礼である「拱」の字の訓で、腕組みの形をすることで「組み抜く」の転であることは明らかだろう。「ぬく」という動詞を「ねく」という非在の動詞に作り替える必要は絶対に無いと思う。慣用訓みや、揺れには寛容であるべきという考えに頑なに反対するわけではないが、この語に関してだけは、Morris.はどうしても腕をこまぬいていることができないのだ。


【関西フォーク70'sあたり】中村よお ★★★著者の「極私的関西フォーク史」、この前偶然読んだ「バー '70sで乾杯」の9年後の続編ということになるのだろう。前作が店や場を主題にしていたのに対して、本書はミュージシャンの活動とアルバムに焦点を合わせている。もちろん重なるエピソードも多いが、なかなかにマニアックな音楽へののめり込みと、自分の活動と密着した生身のミュージシャンとの交流ぶりは他の追随を許さないところがある。
小さくて白黒ながら、当時のアルバムジャケットやチラシのカット満載というのも楽しめるし、Morris.にとっても懐かしいミュージシャンや、生演奏を見たことのあるミュージシャンもそこそこ出てくるし、これまで知らなかったミュージシャン同士のエピソードや、バンドの変遷、バックアップ、オフステージの裏話など興味深い話題も数多く詰め込まれている。
Morris.は70年代の初めに関西に出てきたから、時期と場所的にはリアルタイムで本書の音楽シーンを共有できたはずだが、当時のフォークソングとはやや縁遠かったこともあって、良く知ってるミュージシャン、名前だけは知ってるミュージシャン、全く知らないミュージシャンが1/3ずつといったところだろうか。著者が神戸在住だけに、Morris.が神戸に来て、春待ちに親しんでから馴染みになった名前の方が多いかもしれない。
著者がファーストアルバム(1988)をアナログで出した途端に、世はCDにシフトしたという、笑うに笑えない話が妙に実感できるのも、他に似た例を知ってるからだろう。
著者はMorris.と同世代だと理由も無く思い込んでいたが、年譜を見ると4歳年下だった。たかが4年という見方もあるだろうが、やはり若い頃の4年の差というのは、結構大きい差でもあると改めて思わされたりもした。
75年から断続的とは言いながら「トオリヌケコンサート」を主催して、現在まで続けているということは、神戸のローカルな音楽シーンの中では大きな意味を持っていると思う。「極私的」と断っているとおり、共演したり、付き合いの深いミュージシャンへの身贔屓というか、気遣いによるヨイショと、音盤への評価ぶりも目に付くが、それは御愛敬ということにしておこう。
注文をひとつ言わせてもらうなら、これだけの数のミュージシャンや音盤が登場するからには、人名索引だけでも付けるべきではなかったかということである。昔の活字本時代ならいざしらず、今やPCのソフトクラスでも、索引付ける作業は充分出来るはずだし、それがあるなしで、このての本の価値はよほど違ってくるだろう。などと、いまさらいうのも、手後れではあるな(^_^;)。


【リクシャーマンの伝言】岡山陽一 漫画 中能健児 ★★★ 蔵前仁一の「旅行人」社から出ている、インド滞在記である。30代の二人によるエッセイ+漫画で、Morris.はインド行きはすでにして断念しているのであるが、たまには恐いもの見たさで、こういった本は時々覗いてみたくなる。
70年代にインドブームみたいなのがあって、Morris.もその頃はインドへの憧れみたいなものをもっていた。結局実行力がともなわず、憧れもいつのまにかしぼんでしまった。その間に韓国にはまってしまったこともあって、縁遠いままだが、それでもインドという国へのある種の特別視は残っているようだ。
本書のエッセイと漫画は、それぞれ独立してる。というか、それぞれがコラムの集まりみたいなもので、かなりおおざっぱな内容でありながら、当地の雰囲気をよく掴んでいる。インドで出会ったぶっ飛んでいる日本人や、インド人のエピソードも笑わされるものが多い。
岡山のエッセイは戯文調で、特に上手いわけではないのだが、勢いがあってよろしい。中能の漫画は、幾何学的にデフォルメされた登場人物の飄々としたたたずまいに心惹かれた。
リクシャーは日本の人力車からきた言葉で、インドや東南アジアではまだ現役の簡易交通機関の自転車タクシーである。本書を読んでも、インドへ行く気持は全く起こらなかった(^_^;)


【清談 佛々堂先生】服部真澄 ★★★ 通人でおせっかいな関西弁の親父、通称佛々堂先生の道楽めいた「清談」を集めた4篇の連作中編である。Morris.はこの著者は初めてで、男性か女性かさえ知らなかったが、どうやら女流作家らしい。骨董、美術品の蘊蓄やら、筋の運びやら、引っかけ方やら、遊び心やら、なかなかに抽斗が多く、読ませる作家であると感心した。

「巻紙の絵手紙?まさか……」岡倉の表情に、真剣みが増した。「何という方ですか」
上村が先生の姓を口にすると、岡倉は唸った。
「そりゃ、佛々堂先生だ」
「--ぶつぶつ堂? 何ですか、それは」
「着付師だなんて、とんでもない。佛々堂先生は、関西きっての数奇者ですよ。諸芸全般に通じ、美術品の蒐集家でもある御大で、仏のような人だから佛という字をあてたという噂もあれば、何にでも一家言あって、ブツブツ文句をいうから、そんな異名がついたのだともいわれている……」


二つの家に伝わる、秋草蒔絵印篭二つを、年に一度の七夕に宴をもうけて揃うせるという趣向などやたら手が込んでて、作りすぎではないかと思うほどだし、絵師とその女の両方にちょっかい出しながら、実は、女の技量に目を付けていたり、松茸山の詐欺まがいの売買のやりかたを逆手にとって、八方丸く納めさせる結果を出したりと、この主人公のやることは「清談」とはかなりかけ離れたところにあるようで、「粋談」あるいは「漫談」の方がふさわしいかもしれない(^。^) 面白ければそれでいい、というのがMorris.の信条ではあるのだが、なんかこの作品の面白さは、いまひとつ痒いところに手が届かないようなもどかしさを感じさせるところがあるようだ。ともかく他の作品も読んでみることにしよう。


【深淵 上下】大西巨人 ★★★☆☆☆ 大作「神聖喜劇」からずっと注目している作家のひさびさの新作長編である。灘図書館の新館の棚に下巻だけがずっと置かれたままになっていて、なかなか上巻が返却されないので痺れを切らして初めて予約してやっと読むことができた。
記憶喪失になって九州の地方都市で12年間を過ごし、北海道で覚醒して東京に戻り、冤罪事件に関わる主人公を中心に、著者ならではの、超観念的小説世界が繰り広げられる。
やたら和歌や短歌が引用されたり、内外の哲学書、文学書からの抜書きも頻出して、著者の博覧強記ぶりと蘊蓄にうんざりさせられる読者もいるだろうが、Morris.はこういうのも嫌いでないので、それはそれとしてしっかり楽しむ事ができた。

齋藤史の歌集『風翩翻』から、引かれた次の一首

野生すでに消えし犬・猫にリボン結び<可愛い>などと言う甘ったれ 齋藤史

をまくらに、主人公と妻の愛玩動物嫌悪癖の場面は、ちょっと意表を衝かれたが、これもまた著者の好悪なのだろう。

登場する主要人物の多くが精神貴族といった感じで、どうもMorris.やその周辺の連中とは別世界の人種のようで、彼らのシュールな思考方式や観念に、畏れ入るしかないのだが、それらが浮いてないのは、著者が本物のそういった世界の一員だからだろう。
ストーリーの展開には無理や御都合主義が山ほど見られるが、それらも作者にとっての当為としてなされることだからまったくかまわないわけだ。彼にとって小説はすべからく実験小説であり、実験のない小説なんか読むにも書くにも価しないのではないだろうか。
著者本人をモデルにしたような人物も複数登場する。先の精神貴族的登場人物たちすべてが著者の投影といえないこともない。就中小説の有りうべき姿勢を論じる主人公の師にあたる老作家兼思想家が、新聞に寄稿したマルケスの「予告された殺人の記録」に関連するエッセイなどは、著者の意見そのままにちがいない。

「純文学にして通俗小説」とか「芸術大衆化」とか「純文学変質」とか、要するに、なかなか有意義にして甚だ興味深い---"意義は、そこそこにあるものの、興味は、すこぶるとぼしい"でもなく・"興味は、かなりあるが、意義は、ほとんどない"でもない---作物(すなわち語の真義における「上等作物」)の生産が、従来しばしば目標として掲げられ、追求せられた(スタンダール作『赤と黒』はその「上等作物」の至って希有な先例)。
しかし、その具体化・実現は、至難事であって、そういう動向は、たいていとんでもない方角---内実は、依然たる下等作物の生産---へ逸脱した(そんな目標追求に藉口して初手から下等作物の量産横行を企てるなどは、むろん論外の沙汰である)。
ガルシア・マルケスの諸作物(短編小説集『落ち葉』、長編小説『百年の孤独』ないし短編小説集『奇妙な遍歴』、中編小説『愛その他の悪霊について』)はその至難事具体化・実現の長い積極的な追求ならびに相当な達成であり、その中での最高の達成が、『予告された殺人の記録』である。


他の部分でも小説の評価に関する言説は出てくるが、つまり著者もそういった作品を望んで創作に努めたのだろうし、本書ももちろん、それに準じて書かれたものであるにちがいない。「赤と黒」を、理想に近い作品と捉えるというのは解りやすいが、本書の上巻が黒地、下巻が赤地の表紙になっているのも、スタンダールの佳作にあやかっての事かもしれない。ただ、Morris.としては、これは上下の色を逆にして欲しかった。「赤と黒」というタイトルに誘導されてのことかもしれないが、どうも、赤→黒という順序が好ましい気がするのだ。本書の配色には何となく落ち着かなさを感じっぱなしだった。
また本書は7篇45章に分かたれているが、各章の題目が篇ごとに統一されていたりする。例えば第一篇「序曲」では「発端」「覚醒」「事態」「夜思」「歳月」「追想」「帰心」「再会」と二文字の漢字熟語、第二篇「生々流転」は漢字四文字熟語、第三篇「世路の起伏」は二字熟語+「の」+二字熟語、第四篇「転変兆」は三文字熟語といった具合で、いわゆる形式美と遊びを兼ねているみたいなのだが、徹底してなかったりするところが、いかにもそれらしくて、笑ってしまった。
失礼を承知で言うと、本書は小説としては先の「上等作物」には達していないと思う。しかし、それなりに見るべき所はあるし、小説を読む喜びをMorris.には充分与えてくれた。たしかに、そういった読後感を与える作物は最近めったにない。ということで、Morris.は著者の意見に概ね賛同するのだが、出来上がった作品については、いろいろ、御託をならべたてたくなってしまう。
性格や感情描写の細やかさや、人事の些末なやりとり、体温を感じさせる部分など、本書から(故意に?)抜け落ちている要素も小説の楽しみのひとつであるはずだ。
しかし、Morris.が敬愛する作家であることに間違いはないし、学生時代に熱中していた倉橋由美子の作品世界への思いに、相似したものを感じたのは、二人が、共通して、F・カフカの「城」に執着しているためかもしれない。主人公「K」への執着、期せずして二人とも筆名のイニシアルにKがある。Morris.もカフカは学生時代に何冊かを読んではいるものの、のめり込むことはなかった。ただ、「K」への不思議な思いは持ち続けている。Morris.も本名にはそのイニシアルを持っている(^_^;)のだから、まんざら無縁でもない。あらためてカフカを再読しようかという気にもなったりしている。

友人によって引用された主人公の台詞。

「K・マルクスの『すべての社会生活は、本質上実践的である。理論を神秘主義へいざなうすべての神秘は、その合理的な解明を、人間の実践のうちに・またその把握のうちに見出す。』と、G・オーウェルの『来世の不存在を承認しつつ、なおいかにして宗教的な精神態度を復興するかが、切実・至上の問題である。』と、G・ジンメルの『私の生涯を通じて、<私>とは、空虚な場所・何も描かれていぬ輪郭であるに過ぎない。しかし、それゆえに、この<空虚な場所>を充填するべき義務および課題が、私に与えられている。それが、私の<生>である。』---これら三つの言葉が、僕の人生観、社会観、世界観、ないし現実認識を集約している。」

主人公の数度の記憶喪失という異常な体験を通して「生と存在との根源的問題解明の具体的可能性」は実存するのかもしれないという夢こそ、著者が本書で伝えたかったことではないだろうか。

大西巨人は1919年生まれだから、本書は80歳をまたいでの作ということになる。前作でボケるくらいなら死を選ぶといったことをテーマのひとつに取り上げていたが、本書を読む限りでは、その心配はなさそうである。
是非長生きをして、更に新しい実験を試みて、Morris.を楽しませてもらいたいものである。


言葉が通じてこそ、友だちになれる 韓国語を学んで】茨木のり子 金裕鴻 ★★★茨木のり子さんは好きな詩人だし、「ハングルへの旅」は、韓国語学びはじめた頃に読んで深い感銘を受けた。金裕鴻さんはNHKのハングル講座の講師でもあり、韓国語入門書にも親しんでいた。
その二人の対談ということで楽しく読ませてもらった。数年前から体調を悪くしている茨木のり子さんだけに健康の様子をうかがいながらの対談で、おたがい気を遣ってることも感じられたが、内容的には、韓国語を通じて彼国への理解を深めるという当然にして、しばしば忘れられがちなことをきっちり再確認させられるものだった。
おしまいに、金先生の教え子の中の優等生??の紹介文が付録になっているのも、ふたりの対談だけではページ数が足りなくなった結果かもしれないが、これも韓国語では劣等生に終ったMorris.には、羨ましく、いささかの反省を促されながら読ませてもらった。

主題とはほとんど無関係だが、金先生の日本の押し入れへの言及が印象に残った。

日本では部屋の掃除をしていない所に人が来ると、気になってしょうがない。だらしないところを、人に見られることをものすごく嫌いますからね。だから部屋に押し入れというものがあって重宝がられていると思います。

モリス亭の押し入れのなかがすごいことになってることに思い当たったからだろう(^_^;)


【すべての時間を花束にして】まどみちお 聞き書き=柏原怜子 ★★詩人まどみちおの語りおろしで「まどさんが語るまどさん」と副題がある。
Morris.は彼のファンで特に、短詩やことばあそび歌のいくつかは、たからものみたいに思っている。全詩集も2回読んだ。それなのに、本書の読後感はあまりかんばしいものではない。すでに90歳を越えたまどさんだけに、ちょっとボケもきてるようだし、それ以上にどうもインタビュアーに問題があるようだ。まどさんの伝記というか、紹介作としては、阪田寛夫の「まどさん」があり、本書はその捕捉という意味もあったのだろうが、結果としてまどさんにとっては余計な作物となったのではないかと危惧する。89歳で「ゾウの耳かき」という素晴らしい詩集を上梓されてるまどさんだから、こんな不徹底なインタビューなどにかかわらず、のんびり、ゆっくりでもいいから、素敵な作品をこそお願いしたいものである。
本書にはまどさんの絵画作品もいくつか併載されているが、これもMorris.には、あまり見たいものではなかった。

つぼ・II まど みちお

つぼは
ひじょうに しずかに
たっているので
すわっているように
見える


【渋松対談 Z】松村雄策+渋谷陽一 ★★☆☆☆「ロッキング・オン」に30年にわたって連載されている対談の抜粋だが、あまりロックとは関係ない話題が多く、ようするに与太話の寄せ集めだが、とりあえず時間潰しにはなるだけのおもしろさはあるわけで、付録?の西原理恵子の4コマまんがとあいまって結構楽しませてもらった。二人ともロッキング・オン創刊時からのメンバーというより、同人みたいな存在だし、渋谷は現在社長で編集長で、若手社員も多数抱えたお山の大将である。そんな二人が誌上で治外法権状態でいいたいほうだいやってるのだから、雑誌のなかでは浮いてる感じで、今の読者からすると、年寄りのたわごとにしか見えないだろうし、そこが、逆に不思議な面白さと受けとめられているのかもしれない。
しかし、30年間ロックに関わり、ほぼ同じスタンスの言動を続けているというのは壮観でもある。
はしばしの無責任な発言の中に、いくばくかの共感を覚えたりするのも、同世代であるMorris.の年の功??かもしれない。

松村 別に俺達だって、昔からジジイだったわけじゃねえぞ。20代の頃から渋松だったぞ。
渋谷 渋松だったぞって、俺達は合体したキャラじゃないんだから、そういう不気味な言い方は止めろ。だから『ロック大経典』で渋松やりながら思ったけど、これってすごっく70年代的なもんだよな。
松村 どう70年代的なんだ。
渋谷 ロックという言葉がちゃんと信じられていて、その信仰に基づいてキャラクター・ビジネスが展開されてるじゃにあか。俺達のキャラそのものの構成要素としてロックがあるんだよ。これって70年代的だと思うな。俺は簡単に”それってロック的じゃない”とか言っちゃうけど、今の若い奴はそういう表現は恥ずかしくてできないと思うな。
松村 じゃあ、俺達は恥ずかしい事を恥ずかしいと思わない。限りなく恥ずかしい存在として商売してるわけか。
渋谷 まさに、そのとおり。
松村 まさに、そのとおり、じゃえねえだろう。
渋谷 いあyh、だけど、それができないところが90年代ロックの限界だったわけよ。結局はそうした恥ずかしさと断定が70年代的エモーションの源泉だったわけで、90年代のロックが原初的エモーションの根拠を失ってサンプリングに走ったのは、やっぱり彼らには渋松をやるだけの根性がなかったからなんだな。
松村 言ってる事が、全く理解できないんだけど。
渋谷 だから、この渋松の持っているミもフタもない馬鹿馬鹿しさというのは、凄く今のロッキング・オンで必要とされているもんなんだよ。


まあ、ざっとこんな調子なわけだ(^。^)


【猫のつもりが虎】丸谷才一 ★★★ 「JAPAN AVENUE」という贅沢雑誌に連載されていたエッセイというよりコラム集みたいなもので、和田誠のカラー挿絵が多数併載されてるところも贅沢である。150pに17篇というこじんまりしたたたずまいで、中身は志ん生ではないが「なくてもなくても良い話」ばかりで、もとよりMorris.もこういう与太話はきらいでないし、後はその料り方の手際の良さを味わうに如くはない。
ガルボは脚が太いのが悩みの種で中期以後になると膝から下は撮らせなくなったという話は普通だが、「そしてあのころ世界中の男の、女の脚が見たいという欲望はディートリッヒの映画で充たされてゐたから、ガルボが見せてくれなくたつて、暴動は起らなかつたのだらう」というくだりの洒落た言いまわしを楽しめばいいわけだ。
ちょっと驚いたのはエリック・ギルをテーマにした「男のスカート」というコラムで、Morris.は彼のことを、河野三男の「評伝 活字とエリック・ギル」で初めて知り、いたく感動したことがあったが、彼の「衣装論」(1931)の翻訳が、戦後まもない日本で評判を呼び、花森安治がそれを信奉してスカートをはいたなんて話題が前振りにあったことだ。
ギルの奔放な性生活のことは先の評伝でも触れてあったが、丸谷の紹介だとこうなる。

彼は妻帯者だつたが、たびたび姦通をおこなつた。短期間のものも、長くつづくものもあつた。場所は主として自分の家。領主権主義どいふのださうだが、女中に手をつけるのが好きだつたし、それ以外にも、知り合ひの男の妻や恋人を見るとたちまち気持を動かすたちだつた。近親相姦もした。相手は二人の妹および三人の娘。獣姦も試みた。相手は犬。妻はそのへんのことをかなり知つてゐたが、晩年になつても、ギルの妻であることを光栄に思ふと手紙に書いてゐる。


【誰でも簡単 デジタルカメラ プロの使い方】ロブ・シェパード ★★★☆☆アメリカの編集者でもある著者によるデジカメ入門書だが、日本人による類書と比べると彼我のデジカメ環境の違いを感じて面白かった。
最近デジカメを使うようになったプロの写真家の作品やコラムもわかりやすいし、写真の本質は光学カメラでもデジカメでも変わらないという姿勢には共感を覚えた。
画像加工や修正の基本ではヒストグラムの使用を推奨しているが、いかんせんMorris.が使ってる画像ソフトは、お子ちゃま用ばかりらしく、ヒストグラム使えるものがない(^_^;)
その他レイヤー利用でフィルタ効果を効果的に使う方法なども適切な指示がなされている。たとえば人物写真などのぼかしフィルタをきつめに施したあと、レイヤーでフィルタの不透明度を徐々に上げていって古いレンズカメラのボケ効果に近づける方法などは、なるほどと思った。
デジタル画像の加工の基本ステップと題された以下の行程は、Morris.の参考になりそうである。(順番が大事!!)

1.画像全体の露出(明るさとコントラスト)を補正する
2.画像全体の色調を補正する
3.画像の一部分を特定し、その部分の明るさとコントラストを補正する
4.画像の一部分を特定し、其の部分の色調を補正する
5フィニッシュをほどこす(画像をシャープに仕上げ、プリントの用意をする)


あたりまえのことじゃん、と思う人はそれでいいのだが、Morris.はこれまでこの順番に従わないで作業することが多かった。
本書の翻訳は表紙には記載されず、奥付けにあるが、直訳というか、あまりに生硬な日本語でとっつきはげんなりしたが、だんだんこれはこれで異国のマニュアルを読んでるという気分になることがわかった(^_^;)


【バー70'sで乾杯 失われた夢スポットの記録】中村よお ★★★京阪神の70年代を盛りとして出現しそして消えていった50軒ほどのライブスポットを中心に、映画館、劇場、音楽番組までを取り上げている。
筆者は同じ灘区の住人で、特に親しくはないが顔見知りといった間柄である。
発行がちょうど神戸地震の前年だけに、春待ち疲れBANDをはじめ、地震で消え去った店はもちろん、それ以後に消えた店は当然のことながら取り上げられていない。
九州出身のMorris.が関西にやってきたのが1973年、大阪で3,4年、奈良で2年足らず過ごした後、神戸にやってきたのが1978年。本書にとりあげられている店の中にも馴染みの店が数軒あるし、行ったことのある店だけならそこそこの数になる。
印象深い店をランダムに挙げると、アロー、カウボーイ、れていしあ、朝日会館(以上神戸)、むい、名前のない喫茶店、地球屋(以上京都)あたりで、何故か大阪の店は一軒も無い。当時(今でもそうだが)Morris.はあまりフォークには関心が無く、筆者はどっぷりフォーク漬けという感じだから、行きつけの店が違っていたためでもあるだろう。
在りし日のVOX飛行機屋 PHOTO T.MITSUYAまあ、神戸に来てからはほとんど春待ち疲れBANDに入り浸り状態だったから、他の店に行く必要が無かったとも言える。
筆者自身もフォークソングを歌い、通り抜けコンサートという企画を続けていることもあって、本書でもライブ演ったことや知り合いのミュージシャンとの交流に重きをおいている。たしかに精力的にライブを企画してるし、よく店も回っていることには感心するが、彼の演奏にはあまり接したことの無いMorris.には、いまいち感情移入できなかった。
それより懐かしいラジオ番組に関する記事を読んで、改めてあの時代を思い出してしまった。「ビートオンプラザ」なんか、確かに最新アルバムを全曲流すという、ちょっと今では考えられない企画で、Morris.も熱心にエアチェックしていたものだ。
裏表紙のVOX飛行機屋の白黒写真がいかにも当時の雰囲気を伝えている。キャプションを見たら、写真 三矢龍彦とある。ほお、なるほど、そうだったのか、三矢さんは勤め先のtopで、以前写真やってたことは知ってるが、そういえばこの本は会社のロッカーにあったのを、勝手に拝借してきたんだった(^_^;)
後で、ちゃんと返しとくからね。>>三矢さん


【昆虫たちの「衣・食・住」学】矢島稔 ★★☆☆その昔昆虫少年だったMorris.だから、今でも虫に関する本にはときどき手を伸ばしてしまう。本書はタイトルにそれほどこだわることもない、昆虫雑学コラムみたいな本で、もちろん、スタイルはともかく面白ければそれで良いのだし、雑学大好きでもあるから本書は楽しめるはずだったのだが、どうもぴんとこない話が多かった。
蛾や蝶の鱗粉は体毛みたいなもので防水の役目をしているとか、蜂の毒針は産卵管だったとか、最古の原始昆虫はシミの類だとか、オトシブミの葉の揺りかごの作り方とか、アサギマダラの渡海とか、それなりに面白そうな記事が並んでいて、ネタとしては読んで損のなさそうな話だけに、やはり本書の文章の切れの悪さが足をひっぱっているのだろう。
吉谷昭憲のイラストも下手ではないのだがムラがありすぎるのと、ところどころ写真との併用で統一感に欠けるきらいがある。
サムライアリの女王が単身クロヤマアリの巣に入って、相手の女王をかみ殺し、じぶんがその女王になって巣づくりを始めるといった、興味深くも凄みのあるエピソードを伝えながら、結びに「事実は小説より奇なりである」なんていう、平凡で興ざめなことばをおくあたりがちょっとうざったい。
蚤の跳躍には特殊な蛋白質が絡んでいるという、思わず膝を乗り出しそうにる話題も、以下のように記述されると、読む気を失うというか、Morris.には理解不可能な世界になってしまう。

元来はねをもっていたノミの胸は偏平になることで、はねの付け根の関節が側面に移動している。後胸背板の下にある側弧と中胸背板の下にある小片、それに後脚基節を腹部前縁にひっかけて、”かけ金”をセットすると、側弧の中にあるレリジンという弾性蛋白質が圧縮された状態になる。これは貯えたエネルギーの97%を放出し、わずか3%しかエネルギーを失わない。セットした筋肉を働かせると、このレリジンが元の状態にもどり、瞬時にノミはジャンプする。したがって周囲の気温とは関係なくはねることができるのである。

わかる人にはわかるんだろうが、このての本の目的は、わからない人にもわかるように書くことにあるんでないかい?


