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Morris.2003年読書控
Morris.は2003年にこんな本を読みました。読んだ逆順に並べています。
タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。 ★20点、☆5点

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セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)
世阿弥の墓--LE TOMBEAU DE ZEAMI】水原紫苑 ★★ 本は変わる!--印刷情報文化論】中西秀彦 ★★★★ 韓国-民主化と経済発展のダイナミズム】木宮正史 ★★★★ 遠ざかる祖国】逢坂剛 ★★★
輝く日の宮】丸谷才一 ★★★★ 装丁】南伸坊 ★★★☆☆ 幻の祭典】逢坂剛 ★★★☆☆ 兄おとうと】井上ひさし ★★☆☆
砂の狩人 上下】大沢在昌 ★★★☆ マンガの居場所】夏目房之介他 ★☆☆ 小説GHQ】梶山季之 ★★★☆ 杉浦茂マンガ館3--少年SF・異次元ツアー】杉浦茂 ★★★
浪漫的な行軍の記録】奥泉光 ★★★★ 緋友禅】北森鴻 ★★★ 少年西遊記】杉浦茂 ★★★★ からいはうまい】椎名誠 ★★★☆
FLY,DADDY,FLY】金城一紀 ★★★☆ 劇画狂時代 「ヤングコミック」の神話】岡崎英生 ★☆ 顔のない男】北森鴻 ★★☆☆ 李陸史詩集】李陸史 安宇植訳 ★★★
触身仏】北森鴻 ★★★☆☆☆ 川田晴久と美空ひばり】橋本治 岡村和恵 ★★★☆ 裏と表】簗石日 ★★☆☆☆ 闇の子供たち】簗石日 ★★★☆
ここまできてそれなりにわかったこと】五味太郎 ★★★ 身近な雑草のゆかいな生き方】稲垣栄洋 三上修 絵 ★★★★ エンブリオ】帚木蓬生 ★★★☆  ピカレスク--太宰治伝】猪瀬直樹 ★★★
りっぱなバックパッカーになる方法】シミズヒロシ ★★★ セイシュン海外トラベル術】山下マヌー ★★★ 牢屋でやせるダイエット】中島らも ★ 枝豆そら豆 上下】梓澤要 ★★★☆☆ 
口きかん】矢崎泰久 ★★★☆  川田晴久読本 地球の上に朝が来る】池内紀ほか ★★★☆ イキのいい韓国語あります】八田靖史 ★★ ギターは日本の歌をどう変えたか】北中正和 ★★★ 
袂のなかで】今江祥智 ★★★ チャイ コイ】岩井志麻子 ★★☆ バーボンストリートブルース】高田渡 ★★★ コンピュータのきもち】山形浩生 ★★☆☆
体験的朝鮮戦争】麗羅 ★★★★ 猥談】岩井志麻子 ★★★ これがビートルズだ】中山康樹 ★★★☆☆ 鎌倉のおばさん】村松友視 ★★☆☆
HOKUSAI】西澤裕子 ★☆☆ 浮世絵 消された春画】リチャード・レイン ★★★★ 対話篇】金城一紀 ★★★☆☆☆ 晴子情歌 上下】高村薫 ★★★☆
趣味は読書】斎藤美奈子 ★★★ 喜多川歌麿女絵草紙】藤沢周平 ★★☆ マイコン少年さわやか漂流記】クーロン黒沢 ★★★ 浅草紅團】川端康成 ★★★
文壇アイドル論】斎藤美奈子 ★★★★☆ ガリバー・パニック】楡周平 ★★ クレイジーケンの夜のエアポケット】横山剣 ★★★☆☆ 王妃の館 上下】浅田次郎 ★☆☆
無限連鎖】楡周平 ★★★★ 図説 鉄腕アトム】森晴路 ★★★ 旅で会いましょう】グレゴリ青山 ★★★☆ 女経】村松梢風 ★★★
一九七二】坪内祐三 ★★☆  ふたたびの旅。】グレゴリ青山 ★★★☆☆ ぼくの音楽人生】服部良一 ★★★ 昭和が明るかった頃】関川夏央 ★★★★
超短編アンソロジー】本間祐 編 ★★★ 文壇】野坂昭如 ★★★ 戦時下のレシピ】斎藤美奈子 ★★★★☆ 幸福の軛】清水義範 ★★★☆
大江戸美味草紙(むまそうし)】杉浦日向子 ★★★☆☆ 食のほそみち】酒井順子 ★★★  季刊 本とコンピュータ 2002冬号】★★★☆☆ 電気菩薩 上巻】根本敬 ★★毒毒 
ソウルの大観覧車】橋口譲二・写真 山口文憲・文 ★☆ 太鼓たたいて笛吹いて】井上ひさし ★★☆☆ 戦中派焼け跡日記】山田風太郎 ★★★☆☆ 知的武装講座】一橋ビジネススクール ★★★
憧れの名句】後藤比奈夫 ★★★☆☆ 一日一書02】石川九楊 ★★★ ソウルに消ゆ】有沢創司 ★★★ 脱文学と超文学】斉藤美奈子編 ★★★☆
21世紀の野球理論】佐藤義則他 ★★★ 漱石先生お久しぶりです】半藤一利 ★★★ ふくすけ】松尾スズキ ★★★ 「書く」ということ】石川九楊 ★★☆☆
デジカメの絵本】早坂優子 ★★★★ 俳句武者修業】小沢昭一 ★★☆ 牙 江夏豊とその時代】後藤正治 ★★★☆ たった一人の反乱】丸谷才一 ★★☆☆
リョーコ】中場利一 ★★☆ デジタルを哲学する】黒崎政男 ★★★★ ぼくんち 全】西原理恵子 ★★★★☆ テレビの黄金時代】小林信彦 ★★★
経験を盗め】糸井重里 ★★☆☆ 日本語の21世紀のために】丸谷才一 山崎正和 ★★★☆☆ 誰がためにポチは鳴く】小林よしのり ★★★ 日本三文オペラ】開高健 ★★★★
えらい人はみな変わってはる】谷沢永一 ★★☆ 懐かしの昭和30年代】町田忍 ★★★ 鎮魂歌】茨木のり子詩集 ★★★★ 昭和遺産な人びと】泉麻人 ★★★☆☆
平成】青山繁春 ★★★☆  オマエラ、軍隊シッテルカ!?】イ・ソンチャン ベ・ヨンホン訳 ★★★★ 千利休の謀略】谷恒生 ★★☆ ロンド】柄澤齋 ★★★★☆
紅一点論】斉藤美奈子 ★★★★ 国語辞典の名語釈】武藤康史 ★★☆ 読書休日】森まゆみ ★★★ 日韓新考】黒田勝弘 ★★★★
見えない配達夫】茨木のり子詩集 ★★★ モダンガール論】斎藤美奈子 ★★★★ あほらし屋の鐘が鳴る】斎藤美奈子 ★★★★ 深夜快読】森まゆみ ★★★☆
パルガンチャジョンゴ-赤い自転車】キムドンファ ★★★☆☆ 必読書150】奥泉光他 ★★☆☆ 「演歌」のススメ】藍川由美 ★★★ 俳句礼賛】中村苑子 ★★★☆
風々院風々風々居士 山田風太郎に聞く】聞き手森まゆみ ★★★★ 歌集 葉桜】李正子 ★★★☆ 詩集 対話】茨木のり子 ★★★ 陋巷に在り13 魯の巻】酒見賢一 ★★★★☆☆
本についての詩集】長田弘選 ★★★ 読者は踊る】斎藤美奈子 ★★★☆ オイディプス症候群】笠井潔 ★★★
 

世阿弥の墓--LE TOMBEAU DE ZEAMI】水原紫苑 ★★ 世阿弥を主題にした短歌百首を一冊の歌集にしたもの。彼女の歌集「びあんか」「客人 まらうど」で、その響きの素晴らしさに、すっかり参ってしまったMorris.なので、迷わず手にとったのだが、読後感は、肩透かし食わされたというのが正直なところである。
一頁に一首のレイアウトで、百首で一冊の歌集に仕上げるという贅沢は、羨ましいくらいのものであるが、それだけに作品も粒揃いのものであって欲しいのに、全体に舌足らずだったり、説明的だったり、生硬だったりで、Morris.の愛してやまない、姿と調べの洗練とは程遠い作品が並んでるような気がした。
Morris.が世阿弥や能にくらいから、理解できずにいる部分も確かにあると思う。
彼女は、若くから歌舞伎に親しみ、大学ではラシーヌなどのフランス古典劇に傾倒、長じて能に惹かれて、自ら門下に入ってるとのことだから、本書も、酔狂で世阿弥百首を吟じたわけではなさそうだ。
もともと、請われて題詠の「世阿弥十首」を同人誌に発表したことがきっかけで、書き下ろしの本書が出来たらしい。
彼女はMorris.より十歳年下だから、今年44歳。まだまだ枯れるには早すぎると思う。ぜひ次作では、彼女本来の響きと、姿の良さをもった歌を拝ませて欲しいものである。

・物真似をきはめむことのさびしさよ思ひ虚空(そら)満つ大和猿楽
・うたた寝に恋しき人を見てしより死ののちきみが夢をたのまむ
・さくらばなたれをか待たむひと待つはうすくれなゐに墨注ぐこと
・肉体は悲しとつひにいはざりし世阿弥よ花の薄氷(うすらひ)の肉


印象に残った歌を引こうとしても、せいぜい上の4首くらい、それも、本歌取りや観念論的臭みのため、愛唱するには物足りない。
一番面白かったのは次の歌だが下の句の「根源」という語はあまりにすわりが悪すぎると思う。

・序破急はなべてに在るも交合の序破急こそは根源ならめ


本は変わる!--印刷情報文化論】中西秀彦 ★★★★ 京都の老舗印刷会社の御曹司である著者の5冊目の著書で、Morris.は「活字が消えた日」「印刷はどこへ行くのか」の2冊を読んで、面白かったし、教示されることも多かった。
本書は99年から2000年にかけて、立命館大学での「情報文化論」講義を再構成したものらしい。取り扱う内容が内容だけに、どんどん状況が進展し、いちおう2003年6月時点での現状にのっとって再編集してあるから、比較的リアルタイムでの印刷情報業界のあれこれを知ることが出来た。
著者が現実に印刷会社の実務にあたり、過去に活版から、電算写植、DTP、コンピュータ導入、オンデマンド印刷まで、直接携わってきただけに、血の通った内容になっているし、本という形態への執着を持ちながら、デジタル化への限りない希望を託してるあたりの真摯で複雑な胸の内まで垣間見る事が出来て、Morris.は、ちょっと、感動してしまった。
現代の情報ということで、インターネットに多くのページを割いてあり、これまた、Morris.の共感できる部分と、教えられるところ多いものだった。
10年前の「マルチメディアブーム」の空振り、が、インターネット時代になって実現の可能性を帯びてきたという一般論も、多大の資金と失敗を身をもって体験して来た著者が言うと、説得力がある。
とにかく、印象に残ったいくつかを、断片的に引用しておく。

・ちょっと構えて言えば、「言論の自由」は、DTP革命を経て初めてすべての人のものになったと言っていいかも知れない。
「誰が何を言ってもいいんだ」というのが「言論の自由」の基本だが、公園へ行って演説したところで何人が聞いてくれるだろう。やはりメディアを所有している者が強いのは当たり前なのだ。政府に都合のいい論調を新聞と言うメディアを使って、一見「公平」を装って流布したら、これは圧倒的に有利だ。テレビやラジオを押さえていてもそうだろう。だから現代の革命軍は、まっさきに放送局を占拠したがる。

・インターネットは自動車に似ている。便利だが、最初はちょっとした贅沢品・趣味品だった。やがては必需品となり、社会そのものを変えていく。どう変えていくかと予測するのは楽しいが、公にすれば生きているあいだに物笑いになるだけだろう。

・情報は細分化されていればいるほど使いやすいらしいのだ。インターネットのホームページが、一般的で概説的なものよりもひとつのテーマに絞ったもののほうが利用されやすいのはこのためだ。インターネットそのものが巨大なデータベースなのだから、そのエレメントは細かいほうが、情報を得るときにもくみあわせるときにも扱いやすい。結果として情報は断片化していく。体系的な「知恵」ではなく、細かく分裂した独立の「知識」のみが存在していくことになる。
・情報の断片化の底流となったのが、共通知識の崩壊だ。
・詰まるところ誰でもが知っていなければならないという一般教養の崩壊がある。奇しくも「一般教養」という言葉は、大学の授業科目としても成りたたなくなっている。

・「おたく」が「おたく」として成立するための最大の道具がインターネットである。
「おたく」は細分化された情報にこそ宗教的とも言える情熱をそそぐわけだが、細分化された情報を細分化されたままやりとりできるインターネットなくしては、存在しえなかったと言っていいかも知れない。
おそらくそのはじまりは、インターネットに先行したパソコン通信だろう。インターネットによって、コンピュータを通じた情報交換はより一般化したが、パソコン通信は文字情報の交換という点ではインターネットにまったく劣っていなかったから、さかんに利用された。
「おたく」は先に述べたように、人間に興味を示さず、特定のアニメの主人公にのみ興味を示したりする。だが彼らとて、自分ひとりでは情報収集に限界があることは知っている。そこで昔から、同人誌や同好会といったものが存在して、「おたく」の士が集まることになった。しかし「おたく」はこうした人間のつきあいが不得手である。その上、趣味の領域が狭まれば狭まるほど、同好の士を近隣に得るのは困難だ。同じアニメのアニメーターによる描き分けがわかる人間が、全国にそう何人もいるわけがない。パソコン通信やインターネットは、こうした細分化された同好人をインターネット・ネットワークを通じて結びつける役割をした。逆に言えば、コンピュータ/ネットワークがあればこそ、「おたく」は「おたく」として成立しえた。それがなければ「おたく」は単なる社会不適応の変人でしかない。ネットワークを駆使することで「おたく」はより情報を深化させ、細分化されたといえども、ひとつの世界で「芸」の領域に達することを可能としたのである。

・インターネットは断片的な経験の集合体である。そこには個々人の具体的な経験が満ちている。いわば、親や友達のクチコミに相当する断片的な知識(知恵)が大量に電脳空間にばらまかれていることになる。親や友だちは、すべての問題にぶつかるわけではない。しかしインターネット空間には、ありとあらゆる具体的な経験が満ちている。いままでは、、こうした断片的な知識を利用するためには、それこそ知識を体系化して、断片的情報の中から選び出す目が必要だった。その裏には幅広い「教養」が必要であったことは言うまでもない。
ところがインターネットを利用するには体系的知識も教養も必要ない。検索エンジンさえ使いこなせれば、自分の欲しい断片的知識に造作もなくたどりつける。おそらく渋滞回避の方法から社会福祉の申請法まで、いままでは親や友人たちが担ってきたような情報への接触が、インターネットを通じて可能になる。
・インターネットを得たことで、断片的な知識は断片のままでも使いこなせるようになった。いやなる。

・究極的な個の世界。個人が個人で、自分の好きなもの、自分の都合で生きていく。自分に必要な情報しか見ないということだ。人間のわがままが望む究極の姿でもある。物質的に満たされた人間が向かう教養とは、最終的にそんなことになってしまう。自分の興味あることには徹底的に没入するけれど、興味のないことにはまったく興味を示さない。最も簡単に、一直線に、必要な情報が得られることだけが目的で、脇道の情報などは一顧だにしない。何のために生きているのかという生の意味さえ失われて、食欲、性欲と同じ意味で知識欲が存在する世界と言っていいだろう。

・インターネットはあまりにもあえかである。ある特定の時点でインターネットにどのようなサイトがあり、どのように活動していたかを知ることは不可能だ。特定のサイトに絞っても、意図して記録していないかぎり、ある特定の日時においてどのようなものであったかは、時間の中にただちに埋没してしまう。そして誤植の記録も残らない。管理者がサイトを修正したら、もとの痕跡はまったく残らない。間違ったものが載っていた事実も、途中で豹変した作者のもとの意見も、きれいさっぱり消え失せる。
「本」は、ある特定の時点における著者と編集者の思いを凝縮していると言っていい。そして著者と編集者の思いは、その背景にいる多くの人々の思いを反映しているとも言える。だから「本」は時代のタイムカプセルでもある。少し冗長ではあるが、一番確実な情報保存手段である。


いずれも、客観的に観察した視点から敷衍された意見であると思える。インターネットにどっぷり浸かりかけている、Morris.には、実に納得できる部分が多い。ただ、あまりにも多量のコンテンツの山に埋もれてしまうことで、失われる現実の時間(リアルタイム??)が失われることへの不安を覚えた。
著者に言わせると、「本」を読むことこそ、リアルな体験だということになるのかな?
すでにして、PCとインターネットに、実生活の時間のかなりの部分を割かれているMorris.にとっては、やや反面教師として見る必要があるのではないか、という気持ちも押さえきれなくなった。
著者が実務として力を入れて推し進めている、オンデマンド出版に関しては、うまくいけばいいと思いながらも、懸念を抱かずにはいられない。


韓国-民主化と経済発展のダイナミズム】木宮正史 ★★★★ 60年生まれの政治学研究家による、解放後の大韓民国政治史で、ちくま新書だから専門書ではなく啓蒙的入門書である。昔から政治とは縁遠いMorris.も、興味深く通読する事が出来た。
先般の神戸大学木村幹先生の3回講座を聞いたばかりなので、その関連で非常に理解しやすかったということもあるかもしれない。そういえば、どちらもほぼ同じ世代の政治学者だから面識あるかもしれないな。
冷戦・経済・政治主体・文化社会という四つの柱をたてて、それぞれを具体的にかつ簡潔に、分かりやすく分析、批評、解説してある。
もちろん、日本やアメリカとの交渉、軋轢、対応の変化などについても適宜とりあげて論じているし、分断国家の片方の北朝鮮との関係については、冷戦の項以外でもしばしば関連つけて言及している。
例えば90年代からの北朝核開発問題や、70年代の、韓国経済へのマイナス視に関しては、次のように論じられている。

・朝鮮半島をめぐる政治は、米朝関係の枠組みが先行する形で進展することになった。北朝鮮は、韓国の圧倒的な政治的経済的優位という与件の下で、南北関係の枠組みに深入りすることは、体制生存にとって危険であると考え、それよりも米朝関係の枠組みによる体制生存の国際的保障の取り付けを優先したのではないか。また、そうすることで、対北朝鮮政策をめぐって米韓間に亀裂が生まれることを期待したと解釈できる。

・確かに、韓国経済は、1970年代まで内需よりも輸出への依存が大きかったし、外資に大きく依存していた。そして、こうしたことが体外依存度の高い脆弱な経済であるとしばしば批判された。しかし、なぜ輸出への依存もしくは外資への依存それ自体が不健全な発展形態であるのか、また、それが内需のみに依存し輸出できない経済もしくは外資を引きつけられない経済に比べて、果たして不健全な経済であるといえるのか、はなはだ疑問である。こうした批判の背景には、北朝鮮のようなある種の閉鎖経済の方がより自立的で健全であるという、根拠のない前提があった。換言すれば、韓国経済に関しても、冷戦イデオロギーに支配された解釈が横行していた。


また、近代化で成功と失敗を露わにした両国が、現時点では「逆転」しているのでないかという指摘は、なかなか興味深かった。

・19世紀末における危機への対応に関して日本と朝鮮とは明暗をくっきり分けたといえるかもしれない。しかし、21世紀初頭の今日、経済危機の克服と新自由主義への適応という点で、これまでのところ、日韓はそれとは逆の明暗を分けていると言えるのではないか。危機のレベルがそれほど高くはなく、また政治体制においても既存の自民党一党優位体制に代わるような政治体制が準備できないために、既得権益に縛られ、必要な改革ができない日本に対して、韓国は1977年末、IMFへの緊急融資要請を余儀なくされるという未曾有の経済危機を経験したが、与野党政権交代や世代交代を通して新たな政治勢力が登場することで、急激な改革を実施したし、今後も続けようとする姿勢を示している。19世紀末に日韓の相違を決定づけた歴史的契機が、21世紀初頭には立場を逆転して起こっていないとは断言できない。

ノムヒョンの当選の原因の一つとなったインターネットによる、政治意識改革について、日本では同様の流れが起こらないのは、結局両国民の政治への関心の度合いの差ではないかという意見も、同感だった。

・日本社会は政治という価値がそれほど重視されていないという意味で「脱政治化された社会」であるのに対して、韓国社会が逆に「政治化された社会」であるということを指摘することができるだろう。日本社会よりも韓国社会の方が、日常会話のテーマとして政治が登場する頻度は圧倒的に高い。そうした行為自体が制限されていた独裁時代はもちろん、民主化後も同様である。

Morris.自身が政治への関心は高くないほうだが、たまには、こういった傾向の本を読むことも必要なのかも知れない、と、柄にもないことを感じてしまった。


遠ざかる祖国】逢坂剛 ★★★ 「幻の祭典」が面白かったので、速攻で借りてきた。本書は太平洋戦争直前の時代背景のスパイ小説だった。やはり主な舞台はフランコ政権下のスペインになっている。ペルーとスペイン国籍を持つ日本人スパイを主人公に、各国のスパイが暗躍する。中でもイギリスの女性スパイとの恋情に至るやり取りはなかなかに良く描けている。
日本の大使や外交官や報道記者のそれぞれの個性や能力もうまく描き分けられているし、当時の各国の思惑と齟齬なども、しっかりした筆致で書き込んであるので、すごく納得させられる。やはりこの作家はただものではない。本作も新聞連載だったらしいが、その割に全体の展開に無理がなく、筆者の地力を感じさせられた。
プロローグとエピローグに置かれた、海軍省勤務の兄とペルーに移住する妹のエピソードは、あまりにもとってつけたようで、無い方がよかったのではないかと思う。
しかし、筆者のスペインへの嗜好は半端ではなさそうだし、しばらく読み続けることにしよう。


輝く日の宮】丸谷才一 ★★★★ 丸谷版源氏物語、というと、ちょっと大袈裟かも知れない。舞台は現代で、19世紀日本文学専攻の女流研究者を主人公にして、その色事を横糸に、源氏物語研究というか、一度書かれながら残存していないとされる「輝く日の宮」の巻の成立と消滅過程という、大胆な仮説を縦糸に織り合わされた、なかなかに読みでのある一冊だった。
ヒロインが高校時に書いた幻想小説なんてのが冒頭に置かれているし、舞台も日本だけでなく、ローマでの男との出会いがあったり、学会内部のややこしい人間関係、端々に出てくる名歌、名句の解説、新説、異説、逆説もぽんぽん出てくるし、それでいて、ストーリーは序破急の繰返しで飽きさせないしで、丸谷のストーリーテーラーの実力を遺憾なく見せてくれる力作だった。
先の創作があったり、年代記風だったり、擬似論文あり、相手の男も多岐にわたるし魅力的だったりもするし、実に仕掛けの多い凝った作りになっていて、Morris.はしっかり楽しませてもらった。
数年前の「新々百人一首」が、あまりに素晴らしかったので、それを超えるとは言いがたいが、そもそもあちらは小説ではない。前から一通り彼の小説は読んできたが、老いてますます盛んというのは、すごいと思う。
前にも書いたが名前に反して多才な彼ならではの作品だと思う。ヒロインの老父が、少し作者自身の面影を感じさせるようで、その娘や孫可愛がりが、ヒロインの魅力を殺ぐことになってるところが、僅瑕と言えなくもないが、そのくらいは目をつぶっておいてもいいだろう。
それに何となく勉強になったような気がする。「面白くてためになる」好きなMorris.にはぴったりの一冊だった。
源氏読みではないMorris.なもので、源氏物語の巻に先に完成したa系と後からはめ込まれたb系があるなどという有名な説すらちゃんと把握してなかった。また光源氏のモデルが藤原道長であり、紫式部との交情が源氏物語を現在の形に纏め上げさせたという仮説は特に面白かった。
ヒロインの独白の形を借りて、丸谷自身が本作品(ならびに小説一般)の創作論を吐露している部分を引用しておく。

中学生のころ、小説は掛け算でゆくもので、たとへば『宝島』なら、海賊タス宝物タス男の子ではなく、海賊カケル宝物カケル男の子になってゐるから読者がわくわくする、といふことを思ひついて得意だったが、高校生になつて『源氏物語』を与謝野晶子訳で読んだとき、引き算もあることに気がついた。もちろん光源氏の死をあつかふ「雲隠」の巻が、題があるだけで本文がないことにびつくりしたのだ。千年も前の人なのによくこんなことができた、とか、光源氏のゐなくなつた空白な世界をどさりとなげだされたやうで怖い、とか、読者がめいめい自分の好きなやうに主人公の死を思ひ描けて、つまり読者の自由が与へられてゐるとか、そんなことを、しかしそんなふうに分析できずにただ漠然と感じて、感心してゐた。今にして思ふと、あれは、宮中行事のときお女中たちが御簾際に出てゐて、そこから見物して、御簾の下から袖口だけ見せる出衣(いだしぎぬ)に似てゐる。あれはあたしたちここにゐますよ、といふしるし。お女中たちの衣裳の花やかさと違つて、こちらはうんと渋く抑へた言葉づかひの題で行つてゐるけれど。
ところが大人になつて原文で読み、研究書や論文に当るやうになると、もつとすごい引き算があることを知つた。光源氏と藤壺の最初のことを書いた「輝く日の君」の巻がきれいに落ちてゐるといふ。題まで消えてしまつた。はじめから作者がさうしたのか、それとも後世の人が写本を作つてゐるときついうつかり(?)、まさか、それとも意図的に(?)なくしたのかしら。どちらにしても大がかりの引き算だと驚いた。作者がした引き算か、それとも歴史がしたのか、などと。
つまりあたしは『源氏』といふ傑作の急所のところにあるブランクを手がかりにして何かを研究しようとしてゐる。物語を、と言つてもいいかもしれない。もともとものごとを整理するときは物語の形ですることが多い。因果関係とか起承転結とか。それを誰かの声(文体)で語つて。神話だつて三面記事だつてさうする。そのうんと洗練、成熟、発達したものが小説だから、そのなかでの抜け落ちてる所、抜け落ち方、なぜ抜け落ちるか、埋めるかそれとも埋めないではふつて置くか。さういふことを調べたり考へたりすると人間が現実を処理する態度、その対応のいろんな型を検討することになる。あたしがしようとしてゐるのはさういふ入口からはいつてゆく人間の研究らしい。


装丁】南伸坊 ★★★☆☆ 異才南伸坊は、装丁の分野でも異彩を放っている。青林堂でガロの編集長をしたころから、装丁を始め、今ではユニークな装丁家として名をなしている。本書は彼が装丁した本の図鑑と、ついでに書評+裏話めいた雑文が2pごとに相互に並んでいるが、いやあ、彼のデザインセンス+ユーモア+遊び心が横溢した装丁は、いわゆるデザイン屋のものとは一味違った楽しさを感じることができる。
時々ギャグが外れることもあるが、おおむね面白いものが多い。即物的な写真を使ったり、自作のイラストだったり、中国の置物だったり、素人イラスト(本の著者の)だったり、何でもあり、面白ければOKといった、開き直りも、伸坊ライクに実体化されると、何となく許されてしまう。
和田誠とは、タイプが違うが八面六臂な生産振りは、驚くしかない。彼らはやはり、神様のプレゼントなのだと思う。
赤瀬川源平とは師弟関係に近いようだが、彼の作品もほとんどは伸坊装丁で、たいていがシンプル、直裁なスタイルが多いのも妙に納得させられる。
赤瀬川の「わかってきました。」の表紙に中国のホルスタイン牛の看板、裏表紙に分度器と彫刻刀の写真を配して、「解」の字を図解しているなんてのは、バカバカしくも面白くてとてもよかった。


幻の祭典】逢坂剛 ★★★☆☆ 1992年のバルセロナオリンピックと、1936年のベルリンオリンピック、同じ年にバルセロナで開かれるはずだった人民オリンピックを絡めて、二つの時代を照らし合わせながら、スペイン内乱の人間模様と、日本スペイン混血の男や、日本人女流ギタリスト、TVドラマ制作者などが、物語の語り手として効果的に配されて、久しぶりに面白い作品に仕上がっている。
この作者の名前は、よく見かけるのだが、「GO WEST」をもじったペンネームのように思えて(GO OSAKA)、何となく敬遠していたのだった。
しかし、ストーリー展開もよく出来てるし、スペインへの関心が高いらしく、実に詳しい描写が頻繁に出てくるし、スペイン語、カタルーニャ語などに関しても、かなり堪能らしい事が感じられる。
やはり91年ごろに書かれたものだが、東京オリンピック(1964)が、ちょうど二つのオリンピックの中間にあたり、それぞれ7回分の空きがあるから、この3大会のカレンダーは、全く同一だったなんていう指摘も、なかなか面白かった。
バルセロナ大会に反対する団体と賛成する団体の軋轢とそれに巻き込まれる登場人物たちの、はらはらどきどきさせるアクション場面も多いし、情熱の国らしく恋愛模様も交えてあり、なかなか読ませる作家だと思った。これからちょっとは読んでみるとしよう。
全体の8割くらいまでは、ほとんど文句のない面白さだったが、終盤のまとめ方があまりに強引で、惜しいと思った。


兄おとうと】井上ひさし ★★☆☆ 吉野作造、信二兄弟とその家族の明治、大正、昭和にまたがる時代の場面場面のエピソードを4幕に仕立てた戯曲である。
大正デモクラシーの権化ともいうべき吉野作造のことはおぼろげにしか知らないが、作者は作造の高校の後輩にあたり、生地宮城県古川市の「吉野作造記念館」の名誉館長でもあるらしい。
弟の信二については全く知らなかったが、やはり秀才で、農商関連の役人で大臣を務めるほどの人物だったらしい。
井上戯曲らしく、登場人物は少なめで、あちこちに挿入される曲が不思議な雰囲気を醸し出している。
ここ最近、井上作品で楽しませてもらってない気がしているが、本作もあまり感心しなかった。
作造の理想主義というか、民本主義をわかりやすく劇中で解説するといったところが、うるさいし、それを憲法擁護論につなげるやり方も何となく胡散臭いものを感じてしまうのだ。
井上ひさしの面白さがどんどん失われて行くのを見るのは、つらいものがある。


砂の狩人 上下】大沢在昌 ★★★☆ 「新宿鮫」ばかりを評価する傾向のあるMorris.だが、本書は、冒頭から引き込む魅力を持っていた。未成年の殺人犯を射殺した元刑事が、暴力団会長の子女連続殺害事件に、かかわることになり、警察、公安のキャリア、日本での中国人社会、侠気あるやくざや刑事など、一癖も二癖もありそうな登場人物と、立ち回りを演じるのだが、得意な警察組織、暴力団組織の矛盾の剔出、薀蓄、陰社会の腹の探り合いや、騙しあいなど、実に興味深く読み進まされた。
例によって「女」を書くのが下手なところも、ご愛嬌というものだろう。
Morris.は、現代ミステリーを読むとき、携帯電話の使われ方に目を配る癖がついてしまってるのだが、本作では、殺害された被害者の口中に携帯電話が突っ込まれているという、エポックメイキングなパタンがあって、ちょっとわくわくしたが、この理由については、肩透かしを食わされてしまった。
ついでに言えば、主人公や、仲間たちがあまりにも携帯を安易に使用してる部分も気になった。携帯の傍受なんて、公安などからすれば、初歩の初歩なんではないだろうか。
とりあえず、上巻は★4つ、下巻は★3つといったところかな。
主人公が、途中で負傷するのはよくあるが、親指と人差し指を切断されるなんてのは、珍しい例だろう。
竜頭蛇尾とまでは言わないが、始めが興味深深の展開だっただけに、終盤のどたばたと結末の後味の悪さは、減点対象になってしまう。
警察や裏社会をネタにした、うがった視点は、なるほどと納得させられるし、ストーリーと付かず離れずの問題提起なども、ついつい読まされてしまう。たとえば、主人公と、あまり重要でない脇役の中国人との会話。

呉は無表情に西野を見つめ返した。
「わからない。でも日本人、好きになるの難しい。昔、中国人少なかったときは、日本人、中国人にやさしかった。多くなってから、やさしくなくなった。なぜ?」
つかの間考え、西野は言った。
「怖がっているのかもしれん」
「怖い?どうして。まだまだ日本人の方が多いよ。なのに、なぜ怖い?」
「外国人を怖がる民族なのかもしれん。少なくとも外国人とつき合うのが、決してうまくはない」
呉は無言で首をふった。それはあきれているようでもあり、納得していないようにも見えた。
西野は告げた。
「昔、聞いたことがある。本土から出稼ぎにくる中国人は、本当は皆アメリカにいきたい。だが遠すぎるので、日本でしかたなく働いている、と」
「そういう人もいるね」
「日本はもう、そんなにおいしい国じゃない。だがそのおいしくない国で、おいしい思いをしようとすると、ヤバい仕事に手をださなきゃならなくなる」
「苦しくても、安くても、ちゃんと働いている中国人いっぱいいる。そういう人は、どこの国にいってもいっしょ」
「悪いことをする奴も、だろ」

大沢作品全般に流れる、一種の正義感に囚われた心情の発露など、一歩間違えるとクサくなる部分も含めて、これがなかなかの力作だという点は認めよう。ともかくも10時間以上は楽しませてもらったのだから。


マンガの居場所】夏目房之介他 ★☆☆ 以前はマンガの熱心な読者だったし、今でも何故かマンガ評論はよく読んでるほうだと思う。Morris.は夏目房之介のマンガ論のファンであるとさえ言えるかもしれない。
しかし、本書はいただけなかった。
98年から2002年の間に、毎日新聞に連載したリレー式マンガ論(というよりコラムだね)を集成したものらしい。夏目以外のメンバーは、宮本大人、瓜生吉則、鈴賀れに、ヤマダトモコの4人である。それぞれ大まかな担当分野が決まっているようだが、それほど厳密ではない。
大手新聞社と夏目の「カオ」で、各作品のカットが引用されているのはいい(とりあえずそのコマだけは実物だから)のだが、内容的にとりとめのなさが目立つ。
もちろん、マンガの嗜好の差がありすぎるためもあるのだろうが、途中から、半分以上読み飛ばす事になった。いちおう夏目のコラムだけは目を通したが、こんなことなら、あっさり、個人の本として出してもらいたいものだ。
最近新聞小説を単行本にした小説を読んで、その制約によるつまらなさを感じていたものだが、本書も、やはり発表媒体による制約に縛られているような気がした。
香港やパリで日本マンガがどう受け止められているかなんてことは、ほとんど現在の日本のマンガ読者とは係わりのないことではないか。
戦前の漫画家大城のぼるや、中国の女性漫画家胡蓉(フーロン)、CGマンガの寺田克也、村田蓮爾など未知の作家の紹介とか、「ニッポンマンガの世界」(ショット)の評価など、それなりに目を引く部分無きにしも非ずだが、総じてしょうもないマンガ論だとしか思えなかった。
新聞とマンガは相性悪いと思うぞ


小説GHQ】梶山季之 ★★★☆ 彼の朝鮮関連作品を集めた「李朝残影」を借りようとして、つい隣にあった本書を手に取ってしまった。昭和51年(1976)初版となっているが、その10数年前に「週刊朝日」に連載されていたものだ。そして単行本になったのが著者没後である。と、いうことは生前著者はこの本を出版する気になれなかったらしい。それでも、多作として知られる梶山作品の中で、今でも著名な作品の一つとして名を挙げられる作品でもある。
梶山の最後期の「せどり男爵数奇譚」を再読して、すっかりその着想の妙味と語り口の上手さに魅せられてしまったから、彼の他の作品を読んでみたくなったのだろう。
戦後のアメリカ占領時代のことは、さまざまな人が書いてはいるが、読めば読むほどわけがわからなくなってしまい、何となく敬遠するようになってしまった。
本書を読んで、すっきりしたか、というと、まるでそんなことはない。梶山の目の付け所は流石という気がしたが、小説としてはほとんど態を成していない。しかし、読後感はなかなかのものがあった。
物語は敗戦の日から始まる。伯爵の一人息子と、百姓上がりの要領の良くて好色な兵隊が主人公らしい動きをする。しかし、話が進むにつれて、軍属の日系米人や、積極的な子爵夫人、アメリカの新聞記者、市井の策謀家青年等々が、それぞれ主人公みたいに描かれていく。もちろんタイトルのGHQの動きや、マッカーサー、日本の政局、財閥解体、農地改革、闇、パンパンなど、事件、風俗についても多くのページを費やしており、それぞれに面白く、興味深くもあるが、あまりにばらばらになっているのだ。
特にブローカーから、成金になりあがった好色兵隊は、のちの「と金紳士」の前身のようでもあるし、それぞれが1冊の本になるくらいの雑多なエピソードは、梶山ワールドの見本帖みたいでもある。
つまり、本書は小説家梶山季之のカオスというべきものだろう。ただ、一つの作品として完成させるにはあまりに材料をぶち込みすぎたのに違いない。
トップ屋として活躍していた彼の情報収集能力はずば抜けていた。例えば進駐軍向けの慰安所建設状況の記述。

米兵の犯罪は、日ましに上昇していた。公用以外に外出を禁じてあるのに、犯罪が増えるのだから奇妙である。その犯罪は、金品強奪と、暴行の二件が、圧倒的だった。
日本政府は、この米兵たちが、良家の子女も人妻も見境なく、襲いかかるのに手を焼いて、業者にRAA(レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション)という協会をつくらせ、大森海岸の小町園を皮切りに、楽々園、花月、仙楽、見晴、波満川、いく穂、やなぎ、乙女、清楽、日の家、福久良、悟空林----といったふうに、次から次にと京浜地区に慰安所を設置させていった。
ちなみに、進駐後三ヶ月目--昭和二十年十一月末現在の、RAAの施設の記録をみると、慰安所は京浜地区に十二軒(慰安婦五百名)、三多摩地区キャバレー兼慰安所が六軒(慰安婦二百名、ダンサー百五十名)、そして東京の中心である銀座・丸の内地区にも、五軒のキャバレーが誕生し、ダンサー六百五十名を擁して、いずれも日本人は立入り禁止であった。
このほか、品川の京浜デパート、小石川の白山、芝浦の東港園、赤羽の子僧閣などに進駐軍専用のキャバレーができ、向島の大倉別邸には、高級将校用の慰安所まで設置されている。
銀座ビヤホールは、進駐軍用として九月十二日午後三時から開店されたが、連日一万円を越す売り上げをあげ、午後四時には、品切れとなる盛況だった。半リットルのグラスが一杯二円、瓶詰が一本十円の時代だから、いかに米国人がビール好きで、ダンス好きで、女が好きかわかろうというものである。


