2000年読書控

Morris.は2000年にこんな本を読みました。162册になります。読んだ逆順に並べています。

タイトル、著者名の後の星印は、Morris.独断による、評点です。
★20点、☆5点  

セル色の意味 イチ押し(^o^) おすすめ(^。^) とほほ(+_+)
■【江戸百夢 近世図像学の楽しみ 】田中優子 ■【神州天馬侠 】吉川英治 ■【追悼の達人 】嵐山光三郎 ■【恨の文化論 】李御寧
■【陋巷に在り 11 顔の巻 】酒見賢一 ■【新解さんの読み方 】鈴木マキコ ■【小説 春峰庵浮世絵贋作事件 】久保三千雄 ■【文福茶釜 】黒川博行
■【俳句は下手でかまわない 】結城昌治 ■【はだか風土記 】池田弥三郎 ■【セレス 】南條竹則 ■【ぼぎちん 】横森理香
■【白磁の人 】江崎隆之 ■【おはん 】宇野千代 ■【だましゑ歌麿 】高橋克彦 ■【満漢全席 】南條竹則
■【アジア パー伝 】西原理恵子 鴨志田穣 ■【あくび猫 】南條竹則 ■【日本語の値段 】井上史雄 ■【江戸ストリートファッション 】遠藤雅弘
■【文字の文化史 】藤枝晃 ■【金素雲『朝鮮詩集』の世界 】林容澤 ■【からだの文化誌 】立川昭二 ■【本多勝一の こんなものを食べてきた! 】堀田あきお&佳代
■【鬼才 李賀 】中田昭栄 ■【実用 青春俳句講座 】小林恭二 ■【身世打令 】姜(王+其)東 カンキドン ■【いのちの緒 】角川春樹
■【パソコンの論点1001 】大川彰編著 ■【俳句という愉しみ 句会の醍醐味 】小林恭二 ■【海嘯 】中島みゆき ■【猿蓑倶楽部 激闘!ひとり句会 】小林恭二
■【熱い絹 上・下 】松本清張 ■【はじめてのパソコン書斎整理術 】林晴比古 ■【食べ暮らしダイエット 】魚柄仁之助 ■【俳句入門 】 楠本憲吉
■【俳風動物記 】宮地伝三郎 ■【二重言語国家・日本 】石川九楊 ■【写真の時代 】冨岡多恵子 ■【大江戸鳥暦 】松田道生
■【居酒屋大全 】太田和彦 ■【ポケット・フェティッシュ 】松浦理英子 ■【ぼくの鳥の巣コレクション 】鈴木まもる ■【青春18切符パーフェクトガイド2000-20001 】神戸寧彦
■【岸和田少年愚連隊外伝 】中場利一 ■【鮮魚師(なまし) 】永井義男 ■【俳句 四合目からの出発 】阿部【竹冠+肖】人 ■【ゼロ発進 】赤瀬川原平
■【雨のことば辞典 】倉島厚編集 ■【倚りかからず 】茨木のり子 ■【エンガッツィオ指令塔 】筒井康隆 ■【完本 文語文 】山本夏彦
■【バックパッカーズタウン カオサン探検 】 新井克弥 ■【編集者諸君! 】嵐山光三郎 ■【17歳のバタフライナイフ 】別役実、宮崎学 ■【ジャズ・アネクドーツ 】ビル・クロウ 村上春樹訳
■【作家の値うち 】福田和也 ■【面目ないが 】寒川猫持 ■【文人悪食 】嵐山光三郎 ■【蚤のサーカス 】藤田雅矢
■【小公子 】 原作・バーネット 千葉省三 ■【写楽 その隠れた真相 】田中穣 ■【起きて、立って、服を着ること 】正木ゆう子 ■【写生の物語 】吉本隆明
■【虚構まみれ 】奥泉光 ■【遊部−あそべ 上・下 】梓澤要  ■【魔法使い 山本夏彦の知恵 】小池亮一 ■【突破者の痛快裏調書 】宮崎学
■【優柔不断術 】赤瀬川原平  ■【五体不満足 】乙武洋匡 ■【ひと月900円の快適食生活 】魚柄仁之介  ■【歳時記 脚注 】真下喜太郎
■【詩集 愛情69 】金子光晴  ■【アメリカ音楽 ルーツガイド 】鈴木カツ監修 ■【インドの染織 】畠中光享編著 ■【食味形容語辞典 】大岡玲
■【えんちゃん 岸和田純情暴れ恋 】中場利一 ■【漱石先生 大いに笑う 】半藤一利 ■【 彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄 】金井美恵子 ■【タイ語でタイ化 】下川裕治
■【ニッポンマンガ論 】フレデリック・L.ショット樋 口あやこ訳  ■【 まぼろしの戦争漫画の世界 】秋山正美 ■【できるかなリターンズ 】西原理恵子 ■【なんでんかんでん 】川原ひろし
■【日本の美術228 春信 】小林忠編 ■【玉石集 】アサヒグラフ編 ■【ゆめはるか吉屋信子 】田辺聖子  ■【マンガ狂につける薬 】呉智英 
■【身辺図像学入門 】岡泰正 ■【新々百人一首 】丸谷才一  ■【現代歌まくら 】小池光 ■【江戸化物草紙 】アダム・カバット 校注編 
■【わたしのグランパ 】筒井康隆 ■【書の宇宙 21 さまざまな到達・清代書家 】石川九楊編集 ■【少年H 】妹尾河童 ■【大江戸化物細見 】アダム・カバット校注編
■【阿波の野鳥 】吉田和人 ■【電脳社会の日本語 】加藤弘一  ■【ネイティブスピーカーの単語力 1.基本動詞 】大西泰斗、ポール・マクベイ ■【もっとどうころんでも社会科 】清水義範  西原理恵子
■【他人をほめる人、けなす人 】フランチェスコ・アルベローニ大久保昭男訳 ■【空耳飛行 】近藤達子 ■【本のちょっとの話 】川本三郎 ■【読書学 】夏目房之介
■【食の名文家たち 】重兼敦之 ■【アジアの風に身をまかせ−アジア浮遊紀行 】下川裕治 ■【雑本展覧会−古書の森を散歩する 】横田順彌 ■【下町小僧−東京昭和30年 】なぎら健壱
■【短歌という爆弾 】穂村弘 ■【恋する画廊 】倉本四郎 ■【床下仙人 】原宏一   ■【手帳でできる知的仕事術 】長井和久
■【私のタイ料理 】氏家昭子 ■【おかしな本の奮戦記 】堀内俊宏 ■【アジアカレー紀行 】高野たけし ■【土建屋懺悔録 】佐藤洋二郎 
■【平成ゾンビ集 】福田和也 ■【周公旦 】酒見賢一 ■【マンガの力−成熟する戦後マンガ 】夏目房之介 ■【採集栽培 趣味の野草 】前田曙山
■【在日キムチにおける誤解 食と難民をつなぐ関係 】田村研平 ■【抱腹絶倒 パソコンオタクになる方法 】國立實 ■【草木虫魚録 】高田宏  ■【TEA 茶の本 】クニエダ ヤスエ
■【英国紅茶への招待 】出口保夫 ■【手塚治虫の昆虫博覧会 】解説・小林準治 ■【知の編集術 】松岡正剛 ■【キッチン道具100図鑑 】中村壽美子
■【日本焼肉物語 】宮塚利雄 ■【新野菜料理 】高橋敦子 島崎とみ子 ■【世界一の日常食 】戸田杏子 ■【VaVa Voom ヌーディ・キューティの'50s〜'60s 】スティーヴ・サリヴァン 岩館葉子訳
■【虫屋の来た道 】江原昭三 ■【台所ともだち 】村上昭子 ■【tea 茶葉のことば 】カール・ベッキー+サラ・スレイヴン鈴木るみこ訳 ■【くれなゐ 】前川佐美雄
■【評伝 活字とエリック・ギル 】河野三男訳、著 ■【味覚日乘 】辰巳芳子 ■【耳部長 】ナンシー関 ■【夢幻の宴 】倉橋由美子
■【オール歌謡曲・LP歌のカーニバル 】平凡附録 ■【酒肴三昧 】森枝卓士 ■【夏草ヶ原 】梓澤要 ■【星と東西民族 】野尻抱影
■【ロゴスの名はロゴス 】呉智英 ■【書に通ず 】石川九楊 ■【日本語の当て字うんちく辞典 】村石利夫 ■【古本屋月の輪書林 】高橋徹
■【流行人類学クロニクル 】武田徹 ■【ほんの一冊 】いしいひさいち 【<さようなら>の辞典 】窪田般彌・中村邦生編 ■【昭和不良伝−越境する女たち篇】 斎藤憐
■【たぬきランド 1】西原理恵子、山崎一夫 ■【さらに・おとなは/が/のもんだい 】五味太郎 ■【ドリトル先生アフリカ行き 】ロフティング 井伏鱒二訳 ■【ジョゼフ・フーシェ 】シュテファン・ツヴァイク吉田正巳、小野寺和夫訳
■【霊長類ヒト科動物図鑑 】向田邦子 ■【うたの前線 】高野公彦 ■【客人 まらうど 】水原紫苑 ■【自給自足 】小林カツ代
■【おらが春 】小林一茶 ■【キムチの味 】ジョン・キョンファ ■【昭和 僕の芸能私史 】永六輔 ■【狐の読書快然 】狐
■【アリス・B・トクラスの料理読本 】高橋雄一郎・金関いな訳    
 

江戸百夢 近世図像学の楽しみ】田中優子 ★★★

今は無き「朝日ジャーナル」の廃刊前に連載したものと、7年後にほぼ同量を書き下ろしして完成させたもの。40点ほどの画像付コラムで、贅沢な作りだが、とりあえずこの手の本は、Morris.の意に沿う適う絵があればそれだけで点数が甘くなる傾向がある。本署では平均点は高いのだが、飛びぬけてMorris.を狂乱させるものはなかった。衆知のものが多かったということもある。歌麿の春画が無修正で掲載してあるのなどは、いい時代になったいう感慨を覚えた。広重の風景の空の紺に、版木の木目が残って見えるのが何故か印象的だった。


神州天馬侠】吉川英治 ★☆ 少年倶楽部傑作選の中に入っていたので、年末の時間潰しに、懐古趣味もいいのではないかと借りてきたのだが、子供向けとは言いながら、余りに御都合主義、ストーリーの雑駁さ、登場人物の行動のでたらめさに、呆気に取られながらとりあえず500ページ読み終えたのだが、こういうものが、70年前くらいの日本少年に熱狂的に受け入れられたというのが分からない。武田勝頼の忘れ形見が、再興を期して腹心や、盗賊の娘、鷲使いの少年などと様々な辛苦を受けながら、成長していくと言う、伝奇ものなのだが、皇家から神州(日本)のためとなる働きをすることを求められ、目覚めると言うとってつけたような結末は、あんまりであると思う。


追悼の達人】嵐山光三郎 ★★★「文人悪食」の流れをくむエッセイ集らしいので借りてきた。明治、大正、昭和に死んだ49人の文豪の、追悼文を中心に、文壇のあれこれを描いたもので、それなりにおもしろかった。Morris.愛藏本「人間臨終図巻」(山田風太郎)と照らし合わせて読み進めたのだが、あらためて、風太郎の筆の冴えに舌を巻くことになった。人間の死に方はさまざまで、何度読んでも飽きが来ない。追悼には本音が出るというのも一理あるし、やたら追悼の上手い作家(川端康成、三島由紀夫など)なんてのもいるし、長生きするほど仲間が少なくなるので、いい追悼文に恵まれないというのも変に納得させられた。
あまり追悼とは関係ないが、小泉信三が「世界」に書いた幸田露伴のエピソードを引いておく。

遠国からテラとメラという兄弟が日本へきて菓子屋をはじめた。テラは小麦粉を焼いてふくらませ、メラは砂糖を焼いてふくらませた。テラの方はよく売れ、メラの方は少しも売れない。メラはしょっちゅうテラに金を借りに行った。で、貸す兄は「貸すテラ」、弟は「借るメラ」となった。これは露伴の作り話で、眞面目にきいていた小泉は腰を抜かした。こんな考証ばかりして、小説原稿は書かないから、世間からはますます忘れられていく。

うーーーん、いい話しだなあ(^○^) Morris.は、前から露伴のことが気にかかってるのだが、ますます好きになってしまったよ。
ところで、嵐山の「活字の人さらい」という小説も一緒に借りてきたのだが、こちらは、橋にも棒にもかからないしろものだった。
 


恨(ハン)の文化論】イ・オリョン(李御寧) ★★★☆ サンパル100円ブックコーナーで掘り出したもの。日本での発行は昭和53年(1978)だが、原書は1963年に「この土、あの風の中に」というタイトルで第一部「韓国人論」、第二部日本人論、第三部欧米人論の3部構成になっていて、本書はその第一部に「恨(ハン)とうらみ」を加えたぶぶんである。第二部は「縮志向の日本人」のタイトルで、日本でもベストセラーになったからご存知の方も多いと思う。Morris.もその本で著者の名を知ったのだし、当時感心して読んだものだ。近年韓国語版も手に入れて再読したくらいだ。恨の文化論
本署は日本人論に比べると話題にならなかったが、コラムといってもいいくらいの短文ながら、寸鉄の文章ぞろいで感じ入った。
韓国人の欠点、弱点もはっきり指摘しているし、時によっては非難さえしているように見える。しかしその根っこには、祖国と祖国の民への愛情がある。
たとえば「チゲ(背負子)を嘆く」と題された文中

チゲは人工的なところがない。はじめからチゲの形をしている木の枝を伐り取って作っているので、釘一本打ち込んだ痕跡もない。チゲを支える支え棒にしても、Yの字形をした木の枝を利用したものだ。
チゲを差しおいては、土に生きる韓国人の生活を語ることはできないだろう。浪漫的な理由よりも、実生活の面で、チゲの使命は大きい。だがチゲには、言うにいわれぬ悲哀と苦役がまつわる。それ以上に苛酷な運命を象徴している。

チゲの自然さを誇るかのように語り始めながら、つまりは、車を使えるような道を作らず、いつまでもチゲで、ものを運ぶ習慣を続ける韓国人の順応の型に疑問を呈している。

誰もがみな、眼には見えない一つのチゲを、あの順応のチゲを背負って生きている。
いまわれわれの現実がこうであるから、民主主義をめざすことが困難であろうという人たちがいる。だから、われわれにみあうチゲ(民主主義)をつくろうというのである。
現実の道を打開して「自由」の荷車が通れるように道を拡げようとは考えないで、けわしい路をそのままにして、あの重いチゲを使用しようとする人たちは、その思考法式がひたすらに薄いのである。

著者は、あくまで近代合理主義者である。
しかし、本書の眼目は「恨(はん)の文化」の紹介にあるだろう。

人は望み事がなくても、他人から被害を受けただけで、怨みをもつようになるが、それは「恨」にはならない。「恨」は別に他人から被害をこうむらなっくても湧いてくる心情である。自分自身の願いがあったからこそ、また自分自身の能力があったからこそ、何かの挫折感がはじめて「恨」になるわけだ。それは、かなえられなかった望みであり、実現されなかった夢である。
憾みは熱っぽい。復讐によって消され、晴れる。だが、「恨」は冷たい。望みがかなえられなければ、解くことができない。憾みは憤怒であり、「恨」は悲しみである。だから、憾みは火のように炎炎と燃えるが、「恨」は雪のように積もる。
「恨」を解く。それは怨みを晴らすだけの話ではない。望みをかなえるということであり、新しいその世界での生を実現させることを意味する。

造本が垢抜けしてると思ったら、裝丁に杉浦康平の名があった。


【陋巷に在り 11  顔の巻】酒見賢一 ★★★☆☆ 孔子と顔回を中心に、虚実の伝奇世界をとんでもないスケールで書き続けている、酒見の畢生の大作の11巻目、小説が完結してないのに評価するというのも変なのだけど、とりあえずMorris.は今、日本の小説でこれが一番面白いと思う(^○^)。 すべてが理解できる訳でもないし、ストーリーの進行にもどかしさを感じたりもするのだが、なんか、はまってしまってる。早く完結して欲しい気持ちと、ずっと続けて欲しいと言う気持ちが葛藤してるというのが正直なところだ。


新解さんの読み方】鈴木マキコ ★★☆ 数年前、三省堂の「新明解国語辞典」の独得過ぎる語釈が話題になって、赤瀬川原平らがそれをあげつらった「新解さんの謎」という本を出してちょっともりあがったことがある。Morris.も読んだ。本書はその裏方だった、お姉さんが、それの続編+補足として出したものらしい。98年4月の発行だから、旬を外しているのは否めないが、まあ、辞書に関することならとりあえず面白がるMorris.なんで本書も、やや斜め読みながら、ところどころで笑わせてもらった。
著者のフットワークの軽さというか、無手勝流というか、怖いもの知らずというか、程の良い無知さに好感を持ってしまった。
「新解さんの謎」が第4版を対象にし、本書はちょうど第5版が出たばかりだったので、4,5版の比較を中心にしている。現在6版が出たかどうかMorris.は知らないが、とりあえず、新明解の語釈は、国語辞典として特徴が際立っていることは間違い無い。でもMorris.は、新明解も広辞苑も所持していない。現在Morris.が通常使ってるのは、三省堂の「大辞林」と、新潮社の「新潮国語辞典」だ、あとは「言海」と「大言海」しか持ってない。ということで、辞書好きを自認している割にMorris.の国語辞典の守りは余りに貧弱だということが露呈してしまった。いや、大正6年発行の「ABC引き日本辞典」もあったな。しかしこれも三省堂だ。うーーーむ、こうなるとやっぱり、新明解も1册手許に置くことにしようか。でも、広辞苑は買うつもりはない。

「凡人」という単語を一例として、Morris.手持ちの辞書と、新明解の語釈を比較してみよう。

[ABC引き日本辞典]
・Bon-jin(-ジン)[凡人]なみの人。つねの人。俗人。

[大言海]
・ぼん[志に"]ん(名)|凡人|ぼんにん(凡人)ニ同ジ。又ハンジン。
・ぼんにん(凡人)(名) 又ぼんじん。ヨノツネノ生レノ人。タダビト。

[新潮国語辞典]
・ボンジン[凡人]1.普通の人。2.身分のない人。平民。

[大辞林]
・ぼんじん[凡人]普通の人、平凡人。「われわれ−には思いつかぬこと」

[新明解国語辞典
・ぼんじん[凡人]自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。

面白ければそれでいい、というのはMorris.のスタンスではあるのだが、こと辞書としての新明解は「面白すぎる」というべきかもしれないなあ(^○^)


【小説  春峰庵浮世絵贋作事件】久保三千雄 ★★☆☆昭和初めに起きた肉筆浮世絵贋造事件を克明に描いた実録小説。親子3代を中心にした大掛かりな事件で、大学教授まで巻き込んだ異もあって当時大きく報道されたらしいが、現在に至るまで、肉筆浮世絵の研究がおざなりなのは、この事件の影響というのには驚かされる。
事件の中心人物矢田三千男(本書では矢野仙太郎)が、戦後雑誌に発表した暴露記事と、著者が個人的に手に入れた記録資料を元にしたと後書きにあるが、小説というには、あまりにも、資料と事件の推移(ほとんどストーリーには無用な部分までも)が書かれて、煩瑣に思えた。著者もそのへんは氣になったらしく、後書きで言い訳めいたことも書いてあるが、ポイントを絞り、贅肉をとって半分か1/3くらいにまとめて欲しかった。
Morris.の興味は、贋作の創作過程と、骨董屋と客の駆け引きなどにあったのだが、その意味においても、ちょっと食い足りなかった。主に製作を受け持った息子二人の手腕を、過大評価してるところもちょっと氣になった。


文福茶釜】黒川博行 ★★☆☆ タイトル作を含めた5編の短編集で、すべて美術骨董の贋作をテーマにしたもの。読む前からネタが割れてしまう分だけ興ざめしてしまった。別の単行本の巻末紹介で贋作ものということを知って借りたのだから、文句をつける筋合いは無いような物だがMorris.は長編だと思って借りたのだった。小説としては全体的に可も無し不可もなしだったが、例の「お宝鑑定団」に関連した会話が面白かった。

「そらすごい。コレクションをテレビの鑑定番組に出してみたらどうです」
「あの番組はヤラセやから派手な値がつくけど、売るとなったら半値ですわ。わたしもときどきオークションで鑑定をするからよう分かる」


俳句は下手でかまわない】結城昌治 ★★★ 87〜88年NHKラジオ番組がもとになったものだが、著者は推理作家としても著名だが、俳句は若い時結核で入院した療養所に石田波郷がいたのが縁となって始めたという。この放送の頃は、くちなし句会という仲間で楽しんでいる状態で、実に平明で、また数多く挙げられている例句が粒よりの上解説も簡潔でツボを押えていて、手頃なアンソロジーとしても楽しめた。
タイトルは柳田国男の「俳諧評釈」のはしがきから採られたもの。

俳諧の活きて居るといふことは、是からもどしどしと作られることであつて、ただ古い文献が版になることだけではなかつた。さうして勿論さうあるべきものと、前人も予期して居たのである。へたでもいいぢやないかといふことを、たつた一言いひ忘れたばかりに、みんな芭蕉翁を最高峰と仰いで、それからは降り坂となり、或はなまけて麓の草原に寝ころんでしまつた−−−


はだか風土記】池田弥三郎 ★★★☆講談社のミリオンブックスという新書本で、本書が昭和32年刊行となっているからそのころ出されたものには違いないがあまり記憶にない新書シリーズだ。巻末の目録を見ると、「アジアの四等船室/金素雲」「酔中一家言/尾崎士郎」「不安の倫理/石川達三」「白樺派の文学/本田秋五」などの随筆評論の他に、佐藤春夫、井上靖、石川淳などの小説も多いから、今の講談社文庫の前身みたいなものかもしれない。
横道に逸れたが、本書は雑誌キングに連載した「性風土記」をもとに、大幅に加筆増補したもので、民俗学から見た性をテーマに、35編のエッセー風にまとめてある。折口信夫に師事した著者だけに神話時代から江戸期の川柳、読本、現在にも残る風習、芸能、民謠などからの引用も多く、特に性に関わる言葉の渉猟には熱心で、題名とは裏腹にかなりアカデミックな内容となっている。

・お祭りは 先祖の血筋 切らぬため

・清元の「神田祭」など、そう通称しているからいい樣なものの、正式には「〆能色相図」と言う。これを、しめろ、やれ、いろの掛け声とよむ。まことにとんでもない題である。

・磨きあげても 地が鉄なれば ときどき 浮気のさびが出る (対馬民謠集)

・心中はほめてやるのが手向けなり

・世間多い心中も、かねと不孝に名を流し、恋で死ぬるは一人もない(近松「長町女腹切」)

・心中しましょか、髪切りましょか。髪は生えもの、身はたから。

昨今の著者は国語審議会の顔として、隠然たる勢力を持つ。漢字制限や仮名遣い問題などで、Morris.は、腹に据えかねる思いをしたものだが、本書を著わした頃の気概を忘れずにいて欲しいものである。本書は6年くらい前に鶴橋の楽人館の百均ならぬ、3册100円の棚で購ったものだが、読了えるまでに何でこんなに時間がかかってしまったんだろう?


セレス】南條竹則 ★★★いちおう近未来SFものということになるのだろうが、セレスというのがギリシア語で中国を表わすということからもわかるとおり、著者得意の中国を舞台にした幻想ものを、大掛かりな中国製ヴァーチャル・リアリティの世界という設定で今風なオブラートをかけた作品である。前半1/3が、日本人派遣社員の手記、殘りがその知り合いによるレポートという形式になっている。後半になるほど、対戦型ビデオゲームやRPGめいた展開になり感興を殺ぐ結果になってしまっているのは残念だった。
Morris.には、ヴァーチャル神仙世界のコンセプトや制作課程、仮想世界と現実世界の往来に関わる儀式めいた方法、仮想空間での行動や操作のためのマニュピレーション(手操)の古風な流儀、中国古来の神々を模した悪役の設定などに興味を覚えた。時代設定は21世紀後半となっているのだが、現在のネット状況を投影した部分が透けて見えてその分、安手に見えるのは欠点だと思う。
やはり、彼にはもっとストレートなファンタジー??を期待したい。


ぼぎちん】横森理香 ★★★☆☆「おはん」を読んだ翌日にこれを読むというのも、何かの因縁だろうか? 本書はバブルの時代を背景にした20の娘と40男の恋愛物語なのだが、無頼なのに憎めない男と、しらけながらも不思議に一途な娘(著者の分身?)との、バブリーで波瀾万丈な生活が、読者を振り落としかねないスピードで語り継がれる。常識人の世界とは次元を異にした二人の生き方と愛憎模様に、やっぱりMorris.はついていけないものを感じながら、一気に最後まで読まされてしまった。ハードボイルド小説に似た乾いた描写でありながら、人間の悲しさ、弱さ、純粋さ、狡さ、しかたなさなどを、単純化の極みとも言える性描写、心理描写で、無造作なほどに「ぽい」と提示してしまう文体を、著者はどこで手に入れたのだろう? これまで知らなかった新しいタイプの恋愛小説(といっても94年刊)の登場だと思う。登場人物の年は老いも若きも入り乱れているが、これは間違いなく「若さの小説」である。こういう作品は既にしてMorris.には、あまりにもまぶしすぎる。


白磁の人】江崎隆之 ★★★ 民芸運動の柳宗悦に、朝鮮の焼物や木工の素晴らしさを紹介し、朝鮮総督府時代に、朝鮮古来の陶磁器や木工の素晴らしさを発見し、保存、研究、整理、紹介に務めた、朝川伯教、巧兄弟の話は、いくらか耳にすることがあった。ことにソウルの山林復興の公務に就きながら、朝鮮人を愛し、朝鮮人から愛された巧には、心引かれるものがあったので、本書がそれに関するものと知って、借りてきた。
一応小説の形を取ってはいるが、Morris.は伝記として愛読した。
現在とは、比べ物にならないくらい朝鮮蔑視の傾向の強い、日本人の中に、最初から朝鮮へ愛情を持ち、朝鮮人以上に朝鮮の民芸を愛し理解した人物がいたという、それだけで言い知れない感慨を覚える。従来評価の高かった高麗青磁に対して、ほとんど省みられなかった李朝白磁の良さを最初に発見したのは兄の伯教だが、巧は、その白磁が憑り移った存在のようだ。朝鮮の陶磁器技術は、歴史の不幸と、朝鮮人の技術軽視(ならびに技術の一人占め)のために、ほとんど伝来されずにいた。それぞれの陶磁器の属性、時代別の名称さえ明らかになっていた状態だったという。たとえばMorris.の好きな「プンチョンサギ=粉青沙器」は、日本での通称「三島」と呼ばれ、時代も白磁の後と漠然と思われていたのを、兄弟が、白磁の前の時期ものと認定したりしている。その他、柳宗悦の「民芸館」への寄与の大きさ、というより、民芸運動自体が兄弟無くしては存在しなかったのではと思われるほどの影響を与えたという。その美術、歴史的価値は、永久に残るにちがいないが、それ以上に、兄弟、特に巧の、日本と朝鮮を全く区別せず、ともに愛し愛された人格こそ尊く思われる。
この美点を総督府が、融和政索の一環として利用したことも事實だが、歴史の篩にかけてみると巧の美質がだけが明確に残されている。例外的な一人を称揚して、数多の愚行を濯ぐことは出来ないのだが、あの時代にこういう日本人がいたということは、日本人のひとりとして、救いでもある。
小説としては不自然なところもあるが、ストレートな人物の捉え方、感情移入には好感を持った。巧の娘、園絵が、民芸館に長年務め、宗悦に関しては数篇の文章を草しながら、父に関しての一文もないことは少し残念でもある。本書では、白磁こそが父の生まれ変わりと思ったから、生身の父に就いて書くことはなかったと結論付けてあるが、どうだろう。


おはん】宇野千代 ★★★半世紀も前の、女流の高名な作を、今更初めて読むというのも、自分にもなぜなのかよくわからないのだが、つい拍子で借りて来てしまった。
二人の女の間を揺れ動く、はっきりしない男の独白体で、現在養われている女と、別れた妻とひとり息子への屈折した愛情、優柔不断というか、哀しすぎる、男と女の「性(さが)」が、綿々と書き込まれている。
Morris.は、途中で、もう勘弁してね(>_<)と何度も思いながら、ずるずると最後まで読まされてしまった。本作は200頁足らずで挿絵も多いから、中篇、いや、短編で通るかもしれない。著者は、これだけの作品を仕上げるのに10年かかったらしい。二人の女も男も、すべて自分の分身かもしれないと後書きにあるが、たしかに私小説を読んだような気になった。初版と同様の裝丁、挿画(木村莊八)が、時代の空気まで感じさせてくれてなかなか良い。しかし、このての世界は、こわい、こわすぎる(;_;)


だましゑ歌麿】高橋克彦 ★★★☆著者得意の浮世絵物で、寛政の改革の江戸を舞台に、幕府側の同心を主人公の反骨と、行き過ぎた倹約令に対する庶民側の反駁、駆け引きなどを描いた娯楽時代小説で、浮世絵師(歌麿、北斎)、黄表紙作歌(喜三二、東伝、春町)、書肆(蔦重)などお馴染みの連中が活躍するのでそれだけでも面白くない訳が無い。しかも本書では歌麿が女房を殺され、密かに押し込みの一団を組織して改革潰しを図るなど、えらく行動的だし、途中で身を隠して云々というストーリー展開だったから、Morris.はてっきり、写楽がらみなのだろうと当たりを付けて読み進めたのだが、これは裏をかかれてしまった。おしまいの大団円に持っていくための御都合主義や端折りはあるものの、脇役や色女にも魅力的なキャラクタがいるし、心理作戦や、あっと驚く展開もありで、エンターテインメントとして充分に楽しめる1册だった。


満漢全席】南條竹則 ★★☆☆さっそく見付けて借りてきた。200頁くらいの薄での中の半分が標題作、あと6つの短編で構成されている。短編は、著者の特長の萌芽は見られるものの、習作のようなもので、ちょっと食い足りない。標題作は、例のデビュー作の賞金をはたいて、抗州で宮廷料理「滿漢全席」ツアーを行った際の次第をノベライズしたもので、それなりに興味深く読めたし、Morris.など一生お目にかかれないだろう珍しい珍味、メニューの紹介や解説も楽しめたが、何と言っても、小説としての魅力には欠ける。ただ、先日読んだ「あくび猫」の登場人物の大部分が、この御馳走ツアーにも参加していて、ということは、猫も、虚々実々な著者の交遊世界の描写だったことがわかり、ますます、漱石の猫とのオーバーラップぶりが真実味を帯びてきて、何とも、羨望を禁じ得ない。
後書きの一行がいい。

中華料理と上等な蕎麦と、上等な寿司と、鯵のひらきがあれば自分は生きていると思う。

フランス料理は、3日もすると飽きるが、中華は、現地でずっと食べ続けることが出来て飽きることがないとのこと。そういえば副題に「中華料理小説」とある。


アジア パー伝】西原理恵子 鴨志田穣 ★★☆☆ このところよく目にする、西原身内本である。鴨ちゃん(いちおーフリーカメラマンで西原の亭主)のアジアでの回想みたいな、雑文に、あまり関係ない西原の漫画を組み合わせて、どうにか1册の体を成したというもので、Morris.はこのやり方には不満があるのだが、西原のファンではあるものだから、ぶつぶつ言いながらも読んでしまうことになる。本書も、見事なくらい、漫画と文章は別物なので、2册の本のつもりで読んだ。鴨ちゃんの、駄目さは、半端ではないが、その半端でないところで西原の旦那になったのだろうし、文章はともかく、ローアングルからの、タイ人観察は、それなりに面白かった。しかし、タイトルは、あんまりだと思う。「アジャパー」のギャグなんて、今ごろわかる者は少ないだろう。まあ、韓国語ではそのままで通じるんだけどね(^_^;)


あくび猫】南條竹則 ★★★★ Morris.が読むのは、デビュー作「酒仙」から、本書で3册目だが、いやあ、実に面白かった。あくび先生に拾われた猫「チビ」が、先生とその仲間たちとの交遊や、食事、会話の蘊蓄、与太話などを見聞して記録するという連作掌編。といえば、そう、漱石の「吾輩は猫である」の南條版なのだ。古来、「猫」ほど摸倣作品の多いのはないと思うが、玉石混淆の中、奥泉の「吾輩は猫である殺人事件」こそ、現代の猫本ナンバーワンと決め付けていたが、本書もタイプが違うものの、原作の雰囲気を髣髴させながら、飄々とした中に、様々な蘊蓄や、料理話、詩編なども散りばめてあり、飽きさせない。登場人物も原作に劣らない一風変わった人士が多く、それぞれにうまく書き分けられているし、描写は的確、文体も文句の付けようが無い。ユーモア感覚もバランスよく配合されているし、何よりもどぎつくない俳味みたいなところがある。「酒仙」の賞金で中国に渡り大宴会を催し「満漢全席」を著わしたというだけに、本物の中華料理の紹介も堂に入ったものだし、翻訳者としても活躍しているらしく、本人訳と思われる海外作品の引用も出来がよろしい。しばらくこの人の物を探して読むことにしよう。
と、べた褒め状態だが、本書の語り部であるチビは「猫爾薀(ねこにおん)」という、幽体離脱術を会得して、自由にあくび先生の外での行状を観察できる立場にありながら、存外その存在感が希薄なのが、ちょっと物足りない。漱石の猫もそうだが、猫はあくまで「視線」として存在するのだから、本書でもそれを踏襲してるのは、わかるのだが、なかなか魅力的な猫なので、もうちょっと活躍させて欲しかったという、無い物ねだりみたいなものだ。


日本語の値段】井上史雄 ★★☆☆言語学の世界では、平等であるとされる言葉も、市場価値を持つという観点から、日本語の世界における市場価値(ランク)をデータを中心に論じたものである。1「言葉の知的価値と情的価値」2「日本語の格付け」3「日本語のさまざま」という三部構成で、まず日本における外国語の人気や、就学頻度、書籍や辞書の多寡などを比較している。英語の独走ぶりは想像通りだが、インターネットの世界に英語以外の言語がこれからどう食い込んでいくかで、将来大きな変化が起こりそうだ。
日本語の価値は、日本国家の経済的発展に比例して市場価値は伸びて来ているようだが、ここでも英語との開きは異常に大きい。外国語と同じように、日本国内の方言にも偏差値があるというのも、言われてみればその通りだが、関西弁は、他の方言と比べると突出している。やはり言葉の市場はそれを使う人口の多寡と実用性によって高下するわけだから、今後、中国語が重要性を高めることは間違いないだろう。本書の著者の視点はユニークだが、いまいち読物としては楽しめなかった。


江戸ストリートファッション】遠藤雅弘 ★★★ ファッションプロデューサーという肩書きの著者が、江戸のファッションを黄表紙、洒落本などから写したカットをもとに、今風に解説していくコラムみたいな本。ほとんどのページが上下に分かれていて下に写真や図版を置くというレイアウト。いかにもマックで作りましたという感じ。いちおう、色んな資料から引用してるし、間違ったことは書いてないようなのだが、個々のファッションや、流行から、結論づける方法が恐ろしく短絡的すぎて、思わず笑いを誘うところは、一応評価しておこう。
ただ、現在の流行ものを安易に比較の対象として出しているだけに、99年の発行なのにすでに古ぼけてる部分が多い。それと江戸東京博物館展示の、建物模型の写真が異常に多すぎるのも、手抜きに思えてしまった。
Morris.は江戸本のカットが好きなので、本書もそのカットが多い分だけ点数甘くなってるところはある。しかし他の印刷物からコピー引用したのかモアレがひどくて見るに堪えないものもあった。


文字の文化史】藤枝晃 ★★★中国の写本や石碑の文字の研究では、「書家は字のかたちや筆先のひねり方にもっぱら関心を向け、文学や哲学の専門家はそこに書きあらわされて事がらの内容や思想をひたすらに追求する。その中間ともいうべき、写本の材料やかたち、その本の作られ方、しまわれ方、よまれ方など、そういった書物の内容以前のことがらは、あまり問題にされない」ことに、疑問を感じ、活字印刷本における「書誌学」の、写本版、いわば「写本学」の確立を目指した著者の長年にわたる研究のカタログ的な所産なのだが、もともとが1971年の発行で、本書は91年に平凡社から文庫として出されたものである。甲骨文字、金石、木簡、帛書、楼蘭文書、ソグド語文書、印章、巻子本、敦煌文書、トルファン文書、折本、貝葉、突厥文字、ウイグル文字、契丹文字、西夏文字、女真文字、木活字等など、文字の変遷や、文字の記載メディアや形態などを時代順に解説しながら、それぞれに貴重な図版をふんだんに使った、当時としては画期的な労作だったことは間違いない。今、見ても充分面白いのだが、いかんせん30年前のものだけに、ちょっと研究レベルが、古すぎると感じる部分もある。当人も文庫版の後書きで触れているが、活版印刷が、文字の歴史の究極という捉え方は、すでに活版印刷がほとんど滅亡に近い状況にある現在からすると、前時代の著作と思いそうになるが、個々のエピソードや、発掘、研究の苦労と、分析、資料の渉猟などには、研究者の意地みたいなものがうかがわれて、頭が下がる。図版の大部分も、著者が実際に撮影したものを使ってるというのも、解説に重みを加えている気がする。
秦の始皇帝の悪名高い「焚書坑儒」も、文字を神をまつる時に使う聖なるものとして、横が独占するものであるという考え方からすれば当然の行為だったという説は、Morris.には目から鱗の落ちる思いがした。焚書というと、ついナチスの焚書などと同じように考えていたのだが、根本的に違っていたのだ。それに、秦の始皇帝が統一国家を作ったのが38歳のときで、この時の国家は、清代とほとんど同じ版図であったというのだから、いかに彼が凄かったか計り知れないものがあるのに、歴史では暴君扱いされるのは、文字を神のためだけに使うという心から、秦王朝の歴史資料などがほとんど残らず、秦に滅ぼされた列国や、秦を滅ぼした漢王朝の記録ばかりが多く残っていることによる、というのもなるほどと思った。


【金素雲『 朝鮮詩集』の世界】林容澤 ★★★★金素雲訳編の「朝鮮詩集」の原型は1940年河出書房から「乳色の雲」と題して出版された。53年にこれを増補する形で興風館から「朝鮮詩集」前期・中期・後期の3巻として計画、実際に上梓されたのは2册だけで、後期は遂に出ることはなかった。戦後、1953年に創元社版「朝鮮詩集」、さらに翌54年に岩波文庫版「朝鮮詩集」が発行されている。収録詩人や詩の数など若干の異同があるが、現在では岩波文庫以外は入手困難だと思う。Morris.はこの岩波文庫版をずいぶん昔から愛読しているが、地震で行方不明になったのであわてて買い直したくらいだ。
本書は少壮の日本文学研究家(韓国人)が、東大大学院留学中に博士論文として提出(1994)したものを、中公新書のためにまとめたもので、水準の高さ、論旨の明確さ、こなれた日本語、偏らない歴史感覚、資料の読み込み等など、多くの美点を持つ快著である。
金素雲(1908〜81)は釜山生まれで12歳で日本に渡りその後、日本と韓国を行き来しながらの生活を送った。朝鮮が日本の統治下にあった時代の産物である「朝鮮詩集」は戦後韓国では、不当なほど評価されていない。「親日派」のレッテルを貼られた金素雲は舌禍事件で52年から13年間韓国入国を拒否されるなど、波乱の一生を送り、毀誉褒貶の甚だしい人物でもある。
著者も最初は金素雲を研究のテーマにすることを忌避したらしい。指導教官の芳賀徹の強い勧めに押し切られた形でいやいやながらのスタートだったという。しかし研究を進めるに従って、金素雲の訳業の重要さと意義を認識し「祖国が植民地支配下にあったとき、支配国の言葉で自分の郷土の詩心や文化を支配国の読者に知らせたいという、特殊な境遇についてだんだん深く共鳴するようになった」と書く。
内容は、原詩と日本語譯の比較検討、文学史の中への位置付け、引き裂かれた自我の省察、アンソロジーとしての妥当性、類書との比較などだが、何と言っても10数篇の詩を原語(ハングル)で掲載してあるのが、少しでも韓国語を齧ったMorris.としては欣快に堪えない。新書という、ごく一般向けの書物にこうやってハングルが普通に掲載されることは、数年前なら考えられなかったろう。
著者の専攻が比較文学というだけに、原詩、訳詩と、日本の詩作品との、類似、影響を探る部分には力が入っている。佐藤春夫、萩原朔太郎、永井荷風、北原白秋らの作品の引用も、別の意味で楽しむことが出来た。また「朝鮮詩集」を越えて、詩の翻訳そのものに関する考察も読みがいがある。
結果的に金素雲の訳は、直訳とは対照的なもので、それが芸術作品にまで高まっている点を評価するとともに、時代の制約による限界も明らかにしている。
金素雲をいたずらに、美化したり、貶めたりせず、客観的に評価しているし、韓国人による著作ということもあるので、韓国でも出版する意義を持つ内容の本だと思う。是非韓国人にも読んでもらいたい。
おしまいに「朝鮮詩集」の中でも白眉というべき作品を一つだけ引用しておく。

南に窓を 金 尚鎔 /ナムロ チャンウル ネゲッソ

南に窓を切りませう/ナムロ チャンウル ネゲッソ
畑が少し/パッチ ハンチャムガリ
鍬で掘り/クェンギロ パゴ
手鍬(ホミ)で草を取りませう。/ホミロン プルル メジヨ。

雲の誘ひにはのりますまい/クルミ コインダ カルリ イッソ
鳥のこゑは聴き法楽です/セー ノレヌン コングロ トゥルリャオ
唐もろこしが熟れたら/カンネンギガ イッコルラン
食べにお出でなさい。/ハムケ ワ チャショド チョッソ

なぜ生きてるかつて、/ウェ サニャゴン
さあね−−。/ウッチヨ。
                                        (金 素雲訳)


からだの文化誌】立川昭二 ★★★★ 人間の身体の部位や機能などをネタにしたエッセイ36編が収められている。エッセイも軽妙で、ユニークな切り口に感心させられたが、それ以上に、俳句や短歌、詩や小説の章句などが誠に的確に引用されているし、これまた実にぴったりはまるカットや図版もある上、医学的にも正確な知識が披露されていて、攻走守揃った、心技体充実した一冊だ。
36というのは「俳壇」に3年間にわたって連載されたものをまとめているからだ。

頭・顔・目・鼻・口・耳・首,喉・胸,腹・背,腰・肩・手・足・髪・眉・歯・唇・頬,顎・指,爪・皺,皹・乳房・肌・骨・尻・性器・息・血・声・涙・汗・咳・眠り・夢・疲れ・痛み・病い・老い

・「頭」が人間の中心で、人間の頭脳が世界を支配しているという考え(イデオロギー)は、近代西欧の産物である。その西欧的人間中心のイデオロギーが地球[=自然]に対して何を犯してきたかを、今、私たちはようやく知った。
かつての日本人は頭脳より身体に価値を置く生き方あるいは生活感覚を持っていた。その頃は「頭にくる」ことはなかった。そんな慣用語もなかった。それが、都市化と工業化にともない、頭脳[=都市]が身体[=自然]より優位に立ち、さらに情報化社会は情報[=脳]が世界を統御する方向をおし進めていき、今、世の中全体が「頭にきている」。それを直さなければ、人ひとりの「頭にくる」病いも治せないのかもしれない。

・生きている臓器が欲しくて脳死という死を作る人間怖し 鷲津錦司

・人は、もっとも大切に隠しておかねばならないもの(顔)を、人前にさらしている。 ヴァレリー

・秋刀魚啖ふ口ステンカラージンをうたふ口 加藤楸邨

・「背骨が曲っている」などと言うが、実際には背骨という骨はない。ふつう背骨と言われているのは、頚椎・胸椎・腰椎・仙椎・尾椎の五つのタイプの骨から出来た長く連続した三十三個の骨のことである。

・「手を出す」は意識のあとに行動がともなう。「手が出る」は意識より先に行動がある。人間にとって根源的で重要なのは後者である。他者との触れ合い、また創造的な仕事はこの後者の無意識の人間行動によるところが大きい。