【木霊 kodama】田口ランディ 画・篁カノン ★★☆☆さりーちゃんが一気に読んでえらく感動した「転生 reincarnation」と同じ装丁の、絵本的作品であり、内容的にも前作の続編、あるいは一挿話といった感じだ。たしかにランディ独特の語り口と、篁のモノマニアックなイラストにはそれなりの魅力があるのだが、やはり前作と比べるとかなりインパクトに欠けることは否めない。もしこちらを先に読んだとしたら、もう少し評点も高かったろう。連作の2作目を二番煎じと見てしまうのは読者の傲慢かもしれないが、それを吹き飛ばすくらいの作品を提供してこそ作家の本領ではないかとも思う。
もともと木の精だった主人公が人間として転生したというのが主たるストーリーだが、その原因が人間による環境破壊であり、植物という存在として再生した後の生の賛歌で終るという展開にはどうもついていけなかった。

私は大地に落ちた小さな一粒の種。眠りから目覚め、ゆっくりと発芽します。根を伸ばし、双葉を広げ、日の光に打たれて雨を吸い、地中のバクテリアとせめぎあいながらゆっくりとゆっくりと成長していきます。緑色の新芽は呼吸し、たくさんの酸素を大気中に吐き続けます。さあ、生き物たち、この酸素を吸って、私に二酸化炭素をください。私は太陽を集めて光合成を繰り返し、地中の水分や養分を吸収してぐんぐんと成長します。鳥たちよ、私の実を食べなさい、私の葉で憩いなさい。私は動かない。私はずっとここにいます。そしてただ、生き続けます。風よ、雨よ、雪よ。私の葉を揺らし濡らし、そして私と歌いましょう。私はたくさんの水分を蓄え、森羅万象のひとつとして水の大循環に関与するもの。私はこの世界に生きるすべての生き物たちのために呼吸をするもの。私が生きているのはただ、この世界のバランスのためです。私は生き続けることになんの疑いもありません。私はこうして存在していいのだ。
そして、永遠のギフトを受け、授け続けるもの。

命はただ、存在しているだけで、ギフトなのです。

生がギフトという揚言は、響きは良いが、内容は空虚ではないのだろうか。要するに本書がギフトブックとしての自己主張をしているのだろう、という意地悪な見方をしてしまうMorris.だった(^_^;)


【漢字と日本人】高島俊男 ★★★★「本が好き、悪口いうのがもっと好き」「お言葉ですが…」などのエッセイでお気に入りの著者だが、本書は外国人(主に英語圏の)向けに書いた日本における漢字の紹介文を中心に、漢字の字体や、戦後国語改革問題に触れた文章を加えて文春新書として出されたもの。
いやあ、実に興味深く、裨益するところ多い、久しぶりにMorris.の好きな「面白くてためになる」という条件を満たす好著だった。新書で読みやすい文章なのに、ほぼ1週間ほどかけて味読してしまったよ。
著者はもともと中国語の専門家なのだが、日本語における漢字は、あくまで借り物であり、なるべく漢字は使わない方が望ましいというスタンスをとっている、ということからしても並みの中国語学者とは一味違っていることがわかる。
そして、本論から脇道に逸れたように見える、著者の独白めいた感想にも、なるほどと共感を覚える見解が多かった。

中国にはその(日本に漢字が入ってきた時期の)二千年も前から文字があったのに日本にはなかった。これは、中国の文化はすぐれた文化であり、日本の文化は劣った文化であったからだ、と思っている人があるが、そうではありません。中国の文化は早くうまれた文化であり、日本の文化はおそくうまれた文化なのである。文化も個人とおなじで、早くうまれるものもあり、あとからうまれるものもある。早くうまれたかあとからうまれたかは、優劣とは関係がない。これは個人について考えてみればだれにもわかることですね。日本の文化は、中国の文化よりずっとおそくうまれた文化である。ゆえにその言語も未発達であり、独自の文字を持つにいたっていなかったのである。

漢字が伝来した当時の日本の状況が噛んでふくめるように開陳されている。万事この調子で話が進められるから、実にわかりやすい。
さらに、日本が中国から漢字をもらったことが「恩恵」だったということに、異議を唱えている。

日本語は、みずからのなかにまだ概括的な語や抽象的なものをさす語を持つにいたっていない段階にあった。日本語が自然に育ったならば、そうしたことばもおいおいにできてきたであろう。しかし漢字がはいってきた--それはとりもなおさず日本語よりもはるかに高い発達段階にある漢語がはいってきたということだ--ために、それらについては、直接漢語をもちいるようになった。日本語は、みずからのなかにあたらしいことばを生み出してゆく能力をうしなった。

日本語の表記より一段と本質的なところでの漢語の影響、それもマイナスとしての影響に関してはMorris.には目からウロコの意見だった。これは重要な問題提起である。

もし、漢字と同時にアルファベット文字が日本にはいってきていたら、日本人は、考慮の余地なくアルファベットを採用していただろう。
しかしその時、日本人にとって、漢字はこの世で唯一の文字だったのである。これ以外に別な文字も有り得る、とは、当時の日本人には思いもよらないことであった。すなわちそれは、「漢字」なのではなく、たった一つの「文字」であったのだ。

中国語の四声の中で日本漢字音に残っている「入声(にっしょう)」の解説は、韓国語との関連で興味深かった。

これは一語のおしまいにp、もしくはt、もしくはkの子音がつく音です。
なんべんも言うように、日本人はこういう発音ができないんですよね。だから全部あとに母音をくっつけちゃう。topは「トップ」、hitは「ヒット」、backは「バック」というふうに。いまはpとkにはuを、tにはoをつけるにほぼきまっているが、以前はkにはiをつけていうことも多かった。インキ、ケーキ、チッキ、ステッキ、ストライキのように。
日本語自体のハヒフヘホが、pa,pi,pu,pe,poからfa,fi,fu,fe,foに、さらにha,hi,fu,he,hoにと変化してきている。急kipという漢語が最初に日本にはいってきたのはpa,pi,pu,pe,poの時代であるから、kipに母音uがついてキプkipuと発音されていたが、これがやがてキフ(kifu)になった。そのうちにfが脱落してキウ(kiu)になった。これが長音化してキュー(kyu)になって現在にいたっている。
もう一つ例をあげると「蝶」tep。同様の経過で、最初はテプ(tepu)、それからテフ(tefu)、ついでテウ(teu)、そして現在のチョー(cho)いたっている。
なぜ入声と言うのか。これは「入」自体がp入声だからこの種の音の代表になっているのです。「入」は呉音でニフ、漢音でジフ。したがって呉音のほうは現在ニューとニツ。だから「入声」です。漢音のほうはあまりもちいられないがジューとジツ。「入水」をジュスイと言うのはジューがちぢまったもの。ジツは「入魂」ということばがあります。


韓国語にはパッチム(子音で終る音)があるので、日本語とちがって、ストレートにこの音が残っているということで、Morris.には理解し易かったということだ。
そして、日本で発明された音標文字、かなとカタカナに触れて、ワープロ世代に耳の痛い辛言を呈している。

漢字をよく知っている人は漢字の多い文章を書く、と思っている人があるようだが、それは逆である。漢字の多い文章を書くのは、無知な、無教養な人である。これは第一に、かなの多い文章を書くと人にバカにされるんじゃなかろうかと不安を感ずるからである。第二に、漢字をいっぱいつかった文章を書くと人が一目おいてくれるんじゃないかというあさはかな虚栄ゆえである。第三に、日本語の本体は漢字で、どんな日本語でもすべて漢字があり漢字で書くのがほんとうだと信じこんでいる無知ゆえである。ボラはどう書くのムジナはどう書くのナメクジはどう書くのと言っているのは、かならずこういう程度のひくい連中である。ワープロが普及してからいよいよこういう何でも漢字を書きたがる手合がふえてきた。

まさにMorris.のことかもしれないね(^_^;)自戒

学問がなくてよい文章の書けるはずはないし、それに、文章にとって何より大事なのは気品、格調だが、それは学問のうらづけなしにそなわるものではない。

ごもっとも、というしかない。また頼山陽の「名文」とされている文章を例に挙げての日本式「漢文」罵倒(全否定)も、Morris.には目からウロコであった。

これは何であるか。見たところは漢文である。つまり一応は外国語の文章である。ではその本国人によんでもらうつもりなのかといえば、無論そうではない。本国人によませるつもりなんかはじめからないし、その能力もない。読者として想定しているのは日本人だけである。
文章に日本のかながまじるのは格が低い、漢字ばかりだと中国の人が書いたのと同じに見えて上等だと思っているのである。文化植民地根性丸出しである。いまの日本人が、どんなにへたくそでもとにかく英語で物を言えば日本語で言うより高級だと思っているのとおなじである。文章で言えば、I every morning with friends to school go.というような"英文"を書いて、とにかく全部英語だ、日本人がよむのだからこれでいいんだ、とすましているようなものである。
無論頼山陽だけがそうだったのではない。中国崇拝は儒者、漢学者たちに普遍的なものであった。--中国崇拝と言ったが、実際の中国を崇拝していたというのではない。現実の中国に対しては、彼らは知識もなかったし、関心もなかった。彼らが崇拝していたのは「聖人とその国」であった。

西洋人はたしかに、体力も知力も強く、芸術的感性にもすぐれ、なにごとにも積極的な性質を持った優秀な人種である。しかしまた彼らは、自分たちが石の家に住んでいるから泥の家や木の家より石の家のほうが「進んでいる」と思い、自分たちが教会と集会所を持っているから、教会と集会所を持つ者が「進んでいる」と思い、自分たちがキリスト教を信じているからキリスト教を信ずる者が進んでいる」と考える、いたって簡単な精神の持主なのである。だから人類の歴史を一本道のようにしかとらえられないのである。
そうやって世界中に出かけて行って、教会や学校や病院をつくらせる。自分たちの政治のやりかたや経済のやりかたをまねさせる。自分たちの音楽やダンスをやらせる。自分たちの社交法や男女関係や教育を教える。はては世界中いたるところに自分たちとおなじような「国」(国家)をつくらせる。「国」なんてものは、それがあうところもあわないところもあるのに、地球上いたるところ全部国だらけにして、それでもう世界をグジャグジャにしてしまった。
困ったことに、この自信たっぷりで押しつけがましい西洋人を、全面的に尊敬し模倣したのが日本人なのだ。
一本道の歴史観、世界観は、いまもかわっていませんね。先を進んでいる国を「先進国」と言う。おくれている国を以前は「後進国」と言ったが、いまは「発展途上国」「と言う。ちょっと言いかたをかえただけでおなじことだ。「発展途上国」というのは、かならず「先進国」とおなじ道を進んで発展しなければならぬ、と頭からきめてかかった呼びかたである。いやウチは別に発展なんかしたくありませんよ、と言っても、そうはゆかぬ、かならずわれわれとおなじ道をあゆまねばならぬ、というのである。


漢字の話はどこに行ったのか、という感じだが、それにしても、現代世界情勢の奇妙奇天烈さの起因するところをこれくらい明確に簡潔に記述する手際は、お見事と言うしかない。ここのところ、是非ブッシュに読ませたいものである。

明治時代から始まっている国語改革の駄目さ+理不尽さ+不幸の歴史についての論考も、興味深いのだが、これに関してはMorris.もこれまでいろいろ、聞いたり読んだりして、いいかげん腹が立つのを通り越して、うんざり、げんなり状態なのだが、やはり改めて憤慨したくもなった。

政府国語機関の委員は、当初は学者ないし識者ばかりであったhが、大正期から新聞社の代表がくわわるようになり、やがてこれが多数をしめた。新聞はつねに大急ぎでつくらねばならぬものである。現在はコンピューターを使って組版するから漢字がいくらあっても平気らしいが、戦前は植字工が一つ一つ活字を拾った。文字数(文字の種類)あすくないほどすばやく新聞をつくることができる。新聞は使用漢字の範囲をせまく限定することをつねに要求した。

戦前から、そうだったんだろうが、とりわけ戦後の混乱に乗じた文部省と国語審議会のやりたいほうだいは、絶対許せん!!と叫びたくなるが、すべては後の祭りだ。

いったい敗戦直後の大混乱の時期、何十万何百万の国民が家を焼かれて住むところなく、そこへまた戦地や外地から何十万何百万の人たちが引きあげてくる、食糧が決定的に不足して来年は百万をこえる餓死者が出るのではないかと言われている時に、なんでまた漢字を制限しうかなづかいを変えようといいうような、文化の大根幹にかかわる、本来慎重の上にも慎重を期せねばならぬ問題を大あわてでとりあげねばならぬのか、と思うところだが、それが当時の風潮であった。上にも言ったように、とにかくいままでの日本は何もかも全部わるかった、まちがっていた、いっさいを変えて新しくして再出発だ、という気分がおおっていたから、ことばや文字だけでなく、学校制度などもただちに手がつけられたのであった。

戦後の国語改革--かなづかいの変更、字体の変更、漢字の制限--がもたらした最も重大な効果は、それ以降の日本人と、過去の日本人--その生活や文化や遺産--とのあいだの通路を切断したところにあった。それは国語改革にかかわった人たちのすべてが意識的にめざしたものではかならずしもなかった--かなり多くの国語審議会委員たちは、技術的なこと程度にしか考えていなかった--けれども、実際には、思いがけなかったほどの強い切断効果を生んだのであった。
日本人が、敗戦で正気を失い、それまでの日本は何もかもいっさいがわるかった、まちがっていたと思いこみ、足が地につかない状態で(それに占領軍の要求や支持もくわわって)きめてしまったことのうち、憲法やがっこ制度などは、またかえることも、ある程度もとにもどすこともできようが、国語改革だけはもはやいかんともしがたい。

漢字制限、不合理極まりない新字体、と新かなづかい---恨みつらみは数々あれど、すべては引かれ者の小唄でしかないのだろうか。現在の印刷書体を事実上規定、制限している「当用漢字字体表」が内閣告示されたのが昭和24年と言うのも、当年生まれのMorris.には何だかいたたまれないような思いを抱いてしまう(+_+)

戦後略字(当用漢字新字体)がおこなわれて五十年以上がすぎた。いまでは、新字体実施以前の書物も、そのほとんどが新字体に変えて刊行されている。古典文学作品や歴史資料もそうである。そのために不都合がおこっている。もともと新字体は、それ以後の人が文章を書くときに依拠すべきものとして制定されたものであって、それ以前の書物や文章のことは考慮のうちにはいっていない。ところが実際に学校教育が新字体のみでおこなわれると、その教育を受けた人は正体の字がよめない。すくなくともよみにくい。そこで営利を求める出版社は、「若い人たちにすこしでもよみやすいように」などとおためごかしの理由をつけて、過去の書物や文書を新字体に変えて刊行するのがごくふつうのことになってしまったのである。

本当に日本語と日本文学にとっては、悲劇的状況にあるのだが、それを意識するものはほとんどいないということこそが、さらに情けない。

こんにちのごとく、多くの人が機械(ワープロ、パソコン、等々)を使って文字を書くようになると、人がどういう字を「書く」かをきめるのはその人の知識でも手でもなく、機械にあらかじめくみこまれている文字である。それを一手ににぎっているのがJIS(日本工業規格)である。--中略-- 文字は過去の日本人と現在の日本人とをつなぐものであるのだが、こうした人たちはそんなことはすこしも意に介しない。いま文字を使う人、それも官庁や会社の実務で使う人のことだけを念頭において文字を管理している。文化資産としての文字をJISの手から解き放つことが緊急の課題である。

これにはMorris.も120%賛意を表しておきたい。何の実効がないとしてもね(^_^;)

漢字を制限してはならない。字を制限するのは事実上語を制限することになり、日本語をまずしいものにするから--。制限するのではなく、なるべく使わないようにすべきなのである。たとえば、「止める」というような書きかたはしないほうがよい。これでは「やめる」なのか「とめる」なのかわからない。やめるは「やめる」と、とめるは「とめる」と書くべきである。あるいは「その方がよい」では「そのほうがよい」のか「そのかたがよい」のかわからない。しかし「中止する」とか「方向」とかの語には「止」「「方」の漢字がぜひとも必要なのであるから、これを制限してはならないのである。あるいは「気が付く」とか「友達」とかの書きかたをやめるべきなのである。ここに「付」の字をもちい「達」の字をもちいることに何の意味もない。こうした和語にはなるべく漢字をもちいぬようにする、ということである。

著者の持論というか、結論めいた文だが、これについてはMorris.はちょっと疑問を感じる。すでにして悪弊に染まってるのかもしれないが、漢字の個人使用に関してはもうすこし幅を持たせておいてほしい気がする。それほど厳密に使用の可不可をきめつけることはないのではないだろうか。
もっとも、著者の本音は、結構日本語に対して悲観的なのかもしれない。なにしろおしまいは日本語「腐れ縁」説だもんなあ(^_^;)

漢字は、日本語にとってやっかいな問題である。それも、からだに癒着してしまった重荷である。もともと日本語の体質にはあわないのだから、いつまでたってもしっくりしない。
しかし、この重荷を切除すれば日本語は幼児化する。へたをすれば死ぬ。
この、からだに癒着した重荷は、日本語に害をなすこと多かったが、しかし日本語は、これなしにはやってゆけないこともたしかである。腐れ縁である。--この「腐れ縁」ということばは、「くされ」が和語、「縁」が漢語で、これがくっついて一語になっている。日本語全体がちょうどこの「腐れ縁」ということばのように、和語と漢語の混合でできていて、その関係はまさしく「腐れ縁」なのである。
日本語は、畸形のまま生きてゆくよりほか生存の方法はない、というのがわたしの考えである。


Morris.は、これに比べると、もう少し楽観的な考え方を持っている。「言葉はあくまで道具である」という西洋合理主義+「大和はことだまの幸はふ国」という言霊信仰という、おおざっぱかつ無責任な捉え方だが、要するに「なるようにしかならない→なるようになる→なんとかなる」主義である。
えらく引用過剰になったが、それだけ見るべきところのおおい作物だったということになる。
Morris.部屋のタイトルが畏れ多くもWord-Landを標榜しているわけだから、たまにはこういうのもいいだろう。


【ダニー・ボーイ】久世光彦 ★★★マイ・ラスト・ソングシリーズの4冊目で、だいたいラストソングなんて一人一曲なんだろうに、えらいひっぱるなあ、と思いながら、ずっと読み続けてるMorris.もMorris.である。まあラストでなくフェバリットだと思えば腹も立たない。同様な読者が多いのだろう、雑誌『諸君』での連載はまだ続いているようだ。
森進一の「くちべに怨歌」の 前半が「兄妹心中」のメロディをそのまま使っているという枕から始まる一文は、野坂の小説で印的だったこの歌の、変遷や伝播を紹介して興味深かった。

所は福山三つ寺町の
辺りきこえた色娘
年は十八番茶も出花
いい寄る男は数あれど
男ぎらいか穴なしか
いやよいやよと首をふり
いやよいやよと首をふり
いやよいやよと首をふり
首をふりふり子をはらむ
三月四月は袖でもかくす
かくしおおせぬ岩田帯


これが野坂の「骨餓身峠死人葛」に出てくるものだが、本来のものはもっと陰惨で卑猥で、後半では殺人事件(それも兄が妹を誤って殺す)にまで発展する。

地の底から湧いて出たような歌がある。誰が最初に歌い、誰がそれを聴いて次の誰に囁いたのか---その辺りはわからない。ただ、その歌が日の射さない谷間の径を選んで、広まっていったことだけは、確かなようだ。いまから百年経っても、この国には山の数だけ谷があるだろう。そしてに谷間に日陰の径があるかぎり、それらの歌は亡びないだろう。

その他では、Morris.もお馴染みだった「五十音の歌」が北原白秋作というのは、迂闊にも知らずにいた。
今見ても、すぐれたことばあそびうたなので、ついでに引用しておこう。

水馬(あめんぼ)赤いなアイウエオ
浮藻に小蝦(こえび)もおよいでる

柿の木栗の木カキクケコ
啄木鳥(きつつき)こつこつ枯けやき

大角豆(ささげ)に酸(す)をかけサシスセソ
その魚浅瀬で刺しました

立ちましょ喇叭でタチツテト
トエトテタッタと飛び立った

蛞蝓(なめくじ)のろのろナニヌネノ
納戸にぬめってなにねばる

鳩ぽっぽほろほろハヒフヘホ
日向のお部屋にゃ笛を吹く

蝸牛(まいまい)螺旋巻(ねじまき)マミムメモ
梅の実落ちても見もしまい

焼栗ゆで栗ヤイユエヨ
山田に灯のつく宵の家

雷鳥は寒かろラリルレロ
蓮華が咲いたら瑠璃の色

わいわいわっしょいワヰウヱヲ
植木屋井戸換えお祭りだ


「夢は夜ひらく」の曲は曽根幸明だが、著作権協会に登録されているものだけで27曲もあるらしい。最初の園まり、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」、三上寛くらいまではしっていたが、水原ひろし、田端義夫、梶芽衣子、五木ひろし、牧村三枝子、根津甚八、八代亜紀、ちあきなおみ、前川清---さらには藤竜也も歌っていて、これの作詞者「小谷夏」が実は、久世光彦のペンネームであったというのがオチになっている。なかなか抽斗の多い御仁ではある。三番の歌詞はなかなかよく出来ている。

とどかないから なつかしく
亡びていくから うつくしく
柳行李の 恋文に
夢は夜ひらく


【探偵大杉栄の正月】典厩五郎 ★★★明治44年、大逆事件が起こった(捏造された)時代を背景に、無政府主義者大杉栄が、成り金富豪の行方不明になった夫人を探索する中で、樺太から持ち込まれたペスト菌ばらまき事件に巻き込まれるという、有名人多数登場作である。
「新基軸の歴史ミステリ、構想・執筆10年」と帯に書かれているが、確かに当時の新聞記事や資料を色々取材しているようで、各章の冒頭には正岡子規の「病牀六尺」が引用されているし、本文中にも当時の風俗や、事件、社会主義者の活動、日清、日露戦争の状況などを解説してる部分もあり、それなりに歴史の勉強にもなりそうである。「面白くてためになる」方向を目指しているようで、それにはMorris.も賛同するのだが、肝心の小説としての「面白さ」に欠けるというのは、致命傷である。
主人公大杉を始め、荒畑寒村、石川啄木、竹久夢二、添田唖蝉坊、黒岩涙香、中山晋平、神近市子など出てくる著名人たちも、単に出てくるだけに終っているのも物足りない。竹久夢二は治安当局に情報を売ったスパイとされてるから、それなりに出てくる意味もあるが、やたら立場を変えて登場する松井須磨子も、気を持たせる割に何の活躍も無し。
日清、日露戦争後の交渉不備による国民の不満を目くらましするためと、明治天皇の死が迫ってる上に大正天皇がたよりないことから、天皇制を固めるために、大逆事件がでっち上げられたという絵解きが、著者の独創だとしたら、それだけでも、本書の取り柄といえるだろう。


【あたりまえのこと】倉橋由美子 ★★★☆彼女はMorris.は学生時代に一番しびれた小説家だった。すべてを理解して愛好していたのではなさそうだが、ともかくも、その文体と、登場人物の(作者)の頭の良さに参ってた。
本書は70年代後半に「波」連載の「小説論ノート」24篇と、90年代後半に「小説トリッパー」連載の「小説を楽しむための小説毒本」(本書では「読本」になってる)29編を合わせて一冊にしたもので、前者と後者の間には20年間という時間が経過してる。Morris.はどちらかというと前者の方が面白かった。後者の方がやや丸くなった感じがするためだろうか。

要するに小説は嘘で固まっていなければならない。問題はその固まり具合が完璧かどうかということであるが、それは別に嘘が真に迫って人を騙す形をとらなくてもよい。全体が大嘘の塊であることを承知の上でその嘘が楽しめるならばそれは立派な小説である。むしろその方が、本当らしく見せかけて読者を釣る小説よりも高級であると言える。ただしそれは読者の精神を宙に支えて飛行させに足る強力な文書を必要とする。(「嘘」)

露伴の文章は難解であるとされているが、いくつかの現代小説に見られるような、辞書を引いても解消しない精神分裂症的難解さとはその性質を異にする。それは正確には誰かのピアノ・ソナタのように難曲であると言うべきで、大才ある文章家にしか弾けない性質のものである。これに対して、見たまま
観じたままを素直に書いたと称する稚拙な文章は指一本でピアノを叩いて何かを表そうとしているようなもので、それは音楽をなすには遠く、精神の飛翔を描くには無力である。
勿論、大勢はこの音楽から離れ、ただ平易を目指して、ぼそぼそまたはだらだらと語る調子の文章に向かっている。今日、名文で小説を書こうとする奇人もいなければ実際に書ける大才の持ち主もいあない。それで小説は次第に写真に似てきた。つまり偶然に恵まれてか執念によってか、とにかく珍しくて面白い被写体を見つけた者が勝ちということになった。近頃のカメラはその被写体に向けてシャッターを押しさえすれば写るようにできている。(「名文」)

素顔で自分のことを語ってはなぜ小説にならないのか。それは何になるよりも前に自慢話になってしまうからである。このこともわからない人にはついにわからない。自己批判をしているつもりの人もある。弁解をしているだけだと思っているひともある。(「小説の基本ルール」)

ここで言う通俗性とは大多数の人々の好みや欲するところに投じる性質のことである。よく売れるためには何が通俗的であるかを発見しなければならず、版元もその他の商売人も経済のこの秘密を求めて日夜苦労している。小説の場合なら、例えば多数の人々の涙腺を開かせること、私怨を義憤と化して発散させること、弱者を強者に、強者を弱者に入れかえて見せてりゅう飲を下げさせること、野合を恋愛に、暴力を革命に、等々にすりかえ、昇格させる手品を使うことなどがその通俗的なるものの例である。ダメな人間が実は高貴な魂の持ち主であり、その人間をダメにしたしゃかいや偉い人こそ本当はダメなのだという図式も立派な通俗性を備えている。(「通俗性」)


後半ではPCワープロを目の仇にまではせぬものの、あんなものでは、到底「小説」を書くことはできないという論調が、やはりワープロに頼り切りのMorris.には耳が痛かった。


【トンパ文字伝説 絵のような謎の文字】王超鷹 ★★★★ 中国雲南省奥地の少数民族ナシ族の司祭数十人だけが読み書きできるという謎の絵文字「トンパ文字」のことは、数年前に、同じ著者による紹介本を書店で見かけて興味深く立ち読み(^_^;)した。
CDROM収載のトンパ文字「大平鳥」?本書はそのハイテク版ともいうべきもので、付録のCDROMに、2千文字以上のトンパ文字を、jpg,gif,wmfの三種類の画像ファイルにして収めてある。モノクロで、手描き風の味わいには欠けるものの、ゴシック風でそれなりに親しみをもてるフォントになっている。
本書にはトンパ文字の故郷雲南省麗江地区の風景や人物写真が併載されていて旅情を誘う。本当に美しいところのようだ。ナシ族の伝説や、トンパ文字の主要文字の成り立ちや解説も分かり易く、もともとが象形文字だから、何となく想像が付くものが多い。漢字の甲骨文字や金石文の文字とも共通点があったり、さらに素朴な絵文字もある。Morris.は鳥や獣の目に強く惹かれてしまった。上目遣いの三白眼なのだ。
古くは韓国のセクシーアイドル歌手キムワンソン、今なら女子バレーの大山加奈ちゃんに代表される三白眼美女に、Morris.は弱い(^_^;)
ともかく、トンパ文字フォントはPC上で色々加工して利用できそうで、これで\1,600(税別)というのはお買い得だと思う。立体文字付の製品版もあるらしいが、一般使用にはこちらで充分だろう。


【続・情熱の花】大西ユカリ ★★★ステージにラジオにテレビにと、今やメジャーで全国区に成り上がった(^_^;)大西ユカリと新世界。こうやってタレント本まで出る存在になってしまったんだなあ。と、感慨に絶えないMorris.である。2003年10月発行だから、いまさらということになるが、\3,000もするこの本はおいそれと買えなかった。中央図書館で見かけたので借りて来たわけだ。
内容は、ステージ、ライブの模様や、彼女のアルバム写真、ロングインタビュー、ディスコグラフィ、衣装コレクション、横山剣との対談、新世界メンバー全員のエッセイ(これがそれぞれに個性出過ぎの面白さ)、さらに高田文夫vs.大西ユカリTALK時限爆弾というCD付録付という、盛りだくさんな内容。面白くないわけがない。
ラジオやライブでお馴染みの、ユカリちゃんの語りそのままの臨場感あふれる一冊だった。
タイトルに「続」とあるが、これはDVD映像版「情熱の花」というのがあって、それの続編とでもいうくらいの意味だと思う。
ユカリグッズの紹介ページもあって、ユカリうちわやユカリマッチはMorris.も所有している。
しかし何と言ってもユカリちゃんの本領はライブに尽きる。また是非行きたくなった。


【男女の仲】山本夏彦 ★★★2002年10月23日に87歳で亡くなった著者が、自分の雑誌「室内」に長期連載していた「日常茶飯事」の最終回までの集成で、文春新書3冊にまとめられているものの最後の巻になる。これも一種の遺作ということができるだろう。
山本夏彦については、これまでも結構いろいろ読んできたので、詳細は省くが、例によってのマイペースな語り(騙り)が満載だが、内容的には、繰り返し、反復が多く、さすがに衰えも感じられるが、死の直前までこうやって、日常の勤めを果たしていたということだけでも、感慨深い。

「浅間山荘事件」あれはスペクタクルでした。赤軍派でも警官でもどっちでもいい、互いに撃ちあって目の前で血だらけになって息絶えるのを見たい。自分は安全地帯にいて、人が死ぬのを見たいんです。ビデオで見ればいいじゃないかと言ってもダメです。リアルタイムで死ぬのを見たいんです。我々人間どもは、こういうイヤな存在なのです。

僕たちは相撲の実物を知りません、テレビでしか知りません。百人中九十九人がテレビで見て、微にいり細をうがってカメラの目で四方八方からとても人間の目では見られないデテールまで見て、本ものを見たつもりでいます。たまたま国技館で本ものを見た人は映像と実物がまるで違うことに仰天して、帰ってテレビで見物した人と会話しません。今日の好取組はどうだった? と聞きもしません。テレビの見物の方が実物の見物よりよく知っているからです。これが写真の時代です。現代人は幻の時代にいて、これが実物だと思っているのです。
宮崎勤がその一代表です。彼は一室にとじこもってあらゆるポルノを見て、実物を知らないで知った気になったとすれば、少年の多くは宮崎勤だといって過言ではありません。それは老若を問わない、洋の東西を問わない。皆々幻影を本物と思って知ったかぶりのまま死ぬのです。

核家族になってお話上手なおばあさんは死に絶えた。いまの母親はただ本を読んで聞かせるだけで、覚えているわけじゃない。本はどこへでも持っていけて、いつでも見られるから便利だが一度読んだら、忘れられる。本はたいてい死蔵される。でも子供の時くり返して耳から聞いた話は死ぬまで忘れない。

鈴木三重吉は漱石の弟子で、天才と言われた人です。天才といった人は忘れるが、いわれた人は死ぬまで忘れない。


【ひとことで言う】山本夏彦箴言集 ★★★☆☆☆これまた夏彦の遺作みたいなもので、「週刊新潮」昭和54年7月5日号から平成14年10月24日号まで連載された「夏彦の写真コラム」から選んだ「ひとこと集」。やはり、ほとんどが、お馴染みの内容だが、それでもついつい読まされてしまうところが、彼の凄さ、ということになるんだろうな。

・個人ではない細胞である
・大流行するものには気味の悪いところがなければならない
・畜生には畜生の可愛がりようがある
・差別しないでは生きられない
・人生は些事からなる
・金儲けは才能
・出来ない昔に帰れない
・人は知恵によって滅びる
・がんばるだけは封じたい
・羨望嫉妬こそ民主主義の基礎である

・美しければすべては許される

さすが「タイトルの名人」。こういったタイトルだけを見ても、なるほど納得そのとおり、である。
ただ「言葉とがめはだれでも一つは出来る」という記事の中での「四」文字の読み方に関しては、いろいろ考えさせられた。もっとも、きっかけは高島俊男の「お言葉ですが…」からの引用である。

手近にある平成11年9月16日号では宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のなかの「一日玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」というくだりを昨今の先生は玄米ヨン合と読んではいまいかと心配している。
「玄米四合(しごう)」をヨン合に誤る人も二十四の瞳を二十ヨンの瞳とは読むまい。「四十七士」「四十九日」「四百余州」ならシでなくてはならないと「お言葉ですが…」氏の説にうなずく人は多いだろう。