小説の一部というより、週刊誌の記事を読んでるみたいだが、この詳細さには圧倒される。
日系米軍人の口を借りて、アメリカ占領政策への疑問、不満を語らせているところには、梶山の実感、というか本音が出ているようだ。

GHQの内部には、いろんな意見の対立があって、たとえば天皇制にしても、廃止して大統領制にすべしという強硬派や、天皇絶対という多数の日本人のため、当分の間は温存して、天皇の力を政治的に利用すべし----という思惑派、国民投票によって天皇制を残すか否かを決定すべきである、という民主派など、さまざまであった。
しかし、トム・塚田の見聞するかぎり、アメリカ人の大部分は、日本の国のことを真剣になって考えてはいなかった。
彼らにとって、日本は、自分たちが血を流して占領した国なのであり、日本人が餓えようと、寒さに震えていようと、それは自分たちの知ったことではない----のであった。
ただ大切なことは、このちっぽけな、狂信めいたところのある日本国とその住民たちが、ふたたび大それた戦争などを起こさないように、牙を抜き、手足をもぎ取り、頭をおさえつけておくことである。
財閥解体も、追放令も、農地改革も、戦犯指名も、みんなそのための破壊だった。まずすべてを奪いとって、裸にすることが、急務なのである。武器を持たない、裸の人間は、自動小銃の前には全く無力なのだから----
だが、理論的にそれは正しいと言っても、日本の血を受け嗣いだトム・塚田には、そうしたGHQは内部に漲っている、日本人蔑視の風潮が腹立たしかった。


単なる正義感ではなく、冷静にアメリカの本質を見据えている若いトップ屋の姿を伺う事ができる。梶山は、生前に本作品のリメイクをずっと考えていたらしい。しかし、多忙と付き合いの良さが、その願望を叶えさせてくれなかった。
川端康成の新聞小説を代作していたほど、彼の筆力はしっかりしたものだし、朝鮮への視線もただものではないし、もう少し彼の作品を読んでみたくなった。


杉浦茂マンガ館3--少年SF・異次元ツアー】杉浦茂 ★★★ 先般復刻された文庫版の「少年西遊記」3巻を買って読んだばかりだが、この豪華本を中央図書館で見かけてつい借りてしまった。ほとんどが初めて目にするものばかりだった。
杉浦茂「ゴジラ」の一コマ「少年」に連載された「ミスターロボット」あたりは、当然読んでるはずだが、全く記憶から飛んでいる。TVの特集で夏目やみなもとが言ってたように、当時のものにしては絵柄が綺麗過ぎるのだ。これは、どうやら杉浦自身のリライトらしい。面白ければそれでいいのだが、やっぱり、ノスタルジックな観点で見ると、この絵柄というのが大きな意味を持つことになってしまう。
その点「少年ブック」「おもしろブック」に掲載の「ゴジラ」シリーズは、発表当時の雰囲気を残しているようだった。ゴジラが列車をつかんで齧るコマには見覚えがあった。江口寿史がそのままパロってたからだ。
「漫画王」連載の「アンパン放射能」が一番面白かった。ほとんどの作品が発明家でスーパーマンみたいな万能少年が主人公だが、紅一点の美少女(科学者の娘)がなんとも言えずふくよかで可愛らしい。少年Morris.もきっと彼女に魅せられていたことは間違いない。
杉浦作品の線の楽しさ、食べ物の美味しそうさ、ナンセンスギャグの秀逸さ、どれもこれも確かに、他の追随を許さない独特の持ち味である。
登場する子どもたちが、悪漢に捕らえられたり、危ない目にあっても、終始ニコニコしているのが良いなあ


浪漫的な行軍の記録】奥泉光 ★★★★ 現代日本小説家中、Morris.ダントツ一押しの奥泉の近作、といっても初出は「群像」2002年8月号だから、一年以上前の作品だ。黒いソフトカバーの小ぶりな造本で見落としていたのかも知れない。しかし、やっぱりこれはなかなかの作品であった。
太平洋戦争で、南洋方面へ配置された砲兵の行軍の一員として、歩きながら見る夢の中で、現代では老人となった主人公と過去の往来、さらにはモーゼの出エジプトやオデッセイの挿話、日本古代神話なども動員されるわ、巫女めいた画家である妹の絵や、狂言回しの緑川という昭和20年生れの男、天皇の影、死と戦争論、日本国家論までが、曼荼羅絵巻のように現われては消え、また変奏的に現われてというふうに、実に幻想的かつ風刺的作品だ。
幻想、ファンタジー作品こそ、細部の描写がしっかりしていないと、それは単なる悪夢ににた安っぽい作品にしかならないと思うのだが、奥泉はそこをしっかりとクリアしている。例えば南洋諸島ジャングルでの描写。

一日に一度は来るスコールのせいでこもる湿気が耐え難い。獰悪なマラリア蚊がぶんぶん唸る。何だか知らんが、断りもなくやたらと人のことを刺す羽虫も来る。触れてもいないのに向こうから勝手に飛び出す棘が首筋に刺さる。蔓草に顔面を鞭打たれて蚯蚓腫れになる。かぶれる。かぶれて顔といわず手といわず火傷痕みたいになる。脚絆のなかにびっしり蛭がたかる。あるいは茄子ほどもある蛭がぽたりと落ちて貧血を起こすくらいに血を吸う。身体全体が黴と虱と細菌の培養器になって方々に巣喰った熱帯性潰瘍が皮膚に穴をあける。膿んだ傷口に蛆が湧く。黄色と黒のだんだら模様の毒蛇が股ぐらを這う。噛まれた睾丸が風船玉みたいに膨れる。見通しが悪いせいでゲリラが近づいても分からず、藪から棒にばりばりと枝葉を散らして弾が飛んでくる。ありそうで、食えるものがあまりない。何でも濡れていて燃料が集まらない。これで踏み分け路でもあればまだしも、鉈を振るって藪を伐採しながら進む苦労は並大抵ではない。

一般の戦記小説でもここまでリアルに描いたものは少ないのではないかと思われる。しかし、それが全くおぼろげな幻想としてうかびあがらされたりするのだ。
幻想の行軍中、天皇憑きとなった少尉がのたまう、玉音放送の戯文も開陳される。

--皆ヨク死ンデクレタ。コレカラモ、挙国一致子孫相伝ヘ確ク神州ノ腐敗ヲ信ジ、朕ト共ニ死ンデ行カウ。朕ハ時運ノ趣ク所、堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ、以テ万世ノ為ニ屍肉ヲ喰ラハムト欲ス。総力ヲ死国ノ建設ニ傾ケ、蛆虫ヲ友トシ髑髏ニ親ミテ、誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ、世界ノ腐敗滅亡ニ後レザラムコトヲ期スベシ。爾臣民其レ克ク朕ガ意ヲ体セヨ。

(ああ、疲れた、カタカナ文はイヤダネ(^_^;))こういった遊びを平気でできるあたりも、奥泉の抽斗の多さだろうな。

また、行軍から60年以上後イラク戦争の画像を見ながら、緑川が主人公に向かってうだをあげるくだり。

「何も知りませんが、戦争が政治の延長じゃないことくらいは知ってますぜ。少なくとも先生たちの戦争はそうだ。戦争とはある集団が他の集団に対しその意思を強要することだって、だいたいの教科書には書いてありますが、そういう意味からすると、先生たちがしていることは戦争じゃないことになる。だって、あれです」
「先生たちには強要すべき意思が何もないんですからね。先生たちの戦争を侵略戦争だなんて決めつける連中が大勢いますが、見当違いも甚だしい。先生たちはどこかを侵略しようなんて気はさらさらない。先生たちの戦争はもっと浪漫主義的だ。すなわち先生たちの戦争目的はただひとつ、死ぬことにあるんですからね。実に明快だ」
「つまり、戦争の定義を変える必要があるんですよ。私はぐっと先生たち寄りです。あくまで聖戦を信奉する素人戦争学者だ。その私からすれば、戦争ってのは、政治より、宗教に似た何かなんです。戦いは創造の母であるなんて標語がありますが、そんな矮小なもんじゃない。文化概念なんかじゃ捉えきれるもんじゃない。戦争はとっくに政治からも歴史からも臍の緒が切れて、自立しているんです。戦争とは暴力の陰鬱な祭典であり、人間の生を全体として意味づけるものだ。つまり死を意味づける。それ即ち戦争です。生でも死でもこの場合同じ事ですけどね。戦争は[希望]の源泉であり、生の根拠であり、この世界を世界たらしめる主体性そのものといっていい。まあ、こんなことは全部天地創造の昔からあまねく知られたことですがね。先生にはむろん釈迦に説法でしょう。なにしろ先生はいまなお戦いのさなかにいるんですから」(*つなぎの地の文省略、Morris.)


さりげなく作品のテーマを述べてるくだりだが、それを狂言回しの口を借りるあたりも奥泉のテクニックではある。
主人公の独白では、みずみずしい詩的な表現として表白される。

そのとき、私は、私を取り囲むこの世界に、清明が溢れかえっていることを、突然のように知ったのだった。頭上に高くまた低く、熱帯の鳥たちの啼き交わす声は濃密だった。水辺の草や苔の匂いが痛烈だった。高所の枝葉を揺らして猿どもが走った。川岸の岩棚が絵の具で彩色されたように鮮やかなのは、碧玉色の蝶の群である。腹に青い卵を付けた沢蟹が岩陰で蠢き、枝間に造成された蜘蛛の巣で巨大な蜂が紡錘形の腹をふるわせた。拳骨大の蝸牛が羊歯の葉に貼りつき、紅い眼をした虻が弾丸となって四方から飛来しては首や顔に撃ち当たった。
生命の氾濫。生きているのは、なにも生き物ばかりでなく、草間の石や透明な水に洗われる砂もまた、微細にふるえ、息づいているのだった。周囲の風景は、まるでたったいま生まれたばかりの風景であるかのように、私の眼に飛び込んできた。世界は瞬間瞬間に新しく生まれていた。私は周囲の事物と自身が一体であり、素材の点でも形象の点でも、ひと繋がりのものであると、いよいよ強く感じた。でありながら、それから遥かに隔てられているとも感じられて、私は自分がいまいる渓谷の俯瞰図を、写真でも眺めるように想像裡に眺め得た。そうして、同じ風景から自分の姿をひょいと消し去るのは容易だった。私が消えた後には、途切れることのない水音に満たされた、濃い草の匂いのする谷間の風景が残るのだ。私は自分が死んだ後の世界をそのとき実感していたと、おそらくいってもいいのだろう。

引用があまりに多くなりすぎるようだ。しかし、引用せずにいられないそんな個所がいくらもある本なんてそうそうないのだから、もう少し引用させてもらう。無限につづく行軍を、画像的に表現した一節。

するとそこは巨大な擂り鉢であった。わーんと鳴る混濁した騒音が高い岩壁にこだまするのは、大勢の兵隊がいるからである。兵隊たちは蟻のような長い列をなし規矩正しく蠢いている。擂り鉢の縁から底へ向かって、ぐるぐると螺旋を描いて一列の兵隊が連なり逆に底から縁へ向かっても反対向きの螺旋が出来ている。逆方向に動く兵隊蟻の二重螺旋。下から登ってきた者は、擂り鉢の縁の一点で向きを変え、今度は下へ降りる列につく。折り返し点には、線路の枕木みたいな杭が立ち、下から来た者は杭を回り込んで方向を転換する。擂り鉢の底のあたりは暗く蒸気とも砂塵ともつかぬ煙幕のせいで判然としないけれど、そこにも折り返しの目印があるのは間違いなく、つまり兵隊の列は断点のない輪をなしているのだった。循環する兵隊たちは一様に俯いた姿勢で黙々と歩を進める。

エッシャーの絵を思わせる情景だが、奥泉のことだから「二重螺旋」という言葉から、読者に遺伝子の染色体を連想させようとしているのではないかと想像される。こういったちょっとした仕掛けも、奥泉作品を読む楽しみの一つだろう。

そのくせ、おしまい付近では、主人公の口を借りてこう吐き出すように宣言する。

ニッポンがどうだろうと私の知ったことじゃない。ニッポンのことをあれこれ深刻に考えたり、嘆いたり、心配したり、憤ったり悩んだりする人は、死姦をして興奮する変態だろう。国旗はためく下、閲兵式の胸を焼く興奮と重苦しい晴れがましさなんてものは、私にはまるで縁遠い。隆として艶めく男根のごときミサイルや砲弾に向けられる熱っぽいまなざしなんてものはどこにもない。整然と陳列された暴力への劣情なんてかけらもない。ヒロイズムの甘苦い蜜を私たちは知らない。共同化された運命の重力を私たちは身に引き受けない。私たちは互いに隔てられたまま、ばらばらに、ただ歩くだけだ。裸足で歩くだけだ。そうしてあくまで虚構を生きるだけだ。
虚構を生きる?そうだとも。何しろこっちは痩せても枯れても作家なんだからな。忘れて貰っちゃ困りますぜ。辛気くさい実話だの、お涙頂戴の「本当の話」だの、そんなものは糞食らえだ!


わっはっはっは(^o^)いいなあ。Morris.は、ますます奥泉の虚構の世界に沈潜したくなったよ。
もっとも、本書を読むのは結構てこずり、やっと、寝床で読み終えた翌朝には、変な夢まで見てしまったくらいだけどね。

本作品は、奥泉作品の中では結構、硬派に属すると思う。「ノヴァーリスの引用」「石の来歴」などの系列で、特に「石の来歴」の一部をそのまま敷衍したような場面もあった。こういった硬派の作品も嫌いではないし、中途半端にエンターテインメントぶった失敗作よりよほど好ましいのだが、やっぱり、読者サービスを加味した良質のエンターテインメイント作品(「猫」殺人事件、鳥類学者のファンタジアみたいな)を、お願いしたいものである。


緋友禅】北森鴻 ★★★ つい先日読んだ「触身仏」が面白かったので続けて借りてきた。「旗師・冬狐堂」の連作短編である。旗師とは店舗を持たない骨董屋、冬狐堂というのはヒロインの名、陶子からつけられたものらしい。
この人の連作短編は面白いことになっている?ので、本書もそれなりに楽しめた。例によってのさまざまな薀蓄、エピソードなども多く散りばめられて、「面白くてためになる」に弱いMorris.には、読んで良かったと思わせる部分もあった。しかし、どうも、あまりに作り話めいたストーリーが多すぎたし、ヒロインの行動も、やや、漫画チックというか、どうも不自然なものを感じた。
円空仏をテーマにした作の中の、円空論はそれなりに面白かった。


少年西遊記】杉浦茂 ★★★★ 杉浦茂は2000年4月23日に92歳で亡くなった。Morris.も幼少の頃から彼の漫画作品に親しんできたもののひとりで、なかでも、この「少年西遊記」が一番印象的だった。数年前に「杉浦茂ワンダーランド」の一巻にこれが収録されていたのを読んだのだが、何故かMorris.のイメージと微妙に違っていた。幼い頃の記憶だから勝手に変形して記憶してたのかと思ったが、どうやら、彼は新しく全集や特集が出されるたびに、はなから新たに描いていたらしい。
そういえば、ずっと以前「宝島」に数回掲載された猿飛佐助などのシリーズを読んだ時も、違和感を覚えた事を思い出した。
そして今回の河出文庫の3巻ものだが、これが、初出時の雑誌と付録本をスキャンした、まるまるオリジナルだけというのが売りで、これについては解説「あー何たる良き日ぞや」のみなもと太郎の意気軒昂な文章を引くにしくはない。

いやもう、うれしくてうれしくて言葉にならない。
杉浦茂の本が出た。杉浦茂のマンガが読める。杉浦茂、杉浦茂、オリジナルの杉浦茂のマンガと『少年西遊記』『少年地雷也』たちと、47年ぶりに再会できるなんて、あー何たる今日は良き日ぞや、だもんね。
47年というはるかな昔、当時9歳だった私がハナを垂らしながら、あるいは駄菓子を食べながら、またある時は病床で、何度も何度もむさぼり読んでクスクスケラケラ笑った「おもしろブック」の『少年西遊記』。別冊フロクや本誌に載っているのを親に叱られても薄暗い電灯の下で読みふけった、そして十五回も連載が続いた、あのオリジナル版『少年西遊記』は、これまで一度だって復刊されちゃあいなかったのですよ。


そんなわけで、Morris.もみなもと太郎と同じく、欣快に絶えない思いをしていることは言うまでもない。
ただMorris.は何故かこの作品は雑誌「少年」に連載されているとずっと思い込んでいた。
正確には集英社の「少年少女おもしろブック」1956(昭和31年)新年号から57年3月号まで15回にわたって連載されたものの全てである。
Morris.は最近流行の漫画本の文庫化にはあまり賛成できない。マンガ雑誌の大部分はB5版で、文庫本のサイズだと、面積的に2/5くらいの縮小で、これでは絵の細部はほとんど見えなくなるし、ネームすら読みにくくなって、老眼の進んでるMorris.はお手上げである。
しかし、本書に関しては、15回のうち11回分は別冊フロクマンガ本で、これはちょうど文庫本の倍くらいだ。杉浦茂の絵柄は最近のマンガよりは大らかなので、これなら文庫サイズでも辛うじて我慢できそうだ。それに紙質が当時とそっくりのザラ紙で、このテクスチュアはマンガファンの心理をよく知った編集者の仕立て方であるな。
それにしても杉浦茂の丸っぽい線って、なんであんなに楽しそうなんだろう。
2004年は申年ということもあって、一般年賀状には本書第3巻の表紙の一部を流用させてもらった。


からいはうまい】椎名誠 ★★★☆ 「アジア突撃極辛紀行 韓国・チベット・遠野・信州篇」と副題がある。99年から2001年「文芸ポスト」に連載されたもので、仲間5,6人での食紀行シリーズの一つだ。全体の2/3近くが韓国篇だったので、Morris.は主にそこを興味深く読んだ。椎名は韓国はこれが初めてとのこと。これはちょっと以外だったが、ベテランのホストと、韓国通の仲間と同行したこともあって、そつなく韓国の要所要所を廻って、冷麺、焼肉、ウナギ、サムゲタン,ソルロンタン、子豚の丸煮、蛸の踊り食いなどを楽しんでいる。
椎名はそれほど好きな作家でもないのだが、こういった飲み食い雑文は確かに慣れているし、自分のスタイルを持っているので、すいすいと読まされてしまう。昭和軽薄体風の文章も、こういった内容とは相性がいいようだ。Morris.の韓国紀行の文章がやけに素人臭く思えてしまった。
釜山では、「元山麺屋」の冷麺、「宮中蔘鶏湯」のサムゲタンなど、Morris.好みの店に行ってるのを見て、なんか嬉しくなった。元山のヤカンに入ったスープは牛のスープだなどという薀蓄(これは椎名でなくて料理のリンさん)なども、ほーっと感心させられた。
チベット篇はいまいちだったが、遠野のわさび、信州の辛味大根は面白かった。特に武生「つる庵」のおろしそばの、辛味大根が気に入ってたので、今度は藤麺のさぬきうどんにも、この辛味大根を使って見たいと思う。青首大根って、ほんとうに辛味に関しては物足りない。


FLY,DADDY,FLY】金城一紀 ★★★☆ 「レヴォリューションNo.3」の続編みたいな作品だが、本作では、47歳のサラリーマンが主人公で、彼の娘が暴行を受けた、ボクシングタイトル保持の高校生への復讐を描いたもので、主人公が例の落ちこぼれ高校の悪ガキたちから、トレーニングを受けて、必死でもがきながら体力と気力をつけていく過程が細かく描かれていて、そこが、これまでの小説とはひとあじ違ったものになっている。
特に在日で腕の立つ学生(直接指導係)は、魅力的に描かれている。
結果的には、大人のメルヘンでしかないのだが、メルヘンをここまで、読むに堪える水準にまで仕上げる能力は、なかなかのものである。
著者は現在35歳くらいだから、10歳以上年上の主人公の描き方にちょっと不自然な部分があることは否めないが、そこは愛嬌ということにしておこう。


劇画狂時代 「ヤングコミック」の神話】岡崎英生 ★☆ 70年代に「ヤングコミック」の編集者で、宮谷一彦などの担当をしていた筆者が、その頃のことを回想したもの。当時「ヤンコミ」三羽烏と言われた、宮谷、上村一夫、真崎守を中心に論じてあるのだが、どうも、著者の姿勢が、当時を懐かしむと言うより、嫌な思い出を愚痴るといった感じなので、読むほどに何か、嫌な気分にさせられてしまう。「ヤンコミ」の発行元、少年画報社は、小学館、講談社、集英社に比べると明らかに一段落ちる感じが否めないのだが、当時の編集者が語る内情も、やっぱりいいかげんだったのだなと思ってしまう。
上司である編集長への恨みつらみや、編集方針への批判、表紙のひどさへの憤懣などを今さら聞かされてもどうしようもない。というか、聞きたくも無いことどもである。
労働組合を結成して、労資の軋轢から結局身を引く形で退社するごたごたや、漫画原作映画化と、盗作問題が生じたことについての、ヒステリックな自己弁護、何よりも、劇画への愛情の希薄さにおいて、こういう人が編集をしていたのでは、漫画家の方もたまらなかったろうと思ってしまった。


顔のない男】北森鴻 ★★☆☆ これは連作短編というより、長編を短編風に構成したという感じの作品だ。
特性のない男が殺され、それを捜査する刑事二人を中心に、貿易会社の過去と、それを巡るさまざまのひねくれたファクタを、作者のご都合主義でこねまわして、最後のどんでん返しにもって行く手際は、なかなかのものではあるが、それでもやっぱり、無理は隠せない。ちょっと期待はずれだった。


李陸史詩集】李陸史 安宇植訳 ★★★金素雲の「朝鮮詩集」に収められている、李陸史(イ・ユクサ)の「青葡萄」は、Morris.も以前から愛唱していた。
その原作者である李陸史に関してはほとんど何も知らずにいた。本書は日韓文化交流基金の援助で出されたシリーズの一冊であるが、同シリーズの長編小説「皇帝のために」(李文烈)は格別に面白かった。これも訳者は安宇植だった。奥付によると、李陸史は1904年慶尚道安東に生れ、23年に一年ほど日本に滞在、帰国後抗日結社「義烈団」に加盟、26年北京に行き、帰国後、銀行爆破事件に連座。釈放後再度北京へ行き、朝鮮軍官学校第一期生として卒業。43年特高に逮捕され、44年北京で獄死。となっている。詩人としての活動などには全く触れられていない。つまり彼は詩人というより活動家、独立運動家として知られていたのだろう。
本書に収められている詩は30数篇に過ぎない。他に散文10数篇が付されているが、これが彼の詩業のほぼすべてだとしたら、たしかにあまりに少なすぎる。解説の具仲書によると、李陸史は「故国が日本帝国主義の植民地支配をうけていた状況のもとで、祖国の独立のために活躍して逮捕され、日本軍の獄舎につながれて生命を奪われた最初の詩人」だということになる。彼に続く二人目が尹東柱だとか。こういう捉え方は実に韓国的だな。
面白かったのは彼のペンネーム(本名は李源禄)の由来で、彼が銀行爆破事件で大邱監獄に服役した時の囚人番号が「264」番、つまりハングル読みで「イーユクサ」だったためということだ(^。^)。一説によると「64」番ともいうが、どちらにしろ、こういったややふざけた命名は、Morris.の好きな詩人、李箱(イサン)に通ずるものがあるな。李箱も日本にいた時日本人から「李さん」と呼ばれたことから筆名にしたそうだ。
詩とは無縁のことばかり書いてしまったが、肝心な詩作品の方は、いまいちMorris.の心を捉えなかった。周知の数篇の詩も、金素雲の名調子と比較するためか、どうも作品として一段劣るような印象を受けた。
かえって散文の中で、生まれ故郷を流れる大河洛東江のことを懐かしむ描写などが印象深かった。

洛東江といえばだれもが、ああ--きみのふるさとはあの、恐ろしい洪水で名高いところだったのかといって軽蔑するようでしたら、それは洛東江を知らずに口にしている言葉だと申せましょう。
洛東江といえば、太白山脈の中でも黄池穿泉から噴水の如く噴きだしてくる、あの泉の異常なことを、知らぬといわれても不思議ではありません。けれども金海からさらにその先の亀浦までの、七百里にもおよぶ水路を流れていく間に、こちらの谷から湧き出る水が流れこみ、あちらの谷から湧き出る水が流れこんで、十から十二もの谷に湧き出る水が流れこんできて、一つの流れに合流した大河です。しかもこれらは急流となって、屏風岩に激しく体当たりして流れていくのです。
わがふるさとである洛東江の河原には、あの真っ白な石くれが一面に敷きつめられており、私はたった独りでその河原に座り込んで、明日の朝には花壇においてやるまたとないくらい冷たい、姿形の稀しい石を拾い集めながら、洛東江の流れていく音に耳を傾けたものでした。春の日の朝夙(あさまだき)に、洪水を交えてごうごうと音を立てて流れていく、洛東江の響きの凄烈なさまもよいものだし、夏の豪雨が降りしきるときの、広くてゆったりと流れていく様子もまた、いかにも大河らしいものでした。けれども、なにがどうのといおうと、空の色よりも青い水の流れが深い淵を通り過ぎるときには、ぐるぐると大きな渦を巻き、浅瀬を通り過ぎるときは、俄か雨をさしまねく音を立て、さらに傾斜の低い場所を通過するときは、ひんやりとした秋風を立てて私の衣服の裾をもてあそび、さらに下流へ下っていきながらも、大きな岩に体当たりを食らわせて、千軍万馬の走る勢いで滔々と流れていくさまは、目を見張らせずにはおきませんでした。流れ流れて------そのころの私は、そうした水の音を追ってどこまでも従いていきたい衝動を抑えかねて東海をわたったのでした。(「季節の五行」)

洛東江は、釜山から金海空港へ向かう道沿いにたゆたう流れとしてMorris.にもお馴染みの河川だが、安東の河廻村(ハフェマウル)に泊まった時も、この河のたたずまいに心奪われたことがあるので、なおさら李陸史の上記引用が心に沁みたのかもしれない。

以前に何度か引用したかもしれないが、Morris.にとって李陸史といえば、やはりこの詩を引くしかない。試みに本書の訳と金素雲の訳を併記しておこう。

「青葡萄」李陸史 安宇植訳

わがふるさとの七月は
たわわの房の葡萄の季節

ふるさとの伝説は一粒一粒に実を結び
つぶらな実に遠い空の夢を宿す

空の下の青海原は胸を開き
白い帆船が滑るように訪れると

待ち侘びる人は船旅にやつれ
青袍(あおごろも)をまとって訪れるという

待ち人を迎えて葡萄を摘めば
両の手のしとどに濡れるも厭わず

童よ われらが食卓に銀の皿
白い苧(からむし)のナプキンの支度を
「青葡萄」李陸史 金素雲訳

わがふるさとの七月は
たわゝの房の青葡萄

ふるさとの古き伝説(つたへ)は垂れ鎮み
円ら実に ゆめみ映らふ遠き空

海原のひらける胸に
白き帆の影よどむころ、

船旅にやつれたまひて
青袍(あおごろも)まとへるひとの訪るゝなり。

かのひとと葡萄を摘まば
しとゞ手も濡るゝらむ、

小童よ われらが卓には銀の皿
いや白き 苧(あさ)の手ふきや備へてむ。

触身仏】北森鴻 ★★★☆☆☆ 「蓮丈那智フィールドファイルU」と副題にあるようにシリーズ第二作目である。第一作「凶笑面」が面白かったので続編を待っていたのだが、えらく待たされてしまった。しかし待った甲斐があっただけの出来栄えだ。
女流民俗学者蓮丈那智と、彼女に思いを寄せる助手三國が研究フィールドワーク途中に出会うさまざまな民俗学絡みの事件を描く連作短編で、それぞれの民俗学的蘊蓄がなかなかのものだし、テンポも悪くないので、ついつい読まされてしまった。
本書には5編が収められているが表題作では、遺体の保存を目的としたエジプトのミイラと、生きたまま仏になり衆生を未来永劫に救済する日本の即身仏を比較したり、他にも神の変貌を支配層、あるいは民族の入れ替わりの象徴とみたり、面白い説が頻出する。
Morris.が一番面白く読んだのは最後の「御陰講」だった。元ちとせをモデルにしたような歌手が登場するし、わらしべ長者伝説の変形と考察が秀逸である。本筋とは離れるが、芸能界への穿った軽口には笑わされてしまった。

三國「なんでも百年に一人のミラクルボイスだそうですよ」
那智「百年に一人の逸材が三ヶ月おきに登場するのが芸能界という磁場の特性だろう」

また日本のアイドルに関して、三國とやはり那智へ思いを寄せる狐目の教務主任の会話も、うがっている。

「こんな話を聞いたことがあるよ。日本人論の一つとして、なんだが、。なあ内藤君、どうして日本人はアイドルを作りたがると思う?」
「それは日本人ばかりではないでしょう」
「だが、日本人ほど熱狂的になる民族は、珍しいと思うよ」
「そうかなあ」
確かに日本人はマスコミと一般人とが競うように、アイドル像を作り上げてゆく。だが、それはアジアのどこの国でも起こりうる現象ではないか。そういうと、「決定的な違いがある」と、狐目は真面目な表情でいった。
「内藤君。日本人はね、熱狂の頂点に立つアイドルを作るとほぼ同時に、彼もしくは彼女をいかにどん底に突き落とすかを、策謀する民族だよ。いうなれば、アイドルは貶められるために作られているんだ」
そういって、狐目は立ち上がり、去っていった。


文脈からすると、この説は著者の独創ではない感じもするが、こういったスパイスをあちこちに配置して、読者サービスに努めるあたりが北森作品の特長といえるだろう。
長編好みのMorris.だが、この作家に限っては短編(とりわけ連作短編)の方が面白いようだ。


川田晴久と美空ひばり】橋本治 岡村和恵 ★★★☆ 昭和25年5月、当時12歳の美空ひばりは、母と、芸の師であり後見人ともいうべき川田晴久(当時43歳)と3人で、ハワイから西アメリカを廻る約2ヶ月間の講演旅行に出かけた。
まだ占領下にある日本人の海外渡航は前面禁止されてる状態で、特例としての講演旅行は二人にとっても大変なできごとだった。
ハワイでは日系の第100部隊のバックアップで、爆発的熱狂をもって受けいられたが、アメリカ本土ではドサまわりのようなつらい旅にもなったらしい。もちろん、TV出演したり、あこがれのボブホープやマーガレットオブライエンと会ったり、ライオネルハンプトン楽団の生演奏みたりと、芸のこやしになるできごともあったようだ。
本書はそのときの写真特集みたいな大型の本で、付録にロスアンゼルスのホテルで帰国前に冗談で仲間内で録音したおしゃべりや、歌、川田の死直後の追悼番組でのひばりのインタビューなどの音源がCDで付いている。
また、橋本治のエッセイと、川田のアメリカ公演前後の日記引用に娘岡村和恵が当時の思い出を語るドキュメントタッチの記事が添えられている。
先日川田に関する新書を読み、彼の音楽やひばりとの交遊に関心が高まっていたので、本書をぜひ読みたいと探していたら、中央図書館にあったのだ。
ちょうどこれを読んでるときにABCTVで江利チエミと美空ひばりの2時間特番があり、その中でひばりの映画「東京キッド」の一場面が流れた。もちろん、川田のギターをバックにひばりが主題歌を歌う場面で、何か臨場感みたいなものを感じてしまった。
ちょうど彼らの公演旅行最中に朝鮮戦争が勃発(6月25日)している。川田の7月4日の日記にもそれに触れた部分がある。

ソ連とアメリカの朝鮮戦争の件が心配で気分が時によくない。早く帰りたい様な。

戦争始まった時点でこの戦争は「ソ連とアメリカの戦争」ということが、常識的に報道されていたらしいことがうかがえて興味深い。
橋本治の「日本式ザッツ・エンターテインメント」とタイトルされた20p足らずの小文は、さすがと唸らされる、川田、ひばりのみならず、日本の芸能ショーの歴史を彼一流の視点で論じている。

方向は全然違うが、川田晴久の美声は「日本のビング・クロスビー」と言っていいほどのものである。しかも、リズム感がメチャクチャにいい。川田晴久は、戦前から彼が生きていた間まで、「日本で一番歌のうまい人」の一人だったと思う。なるほど、「美空ひばりの育ての親」であって不思議のないひとだと改めて思うが、しかしそうなって不思議なのは、誰も川田晴久を「歌手」として位置付けないことである。

美空ひばりと川田晴久の芸は、深いところでつながっている。そのことは、渡米中に録音されたテープを聴けばよく分かる。「一つとせ、いーえ」の『数え唄』を歌う川田晴久と美空ひばりの歌声は、深いところで呼応している。ある意味でこれは「黄金のコンビ」である。こんなすごい掛け合いはない。MGMの映画『ザッツ・エンターテインメント』の日本版である。美空ひばりの声を知って、川田晴久は狂喜しただろう。それ以前には存在しなかった、「自分とデュエットしうる歌手」がそこにいたからである。

橋本がこれほど誉めてる、その音源は、残念ながらあまりに録音がひどくて、充分堪能するにはいたらなかった。歴史的価値はあると思うんだけどね(^_^;)
それは別として、この前の特番でのひばりの若い頃の歌はすごい、の一言に尽きる。ひばりと同時代を生きたMorris.なのに、ひばりの現役時代は、ストーンズを始めとする洋楽志向で、日本の歌謡曲などださい、と決め付けていた、耳の悪さと、見識の無さを今さらながら猛省してしまった。一度でも見に行っとくんだったなあ(+_+)


裏と表】簗石日 ★★☆☆☆ 金券ショップを始めた中年男性が、資金繰りのため裏道を歩く友人からの巨大な額の儲け話に乗り、逡巡しながら駆け引きに腐心したり、美貌のマダムに純愛を感じたりと、何とも雑駁なストーリー展開だ。
金券ショップの裏事情などを詳しく説明してあって、それはなかなか興味深かった。前作「睡魔」のマルチ商法の仕組みの解説と同工だが、簗石日はこういったちょっと裏っぽい世界には強いようだ。
本書ももとはサンケイスポーツに連載されたものらしく、このところやたら新聞小説にばかり当たってるような気がする。


闇の子供たち】簗石日 ★★★☆ タイの田舎の子供が売買されて幼児性愛者に提供されたり、臓器提供として命を奪われたりしている状況をえぐった物語だ。これを防ごうとするNGOのボランティアスタッフと、マフィア、警察との争い、日本女性ボランティアスタッフと、新聞記者との淡い愛情、極限状況におかれたタイの極貧層の悲惨な姿を、これでもかと書き込んである部分は、不気味なリアリティを感じさせる。
しかし、登場人物たちはあまりに即物的だったり、単純だったりで、深みがない。ストーリー展開も、忙しい割に杜撰というか、投げやりっぽいのだった。
在日作家の中ではMorris.一押しの作家であり、だからといってテーマを在日社会にのみ求めるものでもないのだが、やっぱりMorris.には、在日、韓国人を主人公にした作品の方が面白く感じられるのだ。
本書は、タイという異国を舞台にしていて、それなりに取材もしっかりしてるのだが、どこか他所ごとみたいなタッチを感じてしまった。
一番ラストの部分で、新聞記者が、女性スタッフに思わず本心を吐露して、それに対する彼女の憤りが書かれている。この部分を突っ込んでテーマにしたドラマを読ませて欲しい。

「しかし、君の役目は終った。これ以上、ここにとどまっていると殺されるかもしれない。軍やマフィアは邪魔者を容赦しない。現にいま、君はその目で奴らの残忍さを目撃しただろう。この国の子供のことは、この国の人間が解決するしかない。君は所詮、この国では外国人なんだ。日本に帰ってやることはいくらでもある。おれは君を残して帰ることはできない。おれと一緒に帰るんだ」
まるで命令調だったが、「この国の子供たちのことは、この国の人間が解決するしかない。君は所詮、この国では外国人なんだ」という南部浩行の言葉に音羽恵子は愕然とした。無意識に出た言葉とはいえ、その言葉の中に南部浩行の本音が隠されていた。
豪放磊落な男だと思っていた南部浩行の顔が急にエゴイズムの塊のように見えた。「君は、所詮、この国では外国人なんだ」という言葉を裏返せば、日本にいる外国人は所詮、日本人とはちがうのだという排他的な感情にほかならなかった。


この後、彼女は子どもたちのためにタイに残り、運動を続けて行く決意をかためて物語は閉じられるのだが、彼女の行き先に希望が見えるとはMorris.には思えなかった。


ここまできてそれなりにわかったこと】五味太郎 ★★★ 「大人問題」の続編みたいな、短章絵本である。
「人間バカでも十年二十年やってりゃ、それなりにわかるもんさ」という爺さんと、「わかるものはわかる、わからんものはわからん」という婆さんの意見の中庸を狙って、著者が現代社会の矛盾や現状を、皮肉っぽく総括した「と、いうこと。」で終る、150のアフォリズムが収められている。出来不出来の差が大きいのと、著者の癖が鼻につくものも多いが、中にはけっこういい出来のものもある。

・わたしは国際人だとか、わたしは地球人だとかいった感覚を本気で持つと、日常生活に支障をきたす、ということ。

・「発想の転換」という発想に凝り固まっちゃうんだよな、ということ。

・「わび」「さび」の感覚が鋭くなるのは、相対的に体力が低下している場合が多い、ということ。

・「保険金目当ての自然死」というのが生命保険の理想なのだ、ということ。

・「がんばれ!」という言葉は、いちおう気にはしているけれど、とりあえずそれはお前の問題であって、自分には直接関係ないことなのよ、というところをはっきりとさせておくためのアピールである、ということ。だから「がんばれ!」と言われて奮い立つ必要はないのよ、ということ。

・理解する、ということを最終目的にするとなんとなく苦しくなる、ということ。

・高くて良い本物と、高くて悪い本物と、安くて良い本物と、安くて悪い本物と、高くて良い偽物と、高くて悪い偽物と、安くて良い偽物と、安くて悪い偽者、があったとします。あたなが選ぶのはどれ?ということ。

・「遠くに行きたい」ということは「ここに居にくい」という意味だ、ということ。

・「どこでもドア」の使用は、どこの地域でもたぶん違法にちがいない。ということ。

・「国民平均貯蓄高」だとか「平均寿命」だとか「離婚率」だとか、そういういろいろと個々事情のあることの平均みたいな余計なことは、なるべく発表しないほうがよい、ということ。