・短夜や乳ぜり泣く児を須可捨碁焉乎(すてつちまおか) 竹下しづの女

・羅(うすもの)に衣(そ)通る月の肌(はだえ)かな 杉田久女

・ホントニシヌトキハデンワヲカケマセン 津田清子

・海嘯と死んじゃいやよという声と 折笠美秋

・涙の量は普通一日0.5〜0.8グラム。一年間でジュース一缶分。こんな微量でも、眼の汚れを清め、眼の運動を滑らかにし、眼に栄養を与える大切な役目をしている。
・一日の汗の分泌量は600〜700ccで、目に見えないで蒸発している汗の量もかなりある。夏の暑い一日や筋肉労働やスポーツのときの発汗量は三リットルにもおよぶ。

・京の夢大坂の夢やうやくに身は衰へて冬に入るなり 馬場あき子

無駄な疲れ 堀口大學

無駄な疲れは省きませう
薄情(うすなさけ)ならないが増し

無駄な疲れは省きませう
つれない人は忘れませう

・今生はやむ生なりき鳥兜 石田波郷

・みづからの落度などとはおもふなよわが細胞は刻々死するを 斎藤茂吉

・死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも 斎藤史


【本多勝一の  こんなものを食べてきた!】堀田あきお&佳代 ★★★☆ 週刊金曜日に連載された漫画による食べ物回想記。本多勝一は長野県下伊那郡大島村の雑貨屋の息子として育ったらしいが、本多の国民学校時代(1938〜43)つまり戦争真っ只中の田舎の子供の暮らしと食べものの思い出を漫画化したものだが、取材などが行き届いて会話には方言も効果的に取り入れてあり、登場人物が生き生きと描かれているし、戦争の直接的影響からワンクッションおいた田舎のため、ほのぼの感に溢れていて、読んでいて心地良かった。そして取り上げられる食べ物と言うのが、虫やら花やら葉っぱやらと、結構ワイルドなのにも驚かされてしまった。

ゴトウムシ(カミキリムシの幼虫)、ヤマツツジの花びら、イロハモミジ、スイコンボ(スイバ)、ヒビ(カイコサナギ)、ツナミ(桑の実)、オカメス(メダカ)、ハチのコ(脚長蜂の幼虫)、キンタマハジキ(ナツハゼの実)、沢蟹、イタンドリ(イタドリ)、オコゲ(ウコギの芽)、クロンボ(黒穂病の麦)、チチバナ(アカツメクサ)、カヤの実、ネンブリ(ノビル)、スッパ(酢の木の葉)、オトシブミの卵、スガレ(雀蜂の幼虫)、チガヤ、アズキッパ(ナンテンハギの茎と葉)、コッカ(サルナシ)−−−

しかし、いろんなものを食ってたんだなあ。中でも「ヒビ」というのは、Morris.が韓国で天敵とさえ目している、ポンテギそのものである。本書でも東京から来た親戚の子にこれを食べさせ、その子が虫だと知って仰天するところなど身につまされる。別の地方では、蚕蛾の成虫を、羽ごと炒めてしまうという伝聞もあり、これもすごいと思った。


【鬼才  李賀】中田昭栄 ★★☆☆ 唐代の夭折詩人、李賀については「長安に男児あり 二十しして心已に朽ちたり」の詩句が有名だし、以前平凡社のポケット版の詩集も持っていたこともあるのだが、すっかり忘れてしまった。ふとこの小説を見つけて、彼の伝記読むつもりで借りてきた。小説としては精彩がないが、李賀の薄幸な一生を概観することは出来たし、25編あまりの詩も併せて読むことが出来たので所期の目的は達したことになる。
本書では、韓愈の推薦状が徒になって科挙の進士試験を受けることが出来なくなったことが、彼の不幸の原因の全てと言う書き方をされているが、李賀本人にも、文弱の徒というイメージがつきまとう。自主性に欠けるようにも見える。つまり本書で見る限りあまり李賀と言うキャラクターには魅力が感じられなかった。
著者は兵庫県在住の高校国語教師らしく、李賀に関する小論文も併せて掲載されている。そういう意味で文献としては信頼できそうなのだが、創作としてはどっちつかずのものになってしまったようだ。

況ンヤ是青春日将ニ暮レナントス (時や時春の日は暮れんとし)
桃花乱レ落チテ紅雨ノ如シ (桃の花は落つ紅の雨に似て)
君ニ勧ム終日酩酊シテ酔ヘ (君酔えや終日酔い潰るまで)
酒ハ到劉伶墳上の土ニ到ラズ (酒は行かず酔漢劉伶の墓に)−−「勧酒」部分


【実用  青春俳句講座】小林恭二 ★★★☆☆☆前回の岩波新書「俳句という愉しみ」はつまらなかったが、杉山さんの勧めもあったので、もう1册の「俳句という遊び」の方も目を通そうとしたが、見当たらなくて、こちらが目についたので借りてきた。
いやあ。これはいったい、どうしたことか。、同じ著者の著作とは思えないくらい、面白くてためになるではないか。福武書店の造本(小型のハードカバーで平野甲賀裝丁)からして、意気込みが違うし、岩波とは濃度が違いすぎる。88年発行となってるから、こちらの方が古いと思う。書き下ろしの「青春俳句講座」と、既発表の10編、それに恭二八十句(小澤實選)という構成。特に書き下ろしの講座は自己の俳句体験を回想しながら実に要領よく彼の俳句観、方法論、理想の俳句論などが展開されている。当時の新進俳人の句の紹介と解説、批評なども、的確で、初心者には有益この上ない(ように思われる)。自作句の方は、やっぱりMorris.とは相性悪いみたいで、あまり印象には残らなかった。
「新鋭俳人の句会を実況大中継する」という一文こそは、前の岩波新書版と同様の企画だったのだが、こちらは25ページで、コンパクトにまとめられていて、退屈せずに楽しむことができた。岩波のは、この25ページ分をでれーっと引き伸ばした産物みたいなものだったのに違いない。(シカシMorris.モ シツコイネ(^_^;))
瑕瑾としては「道造のうたは譜面に草ひばり」の句の評で「草ひばりは道造が愛してやまなかった鳥」というのはおかしい。草ひばりといえばキリリと鳴く蟋蟀の仲間で、秋の季語ではないか。
もう一つ加藤郁乎の「切株やあるくぎんなんぎんのよる」の評で、これを「歩く銀杏銀の夜と「ある苦吟難吟の夜」の二つの読みが出来る、と、まるで自分が発見したかのような書き方をしているのは、ちょこっとズルじゃないかと思ってしまった。この読み解きは松山巌だったか誰かが言い出したことで、郁乎自身がその解を聞いて驚いたという有名なエピソードがある。
しかしまあ、そんなことはおいといて、これなら、たしかに杉山さんが褒めるのもむべなるかな、と納得の1册だった。


身世打令】姜(王+其)東 カンキドン ★★☆☆ 福岡に住む在日朝鮮人の句集だが、当人は後書きで句集ではないと言ってる。たしかに作品としては直裁に過ぎるものが多いが、それだけに、在日の生活や状況をさらりと表白したものには目を引かれるものがあった。

獅子舞の朝鮮長屋を素通りす
白木槿咲かせ一家の秘密かな
うたふごと祖母(ハルモニ)泣きぬ韮の花
銀漢や韓のはやり歌みな哀し
墓建てて木槿一本植えにけり
海峡を黯(くら)し黯しと帰る鳥


いのちの緒】角川春樹 ★★★☆ぐい句を始める前から、角川春樹の句は割と好きで句集も2,3冊読んだ覚えがある。本書のタイトルは「年ゆくや天につながるいのちの緒」という句から取られている。この句自体は著者が吹聴するほどいいとは思わなかったのだが、全体にMorris.好みの句が多数収められている。題名に引きずられてかどうか知らないが、死や忌の句が異常に多いのが気になるといえば気になる。しかし、彼の父角川源義の衣鉢を継ぐ俳人は結局彼しかいないだろうし、反撥しながら影響されると言うのは、父子の関係としては正当なのかもしれないと思わされてしまった。
おしまいに、岡井隆、岡野弘彦との対談二つが収められていてこれもなかなか面白かった。
岡井とは寺山修司、岡野とは西行の歌を主題として話しているのだが、春樹の「俺が、俺が」という持って行き方が鼻につく。それにしても、源義の「花あれば西行の日と思ふべし」はいい句だなあ。
生身の春樹とはあまりお近付きになりたいとは思わないが、現代の俳句では、一番親近感を感じるのは彼の句だというのは、いまのところ間違いないところだ。

ゆつくりと空昏れかかる金魚かな
流れゆく水に声あり夏料理
水引草に水の音ある空の奥
空澄みて紙いちまいの重さあり
桔梗や山のくらがり庭にあり
干大根いつの世に古る陰(ほと)の神
もはや何も急ぐにあらぬ根深汁
酢海鼠やなつかしき世に遊びをり
流れ来る今年の水の流れ去る
風花といふ華やぎも死後の景
青ぬたや旅をうながす旅の本
業平忌雨を眺めていたりけり
実石榴やいよよ濃くなる沖の紺
蟋蟀や女の嘘は嘘でなし
年の瀬やぐい呑みひとつ買ひに出る
賑やかな神のまぐはひ小正月
昼花火死にたる者も混じりけり
きぬかつぎ遊びごころのありにけり
冬の虹命透けゆくばかりなり
焼鳥や寄りどころなき身となりぬ


パソコンの論点1001】大川彰編著 ★★★☆☆ 97年から99年の3年間に雑誌や書籍、ネットなどさまざまなメディアに表れた論点をパーツとして抽出し、それを分類して新しい順に並べたものである。1001とあるが、これは言葉のあやで、実際には800あまりのフラグメントが採集されている。某MSという寡占志向企業の戦略を始め、コンピュータ関連の雑誌や、パンフレットには、企業側から押し付けの記事ばかりが氾濫して、ユーザーの声はほとんど聞くことが出来ない。
それら数少ないユーザー側からの声を収集、抽出することによって、ユーザーが望んでいるPC環境とはどんなものか、ハード、ソフト(OSをふくむ)両面での、齟齬と乖離を明らかにして、これからあるべきPCの姿を展望しようという目論見から(たぶん)編まれたものと思う。
Morris.自身の知識、能力不足のため、皆目理解できない部分も多かったが、たしかにPCを使っている上での不滿の多くをカバーしていることはよくわかった。Morris.が共感する発言やヒントを、羅列しておく。煩雑なので個々の発言者の名前、媒体などは省略する。

・ユーザーが欲しいのは、確実で迅速な反応のある、信頼できる道具なのだ
・OSはもっと機能を絞って軽く、アプリケーションも小さく部品化して軽快に動くものを作って欲しい
・小出しのバージョンアップは信用を無くす
・昔は便利で手放せないユーティリティが多かった
・メーカにも責任はあるがユーザーも勉強が必要だ
・WWWブラウザはいらない機能が多すぎる
・速さを犧牲にした機能の増大は感心しない
・ソフトのプリインストールはユーザーに選択権を
・古いシステムに比べて、最新のシステムは不安定だ

・Windows再起動の時間を短縮するには、Windowsの終了で再起動を選択し、ここでShiftキーを押したままOKボタンを押す。「Windowsを再起動しています−−−」の表示が出るまでshiftキーを押したままにする。
・現在のPCのOSには、ウイルスがはびこることのできる大きな暗黒空間がある。別の名で言うと、ユーザーによる自主的なシステム管理の不在である。いかにも素人さんむけで楽な仕組みだ。しかし、人生の哲理として、安易と危険は同一物である
・ホストOSのように、何年も経って枯れたものを利用したい
・Windows95は使い込むほどシステムが不安定になる
・近頃のマイクロソフトのOSは原因不明な動作不良があり、その不具合が積極的に修正されなくなっている。競争相手がいないためだ
・コンピュータ関係の出版社は、MSから多額の広告費を受け取っているし、マニュアルは作らせてもらっているし、ほかの事業でも付き合いがある。何億円、何十億円というビジネスになっているから、批判やMS正否のイメージを傷つける記事はとても書きにくい
・レジストリ・ファイルのサイズは大きくなることはあっても小さくならない。これは、95起動時の慢性的なパフォーマンス低下の原因となる
・OSは社会的に生成されるべき
・図像+マウスというインターフェースはコンピュータにかぶせたぬいぐるみであり、本質的な理解を損なっている。問題が起きたとき「人にやさしい」=「人をだめにする」と気づく

・メール送信の形式でHTML形式が選ばれていたら、テキスト形式になおしておこう
・一つのキャラクタコード=一つの文字として、文字というものが固定長文字コードで処理できると考えるのは、欧米人の、そして我々漢字文化圏の人間の持つ幻想にすぎない
・すべての文字にコードを振っても解決しない

・コンピュータによるデザインのウイークポイントは、できてもいないのにできたかのように見えるということ
・テレビだって寝るときにはスイッチ切っているのに、なぜ、インターネットを繋ぎっぱなしにしたがるのだろうか

・原稿作成に、図体が大きくて余分な機能だらけのワープロソフトは不要。テキスト形式で保存することになるなら、軽快なテキストエディタを使用すべきだ
・編集者に要請されることは、テキストエディタを使いこなす技術のマスターだけである
・ワープロソフトというのは、でき上がった文章をきれいに印刷するための「清書マシン」「簡易DTPソフト」だ
・ヨコに表示するのが大好きなパソコンに文字をタテにしろと命令したら考え込んで動作が遅くなるに決まっている
・これまで著作権者や著作権団体が管理していたその外側に、新しい著作物のマーケットが出てきたから、エンドユーザーまで手を伸ばしてお金を取りたくなった。ユーザーから見ると、どうもビジネス優先で、どんどん進んでいる
・文書はテキストにしておけば、簡単に再利用できる
・個人データベースならテキストファイルとgrepさえあれば必要十分
・Windows95のエクスプローラはあまり評判がよろしくない。GF95Advansedは、ファイルのコピー、移動、削除はもちろんのこと、連結・分割もサポートしている。ビューア機能は幅広く、ファイルの圧縮・解凍もできる
・キーボードで操作できるファイラーを使いこなせ

・Linuxの難点は、あらゆる情報が公開されているとはいえ、それらを自分で勉強しなければならないことだ。だから、勉強とシステムの手作りを楽しめる人や、Windowsの性能の低さや不安定さに我慢ならない人、仕事上これは困るという人にまず向いている

・「キーボードは古いものほどよい」という法則がある
・パソコンは単機能に帰れ、万能機は結局何もできない
・品のある商品は、すぐに流行遅れになったりしないものだ

・「ウイルスチェック済み」と書かれていない限り、知人からのメールでも、添付されているOffice製品のファイルは取り出すべきでない
・ウイルスの主な感染ルートは電子メール

・修理より買い替えの方が安い現状は疑問
・PC業界は大いなる無駄な開発競争を繰り広げている。このような産業は、遠からず衰退していくと思う
・機器の信頼性を語るメーカーが少ない
・「寿命」ということばは安易に用いるべきではない
・根本的な疑問を無視するパソコン文化は、極めて空疎だ
・パソコンにトラブルが発生したとき、一般ユーザーが復旧できるような方法を最初から考えていないようなシステム設計が嫌いだ
・解説書はあっても深く掘り下げた書物がない

引用の一行空きは、章が変わっていることを示す。しかし、PC歴も10年弱になろうというのに、Morris.のパソコン音痴は相変わらずである(;_;)


俳句という愉しみ 句会の醍醐味】小林恭二 ★★☆☆「俳句という遊び」の続刊らしい。そちらはたしか以前読んだようなおぼろげな記憶がある。ソウルの杉山さんからぜひ読むようにと勧められていたので借りて来た。現役の俳人や、歌人の岡井隆など7人が、二日間にわたって開いた句会の実況中継みたいなものだが、どうも緊張感に欠ける。著者が進行係として句を投じないためなのか、初めから本になることを参加者が意識しすぎたのか、何か冒険がないし、行儀良すぎるみたいだし、お互いに遠慮というか、気遣いがあって、はっきりいって期待外れだった。安東次男らが趣味で巻いた歌仙の記録は面白かったのに、本書は遊び心にもかけているような気がする。2日目の題詠でも、読者にも選句を促しながら、それぞれの見出しで話題句を先に指摘した形になってるのも環境を殺ぐ。端々に、俳句の約束や、注意などの説明もあって、まったく役に立たなかったわけではない。岩波新書嫌いのMorris.だからワリをくった点があるかもしれない(^_^;)


海嘯】中島みゆき ★★★ ハードカバー450ページという堂々たる厚さの本だが、行間が異常に空いてるし、詩のような分かち書きなので、普通の書籍で言うと150ページ分くらいの文字量だと思う。その証拠にMorris.はこれ読み終えるのに1時間半かからなかった(^_^;) ところで、これは小説というべきなのか? いちおうストーリーはあるし、会話もあり、書簡のやりとりもあるが、さきに書いた通り、全体が分かち書きになってるし、文体も、かなり韻文っぽいし、これは「詩劇」みたいなものなのだろうか? 作者が中島みゆきでなければ、まず、手に取らなかったろうな。で、読み終えた結果、小説としてなら、これはあまりに腰砕けの作品としかいいようがない。養子として育った主人公のアイデンティティへの執着ぶりと、大時代めいた設定(名門旅館の乗っ取りと殺人の手口など)が、すでにリアリティを欠いているのだが、Morris.がそれなりに評価してるのは、自己陶酔的なみゆき節が随所にちりばめられていて、それが、割とうまくストーリーの中にはまりこんでいるからに他ならない。雰囲気だけは充分に感じさせてくれるというわけだし、ところどころに、独立して鑑賞するに足る詩篇も散見するからだ。一例を挙げる。

どんな人にも 必ず夢は叶う
一生にひとつだけ叶う
引き替えに 一生の何もかもを失ってもかまわない 約束で
夢は
一生にたったひとつだけ叶う

それほどの夢とは 何だ
一生の総てと引き替えの夢とは何だ
己れと引き替えに叶う夢とは 己れにとっての何だ

夢をみることすらも手放せば
夢は叶う
たったひとつだけ
しかし 誰もそれを望まない
たったひとつだけ叶う夢よりも
幾億もの叶わぬ夢を抱くことのほうを 人は選ぶ
人は欲張りで 人は何も手に入れない

しかし、こういう試みは彼女(中島みゆき)にとって、どういう意味を持つのか、芸域を広げるということなら、あまり期待できない。やはり彼女は、肉声で表現する方が圧倒的に魅力的であろうことは、間違いないだろう。中島みゆきの、熱心なファンではないのだが、そう思う。


猿蓑倶楽部 激闘!ひとり句会】小林恭二 ★★☆ 93年末から1年数ヶ月にわたって朝日新聞に連載された俳句コラムで、自作1句と自解、句論などを気楽に書いたものらしい。本人が言う通り、著者は「眼高手低」のようで、自作より、自作解説(批判)の方が水準が高いという皮肉な結果になっているようだ。掲載されている約80句の中でMorris.の心に留まったものは多くない。

・湯豆腐を煮るや情死を夢見つつ
・水底に稚き王ゐる冬の虹
・秋めくやナイフに映る詩人の目


熱い絹 上・下】松本清張 ★★★何でまた今ごろ清張なんぞ、と思われるかもしれない。Morris.は昔は結構、清張モノは読んでたのだ、途中で飽きてやめてしまったけど、本書は、85年発行となっているから、読んでなかった。
みかちゃんが、クアラルンプルに行くことになったので、Morris.も遊びに行けたらいいなとマレーシアのガイドブック見てたら、この本のことが出ていたのだ。タイのシルク王ジム・トンプソンが、67年にマレーシアのカメロンハイランドで行方不明になり、今に至るも発見されず、商会からは膨大な懸賞金がかけられているという実話をもとに、書かれた小説とのこと、その時読むつもりだったのが2册本と言うこともあって、ちょっと躊躇してたのだが、やっぱり読んどこうと借りて来て、しっかりはまってしまった。
本書では仮名になっているが、トンプソンは戦時中、CIAの前身のOSSに所属して諜報活動に長けていたし、戦後もCIAとの関係はあったはずで、事件当時はベトナム戦争が泥沼化していたときでもあり、またトンプソンのクメール美術収集(盗掘?)なども絡んで、さまざまな憶測が飛び交っていた。本書でもそれらを踏まえて清張一流の泥臭い推理で真相にせまっていくのだが、前半はともかく、後半はだれているし、2册組にするほどの内容ではないと思う。もとが読売新聞の連載だった制約もあるのだろうが、人物や背景紹介が繰返されるのも煩わしいし、裏筋の主役となるデザイナーと踊り子の出番少なく、おしまいにとって付けたような説明になるのも頂けない。と、あらばかりあげつらっているが、もりすとしては、1967年という時代背景がよく見えると言う意味で面白かった。当時の日本人のマレーシア感(外国そのものに対する感情、優越意識その他)、金銭感覚、交通機関、テレックスなど情報伝達組織のとろさ、等々、近未来ならぬ「近過去」小説としてちょっとしたタイムトリップを楽しむことが出来た。


【はじめての パソコン書斎整理術】林晴比古 ★★★ 本書はもともとMS-DOS機向けに90年に書かれたもので、Win全盛時代に合わせて99年に書き直したらしい。CDROM付属で、簡単データ管理ソフトが入ってるらしい。内容は目次によると袋ファイルや、クリアファイル、パソコンを利用したさまざまの管理法を展開してるらしい。らしい、らしい、と書いているのも、実はMorris.は、この本、ほとんど斜め読み、飛ばし読みしてすましたのだ。そのくせこうやって読書控えを書いて、評価も結構高いのは、ひとえに、附録みたいに提示してあった「林式微分整理法」のためである。これに割かれているのはたった3pである(@_@)
室内のゴミは一時にゴミの山になるわけでなく、ちょっとずつ置いたゴミの積分価であるということから、演繹して、その微分価を負価、つまり0以下にすればいいという数学的結論に達するとした上での対策と言うのが次の単純な方法である。

机に座るたびに机上にあるものを何かひとつだけ片づける。
あるいはまた、
室内に入るたびに室内のものを何かひとつだけ片づける。
といいう活用です。片づけるのはどんなに小さなものでもかまいません。とにかく昨日より、ほんのわずかきれいになっていればいいのです。実際にはたとえば
 紙を一枚片づける
 本を一冊片づける
 放置されているボールペンを一本片づける
 ディスプレイの周辺に貼ってあるメモを読んで一枚片づける
 置いてあるものの縦横の耳を揃える
と言ったことです。ほんのわずかでいいわけですから「さあ片づけるか」と意気込む必要はまったくありません。負担としては何もしないのと同じです。それでも
 一週間もすれば、もう室内はきれいさっぱり
です。これは本当にそうなります。

Morris.もこれを4,5日前から実践してるのだが、少なくとも、今のところ机の上は、先週と比べると驚くくらいすっきりしている(^o^)


食べ暮らしダイエット】魚柄仁之助 ★★★ この著者の本は数册読んでいる。手抜き料理、食生活評論家として、講演などでも人気が高いらしい。基本的には、製品より、材料からというスタンスで、Morris.は結構気に入っている。キャラクタが面白そうだし、博多弁を多用した文体も、なかなか読者を喜ばせる壷を押えている。時々悪のりがすぎることもあるし、自分自身や身内の宣伝臭が鼻につくこともあるし、手抜きのやり方に疑問を持つこともあるが、もともとが、試行錯誤の中で身に付けてきたと自分でも言ってるくらいだから、納得いく部分だけを、さんこうにすればよい。
本書は、複数の新聞に連載されたものをまとめたもので、料理のレシピより、食を中心としながら、無駄を省くことをメインに、草の根生活主義(みたいなもの)の実践を、エッセイ風に、つまり、気楽に繰り広げているコラムなので、読む側としても、気楽に読んだ。
風呂敷の見直し、煮物の保温調理、大豆の奨励、携帯電話嫌い、などには共感を覚えた。


俳句入門】 楠本憲吉 ★★★☆☆ とうとうこんな本まで読むことになってしまった。ぐいぐい酒場で、ソウルの杉山さんに、あまりに初歩的な質問をしては無知を宣伝してたので、とりあえず、大まかな約束事だけでも一通りおさらいして、あまり無駄な迷惑をかけないようにしようと言う理由(表向きの)で、借りてきたのだが、読みはじめるのにちょっと手間取った。ぐいぐい俳句が、ぐいぐいでなくなるのを恐れたのだ。読み終えての感想は複雑である。入門書としては実に良く出来ていると思う。
226ページのうち、はじめの30ページは、入門以前の話で、後ろに名句鑑賞と、実習のハンドブックなんてのが70ページほどあるので、実質的入門部分は120ページくらいしかない。
キイワードは
・表現衝動・詩因・リゴリズム(省略)・リアリズム(写生)・リリシズム(抒情)・一元描写・取り合せ・比喩・定型・季語・切れ字
たった、これだけである(^○^)この単純さこそ、著者のリゴリズムかもしれない。例句の引用も適切で、作者の略歴や、用語解説も下注に要領よくまとめてあるし、各章の説明も納得いくものが多かった。

抒情詩とか叙事詩とかいう言葉がありますが、俳句は抒物詩であると言い切っていいのではないでしょうか。
俳句は節情の詩であるといえましょう。同じ節情の枠内にあっても、作者により非情派、抒情派の存在していることは免れません。

川柳は思いを述べる詩だろう。物に即したりしなくてよい。
思いを述べるのであるから、川柳は「流れ」の詩で、耳で聞くものだ。目で見るべきではない。
川柳は「思いを述べ」、俳句は「物であらわす」詩で、同じ十七音の詩型であっても、内容的には全く違うものだというわけです。
そうしますと、俳句と言うものは、五・七・五の定型感覚を持った十七音即物詩だということにどうやら決着しそうであります。

また「夜の秋」が夏で、「秋の夜」は冬、「夜寒」が秋で「余寒」は春、「日永」が春で、「短夜」は夏、「夜長」が秋で「短日」が冬というのも理屈には合いません。つまり、日永の季節は短夜の季節であり、夜長の季節は短日のきせつであるはずだからです。また春に出現して、夏にいちばん出盛る蝶や蛙が、なぜ春なのか、秋に来て春に帰る雁がなぜ秋であり、春に来て秋に去る燕がなぜ春なのか、雁と前後して渡来し、前後して帰って行く鴨がなぜ冬なのか-----。このような科学的季題感からすれば、いくつも大きな矛盾を含んでいるといえましょう

要するに、季語というものは、季節感を表わす手段として用いられて来たのではなく、季語の存在そのものが俳句にとって必要であり、その本来の役割は季節感ではなく、そのことばの醸し出す質量感にあったのだということがいえましょう。
そして季語の持つ質量感とは、作者と読者の共同理解の場を生むための結び目としての要素であって、特に他のことばよりは、共同理解の結び目となりやすい季のことばを俳句の中心に据えたのだということがいえるわけです。
そして、このことは、俳人が長い作品の歴史と実作の経験を経て体得した智慧であって、理屈ではないというのが、結論になるわけです。

本書は、Morris.に、俳句一般を整理してくれたような気がする。
俳句鑑賞篇は、俳句を六つの類型に分類して、それぞれの代表作を挙げて解説している。これもなかなか有用だった。その中から、Morris.の気に入った句、好きな句抱けを引用してみる。それを一覧することで、Morris.の嗜好が明らかになるかもしれない;。

○写生俳句
・春尽きて山みな甲斐に走りけり 前田普蘿
・流れ行く大根の葉の早さかな 高浜虚子
・白藤や揺りやみしかばうすみどり 芝不器男
・冬菊のまとふはおのがひかりのみ 水原秋桜子
・冬蜂の死に所なく歩行きけり 村上鬼城
・去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

○風景俳句
・梨咲くと葛飾の野はとのぐもり 水原秋桜子
・ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋

○花鳥諷詠句
・谺して山ほとゝぎすほしいまゝ 杉田久女
・外にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女
・をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏
・くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
・火を投げし如くに雲や朴の花 野見山朱鳥

○抒情俳句
・月代は月となり灯は窓となり 竹下しづの女
・秋の暮業火となりて秬(きび)は燃ゆ 石田波郷
・をみなとはかゝるものかも春の闇 日野草城
・ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火
・雀色時雲は光輪持ちて降る 大野林火
・稲妻や夜も語りゐる葦と沼 木下夕爾

○生活俳句
・降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
・玖槐(はまなす)や今も沖には未来あり 中村草田男
・あえかなる薔薇撰りをれば春の雷 石田波郷
・寒卵薔薇色させる朝ありぬ 石田波郷
・人それぞれ書を読んでゐる良夜かな 山口青邨
・淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守 原石鼎
・桔梗(きちかう)や男も汚れてはならず 石田波郷
・衰へいしのちを張れば冴え返る 日野草城
・金星すでにただの夏星先駆者よ 香西照雄
・おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼
・中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼
・行く雁の鳴くとき宙の感じられ 山口誓子
・泉への道後れゆく安けさよ 石田波郷

○無季俳句
・しんしんと肺碧きまで海のたび 篠原鳳作
・白馬を少女汚れて下りにけむ 西東三鬼
・啼鳴や運河も昏れて哭くときあり 三橋鷹女
・男の旅 岬の端に佇つために 桂信子

以上の6類型は、引用句の数もまちまちなので、Morris.の選句が多いからと言って、Morris.がその傾向を好むと言うわけではない。
マニュアルを読むのが好きなMorris.だが、俳句のマニュアルは、本書だけでいちおう、ストップと言うことにしておきたい。


俳風動物記】宮地伝三郎 ★★☆☆ 動物生態学主に淡水産生物の研究に係る著者が、江戸俳諧に現れる動物を取り上げて解説するという、まるでこの前読んだ「大江戸鳥暦」みたいな本かと思ったが、余りに内容が偏っていてちょっとがっかりした。
取り上げられている「動物」としては、鮎、川獺、行々子、鶯、鳰、紅鮭(アメノウオ)、イサザ、タニシ、蜆の10種にも満たない上、イサザの項などは、ほとんど、動物生態エッセイめいたものに自作句を披露したというありさま(さすがにこれには気がひけたらしく、おしまいに断り書きあり)。岩波新書なんて所詮そんなもの、といえばそれまでだが、もう少しタイトルには留意してもらいたいもんだ。看板に偽りありすぎ(@_@)
俳句によまれた動物の生が後の生態学の研究の助けになることもある、というのは事実だろうし、現在絶滅したり、少なくなった種における、いわゆる文献資料としての価値を認めるにやぶさかではないが、句と学問とでは、自ずと向かうところを異にすることは言うまでもない。しかし、餅は餅屋で、蜆を詠んだ句の中で、大きく三種がある蜆のどれを詠んだものか判定する部分などは面白かった。Morris.が個人的に好きなタニシについて触れられてあるのも嬉しい。ミミズと同様、タニシも句の世界では鳴くことになっていて、これはたぶんシュレーゲルアオガエルの声をタニシの声と聞き違えたのだろうと言う説は一聴に値する。ミミズが鳴くというのは、オケラとの取り違えと言うのは広く知られている。
それより、本書で一番Morris.の目を引いたのは、季語に関するところだった。

俳句の季語は四季それぞれの季節感を表わすために、句によみこむ語と定義してある。季語の役割はそれにとどまるまいが、生物環境の中でも季節は格別に大切な要素であるから、それが重視されることに、異存は全くない。季語の成立の背景には、こうした生態学的のきびしい字数制限にもかかわらず、現象記述の簡潔性の追求と存在感の付与を可能にする。俳句的事象の成立の条件、季節を含めた環境を象徴的に代行表示する役割をもつのが季語であるべきで、季語の意図は指標生態学の発想と底通している。
このように見てくると、季語は単なる四季区分の表示語ではなくて、環境語の同義語、少なくともその主要構成部分である。季語を生物学の言葉に違約すると環境語になるともいえよう。なぜならば、季節はあらゆる自然現象の移行のペース・メーカーで、すべての生活行事や心理活動が演出される舞台装置−−万象の折々の生活環境を代表する総括概念でもあるから。常夏の熱帯にも乾季と雨季などの季節循環があるが、とくに温帯では、生物生活にも、季節の枠組みから外れた発現はありえない。

季語は俳諧の基本形態である十七字の短詩に求められている字数の制約を乗り越えるのに貢献しているのであって、季語の約束を案出した俳諧師は構文理論の天才である。
自然には人間の枠づけを拒む多様性があり、作句の対象には季節反応を求めない情感にかかわるものも少なくない。そんな場合に、表現の枷となり、その構成をちぐはぐにするだけで、状況を想いうかばせるのに有効に作用しない季語の組み込みに腐心することはあるまい。それは死季語だからである。ただし、事象の生起にかかわっている環境語は省かないでほしい。環境から遊離した現象記述には実感が伴わないからである。そして、これが季語の心でもあるだろう。

環境語ということばは俳句に不似合いだが、季語がなくても季語に代わるキイとなる語を配すると言う説はどこかで聞いたような気がする。この環境語もその考えの一つかもしれない。


二重言語国家・日本】石川九楊 ★★★ 現代書家で、書の研究家である著者の本はたいてい読んでるMorris.だが、本書はちょっと毛色が違ってるため、見落としていた。日本語を、漢語と和語の分裂と結合の両面をもつ二重言語、文字中心言語と規定して、そこから日本人論にまで敷衍するという大風呂敷広げた、おいおいだいじょうぶかい?とちゃちゃ入れたくなるイントロだったが、たしかに、なるほどとうなずくところ多く、とにかく、これまであまりお目にかかったことの無いユニークなところに、Morris.はいささかの「知的興奮(^○^)」を味わわせてもらった。ユニーク過ぎて、後半にずっこける部分が散見するが、いやなに、面白ければそれでいい、という意味では、本書に対するMorris.の評価は結構高い。本職が書家だけに、ワープロへの非難というか、罵倒はなかなかのものである。

漢字文化圏においては、文字自体が事物化するという傾向をももつ。李氏朝鮮において発達した、意匠化した漢字を中心に置き、その周囲にさまざまな意匠を配した奇怪な李氏朝鮮民画などはその代表的な例であろう。そこに声を重視する西欧とは異なり、世界を文字とみなす無自覚な宇宙観も生れているのである。
その意味で、一語に一文字が対応する漢字は、文字と言う枠組みで受けとめることによってきわめて強力な構造力をもつが、同時に悪しき災厄をももった両刃の剣ともなる。

日本語においては、言葉の災厄が文字の災厄と結びついており、かつ二重言語であるために、どうもうまく言葉への戦術が成立せず、文体が育たない。

ワープロは、この人工音声発声機の書き言葉版に他ならないからだ。
手もあり、紙もあり、筆記具もあるのだから、自分の手で書けばよい。それで済む。それなのに、わざわざ機械の前に坐ってキイをたたいて、人工合成文字を並べている。これは前述の人工音声発声機で会話するがごとき奇怪な現象ではないだろうか。
ところが、肉筆の文字も印刷文字も、ともに文字であるという錯覚、それどころか、印刷文字こそ文字の典型であると考えるような倒錯が、肉声ではない人工音声発声機を嗤いつつ、肉筆ではないワープロのキイをせっせとたたくという、奇怪な事態を生んでいるのである。

鉛筆のHBの思想やBの思想というものもある。モンブランの思想やパイロットの思想だってある。ワープロはどうか?筆蝕を欠いたワープロから文体が生れるかどうかは疑わしいが、肉筆とは異なり、筆尖と紙とが接する際の決断の起筆と、自己と対象との挌闘と対話の摩擦と、また諦念の終筆を欠くために、良く言えば、私小説的膠着から解放された軽やかで、希薄な文体、また、自省が足りず、飛躍に飛躍を重ね、あるいは馴れ馴れしくまた犯罪臭の強い自己完結的文体が生れて来る。ワープロ時代には推理小説やSF小説が氾濫することになる。

日本が自然(フィシス)型アジア・中国的専制の下降線国家を脱し、近代西欧型の人為(ノモス)型上昇線国家に届くためには、「はんこ社会」を脱することは不可欠である。
むろん、「はんこ」制度だけがなくなったところで、どうなるものではなかろうが、はんこがなくなることは「天皇御爾」の終焉も意味する。「はんこ社会」をどこかで断ち切らぬかぎり、天皇制も日本型官僚制も、叙勲も終わらず、上(かみ)からの「めぐみ」と「なさけ」を戴く被害者王国から脱出し市民が市民社会を支える近代的誓約・契約社会への天下は存在しえないといえよう。

生活語の周辺は二重複線言語に彩られて、濃密になり、繊細な表現を可能にする一方、政治的・思想語は外来語たる中国語から頂上部分を脱色した上で、中国語に一元的に依存せざるをえない希薄さから、きわめて粗略な表現しか可能にならない。この日本語の分裂構造の中で、生活語からの自然な成長による政治語・思想語への転化部分を担う、本来豊かで、つなぎとなるべきはずの中間語の貧弱な日本語の構造が生れ、その反映たる日本文化がこの国に出来上がり、現在もその言葉と文化を生きている。

東アジアとは文字中心言語地帯、ヨーロッパとは声中心言語地帯の別名である。−−略−−東アジア大陸の想像を絶するような多民族、多言語の地方が、中国というひとつの国家としてのまとまりをもちつづけているのは、漢字によってつなぎとめられ、統一されているからである。

日本人は四季や花鳥風月に敏感だと言うが、ヨーロッパやアメリカ、オセアニアと較べてそれらが格別に美しいわけではない。平安時代のこれらの言語演習の結果として成立した日本語が四季を讃える詩語の語彙と文体に圧倒的な厚みをもっていることから、人々に四季を美しいと感じさせ、花見や紅葉狩り、あるいは俳句に駆りたてるのである。

引用が長きに過ぎたかもしれない。反論を(Morris.からも)招きそうな部分も含めて、なかなか面白いと言うことは理解してもらえたのではないかと思う。しかし、結論となると、ちょっと肩すかしである。

日本語の統一原理(アイデンティティ)は、漢字=漢語と仮名=和語、正確に言えば、和語の中国語あてはめ(訓)と中国語の和語あてはめ(音)、つまり音訓の複線、二重性と、中国語(漢語)の詞を和語の辞が支えるという構造にこそ存在する。漢字=中国語は抜き難く日本語の中にある。人間が言葉する存在であるとすれば、日本人は半分以上の部分、しかも主たる部分が中国人である。この二重性をはっきりと認めて、中国語の核心部分をふくらませ、和語の核心部分をこれに添え、さらに、西欧の良質なる思想と学問と知識語を漢語化して、日本語の中に確実に合流させれば、日本語は、世界的水準の言語に至りうるという実践的な課題の解決へと突き進むことができる。

うーーむ、これでは、竜頭蛇尾のそしりを免れえないだろうなあ。まあ、この論は、現在進行形のものを、NHK出版の要請でダイジェストしたものらしいから、もう少し「実践的な」指針と結論が、後に上梓される可能性はある。気長に待つことにしたい。
おしまいに、日本の定型短詩についての、ぼやきみたいな文を引用して切り上げることにしよう。いちおう、もと歌人、今ぐいぐい俳人を標榜するMorris.なので、興味津々な文だった。言いたいことも多いが、これ以上長くなるのはあんまりなので、差し控える。

大衆が定型短詩に参加することは、それはそれで日本語の表現力の維持に役立ちもしよう。だが、表現の尖端に立つべき俳壇において、近代の俳人・河東碧梧桐が、無季化、非定型化、ルビ化、さらには短詩に解消することによって果たそうとした俳句の現代化と世界化の課題すらなきがごとくに、季題と定型に甘んじていることは、短歌の安定と併せて、私にはとても不可解に感じられる。俳人や歌人達は、日本語の生理ともいうべき、「七五」「五七」調への安住にどれほどの苦さをもち、また、現在の詩人達は、いったい短歌や和歌についてどのような思索をもっているのだろうか。
 


写真の時代】冨岡多恵子 ★★★☆☆本書は70年代後半に雑誌に連載されたもので、すでに20年以上前の作だが、今読み返しても少しも古さを感じさせない。これは著者が写真には素人と開き直りながら、写真を「作品」としてでなく、写真家と被写体の関係として捉えている立場によるのだろう。
月例コンテスト写真の投稿作品+選者の千編一律のつまらなさ、商業写真の思い上がり、ためにする写真などへの批判は、現在でも、力を失ってはいないし、日本の写真の草分け、上野彦馬が、何も無いところからいわば化学者として、達成した写真術への驚嘆、リーフェンシュタール「ヌバ族」の恐さ、不許可写真の結果的選別の面白さ、桑原甲子雄の普通の東京を撮ることの難しさなどなど、興味深い批評が目白押しである。
たとえば写真に「なぜ題をつけるか」という一文にある次のような一節。

本来、写真の場合は、番号に近い記号性を題に依存する程度にとどめて、なるべく写真については喋らぬ方がいいように思える。そうでないと、写真というものの自立性が失われる。ハッキリいうと、写真がものをいっていないのに、それを撮った人間がものをいっても仕方がないのである。写真は、他のいっさいの手助けなくて、そこにあった方がいい。逆にいえば、コトバの説明を必要とするような写真は、それだけ写真の力がよわいということにもなる。
料理であれ、踊りであれ、芝居であれ、小説、絵画、その他すべて人間のつくりだすもののおもしろさや良し悪しが判断できるのには、やはり無手勝流でいく無駄が必要となる。だからそこに解説があることは、効率主義への好みの結果だといわねばならない。即ち解説流行は、一般大衆の、せっかちでケチな心情、無駄をしないで早く得をしたいという効率主義を好む結果だといえるのである。(中略)解説は、本人がする場合は自信のなさの表明になり、他人や専門家がする場合は、それに対面する者の孤独の能力と楽しみをけずりとって、受けとる側をあまえさせてしまうようである。

正論である。
おしまいの方にある「写真のためにはなにも存在しない」という章のタイトルだけでも、彼女の写真に対する立場は明らかであり、Morris.もまったく同感である


大江戸鳥暦】松田道生 ★★★ 書名と「川柳でバードウォッチング」という副題でわかるように、鳥の出てくる江戸の川柳を季節毎に引いて、簡単な解説を付けたもの。著者は、日本野鳥の会職員を経てフリーになったというから、どちらかというと、鳥が専門らしく、川柳の解は、やや省略したり、わからないのは曖昧なままにしてるようだ。それでも、鳥のイラストがなかなか素敵(水谷高英画)だし、江戸名所図絵や、和漢三才図会からのイラスト引用もあって、それなりに楽しめる1册だった。江戸時代と現代では、想像以上に鳥の分布が樣変わりしていることも、知ることが出来るし、川柳子が、意外にも細かい鳥の習性を観察してるところなども面白かった。

○春−烏、鶯、夜鷹、鷽、虎鶫、呼子鳥、雉、鶚
○夏−時鳥、水鶏、雀、白鷺、行々子、雲雀
○秋−雁、鴫、鵙、鵯、椋鳥、木菟、鳩、鵜、
○冬−鶴、鷹、鳶、千鳥、都鳥、白鳥、鴛鴦、鴨、鸚鵡

章に立ててある鳥の名を、故意に漢字で表記してみたが、どのくらい読めるかな?