え"−っ!?!? Morris.はずっと「ゲンマイヨンゴウ」「ニジュウヨンノヒトミ」と思い込んでいたし、時々は「アコウヨンジュウシチシ」「ヨンヒャクヨシュウ」とも読んでたぞ。「四十九日」だけは「シジュウクニチ」と読んでたけどね(^_^;)
数字の読み方は、どちらでもいい場合もあるんじゃないかな。もちろん慣用句や固有名詞はその通りに読むべきで、「四万十川」を「ヨンマントガワ」と読んだり「シチゴサン」を「ナナゴサン」と読んだりするのは論外だろうが、「七月」は「ナナガツ」でも「シチガツ」でも、どちらも間違いとは言えないだろう。
「漢字引き・逆引き 大辞林」の「四」の項を見たら、「四大」は「シダイ」「ヨンダイ」の二つの読みが見出しに立てられていて「シダイ」読みでは「四大海」「四大奇書」「四大寺」「四大州」「四大弟子」など十を超える見出しがあるが、「ヨンダイ」では「四大工業地帯」だけである。でもきっとMorris.は「ヨンダイ奇書」「ヨンダイ弟子」などと読みそうだ。
「雪国」の有名な冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」の「国境」は「クニザカイ」で「コッキョウ」ではないというのは、言われてみれば理解できるが、おおよその日本人はつい「コッキョウ」と読んでしまいそうだ。そういうことからすると、やはり、日本の新聞から総ルビを無くしてしまったことは、間違いだったのではないかと思われる。本書にある、そのことに触れた部分を引用して〆にする。

戦前の新聞はルビつきだった。漢字に一々ルビを振るのは、時間的に経済的に負担だったから、新聞社はなが年これを廃止したがっていた。子供が近眼になるのはこのせいだと廃止したが、戦後子供の近眼は増えるばかりで、ルビのせいでないことがわかった。
けれどもこのルビのおかげで新聞は難しい漢字が使えたのである。読者もこれをたよりに読めたのである。これを廃したから読めなくなったのである。新聞は読めるようにするより、漢字を少なくする方に味方した。国のすることなら何でも反対する新聞が、当用漢字には一議に及ばず賛成したのはこのためである。
何度も言って恐縮だが、これだけは言わしてもらう。新聞は区々たる己が利益のために、一国の言語を売ったのである。一国の言語を売ったのである。


Morris.は、以上の意見に120%賛同したい。


【中国いかがですか?】【続・中国いかがですか?】小田空 ★★★☆ 漫画家小田空のディープチャイナレポートである。正編は2000年、続編が2003年に発行されている。
1996年に江青省の南昌という田舎町の大学に留学して、97年から更に超田舎の延安の大学で日本語教師としての生活を送る、という、一般のマニアもまず足を運ばない中国の僻地での暮しdがを、得意の漫画ルポで紹介されている。
Morris.は彼女のファンではなかったが、本人を戯画化した「空くんのなんたら」という作品はいちおう目を通してた記憶がある。わりとメルヘンチックなタイプだったと思う。
韓国一辺倒のMorris.でも、中国は行きたい国の一つだし、特に上海は母や祖父母たちから昔話を聞かされたので、是非一度行きたいと思ってるうちにどんどん上海の様変わりのニュースが入ってきて、ついつい行くきっかけを失ってしまった。
本書の舞台である、中国の田舎にはあまり行く気はないのだが、彼女のスタンスは羨ましいくらいだった。いちおう作品として、アレンジはあるのだろうが、水道が一日4回しか出ないような暮らしに、何とか溶け込んでいくし、何よりも、言葉への関心の深さには感心した。なりゆきで、にわか日本語教師(といってもちゃんとした大学の日本語の授業)をやらされる羽目になってからの奮闘ぶりと、日本語の再発見?には笑いながら共感するところ多々だった。

それでもそんなワケのわからん日本語に、一生懸命取りくむ学生達の姿に動かされ、おだも精一杯準備をし心を込めて授業に臨んだ。予想外の質問にフリーズさせられたり、思いもよらぬ日本語の複雑さに唖然とさせられたりもしたが--- 意表をついた学生達のつっこみに日本の面白さを再発見したり、ひょんな日本語表現に失笑したり、いろいろ楽しい時間を過ごさせてもらった--- 教師職というのはやりがいがある一方、人間が相手なだけにそれは身の細る仕事だった。特に外国で他の日本人と出会う機会のない田舎では、学生にとってその「日本語教師=日本」ということになり、責任は重大である。
おだの結論---言葉は教えるより習う方がなんぼか楽である。


続編では、中国のTV番組事情や、シルクロード、トルファンの旅ルポ、中華料理の記事など、割と一般的な内容になっているが、遅れ馳せながらC-POPに目覚めて、宣伝にあい努めているところなどは可愛らしくさえある。


【賃貸宇宙 UNIVERSE for RENT】都筑響一 ★★★★☆ 衝撃的だった写真集「TOKYO STYLE」(1993)の続編にあたる一冊である。オールカラー848pというボリュームにまず圧倒されるが、そのボリュームに充分拮抗しうる、いや、凌駕するくらいの中身の濃さには脱帽するしかなかった。
著者は1956年生まれで、ポパイ、プルータスで、建築、デザイン、都市生活などの記事を担当し、京都書院から80年代世界美術の動向を網羅した102巻の全集を作ったり、現在も世界のロードサイドを取材して回るなどすごいバイタリティと編集能力に長けた人物のようだ。
本書はTOKYO STYLE以降9年間に取材撮影して「SPA」「室内」「週刊アスキー」「TOKYO ATOM」などの雑誌に掲載したものを集成編集したものだが、いやあ、すごい。それぞれの住居(300件を超える)自体の存在感だけでも見ごたえ充分なのに、著者の目のつけどころがまた見事で、さらに紹介文とコメントがこれまた関にして要を得たもので、申し分ない。そして写真は記録に徹していること尋常でない。
ところどころに見開きで挟み込まれている、ニホン的小物(アンシーケース、タオルケット、多機能学習机、」ビニール傘、便座カバー、紐付きサークライト、カセットコンロなど)や、暮らしにまつわるコラムも楽しめる。
取材対象は20代前半が中心で、地域的には、東京、京都が多い。著者の交友関連で、編集者、画家、映像作家、ミュージシャン、学生も美大、デザイン関連の多さが目に付くし、それだけ部屋のインテリアも凝ってるものが多い。家賃は無料!!から、高くても十数万円くらいだから、モリス亭も当然この範疇に入ることは間違いない。別にインテリアなどへの興味はないのだが、本書の一部の部屋の姿はMorris.にはとても刺激的だった。本気で引っ越しを考えているMorris.だが、その意味でも色々考えさせられる一冊となったが、なによりも、さまざまな住居を取材して末尾に置かれた非定住への羨望の言葉が、痛かった。

大事なことと、どうでもいいことがきちんとわかったとき、人生ははじめて明確なかたちをとってあらわれる。ホームレスの「家」から海に浮かぶプレハブ住宅まで、どの空間にも共通しているのはある種の「はかなさ」というか「移ろいやすさ」であり、その匂いに移動型人間の嗅覚が反応してしまうのだ。きっちり作り込んでいるようでいて、どこか投げやりな、「いまはたまたまここにいるけどね」みたいな感覚、無常感、と呼んでもいいかもしれないその感覚に、おそらく日本人はどの民族よりも親しみを持っていたはずだ。「方丈記]を持ち出すまでもなく。
住居建築が定住嗜好の呪縛から解放される日々が、いつか到来するのだろうか(到来でなく、むしろ「再来」というべきか)。「城」ではなく、「そのときに身につけたい、からだを包むひとまわり大きな洋服」のような住まいがあってもいいのではないか。
地球上のどこに移動しようとも、人間は自分のこころとからだに「定住」するしかない。唯一変わることのない空間は、アタマの外ではなく内側にある。移動し続ける黒い箱の中にみずからを閉じこめた孤独な詩人は、それをだれよりも痛切に感じとっていたのだろう。
命を絶ち、移動を停止したとき、はじめて彼は定住することから解き放たれたのかもしれない。


本書の紹介文、写真コメント、記事のすべてに、英文が併記されている。このまま国際版として流通することが可能なわけで、著者(出版社?)のスタンスが感じられるし、たしかに凡百の日本紹介より遥かに直接的で、わかりやすいことはまちがいないだろう。
40ほどにタイプ分けしてある本書のタイトルを英文とともに紹介しておこう。これだけでも、著者の視点の一端を知ることができるだろう。

Don't tidy up 片づけないこと
If you must tidy, go all the way 片づけるなら、徹底的に片づけること
Don't fea cramped quaters 狭さをおそれないこと
Live dirt cheap とにかく安いこと
surround yourself with your favorite things 好きなものに囲まれること
Make do with any old apartment 部屋なんてどうでもいいと思うこと
Share your space シェアすること
Spend nothing on furnishings 家具に金を使わないこと
Do without furnishings 家具を置かないこと
Renobvate the place 部屋を改造すること
Wreck the place 部屋を壊すこと
Get out of the city center 都心から離れること
Live in the wilds 緑の中に住むこと
Live like the foreigners do 外国人に学ぶこと
Clonize the bedding closet 押し入れを活用すること
Live around the kotatsu heater-table コタツで全部すますこと
Consider a loft 中2階を使うこと
Paint everything ひといろに染めること
Tack things up all over the walls 壁にものを貼りつけること
Choose good sunlight 陽当たりのよさでえらぶこと
Block out the sunlight 陽当たりをさえぎること
Move to a neighbourhood you like 好きな街に住むこと
Find a hidden pocket in the city center 都心の死角を探すこと
Live with someone you like 好きな人と住むこと
Live communally たくさんで住むこと
Live with animals 動物と住むこと
Live with books 本と住むこと
Live with music 音楽と住むこと
Live with clothes 洋服と住むこと
Live in a game center, live in a toy chest ゲームセンターに、おもちゃ箱に住むこと
Turn your place into a gallery 部屋をギャラリーにすること
Rent in someone else's house 下宿式のアパートを活用すること
No bath? Then make one 風呂がなければ作ること
Live in a dormitory 寮に住むこと
Stake out a whole house to yourserf 一軒家に住むこと
Live in a housing estate 団地に住むこと
Live at the office 仕事場に住むこと
Don't bother to take your shoes off 土足で暮らすこと
Neve put on "finishing touches" 決して完成させないこと
Or don't live anywhere at all そしてどこにも住まないこと


【西原理恵子の人生一年生 2号】西原理恵子 ★★★☆ 2001年に発行されたものの続編で2003年5月に発行されたもの。Morris.は前作見てないが、本書だけで充分に面白かった。タイ、中国への鳥頭紀行や、インタビュー、座談会、しりあがり寿とのお絵描き対決、疑似絵本、4人の漫画家が描くサイバラまんが等など盛りだくさんの内容。「ぼくんち」が映画化された直後だったのでその話題も多く、いかにも西原らしいテイストを満喫できた。
2003年10月5日新宿ロフトプラスワンで行なわれたトークイベント「西原理恵子の居酒屋煮え煮え」の誌上詳報は圧巻だった。
さいばらは、現代に突然蘇った無頼派女流作家であるというMorris.の思い込みがますます確固としたものになった。毒が強いほどに魅力も強烈になるが、本来がぬるいMorris.としては、対岸の火事として望見するにとどめておきたい存在ではあるな、やっぱり。


【現代思想の遭難者たち】いしいひさいち ★★★☆ 講談社の「現代思想の冒険者たち」(全31巻)の月報に連載された漫画である。書き下ろしを加えて34人の哲学者がモデルになっているし、編集部による注(これはなかなか苦労したと思われる)もつけられている。
とりあえず、各章ごとの全員のご尊名をあげておこう。

[1.超えゆく思想家たち]ハイデガー、フッサール、ウィトゲンシュタイン、カフカ、ニーチェ、マルクス、フロイト、ユング
[2.疾駆する思想家たち]レヴィ=ストロース、アルチュセール、バルト、ラカン、フーコー、ドゥルーズ、レヴィナス、デリダ
[3.彷徨いゆく思想家たち]バタイユ、ジンメル、ベンヤミン、アドルノアレントガダマーハーバーマスロールズクリステヴァ
[4.一人ゆく思想家たち]ホワイトヘッド、バフチン、バシュラール、ポパークーンクワイン、メルロ=ポンティ、ルカーチ、エーコ

*ちなみに、太字の12人はMorris.は名前すら知らなかった。

当初のタイトル案は「超越論的認識不足」でした。わからないまま哲学パロディを描くとどうなるかというテーマでしたがさすがにそうもいかずパラパラ読んでみたもののお手上げでこんなことになってしまいました。

というのがいしいひさいちの弁明だが、Morris.もわからないままに楽しめてしまったから、それでいいのだ。
何より、各思想家のカリカチュアとしてだけでも楽しめる。もっとも顔を知ってる思想家の数は半分以下だけどね(^_^;)
本書で哲学をわかろうという馬鹿げた考えはもとより持たないが、ニーチェ、カフカやバタイユといった、数少ないながらもいちおうはお馴染みがモデルの漫画は余計に楽しめた。何と言ってもバシュラールが出てきたのは懐かしかった。フランスの詩学者というイメージが強かったので、哲学者としては意識してなかった。編集部による紹介を引く。

火は科学と詩を結びつける。---火は、物質の酸化過程だとわかるまでは、何らかの「実体」だと考えられてきた。この解釈の底には、バシュラールが[認識論的障害]と呼んだ先入観念が潜む。現象の実体化などの謬見が払拭される過程で近代科学が発展した、とするバシュラールの非連続的・革命科学認識論(エピステモロジー)こそ、フーコー、アルチュセールと続くフランス現代思想の母胎となった。一方、「物質」としての火に、バシュラールは生命の燃焼やゆらぎ、官能的エネルギーなど、豊かな詩的夢想の世界を見出し、水、空気、大地へと連なる、美しい物質的想像力の詩学に結実させた。

ああ、良くわからんけど(^_^;)、学生時代にやっぱりわからんながら感動しまくってた「水と夢」を再読したくなったよ。
Morris.はそれほどいしいひさいちの漫画は好みではなかったが、本書でその魅力の一端にだけは触れたような気がする。


【本の引越し】高橋英夫 ★★☆☆ 60年以上住み慣れた練馬の自宅を転居したドイツ文学者の、引越しエッセイと、雑誌に書き散らかした雑文の寄せ集めで、いちおう、引越し関連の仕事してるから、それなりの興味を持って読みはじめたのだが、あまりにも個人的な話が多く、建設関連の父が作った旧居への懐旧と自慢?が鼻に付く。この人の本は以前にも読もうとして途中で止めたことがあるのを思い出した。きっと相性が悪いのだろう。本に対しても、図書館漬けのMorris.とは全く違う。

しかし概していって、私は図書館愛好者でなく、十二分に活用してきたとも言えそうにないl。本は勝手気侭に自宅で、自室で読むに若かずという強い思いが私にはあって、抜きがたくなっている。図書館で読んだ本は頭に入ってこないからだ。

戦前生まれの著者だから、当時の図書館事情も、今とはかなり違っていることも考慮に入れるべきだろうが、やっぱり、こう決め付けられると面白くない。最近では近所の7館を利用してると捕捉しているが、それでも三つ子の魂百まで、の感がある。

いま私の書斎には七館から借出した本が16冊おいてある。きちんと通読した本、これから通読するであろう本は恐らく一冊もない。ほとんどが確認、参照、文献調査のためであり、数冊は漫然と打ち眺めるためである。

ドイツ哲学を中心とする、過去の日本語訳のひどさが、哲学を余計にややこしくしたという通説に対しての一種の擁護論には、いくらかの共感を覚えた。

箸にも棒にもかからぬドイツ哲学の翻訳が日本人を呪縛したということは、呪縛した連中と呪縛された連中の両方にそれぞれの意味で責任を負わせるべきで、それを日本近代の翻訳文化に絡みついた病疾と見るならば、この病める日本とあの抽象的・論理的大城塞ドイツ哲学を両端とする、文化・精神・言語の一過程を、修羅場としてそこから取り出さなければならない。

たしかに、哲学でも文学でも、難解さ故にありがたがるという風潮無きにしもあらずだもんなあ。自戒の意も込めて、引用した。


【二列目の人生 隠れた異才たち】池内紀 ★★★ あまり人口に膾炙していない異才16人のミニ伝記をまとめたもの。Morris.が名前くらいは知ってる人物では、モラエス、秦豊吉(丸木砂土)、州之内徹、尾形亀之助、福田蘭堂、中尾佐助くらいだった。
一時期池内の文体というか、著作にはまってたことがある。どちらかというと短文の積み重ねで、けっこうレトリカルなくせに、歯切れが良い。引用の手際が鮮やかだ。おとしどころをわきまえている。等々Morris.のだらだら文とは対極みたいなスタイリストだと畏敬の念すら感じていた。本書でもそういった特長はあちこちで見ることができるのだが、どうも、最近はそれほど感心しなくなった。Morris.の感性が鈍化してるからなのかもしれないが、何となく鼻に付く部分が多いのだ。
引用には流石に見るべきものがある。モラエスの項で日本語に関する彼のユニークな論義。

冒頭で、日本語には冠詞がなく、名詞も形容詞も変化しないし数や性のえいきょうも受けないことから話しはじめ、こう考えた。ヨーロッパ人が海を男性、雨を女性などと、すべての名詞を性で区分するのを日本人はりかいしないだろうし、「淫猥」とすら思うだろう。日本語の名詞が性をもたないのは、言語上よりむしろ心理上きわめて重要な一点なのだ。つまりは日本人につよくみられる「人生の現象を前にした人間の没個人性(非人称性)、いいかえれば自然の力づよい演劇を前にするとき、何をするにも自分をほとんどとるにたらない「単なるあまりもの」とみなす習性。

確かにMorris.も、フランス語に男性名詞、女性名詞があることを初めて知ったときは当惑したものだ。もっともMorris.は猥褻なんて思わなかったけどね(^_^;)

版画家でもあり、当人の没後、息子夫婦が彼のコレクションを世に示す場として作った阿佐ヶ谷の「小野忠重版画館」の紹介が一番印象深かった。

「小野忠重版画館」 わが国に数ある美術館のなかで、もっとも小さく、もっとも道筋のいいにくい一つである。とともにもっとも充実した、そしてもっとも心のやすらぐところでもある。
版画家小野忠重は平成2年(1990)10月死去した。八十一歳だった。画壇にあって、およそスター街道とは縁のない画家だったが、近・現代版画史の研究者として知られており、みずから生き証人ようにして収集と保存につとめた。その死を知って、おっとり刀で駆けつけた画商もいたのではあるまいか。
小さな古家と、父親の作品・収集を受け継いだ息子夫婦が、とても楽しい決断をした。のこされたものを予に示す場をつくる。それが若い研究者のたみの一つの拠点になればいい。まさしく版画の歴史を丹念に掘り起こした父親の意思にかなうものだろう。


本書に白黒で掲載されている小野忠重の版画作品「風」(1975)がいたく気にいったし、もともと版画は好きなので、上京のおりには足を伸ばしてみたいところの一つになりそうだ。


【廃虚の歩き方2 潜入篇】栗原亨 ★★★☆ 前作「探索篇」もそれなりに楽しめたが、本書でも30件の廃虚が画像付で紹介されている。流石に手慣れたもので、簡潔でポイントを押さえた紹介文も見事だし、写真も全容から細部まで、わかりやすく配置されている。本書では探索地が関東地方に限定されてるだけに、身近な物件がないのが物足りない感じもしたが、正真正銘の現物の力には圧倒させられる。
病院、学校、工場、商店、レストラン、研究所、寮、銀行、軍事施設、遊戯施設、鉱山、レジャー施設、宗教施設、廃城など多岐にわたっているが、Morris.にはとりわけ旅館やホテルなどの宿泊施設の廃虚が印象的だった。
前にも書いたが、Morris.は、危険をおかしてまで廃虚を探索するタイプではない。しかし廃虚という言葉にも、存在にも不思議な魅力を感じるのは事実で、安易に見ることのできる、学校跡や、廃屋などは覗いて見たくなるし、じっさい、これまでに何度か内部に入ったこともある。
廃虚マニアにもさまざまなタイプがあって、ゲストの黒魔氏によると「調査・探索系、写真芸術系、破壊系、落書き系、サバゲ(サバイバルゲーム)系、肝試し系、心霊系などに」分類されるらしい。Morris.はこのなかには含まれないようだ。単なる好奇心+ノスタルジーといったところだろうか。
ここで、ふと、思い当たったのだが、実はMorris.は幼少のみぎり、廃虚生活を体験していたのではないか、ということだった。Morris.が戦災孤児(^_^;)で、廃屋に棲みついたというわけではない。
Morris.の生地は佐賀県武雄温泉で、家業は温泉旅館だった。木造ながら表は3階建てで、坂道沿いに建っていたため、奥に行くに連れて2階、1階になる構造で、比較的大きな旅館だった。部屋数はよく覚えてないが客室だけで20は超えてたと思うし、一番奥の広間は百畳いじょうあって舞台もついていた。
だからそれなりに裕福な少年時代を送ったはずなのが、ちょうどMorris.が小学校に入った頃から左前になり、結局廃業して、客室は下宿に、広間は遊興施設に改装したりもしたようだが、これもうまく行かず、完全に機能は停止。いつのまにか住居空間は建物の前半分くらいに限定され、奥の方はそのまま放置され、雨漏りしてもほったらかし、窓は割れても修理する気もなく、どんどん、荒れる一方だった。下宿人も減る一方だったし、生計は火の車どころか借金に追いまくられていたようだが、子供のMorris.はそういうことにはあまり関心もなく、当然のように奥の荒れた部屋をこっそり探検して回っていたことは言うまでもない。
結局高校時代まではとにかく、この廃虚化していく元旅館、に住んでいたが、小倉で学生時代を送る間にとうとう放逐されてしまったようだ。隣の温泉会社が借金のかたに取り上げ、しばらくは改装して宿泊施設として使ったようだが、数年後に取り壊され、しばらく更地状態だったが、現在では「楼門亭」という、温泉センター件宿泊施設に生まれ変わっているらしい。
閑話休題。ともかくも、そんな過去を引き摺っているMorris.が、宿泊施設の廃虚に興味を覚えるのも当然の成り行きかもしれない。
本書の著者栗原氏は、「冒険」的スタンスから廃虚探訪を始めたタイプとのことだが、何よりも廃虚を愛する姿勢が全面に出ていて、Morris.は好意を覚える。


【アトム今昔物語 復刻版】手塚治虫 ★★★☆☆ 1967年1月24日から69年2月28日までサンケイ新聞に連載された全646話をすべて復刻したもの。2003年に発行された「鉄腕アトムコンプリートブック別冊」である。横長340pで1pに2回分ずつ掲載されているので、ちょっと見づらいが、これは1冊にまとめるために仕方が無かったのだろう。
アトムとスカラこの作品は過去に2回単行本化されているらしいが、Morris.は未見だったし、一部省略や変更がおこなわれているらしく、一気に完全な復刻を読むことが出来るというのはありがたかった。
ちょうどTVアニメ版アトムが放送終了した直後に連載開始だったらしく、アニメでは太陽に飛び込んで死んでしまったアトムが、他の星のイナゴ型宇宙人に回収されて再生するところから始まり、過去の東京に戻り、さらに近未来すなわち、アトム誕生の時期に接続するという、アクロバチックな構成である。
過去の時代では、天馬博士、御茶水博士などの若い頃の姿が出てくるし、アトムファンならずとも、いろいろ興味深いエピソードが多い。また本書ではアトム誕生は2013年となってる。2003年説より10年間の猶予がある方がいいと思う。
発表時がちょうどベトナム戦争に重なるだけに、それを反映したエピソードも多く、当時の世相と手塚の社会観、戦争観も伺える。
タイムパラドックスやロボットの人権問題?への取り上げかたも、今見るとちょっと杜撰なところもあるが、手塚の才能は随所に遺憾無く発揮されていると思う。つくづくすごい才能である。
イナゴ星人の女性スカラが、地球人に姿を変えて、アトムと共に過去の日本に赴き、さまざまなカルチャーショックを覚える場面が印象的だったし、全篇を通じて彼女の存在が本書の最大の魅力と思うのはMorris.一人だろうか。彼女はイナゴというより、イソップの「蟻とキリギリス」のキリギリス的性格のようで、あっけらかんとした快楽主義者だ。そして時々やたら色っぽい。虫マニアでもあった手塚の作品中に頻出する、昆虫を素材にした登場人物には、不思議に中世的でセクシーなキャラクタが多いが、スカラもその一人だ。


【よみがえる百舌】逢坂剛 ★★☆ 百舌シリーズ第4作で、Morris.はたぶん3冊目になると思う。殺し屋百舌が復活、といっても、当人は死んでるから、当然スタイルを踏襲した別人ということになり、それが誰かということが本書の一番の謎らしいが、Morris.はヒロインである、夫を前作で亡くした倉木美希警部と、元刑事の大杉のもどかしい「純愛??」の方が、メインになってるような気になってしまった。それにしても、逢坂剛にしては、あまりに手抜きというか、杜撰な作品である。もともとこの作家は、出来不出来の差が激しいところがある。本書は「梅」以下ということになるだろう。
50男と40女の「純愛」というだけでも、うざったいのに、ヒロインのあまりの非力さ+迂闊さ+が際立つ。「百舌」に襲われ陵辱されながら、自分が絶頂に至らないことで面目をほどこすというのも、馬鹿馬鹿しいが、懲りずに??同じ状況に陥り(^_^;)今度は前もって陰部にカッターの刃を仕込んでおくなんてのは、噴飯ものとしかいいようがない。
もともと逢坂も、女を描くのが下手な方だとは思っていたが、あまりにひどすぎる。警察とは別に治安組織を作ろうと目論む政治家と、警察の官房監査官であるヒロインや上司とのやりとりも、図式的かつご都合主義である。何度もいうが、御都合主義だって面白ければいいのであるが、それが、鼻につくばかりでは、仕方が無い。95年頃に「週刊ポスト」に連載されたものらしいが、その読者層に迎合しようとしたのが敗因だったのかもしれない。


【俳句発見】坪内稔典 ★★☆☆俳句雑誌に書き散らかした雑文を集めたもので、著者の俳句感や、句評、子規、虚子、誓子に関する文章などもあるが、どうもMorris.にはぴんとこないものが多かった。特に子供俳句に関するあたりは、読むのが嫌になってすっ飛ばしてしまった。Morris.は子供が嫌いだ、子供の俳句はもっと嫌いである。
えらい文句たらたらの感想だが、結局この著者の作品が、Morris.好みでないというのが、一番の理由らしい。
唯一、杉山平一の詩論集『窓開けて』の中からの引用が目を引いた。

我が国の人々の「新しがり」「珍しがり」が、文明文化を早く推しすすめたのだった。
私なども、百何歳の姉妹がテレビに出てくるのを見ると、汚ないなあ、と顔をそむけてしまう。
真惟新という言葉もあるようだが、本物は新鮮を胎んでいるからこそ本物なのである。私は、昔、ヴァレリーの「新しさは物の古びる部分である」という言葉に自戒して、流行の新しさに乗るまいと心掛けたが、軽薄な軽薄な新しさにも、ピカピカ光るものが含まれていることが多い。
詩というものには、つねにこの新というエスプリが含まれていなければなるまい。むしろ、新というものが詩そのものではないかとさえ思える。詩を評されて、下手だといわれても恥ずかしくはないが、古いといわれるのは致命的である。常套とかルーティンほど詩から遠いものはない。


【テロリストが夢見た桜】大石直紀 ★★★新幹線乗っ取り事件である。イラクの元将校でアルカイダのテロリストになった男の娘と結ばれた日本人男性が、一人でことを運ぶという、かなり無理な設定ながら、とりあえず、納得できるストーリーに仕上げてることは評価できる。日本で逮捕されたテロリストの解放でなく、米国の国務長官とTVで対談してそれを全世界に放映するというのが人質解放の条件というのはおかしいし、もう一つの目的が娘の手術費用だったというのも、どうかと思う。本筋とは別に、さえない家族崩壊に近い状況にある車掌が、この事件をきっかけに生まれ変わるという裏筋(実はこっちを作者は重視してるのかも)も、中途半端な結末になっている。結末といえば、本筋のラストもあまりに御都合主義であるな。
しかし、こういった、始めからエンターテインメントを狙う作品は、そういった齟齬はあまり気にせず、読んでる間だけ物語の進行を楽しめればそれでいいのだ。そういう意味では本書はまずまずの出来と言えるかもしれない。