以上がMorris.の選んだベスト10である(^_^;)
53番目の「巨人が勝つのではなく、他が勝たないのだ、ということ。」という項は今年読むと違和感を覚える(^_^;)。
ラストの「勝手なこと言って勝手に絵を描いてるのは、やっぱり楽しいなあ、ということ。」が、著者の結論であり、言い訳でもあるようだ。


身近な雑草のゆかいな生き方】稲垣栄洋 三上修 絵 ★★★★ 植物大好き、特に草花好きなMorris.だからこの手の本は山ほど読んでるのだが、本書は、文章、イラスト相俟って合格点である。
約50種の雑草がとりあげられ、2,3ページの短文と1,2点の白黒ペン画イラストが付されている。
筆者は農学部出身の専門家でもあるので、趣味とは言いながらきちんとした生物学的バックボーンがあるし、それでいて雑草を人間に見立てたりする遊び心も忘れない。
そして、やっぱりイラストの素晴らしさが評点の高さには大いに貢献してることはいうまでもないだろう。点描ばかりではないのだが、実にセンスがいいのだ。小さい花の拡大図や、クズの葉の叢生の表現、大胆な省略があったり、断ち切りトリミング、カモガヤの思い切った縦長構図、一葉ごとにアイデアがあり、技術に裏打ちされた遊びもあり、ということなしである。Morris.はカラー写真の小さな図鑑を持ってるので、それと照らし合わせながら読んだのだが、色はともかく植物の構造や細かい部分は絶対イラストが勝ってることを再認識した。

・有名な春の七草に歌われる「ほとけのざ」は、実はここで紹介したホトケノザではない。七草の「ほとけのざ」は図鑑ではキク科の「コオニタビラコ(小鬼田平子)」とされているまったく別の植物なのである。

・外来タンポポがひろがっているということは、見方を変えれば、人間によって環境破壊された面積が広がっているということに過ぎないのだ。外来タンポポが在来タンポポを駆逐しているというのはまったくの濡れ衣なのである。そのうえ、そう騒ぎ立てているのも人間なのだから質が悪い。

・ユリ類の球根はでんぷん質が豊富である。はるか昔、重要なでんぷん源は「ウリ(Uri)」に由来する発音であらわされた。うるち米、くり、くるみなどの古来からの食糧が「ウリ(Uri)」「ウル(Uru)」の発音を含んでいるのもそのためである。同じ発音を持つユリ(Yuri)もかつては重要なでんぷん源だったと考えらている。

・決して誉められた表現ではないが、オオバコは「ブスの恋」とも呼ばれている。醜女の深情けのように種子がしつこくまとわりついてなかなか離れないからである。どこもでもたくましく強い生き方なのだろう。踏まれて生きる「ブスの恋」のたくましさに心惹かれる酔狂者は私だけだろうか。

・カタバミの葉は虫に食べられないようにシュウ酸を大量に含んでいる。そのため、この葉で金属を磨くと汚れが落ちてピカピカになるのだ。試しに十円玉を磨いてみると魔法のようにピカピカになる。これが「黄金草」と呼ばれるゆえんである。

・つるの巻き方を伸長方向で考えるのは慣れないと難しい。茎の伸びる方向に親指を向けて、右手で握った指の巻き方と同じであれば、右巻きのつる。逆に左手で握って同じであれば左巻きのつると覚えておくといいだろう。

・朝露に濡れながらしっとりと咲くようすも、人の哀れを誘っているようである。ところが、ツユクサは葉の尖端に余分な水分を体外へ排出する水孔と呼ばれる穴を持っている。ツユクサを濡らす朝露も実は夜のあいだにこの穴から排出された水分が水滴となって露のように見えるだけなのである。はかなさを自らかもし出しているのだ。まさに自作自演。うそ泣きのようなものである。じっさい、ツユクサはその清くはかないイメージとは裏腹に畑に蔓延するやっかいな雑草である。

・実はウキクサの葉に見える部分は茎である。体の構造をできるだけ単純にするため葉は退化し、代わりに茎を葉のように発達させて、茎と葉の両方の機能を兼ねる「葉状体」という器官を作り上げたのである。

・草餅にヨモギを入れるのは、本来は香りや色づけをするためではなく、この毛が絡み合って餅に粘り気をだすからである。
ちなみにこの葉の裏の毛を集めたものがお灸に使うもぐさである。ヨモギの名は「よくもえる木」に由来するものともいわれている。お灸がロウソクのように時間をかけてじっくりと燃えることができるのも、もぐさがロウを含んでいるためなのだ。

まだまだいくらでも、引用したくなるところだらけだが、本書の雰囲気を伝えるにとどめておく。以上からだけでも、Morris.のBotanikal Gardenの駄文がいかに上っ面だけの情緒に偏ったものであるかが分るだろう。まあ、Morris.は情緒に弱いのだった(^_^;)


エンブリオ】帚木蓬生 ★★★☆ タイトルembryoは「胎児」という意味らしい。厳密には人の場合、受胎後7週の終わりまでの初期の状態に限られる。
海辺の病院を経営する主人公が、エンブリオを凍結したり培養したりして、日本の法律に触れない範囲で研究、臓器移植などに使い、国際学会でも注目を集め、私生活では女優や患者とよろしくやったり、美味いもの食ったり、自分の精子を多くの不妊夫婦の人工授精に使ったりしている。当人も人工授精で生まれた経緯を持ち、妻とは結婚後すぐ死別、ストイックで理想主義者として描かれている。いわゆる医学ものの長編小説なのだが、殺人事件も連続して起こり、なんとおしまいには大どんでん返しまで用意されている、この著者の作品の中でも特異な作といえるだろう。
恋人連れてのモナコでの学会での事細かな描写などは、観光ガイドとしても通用するくらいだし、東大仏文科、九大医学部卒という学歴だけに、医学的記述は説得力があるし、文章も上手い。男性に妊娠させるという部分はMorris.はSFとして読んだけどね。

男性が出産するという自体は、臨床上全く必要性がないと思われがちですが、事実はそうではありません。単に理論上のみならず、実際上の応用もあるのです。例えば子宮癌や筋腫で子宮を剔出せざるを得なかった女性がいます。卵巣は温存されているか、あるいは術前に卵子が採取されて凍結保存されている場合、配偶者との受精は可能です。しかし、子供を得るには他人の子宮を借りなければなりません。つまり代理母を必要とするのです。ところが代理母では、本当にその夫婦の子供という意識が生じない場合もあります。後になって生物学的な母親と代理母の間で、権利争いも生じることがあります。私がこの研究を思い立ったのは以上のような理由からです。

これまでに著者の長編数冊を読んでいるが、出来不出来の差が大きい作家で、本書はまあ、面白い方だとは思うが、先に書いた不思議な結末や、セックス描写スタイルはMorris.好みではない。500p近い厚さを感じさせずに一気に読み通したのだから、それだけの力量を認めないわけにはいかない。いろいろな意味での「問題作」といえるだろう。


ピカレスク--太宰治伝】猪瀬直樹 ★★★ 著者が「ミカドの肖像」で華々しく登場した頃はよく読んだものだが、最近はほとんど読まなくなった。なんとなく低調な感じがするのだ。これの前に読んだ三島由紀夫論も物足りなかったので、本書も期待しなかったが、そのとおりだった。
もともと「週刊ポスト」に連載されたものに加筆したとあるが、ポストの読者が太宰治に関心があるとはあまりピンと来ない。
ただ、この人の資料の集め方は半端でないらしく、巻末には参考資料が300点以上並んでいる。こけおどしといえなくもないが、たしかに圧倒されるな。
Morris.は太宰の良い読者とはいえないだろうし、それほど多くを読んでる方でもない。4回の自殺未遂(おしまいは未遂じゃないが)を縦糸に、太宰の女性関係を中心に据えているのはやはり掲載誌を意識しているのだろうか。
それよりも、先輩作家井伏鱒二への太宰の態度を重要視、はっきりいって井伏の盗作歴をしつこく追及している部分が印象に残った。教科書にも載っていた「山椒魚」もロシアのマイナー作家シチェリドンの短編「賢明なスナムグリ」がタネ本になっているらしい。こういうことを暴露する時の猪瀬はえらく嬉しそうだ。
名作の誉れ高い「黒い雨」の大部分が、原爆罹災者の日記から構成されていることは、今では常識に近いが、当人(重松静馬)の日記を丹念に読んで照らし合わせて、それがいささか度を逸してるという見解には納得せざるを得なかった。井伏はかなり長生きしたから、生前には周りから、かなりの遠慮があったのだろうが、川端康成の代作の話や、井伏の盗作、本書の中に頻出する、素人の日記を素材とした太宰の小説作法などの話を知るにつけ、日本の近代小説の嫌な部分を見せられたような気になってきた。
ところで猪瀬自身もそれほど太宰の作品が好きでもなさそうだ。別に嫌いな作家を評論してはいけないってことは無いし、批判と批評は重なるぶぶんもあるのだが、それでは何が面白くて彼はこんなのを書いているのかというと、先にちょっと触れたように、隠れたものを明らかにするということ自体に快感を覚えているような気がするのだ。Morris.としては、惚れた作家や、感動した作品への熱い思いみたいな評伝の方が好きかもしれない。

僕は死のうとする太宰治ではなく、生きようとする太宰治を描きたかった。紆余曲折だらけ、狡猾な曲がりくねった性格、逆説的で奇矯な言動、そこを悪漢小説(ピカレスクロマン)としておもしろがって眺めてもらってもよい。だがつねに目標を設定しては破壊しまた新たな目標を設定しなおす、そんな勤勉なひとりの青年の軌跡を浮かび上がらせたかった。そのなかに日本の近代の軋みが見えてくれば望外である。固定観念で染め上げられた日本の文学史の狭隘さに対するささやかな抵抗、この作品は僕の「如是我聞」でもあるのだから。

という、あとがきの文はどうも胡散臭く見えてしまう。本書で太宰の悪漢ぶりはほとんど描かれていないし、井伏への言及があまりに膨らんだことへの言い訳ではなかろうか。


りっぱなバックパッカーになる方法】シミズヒロシ ★★★ 「格安航空券ガイド」や「an」に連載されたイラストコラムで、本人イラストや漫画も多数収めた何となく手作り風な海外旅行ガイド兼こぼれ話をまとめた本で、ふくはらさんの「てくてく新聞」をつい思い出してしまった。
主にアジアの安宿での旅行者たちのエピソードで、本人もそれなりにストイックで、Morris.が韓国旅行を始めた頃の雰囲気に似てなくもない。
「旅のしかた」「トラブル対応」「バックパッカーの類型」などおおまかにテーマ別にくくってあるが「トホホがあるからオモシロイ」というコーナーが一番身につまされたし共感を覚えた。
即効性という意味ではあまり力にはならないが、そろそろまた旅に出たいという気にさせてくれる。


セイシュン海外トラベル術】山下マヌー ★★★ 「フロムA」に連載されたもので、著者は「個人旅行丸得シリーズ」などで、結構有名だ。本書は一見英米のペーパーバックみたいな装丁で表紙には英語しか書いてなく(Travel Hndbook for Free Spirited Travelaers)、なかなかかっこいい。内容も実にしっかりしているし、一般のガイドブックとは一味も二味も違っている。とにかく実践第一主義らしく、データも多いし、世界主要都市の月ごとの平均気温と雨量のグラフ月のベストシーズン一覧などは見やすいし楽しい。主な国の観光局や空港のHPアドレスもあるが、これはインターネットで検索すればすぐ見つかるか。
マイレージ解説や現地での宿舎の見つけ方、各国のポイント紹介、買い物の仕方、レストランでの席取り、段取り方なども堂にいってる感じだし、凝った挿絵も楽しめる。ただ、タイトルからも分るように、Morris.みたいな年になってから読むのは遅きに失したという感は否めない。
「インドは一度行けば充分」という言葉には共感を覚えた。と、いいながら、すでにMorris.は行く気をなくしてるぞ(+_+)
先の類書?にも共通で出てくるコイルヒーターはやっぱり手に入れるべきだろう。


牢屋でやせるダイエット】中島らも ★ 大麻で捕まり、20日ほど拘留された後、裁判で執行猶予付きの有罪もらった、中島らもの、引かれ者の小唄といおうか、拘置所での報告とか思い出話みたいな奴で、はっきり言ってつまらなかった。本書の中にも引いてあった花輪和一の実録漫画「刑務所の中」とは月とスッポンである。
逮捕時の状況からして言い訳がましいくせに、変に強がったりしてる。拘置所での落書きみたいな歌(作詞??)にいたっては噴飯ものだし、職員への言及はえらそうにしながら実は及び腰だ。まあ、Morris.だって捕まったらもっと弱気になりそうだけど、とにかく、こんなもの出すことじたいが、間違ってるな。こんな本の中で、何度もディランUの「男らしいってわかるかい」を引用するのはやめて欲しかった。
マリファナ肯定論を述べながら、それに徹し切れない卑屈さにも嫌気がさした。
コラムやカネテツの漫画などで、それなりに評価してたのだが、もう読むことはないだろう。


枝豆そら豆 上下】梓澤要 ★★★☆☆ Morris.好みの女流歴史小説作家梓澤要の新作長編である。前作「遊部」がいまいち物足りなかったので、期待と不安半々で読み始めたのだが、充分楽しめた。
江戸時代の大店の娘おそのと、その側女お菜津二人のヒロインが、同じ旗本の男を好きになり、結局男はお菜津を選ぶがよんどころない事情で身重のお菜津は捨てられる。男は北陸の大名になって、流産したお菜津を側室にする。その10数年後に二人は出会うが、おそのの家は零落して一膳飯屋のおかみとなっていたおそのは、男運が悪くて数人に逃げられ子供ばかりが10人もいた。お菜津(お夏の方と改名)は、領地での政略に巻き込まれ、病に倒れた男のために正室の若君をおそのの子に混ぜて北陸まで連れて行ってもらうことを頼む。
途中がえらく飛んでるし、やたらちょこまかと他筋の男女話が出てきたり、病気になったりと忙しい。ちょっと変だなと思ったら、これは新聞小説だった。いかんなあ。
筋はいかにも作り物然としているし、後半はほとんど江戸から北陸までの紀行みたいになってるが、主題は母子の愛情と、こどもの成長記みたいなもので、これまた、新聞小説であるということが、枷になってるような気がした。
もちろん著者がそういった主題に関心を持ち、真剣に取り組んでいることは理解できるのだが、小説としての完成度の足を引っ張ってると思ったのだ。
どうしてもこどもを使うと、全体が甘くなる傾向があるのだ。シリアスな展開を妨げるともいえる。本書でも色んな場面でそのための食い足りなさを感じさせられる。理想論は美しいが、小説でそれを振り回されては興ざめするしかないということだ。

---知識は、想像する力を得るための手段なんだ。
お夏は道純の口癖を思い出した。学問はそのためにある、と彼は言う。
道純の積年の夢は、藩校をつくることである。民百姓の子も、武士の子も、等しく門を叩き、ともに学べる施設をつくりたい。かつて、町の手習塾の師匠になって、清四郎みたいな悪童ども相手に、日々奮闘したいと願ったその夢を、まだ捨ててはいないのだ。
子らが自己の能力を発見し、育てる場所。歌が好きなものは歌えばよい。踊りが好きなら踊ればよい。算術でも、絵を描くことでも、剣術でも、ひとは誰でも一つは、ひとより優れたものを持っている。そんなことを語る道純は、むかしのままの彼である。


なんだかんだ言いながら、本書にはMorris.は充分楽しませてもらったのだ。現役作家、しかも時代小説作家でMorris.が無条件に読もう、というのは彼女くらいしかいないんだもんな。
今のところ彼女の最高傑作は「百枚の定家」だと思う。これを超える作品はなかなか書けないと思う。そのくらいあれは素晴らしかった。しかし、彼女ならあれと同等、あるいは凌駕する作品を書ける資質があると信じたい。次作を期待して待ちたい。できれば新聞小説でない方がいいな(^_^;)


口きかん】矢崎泰久 ★★★☆ 「わが心の菊池寛」と副題にある。著者は「話の特集」の編集者としてくらいしか知らずにいたが、菊池寛とはかなり深い係わりを持っていたようだ。父が菊池寛の側近で、母は菊池寛の愛人の妹、筆者の名付け親が菊池寛で親しく謦咳に親炙していたとのこと。
Morris.は菊池寛といえば中学の国語教科書で彼の短編を読んで感心したものの、その後はどちらかというと軽んじてきたような気がする。「文藝春秋」のボスとして、交友関係が広く、豪快な金の使い方や、競馬会の大立者だったり、戦争中は大政翼賛会的活動したりと、なんとなく胡散臭くすら感じていた。
本書を読んで菊池寛観が変わったわけではないが、それなりに面白い人物である事には間違いないことがわかった。若い日の男色好みや、友人であった物集高量とのかけあいなどは興味深かった。
しかし、本書で一番印象に残ったのは、菊池の愛人の佐藤碧と梶山季之が川端康成の新聞小説の大部分を代筆していたということだった。戦前にも龍胆寺雄が川端の代作をしたという話は読んだことがあるが、戦後も同様のことが公然の秘密みたいに行われていたことに驚いたのだった。


川田晴久読本 地球の上に朝が来る】池内紀ほか ★★★☆ あきれたぼういずのリーダー川田晴久を巡る13人のエッセイと写真、年譜、作品歴などを集めた1冊で、以前からこの人には関心を持っていたので、興味深く読んだ。一番の活躍時期が戦前、戦中で、今では、美空ひばりの後見人としての方が知名度が高いかも知れない。
明治40年(1907)東京生まれで、昭和12年あきれたぼういずを結成、その後ミルクブラザーズ、ダイナブラザーズなどのグループのリーダー、映画、ラジオに出演、昭和32年50歳で亡くなっている。
彼らのステージは、冗談音楽のジャンルに入ることになるのだろう。浪曲、新内など和風のものから、クラシック、ジャズ、声帯模写、スラプスチックギャグにいたるまで幅広い芸を網羅して、特に川田は先見性に富んでいたようだが、今となっては映像などはほとんど残っておらず、CD「ぼういず伝説」で全盛時の一端を聴くことができるらしい。これは何とか入手したい。その前に中央公論新社発行の「川田晴久と美空ひばり」も読まねばならない。(こんな本が出てることは知らずにいた(^_^;)
川田自身は病弱で、何度も入退院を繰返しているほどだが、彼の日本芸能界における意味はとてつもなく大きいような気がする。


イキのいい韓国語あります】八田靖史 ★★ 韓国料理のホームページを持っている若い著者らしい。「韓国語を勉強しないで勉強した気になる本」と副題にあるが、たしかに韓国語学習者に役立つといった本ではない。Morris.ももちろん、そんなつもりはなく手に取った。面白ければそれでいいと思ったわけだが、残念ながらそれほど面白いものではなかった。カラオケや、映画、ドラマを楽しむことで韓国語に親しめるとか、若い韓国人との付き合い方などを自分なりに書きなぐったというところだろうか。悪い人ではなさそうだが、Morris.の好みにはちょっと合いそうにない。巻末に10個ほどの短文を記して「八田式「イキのいい」韓国語大辞典」なんてタイトルつけるあたりは、あんまりじゃないかい、と思ってしまった。


【ギターは日本の歌をどう変えたか】北中正和 ★★★ 「ギターのポピュラー音楽史」と副題がある。平凡社新書200ページの80pがギターそのものの歴史でタイトルからはずれるが、この部分がかえって面白かった。
後半の戦前戦後の日本音楽とギターの係わり合いもそれなりに興味深かったが、エレキギターブームのGS時代までで終ってしまっているから、現代日本歌謡ポップスとギターの関係には全く触れられていないので「前史」を読まされた感じがした。
本論とは無関係な、ギターの分類の曖昧さの比喩と、楽曲の「サビ」の語源みたいな部分が面白かった。

夜と昼のちがいは誰にでもわかるが、境界の瞬間を示すことはできない。分類するのはそこにむりやり線を引くようなものだ。楽器にかぎらず、分類は現実を説明するために後追いで考えられた目安にすぎない。現実が分類の法則にしたがって生起するわけではないんだから。

(1927年に来日してハワイアンギターを演奏した)アーネスト・カアイが日本の音楽業界に残した足跡はギター演奏だけにはとどまらない。早津敏彦によれば、日本の音楽業界用語のサビという言葉は、彼がいたから生まれた。サビといえば、二部形式の曲のAABAのBの部分、メロディの展開があって、歌がいちばん盛り上がる部分のことを指すが、それはカアイが楽譜のBの部分にSAB(サブドミナント)とコード指定をしたのを見た日本人が、SABIと誤読したことからはじまったという。


古賀政男による、日本独自のギター歌謡曲路線や、戦後のウエスタンカーニバル、スパイダーズの意外な斬新さなどいろいろ面白い視点もあるのだが、Morris.は、50年ごろにグヤトーン(懐かしいっ、じつはMorris.も1台持ってる)がソリッド・ボディのギターを試作して銀座の楽器店に持ち込んだら、こんなものは楽器ではないと断られたなんていうエピソードばかりが記憶に残りそうだ。


袂のなかで】今江祥智 ★★★ 2000年に約一年間、京都新聞など3紙に連載された長編小説だ。今江にとっては10年ぶりの新聞小説になるらしい。
夏目漱石の例を出すまでもなく、日本小説における新聞小説の位置は大きいものがあるが、Morris.は小説はちびちびと読むのが苦手な方だし、毎日読者の興味を繋ぎとめる必要から、毎回小さな山あり谷ありのパターンが好きになれない。
本書もそういった弱点が目に付いた。戦前、戦中、戦後にわたる、料理人でもある男と、その妻の物語で、男の艶福と、それを発奮材料として店と生活を立派にきりもりする妻の努力と成功がメインになっている。軍の将校だった複数の男達が影に日向にバックアップしたり、親類の娘を後継ぎのように育てたり、おしまいはフランス、スペインに女一人で移り住んだりと、壮大なスケールといえば聞こえがいいが、いかにも作り話めいたストーリー構成である。
まあ、最近の今江の作としては面白い方だと思う。しかしこの人の小説はどこか実体がすこんと抜けてる気がする。児童文学の頃はそれが美点ともなっていたのだが、後年の一般小説になってからは、小説としては物足りないことこの上ない。と、いうか、あまり読まなくなってしまった。
本書でも、主人公の一人である男が、戦後の闇の時代をたくましく渡り歩いて巨額の富を稼ぎ出す部分もほとんど結果だけで済ましている。妻と知り合う前の女性を始め、その後に3人もの女性といい仲になり、それぞれに店を持たせたり、家を建てたりして、そのくせ、妻からは心底憎まれないどころか、その死後に妻が他の女性と親しく付き合うなど、これは今江版「春色梅暦」ではないかと思ってしまった。男の身勝手なところをいかにもものわかり良さそうに、いいものとして糊塗して、ほんわか、あったかみのある作みたいに仕上げている。こういうのが好きな人もいるのだろうが、Morris.は、やっぱり初期の作風に傾倒していただけに、こんなもん、と思わざるをえない。作者からすると迷惑な過去のファンということになるんだろう。
女性への憧れというか、ひたむきさなのか、決まって好きなタイプの女性登場人物への形容は決まって「きりきりしゃん」だし、意味もない京言葉だったり、ちっとも年を取らないどころか、年取るごとに若々しくなるとか、最初のうちはいいけど、あまりに繰り返されるとちょっと辟易してしまうなあ。
あとがきに「この作品でようやく、私は自分の物語の紡ぎ方が見えてきた気がしている。」と書いているが、ソンナコトハナイ!!と断定しておきたいぞ、Morris.は。


チャイ コイ】岩井志麻子 ★★☆ タイトルはベトナム南地方のことばで「果物」を意味するらしい。ベトナムに出かけた女流小説家が、レストランのボーイに肉欲を感じ、とにかく誘って性行為に及ぶという話である。私小説ということになるのだろう。
この前読んだ対談集「猥談」でもこのことに触れてあり、読もうか読むまいか迷いながら、つい借りてきたものだが、やっぱりこれはMorris.向きではなかった。彼女は少女小説家あがりらしい。Morris.は「花物語」時代のものならいざ知らず、コバルト文庫などの今風の少女小説は読まないが、大体の想像はつく。本書の要所要所にそれらしい匂いをかぐこともできる。

一目で激烈な肉欲を覚えた相手が同じように思ってくれているなんて、考えてみれば恐ろしい話ではないか。狂おしい恋情は必滅の歌しか歌わせてくれず、盛んな命の行為は潰える時を目指してしか燃え立たないのだ。
------それでいい。私は酔いに輪郭を溶かしかける。必滅、それは麗しい約束の地だ。私は愛人との将来や未来や昼間のデートを願ったりはしていない。ただ愛人と寝たいのだ。あの性器を本当に入れて欲しいだけなのだ。日本の彼には虐められて泣かされているけれど、こっちの愛人とはともに泣きたい。純度の高い猥褻行為だ。清楚な狂気だ。ひたむきな淫行だ。野蛮な祈りだ。


性行為を扱ってる部分もそうだが、直接的な描写をしながらも、イメージとしてはえらく観念的なのだ。つまり小説としては面白くない。ナルシスティックなんだろうな。たぶんもう彼女の作品は読まないと思う。


バーボンストリートブルース】高田渡 ★★★ 日本フォークソング界の長老??高田渡の自伝的書き下ろし。高田渡は1949年1月1日生れだからMorris.と同年、学年で言えば一つ上か。まあ同い年といっていいだろう。Morris.はそれほど日本のフォークには親しんでる方ではないが、それでも高田渡の名前はそれなりの重みを持っている。斉藤哲夫、加川良、高石ともや、中川五郎、シバ、友部正人などとの交流はそのまま日本フォーク史のマイナー部分の総覧みたいな観もある。
昔からちょっと爺むさいかんじだったが、10年くらい前からは、いよいよ本物の爺さんになってしまったみたいだ。しかしその枯れた感じが意外と好感をもって迎えられているようでもある。
数年前パーフェクTVでスタジオライブの演奏を見てMorris.もちょっといいなと思ってしまった。
ずっと東京の人と思っていたが生まれは岐阜で8歳の時に東京に移り、18歳の時父を亡くして1年くらい佐賀県鹿島市の親類宅で暮らしたとある。鹿島といえばMorris.の生まれた武雄からバスで30分くらいのところだし、母方の祖父が鹿島の国立病院に入院したり、別の親類が住んでいたりしたから、割と良く行ってたから、もしかしたらすれ違ったことがあるかもしれない。
内容的には、なぎら健壱の「日本フォーク私的大全」の高田渡の章(20p弱)を越えるものはないくらいだが、彼のライブでの「語り」が好きな人なら、本書もそれの活字版として楽しめるかも知れない。山之口貘、ピート・シーガーへの傾倒、酒、旅、知人との交遊などが、語りおろし風に書かれている


コンピュータのきもち】山形浩生 ★★☆☆ 「新教養としてのパソコン入門」と副題がある。普通ならこれだけで読む気にもならないだろうが、ぱらぱらとめくったところに、オリベッティの「レッテラ32」の写真が載っていたのにつられて借りてしまった。
レッテラ32はタイプライターのベストセラー機で、Morris.も愛用していた。今も押入れのどこかにあると思う。
Morris.はワープロやPCを使う前の86年に突然英文タイプにはまってしまったことがある。一時は狭い部屋に4台ものタイプライターをおいてた(^_^;)。自己流ながらキーを叩くのが面白くて結構早く打てるようになったから、その後ワープロ買ったときは始めからローマ字ならブラインドタッチができたので、違和感を覚えずにすんだ。
しかし、もちろん本書はタイプライタの本ではないのだから、タイプのことはコンピュータとの対比で取り上げられているに過ぎない。それでもMorris.にとって興味深かったのはその部分だった。
読み始めたときはそれなりに面白そうな気配だったし、なるほどな、と感心したりしたようなのだが、読み終えてしまったら、何も残っていなかった(^_^;) マニュアル好きのMorris.だが、こういった本はやっぱり読むべきではないのだろう。


体験的朝鮮戦争】麗羅 ★★★★ 朝鮮戦争に関しては、韓国にはまる前からある程度の関心を持っていた。しかしどうもこれをわかりやすく解説してくれる本にはめぐり合わなかった。とりあえず戦闘のアウトラインくらいはわかったものの、根本的原因、同じ民族同士の殺戮、米ソの代理戦争、中共の関与などなど断片的な部分ばかりが頭の中でごちゃごちゃになっていた。。Morris.が生まれた翌年(1950/06/25)に始まり3年後の9月27日に休戦協定が調印されたまま現在にいたっているわけで、つまりこの戦争はまだ終ってはいない。
日本史の授業では、朝鮮戦争の特需が日本経済発展の基盤となったくらいの捉え方でしかなかった。
麗羅は1924年韓国生まれで、家族で来日して在日の生活を送り、志願兵として日本軍に在籍して、戦後南朝鮮労働党のメンバーとなり、朝鮮戦争前に日本に脱出して、米軍の軍属として朝鮮戦争に参加したという、かなり波乱万丈な来歴の持主である。
以前彼の作品にはまってたことがあって、図書館にあるものはすべて読んだ。と、いっても5冊程度だが、彼の自伝的作品「山河哀号」は買ってでも読みたいと思いながら、絶版で手に入れることが出来ずにいた。しかし、本書を読んでその喝を癒す事が出来たような気がする。
朝鮮戦争に直接参加した韓国人の本というだけでも、学者や記者の本とは臨場感が違うが、彼はいわば、南北両方の側を経験しているという意味でも特異かつ興味深い。
決して戦記ものとしてではなく、多くの先行書を参照しながら、戦争に至るまでの状況、両陣営の指導者たちの思惑、国民の混乱と責任などを、韓国/朝鮮人自身としての反省と慙愧を交えながら綴っている。
小説家だけあって、資料の羅列でなく、実体を感じさせる作となっているので、Morris.も、初めてこの戦争の意味を明確に知ることが出来たように思う。
最終的には韓国側に立つ筆者だけに、北への糾弾の色合いが強いが、南の失敗や誤りへの厳しい視線は無くしていない。
植民地支配を行った日本人として、この戦争への言及をするのは難しいところがあるが、麗羅による自己批判、自民族批判には大いに共感する部分が多かった。

李氏朝鮮時代の後半に三百年もくりかえした長く、そして熾烈な党争や、十九世紀の半ばから二十世紀の初頭にかけての、列強による侵略政略の浸透に直面しながらも、なおも国論が分裂しつづけたこと、さらに日本に合併されて亡国の悲劇のなかにあっても、なお抗日独立運動を一本化させることができなかったのは、民族と国土の分断、不分割の信仰が解放後も持ち越され、人々は北緯三十八度線という事態を目の前につきつけられながら、なおも独立前に党閥をつくり、権力争いに狂奔して、統一への努力をなおざりにした。
朝鮮民族と朝鮮半島の分断と分割の責任は、第一にはアメリカとソ連の両国、二番目には日本に帰すべきだが、同時に朝鮮民族自身はそれら三国よりもっと大きい責任を負わねばならない。

第二次大戦が終了した時点で、朝鮮民族の運命を左右できる二大国家、朝鮮民族が解放の恩人と尊敬し信頼したアメリカとソ連も、自国の利益を第一位におくという点ではいささかも変りはなかった。
米ソ両国は朝鮮民族を解放するためにではなく、自らの利益を守るために自国の若者を戦場に投入して日本と戦争したのだ。そして多大な犠牲をはらって勝ったからには、第一番に、最大限に自分の利益を確保しなければない。

朝鮮民族は、東西両陣営対決の最前線という条件を突きつけられてではあるが、統一と統合という民族の大義にそむいて、それぞれの陣営に属する二つの国家をつくる道を選択したわけである。
その選択の理由を、他国、他民族ないしは世界史的な帰結といった外的条件に転嫁するのは責任回避というべきであろう。
民族自身が撒いた種は、民族自らが刈り取らねばならないが、幾多の政敵を押し退けて南の大韓民国の大統領になった李承晩と、これも大勢のライバルを抹殺して北の朝鮮民主主義人民共和国の実権を握った金日成は、果たして民族の被害を少なくしてその幸福を多くするという意思と展望をもっていたのだろうか。


こういった、文言を仮に日本人であるMorris.が著したら、南北両国民から袋叩きに会いそうな気もするが、麗羅の意見は正論だと思う。
本書はもともと92年徳間文庫の書き下ろしとして出版されたものだが、今回Morris.が読んだのは2002年に晩聲社から再発行されたものだ。黒田勝弘の後書きによると、麗羅は2001年8月に亡くなったとのことである。在日作家としては異色だったが、Morris.にとっては重要な作家だった。


猥談】岩井志麻子 ★★★ 女流人気作家(らしいが、Morris.は未知)が、野坂昭如、花村萬月、久世光彦の3人と個別に対談したもので、小説トリッパー(この雑誌も未知)に掲載されたものだ。
著者は現在ベトナムにセックス目的の旅を定期的に行ってるとか、やりたい一心の作品を書くとかそれなりにその道には一言を持っているらしい。対談相手はそれぞれに有名人だが、Morris.はそれほど期待もせず、時間つぶしくらいのつもりで借りてきたのだが、あまり時間つぶしにもならなかったし、タイトルに相応しいのは野坂との分だけではなかろうか。野坂はデビュー当時は結構読んでたのに、ずっと読まなくなり、最近はTVで見かける老耄ぶりにだまされていたのだが、この前読んだ「文壇」や、今回の対談を見る限りでは、あのボケぶりはかなりの韜晦らしい。
直接猥談というわけではないが、歌舞伎町の店の紹介には笑わされてしまった。

岩井--いま歌舞伎町に住んでいるんですが、風俗店のバラエティといったら、凄いものがありますね。
野坂--あれは凄いですよ。ノーベルなんて大量殺人の素を発明した方でしょ、こっちは逆ですからね、カブキ賞があって当然。
岩井--この前取材に行ったところは、「回転寿司キャバクラ」といって、女の子の名前が「トロちゃん」「ウニちゃん」「イクラちゃん」とかで、はっぴを着ていて、男性の膝の上を回転していく。それで好きな子を選ぶという店でした。なかにはずっと回っていて、ネタが乾いている可哀相な子もいるという(笑)


花村との対談ではタメ口で、男友達との世間話風だし、久世の場合は文藝論まがいになってしまい、タイトルからは完全に外れてしまっている。
これを機会に彼女の作品を読もうか読むまいかちょっと迷うところ。


これがビートルズだ】中山康樹 ★★★☆☆ 前に読んだ「超ビートルズ入門」の焼き直しなのだが、やっぱり面白かった。
ビートルズの全公式曲213曲を1pずつ解説(感想?称揚?分析?エピソード紹介?ランク付?)した「全曲制覇本」である。
著者は'52年生れでMorris.よりちょっと若いくらいだから、ビートルズのデビュー当時は中学生だったことになる。なんとかリアルタイムで彼らのデビューを享受できた世代ということができるだろう。
内容的には前作の方が新鮮(そりゃそうだろう)だが、本書は極私的ライナーノーツ、しかも全曲だから、一種の辞書的楽しみ方ができる。最初から読み通してもそれなりに楽しめるが、自分なりのお気に入りの曲、気になる曲をピックアップしてみるのも面白い。
名曲も問題作も駄作もすべて同じ分量で論じるということから著者の技量を見ることもできる。
総じてMorris.が共感を覚える部分が多く、特にヨーコへの罵倒ぶりは前作よりエスカレートしていて、これだけでMorris.は拍手を禁じえなかった(^_^;)
初期のジョン、中盤からのポール、後期でのジョージの健闘、そしてリンゴの重要性というのが一貫した著者のスタンスだろう。録音日時、、作詞作曲でジョンとポールのどちらがメインになっているか、リードボーカルなど、基本的情報もしっかり明記してあるからそれだけでもビートルマニア必携(本物のビートルマニアには不要かも)の一冊といえるだろう。何分何秒のところでテイクが変わっているとか、コードが不安定になってるとか、楽器の特定とか、マニアを喜ばせるマニアックなスパイスも結構効かせてある。
著者が駄作と言い切る数少ない曲の一つ、デビューシングルA面のページを引用する。

Love Me Do ラヴ・ミー・ドゥ(Johon/PAUL) V=Paul,1962/9/4
曲はシンプルだが、この曲にまつわるエピソードは複雑だ。現在聴くことができる[ラヴ・ミー・ドゥ]は三種類ある。まずはもっとも初期のヴァージョン。1962年6月6日録音。これはリンゴの前任者ピート・ベストがドラムスで、アビー・ロード・スタジオにおける初レコーディング時のリハーサル・テイクだ。(「アンソロジー1」収録)。次にこの『パスト・マスターズ』に入っているシングル・ヴァージョン。同年9月4日録音。ここでドラムスがリンゴになる。そしてこのヴァージョンがビートルズのデビュー/シングルとなる。これで終わりかと思いきや、オマケがある。『プリーズ・プリーズ・ミー』に収録されているアルバム・ヴァージョンだ。同年同月11日録音。またドラマーが代わる。リンゴがいたのに、である。しかもビートルズとまったく縁もゆかりもないアンディ・ホワイトというドラマーだ。なんでも一週間前のレコーディングでリンゴの演奏を聴いたプロデューサー、ジョージ・マーティンが不安に感じたことが原因らしい。
だが誰がドラムを叩こうが[ラヴ・ミー・ドゥ]が名曲に生まれ変わるわけではない。やはり凡曲は凡曲だ。マニアックにいえば三種類のヴァージョンを比較する楽しみがあるが、現実にはそれほど"楽しい"ものではない。ただし注目すべきは、まだ完全ではないもののリンゴが叩いたヴァージョンがいちばん"ビートルズ"に近いことだ。当然のことのように思えるが、これはビートルズにリンゴが絶対不可欠であったことを物語る。


ざっと、こんな調子である。特筆すべきは著者の語り口の勢いの良さで、引用ではあまり表われていないが、とにかく、マイペースながら自信たっぷりでハイで、元気があってよろしい。
他にマイルス・ディビス、ボブ・ディランの制覇本を出してるそうで、なかなかの曲者と思われそうだが、「スイング・ジャーナル」の編集長をやってたことがある、というだけで、一般のロック評論家とはちょっと毛色が違うことがわかるだろう。
実は彼には「スイングジャーナル青春録[大阪編]」という快著(Morris.1999年読書録参照)があり、Morris.はこれの続編を待ち望んでいるのだが、いっこうに出る気配がなく、本書の著者紹介にもこの本のタイトルは見当たらないから書く気が失せてるのかも知れない。いやあ、これは実に勿体無いので、ぜひ続編を書いてもらいたいぞ。