ところで、ヨシキリの項で

 よし切は伊勢も難波も同じ声

を、引いて

関西では、ヨシのことを浜萩というが、ヨシキリのことをハマハギキリとは言わず、なお同じ声で鳴くため。

としてあるのは頂けない(>_<)。「難波の蘆は伊勢の浜荻」の歌にもあるとおり、大阪で言う「蘆(よし)」を伊勢では「浜荻(はまおぎ)」と呼ぶわけだから、著者は二重に間違えていることになる。

また鶴の語源を、群で「連れる」からとか、他の鳥より立派な「優る(すぐる)」に由来するとしているが、これは朝鮮語の「トゥルミ」の転と見るのが自然だと思う。本書でもその後に韓国語説を挙げているが、なぜかそれが「ツルギ」になっている。


居酒屋大全】太田和彦 ★★★☆12人ほどで結成した「居酒屋研究会」の手書き会報が今は無い雑誌「テイゥジャパン」に連載され、それに加筆したものが本書で、架空座談会と、レポート、テーブル、ルポなどで構成されている。ほとんどが著者のリライトらしい。著者は46年生のアートディレクターで、椎名誠らの仲間らしい。
発行が1990年で記事の内容はそれより数年さかのぼるから、酒や店の評価などガイドとしては古びている部分も多いが、全体としては、とても面白かった。別に「ぐいぐい酒場」(Morris.の掲示板)を開業してるからというわけでなく、もともとMorris.も、外で飲むなら、断然居酒屋派なので、こういう本は読むだけでも楽しい。何でもっと早く読むんだった。これは本書が図書館で日本十進分類法6793の棚に置いてあったのでつい見逃していたらしい。エッセイの棚にあれば、すぐ目についたはずだ。愚痴ってもしょうがない。
理想の居酒屋三原則「いい酒、いい人、いい肴」いい人に、店の人、仲間を含むということにすれば、これも依存はない。
座談会もそこそこ羽目を外さない程度のギャグを交え、蘊蓄や、壷を押えてテンポもいいし、テーブル仕立ての「資料」にも役立ちそうな情報が多い。
「入らなくても判る名店鑑別法」「日本酒ネーミングベスト」「日本酒ラベルベスト」「居酒屋料理ベスト」などは、ついついじっくり見入ってしまったよ。
東北の1週間にわたる、ルポを別にすると、紹介されてる店は東京中心だが、日本三大酒場の一つに選ばれている、大阪阿倍野アーケードの「明治屋」へは、一度行ってみなくては。
本文とは関係無いが、中に出てきた回文の2句は、なかなか上手い。「七星」というのが著者の俳号、もう一人は仲間の秋元という人らしい。

・雪の舞う 襟裳の森へ 馬の消ゆ−−虚視

・今 軍手 脱ぎつつ 注ぎぬ 天狗舞−−七星


【ポケット・ フェティッシュ】松浦理英子 ★★★ 彼女は、露骨ではないが、かなりアブナイ系の作家らしく、Morris.は敬して遠ざけてるのだが、本書はタイトルと、短いコラムだったのでつい借りてきた。小説ほどのしつこさはなかったが、紙おむつのコマーシャルから、幼児に対するセクシャルハラスメントを連想したり、A間隔の究極は大便のやりとりだとか、女囚映画礼賛とか、ホルスト・ヤンセンの性交図への皮肉な見方などなど、それなりの毒性はやはりある。
一番面白かったのは、マッケローニの写真集に付した解説文だった。この写真集は恋人である女性の性器を3年間に2,000枚とった中からの抜粋らしい。写真集は未見だが、この解説文もなかなかに過激である。

女性器は隠され、そして暴かれる。私たちの文化は長い間、この隠蔽と暴露のゲームを続けてきた。

男は見る者であり女は見られる者である、とする性別による役割の固定が私たちの文化には存在するが、たかが見ることに男たちが情熱を燃やす理由も、見る行為=暴き出す行為と理解すれば、男ならぬ身にも薄々想像はつく。

マッケローニ作品が猥褻ではないことは今一度強調しておいてよい。これらは女性器に<真実>=<猥褻性>が内在しないことをあきらかにし、長い間続いて来た女性器をめぐる隠蔽と暴露のゲームに終止符を打つ力に滿ちた作品であり、公の場で展示されることでその力は発揮される。これらの公開を禁じるのは、隠蔽と暴露のゲームを延長し、女性及び女性器を快楽の道具とする差別的な見かたを生きながらえさせようとする反動的な措置である。私たちはゲームを終らせるべき時期を迎えているのである。


【ぼくの 鳥の巣コレクション】鈴木まもる ★★★☆☆☆ Morris.は初めて知ったのだが、著者は画家で絵本や鳥の巣に関する著作があるらしい。現在伊豆の婆沙羅山に住み、鳥の巣の収集と創作に励んでいるらしいが、とりあえずMorris.は巣のイラストの美しいことに感心した。鳥の巣といえば、ツバメ、カササギ、カラスくらいしか思い付かないが、単に「鳥の巣」といえば果物籠みたいな共通イメージはある。しかし、本書を見るとその形態、材料、色、場所などさまざまな変化に富み、構造、製作過程の複雑さ、精密さに驚かされてしまう。基本的に鳥の巣は使い捨てで、卵から雛が孵り、巣立ってしまえば、用済みとなりあとは自然に還元されるはかない存在なのだが、著者はこれらを大事に持ちかえり、ニスなどで補強して保存しているそうだ。もともと造形に関する興味から鳥の巣に惹かれたらしいが、逆に鳥の巣から、自然への理解が深まったともいう。キセキレイの巣
著者は愛鳥家とは一線を画して、鳥の巣を通して自然と関わる中から、ユニークな視点を持つに至ったようだ。文章においては、ユーモラスに表現しようとするあまり、ちょっと頂けない部分もあるが、一般的には見過ごされやすい、こういう自然のディテイルに注目し、図版やコレクションとして定着する作業には声援を送りたい。


青春18切符パーフェクトガイド2000-20001】神戸寧彦 ★★★ さんちゃん主催名古屋オフと四国行きを機会に生れて初めて、青春18切符を買ったMorris.なので、まさに初心者だったのだが、本書を書店で見付けて興味は覚えたのだが1500円も出して買うのはためらわれた。それが宇仁菅書店の均一台で200円で、出ていたのでつい買ってしまった。基本的には「鉄ちゃん」関係の本なのだろうが、ほとんどその方面には無恥唖Morris.にも解るように、初手から親切に手ほどきしてあり、実に役に立ちそうな本だ。前回のMorris.が利用した周遊券的使用法はやっぱり、素人の使い方で、本筋は、ムーンライトと名づけられた長距離快速列車(コア列車)と、それに接続するサポート列車を組み合わせての、超合理的ルートを駆使することにあるらしい。本書を熟読して青春18の初心者から、中級者を目指すことにしよう。
とりあえず青春18切符の発売期間、利用期間と料金を

・春季 2/20〜3/31(発売) 3/1〜4/10(利用期間)
・夏季 7/1〜8/31(発売) 7/20〜9/10(利用期間)
・冬季 12/1〜1/20(発売) 12/20〜1/20(利用期間)
5枚綴り、\11,500(1回あたり\2,300)

つまり、期間中は、日本全国のJRの、快速、普通列車が一日2,300円で乗り放題ということだから、使い方によってはすごいメリットがある。
Morris.はこの青春切符を利用して、今度の冬季か春季に下関から釜関フェリーで韓国に行くプランがあるので、そういう意味でも本書はいい買い物だった。


岸和田少年愚連隊外伝】中場利一 ★★☆☆ お馴染み岸和田ワルガキのエピソードなのだが、さすがに、もう、食傷気味である。相変わらずはちゃめちゃな喧嘩場面は、痛快で、地元ネタのテンポのいい筋運びはそれなりに楽しませてはくれるものの、こればかりでは先がないんじゃないか、と思ってしまった。


鮮魚師(なまし)】永井義男 ★★☆ タイトル作と「天保糞尿伝」「蛍狩殺人事件」の3編の短編が収められている。中央図書館で立ち読みして面白そうと感じたので借りて来たのだが、3作とも取り上げてるモチーフは良さそうなのにすべて尻すぼみ。下手にミステリ仕立てにしようとして、興を削ぐ結果になってしまっている。小説以前だな。Morris.の選択眼が曇りかけているのか??と、ちょっと不安になった。


【俳句  四合目からの出発】阿部[竹冠+肖]人 ★★★☆☆☆著者の名は「しょうじん」と読む。明治33年生、昭和43年没。本書はその最晩年に上梓されたものだが、15年後に講談社学術文庫に収められ、Morris.が借りてきたのは2000年4月27刷となっているから、結構版を重ねている。
四合目というのは、俳句を富士登山に例え、俳句の「裾野を独りぼそぼそ歩くのをやめ、車を飛ばし、三合目を過ぎ、本日、即刻、いきなり四合目の木っ端天狗の仲間入りを」するために書かれたという謂らしい。
2ヶ月前に突然「ぐいぐい俳句」なんてものを始めたMorris.なので、灘図書館の新着図書の棚にこの本を見付けて、思わず手に取ったのだが、目次を見て驚いた。一般の入門書とは余程違って、著者が命名したユニークな俳句の名が百花繚乱よろしく並んでいたからだ。さすがに「ぐいぐい俳句」というのは無かったが、いかにもMorris.の句に当てはまりそうなのが、ごろごろしていて、これは読まずにはいられなくなった。しかも、これらは統べて、初心者の陥りやすい、悪弊の見本帳とある。
文庫ながら500ページという本文の大部分を割いて、これら初心者の句の、ステレオタイプな悪弊を、分類し、実作にあたってそれぞれを批判(罵倒、断罪、叱咤、恫喝)している。Morris.も読書控えでは、結構けなしたり、こき下ろしたりしてるのだが、本書の足元にも及ばない。なにしろ、初心者俳句15万句にあたり、そのあまりにも同じ誤りがあるため、この悪弊を分類して、一網打尽にしてやろうという気概あふれる作なのだった。
初心者の陥る、俳句をざっと総覧しておく。

・真理発見俳句・断定俳句・三段論法俳句・も、に俳句・だから俳句・筋入り俳句・説明俳句・セロファン俳句・世間俳句・慶祝俳句・時事俳句・身辺俳句・水増し俳句・物臭俳句・ためらい俳句・箍なし俳句・ああしてこうしてどうした俳句・季重なり俳句・蛇足俳句・トンチンカン俳句・語感薄弱俳句・挿入文混乱俳句・ブツ切れ俳句・多義俳句・旧ルビ俳句・難読俳句・新造語俳句・漢語俳句・骨董俳句・馬面俳句・古着俳句・馬車馬俳句・泣き面俳句・めそめそ俳句・しょんぼり俳句・孤独俳句・立ちん坊俳句・ちまちま俳句・せんち語俳句・さのさ俳句・口語文語混合俳句・はみ出し俳句・生ま生ま俳句・われ俳句・自己宣伝俳句・ナルシス俳句・親族俳句・師友俳句・君俳句・今ここ俳句・この、かの俳句・うわ言俳句・張り子の虎俳句・分裂症俳句・極限嗜好症俳句・野狐禅俳句・どん底俳句・遠方俳句・限界俳句・自意識過剰俳句・煩悶俳句・サッカリン俳句・虚無俳句・夢遊俳句・思い出俳句・憂愁俳句・春愁俳句・恋愛俳句・幸せ俳句・本性俳句・葬式俳句・詩人気取り俳句・芸術家気取り俳句・カンカン俳句・もたれ込み俳句・結論俳句・ひねくり結論俳句・ひとまとめ結論俳句・もの俳句・ところ俳句・形容詞の結論俳句・自己結論俳句・同感強要俳句・独り解釈俳句・独り合点俳句・ムード誇張俳句・必死俳句・ほかなし俳句・追いつめられ俳句・ばかり俳句・ねばならぬ俳句・得ず俳句・小さき俳句・色彩対照俳句・反対語俳句・相対俳句・相対語俳句・畳語俳句・出刃龜俳句・久米仙俳句・つぶら瞳俳句・無作法俳句・目に手に背に身に耳に俳句・ムード美装俳句・音楽美装俳句・説明俳句・記述俳句・報告通告俳句・弛緩俳句・未整理俳句・言い損ない俳句・ルビ俳句・平浅俳句・感傷俳句・小細工俳句・俗語俳句・外国語俳句・固有名詞俳句・観念語俳句・観念的ひねり俳句・理屈俳句・でっちあげ俳句

著者が俳人としてどの程度の才能の持ち主か知らないが、とにかく、これだけの名前をつけたというだけでも、Morris.は拍手を禁じ得ない。
目次だけではわからない物も幾つかあった。たとえば、「さのさ俳句」、これは、Morris.は小唄みたいな軽い調子のいい俳句かと思ったら、さにあらず。形容詞の語感に「さ」を付けて名詞化したものを使う弊を言うもので「赤さのさ、深さのさ」から「さのさ俳句」となづけたもの。

・たとえば「百合白し」「柿赤し」などは、実は色を示す必要もなくものを直指すれば、読者はその物と共に色を思い浮かべてくれます。−−ところがこの弊を一歩進めると物から色を抽出します。百合の「白さ」のように物から別に色を引き離します。この事は、物自体をじかに視ることでなくて、一種の「企らみ」を潜入させるのです。そして抽出した以上、それを何とかいわねばならぬと騎虎の勢いで、遂にあらぬ方に技巧的に外れて行きます。これが小細工であることを知らず、かえって一種の、深く見た技巧であると勘違いします。この類が非常に多い事であり、しかも一歩深く覚り得た作者は決して用いない技法であります。そこに初心的な大きな類型があります。

ざっとこんな風に、懇切丁寧に解説がなされているので、たしかに分かりやすく、こういった語はなるだけ使うべきでないと納得させられる。

著者の立場は、正岡子規の流れを汲み、写実、凝縮を旨とするもので、現代俳句の正統的実践者らしい。ほとんど門外漢のMorris.にとって、初めて読む入門書ということにもなる。
しかし第一部第一節「川柳とのちがい」において、「洒落、もじり、皮肉、滑稽、世故、人情、世態、風俗」の要素があるものが、川柳であると明記してあったので、意気消沈してしまった。Morris.の「ぐいぐい俳句」の大部分は、これらと関わっていたからだ。
だが、一通り読み終えて、こういう立場は立場として、Morris.は、好き勝手に作ってもかまわないのだと、開き直ることにした(^_^;)たしかに、格式ある、由緒正しい句を作るには、本書のべからず集を遵守すべきかもしれないが、Morris.の目指す「面白い」句には、また違った道筋があると思ったのだ。

・「俳句」の短さは、言葉否定の短さであり、ただの短さではありません。言葉は言う為の道具であるから、言うに従って詳しくなり、効果を挙げますが、それをぷっつりと切る所から否定が始まり、最も短くすることは、最も否定の力を働かせることであります。
これを短歌と比べると、短歌はその短詩型の程度で、言葉を否定していますが、その三十一字の範囲では言葉の存在や性質を肯定しています。俳句の最も嫌う感情露出といいうことは短歌では問題でなく、泣いたり歌ったり、叫んだり嘆いたりすることができます。とりもなおさず「しゃべる」ことができます。喋ることは、言葉の存在を肯定し、それを楽しむからです。
その半分の俳句は、だから短歌の半分位言葉を肯定しているのかというと、そうでなく、絶対に否定します。三十一を零に押し詰め、言葉を全部否定しきってしまいます。そして、そこから出なおして別の方向へ十七字として再出発します。それは言葉を否定し切った立場であって、短歌が、大部分否定しながら三十一字分だけ肯定しているのと、絶対的に異なった立場であります。だから短歌と俳句の間には、飛び移ることが許されない絶対の深淵が厳として存在します。
だからまた、たった十七字ぐらいで、事が足りるのでもあります。
一見して、俳句には高度の緊張が漲り、凝り固まった堅硬さであることは誰でも知っていますが、その緊張、凝縮する力はとりもなおさず、言葉を否定する力そのものであります。否定する力が、俳句の凝縮性となっています。

本書からは、他にもメモしたい部分も多く、著者の厳しくもユーモラスな指弾ぶりも紹介したいのだが、あまりに長くなりそうなので、ここで止める。
出来ない相談ではあるが、ぐいぐい俳句を著者に見てもらい、思いきり罵詈雑言を浴びてみたかったな。やっぱり俳句なんかやる輩はマゾなのだろうか?


ゼロ発進】赤瀬川原平 ★★ 2000年1月から5月まで読売新聞に連載した日録風コラムである。しかも彼の普通のエッセイ、コラムと比較しても非常に雑で、内容も劣る。毎日書いてやりとりしたというのなら、まだしも、リアルタイムの生々しさが出たかもしれないが、1週間分くらいをまとめて書いているものだから、同一日の出来事が数回にわたっていたり、野球見に行った記録や、贈物の開陳、読者からの反応への感想、自著の宣伝と記念会、講演の報告、勝ってる老犬や、拾ってきた野良猫観察録等など、書かでものことばかりで、なんで全国紙がこんなものを、それも看板を偽ってまで「新聞小説」として連載するのだろうか? 小説というのは著者が本文中でも強弁しているが、こんなもの、小説と呼べないとMorris.は断定しておく。まあ、Morris.は新聞小説なんて読んだこと無いが、老人力や、路上観察会、ライカ同盟などで、顔と名前が売れてる著者へ、新聞社の方が阿ったのかもしれないな。個人的には嫌いな人ではないし、読んで感心した著作もあるだけに、こういった手抜きのものを出されると、裏切られたような気になる。


雨のことば辞典】倉島厚編集 ★★★★ 先に日記でも紹介した雨のことばの辞典。予想通りなかなか楽しめるものだった。200pの小型のものなので、約千語くらいの語彙だと思う。雨の呼称だけでなく、雨に関する事象や、気象学てき情報、方言など幅広く収められているし、コラムや、ことわざ集などもあって、作った側も、楽しんだんだろうなと思わせる。おしまいに本書の中から、季節ごとに降る雨の語彙だけを索引風にまとめてあったので、写しておく。圧倒的に夏の語彙が多いのは、梅雨を含む季節であることと、その派生語が多いことが理由だろう。

○春の雨
・雨一番・育花雨・梅若の涙雨・お糞流し・華雨・蛙目隠・寒明の雨・甘雨・寒食の雨・木の芽おこし・木の芽流し・木の芽萌やし・杏花雨・草の雨・紅の雨・軽雨・啓蟄の雨・迎梅雨・紅雨・膏雨・高野の御糞流し・膏霖(こうりん)・穀雨・木の芽雨・催花雨・桜雨・桜ながし・社翁の雨・春雨・春霖・洗街雨・洗厨雨・暖雨・菜種梅雨・発火雨・花時雨・花時の雨・花の雨・春時雨・春驟雨・春雨・春の雨・春の長雨・春霙・春夕立・万糸雨・万物生(ばんぶつしょう)・びーじぅんあみん・彼岸時化・藤の雨・芽木の雨・柳の雨・山蒸(やまうむし)・愉英雨・雪解雨・雪消しの雨・愉莢雨(ゆきょうの)・養花の雨・よーず・沃霖・立春の雨・犂把雨(りはう)・リラの雨
○夏の雨
・青時雨・青葉雨・浅間立・紫陽花の雨・汗疹枯らし・イジュの花洗いの雨・いせむらだち・一陣の雨・一発雨・雨濯(うたく)・卯の花腐し・梅時雨・梅の雨・梅のつぶやき・うれあめ・温気・秧針(おうしん)の雨・大拔(おおぬけ)・沖早立(おきさきだち)・脅し雨・御雷樣雨(おらいさんあめ)・夏雨・過雲雨・隔轍雨(かくてつう)・かだち・かたばたあみ・神立・干天の慈雨・喜雨・きたあらし・狐雨・狐の嫁入り・急雨・牛脊雨・錦雨・銀箭・銀竹・くかるあまーみ・薬降る・栗の花霖雨・夏至の雨・黄梅の雨・梧桐雨・さずい・五月雨・さみだれ・ざらく・山賊雨・三把稲・駛雨・慈雨・繁雨・驟雨・暑雨・しょーぶながし・新雨・瞋怒雨・翠雨・すーまんぼーすー・青雨・早雨・叢雨・曾我の雨・神笠雨・日照雨(そばえ)・大宗雨・大雷雨・田植雨・田植さずい・たがらーめ・濯枝雨・筍梅雨・筍流し・蓼科立・蓼の雨・端的雨・湛轤耳雨・栗花落(ついり)・梅雨(−明け、−入り、−兆す、−豪雨,−籠り,−寒,−しとど,−出水,−めく、青−,暴れ−,荒−,えぞ−,送り−,男−,女−,返り−,空−,黄−,残り−,走り−,迎え−,戻り−,)・電雨・所降・土用雨・土用時化・虎が雨・流し・中降り・夏ぐれ・夏雨・夏時雨・夏の雨・入梅・猫毛雨・梅雨(−前線豪雨,陰性−,迎−,送−,陽性−)黴雨・梅夏・梅子雨・梅霖・はえ・白雨・麦雨・初夕立・婆威し・速雨・晩夏の雨・半夏雨・半夏水・氷雨・肘笠雨・一雲荒れ・蕗の雨・分竜の雨・埃おさえの雨・盆ながせ・磨刀雨・短夜の雨・水取雨・三束雨・村雨・瞑怒雨・もぎくらい・もらったあみ・夕立・白雨・ゆだち・ゆどぅん・余花の雨・よだち・雷雨・涼雨・緑雨・わいた・若葉雨・私雨
○秋の雨
・あぎあめ・秋微雨(あきこさめ)・秋さずい・秋雨・秋時雨・秋湿り・秋驟雨・秋黴雨(あきついり)・秋の雨・秋の地雨・秋の村雨・秋霖雨・通草(あけび)腐らし・雨冷え・伊勢清めの雨・姥(うば)威し・御山洗・霧雨・霧時雨・黄雀雨・催禾雨・酒涙雨・秋雨・重箱日和・秋霖・蕭雨・じり・凄雨・洗車雨・洗鉢雨・台風・たかぬあみ・たかぬしーばい・たかわたり・ただれ・七夕雨・七夕流し・ちあめ・豆花の雨・九月の時雨・なごの小便・鍋割・西上・ねこけんあめ・後の村雨・白驟雨・澎雨・盆の雨・霧雨・薬雨・冷雨
○冬の雨
・あがりにしき・あげ・雨雪・うとぅなぶしぬあみ・雨氷・浦西・液雨・御降り(おさがり・新年)・鬼洗い・解霜雨・かえ・風花・寒雨・寒九の雨・十月(かんなづき)時雨・寒の雨・北しぶき・北降り・山茶花ちらし・山茶花梅雨・定めなき雨・四温の雨・時雨(−明かり,−癖,−月,−の雨,朝−,磯−,掻−,片−,北−,北山−,山茶花−,小夜−,月−,初−,冬−,ほろ−,村−,めぐる−,山−,夜来の−,夕−,雪−,横−,夜のー)・しまき・凍倒(しみだおれ)・霜流し・白雨・大根摺・冬雨・凍雨・冬至雨・時の雨・富下り・富正月・年末梅雨・運雨・氷雨・一切雨・氷の雨・ほかげ雨・水雪・霙・山廻り・夕霙・雪雨・雪下(ゆきおろし)・雪雑り・夜の霙・屡雨

もちろん、本文の説明も簡略ではあるが、多方面にわたり、いろいろなことがわかって面白い。

・「氷雨(ひさめ)」本来は夏の季語で雹や霰を表す。平成元年2月の「大喪の礼」の折には、朝早くから細く冷たい雨が降り続けたがその日の新聞は「氷雨の朝、昭和葬送」と見出しをつけて報じていた、さらに「外は冬の雨、まだやまぬ---」と歌われる歌謡曲「氷雨」のヒットで冬の雨としての市民権を獲得した。

・「雨中吟」考え過ぎの歌を例に和歌を詠む場合の戒めを教えた藤原定家著と伝えられる歌学書の題名で、転じて徘徊などで生硬で難解な句を指すようになった。

・「洗車雨」陰暦7月6日に降る雨。七夕の前日牽牛が念に一度の逢瀬に使う牛舎を洗う水が、雨となって降ると言い伝えられている。7月7日、七夕の当日に降る雨とする説もある。

・「雨降り花」花を摘むと雨が降るという伝承のある花。雨降り花と呼ばれている草花は「日本植物方言集」によると、一輪草、狐の牡丹、擬宝珠、苔竜胆、白詰草、昼顔、蛍袋である。


倚りかからず】茨木のり子 ★★★☆ 99年に出た彼女の第八詩集である。光晴や獏さんの縁で彼女の詩も読み始めたのだが、Morris.が韓国語に興味持ち始めた頃に出た「ハングルへの旅」で、一気に親しみを覚えた。詩は寡作な方だが、女性的感性にあふれ、そのくせ骨太で、芯の通った語り口には好感を覚えていた。最近はあまり見ないなと思ってたら、難病(バセドウ氏病)を患っているらしいことを、本書に収められた一篇の詩で知らされた。快復を祈りたい。

苦しみの日々 哀しみの日々 茨木のり子
苦しみの日々
哀しみの日々
それはひとを少しは深くするだろう
わずか五ミリぐらいではあろうけれども

さなかには心臓も凍結
息をするのさえ難しいほどだが
なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
あれはみずからを養うに足る時間であったと

少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
やがては解るようになるだろう
人の痛みも 石榴のような傷口も
わかったとてどうなるものでもないけれど
       (わからないよりはいいだろう)

苦しみに負けて
哀しみにひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである

受けとめるしかない
折々の小さな刺や 病でさえも
はしゃぎや 浮かれのなかには
自己省察の要素は皆無なのだから


エンガッツィオ指令塔】筒井康隆 ★★☆もう筒井は読まないでおこうと思ったのに、この短編集を借りてしまったのは、冒頭のタイトル作品の主人公が森崎という名だったから(^_^;) この森崎は学生で、婚約者に指輪買うために、複数の新薬被験者になり、その副作用で、食事の席の婚約者一家を縛りあげ、糞尿食らうわ、陵辱するわのハチャメチャぶり、スカトロ好みならともかく、Morris.には初期のドトバタ物より面白いとは思えなかった。その他北朝鮮をパロディにしたのも、諷刺が利いてないし、雑なところばかりが目につくし、インターネットで公開していたという、七福神の短章シリーズは、一人よがりだし、歌舞伎もどきのファルスにいたっては習作の域を出ない。断筆宣言以後最初の作品集というが、この程度のものを出すのなら断筆したままの方が良かったのでは、と、前にも書いたが、重ねてそう思う。
おしまいに付けたしの、断筆解禁宣言というのも言い訳にして歯切れ悪い。ただ一つ、サンボ問題を例に引いた発言部分だけは、共感覚えること大であった。★の一つはこの部分の点数だ。

「当事者でもない、単なる支援団体や第三者の抗議は相手にしないということです。黒人でもないのに家族三人で勝手に作った「黒人差別を守る会」などの団体のことです。こんな者の抗議によって「ちびくろサンボ」が絶版になってる。第三者のおたく的な自己満足、歪んだ正義感の犧牲で文学作品が次つぎと消えていくわけで、こういう傾向はなんとかそししなきゃいけませんよ」

ところで「黒人差別を守る会」って、本当にこの名前で合ってるのかなあ?? 差別を守るって????


【完本  文語文】山本夏彦 ★★★☆☆著者の一番新しい本だが内容は、これまでの著作の中から文章に関するものを集めたもの。全体の1/3を占める「明治の語彙」は、前に読んだときにも感服したが、あらためて味読するに足る。特に齊藤緑雨に触れた文に触発されて、しばらく愛蔵の「縮刷 緑雨全集」を拾い読みした。
前にも書いたが、Morris.は著者の信奉者ではないが、彼の文章を読む度に感心してしまう。論旨には必ずしも賛成できない部分も多いのだが、ついつい手にとってしまう。つまり「たらし」であり「てだれ」なんだろう。

以後詩は難解になった。読者が詩に思想またそれに似た何物かを求めるからである。現代詩にそれはないと詩人杉山平一は言う。詩は語呂合わせになった。判じものになった、なぞなぞになった、表記をしゃれる遊びになった云々。ただしそれに参加する読者は稀である。
凡百の詩歌はもと言葉の遊戯だった、たしなみだった。枕詞やかけ言葉の約束さえ心得れば分らぬということはなかった。それを滅ぼしたのは正岡子規である。
いま現代詩の約束を読者は知ろうとしない。詩の時代はついに去ったのである。

今は本が出すぎる。新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出るという。

各人にオリジナリテがあるという考え方と、ないという考え方があって、私はないと思っている。もしあるとすればまねしているうちに自然にあらわれるものだと思っている。個性なんてちやほやされて出てくるものではない。

西洋人というものはくどいなあと兆民は言いたかったのだろうと私は察した。文は削りに削って危うく分らなくなる寸前でとどまるをよしとする。それを転瞬のうちに理解する読み手の快いくばくなるを知らない。

旧幕のころの遣米使節一行が皆々敬意を表しられたのは四書五経のバックボーンがあったからである。彼らは折にふれ歌を詠み詩を腑している。芸術ではない、たしなみである。言うまでもない最も学ばなければならないのは国語なのである。シオランという当代の碩学の言葉を繰返してあげたい。(出口裕弘訳紀伊國屋書店刊)
−−私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない。

手短にいう。あらゆる思想は出尽したと絶望して人類は方向を転じたのである。産業革命である。蒸気機関は残せる。直ちに鉄道、汽船に応用できる。昭和初年特急は東海道を十六時間で走ったとせよ。今は四時間、三時間で走る。飛行機ならさらに早く飛ぶ。
人は何がしたいのか。時間と空間を「無」にしたいのだ。汽車が出来なければ電話がある。電話は時間と空間を征伐した。産業革命にもはじめは時間があった。八時間半を三時間半にするには十なん年もかかった。もう時間はない、いよいよない。

私は文語に返れと言いたいのではない。そんなことは出来やしない。ただ文語にあって口語にない「美」は何々ぞと、なおしばらくさがしたいのである。それは口語の美をすこし増しはしないのかとわずかに想うからである。

語彙の背後には千年の伝統がある。私は文語文に返れと言っているのではない。今さら返れもしない。早くすでに核家族である。私たちは風流という言葉を口にしなくなって久しい。古人はその短をすて長をとれと言っている。歌枕だとてとるべきところはあるであろう。


【バックパッカーズタウン  カオサン探検】 新井克弥 ★★★★ バンコクのカオサンの名前くらいは知ってたし、題名からして、一般観光よりちょっとディープなバンコクの旅の案内書かと思って手に取ったらとんだ間違いだったが、これは嬉しい誤算。
大学で「社会メディア論」の講師をしてる著者の5年にわたる、フィールドワークを中心に、インタビュー、ネット、自HPによるアンケート、質疑応答なども加味して、総括的かつ詳細にまとめられた興味ある定点観測レポートだった。カオサンの変貌と意味合い、それに連動する日本人の海外旅行者(主に個人旅行者)の思考体系の類型化と変化、テーマパークとしてのカオサン、租界としてのカオサン、カオサンのシステム分析など、バックパッカー志向はありながら、ついに実体験を経験しえなかったMorris.は、やや複雑な感慨をもって本書を読んだ。バックパッカーの生態と、限界、ポスト・バックパッカーと呼ばれ電脳旅行者などなど刺激唆的な項目が多く、久しぶりに読み応えがあり、面白くてためになる(^○^)本だった。昨夜徹夜したのはこれを読んでたからだ。「日本焼肉物語/宮塚利雄」以来の拾い物だ。
中核は「第三章バンコク安宿街の栄枯盛衰」と「第五章いまどきのバックパッカー」だろう。
安宿街といえば、Morris.などはジュライ、楽宮あたりしか頭になかったが、それが今や没落??し、カオサンの独走になるまでの、動向と必然が三章でダイナミックに分析されている。また、一口にバックパッカーと言っても、そのディープさ、行動形態による違い、また時代による変化によって、さまざまだが、五章ではそんなバックパッカーを、・オールドバックパッカー(ピュアバックパッカー、ディープバックパッカー)・熟年パッカー・年少パッカー・家族パッカー・女性パッカー・没主体性旅行者・無気力組・無知無防備ボッタクレ組・ビンボーゲーム志向者---etc.と、それぞれを簡潔にスケッチしながら、醒めた批評もしていて、Morris.にはこれが一番面白かった。たとえば次のような分析。

で、実際にカオサンに来てみたら、そこには同じ穴の狢が存在した。彼らも自分と同様、日本社会からスピンアウトされていて、社会との関わりを持ち得ていない。だがここ、カオサン・ドミトリーではそういった傷口こそが、仲間に加わる資格となる。旅、カオサン、自分が日本人であること、スピンアウト、この四つが共通のメディアとなり、日本ではこれまでなかなか得られなかったコミュニケーションの可能性が開けるからだ。つまり時空間を旅、そしてカオサンと限定することで、傷口をなめ合う仲間を簡単に見つけられるというわけだ。
あとはカオサン・ドミトリーという小社会の中で慰め合い、癒し合いの日々が始まる。ぼんやりと何をするのでもなく、とりとめもなく話をしながら一日を過ごす。傷ついたところには一切触れないのが暗默の了解であり、それゆえ、触れそうになれば巧妙に回避する癖がついている。それが結果として「やさしい」という態度になる。言い換えれば、このやさしさは相手に対するというより、むしろ自分がこれ以上傷つけられたくない、だから「あなたを傷つけるようなことはしない、その代わり私を傷つけないでくれ」という間接的なメッセージなのだ。でも、日本での孤立化した生活は耐えられない。構って欲しくない。だからそばにいて何もしない、あるいは時には一緒に飲んだり、食べたり、遊んだりすることで仲間の一人であることを確保し、孤独を回避するというやり方をとる。カオサン・ドミトリー、実は日本社会からスピンアウトされた若者のアジール、日本で受けた心の傷からの避難、癒しの場となっているのではないか。

筆者は阪神大震災のボランティアにも、カオサンと同様のアジールが現出したとも注記している。
ディズニーランドとカオサンをともにテーマパークとして捉え比較した部分は、発想としては秀逸だが、やや、図式的になり過ぎた感がある。
しかし、全体を通じて、実に綿密かつ洞察に富み、一貫して客観的立場で、このつかみ所無さそうな、タイの特種地帯、特殊事情を分析しているのは称賛に値する。
点としての、タイ旅行ガイドブックではないが、もっと普遍的な旅(にとどまらず、社会への対応)の本質を考えるときのガイドブックになるのではないか、とまで持ち上げたいくらい感心した。個人的には、Morris.唯一のタイ旅行で泊った「台北大旅社」の客室のモノクロ写真が掲載されていたのを見て、何かじーーんとなってしまったよ。


編集者諸君!】嵐山光三郎 ★★☆ この前読んだ「文人悪食」があまりに面白かったので、ついついこれも借りてみたのだが、いまいちだった。「本の雑誌」「週刊現代」他に連載のコラムをまとめたもので、中では「本の雑誌」連載のものだけはまだ見るものがあった。編集者から作家、エッセイストに商売替えした事情や、編集者時代に代筆したことの暴露など、あまり行儀がよくないなと思ってしまった。この人は自分のことを書くと面白くなくなる傾向があるようだ。


17歳のバタフライナイフ】 別役実、宮崎学 ★★★月間「論座」に連載された二人の対談「犯罪季評」に、いくらか追加したもので、酒鬼薔薇事件、毒入りカレー事件、幼稚園児お受験殺人事件、バスジャック事件、警察内部犯罪等など、ここ数年の顕著な事件をネタに、二人が犯罪の変化から、現代社会の問題点を剔抉するというもの。かねがね、別役の犯罪論は見るべきものがあると思っていたし、宮崎学は好きなので、結構期待して読んだが、まずまず期待は裏切られなかった。
二人の共通認識として最近の「犯罪の堕落」があるようだ。社会構造、通念が変わったことによって、犯罪もそれに付随して変わっているのだが、それが二人には憂うべき変化と見えるらしい。犯罪は社会を映す鏡であり、現在の犯罪から現代社会を捉え直すという方向は有効なのだが、それを踏まえて今後の展望となると、お寒いことばかりで、何となく暗澹となってしまう。
本書は、三一書房労働組合発行となっている。これは、対談してる二人とも、三一書房労働闘争の支援者であるためということだ。あの三一書房で、そんな問題が生じていることさえ知らずにいた。新聞、雑誌をほとんど読まないMorris.ではあるがちょっと恥ずかしい。

別役 バブルが崩壊してどこかに軟着陸する予定だったのが、軟着陸しないで浮遊したんだと思うよ。僕は、中高年の自殺というのが、これからもっと増えそうな予感がする。これほど時代の崩壊感が強まって、自信を失っていると可能性はきわめて高い。若い人の死はどこか哲学的なところがあるけど、中高年の自殺はただグズグズと崩れていく感じです。
宮崎 僕は、老人の犯罪、それも団塊の世代がらみの犯罪が増えると思います。この世代は、若いころからこの世の春を謳歌して悪いことばかりやってきたんだから、当然報いを受けますよ。これから属すべき共同体がなくなって、社会に馴染めなくなったことから起こる犯罪が増えるようにおもいます

宮崎例の神戸の酒鬼薔薇事件の中学生は、ちょうど中学二年なんですね。今の中学二年生というのは、「ふるいにかけられる=選別される」年齢です。僕らのときでいえば、大学卒業の頃なんです。ものすごくスピードが速くなっている。大学卒業のとき、ふるいにかけられて「ああ、俺はダメダ」、この時期が今はなんと中学二年生なんですね。そのときに判断を求められ、多くはマイナスの烙印を押されてしまう。そのスピードの速さに、精神的についていけなくなってしまっている。僕はそういう人たちが大量に生まれてきていると思うんですよ。
別役 そこで成熟していないから、逆に大学生が幼い、幼児的要素を持っている。東京の池袋、山口県の下関で、同時に通り魔事件が起こったんですが、あの二人なんかも、なんとなく外側に向けて,害を働くというよりも自分自身を傷つける。その行為が幼児的、閉鎖的なんです。甘えて、こういうことになったのは、お母さんが悪いんだと言い訳しながら、やっている。外国の無差別殺人事件は、あきらかに外界に対して、害を行っている.二十代前後、あるいは三十代の人たちが、外へ、世界へ向って働きかけることがなくなってきている。むしろ中学生あたりが、突発的にやる事件のほうが、外に向っている。

別役 あそこ(東京警視庁)は聖域なんですか。
宮崎 よすするに、記者クラブを完全に取り込んでいるか取り込んでいないか、ということだと思います。記者クラブで、記者が特ダネを取るというのは、警官の不祥事とバーターなんです。常に、「この不祥事は知っているけれどだまっていますよ。そのかわり特ダネを教えてください」という関係。それがあまりにも盛んすぎるんじゃないですか。組み込まれちゃっているんです。そういう意味での風通しの悪さ、本来、社会的に機能しなければいけないメディアが、完全に取り込まれちゃっている。一家意識が強く、利権を追求することの出来る法的根拠を持っている。そうなってきますと、非常に大きな腐敗の巣窟みたいなものが、一方にあるんだと思っていたほうがいい。


ジャズ・アネクドーツ】ビル・クロウ 村上春樹訳 ★★★☆☆ 著者は5,60年代に演奏した白人のベーシストだが、多くのジャズメンとの付き合いの中での、エピソードをまとめた本を何冊か出していて、本書は91年のジャズ系雑誌読者投票で優秀賞に選ばれたものとのこと。元来ジャズミュージシャンには逸話がつきもので、いかにもジャズらしく、これにアドリブが効いたり、アレンジされたりして、その場その場でさまざまな形を取って現れることも多い。ジャズファンならずとも、ジャズ界の雰囲気を擬似的に楽しめるという意味で、この手の本は人気が高い。Morris.はアートテイタムの章があったので借りて来たのだが、その他のミュージシャンのものも、どれも面白かった。中には薬がらみのかなり悲惨な話も含まれているが、伝説的ミュージシャンの伝説を作り上げる一助となっているのもこれらの逸話なのかもしれない。ジャズ本の挿絵といえば、ほとんど独壇場といっていい、和田誠の裝幀、挿画も相変わらずのことながら素晴らしい。ジャズ喫茶を経営したこともあるだけあって、村上春樹の訳もこなれている。
ちょっと長いが、ある奏者がサッチモに挑戦したときのエピソードを。

(挑戦者が聴衆を沸かせて、満足気に演奏を終えた後)
それから叫びと拍手が唐突にやんだ。向いのステージに、純白のスーツに身を包んだルイがさっと飛び上がったのだ。照明が彼のトランペットに不思議な感じに反射していて、それはただの楽器みたいには見えなかった。彼はまるで虹の束だか、陽光のかたまりだか、そういうこの世のものではない何かを抱えているみたいに見えた。あとになってわかったことだが、そんなルイの姿に神秘に近いものを感じ取ったのは、何も私一人だけではなかった。その光景を私は今でも目の前に思い浮かべることができる。曲の名前は忘れてしまった。しかしその最初の一音だけは絶対に忘れられない。彼は焼けつくように飛翔する、アルティッシモの見事なばかりの高音を吹き、その場にいあわせたミュージシャンみんなが茫然とするくらい長くそれをキープした。絶対音感を持っているベニー・カーターは言った。「まいったな、あれはハイFだぞ!」やがてルイは一連のカデンツァをこなしてから、最初の曲にかかった。--中略--
その夜ルイは、いつまでも演奏をやめようとはしなかった。そしてどのクライマックスも、先行するクライマックスを凌駕していた。休憩を取るたびに嵐のような拍手が沸き起こった。女性が雲霞のようにステージに押し寄せてルイにサインを求めた。彼女たちはプログラムからウイスキーの瓶まで、目につくものならなんでも持ってきて、それにサインしてくれと言った。なんとひとりの女性ははいているパンツを脱いで、それにサインしてくれと頼んだ!