【昭和詩集】 ★★★☆☆ 角川版昭和文学全集の47巻(昭和29年10月30日発行)である。定価\290と言うのも時代を感じさせる。これは先週月曜日の朝のゴミの中から拾ってきたものだが、結局ほぼ1週間かけて読み終えた。ちょうど半世紀前の日本の詩壇?の全貌を伺うのにこれほど適したアンソロジーはないかもしれない。
三段組み382pに、103人の詩人が、五十音順に並べられている。安西冬衛に始まり、吉田一穂に終り、巻末の「昭和詩史」を書いているのが吉田精一と言うのも、平仄が合っている。
一人あたり2pから6p、平均10篇が掲載されているとして、ざっと1000篇の詩を読んだことになる。名前すらしらない詩人も数人いたし、小説家としてしか知らない作家の詩もあった。
各詩人の長楕円形の写真(ほとんど新聞写真)が附されているのもいかにも時代を感じさせるし、名前にふりがながあるのもありがたかった。小野十三郎が「をのとをさぶらう」で中原中也が「なかはらなかや」、上林猷夫が「かんばやしみちお」、逸見猶吉が「へんみいうきち」など、言われてみればそうなんだろうが、Morris.はずっと間違った読み方をしていたことが分かった。
しかし本書の一番の特長は、作品発表時の形のまま、旧仮名遣いと新仮名遣いを使い分けていることだ。
仮に現在、こういった過去の詩のアンソロジーが編まれるとしても、たいていが新仮名遣いに改変されるだろう。これは作品への冒涜ではないかと思う。そういう意味でも本書の意義は大きい。
30pで昭和詩史を総括した、吉田精一の解説もなかなかの力作だった。末尾にある、当時最新の「荒地」に触れたところを引用しておく。

この現実派と主知派の中間に位置するものに、「荒地」グループがある。英国の詩人エリオットの詩集の名をとつたもので、現代を荒地と見る意識に立つ。鮎川信夫、黒田三郎、北村太郎、木原孝一、田村隆一、高橋宗一、中桐雅夫、三次豊一郎等を同人とし、年刊「荒地詩集」(昭和26年〜)に詩と詩論をのせてゐる。苦しい現実といやおうなしに対決し、この現実と世界に即して、生きる地盤をいかにして獲得するかに苦闘してゐるので、一種の原罪的な考へ方に於いて共通し詩風は暗い。三好豊一郎の詩集「囚人」(24年6月)は「極度の神経の露出と緊張とからくる弛緩と衰弱、焦燥と見えざる恐怖、過大な自我愛と嫌悪の中に成つた」(跋)もので、イマジスムの手法をわがものにしながら、荒廃した感情と肉体の切実な表現となつてゐる。ここには、現実の平面的な把握を越える形而上的なものがあるが、この傾向はひとり「荒地」にかぎらず、戦後に生れた新しい詩の特色としてあげることができるのである。


【12インチのギャラリー】沼辺信一編著 ★★★★ 副題に「LP時代を装ったレコードジャケットたち」とある。良くある、レコードジャケット写真集のカタログみたいな本くらいに思ってこれまで手にしないでいたのだが、ふと編著者の名に見覚えがあるということで借りてきたのだが、いやもうこれは、見事なLPジャケットデザイン大全というか、見て楽しく読んで面白くて、さらにMorris.が知らなかったデザイナーや演奏家、タイポグラファーなどの紹介が、わんさとあって、ひさびさに興奮しながら、時間を忘れさせてもらった。
こんな経験は例の「幻のロシア絵本」展のカタログ以来ではなかろうか。などと、しらじらしく言挙げするのも、タネをあかせば、あの展示会の仕掛人でもあり、カタログでも作品解説や総括文を書いていたのが、本書の編著者沼辺信一その人だったのだ。
もともとはCDジャーナル別冊の季刊誌「Listen View」に連載されたものを増補、改訂、追加したものらしい。発行されて10年以上になるのにこれまで知らずにいたのはいかにも勿体ないことであった。
何と言っても厳選されたジャケットのデザインは見事である。編著者の好みか雑誌の傾向のせいか、クラシック音楽が半分以上を占めているが、Morris.はほとんど無知な領域だけにこれまでに見たこともなかったジャケットがほとんどで、逆に新鮮に思えた。
B5版160pだが、そのうちの1/3ほどは、1pにジャケット1点というレイアウトにも、LPジャケットの大きさへの執念が表れているようだ。それでも実寸には程遠い大きさであることを嘆いている言葉が頻出する。
草創期のLPレコード会社の騒動やシェア争いなども興味深いが、ポスター画家としてしか知らなかった、A・M・カッサンドルが多くのレコードジャケットを手がけており、それもほとんどタイポグラフィのみで構成されていて、それがまた途方もなく美しく素晴らしいというのにも驚かされた。当然というか、フォントも作成していて紹介されていた、いかにもオシャレなペーニョ体などはたしかに、あちこちで見かけたような気もするし、1960年頃に例のイヴ・サンローランのロゴタイプを作ったのが彼の最後の仕事なんていう、美味しいネタまで添えてある。
さらに、ロシアバレーに君臨したディアギレフとその愛弟子(というか寵童)マルケヴィッチが指揮したアルバムへの微に入り細を穿ったエピソード、コクトーとその仲間であるフランス6人組との睦まじい芸術世界、先のマルケヴィッチとコクトーの老後の交友、アメリカンカルチャーとしてのジャケットデザインとポートレート、日本のジャケットデザインで異彩をはなっている松本侑三の懐に食い入っての作品論、作曲家、楽器を主題にした傑作ジャケット群、遊びの極致の仕掛けジャケットなどなど、とにかく、各章ごとに、恐ろしいほどの思い入れと愛着の詰まった、オマージュと分析が開陳されている。こんな中身の濃いカタログは無いな。
Morris.好みのストーンズの本物ファスナー付の「スティッキー・フィンガー」や憂歌団の「ショーボート」などがあるのも嬉しかった。
最終章「夏の歌」でのディリアスという盲目の作曲家と若い採譜者の物語などは、名画座で息を詰めて映画見てる気分を髣髴させるものだが、これがまたちゃんと、ラッセル監督の「夏の歌」という作品にインスパイアされたという楽屋落ちまでつけてあるあたりが、著者の一筋縄で行かないところだろう。ユージン・スミスの有名な写真「楽園への歩み」がディーリアスの「村のロミオとジュリエット」からの引用であるという指摘も実に美味しい(^^)
本書に掲載されたジャケットのほとんどすべてが編著者の所蔵と書いてあるから、彼はやはりかなりのおたくでもあるにちがいない。
一部ではアナログ盤再発の気運無きにしもあらずだが、趨勢はとっくの昔にCDの時代に成り代わっている。そういう中でこういったLPジャケット愛好家や収集家は、消えた文化を哀悼するあまり、それらに取って代わった現在の媒体を馬鹿にしたり、貶めたりする傾向があるものなのだが、本書の編著者はそういった弊害に陥ることなく、いや、却ってCDジャケットにはそれ独自の美の世界があるはずだと揚言している。

LPジャケットに注がれる視線もまた、懐古趣味のフィルターを通したものがほとんどである。このところ雑誌の特集などでアルバム・カヴァーが採り上げられる機会が多いのだが、ともすればあからさまな礼賛ばかりが先立ち、時代と作品を批評的に検証する姿勢が欠如している。

そうそう、たしかに本書の意義深さは、専門的かつ一般的にも妥当と思われる時間的、分類的な整理がなされ、各々に適切な分析批評がきちんとなされていることに言及するべきだった。でも、それはMorris.には向いてないんだよね(^^;)

確かに、LPジャケットの魅力はその大きさにあった。ミュージシャンの表情を原寸大で再現することも、楽器の細部を超拡大して見せることも、12インチの正方形なればこそ可能だったのであり、そうした魅力はCDのパッケージからは完全に失われてしまった。色彩の微妙なニュアンスやディテールの質感表現も、あのLPサイズを前提にしていた。
しかし、だからといってCDの小さな正方形がデザイン媒体として不向きと考えるのは、余りにも短絡的すぎる。小さいということならば、例えばタバコやマッチのデザインはどうなのか。それらは視覚的に劣るものだろうか。郵便切手のように、その小ささこそが魅力であるメディアであることも存在するのだ。


「マッチラベル」愛好家のMorris.(でも収集家ではない)は、ここの所で思わず快哉をあげてしまったよ。そうさ、そうだよ、そうなんだよね。金は財布に、神は細部に宿り給うんだもんんね。マッチラベルや切手と比べれば12cm平方のCDジャケットも、でっかく見えてきた。

もはや結論は明らかだろう。デザイン媒体としてのLPとCDの優劣を問うことには、何の意味もない。LPにはLP、CDにはCDそれぞれの大きさにふさわしいデザインがあるだけなのである(だからこそ、LPジャケットをそのまま縮小したCDは決定的に魅力を欠いてしまう)。CDパッケージにとって何よりも肝心なのは、そのサイズから発想することである。12cm四方の正方形ならではの「音楽の視覚化」は充分可能なはずだ。そのことはすでに個々のCD作品を通して実証されつつあるのではなかろうか。

パチ、パチ、パチ、パチである。
書き忘れてたが、本書はオールカラーで、これはこういった著作では必須条件だと思う。1p1作品のページ以外のページでも、レイアウトはそれぞれのジャケットの関連付けがわかるように、大きさや並べ方も趣向をこらし、実に丹念に、そして完璧に美的に処理されている。
重箱の隅を突つくことの好きなMorris.だが、本書のどのページをとってみても完成した一つのデザインとして成立していてけちのつけようもない。
それだけに、この表紙(カヴァー表紙)のデザインだけは、どうにかならなかったんだろうか?LPレコード盤を単純にデザイン化したものだが、ジャケットの本としてのインパクトを徹底的に欠いている。もしも、本書のどのページでもいいから、ぱっと開いてそれをそのまま表紙のデザインとして流用していたら、必ずや本書は格段に人目を惹き、Morris.も発売当時リアルタイムで手にしていた可能性大だったと思うのだがどうだろう。
「羊頭狗肉」の正反対で、あまりに勿体なさ過ぎると思ってしまった。なんて、結局重箱の隅をつついてしまった。怒らないでね沼辺さん(^^:)
評点の高さはヴィジュアルに弱いMorris.だからというだけでは絶対にないことを、ここに明言しておく。


【繁盛図案 エコノグラフィー】荒俣宏、北原照久 ★★★☆☆北原のコレクションの中から、メーカーのマスコットキャラクタ、広告図絵(引札、ビラ、ポスター、ラベル、チケット)、おまけ、看板を大判の総カラー図版で贅沢に仕上げた一冊である。
91年マガジンハウス刊だから「Popye」絡みなんだろうな。どっちにしろこれはなかなかいいマッチングで楽しめた。
Morris.はこのてのビジュアルものになると、覿面に大甘になってしまう。
それを差し引いても良く出来てる本だった。
北原のコレクターぶりもすごいが、とにかく収集品にものを語らせる荒俣の手腕もすごい。
この前中野のまんだらけで見たのとはちがうが、顔の黒いペコちゃんもちゃんといた。


【広告キャラクタ大博物館】ポッププロジェクト編 ★★★上記の本とベクトルと発行時期は同じだが、内容はお手軽というか、ほとんど同好会のノリである。不二家や仁丹など各メーカーに取材ということで、おんぶにだっこ状態。まあ、ぺこちゃんの顔の変遷くらいは知ってるけど、グリコの万歳ランナーとか、森永エンジェルの顔の変遷なんてそれほど興味も無いがつい見てしまう。ここでも北原コレクションが、かなり引用されている。
しろこさん、くろこさんの変化、日ペンの美子ちゃん四代記等など、今ではほとんどインターネットがカバーしてることを当時はこうしてちまちまと紙メディアで作ってたんだなと、Morris.も「サンボ通信」のこと思い出して感慨一入だった。


【失われた朝鮮文化 日本侵略下の韓国文化財秘話】李亀烈 南永昌訳 ★★☆☆「ソウル新聞」に72年に連載された特集コラムの集成で、20年後に日本語に訳されたものだが、かなり省略されているらしい。それでもいかにも韓国人による韓国国内むけの筆致のため、在日日本人であるMorris.からするとちょっと教条的過ぎるのではないかい、と突っ込みを入れたくなるところ(もちろん突っ込んだら5倍は突っ込み返されるだろうけど)もあった。
いわゆる「日帝36年」を中心に、日本人が朝鮮半島の石塔や石像、高麗青磁、埋蔵品、古文書、仏画等々の文化財を簒奪して日本に持ちかえり、いまだに大部分は失われたままであるということへの憤慨と、その経緯、特に大規模な収奪者や、重要物件への言及などが中心である。
66年の日韓会談で日本からの文化財の返還は一部だけ行われたが、かえってこれで一切解決というかたちになったことに、著者は憤懣やるかたないようだ。盗人たけだけしい、ということだろうが、一度流失した文化財はなかなか戻らないのは、世の常でもある。
大英博物館を例に出すまでもなく、海外美術博物コレクションは、原産国?からみると全て文化財の海外流出に他ならない。もちろんそれが寄贈や正式な購入でなく、略奪や、裏取り引き、盗品購入などの場合、問題はあるだろうが、ともかくも価値を認められて、保存されているということでまずはよしとするしかないだろう。破壊、喪失に比べればまだましである。
日本の浮世絵のように、欧米の愛好家が掻っ攫っていった後にその貴重さに気付いたりすることもある。台湾の故宮博物館の収蔵物なんか、大陸側から見ると収奪だろうし、台湾側からみると己が文化財を死守したってことにもなるだろう。主旨が著者の論旨と完全にすれ違っていると思うが、やや意識的である(^_^;)


【最後の波の音】山本夏彦 ★★★ 夏彦が無くなったのが2002年10月23日で本書は翌年の3月の発行だし、タイトルからして彼の遺作と言うべきものだろう。当然のこととして、残された他人が編集拾遺したもので、雑然としているし、あまりに同工のコラムが並びすぎて生前の諸本と比べると遜色があるようだ。
まあ、もともと、同じことを繰り返し言いながらそれを楽しませる術を売り物としていたきらいもあるから、これはこれでよしとしよう。Morris.は彼の良い読者では決してなく、かなり反撥しながらそれでも、どこか惹かれるものあって、たいていの著作を読んでしまったことになる。どの本を読んでも同じ顔が出てくる金太郎飴のような本ばかりだが、それでいて実に印象に残る寸言の大盤振舞みたいに思わせる所がすごい。
これら寸言を植田康夫が編集した「山本夏彦名言集 何用あって月世界へ」(ネスコ1992)という、とてつもなく便利な一冊があって、これはMorris.も愛蔵している。最後の10年分が欠けているわけだが、もし増補版が出たとしても大して変わりはなかろうと思う。
本書21pに「アサヒグラフ」の廃刊に関してのコラムがありこの中で「玉石集」に触れている。

戦後のアサヒグラフの呼物の一つに「玉石集」があった。敗戦直後の大混乱のなかにあって騒がず怒らず平然たる匿名のコラムだった。高田保の「ぶらりひょうたん」に伍して遜色ない字句で、筆者飯沢匡と仄聞した。

ああ、そうか、あれは飯沢匡だったのか、と、Morris.は納得がいった。実はMorris.は昭和23年発行の「玉石集」豆本を上六の天地書房の均一台で掘り出して面白く読んだ記憶がある。(2000年読書録)そのパロディや替え歌に感心したが、まさか一人の作とは思わなくて、複数の編集子たちの手腕に賛辞を呈していたが、もし夏彦の言う通りなら、飯沢匡の株がずいぶん上がることになる。それにしてもこういったネタを提供してくれると言う意味でも夏彦コラムはありがたかった、と、今更ながら惜しまれる。
魯迅のペンネームが二葉亭四迷が訳したツルゲーネフ作「うき草」の主人公ルーヂンから取ったなんていうネタもMorris.には興味深かった。

祖国とは国語だ、それ以外の何ものでもないという言葉を私は大好きで、あんまり引用したので私の言葉だと思っている読者があるが、当代の碩学シオランの言葉である。

Morris.もうっかりこれは夏彦の言葉だと思ってた。驚いたのは表紙の小さな海の絵が、田中一村の「足摺狂涛」だったことだ。これには夏彦の意向がはいってるのだろうか?


【猪飼野物語 済州島からきた女たち】元秀一 ★★★☆短編7つが収められている。「季刊三千里」その他の在日関連雑誌に掲載された5編に書き下ろし2作を加えたもので、87年草風館からの刊行。Morris.が韓国を訪れ始めた前の年だが、その頃は作品の存在すら知らなかった。
著者は50年生まれで猪飼野に育ち、中学生のとき新興住宅地に移転し、それによって猪飼野の暮らしを相対化してみることが出来るようになったと書いている。小説としてより、Morris.は猪飼野の当時の風俗、交流などを生き生きと描いたた点描として.楽しませてもらった。
済州島訛りの朝鮮語の語彙が頻繁に出てくるし、タイトル副題にあるように、特に済州島出身の姐さんたちのたくましい言動が、身内ならではの視点と観察から、目に浮かぶように描写されているところが、本書の魅力だろう。
著者自身とその家族をモデルにしている部分も散見されるし、朝鮮戦争と、その前の済州島43事件(この事件に関連して猪飼野に逃げてきた朝鮮人は多い)などの祖国の混乱と、それに呼応する在日社会の動向が肉声で話されるあたりも興味深い。
何よりも、他国での貧しい暮らしと差別の中にありながら、たくましく生(性も欲も含めて)を謳歌する、すこーんと突き抜けた明るさだろう。

猪飼野を南北に縦貫する運河に面してかつてたくさんの[トットナリ]と呼ばれる長屋があった。もちろん[トットナリ]という後は済州島人による造語だ。
[トットナリ]は「トッ」と「トナリ」に分解できる。「トッ」は正確には「トック」であってハングルだと「닭」と表記され発音も「タック」となる。それは「鶏」を意味する。「トナリ」は「隣近所」の「隣」を意味する日本語であることがわかる。
つまり、[トットナリ]は「鶏」小屋同然の家が「隣」合った長屋を指す。まあ、言ってみれば、からだひとつで猪飼野に流れ着いた済州島人のユーモラスな言語感覚の所産と言えるかもしれない。


【ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本】向山淳子+向山貴彦 絵=たかしまてつを ★★★☆数年前書店の平台に並んでいたときぱらぱらと眺めた覚えがある。星の数ほどある英語入門の一冊で、すかすかでイラストがセンスが良くて、これなら売れそうだと思ったがベストセラーは基本的に読まないMorris.だから、そのままになってた。センターの古本市で見つけて時間潰しに買って読んだ。170pの小型本で字は大き目、イラストが多いし、同一の文を構成分解しながら再掲してあるから、普通の本なら80p分あるかないかくらいだろう。
しかしなかなか良く出来ている。第一にイラストが色を押さえて的確かつ雰囲気を出している。
第二に文法を簡潔にまとめて自分の言葉で再構築している。
はじめに示されている基本姿勢がユニークで説得力がある。
何よりも「読むこと」を重視して、本書は英語の本を読むためのとっかかりであると宣言していることは、Morris.にぴったりといえるだろう。著者(淳子)の前書きにある「言語を学ぶ魔法の手段はありません。でも、言語自体は魔法です。その魔法に、今、少しだけ手を伸ばして触れてみてください。」という言葉はMorris.も共感した。

定冠詞、不定冠詞を「特別な化粧品」、前置詞を「接着剤」と名づけての解説も、実にわかりやすく、これだけでも一読する意味があると思う。
どちらも、日本語に翻訳できないものとあっさり決め付けた上で、ニュアンスをこれまたユニークで鋭く解き明かしている。

・aはぽつんとしたスポットライト。theは華やかなスポットライト。
・in,outは『内包』の接着剤。ある一定の外枠を定め、その中にあるものをin,その中にないものをoutとする接着剤。
・on,offは『接触』の接着剤。ある一定の基盤や基準を定め、そのどこかに接着し続けているものをon,接触していないもんをoffとする接着剤。onは動いているものに「乗っている」という印象がある。
・atは『標的』の接着剤。ある一定の範囲の中で特定の点を狙って、ピンポイントで攻撃するような感覚の接着剤。toが漠然と向きを説明しているのに対して、atはより場所を絞り込む。主体の積極的な意志が込められている。
・toは『目標』の接着剤。ある一定の範囲を定め、概ねその方向を目標として進む場合に用いる。比較的漠然とした大きな動きを表現する接着剤。
・by,withは『依存』の接着剤。ある一定のゆるぎないものに依存している、もしくはよりかかって、それを頼りにしている状態。
・ofは『所属』の接着剤。何か一定グループに「所属」しているこを示す接着剤。
・forは『譲渡』の接着剤。意思に反して「渡す」のではなく、「捧げた」という善意の心が働いている接着剤。


おお流行りの英会話教室には疑義を呈していて、これもMorris.の気に入る所かもしれない。

多くの英語会話教室は身になる英語をおしえるのではなく、いくつかのフレーズや文を暗記して、パターンを作り上げていく形で英語ができたと感じさせることを目標としています。言ってみれば、簡単な英語の脚本を憶えるようなものです。本格的なコミュニケーションをするのは無理ですが、海外で買い物などをするだけなら便利かもしれません。

と、なかなか皮肉を利かしているし、日本の学校教育英語の矛盾についても次のように簡潔に批判している。

日本では「英語」というとひとつの言語を「英文法」「英会話」「ヒアリング」「長文読解」「英文和訳」など、多数の分野に分けて語る傾向があります。これはたぶん世界で日本だけの現象です。
やはり、英語は英語なのです「英会話」というジャンルも「ヒアリング」というジャンルも存在しないと私は思います。あえてあげるとすれば、英語を学ぶということは、英語を「読む」ということです。


この本はおしまいまで行くと、再読をしつこく要請している。Morris.もとりあえず1回は普通に読み、2回目はおおざっぱに。3回は30分くらいでぱらぱら読みしたのだが、これで英語の実力が付くわけもないが、久しぶりに英語の本を読みたくなったのも事実である。


【超実践的最新DTP入門】木村義治 イラスト=カムカム ★★★☆☆ 「Mac Fan」誌連載の「こちら大久保デザイン事務所」を再編集したもので、すでに2冊が既刊で3冊目になるらしい。
Macとは全く無縁、DTPとは20年前に手を切ってるMorris.が、何でこんなの見ようと思ったかというと、面白そうだったから(^。^)に決まっている。QuarkXPressというDTPソフトなら名前くらい聞いてたが、本書ではAdobe-Indesignというソフトとの共用ということで、両者の差違も知ることが出来そうだし、なんといいっても、オールカラーのアニメタッチのイラストとページレイアウト見るだけでも楽しそうだ。
おまけに本書は「超実践的」の名に恥じない付録企画があって、各見開き欄外に、色見本と、書体見本が載せてあるし、驚いたのは16pごとに印刷用紙を変えて16種類の紙見本になっている。これは実に手間がかかってるし、印刷インクののりや発色を見るのに便利だ。
webに関する記事はいくらか参考になったし、フォントや異体字は以前から興味があった。OpenType日本語フォントは、Mac、Windows共用ということで、これからの主流になりそうだ。
でも、まあ、わかってもしかたがないといえばそれまでだし、そんなこんな言う前にモリス亭の救いがたいPC環境を何とかするのが先決だろう。
しかし「MacFan」だけあって、ウイナー(Windows信奉者)のキャラは思いくそひどい設定だった。


【境界殺人】小杉謙治 ★★★ 法廷物を多く手がける著者の作品はこれまで10作くらいは読んでると思う。
本書は女性の土地家屋調査士を主人公に、複雑な家族問題を抱える隣接した両家の境界争いに関わる殺人事件に、登校拒否児童の問題などを絡めた社会派敵作品で、例によって、弁護士や、法曹界、そして家屋調査士の業務内容や測量などを、細かに描くところは、それなりに読み甲斐があった。
30代半ばの主人公と、包容力のある主人、リハビリ中のベテラン調査士だった父親、元登校拒否だった従業員の若者との淡い恋情など色々とり混ぜて、飽きさせない作品になっているが、主人公がいまいちたってないところだろう。
女性蔑視がいやで、一般会社を退社し、父のやっていた事務所を手伝いながら、資格を取り女性には珍しい調査士となり、後進の育成を期待するという、女性のことを書くのに、女性ならぬ作者が変に遠慮してるような気がしたのだった。


【幸福さん】源氏鶏太 ★★★ 昭和28年(1953)毎日新聞に連載されたもので、何で今ごろこんなのを読んだかというと、5年前に復刻版が出てたのが目についたからだ。
源氏鶏太といえば、50年代中心の大衆小説家の第一人者といってもいいかもしれない。サラリーマンものというジャンルで絶大な人気を誇っていた。「三等重役」なんて一種の流行語になってたし、映画にもなったと思う。Morris.は、幼時から乱読家だったから、彼の作品もかなり読んだはずだ。
半世紀前の作品ということになる。53歳の花子さんが思いを寄せる59歳の丹丸さんとの老年恋物語(^_^;)に、身の回りの若人の恋愛話が絡むという不思議なシチュエーションで、当時の恋愛観や、世代のギャップなどがわかりやすく描かれているし、なんといっても、新聞小説の特徴である、やたらちいさな盛り上がりが頻出するが、それがあまり煩わしくないどころか、物語りの興味を繋いでいくところが、著者の本領発揮なのだろう。
久米勲の解説がなかなかいいところを突いている。

幸せを求めて日々を生きる人々、そしてその人々が皆、その目的の幸せを達成できそうな雰囲気でこの作品は終る。というと、この作品自体が「幸福さん」なのかもしれない。
善人の集まり、皆が皆、自分の回りの人達に対して、善かれと思うことを行なう。まさにユートピアだ。
源氏鶏太の目指す作品世界は、作者自身が生きている現在のどこにでもありそうな社会のユートピア化、とでも言ったらいいだろうか。どこにでもありそうなと書いたが、ありそうでいて、決して現実にはありはしない社会なのだ。だからユートピアなのだ。

また、これも久米が言及しているが、源氏鶏太の作品にはいろんな物の値段が明記されていて、これが、後になって読み返すとき実に興味深い。
いくらか、抜き出しておく。

・丹丸さんが追放後会社役員にならず顧問となった顧問料=一万五千円
・丹丸宅に居候の兄妹(親友の忘れ形見)の兄明朗君が買ってきた安物の靴下=五十円
・妹みさきさんが贅沢品として買ったナイロンストッキング=六百円
・明朗君の月給=一万二千円
・みさきさんの月給=五千五百円
・みさき「いつもは三十円のトンカツを買うんだけど、今日は、特別に五十円のをつくって貰ったのよ」
・花子さんが毎月息子から貰う小遣い=二千円
・丹丸さんの娘美加子さん(戦争で夫を亡くし、別の男と家出中)が、丹丸さんが預かってる息子正美君の誕生祝にと送金した為替=千円
・明朗君が勤務する化粧品会社の同僚、マネキンも兼ねる弘子さんの給料=一万二千五百円
・弘子「あそこの鮭、十七円にしては、安いわ。
明朗「普通は?」
弘子「二十円。だから、六円の倹約よ。」
・みさきさんが好きになった加東君の母の提示した嫁入り支度金=百万円
・失恋したみさきさんのために、明朗君が清水の舞台から飛び降りるつもりで作ってやることにしたワンピース=一万円
・みさきさんの友人佐登子さん「まあ、おどろいた。加東さんとこのお父さんは、会社の部長さんでしょう?部長さんの月給なら、いくら多くても、五、六万円でしょう。いったい、何をしたら、娘ひとりに百万円の支度が出来るようになるのよ。」
・コーヒー代=五十円
・明朗君のボーナス=前期一万五千円、今期二万円
・社長の姪モエコさんのボーナス=三千円
・明治神宮外苑にある大正記念館の結婚式料金=高砂 五千円、松 三千円、竹 二千円、梅 千円
・花嫁の洋装式服の借賃が五千円、着付料が千三百円、招待客が二十人として、一人五百円で一万円、結局三万五千円くらいは、やっぱりかかった。


物語りが、みさきさんと九州の山奥で働く花子さんの遠縁にあたる次郎君の結婚式で目出度く終り、明朗君とモエ子さんのロマンスもまとまりそうな気配、美加子さんにも再縁の芽があるし、丹丸さんと花子さんも---と、大団円の予感を含むエンディングは、新聞小説の読者に満足感を与えるパターンだろう。これを機に源氏作品を読み返そうという気にはならないが、たまにこうした懐かしい雰囲気を味わえたのは良かったと思う。


【タブロイド時評】泉麻人 ★★☆☆夕刊フジに連載しているコラム「通勤快毒」をまとめたものの第二弾で、2001年から2003年の記事だが、この手の時事ネタはほんとに生鮮ものだから、こうやって2年後、3年後に見るとけっこう情けないものが多い。まさに賞味期限切れまくりである。いっそ20年くらい後になってみたら、意外性が際立ってそれなりに読みでのあるものになるかもしれない。
ともかくも、100編ほどのコラムが掲載されていて、9.11同時多発テロ、W杯、北朝鮮拉致被害者帰国などの、ニュースネタは今読むと、全く面白くないか、筋違いというか、著者がよくわかってないということがよくわかる仕組みになっている。
そのかわり、おたく系というか自分好み分野の端ネタの扱い方は、時々なるほどと思わせる切り込みがあったりする。特に東京の数十年前の風景への固執ぶりは相当な思い入れがあるらしく、後にNHK映像で「東京風景」という5巻物ビデオの監修までやったらしい。
ナンシー関とは知人で、彼女の早世の直後のコラムには一緒に行ったカラオケの思い出なども書いてあったが、消しゴム版画への追憶は的を射たものといえるだろう。