鎌倉のおばさん】村松友視 ★★☆☆ 先日古本屋で手に入れた村松梢風の「女経」を読んだ後、村松友視が彼の孫だということを知った。梢風が後半生を共にした女性が本書のタイトルにもなっている絹江で、作者は子供時代から影に日向に二人と係わって来た。
絹江の死を契機に彼女の過去を自分なりに再構成してみたというおもむきだが、力点は、祖父であり、戸籍上の父でもある梢風への追憶という傾向が強い。
梢風の親友だった小島政ニ郎の「女のさいころ」と伯父である村松暎の「色機嫌」からの引用が多く、もちろん、梢風本人の作からの引用も少なくない。
全体を通じて、友視自身の回想録という形だが、其処彼処で絹江と自身の虚言性に言及しながら、それを楯にした自己韜晦と露悪趣味が、Morris.には後味が悪かった。
著者はマゾヒストなのかもしれない。


HOKUSAI】西澤裕子 ★☆☆ 結構前から浮世絵師が出てくる小説を見るとついつい手を出してしまう傾向にある。
本書はもちろん葛飾北斎を主人公にしているのだが、タイトルのアルファベットがそのままテーマを表わしている。つまり、北斎がオランダ人との混血説である。
娘於栄がえらくエキセントリックに描かれているのと、写楽を北斎の身内とする説、馬琴の「八犬伝」の挿絵を北斎が描くことへの事大主義、蜀山人、京伝、種彦など多士済済の登場人物、Morris.の興味をそそる時代背景なのに、なんとも肩透かしを食らわされてしまった。
とにかく小説になっていないのだ。ご都合主義は別にかまわない。有名な逸話やエピソードを取り上げるのも小説なら当たり前とも言える。だが、本書の箸にも棒にもかからない読後感はどこからくるのだろう。なんだか戯曲の「ト書き」だけが羅列されているような感じだ。人間の心理も行動もまるで書けていない。
特に於栄を扱うなら、杉浦日向子の「百日紅」の爪の垢でも飲んで欲しいものだ。
著者紹介を見ると、シナリオ作家で、TVドラマ3,000本!を手がけたなんて書いてある。Morris.は基本的にTVドラマは見ないのだが、こういう人が3,000本も書いてるということは、ますます見る気がしなくなるな。


浮世絵 消された春画】リチャード・レイン ★★★★ いやあいい時代になったものである。いぜんは浮世絵の春画は「秘本」とか冠されて、えらく高価なシリーズが多く、そのくせ、性器や肝腎の部分はぼかしたり綴じ目でごまかしたり、期待はずれもいいところだった。
それが、ここ10年前くらいから、完全解放とは言いがたいが、かなり満足できる画像が一般書籍として刊行されはじめた。林美一や本書のリチャード・レインなどの尽力に縁るところ大きいと思う。
浮世絵の神髄といえば春画であることは今さら言うを待たないが、本書では、その春画をあろうことか、改竄して、美術館などで本物として所蔵してる例を多く紹介している。
2種類の浮世絵を合成する、その神業的職人芸の分析なども面白いが、Morris.は、紹介されている作品に、鈴木春信の春画が多かったので、ほとんどそれだけで大喜びしていた。
点数がえらく甘いのもヴィジュアルには弱いMorris.ならではのものである。
しかし、これでますます春信が好きになった。
本書は「芸術新潮」1994年6月号特集を単行本化したものらしい。いやあ実に花も実もある特集である。 


対話篇】金城一紀 ★★★☆☆☆ 愛と死の寓話ともいうべき3つの変奏曲的短編が収められている。映画にもなった「GO」で注目した作家だが、本書は彼の若々しい叙情性を感じさせる佳作だと思う。
自分と愛情で係わった人間は必ず死を迎えるという宿命を負ったkとの会話から新たな生を噛み締める「恋愛小説」。瀕死の病症で恋人の仇を討つという妄執を同級生に叶えてもらう「永遠の円環」。30年前に別れた恋人の形見を受け取りに行く老人に同行して、鹿児島まで国道を走り続ける動脈瘤を持つ青年の再生を歌う「花」。
いずれも「ありそうにない」話を前面に出しながら、登場人物の会話の中から愛と死の真実に肉薄する物語が紡ぎだされるという、なかなか凝った作品となっている。タイトルはそこに縁るのだろう。
三篇のエピソードは微妙に絡まりあって、三つで一つの物語というわけではないが、三部形式の室内楽みたいな印象を残す作品だ。
作者は若いわりに、表現の抽斗を多く持ってるらしく、ここかしこに、ちょっとひねったフレーズを挟み込む。ここらあたりがいかにもシナリオっぽいのかもしれない。

言葉にする必要はなかった。大切な事柄はひどく脆い氷の像のようなもので、言葉はノミみたいなものだ。よく見せようとノミを打っているうちに、氷の像は段々と痩せ細り、いつの間にか砕けてしまう。本当に大切な事柄は、言葉にしてはいけないのだ。身体という容れものの中でひっそりと眠らせておかなくてはならない。そう、最期の炎に焼かれるまで。その時になって、氷の像は一番綺麗な姿を見せながら、身体とともにゆっくりと溶けていくのだろう。(恋愛小説)

「まあ、平凡に生きていくなら洞察力と想像力なんて必要ないんだ。他人が創り出した常識や価値観に寄り添って生きていったほうがいい。その方が幸せだ」(永遠の円環)

「たとえば」と鳥越氏は言った。「たとえば、いま空から隕石が降ってきて、いまこの瞬間に私たちを直撃することだってありえるわけだろう?」
「え?」
僕は顔を下ろし、視線を鳥越氏の横顔に移した。
「確率は低いかもしれないが、ありえないことじゃない」
「そうですね」
「直撃されたら、もちろん、私たちは死ぬだろうが、私は死ぬ瞬間になんの後悔も感じないと思うよ」
「--------」
「なぜなら、私は自分の意志で、ここにいるからだ。誰に命令されたわけでもなく、ここにいる。幸運だとか不運だとか、そんなことはどうでもいい。とにかくここで起こった結果に関しては、私はすべてを引き受けるよ」鳥越氏も夜空から顔を下ろし、僕の顔を見ながら続けた。「歳を取って、それぐらいの覚悟はできた。ようやくね」(花)


こうやって引用してみると、さしてひねった表現でもないのだが、作品の中におかれてあると、ふわっと心に染み入ってくる。作者の資質というものだろう。
在日問題も隠し味程度にしか使われていないが、それなりに効いている。しかし、彼みたいな作家の場合、Morris.のように在日ということを気にするのが、かえっておかしいのかもしれない。


晴子情歌 上下】高村薫 ★★★☆ 「レディ・ジョーカー」以来の彼女の新作、といっても発行されてから1年以上はとうに過ぎている。それなりに人気作家で図書館では順番待ちになってるのだろうな。彼女の文章はそれなりに骨があるし、上下二冊となると、一人で1ヶ月以上借りるというケースも多いのではないかと想像される。
気にかかる作家であり、寡作ということもあって、いちおうMorris.は彼女の単行本はひととおり読んでいるはずだ。初期のミステリーものからずっと、それなりに感心させられてはいるし、その文章力というか、描写力には舌を巻くのだが、彼女の作品に心酔するというわけではない。はっきりいえば、あまり好きな作家ではないようなのだ。それでも読まずにいられない。そんな、ちょっとややこしい作家ということになる。
本書の読後感もまったくそのとおりだった。
ひとことでいえば、大正生まれの女性の「女の一生」ということになろうか。東北と北海道を主な舞台に、政治と実業で名をなした一族の中に入り込み複数の男性の子を産み、東大を出て遠洋漁船に乗り込む長男への手紙を表現の媒体として、過去と現代を行き来しながら、戦争をまたぐ時代相と、女のさがみたいなものを「隠微」な筆致で長編小説に仕立て上げてみましたといった趣である。
女主人公の両親、そのまた両親に遡る前史、少女時代の機微、幼い時代の愛、家という存在への視点と係わり合い、男との愛憎、それらを丹念に選り分けて表現していく方法と、彼女の分身でもあり、反面でもある長男の物語もそれなりにみっちり書き込みながら、物語全体はわざと曖昧な方向へ押し進められる。
北海道の漁場の詳細を取材した部分や、漁船での仕事ぶり、装備、作業内容など得意の精密描写の部分が、曖昧さをことさらに何か意味のあることのように見せかけるのに役立っている。
主人公やその周辺の登場人物が、読んだ本についても同様のことが言えるだろう。時代を思わせるそのラインアップは、別の意味でMorris.には興味深かった。
「ジャンクリストフ」「アンナカレーニナ」「伊東静雄詩集」「浅草紅團」「レイテ戦記」「ひかりごけ」「嵐が丘」「シートン動物記」----
しかし、彼女みたいな作家はMorris.にとって、いったいどういう意味を持っているのだろう。阿片みたいに効くわけでもないし、果実のように美味しいわけでもない。それでもやっぱりついつい読んでしまう。たしかに読書しているという実感を与えてくれる数少ない作家の一人であることはまちがいないのだろうな。
本書の半分を占める、主人公の書簡の文章はすべて、旧漢字旧仮名遣いになっているが、文体は完全に現代文なので、違和感なく読んでしまった。しかし、ここにも作者の執拗なこだわりを感じ取るべきなのかもしれない。
ところで「レディ・ジョーカー」の次のタイトルが「晴子(lady)情歌(ジョウカ)」というのは、彼女一流のギャグだったのだろうか?
こんなことを書くだけで、Morris.は読者失格の烙印を捺されるのかも(^_^;)


趣味は読書】斎藤美奈子 ★★★ 平凡社のPR誌に連載したベストセラー書評をまとめたものだが、例によってタイトルにも相当のひねりがある。
ベストセラーの主な読者は「善良な読者」であり「趣味は読書」と自他ともに認める人たちということなのだ。美奈子さんがそうでないことは、言うまでもなかろう(^_^;)
例によっての毒舌も散りばめられているが、何となく本書ではその毒の効き方が弱いような気がしたのと、Morris.がもともとベストセラーはほとんど読まないため、取り上げられている本も味読のものが大部分を占めるというのが、今回の点数の低さになっていると思う。
それに、何故かまたも歯痛を我慢しながら、というか、痛みを紛らすために読んだということもあったので、この前読んだ「文壇アイドル論」に比べると面白さの効き目がかなり落ちるように感じられたのだった。
約40冊が取り上げられているがMorris.が読んだのは5冊(「倚りかからず」「買ってはいけない」「「捨てる!」技術」「iモード事件」「五体不満足」)だけ。
茨木のり子の詩集「倚りかからず」への辛辣な批判はちょっと耳が痛かった。
タイトル作の中のリフレイン「倚りかかりたくない」を「耳を貸したくない」に差し替えて、

相当にヤな詩だよ。っていうか私たち凡人は、もともとどんな[思想]にmo[宗教]にも[学問]のも[倚りかか]ってなどいないのだ。「倚りかか」ろうにも、ハハハ、学んでなんだから。それなのに自らの不勉強を棚に上げ、[できあいの]というマジックワードで人類の英知を根こそぎ否定し、[もはや]のリフレインで、さもそれが、「試行錯誤の末に到達した心境」であるかのように粉飾し、さらには[長く生き]たのを楯に[なに不都合のことやある]とか開き直ってんのがこの詩なわけよ。ったくもう。ありがたすぎるぞ、怠け者には。

うーーん、ちょっと厳しすぎるんじゃなかろうか。確かにそう言う読み方も出来なくはないだろうけど。詩としての価値はまた別のところにもあるんだろうし。美奈子さんのことだから、そこはいちおう逃げ道を用意してはいる。

詩人は何を書こうとかまわないのである。そこらの読者がこの詩にまんまと[倚りかか]るのが、イヤなわけ。だって考えてもごらんなさい。中高年がみんなこの詩に感化され、[なに不都合のことやある]とばかり好奇心も向学心も放棄したら、あるいは[格別支障もない]といかいって電子機器を拒否したら、どうなるか。ぼけるぞ、そのうち。で、結局、家族に[倚りかかる]ことになるんだから。

それにしても、好きな人が好きな人の悪口を書いているのを読まされるというのはやっぱり辛いところがある。また奥歯も痛んできた(+_+)


喜多川歌麿女絵草紙】藤沢周平 ★★☆ 作者の割と初期の作品(昭和52年)である。浮世絵師歌麿を主人公とした6編の短編連作で、蔦屋重三郎、滝沢馬琴、それに写楽もからんでいて、Morris.はとうぜんそこらあたりの興味で本書を手に取ったのだが、作者の視点はどちらかというと、歌麿とモデルの女性の方に向いていて、ちょっと期待はずれだった。モデルとの間に特に情交があるというわけでもないが、初老に近付いた心身の弱りと、絵師としての歌麿の意気と自負が葛藤するぶぶんの細やかな描写は作者の本領発揮なのだろうが、Morris.の好みではない。出戻りの女弟子への複雑な思いも同様である。
おしまいには枕絵のモデルのもとに逃避するみたいに会いに行くあたりで、どうもすっきりしない印象だった。


マイコン少年さわやか漂流記】クーロン黒沢 ★★★ 71年生まれのゲームおたくのどろどろした世界、悲喜交々、とんでもない人々との交遊記、ソフトやマシン業界への憧れと賞賛と恨みつらみなどを自伝的に綴ったもので、ゲームとは全く無関係なMorris.だけに、1/3は理解不能だったが、お宅独特の文体や、ゲームへの傾倒ぶり、コピーしまくり、違法行為しまくり、クソゲー作り、他人への罵詈雑言などそれなりに面白かった。
パソコンメーカーの無茶苦茶な新製品開発ぶりには、Morris.も遅まきながら大迷惑を被った側だから、こっそり拍手を送りたい部分さえあった。
パソコン通信黎明期に自宅電話でBBS開いたり、コミケに行った途端に売り手になってしまう、実行力というか、即決思考は、やはりゲームで培われた賜物なのだろう。
裏ゲーム等を買いに行った縁からか、香港、台湾、タイ関連の裏もの関連本をいろいろ書いていて、現在はカンボジアに住んでいるらしい。


浅草紅團】川端康成 ★★★ 昭和5年のこんな小説を何で今ごろ読んだかというと、先月元町の古本屋「つの笛」で、この覆刻版が安価で出ていたのを買ってしまったからだ。ほとんど装丁と函のデザインに惹かれて買ったのだが、矢谷君が一時川端康成のマイブーム状態だったこともあって、読み終わったら彼に進呈しようと思ったのだった。
[浅草紅團」川端康成ところが、何となく読むのが億劫というか気乗りせず、ついつい延び延びになってしまっていた。
もともとMorris.は川端作品との相性は良くない。ノーベル賞までもらった作家だし、Morris.はいちおう国文科だったから、常識として代表作の幾つかには目を通したはずだが、これといった印象がない。
川端には少女趣味があって、Morris.もその傾向があるはずなのだが、そこでの微妙な好みの差がかえって嫌悪感に近いものを生じるのかもしれない。まあ、時代も違うけどね(^_^;)
本書は執筆当時の浅草の空気が感じられてそれなりに面白いとは思ったものの、ストーリーは、あって無きが如しだし、おしまいは尻切れトンボみたいで、やはりあまり評価できない。ただ、覆刻版ということで、懐かしいルビ付活字の旧仮名遣いの文字列を読むだけでも悪くはない。
作者をモデルにした男と、紅團の少女とのやり取りには、それなりに色気みたいなものを感じさせてもくれる。川端独特のねっとり味の滲み出ている部分を引用しておこう。(ルビは省略(^_^;))

狭い寝室には、何も隠れてゐさうにない。
『やつぱりただの売りものか。』と、笑つてしまふにはしかし、裸の足が細々と美し過ぎた。少年のやうに清潔な足であつた。
男は渋い茶色のもぢり外套に同じ生地の鳥打帽をかぶつてゐた。頭が板屋根につかへた。だが座らうとはせずに、懐手のまま弓子の足を眺めてゐた。
船室のほの暗さになれて明るくなつた。
弓子の素足は寒げにふくらはぎを組み合せて、小指を重ね、膝の裏の窪みが二つ、ぴつたり並んでゐた。
『なんだ、まるで子供ぢゃないか。』と男が思つたほど、その足を縮めながら伸した感じは可愛いのだが、真赤なスカアトがつり上つて、靴下止めが見える、そのあたりにふてぶてしい膨らみがあつた。


本書にはタイトルの長編と5編の短編が収められているが、短編の方は習作みたいなものだし、表題作も先に書いたとおり、ストーリーとしては不完全すぎる。
本書原本の発行元は先進社という、Morris.には未知の出版社だが、巻末の同社発行書籍の広告が印象的だった。
大仏次郎の「日蓮」、細田民樹の「黄色い窓」、林房雄の「都会双曲線」、明石鐡也の「失業者の歌」の4冊だが、どうやら先進社は当時の社会主義的色合いの強い出版社だったらしい。林房雄作品への推薦文(惹句)の一部を引いておく。

見よ「都会双曲線」に示された多様性、興味。時代のカクテル。百パーセントのモダニズム。明朗たるプロレタリア的熱情。林房雄はさう云つたマントをまとつて晴れやかに登場した。彼の存在こそは人生を明快にし、新しき社会への一歩前進を約束する。彼の頭脳は的確に時代を反映する水晶体の新プリズム。読め!都会双曲線---それは1930年モダン・ライフの必須科目だ。人気と歓呼の焦点---ブルジョア文学は完全にノツク・アウトされた。

これは読まずばなるまい!と、つい思わせてしまうくらいの熱気であるな(^_^;)大仏の「日蓮」のは大した事ないが、残りの二つは林への惹句に勝るとも劣らない熱の入れようだ。すべて引用したいが、「黄色い窓」の惹句の一部を引いておしまいにする。

浮薄なモダンガールは、もはや尖端的女性ではない。熱と力と愛に満ちて目的の道へ悲壮な行進をなす彼女こそ、新時代に一大炬火を翳す本ものの新女性だ。コロンタイ主義を鵜呑みにして『ゲニヤイズム』の性的実行に身を滅ぼすモガ三重子、階級目的の百パーセント把握によつて、質実運動に精進する純情の女子大学生、困難なストライキに直面する悲痛なる労働者とその戦闘。『黄色い窓』は、未だ何れの作者も筆にせざるモダニズムの戦慄すべき、暗黒を暴露し理想に邁進する稀有の悲壮曲である。今までの作品を見馴れた眼はこの小説によつて藝術の価値転倒を感じるであらう。果然新興大衆に絶対的指示を受くる正しき作品はこれだ。

序でにMorris.にはわからなかった用語のうち「コロンタイ主義」を、当時の雑誌「改造」付録の「最新百科社会語辞典」から引用しておく。

コロンタイ主義 ロシヤのコロンタイ女史によつて主張された新恋愛論である。この恋愛論は自由恋愛結婚と、性生活を公的生活から截然と区別すべきであるとの主張から成立つてゐる。

もう一つの「ゲニヤイズム」は、結局わからなかつた(^_^;)


文壇アイドル論】斎藤美奈子 ★★★★☆ 80年、90年代の日本の文壇、論壇の売れっ子8人を取り上げた作家論だが、タイトルからもわかるように、一ひねりも二ひねりもした美奈子節が横溢した快作だった。
実は本書の2/3は左顔面腫れまくった歯痛の中で読み上げた。と、いうか、あまりの痛さと鬱陶しさから気を紛らすために読んだみたいなものだ。普段なら愛蔵の漫画を読み返すというのが、こういうときの常套手段なのだが、今回は偶然本書があったので、これを鎮痛剤兼精神安定剤の代わりに使用したのだが、いやあ、すっごく面白くて、しばし歯痛や左顔面ペコちゃん状態の鬱屈を忘れる事ができたくらいだった。こんな本はそうそうないぞ。
取り上げられている8人というのは

村上春樹、俵万智、吉本ばなな(「T文学バブルの風景」)、林真里子、上野千鶴子(「Uオンナの時代の選択」)、立花隆、村上龍、田中康夫(「V知と教養のコンビニ化」)

で、()にあるタイトルの3章に編成されている。Morris.のイメージするアイドルとはちょっと違うような気もするが、とにかく売れっ子文筆家が勢ぞろいしてる事は間違いない。
前書きで「作家論」ではなく「作家論論」に近いと自己分析してるとおり、作家そのもの、作品そのものより、作家や作品が他に及ぼした影響、他人(読者/評論家/ジャーナリズム)が感受(錯覚/誤読)したことどもをサカナに、美奈子一流の包丁捌きでバッサバッサと調理されている。

それぞれの作家論(論論?)すべて見どころ充分なのだが、親切な美奈子さんがおしまいに一まとめに総括してる部分を先に引用しておく。

村上春樹の小説は批評のオタク化・ゲーム化を促し、俵万智や吉本ばななはそれまで「女の子専用」であったJポエムや少女小説の流れを文学界の表舞台に乗せたことで、おんな子ども文化を軽視してきた「文壇村のオヤジサン」たちに新鮮な感動を与えたのでした。
フェミニズムが80年代にいっとき勢いをもったのも、最後に残ったもっとも目に見えやすい階層(ポスト階級?)として、男女間の格差が「発見」されたためかもしれません。考えてみれば林真里子と上野千鶴子は、高度成長期の男のパロディを地でいくような存在でした。出世スゴロクvs.社会変革。体制派vs.反体制派。大衆vs.知識人。しかも双方パワフルで露悪趣味。多くの女性を励ましもした半面、彼女たちが反感も買ったのは、一時代前の男のカリカチュアを女が演じていると感じさせる部分があったせいではないでしょうか。
新しい価値観の創造を求められた男たちは、しかし、もっと大変だったにちがいありません。いちはやく体制/反体制というニ項対立から抜け出た立花隆は、だからこそ力をもったわけですが、半面、基盤をもたない彼の思想は非常に危ういものでもあった。危機感をおっちょこちょいパワーに変えて「劇画的」な物語の捏造に邁進した村上龍は、たしかに歓迎されはしたものの、その裏にある「強がり」のポーズも見抜かれてしまった。---そう考えると、80年代のしょっぱなに書かれた『なんとなく、クリスタル』の平板さが逆にきわだってくるのです。


以上の文章はラストの田中康夫を論じた中にあるのだが、ともかくも本書のレジュメとしてこれ以上はないくらいに、あざやかにまとめてある。こういったところもMorris.のようにぼんやりした読者へのサービスといえるし、美奈子さんの手際のよさでもある。なかなかこうはいかない。いやあ、やっぱりMorris.にとって、現代の文筆界のアイドルは彼女をおいては存在しないね。
本質的に彼女は、フェミニストなんだろうな。そして、そう呼ばれると「ケッ!」と切り返すタイプだと思う。そして彼女は稀代の毒舌家でもあるはずなのだから、Morris.としては思い切り罵詈雑言を聞きたいところでもあるが、そこはそれ、書物の上では稀代のスタイリストを装っていて、それはそれで探し甲斐がある。

ちょこちょこと小出しにしたところを拾ってみよう。

・この程度の感想文を、いい大人が、しかもプロの文筆家が活字メディアで公表してもオッケーなのだという点がまず新鮮です。
・落書きノートは、店という場を介したコミュニケーション・ツール(のつもり)だったのかもしれません。が、実際にはうすら他愛もない文字通りの落書きが並んでいるだけだった。
・頭がゲームモードに入ってしまった人間はマスターベーション中のサルと同じで、スイッチが切れなくなってしまう。(村上春樹)

・立原えりか、みつはしちかこ、銀色夏生などによるヤングアダルト向けの絵本(と仮に呼んでおきましょう)です。メルヘンチックなビジュアル(イラストレーション、マンガ、写真など)と歯の浮くような「ポエム」で構成された彼女らの本は、本というよりファンシーグッズに近いものでしたが(事実それらはサンリオショップなどで売られていました)、それらは女子中高生を中心に爆発的な人気を誇っていました。
・ユーミンや俵万智が爆発的にヒットした80年代後半は、「ライト」なことばあそびにうつつをぬかしていられた分、社会にまだしも余裕があったのでしょう。バブル経済崩壊後、90年代のポップスシーンをリードした小室哲或の歌詞の内容的・技巧的な貧しさ、あるいは相田みつを詩文集の身も蓋もなさは、この当時の投げやりな雰囲気にぴったりだった。
・「モーニング娘。」を中高年男性が何のてらいもなく受け入れて、「ニッポンの未来は、うぉう、うぉう、うぉう、うぉう」などと自ら歌うようになったのは、もとはといえば『サラダ記念日』が撒いたタネのせいだったかもしれない。(俵万智)

・ばななからモノノアワレや宝塚なんぞを連想するのは悪しきオリエンタリズム、が大袈裟なら深読みのしすぎだとこの際いわせてもらいましょう。センチメンタリズムなんていうものは、世界中どこにだってあるのです。かといって、毎度おなじみマンガを引き合いに出し、サブカルチャーなんていう万能包丁みたいな用語で切ってすますのもお手軽すぎる。(吉本ばなな)

・80年代も末期になってフェミニズムは急激に大衆性を失い、「インテリの思想」化していきます。皮肉にも、フェミニズムの側が女の中に知識人と大衆という二つの層をつくり出してしまったのではなかったか。(林真里子)

・これを「ダサい」といわずして----。10年前ならいざ知らず、いまごろ「おまんこ」もねえだろおよ。リアルタイムで読んだときの、それが私の率直な感想です。
・それでなくとも猥談を文字にするには高度なセンスと技術が必要です。下半身ネタにもちこんだとき、上野千鶴子は抜群のセンスの悪さを発揮します。
・言語感覚が鈍くてもやっていける(?)アカデミズムの世界にいた彼女は、世間のレベルを甘く見ていたのかもしれません。下ネタのセンスなし。コトバのセンスもなし。コピーライトの才能では、これまた林真里子や俵万智のほうが何倍も上だった。
・フェミニズムなんて、もともと超マイナー、いわば異端の思想なのです。「フェミニストにしては話が通じる」という限定つきで、辛うじて上野千鶴子は場所を得ていたにすぎません。(上野千鶴子)

・現代のエッジに鋭く触れる作品とかいえば聞こえはよいが、筑紫哲也あたりがソワソワしてインタビューに駆けつけずにはいられないような「いまどき」の題材を、最新の通信技術などもからめつつ、村上龍はあっというまに小説化してしまう。それすなわち「おっちょこちょい」にほかなりません。
・風俗や事件を性急に物語化する村上龍の手法はつまりテレビのワイドショー的なのです。
・村上龍自身は「社会とかにはどうもあんまり関心はないんですよ」と否定していますが、もしかしたらルポルタージュが果たすべき役割の一端を、龍作品は担ってきたのです。
・皮肉なことに、フィクションの武装を解き、虚構の分量が少なくなればなるほど、龍ワールドは無残なほころびを露呈しています。いっちゃなんだが、村上龍のエッセイに人を納得させる力はなく、ノンフィクションで現実を再構成する力はさらにありません。
・90年代以降、大きな事件や事故がおきるたびに「映画のようだ」「アニメのようだ」「どこかで見たことのある光景だ」という声が聞かれたことを思い出してください。これは村上龍の荒唐無稽な小説がポピュラリティを獲得していった過程とも、ワイドショーというフィクションともノンフィクションともつかぬ「ニュース解説」が定着していった過程とも、きっと重なっているはずです。いつしか「物語」ぬきに現実を把握できなくなった私たちに良識派の安いドラマを提供してくれるワイドショーも、常識破りのゴージャスな物語を提供してくれる村上龍も、その社会的な機能は同じ。「人々に安心を与えること」です。(村上龍)


「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の裏返しではないが、こうやって写しているだけで、すっかり彼女の辛辣な言葉にマゾヒスティックな快感を覚えているMorris.だった。
それにしても彼女は良く本書登場の作家の本や、それに対する評などに目を通しているなあ。翻ってMorris.はといえば、8人の作家で愛読してる作家は皆無だということに気がついた。
8人中二人は1冊も読んでないし、残りも1冊から数冊読んで、それ以後手にしていない。つまりいちおう読書家を標榜しているMorris.は、現代日本での売れっ子の作品をほとんど知らずにいるということになる。
別にそれでかまいはしないが、本書を読んで、結局彼等の本を読まなかったことは意外と正解だったのかもしれない、と、納得してしまったのは、本書の功徳ということになるのではないだろうか?


ガリバー・パニック】楡周平 ★★ 「無限連鎖」がとても面白かったので同じ著者の本を読みたく思い、出世作「Cの福音」を手にとったらこれが6部作ということを知り、隣にあった本書を借りてきたのだが、これは、期待はずれもいいところだった。
九州の作業員が異常気象で100mを越す巨人となって千葉の海岸に出現するという、荒唐無稽の物語で、それ自体ありそうな話なのだが、それだけでおしまい。300pの中での展開も結末も初めから見え見えだし、巨人への国や政治家の対応振りもあまりに図式的だし、巨人と数人の交流もとってつけたみたいだ。パロディや風刺としての味つけをしているつもりだろうが、これまたお粗末としかいいようがない。はっきり言って読者をなめてると思う。こんな作品では思い切り遊ぶべきだろうに、何と本書では巨人が工事現場ではたらくことになり、変なヒューマニズムの体現者にされてしまう。
巨人を扱った傑作、ガルガンチュワ、パンタグリュエルを持ち出すまでもないが、タイトルに使われたガリバーのおどろおどろしさの100分の1も描かれていない。第一巨大化した人体のグロテスクさを書かないのでは、ほとんど意味がない。ともかく読みながら不満ばかりを覚えていた。もう、この作家とは縁を切るか、それともやはり本領発揮(だろうと思われる)の6部作に挑戦するか、ちょっと迷うところ。


クレイジーケンの夜のエアポケット】横山剣 ★★★☆☆ クレイジーケンバンド(以下CKB)のリーダーである著者が「ぴあ」に連載した日記的コラム。CKBは、大西ユカリキャバレーナイトのゲストとして初めて知ったが、実にかっこいいバンドだった。
彼はMorris.よりひと回り若いが、韓国とは30年来の縁を持ち、今でも衣装を誂えるためもあって行ったり来たりしてることを知って、急に親しみが増した。
ディープコリアの幻の名盤解放同盟のメンバーとも懇意にしてるようだし、韓国ロックの親玉シンジュンヒョンとも個人的親交を結んでいるらしい。さらに、Morris.が以前からはまっている80年代の女性POP歌手パンミのことにも数箇所で触れているのを見つけて、びっくりしてしまった。

10数年前に韓国ソウルのレコード屋さんにて芳美(ファミ)という女性シンガーの「恋の片道切符」(ニールセダカのカヴァー)というタイトルのLPアルバムをジャケ買いしました。タイトル曲はA面の1曲目に入っており、こう、鼻にかかったとてもチャーミングなイイ声をしていて、エコー感ゼロの、ハリ付くような、ファンキーでディスコでスペーシーなサウンドが妙に心地良く、コレはイイ買い物をした是! と喜んだのも束の間、2曲目になると突然ズルムケで脂ギッシュな中年オヤジのすっとこどっこいなリヅム演歌がおっ始まったんです。で、その次の曲は桂銀淑さん系のハスキー&情念ほとばしる絶唱型女性シンガーの登場。コレはかなりの名曲でサビの部分の「アボジ!](お父さん)と泣き叫ぶリフレインが心をえぐります。しかしその後もこのアルバムの主役であるはずの芳美さんの歌声は二度と登場せず、B面、に裏返しても状況は変わらず。結局締めくくりは韓国製レコード尾のお約束「健全歌謡」にてジャンジャン。要するにコレは芳美さんんを看板スタアとするマンモス・シングルであったと、そういうワケだったんですね。ええ。

何故か芳美に「ファミ」と読んでるが、これはパンミに間違いない。くだんの片道切符は、「ナルボロワヨ--私に会いに来て」というタイトルでベスト盤にも入ってる。
本書は横浜、横須賀、川崎方面の一皮剥けたスポット案内でもあるし、偏愛的名盤紹介でもある。特に後半には、偏愛的ベスト10みたいなリストがいっぱい出てきて、それがいかにもケンさんらしく、とんがってるわ、鋭いわ(同じことかあ(^_^;))で、面白くってためになること。
たとえばコリア絡みの映画10選

1.「友へ・チング」
2.「KT」
3.「青〜Chong〜」
4.「月はどっちに出ている」
5.「恐怖の外人球団」
6.「鯨とり・コレサニャン」
7.「GO」
8.「あの島へ行きたい」
9.「膝と膝の間」
10.「桑の葉」1〜3

いや、なかなかこいういうセレクトは出来ないね。ツボを心得てるというか、よく見てるというか、感心するしかない。トップに「チング」がきてるだけで、チングフリークのビギンさんもケンさんのファンになるに違いない。

せっかくだからもう一つ紹介しよう。いかす10人(組)の女たち(^o^)。


1.平山三紀
2.5,6,7,8S
3.ロネッツ
4.りさ"レフトアイ"ロペス
5.杉本美樹
6.野宮真貴
7.ブランディー
8.麻生レミ
9.渚ようこ
10.應蘭芳


さすがに、女性の趣味ではMorris.とは全く違うようだが、トップの平山三紀は、今一番STARAdigioで特集してもらいたい日本の女性歌手だ。

そのほかにもいろいろ興味深々のセレクションありの、ピチカートファイブの小西康陽との対談あり、精細なディスコグラフィあり、年表あり、古い写真ありとおまけ山盛りで、CKBファンならずとも滅茶苦茶楽しめる一冊である。
ただ、あまりに多くを詰め込もうという意気込みで、活字が小さすぎるのには、すでに老眼の進んでるMorris.には辛かった。ケンさんも後10年もすれば、きっとこの本読み返すのに難儀すること間違いなしだろう。
それから、本書では大西ユカリちゃんのことには全く触れられていない。連載が2001年1月から2002年9月までだから、時期的にちょっと早かったのかもしれない。
もし続編が出たら、きっとユカリちゃんネタが出るにちがいない。これも楽しみ。
文章はプロでないから、名文はのぞむべくもないのだが、きっと本人が書いたに違いないと思わせる、強烈な個性のある文体だし、発想の端々に、Morris.をピクっとさせるものが散りばめられている。
たとえば、お金に関する一節の中で、

日本人は特にお金をムキダシで扱わないで必ず封筒に入れたり包んだりして「金はヨゴレなもの、金を人前で出すのははしたない!」という感じで、一見お金に対して奥ゆかしいですが、それほど貧困な国でないのに、お金で人生が狂う人の率が高いような気がします(消費者金融のコマーシャルの多さは異常!)。

そう、そう、その通り、Morris.も、TVや雑誌、看板などに氾濫してるサラ金関連の宣伝の異常さには、呆れるを通り越して、寒気を覚える。
この本も、ケンさんの持ち味であるかっこよさを、遺憾なく発揮しまくっている。Morris.とは、ほとんど縁のないかっこよさではあるのだけど、人間、自分に無いものを持ってる人には、無条件で憧れることが出来るから、それでいいのだ。

ユカリちゃんも、和田あきこもカヴァーしてる名曲「タイガー&ドラゴン」は、中でもかっこいい曲だなあ。憧れますーーーっ(^_^;)


王妃の館 上下】浅田次郎 ★☆☆ パリの「王妃の館」を「光ツアー」「影ツアー」それぞれ5組を同じ部屋で二重に使わせるというそもそもの発想からして矛盾してるし、個々の来歴やエピソードを組み合わせて、さらにルイ14世の隠し子の物語をからませ、700pの一見長編に見せかけた小説。Morris.は著者の短編は読む気がしないものの、長編ならまだ見どころがある(どころか「きんぴか」には脱帽してる)ので、ついつい手にとったのだが、期待はずれもいいところ。
おまけにやたら意味もなく、カタカナのフランス語が頻出するし、自己を戯画化(多分に自慢めく)した登場人物の現在進行形の作品を挟み込み(これがつまりルイ14世の隠し子ストーリー)、それに群がる3人の編集者との楽屋落ち、愚にもつかないギャグ趣味、ご都合主義以前の筋書き、さらには不器用を装うみっともない純愛?いやらしさばかりが目に付く作品なのに、とりあえず、読み通してしまったのは、やはりそれなりに上手い語り口に騙られてしまったのかもしれない。
もう、彼の短編(長編もどきも)は絶対に読まないぞ。


無限連鎖】楡周平 ★★★★ イラク戦争直前に書かれたものらしい。9.11貿易センタービルテロの続きみたいな導入部からして、ぞくぞくさせる上に本編の東京湾にシージャックしたタンカーに爆弾を仕掛けるテロリストと、日米首脳とのやり取り、タンカー乗組員と船長の抵抗など見どころの多い作品だが、登場人物の性格や家族関係、背景などを細やかに書き出してリアリティを感じさせる手腕には驚かされた。テロの方法や政府の対応なども、実に綿密かつ納得させるだけの資料を呈示してあり、作家の並々ならぬ知識と経験が伺える。
57年生れの著者は米国企業でマーケティング担当。96年に「Cの福音」でデビューしたとある。Morris.がこのての小説はあまり読まないので、知らなかっただけで、それなりに著名な作家らしい。米国相手の新たなテロがあっさり実行され、日本へのテロもかなりの部分で実現するというのが、よくある危機一髪の劇的解決というパターンと大きく違うところだし、民族間の桎梏、日米を始めとする先進国への批判、国際関係の分析、武器や爆弾などの詳細な説明、あっと思わせるスピーディな物語進行、どれをとっても久しぶりに読書のエンターテインメントを実感させてくれた。
結末のやりきれない交々を含めて、見事な国際事件小説となりえている。書かれた時期が時期だけにイラク、アフガニスタンへの言及が多いし、アメリカ批判と評価が公平に行われているところも感心させられた。ともかく、読書のスリリングさを味あわせてくれたことだけで賞賛したくなる。もしかしたらMorris.にとって船戸与一の系統を継ぐ作家になるかもしれない.
文章も悪くは無いが、Morris.のものさしでもある「手をこまねく」「目をしばたいて」という表現が出て来たのがちょっとマイナス点になったかもしれない。


図説 鉄腕アトム】森晴路 ★★★アトムの誕生日が2003年4月7日ということで、本書もそのブームにあやかって出された一連の書物のひとつであることは間違いないが、手塚プロダクション資料室長である著者の編著だけに、その紹介ぶりの精緻さと、信頼性という意味で他の追随を許さない内容になっている。
カラーページも多数あり、白黒ページも図版が美しいので、それらを眺めるだけでも充分楽しめてしまう。アトムが初め少女としてイメージされたというエピソードは知らなかった。言われてみると、アトムの人気の根元にアトムの少女っぽさがあることが納得される。
59年に放映された実写版鉄腕アトムの写真もあったが、これは、やっぱり見たくないね(^_^;)
今見てもアトムは全く古さを感じさせない。「少年」誌上でアトムのデビューをリアルタイムで楽しんだMorris.だからその懐かしさがそう思わせるのかもしれないが、手塚治虫死んでもアトムは死なずである。