笑い話としてよく出来てる奴を

ホワイトハウスで開かれたデュークエリントンの誕生パーティで、ニクソン大統領はとくべつな温かみをこめて、キャブ・キャロウェイの手をしっかりと握りしめた。キャブは大統領が自分のファンなのだろうと思った。それからニクソンは言った。「ミスタ・エリントン、あなたにここに来ていただけて、私はとても嬉しい。誕生日おめでとうございます。パットも私も貴方の音楽の大ファンなのです」
キャブはにっこり微笑み、礼を言い、そのまま中に進んだ。


作家の値うち】福田和也 ★★☆☆ 日本のエンターテインメント、純文学それぞれ50人をとりあげ、その作品個々を採点し、コメントもつけるという、なかなか思い切った試みで、こういう事をやる勇気には感心するし、9ヶ月に700冊(それも小説ばかり)読んだという事実にも脱帽する(呆れる部分もある)しかない。さらにそれを100点満点で採点するというのだから、常人にはできそうにない。そして、やっぱり、ちゃんとできていなかったようだ。それはある意味でしかたないよね。好きな作家の本だけ読むのなら、飽食だとしても、快楽の一種だが、嫌いなもの、相性悪いものまで飲み込むように読まされるのでは、苦行とさえ言える。加えて採点の拠り所を奈辺に置くかも至難の技だし、一年近くを通して、同じ価値判断をキープできるかという問題もある。そんなこんなを一切無視して、読みまくって、その時点での恣意的な採点ならMorris.の読書控えと同じようなものだが、この著者の場合、偏見に加えて一種の党派性みたいなものが見え透いている。つまり、どうも、Morris.との相性が良くない(^_^;)
ちなみに著者が90点以上を付けた作品17点中、3点(「楡家の人々/北杜夫」「哲学者の密室/笠井潔」「あ・じゃぱん/矢作俊彦)しか読んでない。Morris.一押しの奥泉光の評価も作品によって評価が逆転したりしている。これは、これでいいのよ、だって、読者はそれぞれ好き嫌いあって、点数だって、読み手のコンディションや、前後の読書などによって変わるんだから。ただし、船戸与一への、酷評というより、誹謗は目に余る。酒見賢一の名が無いというのも、Morris.には信じられないし、石原慎太郎の「わが人生の時の時」に96点というのは、Morris.読んでないといいながら、なんだかなあ、である。
コメントもあまりに短いこともあり、それほど当てにはならないし、点数もそういうわけで、競馬新聞の予想ほども参考にはならないが、とにかくこういう無謀な試みは、やることには反対しない。
Morris.の読書控に対しても、同様な不満を持ってる方が何いるのかもしれないな。


面目ないが】寒川猫持 ★★☆☆バツイチで目医者で猫好きの著者の歌集「猫とみれんと」は堀さんに教えられて、読み、その飄々とした歌いぶりには好感を持った。そんな読者も多かったと見え、その後新聞のエッセーなども連載していた。本書は毎日新聞連載のコラムを中心に集めた物で、たいていタイトル代わりに自作の歌を配して、近況や、感想などを思いつくままに綴ったものである。もともと俳句をやってたことや、文章は山本夏彦の弟子をもって任じているなど、初めて知った。Morris.はいちおう歌人を標榜しながら、突然ぐいぐい俳人になってしまったので、俳句の方を興味を持って瞥見したのだが、Morris.の好みとは違っているようだった。この人は、やっぱり歌の方が面白い。

・寒きもの背筋を走りぬけるとき何があってもふりむくなかれ
・辛抱をする木に花が咲くという花は咲けども山吹の 嗚呼
・われ死なば猫と一緒に葬れと目下のところ頼む人なし
・中年を定義しようかさみしくも自ら恋を諦めるころ
・手も足もちゃんとあるのに口だけでもの食う猫の可愛ゆてならぬ
・天國の扉を叩くわたくしの横には神よわたしの猫を
・あじさいの作道をゆく少年よ花青ければ青き悲しみ

しかし本書に引用された歌もいいものはたいてい、前歌集からの再録で、コラムの方はあまりうまくない。日記的要素が強いこともあるのだろうが、変に阿ったり、身贔屓、愚痴が生で出ている部分は鼻白んでしまう。


文人悪食】嵐山光三郎 ★★★★ 漱石、鴎外、から太宰、三島まで37人の詩人、小説家などを作品と実生活両面から、料理、嗜好をものさしとして、分析、批評した小論集。単なる作家のエピソード集にとどまらず、作品に全身投入した入魂の作家論となっていながら、面白く読める好エッセイとなっているところは、なみなみならぬ技量を感じさせる。もともとが編集者なだけに、達意にして、曖昧さを排除してる文章は読みやすい。取り上げられた作家の謦咳にも接する機会も多かったらしく、又聞きや、傍証でない、生の記録としても意味深い。中でも池波正太郎、檀一雄、深沢七郎は、担当編集者で、かなり付き合いが深いだけに、特に念入りに論じてあり、また料理もともにした回数が多いので資料としての価値も高い。すべて物故した作家というのも、編集者としての心配りだろう。
37編もあれば、当然むらはあるし、著者の好悪がもろに出過ぎているものもあるが、全体として非常に水準が高い。
谷崎、賢治、朔太郎、壇、子規、露伴、かの子などが強く印象に残っている。


蚤のサーカス】藤田雅矢 ★★★☆ 95年ファンタジー大賞を受賞した「糞袋」を読んで、感心した作者の2作目(1998)というので、借りてきたのだが、前作に勝るとも劣らないファンタジックな作品だった。蚤のサーカスという、目の付け所自体が、非凡だし、70年代のバーチャルな別世界の空気を上手く表現しているし、昆虫採集マニアが多数登場して、蘊蓄を披露する上に、主要登場人物の名がことごとく虫の名前を援用してるなど、やはり虫好きのMorris.には、それだけでも本書に肩入れしたくなる。途中で、さまざまな虫類を食べるところは、前作のスカトロ風味を踏襲してるが、実践はごめんこうむりたい。
行方不明になった主人公の父が、蚤のサーカスの団長になり、息子を拉致して、団長を継がせようとするが、本当は蚤が人間の肉体を借りて生き延びるという設定は、人間が遺伝子の乗り物に過ぎないという説に似ているようでもあるが、SFでなく、メルヘンとしてみればあまり気にならない。しかし、この作者も寡作だが、また、ゆっくり、次の作を楽しみに待ちたい。


小公子】 原作・バーネット 千葉省三 ★★★☆☆ 昭和26年発行の講談社版世界名作前全集(6)である。去年つの笛の百均階段で買って、その時もすぐ読んだのだが、今日もふと手にとって、ぱらぱらと眺めてるうちに読み始め、1時間ちょいで、読み通してしまった。小公子は子供の頃からそれこそ何回読んだかわからないくらい読んでるし、筋なんか完全に覚えているのに繰り返し読んで、なおかつ面白いというのはどうしたことだろう。Morris.はつたない語学力にも拘わらず、原語でも読んだし、明治25年のの若松賤子訳も3回はよんでるから、本書が原作の半分以下にダイジェストされていることもわかるし、なかば千葉省三の翻案に近いとも思う。しかし、これはこれで充分に完成している。ひょっとすると、去年の読書控えにも書いたかもしれない。函裏面の毛筆の署名によると、元の持ち主は高橋美津子という方だったらしい。
26年の時点ではこのシリーズは10冊しか出ていないがそのラインアップと訳者(翻案家)の充実ぶりは瞠目に価する。さすが、講談社といったところか。

1.)「ああ無情」 原作・ユーゴー 池田宣政
2.)「宝島」 原作・スチブンソン 高垣眸
3.)「巌窟王」 原作・デュマ 野村愛正
4.)「乞食王子」原作・マークト・ウェーン 大田黒克彦
5.)「鉄仮面」 原作・ボアゴベー 江戸川乱歩
6.)「小公子」 原作・バーネット 千葉省三
7.)「小公女」 原作・バーネット 水島あやめ
8.)「トム・ソウヤーの冒険」 原作・マークト・ウェーン 佐々木邦
9.)「アンクル・トム物語」 原作・ストウ夫人 北川千代
10.)「ロビンソン漂流記」 原作・デフォー 南洋一郎


写楽 その隠れた真相】田中穣 ★★☆ 写楽に関するこのての本をどれほど読んだことになるだろう。小説仕立てのものまで入れると20冊近くになるのではないか。それくらい写楽関係、特にその秘密を探るという類書は多いし、出るたびに読みたくなるのも、写楽の作品のインパクトの強さと、制作期間の短さと、登場前後が全くの空白状態という異常な状況なのだから、様々な臆説、推理、想像力を刺激してやまないものがあるからだろう。
とりたてて賑やかなのが写楽別人説で、擬せられた人物の数も十指に余る。本書もその類の写楽=歌麿説である。最近の傾向として、最初に自分の本命以外の説を順々に紹介しながら、欠点を指摘し、おしまいに自説を開陳するという、まことに安易な編み方をしたものが多く、本書もまたご同様である。著者は読売新聞の美術記者から美術評伝家になったらしいが、それにしては文章が回りくどい。それは措くとしても、写楽=歌麿説の証拠や、論証は、ほとんど説得力を欠く。写楽本というと、どうしても写楽の謎解きを書かねばならぬという、強迫観念に捕らえられるのかもしれないが、この程度の薄弱な仮設なら、意味がない。もっともMorris.は、謎は謎としてある方が望ましいという考えなのだが、それなのにこのての本を読んでしまうのは、謎が暴かれていないかと、ドキドキ、ハラハラするスリルを楽しむためなのかもしれない。本書は、そういう意味でも全然スリリングではなかった。写楽とその別人説を知らない初心者のための入門書としてなら使えないでもない。
本筋とは、ずれるが、日本語の「ありがとう」の語源が、ポルトガル語の「obrigado(オブリガード)」だという、噴飯ものの、とんでもない珍説を大真面目で取り上げてるのは、見識がないというより、ほとんど馬鹿だね。

ポルトガル語でいう「ありがとう」のオブリガードの「オブリ」を、室町時代の日本人は日常会話の上で「obri」のbとrを続けてうまく発音することが出来なかった。「オブリ」を「あり」ですまし、「ガード」を「がとう」とつづけて、「ありがとう」という美しいやまと言葉を発明した。

室町時代なら「有り難し」の形だったはずだし、この言葉は、源氏物語に出ている。ありがとうは「有難う」と綴る。もしポルトガルト語の転なら「美しいやまと言葉」であるはずがない。当然外来語ではないか(^○^)


起きて、立って、服を着ること】正木ゆう子 ★★★☆☆俳論集と断ってあるが、雑誌や結社の機関紙に連載したり、単発に発表した小文の集成で、こういう本はMorris.は、セレクション的読み方をして、気に入る句があればピックアップして、それでよしとすることが多いのだが、本書は、あまり採る句はなくて、その代わりに実作のヒントになりそうな部分に、目を引かれた。つい最近、掲示板のなかで、「ぐいぐい俳句」と称して、毎日4句をでっち上げることにしているので、方法論に目が行ってしまったのだろう。これまでMorris.は「俳句入門」といった類の本は読んだことない。

われわれの句に緊張が失われるとき、計らいのない句は只事に陥り、計らいのある句は類型にはまる。常に緊張を保っていてさえ、謎にまでゆきつくのは千にひとつ。しかしむずかしくともそういう句を詠みたいし、読みたいものだ。

山地春眠子「二物衝撃(配合)の実践的メモ」
1.)配合されるふたつの要素が互いに独立しており、それぞれが、物体に裏づけられた明確なイメージを盛っていること。
2.)ふたつの要素の間は切れていなけらばならない。従って、両者をよけいな言葉でつないだり、意味で関連付けてはならない。

各務支考の「七名八体説」という連歌における付合の仕方の種類。
「七名」=有心(うしん)、向付(むかいづけ)、起情(きじょう)、会釈(あしらい)、拍子、色立(いろだて)、遁句(にげく)
「八体」=其人、其場、時節、時分、天相、時宣、観想、面影
これらの方法を無意識のうちに組み合わせつつ、われわれは一句を成しているのである。
そこからはみ出す方法として江戸時代に発明された「空撓(そらだめ)」という概念を紹介している。これは二つのイメージの間に断絶(飛躍)があって、常識的には両方を結合できない方法で、山路氏の文章をよむかぎりでは、氏はこの方法に俳句の未来の可能性を見ているようである。

俳句の本質とは何かというと、上田(五千石)氏はことあるごとに<取合せ><切れ>であると書いていた。しかもその<切れ>とは「次元を変えること」と言っていることに注目したい。
上田氏はそこに俳句の本質と未来をみていたのだろう。俳句が構造的に盛っているこの「切れによって次元を越える」という装置こそ、私たちを捕らえて離さない俳句の魅力である。それを私たちはまだ十分に生かしきっていないのではないだろうか。

なんだか孫引きが多くなってしまったな。これは俳句とは無関係だが、本書のタイトルともなっている一文の中に「粘度を捏ねるような」という表現があり、いたく感じ入ってしまった。「粘土」の誤植という確率が高いのだが、Morris.は「粘度を捏ねる」の、初めて知った粘着力の強さに引き付けられたのだった(^_^;)


写生の物語】吉本隆明 ★☆ 内容が和歌、短歌論らしいので借りてきたのだが、はっきり言って、全く面白くなかった。引用歌の評価がMorris.とはかみ合わないし、批評もピンボケで、なってない。この人は歌がわからない人なんだと思う。こんなのを連載させた「短歌研究」も、見識がないというしかない。
歌人ではないが、中原中也と立原道造の歌を論じた章の冒頭に近い部分。

この詩人たち(中原と立原のこと)は、たぶん古典としてゆるぎない声価をもっている。その根拠はすぐに共通して幾つか挙げられる。ひとつは二詩人とも広い意味での自然詩人だということだ。そしてこのばあいの自然詩人というのは、草花や天然の現象を主題にした詩を書いた(書いたにはちがいないが)というよりも、自然を対象とするときに詩的凝縮を遂げるモチーフで自然に向ったと言ってもいい。主題が自然であったといいう意味は従属的でしかない。もうひとつの根拠は二詩人とも「私」小説という概念と同じ意味で「私」詩人だったということだ。この場合も私生活を主題としたというのは従属的な意味しかない。

まだ延々と続くが、とりあえず、最近読んだ中で、とびきりの「悪文」だね、これは。今後、歌や詩などの分野に出張るのは止めるか、いっそもう一度日本語を勉強して出直して欲しいくらいのものだ。
奥付けの著者略歴を見ると

吉本隆明  よしもとたかあき 1924年(大正13年)東京生まれ。詩人、評論家。東京工大電気化学科卒。--中略--最近ではテレビやファッション等を論じ新しい読者も獲得している。あらゆる党派性を拒否し、屹立する、戦後最大の思想家。

いやはや、恐れ入った(^_^;) まあ、これは本人が書いたのではないだろうが、公の出版物でよくやるよなあ。
東京ではどうか知らないが、関西で吉本といえばお笑いと決まってる、ひょっとして、先のキャッチコピーも彼一流のギャグなのかもしれない(^○^)


虚構まみれ】奥泉光 ★★★☆ 現代日本作家中、Morris.いち押しの奥泉光の、エッセイ、書評、日記、後書き雑文などをまとめたもの。98年に出てるのだが、Morris.は中央図書館の検索システムで本書のタイトルだけ見て、小説の棚になかったので貸出中と思っていたためずいぶん読むのが遅れてしまった。当然内容からして、これは、随筆の棚にあったわけだ。ある程度の略歴などは小説の奥付で承知していたが、本書の幾つかのエッセイで、かなり詳しく知ることができた。小説は書き手と読み手との交感によってしか成り立たないという自覚のもと、かなりスタイルを意識した出発(デビューは遅い)から、常に新しい境地の作品を作り上げる、姿勢に、プロの矜持を感じた。読書傾向もいくらかMorris.と重なる部分もあり、長編が好きというのも同じところには親しみをもった。自作の略解は、その評価がMorrisと正反対のものもあったりして面白かったし、交友関係や、朗読会、演奏会などのレポートからも意外な一面をうかがうことができた。小説を書き始めた頃、料理に凝ってしまい、その時の一番のバイブルが文庫版「壇流クッキング」だった、というくだりには思わず笑ってしまった。Morris.もずいぶんこれには恩恵をこうむったものだ。
しかし、当人も言ってる通り、彼の本領は小説にある。面白い小説を読みたい。だから、早く新作を出して欲しいものだ。

肝心なのはスタイルである。独創的なスタイルを持ちたいとは思うけれど、独創的なスタイルは他のスタイルとの連続性なしに生れるとは思えず、すでにあるスタイルの枠の中で「自由」な表現が求められたときに枠そのものを変質させる形で実現するものに違いない。そうして実現した新しいスタイルは、普遍性を持ち、であるが故に、また誰かの表現活動に枠組みを提供しうる。
要するに、スタイルを選びとるところからしか、表現活動ははじめられないのである。(スタイルについて)

「東洋的ニヒリズム」と「西洋的ファンダメンタリズム」。この両極は、結局のところ、「人間」が「自然」の一部でありながら、同時に「人間」が「自然」を対象化しうるという、根本的な矛盾の表現にすぎない。人間は六千五百万年は生きられないが、六千五百万年をわずか数分で想うことができるのであった。(六千五百万年)

ぼくが制服を廃止した方がよいと思うのは、実は生徒たち本人が反対するからである。つまり生徒が私服を嫌がる理由は、毎日何を着ていくか考えるのが面倒臭い、服に金がかかる、服裝によって差別が生じる、目立ちたくない、といったところだと推察されるが、これらをひとことでいってしまえば、要するに「自由」であることにともなう労力を厭うていると考えられる。
なにより服装を自由化すると差別が生じるというのは間違いである。たしかに差は生じるだろう。貧富の差、センスの違いは生じるだろう。けれどもそれは差別ではない。差別とは大多数の者が少数者を苛めることなのであって、これはむしろ「平等」の陰画である。差別をなくすには、「みんなが同じだ」ではなく、「人間はひとりひとり異なる」とする方向しか原理的にありえない。(「日本」への違和感)

「美しい日本語」などというものは悪しきイデオロギーであると、僕は断じて憚らぬ者であるから、当然ながら名文云々といった発想とは日頃無縁である。好きな文章なら勿論幾つもあるが、これぞ文章の理想なりと、勢い込んで紹介できるようなものはひとつもない。だいたい好みにしても一定の基準があるわけではない。簡潔にして要領を得た手際に感心することもあれば、燦くが如き暗喩の豪華さに魅了される事もある。一方では枯淡の味わいに惚れ、他方では絢爛たる美文に憧れもする。流れるような調子が好ましくもあれば、翻訳調の生硬さがひどく気分のよい場合もある。(不可解な欲望)


遊部−あそべ 上・下】梓澤要 ★★★☆図書館に行くたび「あ」の棚を覗いては彼女の新作を心待ちにしているMorris.だが、中央図書館の新着棚に本書が上下2冊並んでいるのを見つけたときは嬉しかった。Morris.の癖として上下に分かれてる本は、いっぺんに借りないと気が済まない。だから迷わず2冊を手に取ったのだが、貸出の手続きするまでたいとるを「遊郭」だと思い込んでいた(^_^;) 「遊部」というのはもともと天皇の葬祭に関わる部(職業集団)で天平代に東大寺の正倉院を警護が主な仕事になったがその後消滅したといわれる。本書では戦国時代を舞台に、松永正秀、信長、光秀、秀吉の覇権争いと、境の商人茶人、公卿などのからみあいの中に、遊部の末裔を配して、著者得意の、歴史の流れの中に空想の羽を思い切り広げた物語を現出している。前作の短編集がやや不滿だったMorris.は、本書がかなりの長編であることに期待を大にしていたのだが、期待を裏切ることなく、最初から最後まで楽しむことができた。不満もない訳ではない。魅力的な登場人物は何人も出てくるのだが、主人公を張れるキャラクタがいない。肝心の遊部の位置の不安定さ、戦いや、有事の場面の淡白さ、テーマが散漫になっている、などだが、それでも本書を、読まされてしまうのは、著者の丁寧な時代描写、細部の語り口の上手さ、資料の的確な用い方などで、Morris.がかねがね望んでいる歴史小説の理想に近いスタイルには、贔屓せざるを得ない。出雲の阿国を遊部の出として、その踊りが、遊部の本来の踊りを超越していく部分は、また別の作品に結実させて欲しい。本作では、隆達節や、今様などの小唄があちこちに散りばめられているのも、小唄好みのMorris.には嬉しかった。

思ひ出すとは、忘るゝか、おもひださすや、忘れねば。 閑吟集85


【魔法使い  山本夏彦の知恵】小池亮一 ★★☆山本夏彦の信奉者で中毒患者を自称する著者が、他人(山本)の褌で相撲を取った本だ。とにかく師匠と仰ぐ山本のことを魔法使いとまで呼んで、周辺の側近、ファンのことまでも含めてヨイショしまくっている。それでも、いちおう山本夏彦自身に関することなら、こちらも興味ない訳じゃないから、それなりに読めたのだけど、それだけで足りなくなったのか、ら無関係のエピソードや、自分の体験話、はては、自分が過去に書いた記事の抜粋なんぞを、やたら再引用(使いまわし)している。また、それが、まったく面白くないのだった。山本の文章については、あれこれ批評までしているわりに当人の文章というのが「ナンダカナア」で、いちおうユーモラスを旨としているらしいのだが、笑うに耐えない(^_^;)類だった。唯一

日本ではロードショーとは、一般封切りの前に特権的に1,2回館で上映する興行形式になってしまっている。本来は、道の途中で試写して様子をみるためのものだったのだ。

という、くだりには、なるほどと感心したのだが、念の為大辞林引いたら、

もと新作演劇の一部分を宣伝のために街路などで演じたことから生れた語

とあった。単にMorris.が無知なだけだったんだ。それに、映画より演劇の方が古くて信憑性ありそうだ。
先に出た、やはり山本ファンの一人が編んだ「何用あって月世界へ 山本夏彦名言集」がなかなかよくできてただけに、本書の面白なさが目立ってしまう。


【突破者の痛快裏調書】宮崎学 ★★★「キツネ目の男」の異名を持つ(^_^;)宮崎の反権力発言集。オウム事件、グリコ森永事件、警察、金融、裁判などをネタに、例によって、見事にアウトローに徹した発言揃いで、面白さ半分、怖さ半分という感じ。最近はインターネットキツネ目組での活躍が目立つ。Morris.もしばらくは定期的に覗いていたのだが、例のグリ森時効成立以降ごぶさた状態だ。リアルタイムな応答が繰り広げていただけに、あれを体験すると、書籍、それも連載物をまとめた本書のような企画は、時間のずれを感じてしまう。それに終始一貫同じ姿勢なだけに、読む方からすると、最初のインパクトが薄れてくる感も否めない。読者というのは勝手なものだと、自省しながらも、不完全燃焼するにとどまった。そもそも武鬪派とは程遠いMorris.は、権力、反権力いずれにしろ力で立ち向かう意志も能力も有していないので、こうした本を読むのも、無い物ねだりみたいな立場になりやすいのだ。シンパでさえありえない自分が情けなくもある。


優柔不断術】赤瀬川原平 ★★★「老人力」でまたまた話題を呼んだ著者の、近作(といっても99年6月)で、日本人の文化は農耕文化で、それは優柔不断と貧乏性の国民性を生んだという仮説に基づき、さまざまなことを敷衍、演繹して(ジョークとしてだが)解説する。前後半に別れていて、後半では自己の芸術生活を振り返ったり、幼少時から中学時代まで続いた夜尿症の話などで、いまいちだが、前半の語りや、世界地図を日本の地形に無理矢理当てはめるというのは面白かった。これは友達の山口昌男からヒントをもらったらしいが、そのもとは大本教にあるというのには驚いた。それにしても、たしかに彼の眼のつけどころは、普通の人の視点とは一味もふた味も違っていて面白い。

宿命というものは恐ろしいもので、自分が書いているときでも、文章がその作品の批判になると燃えてくるのがよくわかった。批判に燃えて、批判する表現に盛り上がってじっさいに文章自体も活性化してくる。反対にほぼ百パーセント感度して評価したい作品の場合は、素晴しいというだけで。それ以上の言葉が湧いてこない。

そもそも言葉というのは批判や攻撃で活性化するという嫌な宿命を帯びているのかもしれない。だから先にメディアの宿命といったが、もっと根源的には、人間の表現そのものが、どぎつくなる宿命をもっているのかもしれない。


五体不満足】乙武洋匡 ★★☆☆2年前にベストセラーになった本で、去年ソウルに行ったとき、韓国語にも訳されて話題になってた。Morris.は基本的にベストセラーは読まないのだが、ほとぼりも褪めたこともあって、つい借りて来てしまった。当時から何となく気にはなっていたのだ。
両手両足がほとんど無いというハンディを生れたときから背負った著者が、理解ある両親、先生、同級生等のの支えと、持ち前の明るさで、さまざまな困難を克服して、破天荒な学校生活を送り、自己の身体的特徴を「個性」として捉え、社会の中での存在感を主張していくという内容は、読む前から何となくわかってはいたものの、確かに感動的な物語だった。ハンディをマイナスに捉えず、ポジティブに受け止め、プラス志向に徹することによって、社会通念にカウンターパンチを食らわせるという試みはかなりの成功をおさめているといえる。だからこそ本書はベストセラーとなったのだろうが、Morris.は書かれていない部分にこそ真の物語があっただろうという感慨を禁じ得なかった。誤解を恐れずに言えば、著者はハンディキャップ者中のエリート階級であり、本書はその自己宣伝とさえ言える。それがいいとか悪いとか言うのではない。こういう反語的表現でしか一般への共感を得にくいという、状況こそが、不毛ではないかと思ってしまった。Morris.の立場は、人間誰もがハンディを持たされている存在だ、というものだ。そういう意味で本書は、著者個人ならびに障害者中の強者を救済する一助としかならないのではないか、という限界を感じた。


ひと月900円の快適食生活】魚柄仁之介 ★★★ 安く手早く面白くというコンセプトの著者のものは数冊読んでる。本書はその集成というか、コツや、簡単メニューを229項目に羅列した、便利事典のようなもの。時々、それはないだろうとつっこみいれたくなるものまあるが、總じて彼のスタンスは割と気に入ってるのだ。小技などをいくらか。
・固いスルメは、かつお節削り器で薄く削り、野菜炒め、八宝菜などに入れる。
・大根や人參のへたは、小皿に取り、毎日水を代えると、普通より柔らか目の葉がのびるので、へたがしなびたころに味噌汁の身やおひたしにする。
・冷凍塩鯖でかんたんにしめ鯖を作る。解凍したら毛抜きで骨を抜き10分間酢に漬けた後、皮を剥いて切るだけ。
・流しに食器を置くな。置くなら即洗え。
・茶碗蒸しは材料をセットし、鍋に水を半分入れそこに茶碗蒸容器をいれ、蓋をして火にかけ沸騰したら弱火にして約12,3分で出来上がり。
・鉢合わせごはん。擂り鉢で胡麻を擂り、そこに冷ご飯をいれてかき混ぜると、擂り鉢は奇麗になるし、胡麻まぶしご飯は美味しい。ピーナッツ、松の実、梅干、くるみなどでも美味しい摺り合わせご飯が出来る。
・ひじき飯。なるべく小さ目のひじきを炊飯器の米一合に洋食スプーン一杯くらいの割でひじきをふりかけそのまま炊く。炊き上がったらよく混ぜ合わせる。
・泪大根。大根を2〜3mmくらいにスライスして、塩を振り10〜20分置く。これで出来上がり。


【歳時記  脚注】真下喜太郎 ★★★☆上六の天地書房百均台にあったもので、表紙の大津絵(鬼の念仏)に惹かれて手に取った。題名の通り、57の季語について古今の文献を渉猟して、間違いを正したり、考証したり、例句を挙げたりしている。江戸の好事家の考証随筆に似たものだが、「鰻」の項に、

上方の方言で「うなぎまむし」といふ、鰻を飯の中と表面と二段に入れる様式のものは江戸とは別に出来たものらしい。「まむし」は「まぶし」の轉訛或は丼に入れて蒸し温めるの「魚蒸(まむし)」の意だといふことです。
丑年の生れだといふので鰻を食はぬ人があります。私の父なども丑年で一生口にしませんでした。丑寅の人は一代の守り本尊が虚空蔵菩薩なので食べてはいけないのださうです。これについては俳人越谷秀眞は「いにしへはうなぎをばむなぎといひし也、虚空蔵の虚のむなしと訓ずればむなぎをいみしなるべし」といふ解釈をしてゐます。

と、あり、最近食べたり作ったりした「うなぎまぶしご飯」や、法輪寺の虚空蔵菩薩との縁があって(Morris.も丑年生れ)興味深かった。 歳時記 脚注
他「枯野見」という行楽があったこと、水中花の原型と思われる「酒中花」、「竹馬」に三種のあること、「辻が花」がもともとつつじが花の転で、紅染めの帷子であることなどいろいろ面白いことも書いてある。

・藍みての後の紅粉染や桔梗辻 松江重頼

本書は昭和17年初版を、22年に改定版として出されている。時期が時期だけに色々事情があったことと思われる。著者は高濱虚子の娘婿らしく、本書も虚子に献呈されている。


【詩集  愛情69】金子光晴 ★★★☆☆68年発行の詩集で、もちろんこれは数回目の再読。でも何か久しぶりに読んだ気がする。いちおう限定1,500部で、墨筆の署名も入ってる。Morris.の蔵書の中では豪華本の部類に入るはずだが、函は壊れて、表紙もボロボロになってしまっている。タイトル通り「愛情 1」から「愛情 69」まで69編が収められている。30年前手に入れた時は、嬉しくてページをめくるのを惜しむようにして愛読したものだが、さすがにMorris.も寄る年波のせいもあってか、今回は割と客観的に読むことができた。光晴70歳前後の作品だけに、往年の勢いはないが、枯淡とは無縁の言葉の手足れぶりには舌を巻くしかない。難しい言葉を使うのではなく、平凡な言葉で非凡な世界を現出している。しかし、こういう詩集に説明は不要(不能?)だ。とにかくもっと読まれて欲しい1冊である。

愛情 60 金子光晴

 人が恋しあふといふことは
あひての人のむさいのを、
むさいとおもはなくなることだ。

 もとより人は、むさいもので、
他人をむさがるいはれはないが
じぶんのむささはわからぬもの。

 じぶんのからだの一部となつて、
つながつたこひびとのからだを
なでさすりいとほしむエゴイズム。

 じぶんのむささがわからぬ程に
あひてのむささがわからねばこそ、
69(ソアサン ヌフ)は素馨(ジヤスミン)の甘さがにほふ。


アメリカ音楽 ルーツガイド】鈴木カツ監修 ★★★★アメリカのポピュラーミュージックシーンを68のジャンルに分けて、15人の執筆者が分担して解説し、それぞれに5枚ずつ推薦CDをガイドしてるというもの。解説は、1,3,5,7ページと長短がある。CDガイドが必ず奇数ページに来るレイアウトのために、解説ページ数も奇数になる。音楽にジャンル分けは無用という考え方もあるだろうし、クロスする部分も多いし、本書でもわざわざ獨立させる必要の無い項目も多いのだが、知ってるようで知らないことの多いMorris.には、アメリカ音楽の流れを整理するのにとても役に立った。
ケイジャンやザディコのように、名前ばかりが先行して一向に実態がつかめずにいたのが、本書でアウトラインがわかったし、好きなはずのブルースの系統もひととおり納得がいった。ブルースという言葉の入る項目だけで14もある。Swamp Rockという初めて聞くジャンルがCCRと深い関係にあることを知ったり、Wall of Soundの項でフィル・スペクターの軌跡を辿ることができたり、ジャグバンド、ノベルティソングの明快な定義を知ったり、とにかくよくできてる。執筆者によってばらつきがあるものの総じて、適材適所で力の入った解説が多く、類書にありがちのおざなりな解説とは一味ちがっているし、CDレビューも簡潔で要諦をおさえてるし、事典として持っておいても損はないと思うのだが、2500円はちょっと高いかな。
それと、Morris.は高校くらいからポピュラー大好きだったのだが、意外なほどプリティッシュ寄りだったことがはっきり分かってしまった。ブルースやロックもそのほとんどがストーンズのオリジンとして意識したわけだし、黒人ブルースシンガーを別にすると、好きなミュージシャンやバンドもほとんどイギリス系だ。そういう意味では、英国ポピュラーミュージックの姉妹編を望みたくなってしまった。
しかし、アメリカの音楽が深いところで、色々なジャンル、民族、スタイルが交じり合い、刺激しあい、時には技術を盗みあったりして、変化発展してきたことを知ることができておもしろかった。


インドの染織】畠中光享編著 ★★★ 今は無き京都書院アーツコレクション(文庫)の一冊である。印度綿布は昔から好きで、安いベッドカバーを数枚買って、カーテンにしたり、床に敷いたりしてるのだが、本書に掲載されている約200点は、グレードが違って、それぞれに素晴らしい。手描き、木版捺染、印金・印銀、銅板捺染、織、刺繍、絞に分類されていて、豪華さでは刺繍や印金だろうが、Morris.の好みは一番素朴な木版捺染に集中してしまう。特に小さな版木を何回も押して繰り返し模様にしたものは、単純なのに飽きが来ない。ベンガラ(弁柄、紅柄)に代表される紅系染料の濃淡が特色で、素晴らしい。実はMorris.の部屋にも一枚だけ見るに価するものがある。仕事で行った先の英国人の応接室にタペストリー代りに飾ってあったもので、処分すると言うので焦って譲ってもらったのだ。今はモリス亭の中仕切りのカーテンとして使っているが、180×220cmくらいで、測ったようにぴったりサイズだった。小さな四角形を散りばめた単純な意匠だが、色合いといい、テクスチュアといい、本当にいい感じで、Morris.はぞっこんである。今回は読書控でなく、持ち物自慢になってしまった感があるな(^_^;)インド綿布に限らず布染織やテキスタイルを紙メディアに再現するのは無理があるし、とりわけこのような文庫本サイズでは細部が分かりにういのだが、本書はそれなりに、美と巧みを感じさせてくれる。


食味形容語辞典】大岡玲 ★★★☆☆ 「太陽」に連載された同題のコラム集で、料理番組やグルメ本によく出てくる、味を表現する言葉を肴に気ままに放談したものだが、文体模写したり、それぞれ工夫をこらし、けれん味もあり、面白い項目もあった。このところ料理づいてるMorris.だけに、こういうテーマで攻められるとつい手を出してしまう。まあ偏食だから、不味い者もあったけどね。取り上げられている言葉たちを順番に拾い出しておこう。

キレ、深い、仕事、まったり、懐かしい、結婚、宇宙、コシ、立つ、後味、ハーモニー、豊潤、野趣、淡麗、はんなり、頬っぺたが落ちる、やみつき、こだわり、さっぱり、鮮烈、滋味、食べ頃、高貴、乙、玄妙、安定感、とろける、あえか、ビロード、豪快、風味、本物、魅惑、ほろ苦い、凝縮、グルメ

「ほろ苦い」は男の感覚で、女が「ほろ苦」くなるときは彼女はその瞬間男になってると言う部分には笑ってしまった。
特筆すべきはこの本の装丁とイラストを担当してる南伸坊で、表紙表に馬を描いて「馬くったらウマかった。」表紙裏には牛を描いて「 牡牛食ったらオウシかった」というほとんど掟破りのギャグをかましてるし、各項毎に秀逸なイラストが付されていて、Morris.は文章よりこちらの方が面白かった。「滋味」の項がジェイムス・ディーンの似顔絵だったり、「淡麗」では孔子に「君子の交わりは水くさい---」なんて言わせてるし、おしまいの「グルメ」にいたっては、目が渦巻きになってる自画像と来たもんだ(^_^;) しかしMorris.が一番気に入ったのは「宇宙」の項にある「葦のズイから天丼のぞく」だった(^○^)


えんちゃん 岸和田純情暴れ恋】中場利一 ★★☆☆ 「岸和田少年愚連隊」シリーズがあまりに面白かったので、迷わず借りてきたが、ちょっと期待外れだったな。登場人物の性格や行動は前作の流れを引いてるのだが、あまりにも現実から遊離してるというか、マンガチックというか、メルヘン色が強すぎて(スタイルが)ちょっと鼻白んでしまった。連載された雑誌が「鳩よ!」だったというのが敗因だろう。彼の作り出すキャラクターはやけに手が早くて喧嘩のしかたも徹底してて、暴力とは対極にあるMorris.からすると、無い物ねだり的羨望から、彼の本を読んで憂さ晴らししてるのかもしれないが、本書でも主人公をはじめ、シンプルな暴力の爽快さはある。えんちゃというのは実は江美という女の子なのだが、主人公俊夫に振り回されながらも、ルーツは一緒で、その考え方もシンプルでよろしい。

夢にも大小があるらしい。
そう江美は思っている。あまり大きな夢を望むと、なかなか神樣もかなえてくれず、
「もう忘れたやろ」
と、放ったらかしにされるという。しかし小さな夢を年中望んでいると、
「あー! わかったわかった。うるさいなぁ。もう!」
と、ひとつくらいはかなえてくれる。


漱石先生 大いに笑う】半藤一利 ★★★☆ 漱石は生涯に2千5百近い句を残しているが、一般に評価されているのは後期の静的なものである。本書では若い日の句に着目して、洒落、諧謔、天衣無縫、稚拙さなどを肴にして楽しみながら、その句の因って来る原典や事件を推理したり、当時の漱石の暮らしぶり、嗜好、考え方などを、ふんだんなエピソードを交えて開陳するコラム集で、前作「漱石先生、ぞなもし」(と続編)に続くもので、漱石研究のトリビアルな落ち穂広いとしての意味合いを持ちながら、読んで楽しく、また得るところ多い好著である。
著者は漱石の外孫(夫人が漱石の次女の娘)という縁もあり、直接漱石の謦咳には接していないものの、親族との交わりの中でしか知られぬ内輪話も披露してあるのは嬉しい。文藝春秋の編集長でもあっただけに、そつの無い、達意の筆捌きで、漢詩の知識もあるため、歯切れよく、適度のユーモアもあり、飽きさせない。
しかし、やはり本書の主役は漱石の若書きの、奔放とも、大らかとも、怪作??ともいえる、句そのものを味わうことを第一とすべきだろう。末尾にある季節順に並べられた索引から、印象に残るものを引用しておく。

・貧といへど酒飲みやすし君が春
・初夢や金も拾はずしにもせず
・朧故にゆくえも知らぬ恋をする
・朧の夜五右衛門風呂にうなる客
・人に死し鶴に生れて冴え返る
・骨の上に春滴るや粥の味
・琴作る桐の香や春の雨
・罪もうれし二人にかかる朧月
・菫程な小さき人に生れたし
・無人島の天子とならば涼しかろ
・汗を吹く風は羊歯より清水かな
・楽寝昼寝われは物草太郎なり
・秋風の一人を吹くや海の上
・酒なくて詩なくて月の静かさよ
・名月や無筆なれども酒は呑む
・逢ふ恋のうたでやみけいり小夜砧
・憂ひあらば此酒に酔へ菊の主
・黄菊白菊酒中の天地貧ならず
・柳散り柳散りつつ細る恋
・芋洗ふ女の白き山家かな
・行く年や猫うづくまる膝の上
・一つ家のひそかに雪に埋れけり
・家も捨て世も捨てけるに吹雪哉
・達磨忌や達磨に似たる顔は誰
・耄碌と名のつく老の頭巾かな
・骸骨やこれも美人のなれの果

酒の句が多いのはMorris.の嗜好に因るこというまでもない。


彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄】金井美恵子 ★★★☆☆☆「恋愛太平記」に始まる金井美恵子の饒舌会話体小説、「小春日和」の続編だが、ますます快調な美恵子節、というか、とにかく、このスタイルを発明(発見?)しただけで、金井美恵子は、一生書くことには事欠かないだろう。おばさんのモデルはもちろん金井自身だろうが、桃子も、花子も、岡崎さんも、すべて著者の投影でもある。それぞれ一癖もふた癖もある女たちが、時にだらだらと、時に丁々発止とやりあい、かけあいしながら、現実のストーリーはそれなりに進行していくのだが、この平凡そうな生活の中に何と非凡なエピソードが、紡がれ、ほどかれ、回り道したり、しながら、お得意のディスクールを物語りの中に織り込んでいく手際と言うか、語り口というか、いつもながらお見事である。というより、Morris.は昔から、頭の良い女の言説を聞くのが好きなのだった。倉橋由美子や冨岡多恵子の小説やエッセイが好きだったのも、簡単に言えばそうだった。で、金井美恵子と来たら小説、エッセイ、評論などすべてをこの物語にぶち込んで、それぞれに楽しませてくれる、百貨店的作品だ。彼女のスタイルは平安女流文学を、男性である谷崎が流用した物を、再び女流として取り戻した感がある。例によって、商標付きの製品、小間物、食料品なども山ほど出てくるし、フィクションかどうか、某経済誌でボツになったエッセイ(この中ではブランドならぬ、男性小説家名指しでの批判もあり)や、某大学入試に出題された彼女の作品の一部と、作者としての回答と疑義、汎用されていることわざの意外な出典、そして、お得意の映画に関する蘊蓄もあちこちに散りばめられていて、飽きさせることが無い。願わくは、彼女自身が飽きることなく、このシリーズをどんどん続けていって欲しいことである。
ことわざというのは「働かざる者、食うべからず」で、実はこれが、聖パウロの言葉だということ、さらにはこれが人口に膾炙したのは19世紀前半フランスの七月王制批判者が引用してからだとか、新たな男性登場人物に解釈させながらそれも曖昧に別の話題に移っていき、とにかくこの本には、どうでもいい知識や機知や皮肉や批評が断片的に現れては消えするところが、実にMorris.には面白い。
タイトルがゴダールの66年の映画のタイトルによることも、先の自家引用エッセイで分かるようになっている。彼女らしからぬサービス精神であるが、この短いエッセイだけでも充分に楽しめる。


タイ語でタイ化】下川裕治 ★★★ タイのことならこの人にお任せ(もうひとり前川健一がいるけど)の著者によるタイ語の入門本。ではないんだな、これは。80あまりのタイ語の単語がタイ文字とともに解説されてはいるが、その言葉を通じてタイ人のものの考え方や、空気を、感じ取ってもらえればそれでいいと言う、コラム集だ。もちろんMorris.もそのつもりで手に取った。第一、母音の数が9個と日本語より4個も多いし、短母音、長母音、複合母音などを加えると30にもなるし、子音の発音は21個だが文字は42個つまり倍あって、同じ音でも文字が違うケースが起きる、さらに中国語の四声より多い五声というものまであり、こういう言語を、カタカナ表記で覚えてもほとんど役に立たないのは、読む前からわかっていた。それよりも本書は99年秋発行なので、比較的新しいタイの状況が感じ取れるということだ。
Morris.が今一番関心のあるタイ料理に関しては、「ペッ(ト)テーアロイ--辛い、けど美味しい」と言う表現が必須らしい。タイ人ほど、自国の料理を外国人が食べるのを喜ぶ国民はいない(下川説)らしい。だから、辛いタイ料理を食べて、これを言うだけでもう上へ下への歓迎モードに入っていく、とのことだけど、本当だろうか?? まあMorris.も韓国に行って、食堂でユッケジャンなど注文すると、心配顔されることがある。そんな時に「メウォヤ マシッソ--辛いからこそ美味しい」と言って、嫌な顔をされたことはないな。


ニッポンマンガ論】フレデリック・L.ショット 樋口あやこ訳 ★★★☆☆☆ 日本マンガおたくの米人による、米人向けの日本マンガ紹介論集の日本語版だが、いやあ、恐れ入った。よく読み込んでいる、わかってる、本質を突いてる。で、ドナルド・キーンの日本文学論などを遥かに上回る上出来の本だった。手塚治虫に一章を設けて詳しく論じてるのは当然として、取り上げた漫画家を見ただけで、ただ者でないことがわかる。
杉浦日向子、湯村輝彦、蛭子能収、花輪和一、やまだ紫、丸尾末広、かわぐちかいじ、成田アキラ、内田春菊、水木しげる、山岸涼子、岡野玲子、秋里和国、青木雄二、つげ義春、吉田秋生、森園みるく、藤子不二雄、土田世紀、小林よしのり。
その他、雑誌論、社会現象論、アニメの世界、と広汎に目配りの行き屆いたマンガ論で、日本人の作でもこれと肩を並べるのは、いしかわじゅん、夏目房之介くらいではなかろうか?と思わせるくらいとにかく力の入った一冊である。訳文もこなれていて実に読みやすい。ただ、表紙にだけは文句がある。あまりにひどい、ひどすぎる。出版元のマール社は、カット集とかデザイン関係の本を出してるが、ここの本は全般的に装丁がお粗末だ。本書はもっと読まれてしかるべき内容のものなのに、この表紙のせいでかなりワリを食ってると思う。


まぼろしの戦争漫画の世界】秋山正美 ★★☆☆ 全体の約八割が戦争漫画の引用で、殘りが解説と言うことになるから、点数の低さは、戦争漫画のつまらなさが原因と言うことになる(^_^;) のらくろだけが飛びぬけて面白かったというのが結論だ。これでは面白くも何ともないなあ。新関青花、謝花凡太郎、大城のぼるなどを擁した中村書店が、戦争漫画の拠点だったらしく、表紙だけ見るとなかなかいけてるのだが、肝心の漫画が、あまりにも稚拙だし、ストーリーも当然ながら初めからマンネリズムときてるから魅力に欠ける。他に見るものといえば、タンクタンクローの坂本牙城のキャラクターくらいかな。筆者は1929年生まれで、戦争時代を生きたとは言え、本当の戦場、戦闘は知らない世代に属している。戦争漫画をリアルタイムで読んだ世代ではあるから、これをコレクションする理由はあるのだろうが、後書きで「絵画にしろ、漫画にしろ、個々の作品が生まれるのには、さまざまな事情があり、背景があるものだ。そういうことをじっくり考えながら、この本の作品のひとつひとつを、こんなのくだらない、などと決めつけずに、よく味わっていただきたいと思う」と書かれても、その通り実践する気も、必要も無いと思ってしまった。


できるかなリターンズ】西原理恵子 ★★☆☆ 戦後無頼派作家の正当な継承作家として、さいばらを評価してるMorris.なのだが、最近の手抜きにはまったくこまったもんである。これもあちこちに書き散らした奴を寄せ集めたパッチワークだ。附録(厚紙で組み立てる貯金箱)なんかいらんから、もう少し作品をまとめて出してほしいぞ。お目当ての鳥頭紀行も、旦那鴨ちゃんの仕事の含みがあるにしろ、写真の多用が内容を薄めてる感は否めないし、カラー原稿は初めの16ページくらいでいいんじゃないかい。と、不満たらたらのくせに、彼女自身の語りが面白いからそれなりに読まされてしまう。困った女である。


なんでんかんでん】川原ひろし ★★☆ 1961年生の著者が東京世田谷に博多ラーメン「なんでんかんでん」を開き、人気を集めるまでの半生記みたいなもので、博多ラーメンには目のないMorris.なのでつい借りてしまった。著者の祖父が、辛子めんたい「ふくや」の創業者で、祖父が釜山で明太子キムチを見て日本で開発したのが辛子めんたいだという記事が、面白かった(前からうすうす知ってはいたが身内の証言という意味で)くらいで、あとはそれほど見るべきものはなかった。スープは豚骨パイタンというのは、ともかくとして、濃厚ならいいみたいな方針はそのまま賛成できかねるし、長いこと東京の麺を遣っていたというのもなんだかな、である。正直なことはみとめるとしても、知人、友人のことを慇懃無礼に書くところなど、どうも嫌味な文章だ。味の方は食べてないから何とも言えないが、成功者の自信過剰と自己正当化が鼻につく。まあこんな性格だから成功した、と言えるのかもしれないが−−−まあ、うまけりゃいいんだけどね、Morris.は(^_^;)