彼女の消しゴム版画の魅力は、対象人物(主にテレビにでている有名人)の単なる[似顔絵]でなく、彼らのコレという瞬間の表情をズバッと射止めた、というところにある。そして、傍らに添えられる”吹き出しの一言”の的確さ。たとえば辻仁成のヨコに「パリで……」と記すような。評論文の才については、いまさら語るまでもないだろう。「辛口批評」とよく表されていたけれど、毒と茶目っ気との塩梅がとても心地良い、上質のタイ料理みたいな文章であった。

「上質のタイ料理」という比喩あたりが、いかにも著者らしいね。なかなかキマッた!って感じと、「オレは上質のタイ料理食ってるんだぜ」という自慢な綯い交ぜになったような……


【ことばの流星群 明治・大正・昭和の名詩集】大岡信[編] ★★★ 1984年に「愛の詩集 ことばよ花咲け」というタイトルの文庫として出版したものを、20年後にA5版ソフトカバーの単行本として内容そのままに復刊したと、あとがきに書いてある。
いちおう明治から昭和59年までの時点での、日本の主だった詩人110人ほどを選び、生年順に並べて、100字前後の紹介と、1編から数篇の詩を収めている。明治、大正の詩人はわずかで、基本的には昭和詩集、それも戦後の詩集中心という感じが強い。初版が出たときMorris.は30代半ばだから、詩を良く読んでた時期はとっくに過ぎてたから、これも読まずじまいだったのだろう。とりあえず印象にない。
ただ、本書に選ばれてる詩人で未知の人はほとんどいないし、掲載作品も6割くらいは知っていた。
日本の戦後詩人は東大出身がえらく多いような気がする。というのも短い紹介に、学歴が書かれているからだ。詩人の紹介に学歴はいらないのではないかという気がしないでもないが、それにしても東大が多いなあ。編者である大岡の作品も収録されていて、彼の紹介を見たらやっぱり東大卒だった。本書の詩人の選択に学閥がからんでるってことはないだろうな(^_^;)
本書で一番びっくりしたのは、高田渡が唄ってた「系図」が、三木卓の作品だったということだった。高田渡は山之口獏の「生活の柄」を唄ってるのは当時から知ってたし、後年には金子光晴の詩なども歌ってたが、この「系図」は何となく高田の自作だと思い込んでいたのだった。

系図 三木卓

ぼくがこの世にやって来た夜
おふくろはめちゃめちゃにうれしがり
おやじはうろたえて 質屋へ走り
それから酒屋をたたきおこした
その酒を呑みおわるやいなや
おやじは いっしょうけんめい
ねじりはちまき
死ぬほどはたらいて その通りくたばった
くたばってからというもの
こんどは おふくろが いっしょうけんめい
後家のはぎしり
がんばって ぼくを東京の大学に入れて
みんごと そつぎょうさせた
ひのえうまのおふくろは ことし60歳
おやじをまいらせた 昔の美少女は
すごくふとって元気がいいが じつは
せんだって ぼくにも娘ができた
女房はめちゃくちゃにうれしがり
ぼくはうろたえて 質屋へ走り
それから酒屋をたたきおこしたのだ

大岡はあとがきで「本書に並んでいる人々を眺め渡すと、昭和時代から平成時代にはいって大いに活躍している若手(当時の、です)詩人たちの顔ぶれがずらりと並びます。アンソロジーの編纂にあたっては、新しい時代に入ってその編み方の真価が問われるようなことは、できるだけ避けたいものだ、と考えるのは当然ですが、今見直してみて、私の編み方には大過なかったように思われるのは、ほっとする事でありあます。」と書いているが、Morris.はどうも納得できなかった。
それよりも、なによりも、Morris.が当時好きだった吉岡実の名作「僧侶」のラストに、とんでもない誤植を発見してしまった。

僧侶 9 吉岡実

四人の僧侶
硬い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共にわらう
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
蝿のきれる時代まで死んでいる

「蝿」じゃなくて「縄」だろう。しかしひょっとしてMorris.が誤解してるのかもしれない。思潮社の現代詩文庫を引っ張り出してチェックしたらやっぱり「縄」だった。まさか、これ、文庫版のときから誤植ってことはないだろうな(^_^;)


【ミシン missin'】嶽本野ばら ★★★☆著者の処女小説で、表題作と「世界の終わりという名の雑貨店」の2篇が収められている。全体で134pという薄手の本だから、二つの短編といっていいだろう。
野ばらは「ツインズ」を最初に読んでちょっと拒絶反応だったが、エッセイとこの前読んだ「下妻物語」が結構面白かったので、やっとこちらも読む気になった。読後感は好悪相半ばするってところかな。パンクバンドの女性ボーカルに夢中になったチビでブスでデブなアナクロ少女趣味の女の子の物語だが、この歌手の名前が「ミシン-美心-missin'」という一種の語呂合わせである。バンド名が「死怒靡瀉酢(シドヴィシャス)」というのはあんまりだと思うが、彼女の作詞になる二曲の歌詞はそれなりに面白かった。ただしタイトルはこちらも「ロリータ・デス」と「星の玉子」と、語呂合わせである。ストーリー的にはこちらの方なのだろうが、内容的には「世界の終わり--」が印象深かった。
著者自身をモデルとした男が個人的な雑貨店を開き、そこに来た口の聞けない美少女(ただし頬から首にかけて大きな痣がある)と、津和野に逃避行し、連れ戻された少女が自殺した後、彼女からのの手紙を受け取り感慨にとらわれると、こう書くと普通の恋愛小説みたいだが、そこはそれ、このエクセントリックな著者の作だけに、色んな仕掛けがあり、一種のホラー小説と言えなくも無い。
「ミシン」ではMILK、「世界の--」ではVivienne Westwoodというファッション・ブランドへの偏執ぶりが、作品のイメージとなっているが、Morris.はこの辺には全くうといので、良く分からなくなってしまう。

このままいけばじり貧であることは解っていました。だからといって、僕は自分お商売の方法を変えたり、生活を切り詰めることをしようとはいたしませんでした。僕にとってそんなことをするのは、貧乏くさいことだったからです。貧乏であることは僕の中で、ちっとも悪いことではありませんでした。しかし貧乏臭いことは諸悪の根源でありました。貧乏と貧乏臭いとは何処が違うのか。例えば、僕のマンションには金子國義のリトグラフが数点あります。本当は國義の油彩が欲しいところですが、僕は油彩なぞ買うだけのお金を持っていません。だからリトグラフで我慢するのです。この貧乏を、僕はちっとも悲しいことに思いはしないのです。しかしそのリトグラフを買って、それをプラスチックの安い額で額装することは、いけないことだと思うのです。貧乏臭いことだと思うのです。リトグラフしか買えずとも、とびきり高価ではなくともある程度お金をかけたお気に入りの額に絵を入れることをしなければ、貧乏は悲しくなってしまいます。僕は収入がなくとも、毎日名曲喫茶でお茶とサンドウィッチを頼むことを止める気にはなれませんし、二ヶ月に一度Yohji YamamaotoかCOMME de GARCONSでお洋服を買うことをセーブする気にも全くなれませんでした。お金がないからといって、自分のライフスタイルを制限することはとても貧乏臭いことなのです。自分のライフスタイルを制限し、貯蓄をし、通帳の残高を確実に増やしていったとて、それが何になるのでしょう。僕はお金がなくなれば借金をしてでも、自分のライフスタイルを守っていくつもりでおりました。

引用したとっかかりの部分(どこかで聞いたことがある気もするが)にはMorris.も同感である。だが、その後の展開には付いていけない、というか、おいおいそれは違うだろう、と、突っ込みを入れたくなる。しかしそれが野ばらのスタイルであり、身上でもあるんだろうな。
野ばらのレトロ少女趣味は、中原淳一や吉屋信子など、Morris.の趣味とかなり重なる部分が多く、そういった意味では面白いのだが、どこか、とんでもなく乖離する部分もあって、何となくもどかしい気分にさせられる作家である。


【君はこの国を好きか】鷺沢萠 ★★★☆☆ 表題作とその5年前に書かれた「本当の夏」の2篇が収められている。Morris.は収録とは順序を逆に、表題作を先に読んだ。
先般鷺沢萠が亡くなった直後に、うり丸さんが自サイトの日記でこの作品について書いていて、Morris.はまだ今作品読んでなかったので、これを機によむことにしたのだ。
ある作家が死んだからその作品を読むというのもあまりいい趣味では無いかもしれないが、ともかく、Morris.は彼女についての認識を新たにすることになった。
「ケナリも花、サクラも花」を発表直後に読んで、あまり良い印象を持てなかったのだった。88年に初めて韓国に行き、すぐにはまってしまい、韓国語を学び始めた頃だったから、変にバイアスをかけて読んだのかもしれない。小説の形を取りながら私的エッセイみたいだったし、韓国や韓国語についても、えらく不徹底な認識しかもってないようだ、とか、えらそうに思ったりしたわけだ。
そして、今回読んだ「君はこの国を---」にも、「ケナリも花---」と同じような傾向を感じながら、彼女の韓国語への思い入れには、以前と正反対の印象を受けてしまった。これは、Morris.の韓国語への思いの変化(退行)に起因するようだ。
何よりも「在日日本人」であるMorris.と、「在日韓国人」である鷺沢萠(彼女は日韓のハーフだが)の立場の違いが大きいんだろうな。

ほんとうに雅美が書きたかったのは、「あたしは困っている」ということだった。この国の人々のがさつさ、煩さ、図々しさに、慣れなくては、慣れなくてはと自分自身に言い聞かせてもやはり慣れることかできない、と。韓国籍を持っている自分がまだ上手に韓国語を話せないというだけで、なぜこんなにも肩身の狭い思いをしなければならないのか、と。日本にいるときは韓国人であることを恥ずかしく思ったことなど一度もない自分が、自国にいてこんなに恥ずかしい思いをするのはどうしてなのか、と。

Morris.も韓国に行きだしたころから、韓国人が在日韓国人に対して理不尽とも言うべき、対応をとることに腹立たしく思ったことがあった。しかし、これもやはり「対岸の火事」でしかなかったということが、今になってわかる。
韓国語にしても、日本人が片言交じりの発音もいいかげんな韓国語をちょっと操ったら、えらく喜ばれたり、びっくりされたり、上手だと誉めまくられること請け合いだ。これが在日韓国人だったら、韓国語ができないなんてのは論外で、かなり上達した人でも、ちょっと発音が違ってたり文法間違えたりすると、手厳しく注意される。いや、罵倒されることすらある。Morris.はこれは、韓国人の在日韓国人差別と認識していたが、単純にそれだけではすまされないものがありそうだ。誤解と理解不足、憶測と妄想、羨望と侮蔑、いわゆる愛憎の混交(ambivalence)状態なのだろう。

少なくとも鷺沢萠はそれらの悪条件に負けそうになりながらも韓国語の学習意欲にすがって、一つの目的を達成した、ということは認めざるを得ない。
彼女がウリマル(私たちの言葉=韓国語)をウリナラ(私たちの国=韓国)で学ぶために留学してさまざまな経験をしたという意味では、先に書いた友人うり丸さんも、似たような立場、境遇を共有しているから、ひときわ思い入れ強くこの作品を読み、また読み返されたのだろう。
「ほんとうの夏」は在日の男性を主人公にした作品で、日本での外国籍生活者の悩みや、交流、日本人世界での生き方などを爽やかに書いた好篇であるが、やや印象は弱い。
Morris.は鷺沢萠(さぎさわめぐむ)を、ずっと鷺沢萌(さぎさわもえ)と思い込んでいた。彼女の死後、某掲示板で、同様の誤解をした人の書き込みに、訂正のレスがついていたことで初めて気づいた。今さらながらではあるが、彼女の霊に謝辞を述べ、冥福を祈りたい。


【杯 カップ】沢木耕太郎 ★★★ 朝日新聞、AERAなどの依頼を受けて、2002日韓共同開催ワールドカップを取材した際の日記である。もちろんAERAに連載されたものが中心で単行本にまとめる際に試合を見ない日もふくめた34日分の日記を全部収録したらしい。
ソウル新村にアパートを借りて、そこを拠点として、ほとんど、希望する試合見たい放題で、チケットは新聞社が確保してくれるし、日韓両国のスタジアムへの交通手段も自分の裁量で好き勝手という、羨ましいというより妬ましいくらいの好条件で、ワールドカップを満喫したらしい。
沢木といえば「深夜特急」のイメージが先に出るだけに、本書でのリッチな移動スタイルと、それでもぶつくさ文句いうところに違和感というか、がっかりさせられもした。
沢木は初めに白状しているようにサッカーへの関心も知識もほとんどなかったようで、泥縄式に覚えたり、詳しいスタッフやブレーンからの受け売りみたいなのも垣間見えるし、試合への言及もちょっと変なところもあるのだが、トルシエ嫌いというのは、Morris.と同じで、辛辣なトルシエ批判だけでも面白かった。
しかし、やはり本書の眼目は、サッカーの試合そのものより、日韓両国民のワールドカップへの反応の差異をリアルタイムで両方の現場で観察し得た立場からの感想や意見だろう。
まさかと思われた韓国の躍進ぶりにだんだん沢木も韓国国民の興奮状態に感染していくあたりが、Morris.にも当時の雰囲気を思い出させてくれるという意味で嬉しかった。
光州での韓国-スペイン戦を観戦したあと、見知らぬ韓国人の車でソウルまで送ってもらったあとの感想。

帰る手立てがなかったかもしれない私をソウルまで連れてきてくれたことはもちろん嬉しかった。だが、それより私を幸せなきぶんにしてくれたのは、彼らのその表現は控えめだったにもかかわらず、韓国が勝ったことを深く喜んでいることが確実に伝わってきたからだった。私を誘ってくれたのも、その喜びのひとつの表現だったかもしれない。きっと彼らの幸せな気分はいま韓国の人々が等しく味わっているものなのだろう。するとその真っ只中に韓国の国土を縦断してきたことが、何かとても素晴らしいことのように思えてきた。

そして、日本がトルコに負けた試合を観戦したあと、TVで韓国-イタリア戦を見た後の感想。

私は感動より悔しさの方が先にあった。あらためて日本が負けたことが残念だったのだ。
どうして残念だったのか。ベスト8に残れなかったからか。勝てる試合だったからか。勝てばさらにベスト4に残る可能性があるという、こんなチャンスは二度と来そうもないからか。
それもある。しかし、私には、それ以上に、日本代表の選手たちが立ち上がれなくなるほど戦い抜いたという満足感を抱けなかったろうことが残念だったのだ。彼らは、トルコとの戦いですべてを出し尽くしただろうか。エネルギーを燃やし尽くしただろうか。もう一歩も動けないとういほど動いただろうか。
もし、韓国が延長で破れていたら、日本の選手たちのように淡々と場内を一周などできなかったろう。ピッチにうずくまり、立ち上がれなかったろう。背負っているものの重さの違いが、そこにもある。この試合もまた、ソウル市内で数十万人もの人々が市庁舎付近に集まり、みんなで大画面を見ていたという。その彼らの思いが韓国の選手たちには背負わされているのだ。それはある意味で重苦しいものだろうが、一方で最後まで諦めないで戦うという精神的なものの支えにもなっているのだ。
そして一方で、もし韓国が延長戦で破れていたとしても、韓国の人々はある満足感を抱いただろうと思えた。なぜなら、韓国の選手は極限まで戦いつづけ、エネルギーを燃やし尽くしたからだ。それが韓国の人々を燃やし尽くし、充足感を与えただろうから。


以上の二つの文には、共感を覚えた。ああ、こんなことなら、Morris.もあの時期に韓国に行くんだったな、と、あまりに今更ながらなことを考えてしまったよ。
本書ではなぜか、スタッフやカメラマンなどの日本人の姓をカタカナ表記にしてある。これが実に気持ち悪い。サッカー選手や、著名人は漢字で書いてあるだけになおさらだ。逆に韓国人名はすべて漢字表記(ふりがな付き)で、これは文句を言う筋合いでもないが、金清美という、韓国人女子大生の名前に限って「ヒョミさん」とカタカナ表記になっている。それはまあいいとしても、「清美」は韓国での発音は「チョンミ」である。「ヒョミ」というのは、たぶん彼女が日本語読みの「きよみ」と発音したのを沢木が聞き取り損なったのではないかと思われるが、新聞社や出版社での校正でチェックできなかったのかが気になる。数箇所にわたって何度も何度も出てくるだけに、これはみっともない。


【石ころだって役に立つ】関川夏央 ★★★☆ 97年から99年にかけて角川の「本の旅人」に連載されたエッセイの集成だが、著者はこれがレトロだから恥ずかしいという理由で、出版を躊躇していたらしい。
Morris.は、関川には、韓国への関心を喚起してもらったという恩義がある上に、同世代としての代弁をしてもらってるような感じもあって、結構好んで読んできた。
須賀敦子やサルトル、ルナールの「にんじん」、映画「道」など著名な作品や作家へのプライベートな感懐や、若かりし頃の同棲相手との私小説風な会話、幼い頃からの読書癖と愛書家だった父への言及、母への愛憎など、ごった煮みたいな内容だが、Morris.にはそれぞれが懐かしく感じられた。
われらの世代を形容する「団塊の時代」という言葉は、70年代の半ば、太平洋の海底にマンガンの団塊が天然資源の有効活用になるのではないかというニュースから、時の通産省の官僚で、田中内閣の日本列島改造計画のブレーンでもあった池口小太郎が命名したなんて、小ネタがあったりもする。知ってる人は知ってるだろうが、この池口氏は、後の堺屋太一というのも驚きだった。
タイトルは、映画「道」に出て来る綱渡り師ベイスハートがジェルソミーナに言う台詞から取られている。

「俺は無学だが何かの本で読んだ。この世の中にあるものは、みんな何かの役に立つんだ。たとえばその小石だ。どの石だって、何かの役に立っている。神様はご存知だ。お前の生まれる時も、お前が死ぬときも。おれには小石が何の役に立つかわからない。でも何かの役に立っている。この石が無益なら、すべて無益だ。空の星だっておれはおなじだと思う。お前だって、おれにはよくわからないが、何かの役に立っている。アザミ顔のブスでも」

ははは。たしかにちょっとレトロだね。でも、レトロってそれほど悪くないと思う。


【アリゾナ無宿】逢坂剛 ★ 結構最近お気に入りの作家なのに、こんなのも書くのかと呆れてしまったよ(>_<)
タイトル通りアリゾナを舞台とした西部劇らしいが、賞金稼ぎと、身寄りのない女の子、そして記憶喪失の日本人サムライの3人が主人公なのだが、いや、もうこれは小説以前の作である。時間の損としかいいようがない。この作家のことだから、どこかで山場があるかと、読み通したが肩透かし。腹が立つというより、情けなくなってしまった。


【旧かなを楽しむ】萩野貞樹 ★★★★☆ いわゆるハウトゥもので、この手の本はおおよそ好事家が、自分の趣味と知ったかぶりを披露して悦にいってるのが相場だろうが、それでも旧かなの覚え方の一助にでもなればもう獣、ちゃうちゃう、儲けもの(^_^;)くらいに思って借りて来たのだが、これが飛んでもない嬉しい誤算だった。
副題に「和歌・俳句がもっと面白くなる」と書いてあったりしたから、なおさら軽く見くびってたのだが、実にしっかりとポリシーを持った著者の姿勢に共感を覚えると共に、旧仮名遣いの正当性というか、新仮名遣いの矛盾を明確に例証した上で、旧仮名遣いならびに文語の美しさと表現力を賞揚しているところが素晴らしい。

旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)+文語の助詞、助動詞の豊かさ=韻文作品の必須条件

というのが、著者の結論のようで、Morris.ももろ手を挙げて賛同したい。
とはいいながら、今や「歌を忘れた歌人、俳人ならぬ廃人」のMorris.であるから、今更という感無きにしも在らずか。
仮名遣い以前に助詞、助動詞の誤用についての指摘は、Morris.もこれまで相当の過ちを犯してきているようで、目から鱗に冷汗三斗の思いだった。

太田行蔵といふ、実に繊細な歌を詠んだ歌人があります。この人は歌人たちの「し」の誤用をつねにいましめ、なたなげいてゐました。『四斗樽』といふ著書まであります。もちろん『シとタル』の誤用に気づけといふ願ひであり叫びでした。存命中は事つひに成らなかつた。無念だつたでせう。
「似た顔」「歴史を持つた国」「子を抱いた骸」「塗料のはげた家」「撓んだ心」などの「た」は文語「し」にはなりません。「た」は意味のまつたくちがつた語です。完了・存続の助動詞といつて、いまある状態を表す語です。
「錆びた釘」「曲がつた腰」「ぶら下がつた紐」「あきれた振舞」「さめた心」「しやがれた声」などと同じものです。それを現代の歌人の大方は、「錆びし釘」「曲がりし腰」「ぶら下がりし紐」「あきれし振舞」「さめし心」「しやがれし声」、とやる。この滑稽には是非気づいてください。


ともかくも、この「し」と「たる」の誤用だけでも、Morris.歌集を総点検する必要がありそうだ(>_<)
また「恋する」ではなく文語「恋ふ」の活用についての指摘も大事だと思う。

なにしろ叙情の和歌の世界でもつとも基礎的な語彙と思はれる「恋ふ」の運用の知識が欠けてゐるのは困つたことです。みなさんは、恋ひズ、恋ひタリ、恋ふ、恋ふるトキ、恋ふれドモ、恋ひよ、すなはち
ヒ・ヒ・フ・フル・フレ・ヒヨ
の形(上二段活用)は何度でも練習して、かならず覚えてください。


このように文語の活用のことも、Morris.はすでに忘れかけているので再学習の必要を覚えたが、本書では実にわかりやすくまとめられている。
さらに、現代国語教科書に引用されてる、近代文学作品を、強引に新仮名遣いに改変(改竄)している没義道ぶりへの批判も鋭く、納得させられた。
著者の結論というべき文語の特長と、文語の作品を新かな表記にすることの矛盾点の羅列を。

◎文語は、文末ほか表現に変化があつて多彩な表現ができる。
◎文語は微細な意味のちがひを的確に表現できる。
◎文語は複雑なことがらも短く表現できる。
◎文語文はわかりやすい。
◎文語・新かなでは意味不明となる。
◎文語・新かなでは意味が逆になることがある。
◎文語・新かなでは冗長となる。
◎文語・新かなは内閣告示に反する
ぜんぶまとめてひとくちで言へば、最初に言つたやうに、
新かなは不便である
といふことです。


実にわかりやすく、理に適った論であると思う。
著者は漢字熟語は基本的に漢字表記すれば良く、読み仮名の仮名遣いにはあまりこだわらないという立場を取りながらも、日本語化してふだん漢語だと意識しない語「ふつう(普通)」「めんだう(面倒)」「たうとう(到頭)」などは覚えておく方がいいというくらいにとどめている。
ただ、「そのやう(様)だ」の「やう」と「さあ飯にしよう」などの「よう」を混同しないようにと注意を促しているし、「利口さう(相)だ」の「さう」と、「そうしよう」の「そう」の違いも同様である。
「どうしたらよからう」の「どう」を「だう」としたり、「もうすぐ」の「もう」を「まう」と書くのも誤りである。このあたりは、適宜覚えていくしかないし、辞書の使用を習慣つけるほかあるまい。
「旧かな簡便習得法」というコーナーでは、一般的に旧かなで一番難しいと思われる、同じ発音で異なるかな7種を取り上げ、先人の覚えうたや一覧表が引用されている。ここでは福田恆存の『私の國語教室』から引かれている表を孫引きしておく。

原則 例外
1.ワ音(わ、は) ワ音が語頭のときはつねに「わ」と書き、語中語尾のときは「は」と書く。
[われ、わたくし、わたる。川(かは)、岩(いは)、麗(うるは)し]
泡(あわ)、声色(こわいろ)、硫黄(ゆわう)、鶸(ひわ)、乾(かわ)く、騒(さわ)ぐ、弱(よわ)い、座(すわ)る
2.ウ音(う、ふ) ウ音が語頭のときはつねに「う」と書き、語中語尾のときは「ふ」と書く
[上、海。買ふ、向ふ]
かうして、疾うに、狩人(かりうど)、笄(かうがい)、申(まう)す、どうも
3.オ音(お、ほ、を) オ音が語頭のときは主に「お」と書き、語中語尾のときは主に「ほ」と書く
[織物(おりもの)、奥(おく)。顔(かほ)、氷(こほり)]
尾(を)、長(をさ)、一昨年(をととし)、岡(をか)、大蛇(をろち)、可笑(をか)しい、雄々(をを)しい、幼(をさな)い、獺(をそ)、澪(みを)、夫婦(めをと)
4.エ音(え、へ、ゑ) エ音が語頭のときは主に「え」と書き、語中語尾のときは主に「へ」と書く。
[枝(えだ)、柄(え)。蝿(はへ)、帰(かへ)る]
絵(ゑ)、餌(ゑ)、笑(ゑ)む、彫(ゑ)る、末(すゑ)、杖(つゑ)、声(こゑ)
5.イ音(い、ひ、ゐ) イ音が語頭のときは主に「い」と書き、語中語尾のときは主に「ひ」と書く
[石(いし)、稲(いね)。貝(かひ)、魂(たましひ)、宵(よひ)]
藺(ゐ)、田舎(ゐなか)、井戸(ゐど)、対(つゐ)、所為(せゐ)、藍(あゐ)
6.ジ音(じ、ぢ) 「じ」と書く。
[聖(ひじり)、籤(くじ)、虹(にじ)、交(まじ)はり、齧(かじ)る]
爺(ぢぢ)、藤(ふぢ)、泥(ひぢ)、攀ぢる、閉ぢる
7.ズ音(ず、づ) 「づ」と書く方が多い。
[屑(はづれ)、泉(いづみ)、外(はづ)れ、授(さづ)く、貧(まづ)し、恥づかし、静(しづ)か]
硯(すずり)、杏(あんず)、弾(はず)む、涼(すず)し、雀(すずめ)、必ず


さらに付録として、文語の表現の多様多彩さの実例としての文例集、文語用言の活用表、かなづかひ対照表まで付いているという至れり尽くせりぶりで、本書は本当に良く出来た、旧かな、文語の入門書兼初心者マニュアルといえるだろう。
いやしくも、俳句や短歌を嗜まんとする方々、身近な人でいうなら、さしづめきよみさんあたりには、一押ししておきたい一冊である(^_^;)
「花散る」という簡単な文章をさまざまに変化させて文語表現の簡潔にして豊かさを披瀝している例文集を挙げて終りにしよう。実に時宜に適った例文でもあるなあ(^。^)。

前が文語、( )内が口語である。
・花散らず(花散らない)
・花咲かずば(花が咲かないなら)
・花散らねば(花が散らないので)
・花散るでやはあらむ(花が散らないままでゐようか、散るのだ)
・花散らむ(花が散るだろう・花が散ろう)
・花散らす(花を散らす・散らせる)
・花散らしむ(花を散らす・散らせる)
・花散らじ(花、散るまい)
・花ちらむず(花が散らうとしてゐる)
・花散らざらましを(花は散らなければよいのになあ)
・花や咲かまし(花が咲くだらうか、いや咲くまい)
・花散らば(花が散るなら)
・花散らなむ(花は散つてくれ)
・花散らふ(花が散り続け散り広がる)
・花散らざり(花は散らない)
・花散らざらなむ(花散らないでくれ)
・花散らましかば(花がかりに散るものならば)
・花や散らまし(花はちるだらうか、いや散らないだらう)
・花こそ散らめ(花はなるほど散るだらうが)
・花散らめや(花は散るだらうか、いや散らないにちがひない)
・花散らむに(花は散るだらうに)
・花散らめども(花は散るだらうけれども)
・花散らめば(花は散るだらうから)
・花散りて(花が散つて)
・花散りき(花が散つた)
・花や散りし(花は散つたか)
・花散りしか(花は散つたか)
・花散りしかば(花が散つたので)
・花こそ散りしか(花はなるほど散りはしたが)
・花散りけり(花は散つたことだ)
・花咲きにけり(花がすつかり咲いたことだよ)
・花散りぬ(花が散つてしまった(状態にある))
・花散りぬべし(花は散つてしまふにちがひない)
・花散りぬらし(花が散つてしまつたやうだ)
・花散りたり(花が散つた(状態にある))
・花散りつる枝(花が散つてしまつてゐる枝)
・花散りけむ(花は散つたであらう)
・花こそ散りけめ(花は散つたであらうが)
・花散りね(花よ散つてしまへ)
・花散りなむ(花が散つてしまふだらう)
・花散りそ(花、散るな)
・花な散りそ(花よ散るな)
・花な散りそね(花よ散らないでくれ)
・花散りもやする(花が散るのではないか)
・花散りもやしけむ(花が散つてしまつたのでもあるまいか)
・花散るべし(花は散るであらう・花は散るはずである)
・花散るらし(花は散つてゐるやうだ・花は散つてゐるらしい)
・花散るらむ(花はいまごろ散つてゐることだらう)
・花の散るらむ枝(花の散るやうな枝)
・花散るなり(花が散つてゐるやうだ・花が散るのである)
・花の咲くなる里(花が咲いてゐるといふ里)
・花散るまじ(花は散らないだらう)
・花散るごとし(あたかも花の散るかのごとくだ・花が散つてゐるのであらう)
・花散れり(花が散つてしまつた(状態にある))