旅で会いましょう】グレゴリ青山 ★★★☆ この前読んだ「ふたたびの旅。」がおもしろかったのでその前作(2001年7月刊)の本書を借りてきた。いやあ、同じようにおもしろかった。こちらは富山県伏木港からウラジオストックの船旅、大連、台湾、上海、韓国と割と近場ばかりだが、それぞれに彼女のテイスト満載の旅の記録になってるし、何よりも知り合った人々との交流ぶりも、すごい。
船中で会ったバイクで世界一周してるアンジェイとのやりとりなどは、まるで漫画(まんがだけど(^_^;))だし、大連のイメチェンへの驚きと諦め、上海の老ジャズバンドなどどれも楽しく読めたが、おしまいの韓国だけは、なまじMorris.が馴染みすぎてる分だけ、物足りなく感じたのかもしれない。
AB ROADに連載されたものだから、彼女お得意の長期旅行ではなく、1週間くらいの短期旅行を割り当てられたのだろうが、短期なら短期なりに楽しめることがわかり(当たり前だが)、Morris.もたまには短期旅行もいいかなと思ってしまった。


女経】村松梢風 ★★★ 今日、春日野道の勉強堂で\500で入手したことは日記にも書いたが、筆者の名は「本朝画人伝」の作者として記憶しているくらいであまり関心は無かった。本書は昭和32年「中央公論」に12回連載された、著者の女性遍歴の放蕩話だが、若い時から家産を食いつぶしながら吉原に居続けしたくらいの根っからの遊び人で、文士になってからもさまざまな女性を囲ったり、愛人関係を続けたりしながら、夫婦生活は別ものとしているところなど、今からみるとちょっと時代離れした感じもするし、恋愛も性愛もひっくるめて、出すものは気前良く出してるし、あっけらかんとしている。
顔のまるい女性が好みで「まるい顔の女性に悪人はいないと思う。」としれっと書くあたりが著者の本領発揮というところだろう。
時代も戦前、戦後にわたり、舞台も、上海、満州、英国などと広範にわたっているし、女性もスターの卵、女学生、家出娘、カフェの女給、矢場の矢取女などいろいろだが、恋愛の駆け引きとか、攻略とかはほとんど書かれていない。すんなりといい仲になる話が多いし、実際、それなりにもてるタイプだったのだろう。
村松梢風「女経」外函著者とは対照的なMorris.としては、まるで別世界の話として見るしかなく、本書の装丁の良さ(棟方志功)と、時代の空気を楽しみながら、あっという間に読み通してしまった。
さきの丸顔の女との出会いと深い仲になるまでの文章を見本として引用する。
決して名文ではないし、形容も平凡というか、舌足らずなのだが、ひたすら自分の感情に忠実にしたがって表現するひたむきさが伺える。

くだくだしい説明は抜きにして、私はその晩そこで初めて彼女に逢ったのだ。鈴江というこの女こそ、以上のべたような私の理想とぴったり一致する女であったのだ。その顔はほんとにまるかった。その頃、シナの姑娘(クーニャン)をまねて、前髪を揃えて切って、ぱらりと下げるのが一部で流行っていた。彼女はそれをやっていた。だからまるい顔がよけいまるく見えた。色が白くて肌が美しいといっても、こんなに白く美しい女を私は知らない。淡紅色の大理石のようにすべすべしている。そしてふとっていてせいも五尺二寸位はある。目方は十五貫あった。その晩彼女がどんな服を着ていたかおぼえていないが、彼女は和服もきるし洋服もきるし、シナ服もきた。しかし和服が一番多かったから、あるいはその晩も和服だったかもしれない。ふとりすぎているから洋服は似合わないと自分で思っているのであった。彼女はかぞえ年の十八であった。去年この店へはいる時、十七では許されないから一つ嘘をついてはいったといった。けれどもなりが大きいから十八といっても十分通った。眼も眉も鼻も口も愛らしくて美しかった。耳たぶは瑪瑙のように紅く透きとおっていた。
彼女が私の前に現われた時、私は吉祥天女が出現したように美しいと思った。豊満とか、濃艶とかいった言葉もあてはまらない。彼女はもっと新鮮で、清潔で、純真であった。人間はいつか一度は自分の理想に近付く時があるものだと私は思った。それから私は数回そこへ通ううちに、ついに彼女と特別の関係を結ぶようになった。

棟方志功の赤一色の函の版画や、各章の頭にある白黒版画が、実にいい味を醸し出している。谷崎潤一郎の作なども同工の装丁が多かったが、この当時の造本はいいものがある。本書は、内容デザインともに雰囲気の合いそうなとしろうに進呈することにしよう。


一九七二】坪内祐三 ★★☆ 「諸君」に連載されたもの。立ち読みした時、キャロルのデビューのエピソードの部分がえらく面白そうなので借りてきたのだが、面白かったのはほとんどその部分のみで、全体としてはえらくかったるく、つまらなかった。
1972年を「はじまりのおわり」で「おわりのはじまり」と捉え、その年の週刊誌を母校(早稲田)の雑誌文庫で読みまくり(コピーしまくり)して、それを自分の同時代体験と照らし合わせたり、他人の言を引いたりしながら、時代を浮かび上がらせようとしているのだが、筆者は58年生まれ、つまり72年には14歳だったことになる。Morris.は72年には23歳。小倉で大学5年生をやってたはずだ。この世代差は大きいと思う。Morris.にとってたしかにこの年は転換の年だったといえなくも無い。

赤軍派浅間山荘事件、田中角栄の日本改造論、沖縄返還、「ぴあ」創刊、日中国交回復、ストーンズ初来日チケット発売(結果中止)

といったことをテーマに、リアルタイムの週刊誌記事から当時の実態を読み取ろうとしているのだが、ほとんどから回りというか、あまりに上っ面だったり、我田引水だったり、こじつけだったりで、どうも読むのが苦痛だった。
たとえば、赤軍派の事件の中で、シリアスな状況なのに、現在とずれた発言や感想などを見ては、お決まりのように「のどかさを感じる」という著者の感性にはげんなりしてしまった。
この時代にはMorris.も関心無くも無いのだし、当然印象に残っている事象も多いのだが、視線がまるで違っている。相性が悪いってことかもしれない。
筑摩の「明治の文学」25巻の編者とあったので、期待したのだが、完全に期待はずれだった。


ふたたびの旅。】グレゴリ青山 ★★★☆☆ 「旅のグ」という前作を読んでから何年ぶりになるだろう。彼女は結構以前からMorris.の中では知名度が高かった。漫画としてはへたうま以前くらいの技量なのだが、そこはかとなく味がある。当人の戯画ぶりからして只者ではないと思わせる。蔵前仁一の「旅行人」で連載しているというので、一部ではかなり有名人だ。
本書はABロードに連載されたものらしい。タイトルは、以前に行った場所を再訪するというこころで、東南アジアのあちこちを再び訪れ、以前に会った人や建物との再会、喜び、失望、感慨などを、飄々としたタッチで綴っていく。
最初のマレーシア篇では、金子光晴ゆかりのバトハハを訪ね、しっかり光晴「マレー蘭印紀行」や詩を引用して、気分を出したり、バリでは、バリ芸術を現在の形にしたロシア生まれのドイツ人ウォルター・シュピースへの傾倒ぶりなども半端ではない。
85年くらいから東南アジアの旅を始めたらしい著者だが、Morris.の88年からの韓国漬けと、ほぼ同じ時代の空気の中で始まったものと思う。それから20年近く経って、彼女はしっかり、その道の玄人になり、Morris.は相変わらず単なる韓国バカである。そして、それはそれで良いと思う今日この頃である(^_^;)
本書には写真もいくらか掲載されているのだが、著者自身の写真と思しいものはすべて顔面が、漫画を貼り付けてある。何かあると自分の写真をサイトに掲載しているMorris.とは対照的である。

けれど、本当にびっくりしてしまうのは、変わる、変わらない以前に、行ったことのある場所は自分が去ってしまった後でも、ちゃんと存在しているということです。
めちゃくちゃ当たりまえのことだけど、旅行者が去ったところで、その場所が消滅してしまうワケではないのです。
楽しかったり、美しかったりした記憶の風景が、現実の風景に踏みにじられてやしないかと心配で、好ましい記憶の温存のためには二度とその場所へ行かない方がいいとさえ思うくらいです。
けれど、記憶の風景に再び足を踏み入れるという行為ほど、(たとえガッカリすることになっても)自分と、世界のつながりと、時間のつづきを実感できるものはありません。
また、再びの旅行者には、それを知ってびっくりできるという特権があるのです。これを読まれているあなたにも、そんな権利を持って行ける場所があるはずです。そこが遠い異国であっても、ほんの隣町であっても、再びの旅はきっとあなたを驚かせてくれるでしょう。(あとがきより)

やっぱり旅をワカッテル人であることは以上の短い引用でもわかるだろう。
再びどころか、再々々々々々と韓国ばかり行ってるMorris.には、何故か軽い叱咤の言葉のように聞こえるのはどうしてだろう?


ぼくの音楽人生】服部良一 ★★★日本歌謡曲の作曲者の中で一番好きかもしれない服部良一の自伝で、昭和56年頃に出版され、その10年後に息子(服部克久)の回想や写真を加えた新版が出された。Morris.は前に一度読んだ記憶があるが、今回新版の方を読み返して、改めて彼の才能と、人脈に感心した。
副題に「エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史」とあるとおり、戦前、戦中、戦後を通じて、日本のジャズ音楽とミュージシャンの交友を、闊達に話している感じで、これはたぶん、プロのライターによる聞き書きが骨子となっているのだと思う。
筆者の好き嫌いや、身勝手、身びいきなどが目に付くが、嫌みにならないのは人徳というものだろう。
やはり笠置シヅ子との交流の部分が一番印象に残る。
「東京ブギウギ」の録音時に米兵が多数見物に来て、雰囲気を盛り上げた話や、昭和26年「二千曲記念ショー」大阪公演のフィナーレで、妹の服部富子や笠置シヅ子、渡辺はま子、淡谷のり子などが、突然ラインダンサーとして登場したエピソードなどは、こちらまで楽しくなってくる。
本書を読んでますます笠置シヅ子が好きになった。


昭和が明るかった頃】関川夏央 ★★★★ 雑誌「諸君」に連載された「吉永小百合という物語」に加筆し、再構成したもの。Morris.は同世代である筆者の、このての作には、すっかり傾倒してしまっている。本書では、石原裕次郎と吉永小百合の2大スターを中心に、日活に代表される、1960年代の一時期の日本映画を論じながら、当時の世相と日本人の生き方を浮き彫りにしている。その手際も堅実ながら、実に体感できる作となっている。ますます彼の実力を思い知った。

これは映画の本ではない。映画ファンのための追懐の本ではない。高度成長前半期の歴史とその不思議な時代精神を記述するために、もっとも時代に敏感であった映画、とくに石原裕次郎と吉永小百合というスターを擁して、当時の思潮を「知識人」とは無縁な場所で、しかし強力にリードするかのようであった日活映画を、あえて私は材料にとったのである。(あとがきより)

それほど映画少年ではなかったMorris.でも、二人の出演した映画はそこそこ見ている。そして、関川のいう通り、彼らの作品は名作と言うべきものはあまりない。特に70年代以降は皆無といって良いかもしれない。それなのに、二人が永遠?にスターとして神格化されていることについても明確な分析がなされている。

「清純派」が一代の流行語となり、日本中に「サユリスト」の群れが生まれた。その結果、一種の冒しがたさの空気をまとった「吉永小百合伝説」がつくられた。「伝説」は「団塊の世代」と、それより少し歳上の男たちにになわれ、時を超えて現在まで運ばれた。現実には1965年以降はほとんど一本のヒット作をも持たないにもかかわらず、吉永小百合はいまだ神話的な存在でありつづけることが許されているのはそういう歴史的事実の重たさに較べ、その全盛期がわずか二年半にすぎなかったと知るとき、あらためて意外の念に打たれるのである。
それは彼女が十七歳になったときから十九歳なかばまでにあたった。日本は高度成長の道を歩き、国土に建設的破壊の槌音がたえることのない一時代だった。


あの時代に青春時代が重なり合うMorris.ら団塊の世代は、今や、壮年から老年にさしかかろうとしている。青春時代が当事者にとって美しいものとばかりは限らないが、かけがえのない一時期であったことは確かだし、同世代者の達弁にはついつい耳を傾けざるを得なくなる。関川のこういった作品をを読むことは、Morris.にとっては他人が書いてくれた自分の日記を読むような気にさせてくれるのかもしれない。


超短編アンソロジー】本間祐 編 ★★★ 本文205pに97編が掲載されている。短いものは1行。長くても数百字という、短さが売りの、短文をわざわざ「超短編」などと言挙げするほどのものでもなさそうだが、編者はインターネットに、適した表現形式だからと、自分のホームページで自作を披露したりしてるらしい。
「超短編」というネーミングは、英語のSuper Short Storyの直訳らしいが、センスないと思う。
ラテンアメリカでこのての作家が輩出しているらしいが、大元がボルヘスだと言われるとなるほどとうなずける。
編者が称揚する「超短編」の傑作として紹介されている、ホンジュラス生まれの作家、アウグスト・モンテローサの作品「ディノザウルス(恐竜)」の全文。

目がさめると、まだディノザウルスはそこにいた。


こんなのが、最高だの、傑作だのというのは、ちょっと違うよなあ。
しかも、わざわざ最初から、この「超短編」を目指して?創作に励むというのは、本末転倒のような気がする。
小説、詩、神話、狂詩、狂歌、歌詞、寓話、童話、童謡、アフォリズム、エッセイ、辞典、日記、落語などさまざまなジャンルから選択できるノンジャンル性が、特徴だというが、古今東西の、さまざまなジャンルから、短くてきゅっと突き刺さるような部分を摘出したらそれでいいのではないか。
Morris.も短いものは好きだから、それなりに楽しめるものがあったことは否定しない。
それらも、こういったアンソロジーで読むべきではないようだが。


【文壇】野坂昭如 ★★★ TVタックルなどで、ほとんどボケ老人化してる野坂の本を読むのは何年ぶりだろう。本書は彼の文学的(文壇的?)回想録みたいなものだが、ぞろぞろぞろぞろ、周知の作家が登場する。三島由紀夫が、野坂の作に反応を見せそれなりの親交があったことに今更ながら驚いたり、丸谷才一が先輩にあたり、色々教えを受けたり影響を蒙ったりしてることなども興味深かった。しかし、本書でも彼の韜晦ぶりは遺憾なく発揮されているようで、そのまま鵜呑みにするわけには行くまい。
それはともかく、Morris.の野次馬根性を満足させる一冊ではあった。


戦時下のレシピ】斎藤美奈子 ★★★★☆ 岩波アクティブ新書の一冊で、20002年8月9日発行となってるから、やっぱり終戦(敗戦?)記念日を当てこんでの企画なのかもしれないが、斎藤美奈子フリークのMorris.としては、彼女のものなら、何でも読むことに決めているので、これも迷わず手にとった。そして、期待は裏切られなかった。見返しに白黒で小さいながら、著者近影があったので、初めて彼女の顔を認知できた。ショートカットで丸顔、どんぐり眼だが、なかなか親しめそうな容貌である。そんなことはどうでもいいのだろうが、ついつい気になってしまう。
「太平洋戦争下の食を知る」という副題は、多分編集部がおざなりにつけたとおぼしいが、要するに、太平洋戦争直前、戦中、戦争直後の日本人の食生活を、婦人雑誌の料理記事を引用しながら、全体像を把握すると言う試みで、きっちりレシピが載ってるから、今現在、再現することも可能というのが嬉しい。かな??
カラーグラビア16pに、主要婦人雑誌の表紙、レシピから再現した料理、食用雑草図鑑、戦時下の食生活グッズなどの画像があり、これはこれで、まあ楽しめる。
「戦争直前」「日中戦争下」「太平洋戦争下」「空襲下」「「焼け跡]の五部構成で、それぞれの特徴を端的にあらわしてるメニューが、勢ぞろいしている。
それだけでも興味深いのだが、そこに美奈子流の鋭い考察、分析、解釈がつくのだから面白くないわけがない。
戦前の農村と都会の食生活のギャップなどもきちんと押さえてあるし、当時の婦人雑誌の料理ページの畸形化も見逃していない。

米もまともに食べられない農村と、多彩な食品が手に入る都会。戦争になってしばらくたつと形勢逆転。都会からは食物が消え、自給自足の農村には食物が残っている、という皮肉な事態になるのだが、戦争前にそんなことを予測していた人はだれもいなかった。
ものがなくなった戦争中にも、婦人雑誌には、とんでもなく手間のかかったレシピが登場する。----平和な時期から主婦の心に叩き込まれた「栄養」と「愛情」という二つの呪縛。そこのところがわかっていないと、戦争中のレシピはひどく奇妙に見えるだろう。

戦争と米不足の関連についても、納得いく説明がなされているし、配給のひどさ、闇に頼らざるを得ない状況なども、明快に述べてある。
時期ごとのレシピも引用したいもの、山盛りであるが、やはり本書は、是非、皆さんにも手にとって読んで、作っていただくという観点から、省略して、あとがきの一部を引いておく。

戦争の体験手記を集めた『暮しの手帖96 戦争中の暮しの記録』が出版されたのは1968年の夏でした。当時、小学生だった私は、この本にいたく衝撃を受け、はじめて戦争をリアルに感じたことを、いまでもときどき思い出します。
このような題材は、とかく感謝や反省の材料に使われがちです。「いまの豊かな生活を感謝しましょう」「いまのぜいたくな暮らしを反省しましょう」というわけです。しかし、当時の暮らしから、耐えること、我慢することの尊さを学ぶという姿勢は違うような気がします。こんな生活が来る日も来る日も続くのは絶対に嫌だ!!そうならないために政治や国家とどう向き合うかを、私たちは考えるべきなのです。

いつになく生真面目な美奈子さんがいるが、それにしても、こういったテーマでも、面白く、わかりやすく、そしてMorris.を唸らせるにたる作物に仕上げる彼女の手管(^○^)には舌を巻くしかない。
Morris.はもともと、戦前の婦人雑誌の料理付録本大好き人間なので、親しみやすい部分が多かったとはいうものの、本書を見た直後に、部屋で、残り物の雑炊作ったとき、えらく贅沢な料理のような気になってしまったよ。


幸福の軛】清水義範 ★★★☆ パスティーシュものを中心に、何でも書くといった感じで、書きまくってる作者だが、Morris.は初期の「蕎麦ときしめん」があまりに面白かったので、その後の作品はどれも物足りないことが多く、特に「蕎麦ときしめん」の自己模倣的な作品群にはげんなりしてる。
ただ、この人はときどき、全く毛色の違った長編に挑戦することがあり、その中のいくつかは、なかなか面白かったりする。
本書も中学生のいじめ、暴力、落ちこぼれ、登校拒否などをテーマにした長編で、大学助教授で臨床心理士の若い魅力的な主人公の人間愛と分析の鋭さ、心の傷ついた子供達とのふれあい、その他やはり心の悩みを持つ若い女性へのケア(愛情に変わる)、連続殺人事件のおきる中学校の先生や父兄、雑誌記者や、刑事などとのふれあいが、綿密に書かれながら、ストーリーの展開は速くて、すごく読むのも速くなってしまった。
子供と両親の関係が、その後の性格形成に大きな関わりを持つと言ったあたりまえのことも、この主人公が語ると実に説得力をもって迫ってくる。
うーーん、これは畢生の傑作ではないかと、読み進めたのだが、おしまいの、大どんでん返しで、すべてがはちゃめちゃになってしまった。それはないよな。


大江戸美味草紙(むまそうし)】杉浦日向子 ★★★☆☆ 漫画をやめた後、雑誌「VISA」に連載したもので、食い物に関連した川柳をあしらって、江戸の食べ物漫筆めいたコラム集だが、彼女の江戸への愛着が遺憾なく発揮されているうえ、ここかしこに薀蓄が披露されていて、まるでそのまま上質の江戸随筆を読まされているような気になった。
本当に彼女が漫画の筆を折ったのは、もったいない。
もちろん文章だってなかなかのものだし、学識も考証もそれなりにすごいと思うのだが、Morris.はやっぱり、彼女のあの江戸漫画を読みたい。
ところで、Morris.は以前から才媛好みだが、最近いちおしの斉藤美奈子を始め、倉橋由美子、富岡多恵子、金井美恵子、西原理恵子と、なんか、Morris.の好きな女性作家には、漢字3文字の名前が多いような気がする。
本書のなかから、薀蓄をいくつか引用する。

むかしから、丑の日には「う」のつくものを食べると縁起がいいといわれていた。つまり「梅干し」でも「瓜」でも「うのはな(おから)」でもいいわけなのだが、いつのまにかうなぎの独占市場となった。

ちなみに、野菜に衣をつけて揚げた場合は、精進揚げか、単に揚げものと、はっきり区別する。天ぷらは、調理法ではなく、魚貝の揚げものを示す名詞だから、レンコンの天ぷらといったものは存在しない。野菜天といういいかたは、そば粉のうどん、鶏肉のトンカツというような無理があり、アイスクリームの天ぷらなど論外である。

ところで、「田楽」とは、もともと、その名の示すとおり、田植えに舞う、豊作祈願の農村芸能であり、高足と言う、一本の竹馬に似た棒につかまって、ホッピングして踊るものだ。その様子が、まるで人が串刺しになっているように見えるので、後に串刺しのことを田楽刺しと洒落た。

江戸では万事この調子。学究心じゃなく好奇心、良い悪いじゃなく、好き嫌い。珍しいもの、面白いもの、新しいものには、なにはさておき、まず飛びつく。


食のほそみち】酒井順子 ★★★ 「週刊小説」に2000年から2年間連載されたコラムの集大成で、タイトル通り、彼女の好きな食べ物や、嗜好、料理、食事に関するおしゃべりなのだが、「観光の哀しみ」で感心したほどの出来ではなかった。それでも、それなりの芸風を持ってるコラムニストではあるなあ。
食に関しても、超グルメでもなく、無関心でもない、という中庸の徳を遺憾なく発揮するあたりはただものではない。
発表誌の関係か、全体的にやわらかめというか、毒にも薬にもならないようなものが並んでいるが、納豆は小粒にかぎるとか、餡はこし餡にかぎるとか、しゃぶしゃぶのゴマダレポン酢の選択に懊悩するとか、鍋には豆腐は不要とか、ともかくも、どうでもよさそうなことを、いちおう読ませるところまで仕立て上げるという能力と努力は評価しよう。
たとえば「食べ放題の煩悩」という章で、若いときの「わんこそば」体験、「ケーキ食べ放題」経験から、日本人の心理にまで分け入ってみる。


しかしおそらく私達の身体のどこかには、たとえもっと食べたくても「食べたい」と言わないで生きてそして死んできたご先祖様達の思いが、今も残っているに違いないのです。だからこそ、食べ放題を前にすると、「こんなことをしていいのだろうか」「いやいけないに違いない」「でも食べたい」「えーい喰っちまえ!」といった思いが錯綜し、やがて「思いっきり食べたい」という煩悩に身をまかせる瞬間、先祖から引き継いだタブーを破る快感が身体を突き抜ける----。
食べ放題の場とは、「食の新宿歌舞伎町」のようなものなのです。性産業よりどりみどりという歌舞伎町を歩く男性の嬉しいような困ったような顔と、食べ物よりどりみどりという食べ放題会場でいざ食べん、と皿を持って構えている人の顔は、とてもよく似ている。そして、いよいよ風俗店に入っていく男性の顔と、いよいよローストビーフ(例)にとりかかろうとする人の顔も、ちょっと言い訳したそうな表情が共通している。


ね、なかなか上手いぢゃありませんか(^○^)


季刊 本とコンピュータ 2002冬号】★★★☆☆ この雑誌は時々しか見ないし、見るのはかなり遅れがちなのだが、それでも、うーむと唸らされるような企画が目白押ししている。この号では、2002年10月オープンした国会図書館関西館と電子図書館http://www.ndl.go.jp/の紹介、黄金時代の雑誌編集長の座談会、「本とコンピュータ」ウェブサイト全解剖http://www.honco.jp/
グラフで見る「本とコンピュータの世界」、検索サイトGoogleに頼りすぎるなとか、それぞれ見るべきものが多い。中でも「コンピュータ嫌い」特集は黒崎政男編集で、SPレコードと手巻き蓄音機、ライカカメラと引き伸ばし機、イコン、手彩色本などなど、お得意の骨董趣味を披露しながら、例の「デジタルを哲学する」の主旨に沿ってMorris.にも納得のコンピュータ論が繰り広げられていた。


電気菩薩 上巻】根本敬 ★★毒毒 根本敬、湯浅学らの幻の名盤開放同盟はかねがね畏敬している集団である。あの名著「ディープコリア」なくしてイパクサとの出会いもなかったことを思うと、実に偉大な先達であり、恩人でもあるわけだが、「因果鉄道の夜」や本書を読むと、お近づきになるのは二の足を踏みそうになるな。本書の副題「豚小屋発犬小屋行きの因果宇宙オデッセイ」となっている。
著者自身が相当な御仁なのに、その彼が、スゴイと思う「一線を超えた」存在の方々の行状記、というか福音書みたいなものということになるだろう。
登場するのは、唄う在日不動産川西杏、フランス女性を食った佐川一政、切れてるAV素人男優亀一郎、淫乱という衣装を着たママ野際、サイケデリック平やん、畸形人間蛭子能収---これだけで上巻541p。さらに下巻では、地獄楽な勝新太郎、行き行きて神軍の奥崎謙三、どこに行っても犬に吠えられる橘安純なんてのが控えているらしい。下巻なんて読めるのだろうか。Morris.はすでに上巻でほぼ昇天しそうである。
こういった因果者ワールドには、絶対足を踏み入れてはならない。でも、怖いもの見たさってあるよなあ(^_^;)
根本敬の漫画も文章もずるずるとその世界に引き込む魔力みたいなものを発揮してる。


ソウルの大観覧車】橋口譲二・写真 山口文憲・文 ★☆ 1986年刊の本である。つの笛階段の百円均一で見つけた。こんな本が出てたなんて全く知らずにいた。山口文憲といえば、香港というイメージが強い。「香港・旅の雑学ノート」はMorris.も感心した覚えがある。その彼がこの時期に韓国関係の本を出したというのが、意外でもあり、つい買ってしまったわけだ。
内容的には、平凡社の編集部があつらえたお手軽企画で、もちろん韓国語など全く出来ない著者が、通訳付で行なった、韓国人17人へのインタビューを収めている、全く面白くも何ともない本だった。
70〜80年代のエキセントリックな女性歌手ユンシネとのインタビューが含まれていたので、期待したのに、尻切れトンボも甚だしい(怒)。なんせ、たった3pだもんな。
写真のほうも、インタビューとは無関係ながら、街の韓国人のスナップめいたもの中心で、これまた何ということのないつまらないカラー写真で。二日続きの読書の無駄体験(前日ユリイカ03年4月の日本語特集を読み飛ばす)をしてしまった気がする。
唯一意味があるとすれば、Morris.が初めて韓国を訪れた88年の直前のソウルの姿を垣間見ることが出来たというくらいだろうか


太鼓たたいて笛吹いて】井上ひさし ★★☆☆ 林芙美子の昭和10年から26年までの16年間の8つのシーンごとに、当時の世相と芙美子の係わり合いを、少人数の知り合いの掛け合いで描いていくもので、レコード会社社員の三木という男が狂言回しの役を果たしている。
劇中やたら歌の挿入が多く、井上ミュージカル風でもあるが、全体的に面白みに欠けている。
芙美子の時代観、特に戦争との対峙に力点をおいているようだが、このところ、作者の戦争批判の型がマンネリ化しているような気がする。
芙美子の死の2ヵ月後「放浪記」を取り上げたラジオ放送の紹介アナウンス

林さんほど、たくさんの批判を浴びつづけた小説家は珍しいでしょう。文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そしてシナ事変から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。
しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした。弱った心臓をいたわりながら徹夜の連続---その猛烈をきわめた仕事ぶりは、ある評論家に、『あれは一種の緩慢な自殺ではなかったか』と云わせたほどでした。

という言葉に芙美子の小説家生涯を集約しているが、この原稿も、狂言回しの三木が書いたというのが最後のオチになっている。
大竹しのぶ主演で公開されたらしいが、これはあまり見たいものではないなあ


戦中派焼け跡日記】山田風太郎 ★★★☆☆ あの圧倒的「戦中派不戦日記」の続編ということになる。昭和21年1月1日から12月30日までの若き風太郎の日記だが、昭和20年一年間の不戦日記が昭和46年(1971)に、風太郎自身の意志で出版されたのとちがい、本書は2002年、つまり、風太郎が死後に公刊されることになったということは、風太郎はこの日記を公開する気はなかったのかもしれない。
確かに不戦日記に比べると大きな事件も少ないし、緊張感もややゆるみ気味である。しかし、風太郎ファンのMorris.は、30年ぶりに、続編を読むことが出来て嬉しかった。
当時としては、医学生としての身分もあり、比較的恵まれた境遇にあったといえるだろう。よく映画を見てるし、酒もタバコも潤沢とはいえないまでも、結構消費している。
小説家たらんという強い意志ではないが、習作をいくらかものにしていく過程も書かれている。
敗戦、民主主義、アメリカへの不快、嫌悪はずっと持続しているが、生来の虚無主義からの発言も多い。東京裁判への皮肉な眼差しも、天皇へのアンビバレンツな感情も、文学への厳しい注文も、ソビエトへの怒りも、すべて若い風太郎にとっては、真摯な精神の発露だったことは間違いないだろう。

劇場では英国映画『ウェヤー殺人事件』とにほん『喜劇は終りぬ』をやって行列が長い。後者は「軍官の内幕を曝いた痛烈なる風刺映画」と銘打ってあるが滅びゆくものを鞭打つのは「諷刺」ではなくて「卑怯」である。諷刺という言葉が使いたければ、マッカーサーの圧制でも描いて見るがいい。(1月14日)

映画はフランス映画を第一とするタイプらしいが、米英、日本の映画にも、こういった批判的見方をしているのが、風太郎らしい。

日本は決して「自由」も「平和」も獲得していない。客観的情勢は冷酷に、日本のゆくてに暗い寒ざむとした墓場を示している。このことを、日本人が明確に、徹底的に知った時でなければ、日本は再起出来ないであろう。
自由と平和は、自分でつかむべきものであって、決して与えられて享楽出来るしろものではないのだ。(2月4日)

自分勝手の意見を輿論だという。宣伝の手段であろうが、共産党のこういう態度はカンに障る。独善的なところが国粋主義者とよく似ているのは考えさせられる。(3月17日)

真理は無限にある。「真理は一つである」などという言葉は人間精神を侮辱するも甚だしい。(5月11日)


兵役に就かなかっただけに、内心忸怩たるところもあったのだろう。敗戦の後、戦争を肯定こそしないものの、戦争=悪という図式的な論には組しない立場を貫いている。

この巨大な宇宙の中に、二人の母と子が、二人の男と女が、互いに愛し合って死ぬる。---果してそれが何であるのか。死んでその愛が世界の何処に残るのか。相愛の化合物として、子が生れ、子は育つ。しかし、それは愛そのものではない。それでは愛は手段であって目的ではない。哲人が力説する人生の至高の目的ではない。一体、至高の光たる愛そのものは、何処に消えるのか。
空しいことである。人間の生活は実に小さな、惨めなものである。俺は母を失ったことを大きな不幸と考えていた。しかし、今となっては、母が生きていて、暖かい愛の交流が俺の身体を取巻いていても、それが果して何であろうかという気がする。(7月6日)

星の形容を「銀沙を撒いたような」とか「降るような」とかいうが満天の星を見ていると必ずしもこれらの形容詞が適当でないように思った。しかるに吾々はこういう点から打破してゆかなくてはならない。(8月22日)

俺は、医学、文学、絵画、女、映画、酒、食うこと、眠ること、日の光、雲の姿、ぼんやりしていること、考えること、喋べること、----あらゆる事象、心象に完全に無感動である。この傾向は数年来のことであるが、時と共にだんだん深刻に、救われないものになって来る。死?死にすらも興味はない。況んや宗教などにも科学の洗礼を受けたものには興味はない。(科学と宗教---いわゆる既成宗教とは両立し得るとの論のごときはひっきょう付会である。痴人のたわごとである)俺はこのまま精神的廃人となり下がるのであるか。なり下がる? 俺は、学んだり、書いたり、抱いたり、見たり、飲んだり、食ったり、眠ったり、光を愛したり、ぼんやりしていたり、考えたり、喋べったり、恐怖したり、信じたりすることなどより、廃人の方がずっと高尚な趣味だと考えている。
「命も要らず名も要らず」と西郷隆盛は言ったが、恥を知らぬ人間ほど始末に終えぬものはない。人類中での最強者は恥を知らぬ人間である。(10月5日)


このころにはどんどん、アンニュイと虚無感に囚われていくようだ。

探偵小説はもとより余技なり。余は、生涯探偵小説を書かんとはつゆ思わず。歴史小説、科学小説、諷刺小説、現代小説、腹案は山ほどあり。唯、今は紙飢饉にて新人の登場容易ならざる時代なれば、現役作家といえば、江戸川、大下、海野、木々、水谷、城、角田、渡辺等十指に達するや否やの人数なる探偵小説界に医学的知識を利用してその十一人目に加わらんと欲するのみ。(12月22日)

この年の終りには、小説家としてやっていこうという気持ちによほど傾いているようだ。翌年にはデビューを果たすことになる。


知的武装講座】一橋ビジネススクール ★★★ 一橋大学大学院商学研究家グループ4人がプレジデントに連載された特集記事を再構成したものである。Morris.の読書傾向からいうと、こんなのはまず読まないのに、どうした風の吹き回しなのだろう。魔がさした、というべきか。たまには気分を変えてみたかったのかもしれない。
内容は四部構成。
1.日本企業の経営課題/伊丹敬之
2.企業価値を創造する経営戦略/伊藤邦雄
3.人と組織を活性化させるための戦略的課題/沼上幹
4.複雑化する金融・為替を理解する/小川英治
「経済音痴」を自負するMorris.だけに、ほとんど理解できなかったし、専門用語(実は基本語)でも分からないものが多い。
特に最後の金融関係はまるで理解不能だった。
辛うじて理解できた(ような気がする)のは、3部の組織論の一部のみ。

そもそも人間は、目の前に大量のルーチンワークを積まれると、その処理に追われ、創造的な仕事を常に後回しにしてしまう傾向がある。創造的な仕事とは、仕事のやり方自体を根本から変えるとか、長期的な展望を描いてみるといった作業のことである。「ルーチンワークは創造性を駆逐する」ハーバード・サイモンの言う意思決定のグレシャムの法則である。つまり、日々ルーチンな仕事に追われている人は、ルーチン的な仕事の処理に埋没して長期的な展望とか革新的な解決策とかを考えなくなってしまう、ということである。膨大なルーチンワークが存在し、それに追われている状況というのは、背後に何らかの構造的な要因があることを意味しており、本当は何が本質的に問題なのかを考えなくてはならないはずなのに、それを考える余裕がない。「貧乏ヒマなし」だから「貧すれば鈍する」のである。

マズローの欲求階層説
1.生理的欲求→2.安全・安定性欲求→3.所属・愛情欲求→4.承認・尊厳欲求→5.自己実現欲求
(この説の)人気を支えている理由は二つある。一つは、豊かになるにつれて徐々により高次の欲求が重要になっていくという欲求の階層制が直感的にも経験的にも理解しやすいことであろう。
もう一つの理由は、自己実現という考え方が美しくて、しかも安いということである。低次の欲求から徐々に高次の欲求へと進歩していく人間、あるいは猿から超人へと向かっていく人間というイメージは前向きで気高く美しい。しかも、各人が勝手に自己実現しようとし続けてくれるので、人事の担当者が世話を焼かなくてもよい。金銭的インセンティブとも無縁だから給料を上げる必要もない。従業員が勝手に仕事で自己実現してくれるなら、会社にとっては安上がりなのである。


こういった欲求による人間論は、むしろ啓蒙書や自己啓発書(これらもMorris.は苦手とする分野)に多く論じられているが、本書ではそれを経営側から分析しているところがちょっと面白かった。でも、やっぱりMorris.と経済、経営は、ミスマッチのようだ。


憧れの名句】後藤比奈夫 ★★★☆☆NHK俳壇の本と銘打って、テキストに毎月掲げた看板企画の名句を一冊にまとめたハードカバーの美麗な本で、96pまではカラーで、これまた美麗すぎるくらいのカラー写真80点が置かれ、それに即した名句390句が散りばめられている。
後半の白黒200pでは、各句の簡単な解説も載ってるので、俳句初心者には勉強になる。愛好者は、我が愛唱句の幾ばくが選ばれていることに安堵したり、選ばれてないことに不満を持ったりするだろう。
実作者ともなれば、自分の師匠筋や結社関係の句がどのくらい選ばれてるか気になるだろうし、自作が一句でも取り上げられているくらいの俳人ともなれば、その一喜一憂は大変なものだろう。
したがってこういった類の選者はものすごく気を遣わざるを得ないだろうなと、つい、余計なことを思ってしまった。
本書の著者、後藤比奈夫は、大正6年生まれだから、まあ年齢からしても俳壇の重鎮といえるだろう。しかも父が後藤夜半という有名な俳人だから、あまり文句の出ないところかもしれない。その著者にして前書きにこんなくだりがある。

私の父、後藤夜半に、「瀧の上に水現れて落ちにけり」がある。作った時は誰からも省みられなかったが、一度虚子の推輓を受けるや否や、俳句自身みるみる頭角を現わし、それが今に続き、「瀧の夜半」などと言われるようになった。不朽の名作などと言って下さる方もあるが、名作と名句とも少々違いがあるように思われる。身内のこともあって、本著には再録していない。

うまいこと、父の代表句を紹介してるような気がしないでもないが、しっかりと本書には後藤夜半の句は8句が選ばれている。12月の棹尾にも、しっかり夜半の「あをあをと保護板市の矢来かな」を置いてるあたりは、なかなかの孝行息子ぶりである。