【日本の美術228  春信】小林忠編 ★★★★ 写楽、北斎、広重、歌麿に比べると鈴木春信の知名度はかなり落ちるだろう。実はMorris.も春信の良さが分かってきたのはここ10年くらいのことだ。それまでは、写楽のデフォルメ、北斎のけれん、広重の藍の美しさあたりが浮世絵の真骨頂と思っていた。それが年のせいか、だんだん春信の世界の静謐さに段々惹かれていった。いや、Morris.のことだから要するに春信の描く女性にしびれてしまったということになるのだろう。先日御影の米人宅で見た、額縁に入った春信の大首絵の素晴らしさに感動してしまってから、いろいろ春信の画集を探したのだが、これというのは見つからない。三宮図書館で見つけた本書は、昭和60年発行の雑誌なのだが、行き届いた解説と、需要作品を網羅した一冊で、春信入門書としてよく出来ている。古本屋ででも見つけたら是非手に入れたい。カラー図版が16ページというのがちょっと物足りないが、印刷も色合いも当時の物にしては美麗だし、大小暦絵や見立ての解説も念が入ってる。何よりも、それ以前の単純な彩色版画から、多彩で精密な吾妻錦絵を興した春信だけに、彫り師、刷り師との連携プレーに、コンポーザーのような役割が必要だったという指摘にはなるほどと思った。春信の最盛期である5年間(明和)の江戸の文化状況との関わり、交友、パトロン関係もきちんと踏まえてあるし、吉原細見のヴィジュアル版とも言える「青楼美人合」などについても偏見なく評価してるところもいい。惜しむらくは枕絵(祕畫)に関する記述がほとんどないのが物足りないが、まあ、この雑誌は文化庁監修だから、致し方のないところだろう。以前宇仁菅書店で、春信の枕絵本を買ったことがあるが、春信の枕絵は全然「実用的」ではない(^_^;) あまりにも静謐過ぎるのだった。
それはともかく、本書や他の画集などを瞥見するかぎりでは、春信の「大首絵」なんて一つも見当たらない。あの御影の春信は、贋物だったのだろうか?? 空刷りの素晴らしさといい、髪の生え際の彫りの精密さといい、表情の細やかさといい、絶対本物だと思ったMorris.の目は節穴だったらしい(^_^;) でも、贋物でも何でもいいから、あの絵は出来ることなら部屋に飾っておきたい。


玉石集】アサヒグラフ編 ★★★地書房の百均台で掘り出したもの。昭和23年発行で定価60円。文庫サイズ192ページ。世相を諷刺したり揶揄したコラム集なのだが時代柄、戦後の色濃いものが多く結構笑えた。替え歌や文体模写などいろいろ趣向を凝らしてあって、編集子の努力の跡がうかがわれる。ほとんど見開きごとに横山隆一のカエルのカットがあり、これが本文とはまるで無関係なので不思議に思ったが、実は、本書を適当にめくってその日の運勢を占うおみくじみたいなものだった。試みに今開いてみたら「夜は出歩かぬやうに」とあった。

[芭蕉七部集のパロディ]
面白うてやがてかなしき闇の市
赤々とストつれなくも官の声
追放の数にもいらむ老の暮
いざゆかん家見に倒るところまで
メチにやられ妻は焼野をかけ廻る

[ヤミ屋の歌]
集団ヤミ屋と 呼ぶなかれ
はばかりながら オレたちは
自律食料営団じゃ
適性配給公団じゃ

[さすらいの歌]
いこか、もどろか、市のなかを
物価インフレ、はて知らず
西にカバヤキ、東にお酒
金がいります、新円が

[酒場の歌]
ダンスしましょか「リベラル」買おか
ラランララ、ラランララララ
あかい旗でも、ふりましょうか

[東京七不思議]
○窓硝子の満足な電車○百姓が売り込んでくる芋○新しい貸し家札○ぬるくない銭湯○停電せぬ電灯○計画通りに行く入荷○遅配のない主食

[石川啄木調]
駆け引きのできぬかなしさよ みすみすと 上着が変はる一握の米
旗ふれど旗ふれど 猶我党は愛せられざり またもストする
ゼロといふ字を百あまり 札に書き コーヒも飲めぬ時來たらずや

[佐藤春夫調]
野ゆき山ゆき海辺ゆき
いもやお米や魚など
買ひあさりたり遅配ゆゑ
うれひは深し海よりも

[夏目漱石調]
新聞を見ると腹が立つ。腹が立つからいらいらする。いらいらするから眠れない。眠れないから朝寝坊だ。いつそヘンリー・ライクロフトいふやうに新聞や手紙の一切来ない国に住むことができるならさぞのんきだろ。尻尾のない猿どもが猫額の島国にひしめきあつて、いがみあひだましあつてゐるのが今の世の中だ。西諺にいふ Tempest in a tea-cup と観ずればたとへて妙だ。
茶碗の中では遠慮なく地震がゆる、津波が来る、買出しの列車が転覆する、金がない、家がない、食べものがない、揚句に猩紅熱のやうにゼネ・スト熱がはやる。子供ばかりがやられるのかと思うたら大の男が束になつて熱を出す、そのたびにボロボロと皮が剥げ落ちる。
お陀仏も土左衞門も浮ばれぬがそんなことばかり書かねばならぬ新聞記者もせつなかろ、それを面白いと読めば非人情となり、運命と諦めれば風流となる。とかく敗戦は殘酷だ。

以上に引用したパロディ調のものより、偉人、有名人のエピソードなどが数が多いのだが、Morris.はやはり世相を映したパロディが面白かった。


ゆめはるか吉屋信子】田辺聖子 ★★★★ 本屋の店頭に並べてあるのを見たときから、読みたいと思い、図書館でいつもチェック入れてたのに見当たらず、諦めかけていたとき中央図書館の検索システムで調べたら、小説でなく、評伝、研究の棚にあったということは前にも書いたが、Morris.はあたまからこれは小説だとおもいこんでいたのだ。ともかくも、やっと読むことが出来た。上下合計1,100ページを超える大作だが、田辺聖子の力の入れようがわかってるから、あまり苦にならずに、読みとおせた。
評伝というより、信子の作品を発表順に、紹介、抄出、ダイジェストしながら、その時々の実生活や、交友関係、文壇(特に女流作家)、社会の動向、エピソードなどをふんだんに紹介しながら、信子の俳句も散りばめて、これを読んだだけで、信子の全作品のアウトラインはつかめそうな気がする。さらに並行して、林芙美子、岡本かの子、宇野千代、宮本百合子、など同時代の主立った女流作家の動向を網羅して、女流文壇史としての資料という側面も持っている。
冒頭に足尾銅山公害事件の詳細な解説があり、これと信子の父との関わりから書き始めるあたりは、田辺聖子らしからぬ目配りで、ちょっと驚かされた。また、信子の容姿の問題に執着して、一般に不美人とされる信子の個性的+内面的な美を強調しているところは、田辺自身の自己弁護になることを割り引きしても、意味あることと思う。この本全体を通して、女性のあらまほしき姿の追求、女性の地位向上、本来のフェミニズムを称揚していて、信子が意識的にも、無意識的にもその追求に全生命をかけて作品に凝集したと結論づけるのは、性急に過ぎるが、大衆に迎合した大甘の作家という、過小評価に一石を投じたことは間違いない。
田辺は信子の最高到達点が「女人平家」という。これまでMorris.は純粋少女小説の権化としての吉屋信子しか視野に入ってなかった。本書を読んで、それ以外の作品にもいくらか興味をそそられたが、たぶん今後とも、他の作品を読む可能性は薄いと思う。やっぱりMorris.にとっての吉屋信子は「花物語」のそして「紅雀」の作家として心に住まい続けることと思う。


マンガ狂につける薬】呉智英 ★★★ 呉智英のマンガに関する本はかなりの数に上ると思う。Morris.は約半分くらいは読んでるはずだが、本書は、マンガと一般書を合わせ鏡のように並立して論じている点が、変わってるし、36編の小論中3分の1くらいは成功してるようだ。(これは打率としては悪くない)
バロン吉本の「柔侠伝」vs.「近代史」、「孔子暗黒伝/諸星大二郎」vs.「孔子伝/白川静」のようながっぷり四つに組ませたり、「テレクラの祕密/成田アキラ」vs.「性の署名/J.マネー」、「自虐の詩/業田良家」vs.「わらの女/C.アルレー」のように搦め手で攻めたり、東海林さだおvs.坂口安吾、みつはしちかこvs.宮本常一とミスマッチめいたものまで、取り合わせの妙だけでも楽しめる。
差別語、表現の自主規制に関連して、過去の作品なら「当時の社会情勢に鑑みて」の一言で公開されている表現が、現在では発表できない矛盾というのは確かに呉智英の言う通りである。
マンガ論に限らず呉智英の本をMorris.がいまいち好きになれないのは、その「口調」にあるのかもしれない。文体というほどのものではない。生理的にMorris.は相性が悪い。それなりのことは言ってるんだけど、どうもあの口ぶりがねえ、って感じか。
みなもと太郎の「風雲児たち」は本書でも取り上げられてた。やはりこれは一度読んでみたい。


身辺図像学入門】岡泰正 ★★★ 身の回りのありふれた図像の中から、そのルーツを探ったり、寓意や象徴のもつ歴史や意味を探る、というより、世間話みたいに軽く解説したコラム集だ。朝日百科「週刊日本の国宝」に50回掲載されたものを中心にまとめている。著者は神戸博物館の学芸員で、神戸在住だから、いきおい、取材??地も馴染みの場所が多くてその方面でも楽しめた。
大きく6分されていて
1.神−−恵比寿、大黒、補綴、高砂、八仙人、ヴィーナスetc.
2.人−−寒山拾得、小野道風、業平、菅原道真、福助、モナリザetc,
3.草木−松竹梅、餠花、二股大根、桃、蘭、菊、桜etc.
4.鳥獣−鯉の滝登り、玉兎、波千鳥、木彫り熊、竹に虎etc.
5.幻獣−唐獅子、鳳凰、麒麟、狐と鳥居、猩猩etc
6.物−−熨斗、卍、宝尽くし、銭湯の富士、御所車etc,
といったテーマで語られている。
印象に残ったものをいくらか控えると、
以前武雄の熊さんから尋ねられてこたえられなかった「八仙人」の紹介。
福助は実は頭でっかちの「不具助」に由来する。
北海道土産の木彫りの熊がアイヌ伝承のものでなく、大正時代に徳川義親がスイスで買い求めた木彫り熊をモデルに「徳川農場(北海道八雲町)」の農民が農閑期の仕事として作り始めた。
寒山拾得を「和合神」とするのは日本後代の故事付けであること。拾得は捨て子で寺に拾われたことからその名があること。
松は「五大夫」、竹は「君子」、梅は「佳人」、もとは孔子の「論語 季氏」にある「三友−直、諒、多聞を友とするは益なり」に因る。これが「君子の三種(詩、酒、琴)」にくだけて用いられ、松竹梅がその象徴となる。
大黒天が二股大根を担いでる図は、セックスを暗喩している。
黄河の上流、龍門山の麓に鯉が集ってくる、この中でただ一匹が龍門の瀑布を登り切り、龍に返信する。「登龍門」の名はここから。
水引とは、和紙のこよりに水糊を引いて乾かした紐。神聖な場所の内と外界を区切る注連縄が変化したもの
 


新々百人一首】丸谷才一 ★★★★☆☆難解をもって知られるジョイスの研究者であり、小説家として寡作ではあるが、出せばいずれも問題作話題作となり、文芸評論家として一家をなし、軽妙なエッセイストであり、対談の名手として知られ、国語、国字問題に一家言持ち、多士済々と歌仙を巻き、和歌を中心に据えた日本文学史論を主張する等々、名前に背反して多方面に才を発揮する丸谷の、畢生の労作とも言える本書だが、Morris.は、これを三宮図書館から借りて以来、ずっと、つまみ読みしては悦に入ってた。もう貸し出し期限を5日もオーバーしてるというのに、まだ半分ほどしか読んでいない。そろそろ返しに行って延長しようと思ってはいるものの、延長できないかもしれないので、先に控えておくことにする。このところ、読書控えが無かったのはこの本のせいだ。
造本からして力が入ってる。650ページのハードカバーの堂々とした風情で、装丁は和田誠。本文は全ページ脚注のため下段4分の1を空けていて、これも見やすく実用的だ。
まず、新しい視点で選んだ百首のそれぞれが、素晴らしい。これは丸谷だけの栄誉ではないが、見識はこれだけで伺うことが出来るし、楽しく悩んだ後が偲ばれる。さらに歌によって解説の長さはまちまちで、これも丸谷の合理性の現われで、短いのは百字足らず、長いのは百枚近い評論まで、それぞれに面白い。多分一番短い慈円のところを、出典などを省いて引いてみる。

・旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな 慈円

かういふ和歌はただ口ずさめばそれでいい。まるで自作をつぶやくやうにして。あるいは空港の待合室で、あるいは夜半の寝覚めに。

長めのものは、一つ一つが、和歌の評論として粒よりのものばかりだ。本書で10ページ以上にわたって論じられているものを、これは、歌とページ数のみ挙げておく。末尾の数字は各項のページ数。

・雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ 二条后(17)

・朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける 崇徳院(10)

・昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん 藤原良経(12)

・ささなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 平忠度(41)

・かざこしを夕越えくればほととぎす麓の雲のそこに鳴くなり 藤原清輔(13)

・沖津かぜ西吹く浪ぞ音かはる海の都も秋や立つらん 正徹(16)

・七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ 藤原俊成(19)

・さらしなや姨捨山に旅寝して今宵の月を昔見しかな 能因(10)

・わたつうみの波の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞしぐるる 後鳥羽院(24)

・駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ 藤原定家(19)

・隔てゆくよよの面影かきくらし雪とふりぬる年のくれかな 藤原俊成女(14)

・をとめごが袖ふる山の端垣の久しき世より思ひそめてき 柿本人麻呂(26)

・すみよしの恋忘れ草たねたえてなき世にあへるわれぞ悲しき 藤原元真(11)

・君により思ひならひぬ世の中のひとはこれをや恋といふらむ 在原業平(11)

・うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき 小野小町(10)

・おぼつかなうるまの島の人なれやわが言の葉を知らぬ顔なる 藤原公任(11)

・朝倉や木の丸殿にわがをれば名のりをしつつゆくはたが子ぞ 天智天皇(13)

単独の著書もある後鳥羽院や、最長の平忠度の項は、まさに読み応え充分だが、ハイライトは藤原俊成女の項だろう。Morris.には凡百のミステリーより面白い謎解きと思えた。その他、丸谷の卓見、創見、閃き、発見、新解釈など枚挙にいとまない。
しかし、「新進気鋭の」作家というイメージをいつまでも引きずっていたせいもあって、すでに彼が75歳になることを知ってびっくりした。
本書は彼の贅沢な遊びかもしれない。百首と古今の名歌を網羅する詞華集を一人で選び出す楽しみ、それぞれを思う存分賞賛し、分析し、論じる楽しみ、その中から自分の文学史観を立ち上がらせる楽しみ、読者はその楽しみの余沢を蒙ることが出来るという、仕組みだ。ひさびさに熱中できる本だった。瑕瑾や揚げ足取りは今回に限って無しにしよう。


現代歌まくら】小池光 ★★★☆ 産経新聞に3年にわたって連載したコラムを後に五十音順に並べ直したものらしい。著者は歌人で、和歌にあっては超重要な修辞要素であった歌枕が短歌になって、ほとんど消滅したときていしながら、それでもなお現代短歌にあらたに誕生した歌枕のようなものとそれぞれの証歌を挙げて、解説や感想や、連想することどもを書き連ねていくという、連載コラムの一趣向としてはなかなか上手いやりかただなと思ったが、コラムのネタくりも結構達者だし、楽しく読めた。
でも、結局こういう本は、現代短歌のアンソロジーとして読むわけで、そういう読み方でも結構気に入ってる。
挙げられている歌枕は以下のとおり。

青森県、悪魔、浅草、アジサイ、飛鳥、汗、あはれ、阿武隈川、アフリカ、天草、アマゾン河、アルプス、伊香保、椅子、イチョウ、犬、イーハトーブ、ヴェニス、兎、牛、馬、梅、梅干、エーゲ海、桜桃、近江、大阪、「大淀」、弟、鬼、オホーツク海、外套、柿、鍵、革命、カゲロウ、カナリア、鎌倉、髪、かみそり、雷、かもめ、鴉、樺太、カリフォルニア、ガンジス川、神田川、機関車、菊、岸上、北、北上川、狐、絹、霧、キリマンジェロ、銀、銀河、金魚、銀座、孔雀、九十九里浜、鯨、倶知安、百済、くれなゐ、子、甲子園、コカコーラ、五月、コスモス、珈琲、独楽、米、隠沼、坂、桜、酒、佐渡、砂漠、サマルカンド、サラダ、さるすべり、死海、しぐれ、自転車、信濃、芝、シベリア、蛇崩、遮断機、上海、松竹梅、昭和、杉、スコットランド、砂、隅田川、関ヶ原、扇風機、洗面器、象、大連、啄木、煙草、ダリア、血、チェルノブイリ、地下鉄、父、地中海、乳房、鳥海山、長十郎梨、津軽、月、椿、つばめ、爪、梅雨、鶴亀、停車場、寺山修司、ドイツ、東海、東京、蜥蜴、土耳古青、ナイル川、長崎、夏草、菜の花、南洋、ニコライ堂、虹、二十世紀、日本橋、人間、猫、合歓、ノバゼムリア、蠅、萩、白鳥、八月十五日、波照間、巴里、ハリウッド、春一番、馬鈴薯、坂東太郎、ヒグラシ、左、ヒマラヤ、ヒマヤラ、枇杷、藤、富士山、豚、二荒、葡萄、仏蘭西、噴水、ヘア、ベトナム、蛇、蛍、窓、満州、岬、水、みずうみ、みちのく、麦、麦藁帽子、武蔵野、明治、最上川、モスクワ、紅葉、野球、山川呉服店、邪馬台国、湯、郵便局、ヨコハマ、吉野山、ヨルダン河、ラスコリーニコフ、理科室、立春、龍、レーニン、レモン、六月、ローマ、わだつみ


【江戸 化物草紙】アダム・カバット 校注編 ★★★☆この前感心した「大江戸化物細見」の前作。化物を主題にした黄表紙5編を中心に、複数の論者による化物論みたいなものが組み合わされていて、楽しめることは楽しめたが、ちょっと点数が低いのは、取り上げられている作品の質の差によるところが大きい。黄表紙5編のうち4編までが、十返舎一九の作であまり変り映えがしないし、もう1編もお化けの紹介集みたいで物足りないこと。一番長編で面白いと思った「化皮太鼓伝(ばけのかわたいこでん)が、佳境にはいるところで尻切れトンボで終ってしまうと来たもんだ。米国人で泉鏡花の幻想小説を専門に研究してきた著者が、日本の学者に看過されている化物黄表紙を取り上げた着眼には、拍手を送りたいが、本書ではまだ突っ込みが足りないような気がした。「化物細見」があまりに面白かったので本書はわりを食ってるのかもしれない。個々に見れば、興味を覚える図や、洒落やうがちもはしばしにあるのだが、どうもMorris.は一九とは相性が良くないようなのである。有名な「膝栗毛」も大して面白いと思わなかったし、黄表紙ならば、京傳、春町、喜三二などとは、格段に下手でしかない。願わくは、今後、別の作家の黄表紙で面白い物を物色して「化物草紙」のスタイルで提供してもらいたい。


わたしのグランパ】筒井康隆 ★☆筒井を読むのは何年ぶりだろう?断筆宣言のずっと前から読まなくなっていた。虚構船団で匙を投げて以来だろうか?いや、そのあと2,3冊は読んだものの、何となくなじめくて、手に取らなくなって久しいのかな。で、これはつい、魔が差したというか、タイトルと表紙の絵につられて借りてしまったのだ。小サイズですぐ読めそうなこともチョイスの理由だろう。短くて良かった。長ければ途中で投げ出してたに違いない。まあ、出来の悪い漫画くらいの時間潰しにならないことはないが、筒井ともあろうものが、こういうのを書いてはいかんぜよ。ストーリーも少女漫画みたいで(こういうと少女漫画に失禮かも)その割にヒロインがいまいち魅力なくて(キャラが立ってないというのかも)、刑務所帰りの爺さんが、侠気のかたまりという設定なのに、結構せこく立ち回り、昔ひょんなことから猫ババした金を天井裏に隱して、これを使って、正義の味方もどきを演じたり、爺さんが死んだ後、ヒロインがそれを運営資金に友達と広告会社を作ろうとするという終り方まで、ほとんど噴飯ものだった。読者をなめとんか、こら。と悪態つきたくなるのも、虚構船団以前の作品は、ほとんど読んでたくらい、筒井のファンで、彼を高く評価してたMorris.の反動でもあるのだ。おおい、頼むから、軌道修正するか、いま一度断筆をおねがいしたい。それにこれは雑誌に単発で掲載された数ヶ月後にそのまま単行本になってる。雑誌の値段がいくらだったかしらないが、これ一編で1,000円取ろうとはいい度胸だ。(Morris.は借りたんだけどね(^_^;))


【書の宇宙 21 さまざまな到達・ 清代書家】石川九楊編集 ★★★★ 二玄社発行の全24冊中第21冊である。このシリーズの1冊目「甲骨文・金文」を見たときは感動したものだ。書道の本は相当高価なものでも、モノクロで印刷されている場合が多い。白い紙に黒い墨で書いた物が大部分だし、白黒の世界という通念もあるのだろう。しかしこのシリーズは、主要図版をカラーで紹介している。そしてこれが、実に素晴らしい。墨色、紙色とその調和、対比が美しく、臨場感があるのだ。このシリーズの特長としては、九楊による精緻な書法分析ならびに歴史背景の的確な解説が挙げられるが、それ以外にも、草森紳一、夏目房之介といった、Morris.好みの書き手にクロスオーヴァーな観点から解説させてるし、日本中国の書を分別しながら有機的に結合網羅してる編集方法など、画期的な書の集成と言える。
「書痴」という言葉は愛書家の自嘲として用いられるが、Morris.は「悪筆」という意味で自分のことをそう思うことがある。そのくらいMorris.の字はひどい。無い物ねだりで、字の上手い人というのはそれだけで尊敬してしまう。石川九楊の著書をかなり読んだのも、そんなところに理由があるのかもしれない。「昔邪之廬詩」部分 「餌菊詩」部分
さて、本書である。昨年読んだ九楊の著作の中で清の書家金農(1687〜17639)の作品が紹介されていて、一目見て惚れ込んでしまった。書というよりレタリング、異常に肥大しながら纖細さを感じさせる横画、大きく長く印象的なはらい、絵や書を文章で説明するのは難しいので省略するが、これだけ心惹かれた書といえば、良寛以来のことだ。折に触れ、図書館や本屋で金農の作品がないかと探したがなかなか見つからない。そういう時に待望の本書が出たので早速借りてきたのだった。主要図版には7点の金農作品がとりあげらていた。そのうち1点は書簡、もう一つは竹の図に添えられたもので字が小さすぎるので措くとして、残りの5点はいずれも逸品ぞろいだった。Morris.が以前見て惚れたのは「餌菊詩」だったと思うが、あらためてカラーでみると、もう、もう(;_;)ほんとにすごい字だ。これはもう本書を見てもらうしかない。「書痴」のMorris.の推薦では説得力に欠けるだろうが、いちおう「眼高手低」を標榜してるのでお許し願いたい。「七言律詩」「題昔邪之廬壁上」も同じ傾向の作でどれもすごい。また「九老図記」はまるで極太ゴシック体か、切繪文字か、木版文字かと思うような縦横極太のユーモラスな文字でそれでいながら風格があり、雅趣にも富んでいる。ああ、すばらしい、すばらしいと褒め殺し状態なのだが、今回Morris.がぞっこんまいってしまったのは、先の骨太とは対照的な作品「昔邪之廬詩」だった。これはもう、言葉を無くしてしまう。九楊は「ガリ版文字のごとき」と形容してるように、外形的には鉄筆でやすり板をこすって書いたような印象をうけるが、とてもそんなもんじゃない。アンバランスを装ったバランス感覚というか、稚拙を装ったテクニックというか、とにかくすごすぎる。Morris.は、書をみて、ひさびさの「無条件幸福」状態になってしまったよ(^○^)しかしこれは、良寛の「秋草帖」(だったかな?)ののびやかな文字と通底するものがあるなあ。今回の評点は、金農作品への評点ではない。金農の書は満点以上だ。


少年H】妹尾河童 ★★★☆ 97年に刊行されてベストセラーになった、著者の自伝的小説。妹尾河童といえば、室内を鳥瞰図的に描いたイラストエッセイのl「河童が覗いた---」シリーズでお馴染みだが、小説はこれが初めてとのこと。少年HのHとは、本名肇の頭文字の大きく入ったセーターを着ていたことから付けられたあだ名。ベストセラー敬遠傾向のあるMorris.だが、これは神戸が舞台なので読もうかなと思ったのだが、なかなか図書館に上下2冊揃ってることがなくて、そのままになってたの。生家がJR鷹取駅南で、Morris.も数年間事務所が鷹取近くだったので馴染みの町名や建物、施設が多くてそれだけでも親しみを感じる。父は洋服屋、母は熱心なクリスチャンという家庭で、二人兄妹の長男のHはちょっと屈折しながらも、好奇心旺盛な子だった。1930年生まれの彼が、小学校から旧制中学に進み、社会人として生活を始めるまでの間、つまりそれはほとんど「聖戦」の始まりから終結までに重なるのだが、感受性の強い少年による戦争観察手記としても読める。小学時代の遊び友達、中学での同級生や教師との友情や軋轢、日常の暮らしの中での様々な出来事についても観察者の目はむけられているが、やはり圧巻は戦争、とりわけ昭和20年神戸空襲の描写にだろう。Morris.はつい、山田風太郎の「戦中派不戦日記」と比べてしまった。風太郎は大正11年生で妹尾より8歳年長、本来なら軍隊に行くところを医学生という理由で猶予された特殊な状況だが、それならではの貴重な記録を昭和20年の詳細な日記として残してくれた。本書は小説と銘打ってある通り、そのまま妹尾少年の記録ではないのだろうが、かなり忠実に記憶を再現しているものと思う。後の仕事に繋がる高みから状況を鳥瞰する視点がうかがえたり、下痢症でいつもビチ糞だったとか、おねしょがなかなか治らなかったりと「トイレ曼荼羅」に繋がるエピソードもあったりと、妹尾個人史として楽しめる部分も多かったが、後半にすすむにつれて、個人の体験では不足と見たのか、伝聞や、資料によるパッチワーク的創作が多くなるのを残念に思った。Morris.の想像に過ぎないが、妹尾は最初は創作なしの、記録として書き始めたのではないだろうか? それが書き進めていくうちに、戦争や、国民意識、政府への批判などを総合的に捉えるためには個人の体験だけでは事足りないと感じて、空白の部分に、資料をはめ込んでいったのではないだろうか? これがちょっとMorris.には面白くない。どこまでが、妹尾の体験で、どこからが創作なのかわからないということには落ち着かないのだ。小説として発表されたからには全体を小説として評価すべきなのかもしれないが、それにしては、あまりに生情報が前面に出ていて、Morris.はそちらに重きをおいてしまうのだ。
それともう一つ、97年刊行といえば、神戸の地震の2年後であり、読者のほとんど、特に地震を被った地域の読者は、空襲で壊滅した神戸の町と、地震による惨状を重ねあわせずにはいられなかったと思う。逆に妹尾自身が、地震によって戦争の惨状を何らかの形にして残しておこうという気になったのかもしれない。それがいいとか悪いとかいう気はないが、このタイミングの良さが、ベストセラーになった一因かもしれないとは思う。
ところで妹尾のペンネームは「屁の河童」の語呂合わせから付けたのだろうか?


大江戸化物細見】 アダム・カバット校注編 ★★★★☆ 化物を主題にした黄表紙5編を読み下し、解説付して紹介したものに、化物キャラクター5種(豆腐小僧、大頭、ろくろ首、河童、鬼娘)のshou詳解、化物論を合わせたもので、もともと黄表紙好きのMorris.には非常に面白かった。黄表紙を今、簡単に読もうとすると、岩波や小学館の古典大系の一本と、教養文庫の「江戸の戯作絵本」六巻くらいしかない。特に後者は50編もの作品を取り上げ、解説も江戸時代独特の洒落、地口、語呂合わせや、背景などにも目配りの行き届いた解説付きでお勧めだが、本書はA5版上質の美本で菊池信義の装丁の良さも相俟って、実に見やすく出来上がってるのがいい。特に図版の鮮明さ質の高さには舌を巻くしかない。
それにしても、この外人(米人か?)のくせして、カバット氏の解説も、論旨も、語釈もなかなかしっかりしている上に、単調な説明に終わらず肉声が聞こえるような文章で、日本人研究者ももうちょっと精進して欲しいものだ。前作「江戸化物草紙」も近いうち読んでみたいものだ。Morris.の採点がえらく高いのは造本と図が高得点を稼いだのだろう。


阿波の野鳥】吉田和人 ★★★朝日新聞徳島版に連載された写真コラムを集成したもので、著者は当然、日本野鳥の会会員で珍鳥を撮影することに情熱を傾けているらしく、本書にも一般的な鳥より、徳島県ではめったに見られない鳥や、迷鳥が多く取り上げられており、Morris.のような超初心者には敷居が高い感じもしたが、写真はさすがに見事でそれだけでも楽しめた。著者が環境破壊にことあるごとに反対、憂慮の念を訴えたり、ハンターの乱獲に心痛めたりしているのには共感は覚えるものの、稀鳥や、絶滅が心配されてる種の保護に力点おきすぎてるようなのがちょっと気になった。絶対差別主義のMorris.だから、かえってこういう中途半端な差別意識は好みでない。
ホトトギスのさえずりを真似するには口笛で「特許許可局」と吹けばいいとか、「チョットコイ」の鳴き声でコジュケイが大正時代に人為的に日本に移入された品種だとか、スズメとは別種のイエスズメがヨーロッパではスズメを追いやってしまい、日本でもウラジオストック経由で90年に北海道に上陸して以来日本海側に進出を続けていて、ひょっとすると日本のスズメとの政権交代も考えらることなど興味深い記事も多かった。


電脳社会の日本語】加藤弘一 ★★★★ コンピュータで日本語をどう取り扱うかというのは、関心のある事柄なのだが、本書のおかげで現状のアウトライン、問題点、近未来の展望までうかがうことができた(ヨウナキガスル)。筆者は文芸ホームページ「ほら貝」の主催者で、名前だけは知っていたが、文字コードや電子テキストに関してこんなに造詣深く、取材に長けているとは思わなかった。日本語の電子化で避けては通れない漢字の問題にも、正面切って論じているし、明治から戦前までの漢字制限論への目配りも忘れず、敗戦後の国語審議会の愚行や、JIS漢字の決定や無意味な変更などにも冷靜に(Morris.みたいに熱くならずに(^_^;))批判してるし、こちらは、完全にMorris.には手が出ない、コンピュータにおける文字コードと、割り当て方式、通信での各国語混在などの技術的方面も、ある程度理解できるように解説したあるし、メーカーや国(主にアメリカ)のエゴによって、アルファベット以外の文字がないがしろにされる危険にも警鐘をならすなど、文化的、社会的目配りもなされている。それを別にしても、言葉や文字に関して面白い話題満載で、ひさびさに「おもしろくてためになる」本に出会ったことを喜びたい。日中韓の漢字の異同、ゆれ、調整の問題の一刻も早い解決が必須であること、ユニコードの問題点、裏フォント方式の限界、「今昔文字鏡」や「e漢字」など膨大な漢字を扱うソフトの紹介など、それぞれ深くて広いテーマへの足がかりにもなる、希に見る良質な啓蒙の書と評価したい。
ひとつ気になったのは、数ヶ所で、思わせぶりな伏線(「これが後に大きな問題の種となった」とか「このことが、--した際に混乱をまねくのだが」といった文章)があって、Morris.のようなぼんやりものには、その結果がどこに書いてあるのか判然としなかったり、論脈を見失ったりしがちだった。小説ならともかく、解説的な書物では、もっと直裁に書いて欲しいものである。つまり、伏線でなくアウトラインだけでも併記しておいてもらいたいということだ。

活版印刷に明朝体を採用したのは宣教師のウィリアム・ガンブルである。彼はもともと印刷技術者で、アメリカ長老派協会中国布教団が上海に開いた印刷所、華美書館に技師長として赴任した。金屬活字では木目は関係なく、直線・直交にこだわる必要はなかったが、明朝体の縦画が太く横画が細いデザインはローマン書体に通じるものがあり、混植に適しているところから、ガンブルは明朝体を選んだ。彼は1869年の帰国の途中、長崎の官営活版伝習所(現在の大蔵省印刷局)に招かれ、活字鋳造技術と明朝体活字を日本に伝えた。その後、多くの印刷技術者の努力によって、日本独自のみんちょうたいのデザインを洗練していった。

マルチメディアは派手に見えるが、実際に社会を動かしているのは画像や音響ではなく、文字である。マルチメディアが真価を発揮するためにも文字に裏打ちされる必要がある。/これまでの社会にも文字の皮膜がかぶさっていたが、情報化社会はもう一段階細かいところまで文字がはいりこみ、生活の内部にまで浸潤した社会なのである。文字の出現が社会を一変させたように、飛躍的に量と速度の増した文字は社会を深いところで変えていくだろう。文字と人間の関係も変わらざるを得ないのである。


【ネイティブスピーカーの単語力 1. 基本動詞】大西泰斗、ポール・マクベイ ★★★何をいまさら英語の勉強を、というわけではなくて、図書館で立ち読みしてて面白そうなので借りてきた。これはシリーズで、英文法篇、前置詞篇もあるらしい。基本動詞を日本語に直訳するのでなく、イメージとして身につけようというのが本書の目的らしい。そのためにアイコンのようなカットを多用して、画像でイメージを喚起しようという作戦が取られていて、文章だけの参考書よりはうんととっつきやすい、訳文も肝心なところだけにしているのでこれもスピードアップと、必要個所がすっと頭に入る仕組みになってるし、説明文も堅苦しくない、ジョーク混じりで、いやはや日本における「英語解説書」は随分多様化かつ進歩しているものだと感心した。韓国語だと、初心者向け入門書こそ、そこそこの点数があり、ここ10年くらいの間でも、隨分分かりやすく懇切なものが手に入るようになったが、中級、上級となるとまともなものは無いに等しい状態だし、文法や単語など分化したものは二、三二とどまるだろう。中高大と10年近くも必修教科として習いながら、会話も出来ず、新聞も読めないものが多数を占める日本人で、そのくせ英語好きなことこの上なしなのだから、参考書、教室は夥しく増える一方、量と質は正比例しないとはいうものの、下手な鉄砲も数撃ちゃあたるで、こんな風に面白いものや、精確なものも出る事になるのだろう。
本書では動詞を9つのグループに分けてそれぞれ数個の基本的動詞を解説している。
1.移動(go,come,bring,run,drive,rise,fall,advance,recede,fetch,pass,carry,put,leavereat+arrive)
2.変化(change,become,grow,develop,improve,increase+decrease,extend+expand+spread)
3.静的状態(have,be)
4.知覚(see,look,watch,hear,listen,taste,smell,feel)
5.思考(think,believe,consider,suppose,expect,understand,imagine,know)
6.伝達(speak,talk,tell,say)
7.入手(get,obtain,acquire,gather+collect,catch,grab,take)
8.創造(make,create,produce,generate,build+construct,form,break)
9.インパクト(hit,punch,thump,slap,smack,pat,caress,stroke,fondle)
ひととおり読み終えたMorris.だが、これによって飛躍的に動詞の実力がついた。ってことはないだろうなあ(^_^;)


もっとどうころんでも社会科】清水義範  西原理恵子 ★★☆清水は「蕎麦ときしめん」があまりに面白かったので、その後の作品も色々読んで見て、パスティーシュ(パロディ)ものはそこそこ面白く読めてたが、だんだんマンネリというか、こちらが飽きてきてしばらく読まずにいた。本書はシリーズ企画で、タイトルとは無関係に雑多なネタのエッセイとして読んだのだが、そこそこ面白そうでいて、なんか物足りない。Morris.はサイバラのカットと漫画だけを楽しんだことになる。で、その漫画で(171p)サイバラの田舎では一歳のお祝いの時子供の前に、そろばんと鉛筆とお金を並べてどれを取るかで将来を占うとゆうのがある。と書いてあった。これって韓国の風習(トルチャンチ)そのままではないか。サイバラの田舎ってたしか土佐だったよな。これは偶然の一致なのかそれとも帰化風習なのだろうか?韓国の場合、お金・穀物(財運)、麺・糸(長寿)、本・筆(学問)、弓(武芸)などをえらばせるのだが。
本文とは無関係なことばかり書いてしまった。とどめにおもしろ雑学を一つだけ引いておく。これも吉田豊「食卓の博物誌」からの孫引きである。

大根の細切りを「千六本」というが、大根は中国では蘿葡(ロボ)と呼ばれていた。また中国の料理法で、野菜を繊維と平行に切ることを「繊(チェン)」という。つまり大根をそのように切るのは「繊蘿葡(チェンロボ)」となる。これを日本人が発音から「千六本」と聞きなしてしまったらしい。


他人をほめる人、けなす人】フランチェスコ・アルベローニ 大久保昭男訳 ★★★ 一般にMorris.はこのての、処世術、自己啓発的な匂いのする本は読まない。読んでも人には言わない方なのだが、本書はそんな押し付けがましい啓発の書ではなく、くだけた人間観察のコラムである。何でこんなしょうもない邦題をつけたんだろう? 原題は「L'ottimismo=The optimism」だ。このほうがうんといいし、内容も的確にあらわしてる。イタリアきってのモラリストと紹介されているが、その人間観察の鋭さと、ユーモアに共感覚えるところが多かった。

認めてやったりほめてやったりする権力は本質的に否定的な権力であり、苦しめる権力である。そのことは、駄々をこねる子供でさえも知っている。両親のほうでは喜びや満足を期待しているときに、子供は泣き、地だんだを踏み、別のものが欲しいといいつのる。それが両親の失望や怒りを招くことを子供はちゃんと承知している。それこそ彼の期するところなのである。−−略−−我われだれしもがこの権力をどんなに乱用しているかは、信じがたいほどである。幼児であろうと、若者であろうと、大人であろうと同じである。あらわな行動に示さず、言葉にも出さず、このように無言のかたちで我われのおこなう復讐の量は信じがたいほどに多い。

今日、旅に理想的な意義を求めるならば、それは別のかたちでなければ実現されえない。一つは、移民することであり、遠い土地へ働きに出かけることである。−−略−−しかし、別の種類の旅もある。それは空間においてだけでなく、意識のなかでも行われる旅である。−−略−−奇妙ながら、旅の真の効用は、そこで出会う異なる世界からではなく、我われのいつもの「自分」からの離脱から生じる。肝心なのは、新しい事物に接することよりも、すべてのものを異なる目で見るのを学ぶことなのである。こういう状態に達するためには、ふたたび子供にかえり、社会的認知に恋々とする肥大し我われの「自我」を忘れることが必要である。それゆえ、逆説的かもしれないが、旅の最も有意義な要因は、「孤独」なのである。

将来を予測する場合の最大の誤謬の原因の一つは、他者のルールとは異なるルールが自分にとっては有効だと思い込むことである。我われの創造能力は、つねに極度に限られたものである。我われは、ほとんどの場合、他者が考案し、つくったものを模倣し、採用するだけなのである。もし我われに、技術的により進んでいて、よりよい効率をあげているところで何が起こっているかを観察しようとする謙虚さがあるならば、我われの将来を予見することも可能である。
じつは、新しいものを見ようと欲しないのは我われなのである。というのは、我われは保守主義者であり、世界を理解し分類するのに用いている方式・図式を検討しなおすことを好まないのである。しかも、新しいものはまさにそういう方式・図式と衝突するものなのである。

我われは周期的に危機に陥ることが必要なのである。ときにそれは何かの失敗の帰結のこともあり、あまりに長いあいだなおざりにされた現実が我われの慣習に加える痛撃の結果であることもある。しかし、別のときには自身が硬直化し、あたかも死んだかのようになっていることに我われが気づいたために、危機が我われの内部で成熟することもある。そのときには、成功の頂点に達することができる。多くの作家・作者は、自分の傑作に満足できなかった。ウェルギリウスは文字どおりに「アエネーイス」を破棄しようと考えていた。


空耳飛行】 近藤達子 ★★☆☆☆ 95年に「短歌研究」新人賞を得た著者の第一歌集。タイトルに惹かれたのと、遊び心が感じられたので借りてきた。88〜98年の作品360首が収められている。この時期はMorris.が歌を作り始めて止めた(>_<)時期に見事に重なる。しかも、謎々、見立て、懸詞、換喩、物尽くし、地口、諧謔、逆説、テーマ主義、などMorris.の歌の得意技と似たところがあり、実に分かりやすいネタが多くて面白かった。ただし、深みはない。調べもぎこちないものが多く、Morris.は短歌と言うより、エンターテインメント、あるいはライトヴァースとして楽しんだ感が強い。
1ダース引用しておく。()内はMorris.による謎解き、あるいは歌のココロ。

・脳髄の量になるまで割りためて初めて胡桃のかたちに気付く(胡桃の中の世界、相似)
・"Don't disturb"一日ドアに掛け世界を外に閉じ込めてやる(クラインの壷、裏返し)
・象 うさぎ きりんと絵本めくりゆく私ハドコガ長キイキモノ(象ハ鼻ガ長イ、演繹)
・どこまでもどこまでも飛ぶ つもりだった 放物線とはそういうことだ(逆説的見立て)
・ここからは普通の国と言いきかせマンションの鍵かけて出てゆく(韜晦、演技)
・まだ呪文も唱えないのにやすやすと開くドアーの前 立ち尽くす(自動ドア)
・蜘蛛の糸降りくるあたりハンモックに二人合わせて八本の四肢(芥川、見立て)
・父の背で見た遠花火 百の目で孔雀は世界を肩越しに見る(佐藤、堀口、謎々)
・泡になる 御褒美みたいな罰のため今度は人魚に生れてきます(人魚姫、ヴィーナス)
・アリスよりアリスの姉のもう二度と夢など見ないという大冒険(キャロル、逆説)
・水鏡 肉もくわえず立ち尽くす わたしはなんと啼くのだったか(イソップ)
・赤外線炬燵の中で仰向けに猫が見ているローマ炎上(ネロ、黒猫のタンゴ)

しかし、セレクトしたすべてが、前半(94年までの作品)に集中してしまった。故意にではない。後半の作品群は、前半の焼き直しにしか見えなくなっててしまったのはどういうことだろう? すでにして自己摸倣の時期を迎えたのか。