「百態」といいながら、実際には50例余りだし「花咲く」も混じっていたりするが、ともかくも、一つの動詞でも、接続の助動詞でこれほどに多様な表現が可能な文語の魅力の一端を味わうことが出来ると思う。
本書の本文は口語で書かれているが、もちろん仮名遣いはすべて旧仮名遣いになっていることは言うまでもない。


【そのコ】ぱくきょんみ ★★★ぱくきょんみの名はガートルード・スタイン詩集の訳者として知っていた。本書は彼女の第二詩集らしい。
「そのコ」というタイトルの詩1ダースとその他合わせて20篇余りの作品が収められれている。感覚派とでもいうべきなんだろうか、ガートルード・スタイン風の作品もあるが、オリジナルとは比べようもない。それなりに面白そうなフレーズや試みもあるのだが、どこかMorris.の好みとはずれているようだ。
序詩ともいうべき作品を引用しておく。


そして ぱくきょんみ

こわれものから そして
ボタン穴がみつからなくて
おなか 空いたのね
目頭が熱い
ほらね
ならんで ならんで
まあるくなって

どうしようもないじゃないの。今、何ができるっていうの。行くわよ。もうすぐ行くわよ。さあね。つまんないことばかりいわないでよ。もうやめていい。もういいよ。

わからない わかれる
こわさない きざむ
ほしがらない かさねる
はらわない なくす

やさしくないよ。そうだよ。もうやだよ。わかってるから。わかってるのにいつまでもそういう。何してるっていうの。しらないよ。やだからね。切るからね。

セロリの繊維のようにまるまる
影 ちょっとね
あたたかい 金魚たち
痛い痛い
うすいいろの花びら
ならんで
ならんで
まあるくなって
さくら草 さいている

今日もいちにち。もう昼よ。だって困るよ。はなしてもはなしてもしょうがないよ。どうしようもないこと、しつこいよ。そんなことばかりいうからね。いうからね。

目 つむる
腕 ほうる
足 なげる
手 あてる
耳 よせる
ならんで ならんで
まあるくなって

そうよ。いなくていいよ。いないんだから。みえたわよ。そうよ。じぶんばっかりだ。それでそれでそれで、いっつもよ。なんにもないのよ。なかったでいいじゃない。

これ 動かしちゃだめ
ほらね 金魚たち
ヨカツタ
ならんで ならんで
まあるくなって
ひるまは
ひるまは
ひるまは
そして みんな です

「薔薇は薔薇は薔薇は薔薇」のガートルード節に一時夢中になったこともあるMorris.だが、今はもうそれほど欲しなくなったようだ。
本書は、カバーの藍色斑地に小さな赤い実3つの小紋千代紙意匠に惹かれて借りて来たのだ。それから彼女のひらがなでの名前表記は前から気に入ってた。「パクキョンミ」と「ぱくきょんみ」では、ずいぶんイメージが違うと思う。


【そして粛清の扉を」黒武洋 ★★★ 新潮社の第1回ホラーサスペンス大賞受賞作(2000)である。中年の女性高校教師が、自分のクラスの教室を占拠して生徒全員を人質にして、たてこもり、PCや監視カメラ、地雷、TV局操作などを駆使して、次々に生徒や教師、警官らを殺害していくというとんでもない展開で、確かにホラーである。ホラー漫画に近いかもしれない。ただ、生徒への対応、心理の読みあい、ナイフと拳銃の扱いぶり、そして格闘技術まで一種のスーパーウーマンともいうべきヒロインだが、その割に動機や過去の経歴が弱すぎるのが気になった。
作者はこれが処女作らしいが、フリーの脚本・演出家とあるから、本書の描写がシナリオっぽいのも頷ける。しかしそれよりも文章には問題が在りすぎる。一つ一つの形容がくどい上に、常套文句の過剰、不必要な漢字表記、そして一番嫌だったのは、縦書きの本文なのに算用数字を用いていることだった。Morris.はこの読書控えで、本文引用するときわざと算用数字に変えることがあるが、それはネットでの表示が横書きだからにほかならない。
悪口垂れながらもMorris.は結構面白がって読んだのだから、先の文句はないものねだりかもしれない。巻末に収められている選評には「バトルロワイヤル」という作品と比較されていたから、同じシチュエーションの作品が先にあったらしい。宮部みゆきが本作の、反社会的態度に不満を漏らしていたのが目を惹いた。


【禿鷹の夜】【無防備都市 禿鷹の夜2】逢坂剛 ★★★☆無法警官禿富鷹明を主人公にした連作である。スペイン通で特に内戦の時代を中心にした作品は結構Morris.のお気に入りだが、本シリーズは毛色の変わった作といえるだろう。
悪徳警官で、平気で人を殺すし、自分のために他人を身代わりにすることも平気でやる、とんでもないキャラなのだが、何故か嫌いになれない。こんな不思議なキャラも珍しいと思う。
1作目では南米マフィアの殺し屋との死闘がメインだがその裏に、女同士の憎悪があったり、昔気質のやくざ組織にある程度の応援したり、これまでの警察小説とは全く反対の展開だが、一息に読まされたのだから、それなりの面白さがあるわけだ。
2作目は主人公が警察内部のどろどろした人間関係に巻き込まれるのだが、ここでも別の女とのごたごたが事件と関連して、やりきれない場面もある。前作のやくざもボスの死後、南米マフィアの餌食にされかけるが、やはり主人公はやくざに肩入れしてるようだ。比べるとややトーンダウンした作品だったが、それでもそれなりに面白かったのだから、やはりこの作者はMorris.好みなのだろう。
しかし、この手の小説家は女を書くのが苦手な輩が多いようだ。大沢在昌、船戸与一などと同じように逢坂剛も女の描写となるととたんにくさくなってしまう。


【三都物語】船戸与一 ★★★☆☆JR西日本なら京都、大阪、神戸なんだろうが、本書の三都は横浜、台中、光州でそれぞれの町を舞台にプロ野球のコーチ、投手、スカウト、解説者などが交互に主人公となってそれらが重なり合う5編の連作短編で、久しぶりに作者の力量を楽しめる好篇ぞろいだった。
Morris.にはやはり韓国光州を舞台にした「驟雨の夜」が印象深かった。
きっちり現地取材をやったらしく、韓国野球の細部事情まで丁寧に書き込んであるし、ストーリーとも関連する光州事件の紹介も的確で、流石と思わせられた。

プロ野球が存在するにも拘わらず、韓国の野球人口は少く、野球部のある高校は全国で56、大学は14、社会人野球は韓国陸軍チームを含めても4つしかない。

この内戦は1979年10月に18年間大統領として君臨した朴正熙が腹心で中央情報部部長だった金載圭に晩餐会の席上で射殺されたことからはじまる。当時、韓国では学生を中心としてソウルの春と呼ばれる民主化要求が轟然と全国的に巻き起こりつつあった。この動きを封じるために後に大統領に就任する全斗煥は軍の師団長クラスを集めて粛軍クーデタを起こし、権力を掌握し非常戒厳令を発布する。このグループは新軍部と呼ばれた。これに対抗して民主化運動はさらに激化していく。
これを封じ込めるために全斗煥は忠正部隊という鎮圧部隊を組織する。この部隊は空挺部隊と特殊戦闘部隊を中心としていた。進軍部は鎮圧棒と呼ばれる長さ45cmから70cm、太さ5,6cmの韓国でもっとも硬く弾力に富むトネリコという材質の木刀を用意させて忠正訓練を行う。
非常戒厳令による摘発のスピードに民主化運動は急速にしぼんでいくが、光州だけはちがった。湖南つまり全羅南道と全羅北道は李朝時代は政治犯の流刑地だった。かつての百済の地は漢江の奇跡という高度成長期にもその恩恵に与かることはほとんどなかった。他地域でデモが沈静化していっても、湖南の中心地・光州では民主化の動きは相変わらずだった。
国立の全南大学正門から出発し錦南路を通って道庁まえに向かう非常戒厳令解除を求めるデモ隊の数は日毎に増大し、5月18日にはそれが最高潮に達する。全斗煥を中心とする新軍部は訓練を重ねた忠正部隊にどれほどの鎮圧能力があるのかを実験してみなければならなかった。その実験場所として光州が選ばれた。鎮圧命令が出される。この作戦命令は華麗なる休暇と呼ばれた。三個の空挺部隊が光州に投入される。
戦車とヘリコプターが光州に向かい、主要道路はすべて封鎖され、上空には戦闘機が飛び交った。忠正部隊は鎮圧棒でデモ隊に殴りかかり、自動小銃と機関銃が発射された。
デモ隊はこれに対抗して市民軍を結成する。各警察署の武器庫に保管されていた予備役用のカービン銃を入手して忠正部隊と向きあった。光州のバスやタクシーの運転手たちが車輌部隊を編成し、路地裏では女たちが市民軍のための炊きだしを受け持つ。こうして忠正部隊との戦闘は一週間つづいたのだ。最後に市民軍の立て籠もっていた道庁が陥落して、この内戦は終了する。


光州事件のことは、韓国でもかなり検証が進んでいるようだが、映画「コンニプ--花びら」はやはり画期的だったと、改めて思い出してしまった。
最終話「昏き曙」で、売れっ子モデルの台詞が、Morris.のいつも思ってることを代弁してるように思えた。

「関内で唄ってたころ、あたし、有名になりたくしょうがなかった。でも、いまはちがう。だれにも知られてないところで好き勝手なことをして暮したい」キャロルはそう言ってすこし声を落とした。「知ってるでしょ、いまあたしが出てるTV・CM、ローン会社よ。CMをばんばん流してるのはローン会社ばかり。だけど、ローン会社なんてどんなきれいごとを言っても、結局はただの金銭貸しよ。そのローン会社から借りた金銭を返せなくなって、もっと性質の悪い金銭貸しから借りて最後は自殺した人間もいっぱいいる。そういうローン会社のCMにあたしは演て顔を売った。何だか妙な罪の意識を感じてしまうよ」

作品と関係の無いところばかりを引用してしまったきらいがあるが、本書に出てくる男たちはそれぞれに、男気があり、ほろ苦さを感じさせる奴ばかりだし、ストーリーも上出来で、楽しめる一冊であることはまちがいない。


【ウッふん】藤田紘一郎 ★★★ 寄生虫博士の、うんこの本である。例によって、あまりに清潔志向が進む文明社会への警鐘を鳴らす本ということになる。
基本的には賛成したい考え方だとは思うのだが、実践するのは難しい社会になってるし、Morris.もしっかりその社会に染まってるというのも事実である。

食物連鎖によって、ある動物が他の動物を食べて栄養素にする一方、体に不要なものを排泄しながら生きているのです。それも寿命がつきると自然に死んで行くのです。
死んだ生物や動物の排泄物を処理してくれるのが、細菌などの微生物だったのです。その過程を私たちは「腐る」とか「腐敗」とかいう言葉で表現していたのです。
つまり、私たちの死体やウンコが微生物によって腐ることが、新しい生命誕生の出発点になっていたのでした。
死体やウンコに集まってきた微生物は、その中に含まれているたんぱく質や脂肪、核酸といった有機物質を分解して、無機物や原素に変えています。そして微生物によって分解された無機物質や原素は土壌や岩石として、河や海に堆積し、蓄積されるのです。
微生物がつくった無機物を有機物質に変換しているのが植物です。植物は「窒素同化作用」を利用し、「光合成」という方法で、無機物を有機物質に変えていたのでした。

生物の教科書だと味気ない解説になるところを、噛んで含めるような易しい文章で提供してくれるというところも著者の魅力なのだろう。
ただ風来山人(平賀源内)の

喰うて糞(はこ)して快美(きをやり)て 死ぬるまで活きる命

という句を引いて「江戸時代の歌人、風来山人は」と紹介してるのは、誤解を招きそうだぞ。万能人である源内は黄表紙や草紙を書き散らし、狂歌も作ったろうが、いちおう博物学者、発明家の万能人という面を強調して欲しい。


【国銅 上下】帚木蓬生 ★★「着想から10年。「名も無き使い捨ての人足がいたはずだ。どうしても描いておかねば----」。著者のたぎる想いが胸をうつ、堂々の天平ロマン、ついに結実!」と帯に書いてあった。
東大寺の大仏のために長門の銅山の堀り子15人が都に召喚され、5年目に大仏開眼法要を迎え、故郷への帰途につくが、結局帰り着いたのは主人公である国人一人だったというストーリー??である。これだけのことを書くのに上下合わせて600p以上を費やす必要があったのかというのがMorris.の率直な読後感である。
著者の作品は大部分読んでるし、出来不出来の落差が大きいことも承知の上だが、これははっきり言って失敗作だろう。
第一にドラマが無さ過ぎる。第二に主人公を始め主要登場人物がまるで天平時代の人物と思えない。第三にあまりに勝手に登場人物を死なしてしまう。
筆力がある著者だけに、これだけの長さをともかくも読み通させる力量は認めざるを得ないが、細部の無意味な描写と、書くべきはずの部分がすっとぱされているという感じがした。
国人が聡明で、長門に流れてきた行基の弟子僧から文字を習い、都では歌や漢詩までマスターするというのは、無理がある。また作業しながら歌う歌謡があまりに近世的というのも気になった。
奈良時代に「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」なんて一節が出てきたのでは鼻白むしかない。
また国人の思考方もあまりに近代人的である。

国人は自分で頷く。たとえ高僧が言っていることがそれとは違っていても、自分はそう理解し、納得した。話の内容よりも、その自分の納得のほうが大事なような気がする。
一の中に十が含まれ、十の中に既に一が含まれている。それは十が千になっても同じだろう。
五年前に都に連れられて来て、大仏を鋳込み、螺髪を作って取りつけ、鍍金をした。自分と同じ何千人の人足の中のひとつだ。大仏は自分の小さな力のずっと先にあるが、自分と大仏がひとつづきなのは確かだ。自分のなかにも大仏はある。都を去って長門に帰れたとしても、自分のなかから大仏を消し去ることはできない。この五丈六尺の高さの大仏がもう自分に含まれているのだ。
それは人と人についても同じだろう。景信と別れて五年になるが、一日として景信を忘れたときはない。絹女もそうだし、死んだ日狭女も、国に帰った池万呂や嶋万呂も、確かに自分の一部になっている。その証に、それらの五人と出会う前と今の自分は同じではない----。


これが本書で著者の言いたかったことではないかと思われるが、奈良時代の人足である国人がこんなことを思うかなあ?
奈良天平を舞台にした小説なら、井上靖、黒岩重吾を始めいろいろあると思うが、Morris.はあまりそちらには関心がなく、唯一の例外が女流の梓澤要である。彼女の作品にはたしかに時代の空気が漂っている。史実に忠実な中で、空想の翼を広げる作品には、惹かれるところが多い。それと比較する必要もないのだろうが、本書はえらく見劣りする。
著者は始めから古代人を描くのではなく、現代人を単に奈良時代に置いたのかもしれないが、それならそれで、ドラマを見せて欲しかった。
嫌いな作家ではなく、いい作品もものに出来る作家だと見込んでいるからこその、辛口である。


【新約 コピーバイブル】宣伝会議コピーライター養成講座 ★★☆☆ 要するにコピーライターによるコピーライター論の寄せ集めである。タイトルにあるように、新約聖書風に「○○伝」と付けたり、装丁はいかにも手擦れした皮表紙を模したり、結構凝ってる。おしまいに50pほど「古今コピー集」が五十音順にまとめられてあり、これだけでも見ておこうと思ったのだが、8章に分けてある最初の「基本編」「基礎編」はわかりやすくてなかなか面白かった。3章の「私のコピー作法」以降はあまりに個々の自画自賛的文章の羅列でつまらなかった。
コピーの13種類を「キスヘサリシボスミナソラネ」という呪文で覚えるのは便利そうなので、引いておく。(真木準伝)
「キ」キャッチフレーズ
「ス」スローガン
「ヘ」ヘッドライン
「サ」サブキャッチ
「リ」リードコピー
「シ」ショルダーフレーズ
「ボ」ボディコピー
「ス」スペック
「ミ」見出し
「ナ」CFナレーション
「ソ」CMソング
「ラ」ラジオCMコピー
「ネ」ネーミング


ついでに「ネーミングの作り方」(岩永嘉弘伝)からもメモっておこう。普通の文章書くときにも役立ちそうだ。
[ネーミングの条件]・簡潔であること・視覚的であること・音がいいこと・類似性がないこと
・読みやすい・書きやすい・響きがいい・親しみやすい・覚えやすい
[ネーミングレトリック]
・省略ネーミング法(言葉を縮める。ラ王/パ王のごとし)
・尻変ネーミング法(語尾を変化させる。SPA/CIA/IONAのごとし)
・掛け算ネーミング法(2語を掛け合わせる。テレビデオ/かもめーるのごとし)・語呂合わせネーミング法(言葉の音を合わせる。野菜中心蔵/水かえま専科のごとし)
・掛詞ネーミング法(同意語を利用する。こするカモ保険/すいませんのごとし)

期待していた、おしまいの古今コピー集は、全く面白くなかった。コピーというものはそれだけ見てもまるでおもしろくない。ということが解ったという意味では良かったかもしれない。


【沙高楼綺譚】浅田次郎 ★★★☆「小鍛冶」「糸電話」「立花新兵衛只今罷越候」「百年の庭」「雨の夜の刺客」の連作短編を集めたもので、六本木の高層マンションの最上階にある沙高楼というホールで語られるさまざまの綺譚という趣向で、著者お得意の語りもので、たしかにそこそこうまいし、日本刀、ガーデニング、戦後映画、やくざ世界などそれぞれに蘊蓄を傾けるくだりに、ついつい読まされてしまった。
しかし、浅田作品に良く見られるいかにも「拵え物」という臭みが鼻につくし、登場人物の描写があまりに安易で、深みとは無縁の世界である。だからといって軽みもない。Morris.としては「きんぴか」の作者ということだけで、ついつい彼の作品を手に取るのだが、たいてい裏切られることが多いが、本書は割と楽しませてもらった気がする。


【変貌する現代韓国社会】小林孝行編 ★★★☆ 7人の筆者による9編の論考が集められている。各地の大学関係者の論文の中から、テーマに沿い、一般的な内容のものを選んだもののようだ。Morris.は韓国に興味はあっても、こういった比較的硬めのものはあまり読まないのだが、読んでみたらそれなりに面白いものが含まれていた。
ただし編者である小林氏の「コリアの近代化と国際関係」で、過去、現在にわたって朝鮮半島全体を「コリア」と表記するスタイルには強い違和感を覚えた。「コリア半島」という熟語もそうだし、李朝の時代の事柄を論じるときにコリアと呼称されると、もう違和感を通り越して、寒疣ができそうになった。
歴史に応じた呼称を使うべきだと思う。
興味深かったのは「儒教規範のなかの女性」(山本かほり)、「日常の生活実践誌」(伊地知紀子)、「社会を映し出す大衆文化」(かせ[糸+忍]谷智雄)の3編だった。
「儒教規範の中の女性」では、一般的に男尊女卑といわれる韓国での女性の社会的地位に関する論考だが、苦労を重ねる辛い境涯と、オモニ(母)としてしたたかに生きる立場の二重性を、実際の韓国女性からの聞き取りを交えながら明確に論証し、「韓国女性のたくましさは、「母」としての権威に性格付けられたものであり、そして、それは同時に儒教的な規範に強く規定された権威だと結論づけることができよう。女性が自律的に獲得してきた「パワー」では決してないのである。」とはっきり書いている。
「日常の生活実践誌」は済州島にフィールドワークのため滞在したときの体験と聴き取りをもとに、日本、特に大阪に住み着いたり稼ぎに出た人々の物語が興味深かった。李朝時代から、日本植民地時代、さらに解放後の4・3事件と朝鮮戦争とずっと虐げられたり踏みにじられたりし続けた辛い島の歴史、60年代から観光地として脚光を浴びるまでの済州島の歴史もおさらいすることができたし、女性ならではの視点も面白かった。
しかし本書でMorris.が一番熱心に読んだのは「社会を映し出す大衆文化」であることはタイトル見ただけで自明だろう。
韓国の現代文化をいわゆる大衆文化から考察していくという方針で、映画、小説、漫画、音楽などを素材に論じられている。Morris.が一番関心のある音楽では、アメリカナイゼーションが著しいと思われている韓国ロックの中でも、韓国文化の根が強残っているアーティストして、シンジュンヒョンが例に挙げられている。

韓国ロックの先駆者ともいうべきシンジュンヒョンの音楽活動からうかがうことができる。50年代に米軍クラブのギタリストとして音楽活動を開始したシンジュンヒョンは、のちに自らのバンドを率いて、また作曲家としても数々の名曲を残している。彼は常に独自のメロディラインとアレンジを追求し続けており、98年に発表された集大成ともいえる新作では、李朝末期の放浪詩人金サッカの詩と自身の音楽を融合させている。このようなシンジュンヒョンの姿勢には、米国音楽のコピーではない独自の"韓国ロック"をつくり出そうという明確な"意志"がうかがえるのである。

これはMorris.も共感するところ大である。先日初めて生演奏を聞いたチャンサイクの演奏にも同じようなことを感じさせられた。
映画ではMorris.の好きなアンソンギの作品を多く取り上げて熱っぽく論じられているし、新聞漫画の変貌や、日本大衆文化の影響など、それぞれに面白そうなテーマが目白押しである。惜しむらくは、30頁足らずのスペースのため、物足りないことこの上ないということだろう。Morris.としては、このテーマだけで一冊に仕立てあげて欲しかったところである。


【日本語あそび「俳句の一撃」】かいぶつ句会編 ★★☆☆榎本了壱、八木忠栄、萩原朔美などが集まって同人誌を発行してるかいぶつ句会のメンバーがよってたかって作り上げた自己流俳句講座みたいな本だが、インターネットで引いてみたら、何と通信教育講座まで設けている(@_@)
内容は、それぞれが好き勝手に自分なりの俳句感やら、作句方やら、好きな作品解説やらを書いていて、当然それなりに面白いのやらそうでもないのやら、読むに耐えないのやらが混じっている。
冒頭の現代の俳壇状況などへのうがった見方などは面白く読めて、これはきよみさんに紹介しなくてはなどと思ったのだが、ページを追うごとにトーンダウンして、おしまいへんは飛ばし読みになってしまった。
俳句を言葉遊びと見て、それも真剣に遊ぶというのは悪いことではないが、それを盾に、何でもありと開き直ることには、全面的には賛同できない。
まあ勝手にやることに文句を付けるつもりはないが----。


【抗う勇気】ノーム・チョムスキー+浅野健一 ★★★☆ 2002年11月8日にMITチョムスキー研究室で行なわれた対談と、注釈、資料などを合わせた130p余りの薄い本なのに、読むのにえらく時間がかかった。
9/11の自爆攻撃事件から1年ちょっと、米国がイラクに攻め込む半年前というタイミングの対談である。
チョムスキーといえば変形文法理論で有名な言語学者で、ベトナム戦争以降、自国批判の急先鋒として注目を集めているくらいしかしらない。
浅野氏に関しては名前さえ知らなかった(^_^;)Morris.とほぼ同世代で、共同通信社のジャカルタ支局長のときにスハルトから国外追放処分になり、今は同志社大学院の教授(新聞学)というなかなか骨のある人物らしい。
ベトナム戦争、東ティモール問題、イラク戦争に混じって朝鮮半島問題も出てくる。在日に関する浅野の注は非常に明確でわかりやすく、Morris.も深い共感をおぼえた。

在日朝鮮・韓国人とか、在日コリアンという呼称もあるが、歴史的経緯を考えれば在日朝鮮人と呼ぶのが適切。
日本の1910年の武力併合で当時の朝鮮半島の人々は朝鮮人とされ、敗戦後、外国人登録制度が導入された47年に「朝鮮」とされた。その後、朝鮮半島が南北に分断され、50年に在日韓国代表部(当時は国交関係がなかった)が外国人登録の国籍欄の表示を「朝鮮」から「韓国」に変更してもよいと決定した。その一方で朝鮮民主主義人民共和国とすることの申請に応じないこととした。65年の日韓基本条約の締結により、韓国と国交が結ばれて、韓国籍に変更する人たちが増えた。しかし、日本という国家の都合で国籍を変えられたくないという一世、二世のほか、三、四世の人たちも、「朝鮮」としている人も多い。
朝鮮籍の90%は現在の韓国の出身者で、現在の朝鮮民主主義人民共和国と在日朝鮮人はまったく違う存在。

アメリカの中東への接し方に関しては、成瀬宗男の論文をもとに以下のように簡潔にまとめている。

1979年、イランでシーア派による「イスラム革命」が起こり、米国寄りの王政がたおれた。「革命の輸出」を恐れたイラクはイランと88年まで戦争した。イラン人に米大使館の人質事件を起こされるなど、イラン革命を警戒し、中東におけるイランの勢力拡大を恐れていた米国は徹底的にイラクを支援した。現在、米国が問題にしている「大量破壊兵器」を供与したのは米国自身である。ラムズフェルド現国防長官(当時は製薬会社重役)は83年12月、バクダッドでフセイン大統領と会見し、当時のレーガン大統領の親書を渡した。イラクとの国交正常化と軍事協力に向けた会談だった。米英日の指導者やメディアは「毒ガスを自国民に使った」とサダム・フセイン大統領を非難するが、88年に自国内のクルド人にガス兵器を投入したとき、イラクが使用したヘリは米国製で、ガス兵器も米国の協力によって実用化したものだった。米国が忌み嫌うオサマ・ビンラディン氏も、もともとは米国の工作員だったことは有名。

これまでの一連のアメリカの中東政策が実にわかりやすく要約されている。これだけでも本書を読んだ甲斐があるというものだ(^_^;)
浅野が最大関心事としていた東ティモール問題に関しても、日本のマスメディアではほとんど報道されていない、日本の理不尽なインドネシア、スハルト政権支持や、アメリカの意識的放置などについて、鋭く突っ込んで対話されているし、日本と韓国にしか存在しない「記者クラブ」の弊害への論及など、聞くべきところが多い。
また、先日読んだばかりの丸谷才一エッセイ中にあった「米国人の半数が進化論を否定している」という、驚くべき話題の傍証ともいうべきやり取りがあって、改めてびっくりした。

浅野 あなたは、米国が「ファシスト前夜の状況にある」と長らく警告していらっしゃいましたが。
チョムスキー 国自体がそうだといったのではありません。そういった要素がこの国にあるというのです。ぎりぎりまで傾いている人々もいますが、全員がそうであるわけではありません。非常に複雑な国なのです。たとえば、この社会の文化です。世界中で最も原理主義的な社会の一つですよ。イラン以上です。本当ですよ。世界は6,000年前に創られたのだと、全人口の半分近くが信じている国なんて、他にありません。


うーーーむ、やっぱりそうなのかあ(@_@)


【幻のマドリード通信】逢坂剛 ★★★ スペイン内乱を背景にした5編の短編を集めたもので、昭和62年(1987)刊行したものに加筆修正したものだ。Morris.は、はじめ長編だと思って借りてきたのだが、これは短編ながらなかなか粒揃いで面白かった。著者は相当なスペインマニアで、スペイン語も学んでいるらしく、語学的蘊蓄というか、細部へのこだわりが見えたりして、臭くもあるが、そこがMorris.には面白かったりする。
冒頭の表題作は、ソ連のスパイである日本人が、フランコ軍事独裁直前のスペイン日本大使館に入り込み諜報活動をしたあと残した手記が大部分を占めるが、二転三転どんでん返しで、後に余韻を残す終り方などはうまいものであるが、当時と現在の文体の違いみたいなところで、違和感を覚える箇所もあった。また著者がかなり肩入れしてると思われる、アナキスト労働組合CNTの活動家ドゥルティの死を巡るさまざまな臆説と著者自身の仮説を盛り込んだ「ドウルティの死」は、小説としてより、当時の状況を教えてくれるものとして興味深かった。たとえば、フランコに関する以下の部分など。

フランシスコ・フランコは、悪運の強い男だ。1936年7月の内戦勃発以来、40年近い年月を悪名高い独裁者としてスペインに君臨し、しかもベッドの上で大往生をとげた。その間政権の座を脅かす者は一人として現れず、反体制運動も極左テロもついに彼を倒すことはできなかった。
しかしフランコの悪運の強さの芽は、すでに内戦当初から出ていたのだ。まず軍部の反乱を指導すべく、亡命先のポルトガルから空路スペインへ向かったサンフルホ将軍が、飛行機の墜落によって死亡し、総統の座がフランコに転がり込む結果になったこと。もう一つは、強大な勢力をふるい始めていたファシストの秘密結社、ファランヘ党の独裁者ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラが、共和国政府によって逮捕され、処刑されたこと。ホセ・アントニオは保守反動の理想主義者で、ファシストであることにもかかわらず一部の自由主義者の間にさえ、人望のあった特異な人物だ。ある意味では、フランコより人気が高かった、とすらいえる。彼が若くして死んだことは、フランコにとって最大のライバルが、スタートラインで姿を消したことを意味する。しかもフランコは、戦後彼の人気を実にうまく自分の統治に取り込んだ。スペイン各都市の、主だった通りや広場に冠せられたホセ・アントニオの名前は、その一つの表れだ。
そしてさらにフランコの悪運を強めたのは、ブエナベントゥラ・ドゥルティの死であらう。ドゥルティはカタロニア地方、とくにバルセロナを拠点とする無政府主義者の労働組合CNTの、最大の活動家だった。当時の共和国側では、共和主義者、社会主義者、共産主義者、無政府主義者などあらゆる左翼陣営が入り乱れ、主導権を争っていた。その中でドゥルティは、アナルキスタを代表するカタロニア民兵の、頭目だった。

小説を歴史の解説書みたいに読んでしまうことには問題があるかもしれないが、貧乏性のMorris.はついつい、そういった読み方をすることがある。逢坂剛の作品などは、Morris.が無知なスペイン内乱時代を舞台にしたものが多いだけにその傾向が強まる傾向にあるようだ(^_^;)


【私の前にある鍋とお釜と燃える火と】石垣りん詩集 ★★★☆☆石垣りんの1959発行の第一詩集を童話屋が復刊してくれたもの。童話屋は、彼女と茨木のり子の全詩集を随時復刊している。ありがたいことである。
1949年から10年間の作品が収められていて、前半の詩は、やや生硬だったり、機関紙に発表されたこともあって、教条的な部分も目に付くし、Morris.の好みからは外れるものが多い。
しかし表題作あたりから、だんだん彼女の良さが出始める。

炊事が奇しくも分けられた
女の役目であつたのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と

それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、

それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あつて励むように。(「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」後半)


彼女の詩は、しっかり地面に足をつけて、人間としての、女性としての思いを、力強く歌い上げている。茨木のり子ほどに融通無碍な言葉はもたないにしても、それを補って余りある「精神-こころ」の強靭さこそ、戦後の日本女性詩人の中で、彼女を際立たせている特質といえるだろう。

この世の中にある

この世の中にある、たつた一つの結び目
あの地平線のはての
あの光の
たつたひとつのむすびめ
あれを解きに
私は生れてきました
私は地平線に向かつて急いでおります
誰が知つていましよう
百万人の人が気付かぬちよつとした暇に
私はきつとなしとげるのです
---まるで星が飛ぶように---
「さよなら人間」
私はそこから舞い出る一片の蝶
かろやかな雲、さてはあふれてやまぬ泉
ふく風
ああそこから海が、山が、空が
はてしなくひらけ
またしてもあの地平線
ゆけども、ゆけども、ゆけども---。


「さよなら人間」と呼びかけながら、限りない人間への愛情がほとばしっている、これほどに抒情性あふれるマニフェストを他に知らない。
そして、終盤におかれた、紛れもなく彼女の最高傑作というべき作品。これは素晴らしすぎる!!!