ちなみに5句以上選ばれている俳人は

・阿波野青畝(7)・一茶(5)・大野林火(6)・川端茅舎(5)・後藤夜半(8)・高野素十(8)・高浜虚子(18)・高浜年尾(5)・中村草田男(6)・中村汀女(5)・芭蕉(9)・福田蓼汀(5)・蕪村(8)・星野立子(8)・正岡子規(5)・松本たかし(7)・水原秋桜子(7)・山口誓子(5)・山口青邨(8)

の19人である。巻末に作者名別五十音順索引というのがあったからこうやって数えることが出来たのだ。いちからチェックする根気はMorris.には無い。
とにかく、虚子の18句というのが、効いてるよなあ(^_^;)だいたい、これでNHK俳壇の雰囲気が分かってしまう。つまりはホトトギス系なんだろう。

長谷川櫂は「春の水とは濡れてゐるみづのこと」一句のみしか採られていないが、本書の中では一番目立っているように思えた。個人的には、偏愛している黒柳召波の「憂きことを海月に語る海鼠かな」があったのには、ほっとして嬉しかった。
逆に角川春樹の句が一つも無かったのは物足りなかった。父、角川源義の「花あれば西行の日とおもふべし」は採られていたけどね。

さすがにこれくらいの厳選句集となると、Morris.でも半数は衆知の句だった。
本書で初めて括目させられた句を引用しておく。

新年の謎のかたちに自在鉤 平井輝敏

なまけものぶらさがり見る去年今年 有馬朗人

熱燗や性相反し相許し 景山筍吉

今日何も彼もなにもかも春らしく 稲畑汀子

初蝶は影をだいじにして舞へり 高木晴子

さくら散る日さへゆふべとなりにけり 樗良

てぬぐひの如く大きく花菖蒲 岸本直毅

日輪を送りて月の牡丹かな 渡辺水巴

青梅に眉あつめたる美人かな 蕪村

磨崖仏おほむらさきを放ちけり 黒田杏子

水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり 三好達治

虹二重神も恋愛したまへり 津田清子

飛込の途中たましひ遅れけり 中原道夫

涼しさは淋しさに似て夜の秋 藤松遊子

恋さまざま願ひの糸も白きより 蕪村

秋風や書かねば言葉消えやすし 野見山朱鳥

人の行く方へゆくなり秋の暮 大野林火

徒歩(かち)ゆくや花野の絵巻巻くごとし 伊藤敬子

鮎落ちて美しき世は終りけり 殿村菟子

みかん黄にふと人生はあたたかし 高田風人子

枯菊と言捨てんには情あり 松本たかし

くれなゐの色を見てゐる寒さかな 細見綾子


一日一書02】石川九楊 ★★★ 京都新聞に2002年1月1日から一年間連載した写真コラムを集成したもので、休刊日のものも追加して365編が日付順に並んでいる。「02」とあることからも分かるように、2001年から連載開始で昨年その第一冊が出て、Morris.はこれを大阪旭屋の4Fで立ち読み(ほとんど写真の「書字」だけだけど)して、いたく感心したことを覚えていたのだった。
例の「書の宇宙」の版元、二元社から出されているだけに、本書の「書」の写真もカラーで、これはすごくいいことだと思う。墨色や紙色、存在感が格段に違う。著者の「書」に関する選択眼と学識、鑑賞力も群を抜いたものとかねがね畏敬してきただけに、それぞれの書字が粒揃いで、ヴァラエティに富み、150字前後の短文コラムなので、技法や魅力のポイントを凝縮したコメントも堂に入ってわかりやすいものが多い。
朝日の大岡信の「折々の歌」とは一味違った楽しみを味わえるコラムとして人気があるだろうことも想像に難くない。
漢字の膨大な数からしても、世に残されている名品の数から言ってもネタ切れになる心配は全くなさそうだし、延々と続く可能性のある企画かもしれない。実にうまいことを考えたものである。
著者は書家である上に文章にも一家言、二家言あるタイプだし、それなりに評価していたのだが、最近とみに、ワープロ、パソコン批判に傾くあまり、狭量とさえ思われる発言が多すぎて、Morris.はちょっと閉口気味なのだが、本書のコラム中にも、ステロタイプな攻撃発言が目についた。

ワープロ、パソコン時代になったから、書けなくとも読めればいい--は、格闘ゲームに強いから格闘に強いというに等しい虚実を混同した悪い冗談。この錯覚が、近年日本語力の極端な低下を招いている。書けなければ使えはしない。(2/24)

この件については前にも書いたから反論は止めておくが、それ以外の日々の事件や世相についての著者の感想は、決め付けが多く、それも何となくピント外れのものが多い。そんなしょうも無いこと書くくらいなら、わずかの文字数しかないのだからせめて半分くらいは文字に関して書いてもらいたいものだ。
一番呆れてしまったのは9月1日「震災記念日」のコラムだった。全文を引用する。


大正十二年の今日、関東大震災、M7・9、死者十四万人、負傷十万人。神戸大震災、M7・3、死者六千人、負傷四万人。戒厳令、非常徴発令で即座に対応、市民活動を制限し被害を拡大した東京と、有事法なく市民の自由な創意、工夫、協力で復興した神戸。国家的対応が遅く、民の声を聞く村山首相で実はよかったのではないだろうか。
顔真卿の送裴将軍詩の<震>。


「震」という文字を掲げて、説明は作者出典のみ。というのはあんまりではないかということは、ともかく、Morris.が呆れたのはもちろん、その前の暴言(妄言?)である。
二つの災害の死傷者の数だけをあげつらって、彼我の比較をするということ自体、杜撰に過ぎる。両震災の時代背景、罹災時刻の違い、その他諸々の状況の差違をを無視しての、この発言に、どれほどの矛盾や誤謬があることか。神戸地震の被災者としての物言いばかりではないつもりだ。
これの元原稿は、ともかくも著者自身の「手」で書かれたのだろうし、新聞に掲載するからには、編集の校正もあったろうし、本書に再掲載する時にも加筆訂正の機会はあったろうし、それで、こんな「ゴミ」みたいな文章を公刊してしまう神経というのはすごいと思う。
今回の★マークは、引用されている「書」自体への評価であり、コラムへの評価ではないことを、明言しておこう。Morris.はケンカ売ってるよな(^_^;)
どうせ買ってはもらえないだろうけど。


ソウルに消ゆ】有沢創司 ★★★ 92年の日本推理サスペンス大賞(よく知らないが)受賞作とのこと。韓国がらみの小説は割と手を出すのに、これは何故か目につかなかったのか、10年以上も後に読むことになった。舞台はさらに前の88ソウルオリンピックのソウルで、オリンピック取材の日本の新聞社の記者と、通訳でありながら、KCIAともつながりを持つ美女ミス・ユン、国際的事件に絡んで行方不明になった日本人記者、そして、世紀の対決といわれた、カール・ルイスとベン・ジョンソンの対決が事件の大きな焦点となるという、なかなか面白そうなストーリーだった。さらにハングルを使った暗号まで出てきて、当時としては、相当に韓国に踏み込んだ作品と思える。
しかし、主人公を初めとした登場人物がぎくしゃくしてるし、作り物めいた行動が多く、謎解きもほとんどが、ミス・ユン+KCIAからもたらされるばかりで、主人公は単なる狂言まわしになっている。暗号の部分で。ベン・ジョンソンの「ベン」がハングルで「ペン」になってるので、主人公が「ペン=マスコミ」と誤解するところなどは、近くにいて暗号を見ている韓国人のミス・ユンが気付かないのは不自然に過ぎるし、難点の多い作品ではあるが、当時としてはそれなりに評価できたのではないかと思う。


脱文学と超文学】斉藤美奈子編 ★★★☆ 岩波の「21世紀文学の創造」シリーズの第4巻らしい。Morris.はこのところ、岩波アレルギーだが、斉藤美奈子の名前だけで手に取ってしまったよ。
斉藤美奈子の前書きめいた「「文学史」を蹴っ飛ばせ」を始め、9編の小論が掲載されている。面白かったのは前書きとあと2,3編だった。

「文学」と聞いて思い出せるのは、小説、詩歌、随筆、戯曲----まあそのくらいです。それでも詩歌や戯曲が出てくればまだ上等で、現在の状況では、文学≒小説といっても過言ではありません。であればこそ「文学は衰退した」「文学は死んだ」といった台詞がまことしやかにささやかれもするわけですが、しかし、はたして文学≒小説という概念は絶対的なものなのか。参考までに、明治末期の修辞学書『作文講話及文範』(芳賀矢一、杉谷代水著、冨山房、明治45)には、「美文」の例として、次のようなジャンルが列挙されていました。
歌(短歌・長歌・今様・狂歌)・俳句(発句・俳諧)・川柳・詩(古詩・律・絶句・偈)・新体詩(新体詩・唱歌)・謡いもの(催馬楽・東歌・宴曲・小唄・長唄・俗歌・童謡等)・小説・伝奇・御伽噺・脚本・歌劇・浄瑠璃・謡曲・狂言・小品文・紀行(或種の)・随筆(或種の)・その他美観を主とするもの。
イコール「文学」とはいえないまでも、しかし、これらが「文学」以外の何かといったら「?」なわけで、やはり「文学」に分類するしかありません。率直にいって、いまとなっては「死んだ(死なないまでも瀕死の状態にある)文学ジャンル」の多さに、いささかの感慨を覚えさせられます。文学文学と日頃口にしていても、もしかして、私たちは「文学」を非常に狭くとらえているかもしれないのです。
私たちは「活字」の呪縛にとらわれすぎていないでしょうか。近代は活字文化の時代だったわけですが、おなじコトバの文化でも、明治末期の「美文≒文学」 に音声の文化や芸能がかなり混じっていたことを思い出してください。ネガティブにみれば、この110年間の変容は「活字文化の衰退」かもしれない。が、半面それは、活字以外のメディアによって、新しい感受性が育ってきた時代だったともいえるのです。(斉藤美奈子)


いやあ、簡にして要を得た、わかりやすい文章で、日本文学の深い部分をぐさりと刺すご意見じゃありませんか。ほんとにMorris.は今や、彼女のフリークだ。
このシリーズではもう一巻彼女が編者になってる「男女という制度」があるらしいので、それも読まなくては。
その他の執筆者のもので、面白かったのは、岡田幸四郎の「「谷沢永吉」と「ヘンタイよいこ」」だ。
これは、80年代の糸井重里論みたいなもので、えいちゃんの「成り上がり」を構成したのが糸井重里だったというのも初めて知ったけど、糸井のCMキャンペーンからヘンタイよいこ、そして今の「ほぼ日刊イトイ新聞」までを、実にわかりやすく、論じまくっている。
稲川方人の「ざわめく書物」は菊池信義を中心とする装釘論で、コンピュータDTPまでを視野に入れての書物の外装と内容の攻めぎ合いと協調を論じてあり、詩人であり装丁もこなす著者自身への興味も湧いてきた。
その他、元「新潮」編集長だった坂本忠雄への斉藤のインタビュー「文芸誌とは何か、何だったのか」は、日本の文壇の消滅の証言として歴史的意味を持つかもしれない(^_^;)
そんなこんなで、久しぶりに岩波の本をそれなりに楽しく読んでしまった。


21世紀の野球理論】佐藤義則他 ★★★ 「もっと上手になる120の鉄則」と副題にある。デイリースポーツに4ヶ月にわたって連載されたもので、投手編(佐藤義則)、打撃編(宇野勝)、攻撃走塁編(岡義朗)、守備編(鎌田実)の4部構成となっている。。
Morris.は阪神ファンではあるが、いざ実践となるとからきしで、草野球はおろか、小学生時代の三角ベースですら、まともにやった覚えが無い。だから本書を読んで、技術向上を目指そうなどとはつゆほども思っていない。
プロ野球観戦の時にいくらかでも参考になるかもしれないし、あわよくばいっしょに観てる友人に偉そうに話す種になるかもしれないという助平ココロがなかったとも言い切れない。
ただ、蒲田の守備編は読んでもほとんど理解できなかった(^_^;)佐藤の投手編も、まあ、理屈は分からなくもないが、それほどでなく、面白かったのは宇野の打撃編と、岡の走塁編だった。
バットは軽いほどいい、ステップは狭くして頭を残す、一塁側から見て「入」(「人」ではない)のシルエットを作れ、投手のリリースポイントに着目、どんな球も同じスイングで、ボールは目玉だけで追うなどの項目だけでも、なるほどと思えるし、今後バッティングセンターに行った時にでも実践してみたくなる。(まず、行かないだろうけどね(^_^;))
走塁では、盗塁の狙い方や、リード方法、バントの方向やサインの奥義など、これは観戦時に役に立ちそうなことが書いてあった。
総じて、スポーツの解説書は、戦術、戦略的なことならともかく、技術的な面では隔靴掻痒の観が強いし、分かった気になっても実践には結びつかないいわゆる「畳水練」から逃れられないのだろうが、野球コラムと思って気楽に読めばそれなりに面白いところがあった。


漱石先生お久しぶりです】半藤一利 ★★★ 「漱石先生ぞな、もし」の続々編にあたる。前の二書もそれぞれ楽しく読んでいたので、本書もそれなりに楽しめるだろうと予想は付いてたし、たしかにそのとおりだったが、全体的には、二番煎じ、出がらしの観が無くも無かった。
著者は、松岡譲(漱石の娘筆子と結婚)の娘を嫁にしているので、義母が漱石の娘であることを、ことあるごとに筆の端に上せる。直系の孫にあたる夏目房乃介と比べると、かなり傍系だとは思うが、文豪が祖先にいるということは、それなりの自慢なのだろう。
著者の本では漱石の初期の俳句を取り上げた「漱石先生大いに笑う」が一番おもしろかったようだし、漱石の初期の磊落で直裁な句には大いに共感を覚え、ぐいぐい俳句などと名づけて、自分で俳句まで始めたMorris.だから、本書でも俳句を論じた部分に関心を寄せざるを得なかった。

・狸化けぬ柳枯れぬと心得て(明治29年)
・時雨ては化ける文福茶釜かな(明治32年)
・枯野原汽車に化けたる狸あり(明治29年)


おしまいの句がちょっと不思議だが、明治時代には狸が汽車や汽船に化けるという俗説が、あんがい一般に広まっていたらしい。
明治32年、イギリス留学に向かう船プロイセン号で香港に寄港した日の日記にある

・阿呆鳥暑き国へぞ参りける
・稲妻の砕けて青し波の花


の「阿呆鳥」について、すったもんだ書いてあるが、これは著者の言うようにあえて、漱石が我が身をアホウドリに見立てたとするよりも、亜熱帯海上の景物としての鳥と見たほうがいいような気がする。

俳句以外では、漱石の小説には当て字が多いといわれ、魚の秋刀魚を「三馬」と書くなどを代表としてよくあげつらってあることに関して

されどこれは漱石の造語にあらず。『言海』にはっきりと三馬とあるのである。さきの林原宛ての書簡にみるように、漱石は好んで『言海』をぱらぱらとやっている。音なしく、地烈太(ぢれつた)い、糠る海(ぬかるみ)、反吐もど、寸断々々(ずたずた)、蚊弱い、烏鷺々々(うろうろ)----漱石が無造作に使っている当て字が、すべてそうであるのかどうか、『言海』にいっぺん問うてみる必要があるのではないか。

と、あったので、言海大好きのMorris.はさっそく、以上の語をチェックしてみた。

「三馬」に関しては確かに見出語の後に「小隼|三馬」とあり、語釈のおしまいに「秋光魚」というのもある。現在良く使われる秋刀魚は見当たらない。
「音なしく」は見当たらず、穏順シキ 大人しいという漢字があてられている。
「地烈太い」は、見出し「じれつたし」と語頭が「ぢ」でなく「じ」であることからしても、漱石の文字遣いは間違っているようだ。 語釈に「懊悩ル-ジレル」とあるので「懊悩つたい」なら使えそう。
「糠る海」は言海には「ヌカリミ」という見出ししかなく、 泥濘の語が付してある。
「寸断々々」は「づたづたに」の見出しの後に「寸断」とあり、繰り返しは無くてもヅタヅタニと読めるようだが、これはまあ漱石の使い方でも良しとしよう。他に「寸斬」で「ヅタヅタニ」と読ませる例も挙がっている。
「蚊弱い」は「かよわし」というひらがなのみである。「か」は発語という注あり。
「烏鷺々々」は「うろうろ」とひらがなの見出ししかなく、語釈のおしまいに「彷徨」が並べてある。
以上の調査(^_^;)からすると、漱石の当て字で、許容範囲なのは「三馬」と「寸断々々」くらいで、あとはちょっとおかしいといえるだろう。やっぱり漱石は宛字の多い作家だと思う。そして、Morris.はそのことが漱石の欠点だとは決して思わないのだ。言海も宛字も大好きなMorris.なのだった(^○^)。


ふくすけ】松尾スズキ ★★★劇団「大人計画」主宰の著者の92年頃の作品らしい。戯曲はあまり読まないMorris.だが、太田蛍一の表紙絵に惹かれて借りてしまった。巨頭症の少年が裸のフランス人形の手足を差し替えている図柄で可愛くておどろおどろしい。
ストーリーも同様なおどろおどろしさで、著者が後書きで触れているようにオーム事件以降に書かれたとしたら、洒落にならないだろうが、事件数年前に書かれたと言うことで、事件の予言めいた感じを受ける。
製薬会社の薬によって奇形児が多数生れ、その中のひとりふくすけが、10年の幽閉の後、新興宗教団体を作り、歌舞伎町に自身の大仏を作ろうとする。これにまつわるさまざまな異能人、讒言癖の女性、風俗を牛耳る三姉妹、レズの歌手志望コンビ、盲の娘などが、それぞれの異常世界を開陳していく。フクスケのエキセントリックぶりと、初演で著者自身が演じたらしい、狂言回しコオロギの存在感が大きいし、台詞の突拍子もない跳躍、突然の挿入、駄洒落(「これじゃ田舎のの草野球ですね」「え?」「ミットもない----」(^_^;))まであって、まあそれなりに楽しめた。だからといって、彼の作品をこれ以上読もうとも、舞台を見たいとも思わなかった。
終幕では、登場人物がどんどん殺戮されていき、そして誰もが死んでしまう。それほど無残ではないのだが、やはりMorris.はこういったアングラっぽい芝居は向いていないと思うのだった。


フクスケ「--だけど、一番関心があったのは、もっと哲学的な問題さ。世界一醜い人間は、どうやって生きていくのかっていうね。神様を恨んだわけじゃないぜ。神なんか、いない。信じる奴はバカだ。宗教なんかやる奴は、もっとバカでしょ。天に感謝するより、自分に感謝した方が救われる。あの世とか、来世の幸福なんて言ってる奴は、早く死ね。死んだら灰になる。それでおしまい。宇宙人とか超能力とか霊魂とか、みんな同じだろ。お祈りしたらUFOが来るなんて、バカ通り越して、もう、エゴイズムだろ。てめえは何様なんだっつの。あんたの祈りなんて誰が聞く?牛や豚殺して食って人間だけ救われるなんて、虫が良すぎるぜ。未来なんて信じてる奴もクズだ。未来なんて、生きてるうちは永久に来ないんだから。あんたが死んでから先が、未来なんだから。未来だろうが来世だろうが、SFだって、レベルじゃ同じだっつの。この頭に、どんな未来がある!?(タバコに火を点ける)映画を観て現実を忘れる人もいるが、俺は逆だった。俺は、人とは違うってことを、密室に居ながら一つ一つ思い知らされたのさ。そのたびに俺は考えた。フットボールのヘルメットが頭に入らない時、人はどう生きるか。ディズニーランドの乗り物に乗れない時、人はどう生きるか。生れてこないほうが良かった時、人はどう生きるか。それでも宗教も未来も来世も信じることが出来ない時、人はどう生きるか!(フラッと倒れるふり)---なんつって---あんたは、俺がここで倒れたらどうする?親切にするだろう?俺がいつも考えてるのは、あんたの親切から、どう身を守っていくかさ。それでもまだ親切にするかい。じゃ、俺と結婚してくれ。俺とセックスしろ。俺とセックスしろ!俺とセックスしない奴には、親切にさせない。励まされもしないし、勇気づけられもしない。何にも感動しない。俺が生きるってことはさ、そういうことでしょ?アグネス・チャン、黒柳徹子、俺とセックスしろって、そういうことでしょ?すさんでる?俺が?違うね。俺ほど建設的な人間はいない。なぜって、俺には生きる理由がある。でも、あんたにゃないだろ?あんたを殺しても、俺は生きるぜ。なんたって、俺は世界一の男だからな。ケケケケケケヒヒハハハハハ!」

中盤のフクスケの長広舌の大部分を引いたが、弱者の開き直りぶりとしては、なかなかに見所ありというべきか。


「書く」ということ】石川九楊 ★★☆☆ 『文學』に掲載された3編をまとめたもので、書家という立場から、ワープロ、パソコンへの嫌悪と弊害をしきりに言揚げしている。
Morris.は著者の書道論は実に見るところが多いと畏敬の念を感じているのだが、ややヒステリックなワープロ攻撃、特にローマ字日本語入力への非難ぶりは、常軌を逸してるのではなかろうか。
もちろん、立場が違うということは理解できるし、手で文字を書くということの重要さを無視しようというわけではない。ただ、ワープロの恩恵にあずかっている、というか、どっぷり漬かり込んでいるMorris.には、ワープロやインターネット文化に対する多様な評価や可能性を踏まえた上で論じて欲しいと思ったのだ。
たとえば、ネットにあるさまざまの文章のすべてが、著者の言うように、何の考えもなしに吐き出されたゴミのようなものばかりなのか。
少なくともMorris.はそうではない、と確信している。
悪筆のMorris.が日記や旅行記をこうやって、ひとさまに読んでもらえているのも、ワープロの効用のひとつだが、それ以上に情報や意見の公開が、一部の特権階級から開放されたことが大きいだろう。
また「日本語横書きは英文縦書きに同じ」という乱暴な論調でもって、日本語の横書きに横やりを入れてる部分もピントが外れているようだ。例の「丸文字」が、日本語を横に書くための限界形として登場したとは、Morris.にはとても思えない。
ハングルをカタカナに近い表音文字という捉えかたにも不満があるし、西洋のアルファベット文化には、文字そのものの美を追求しようという気持ちが欠けているという決め付けも、間違っていると思う。
やたら、文句をつけることに終始しているが、著者からすれば、こういった文章こそ、ネットの弊害的、垂れ流し文章の好例ということになるのだろうか。デスクトップ故障で、古いノートをワープロ専用機みたいに使っている現状だけに、本書のワープロ批判が耳障りだったのかもしれない。
ものごとにはすべて、メリットとデメリットが同居していると思う。だからワープロ文化のデメリットがあることは否定し得ないのだが、Morris.はメリットを選択したのだ、と、言い切っておこう。


デジカメの絵本】早坂優子 ★★★★ 視覚デザイン研究所から出された、ヴィジュアルな、写真絵本?基本的にはデジカメ撮影見本帖みたいなものだが、いわゆるハウトゥものとはよほど違っている。文章は極端に少ない。さまざまなデジタル画像が、ゆったりと掲載されていて、短いコメントで、デジカメ撮影の基本以前の姿勢や、特にライティングの効果を実感できるような作りになっている。
・ストロボ使って、良いことなし
・露出では、黒い暗いはマイナス補正。白い明るいはプラス補正。
・強い光は辛い、弱い光は甘い

など、単純で有用な定義は、実に分かりやすい。
被写体に対する光源の位置による、9種類の光の説明と見本写真は、照明の基本だが、これも、本書みたく、単純な球体の写真と、普通の事物の写真を並べてあるとわかりやすい。

クロス光(斜め前45度から)
順光(デジカメのストロボと同じ)
サイド光(斜め上から)
ミディアム光(斜光)
逆光(真後ろから、強いとシルエット、弱いと輪郭)
半逆光(ちょっと斜め後ろから)
レベル光(真横からの光長い影)
トップ光(夏至の正午の太陽光)
ボトム光(一般には存在しない光源、幻想的)


Morris.のデジカメクラスでも、たしかに光と影に関してコンサバティブになることで、かなり仕上がりは違ってくるだろう、ということが、わかった。実践とはまた別の次元のはなしではあるが。
ともかくも、これは贅沢なデジカメの絵本であることはまちがいない。


俳句武者修業】小沢昭一 ★★☆東京やなぎ句会のメンバー、変哲の俳号で知られる著者が、プロの俳人が主宰する句会に参加して、互選を行い、その結果を面白おかしく披瀝するという企画で、「俳句朝日」に連載されたものらしい。
鷹羽狩行の「狩」、藤田湘子の「鷹」、稲畑汀子の「ホトトギス」、黒田杏子の「藍生」、黛あすかの「月刊ヘップバーン」、金子兜太の「海程」など10回分と、初めと終わりにやなぎ句会の巻を置いた一年分で、初めからあまり期待はしていなかったが、予想通りに面白くはなかった。
数年前突然句作に目覚めて?「ぐいぐい俳句」と銘打ち、しばらくは好き勝手に書き散らかしたものの、千句ほど作ったあたりで、行き詰まってしまったMorris.だから、偉そうなことは言えない。
とにかく遊びといいながら30年以上続いてるやなぎ句会もそれなりに認知されてるし、変哲の句集の中には好きな句も含まれている。しかし本書には、当人の句を含めて、これは、という句には出会えなかった。
句会というものとも無縁ではあるが、どうも苦手な部類に入りそうだ。
本書の見所は、互選の点の入り具合に一喜一憂しながら、不評な時の負け惜しみ、点を貰ったときの手放しの喜びぶりで、当然独り芝居の達人なりのサービスを忘れていない部分なのだろうが、結果的には、これは俳句雑誌の安易な企画だおれとしか思えなかった。


牙 江夏豊とその時代】後藤正治 ★★★☆江夏の阪神時代に焦点を絞り、同僚選手や関係者の証言、データを丹念に検証して、単なるヒーロー伝説ではなく、昭和40年代という時代を浮かび上がらせようとしている。Morris.は江夏が阪神で活躍している頃は阪神ファンではなかったが、それでも江夏の凄さは何となく感じていた。
何となく過去の大選手というイメージがあって、一世代上みたいに思っていたが、Morris.と一つ違いと知ってびっくりしてしまった。
スポーツ選手の現役時代は短いとはいうものの、1966年に阪神に入団して9年在籍したのち、南海、広島、日ハム、西武と渡り歩いて85年、大リーグに夢を託したが果たされず引退したから、四半世紀以上過ぎたことになる。
18年の通算成績は206勝158敗193セーブ。立派な成績だが、数字上ではこれを超える投手は何人もいるだろう。だが、存在感の大きさという点では群を抜いている。
江夏の阪神時代は、巨人のV9時代と重なるわけで、阪神での優勝経験はないが、後一勝で優勝を決める試合を逃した73年のことはMorris.にも印象深い。
江夏がユニフォームを脱いだ年に奇しくも阪神が優勝を決めている。それ以来優勝とは無縁のチームだった。久しぶりに首位に立っているこの時期に本書を読んだというのも時宜に適っているような気がした。


たった一人の反乱】丸谷才一 ★★☆☆1972年の作である。何で今ごろこんなのを読んだかというと、矢谷君が古本屋の百円均一で買って読んでたので、冒頭を読みかけて、ちょっと面白そうだと思ったので、中央図書館で借りてきたのだった。
30年前といえば、著者40代の作だな。
通産省から天下りした男が、後妻に若いモデルをもらい、刑務所帰りの彼女の祖母と同居して、てんやわんやの騒動に巻き込まれていく、いかにも作り話めいたものだが、それなりに面白さは持続させている。しかしMorris.は読み進むうちにだんだん、嫌な気分になってしまった。
評論家、エッセイストとしての著者は認めるが、どうも彼の小説はMorris.の性には合わないようだ。Morris.が年取ったためなのかもしれない。


リョーコ】中場利一 ★★☆ 岸和田愚連隊シリーズで散々楽しませてくれた著者の同工異曲で、シリーズの後半とその後の作品群にいい加減愛想つかしていたのだが、冒頭部をぱらぱらと読んでちょっと面白そうな気がして読むことにした。もともと著者のあっけらかんとした岸和田弁のワルたちのストーリーの運びには親近感を持ってるのでついつい、ひかれてしまう。
例によって、著者モデルのチュンバと、神戸から岸和田に転校してきたリョーコの青春恋物語なわけで、エピローグとプロローグに挟まれた、AB両サイドの回想的ストーリー構成は、なかなか洒落てるようだし、サイドAの二人のやんちゃな恋の展開はそれなりに読めたのだが、サイドBになると、もう、いいか、という気がしてきた。
リョーコを愛しながらも、他の女の子にちょっかいは出すし、同棲までしてしまう、それはそれでいいのだが、自己モデル小説でここまで書き続ける神経のナイーブさには、いささか辟易せざるを得ない。前にも同様の書き方をしたと思うので、あまり自信はないのだが、もう彼の作品を読むのは止めておこう。


デジタルを哲学する】黒崎政男 ★★★★「時代のテンポに翻弄される[私]」と副題がある。
MSDOS時代からこの人の著書にはいろいろ啓発されたものだが、本書にはすっかり参ってしまった。PHP新書で比較的大きな文字だから量的にはわずかなものだが、その内容ときたら、冒頭からおしまいまで気が抜けない重要な提言や指摘、示唆に富んだ考察の積み重ねで、ひさびさに教えを蒙った、というのが率直な読後感である。
朝日を中心とする新聞、雑誌に発表された個々の記事を編集し直したものらしいが、新聞取ってないMorris.にはありがたい1冊だった。
300年前にライプニッツが「思想」として確立した二進法が300年後にコンピュータ文明として「実現化」したことを敷衍して、時代のテンポに翻弄されながら、百年、数百年後に意味を持つ、深くて力強い思想を思いながら、現実を考察しているところが素晴らしい。

今日のいわゆる[情報]論の欠陥は、時間の経過によってその[価値]が極端に減少する情報(情報A)と、あまり変化しない情報(情報B)が区別されずに論じられる点である。
このような区別は、情報と知識の区別として、従来の文化的状況では、きわめて明確に意識されていた区別であることは改めて言うまでもないことだろう。
端的に言えば、時間を要する熟練、沈思黙考などという、文化を支えてきた思考形態は、(広義の)電子メディア時代においては、軽んじられ、すべてはスピーディーにかつ誰にでも分かるものに書き代えられ、置き換えられていく。
本来、いわば[時熟]をその本質とした[知]は、この速度無限大への欲望のなかで、完全に飲み込まれてしまうのかもしれない。


情報と知識の同一化、あるいは、知識が情報の中に埋もれて、消滅するのではないかという警鐘は、すでに遅きに失するような気にさせられる。

「読書する暇つぶし屋を私は憎む。あと一世紀も読者なるものが存在し続けるなら、やがて精神そのものが悪臭を放つようになるだろう。誰もが読むことができるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることまで腐敗させる」(ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」)

この意味深くも辛辣なニーチェの言葉を引きながら、インターネットの文章表現をカラオケにたとえている。

かつて、カラオケはカラオケ喫茶やカラオケパブなどで広がり始め、自分の順番が来るまで、他人の下手な歌に必死で耐えている、という状況がよくあった。そして、カラオケは、数人で楽しむ個的な密室へと完全に収斂していった。
インターネットによる文章表現の[カラオケ化]は、同じ事態を歩むことになるのだろうか。[ものを考える]とか[ものを書く]などの営みにも、深くテクノロジーは浸透してきている。
ニーチェの予言から一世紀。結果は、誰もが読者であり続けただけでなく、今後は誰もが著者となる時代になるだろう。誰もが公表できるという事態は、いったい今度は何を腐敗させてしまうことになるのだろうか


ハッカーなどによる公式HP書き換え事件に関連しての記述。

しかし、本当に問題なのは、痕跡を残さないような情報の書き換えの可能性である。例えば、文書中の、会合の日付を一日ずらしたり、合格者の受験番号を書き換える、といった外部からの悪意ある不正な書き換えが行われながら、その改竄の痕跡が一切残らないために、情報発信者も受信者も、そのことにまったく気が付かないような場合である。

RAMとROMについてMorris.が以前考えたことだが、CDR媒体の書き換え不能という限界的特徴こそが、かけがえのない特長となるのではないか。インターネットにおける署名の暗号化なども、つまるところいたちごっこになるようだ。

時間がかかる、時間の遅延があることを、すべて[タイムラグ]として否定的に捉えたり、スピーディであることが、私たちの[豊かさ]を保証すると考えるならば、それは根本的な錯誤であるように思われる。無駄な時間を省いて、残った時間で豊かな生活を、と喧伝されながら、その残った時間もすべて、無駄な時間を省くという心性に汚染され、時熟を味わえないからだ。結局、私たちの生活は、テンポ全体が単にあわただしく加速しているだけなのである。
[私]が、便利さや速度の幻惑には徹底的に弱い存在であること、しかし、それにもかかわらず、それに身を委ねることは、[私]を徹底的にやせ細った刹那的存在にしてしまうこと。このことへの自覚は、今日においては決定的に重要であろう。
現代の情報、消費、社会システム全体が、便利さと速さを[豊かさ]と称して邁進せざるを得ない以上、[私]は常に情報反応マシン、消費マシンに変形されつつある存在である。だとすれば、時熟や成熟の契機は、外から与えられることを求めるのではなく、[私]自身の内側に自覚的に求めていくほかはないのかもしれない。


本書の主題が以上の考え方に集約されているようだ。
後に書評のあるエンデの「モモ」を連想させる一文でもある。
そして「書物」文化の衰退と哲学者の権威喪失に関しては

電子メディアの時代においては、すべてがおしなべて[情報]である。かつては思想の深さ、強靭さの証でさえあった[難解]さは、ヒステリックなほどに排除される。一度見たり聞いたりしただけで理解されないようなメッセージは、検閲されて[容易さ]に解体されるか、あるいは無視をもって迎えられる。
ところで[思索]には一定の無駄な時間というのがどうしても必要である。情報を流れ去るものとして次々処理していくのに適したメディアが、テレビや新聞などだとしたら、深い思索や洞察を練り上げるメディアは、書物しかない。書物という情報媒体の膨大なタイムラグこそ、思索を練り上げるのに必要不可欠だったのかもしれない。


哲学者を権威付けていたものが書物で、その書物の衰退=哲学者の衰退。というのだが、Morris.はこれはちょっと図式的なような気がする。
マスコミや世論において、疑いなく正しいと目されている「ヒューマニズム」に関する定義は、目からウロコものである。

人間は環境を壊しながら存在している。
四十六億年の地球の歴史のなかで、人類は約一万年前に農耕牧畜の開始によって、地球システムのなかに、人間圏という新たな物質圏を分化させ、地球システムの物質、エネルギーを直接利用する存在に変わった。文明は宇宙にあるもろもろの力を利用して、次々に、エレガントなマシンを作り出している。それは、人間の叡智の進展でもあるが、根本では、地球環境システムを搾取し、破壊している側面がある。
地球環境を守ることが一番の目的だ、というのであれば、人間はただちに滅亡するのがいいわけだが、それをしないのは、深いところにヒューマニズムがあるからだ。
ヒューマニズムとは、人間中心主義という意味である。動物の生命を脅かすのはいけないからといって、人類と動物たちとのどっちを取るかと言えば、人類を取る。人類の生存のためには、動物も殺すし、地球も破壊する。
環境問題は実は、人間中心主義から発しているんだ、という自覚がないと、とてもヘンテコなことになってしまう。テクノロジーへの過信は、人間の生きるということに関わる側面をどんどん希薄にする。「暗殺者から要人を守れと」の指令を受けたロボットが、暗殺されないように、自らの手でその要人を殺すとうSF小説があるが、守るべき人間を殺さないのが人間である。


そうだよな。確かにヒューマニズムというのは人類という種の超絶ウルトラエゴイズム、というのはわかりきったことなのに、ついつい忘れてしまいがちである。

携帯電話に違和感を持つ、旧世代の人間の捉え方も、タイムスパンを変えると、また違った見え方がする。

ナイフを使えない子どもの議論があったが、火打ち石を使えない現代人に対し、昔の人は、人間の本来的な能力の欠如だと嘆くかもしれない。
我々はテクノロジーに関して、最初は言い知れぬ衝撃を覚え拒否するが、時間が過ぎると、それがあたかも太古の昔からあったかのごとくに、使いこなし受け入れていく。それが人間の人間たるゆえんだ。
テクノロジーによって、人間性が喪失される痛みを感じることは、かけがえのないと考えていることと表裏一体。それに耐えられないとしたら、それは現代人の根本的な衰弱を示しているのではないか


さらに、クローン技術からの考察。

今日、人々は代替可能なモノに囲まれて生活している。対価を払えば、古くなった製品は新しいモノに交換可能だし、社会経済は、まさに人々があらゆるモノを買い換えていくことで成立している。[同じ]モノが基本的に所有可能であること、つまり[すげ替え可能]が、現代の我々の基本姿勢である。
さらにテクノロジーは、臓器移植など、人間の身体を[同じ]ものですげ替えるという可能性を開きつつある。そしてこの姿勢は、すげ替えが不可能であるはずの対人関係をも侵食しようとしている。現代人の欲望は、[私]を中心に、(他者をも含む)あらゆるものが[私]のために整備されていることを臨むまでに深まったのかもしれない


これは、歴史的な王や皇帝など独裁者の思想に近い。今や人類総独裁者への道を歩もうとしているのだろうか。

哲学者の著者が、コンピュータに関心を持ったきっかけであるAI(人工知能問題)に関してはさすがに、年季が入っていて、17世紀のホッブスから話が始まる。

哲学史の文脈から人工知能問題を考えたときにすぐに思い浮かぶのは、十七世紀の思想家ホッブスの「考えるとは計算することである」という言葉である(ホッブス『物体論』1655)。
思考は記号を操作することであり、またその計算は規則に従う機械的処理過程であるとするホッブスの思考法は、ライプニッツに引き継がれ、「ホッブスが我々の心(mens)の働きはすべて計算(computatio)であると述べているがそれは正しい」とするライプニッツの普遍記号学の構想に引き継がれてゆく。


しかし、著者の立場はこれに追随するのではなく、AIでは扱いきれない「直観」や、人間の知能そのものに付いての考え方のパラダイムを哲学者が提供できないかという立場のようだ。