本のちょっとの話】 川本三郎 ★★☆☆著者の名は映画評論家として記憶にあったが、これは、本をめぐるコラムで、普通書評で取り上げるときに零れ落ちてしまう、細部のエピソードにこだわったもの。この視点はMorris.好みだと、興味深く読んだ。「ネタ探しに大変だった」と後書きにあるように、よくもまあ、と感心するくらい、短いコラムの中に多方面から収集した小ネタが詰め込んであり、Morris.にヒットする情報もいろいろあったのだが、所々に「何かなあ」という発言もあって、面白さに浸りきる訳にはいかなかった。
Morris.が以前失敗作と決め付けた井上ひさしの「東京ローズ」、梁石日「血と骨」を快作(どういう意味なんだろう)ともちあげたりするのは、別に個人の価値判断だからかまわないが、梁石日を読んで、開高健の「日本三文オペラ」、小松左京の「日本アパッチ族」を思い出す、と書きながら、梁石日の原体験に触れないのは片手落ちだし、ミステリと映画評は十代からどっぷり漬かった人間のものしか信用できないとか、したり顔に(自分がそうだという自負があるからなんだろうけれど)決め付ける部分などは、かなり嫌味(か、脳天気)と感じた。時々、対象作家におもねっているとも感じさせられる部分にも鼻白んでしまった。
アメリカのWASPの規範「ノーブレス・オブリッジ」(高い位置にある人間ほど控えめであらなけらばならない)を「金持ち喧嘩せず」的な嫌味なモラルと評しながら、60〜70年代の新左翼運動をこれと同一視する佐和隆光の論を「卓見」というあたりも「何かなあ」である。
出版された本の誤りを指摘する読者からの投書には、間違いの発見を、まるで「鬼の首をとった」かのように表現してるものが多いところから「鬼首レター」と俗に陰口されているらしい。で、もちろん著者は、鬼首レターを貰う立場から、これを分析していた。Morris.はレター書くほど、親切ではないので、鬼首日記として(^_^;)メモしておこう。本書の「殺人には植物を」というコラム中「未草とは蓮の花のこと。この花には、夕方になると花弁が閉じるという習性がある。それを知らなかった女性がアリバイ工作に失敗してしまう話−−−」(93p)とある。「未草」は、スイレン科の一品種であり、けして「蓮」ではない。さらに「未草」を 睡蓮 一般の異称として用いることもあるが、睡蓮の中には、夜咲きと昼咲きがあるのでこれを、単純にアリバイ崩しに利用するのも難しいだろう。また、別コラムでアーヴィングからの引用として「−−エントル・ジョンやボウイ・ジョージといった変わり種−−」(244p)とある。エルトン・ジョンの間違いと思ったが、ひょっとするとエントル・ジョンという人物がいたかもしれないので、こちらは保留にしておく。
本書のもう一つの欠点は、コラムの「落ち」をつけようとするあまりに、主題に引きずられ過ぎるという点だ。雑文を何かの「ためにしようする」とおおむね、ろくなことはない。
なんか、けなしまくってしまったが、面白かったエピソードをひとつだけ引用して、止めにしよう。

・死刑囚は自分が処刑されると正しく認識する能力が必要とされる。ところが長く独房にいると精神異常になる。すると処刑できないので死刑囚を精神病院に送る。治療に当った医者は「この男を治したら死刑が執行される」という矛盾におちいる。


読書学】夏目房之介 ★★★書評ということになるのかもしれないが、彼の場合、半分はイラスト(漫画)で説明半分、文章半分なので、やはり、得意の漫画評が一番読み応えあることになる。本書は潮出版の漫画雑誌「コミックトム」に連載されたもので、発表されて化なり経過してることもあって、いささか新鮮さに欠ける部分も多いのだが、普段あまり話題にしない自伝的回想などがあって、同世代の他人の個人史を垣間見るという面白さはあった。「おいしい読書」という章があって、その第一に杉浦茂の漫画に出てくるだんごが挙げてあったのは、懐かしかった。少女漫画、特に当時肩入れしてた坂田靖子への、手放しの礼賛も、毎度のことながら微笑ましい。南伸坊の「チャイナファンタジー」を褒めてるのと、模写の上手さはたいした物だと思った。もちろん、手塚治虫の死に際しては4号にわたって鏤々書き続けて、編集者にいいかげんにするようたのまれ、これが後で「手塚治虫はどこにいる」を書き下ろす契機になったとか、ガロ時代の佐々木マキにいかれてたとか、要するに、Morris.の読書遍歴と抵触する部分が多いだけに、彼の本はついつい手を出してしまうのだろう。よく彼が紹介する(もちろん本書でもべた褒め)、みなもと太郎の「風雲児たち」はいつか、読んでみたい。


食の名文家たち】重兼敦之 ★★★★95年から99年まで「オール讀物」に連載されたエッセイの集成で、小説に出てくる食べ物や、それも実名あるいは、特定できる店名の出てくるものに選っている。しかも著者はほとんどそれらの店を前から知っていたり、小説家に連れられて行ったり、わざわざ出向いたりと、食への執着も、蘊蓄も並々ならぬものがある。著者が朝日の編集委員をしていた縁もあるのだろうが、それにしても味わい深い1冊だ。
取り上げられた作家と作品は「点と線/松本清張」「菊亭八百善の人びと」「小説 浅草案内/半村良」「夫婦善哉/織田作之助」「父の詫び状/向田邦子」「瘋癲老人日記/谷崎潤一郎」「春の鐘」「眼中の人/小島政二郎」「化身/渡辺淳一」「酒宴/吉田健一」「赤と紫/吉行淳之介」「如何なる星の下に/高見順」「古都/川端康成」「叛乱/立野信之」「春泥/久保田万太郎」「なんとなく、クリスタル/田中康夫」「雁/森鴎外」「あほうがらす/池波正太郎」「ロッパの悲食記/古川録波」「火宅の人/壇一雄」「美は乱調にあり/瀬戸内晴美」「御馳走帖/内田百間」「暗夜航路/志賀直哉」「銀座復興/水上龍太郎」「新しい天体/開高健」「宴のあと/三島由紀夫」「吾輩は猫である/夏目漱石」「夢声戦争日記/徳川夢声」「自由学校/獅子文六」「晩菊/林芙美子」「夜の蝶/川口松太郎」「断腸亭日乘/永井荷風」「微笑/近藤啓太郎」「鶏園/横光利一」「ろまん燈篭/太宰治」「恋/小池真理子」「ぼんち/山崎豊子」「杏っ子」「年月のしおと/広津数雄」「父親/遠藤周作」おしまいに平岩弓枝との対談がある。
たしかに取り上げられた作家たちは、それぞれに一癖も双癖もある文章家だけに、引用された食べ物に関する文も粒よりだが、それに位負けすることなく、堂々と渡合う著者の力量と、やはり著者の文章力もなかなかのもので、彼もまた「食の名文家」の一人であること間違いない。
本筋とは離れるが、端々のこぼれ話的部分をちょっと引いておく。

・編集者として、長いあいだ交誼をいただいた池波正太郎からは「人間は死ぬために生きているのであり、生きるために食べる。つまり、死ぬために食べるのだから、日頃の食事を大切に考える」と常々いわれていた。

・関東と関西で調理法や味つけが異なる食べ物といえば、まず鰻やうどん、すき焼きが思い浮かぶ。ちょっと変わったところでは、魚屋の魚を関東では横に並べるが、関西では頭を上にして縦に並べる。

・「本当を言うと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分おせいかつの営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。」(吉田健一)

・あい鴨とはいったいどんな鳥なのか。「大辞林」を引くと「アオクビアヒルとマガモとの雑種」とある。アオクビは、マガモの雄の俗称でもあるが、アヒルの一品種でもある。料理書にはアヒルとマガモの交配種と書いてある本が多い。確かに昔はその通りなのだが、現在では単純にアヒルと思った方がいい。交配を重ねることによって、食用として定着したわけだ。アヒルというと、あまり良い印象を持たれないせいか、あい鴨、あるいは単に鴨として定着した。

・かつて松本清張は、名作『点と線』を書き終えたあと、飛行機で移動する設定を考慮しなかったのが、悔まれると述懐していた。この『恋』には、まだ携帯電話が登場していない。携帯電話の急速な普及によって、それ以前に発表された推理小説は、どうもリアリティを失ってしまったような気がする。


【アジアの風に身をまかせ− アジア浮遊紀行】下川裕治 ★★★ タイトルと著者を見て、またまた、アジアの旅行記だろうとおもったのだが、意外にも著者の半自伝的な作だった。彼と前川健一、蔵前仁一の三人が、Morris.の東南アジアに関する知識の拠り所となっている。その割に現地には行けずにいるけど。で、下川の「バンコク探検」は、新版、旧版ともに読んで、いたく感心したし、貧乏旅行入門みたいなものも多く書いているので、どちらかというと、お気楽派と目していたのだが、本書を読んで認識を新たにした。本当は旅のことを書いて糊口をしのぎたくはなかったこと、週刊朝日の「十二万円で世界を歩く」という連載は、かなりせっぱ詰まった状況から生まれたものだったことなど、かなりまじめな述懐ぶりだし、学生時代、新聞社時代の旅への不徹底さの反省など、書かずもがなとさえ思えるのだが、一度は吐き出したかったのだなと理解できる。旅行記など読まずに本書を最初に読んだら、ちょっと辟易するかもしれないが、すでに複数の著作で親しみを感じているMorris.は、読んで良かったと思う。


雑本展覧会−古書の森を散歩する】横田順彌 ★★★日経新聞と「ちくま」に連載のコラムをまとめた、本の紹介である。押川春浪の研究をライフワークにしているそうで、その関連で、明治、大正の雑本を買いあさっては、その度に一喜一憂してる様子が無邪気に綴られている。横田はSF作家なのだが、Morris.は大冊の「日本SF古典こてん」という、トンデモ本の紹介には、大いに感心したことがある。自分で古書収集30年と言う通り、かなりのマニアであることは間違いない。したがって本書も元手がかかっていることは分かるし、面白そうな本も複数見受けられるのだが、いかんせん余りに短い文の連続で、今一つ食い足りない。また、ことあるごとに、自分は「原稿料で生活している」のだからどうこうとか、先人と我が身を比べてのひがみやら、謙遜のふりしながらの自慢が鼻につく。もっとさらりと書くことはできないものだろうか。
雑誌「新小説」の漱石追悼臨時増刊号(大正6年)に同時代作家22人による「感想及び印象」という記事のなかで、意外なほど漱石が同業者から軽んじられていた様子がうかがわれるという部分は面白かった。

「その作も殆ど読まない。人の評判によると夏目さんの作は一年ましに上手になつて行くと云ふが、私は何故だかさうは思はない。」(内田魯庵)
「氏の作物も極めて少しゝか読んでゐません。」(正宗白鳥)
「またその作品にも、特に最近のものは余り読んでゐない」(島村抱月)
「その作品の孰れを読んでも、一体何処がいゝのか解らない」(田山花袋)
「ずつと前に『坊ちゃん』を読んで感服した以外にあまり読んでいない」(上司小剣)
「氏の人柄はよく知らない。また作品も余り読んでゐない」(徳田秋声)
「(彼の)低徊趣味的態度は一寸面白いものであつたらう。それは彼の通俗作家たる資質であつた」(岩野泡鳴)

しかし「追悼号」にこんな文章を並べる大正時代ってのは??


下町小僧−東京昭和30年】 なぎら健壱 ★★★☆☆ 昭和27年東銀座(木挽町)生まれの著者が、小学生時代を中心に当時の遊び、玩具、流行りもの、食べ物などを回想したものだが、単なる思い出話に終わらず、巧まずして子供から見た下町文化史となっている。歌手としてのなぎらには、あまり思い入れはないのだが、モノ書きとしての彼はなかなかに端倪すべからぬものがある。記憶力がいいのだろう。よくまあ、と思うことまで覚えてるし、表現もわかりやすく程々の遊びもあって、楽しく読める。後書きにこれを書くのに1年半かかったとあり、本書は88年(昭和63年)に出ているから、なぎら35歳の産物ということになる。まず彼による下町の定義から。

江戸時代には今の中央区、千代田区の一部が下町(御城下町)であり、幕末から明治にかけてやっと、今の下町のメッカ、浅草、下谷が仲間入りをしたのである。そして明治中期に芝が、大正期以後下町は東方へ拡大をして、深川、本所が下町になり、第二次世界大戦後、葛飾区から江戸川区まで下町と呼ばれるようになったのである。/そして様相をがらりと変えた日本橋区や、銀座地区は反対に下町らしさを失い、本来下町以外だった土地が、下町と呼ばれるようになってしまった。/先の本所、深川、向島でさえ川向こうと呼ばれていたのに、最近では練馬、足立、葛飾辺りまでが下町と呼ばれるようになってしまった。

ほぼ同世代とは言え、九州の田舎町に生まれ育ったMorris.とは、環境が大いに違うため、遊びや玩具のなかには、聞いたこともないものや、名前だけしか知らなかったものも多い。だが、Morris.から見ても懐かしいものがぞろぞろ転がっている。ランダムに引いておこう。

・ポッピング・フラフープ・ダッコちゃん・スクーター・ロウ石・しん粉細工・カーバイト・樟脳舟・ハッカパイプ・山吹鉄砲・アセチレンライト・渡辺即席しるこ・雪印マッシュポテト・カタ屋・BDバッジ・少年探偵手帳・コッペパン・エビガニ・ヌキ飴・ソースせんべい・貸し本屋・ビー玉・メンコ(神戸ではベッタン、佐賀ではペチャ)・肝油ドロップ・駄菓子屋のクジ・ニッキ紙・変わり玉(チャイナマーブル)・ふ菓子・棒アメ・銀玉鉄砲・2B弾・かんしゃく玉・ミニコプター・グライダー・指につけてこすると煙のようなものが出るやつ・ブリキ製の蝉など昆虫の格好をしていて、裏についた鋼片を押すとポコポコ音を出すやつ・ロウが塗ってある厚紙の上にビニールが張ってありその上にガラス棒で字や絵を描き、ビニールを剥すと消えるというミニ黒板・沸点のちがう色付きアルコールがガラス管の中に入っていて、握っているとボコボコと沸騰するやつ・紙石鹸・うつし絵・玄米パン・ポン菓子・開運の蛇の絵・黒子とりの薬・ハブの薬売り


短歌という爆弾】穂村弘 ★★★ 「今すぐ歌人になりたいあなたのために」という副題が付いている。作者に付いてはまったく知らなかったが、62年生まれで、いちおうニューウエイブ歌人として君臨(@_@)はしていないが、そこそこ知られている存在らしい。インターネット利用したり、若い歌人との歌会やったり、青空朗読コンサート開いたりと、なんか楽しそうな雰囲気である。一種の短歌入門書でもあるらしく、自作解説や、友人知人の作品紹介と添削,批評、プロ作品の紹介があって、前川佐美雄、寺山修司、塚本邦雄、葛原妙子、水原紫苑など、Morris.と歌人の好みがぴったり一致してるところ(おまけに斎藤茂吉は苦手らしい(^。^))は、なかなか見る目があるじゃないかと、すっかり、贔屓目に見てしまった。おまけに、処女歌集「シンジケート」の帯の推薦文は大島弓子に頼んでしまったと言う、幸せ者らしい。

穂村の歌の中では、

・「醉ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

が、好きだった。しかしこれは、以前どこかで見たことがある。
ほか

・ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり
・桟橋で愛し合ってもかまわないがんこな汚れにザブがあるから
・体温計加えて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

あたりが、まあ、悪くはないといったところで、つまり、作品としてはそれほどMorris.へのインパクトは強く無かった。

仲間うちの作品を多く引用して、褒めたりけなしたりしているが、そのなかにも取りたてて、注目するものは見当たらなかったが、こういう、短歌への勧誘本が出ることは、いいことだと思う。10年前にこれが出てたら、Morris.もリアクション起したかもしれないが、いかんせん、今やMorris.は「歌を忘れた歌人」でしかないもんな(^_^;)


恋する画廊】倉本四郎 ★★★☆☆ 切れ味のいい書評家としてのみ知っていた著者の、これは「畫評」集とでも言うべきか? 端的に言えば古今の絵画の中から、隱されたエロス、セクシャルな隠喩、象徴を摘出、解読、吟味したもので、当人はこれをイメージリーディングと呼んでいる。標題として取り上げられた作品は28点、本文中にも複数の関連作品が紹介されているから、60点以上の絵解きを楽しむことができる。中でも表紙にも用いられている、バルテュスの「美しい日々」に惹かれて借りてきたのだが、書評の時と同じく、いや、それ以上に絵解きの筆の冴えは、鋭さを増しているようだ。主に西洋絵画をテーマとしているだけに、ヨーロッパの古い伝説、ギリシア、ローマ神話からの引用が多く、彼の神話がいかに豊穣かつ包括的なものであるかを改めて認識させてくれた。レダを襲う白鳥(実はゼウス)の放埓な性、軍神マルスと通ずるヴィーナスの圧倒的優位、サチュルスに誇張して投影される牡の好色と怯惰、オナニストの夢の具現としての人魚、蛇に変身する女性の髪の魔力、覗く行為の耐え難い誘惑、パリスの審判の三美神の揃い踏みの鑑賞的意味、少年少女のアンドロギュヌスとしてのあやうく、あいまいな魅力等々、魅力に滿ちた寓意、表象の世界が繰り広げられていて、Morris.はとても面白かった。多数の図版の中には、初めて見る、Morris.好みの作品も幾つかあったし、衆知の作品で、予想外の見方を示唆されたものもあった。ただ、こういう作業にありがちな、つい、目的が手段を使嗾する傾向無きにしもあらず、というところが時々鼻につくのが弱点といえるだろう。
Morris.のアンテナに引っ掛かった画家と作品名をあげておく。

・コレッジョ「イーオー」、「ダナエー」・アングル「ヴァルパンソンの浴女」・グイード・レーニ「スザンナと老人たち」・ボッティチェッリ「ウェヌスとマールス」・喜多川歌麿「乳呑み」・牧野邦夫「立てる千穂」・パルミジャニーノ「首の長い聖母」・ジョヴァンニ・ベッリーニ「アレゴリー」・ペーター・ブリューゲル「反逆天使の堕落」・フラ・アンジェリコ「受胎告知」・フランソワ・ジェラール「アモルとプシケー」・ヴェネローゼ「ウェヌスとマールス」・ラファエロ「ガラティア」・フランツ・F・シュトゥック「スフィンクス」・ピエロ・デッラ・フランチェスカ「ウルビーノ公夫妻の肖像」「ブレラの祭壇画」・ピエロ・ディ・コジモ「プロクリスの死」

とりわけ、ピエロ・デッラ・フランチェスカという15世紀の画家の不思議な魅力を紹介してくれたことだけでも、本書を読んだ意味があると思う。


床下仙人】原宏一 ★★★☆☆全く未知の著者だったが、カバーの耳にイッセー尾形が推薦文書いてたのに釣られて借りてきた。仕事社会を皮肉った短編小説集で、表題作を含めて5篇が収められている。一見ありそうで、なさそうな、事件や状況を作り出して、一応の現実感を出しながら、ほわんとした感じで読者をけむに巻くことを、作者自身が楽しんでるような感想をもった。着想は奇抜な割に、展開はとろとろで、企業論理や、コンピュータ社会の問題点なども取り上げたりしながら、どこか現実離れしている。結構Morris.は楽しめたのだが、特に最後の「シューシャイン・ギャング」は、なんか身につまされてしまったよ。リストラされて、女房子供から追い立て食らった50男が、家出少女と、疑似家庭を作りあげる物語だが、無機質なラブストーリー(Morris.は好き)が、好ましかった。これに限らず、この人の作品は、諧謔も含めて大人のメルヘンだ。


私のタイ料理】氏家昭子 ★★★☆☆ これは、Morris.が個人的に熱中してるタイ風料理とは、一線を画す、本格的なタイ料理のレシピ集である。日記でも触れたが、材料も、調味料も、ハーブも、代用品などさらさら念頭に無く、Morris.レベルでは到底作れないメニューが大半なのだが、やはり、本格的なものを知ることは大事だと思った。残念なことに、中央図書館で借りた本には、4ページが抜けてて、ちょうどその部分がハーブ、スパイスの説明ページと言うのが痛かった(>_<)。この本読むと、本当にクロック(石の擂り鉢)が欲しくなってしまう。


おかしな本の奮戦記】堀内俊宏 ★★★☆二見書房社長による、自社のベストセラーと当時のエピソードで綴る回顧録。発行されたのが'87年だから、もう13年前の本で、その時点まで二見書房の四半世紀の社史ということもできる。二見書房は、ベストセラー志向の出版社で、売れるものなら、秘境ものでも、写真絵葉書だろうと、エロだろうと、ゲーム攻略本だろうと、何でも売ってやろうタイプで、特筆すべきヒット商品は「白い本」だったりする。社長もその権化みたいなところもあるが、愛嬌があって、さすが読みやすい文章で、本造りの手練れを思わせる。アイデアとしては、それぞれの本の書評を、当時の新聞、雑誌から抜粋引用しているところで、手抜きのくせにそうは見えないところが味噌である。
基本的にMorris.は「ベストセラーは読まない」のだが、それでも、本書に取り上げられた本のいくらかは知っている。自分の自慢話といえなくもないのだが、出版社と言うより、商売と割り切っている著者だけに、平凡に見える非凡さを感じた。全体として、何か、懐かしさを禁じ得ないと思ったら、表紙の絵も本文カット(多数)も、漫画家、ワチサンペイだった。


アジアカレー紀行】高野たけし ★★★☆☆インド、タイ、ミャンマー、ネパール、シンガポール、バリと地域別のカレー食べ歩きの本なのだが、著者が写真家だけに、とにかくカレー料理と、現地の風景の写真が美しい。毛色の違った5人のキャラクターの会話という設定による地の文も、適当にユーモアを交えて、ポイントは押えていて、読みやすいし、実践的でもある。最初のカレー談義から始まって、本論の各国のカレー、そしておしまいに8種類のカレーレシピ。実に良くできた本である。本論では、インドとタイに重点が置かれていて、これも妥当だし、このところタイ風料理にはまってるMorris.には、非情に興味深かった。カラー写真も、光沢紙でなく、普通の厚手の製本用紙なのも、好感度大。


土建屋懺悔録】佐藤洋二郎 ★★★元、基礎工事会社の役員をやっていた作家が、当時の回想と、現在の日本のゼネコン、銀行、政治家の癒着構造を告発するという、小説なのか、ドキュメントなのか、手記なのか、よくわからない作品。体裁も、一見よくある詩画集のような装丁で、90ページ足らずなのに、えらく空白が多く、11葉のイラスト(タブローといいたいくらいのリキの入りよう)まで付されているので、原稿用紙で100枚前後の短編で1冊を作った形だ。しかも、各ページの下段に、英訳まで掲載されているという念の入れようは、どういう狙いなのだろう。
それはともかく、社会構造や、経済、政治への知識に欠けるMorris.にとっては、非常に分かりやすく教えられることの多い内容だった。どーしよーもない日本、ということが改めて理解できた。

あのとき(阪神淡路大地震)ビルや高速道路が倒壊した光景が頻繁に報道されたが、原因をつくった建設会社の名前は最後まで明かされなかった。建設業に従事する多くの者は、その大手会社の名前を知っていたが、どこも報道するメディアはなかった。手抜き工事をしたり欠陥工事をやったのに、なにも制裁を受けない。報道機関に圧力をかけたのだろうか。知り合いだった大手土木会社の人間は、仕事はああいうふうにやらなければ儲けがでないし、みんな地震のせいにできるもんなと自嘲気味に笑った。

現在大企業だと言われ「優秀」な学生が入社を希望する多くの会社は「規制産業」だ。生産会社でもない企業が栄えることこそ、亡国の道だとかんがえなければならないし歴史が証明している。それに加担する「選良」も亡国の徒と言わざるを得ない。

昔、言葉は神の声だった。魂があった。信じたいと思うものがおたがいに存在していた。翻って今日の言葉の曖昧さはどうだ。呆れるほど軽くなったし猜疑心を募らせるほどになっている。「選良」や官僚の意味不明の答弁や言葉遣いは、理解したくても理解できないほどだ。
責任がない。保身に終始している。人に伝えようとする意志がない。言葉を重んじず言葉への畏れもない。自らの言葉も持たず利権に奔走する彼らは、この国の静かな殺人者たちだ。このままでいいはずがない。やがて国はほろぶしいつかきた道を辿る。テレビで見る悪代官やそれにつるむ悪徳商人とどう違うのか。時代は変わっても利権構造のカラクリは、なにも変っていない。

敗戦後、マッカーサーは「3S政策」を実践した。なるべく日本人に政治への関心を持たせないように、セックス、スポーツ、スクリーンなどの娯楽に目を向けさせた。かくてこの国は総理大臣よりも長嶋監督、石原裕次郎の名前を覚えた。選挙の投票よりも野球観戦という国になった。軽薄さだけが目立つ。自を疑うことも、生きることも疑うことがなくなった。そのせいで「学習」だけができる人間がもてはやされるようになった。そこには決断力も判断力もない人間が増えた。失敗すれば反省したふりをする。見せ物の反省猿と少しも変わらない。

おしまいの一節などは、特に目新しい物言いではないが、Morris.には耳の痛いものがあった。


平成ゾンビ集】福田和也 ★★☆☆ 98,99年に「新潮45」に連載された毒舌世評の集成と、補足で一本にしたもの。あとがきに鈴々舎馬風の口調で軽妙に世相講談を繰り広げたかったとあるが、半分も成功していない。面白い部分もあるにはあるのだが、どうも切れ味が悪いのね。ずけずけ言うのはいいけれど、悪口を嫌味なく言うのは難しい。過激にして愛敬ありの外骨とまでは望まないが、もう少し余裕が欲しい。
中国嫌い、自衛隊へのシンパシー、北朝鮮への意識過剰、天皇好きと、まあ、右寄りのコメンテータということは間違いないし、このところ革新勢力なんて無きに等しいから、左右無関係に面白ければ読むという無節操なMorris.だけど、これはあまりいただけなかった。


周公旦】酒見賢一 ★★★★久々に小説を読む愉しみを満足させてくれた一冊。畢生の傑作と折紙付の長編「陋巷に在り」は単行本10巻まで出て、現在も雑誌に連載中だが、本書はそれより過去の時代に舞台を設定している。殷を破って周王朝を建てた武王の弟周公旦が主人公で、その「礼」を中心とした、歴史冒険譚ということにでもなるのであろうか。半ば神話めいた、また説話めいた、超人間的な怪物が跋扈する世界を、冷静な視点で、淡々と記述していながら、物語のめりはりはきいているし、多方面にわたる知識の深さ、古の雰囲気の醸出し、従来の定説を覆し、呪文に近い詩を明快に解釈し、と、見所、長所は枚挙に暇がない。
主人公周公旦の、超人間、超自然的な性格、坐術、精神力も含めて、当時の世界と、人間が、真実味をおびて眼前に現前するかのようにみえるのは、すでにしてMorris.が作者の術中にはまってしまった結果かもしれない。
小説の中で小説生成の秘儀を開帳しながら、それがそのまま新たな小説になっていくメタ小説(か?)の傑作「語り手の事情」をものしてる作者だけに、本書でも、周公旦の行動とそのもたらした結果の因果関係の、裏読み(真相)を、読者側に密かに想像させるレトリックが仕込まれてあったりして、これにもMorris.は醉わされてしまったよ。さりげなく子路の悲惨な最期も添景として置かれてあったりして、ついつい、Morris.は本書を「陋巷に在り」の番外編として読んでるような気にもなった。
古詩の翻訳部分からも酒見の漢文読解における力量の一端を垣間見ることができる。読み下し文からして、学者、好事家のものとは、一味違っている。特に詩的というわけではない、解釈としての読みの深さと精確さが感じられるのだ。
重箱の隅をつつくようなことだが、これだけ漢文にも明るい作者が、作中「高見の見物」と言う表記(144p)をしているのは、「上手の手から水が漏れた」のだと言えよう(^。^)


マンガの力−成熟する戦後マンガ】夏目房之介 ★★★☆☆ 漱石の孫と言う看板におぶさることなく?? 心技体充実したマンガ評論者として、一家をなしている著者の比較的硬派のマンガ論を集成した一冊で有る。あちこちに書いたものを編集しているので、重複や、ムラもあるが、さすが、壷を押さえたものが多い。私淑している手塚治虫関係のものも多く、マニアっぽい点もあるが、確かに良く読み込んでいて、いろいろ教えられた。つげ義春への傾倒ぶりが、ちょっと腑に落ちなかったり、梶原一騎への思い入れ(反語的ではあるが)にも、幾ばくかの違和感は覚えたが、それはそれで読み応えがあった。いしかわじゅんの「漫画の時間」を高く評価していることと、その上で反論すべきことははっきり言ったりする姿勢も良い。高野文子、坂田靖子、桜沢エリカ、杉浦日向子への、手放しの礼賛には、Morris.も大いに共感を覚えた。(女性漫画家に甘いところも似てるし)
とりみきの前衛、実験の分析や、永井豪のギャグとアクションの根底を喝破した論など、取り上げたいものが多いが、マンガファンなら、後は自分で本書に当たって欲しい。ということで、ドラえもんの魅力の秘密、ならびにドラえもんが東アジアで広範に受け入れられていることへの、卓抜な仮説「ドラえもんの多層的よみかた」から、ダイジェストして引いておく。

彼(ドラえもん)の性格にはひどく古めかしいところがあるのだ。
スヌーピーは人間たちにはみえないところで、撃墜王や小説家、外科医や弁護士、はては北極熊にまでなりきってしまう才能を持っている。いわば、スーパーな"夢"の能力をもつキャラクターとしては「ドラえもん」と似ており、チャーリーのドジさものび太を連想させる。
だが、チャーリーはドジな自分を受け入れて人生をやっていこうとしている。けしてスヌーピーに頼ろうとしないし、スヌーピーだって主人を 助けようとは思わない。ここでは、子供のキャラクターが、じつは大人として完成された個の距離感でふるまっているのだ。
もちろん、わがドラえもんはそうではない。ドジなだけでなく、努力もしない甘ったれであるのび太を、ほとんど無条件に助け導こうとする。「ピーナッツ」の世界が、個と個がなす市民社会だとすれば、「ドラえもん」のそれは、はるかに下町的もたれあい共同体的である。
いわばドラえもんは、町内の世話やきおばさん的母性なのである。この母性を拡張すると、観音様や土俗神の諸構成型万能信仰が出てきて、そこからみると「ドラえもん」は、SF民話なのではないかと思うほど古いのだ。ひょっとしたら、この土俗神的要素が、彼を汎東アジア的たらしめているのかもしれない。
「ドラえもん」の劇的要素は、手塚治虫が戦後マンガに与えた未来概念=SF的設定設定からやってきている。だが「ドラえもん」の未来は、手塚のように現前したりせず、いつまでも彼岸にある。
どこでもドアやタイムマシンやタケコプターといった、この作品の魅力の核をなす夢は、いつも未来からやってくるが、まるで隠れ里や龍宮からの贈物のように偶然的で恒常性がない。戦後マンガが開発してきたさまざまな劇性を、あえて説話的な安定したわかりやすさの定型に昇華抑制したこと、これが「ドラえもん」の表現の核なのではないかと思う。


採集栽培 趣味の野草】 前田曙山 ★★★★☆ 大正7年4月15日発行。去年の青年センターの古本市で掘り出した、というか、稲田さんがMorris.向きではないかと、取っておいてくれたもの。初見は、挿し絵もそれほど巧緻ではないし、まあ、300円なら買ってもいいか、くらいだったのだが、どうして、どうして、これは名著だった。すでにしてMorris.の愛蔵本の一冊になっている。30ページほどの概論の後、四季別に120種余りの草花を解説紹介しているのだが、何と言ってもその文章が素晴らしい。引用詩、歌、句も多く、解説も懇切だし、野草歳時記としての一面も持っているが、すでに「園芸文庫」14巻を出したと言う著者だけに、その道の造詣深く、採集、栽培、庭、盆栽での按配など、実用的にもしっかりしたものでもあるらしい。
どんな文章か、冒頭の数行を引く。

極東日出る處、二十四番の風枝を鳴さず、秋津島根の山野は、緑の衣に紅黄紫白の瓔珞を纏ひ華曼を繋け、自然の恵みは五風十雨の序を違へずして、沃野千里、北は樺太の亜寒帯より、南は台湾の亜熱帯に到るまで、地あれば必ず蒼水あり、往く所として百卉の奄然せざるなきは、我日東帝国の誇りにして、予等国民の為には、天恵の福音で有る。之を大陸的の赭山禿峯の間に齷齪たる国民に比する時は、人類としての生活上の慰安は、頗ぶる極東にのみ厚い感じがする。曾て秦の徐福が、蓬莱に不老不死の薬を求めると称して、多くの童男、童女を率ゐ、東海の波に泛んで去つたと言ふ。其落ち付いた先は、果して我日本で有つたか、或は海若に呪はれて、魚腹に葬り去られたかは知らぬが、徐福の漂着の遺跡といふものは、各地の口碑に残つて居る。其結果は兎も角徐福が若し我邦を蓬莱神仙の国と想像したとすれば、其胸奥の琴線に触れたのは、青螺夢の如き古蒼千年の色、夫が天地の楽土といふ響きを伝へたに違ひない。

何だ、国粋主義者の美文、雅文じゃないかと思われるかもしれないが、そうでないことは本書を読み進めるとだんだんに分かってくる。引用部分は時代が書かせたものであるが、決して時代に阿ってはいない。野草そのものに筆が流れると以下のごとく、たちまちにして嫋嫋たる描写となる。

試みに思へ。春の野辺には菫、蒲公英、蓮華草、或ひは桜草の如き可憐なる花咲き、樹々の新嫩は匂ひ始め、柳絮夢を載せて飛ぶ。夏は日天に冲して、烈々燬かんとするが如くなれども、翠緑濃かに伸びて、欝葱滴らんとし、丈高き草の燃ゆるが如き色は、直に眼底を射るけれども、夕暮れともなれば、行水の潦に夕顔の姿を宿し、烏瓜に花の仄々と白きに晩涼溢るるが如きを覚える。秋深くして金風肌に滲み、錦葉酔を吹いて紅なる時、野菊の薫、萩尾花の囁き、葦の共摺に寂しさを味ふかと思へば、満目荒涼たる冬に入りて、日溜の茶梅に花虻のすがるる哀れさ、南天燭の実に鳥の啼くも、一入寂寞の感を催ふさせる。

しかし、Morris.がしびれたのは、概論ではなく、個々の野草への率直にして真摯な愛情と、80年前の作なのに、現在でも通用するナチュラリズムの発露が見られることだ。
オオイヌノフグリの名称に、本気で憤ったり、国産睡蓮に肩入れしたり、菊の紋章と日の丸に関しての故事付けをむきになって否定するなど、邪気愛すべしところもある。
A5版青い布装ハードカバーで随分草臥れているし、本文用紙もわら半紙に近い上に相当に黄ばんで、強く掴むと簡単に裂けてしまいそうなほどだ。見かけよりはページ数は多く(376p)、非常に読み応えがあった。実はMorris.は本書を一年がかりで読み了えた。一辺に読むのが勿体無いこともあって、モリス亭高架の常備本としていたのだった(^。^) 本書は晴れて一年ぶりに娑婆に復帰したわけだが、匂いはついてないどころか、ページから、沈香のような香りが立ち上ってくるのはどうしたわけだろう。


在日キムチにおける誤解 食と難民をつなぐ関係】田村研平 ★★★★ 88年4月にこんな本が出ていたなんて!! というのが読み始めからの驚きだった。まさにMorris.の最初の韓国旅行直後の発行だ。その前に出されて話題にもなった、関川夏央の「ソウルの練習問題」で、韓国像を形作ったMorris.が、もし、本書をリアルタイムに読んでいたとしたら、その後の韓国文化との関わり合いにある程度大きな変化をもたらしたかもしれない。その前に、体質が似ていることに驚いた。辛いものを食べるとやたら汗かきのMorris.で、その癖辛いもの大好きと言う矛盾??をいつも感じてるのだが、本著者も

私は平均的日本人よりも食べ物で汗をかく割合が多い。暑がりではないし、汗かきでもない。刺激性のスパイスや唐辛子をすこし過分にとりすぎると人一倍あせをかく。代謝機能が活性化しm、発汗を促すのだろう。しかし、スパイシーな食べ物は大好物だ。あとのさわやかさが好きだ。だから汗をかくのは体質だと思ってあきらめている。

以上を読んで、Morris.はすっかり著者に感情移入してしまったよ。後の食事の体験も、そんなわけでつい、追体験したような気がして、実際より評価が甘くなってるきらいがあるかもしれない。
結論として、韓国の辛いキムチは19世紀以降の新しい食物だと結論づけてるし、トンチミや水キムチに重点置いてる部分は、全面賛成とはいかないが、書かれた年代と、体当たり的取材ぶり(アジュマに頼んで本気でキムチ作りやったり、密造酒飲みに行ったり)には共感を持った。


【抱腹絶倒  パソコンオタクになる方法】國立實 ★★★☆☆ これはタイトルに偽りあり、というか、誤解を招くタイトルだね。MS-DOS時代からパソコンと格闘してきた著者の、実践的パソコン指南というわけで、パソコンに関してはそれほど詳しくないだけに、逆にMorris.には参考になることが多かった。本当のパソコンマニアとか、SE、プログラマーなら、こんなこといまさら言う必要も無い、と思うだろうけど、Morris.みたいにパソコンとのつきあいは結構長いわりに、いつまでたっても初心者にとっては、いまさらながら役に立つことがいっぱいあった。たとえば、バックアップのこと。バックアップは大事だと言うことは、誰もが言うし、その必要性はMorris.も認めてはいるのだが、一向に習慣にはなっていない(^_^;)
本書には、そのバックアップすべきファイルの種類と、その方法が具体的に書いてある。

ックアップが大切だとわかっていても、どんなデータをバックアップするのかわからないかもしれないので、重要度の高い順に挙げてみる。
1.作成したデータ−−とにかくこれが一番重要である。
2.各種ソフトの住所録、自作したソフトのテンプレート−−これも作成したデータであるが、ソフトによって保存場所が違う。
3.日本語変換の辞書−−長い時間をかけて登録された自分用の辞書である。
4.メールソフト、ファックスソフトなどの保存ファイル−−過去に自分が送ったもの、人から送られたものが保存されているファイル。
5.ウィンドウズのレジストリファイル−−ウィンドウズの動作がおかしくなった時の大半は、このファイルに原因がある。トラブルが起きる前に保存しておいたファイルを現在のものに上書きすることで、解決できることが多いので、バックアップしておくと安心である。
6.ハードディスクのルートディレクトリ、ウィンドウズフォルダ、システムフォルダのファイル−−ウィンドウズシステムの重要なファイル。

この後にバックアップ用のバッチファイル(懐かしい! けど出来ない(;_;))の説明やら、テキストファイルの重要性。住所録などのCSV保存、OCRで、記事スクラップ方、インターネットのオフライン活用、等々、久々に役にたつパソコン本読んだような気になった。この本読んでビデオキャプチャーボード買いに行ったくらいだもんね。(でも買ったのは静止画キャプチャー機器だったけど)


草木虫魚録】 高田宏 ★★★☆☆☆ 10人の作家、研究家、学者の自然観を、その著作からピックアップして、著者のコメントを付したものである。読書ノートじゃないか、と、言えば、その通りなのだが、そこはそれ、あの「エナジー叢書」の名編集者としてならした著者だけに、引用の的確さと、意を尽くしたコメントの協奏によって、新たな世界を立ち上げている。取り上げられた10人を目次で紹介する。・島崎藤村と山国・南方熊楠と鎮守の森・ユゴーと都市文明・タゴールと樹木・石川啄木と山・レイチェル・カーソンと海・ソローと住居・若山牧水と山旅・国木田独歩と山林・トルストイと田園生活。国も時代も違うが、共通しているのが、自然への全人的没入、思い入れということになろうか。
著者自身がここ10数年、山と自然に入れ込んでいるらしいので、彼らの自然への敬愛へ感情移入しやすくなっているのだろう。熊楠の実践的環境保護活動、ユゴーの「レミゼラブル」の新しい読み解き方、啄木の自然詩人という側面、ソローのいかにもアメリカ人らしい自然との対処法、独歩の詩「山林に自由存す」の新解釈、トルストイ「アンナ・カレーニナ」の草刈り場面の意味等々、興味深い考察が頻見されるが、「沈黙の春」で有名なレイチェル・カーソンの項が、Morris.には一番印象に残った。「沈黙の春」と「センスオブワンダー」はMorris.も昔読んだことがあるのだが、改めて高田宏の後について見ていくと、自分はほとんど何も読み取ってはいなかったことを教えられた。カーソンの、要を得た伝記ともなっており、海洋学者で文筆の才があり、強い意志と自然(海)への傾倒ぶりには、圧倒された。

生命は海で発生した。四十六億年前に地球が生まれ、十数億年かかって生命の発生を可能にする状況が形成されてきて、三十二億年前に藍藻類があらわれたという。細胞核も持たない単細胞生物である。当時の大気はまだ、太陽の紫外線をほぼ直接に通していたので、地上では生命は発生も存続もできなかった。遺伝子が紫外線で破壊されるからだ。だから生命は、水深十メートル程度の水中で発生しただろうと考えられている。十メートルの水があれば紫外線がさえぎられ生命の安全が保たれ、なおかつ光合成を可能にするだけの可視光線は入ってくる。
そういう大筋はほぼ分かっている。だが、生命の発生に必要な物質がそろった地球上で、そこからどのようにして生命が発生したのかはなかなか分からない。そして、それ以上に、なぜ生命が発生したのか、生命の目的はいったい何であるのか、といいう謎は解けない。カーソンはそういう生命の神秘を、生命発生の場である海をみつめながら、いつも深く実感していた人だっただろう。

海辺のなかでもカーソンがとりわけ愛したのが、潮溜りである。満潮の時間は波の下になっていて、潮が引くと岩のくぼみや割れ目にのこされる小さな水世界だ。カーソンは潮溜りを「小型の海」と呼んで、その小世界を飽きることなく覗き込んでいた。「潮溜りは、その淵の中に神秘な世界を抱いている。そこでは、海のあらゆる美しさが微妙に示唆され、縮図を描いている。」緑色の海藻が一面に立っている潮溜りを覗いてみると、「潮溜りはその岩と水を植物の現実を超越し、別の世界の幻影を作り出している」こともある。そこに見えているのは、「林が散在する丘や谷の楽しい風景」であったりする。

石牟礼道子の『苦海浄土』には、かつての不知火海の美しさとそこに生きた人びとの深いよろこびが描かれ、汚され冒された海と人間のうめきが記されている。レイチェル・カーソンが、生涯の最後には、海の美しさと神秘とよろこびを措いて、海を含めた地球の環境汚染への警告を語らなければならなくなった現実が、地球上いたるところに見えている。


TEA 茶の本】クニエダ ヤスエ ★★★100ページしかない本の中に、紅茶、日本茶、中国茶、ハーブティとお茶全般をとりあげてる上に半分は写真なので、前に読んだ類書と重複する部分も多く、読んだというより眺めたみたいなもんだが、このところ紅茶にもはまってるので、とりあえず借りてしまう。日本茶の入れ方の項で、水は、前日の夜から汲み置きしておいた水を使うと強調している。ちょうど紅茶と反對なのが面白い。こんな本見てると、早くティーポット買わなくてはという気になる。


英国紅茶への招待】出口保夫 ★★★著者は早稲田の英文学教授で、英国紅茶同好会会長という肩書きがわらわせるが、類書を数冊だしているので、とりあえず、紅茶フリークなのは間違いないだろう。イラスト担当の出口雄大は、中野さんの賢治本2冊のイラストの人だ。本書の作者と同姓で、よくコンビ組んでるから、親子かもしれない。
紅茶メーカー個々の歴史や特徴が書いてあって、これはなかなか役に立ちそうだ。ダイジェストしとこう。

・トワイニング−−18世紀初頭トマス・トワイニングは、紅茶税(はじめ12.5%が、100%になっていた)の廃止運動を行い当初の12.5%にまで戻すことに姓項。19世紀には大飛躍を遂げ、現在に至っている。「イングリッシュ・ブレックファースト(赤罐)」は、ミルクティに最も適している。オリジナルブレンド「クイーンマリー」は、アフタヌーンティではもっとも良い。
・フォートナム・メイソン−−18世紀のアン女王の従僕であった、ウィリアム・フォートナムと、ヒュー・メイソンの創始になる。はじめ二人は雑歌店を開いた。同社が紅茶を本格的に扱い出したのは、ウイリアムの息子チャールズ・フォートナムの時代からで、コーヒーハウスを基盤に現在の地位を築いた。「ロイアルプレンドティ」は英国紅茶最高級茶とも言われるが、高すぎる。
・メルローズ−−スコットランド紅茶の名門、ビクトリア女王時代に王室御用達となる。19世紀半ばに名テイスター、ジョン・マクミランを擁して名声を高めた。
・ブルックボンド−−世界一の取り扱い量を誇る。創業者アーサー・ブルックで、マンチェスター、リバプールなど地方都市で企業の基礎を固め、庶民の嗜好をいちはやく掴んで商品化した。日常的に飲みやすい紅茶が多く、「クィクブルーエキストラ」というティーバッグは一般的。
・リプトン−−リプトンの青罐(セイロン茶)といえば戦前から紅茶の代表として親しまれている。
・リッジウエイ−−[H・M・B(Her Majersty brend)」は有名。だが高すぎる。
・ジャクソン−−アールグレイっを最初にブレンドして売り出したメーカー
・ハロッズ--ナンバー14は癖が無くて飲みやすい