風景

待つものはこないだろう
こないものを誰が待とう
と言いながら
こないゆえに待つている、

あなたと呼ぶには遠すぎる
もう後姿も見せてはいない人が
水平線のむこうから
潮のようによせてくる

よせてきても
けつして私をぬらさない
はるか下の方の浪打際に
もどかしくたゆたうばかり

私は小高い山の中腹で
砂のように乾き
まぶたにかげる
海の景色に明け暮れる。


【哀しい歌たち--戦争と歌の記憶】新井恵美子 ★★★☆ 明治12年の「海ゆかば」から、昭和42年の「さとうきび畑」まで、年代順に50曲余りを取り上げて東京新聞に連載したコラムをまとめたもので、すべて歌詞が下段に併載されている。
著者は雑誌「平凡」発行人の娘で、その関連で、当時の芸能人に会ったり、紹介されたりの機会も多かったようで、当時の貴重なエピソードも盛り込まれている。
取り上げられている曲は、歌謡曲、戦時歌謡、軍歌、外国曲など幅広いが、著者は昭和14年生まれだから、戦前や戦中の歌については、資料を通して調べたり音盤などで聴いたものであることは言うまでもない。その点昭和20年以降の曲はそのほとんどを、リアルタイムで聴いているから、その思い入れがストレートに伝わってくる。本書も(たぶん意図的にだろう)昭和20年を中心にほぼ同じ量に分かたれている。
筆者誕生の昭和14年発売の曲では「父よあなたは強かった」「何日君再来」「空の勇士」「いとしあの星」の4曲が選ばれている。ちなみにMorris.が生れたちょうど10年後の昭和24年は「青い山脈」「長崎の鐘」「悲しき口笛」の3曲だ。10年ひと昔というが、たしかにこの落差は大きい。美空ひばりの曲の中で一番、二番くらいに好きな「悲しき口笛」が自分の生れた年に出たというのは、何となく嬉しくなってしまった。

「悲しき口笛」は雑誌「平凡」で小説を掲載し、松竹で映画化され、主題歌を美空ひばりが歌い、コロムビアが売り出した。竹田敏彦の小説は生き別れになった兄と妹が一つのメロディを頼りに捜し求め巡り合うというもので、戦後という混乱期ならではのストーリーであった。
弱小雑誌の「平凡」にとっては初めての大がかりな企画物であった。そのころ父は「ひばりちゃんてのはすごい子だよ」と口を開けば感心していた。しかし田舎に住んでる私にはさっぱりわからない。学校でもひばりの存在を知ってる者は皆無だった。
ある日、それは昭和24年の10月のことだった。父が突然、東京に出て来るように母と私と姉妹に言った。その日、「平凡」の愛読者を招いて、「悲しき口笛」の映画の試写会が開かれることになっていた。ひばりちゃんのステージ挨拶と主題歌の発表があるので、父は私たちに本物のひばりちゃんを見せようと考えたのだった。
その夜、毎日ホールは熱気に満ちていた。あの黒いタキシードとシルクハットのスタイルで少女が現れた。小学校六年生のひばりだ。彼女はステッキを振り回しながら歌い始めた。「丘のホテルの赤い灯も 胸のあかりも消える頃」彼女が歌い始めるとシーンと会場は静まり返り、不気味な感動の海の中に吸い込まれて行った。やがて、この少女の歌の魅力は日本中を飲み込んでしまうのだが、その夜はそんな予感に溢れていた。
「この子と組もう」と父たちはその夜、決めたそうだ。ひばりの値打ちはまだ固定してはいなかった。NHKのような権威のあるところは価値の定まらないものとはなかなか組みたがらない。しかし、「平凡」も価値の定まらない雑誌だった。
「ひばりは平凡さんと一緒に大きくなった」と後にひばり母子は語ってくれた。「平凡」はひばりの情報誌のように、読者にひばり情報を提供して、部数を増やして行った。吹けば飛ぶような雑誌が百三十万部にまで成長したのはひばりちゃんのおかげだと父も良く言った。
「悲しき口笛」は作詞藤浦洸、作曲万城目正だったが、何と言ってもひばりの歌唱の魅力で大ヒットとなった。ひばりのデビュー曲は「河童ブギ」だったが、彼女を世に出した「悲しき口笛」は特別な歌となった。


ちょっと長い引用になったし、「不気味な感動の海の中」というのは誉め言葉として使われているのかどうか迷ってしまうが、ともかくも、不世出の美空ひばりというスーパースター誕生の現場に、関係者の娘として参加していたと言う事実だけでも、羨ましさを禁じ得ない。
つい、Morris.は手持ちの「平凡」廃刊記念号「元気に"さよなら!!"」を引っ張り出して、一通り通覧してしまったよ(^_^;)
他にも「ブンガワンソロ」の本当の作曲者の来日のエピソードや、「北帰行」の20年ぶりの復活話など、なかなか興味尽きない話題満載の一冊である。
内容に鑑みて中高年をターゲットにするための方策なのか、一般書籍より一回り大き目の印字で組まれているので、レイアウト的には不細工だがたしかに読み取りやすかった(^_^;)


【絵具屋の女房】丸谷才一 ★★★「オール読物」連載のコラムの集成である。丸谷の随筆も、とりあえず間違いなく面白い。本書では前半に、やや下ネタがかった話題が多いが、そういうのを扱っても、文章はうまいし、オチのつけかたもどうに入ってるからそれほどいやらしくはない。随筆と言うくらいだから、話題や素材は多岐にわたっていて、あっても無くてもいい知識がまんべんなく配置されているのも、いつもに変わらずである。
Morris.は数冊「江戸随筆撰集」みたいなのをもっているが、それらがまさに、あっても無くてもかまわないようなのばかりで、そこがまた、随筆の随筆らしいところのようだ。

本書から雑学の種になりそうなところをいくらか引いておく。

わたしはバーコードといふ不快な意匠がそもそも気に入らないが、これを裏ラパー上部につけさせるなんてのは無茶苦茶だと思ふ。横暴ですよ。話によると、はじめ書店に据ゑつけさせたバーコード読み取りの機械が、ギザギザが上にあるのでないと読めないから仕方がない、とのことであつた。しかし本屋で見てゐると、店員が手に持つた道具をグイと当てて読み取らせてゐる。あれだつたら、どこでもいいわけです。バーコードは裏の下のほうにつけると改めませう。

わたしは前まへから、どうして日本産の栗は甘栗には向かないのか不思議に思つてゐたのですが、日本の栗は渋皮が実のほうにくつつくのでダメなんですつて。
天津甘栗は殻のほうに皮がくつつく。それに、もともと甘さが決定的に違ふんですね。それで、たとへば丹波の栗は甘栗にならないのでせう。

ここで問題なのは「見得をする」と言ふ言ひまはしです。普通は「見得を切る」と言ふぢやないですか。先日、故人である劇評家の本を読んでゐたら「見得を切る」書いてゐた。でも、あれは間違ひなんですつて。
「見得をする」が本式ださうです。六代目菊五郎がさう教へたといふし、森鴎外晩年の史伝「渋江抽齋」のなかに森枳園なる医者が出て来て、その行状を叙するに当り、鴎外はこの語を用ゐてゐた。ご存じのやうに彼は言葉づかひにうるさいし、それに彼の弟、三木竹二(森篤次郎)は医者にして劇評家を兼ねてゐましたから、お兄さんは弟に教はつたのでせう。

ところが今のアメリカではじつに大勢が天地創造説を信じてゐる。従つてダーウィンの説を排斥してゐるのです。
1999年----といふからついこのあひだのことですが、その年のギャラップ社の世論調査によると、アメリカ人の47%は、人間は今から一万年以内前のある時点で、ほとんど今あるやうな形で神によつて創造されたと信じてゐる。
その前年、アメリカの全米科学アカデミー(N.S.A.)が発表した調査によると、アメリカの成人のうち進化論を信じてゐる者は半数以下で、50%以上の人が天地創造説を学校で教へるべきだと考へてゐる。別の調査によると、アメリカ人の45%が天地創造説は正しいと考へてゐる。


引用を読んでもらえば、わかるが、丸谷は旧仮名遣い信奉者で、たいていの著作はこんな風な表現方式をとっている。そしてそのことにMorris.は、共感する方なのだ。日本語への意識の高さから来ていることは自明だし、それだけ、自国の言葉を大切にしてる態度には、尊敬すらしている。
ところが本書115p(徳富蘇峰論)に次のような箇所があった。

しかし他の新聞社は桂内閣に対してそれを要求できず、国民新聞の躍進を手をこまねいて見てゐるしかなかつた。

「手をこまぬく」「腕をこまぬく」という表現を十数年前からしきりに「「手をこまねく」「腕をこまねく」と誤用する者が多い。新しい辞書の中には「こまねく」を慣用読みとして掲載するものまで出てきている。しかし、本来「こま(組み)+抜く」という動詞なのだから、言葉に意識的な丸谷先生がこんな表現をするなどということはあってはならないと思う。
すでに80歳近い先生のことだから、間違えたのは印刷所のほうで、校正時にも「ね」と「ぬ」が似てるから、老眼のためもあって、見落とされたのに違いない、ということにしておこう。


【良寛さんのうた】田中和男編 ★★★☆童話屋の一連のポケット詩歌集の一冊で、前にも読んだと思うのだが、時々手にとりたくなる。
たかだか160pたらずの文庫サイズの上に、わざと余白の多いレイアウトにしてあるから作品の数はあまりにささやかなものだ。それでもそのなかの、いくつかのことばの群れには無性に心惹かれるものがある。

うらを見せ
おもても見せて
散るもみじ


これは良寛の辞世の句とされている。できすぎてるような気がしないでもないが、なるほどというしかない。
良寛という人は一般に思われているほど、天真爛漫、純粋無垢な人ではないようだ。
「自戒のことば−−−こころよからぬものは」と題された、「物言い」への物言いには、シニカルなところも見て取れる。

ことばの多き、口のはやき、さして口
手がら話 へらず口
唐ことばを好みてつかふ
おのが意地をはりとほす
もの知り顔のはなし
この事すまぬうちにかの事いふ
くれてのち其の事人にかたる
返すといひて返さぬ
にくき心をもちて人を叱る
悟りくさき話 ふしぎばなし
神仏のことかろがろしくさたする
親切げにものいふ
人にものくれぬさきにその事いふ
おれがかうしたかうしたといふ
この人にいふべきをあの人にいふ
鼻であしらふ にげごとをいふ
はなしの腰をおる おどけのかうじたる
おのが得手にかけていふ
ぐちたはごと
あらかじめものの吉凶をいふ
つげごとの多き 口上のながき
ひとつひとつ数へたててものいふ
みだりに約束する
しもべを使ふに言葉のあらき
客の前に人を叱る いらぬ世話やく
口を耳につけてささやく
をろかなる人をあなどる
かたことを好みてつかふ


現代でもそのまま戒語として通用しそうだ。辛辣でもある。特にMorris.には応える物言いが多いようだ(^_^;)
文政11年の地震被害者への手紙に「災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。」などと書いてることからも、一筋縄の人でなかったことは知れる。

花無心招蝶 (花無心にして蝶を招く)
蝶無心尋花 (蝶無心にして花を尋ぬ)
花開時蝶来 (花開く時蝶来り)
蝶来時花開 (蝶来る時花開く)
吾亦不知人 (吾また人を知らず)
人亦不知吾 (人また吾を知らず)
不知従帝則 (おのずと天意にしたがふ)


この平明な漢詩や、「我生何處來 去而何處之」に始まる漢詩に漂う、明るい虚無思想は、Morris.を含む一部の日本人の精神的基盤にすらなっているようだ。

そして、Morris.の代わりに良寛さんが歌ったと思えるようなこの歌!!

世の中に
まじらぬとにはあらねども
ひとり遊びぞ
我はまされる


これだけ誉めてる割に点数が辛いのは、本書の小スペースに貞信尼との相聞が過分だと思ったからだ。もてないMorris.のひがみではないかと、勘ぐられそうだが、そうではない。為念。


【小林カツ代の レモンをひとしぼり】小林カツ代vs.町永俊雄 ★★★ 家庭料理研究家の一人者小林カツ代と、NHKアナウンサーでキャスター、リポータも務める町永俊雄の対談集である。
料理中心でなく、彼女の生き方や老後への思い、社会への意見などを、やわらかに話し合ったという感じの内容で、Morris.好みではなさそうな感じなのに、それなりに面白く読みとおした。
もちろん、料理関連のポイントでもいくつか役にたちそうな部分もある。

小林 あのね、コロッケがコロッケとして生命を放つのはね、中にピーッと熱が通ったときなんです。油の中にいれるでしょう。衣の色がついたときよりも、中にピーッと熱が入った瞬間に、そのコロッケは見事にポテトコロッケになるんですよ。
町永 じゃがいもとミンチの集合体ではなくて、コロッケに変わる。
小林そのとおり。料理ってみんなそうなんですよ。もう今本当にいいことをおっしゃった。材料の集合体じゃ駄目なんです。

小林 「水をさす」とはよく言ったものでね、お料理は水をさすといっぺんに味が悪くなるんですよ。例えばお味噌汁の味が濃いからといってお水を足すと、いっぺんに味が悪くなってしまいます。でも熱い湯ならば大丈夫なんです。つまり温度を下げて一からやると、また味噌が煮えるからなんですけれど。ハンバーグにお水だと、バーッとものすごく危ないんですよね、油がはじいちゃうから。だけでおお湯をさすと音だけで、ちっとも危なくないんです。はねないんですよ。で、つまり老人のために考えたことが、なかなか若い人にも評判がよくって、ハンバーグに熱い湯を注ぐんですね、ヒタヒタまで。そして蓋をしめて、強火にして、その汁がなくなるまで蒸しちゃうわけです。蒸し焼きに。

私は家庭料理のプロであり続けたいと思っております。そのためには時代と共に生き、家族の問題や政治、教育にも関わっていかなければ、時を生きる家庭料理は生み出せないと思っています。家庭料理というとすぐ、家族がいてこそと思われがちですが、ひとりぐらしでも自分のためにつくる、これが家庭料理です。社会の動きを敏感にキャッチしつつ、いつの時代も私はおいしい料理を生み出していきたい。(小林、あとがきより)


このあとがきの一節はひとりぐらし一筋で台所好きのMorris.には、ありがたかった。すごく力づけられたような気がするする(^。^)


【非国民】森巣博 ★★★☆☆題名に惹かれて借りて来たのだが、予想以上に面白かった。作者は、Morris.と同世代で、30年近く世界を舞台にカジノ賭博のプロをやってるというそれなりの人物らしい。
私設の麻薬中毒厚生施設に集う老若男女5人と、腐り切った警察官ややくざなどとの関わり、そして最後の大勝負、と、ストーリーは大したことはないのだが、はしばしで、権威や権力構造の腐敗や歪みへの、憤り、嫌悪を吐露している部分の方が面白かった。
また小説で博打を描くことは難しい事ではないが、例え賭け金が一億であろうと、作者からすれば、どのようなカードを出す事も自由自在で、実際の博打とは全く別物でしかないだろう。
それよりも薬物異存からの回復を目指すハイウエイ・ハウスという主人公たちの施設の希望が[明日]というところは良かった。

[今日]は駄目なんだ。やってはならない
でも----、でもね[明日]ならそれが許される。どんなことをしたって、構わない
その[すべてが許される明日]を夢見て、[今日]を耐える
忍ぶ。我慢する。凌ぐ。辛抱する。そして打たれ越す
一日一日を、そのようにして、生き凌ぐ
一晩明ければ、また
[すべてが許される明日]を見て、つらい苛酷な[今日]を耐える。忍ぶ。
艱難辛苦。克苦奮闘。
そうやって、自力で更生する。
そうやって、毎日を凌ぐ。
そうやって、時間を殺していく。
そうやって、一日一日を打たれ越す


Morris.のアルコール依存症の克服もこの伝でやるべきなんだろうけどね(^_^;)


【廃虚の歩き方 探索篇】監修 栗原亨 ★★★☆廃虚Explorer」http://www2.ttcn.ne.jp/~hexplorer/という廃虚紹介サイトを運営してる監修者と、その仲間による、全国の廃虚の探訪記事と写真集である
軍艦島、松尾鉱山、伊万里造船所、摩耶観光ホテルなど有名どころから、無名の廃屋まで約50箇所近くの廃虚が取り上げられている。
探索時の注意や準備、危機管理、探索方法なども記載されているが、冒頭にも書いてあるとおり、廃虚といえど所有者がいるので、基本的に無断で立ち入る事は違法行為であることは言うまでもない。
しかし、Morris.も、韓国や見知らぬ土地で、廃校や、廃屋、廃園など見ると中を見たくなる方で、これまでにも小学校などでは中に入ってしばらくたたずまいをたのしんだことがある。
摩耶観光ホテルは、たしか15年くらい前にホテルを廃業して学生の合宿所みたいになった頃訪れた事があり、その時すでに、やや廃虚みたいな雰囲気を感じさせてくれた。軍艦島は以前写真集見て憧れたことがある。精神病院の廃虚などは、心霊マニアのスポットになってる事が多いらしい。Morris.は先に書いたように、廃校や廃工場くらいで、あまり危険(身体上並びに刑法上)のなさそうなところなら、実地に行ってもいいが、危険を承知で入り込むことまではやろうと思わない。
こんな写真集や、サイトなどを覗くくらいで満足しておきたい。

廃虚とは「廃屋」「廃工場」「廃病院」「廃宿泊施設」「廃寮」などをふくむ建物や、「廃村」「廃鉱などの廃虚の複合体」「廃線」の総称である。
探索の目的についてだが、私の場合は「内部への潜入」である。当然廃虚好きにもいろいろな人が存在するので、各人によって目的は違うだろう。私が知るだけでも「外観だけに興味を持つ人」「物件そのものの歴史に興味を持つ人」など多種多様である。


【許俊 ホジュン 上下】李恩成 朴菖熙訳 ★★☆ 実在した朝鮮の医学者ホジュンを主人公にした大河小説である。
数年前MBCのドラマで全国的な話題になった。Morris.もあの頃はまだKNTV契約してたから見てたが、ストーリーより女医役の色っぽさばかりが記憶に残っている(^_^;)
もともとこれはそのシナリオとして先に書かれ、後に小説に書き直されたものらしいが、この長さ(上下で千頁超える)、上巻の半分くらいで読み出したことを後悔し始めてしまったが、それでも途中で止めるのも癪だからと辟易しながらやっと読み終えたら末尾に「未完」と書いてあった(+_+)著者は本来4部作として仕上げるつもりが3部まで書いたところで急逝してしまったらしい。
小説としても未完成というほかはない。訳もいまいちこなれてない感は否めないし、事件の一つ一つがあまりに造り物めいてるし、ホジュンの理不尽な行動も、すべて御都合主義で片付けられるあたりは、いい加減鼻白んでしまった。ホジュンの無私な治療にどこまでもしつこく阿る庶民や、とことん意地悪な兄弟子、など、どうしようもない人間の弱さ汚さを描く一方で、ホジュンやその妻、ホジュンに憧憬を抱く女医などの、崇高にして信じられない忍耐と研鑚、努力ぶりの極端さも、何だかなあ、と思わされてしまった。
朝鮮の古い歴史の一端を知るよすがくらいにはなったかもしれないが、Morris.にとっては時間を取られただけ損したような気がする。


【耳のこり】ナンシー関 ★★★ 2002年5月発行だからやはり彼女の晩年の作ということになる。亡くなってからいくらか特集や、記念版みたいなものも出ているが、Morris.は何とはなしに敬遠している。彼女のおしまいあたりの文章も消しゴム版画もちょっと見るのも辛いのだが、先日小倉の福田君の2003年の読書録(題名と著者のみ)にナンシーの作が3冊も入ってたので、つい気になって手に取った。
内容は「週刊朝日」2000年8月から2002年2月までだから、芸能ニュースネタとしては、今読むと一番つまらないことになるかもしれない。10年前くらいならそれなりに懐かしかったりするのだろうが、ほんの2,3年前の芸能ネタは、単に古いネタでしかない。例えば木村拓哉と工藤静香の結婚、田村亮子の金メダル、梅宮アンナの結婚、小泉孝太郎デビュー等々。
しかし本書の眼目はやはりネタではなく、ナンシーの版画といちゃもんのつけかただろう。彼女独特のいちゃもん文体というのを持っていて他の追随を許さないという感じだ。
ただ、具志堅が、ガッツ石松とTVヴァラエティ番組に出たときの記事には??を感じてしまった。

ガッツはジェットコースターの衝撃に度肝を抜かれて目が泳いでいたが、具志堅はテンションが高い。軽量級だからこその大きいガッツポーズをしまくり。今日の意気込みを尋ねられると、具志堅は「見当違いしゅよ」と訳のわからないことを言う。おそらく元世界チャンピオンだからって、期待されてもそうはこたえられない、という気持ちを伝えたかったのだと思う。

って、具志堅はボクサーだから「ケントウ違い」とシャレたんじゃないだろうか?62年生まれのナンシーにして、「拳闘」という言葉は既に死語になってたらしい。


【熱き血の誇り】逢坂剛 ★★☆☆ 最初に戦国時代の母子の悲劇を掲げて、次に製薬会社のトラブル、さらにスペインの市井の歌手と日本女性ギタリストの絡んだ殺人事件。舞台を静岡県に移して、えらく入り組んだストーリーになって行く。どうも主人公の動きに一貫性が無いし、ある意味主人公がはっきりしないきらいすらある。
輸血を忌避する宗教団体に、北朝鮮とつながりのある胡散臭い産廃業者、超特殊な血液を巡る、特殊工作員の暗躍、地方の伝説が現実になる新池の出現などと、とにかく、やたら色んなことが出てくる上に、登場人物同士のあまりに御都合主義的なつながり、そして、ぶつ切れ展開の連続。これはひょっとしてMorris.の嫌いな新聞小説ではないかと思ったら、やっぱりそうだった。それも「静岡新聞」に連載されたものだと。別に静岡に嫌悪感を持ってるとかではないのだが、どうも、作品の中で静岡への言及、いやお追従、ヨイショみたいな部分が多すぎる。いくら売文の徒とはいえ、そこそこにしておいて欲しい。この人の作品はここのところ割と良く読んでいて、それなりに楽しませてくれる作家として評価しているのだが、どうも、作品によってムラが多すぎる機雷がある。それと作品の内容とは直接関係ないが、新しく登場する人物の名前を、いちいち漢字で説明するというのは鬱陶しい。現実では確かに、初めて人の名を聞くと、発音だけで漢字は分からないことが多い。それでも、小説の読者は、本文に最初から漢字で名前を出しておけば、そのまま漢字名を知ることができるのだから、それをわざわざ毎回のように説明させるというのは、親切のように見えて不親切といわざるを得ない。もちろん、登場人物の名前がストーリーに関連する場合に、それをするなといってるわけではない。これだけ目に付くというのは、ちょっと異常だと思ったわけだ。


【北朝鮮から逃げ抜いた私】金龍華 長谷川由起子訳 ★★★ 53年生まれで挑戦人民軍から鉄道常務指導員を勤めた著者が、事故の責任を取らされそうになり中国に逃亡して、苦労の末ベトナムに渡り、また中国に戻り船で韓国に渡った、いわゆる脱北者の手記である。
一般の脱北者と違い、著者は韓国でも拒否され、日本に密航して、大村収容所で2年を過ごし、日本の支援者に支えられて、金大中政権になった2001年に韓国に受け入れられ、翌年にやっと正式な脱北者と認められ韓国籍を得てソウルで暮らしている。という略歴からだけでも、相当な辛苦を舐めた人であることがわかるだろう。
手記は幼少時から現在まで、原稿用紙で千二百枚にもなるものだったのを、脱北前後の事情を中心に1/3くらいに絞って編集したものらしい。
拉致家族がクローズアップされて以来、マスコミの北朝鮮関連報道は一気に加熱して、それにつれて北朝鮮関連書籍や脱北者の手記の出版も相次いでいる。Morris.もいくらかは読んでいるし、それなりの印象もあるのだが、全体に何かもどかしさを禁じ得ない。
本書でもそうだが、脱北者は、北朝鮮に家族なり親戚を残して来ているわけで、残された彼らが、脱北者の行為によって辛い目にあっていることは、まず間違いないから、そのことに対する自責や忸怩たる負い目があって、全体を通じて、やりきれない読後感を与える。それに付随して、書きたくても書けないことや、故意に婉曲に表現したり、極端に言えば「虚偽」もあるのではないかと思ったりもする。
さらに、脱北者は、北朝鮮でも比較的高い身分だったり、教育を受けたり、軍や党の有力者だったり、身体的にも人並み以上に優れていたり、要するに一種の「強者」が、大部分を占めている。ついMorris.は、彼らの後ろにいる多数の「弱者」に思いをはせてしまいがちだ。これは、安穏と日本で生活している傍観者の勝手な思い込みなのかもしれないが、脱北することなど思い付きもしない、大多数の飢えた北朝鮮の人々のことを忘れることができないと言うことだ。
現在は九産大の専任講師の訳者の長谷川さんは、Morris.の旧知の人でもあるが、なかなかこなれた訳文はさすがであると思った。


【道端植物園】大場秀章 ★★★「都会で出逢える草花たちの不思議」と副題にある。著者は東大総合研究博物館教授で、専門は植物分析学ということで、本書でもその専門知識が端々にこぼれ出している。
もともと平凡社の「月刊百科」に連載されたもので、取り上げられている植物は以下の26種である。

・タケニグサ・コモチマンネングサ・ハコベ・オオイヌノフグリ・イタドリ・スミレ・ウツギ・ヤマブキソウ・ドクダミ・マツヨイグサ・オシロイバナ・イヌタデ・ハギ・イノコヅチ・ハキダメギク・ウラジロ・フキ・スギナ・ヨモギ・タンポポ・チカラシバ・ヒメジョオン・オオバコ・スズメノカタビラ・スベリヒユ・ツユクサ

しかし、植物名のカタカナ表記というのは、やっぱり馴染めない。といって、
・竹似草・子持万年草・繁縷・大狗陰嚢・虎杖・菫・空木・山吹草・十薬・待宵草・白粉花・犬蓼・萩・猪子槌・掃溜菊・裏白・蕗・杉菜・蓬・蒲公英・力芝・姫女苑・車前草・雀の帷子・滑りヒユ(草冠に「見」)・露草

こうやって漢字で書くと、半分くらい読めない人の方が多いかもしれない。

むかごは主旨の生産から芽生えの誕生までの複雑な過程を経ることなしに、芽生えを作ることができる。いかにも効率主義者が喜びそうな「しかけ」だが、あらゆる植物が、むかごで殖えるようにはならないところに、種子をつくることの重要な意味が隠されている。それは受精による遺伝的変異の拡大にあると考えられている。多様な環境、環境の変化につねに適応して生き抜くには母体とは異なる遺伝資源が欠かせない。むかごで殖える植物の顔はどの個体も瓜二つである。コモチマンネングサが、どこに生える個体でも互いによく似ていることや類似した暮らしに終始するのは、むかごによる繁殖のために、どの個体もほぼ同じ遺伝子を有しているからだろう。[コモチマンネングサ]