デスクトップが完全に駄目になった現時点でMorris.に印象深かった部分を引用して、終わりにしよう。

コンピュータは、徹頭徹尾エフィシェンシー(効率性)の世界である。その技術が飽和状態に達した暁には、悲しみの対象となる可能性は残されているが、効率性だけが中心の話題であれば、ここにある最新型コンピュータは必ず旧式になり早晩役立たずになる。だって、速いほうがいいし、なんでもできるマシンのほうがいい。コンピュータに向かっているときの私は、完全に効率と便利さを追求するメンタリティーになっているわけである。
この快楽は一方では抗しがたい魅力であり、私の心性は興奮状態のうちで、いわば上へ上へと駆け上がっていく。そして、常に最新情報を求めながら秋葉原をうろつき、私の愛すべきコンピュータが日に日に旧式になることを確認する作業に従事してしまう。私の心は情報と欲望のうちに拡散し果ててしまう。
だが、もはや製作されることもなく、他のものに脅かされることのないライカと向き合っていると、言いようもない充実感に満たされる。陳腐な表現だが、からからに乾いて拡散してしまった私の心性が、ひとつの私として充実しながらまとまってくるのが分かる。


それにしても、これは読書控えとしても、あんまりな、引用過剰だったかもしれない。読書控えはMorris.の個人的な控えでもあり、引用しておきたい文章がこれだけあったのだから仕方がない。
本書にはさらに「電脳を読み解く10冊」と別建ての書評と、本文中でも6冊を論じているから計16冊の書評が収められていて、それがまた、Morris.の読書控えとは違って、的確で細緻で、ポイントを押さえながら自説の補強と展開に持っていくあたりも、著者の力量と選択眼も含めて、改めて感心させられた。
有益な作物揃いのようなので、懲りずに一覧を引用しておく。

1.「コンピュータには何ができないか」H・L・ドレイファス 1972
2.「グーテンベルクの銀河系--活字人間の形成」M・マクルーハン1962
3.「声の文化と活字の文化」W・J・オング 1982
4.「ライティング スペース--電子テキスト時代のエクリチュール」J・D・ポルター1991
5.「ツァラストゥラはこう言った」F・ニーチェ 1983-85
6.「情報様式論--ポスト構造主義の社会理論」M・ポスター1990
7.「リコンフィギュアード・アイ--デジタル画像による視覚文化の変容」W・J・ミッチェル 1992
8.「啓蒙の弁証法--哲学的断想」M・ホルクハイマー、T・W・アドルノ1947
9.「インターネットはからっぽの洞窟」C・ストール 1995
10.「モモ」M・エンデ 1972
・「インターネットについて--哲学的考察」H・L・ドレイファス
・「西洋書体の歴史--古典時代からルネサンスへ」S・ナイト
・「カントの生涯」ヤハマン
・「芸術の逆説--近代美学の成立」小田部胤久
・「愛ある眼--父・谷川徹三が遺した美のかたち」谷川徹三著、谷川俊太郎 詩・編
・「「2001年宇宙の旅」講義」巽孝之


ぼくんち 全】西原理恵子 ★★★★☆観月ありさの映画を見た日にジュンクで買った総集編の原作漫画で、もともとずいぶん以前ビッグコミックスピリットにオールカラーで連載されていて、Morris.は時々読んでいた覚えがある。後でカラー単行本3冊で刊行されているがこれは全部読んだ記憶はないな。
しかし、映画を見たあと、白黒の1冊本を読んで、何かすっかり感動してしまった。思わず3回連続で読み返してしまったよ。
ほとんど人生破綻者みたいな登場人物ばかりなのに、根源的な優しさや愛のストレートパンチを受けてしまう。サイバラの漫画が、バイオレンスで過激になるほどに、その美質が際立ってくるのはどうしてだろう。極左と極右が突き詰めるところほとんど同一になるような仕組み?なのだろうか。
「ぼくんち」は見開き2p完結の短いエピソード114話でできあがっている。2話、3話連続のエピソードも多いから、ざっと50くらいの掌編からなってるとも言えるだろう。瀬戸内海とおぼしい海にある小さな島の、貧しい兄弟のところに家出してた母が妙齢の姉かのこを連れて帰ってくるところから始まり、母がまたいなくなり、姉が母親代わりとなり、長男一太が独り立ちを試み、姉はピンサロで稼ぎ、弟二太は無邪気な観察者として、野蛮で牧歌的なこの島の住民たちのしのぎや死や暴力ざたや無茶苦茶をたんたんと綴っていく。
エピソードごとに語り手は変わるのだが、一番多いのが二太の視点で語られるものだ。一例を挙げると


ここんとこの ぼくんちは けっこう大いそがしだった。
何年もいなくなっていた 母ちゃんが帰ってきて、またいなくなった。
かわりにねえちゃんが やってきた。
そしたら 一太にいちゃんがいなくなった。
ぼくにはよくわからない、人生というのはこうゆうものなんだろうか。
前に ねえちゃんは「考えてもどうにもならない事なら考えずに笑え」と言って、怒った。
ねえちゃんは今日も楽しそうに卵焼きを焼いている。(39話)


ざっとこんな調子である。
一太が恋するシャブ中の女の子も、二太の好きなさおりちゃんも、一匹狼やくざこういちくんにまつわりつく外国人になりたかった女の子も、薄幸を通り越した悲しい存在のはずなのに、いつしか聖なる光を放っている。もちろん姉かのこはさらにとんでもない存在だ。
戦後の無頼派作家たちが、無頼を重ねるほどにその内面的弱さ優しさ敏感さを際立たせていったように、サイバラの作中人物たちはどんどん非人間的行為を重ねるほどに、聖別化されていくかのようだ。
Morris.はこれまでサイバラの傑作としては一に「まあじゃんほうろうき」二に「ちくろ幼稚園」三に色ものとして「恨ミシュラン」と思っていたが、突如、「ぼくんち」がトップに躍り出たような気がする。
映画はなかなか健闘していたが、やはり原作には遠く及ばないだろう。と、いうか、そもそも無理な試みだったろう。それでも無理を承知でも挑戦して、見どころのある作品にまで仕上げたということには拍手を贈ろう
書きそびれるところだったが、サイバラの絵は、はっきり言って「上手い」とは、別の次元にある。「へたウマ」というのとも一線を画している。描画そのものが、彼女の資質と連動して、過激になるほどに彼岸の繊細優美を現出している。と、わざとこんなもったいぶった書き方するしかないような、畏るべき高みに達している。こともある(^_^;)のだった。


テレビの黄金時代】小林信彦 ★★★中原弓彦名義で「ヒッチコックマガジン」を編集していた著者には憧れに似た思いを持っている。「日本の喜劇人」を始め、映画評や書評の類もそれなりに評価している。小説に関しては外人名義でしゃれのめした「ちはやぶる奥の細道」は手放しで大喝采だったが、それ以外はさほど好みではない。
彼が実際にTV番組の台本書いたり、ギャグネタ提供したり、たまには生出演したりしていたということは、あまり知らなかった。
本書は回想記ではなく、その当時の光景をできるだけ客観的に記録したものと、著者は何度も断っているが、回想記という色の濃い本である。
著者は83年にキネマ旬報別冊「テレビの黄金時代」という同じタイトルのムックの編集にも携わっている。
彼にとっての黄金時代とは60年代のことであると言えるだろう。Morris.のティーンエイジと重なるが、Morris.は田舎に住んでいたしあまりTVっ子でもなかったので、本書に取り上げられている番組も大半を見ていない。

「光子の窓」「魅惑の宵」「シャボン玉ホリデー」「夢であいましょう」「若い季節」「若い広場」「スチャラカ社員」「ミッチと歌おう」「ザ・ヒットパレード」「夜をあなたに」「ダニー・ケイショー」「九ちゃん!」「11PM」「植木等ショー」「夜のヒットスタジオ」「ゲバゲバ90分」「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」

これらすべてに著者が関わったわけではないが、ヴァラエティ番組中心となっている。
著者の最終目的は小説を書くということで、TV関連は生活費のためだと言った書き方をしている。
しかし日本TVのディレクター井原高忠をメインに、永六輔、井上ひさし、青島幸男、前田武彦、大橋巨泉、渥美清、坂本九などとの関わり合いと、個人評を見ると、結構TV界への助平心が透けて見える。謙譲ぶっていながら、自己顕示が垣間見られる著者の筆法を、何となく胡散臭いと思ってしまうMorris.なのだった。


経験を盗め】糸井重里 ★★☆☆ 糸井がホストみたいな立場で、二人のゲストとテーマを決めておしゃべりするという、鼎談18編が収められている。橋本治や南しん坊、みうらじゅんといった、Morris.が関心持ってるゲストも混じっている割に、総じてテンションが低いと言うか、内容が無いような気がする。
初出が「婦人公論」の連載だからなのかなあ。「声のはなし」と言うテーマでの、声紋研究家の鈴木松美と巻上公一の会話しにはちょっと反応した。

鈴木 (音と言うものは)空気、気圧で伝わってくる。ついでにお話ししますと、人間の声が聞こえるのに、どのくらいの気圧がかかっていると思いますか?

糸井 どのくらいなんでしょう。

鈴木 一気圧の一億何千分の一だったかな。。そのくらい気圧の小さなものを、耳はキャッチしているんです。で、耳の中には周波数分析装置がありましてね。そこには繊毛がついていて、その繊毛が奥にいけばいくほど低い周波数を感じ、外側が高い周波数を感じるんです。ところが、何かの拍子で大きい音を聞くと、その繊毛がやられてしまう。すると、それがキャッチしていた周波数だけ聞こえなくなるんですよ。この周波数分析装置は、壊れたら絶対に回復しません。

巻上 コンサートのPAエンジニアに、そういう人、多いですよ。

糸井 壊れちゃった人。

巻上 職業柄でしょうけどね。コンサートに行くと、ひどい音が出てる。エンジニアの人に聞こえない周波数があるんですね。だから、その周波数の音を補正して突き上げてしまう。多くのコンサートがそうですよ。

これは事実なんだろうか?春待ちファミリーBANDで大音響というのはあまりないが、たしかに野外でやったときに、ひどいPAがいたことを思い出した。


日本語の21世紀のために】丸谷才一 山崎正和 ★★★☆☆ 二人の対談はこれまでに何冊も読んだと思う。本書は文藝新書で軽く読み飛ばせるものだったし、結局は二人の持論を、それぞれヨイショするようなところもあり、それなりに時間潰しにはなるかな、といった感じで読み飛ばしてしまった。
ただ、明治の言文一致運動に関しての言には、感心した。

山崎 しだいに言文一致運動が起こってきて、「話すように書け」という運動が起こるんですが、これは私は結果的に大失敗であったと思います。「書くように話す」べきだったんですね。この時代に話すように書けと言ったって、もともと土台無理な話だ。話し言葉に統一語はなかったわけなんだから、ほんとうは書くように話せばよかったんですね。

丸谷 言文一致というのは、要するに宣伝のための言葉なわけでしょう。だから不正確なもんなんですね。たとえば万年筆といったって、何も一万年もつわけがないのと同じで(笑)これは誇張なわけですよ。ところが、その誇張を文章作法に当てはめるときに、誇張だとは思わないわけですね。ある意味では言文一致を推進した人たちは、非常にまじめな人たちだったんですね。でも、それでは困るんです。

山崎 それとね、話すように書くということは、結局その話し言葉がどういうものであったかによるわけです。もともとの話し言葉がある種の客観性を持っていたら、客観性とは言わないまでも、開かれた公共性を持っていたらよかった。日本語の話し言葉には、それが乏しいんです。

言文一致を論じて、上記と同様の論がこれまでに立てられたかどうか知らないが、Morris.には、これは本当に目からウロコがおちるように感じられた。
やはり二人ともただ者ではない。
その他、七五調の元を二音連結と一音で停止からなると論じたり、政治家、マスコミの紋切り型への批判、検定教科書のつまらなさなど、それぞれなるほどと思うことが論じられている。
おしまいの教科書については、谷川俊太郎、大岡信、安野光雅の「にほんご」への最大級の讃美に終始してるのは、あの本を高く評価してるMorris.としては嬉しくもあったが、今さらなあ、と、ちょっと疑問を感じずにはいられなかった。


誰がためにポチは鳴く】小林よしのり ★★★新コーマニズム宣言12である。Morris.はゴー宣には、毀誉褒貶相半ばするという立場で接していたのだが、やっぱり、彼のパワーにはそれなりの評価を与えるべきなんだろうな。「反米」のスタンスだけでも聞くものがある。もちろん、「よしりん」の躁的姿勢に全面同意とは言えないが、共感するところが増加ししてることは間違いない。
たとえば給食の「脱脂粉乳」への怨念は、Morris.も同時代で体験させられているだけに同感できた。本書では著者の個人雑誌「わしズム」の宣伝がメインになってる観もあるが、これにもMorris.はすげーなーという感想を持ってしまった。
しかし、彼の方向がすべて正しいとはどうしても思えない。いわゆる反面教師といった感じの存在なのだが、それなりに面白いのがやっぱりすごいと思う。


日本三文オペラ】開高健 ★★★★何年ぶりに読み返したことになるだろう。発表されたのが昭和34年(1959)だから、高校くらいに読んだとしたら35年ぶりくらいかもしれない。大筋は覚えていたが、初めて読むような気持ちで一気に読みとおした。
梁石日原作の映画「夜を賭けて」を先日見たことがきっかけで読み直したが、やはりすごい作品である。
小松左京の「日本アパッチ族」と本書、それに梁石日を加えて「アパッチ三大傑作」ということになるだろう。
作者の分身という気配のあるフクスケを三人称で表現しているが、なんだか一人称みたいに感じさせる不思議な文体だし、後の開高の健啖ぶりを連想させる、食い物に関する微に入り細を穿った執拗な描写と饒舌は圧倒的だ。

この丼鉢もまたかなりしたたかなものであることがわかった。キムの説明によると、これは朝鮮語でセキフェといって、豚の子宮であった。豚の子宮を解体のときにつぶさないようそっと氷嚢のようにとりだし、そのままみじんにきざんで、ほとんど味らしい味もつけず、もちろん煮たり焼いたりの加工はいっさいやらず、生のまま丼鉢に入れて食うのである。つまりフクスケがなにも知らずにのみくだした白い皮は豚の羊膜で、水のような薄い液は羊水であった。キムは説明を聞いてたじたじしているフクスケにむかって、さらにすごい話を追い打ちにかけた。彼のいうところによれば、いま食ったのはまだ序の口で、正真正銘のセッキフェは胎児もろともたたきつぶしたのを骨、羊膜、羊水、なにもかもひっくるめて生のままゴクリとやる。これは朝鮮料理の王様といえるもので、わけても粘液に厚くつつまれているためにつぶしきれなかった胎児の目玉が恨めしげにただよっているのをのみくだすときの快味ときたら
「----こらァ、ちょっと、ろっくふぇらあにもやれんというようなもんでんなあ」

新潮文庫の佐々木基一の解説に開高健の自筆年譜の一部が引用されている

「前年の夏、ノイローゼを晴らすために大阪の泥棒部落へ行ったときの経験をもとにして書いた。部落のなかへ入ろうにも入りようがなくて困っていたところ、ある新聞社にいる友人の友人がこの部落のある班の親玉を呼んでくるからと言うので、難波の駅で待っていたら、むこうからやって来たのが妻の詩人仲間の金時鐘であったのにはおどろかされた。、私はいつのまに彼がフランソワ・ヴィヨンになっていたのか、ついぞ知るよしもなかったが、たちまち意気投合して、その夜、したたかに彼と飲み食いした。あとはご想像におまかせする」

うーーん、金時鐘と開高健の出会いが本書を生み出したのか。当然梁石日もこれに絡んでいたんだろうな。後年、梁石日が「夜を賭けて」を書くことになろうとは不思議な因縁だろう。

「アパッチ部落興亡記」といった趣の本書のストーリーだが、前半の元気のいい時期の面白さに比べると、後半ジリ貧になる部落の動きと疑心暗鬼の場面はちょっと読むのが辛くなる。
晩年の恰幅の良い姿とは対照的だった初期の開高の作品をいくらか読み返したくなった。


えらい人はみな変わってはる】谷沢永一 ★★☆ 薄田泣菫の「茶話」に触発されて、コラムを書き始めた著者のが自分なりの類書を出したものらしいが、Morris.には一向に面白くなかった。谷沢の作は結構読んで来たし、それなりに面白いものもあるのだが、本書は、過去の書物からの引用が多く、その引用文が総じてつまらないのだ。
一番おしまいの「校正おそるべし!」というコラムの中で、与謝野晶子が「腹を痛めた我が子」と書いたのを、「股を痛めた我が子」と誤植されて、「あんな恥かしい思いをしたことがない」と嘆いたというエピソードは知らなかった。


懐かしの昭和30年代】町田忍 ★★★最近、彼の名前を良く目にするようになった。奥付では、庶民文化探究家という肩書きになってるが、銭湯博士として有名だし、パッケージや空缶の収集家でもあるらしい。さらに記録魔でもあるらしく、本書の写真も彼自身が過去に撮り溜めしたものが数多く使われている。
懐かしの喫茶店、映画館、駅を特集みたいにまとめ、付録みたいに「昭和の暮らし」と題して、当時のお菓子やおもちゃ、薬や乗り物、家電などの写真コラムを集めている。
どれもこれもタイトルどおり懐かしいものばかりだが、著者とMorris.は一つ違いだから、ほとんど同じ世代だ。
懐かしの駅には26駅が取り上げられているが、JR東京駅を始め、JR奈良駅、JR門司港駅、JR鳥栖駅などMorris.も良く知ってる駅が挙げられているのが嬉しい。なんとJR神戸駅もちゃんとカラーで掲載されていた。1937(昭和12)築のスクラッチタイル貼りとある。良く利用するのにあまりきちんと見たことがなかった。今度じっくり観察してみよう。


鎮魂歌】茨木のり子詩集 ★★★★1965年(昭和40)に思潮社から出た彼女の第3詩集。例によって童話屋の復刻版である。
この詩集くらいになるとMorris.のお馴染みの詩が目白押しである。
「海を近くに」や「私のカメラ」などはほとんど諳んじてるくらいだ。
600行を超える長詩「りゅうりぇんれんの物語」は、終戦間近に中国から強制労働に連れてこられ、北海道の炭坑から逃亡し、終戦を知らず14年間も山中で逃亡生活を送った中国人の記録を元にした譚詩だが、以前に読んだ時と同様、終わりになると涙を押さえることができなかった。
全体で14篇の詩が収められ、おおむね長めの作品が多いが、中だるみはしていない。
一番好きな「海を近くに」を引いておこう。

海を近くに 茨木のり子

海がとても遠いとき
それはわたしの危険信号です

わたしに力の溢れるとき
海はわたしのまわりに 蒼い

おお海よ! いつも近くにいて下さい
シャルル・トレネの唄のリズムで

七ツの海なんか ひとまたぎ
それほど海は近かった 青春の戸口では

いまは魚屋の店さきで
海を料理することに 心を砕く

まだ若く カヌーのような青春たちは
ほんとうに海をまたいでしまう

海よ! 近くにいて下さい
かれらの青春の戸口では なおのこと

いい詩だなあ、しかし、こちらも優劣付け難いくらい好きなので、「私のカメラ」も引用してしまうことにする。何しろ、この詩を読んだために、Morris.はそれから20年近くカメラを持たずに過ごしたくらいの影響力をもつ詩だったのだ(^_^;)

私のカメラ 茨木のり子


それは レンズ

まばたき
それは わたしの シャッター

髪でかこまれた
小さな 小さな 暗室もあって

だから わたし
カメラなんかぶらさげない

ごぞんじ? わたしのなかに
あなたのフィルムが沢山しまってあるのを

木洩れ陽のしたで笑うあなた
波を切る栗色のまぶしいからだ

煙草に火をつける 子供のように眠る
蘭の花のように匂う 森ではライオンになったっけ

世界にたったひとつ だあれも知らない
わたしのフィルム・ライブラリイ


 昭和遺産な人びと】泉麻人 ★★★☆☆ 「泉麻人の消えた日本」というタイトルで『新潮45』に2年間連載された24編をまとめたもの。
平成の現時点で、すでに無くなってしまった昭和の事物をルポするという形態だったらしいが、完全に無くなったものは、取材そのものが難しいこともあって、消えかけているものや、細々と残っているものが大部分だ。
人生の40年近くを昭和時代に生きてきたMorris.だけに、懐かしいものも多かった。印象的なものを、ランダムに拾ってみる。

報道用伝書鳩、勝鬨橋、車掌さん、流し、飛行機からの宣伝ビラ、ハエ取り紙、赤チン、ひまし油、アメリカシロヒトリ、先割れスプーン、銭湯の富士の絵

とりわけ「インドリンゴ」というのは、本当に今は見ることが難しい。
インドという名前が、原産地であるアメリカのインディアナ州から命名されたと言うのは驚きだった。漠然とインドだと思ってたのだ。
明治7年、青森県の東奥義塾学校の教授として真似からた、ジョン・イングという宣教師が、故郷のインディアナ州から持ってきたインドリンゴの苗木を植えたのが発端だそうだ。
一番のピークは戦前で、昭和10年から15年まだだったそうで、戦後はどちらかというと脇役になり、平成2,3年頃を最後に市場から消え、今や苗木の一本も残ってないと言う。
しかし、現在の人気品種「王林」と「陸奥」はインドリンゴにゴールデンデリシャスを掛け合わせて作られたものだとか。

泉麻人はコラムの達人として有名だが、本書でも、インタビューの手際良さや、まとめかたのうまさは堂に入ってる。オチのつけかたはちょっとクサイと思う(^_^;)たとえば、先のインドリンゴの生地のオチは

宇多田ヒカルの歌声に往年の藤圭子の面影を探る---ような意識をもって、こんど王林と陸奥を噛みしめるように味わってみようか---と思っている。

筆者はMorris.より7歳若い(1956=昭和31生)だけに、昭和への視点もかなり違っている。また生まれも東京だけに、取り上げられた事物が東京中心で、地方出身のMorris.から見ると、ちょっと違うんじゃないかという部分が見えたりする
惜しむらくは、雑誌には掲載されたらしい複数の写真が省略されていることだ。文章には「写真によると」という表現が数箇所あるので、特にそう思った。


平成】青山繁春 ★★★☆ 風変わりな小説だった。昭和天皇の死とそれに伴う元号などの取材に関わ通信社記者である主人公の半回想的なストーリー展開だが、取材方法や宮内庁、省庁、官邸などの描写がえらくリアルなのだ。著者紹介を見たら、やはり通信社記者経験者だった。と、なると本書はノンフィクションに近いものかもしれない。
冒頭にソウルの場面が出てきたので、つい借りてきたのだが、あまり韓国とは関係無かった。
女性記者との淡い恋愛風なエピソードや、宮内庁の一徹な老人とのやり取りもあり、ディテールはそれなりに面白いのだが、読み終わった後で、いったい何を言いたかったのかよくわからない、というか、天皇アレルギー気味のMorris.にはわかりたくない何かがあったのかもしれない。


 オマエラ、軍隊シッテルカ!?】イ・ソンチャン ベ・ヨンホン訳 ★★★★  原題は「ノヒガグンデルルアヌニャ」。
韓国は徴兵制があり、韓国男性の大部分は二十歳になると約3年軍隊に所属することになると言うことはよく知っている。Morris.の男性の友人もほとんどが、軍隊経験あるはずなのに、なぜか軍隊での思い出話などは、聞く機会がない、というか、あまり話したがらないようなのだった。
本書はその軍隊経験を、インターネット上で公開した一種の暴露記事が元となっている。これがネット上で異常な関心を集め、単行本化されてベストセラーになったらしい。
著者の入隊は今から10年ほど前らしい。
入隊検査から、入隊、訓練、共同生活、オルチャリョ(しごき)など、しっかりレポートしてあるし、著者が軍隊に対して、ニュートラルな視点で接しているので、抵抗無く読むことが出来た。韓国の軍隊制度に付いても簡明な説明があり、それだけでも有用だと思う。
テコンドは、軍隊では必須なので、幼少時から訓練しておくのが望ましいとか、入隊はなるだけ若いうちにとか、入隊前の男子への助言もあり、ブームを呼んだのは当然だろうし、文章も適度のユーモアや皮肉もあって、飽きさせないものがある。
しかし、軍隊の訓練はかなりに厳しいし、上官のシゴキも生半可なものではない。Morris.のような軟弱なタイプにはとうてい耐え切れそうにない。
著者は身長も高く、体力的にもかなり頑強な方らしく、それなりに軍隊生活に馴染んでいるようだった。
軍隊経験者の大多数は、個人差はあっても屈辱にまみれざるを得なかっただろうし、除隊後、他人に話したくない心理は分からなくも無い。
ただ、日本の青年と韓国の青年との、体力的、精神的差が、この軍隊生活の有り無しに因る部分はかなり大きいのではないかと思う。
集団行動苦手、個人主義のMorris.が言うことではないだろうが、日本でも若いうちに、鍛練しておく期間を持つことは有益かもしれない。もちろん非人道的な面は排除し、身体能力に応じた編成プログラムで、一定の集団生活を経験する。そんなことは、学校、家庭で学ぶべき、という反論もあろうが、現状では望むべくもない。
本書は「疾風怒涛の入隊編」となっていて、続編もあるらしい。これも読んでみたい。


千利休の謀略】谷恒生 ★★☆信長の死後から関ヶ原に至る時期を、利休と秀吉の関係を利休側に立って捏ねくりあげた作だ。本タイトルも「天下をめぐる秀吉との暗闘」という副題も時代小説のタイトルとしては情けないし、登場人物の性格描写もあまりに単純で、これでは漫画以下としか言いようが無い。
信長、秀吉、家康の評価も、目新しさはない上に、繰り返しが多すぎる。作者はもともと信長フリークらしく、信長のこととなると誉める誉める。同様に本書の主人公利休のことも、何の曲も無く天才を賞賛するばかり。
単純でも、馬鹿馬鹿しくても面白ければそれでいいのだけど、Morris.には全く面白くなかった。
それではなんでこんなのを読んだのかというと、中村苑子の病症日誌に谷某氏の利休の本が面白かったと書いてあったのをうろ覚えしていたためだ。少なくとも本書のことではなかったのだと思いたい。


ロンド】柄澤齋 ★★★★☆タイトルと表紙の木口木版画に惹かれて手に取ったが、この版画も著者の作品と書いてあったので、ちょっと驚いた。
もともとが版画家で、エッセイなどは書いていたらしいが、本書が作者50歳過ぎての処女作だということになる。それだけでも興味深々なのに、ストーリーが凝りに凝ったもので、おまけに専門の美術は言うにおよばず、音楽、料理、服飾、写真から建築、心理学まで多様な蘊蓄を全編にわたって開陳してある。いやあ、ほんとにこれが初めての小説なのかと、疑いたくなるくらいの出来栄えだった。
SHIPという船の形を模した美術館のキュレータを主人公に、過去に一度だけ公開されて行方不明になった「ロンド」という作品と、それを取り巻く因縁の人々、殺人=芸術化する異常な天才、ロンド作者の血縁者たち、なかなかにおどろおどろしい展開もあるのだが、小説の構成自体を、いわゆるロンド形式に仕立て上げ、ミステリー風味も最後まで持たせる技量は生半可ではない。
「絶対音感」に比肩する「絶対視覚」という才能の持ち主が多数登場するのも、物語の重要部分を占めるし、作者自身の芸術論らしいものを、登場人物に語らせるところもMorris.には面白かった。
語彙も豊富だし、文体の好き嫌いはおくとして、充分に重厚、緻密でストーリーに似合ったものになり得ている。
登場人物に風変わりな姓名のものが多く、それぞれに意味や遊びを付加しているのも、唯名論者のMorris.の趣味に合っている。
性格描写も一癖も二癖もあり、こんなに物語にはまって読んだのは久しぶりだった。
物語の中で、異常な天才がモデルとする絵画も、ダビッドの「マラーの死」くらいは一般的だが、鎌倉時代の「九相死絵巻」、カラヴァッジョの「ホロフェルネスの斬首」「洗礼者ヨハネの斬首」などは、渋い選択だと感心してしまった。
「洗礼者ヨハネ」への主人公の論文が、犯人によって飲用されるくだりはなかなか読み応えがあるし、論文そのものがすごい。ちょっと長いが引用しておく。

人類が生んだあらゆる絵画の中で、『洗礼者ヨハネの斬首』ほど無慈悲なものはない。劇的なシーンなのに威厳もなく、ヒロイズムのかけらもない。宗教的メッセージもなく、音楽的な感傷もない。地球のすべての生物が息を止めてその惨劇を見つめる沈黙だけがあり、その沈黙が永遠に引き延ばされた無時間の中で、彫像のように凍結されたヨハネの肉体から抜け果てていくkもの--その衰滅の秘密だけに獄卒の視線はそそがれ、天からの光を弾き返す背の筋肉と、頚動脈を切開して腰に携えたナイフの冷たさが、あらゆる人間的なドラマへの謝絶を、天上的な調和への無関心を、画家と共有している。切り開かれたヨハネの首から迸る赤い血液は、踏み慣らされた獄の地面を潟ちながら、その最初の噴出で血文字を記そうとしている。文字は(f michelan...)と読める。fはおそらく、創造者を意味するラテン語fecitを詰めたもの。以下は画家の本名、ミケランジェロ・メリージを表わすのだろう。
この絵の中で画家は、切開するものと切開されるものの立場を往還する。画家は自画像として獄卒を描き、吹き出る血によって自らの創造物に署名する者として洗礼者を描いた。被害者と加害者は画家の呪われた人格の内で入れ替わり、その関係は、天地を覆される砂時計の、終わりなき交換の原理に鎖されている。
ここには個人の死を引き取る外部の生がなく、暴力を引き取る内部の生も存在しない。ここは主客を失った視線の、期待もなく希望もない観察だけが原理であり、画面を鑑賞し戦慄する者たちの視線は、鑑賞者自らに迫りくる死の兆しに変換される。
カラヴァッジョは神の不在はもとより、私たち個人の死を引き取る、外部の生の不在をも私たちに突き付けようとしているのだ。そこにあるのは言葉の真の意味における無慈悲と、あらゆる物語から廃嫡された生の、究極の孤絶である。
この無慈悲と孤絶は今日、数多くのフィルムとビデオ映像に姿を変えて消費されている。自然がもたらす災厄と、人為的な暴力の犠牲者たちが映し出される映像が繰り返し印刷物を賑わし、茶の間に流され、インターネットにはびこり、生活の安寧を脅かさないレベルの刺激を消費者たちに提供しつづけている。
だが、テレビやパソコンの画面もまた砂時計の括れた穴と同じく、不毛な砂の流通方向が入れ替わるだけの、孤絶の装置であることに変わりはない。茶の間に流される災厄を娯しむ人たちの災厄が、明日の茶の間で消費されないという保証はどこにもないからだ。この構造から立ち顕れてくるものこそ、私たちの死を引き取る外部の生の不在にほかならない。
死の映像が消費されればされるだけ、等身大の死は私たちから遠退き、私たちは自らの死を喪失する。今日の人類がことごとく感染しかかっている無慈悲の眼差し--。カラヴァッジョはそれを、いち早く個人の牢獄で培養してみせた先駆者であり、不吉な予言者だったと言えはしないだろうか。

先の「絶対視覚者」でもある主人公の「ロンド」との対面場面と、その描写も想像が付こうというものだが、ここでは割愛しておく。ともかくも、絶対視覚というからには、その洞察力、観察力、理解力、なども重要だろうが、まずは一般的な意味での視力が必須だろう。
このところ、ますます視力の衰えを感じるMorris.としては、何か空恐ろしいものを感じながら本書を読み終えた。
ストーリー展開のあまりの御都合主義ならびに、作り物的部分、主人公と恋人の愛情交換の場面のギクシャクぶりなど、微細な瑕はあるものの、面白かったのだから、それでいいのだ。


紅一点論】斉藤美奈子 ★★★★ 「アニメ・特撮・伝記のヒロイン像」と副題にある。
世界は「たくさんの男性と少しの女性」でできているといという、前書きからして直裁で魅力的である。

紅一点現象とは、第一義的には、もちろん「数」の問題である。けれどももっと重要なのは「質」である。紅一点のヒロインとは、「ひとりだけ選ばれて男性社会の仲間に入れてもらえた特別な女性」のことである。言葉にすれば簡単だが、これはいろいろとややこしい問題を含んでいる。「特別な女性」とは、ではどこがどんな風に特別なのか。「選ばれた女性」とは、ではいったいだれにえらばれたのか。それ以前に、じゃあ子ども向けの物語世界にも「男社会」があり、それに対抗する「女性社会」に相当するものが存在するのか。

相変わらず彼女の洞察力と分析力とパターン化の手際の良さには舌を巻く。
子どもの伝記に登場する女性偉人の三羽鴉、ナイチンゲール、キューリー夫人、ヘレン・ケラーの、アニメヒロインへの投影だけでも見事すぎる。

・ナイチンゲール伝は「ナウシカ」である
・マリー・キュリー伝は「セーラームーン」である
・ヘレン・ケラー伝は「もののけ姫」である

これだけ見ると??かもしれないが、本書を読んだMorris.は、これだけで、うーーーーん、と納得してしまう。
これは評論なのだろうが、Morris.には小説より面白かった。
斉藤美奈子は新型のフェミニストなのかもしれない。当人がそういった意思表示をしてるようにもみうけられるが、実はあるジャンルや、現象を取り上げて、仮説を練り上げ、それらしく一つの体系にしてみせて、われわれを幻惑することを楽しんでいるのではないかという節も見受けられる。
そんなことも含めて、Morris.は彼女の文章をよむことがとても快楽である。
本書で紹介されていた安彦良和の「ジャンヌ」も是非読まねばと思ってしまった。


国語辞典の名語釈】武藤康史 ★★☆ 辞書好きでは人後に落ちないつもりのMorris.なので、こういった類の本はついつい手にとってしまう。
楽器の音が辞書ではどう表現されているか、とか、「辞林」「広辞林」のことわざ解釈、「大辞典」の笑い声、大西巨人と「広辞林」など、目次をみるとすごく面白そうだった。意気込んで読み始めたが、だんだんしらけてきた。
そもそも「大辞典」というのが、Morris.の持ってる平凡社のものではなく、明治45年に嵩山堂から出た同名の辞典だったあたりから、ちょっと肩透かし食らったのかもしれない。しかもべつのところで、平凡社の大辞典への誹謗めいた発言もあって、いよいよ嫌になったのかもしれない。
明解国語辞典編纂者見坊豪紀の紹介は、これまで知らなかっただけに興味深かった。しかしこれもやはり、Morris.としては、「言海」の大槻文彦の方が好ましい。
見出し「ん」の項で、「日本国語大辞典」初版では
ん、んす、んず、んだ、んだ、んて、んで、んとす
の7語だったのが、第二版では
ん、ンジャナメ、んず、んだ、んだ、んだから、んだって、んだども、んだら、んて、んで、んです、んでも、んとす、んの、んば、んん
と、18語に膨れ上がってるというのも、面白かったが、必要なさそうな語が多いようでもある。
しかし、著者はこんな本を出すだけに、さまざまの辞書をよく読み比較してることは確かだ。
Morris.はこのところ、ほとんど辞書を読んでない。どころか、辞書を引くことすらめっきり減ってしまった。これはいかんと、反省するきっかけにはなったようだ。
約1/3で中断している、三省堂の例解古語辞典をまた読み始めることにしよう。
そういえば、本書も三省堂の出版で、内容的にも三省堂の辞書中心に論じられてる。と、思ったら、大部分が三省堂ブックレットに連載されてたものらしい。


読書休日】森まゆみ ★★★彼女は10年近く毎日新聞の書評委員をしていたらしい。本書は新聞や雑誌に寄稿した書評を中心に編まれている。例によって一葉、露伴、幸田文等偏愛作家へのオマージュを先頭に、関連別に6部に分けてある。
女性作家のものや、女性問題をテーマにした作品への言及が多く、特に私事(離婚)に絡んだ感想や表白が多く、その部分はちょっとだけ辟易してしまった。
感心したのは第4章「メディア・レッスン」に収められた9編だった。
ペリカン書房の品川力の「書物に索引を付けない奴は死刑にせよ」などというタイトルの文の引用や、「もう一つのメディア」のなかで津野海太郎が梅棹忠夫の「知的生産の技術」にふれて「すでに腹いっぱい食いすぎた男が、さらに効率よく食いつづけるためにこらした工夫が、ここでいわれているところの『情報の管理、検索のシステム』である」と書いてることの引用など、目の付け所がしっかりしている。
また小野二郎の「ウィリアム・モリス--ラディカルデザインの思想」を「社会主義」国家崩壊後のいまこそ、もう一度読まれるべきだとして次のように語っている部分は、多分に我田引水ではあるが、理解できる部分も多い。

たとえば「クラフツマンの自由な連合の質」といった労働の質を、社会主義は問うべきではなかったか。社会的生産を人間の本当の欲求にしたがわせるように再組織するにはどうしたらよいのか。そここそ悩むべきだ。
「愉快な労働」という言葉が頭に残る。「労働」という手ずれた暗い印象の言葉が楽しげによみがえる。私たち自身、企画、取材、執筆、割りつけ、校正、版下づくり、搬入、配達、郵送、帳簿つけ、ほとんど分業することなく三人で分担している。単調な労働を必要悪として片付けることなく、そこにいかに創造性を発揮するか。それが九年間の課題だった。

もちろんこれは、彼女が仲間と発行している、東京地域雑誌「谷中・根津・千駄木」制作を踏まえての言葉である.