手塚治虫の昆虫博覧会】解説・小林準治 ★★★★ 解説の小林は虫プロのアニメスタッフで、日本昆虫学会の幹事もやってるだけに、生物学的にもしっかりした本に出来上がっている。手塚の漫画総作品700(これも凄い!!)中、180の作品に昆虫が登場するそうだ。本書はその中の数編を掲載した上で、昆虫学上から解説を施し、生前の手塚との交流をコラムで紹介するなど、手塚作品を昆虫という切り口で再構成して、それなりに成功を収めているようだ。「治虫」というペンネームも「オサムシ」に由来することと合わせて、手塚のムシ好きは有名だが、中学3年に印画紙の裏に緻密に描きこまれた、昆虫図譜は、あまりに素晴らしすぎて、最初見たときは、中学生時代の作とは、どうしても信じられなかったほどだ。これは「手塚治虫昆虫図鑑」として、小林の手によってまとめられている。
本書には1ダースあまりの作品が掲載されて、3分の2ほどが初見だったので、それだけで楽しめた。作品形態、画風、読者対象、昆虫との関わり方、製作年代もヴァラエティに富んでて、手塚の多面性を存分に味わうことも出来る。
蜜蜂の女の子を主人公にした、幼年向きオールカラーの「びいこちゃん」(絵物語と漫画の2作)は、ディズニーばりの流麗なアニメタッチに、溜息を禁じ得なかったし、初期の手塚作品独得の、アンファン・エロチシズム(手塚作品は後期の成年漫画の成人女性より、初期の幼女、少女の方が格段にエロチックだというのがMorris.の持論)も、ほのかに垣間見えて大いに満足した。
いまさらながら手塚のマニアックさと「巨人」ぶりを再確認させられてしまった。


知の編集術】松岡正剛 ★★★☆☆ 以前出した「知の編集工学」を新書にリライトしたもので、内容的には前書と大して変わらないが、練習問題(編集稽古)がついて、分かりやすく、実践的になっている。編集というものを、雑誌や映画や音楽作品の編集だけにとどめず、広く、創作全般、さらには人間の意志行動すべてに波及させるものとして捉える(あるいは、全ての行為、事象の中に編集を認める)というのが、著者のスタンスで、これにはMorris.もかなり影響を受けているかもしれない。
雑誌「遊」の頃から著者には注目していたのだが、特に彼の監修した「情報の歴史」(NTT出版)は、白川静の「字統」と共にMorris.の枕頭の書となっている。実際ベッドの枕の横に重ねて積んでいる。この情報の歴史が「クロノス」という名で電子構造化されて、2000年から慶応大學や東京工科大学の研究システムに導入されるという記事が目を引いた。Morris.としては、これのCDROM版を渇望してるのだが。
64項目にわたる編集技法一覧は、前書でも感動的にメモしたものだがやや抽象的網羅的だ。実際的に編集に使うための「編集十二段活用」(編集連想ステップ)と「編集八段錦」(編集のプロセス)が分かりやすいので、項目のみ引用しておく。

[編集十二段活用]
1.注意のカーソルを対象にむける。
2.注意の対象およびその周辺に少しずつ情報が読みこまれていく。
3.同義的連想が始まって、シソーラス性が豊かになっていく。
4だんだん情報の地(情報分母)と図(情報分子)が分離できていく。
5.さらに階層化がおころ、情報の周辺をふくむ全体像が立体化してくる。
6.さまざまな情報がネットワーク化され、リンキングをおこす。
7.デフォールト(欠番構造)やスロット(空欄)が見え隠れする。
8.それがハイパーリンク状態になったところで、そこに筋道を読む。
9.筋道にあたるレパートリー(情報見本帳)を検索する。
10.カテゴリーが凝集し、ステレオタイプ(典型性--特定の何かや誰かに代表されるモード)やプロトタイプ(類型性--一般化できる概念としてのモード)が出入りする。
11.必要な情報のレリバンス(妥当性)を求める。
12.そのほかいろいろの編集を加える。

[編集八段錦]
1.区別をする(distinction)---情報単位の発生
2.相互に指し示す(indication)---情報の比較検討
3.方向をおこす(direction)---情報的自他の系列化
4.構えをとる(posture)---解釈過程の呼び出し
5.見当をつける(conjecture)---意味単位のネットワーク化
6.適当と妥当(relevance)---編集的対称性の発見
7.含意を導入する(metaphor)---対称性の動揺と新しい文脈の獲得
8.語り手を突出させる(evocate)---自己編集性の発動へ
 


キッチン道具100図鑑】中村壽美子 ★★★ 著者は日本テレビで放映されていた「キューピー3分クッキング」のプロデューサーで、番組での経験を活かして、料理の小道具の便利さや使い勝手を紹介しているもの。10年以上前のものなので、最新の道具はないし、やたら卵用の道具が出てくるなど、古いところもあるが、今でも役立ちそうなこともいくらか見つかった。ヒントなどを箇条書きで。

・フライパンで油料理するとき、材料の表面の蛋白質が固まって、材料の方から自然に動くようになるまでは、いじっては駄目。
・まな板は、使う前に水にどぼんとくぐらせる。
・庖丁で何か一つ材料を切る毎に、濡れ布巾で拭く習慣を。
・同形の食器を3,4枚拭くには、重ねて布巾に包み,1枚目の表と4枚目の裏(底)を同時に拭き、次に1枚目の食器を4枚目の後へ、移動、順々に拭いて移動を4回繰り替えす。
・尾頭付きの魚なら、左に頭を、腹を手前です。切り身は腹を手前に皮は奥へ、肉の厚みがある方を左に盛り付ける。
・焼きものは、盛り付けたときに表になる方から強めで焼く。焦げ目が大事なムニエル、ソテー、ステーキは一度裏返してしまうと、二度目はじかんが掛かるので表に焦げ目が付くまでは絶対に裏返さないこと。
・一人用、少量の粉ふるいには、古い紅茶こしが便利。ただし、安い一重の目の大きなものが良い。
・刺身庖丁は、刃渡りの長さを全部使って切るのがコツです。このとき庖丁を往復させるのは嚴禁です。
・酢飯の基本分量は、米(1カップ)酢(大さじ1)砂糖(大さじ1/2)塩(小匙1/2弱)。ごはんは炊けたら蒸らさずすぐ飯台にあけ、広げ、調味料を均一にかけてからご飯を山のように寄せて、2,3分蒸らす。そのあとすぐにうちわで一気に人肌まで冷ます。飯台がご飯の水分を取るので、ボールでの代用は×。

【タンヒョン】 キム スヒ /【断弦】 金 秀姫

イミ クノジョボリン /すでに終ってしまった
ミリョンハナパラゴ /未練一つ願って
チョンチュニ チナボリン /青春は過ぎ去った
ムジョンハン シガン ムジョンハン イルム /無情な時間無情な名目
ウリ アギョネ コリルル /私たちの悪縁の輪を
イッチュメソ クノボリジャ /ここらあたりで断ち切ろう
セウォレ ウルタリルル コンノガミョンソ /歳月の垣根を乗り越えながら
ノド カスムル チルコダ /あなたの胸も砕けるだろう


日本焼肉物語】宮塚利雄 ★★★★本書もセンターの古本市で見つけた。最初手にとった時は興味本位の焼肉蘊蓄h本かと思ったのだが、さにあらず、歴史的資料の紹介、関係者、店舗、解体の現場、メーカーへの取材、日韓朝と幅広い現地ルポありと、実に内容の濃い本だった。筆者は朝鮮経済史、パチンコ産業論専攻で、著作に「北朝鮮観光」「アリランの誕生」「パチンコ学講座」などがあり、前2冊は、Morris.は読んだ覚えがある。
「焼肉」と「焼肉屋」の誕生は、南北間の政治的対立の妥協の産物であるという指摘一つでも、目からうろこである。NHKのハングル講座開設までのごたごたに似ているなあ。しかし、本書の真骨頂は著者が心から内臟料理を楽しみ、味わいながら、手抜きせずに編輯(編集じゃなく)しているところだろう。頻繁に横道に逸れるのだが、その一つ一つがまたそれなりに面白く、最終的に本論に関連するあたりの手腕もなかなかのものだし、内臟そのものの「腑分け」は、Morris.がいつも知りたがっていたことだけに、ありがたかった。
牛の内臟の一覧表から、部位と通称(括弧内)のみを引用しておく。

頭肉(カシラニク、トウニク)
脳(ブレンズ)
舌(タン)
食道(ノドスジ、ネリガエシ)
気管(フエガラミ、ネリガエシ)
心臓(ハツ、ココロ)
肝臓(レバー、キモ)
腎臓(マメ)
横隔膜(ハラミ、サガリ)
乳房(チチカブ)
胸腺(ノドシビレ)
第一胃(ガツ、ミノ)
第二胃(ハチノス)
第三胃(ギアラ、アカセンマイ)
第四胃(センマイ)
小腸(ヒモ、ホソ)
大腸(シマチョウ)
盲腸(モウチョウ)
直腸(テッポウ)
脾臓(タチギモ、チレ)
子宮(コブクロ)
脊髄(セキズイ)
尾(テール)
アキレス腱(アキレス)
胃腸周辺脂肪(ハラアブラ)

本書の唯一の欠点はレイアウトだろう。目次を横書きにしてるのは、見にくいことこの上ないし、ノンブルのフォントと隅にある金網模様は×。


新野菜料理】高橋敦子 島崎とみ子 ★★★☆☆ この本1ヶ月以上借りっぱなしだ(ちゃんと更新はしてる)。西洋野菜63種と中国野菜26種の計89種の解説とその応用料理のレシピ集。そこそこ知って使ってるもの、名前も知らない物、どうみても使う気になれないものなど、色んな野菜が紹介されていて、Morris.は料理の本より、植物図鑑的に楽しんだ。素材別にレシピをまとめてあるのは見やすい。今までMorris.が使ったこと無くて、今後使って見たいと思った野菜を、いくつか引用しておく。
・エンダイブ−葉っぱがちぢれたチシャで、サラダにはもちろん、おひたしやバター煮に使う。
・ズッキーニ−胡瓜に似たかぼちゃで、これは韓国料理でお馴染みのホバクであるが、日本ではやや高い気がして、これまで買わずにいた。ズッキーニを長くスライスして、鶏挽き肉詰めて蒸すレシピが載っていて、これは一度挑戦してみたい。他にカレーや挟み揚げにも使える。
・チコリ−和名きくにがな。この散り蓮華のような葉に、握り寿司を盛るやつは、見栄えがよい。
・ビーツ-赤株。これはもう、ロシア料理ボルシチ作る時には必須。
・モロヘイヤー一時ブームにまでなったのに、Morris.はまだ使ったことが無い。中華かき玉汁、イカとの辛し和え、てんぷらなど用途もひろい。
・キンサイ(芹菜 チヌツァイ)−セロリの仲間らしい。ささみ、きのこと炒めたり、和え物にする。
・トウミャオ(豆苗)−えんどう豆の若い茎(つるさき)と葉。豆腐や白身魚、海老、卵料理と相性よし。
・にがうりー沖縄のゴーヤである。Morris.は、生誕地(佐賀県)で暮らした頃、ときどきこれを食べたことがある(庭先に植えてあった?)名前通り苦みがあるので美味いとは思わなかったが、懐かしい。これはゴーヤチャンプルというのが定番だろう。


世界一の日常食】戸田杏子 ★★★☆ Morris.が先般来作っていたタイ風料理のアンチョコがこの本だった。じつは10年近く前に一度読んだことがある。初版は86年だから、15年近く前の本だが、現在でも、この本が一番分かりやすいような気がする。助かるのは、日本では簡単に手に入らない材料は、代用品でまにあわせてるところで、にんじんのソムタムなどは、たしかに、青いパパイヤなんてのを探しまわるより實際的だ。前半はタイ料理を通して、タイ国と文化にいかに関わってきたかの記録としても読めるし、15種のレシピも簡単でわかりやすい(Morris.が作れるくらいだから)。ただ、最近では当時よりも現地の材料が手に入りやすくなってるし、もう少し本格的なレシピにも挑戦してみたくなる。


VaVa Voom ヌーディ・キューティの'50s〜'60s】 スティーヴ・サリヴァン 岩館葉子訳 ★★☆☆マリリン・モンロー、プリジット・バルドー、ベティ・ペイジ、リリ・セイント・シアという4人の、セクシー女優、ピンナップガール、ストリッパーへ(幾つかが重複している)の真摯なオマージュと、クロニクルである。モンロー、バルドーは有名だが、後の二人のうち、ベティ・ページに関心があって、期待して借りて来たのだが、いくらかの知識は得られたものの、何となく隔靴掻痒に終ってしまった。ベティ・ページは、50年代ピンナップガール中でも一番人気で、ボンデージの女王でもあり、明るい太陽の下での、陽気な笑顔も披露するという、不思議な存在だった。本書には彼女の詳細な掲載誌リストや、フィルモグラフィが付されていて、その労力には脱帽するが、いかんせん、リストだけでは、満足できるわけが無い。引用写真もあるのだが、これが今一なのだ。モンローの写真も同様だが、こちらは、映画作品を比較的容易に楽しめるし、写真集も多い。ベティの写真集といえば、Taschenから格安で出てたような記憶があるので、今度、丸善かジュンク堂で探してみよう。記事としてはモンロー篇が、やはり一番充実していた。


虫屋の来た道】 江原昭三 ★★★☆☆ 「虫屋」というのは、昆虫採集愛好家の俗称で、昆虫少年だったMorris.は、結局虫屋にはなれなかったわけだが、北海道生まれの筆者は、北大動物学科に入り、ダニの専門家になってしまった。1928年生まれだから、太平洋戦争中に学生時代を送り、戦争の最中にも蝶やカミキリ虫の採集に熱中してる姿には微笑みを禁じ得なかった。ダニ学会関連でアメリカや中国に行ったときの紀行などは、まるで中学生の作文みたいだし、知り合った学者の紹介や、自分が新発見したダニの数を誇るところなど、普通なら嫌味になるところが、ちっとも嫌味でなく、共感を持って読めたのも筆者の人柄なんだろうなあ。虫屋の習慣として蝶や甲虫を、一頭、二頭と数えるのだが、ダニまでもその数え方をするのが、何か面白かった。「この部屋には5万頭のダニが棲息している」なんて使うと凄いインパクトがあるね(^○^)


台所ともだち】村上昭子 ★★★★ このところ料理関係の本に淫してるMorris.だが、本書はその中でもひさびさの大ヒットだった。昭和2年生まれの筆者だが、内容は古臭くないし、誰かが言ってた布巾かけの廃止も、ガスグリルには水を入れずに魚を焼くなどということも、とっくに本書に書かれていた。
有用な知識満載だが、ここでは、鍋でご飯を炊く方法を引用しておく。

最初は弱火で徐々に火を強め、カタカタカタと音を立てて沸騰してきたら、ふきこぼれない程度に火を弱めます。そして蒸気が逃げないようにお皿を2枚ほどのせて重石をし、弱火にして10〜12分炊きます。火を止めるときは、耳をお鍋のそばに持っていき、ピシピシピシという音がするか確かめます。この音は、鍋の中の水がなくなったという合図なのです。音が聞こえたら、火を強くして1,2,3,4、と10まで数えて火を止めます。火加減によってはお焦げができたりすることもありますから、鼻もきかせて、焦げたにおいがしないか氣をつけてください。


【tea  茶葉のことば】カール・ベッキー+サラ・スレイヴン 鈴木るみこ訳 ★★★☆学生時代、紅茶に凝っていたことがある。その後、珈琲党になり、酒に溺れている現在でも、何かに付けて珈琲は良く飲んでた。それが先月くらいに、急にまた紅茶を飲むようになったのが、先月買ったトワイニングのアールグレイの大缶がすでに半分近く減ってることからも、わかる。本書は紅茶だけでなく、緑茶、烏龍茶などお茶全般にわたってその歴史、効能、美味しい入れ方世界各国のお茶事情などをコラム風に紹介したものだが、ほば半分を占めるカラー写真が贅沢で詩的で、お茶好きのための瀟洒な絵本とも言える。そのくせ、勘所は外さず、実に簡潔に要諦を記している。たとえば水の選び方一つとっても、陸羽の「茶経」や蘇東坡の「汲江煎茶」を引用したり、ティーコージー(保温用のカバー)の有用性を解いたり、遊びと実用両面からのアプローチが適度に配されて心憎い。お茶は泉の水でいれるのが最高だとのことだが、そうもいかない一般人のための水の用い方を

基本は、純度と鮮度のできるだけ高い水を用意すること。スーパーの棚に長居していたミネラルウォーターは、自身の分裂した風味をもってしまっているためにお茶には向きません。ベストウォーターは、おそらく蛇口から勢いよく汲み出した水道水を浄水フィルターにかけたもの。水道管のなかでだらけていた水にフレッシュな空気を含めるため、30秒ほど勢いよく出しっぱなしにしたものを使ってください。
純度についていえば、いわゆる[硬水]が含むカルシウム、マグネシウム、鉄分はお茶の香りと風味を侵食し、さらには水色を曇らせ、表面に目に見えない膜を張ることもあります。うるさい紅茶党が、かならず[軟水]の新鮮な水でしか紅茶を入れず、しかもケトルが沸騰しはじめるやいなや、脱兎の如く火を止めにいくのには、れっきとした理由があるのです。

市販のミネラルウォーターより、出しっぱなしにした水道水がましだ、という指摘には眼から鱗が落ちる思いがした。もう一つ、御茶請けの不思議なレシピを一つ。

茉莉花茶卵−jasmine tea eggs
時間はかかりますが、レシピはごくごくシンプル。できあがりはほっぺたの落ちるおいしさです。
1.ゆでたまご6個の殻を叩いて、ひびを入れておく。水3カップ、ジャスミンティーの茶葉大さじ3、しょうゆ大さじ2、タンジェリンの皮(みかんでもOK、わたを除いて乾燥させたもの)2,3切れを鍋に入れて強火にかける。沸騰したら火を弱め、ひびを入れたたまごを置いて蓋を閉め、3時間ほど静かに煮込む
2.鍋を火から下ろし、室温で8時間から一晩おく。たまごを取り出し、1時間ほど冷蔵庫で冷やす。サーブする直前に皮をむき、スライスする。


くれなゐ】 前川佐美雄 ★★★★歌集「くれなゐ」
先日日記にも書いたように、センターの古本市で掘り出した一冊だ。買った当日夜中まで起きて読み通したのだが、それからも時々ページをめくっては味読している。昭和14年といえば第二次大戦勃発の年で、日本もいよいよ泥沼に向かう時期だが、本書にはそう言った時局の雰囲気は伺えない。ぺらぺらのフランス装で、どんぐりの一枝と飾り罫が、素朴にしていい感じだなとおもってたが、装丁は棟方志功とあったので、なるほどと合点した。「植物祭」「白鳳」「大和」三歌集からの抜粋とはいえ、やはり、佐美雄、戦前の歌集初版というだけで、Morris.は、嬉しくてたまらなかった。前回「植物祭」から引用したので、後の二歌集からいくらか引いておく。

・地獄あてに一通の手紙を書き送る人みながもう眼を覺ますころ
・蒼空にレンズばかりをむけながら影もうつらぬ鳥戀にけり
・棒ふつて薮椿の花を落としゐるまつたく~はどこにもをらぬ(「白鳳」)
・春といひ秋といふ季節ことほげばつかひはたしたる生命おもほゆ
・かぎりなきこの世の夢やまぼろしもわがものとして生きゆかしめよ
・春がすみいよよ濃くなる眞晝間のなにも見えねば大和と思へ
・春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける
・あかあかと硝子戸照らす夕べなり鋭きものはいのちあぶなし(「大和」)


【評伝 活字と エリック・ギル】河野三男訳、著 ★★★☆☆エリック・ギルという名前さえ知らなかった。20世紀前半の石彫家、タイポグラファーだ。ギル自身の著作「AN ESSAY ON TYPGRAPHY(1931)」の全訳と解説。そしてギルが残した3種類のフォント(パペチュア、ギル・サン、ジョアンナ)製作の成立過程とその見本刷りという構成になっていて、普通の意味の評伝とはかなり形態を異にしている。
それはさておき、このギルと言う人も、かなりにエキセントリックな性格の持ち主らしく、常人にはついていけない部分も多く(近親相姦など)、一筋縄ではいかない人物のようだが、確かに彼の作り上げたフォントは素晴らしい。それよりもMorris.は西洋アルファベットの、完成度の高さと、究極といえる美しさに、ため息つきっぱなしだった。
ギルはウィリアム・モリスとは、ほとんど対極に位置するタイポグラファーのようだ。
ギルならびに、河野の言説にMorris.は大いに共感したり、反撥したり、総体として非常に刺激を受けた。
たとえばフランクリンの有名な格言「時は金なり」を言挙げして、ギルは

さらにわたしにとっては「時は金なり」という格言はなんとも理解に苦しむものである。機械の改良によって失業した何百万という同胞にとっては、時間は余りすぎるほどあるが、一文無しであり、この格言がまったく理屈にあわないのがわかる。

と、やや感情的に反論しているが、河野はこれを敷衍して次のようにまとめる。

産業主義推進のアジテーターだったフランクリンにたいして、ギルはここでも本気だったと考えられなくもありません。/ちなみにフランクリンは(中略)功利的な知恵を働かせ、勤勉に働くことを盛んに奨励した、今日でいうコピーライターのような存在でした。
「勤勉であることは善である」と、空気や重力のように感じている現代の無自覚な傾向は、「時は金なり」というコピーと結託して、産業社会下の教育制度をおおっていたと思います。現代人のストレスの源は、この「イデオロギー」の呪縛にあるのかもしれません。
組織への貢献とか、社会への奉仕という、他者からの承認願望だけに労働の満足をえようとする瞬間から、効率や機能先労働環境に押し込まれます。その行動は貢献度という、換算自由な数に置換され、評価処置がくだされる契機をまねいています。その評価は一見妥当性があるようでいて、じつは基準の曖昧な、主観性のきわめてつよい恣意的なものであり、人間を画一的な側面からしか眺めない、数値管理への道を許すものです。

この河野の指摘には、長い事漠然と感じていたMorris.の疑義(「時は金」という格言はうさん臭い)に明解な解答を与えてくれたような気がした。時は金でなく、時は時であって、だからこそ意義があるんじゃないかと思っていたが、はっきり「時は金」という格言は間違っていると、確信できた。
ギルの本が出た時代はイギリスで産業革命が達成されて、職人が機械による大量生産システムによって、淘汰されつつあった時期で、ギルはそういう時代にあっても彫刻家、タイポグラファーの職人魂を持ち続けた。ウィリアム・モリスがそうであったように、ギルも独自のユートピアを夢見ていたふしがある。
ギルのフォントはどれも完成度が高く、素晴らしいが、手作りのテイストを感じさせるジョアンナ書体が気に入ってる。前に買ったCDROMのファント集で、これに似たものを探したが、当然ながら微妙にちがってるのね。この微妙な差異が、全体の雰囲気を変えてしまう。「神は細部に宿り給う」という言葉こそ、フォントの格言(^_^;)であると思う。


味覚日乘】辰巳芳子 ★★★☆ 日本家庭料理研究家中、辰巳浜子、芳子は、最強の母娘コンビだろう。Morris.は母辰巳浜子の「料理歳時記」は料理エッセイのバイブルとさえ評価してるのだが、本書は娘芳子版「料理歳時記」と言える。こちらはなんと言っても、写真がため息出るくらい奇麗だ。内容も、血は争えないと言えるが、やっぱり母の二番煎じに見えてしまうところは、ちょっとかわいそうでもある。でもなかなか文章は上手い。材料や料理の使いまわしを「展開」というのは、ちょっと閉口するけどね。おじや作る時、ご飯を塩水で洗ってから汁に入れるとか、里芋の皮の剥きかたとか、コツやヒントも多くあって、有用かつ読んで楽しい料理本と言う水準は軽くクリアしてる。おしまいの坊さんとの対談は、ない方が良かった。


耳部長】ナンシー関 ★★★ ナンシーお得意のTVタレント辛口コラムで、消しゴム版画似顔絵も相変わらず達者だが、彼女の作としては、やや中身が淡白だ。週刊朝日に連載したと言うのが、ネックだな、きっと。この媒体の読者をいわゆるおじさん族と見て(大きく間違ってはいないんだけど)、それに合わせて書こうとしたことで、舌鋒が鈍ったり、やや舌足らずになったきらいがある。明確に馬鹿を馬鹿呼ばわりしたり、伊代・ヒロミ夫婦を、21世紀のきんきん・ケロンパと喝破するあたり、面白い部分も多いんだけど、ナンシー関の力量はこんなもんじゃないはずだ。しかし、問題は、登場人物の半分が馴染みでなく、3分の1くらいは名前すら知らないと言う、Morris.の方にあるのかもしれない。


夢幻の宴】倉橋由美子 ★★★☆☆三宮図書館では何故か小説の棚に置いてあった。最後に2篇だけ、クロッキーのような短編があるとはいえ、これはエッセー集ということになるのだろう。Morris.は、倉橋由美子には入れ込んでた時期がある。学生時代、ゼミの教授に、日本の近代文学で一番重要と思われる作家は?という質問を受けて、躊躇無く彼女の名を出して、鼻白まれたことも、今となっては懐かしい思い出の一齣なのだが、そのくらい、当時に於てMorris.を蠱惑した作家は他にいなかったのでは無いだろうか。
その彼女も、Morris.と同じように年をとり、最近は体調も悪いらしくて、もともと寡作なのに、いよいよ書く事が面倒になり半ば「冥界に転居している」らしい彼女が、、それでも義理や、しがらみやその他の理由で書かされた短文をはき集めた一冊と言う事になるだろう。愛読者としては、傷ましくもあるが、とりあえず彼女の「声」が聞けると言うだけでも感無量ではある。
そんな事情もあってか、内容は読むに辛いものが多かった。しかしながら、腐っても鯛である。Morris.に真の「教養」の何たるかを教えてくれた由美子節は、あちこちに見ることができたし、貴族趣味とも言える文学全般に対する、明らかな差別主義もMorris.には心地良かった。
それにしても、彼女の紀行文のひどさは、どうした事かと思ったら、後書きにちゃんとことわりがきがあった。書評に関するコラムが面白かったので引いておく。タイトルは「案外役に立つもの」だ。

世の中で役に立たないようで案外役に立つもの、その一つが書評です。(中略)
ところで書評にもいろいろなタイプのものがあって、楽しめる程度も効用も違います。
一はガイダンス的書評。ごく短いものが多く、人で言えば名刺を眺める位の効用はあります。二は旨いもの談義的書評。評者が「本当に旨かった」と感じ入って美味礼賛の文章を書いたもので、その文章次第では、こちらも食欲をそそられることもあります。三は評論的書評。例えば文芸評論家が「大作」、「問題作」などを取り上げて長々と論じたもの。正直なところ、一番退屈する書評です。書評と言うより評者の演説か自己宣伝になっていることが多いからです。四は鑑定書的批評、または商品テスト報告的書評。その結果はミシュラン風に星がいくつかついたりつかなかったり、あるいはこの本はお買い得、いや「お読み得」、読まなければ損、つまり必読、買って読んだらお金と時間の損、といったことを「権威をもって」知らせてくれたりする書評です。残念ながらこんな役にたつ書評は今のところ存在しません。しかし五に、欠陥商品指摘型書評と言うのがあります。本物や一級品の鑑定はむずかしくても、欠陥の指摘は易しいもので、ある種の消費者の正義感を満足させてくれます。また本を書く人間にとっては、同業者の欠陥商品がこきおろされているのを見ることは無上の快感かもしれません。変わり種としてテロ的ゲリラ的匿名書評というのもありますが、書く方も読む方もいささか品性下劣に陥る恐れがあります。お義理書評も同様。
普通、書評は以上のような成分を適当に調合した「ブレンド書評」です。調合の妙と評者の趣味、力量が物を言います。それぞれに楽しめるものです。しかし何といっても最高級の楽しみは「架空の本」の書評を書いて自ら楽しむことでしょう。S・レムの『完全な真空』を読むと、これを早くやればよかったのにと残念に思います。

おしまいにレムが出てきて、にやりとさせられるが、Morris.がときどきこの日乘に書いてる読書控え(この文章がまさにそれ(^_^;))は、由美子さんが「こんな役に立つ書評はいまのところ存在しません」と言う4番目に、形だけは似てるんだけど、「権威」のかけらもないし、星印もあくまで、Morris.の偏見でしかないもんな。でも、それでいいんだ。


オール歌謡曲・LP歌のカーニバル】平凡附録 ★★★☆☆ このまえアリラン食堂での、さんちゃんオフにも出席してた、Aiちゃんにレス発言したとき、Morris.がつい、「Aiちゃんはどうせ太郎の嫁になるんだぜい」なんて、オヤジギャグを放って、若い連中が多いので、まるで、理解の外で、物議をかもし、あまつさえ「太郎さんて方と結婚されるんですか。淋しいなあ」などという、本気か冗談かわからない発言まで飛び出したので、ちゃんと説明しようと元歌のデータを探していたら、押入れから、昭和31年と34年の「平凡」の歌本附録2册が出てきて、両方に件の歌「愛ちゃんはお嫁に」(原俊雄作詞、村沢良介作曲、鈴木三重子唄)の歌詞が掲載されていたので、やっと、ちゃんと釈明のレス付けることができた。ついでに、この2册をぱらぱら見てるうちに、すっかり夢中になって、全部読み通してしまったよ(^_^;)
40年以上前の日本の歌謡ミュージックシーンが、一目瞭然だもんね。34年の方には「レコード界はLPブーム」というコラムがある。「レコードのヒット曲はLPから、という時代が、もうすぐそこまできているようです。」というのが、結びのせりふだ。当時のLP1枚の価格は1,000円となっているから、物価の比較で言うと、レコード,CDの値段はかなり割安になってると言えるのだろう。 「平凡」昭和31年10月号附録
しかし、Morris.が大喜びして読んだのは、当時の歌詞の世界のぶっ飛び加減だった。先の愛ちゃんの歌詞だって「出しゃばりお米に手を引かれ/愛ちゃんは太郎の嫁になる」という結構なインパクトぶりだが、この2册の小さな歌本の中には、抱腹絶倒、驚天動地な歌詞が、いやと言うほど詰め込まれていた。日本民謡や小唄風の笑わせることを目的とした歌詞でなく、作った方はそれなりに本気で作り、歌っただろうと想像される歌詞の中にこそ、逸品(^_^;)が多い。サワリだけ挙げてみると 「今日も雨か チェッ いやな雨だよ いっそ朝まで寝ちゃおかな--」(「いやな雨だよ」白根一男)、「あの娘と俺を引き離す 薄情者でかたまった こんな地球はぶっこわせ」(「俺に逆らうな」小林旭)、「別れたっていいじゃないか 泣くこたあないじゃないか あいつだって真剣に 愛してくれたんだ ああ花もしぼむさ 小鳥も死ぬのさ」(「別れたっていいじゃないか」神戸一郎)、「俺の仇名をしってるかい おとぼけさんというんだよ(「おとぼけさん」春日八郎)、「命あずけた肩掛けバンド 締めりゃ火を吹く排気孔 空のスリルとスピードだけに いどむ男のこころの中は なんであの娘もしるものか」(「高度一万米」フランク永井)---等など、いくらでも出てくるが、Morris.の選んだMVP、これだけは全部引用しておこう。

駐車禁止 井田誠一作詞 大野正雄作曲 雪村いずみ唄

1.ほろよい機嫌でクラクション 恋のアクセル無暗に踏めば
 ヘーイ! 衝突 追突 地獄の門だよ 信号確認 赤 青 きいろ
 フフン NO! PARKING

2.あたしのハートはパーキングメーター とてもぜいたくデラックス
 ヘーイ! あなたの真心情熱の 夢のルビーをちりばめて
 ぽんと入れなきゃ動かない フン デラックス お金じゃとまれぬ駐車場
 フフン NO! PARKING

(1.繰り返し)

フフン NO!PARKING NO NO NO! 駄目 止まらない
NO NO NO! PARKING NO! PARKING

残念なことに歌詞だけで楽譜は載って無いが、ぜひ大西ゆかりちゃんに歌って欲しいぞ(^○^)
 


酒肴三昧】森枝卓士 ★★★雄鶏社の「日曜日の遊び方」シリーズは、いくらか借りて読んだが、当たり外れの多いシリーズだ。本書はどちらかと言うと役に立つ方と思う。東南アジア料理から、料理に目覚めたと言うだけあって、お手軽にタイ風味を再現する方法などは今度実践してみたいし、Morris.の大好きな「檀流クッキング」の影響受けてるらしく、細かい事にこだわらず割と大雑把に作ってるところも、気に入った。ところどころにあるコラムでの蘊蓄も、嫌みになるちょっと手前で止まってるのであまり鼻につかない。ただし、フランス料理まがいの部分は×だな。もともとMorris.と仏料理は相性悪いし。とりあえず、モリス亭の酒の肴がこれで一つか二つは増えそうだ。

タイのチャプチェとも言うべき「春雨のヤム」のレシピを。
1.中華鍋で豚挽き肉を炒め、ナンプラを加える。
2.これに剥きエビを加える。
3.火を止めてからお湯で戻しておいた春雨と、キクラゲを混ぜ合わせる。
4.少々冷えて来たところで、スライスした玉葱、唐辛子、レモン汁を混ぜて、更にナンプラで味を調える。
5.皿にレタスを敷いた上に盛り付け、パクチーを添える。

ところで著者は同シリーズで「カレー三昧」「ラーメン三昧」なんてのも出してる。幾つくらいの人なんだろうと、巻末の著者紹介を見たら「1655年4月4日熊本生れ」と書いてある。17世紀の御仁だったのか(@_@)お見それしました(^○^)


夏草ヶ原】梓澤要 ★★★図書館に行くたびに、著者名「あ」の棚を覗き込むのが習慣となっている。彼女の本が無いか無いかと、期待しながら、いつもガッカリして帰って来てた。久しぶりに本書と出会い、狂喜して借りて来た。4編が収められて中篇集だが、歴史物で、それぞれ時代が違う。「夏草ヶ原」(江戸)「伊吹」(安土桃山)「斎王の耳飾り」(平安?)「聖武帝の秘事」(奈良)と時代の新しい順に並んでいる。Morris.としては「百枚の定家」みたいな長編が読みたいのだが、贅沢は言ってられない。99年7月刊で、個々の作品は「季刊歴史ピープル」に掲載されたものとある。後書きによると本書所収以外の作品もあるみたいだから、今度図書館でチェックしよう。で、もって本書の4作なんだけど、はっきり言ってちょっと期待外れだった。期待し過ぎてたのかも知れないけどね。見所はあるんだけど、どれもラストが、尻切れトンボなのだ。中でも「伊吹」は鷹の名で、これを織田信長と森蘭丸に絡めて信長の複雑な性格を描写しようという意欲は認めるのだが、お約束のようにラストは本能寺というのではあまりに芸が無い。梓澤には、他の作家にはない、心地よい歴史に対する距離感と、物語りを紡ぎ出す技術があるのに、どうも本書では男女の機微とか、老人の気遣いとか、心理描写に入れ込んだ(しかもあまり得手ではない(^_^;))ために、肝心の物語が立ち上がって来ない憾みがある。彼女の実力は、こんなもんじゃないはずだ。次作を期待して、また「あ」の棚ウォッチャーを続けるつもりだ。


星と東西民族】野尻抱影 ★★★☆☆ これもちょっと前につの笛で入手した。抱影随筆全集Tで、表紙裏に松原市立布忍中学校図書館の印が捺してあるから、学校図書館からの流出品か処分品らしい。野尻抱影と言えば、日本人で星のことを語らせたら、左に出る者はいないくらいの第一人者だ。大仏次郎の実兄でもある。文章も星への愛着に支えられて、読者を引きずり込む魅力に満ちている。Morris.は以前、彼の翻訳、初山滋挿絵の西遊記絵本を愛蔵していた。絵と文が切磋琢磨しながら見事に調和をした、いい本だった。
閑話休題、本書は随筆全集だから当然、星にまつわるエッセイが収められているのだが、目次に「朝鮮の星」とあったのに惹かれて買ったのだ。しかし、その部分はたかだか7,8ページに過ぎなかったし、それほど目を引く記事ではなかった。東西、つまり世界中からランダムに星に関する話を網羅した軽い読み物らしいから、専門書より読みやすいのは確かだ。星の中でも人気スターである(^。^)北極星、犬狼星(シリウス)、織姫、彦星、すばる、オリオンの三星などは、繰り返し主役として登場する。世界中の民族が(といっても、北半球のね)注目しているので、これらに対する命名や、伝説などの共通点や相違点を、見るだけでも、比較民族学のテーマになりそうなことが目白押しだ。特に蠍の心臓赤いアンタレスに関する話は興味津々(Morris.は蠍座の男)で、とりわけバビロニアの「蠍人」というのは、初耳で面白かった。蠍人は実は「射手座」なのだそうだ。射手座は、現在の星座図では、セントウルス(半人半馬)が蠍に向かって弓を射ようとしてる図で表されてるのだが、なんと英国博物館所蔵のネブカドネザル時代の石標に刻まれているものは半人半蠍の姿をしている。これが蠍人で、これより前の時代には、頭だけ人間で身体はすべて蠍だったらしい。さらにバビロニアの大叙事詩「ギルガメッシュ」の中にこの蠍人が登場すると言うから話しがどんどん面白くなって来る。
現世と黄泉の国の境に聳えるマシュ山で、ギルガメシュはその門を護る、蠍人夫婦に出会う。

その山の背は天の堰にひろがり、
その胸は下界アルラに届く。
蠍人の夫妻その門を護る。
怖しき相好は見るからに魂も消ぬべく、
また厳かに照り輝きて、山々を打ち砕く。
日出と日没に彼等は太陽を守護する。

一説によるとこのマシュ山はアラビア砂漠で、ここに棲息する大蠍から、この蠍人は想像されたのではないかと言う。蠍人は、この叙事詩ではさしたる役割は果たさないのだが、石に彫られた像は、何かユーモラスでもあり、神話時代の象徴として蠍が出て来るというだけで、Morris.は嬉しかった。もちろん本書には、他にも多数、興味深い話が満載されていて「星のおじいさま、抱影」の面目躍如である。


ロゴスの名はロゴス】呉智英 ★★☆☆ 「言葉(ロゴス)」は「論理(ロゴス)」と言うのがタイトルの謂れで、言葉に関する雑感を就職ジャーナルに連載したコラムで、一般社会や文筆者の日本語の乱れを憂うという名目のもとに、いわば、揚げ足取りや、警告、罵倒など、重箱の隅をほじくるの筆法で、書き散らしている。Morris.はこういうの嫌いでないので、時々借りて読むのだが、本書も取りたてて裨益するところ多からずといえども、いくらかは、役に立つこと、先の「当て字うんちく辞典」と同等だ。著者は中国文学を少しかじっているようで、漢文がらみの、誤用、誤解には威勢が良いのだが、あまり知らないと言いながら、朝鮮語に事寄せての非難の部分には、非難されるべき個所が相当数見受けられた。たとえば「ハングル語」という荒唐無稽な言葉に対して嘲笑するのはかまわないが、ある盲人の「ラジオのハングル講座に夢中になった」と言う発言に対して「ラジオでハングルが流れるというのもよくわからないし、盲人がハングルを憶えるというのもよくわからない。不可解な話である」などと噛付いている。要は、ハングルは文字(表音文字)であって、言語そのものではない、ということをいいたいのだろうが、現実にNKKの通信講座のタイトルがどうなってるのか、さらに、この名に落ち着くまでにどれだけの、争論、ごたごた、焦燥、困難等々があったか、を少しでも知っていれば、先のような発言は出来るわけもないだろうに。その他、本書の重箱の隅をほじくろうとすれば、いくらでもあらは見つかるだろうが、無駄なのでやめておく。それより、本書のおかげで、新しく知った単語と、言葉遊び歌を引いておこう。
百姓読み 漢字を偏や旁の音に引かれるなどして誤って我流に読むこと。「洗滌(せんでき)」を「せんじょう」、「装幀(そうとう)」を「そうてい」と読む類。(大辞林)
・世の中は澄むと濁るで大ちがい 福に徳あり河豚に毒あり(禿げと刷毛のやつは、よく聞くがこちらも面白い。でも、前に聞いて、忘れてたような気もする)


書に通ず】石川九楊 ★★★☆☆書とは無縁のというより、希代の悪筆であるMorris.なのに石川九楊のファンである。「書の終焉」「筆蝕の構造」「書字のススメ」など興奮して読んだ。字が下手なだけに、美しい字、力強い字、和ませる字への憧れは人一倍強い。しかし、九楊の書論は、そういったMorris.の単純な書への憧れを一撃で叩きのめして、更なる書の魅力を教えてくれた。常識を覆す視点、鋭い分析、飛躍しながら明晰な論理、さらには胸のすくような硬質の文体。すっかり参ってしまった。本書はそれら一連の著作の内容を下敷きに、中国、日本の書史をわかりやすく(しかし、目覚しく従来とは視点を違えて)紹介しながら、規範とこれからの行き先を示唆した、書の世界並びに書に関心を持つ者への啓蒙書だ。以前読んだ事が多くて、最初の驚きや感動には及ばなかったが、自信満々で定説を覆す痛快さは相変わらずで、読んでて楽しかった。九楊の書作品の現物は一点だけしか見た事がない。それも数年前の韓国旅行の途中大邱(テグ)の市民美術館でだった。韓日交流美術展みたいなものがあってて、そこに九楊の作品が1点あった。すでに彼の著作を読んでたので、おお、これが、と、ためつすがめつ、鑑賞??したのだが、全然わからない(^_^;)
その後印刷物では、いくらか他の作品も見る機会があったが、いまだにMorris.にとって、九楊は書家でなく、書の評論家としての価値しか享受できずにいる。


【日本語の 当て字うんちく辞典】村石利夫 ★★☆ 宛字はMorris.の得意分野??なのだ。辞典も2,3冊持ってる。で、この本はペーパーバックで、あまりレベル高くない、大して期待できる内容ではないと予想通り、特に見るべきものでは無かった。それでもいくらかMorris.に読めないものもあったから、JISにない漢字のものや、あまりにしょうもないもの(丸木舟=カヌーなど)を除いて、10点ほど挙げておく。いちおうクイズ形式という事で読みは、明日までおあずけ。
・雪花菜
・鹿尾菜
・外連味
・鶏眼
・転寝
・破落戸
・乙張
・巻丹
・地錦
・翻筋斗

解答はこちら


【古本屋 月の輪書林】高橋徹 ★★☆☆目録売りを中心にしている古書店主が、その目録に自分が心惹かれた人物をテーマに精魂を傾け、古書業界だけでなく各方面から注目を集める。これまでに安田武や、古河三樹松の目録をつくり、新刊竹中労目録は1万冊もの点数を並べるという大部なもの。その店主の交友と、目録への情熱と、古書市など業界のあれこれを日記風に綴ったもの、書物の世界で、書誌、目録作りが以前から重要視され、価値ある仕事であるとは思うのだが、ひたすら好きな本を好き勝手に読んでいくだけで満足している、Morris.にとって、それは、あまりにも別世界の現象のように思える。店の屋根から水漏れして、大事に集めた蔵書を駄目にしたり、借金しながら,資料に強気の札を入れたり、恋人とのささやかな愛情関係など、それはそれで読ませはするのだが、やはりMorris.とは縁無き衆生のようだ。また、筆者は正直なのか、鈍感なのかわからないが、読んでいて、これは書かずにおいたほうがいいのではないのかというような事まで(些細な事にしろ)書いてしまうたちらしい。Morris.も、ここ一年以上この日乘で、日記を公開しているわけだが、読み手に誤解を与えたり、特定の個人に不快を感じさせるようなことは、書かないにしくはないという事を、改めて感じた。