オシロイバナの花は単花被花といい、多くの花のように萼と花冠という二種類の花被ない。専門家は約束事に従ってこれを萼と呼ぶ。こう書くと、花びらの基部にある萼様のものは何か、と問われそうである。これは一種の葉で、苞と呼ばれるものであり、ドクダミやハナミズキの花びら状の苞に比相できる。オシロイバナと同じ科に分類されるブーゲンビレアではこの苞のなかに三つの花が配するが、オシロイバナでは二花が退化し一花だけになっている。苞は植物に広くみられる構造だが、そのわりには実体も苞という言葉も日本ではあまり認識されていないのはどうしてだろう。[オシロイバナ]

日本の都市に生える帰化植物の多くは、世界中の温帯や亜熱帯圏都市に普遍的にみられる。ニュージーランドは日本からは遠く離れた南半球に位置するが、紀行が似ていることもあって、都市を歩くと日本で目にする顔馴染みの帰化種に出会う。たんに出会うだけでなく、その生育ぶり、群落の様相、一緒に生えている他種との組み合わせにも多いに共通性がある。大都市の植物相は、もはや日本のものというより、世界に共通の都市植物相としての視点からみるべきだ。[ハキダメギク]

ヒメジョオンの和名は「姫女苑」による。女苑は中国でヒメジョオン(Aster fastigiatus)を指す名である。しかし、ヒメジョオンの和名が定着するまでには曲折もあったことが偲ばれる。明治17年(1884)に東京大学の松村任三助教授の編集で刊行された『日本植物名彙』にはヒメジョオンがヒメジヲンとして載っているからだ。すでに指摘したことだが、この名は厭う圭介が実の提案者である可能性が高い。女苑がヒメシオンを指す名であるのだから、姫女苑はヒメシオンあるいはヒメジオンとするのは一理ある。しかし、一般にはヒメジョオンは姫紫苑ではなく、姫女苑にちなんだ名前なのでヒメシオンではなく、ヒメジョオンが正しいとされている。[ヒメジョオン]


リンネを始めとする植物分類学はMorris.には何か親しいものに思われる。Morris.が敬愛してやまない牧野富太郎も分類の鬼だったし、本書の著者もその流れに則って、実に細かいところへの執着ぶりが好ましい。
また幕末に来日した海外博物学者、特に著名なケンペル、ツュンベルク、シーボルトの3人をしばしば「出島の三賢人」と呼んで、彼らの日本植物学への貢献度の高さを従容しているところも、何となく微笑ましく感じられた。


【牙をむく都会】逢坂剛 ★★★☆☆ PR関連の個人事業所を営む主人公が、大手広告代理店主催の懐かしのハリウッド映画祭と、某新聞社主催のスペイン内乱シンポジウムのコーディネイターみたいな仕事を請け負い、映画とスペイン内乱の蘊蓄を傾けながら、第二次大戦、ヨーロッパ、ソ連でのスパイ事件、シベリア抑留問題なども絡ませながら、政財界大物の思惑に振り回されて、意外な展開をたどるという、それなりに面白いストーリーだった。
何といっても、著者自身の嗜好を色濃く出している、西部劇のカルトな蘊蓄や、スペイン内乱の複雑な事情の解説などが出色、というか、ストーリーそっちのけで、多くのページを使い、そして、その部分が、Morris.には実に面白かった。
映画にしろ、スペイン内乱事情にしろ、かなり突っ込んだ内容で、それぞれに一家言持つ脇役を多数配して、前半は無茶苦茶面白かったし、後半はどうなるだろうと思ったが、やっぱり尻切れとんぼに終わってしまった。
主人公と代理店の女性秘書との淡い恋愛模様は不完全燃焼に終わるし、全体にこの著者も、あまりこの方面は不得手らしい。それでも600pの物語をしっかり読み通せたのだから、娯楽小説としては水準をクリアしてることは間違いないだろう。
ただこのタイトルだけは、理解不能だった。ミスタイトルとしかいいようがない。


【マッチレッテル万華鏡】加藤豊 所蔵編 ★★★★ Morris.がマッチラベル好きなことは、Morris.部屋のトップ画像を見れば良くわかると思う。
もともとラベルやレッテルといった小さな印刷への愛好癖は昔からあったのだが、とりわけマッチラベルの意匠に関しては、完全にノックアウトされた感じだ。
ほとんどバラバラ状態といっても、あまり収集癖はないので、手元にコレクションなどは持っていない。20年ほど前に京都東寺の朝市で、箱に貼る前のマッチラベル数枚(同じ柄が一枚に10枚か20枚刷られていた)を買ったこともあるが、手紙の裏に貼ったり、人にあげたりして、今は一枚も残っていない。
本書は、昨年末心斎橋の中尾書店(古本屋)で見つけたもので、新古本、いわゆるゾッキ本扱いだったと思う。新書や文庫版のマッチラベルの本は4,5冊持っているが、こんなにたくさんの種類が載ってるのは初めてだ。帯には「明治・大正・昭和の商標マッチラベル6,000点をご披露」とうたってある。たかだか160ページくらいの本にこの数だと単純平均したらページ平均40点ということになる。実際は1ページに120ものラベルが豆粒みたいに掲載されてるページが40ページもあり、これで5,000点近くを稼いでいるわけだった。
内容的には満足行くものだが、買ってぱらぱらと見たらページがばらばら外れるではないか。どうせMorris.は気に入った図版をスキャンして加工したり、印刷したりして遊ぶつもりだから、かえってスキャンしやすくていいのだが、新刊の本屋でこれだと、売り物にならなかっただろうと思われる。ゾッキ本になった原因もそこらあたりにあったのではないだろうか。
掲載してあるマッチラベルはすべて著者の所蔵になるもので、著者は1950年生れのデザイナーとあるから、Morris.と同世代である。
タイトルの「マッチレッテル」も間違いではないだろうが、Morris.は「マッチラベル」で刷り込まれているので、こちらを使いたい。
今年、申年のネット年賀状に使った、蝙蝠に乗った孫悟空のマッチラベルも、本書から引用したものだ。


【自来也忍法帖】山田風太郎 ★★☆ 高校時代に愛読した風太郎忍法帖の一つだから絶対読んでるはずだが、nescoから復刊されてたので、つい懐かしくなって借りてしまったが、やっぱり、これは、今さら読む類ものではなかったようだ。柳生忍法帖や魔界転生、風来忍法帖などの代表作と比べるともともとかなり、雑な作品のような気がする。
伊賀の藤堂藩のお家乗っ取り騒動に、将軍家落胤の石五郎とそのお供の甲賀流忍者蟇丸、石五郎の嫁になる藤堂家の鞠姫がからみ、伊賀の無足人頭領とくノ一5人による性技を未然に防ごうとする謎の自来也の正体は??といった、結構錯綜したストーリーの割に、忍法の必然性がほとんどない。風太郎ならではのエロと清純さを併せ持った登場人物がいて、鞠姫のヒロインとしての魅力も無いではないのだが、どうもあまりに作りすぎなのだ。風太郎ファンでは人後に落ちないつもりではいたが、それも後期の傑作と比べると出来が違いすぎるようだ。


【下妻物語 ヤンキーちゃんとロリータちゃん】嶽本野ばら ★★★☆☆ 尼崎生れで茨城県下妻に引っ越したロリータの桃子と、当地の原チャリ暴走族、ヤンキーのいちごの、友情物語という事になるのだろうが、始めにとうとうと語られる、ロリータ=ロココ論から、代官山のアパレルメーカー直営店(架空)の詳細など、作者が得意とする(らしい)瑣末主義の講釈がおもしろかったし、おしまいあたりの、ドタバタ友情喜劇場面は、まるで最近の少女漫画をそのまま小説に仕立て上げたみたいで、たしかに、吉本ばななが絶賛したのも(って、Morris.はばななはほとんど読んでないが)むべなるかな、といった感じだ。前読んだ「ツインズ」は一向に面白くなかったが、本書は、何となく割り切って楽しめてしまった。ばななが誉めるような「うますぎる」文章とは、思えないが、面白い文章である事は認めよう。

イチゴの顔に一勝消えない傷がつく。嫌だ。それは絶対に、嫌だ。私はVIVA YOU原チャを起こし、エンジンを始動させようとしました。か弱い私では彼女達に立ち向かっていっても、すぐに捕獲されてしまうに決まっています。ですから原チャで彼女達の中に突入してやろうと思ったのです。一人くらい撥ね殺してしまってもこの際、仕方あるまい。しかしさっき黒い煙が上がっていましたよね、どうやらエンジンが焼き切れてしまったようです。何度掛け直してみてもエンジンが掛かりません。
そのうち、誰かが私の不審な行動に気付きました。ヤバい。私は嗚呼、どうにでもなれ、牛久大仏様、もしも貴方に仏心があるのならこの無力な私を何とかしやがれ、力を与え給え、合掌と、無理だとは思いつつもVIVA YOU原チャを、私は両手で持ち上げようとしました。ら、持ち上がったのです。一体、どこにそんな力があったのでしょう、砲丸投げの授業で30センチしか飛ばせなかった私なのに。私は「おりゃー!」という声を上げながら、原チャを剃刀を持つミコ目掛けて放り投げました。VIVA YOU原チャはミコの身体に見事命中、ついでにその横にいた三人を一緒に下敷にしました。

こんな調子なのである。もちろんここは、主人公の女子高生になりきって書かれている部分だから、地の文がすべてこんなではないのだが、なに、著者自身としての文章だって、トーンとしては大して変わりはしないのだ。
とりあえず著者のファンになるつもりはないが、もう一冊くらいは読んでおいても損はなさそうだな。悪趣味といわれようと。


【新宿・夏の死】船戸与一 ★★ 最初は長編かと思って借りてきたのだが、夏で始まるタイトルの短編8篇が収められている。
自殺した息子の仇を取る元マドロスの老人、殺人に巻き込まれたオカマ、右翼団体のヒットマンにさせられて使い捨てられる若者、チベット解放運動の女性に恋する板前、ロシアマフィアに叩き売られる女性調査員、ふられた女に財産を渡そうと死ながら殺される元プロレスラー---さまざまな惨めな人間が登場して、情ない死や、破滅に陥るといった、どうしようもなく、暗く、後味の悪い作品ばかりが並んでいるようで、なんで最後まで読み通したのかわからない。
船戸といえば「砂のクロニクル」「蝦夷地別件」など、緻密で筋の通った力作長編のイメージがあるので、ついつい読むことになるのだが、このところどうも、肩透かし食わされっぱなしである。どうしたんだあ??


【アダンの画帖 田中一村伝】中野惇夫 ★★★ Morris.にとって全く未知の画家だったが、口絵のカラー作品数点が印象的だったので借りてきた。
田中一村「ダチュラとアカショウビン」1967田中一村は、明治41年(1908)の生まれで、東京芸大に入ったものの、中退、その後は画壇を離れた在野の画家として、千葉に住み、50歳を過ぎてから奄美の自然に魅せられて、そこに住み着いて、貧困の中で彼の代表作とされる濃密な自然画を製作したらしい。生前にはほとんど評価されなかったようだが、死後、人の知るところとなり、現在では彼の作品が載っている高校の美術教科書もあるらしい。
芸大の同期には、橋本明治、東山魁夷などがいて、田中一村は当時の技量では彼らに決して劣らなかったそうだから、素質はなかなかのものだったに、ちがいない。
その後の落魄の原因は、当人の性格や、異常に献身的姉の存在があった模様だが、結局は残された作品が、すごいのだから、そういうことはすべて知らなくていいことどもなのかもしれない。
口絵のトップにある「クワズイモとソテツ」が最高傑作ということになってるようで、たしかにこれはインパクトがあるが、Morris.は「ダチュラと赤翡翠(アカショウビン)」に、まいってしまった。ダチュラ(ダツラ)は、最近でこそ、「天使のトランペット」なんて源氏名で、あちこちの花壇で見かけるが、10年程前初めて見た時にはびっくりした。とにかくデカイ漏斗状の花が睥睨するように垂れ下がっていて、その存在感に圧倒されたからだ。もともとが奄美産かどうかは知らないが、確かに熱帯地方に似合いそうな花である。
本書は、昭和53年(1978)南日本新聞大島支社に赴任した筆者が、2年前に死んだ画家の話を聞き、遺作展を開く運動の中で記事にしたことが発端になっているようだ。84年にNHK日曜美術館で取り上げられた翌年、南日本新聞に連載したと書いてあるが、表紙にも扉にも著者の名はなく、横に小さく「南日本新聞社編」となっているから、複数の記者が書いた記事やインタビューを、再構成したのではないだろうか。
Morris.が読んだのは小学館から95年に再刊されたもので、初版は86年に道の島社から出され絶版になっている。内容的にはかなり杜撰な感じを受ける。
遺作展の大好評から、名瀬市ではブームになり、美術館も出来ているらしい。
たしかに興味深い絵であり、一度画集も見たいと思っている。


【西遊記】呉承恩作 君島久子訳 瀬川康男画 ★★★★ 申年だから読書始めはこれと思い、年末に借りたのだが正月は新年会で忙殺されて、やっと読みおえた。
「西遊記」といえば、子供の頃から親しんできたし、高校の時に平凡社の全訳(たぶん)も読んだはずだ。
今回読んだ、福音館書店の二冊本も、76年に出版されたときすぐに読んでいる。いちおう児童書なのだが、2冊で1,200pくらいはあり、訳文も決して子供向けに程度を落としていない名訳と言えるだろう。原作全100回のうち、内容の重複するものや類似するものなどを省いた約60回分くらいが収められているので、西遊記の主なエピソードは網羅されているし、男女の色模様に絡む部分も省略しないでそれなりにこなしている。このあたりは訳者の苦労がしのばれるところだし、孫悟空、猪八戒、沙悟浄それぞれの複雑な心の動きや、感情も丁寧に描写しているし、三蔵法師のわがままや、心の弱さ、間抜けさなどもしっかり取りあげてあるから、幼少時からこの本を読めば、西遊記という作品への印象がずいぶんMorris.なんかとは違ってくると思われる。
瀬川康男の扉絵そして何といっても、Morris.が本書を再読しようと思った動機は、大好きな瀬川康男の渾身の挿絵にあったことは言うまでも無い。
「ことばあそびうた」や「いろはかるた」とタッチを同じくする、装飾的で象徴的で詳細にして大胆な絵柄、動物、怪物、神仏、鬼、化物から、炎、風、水などに至るまで、どれもこれもが表情豊かにユーモアを持って、瀬川曼荼羅とでもいうべき絵画世界を現出していて、見飽きる事が無い。各回毎に、扉絵1枚と、見開き一枚ずつが収めてあり、本当にこれを見るだけで楽しい。
版画風な白黒画面だが、どれもこれもが隅々までぎっしり書き込まれて、西遊記の世界を見事に自家薬篭中のものとしている。
これに匹敵する挿絵と言えば、全訳ではないが野尻抱影訳に初山滋が挿絵をつけた大型絵本を思い出すくらいだろう。
しかし、西遊記と言う物語は、ものすごいエネルギーを有していることにいつも驚かされる。
現代でも一世を風靡した漫画「ドラゴンボール」が西遊記を下敷にしていることは言うまでも無いし、先日読んだ杉浦茂の「少年西遊記」をはじめ、翻案、パロディ、踏襲した作品は枚挙に暇ないだろう。
三蔵法師より魅力的な三人?の弟子、就中、不思議な人気を持つ猪八戒が、かなり後になるまで物語に出てこなかったという訳者の解説を後書きから引いておく。

「西遊記」という物語が成立するまでには、じつに数百年の歳月を要し、多くの民衆に愛され育てられながら、雪だるまのように内容が大きくふくれあがっていったことがわかります。ですから、南宋の「大唐三蔵取経詩話」と明の「西遊記」を比較してみますと、物語の発展を見る上でたいそう興味ある問題が出てきます。三蔵の弟子といえば、孫悟空、沙悟浄、猪八戒の三人ですが、「詩話」では猴行者と呼ばれる猿の弟子がひとりだけになっています。途中の砂漠で箸をかけた深沙神が悟浄の前身であろうといわれていますが、八戒にいたっては全く姿を見せていません。人間的な弱さや狡さを一身に体現し、失敗をくりかえしながらも一生懸命に三蔵の供をしてゆく八戒の生き生きとした姿は、宋代以降、長い間民衆に愛され語られてゆく中で、かれらの素朴な感情を吸収し反映し、形象されていったのでしょう。

武田雅哉に「猪八戒の大冒険」という、快作があるが(1999年読書録)、これもまた再読してみたくなった。


【Rise, Ye Sea Slugs! 浮け海鼠千句也】robin d. gill ★★★★ 昨年12月月19日の日記に書いたから、詳細は省く。

先日きよみさんから紹介された、robin d. gillの「Rise,Ye Sea Slugs! 浮け海鼠千句也」が、届いた。ネットで本を注文したのは初めてである。
ペーパーバックだが、B5版で480pもあるデカい本で、内容はタイトルにもあるように、海鼠の句を千句拾い集めて、それぞれにgill自身の英訳(逐語 訳+数種の異訳)ならびに句解、評釈、脚注、さらにその句をめぐるエピソード、コラムと、とにかく、アメリカ人の著者が、海鼠の句を味わい、楽しみ、しゃ ぶり尽くすさまが、その過程を含めて、読者にも感じ取られるような造りになっている。とは言っても、Morris.の英語力ではそうは問屋がおろし大根 (+_+)。ともかくもMorris.も大好きな海鼠の句(日本語)を楽しく眺めるだけでも買う価値があると言うもの。さらに、本書にはMorris.の ぐいぐい俳句の中からも、一句取りあげられているのだ。これを快挙と言わずして何といおう。いや、実はそのことをきよみさんがこっそり教えてくれたので、 注文に及んだと言うのが真相である(^_^;)
件の句はぐいぐい俳句200年11月の「玄海の海月を案ず海鼠哉」である。
ここの部分を、脚注を除いて、引用しておく。

I found this contemporary haiku,partly inspired by sho-ha's Moon Talk Sea Slug,at the Gui-Gui(gulp-glup)web-site for poems by the extraordinary website host and restaurateur Morris.
玄海の海月を案ず海鼠哉 森崎和夫
#847 genkai no kurage o anzu namako kana - Morisakikazuo (contemp)
(genkai[name of sea]'s jellyfish/s-about←worry/ies/ponder/s seasulg[subj]o/this)

this sea slug
anxious for jelly fish
in the genkai

Genkai,as already noted, is the Japan/Korean sea. "Anxious for"is off,but the best I can do. Anzu means"to ponder with some anxiety,"but English must all out worry or simply ponder. So, I had to unverb. The fact this slug has mixed thoughts about floating is classic Japanese, but I thought to ask the poet what else the poem was about.M.K. told me that he is the slug and has pretty much stayed put,while the jelly fish is a long-time friend,a Korean,a globe-totter engaged in risky endeavors.A stay-at-home by nature, M.K. feels some envy for hit friend's freedom,but mostly worries at the ups and downs in his uncertain fortunes. But, he continues,"I wrote the poem intuitively,and managed to come up with the above-written analysis[which I loosely translated]only in retrospect."

I am fascinated by what MK admits(I write admits because if there is a haiku party-line, it says that significance is improper and one does not explain haiku). It would seem that haiku - some haiku at any rate - are written in a dream-like manner that, for proper appreciation requires something like dream analysis,which includes questioning the dreamer!

いやあ、なかなかのものであるなあ。Morris.のことをレストランのオーナーだと誤解してるふしもあるが、これは掲示板のタイトル「ぐいぐい酒場」をそのまま、現実の店と思い込んだのだろう。これは日本人でもたまにそう思ってる方がいるようだ。
当時、gillから英文のe-mailをもらい、拙ない英語で返事を書いたら、あまりにひどかったためか、gillが日本語に切り替えてメールのやりとり をした。あのころはMorris.もぐいぐい俳人のつもりでいたから、そんな殊勝なこともやってたのだろうが、廃人となった今では、それもおぼつかないだ ろう。
実は、Morris.の作品はもう一つ、紹介されているのだが、こちらは、ちと問題ありだった。
#398の「海鼠噛む時恍惚となる海月噛む時朦朧となる」である。
これは、Morris.の歌集「嗜好朔語」のおしまいの二首
來世には為りたきものの一つ故海鼠噛む時恍惚となる
來世には為りたきものの一つ故海月噛む時朦朧となる

の下の句だけを抜き取り、一つにしてしまってある。これって、改竄ではないだろうか(@_@)
本書は俳句の本だから、短歌を取り上げるわけにはいかなかったのだろうし、悪気があってのことでもなかろうから、文句を言うつもりはないが、せめて解説に原作の短歌を併載しておいて欲しかったような気もする。
gillから、数ヶ月前に文字化けのメールが来てたから、もしかしたら、内容は掲載の知らせや、この短歌改竄のことを書いてあったのかもしれない。
細かい事はやめておこう。ともかくも、Morris.のぐい句が、アメリカの本の中にこうやって掲載されたことだけで、とっても、良かったということにしておこう。乾杯!
ともかく、日本で、日本語の著書を多く持つ著者が、アメリカに戻り、趣味で俳句に没頭し、20巻にわたる歳時記作りの中で、特に関心を持った季語「海鼠」の句を古今を問わず「千句」を渉猟して(初版ではまだ900足らずだが)それにさまざまの英訳を試み、注解、エピソード、はてはこのわたの作り方まで詰め込んでしまった500pになんなんとする大作だし、Morris.の作が二つも引用されてるということだけでも、欣快とすべきだろう。
しかも著者は軽愚の俳人名で、かなり多くの句も掲載している。もちろん日本語で作り、さらにそれを何種類も英訳してるのだから、はっきり言って、ちょっと病膏肓に入るタイプかもしれない。
それでも、Morris.も海鼠好きにおいては人後に落ちない一人だし、海鼠の句も昔から黒柳招波の「憂きことをくらげに語る海鼠哉」をはじめ好きな句は枚挙に暇ないのだから、千句近くもの海鼠の句を、一挙に収めた本書は、それだけで座右の書の位置を占めることになるだろう。
インターネットを駆使して、ネット句界の日本の若者との交流にも熱心だし、新しい形の俳壇を作ろうとしてるのかもしれない。まあ、これは著者の営業政策とも言えるが、面白ければ何でもいいが、Morris.の信条でもあるから、全く問題無しである。
正月明けの初読書に、本書をあげるというのもなかなか似つかわしい。
もっともMorris.は英語に堪能だとは、口が裂けても言えないほうだから、ほとんど日本語の句のみを読み通したに過ぎない。その中から、第一印象に残ったものから百句ほど引用しておこう。

・浮け海鼠仏法流布の世なるぞよ 一茶
・俳諧の上手を志す海鼠 未知
・瓦とも石ともさては海鼠かな 来山
・小石にも魚にもならず海鼠哉 子規
・生きながら一つに氷る海鼠哉 芭蕉
・悲しみの形のままに海鼠凍て 鷹羽狩行
・解もやらず氷もやらずなまこかな 素丸
・凩に生きて届きし海鼠かな 露月
・俎板に這ふかとみゆる海鼠かな 太祇
・凍りあふて何を夢みる海鼠かな 青々
・雪の夜に夢見るものに海鼠かな 高橋睦郎
・海底に一存在の海鼠哉 松本正気
・尾頭の心もとなき海鼠哉 去来
・尾頭の不明は海鼠無限也 軽愚
・まな板の心もしらす海鼠哉 三惟
・海鼠あり庖厨は妻の天下かな 
・海にあるものとは見えぬ海鼠哉 谷水
・徹頭徹尾せぬを身上海鼠かな 成瀬桜桃子
・器物(いれもの)の形になりたる海鼠かな 嵐夕
・手にとればぶてうほふなる海鼠かな 虚子
・このわたは小樽海鼠は中樽に 鈴木真砂女
・このわたを泳がせてゐる海鼠かな 矢島渚男
・青と見れば紫光る海鼠かな 東洋城
・眼なきこそ海鼠の眼句によく見えて 軽愚
・天地の昔しも今も海鼠哉 馬卵
・万物の成れるが中のなまこかな 蕗谷
・天地を我が産み顔の海鼠かな 子規
・釣針の智恵にかゝらぬ海鼠哉 也有
・無為にして海鼠一万八千歳 子規
・「老子」混沌をかりに名づけて海鼠かな 子規
・老子虚無を海鼠と語る魚の棚 寺田寅彦
・海鼠の寿命誰もが知らず初句会 出口孤城
・夜窃かに生海鼠の桶を覗きけり 石井露月
・鬼もいや菩提もいやとなまこ哉 一茶
・水底の海鼠にあたる海鼠かな 買明
・海鼠老いて無門の関を守りけり 鶯子
・海鼠食ふは穢いものかお僧達 嵐雪
・引き汐の忘れて行きしなまこかな 蝶夢
・とうなりと海鼠は人に任す哉 星高
・手にとれはさすかに迯る海鼠哉 吟江
・酢なまこの震へて箸を逃げんとす 飯田君子
・きん玉のやうに凍てたる海鼠哉 松本正気
・聖者の訃海鼠の耳を貫けり 普羅
・目も鼻もなき世なりけり海鼠ずき 不関
・安々と海鼠のごとき子を産めり 漱石
・ひとの手を借り得ぬものの海鼠買ふ 石川桂郎
・酢海鼠やなつかしき世に遊びをり 角川春樹
・何もかもなくして仏様になり 一弦
・何もないそれさへ知らぬ海鼠哉 敬天
・廓の灯たぬしむごとく海鼠売 後藤夜半
・手に取ればまだ脈のある海鼠哉 武玉川
・海鼠食べつつ花びらとなりし舌 鳥居真里子
・海女浮かぶなまこ掴みし手をあげて 下村梅子
・浮歩く海鼠に家はなかりけり 完来
・海鼠食ふこの世可笑しきことばかり 角川春樹
・海鼠たたみもむつかしき世や独住み 嵐雪
・をかしさよ海鼠の好か名に立ちし 葛三
・酢にあふて骨あるやうななまこ哉 竹紫
・心萎えしとき箸逃ぐる海鼠かな 石田波郷
・海鼠かむひかりの粒を噛むごとく 小檜山繁
・海鼠買ふ夫在るごとく振舞ひて 坪井芳江
・海鼠噛むそれより昏き眼して 中村苑子
・海鼠噛む汝や恋を失ひて 西東三鬼
・承知してやれば目のなき海鼠かな 加藤郁乎
・なまこ食ひなまこなまことなまけもの 高橋比呂子
・海鼠食うて海鼠のごとく酔ひにけり 冬葉
・黙りゐる事のかしこき海鼠かな 青々
・思ふこといはぬさまなる生海鼠かな 蕪村
・海鼠には海の思ひ出海の恋 八木忠栄
・心臓と同じくらゐの海鼠かな 石原八束
・雑念は失せぬなまこのごとく居る 鷹女
・むかし男なまこのやうにおはしけむ 大江丸
・生海鼠夜か明けたやら晴れたやら 露川
・活て居るものにて寒き海鼠哉 几董
・あたまからふとんかぶればなまこかな 蕪村
・暗きより暗きに帰る海鼠哉 暁台
・海鼠といふ詩嚢の深さはかられず 圓水
・水底やわらぢの如き大海鼠 耿陽
・初五文字のすわらでやみぬ海鼠の句 子規
・ゆらりゆらり夢海鼠となる風邪の午後 美沙
・わたつみや餌たにまかて生海鼠かく 白雄
・ペンだこというもの持たず海鼠裂く 鈴木真砂女
・べた凪や身をさかしまに海鼠突く 萩原記代
・水底も秋経し色や初海鼠 志太野坂
・魚屋の昔や暗き海鼠桶 石川桂郎
・独断と偏見満ちる海鼠かな 清水昶
・海鼠まて出てゆらめく師走かな 成美
・海鼠食ひし顔にてひとり初わらひ 加藤楸邨
・皿にのるめなまこ失意のかたしして 鈴木妙子
・なまこ買ふ人差指で押してみて 鈴木真砂女
・いかさまに世は動きをり海鼠食ふ 石原八束
・をらぬ人想へば海鼠うごきけり 野本京
・不思議とふことの一身海鼠かな 萩月


しかしこうやって並べてみると、海鼠の句の類型化というのが目につくな。とりあえず下の句が「海鼠哉、海鼠かな、なまこ哉、なまこかな」で終わってるのが4割超している。つまり、海鼠の句ってのは、ほとんど半分が下五は出来合いで、頭の七五だけ作ればいいってことになるではないか。
さらに、「表裏が分からない、前後ろが分からない」「動かない」「濡れてる」「凍りつく(固まる)」「おとなしい」「茫洋としている」「悟ってる」「ふてぶてしい」といった、特徴からの句、そしていわゆる男性性器に類似してることからの連想、さらには「海鼠(なまこ)と眼(まなこ)」「なまことなまけもの」の語呂合わせに着目した句が意外に多いということに気付かされた。


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