日韓新考】黒田勝弘 ★★★★ 現在産経新聞ソウル支局長で在韓20年という著者の著作は数冊読んだが、本書はこれまで読んだ中で一番共感を覚えた。
2002年、ワールドカップ直前に新聞連載のコラムに、加筆したものだが、特に韓国人の反対感情に関する省察は、抜きんでたものと思う。
独島(竹島)問題に対する妥当な解釈、「親日派」というレッテル、自力で独立できなかったことへの「恨」が、日韓関係をギクシャクしたものにしているという視点もMorris.がずっと思っていたことの代弁のように思えた。
観光だけでなく、韓国と付き合おうと思う人には必読の本だと思う。


見えない配達夫】茨木のり子詩集 ★★★彼女の第二詩集(1958)の復刊である。「六月」「わたしが一番きれいだったとき」「小さな娘が思ったこと」「あほらしい唄」など、初期の名作が目白押しだが、いまだしという作も混じっている。詩集はそれでいいのかもしれないが、彼女は、日本の詩史の中ではどういった位置付けされるのだろう。
特に社会派ではないが、芸術至上派ではさらにない。しかし現代詩人の中では、かなり好きな詩人の一人であることは間違いない。
彼女の作品の中ではちょっと毛色の違う感じを受けた作品を引用しておく。30代の裕福ではない女性の独り言めいた、可愛い詩だと思う。50代のMorris.も、ごくごく共感を覚えざるを得ない。

せめて銀貨の三枚や四枚 茨木のり子

言葉をもたない
やさしいものたち
がらくたの中で
光っているものたち
私に使われたがって
ウインクする壺や
頸をのばす匙や
ふてくされている樫の木の椅子
いろいろな合図を受けとると
私は落ちつかなくなる
文なしの時は
見捨ててゆかなくちゃならないのだから
せめて
銀貨の三枚や四枚
いつもちゃらちゃらさせていよう
安くて 美しいものたちとの
ささやかな邂逅を逃さないために


モダンガール論】斎藤美奈子 ★★★★「女の子には出世の道が二つある」という副題がある。戦前、戦後を通じての日本女性史斎藤美奈子版だ。

そうなのだ。女の子には出世の道が二つある。立派な職業婦人になることと、立派な家庭人になること。職業的な達成(労働市場で自分を高く売ること)と家庭的な幸福(結婚市場で自分を高く売ること)は、女性の場合、どっちも「出世」なのである。

明治、大正の女学校創設時代から、青鞜の女性運動、女工、女中、女給、軍国婦人、女子大、女子短大、良妻賢母、キャリアウーマン、翔んでる女、アグネス論争等々、それぞれを、すっきり、ばっさり、あっさりと分析批評して、日本の女性の意識の移り変わり(変化の無さ)を、開陳してくれる。
史料や資料の読み取りの確かさと、洞察力には相変わらず、ひたすら感心するしかない。
女性誌の変遷から女性史を抉り出す手法も、実に生きている。
1970年「anan」の登場が、ウーマンリブより、女性の意識変格に寄与したものが大きいなんてのも、Morris.には嬉しい物言いだ。
表面上の動きから、ものの本質抉り出す手並みと、小気味のいい断定が、相変わらず絶好調で、Morris.はどんどん彼女のファンになってしまう。

お終いに付録みたいにある「戦前戦後の女性の動き・対照表」だけでも、彼女の論点と包括仕様のすっきりさ加減がよくわかる。
戦前の日本と女性の動き 戦後の日本と女性の動き
1889 大日本帝国憲法発布 
1896 学校令→義務教育スタート 
1894 日清戦争・日露戦争 
1899 条約改正(法権回復)
1946 日本国憲法発布 
1947 教育基本法・学校教育法→63制スタート 
1950 朝鮮戦争・特需景気 
1956 国連加盟
1900 治安警察法 
1899 高等女学校令→女学校ブーム 
1904 日露戦争・鉄道国有化 
1909 『婦人画報』「婦人の仕事」特集号 
1910 日韓併合・大逆事件 
1911『青鞜』創刊 
1913 「新しい女」話題に 
1914 第一次世界大戦参戦→戦後恐慌 

この時期 良妻賢母思考が普及する 
         第一波フェミニズム誕生

1960 安保闘争・国民所得倍増計画 
1964 短大制度恒久化→女子短大ブーム 
1964 東京オリンピック・新幹線開通 
1963 『女性自身』OLの名称を発表 
1969 学園闘争 
1970 第一回リブ大会・『anan』創刊 
1971 ウーマンリブ、「アンノン族」話題に 
1973 第4次中東戦争→石油ショック 

この時期 専業主婦増える 
        第二波フェミニズム誕生

1916 『婦人公論』『主婦之友』(17)創刊 
1920 新婦人協会→婦人政談演説自由化(22) 
1923 『職業婦人』『労働婦人』(27)創刊 
1924 東京市、婦人職業紹介所を開設 
1924 婦人参政権獲得期成同盟会 
1923 関東大震災→都市化の振興 
1918 母性保護論争 
1927 出生率激減→産児制限問題化 

この時期 職業婦人ブーム 
        主婦の生活改良熱高まる 
        洋装断髪・モダンガール流行

1977 『MORE』『クロワッサン』創刊 
1979 男女平等法要求集会→均等法施行(86) 
1980 『とらばーゆ』創刊 
1981 東京都、パートバンクを開設 
1985 女子差別撤廃条約批准 
1987 バブル景気→地上げの進行 
1988 アグネス論争 
1989 1.57ショック→少子化問題顕在化 

この時期 キャリアウーマン・ブーム 
         主婦の家庭外活動熱高まる 
         ギャル・女子大生ブーム

1930 昭和恐慌 
1931 満州事変 
1936 2.26事件 
1937 日中開戦・国家総動員法(38)
1992 バブル崩壊 
1991 湾岸戦争・PKO法成立(92) 
1995 オウム真理教事件 
1999 ガイドライン法等成立 

本書は、女子中学生から60歳までの全ての日本女性の必読書ではないかと、Morris.は思う。
しかし神戸図書館のOPACで検索かけても、たいてい彼女の本は貸し出し中状態だから、これはMorris.の、余計なお世話なのかもしれない。


あほらし屋の鐘が鳴る】斎藤美奈子 ★★★★ 彼女の本も3冊目か。先の「妊娠小説」はいまいちだったが、本書は十二分に面白かった。彼女はやっぱり今いち押しだね。
96年から98年にかけて雑誌や新聞に書かれた書評(雑誌評)、TV番組評、世間話(^o^)などを集めて、手直ししたものらしい。超短文に今月のお勧め3冊分の紹介を詰め込んだアクロバチックなものや、女性雑誌を縦横無尽に分析してこてんぱんに論じたもの、子どもの命名による家庭論、渡辺淳一「失楽園」をネタにした
スケベオヤジ論等々、どれもこれも、まあ、小気味良いくらいのテンポで、当たるをさいわいなぎ倒す力量と、文才には舌を巻く。

とりあえずハードボイルド小説(和製の)を「男性用のハーレクインロマンスなのだ」と喝破するところからして素晴らしすぎる。
芸能人めいた名前を付ける親の気持ちを分析して

思い入れ過剰な名前は、子どもをマスコット化したがる親の意識のあらわれだが、親の大げさな(的外れな)期待は、子どもには迷惑なだけ。場合によっては成長の妨げにもなる。警戒すべきは親の勘ちがいなのだ、と。

と、あっさり片付け、

私たちの教訓としては、つける側もつけられた側も、名前(ごとき)に感情移入しすぎないのが賢いやり方である、ってことでしょうか。似たような名前なんて、世間にいくらでもあるんだから。斎藤美奈子がいい例です。

と、結論付ける。これはこれで上手いんだけど、唯名論者Morris.としては、素直に肯けないところではある。

女の人は年齢に敏感で、年をとることに終始一貫ひそかな恐怖を感じています。あなたも自嘲的な気分で「あたしなんか、もうおばさんだし」と思っちゃったりしません?
ですが、今や脱工業化時代。生産性優先の社会には、すでに限界が来ています。まして人生八十年時代。若けりゃいいなんていうのは、アナクロ以外の何ものでもないでしょう。そう考えると、最初にあげたCM(20歳近く年が離れていそうなカップルのCM)もあんまりオシャレじゃないよねえ。
「おばさんはおばさんだ」と発言するような方々には「このくそじじい」というサベツ語を献上したいところですが、下品になるので、それはまあやめておきましょう。

こういう軽妙なところもうまいなあ。
彼女の場合、分析力、洞察力、集約力、歴史知が際立って優れているという実力の上に、とんでもない文才(融通無碍、闊達自在、適材適所)を駆使してくれるので、Morris.はただただ相槌打つだけに終始してしまいそうだ。
とにかくしばらく彼女のものを読み続けるぞおっ。


深夜快読】森まゆみ ★★★☆ 山田風太郎のインタビュー本で感心して以来彼女の本を読み始めて、これが3冊目だがなかなか面白かった。あちこちに書き散らかした書評を集めたものらしいが、これでやっと彼女のアウトラインを知ったような気になった。
取り上げられているのは、?外、一葉など明治の文豪から、無名の人の作、最近のもの、小説、評論、実用書など、広範囲に読みまくりながら、彼女の個性はくっきりと見えるように表現されている。
120冊くらいの本が出てくるが、おしまいにちゃんと書名索引を載せているのも好感が持てる。
東京文京区生まれで、84年から地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊し、かなり地元に固執してるようだ。本書にもそれに関する本や、記述も多く、残念ながら田舎もののMorris.にはちょっと分りにくかった。
幸田文への傾倒ぶりも、ほどほどにしたらと言う感じがしないでもない。
また、町内の年寄りへの聞き書きも手広くやってるらしく、先駆者である篠田鉱造の「明治百話」「幕末百話」への賞賛も手放しである。
そういった風に、感情移入できるというのも、一種の才能かも知れない。
風太郎へのインタビューが際立っていたのも、この、年寄り聞き書きの修練の賜物だったのか、と、思い当たった(^_^;)
風太郎に関する文は「ただただ怖ろしい小説」というタイトルの一本だけだ。該当作は「魔群の通過」という、風太郎にしては、やや異作に属する作品だが、Morris.もこの作品には強烈な印象があった。
水戸の天狗党の話である。

風太郎は天狗党の愚かしさを簡単に断罪せず、反対にその滅びの美学を持ち上げてもいない。むしろ、魔群の通過地点で、「拙者、天狗党をたちどころに粉砕してごらんにいれる」と大言壮語しながら、彼らが引き返してくると知ると恐怖にかられて泣く子の締めた茅岳天骨の怯懦、安部摂津守の「賊徒恐怖いたし候や、駆け向い一戦もつかまつらず敗走」という噴飯ものの報告書、天狗党が通過したあとで大砲を三発撃っただけの高遠藩の腰ぬけぶりを描く。まさに天狗党は幕末の日本の映す鏡であった。

こういった理屈めいた物言いより、タイトルにある「ただただ怖ろしい小説」だったとという、初読の感想の方が彼女の感性を正直に吐露しているようで好ましい。


パルガンチャジョンゴ-赤い自転車】キムドンファ ★★★☆☆ 2月の韓国旅行で、ソウルのBOOKS LiBRO(元ウルチロ書店)のコミックコーナーで見つけて買って来たもの。
パルガンチャジョンゴ キムドンファはずっと前に「ファントッピイヤギ-黄土色の物語」という、非常に韓国的な抒情漫画の傑作を描いている。Morris.は結構これにはまっていた事がある。
その彼が、久しぶりに新作、それも、オールカラーのモダンなタッチの絵物語めいたハードカバーの本を出したと言う事にちょっとびっくりしたが、ぱらぱらと見ただけでもなかなか良さそうだった。
ヤファリという村の、若い郵便配達夫を主人公(語り手)にして、村での小さな出来事を4pという短い挿話を積み重ねていくと言うスタイルだ。
どうやら、これは新聞に連載されたものらしい。
この村は、小規模な農村だったが、新しく都会から移り住んだ人々の住宅地が建ちはじめ、古い村と新しい村が隣接する形になってきたところだ。
大きな事件が起こるわけではない。日常の中での小さな出来事ばかりを取り上げている。
新旧住民の軋轢や、交際ぶりも主題になるし、携帯電話の普及で、手紙がどんどん減っていく傾向への批判/悲しみも繰返し描かれる。ほのかな恋の思いが浮かんでは消えたり、幼くして亡くなる美少女の悲しい話、一人暮らしの老人の寂しさ、自然の美しさと豊かさなど、とにかく美しい作品ではある。
絵柄は過去の作品と比べると省略化されてるし、色遣いもアニメっぽい。始めの方の作品は、まるで、わたせけいぞう「ハートカクテル」風で、ちょっと辟易させられたが、だんだん落ち着いたタッチになり、個性的な絵柄になっている。
直線、曲線の正確さや、むらのない彩色からすると、たぶん、PC(マックだろうな)を多用してるものと思われる。
そのため、ちょっと物足りないカットも目に付くが、もともと描写力、画力は抜群の作家だけに、そのまま独立したタブローとして鑑賞できるページも多々見ることができる。更なる新しい境地を獲得する可能性大である。
顎に無精ひげ生やした(今や日本でも大流行中だが)主人公は、牧歌的で、非現実的だし、感傷的で、ロマンチストでもあるようで、作家の夢の世界の住人なのだろう。


必読書150】奥泉光他 ★★☆☆ だいたいこういう類の本は、ぱらぱらと立ち読みしておしまいなのだが、現在一押しの作家奥泉が絡んでいるというだけで借りてきた。7人のメンバーで選んだらしい。他のメンツは柄谷行人、麻田彰、岡崎乾次郎、島田雅彦、すが(糸+圭)秀美、渡部直己。
冒頭に50pほどの座談会があり、「このリストの本を読まないのはサルである」(柄谷発言)なんて見出しがあって、ますます見るのが嫌になってきた。
150選の内訳は、人文社会科学50、海外文学50、日本文学50で、Morris.の場合、いちおう日本文学は8割くらいは読んでるが、人文社会科学となると2割に満たないようだ。海外文学は半分くらいは読んでる気がするが、抄訳や、副読本として、飛ばし読みしたものもあるようではっきりしない。
ともかくも、ラインアップを引用しておく。
ついでに、Morris.が読んで、印象深かったり、感銘受けたり、大好きだったりする本は強調をかけておこう。

[人文社会科学50]
・プラトン「饗宴」・アリストテレス「詩学」・アウグスティヌス「告白」・レオナルド・ダ・ヴィンチ「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」・マキァベリ「君主論」・モア「ユートピア」・デカルト「方法序説」・ホッブズ「リヴァイアサン」・パスカル「パンセ」・スピノザ「エチカ」・ルソー「社会契約論」・カント「純粋理性批判」・ヘーゲル「精神現象学」・キルケゴール「死に至る病」・マルクス「資本論」・ニーチェ「道徳の系譜」・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」・ソシュール「一般言語学講義」・ヴァレリー「精神の危機」・フロイト「快感原則の彼岸」・シュミット「政治神学」・ブルトン「シュルレアリスム宣言」・ハイデッガー「存在と時間」・ガンジー「ガンジー自伝」・ベンヤミン「複製技術時代における芸術作品」・ポランニー「大転換」・アドルノ&ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」・アレント「全体主義の起源」・ウィトゲンシュタイン「哲学探究」・レヴィ=ストロース「野生の思考」・マクルーハン「グーテンベルグの銀河系」・フーコー「言葉と物」・デリダ「グラマトロジーについて」・ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス」・ラカン「精神分析の四つの基本概念」・ウォラーステイン「近代世界システム」・ケージ「ジョン・ケージ 小鳥達のために」・サイード「オリエンタリズム」・ベイトソン「精神と自然」・アンダーソン「想像の共同体」・本居宣長「玉勝間」・上田秋成「肝大小心録」・内村鑑三「余は如何にして基督教徒となりし乎」・岡倉天心「東洋の理想」・西田幾多郎「西田幾多郎哲学論集」・九鬼周造「「いき」の構造」・和辻哲郎「風土」・柳田國男[木綿以前の事」・国枝誠記「国語学原論」・宇野弘蔵「経済学方法論」

[海外文学50]
・ホメロス「オデュッセイア」・旧約聖書「創世記」・ソポクレス「オイディプス王」・「唐詩選」・ハイヤーム「ルバイヤート」・ダンテ「神曲」・ラブレー「ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語」・シェイクスピア「ハムレット」・セルバンテス「ドン・キホーテ」・スィフト「ガリヴァー旅行記」・スターン「トリストラム・シャンディ」・サド「悪徳の栄え」・ゲーテ「ファウスト」・スタンダール「パルムの僧院」・ゴーゴリ「外套」・ポー「盗まれた手紙」・エミリー・ブロンテ「嵐が丘」・メルヴィル「白鯨」・プローベル「ボヴァリー夫人」・キャロル「不思議の国のアリス」・ドストエフスキー「悪霊」・チェーホフ「桜の園」・チェスタトン「ブラウン神父の童心」・プルースト[失われた時を求めて」・カフカ「審判」・魯迅「阿Q正伝」・ジョイス「ユリシーズ」・トーマス・マン「魔の山」・ザミャーチン「われら」・ムージル「特性のない男」・セリーヌ「夜の果てへの旅」・フォークナー「アブサロム、アブサロム!」・ゴンブローヴィッチ「フェルディドゥルケ」・サルトル「嘔吐」・ジュネ「泥棒日記」・ベケット「ゴドーを待ちながら」・ロブ=グリエ「嫉妬」・デュラス「モデラート・カンタービレ」・レム「ソラリスの陽のもとに」・ガルシア=マルケス「百年の孤独」・ラシュデイ「真夜中の子どもたち」・ブレイク「ブレイク詩集」・ヘルダーリン「ヘルダーリン詩集」・ボードレール「悪の華」・ランボー「ランボー詩集」・エリオット[荒地」・マヤコフスキー「マヤコフスキー詩集」・ツェラン「ツェラン詩集」・バフチン「ドストエフスキーの詩学」・ブランショ「文学空間」

[日本文学50]
・二葉亭四迷[浮雲」・森?外「舞姫」・樋口一葉「にごりえ」・泉鏡花「荒野聖」・国木田独歩[武蔵野」・夏目漱石「吾輩は猫であるあ」・島崎藤村[破壊]・田山花袋[布団」・徳田秋声「あらくれ」・有島武郎「或る女」・志賀直哉[小僧の神様」・内田百閨u冥途・旅順入場式」・宮澤賢治「銀河鉄道の夜」・江戸川乱歩「押絵と旅する男」・横光利一[機械」・谷崎潤一郎「春琴抄」・夢野久作「ドグラ・マグラ」・中野重春「村の家」・川端康成[雪国」・折口信夫「死者の書」・太宰治[斜陽」・大岡昇平[俘虜記」・埴谷雄高「死霊」・三島由紀夫「仮面の告白」・武田泰淳「ひかりごけ」・深沢七郎「楢山節考」・安部公房「砂の女」・野坂昭如「エロ事師たち」・島尾敏雄「死の棘」・大西巨人「神聖喜劇」・大江健三郎「万延元年のフットボール」・古井由吉「円陣を組む女たち」・後藤明生「挟み撃ち」・円地文子「食卓のない家」・中上健次「枯木灘」・斎藤茂吉「赤光」・萩原朔太郎「月に吠える」・田村隆一「田村隆一詩集」・吉岡実「吉岡実詩集」・坪内逍遥「小説神髄」・北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」・福沢諭吉「福翁自伝」・正岡子規「歌よみに与ふる書」・石川啄木「時代閉塞の現状」・小林秀雄「様々なる意匠」・保田與重郎「日本の橋」・坂口安吾「堕落論」・花田清輝「復興期の精神」・吉本隆明「転向論」・江藤淳「成熟と喪失」

しかし、こうやって見ると、大半は、有名すぎるものばかりだ。「必読書」ということからすれば、それも当然かも知れないが、やっぱり面白味に欠けることは否めない。
それぞれの作品にはメンバーが簡単な書評?を記してるのだが、原稿用紙2枚という制約もあって、物足りない。
Morris.は奥泉の書評だけをさっと流し読みした。ちょっとは面白いものもある。こんなことなら、いっそ、奥泉一人でセレクトしてくれたら、別の意味で面白い試みになったかもしれない。


「演歌」のススメ】藍川由美 ★★★ ソプラノ歌手である筆者は、古賀政男の作品をウィーン・シュランメル・アンサンブルのバックで録音したりしている。
日本の歌謡曲作曲家、中山晋平、古関裕而、古賀政男などの作品を分析する中で、日本古来の音楽をなおざりにして、西洋音楽一辺倒だった従来の音楽教育に疑問を呈している。
本居長世の、日本の古典音楽と西洋音楽との融合、古賀政男の初期作品の器楽編成の多様さに着眼して、彼がいかに世界各国の音楽を取り入れているかを実証、また、仏教声明の旋律型を古賀メロディのこぶしに対照させて当てはめていく。これはなかなかスリリングで面白い説だった。
日本音階と、ピッチ、音階の違いなどの部分も興味深い。

われわれは、明治以来ずっと民族独自の音楽文化を卑下しつつ、西洋のごく一部の地域の、一部の時代の音楽を模倣し、崇拝してきたわけだが、実のところ、それにどんな意味があったのかを私は量りかねている。そこで、日本人が抱き続けてきた西洋音楽コンプレックスの実体を、そろそろはっきりさせておきたいと思ったのである。
いかなる民族であれ、その根幹にあるのが言葉と音楽であることは論をまたない。そして歌は言葉から導き出されるわけだが、単に語学や音楽理論を学んだからといって、本当の意味で他民族の歌が演奏できるようになるとは限らない。母音や子音の発音はもちろんのこと、音階やピッチなど、民族や地域や時代によって変化する事柄は余りにも多すぎる。
あまつさえ人は、自国の言葉や文化ですら、そのすべてを把握しないまま死んでゆく運命にある。それなのに、なぜ、いとも簡単に他民族の文化を理解できると信じ込めるのだろうか。しかも国際的なクラシック産業は、そういう日本人を手玉にとることで成り立っている。その一方で、日本人が自国の音楽文化を蔑ろにしてきたために、民族独自の美意識に立った芸術家や作品の多くが正当な評価を得られないまま冷遇されているという側面も捨て置くことはできない。本書で取り上げた古賀政男、中山晋平、本居長世といった作曲家やその作品は、氷山の一角に過ぎないのである。

その心意気や良し、だが、やや彼女の文章には我田引水に過ぎる部分が見える。とりあえず、彼女の歌った古賀作品というの聞いてみたいものだ。


俳句礼賛】中村苑子 ★★★☆2001年1月5日に永眠した中村苑子。本書はその3ヶ月後に出ている。まさに遺著とでも言うべきものだろう。内容は「俳句研究」に連載したものが大部分で、季節ごとの選句、文人、詩人、画家などの句を論評したものが多い。副題の「こころに残る名句」とあるのもそれを踏まえたものだろう。新興俳句の女神的存在であり、高柳重信の同伴者として、多くの俳人との交流も深く、取りあげる俳人との個人的係わりあいが尋常でなかったことが、文章の端々に表われている。その代わり、知人への礼節か、選句も高名なものや、著者所蔵の書名本に書かれた句が多かったり、気遣いや、遠慮が感じられる。
また、同性の俳人への論評には、好き嫌いが露骨に出ていたりもする。
Morris.は、後半の「高柳重信物語」「重信ノート」を読みたくて借りた。
「重信箴言」から引用する。

・俳諧とは要するに精神の遊びであり、高価なものである。その遊びを高価なものにするためには、それに先立って思い切った浪費が必要である。俳諧の精神とは、決して平凡な生ぬるいものではない。むしろ激情の鎮撫なのである。
・偶然を必然に近づけるのがすなわち方法だ。
・ものとものとの関係を、言葉と言葉との関係で捉えること。作品はいつも一回かぎり。方法もいつも一回かぎり。
・俳句を書くという行為は、そこに精神の権化である一匹の鬼を出現させることである。そして鬼こそは、古くから「もの」と呼ばれる、得たいの知れぬ不可思議なものであった。


本当は中村苑子の句なり、文章を引用すべきかも知れないが、何となくそれはためらわれる。
最後にやはり「俳句研究」に連載された、晩年というより、死の直前の入院日録が収められている。これは、図書館で、リアルタイムで読んでいたため、こうやってまとめて読むと感慨一入である。


風々院風々風々居士 山田風太郎に聞く】聞き手森まゆみ ★★★★ 風太郎が亡くなったのは2001年7月28日。本書はその年の11月に出ているから、一種のキワものかと思ったのだが、いやいや、晩年のインタビューものとしては、一番面白かった。
94年と96年の雑誌インタビュー。97年に出た「山田風太郎明治小説全集」の末尾に掲載するためのインタビューが収められている。
最初の訪問の子細と、インタビューは、逐語録風で、この森まゆみという人物はMorris.は未知だが、なかなかの曲者だと唸らされてしまった。山田作品(特に開化もの)を読み込んでいることはもちろん、そのあたりの人物や、墓のことなどにやたら詳しい。
同行した古本屋主人二人の口添えもあってのことだろうが、これまでの山田風太郎の対談、インタビューものにはない、深さをもっているし、臨場感もある。2回目のインタビューは、別の雑誌という事もあって、内容が重複する部分も多く、ちょっとしらけるが、Morris.の座右の書「人間臨終図巻」の続編を書くために資料を集めているという発言は、今となると、全くもって惜しいと思う。最後の自作を語る態のインタビューは、退院直後の風太郎がかなり弱っているので気の毒にもなるが、これだけ系統立てて自作の解説や思い出話を、活字として残してくれたことに、感謝したい。
風太郎がフェミニストである、ということをしきりに森が言挙げし、風太郎本人も否定はしていないが、Morris.は、風太郎の女性讃美、擁護、贔屓、肩入れは、フェミニズムではないと思う。
中学生の時無くした母のイメージと渇望が、原型となっているという指摘、いわゆる、マザコンから来ているというのは、半分あたっているようでもあるが、何か本質的に風太郎の中に理想の女性、というか、原型としての女が住んでいるように思う。
そんなことはおくとしても、あちこちに出てくる風太郎自信の思い出話、エピソード、裏話、歴史ディテールの話のタネ、作品の種明かしなど、興味尽きない一冊だった。森まゆみにも大いに興味が出た。今度読んでみよう。
人生五十年を本気で信じていたMorris.だけに、最近やたら「余生」という言葉を使いたがるが、本書で風太郎がそのことを言ってるのを見つけて、嬉しいような、面映ゆいような気にさせられた。

--- 私の父もよくそういうんです。父は昭和二年生まれで学徒出陣ギリギリ手前なもんで、やはり自分は死にそこねたという気持ちが強いみたいで。
風太郎 ああ、みんなそういうこというなあ。このあいだも中学の同窓生が集まって飲んだんだけど、やっぱりみんなその気持ちは強いね。終戦直後、よく呟かれた言葉で、これからは余生だというの。それを口にしない男はいなかったでしょう。

風太郎 僕は元来なまけものだし。『柳生十兵衛死す』以来、五年くらい小説は書いてないね。大体、戦後はずっと余生みたいな気がしてるんだ。


歌集 葉桜】李正子 ★★★☆ 「鳳仙花のうた」「ナグネターリョン」に続く彼女の第三歌集だ。97年発行となっている。いちおうMorris.はその全てを読んだ事になる。「在日」ということを前面に出して、というより、在日を主題にした歌が多く、Morris.は短歌作品としてより、在日への共感(Morris.は在日は在日でも在日日本人だが(^_^;))として読んだ記憶がある。
本書もまた同工異曲であるが、決して彼女は歌が下手とか稚拙というわけではない。ただ、しばしば、文法的誤謬や、あまりにストレートな歌以前の作品が散見されるため、全体的印象がやや雑に見えてしまう。

想ひ出は水のごとしも昏ぐらと冬のたそがれに散る一樹あり
混血へなだれ混沌のふかむ地に血族ひとりうしなひました
国籍と国家を一致させるときファシズムの波あわだちて
同一化同化帰化には委ねない日本語にものを思ひ書くとも

以上のような作品群は書かずにいられなかったとしても、歌集には収載しない方が良かったろう。
Morris.の印象に残った歌も挙げておこう。

白詰草紫詰草乱れふる雨ふる夢ふる夢迷ひ人のうすい鼻梁に
朝潮橋 波除 夕凪 港通り失踪したし海尽くるまで
寂しくて貝になりたし木になりたしをみなはみなものをいふ肉をもつ
うつすらとゆきにのこれる靴のあとかなしみよこんな具合にあとから
明日は来る日と呼ぶ朝鮮語くるといふおもひの空に星いくつ住む


あとがきによると、第二歌集から本書を上梓するまでの6年間に、妹が死に、父が死に、破婚を迎え、母は痴呆が激しくなり、民族運動に参加し、韓国を初めて訪れたり、とさまざまな事があったらしい。それを踏まえて本歌集を読めば、確かにその言いたいことは理解できるが、それと歌の質とは関係ない。
Morris.はこれからも、彼女の歌集を読みつづけるとは思うが、やはりそこにあるのは「在日」への共感(あるいは、興味、関心、心配その他もろもろ)という視点でしかないのだろう。

この国に生れしことの幸不幸おもはぬ明るき空に虹たつ


茨木のり子詩集 対話】茨木のり子 ★★★ 童話屋がこのところ茨木のり子の詩集を復刊してくれているので、ゆっくり彼女の過去の詩と対することが出来て嬉しい。「対話」は1955年に出た彼女の第一詩集である。
不知火社という川崎洋のいとこが起こした出版社だったらしいが、この本が第一冊目で、売れず、結局倒産してしまったらしい。そのことに関して彼女はずいぶん負い目を感じていたようだ。
なかなか第一詩集で、売れることはむずかしい。まあ、いまとなっては、友情のエピソードとして懐かしがられる事かも知れないが、当時の当事者としてはいたたまれなかっただろう。
18編の詩が収められている。「根府川の海」とか「方言辞典」とか、既知のものもいくらかあったが、未見のものや読んでても忘れてしまったらしいものの方が多かった。そう言う意味では新鮮に読めたのだが、やはり後期の自由奔放にして的確な比喩、絶妙のリズムと呼吸を持つ作品と比べると、ちょっと生硬な気がする。
もちろん、彼女の美質が表われている詩も少なくないのだが、感激まで持っていけないものが多いようだ。
一番好きなのは、やはりタイトル作だった。


対話 茨木のり子

ネーブルの樹の下にたたずんでいると

白い花が烈々しく匂い
獅子座の首星が大きくまたたいた
つめたい若者のように呼応して

地と天の不思議な意志の交感を見た!
たばしる戦慄の美しさ!

のけ者にされた少女は防空頭巾を
かぶっていた 隣村のサイレンが
まだ鳴っていた

あれほど深い妬みはそののちも訪れない
対話の習性はあの夜幕を切った。


陋巷に在り13 魯の巻】酒見賢一 ★★★★☆☆ ずいぶん長い間にわたって、Morris.を楽しませてくれたこの長編も本巻で終わってしまった。
孔子と顔回ともに、魯の国を離れ、これから旅が続き、物語はいくらでも起きるはずなのだから、ここで止めないで欲しいと思うのだが、後書きで作者は「顔回が陋巷からいなくなると、『陋巷に在り』ではなくなってしまうから---」と、やや韜晦気味にその理由を述べている。未練がましく不平を言うより、これまでの成果に賛辞と感謝を捧げよう。
主人公はいちおう顔回であるが、もちろん孔子の動向が中心になっているし、中国の広大で複雑な歴史の一場面を現出するためにも、作者の筆は縦横に飛び回っている。さらにこれこそメインテーマといえる、儒と呪の世界の描写においては、本作品はまさに画期的といえる境地に達した労作で、日本の幻想文学を語る上で落とすことのできない作品になった事もまず間違いないだろう。
中国思想と古典への博識の裏打ちもあり、文体も要にして簡を得たすっきりしたもので、内容に比してすらすらと読ませてくれる。実に端倪すべからぬとはこのことだろう。
機会があれば是非、一度最初から一気に読みとおしてみたい作品だ。
本当に感謝したい


現世しか見えぬのに坐祝に半可通に手を出す者を欺くのはそれほど難しくはない。結局、何も知らないのと同じであるからだ。なま噛りに坐祝の世界を知ったりしていれば、ある意味では何もしらないよりも、かえって厄介なことになる。「知」というものの恐さを知っておくべきである。「知」はそれを適当に扱う者の目を盲にし、しっぺ返しをし、真の知から遠ざけてしまう。人を突き放す「知」の冷酷な側面を知っておくべきなのである。よって知者は決して知をおろそかにせず、ひけらかしたりはしない。古聖賢の言うように「無知の知」を知るべきなのである。孔子が子路に『由よ、汝に之を知ることを誨えんか。之を知るを之を知ると
為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり』
と語ったようにである。
「由よ、お前に真に知るとはどういうことかを教えてやろう。
知っていることを知るとし、知らないことは知らないとする。
これが知る(ないしは知っている)ということである」一見、当たり前のことのように聞こえるが、潜む意味の深さを察するべきである。


本についての詩集】長田弘選 ★★★ 詩のアンソロジーというのは、いくらあってもかまわないし、本書のように、テーマを決めてあると、読む方もそのつもりで楽しめるからいい企画だと思う。
選者の長田弘には「世界は一冊の本」というとんでもない良い詩があるから、この選者にはぴったりだろう。本書にも「世界は一冊の本」が序詩としておかれている。
日本、世界を問わず幅広く、詩を渉猟してバランスよく選ばれているし、半分くらいはMorris.には初めての作品ということもあって、それなりに楽しんだ。
冒頭には中島敦の短歌「遍歴」55首が並べられていて、これも選者のひねりが聞いた憎い選択だとおもったのだが、なんとその1ページ目に誤植がある。
「遍歴」は、最後の歌を除いてすべて「ある時は」で始まる古今の芸術家を主題にした歌集なのだが、ノヴァーリスの歌の初句が「あの時は」となっている。これは相当に恥ずかしいものがある。さらに3ページのベートーベンの歌も同じミスだ。エッセイや小説でも誤植はなさけないが、詩歌、特にこの作品のように、同じ字面がずらりとならんで、それが効果を醸し出す大きな要素ともなるのだから、こんなポカミスは信じられないとしかいいようがない。みすず書房って、ちょっとはましな出版社かと思ってたが、これだけで信用を地に墜としたといえるかもしれない。校正畏るべしである。


読者は踊る】斎藤美奈子 ★★★☆ 作年読んだ「文章読本さん江」でぶっ飛んでしまったMorris.だが、次に読んだ「妊娠小説」(といっても出されたのはこちらが先、というかデビュー)にはそれほど共感できなかった。
本書は98年発行で、「タレント本から聖書まで話題の本253冊の読み方・読まれ方」とあるように、月刊誌「鳩よ!」に4年間45回連載された書評をまとめたものだ。取り上げる本は多岐にわたるというか、雑多だが、各回ごとの項目の立て方がまずもってうまい。さらに同系統の本をまとめ読みして一刀両断に評価するその裁きの太刀筋の見事さ、権威にびくつくところなく歯に衣を被せぬ物言い、そして融通無碍にして明晰な文体。
改めて彼女の実力に脱帽した。


・消えゆく私小説の伝統はタレント本に継承されていた
・字さえ書ければ、なるほど人はだれでも作家になれる
・芥川賞は就職試験、選考委員会はカイシャの人事部
・夏休みの課題図書は「じじばば」の巣窟だった
・身内の自慢話が「だれも悪くいわない本」に化ける条件


これが冒頭から5本のタイトルで、これに「カラオケ化する文学」と見出がつく。
相手あっての物言いだから、むらもあるし瑕もないわけではないが、突っ込むところは思い切りつっこむ勢いのよさは、今時のオトコには見られないめざましさである。


・「すわ震災」のチャンスを即興芸で語った人たち
の項で、朝日出版社「悲傷と鎮魂−阪神大震災を詠む」の編集協力人の齋藤愼爾)が呼びかけに応じなかった作家を批判したことに触れて「千載一遇のチャンスを生かそうとしない作者へのいらだち」と指摘してるのは的を射てるし、Morris.もこれで齋藤愼爾が嫌いになってしまった。

たとえば奥本大三郎&岡田朝雄「楽しい昆虫採集」は、現役昆虫少年の指南書である。奥本の昆虫礼賛エッセーはもはや食傷気味って人もいると思うが、淡々とした技術論が続く本書を横におくと「ポケットの中の野生」がいかに観念的かがわかってしまう。

国語辞典の比較で「大辞林」「大辞泉」「日本語大辞典」を取り上げて、「大辞林」を賞揚してるところは愛用者Morris.を喜ばせてくれるが、その誉め方も彼女一流のやりかたで嬉しい。
いやあ、やっぱりこれからしばらく、彼女のものなら何でも読むぞ。


オイディプス症候群】笠井潔 ★★★矢吹駆ものの長編ミステリー(880p)で、Morris.は笠井の作品は長いほど好きという傾向があるので、本書は迷わず手にとった。
しかし、舞台は地中海のミノタウロス島に建築されたミノス様式の大仰な「ディーダラスの館」で、ここにあまり理由も素性もはっきりしない各国人10名が招待され、偶然にか故意にか、外界との連絡を断たれ、その中で猟奇的な連続殺人劇が始まる。犯人と思われた人物がどんどん被害者となって、真相は怨念のどんでん返し、という、まさに、アナクロそのものの古典ミステリーである。
というより、これはパロディを意識してるな。
これにエイズをモデルとする新型ウイルスが大きな鍵として用いられ、さらに主人公「巷の現象学者」の薀蓄が披瀝される。
物語の進行係を兼ねる若い女性ナディアのそれなりに鋭い推理、別の学者の言説が思う存分開陳される上に、全体がギリシア神話の逸話をなぞったり、裏返したり、ひねったりしながら進行するので、本筋から逸れる事も多い。ギリシア神話の復習になったような気もする。
でもMorris.はこういうのが、嫌いではないから、それなりに楽しめた。
ジャンルは大衆推理小説なのに、巻末の参考文献には、フーコー関連が6冊、ギリシア神話関連8冊、エイズ関連5冊、ドストエフスキー関連2冊などなど、ややこしそうなものが並んでいる。もちろん、本書のネタ元ともいえる「そして誰もいなくなった」もある。
矢吹駆の薀蓄の一端を、彼に片思いしている物語進行者でもあるナディアが、引用、解説する形で述べている部分を引いておく。


カケルはヒンズー教の聖者の言葉を引用して教授に答えたのだが、それはフッサール現象学の精髄を暗示するものでもあった。イギリス経験論の伝統に忠実に、人間は主観性の世界に同じこめられていると現象学は主張する。人間は「ここにある私」が認識できるが「ここにあるもの」の世界の外側に、何か真の実体性超越性が存在すると思いがちなのだけれど、それは虚妄にすぎない。
ヒンズー教の聖者の言葉「ここにあるものは彼方にあるものだ。ここにないものはどこにもない」とは、実体性や超越性として了解されるすべてが、認識主義のスクリーンに映った現象にすぎないという意味だろう。二年間の折に触れた対話で、わたしは矢吹駆という巷の現象学者の発想が少しでも理解できたように思う。この二年のあいだに、わたしも現象学の基本文献は読み終えている。
ようするにカケルは、ものごとが「真に」あるのかないのかを、人間は「真に」決定することなど原理的にできないといいたいのだ。事実と夢幻のあいだに原理的な区別はない。わたしが[現実」だと信憑するリアリティの強度だけが、すべてを決定する。現実よりもリアルな夢がある一方、夢よりもリアリティが希薄な現実もある。このような場合には、夢が現実で現実が夢であるとしか考えようがない。事実と夢幻を絶対的に区別できる原理など、人間には与えられていないのだ。


例によって、トリックには前もって読者には想像できないような要素が、あとになってボロボロ呈示されたりして、それほどよく出来てるとは言いがたいし、同じ著者の作中Morris.が一押しの「哲学者の密室」に比べると、やや物足りない気がした。


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