流行人類学クロニクル】武田徹 ★★★☆88年から約10年にわたって「日経トレンディ」に連載された、111本のコラムを1冊にまとめたもので、とにかく厚い(6cm、862p)ので、図書館でも借り手がなかった気配がある。Morris.は長いのには抵抗力あるからね(^。^) 20世紀末のトレンドの定点観測記録みたいなものだが、筆者の精力的なインタビューにはとりあえず感心した。1編に付き10人として千人へのインタビュー。これはMorris.みたいな人見知りには出来ないだろうとまず感心してしまった。筆者は58年生まれで「蘇るウイリアム・モリス」なんて著作があるだけに、Morris.とも視点や、関心分野の共通点もあるみたいだし、文章も(かなり出来不出来はあるが)それなりの技巧とスタイルは持っているようだ。クロニクルというだけに、情報関連(コンピュータ、インターネット、マスコミ)、教育問題、心のケア、バブル崩壊、若者の価値観の変化、老人問題、ブランド志向、環境問題等々、多岐にわたってるのも当然だが、Morris.の関心の薄い部分は、斜め読みした。それでも、かなり時間を食ってしまったよ(^_^;)
ワープロからパソ通、インターネットというお約束のパターンで、ネット文体の匂いが抜けきれないのも御愛敬かな。それに触れた文章を。

(自分への反論メールに対して)投書主は相手のアラを見つけて勝ち誇っている。こんな投書が殺到したこと自体が、UNIXユーザーの、相手の話を聞け(か)ない気質の証明じゃないかと僕は辟易しつつ思っていた。/ではなぜそんな気質が形成されてしまったのか。もちろん個々人の資質もあろうが、僕はメディアの「人格変容力」に注目したい。投書のほとんどが電子メールで送られており、引用個所に>マークを付けるコンピュータ通信独特の文体で綴られていた。引用個所を具体的に明示し、それにコメントしてゆくから指摘自体は論理的だ。しかし断片的な指摘作業に夢中になると文章をトータルに把握することが疎かになりかねない---。つまり広く周囲を見渡せない気質はコンピュータ通信と言うメディアが育てたものであったのではなかったのか−−−

ちょっと、回りくどい(ラスト部分なんか悪文の見本ぢゃ)けど、言いたい事は分かるよね。で、筆者自身の文章中にも、その悪弊が垣間見えることがあって、Morris.も時々辟易したわけだ。
89年の記事の中で上田としこの「あこバアチャン」という作品が存在したことを教えられたり、「ドラゴンボール」は売れてはいても、作品としては「量こそすべて」というドグマに偏した供給側のゴリ押しによる奇形化した作品だとか、「ドッグイヤー」と言う言葉で、デジタル革新を比喩した部分などは面白かった。この分厚い本を曲がりなりにも読みとおした甲斐はなかったわけじゃない。

ドッグ・イヤーという言葉がある−−。人間と犬の平均寿命を比べると概ね1対6の開きがあり、人が1つ歳をとる間に、犬は6つ歳老いて行くと考えられる。そうした人犬時間の進み方の違いを、デジタル技術普及以前以後の変化を例える表現として用いる。−−今や我々はドッグ・イヤーを生きているのだ、と−−。

でも、ここまではいいんだけど、この10年間に6を掛けて60年。デジタル社会も還暦になったのだから、再生を考えてみてはという、論理の持っていきかたには付いていけない。
「耳障りの良い」とか「しかめつらしい」など、低次元な日本語のミスも目立つんだけど、これはMorris.の日記の方が多いかもしれない(>_<)ので、あまり強くは言わずに置こう。


ほんの一冊】いしいひさいち ★★☆☆いしいひさいちは「バイトくん」「タブチくん」(の一部)くらいしか読んでない。売れてるのは知ってるが、もういいや、と思ってたのだ。なのにどうして今更、というと、つの笛の百円均一でこれが出てて、腰帯の「ベストセラーを笑え!! いしいひさいちのユーモアが冴える驚愕と笑いの書評まんが集」の惹句に惹かれたのと、立ち読みしたら中に、センターの中野由貴さんの「宮澤賢治のレストラン」が載ってたのでつい買ってしまったのだ。へえ、あれって、ベストセラーだったんだあ、という、なんか晴れがましさを感じてしまったらしい。それはともかく、この本も、何となく看板に偽りあり(韓国人が狗肉専門店に行って、羊肉を食べさせられたような気分??)の感をぬぐえない。だいたい、170pくらいの本のくせに、書評まんがでない、ただの4コマまんがが50pもある。しかも、面白くない。
お目当ての書評まんがったって、見開き1冊の右ページは文章で、いちおう、いしいのキャラクター3人が、交互に書いてる想定になってるが、これが大甘で、まんがの方もまるで新聞の漫画レベル(そういえば、彼新聞に書いてるんだったよね?)で、はっきり言って、時間の無駄だった。中野さんの本に関しては文章、まんがとも好意的に書いてあったから、そのことに関しては文句無いんだけど(^_^;)。
4コマまんがには、毒がないと面白くない。毒が過激なら、香辛料。唐辛子でも、胡椒でも、山椒でもいいから、ピリッとしてなきゃ意味ないね。もともと、Morris.は4コマってあまり好きじゃなかったんだ(^○^)


<さようなら>の辞典】窪田般彌・中村邦生編 ★★☆☆滅多に本を買わないMorris.だが、辞典、事典の類にはガードが甘くなる傾向にある。本書は最近増えてきた漫画中心の古本屋で見つけたもので、「別れ」「死」に関する英米仏の名台詞や、詩句、短章など300ほどを集めたもので、それぞれに原語と対訳が載っているのに惹かれて買ってしまった。しかし通読したかぎりでは、平凡なもの、面白味のないものが多かった。やや期待外れである。なまじ各々に解説など付けてある分だけ引用が少ないのが致命的だな。お馴染みの句でも、訳文が違って鼻白むものもあったぞ。それでも、まあ印象に残ったものの幾つかを引いておこう。

・不幸な人間にとって、死とは終身禁固刑の減刑である。−−アレクサンダー・チェイス「展望」
For the unhappy man death is the commutatin of a sentence of life imprisonment--Alexander Chase
"Perspectives"

・お花のない埋葬は悲しいものです−−ある花屋の広告
un enterrement sans fleur, c'set triste.--Publicitic shez un fleurist

・死ぬということはものすごく大きな冒険だろう。−−ジェイムズ・バリ「ピーターパン」
To die will be an awfully big adventure.--James Barrie "Peter Pan"

・詩、名声、美はまことに強烈なるもの しかし死はさらに強烈−死は生の報酬なのだ。−−ジョン・キーツ「今夜どうして私は笑ったのだろう---」
Verse Fame,and Beauty are intense indeed, But Death intenser - Death is Life's high meed.--John Keats "Why did I laugh tonight--"


昭和不良伝−越境する女たち篇】斎藤憐 ★★★☆☆上海バンスキングで強烈な印象を残した斎藤憐が、昭和の女5人を取り上げ、その奔放さをメインに据えて評伝にまとめたもので、Morris.は真ん中にある「金子光晴と森三千代」に惹かれて、灘図書館で立ち読みして、ついついそのまま借り出して、その部分だけを先に読みとおした。これまでぼんやりとしか知らなかった、金子光晴の「相棒」森三千代の戦前、戦中の活躍ぶりを知る事が出来て有意義だった。しかし、本書で取り上げられた5人の選択は、ばらばらでなく、様々な形で関わりあっており、通読すべきものだと言う事に、読み終えてから気づいた。他の4人は、永井荷風の妻となり別れた元芸者で前衛的日本舞踊の藤蔭静枝、アメリカで画家の妻となり社会主義者、共産主義者と親交を持った石垣綾子、日本最初の流行歌手となりながら、イタリアにわたりオペラ歌手を目指して挫折した佐藤千夜子、樺太からソ連へ亡命した岡田嘉子といった面々だが、それぞれに、実に密度の濃い取材内容で、特に最後の岡田嘉子と著者の親交は深く、この章だけでゆうに1冊の単行本に仕上げるだけの内容がある。基本的に自分の脚本のためのネタ探しが、史料渉猟の原動力となってることもあって、自分の興味、関心ある方面では、驚くほどの熱心さで資料に当たり、関係者に話を聞いて、血の通った評伝に仕上げている。「不良」という呼称も、斎藤憐の意識では「尊称」であって、全体を通して、選ばれた女性へのオマージュが主調音となっている事は間違いない。昭和と言う時代、特にその初期に海外へ流れて行くと言う希有な経験を共有するこれらの女性たちの、外から日本を見る目を借りて、作者も昭和を見詰め直そうとした目論見が、ある程度成功しているようだ。
Morris.自身が昭和初年から戦争前までの時代に、ゆえないノスタルジーを抱いているので、その当時の知名の誰や彼やのエピソードが、ふんだんに出てくると言う意味でも本書は興味深かった。たとえば、森三千代が一時光晴を袖にして付き合っていた男の名前とか、彼女が晩年の辻潤をモデルにした「天狗」と言う作品を書いていた(これは読んでみたい)などと言う情報だけでも有益だった。やっぱりだだ者じゃないぞ、斎藤憐。


たぬきランド1】西原理恵子、山崎一夫 ★★ご贔屓のさいばらの本だから迷わず借りてきたのだが、うーーん、これはいかんぜよ。銀玉親方こと山崎とのコンビだから、ギャンブルものということはわかってたが、何というか、読者をなめてる。140ページしかないのに、いやに余白が多くて、記事もやっつけ、さいばらの絵も描きなぐり(これはまあいつもだけど)で、とにかく体裁だけは整えて早く単行本にして印税を、という魂胆見え見え。ああ、こうなると「まあじゃんほうろうき」が眩しく見えてくる。たしかに、パチンコ、マージャン、バカラとギャンブルのコツや、勘所は外してないし、さいばらの捨て鉢な展開もきらいじゃないんだけど、それにしても、あまりにも、これは(>_<) タイトルを替えるべきぢゃ。「てぬきランド」にね(^○^)


さらに・おとなは/が/のもんだい】五味太郎 ★★★「さらに」と言うのは、前に同題の本を出してこれは続編なわけだ。Morris.は前作は三宮図書館で立ち読みした。内容は子供の教育問題を中心に、結局問題なのは大人だと言う視点で、学校、家庭、結婚、老人、からだ、一般社会、教育から、人権問題にわたって、著者の意見を短章風にずらずらっと並べているのだが、皮肉が効いていたり、ふてぶてしかったり、正論だったり、で、結構面白い。

・(何事も起こらないようにが、管理の原則です。)何か起こればいいのに、が子どもの原理です。原理原則が合いません。
・人生はお遊びですが、生命はお遊びではありません。
・男も女もそれなりに自立していれば、ムリして結婚する必要はありませんよね。多くの結婚は、男は女中兼売春婦が必要だから、女は生活の保証が必要だから、したのだとしか思えないんです。本当に、ほかにないんですもの。
・「不自由におなりなさい。そうなったら介護してあげますよ」という図式が確実にあります。優しそうで意地悪です。
・で、自然というやつはそう自然ではない、けっこう不自然なのよ、ということです。わかる?
・極言すれば、現在普通に行われている初等教育というものは、即人権侵害ではないかとぼくは考えているのですね。
・人種における差別が問題なら、年齢による差別もまた問題です。
・自分のやっていることは正義なのだ、あるいは善なのだ、と思い込む無節操さが諸悪の根源です。

上に引用した分は、Morris.も比較的、共感できたものだが、五味さんは、時々わからずやになる傾向がある。以下の二つに関しては、Morris.は大いに不満がある。

・俳句や短歌が、常に詠むべきものが決まっているのと同じです。短歌はずーっと秋の侘しさを歌い続けなくてはならないし、鹿はずーっと奥山で鳴いてなくちゃならないんです。動物園で鳴いてちゃいけないんです。
・インターネットは馬鹿の象徴だと思います。

今はあえて反論しないが、ここらあたりに彼の「視野の狭さ」が露呈してると思う。


ドリトル先生アフリカ行き】ロフティング 井伏鱒二訳 ★★★☆懐かしの児童文学の世界。こうべまいまいさんが、ぐいぐい酒場でドリトル先生の本を挙げられたのに刺激されて、手許にある唯一のドリトル本で、記念すべき第一作の本書を読み返してみた。例の岩波のドリトル先生物語全集1である。61年9月初版で、Morris.所蔵本は74年の28刷だが、、いやあ、あの頃は岩波も、いい仕事をしていたものだ。造本といい、装丁といい申し分無しだ。内容はほぼ完全に記憶にあること「小公子」に同じだが、訳者である井伏鱒二の文章は、これはもう、原作を陵駕するMorris.には懐かしい文体である。浮き世離れした、ストーリー展開、金銭に無頓着な、それでいて勘定には義理堅いドリトル先生。人間より人間の典型みたいな動物たち。おおらかな冒険と、分かりやすい決着。全編を貫くほにゃらか感。このシリーズは、Morris.の人格形成に結構大きな影響を与えたような気がする。

・卓上には茹玉子。極樂鳥と歡談してゐる博物學者のドリトル先生  (歌集『偏奏曲』)


【ジョゼフ・ フーシェ】シュテファン・ツヴァイク 吉田正巳、小野寺和夫訳 ★★★☆☆ 評伝にはあまり惹かれない。もちろん取り上げられた対象が、自分にとって関心を惹く人物の場合はその限りではない。フランス革命前後のあわただしくも目まぐるしいあの時代にもさして関心無く、主人公フーシェにいたってはかすかな知識、それも、裏切り者陰謀家というマイナスのイメージしか持っていなかったMorris.が、どうして、本書を読んだかというと、先月読んだ2冊の本の中で、偶然本書に触れてあったためだ。どちらも、さりげなく、本書を読まぬは一生の損(そうは書いてないけど)くらいに評価されていたので、生来貧乏性のMorris.が、つの笛で300円で買ってしまった事は、どこかに書いた。早速読み始めたものの、なかなか手強い。読むのを止める気にはならないのだが、進まない。しばらくほっといて、捻挫を機に、やっと読み終えた。フーシェという男のしたたかさ、厚顔さ、沈着冷静、傲岸不遜、小心に時に大胆に、カメレオンのように立場を変える怪物に、親近感はおろか同情心も生まれなかったが、ツヴァイクの、アクロバチックな筆の進め方には驚かされっぱなしだった。熟練した肖像画家が、対象をキャンバスに定着するように、ツヴァイクは文章でフーシェをくっきりと描き上げ、対象との距離を時間を超えて接近させている。ツヴァイクはフーシェの成功と実績を美化せず、非難もせず、ただフーシェを試金石のように利用して、時代を、英雄達を、評価していく。時代を共有していたとしたら、フーシェにとっては、ツヴァイクのような男こそ真っ先に抹殺すべき存在だったにちがいない。
この評伝を見るがぎり、ツヴァイクは歴史を、必然と見る立場にある。偶然すらも歴史的必然と捉える、超必然主義者。分析は明晰、批評は的確、視点はそらさない。こんな作家の評伝なら、なるほど、どんな人物を対象にしても、歴史を語ることができるだろう。
本書は、歴史と権力と政治と策略と処世のマニュアル集とすらいえる。ツヴァイクを禁書にしたナチドイツでさえ本書を「戦略戦術」の教科書として使用した事実を記すだけで充分だろう。


霊長類ヒト科動物図鑑】向田邦子 ★★★☆なんで今ごろこんな物を読み返したのかと言いうと、目の前にあったからだ。先月宇仁菅の均一台に向田の本が2冊並んでて、つい懐かしく手に取り、ついつい買ってしまったまま、放り出していたのだった。エッセイ集と短編集。本書はエッセイ集だが、今風に言うとコラムに近い。Morris.には昔から勝手に私淑している文章の先生がたくさんいて、彼女もその一人なのだった。女とは思えない潔い文体で、女にしか見えない視点から多くの名文をものしてくれた。「芸」を感じさせる文章の書ける人だった。本書中に「ヒコーキ」という文があり、その中で飛行機に乗ることの怖さを、ユーモアをまじえながらも、真剣に訴えている。それなら、いっそ、アメリカの飛行機嫌いのミュージシャンのように、禁飛行機で通せば良かったのに。台湾旅行中の機内で、向田邦子がそんな後悔に襲われたかどうかわからないが、死はいつも突然訪れる。
冒頭にある「豆腐」と言う一文。元旦、新しいカレンダーに替える時の感慨から始まり、吉屋信子の句「手のつかぬ月日ゆたかや初暦 」を、引用した後、日々を豆腐に譬え、豆腐について、うがった感想を鏤々述べて、ふたたび吉屋の句を結びに置いて筆を置く。お見事。ラストの数節だけを引用しておこう。

子どもの時分、豆腐は苦手であった。
おみおつけいの実や鍋ものに、よく食卓にのぼったが、こんなもの、どこがおいしいのかと思っていた。
色もない、歯ごたえもない。自分の味もない。
ぐにゃぐにゃしていて、何を考えているのかはっきりしない。自分の主張と言うものがない。用心深そうでもあるが、年寄り臭くて卑怯な感じもある。人の世話もやかない代り、余計なことは言わず失点もない。私はこの手の人間にいつもやられていたせいか、苦手なのである。
そんなことから、逆恨みもあって、長いこと豆腐を袖にしてきたのだが、此の頃になって、このはっきりしないものを、おいしいと思うようになった。
若気の至りで色がないと思っていたが、豆腐には色がある。形も味も匂いもあるのである。
崩れそうで崩れない、やわらかな矜持がある。味噌にも醤油にも、油にも馴染む器量の大きさがあったのである。
さて、年のはじめである。
手のつかぬ豆腐、ではなかった一日一日が、カレンダーのなかに眠っている。その一日にどんな味をつけてゆくのか、そういえば、吉屋女史に、同じ初暦を詠んだこんな句もあった。
 初暦知らぬ月日は美しく。


うたの前線】高野公彦 ★★☆言葉について書いた短いエッセイや、短歌鑑賞文などを集めて、一冊とした 」ものだそうだが、小中学生が書かされる読書感想文並みの「短歌感想文」集だった。著者は、実作者でもあるので、ところどころに自作もちりばめられているのだが、それが、あまりMorris.の好みに合わないことも、ついつい、この感想文への評価の冷たさの原因かもしれない。何か、花壇、じゃなかった、歌壇への阿りも匂ってきてさらに、点数が辛くなる。他人の評をそのままもちこんで、それに立脚して論を進める安易さも随所に見受けられ、どーしよーもない、若手の作品に「期待している」などと、臆面もなく書ける神経には閉口するしかない。そりゃ引用歌、やたら多いから、中にはMorris.の好きな歌も含まれていて、そこだけは、楽しめたさ(^_^;)
漠然と悪口言うより、具体例。たとえば「繰り返し」と言う小題の文中、次のような歌
・かさはさか きゆはあはゆき くさはさく 循環バスは渋滞の中 香川ヒサ
を、引いて
自立語や詞句(フレーズ)の繰り返しではなく、これは助詞の繰り返しである。「は」が四回も使われ、軽快な音楽性が生じてゐる。(初句・二句・三句はそれぞれ回文であり、しかも各句頭が「か、き、く、」となつてゐる。意識的な言葉遊びだろう。)
などと、ほとんど見当はずれの我田引水というべき解説をしている。
「は」が4回くらいで繰り返しというのなら、「の」が5回も6回もそれ以上出ることの多いMorris.の歌なんかどうなるんだ。第一、引用歌の眼目は、「回文」と「循環バス」の対応にあることは歴然としていて、そこに「遊び」があるんだろうに(^_^;)
その他、「ローン・ワード」という項で、松任谷由美の歌詞の一節
悲しき Midnaight/庭を浸すよ Moonlight
を引きながら、
べつに英語を使はなくても、「悲しき真夜中/庭を浸す月光」と言へば良ささうなものだが、気どつて(?)あちらの言葉を持ち込んでゐる。どうも松任谷由美(ニックネームはユーミン)はことさらに外国語好きの人のやうで---
と、これまた、噴飯ものの感想を書いてる。別にMorris.はユーミンのファンでもないのだけど、これじゃ、ユーミンも浮かばれめえ。「Midnight」と「Moonlight」の見事なまでの押韻に、一言も触れないのはあんまりだと思うぞ。単語単位だけど、頭韻、脚韻、音節数までピッタシカンカン(^。^)の揃い踏み。これを日本語だけでやろうとするとかなり困難だし、もともと単純な音節構造の日本語じゃ、やっても単調になるのは自明のことだから、(だからやらない方がいい、という意見は、この際措いといて)いちおう日本人にも理解できる範囲の英語を借用語(ローン・ワード)として流用してるのだろう、くらいは、分かって欲しい。
ところで、高野先生は、歌だけでなく、地の文章も旧仮名遣いを励行されてゐるらしい(^。^) 普通ならMorris.はこの姿勢に拍手を送るところだが、このようなへなへなのへっぽこ文で、わざわざ旧仮名使う必要ないよな、と毒づきたくなった。
しかし、Morris.もえらくなったもんだね(^○^) けなす、けなす。
99年の読書控えをまとめて読み返した時、気づいたことだが、評点が、低くて、感想が長いのは、自分で読んでも、結構面白い(^_^;)
まあ、Morris.がこの手の、腰折れ解説に厳しいのは、本人が過去に似たようなことやって、懲りたことの後遺症かもしれない。恥の店卸になるが、ずいぶん以前、サンボ通信に「江戸が危(ヤバ)い」という、相当ヤバいものを連載していて、好きな句の短評(つまり感想)やった中で
・山吹や葉に花に葉に花に葉に 炭太祇
を、引いて、とくとくと
飄々とした言葉遊び、(発音の)hanihananihanihananihaniと言うのもすごい! 」などと、書いて済ましておいた前科がある。「実の一つだに無きが悲しき」のパロディであることを、すっかり失念していたのだった。(^_^;)
ね、先の高野先生のケースと酷似してるでしょ。Morris.は、昔の失態を思い出させるきっかけとなった本書に、自己嫌悪に似た嫌な感じを覚えたのかもしれない(^○^)


客人 まらうど】水原紫苑 ★★★☆☆現代短歌のアンソロジーで初めて彼女の(女流だよね?)を知った。その時引用したのが
・嫉みもつ人の頭(かうべ)よ一羽づつ極楽鳥のとまりてゐたる
・美しき脚折るときに哲学は流れいでたり 劫初馬より
・天球に薔薇座あるべしかがやきにはつかおくれて匂ひはとどく
の三首だった。本書は「びあんか」「うたうら」に続く彼女の第三歌集だそうだが、Morris.にとっては最初の1冊になる。
歌は畢竟「調べ」に尽きる。彼女の調べは高い。内包する宇宙は意外に狭いのだが、よいのだ。例え内部が虚であろうと、その器が美しければそれ以上を望むべきではない。そして現代の歌人のいくたりが、そうありえているかと思うと、彼女の作品こそ奇貨居くべしとMorris.は執着したい。

・くちづけの深さをおもひいづるとき雲雀よ雲雀そらを憎めよ
・にんげんのさびしき見ゆる手紙にて焼けばほのほは緋鯉のごとし
・椎の木の梢に女優ひとりゐて死にゆく時にひかる椎の実
・はらからにもつとも近き豆腐切り沈めゐたりひとりごわれは
・くちびるとふ二片の紅、笛方と笛のあはひをただよふあはれ
・われにはわれの中心あらむと迫り来る青傘のをとこ雪をかかげて
・きさらぎとやよひの境ひとすぢの蛇光りつつたましひ睡る
・なめらなる馬のはだへにふれしのち宇宙への旅を夢と思はず
・晴れし日の山脈といふ音階にほど近きもの愛の中に知りぬ
・黄金の梨と成らばやふたたびをわが客人にまみえむとして
・きみに似る天使きたりてゆふぐれはものな書きそと告ぐるなにゆゑ
・空間を馬のかたちに変へしひと われはやさしき鞍ならなくに
・みづからを忘れし海のうたはざる一日なりけり白まとふべし
・白露や過ぎにし鷹女銀河ゆきあはれうつくしきほと見するなり
・春立つと金貨銀貨のいにしへの商人(あきうど)たちの指のしなりよ
・海近く鐘あることのあやふさよ ミモザの黄をうちに湛へて
・青空は牢獄なればさくらばなちりてぞ入らむ鉄のあはひに
・人と人が別るるきはにたんぽぽの種子来たりけり天馬乗せつつ
・書物あまたみ空に浮くをあふび見て泣いてしまふやうな兄欲しかりき
・冬に咲くさくらがひとと化るまでの阿鼻叫喚をきみは聴きしや
・かきやりしひとこそ知らね黒髪は春の倫敦塔を巻きつつ
・ひとりごのあまた集まるはなならむ桜花互みに似つつ容さず
・夢のきみとうつつのきみが愛しあふはつなつまひるわれは虹の輪
・この星のをみないつせいに更衣なす幻なれど色すさまじき
・めつむりて古書店に憩ふ青年よ月光を母と呼びしことあらむ
・夜は無数の手をもつゆゑに委ねたる宝石箱が鵞鳥に変ず
・手袋をうらがへす間にゐなくなり砂金見つめて死ねといはずや


【小公子】バーネット、千葉省三訳 ★★★★ 懐かしさに曳かれて買った本だけど、読み出したら、たちまち引き込まれて、最後まで、一気に読撃ンハしてしまった。イントロから山場と思わせる展開、これでもか、というくらい畳み込む、セドリックの美質(容姿、性格、態度、慈愛、可愛らしさなど)への賞賛、脇役連の芸達者(^_^;)、伯爵の劇的感情の変化、ストーリーの隅々まで覚えてるのに、なんでこんなに没入してしまうんだろう? Morris.はこの本を子どものころ、何度読み返したかわからないし、後になって明治時代の若松賤子の名訳でも、英語でも読んだくらいのものだが、それぞれに物語を読む楽しみを堪能させてくれた。今の時代から見て、その御都合主義や、プロットの単純さ、性格のあまりの画一的な部分など、弱点はいくらでも指摘できるのに、この面白さは、逆に現代小説が失ったなにものかを際立たせてくれる。本書の千葉省三訳も子ども向きながら、決して文章をおろそかにせず、なかなかの名訳だと思う。漢字制限が強制された時代のためか、ひらがなが多すぎるのがややわずらわしいが、手抜きなく、形容にも気を使い、原作の持つ時代雰囲気まで写し得ているのは素晴らしい。ひさびさに、読書の楽しみを満喫させてもらった気がする。感謝!!

  and so,this is little Lord Fontleroy.
「左樣ならこれがフォントルロイ殿で御座るか」「然り」貴種流離譚廃ることなし  ( 「偏奏曲」1987


自給自足】小林カツ代 ★★★★ 今や家庭料理書の世界では第一人者と言える小林カツ代の本は、Morris.もこれまで何冊か目を通したことがある。平凡だけどそれなりに、ツボを押さえたレシピ、基本は外さずに手間を省く姿勢、料理の常識にとらわれず自説を主張するところは、なかなかのものと評価はして来たものの、いまいち好きになれなかったのに、本書を読んで、完全にファンになってしまった。発行所が日本経済新聞社だから、多分同社の新聞か雑誌に連載したものだと思う。Morris.にターゲットを合わせたかのような男性向け料理の入門書で、何と言っても装丁が良い。写真は一切使わず、池田葉子のイラストのみ。このイラストがまた大雑把なくせに、ユーモアがあって実にいい。さらにはレイアウトも見やすく、読みやすい。そして、肝腎の本文がまた、これまでの小林カツ代の文章より10倍くらいよく見えるのはどうしてだろう。19章に分たれている章のタイトルだけ見ても、単純にして必要充分、これなら今すぐに料理始められるって感じだ。
・まずは、おいしいご飯を炊こう! ・豚肉の生姜焼きをやってみる ・鶏を焼くのもなかなかいい ・たまには、魚も焼いてみよう ・うまい味噌汁は、だしから始める ・とにかく、せっせと野菜を食べよう ・ぶち込めばポトフ・豚汁 ・旬を食べる ・味付けよければ、すべてよし ・揚げ物は簡単だ ・ハンバーグはドイツ式が速い ・ラーメン、スパゲッティ、牛丼、鰻丼 ・なんといっても卵は役に立つ ・唐突ながら、具合が悪い時はどうするか ・あると安心、常備しておきたいもの ・真打ち登場、ビーフステーキ! ・調味料はこれだけあればできてしまう ・野菜の切り方いろいろ ・これだけはいる道具一覧

文体見本を兼ねて、「ニンニク・唐がらしスパゲティ」の部分を

「怒りんぼスパゲティ」とも言いますな。ニンニクはスライス。唐がらしは、辛いのが好きなら種ごと、あまり辛くても---という人は種をとって、一つ二つ、ポンと折る。
中華鍋なりフライパンに塩を加えたオリーブ油を大さじ2杯ぐらい入れて、火を点けます。油がまだぬるいうち に、つまり油を入れたらすぐニンニクと唐がらしを入れる。これ重要。油がアツアツになってからだと、ニンニクも唐がらしもたちどころに焦げてしまいますから。そうなると台無しなんです。なにがなんでもぬるいうち。
こんなぬるくて大丈夫なのかなあ---と思ってるうちに、ジュワジュワと匂いが立ってきます。ニンニクも唐がらしも少し色がついてきます。これでよし。ここに茹でたスパゲティをドバッと入れて、バッと炒めてもいいし、ジュワジュワで火を止めて、茹でたスパゲティにかけ、バーッと混ぜてしまってもいいです。塩も適当にパッパッパッとふってください。
どっちにしてもチーズをかけて、間髪を入れずに、食べること! よくスパゲティのお供としてサラダ、なんて言いますが、アツアツのスパゲティを食べている時、サラダなんて食べたいですか? 私はやだな。集中したい、スパゲティに!
スパゲティは前菜として生まれたものだから、栄養なんぞをかんがえるのは邪道であります。野菜が---と心配なら、後なり先なり、トマトジュースや野菜ジュースをのめばいいですよ。


おらが春】小林一茶 ★★★ 前につの笛百円均一で手に入れた文庫本。たかだか80ページ足らずだったので、音読してみた(^_^;) 近世の俳文くらいならそれほど難しい言葉も無いので、ゆっくり読んでいけば、たいがいわかるし、調子も理解しやすい。芭蕉、蕪村、一茶と三福対で括られることが多いが、蕪村好みのMorris.はそのことに大いに不満がある。俳聖芭蕉はともかくとして、一茶なんて格落ちだと思っていたからだ。高名な「おらが春」だって、これまで読まずに済ましてきた。初めて読み終わった現時点でもその思いは変わらない。「おらが春」は一茶57歳(文政2年=1819)の一年間の俳句日記みたいなものだ。当時としては老境だろうが、老いてますます盛んと言おうかその5年前に初めて妻帯し四男一女を儲けたがすべて夭折。本書執筆の年にも娘さとを喪い、その哀悼句が集中で重きを帯びるのだが、それにしても、やや作為を感じてしまうのはMorris.の意地悪さなのだろうか? 巻頭句が

・目出度さもちう位也おらが春

で、おしまいの句が

・ともかくもあなた任せの年のくれ

という、いかにも平仄を合わせたところや、6歳のときに作ったとされる自作

・我と來て遊べや親のない雀 六才彌弥太郎

を、さりげなく挟み込むなど、けれんがありすぎるんじゃないかなあ。
娘の死に臨む、迫真の部分など

終に六月二十一日の蕣の花と共に、此世をしぼみぬ。母は死顔にすがりてよゝと泣もむべなるかな。この期に及んでは、行く水のふたゝび歸らず。散る花の梢にもどらぬくひ事などと、あきらめ顔しても、思ひ切りがたきは恩愛のきつななりけり
・露の世はつゆの世ながらさりながら

と、見事なくらい、整っているし、句もでき過ぎなところが、Morris.には解せないのだ。悲しみのさ中にあったら、言葉を無くすのが普通ではないだろうか。実際にその時点でこれだけの句文を草したのだとしたら、一茶は人間ばなれしてるし、後日の回想だとしても、飾りが過ぎる。それにしても、どうして、Morris.はこんなに、一茶を疑うのだろう? その方が疑問かもしれない。俳句には門外漢だが、好きな俳人は多い。その中で一茶一人は、何故か理解の外にある。
 


キムチの味】ジョン・キョンファ ★★★☆☆6年前に読んだはずだが、つい、借りてきた。このところ料理づいてるので、実用書として借りたのだが、しっかり内容に引き込まれてしまった。書き出しからして力強い。
にんにく、トウガラシ、ねぎ、ごま、そしてごま油。生まれたときから、体にいいものばかりを毎日たっぷり食べ続けているのが朝鮮人です。
決して本格的朝鮮料理の本ではなく、四季おりおりの在日朝鮮人の生活に密着した家族の食卓を、魅力たっぷりに語りおろした文体が、傍観者であるはずのMorris.にまでも、じんわりと染み込んでくるような気がする。押し付けがましくなく、民族の誇りを感じさせることも本書の長所だろう。レシピも数多くはないが、一つ一つが、食べることと作ることへの喜びがほとばしりでていて、読むだけで、食べたような気になってしまった。一つ引用するのに、迷ってしまうけど、冬の部の、辛くないチゲを。

豆腐とたらこのチゲ(トゥブミョンランチゲ)---[材料]たらこ(2腹)豆腐(2丁)しめじ(1パック)長ねぎ(1/2束)根三つ葉(1/2束)煮干し(50g)水(5カップ)アミの塩辛(30g)
晩ご飯に後一品欲しいな、というとき、簡単にできて、とても重宝しているチゲです。辛くないので、小さな子どもにもぴったりのおかず。あっさりしていますが、たらこがとてもいい味を出してくれます。
1.たらこはぶつ切り、豆腐は角切りにする。
2.しめじは小房にわけ、長ねぎはななめ切りにする。根三つ葉は3〜4cm長さに切る。
3.煮干しは頭と腹わたを取り除き、分量の水を入れて、だしをとる。
4.鍋にたらこ、豆腐、長ねぎをならべ、3.のだしを注いで火にかける。
5.沸騰してきたら、あくを取り除き、あみの塩辛で味をととのえる。
6.しめじ、根三つ葉を加え、ひと煮立ちさせる。


【昭和  僕の芸能私史】永六輔 ★★★★ すごい、すごいとは思っていたが、彼の個人史でもある、本書を読んで改めて感心した。とにかく若い時から第一線でトップを走り、多方面に才能を発揮、いつも覚めた目でいながら、熱い心で行動に移す。昭和8年の生まれと言うから、Morris.より16年先に生まれたことになる。その時代を見通す眼力は凄いものがあり、芸能史としても、彼ならこその裏話、逸話もたっぷり盛り込まれている。過去を語りながら現代を照射する批評精神にも富んでいる。しゃべりのプロでもあるから、コラムめいた本書でも随所に、印象深い台詞が散見する。さすがは「無名人語録」の著者。本書から「六輔名語録」をチョイスしてみよう。

・ゲッペルスが強調していることに、大衆は宣伝で動かし、そして知識階級には暴力で命令するというのがある。/こうした考え方でナチスは破滅に向かってゆくのだが、この考え方の「暴力」を「大金」に置き換えると、広告代理店の論理にそのまま通用してしまうのである。
・やくざの世界では、「喧嘩」とか「抗争」という言葉を使わないで、「出入り」という。/そのちょっとした出入りのごたごたを手打ち方式でまとめ、抗争ではなかったという形をとる。/かつての日本陸軍も「戦争」と言わないで「事変」。/自衛隊も、この事件に関しては「有事」という言い方をする。
・町内の頭もそうだった。/褒めるときは、できるだけ人の多いところで、しかる時は誰もいないところでという気を使っていた。
・僕は収入が増えたにもかかわらず、映画、寄席、コンサート、歌舞伎。そして世界チャンピオンになった白井義男のボクシングまで、「秀れたものはなんでも全部見なさい。それがあなたの財産になるから」という淀川長治語録を守って、文芸部から前借りをしては出かけていた。]/そして本当に財産になった。
・長女の誕生。/僕は父親になった。/そう思っていたら、父が「父親になったんじゃない、父親にさせてもらったんだ。私も君に父親にさせてもらったんだからね」と言った。/だから子供に感謝しろと...。
・カメラの前では絶対に食べないと言う主義が旅番組を不自由にした。(今でも、カメラの前で食ってうまいわけがないと思っているしカメラの前で食っている出演者がいると目をそむける)
・浅草の駄菓子やのおかみさんが言った言葉は忘れられない。「ちゃんとしたお寺さんのお坊ちゃんなのに、テレビなんかに出るようになっちゃって、お気の毒にねェ」
・マスコミの世界から足を洗わないのだったら....。/「限りなく無名に近い有名人」/そうなることをまじめに考えた。/芸能界と距離を置くこと。テレビはレギュラーの番組を持たないこと。/読書と旅を最優先すること。/そしてラジオに徹していくこと。/これを自分に言い聞かせた。
・(ここだけの話としてサッカーに一言。日本が勝てないのは頭の差だそうです。/スピード、体力、技術の差ではなくて、サポーターも含め、頭がいいか悪いかという点で勝負あった、なのだそうです。/誰も言えないし書けないので、ご内聞に。)
・売名行為と言われようが、自分が救われることが大切なのだ。/他人がなんと言おうと、できるボランティアは素直にやることにした。/老職人に曲尺を取りもどすのも、若い芸人、無名の芸人を育てることもボランティアである。
・あのとき、ヘッドホンをつけて外界を謝絶した若者がぞろぞろ歩いている姿の異様さはそのまま、二十年後、四千万台を数える携帯電話の現状につながってきている。/日本人3人に一台、四千億円の電話料を払いながら話す必要のないことを話している。
・ (無名人語録のことで)三木のり平さんに「言葉泥棒」と言われてドキンとしたが、盗品をそのまま並べてあるわけではない。/素材を加工し、面白く仕上げる工夫はしてあるのだ。
・「風俗」という言葉そのものには猥雑さがないのに、フーゾクというと途端に淫靡なものになるのは困ったことである。/「アダルト」もおなじことで、「成人」の意味とは違って使われるようになる。「芸能」という世界は、能・狂言から、ストリップ、さらに、同じ能でも「官能」の世界まで幅が広い。
・昭和六十四年一月七日昭和が終わり、平成とその名を変えた。/昭和元年が六日間しかなかったようにその最後の年は七日間だった。

おしまいの引用は、特に語録と言うのでなく、「昭和は何年?」というクイズを作るのにいいネタになると思ったことによる。一般に解答は「64年」だろうが、厳密に言うと「62年と13日」が正解になる。しかし、それだって、うんざりするくらい長かったよなあ。


狐の読書快然】狐 ★★★☆☆ 狐の書評を読むのはこれで三冊目である。ジャンルの広さ、非権威主義、引用の的確さ、惹句の秀逸、そして何よりも凝りに凝ったスタイル。きっと彼はスタイリスト(文体上の)なんだろうな。本書は1ページ1冊の書評約150点に、書き下ろしエッセイ4編を配したもので、相変わらず、切れ味の良い紹介と、選択の目配りの良さで、あれもこれも読みたい気にさせられてしまう。先の「アリス・B・クラトスの料理読本」も本書の紹介が頭の隅に残っていたから図書館で手が伸びたのに違いない。
読了後、これから読みたいものをチェックしようとすると、意外にそれほどの点数が残らない。あくまで彼の書評こそが「読む」べきもので、いまさら該当書を探るにはあたらない、そんな気になってしまう。何だか化かされたような感じだが、それこそ、狐の狐たる所以だろう。
そこを押して、要チェックの書名をメモ代わりに写しておく。(既涜のものはもちろん省略)
・武部利男編訳「白楽天詩集」(平凡社ライブラリー)・岡田玲子画/夢枕獏原作「陰陽師」(スコラ)・藤原敏史訳「バスターキートン自伝」(筑摩書房)・河合隼雄「こころの処方箋」(新潮文庫)・高橋徹「古本屋 月の輪書林」(晶文社)・宮崎市定/礪波護編「東西交渉史論」(中公文庫)


手帳でできる知的仕事術】長井和久 ★★★ 「知的」という肩書きを付けた本は読むまいとおもっていたのだが、これは、Morris.が手帳の整理を思い立っていた時に目に付いて、役に立ちそうな予感がしたので、借りて来た。手帳の記入に関しては、特に独創的なところはなかったのだが、途中「ジョハリの窓」という聞き覚えの無い概念で、自分の長所を伸ばしていこうという部分を読んでいて、いたく感得するところがあった。

「長所を伸ばしてこそ、人は成長する。長所を伸ばすことが、短所をカバーするのである(短所は直さなければならないが、時間がかかる)。自分の長所を知ることによって、自己正当防衛的になる傾向を防ぎ、成長を目指す行動をとるようになる。他人からの批判や助言などに対して、謙虚になれる条件整備ともなる。」

この部分を、Morris.は自分の都合の良いように解釈して、すごく気楽になってしまった。やりたくないこと、苦手なことをいやいやするより、得意なこと、好きなこと、やりたいことをどんどんやる方がいい。嫌いな人間とも協調しようと無理するより、好きな相手との付き合いをますます強めればいい。好きなこと、したいことだけをやればいいんだ、という具合にである(^○^) なんだ、今までのMorris.のやり方と同じじゃないか、といわれればそうだし、著者の思惑とはずいぶんちがうだろうが、Morris.は、このことを再確認出来ただけで、本書を読んで良かったと思う。評点は大部分それに対する感謝のである。


アリス・B・トクラスの料理読本】高橋雄一郎・金関いな訳 ★★★★☆2000年が始まって2週間近く立つのに、一度も読書録を書いてない。大晦日から新年会で、読書どころではなかったというのも事実だが、せっかく2000年最初の読書記録なのだからそれに相応しい本を、などと要らぬことを考えて、数冊並行して読み進めてどれも最後まで読み終えることが出来ずにいたのだ(^_^;) でも、本書は本年度TOPを飾るに相応しい、お洒落で紹介し甲斐のある本だ。副題に「ガートルード・スタインのパリの食卓」とある。ガートルード。スタインを知らない人には説明しても無駄だろうが、アリス・B・トクラスは彼女の秘書兼、親友兼、執事兼、菜園監督者、そして何よりも二人は恋人同士だった。「アリス・B・クラトスの自伝」(1933)という本があるが、これはガートルードが書いたもので、当時ガートルードの周辺に集まった芸術家たちとの交友を描いたものだ。今日紹介する料理読本は正真正銘アリスの書いた処女作で、タイトル通りcook bookなのだが、やはりガートルードを衷心とする、交友や生活、回想などを綴ったエッセイの中で、それぞれに応じたメニューのレシピが挟み込まれていて、その両方が絶品なのだ(らしい)。ガートルードもアリスもアメリカ人だが、人生の後半大部分をフランスで暮らしたから、出てくる料理は、ほとんどがフランス本格料理、もともとフランス料理とは無縁のMorris.には、想像もつかないし、パター、クリーム、大量の肉塊、ハーブ、香辛料、複雑極まりない調理手順など、異次元の料理にしか思えない。つまりMorris.は架空のレシピとして本書を楽しんだのだ。ここで描かれるガートルードのエキセントリックなことにもびっくりさせられる。それもアリスがガートルードを衷心から愛し、彼女の死後も、心は一つだったことを、いやでも分からせる文章で、この稀代のお神酒徳利の記念碑になりえている。
いけない、正月明けのせいか、久しくサボっていたためか、何ともみっともなくわかりづらい紹介文になってしまった。以前作者の名を背表紙に認めたとき「アリストクラトス」とよんでしまい、ギリシャの哲学者めいてるな、と思った後遺症が残っていたのかもしれない(^_^;)。


あてじうんちく辞典の解答

・雪花菜 うのはな[おから]
・鹿尾菜 ひじき
・外連味 けれんみ
・鶏眼 うおのめ
・転寝  うたたね[ごろね]
・破落戸 ごろつき[ならずもの]
・乙張 めりはり
・巻丹 おにゆり
・地錦  つた[にしきそう]
・翻筋斗 もんどり


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